Soranoha

ヴェルダン

ヴェルダン

野上 豊一郎

一

世界情勢の高速度的推移の中には、今ごろヴェルダンの戦場を見物したりすることを何だか Up-to-date でなく思わせるようなものがある。私たちがヴェルダンに行ったのは咋年(一九三九年)の初夏、まだ今度の大戦の始まらないうちではあったけれども、その時でさえすでに現代から懸け離れた一種の古戦場でも弔うような気持があった。ところが、それから二三箇月もすると、いよいよ新しい戦争の幕は切って落され、ヴェルダンを古戦場の如く感じる気持は一層強くなった。

丁度パリに来ていられた姉崎先生をお誘いした時、先生は一九一八年の停戦直後にヴェルダンを訪問されたきりなので、二十年後のヴェルダンがいかに変化しているかに興昧を持っていられるようだった。私たちはヴェルダンは初めてで、ドイツに行っても、イタリアに行っても、フランスでも、イギリスでも、何となしに底気味のわるい空気が漂っていて、いつ戦雲が捲き起らないとも知れなかったので、不安な未来を予想しながら二十年前の世界悲劇の痕迹を踏査することに少からぬ興味を持った。

その日、朝早く、自動車で出かけ、夜に入ってパリに帰りついたのだが、帰りにランスとソアッソンの寺を見ようという計画を立てていたので、ヴェルダンには小半日きりいなかった。それでも自由のきく車で見て廻れたおかげで、遊覧バスなどで見るよりはゆっくり見られた。

パリを出て東へ一直線に駈けらせると三十分ほどでモーの町を通り過ぎた。マルヌ河に沿うた古い町で、パリに供給する小麦・チーズ・卵・家禽・野菜などの多くは此処から運ばれると聞いていたが、通りすがりに一番に目を惹いたものは、街路の左側に高い方塔を一つ聳やかしたゴティク様式の古いカテドラルだった。八百年の星霜を経てどす黒く寂び、雅致を失わない程度にがっちりと力強く立ってる風貌が私たちにしばらく車を停めさせた。覗いて見ると、薄暗い内陣の両側には型の如く天井の一段低い側堂が付いて、外陣は一つきりで、唱歌席の装飾なども簡古で似合わしく思われた。しかし、行手を急いでいて、ゆっくり見ていられなかったから、前の荒物屋みたいた店で絵端書を買って思い出のよすがとすることにした。

それからマルヌを渡り、美しい田舎道を百二三十キロも走ったと思う頃、シャーロンの町を通った。毛織物の名産地で、此処にも古いカテドラルがあるということだったが、目につかないで通り過ぎ、それから先は方向を少し北へ振って行くように道がついていた。レジレットという村のあたりからは樹林が目立って多くなり、道も上ったり下ったり、曲りくねったりして、ショファにはうるさいかも知れないが、見て通る者には今までの平たい郊野よりは趣があってよかった。道の両側には高い並木がつづき、その間から緑の牧場や畑が透いて見えた。

クレルモンの手前で、道ばたの大きな桜の木に長い梯子を二つ掛けて、百姓の親爺と娘がさくらんぼをもいでいた。あれを売ってくれないか知らと弥生子がいい出し、車を停めショファに懸け合わせると、やろうというので、銀貨を二つ渡すと、親爺も娘も梯子から下りて、食いきれないほどたくさん籠に入れて持って来た。それを私たちは新聞紙に載せて、膝の上にひろげ、摘まみながら進んだ。日ざしが次第に強くなり、いいかげんに咽喉が渇いて来たのでうまかった。

クレルモンといい、レジレットといい、この辺一帯はアルゴンヌの森林地帯の一部で、大戦の時は一時ドイツ軍に占領されていた土地である。もうヴェルダンの前線までは二十キロあるかないかぐらいだった。

二

ヴェルダンの町に入って第一にする仕事は食事をすませることだった。広い石段の上に戦捷記念塔が高く聳えている。その石段の前にちょっとしたレストランがあった。ヴェルダン見物が流行はやると見えて、中は客で一ぱいだった。

食事がすむと、徒歩で町の見物をした。ヴェルダンはローマ人征服時代からの町だけに、規模は小さいけれども、道が狭く、石畳が古く、坂が多くて、趣がある。ヨーロッパはどこへ行っても古い形がよく保存されていておもしろい。ヴェルダンはローマ帝国の勢力が弛んで後、一時蛮人の侵入を受けて荒らされたが、五世紀以後アウストラシア王国に属していたのを、九世紀になってフランスに併合され、その後、ドイツに占領されたり、その羈絆から脱したり、市民権が強くなってからはローマ法王の勢力に対抗したりしていたが、完全にフランス王権の支配下に帰したのは、ウェストファリア条約(一五五三年)以後のことだった。尤も、その後とてもしばしばドイツ(プロイセン)の勢力に侵されてはいたが。何しろ、パリからは二百五六十キロもあるのに、東はわずか五十キロでドイツに接し、その北には同じ距離でリュクサンブール公国があり、そのすぐ北にはベルジク王国があるといったような辺彊だから、われわれのような孤立した島国に居住してる者には想像もつかないほどの微妙な国際感情が早くから芽生えて発達して来たものらしい。

