本書の表題は今から七年前、昭和二年の正月以降數ヶ月に亙つて月刊誌『隨筆』紙上に寄稿した私の隨筆のそれである。劈頭に『分かり切つてる事を並べ立てるのだから、こんな題を付けて見た‥‥』と該誌一月號に書いた。こんな書物を刊行するといふ考は初めから無かつたのだが、高楠正男さんに是非ともと曰はれたので、遂に公刊することにした。書名も同君が『是が面白い、かうして出さう』と曰はれたので、之に從つたのである。

『現代佛教』誌上に『隨筆と醉筆』といふ題で、又『隨筆と日誌』といふ題で一昨年の九月號（第九年第九十六號）以來時々書いた漫談的なものが本書の大部分を占めてゐる。

古い處では『日本及び日本人』に載せた『アルプス山首先の登攀』（大正七年＝一九一八）また同誌上（大正十年＝一九二三）の『苦熱の囈語』などが本書中に收められてゐる。

『中央公論』（昭和三年二月號）の『夏目漱石さんのロンドンにおけるエピソウド』又今は廢刊だが博文館の月刊誌『朝日』（昭和四年五月號）の『青春時代の高山樗牛』も序だから本書中に收めた。

自分の事を曰ふのは恐縮だが、讀者諸君の寛恕を願つて書く――

昭和五年新潮社刊行『現代詩人全集』第二卷中に（これも實は是非書けと迫られて）自傳一ページを書いた。曰く――

『父は七郎兵衞（初名は林七――號は擧芳）母は愛、略三百年仙臺に定住して來た家で、明治四年（公元一八七一）十月二十三日（太陰暦）同市北鍛治町に生れ、八歳の時、『培根小學校』（今の木町通小學校）へ入學、十一歳の九月、擧家一同大町に移つたので近所の佐久間（晴嶽）塾に數ヶ月入塾、轉じて立町小學校に入り、十四歳で卒業したが、それから十八歳までは獨學、只一年内外齋藤秀三郎先生が當時創設された仙臺英語塾に通學、十八歳の九月に二年前新設の第二高等學校の補充科第二年に入り、豫科三年本科二年を卒へ、續いて當時唯一の（東京）帝國大學に入り英文學を修め、明治三十年卒業、三十二年母校に奉職、三十四年六月出發、外遊して英佛、獨、伊を廻り、三十七年末日露戰役の最中に歸朝、翌年また母校に奉職して爾來二十餘年――今なほ續いて怪しげな英語教員である。初めて公刊したのはカーライル英雄論の譯（明治三十一年、春陽堂）その序の中に『著者の心と讀者の心と調を一にせぬなら讀書の效用が無い、私は今日の才子者流に對して本譯の誦讀を望まない』など穉氣笑ふに耐へぬ言を吐いたが、しかし大體に於ては今でも斯く信じてゐる。次に刊行したのは處女作『天地有情』（明治三十二年四月七日發行）――甚だ幼いものだが、多大に世間から愛讀されたのは豫想外の僥倖であつた。續いて『曉鐘』『東海遊子吟』『曙光』『天馬の道に』を刊行した。序ながら（曰はでもの事であるが）詩に於ては屈原、李白、杜甫‥‥ゲーテ、ユーゴー、シエレイ‥‥を多年に亙つて尊敬してゐる。東西の聖經中の純正高尚なものに對しては只たゞ、崇拜と曰ふより外はない。』

右は前記の如く昭和五年に書いたもの、それから四ヶ年の後本年四月二高教授を辭して比較的自由な身となつて居る。『書物を讀む前に著者について大體の知識を持つのは便利だ』と Pryde の“Highway of Literature”にあるのが、尤もと思はれるから筆の序に書いた。

昭和二年秋博文館から在來の作を集めて『晩翠詩集』と題して刊行したが其序の中に

『偶然にも本集は靈界への希望に端を發して世界平和への希望に筆を收めてゐる‥。萬世の光である東西諸聖賢の共に一致するところ即ち尊きものに對する敬畏を著者は特に皷吹したいのである。神、<ruby><rb>人類</rb><rt>ヒユーマニテイ</rt></ruby>、祖國は本書の中心觀念である‥‥』

今讀んで見るとちとえらがるやうで、何やら嫌な臭みがあるといふ批評を下さるるかも知れぬが『高山仰止、景行行止、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">雖</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">不</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">能</span><span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">至</span>、<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">然心郷</span>\-<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">往之</span>』である。燭光にあこがれる愚かな蛾と見て載けば宜しい。また昭和七年夏刊行の新詩集『アジアに叫ぶ』の序の中に『今日思潮の渦卷き流るる中に唯物論及び之を基とする議論が猖獗であるのは西歐の物質的文明瓦解史上の當然の數かも知れぬが世道人心の上に最も有害のものは是である、唯物論は一切の神聖なるものに對する反抗である』と書いた。此度刊行の隨筆は讀んで字の如く隨筆であり漫録であるから別に中心觀念といふべきものは無い。ただ同樣の傾向を帶びてゐるだらうと思ふ。また本書は前に述べた通り隨時諸雜誌へ書き散したのを一つに纏めただけのものであるから折には前後重複の個處がある、是は讀者の了解を願つておく。以上を以て本書の序とする。

仙臺に於て

昭和九年（一九三四）六月　<ruby><rb>土井</rb><rt>どゐ</rt></ruby>晩翠

附言（一）私の姓を在來<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つちゐ</span>と發音し來たが選擧人名簿には「ド」の部にある。いろ〱の理由でこれから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どゐ</span>に<span data-tei-rend="bouten 白丸傍点 right" style="text-emphasis-style: open circle; text-emphasis-position: over right">改音</span>することにした。特に知己諸君に之を言上する。

附言（二）昭和五年十一月刊行、谷至道さんの著『禪の極致を洒脱に説いた澤庵和尚』から（本書の題に關聯して）左の拔萃を拜借する。

『或日、澤庵和尚は千代田城に赴いた折、名うての荒武者伊達政宗に會つた。政宗が

「雨の降る日は天氣が惡うござるが、どうしたものでござるな」

澤庵和尚はヂツと政宗を見た、政宗は瑞嚴寺の和尚に參じて禪も出來た武士である。

「左樣、雨の降る日は天氣が惡う御座るな」

と同じやうなことを澤庵も繰返した。

＊　　　　　　　　　＊

＊　　　　　　　　　＊

ある日鷹狩の歸りに一天俄かに掻き曇り、雨は篠を突くやうにザア〱降つて來た。政宗も家來も濡れ鼠のやうに、眼もあてられない。すると今まで野良かせぎをしてゐたらしい百姓が『雨の降る日にや天氣が惡い‥‥』と大聲で唄つて行つた。

その時、政宗は百姓の聲を聞いて「ははあ、こゝだな」と、初めて澤庵禪師の言葉の意味が分つた。その時の彼の心持は家來共が雨に濡れて困つてゐる樣子を見て氣の毒に思ふ憐みの情以外の何物でも無かつた。つまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">我</span>を捨てたのである、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">我</span>を捨ててこそ會得が可能なのである。‥‥』

＊　　　　　　　　　＊

＊　　　　　　　　　＊

私が『隨筆』誌上に書いた時は全くこの事を知らなかつた。