だから城砦シタデルなどもなかなか堅固なもので、ヴェルダン城はフランスでも一流の堅城といわれていた。もと十世紀の僧城を改築したもので、南はムューズの河岸に城壁を築き、他の三方には濠を繞らし、高い櫓を立て、日本の封建時代の城を思わせるものがある。中に入ると十世紀の僧城時代の地下窖クリプトなども見られるということだが、今は兵営になっていて入ることができなかった。

カテドラルは十三世紀頃かと思われるゴティク様式で、方塔が二つ揃ってどっしりしてるが装飾にはロマネスクの形式が取り入れられた所があるようだった。それよりも気に入ったのは、町の四つの入口に建てられた中世の塔門で、殊に最もよく保存されてるショーセーはその橋と共にヴェルダンを飾る第一の美観である。それが戦火で壊されなかったのは、郊外のスーヴィルからかけて前面幾つもの塁砦がよく護られたからだった。

三

私たちは町の見物をざっとすませると、また車に乗って戦跡巡覧に出かけた。

町の北端でラ・ムューズを横断して少し行くとスーヴィルの村である。此処を最後の塁砦としてヴェルダンは死守された。子供たちが二三人自転車を乗り廻して楽しそうに遊んでいた。村をはずれて右へ折れると、道はどんどん登りになって、ヴェルダンの町が目の下に展開する。道の両側には高さ三メートルばかりの雑木が一面に茂っている。それを見て姉崎先生は感慨に耽っていられた。先生が一九一八年に訪問された時には、此の辺は一木一草もなくなっていたそうだが、二十年の間にひこばえがこれだけに成長したものと見える。尤も、戦争前はこの辺からかけてアルゴンヌまで巨木の大森林だったということではあるが。

車はまず東の端のヴォーの砲塁の前に停まった。白っぽい岩山が低く東西にうねり連り、それを墻壁にして構築された塁砦で、南側には幾つも土窖の口が開いて居り、中には石でテューブ型に畳み上げられた営舎があり、町で買って来た当時の写真で見ると、両側に寝台が二段に組み立てられ、兵士が靴を穿いて外套を被たまま身体を横たえ、銃剣といっしょに鉄兜やガス・マスクを枕もとに置いている。その時の事を案内者の老兵士が私たちを導いて話して聞かした。その頃のフランス軍はひどく強かったものらしく、ヴォーの戦争は一九一六年二月からで、六月に一度ドイツ軍に占領されたのを十月に逆襲し、十一月には完全に奪還した。それが非常に近い距離の間で行われたのだから戦慄すべき肉迫戦が繰り返されたことは実地を見て殊に痛感される。

穴から出て私たちは塁砦の上に攀じ登った。鉄条網の間から赤い芥子けしの花が夏草の中に交って咲き出ているのも、血を連想させるというよりはもっと深い意味に於いて美しく感じられた。あたりにはまだ鉄条網が銹びたままで張り残されてあったり、塹壕が草に埋もれて保存されてあったりするのは、戦争の残虐を思い出させる誘導とはなるが、それよりも時の整理は力強く、自然の勢いはすべてのものを復活させ、生が死を乗り越えて進むことを実感させられることの方が多い。だから私は万里征人未だ還らずといったような感懐よりも、流血の土中から咲き出た一本の芥子の花に永遠の生命の美しさを見て、自然の偉大さを思い、同時に人間の愚かさを感じないわけにはいかなかった。全く、よくも懲りないで侵し合いを繰り返すものだ。三十年を一時代とする習慣は此の節では世界の動きのテンポが速いので二十年を一時代とすることに改めてもよかろう。実際一時代たつと人間の健忘性は過去の痛苦を実感しなくなると見え、誰が始め出すのか知らないが、今にもヴェルダンのような悲劇がどこかでまた起ろうとしてる。そうしてヴェルダンそのものは一つの見せ物として保存され、物ずきな人間たちが、まるで自分たちには拘わりのないことのようなのんきな顔をして見物に出かけているのである。

見物のコースは、ヴォーからもう一度スーヴィルに戻り、北へ東へ回って、今度はドーモンの塁砦に辿りついた。ここはヴォーよりも一段と規模が大きく、穴の中の営舎も数多く、まるで地下街のようだ。感心したことの一つは、どこの穴倉の営舎にも必ず礼拝堂があることで、宗教は近代に入って人の霊魂を支配しなくなったとはいわれるけれども、それでも、カトリックの国々では殊に、宗教から全く絶縁した生活は見られないが、生命を賭けての戦場では一層それが必要されるものと見え、ヴェルダンだけではなく、エスパーニャに行ってトレドーのアルカサルの白軍籠城の営舎を見た時も、其処に礼拝堂を発見して心を動かされたことがあった。若い兵士たちが戦死する時、最後に呼びかける言葉は母の名でなければマリアの名だと聞いている。

ヴェルダンで戦死した兵士たちの共同墓地へ行く途中、大きな瀕死の獅子の彫像を載せた石の台を左に見た。百三十師建設記念碑と銘してあった。ドイツ軍は北方から攻めて来てこの地点から先へは進めなかった。その付近も一面の樹林である。停戦当時は砲火のため樹林は根こそぎ失われてしまい、夥しい戦死者の遺骨と兵器が散乱していたそうだが、今日ではむしろ公園のような外貌を持っている。

戦死者共同墓地は、フランス軍のはシメティエ・ナシオナールという名が付いている。ドーモンの塁砦を東北に見はるかす高地の上に素晴らしく大きな蒲鉾型の納骨堂が横たわり、その中央に高い燈台塔が立っている。そうしてその前面の斜面に白い十字架の墓標が何千か何万か数えきれないほど整然と列んでいるのが、一目に見わたすと、さながらオランダで見たテューリップの畑のようだ。納骨堂の中には、身内の人たちでもあろうか、花などを持った参詣者も少からず見受けられた。

それから西の方へ車を廻わすと、トラセエ・デ・バイオネット(銃剣の塹壕)と呼ばれる記念館がある。コンクリートの廻廊風の建物で、床は塹壕をそのままに残して銃剣が幾つも突き刺さっている。或る物には珠数を掛け、或る物には一枝の花を揷し、また或る物には Terreテル deド Vendéeヴァンデェ(故郷の土)と記した袋に一握りの土を入れて吊してあったりするのが、いたましかった。

そこから道を隔てて向側の窪地は、ラヴァン・ド・ラ・モール(死の谷)と名づけられ、今は灌木が深深と茂ってるけれども、その当時は死屍累々の恐ろしい光景を呈した所だという。私は道ばたに咲き出た松虫草の花やひるがおの花に明るい陽光の降り濺いでる静寂の中に彳んで、阿鼻叫喚の修羅の光景を実感して見ようとしたけれども、あまりにも平和な今の環境は全くそれを不可能にした。

また車に乗って西北二十三キロの高地なるモン・フォーコンへ行く間には小さい村落を幾つか通り過ぎたが、他のフランス軍の墓地も一つ二つ見た。モン・フォーコンはドイツ軍の有力な陣地の一つで、それをアメリカ軍が占領したので、アメリカの建てた高い戦捷記念石柱が聳え立っている。柱の頂上の台座には左手に炬火を捧げた男の像が立ち、下の台石には一九一八年にアメリカ軍の占領した四つの地名が刻んである。ムューズ高原・バリクール高原・ロマーニュ高原及びアルゴンヌの森。しかし、アメリカ軍は戦争の終末に近づいて不用意に勢きおって飛び込んで、かなりひどい犠牲を払ったのだということだ。記念柱の下にはアメリカ人らしい遊覧客が車を二三台乗り捨てて眺めていた。

私たちは記念柱の裏の高地に登って、物凄く破壊された寺の跡を見てまわり、ついでにロマーニュの戦跡を訪ねて、アルゴンヌの森を抜けた。ロマーニュにはシメティエ・アメリケエン(米軍共同墓地)があり、付近にはシメティエ・アルマン(独軍共同墓地)が二つほど見られた。後者では十字架が黒く塗られてあった。黒と白と色は塗り分けられても、こうして死んでしまえば敵も味方もなく、恐らく彼等は人生を寝ざめのわるい一場の(原本三字伏字)夢と観じて、それさえも今はあらかた忘れ果てているだろう。天よ、気の毒な子供たちに平安を与え給え!

四

死んでしまえば敵も味方もなくなると言ったが、生きてる時でさえ敵も味方もなくなるという一つの実例を私たちは私たちのショファに聞いた。彼は二十年前フランス軍の一兵士としてヴェルダンの戦線に出ていた。この辺でのことだったといって指ざしたのがヴォーの塁砦の付近だったように記憶するから、ヴォーかスーヴィルかでの出来事だろう。敵と味方が短距離で対抗して戦っていた。たまらなく咽喉が渇いて水が欲しくなり、夜にまぎれて脱け出して、村はずれの井戸に水飲みに出かけると、向うからも黒い影が二つ三つ忍び寄って水を捜しに来る者がある。たしかに敵兵だとわかってはいたけれども、こっちも撃とうとはしないし、向うも懸かろうとはしない。黙って水を汲んで別れてしまう。そんなことがよくあったそうだ。その時は(原本十五字伏字)お互いに人間に返っているので、憐みと同情が双方の心に湧いていたのである。

その興味ある話を聞かしてくれたショファは頑丈な骨格をした四十男で、ヴェルダンで多くの戦友を喪い、自分も左の腕をやられて死にかけていたのが、恢復して自動車の操縦ができる程になったのだといった。また戦争が始まったら出なければならないのかと聞いたら、負傷して免役になったからもう出ないだろうといっていた。戦争は怖いだろうというと、戦争は怖いといっていた。

今一つ似たような話を私たちはエスパーニャでも聞いた。最近の内乱で赤軍と白軍と対立して諸所で戦った。私たちはブルゴスからマドリィへ行く途中で、車を停めてその塹壕の幾つかを覗いて見た。塹壕の距離は敵と味方と近い所は二十メートルとなかった。不思議に思ったのは、赤軍の塹壕と白軍の塹壕と対抗し、白軍の塹壕の向側にまた赤軍の塹壕があり、その先にまた白軍の塹壕があるといった風に、何のことはない塹壕のだんだら染が出来上ってるような箇所があった。それ等には今一一標柱が立てられて、其処も一種の見せ物となっていた。また、赤軍といい、白軍といい、初めは思想的対立であったが、後では必ずしもそうでなく、むしろ行政区劃的対立となって、Aの村の者は全部赤軍に編入され、Bの村の者は悉く白軍に召集されるといったような奇観を呈し、それがため、兄弟別れ別れに敵味方の塹壕に対峙するというようなことも少からずあった。これは戦線に立って実戦を見た矢野公使の話であるが、ある時白軍の塹壕の中にいた兄が首を出すと、赤軍の塹壕の中から射撃しようとして狙ってる者があった。見ると弟だったので、おい、おれだぞ、と、どなって銃を下させたというようなこともあった。そんな風だから、冷静に考えると、何のために戦争をしてるのかわからなくなることもあったらしい。おもしろいのは、夜になると敵の塹壕でレコードをかけてダンスを始め出すと、その調子に合せて味方の塹壕でもダンスをやるというようなこともあった。昼間は(原本伏字)撃ち合った者が、夜になると同じ旋律に心を溶け合わせて踊る。こうなると、戦争の方が本気なのか、踊る方が本気なのかわからなくなる。恐らく本人たち同士といえどもわからないのだろう。わからないからこそ、そういった矛盾したこともやれるのである。(原本伏字)                              ヴェルダンでも、そういったことがしばしばあったに相違ない。

戦争をそういった変態的なものと見る者は世界の進化の上から(原本伏字)         と考える。「エホバは地の果までも戦争をやめしめ、弓を折り、戈を断ち、戦車を火にて焼く。」そういうことが早くから言われていたが、人類始まって以来今日に到るまで、戦争はしばらくも止む時はなかった。今後といえども恐らくそうだろう。ニホバ(ヤーヴェ)についていうならば、彼が考えを変えて人類を地球上から絶滅させ、別種の者を造り出さない限り望めないことかも知れない。(原本伏字)                                                                                                 今に、ヨーロッパのどこかの部分で戦争が始まったら、ヴェルダンの兵器や戦法は完全に out of date になってることが発見されるだろう。……

アルゴンヌの森の彼方に落ちて行く赤い夕日を見ながら、私はそんな取り留めもないことを考えていた。その考え方に変態的なものがあったら、「ヴェルダンの子供たち」に憑かれた結果だと思ってもらいたい。

五

帰りには予定の如くランスには寄ったけれども、ソアッソンに廻る余裕はなくなった。ランスとても、時間が過ぎて寺の扉が締まっていたので、前の茶店に入って遠くから外観を眺めたり、近寄って彫像を数えながら一周りしたりしたきりだった。此の寺は大戦の時にドイツの大砲で上の方がひどく破損したのが、やっと修繕が出来上ったと聞いていたが、来て見ると、塔にはまだガラスの嵌まってない部分があった。

ランスについては、いつかゆっくり印象を書いて見たいと思っている。

(昭和十三年―十四年)

底本 / Source edition

底本:「世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字2、1-13-22]」修道社
1959(昭和34)年2月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
※(底本伏字)となっている箇所の空白は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/043093_000963/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/043093_000963/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/043093_000963/

野上 豊一郎「ヴェルダン」(新字新仮名)、底本『世界紀行文学全集 第二巻 フランス編Ⅱ』修道社、1959年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043093_000963, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite