Soranoha

レーリー卿(Lord Rayleigh)

レーリーきょう(ロード レーリー)

寺田 寅彦

レーリー家の祖先は一六六〇年頃エセックス(Essex)州のモルドン(Maldon)附近に若干の水車を所有して粉磨業こなひきぎょうを営んでいた。一七二〇年頃ターリング(Terling)に新しく住家を求め、その後 Terling Place の荘園を買った。その邸宅はもとノリッチ僧正(Bishops of Norwich)の宮殿であった。その後ヘンリー八世の所有となったこともあった。その時の当主ジョン・ストラット(John Strutt)は Maldon からの M. P. として選出された。この人の長子は早世し、次男の Joseph Halden Strutt(一七五八―一八四五)が家を継いだ。彼は陸軍大佐となり王党の国会議員となり、Duke of Leinster の娘の Lady Fitzgerald と結婚した。これがここに紹介しようとする物理学者レーリー卿の祖父である。勲功によって貴族に列せられようという内意があったが辞退したので、爵位はその夫人に授けられ、夫人からその一人息子の John James Strutt(一七九六―一八七三)に伝えられた。これが最初の Lord Rayleigh となった訳である。Rayleigh は附近の小都市の名で、口調がいいというだけの理由でこの名を採用したものらしい。彼は Clara Elizabeth La Touche Vicars と結婚して、Langford に住んでいた。ここで John William Strutt が生れた。これがすなわち物理学者のレーリー卿である。

レーリーの血筋に科学的な遺伝があるとすればそれはこの外戚がいせきのヴィカース家から来ているらしい。すなわち外戚祖父とその兄弟は工兵士官であり、また外戚祖母の先祖にも優れた砲工兵の将官が居た。また祖母 Lady FItzgerald は有名なボイル(Robert Boyle)の兄弟の裔すえだそうである。

一八四二年の十一月十二日に John Willam を生んだときに母は年わずかに十八歳であった。そうしてこの子はいわゆる七月子ななつきごとして生れたのである。三歳になるまで物が云えなかった。しかし物事にはよく気がついて、何でも指さして「アー、アー、アー」と云った。そうして「あれはお家うちです」、「犬です」という返事を聞かないうちはなかなか満足しなかった。祖父の大佐がこの子を始めて見たときに「これはよほど利口か、それとも大馬鹿だ」と云った。それはこの児の頭蓋骨の形を見てそう云ったものらしい。

生れて二十箇月後に階段から転がり落ちて、頭に青や黒の斑点が出来た。その後にも海岸の波止場はとばから落ちて溺れかかった事もあった。また射的しゃてきをしている人の鉄砲の筒口の正面へ突然顔を出して危うく助かった事もあった。大きくなるに従って物を知りたがり、卓布にこぼれた水が干上がるとどうなるかなどと聞いた。内気でそして涙脆もろく、ある時羊が一匹群むれに離れて彷徨さまよっているのを見て不便ふびんがって泣いたりした。記憶がよくて旧約全書の聖歌を暗誦したりした。環境には何ら科学的の刺戟はなかったが、塩水に卵の浮く話を聞いて喜んで実験したり、機関車二台つけた汽車を見てその効能を考えたりした。伯母に貰った本で火薬の製法を知り、薬屋でその材料を求めて製造にかかっているところを見付かって没収された話もある。

一八五二年すなわち十歳のとき学校へ入るために Eton に行ったが、疱瘡ほうそうに罹りまた百日咳に煩わされたりした。それで Wimbledon Common にあった George Murray という人の私塾のような学校に入って、そこで代数や三角や静力学初歩を教わったが、その頃からもう彼の優れた学才が芽を出して師を感嘆させた。同時にいたずら好きの天分をも発揮して、ガス管内に空気を押し込み、先生の祈祷が始まると燈火が自然に消えるという趣向を案出し実行した。その頃彼の父は彼に農業の趣味を養うために郷里で豚を飼わせ、その収入を彼の小使銭に充あてた。この銭は多くは化学材料を買うために費やされ、ある時は燐りんで指を焼いた。後年ケルヴィン卿が化学会の晩餐演説でこの事を引合に出し、レーリー卿は十二歳のときに燐で指を焼いたそうだが、自分は八十二歳のときに全く同じ火傷やけどをしたと云った。

十四歳のとき Harrow に入ったが、二年級になってから胸の病を得て退学した。生命もどうかと気遣われたが幸いに快癒したので今度は Rev. G. T. Warner の学校に入ってそこで四年間の修業をした。その間に一度 Cambridge の Trinity College におけるある Minor Scholarship の試験を受けたが失敗した。師の Warner は「今度はいけなかったが決して二度とは失敗しまい」と云った。その頃の彼の悪戯いたずらの傑作は、Milton の sonnets をそのまま自作のような顔をして田舎新聞に投書したことである。勿論新聞は夢にも知らずにそれを掲載した。

十五歳の頃から写真を始めてかなり身を入れてやった。その外の娯楽は乗馬、クリケット、フートボール、クロケー、射的などであった。その頃彼は休暇の度に近親の年上の誰かに淡い恋をしたが、次の休暇には前の恋人はすっかり忘れて、また別の初恋をするのであった。またある時は若い婦人に扮装して午餐会に現われ、父の隣席に坐って一座を驚かせた。

いよいよ Cambridge に入った。貴族の子弟であるので、Fellow Commoner として入学した。しかし極めて質素な生活をしていた。ここで有名な Routh の下に厳しい数学的訓練を受けた事が、後年の彼のために非常に有益であったことは彼自身も認めている。その頃彼はよく長椅子に凭もたれてぼんやりしていることがあった。友人には、面白い作り話を考えているんだと云ったが、実は数学の問題を考えていたらしい。彼は生涯喫煙はしなかった。

一八六四年の秋には Sheepshanks Exhibitioner に選ばれた。これは大変な名誉なことであったが、これについて母に送った手紙には「試験官が私の書いたナンセンスに感服したのは可笑おかしい」とあった。この秋から彼は始めてストークスの光学の講義に出席し、特にその講義でやって見せる実験を喜んだ。ストークスの考え方や表現の仕方がすっかり気に入ってしまった。そのうちに Mathematical Tripos の試験が近づいた。彼の伯母が心配して師のラウスに見込みを聞いたら、ラウスは“He'll do.”と答えたそうである。

在学中の彼は試験官の銘々の癖をよく呑込んで、例えばトドハンター先生の出す問題を予知したりした。ある試験官は「ストラットの答案は多くの書物よりもいい」と云った。

一八六五年の正月に彼は遂に Senior Wrangler の栄冠を獲た。その表彰式に彼の母も参列したが、人々は「我わが Senior Wrangler の姉君」のために万歳を三唱」した。実際母は彼よりただ十八歳の年長者であったのである。彼の郷閭きょうりょの人々のうちには彼の学者として立つ事が彼の Lord としての生活と利害の相反することを恐れるものもあった。この学位を得た後に二人の友人とイタリア旅行をしたが、美術見物には大した興味がないようであった。

一八六五年の四月に始めての講演をした。ひどく「はにかみや」であったのでこの時の演説はよく聞き取れないくらいであった。しかし晩年はかなり講演がうまくなり、政治演説なども相当有効にやってのけるようになった。

自分の研究をする自由は得たが、実験を始めようとしても器械や道具が手に入れられなかった。定性分析のコースを一学期やらせてもらったくらいのものであった。しかし読物には事を欠かなくてマクスウェルの電磁気論(一八六五)や、マクスウェル及びヘルムホルツの色の研究、それからストークスやウィリアム・タムソンの主要な論文を読み、傍かたわらまたミルの論理学や経済論を読んでいた。

一八六六年二十四歳で Trinity の Fellowship を獲た。その頃の友人の中には George Darwin も居たが、違った方面の友では Arthur Balfour すなわち後の首相バルフォーア卿と親交を結んだ。これが彼の生涯に大きな影響をすることになったのである。

一八六七年の八月に始めて大西洋を越えてアメリカの旅をした。帰ってみると彼の郷里ではチフスが流行していたので家族とともに五マイル離れた Tofts へ転地し、父のレーリー卿がただ一人 Terling に止とどまっていた。これが動機となって後にこの荘園内にあった「白鳥池」を利用して水道工事が出来、これが後に水力学の実験に利用されるようになったのである。

その頃彼は国会議員として政治生活に入るように彼の父その他からも勧められた。政治に対する興味はかなりあったが国会議員として立つ事は好まなかった。そうしてテートやマクスウェルなどと文通をしながら研究をしていた。またチャールス・ダーウィンとも知合になった。後年彼の書いたものの中にこんなことがある。「一八七〇年にダーウィンと一緒になったとき、あるアメリカ人からよこした手紙のことを話した。それは『失礼ですが貴方あなたの顔が著しく猿に似ているという事実が貴方の学説をひどく左右したのだと思います』というのであった。」

一八六八年の米国旅行から帰ってから、彼は自分の実験に着手した。ルムコルフコイル、グローヴ電池、無定位電流計、大きな電磁石、タムソンの高抵抗ガルヴァなどを買入れた。最初にやった実験は、電流計の磁針が交流でふれることに関するものであって、その結果は同年の British Association で報告している。その外の実験は色に関するものや、電気感応と惰性とのアナロジーなどに関するもので、これに関するマクスウェルとの文通が保存されている。

一八七一年に、ケンブリッジに新設されたキャヴェンディッシ講座に適当な人を求める問題がおこった。その時レーリーからマクスウェルに送った手紙を見ると、ウィリアム・タムソンは決定的に辞退したから、是非ぜひともマクスウェルが就任してくれるようにと勧誘している。その手紙の中でこう云っている。「この地位に望ましい人は、ただ講義をするだけの先生ではなくて、実験に体験をもった数学者で、そうして若い学者達の活動を正しい道に指導することが出来る人でなければならない。」マクスウェルは遂に承諾して最初の Cavendish Professor となった。その年にタムソンがヘルムホルツに送った手紙によると、もしマクスウェルが断ったら、この椅子はレーリーに廻るのであったらしい。

この年にマクスウェルの紹介で、共鳴に関する彼の論文が Phil. Trans. に出た。この論文が評議会を通過したことを告げたのは、ソリスベリー卿であった。「この間評議会で君の破われ徳利とくりが出たよ」と云ったそうである。これが音響に関するレーリーの研究の序幕となったのである。彼が音響の問題に触れるようになった動機は、ある先生から是非ともドイツ語を稽古しろと勧められ、その稽古のためにヘルムホルツの Tonemspfindungen を読んだのが始まりだそうである。この最初の研究実験はターリングの邸宅の古いグランドピアノの上で行われたのである。

色の研究をしているうちに、空の色の影響に気が付き、それから、空の色そのものの研究に移り、ついに有名な有名なλ-4の方則に到達した。そうしてクラウジウスやティンダルの説を永久に否定してしまった。

これより先、一八六九年にロンドンで彼の学友アーサー・バルフォーアの二人の姉妹エリーノア(Eleanor)とイヴリン(Evelyn)とに紹介され、その後しばしば出遭う機会があった。イヴリンは音楽を好んでいたので、レーリーはヘルムホルツの書物を貸してやり、それが二人に共通の興味ある話題を提供した。その頃彼はソルスベリー卿の実験室を訪れて磁気に関する実験を見せられたりした。その時母に送った手紙に「あんなに不器用では実験家として成効しそうもない」と云ってこの政治家の余技を評している。この頃またグラドストーンにも会った。そうしてこの大政治家の能力と独創的天分とに感服すると同時に、科学的考察力の欠乏を認めた。グラドストーンは雪が長靴の革を滲透する特殊な力があるということを主張した。レーリーは、それは靴の上部にかかった雪が靴の中へ落ち込むのだと云って説明したが、結局どうしても了解を得ることが出来なかった。

一八七一年の五月にイヴリン・バルフォーアと婚約し、七月十九日に結婚式を挙げた。大学における fellowship は未婚者のみに許されるという規則であったので、結婚と同時に大学との縁は切れることになった。これは「将まさに来らんとする私の生活の転機の暗黒面だ」と云った。新婚旅行の途次にエディンバラの British Association に出席し、そこで始めてウィリアム・タムソンやテートと親しく言葉を交わした。旅行後ターリングに帰って秋と冬を送った。その間に彼等の新家庭を営むべき Tofts(Little Baddow における邸宅の名)の工事を監督するため毎週二、三度は新郎新婦駒こまを並べて出かけて行った。

一八七二年正月ケント州の Bedgebury の親戚の宅で泊っているうちに劇烈な熱病(rheumatic fever)に罹り、一事は心許こころもとない容態であった。関節と肺とを冒されたのであった。幸いに治癒したが、急に年を取ったように見えた。

Tofts の新居に実験室を造ろうと考えてマクスウェルの知慧を借りたりしたが、結局ここにはわずかに四箇月くらいしか居ないことになった。ここでは主に廻折格子かいせつこうしを写真で複製する実験をやったのである。後年この家の後継者はこの実験室を玉突き室に改造したそうである。

病後の冬の寒さを避けるためにエジプト旅行に出掛けた。夫人の姉エリーノアも同道した。その頃はまだ珍しかったスエズ運河を見、蜃気楼しんきろうに欺されたりして、カイロに着き、そこから小船に乗ってナイル河を遡さかのぼった。南京虫ナンキンむしや蚤のみ蚊かに攻められながら、野羊やぎの乳を飲み、アラビア人のコックの料理を食って、一八七二年の十二月十二日から翌年三月中旬にわたる単調な船住いをつづけた。この退屈な時間を利用して彼はその名著 Theory of Sound の草稿を書いていた。午前中は大抵キャビンに籠ってこの仕事に没頭していた。しかしすっかり戸口を締め切って蠅はえを殺してしまってから仕事にかかる必要があったのである。義姉のエリーノアはレーリーの机の前に坐って彼から数学を教わっていた。どんな面白い見物があっても午前中はなかなか上陸しようとしなかった。午後にはデッキへ出てエジプトコーヒーをすすりながら、エジプトロギーをひやかしなどした。

帰途はギリシアからブリンデイシ、ヴェニスを経て一八七三年五月初旬にロンドンに着いた。そうしてアーサー・バルフォーアの近頃求めた No. 4 Carlton Gardens に落着いた。これが晩年までも彼のロンドンでの定宿となり、ほとんど毎年数週ないし数月をここに送ることになったのである。

旅から帰った翌月、すなわち六月十四日に彼の父のレーリー卿が死んだ。これは彼にとって大きな悲しみであったのみならず、父の遺産の管理という新たな責任が彼の科学的生活の前途を妨げはしないかという心配があった。

一八七三年の秋に新しきレーリー卿となった彼はトフツの邸やしきから父祖の荘園ターリングに移った。それまでは石油ランプを使っていたのをガス燈にし、また実験用の吹管すいかんや何かに使用するために、新たに自家用のガス発生器を設備した。その他には客間にあったオルガンを書斎に移したくらいで、外には別に造作を加えるようなことはしなかった。晩年に到るまで、彼はこの旧宅に手を入れることは容易に承諾しなかった。そうして彼の幼時の思い出のかかっている家具の一つでも取除けることを許さなかった。

この年に彼は F. R. S. に選ばれた。そうして一八七四年から一八七九年までは平穏にターリングの邸で暮していた。一八七四年の夏頃始めていわゆる心霊現象(spiritualistic phenomena)の研究に興味をもつようになった。それはクルックス(W. Crookes)がこの方面の研究に熱心であったのに刺戟されたものらしい。彼は、もしこれらの現象が本当であれば、それはあらゆる他の科学的の発見よりも遥かに重要であると考えたのであった。しかし色々の実験に立合ったりした結果は彼を失望させた。もしそうでなかったら、彼はおそらく生涯をこの方面の研究に捧げたかもしれないということである。しかし彼が最後までこの方面の興味を捨て切れなかったことは、彼の死んだ年一九一九年に心霊現象研究会の Presidential Address をやっているのを見ても分るであろう。何事も容易に信じない代りに、また疑わしいものでも容易には否定しないのが彼の特長であった。

一八七五年に上院で演説をさせられた。それは衛生問題に関することであったが、云いたいと思うことは皆口止めされて結局何も云うことがなくて困ったと云ってこぼした。これはソリスベリー卿が彼を政治界へ送り出す初舞台としてやらせたらしいのであるが、当時既にレーリーの心は科学の方へ決定的に傾いていた。一八七六年には動物虐待防止法案の修正を提出した。一八七二年にはグラドストーンから大学の財政に関する調査委員会の一員となることを勧められた。一八七七年大学令の改正委員が選ばれた時も、彼は仲間に入れられた。旧師のストークスもその員かずに加わっており、わざわざアイルランドから出かけて来たが、会議中ただの一語も発せずに坐っていたそうである。レーリーも会議にはあまり熱がなかったと見えて、ある人が彼にある科学上の問題を話しかけたとき、それは午後の委員会のときにゆっくり考えてみようと云った。この点「職務不忠実」であったのである。

一八七五年八月、ブリストルの大英学術協会に出席中に郷里から電報で呼びかえされた。彼の長子で現在のレーリー卿たる Robert John Strutt が生れたのであった。

一八七五年から七六年にわたる冬の数箇月間ビーチャム・タワー(Beauchamp Tower)というエンジニアーを助手として水力学の実験をした。この人は有名なフルード(William Froude)の弟子であった。前に述べた「白鳥池」を利用して水力実験室を作り、色々の形の穴から水を流出させるときの孔内の圧力分布を測ろうというのであった。この実験はその後にマロック(Arnulph Mallock)が完成し、而しかしてレーリーの理論的の計算と一致する結果を得た。

一八七六―七七年の冬には、やはりフルードの弟子で、また親戚であった前記のマロックを助手として液体力学の実験をした。不思議なことにはこの時やった実験のことをすっかり忘れてしまって、四十一年後になって同様な実験をやることの提案をしている。

タワーやマロックのような、自分で独立の研究の出来るような人は彼の助手としてはあまり適当でなかった。それで一八八〇年までは全く助手なしで独りで実験していた。しかし後ではやはり助手のなかった事を悔いた。

一八七六年の Cambridge Mathematical Tripos の試験には補助試験官に選ばれた。その試験問題の討究のために試験官仲間をターリングに招待したが、そのためにソリスベリー卿とディスレリーとの和解の饗宴という歴史的のシーンに出席する機会を逸した。レーリーの出した試験問題(Coll. Pap., 1, p. 280)にはオリジナルな点があった。問題が急所に触れていてただの elegant academic exercise ではなかった。

一八七三年にレーリーが家督を相続した頃は農業も相当有利であったが、一八七四年に外国貿易の頓挫した影響から、引いて農民の窮迫を来し、従って地主の財政も極めて不利になった。一八七九年から翌年へかけては小作人がだんだん土地を返上して来たので、地主は自作するより外途がなくなった。この財政の困難ということが、レーリーをしてケンブリッジの教授としての招聘しょうへいに応じさせた主要な原因であったと云われている。

相続後の家政は大概、書記や執事や代言人に任せてあって、彼自身は大審院の役をつとめるだけであった。家作の修理などを執事がすすめてもなかなか受入れなかった。

農業に関する知識は相当にあって、人工肥料の問題にも興味があり、この点では却って旧弊な執事等より進取的であった。

弟の Edward Strutt が大学卒業後農事に身を入れるようになったので、一八七六年に家産全部の管理を弟に一任し、生涯再び家事には煩わされなくてもいいようになった。この時弟のエドワードはわずか二十二歳であったのである。吾々はこのエドワードに感謝したい気がする。

一八七七年の春はマデイラへの航海をした。昔夫人の父が肺病でここに避寒に行って亡くなったのである。その時の乗船にケルヴィンの羅針盤が三台備えてあった。タムソンはレーリーに手紙をやって、どうかこの器械を見て意見を聞かせてくれと頼んだ。その手紙に添えて彼の測深器の論文も送るとある。マデイラの断崖で気流の実験をして鳥の飛翔の問題を考えたりした。帰途プリモースに上陸し、そこからフルードの船型試験室を訪問した。レーリーはフルードの才能と人柄を尊敬していた。二人の行き方はどこか共通なところがあった。最も簡単な推理によって問題の要点を直進するところが似ていると、今のレーリー卿が評している。

一八七八年の五月に王立研究所(Royal Institution)で色に関する講演をした。十月二日には次男の Arthur(後に海軍士官)が生れた。一八七八ー七九年には王立研究所の評議員を務めた。

一八七七年に彼の Theory of Sound の初版がマクミラン(Macmillan)から出版された。一八七三年のナイル旅行の船中で稿を起したのが、足かけ五年目に脱稿したのである。書いて行く間に色々の新しい問題が続出する、それを一々追究してはその結果を別々の論文で発表していた。この著書の草稿は Mathem. Trip. の試験答案の裏面を利用して書いたのであった。ヘルムホルツは『ネーチュアー』誌上にこの書の紹介を書き、この書は正にタムソン―テートの『物理学』に比肩すべき名著であると云った。タムソン―テートの書物が遂に完結せずに了おわった一つの理由は、レーリーのこの書とマクスウェルの『電磁気学』が出て、それで大体書くべきことは尽されたからというのであった。これはタムソン自身の言明したことである。ヘルムホルツもまた出版者もこの『音響論』の第三巻を書くことを勧め、自分でもその気はあったが、遂に書かずに了った。しかし再版のときに色々な増補をした。

レーリーの初期の研究の中で、かなり永い間の手しおにかけて育て上げたものの一つは、廻折格子の問題と分光器の分解能(resolving power)に関する問題とであった。初めは大きく画いた格子を写真で縮写しようと試みたがうまく行かなかった。しかしその研究の副産物としていわゆる zone plates(光を集中する円形格子)を得た。しかし、別に発表するほどの珍しいこととも思わなかったらしい。それから四年後にソレー(Solet)、七年後にウッド(R. W. Wood)がこれについて論じたので世に知られたが、レーリーのやったことは誰も知らない。

当時の格子と云えばナベルト(Nabert)の作ったガラス製のものしかなかった。オングストレームの太陽スペクトルの図版もこれで取ったのであった。レーリーは縮写に失敗した後(一八七一)、このガラス格子を写真種板に直接に重ねて焼付けることを試みたらすぐ成効してたいそう嬉しがった。粒の粗あらい今のゼラチン乾板ではおそらく不成効であったであろうが、タンニン、蛋白、塩化コロジオンを使う古い方法が丁度適当であったのである。また重クローム酸ゼラチン法を用いて著しい結果を得た。そうして透明な棒の生ずる光波位相の反転に気付いた。この考えは後に発展して階段格子(échelon grating)となったのである。

その後アメリカでローランド、マイケルソン、アンダーソン等によって優秀な金属製格子が作られ、またソープ、ウォーレス(Thorpe & Wallace)のセルロイド鋳型いがたなどが出来て、レーリーの転写は実用にはならなくなった。しかしレーリーの貢献はこの研究から導かれた分光器の分解能に関する理論的研究であった。今から見れば誰でも気の付きそうなこの問題に当時まだ誰も気が付いていなかったのである。レーリーは五年かかってこの研究を完成し、格子のみならず、プリズムの場合をも補足した。これらの結果を纏めて Phil. Mag. に出したとき“I wonder how it will strike others. To me it now seems too obvious.”と私信の中に書いている。これも一つのコロンバスの玉子であろう。

一八七九年の十一月五日にマクスウェルが死んだので、ケンブリッジではキャヴェンディッシ講座の後任者が問題となった。ウィリアム・タムソンは到底引受ける見込がなかったので、人々の目指すところはレーリー卿であった。タムソンはレーリーに手紙を書いた。「自分は生涯グラスゴーを離れられない因縁がある。貴方が引受けてくれれば誠に喜ばしい。しかし教授の職に附帯したうるさい仕事のために研究が出来なくなるという心配があれば、また適当な後任者の出来るまで当分の間だけ引受けるというのだったら、むしろ御断りになる方がいいと思う」という意味のことを忠告した。万事控え目なストークスは一切黙っていた。

当時レーリーの家の財政は前述のようにかなり困難な状態にあった。相続当時計画していたような大規模な研究室を作り、数人の有給助手をおくような望みは絶えてしまった。こういう環境の下にレーリーは遂に就任を承諾した。そうして一八七九年十二月十二日にこの名誉な椅子に就いた。

当時のキャヴェンディッシ研究室はかなり貧弱なものであった。日常の費用はマクスウェルの小使銭から出るような始末であったので、レーリーは取敢えず研究資金の募集にかかった。先ず自分で五〇〇ポンド、当時の名誉総長デヴォンシャヤー公が五〇〇ポンド出した。その他の寄附を合計して一五〇〇ポンドを得た。また教授のポケットにはいる学生の授業料もこの方につぎ込むということにした。

学生に一般的な初歩の実験を教えるという案を立てたが、その頃まだ学生用の器械などは市場になかった。幸いにジェームス・スチュアルト教授の器械工場の援助を得て、簡単で安いガルヴァなどを沢山作らせることが出来た。

マクスウェルから引継いだ助手は、事務家ではあったがあまり役に立たなかった。それが間もなく死んだので後任者を募集したときに出て来たのがジョージ・ゴルドン(George Gordon)であった。もとリヴァプールの船工であっただけに、木工、金工に通じていたのみならず、暇さえあれば感応コイルを巻いたり、顕微鏡のプレパラートを作ったりするような男であった。田舎弁で饒舌しゃべり立てるには少し弱ったが、しかし大変気に入って、これがとうとう終りまでレーリーの伴侶となったのである。レーリーの立派な仕事の楽屋にはこの忠実な田舎漢でんしゃかんのかくれていた事を記念したい。

レーリーは器械が役に立ちさえすれば体裁などは構わなかった。それでゴルドンがいよいよ最後の「仕上げ」にかかる頃には、早速召し上げて行って使った。

マクスウェル付きの demonstrator が辞任したあとへグレーズブルックとショー(R. T. Glazebrook & W. N. Shaw)が就任した。この二人の手を借りて学生の実験演習の系統的なコースを設立した。この、現在我国の大学でもやっているような規則正しいコースがケンブリッジに無かったのである。このコースを書物に纏めたのがすなわち Glazebrook & Shaw : Practical Physics である。感じ炎の実験などがあるところにレーリーの面影が出ている。

レーリーの最初の講義は「物理器械使用法」で、次は「湿電気(galvanic electricity)と電磁気」であった。当時まだ galvanic electricity などという語が行われていたのである。聴講者はただの十六人であった。この数は彼の在職中あまり変化はなかった。当時の思い出を書いたシジウィック夫人(レーリー卿夫人の姉エリーノア)の記事に拠ると「彼が人々の研究を鼓舞し、また自分の仕事の援助者を得るに成効した所以ゆえんは、主に彼の温雅な人柄と、人の仕事に対する同情ある興味とであった」。彼はこの教授としての仕事を充分享楽しているよに見えた。「彼の特徴として、物を観るのに広い見地から全体を概観した。樹を見て森を見遁みのがすような心配は決してなかった。」「いつでも大きな方のはしっこ(big end)をつかまえてかかった。」「手製の粗末な器械を愛したのも畢竟ひっきょう同じ行き方であった。無用のものは出来るだけなくして骨まで裸にすることを好んだ。」

ナイルの河船でレーリーから数学を教わったエリーノア嬢は、その後シジウィック夫人となってからはケンブリッジに居を構えていた。そうしてレーリーの在職中は絶えず彼の研究の助手となって働くことを楽しみとしていた。することが綿密丹念で手綺麗で、面倒な計算をチェックしたり、実験の読取りを記帳し、また自分でも読取りをやった。レーリーの論文にこの婦人と共著になったものがいくつかある。

就任当時は従来やりかけていた「水のジェットに対する電気の作用」などをやっていたが、そのうちに彼の頭の中では大規模の仕事の計画が熟しつつあった。すなわち電気単位の測定を決定的にやり直すことであった。先ず最初にオームの測定にかかった。一八六三―六四年にマクスウェルその他の委員によって設定された B. A. 単位はその後コールラウシュ、ローランド、ウェーバー等の測定で十二パーセントの開きを生じていたのである。この仕事にはアーサー・シュスターが加担し、シジウィック夫人も手伝った。B. A. の方法によって一八八一年に得た結果は、これと同時にグレーズブルックが他の方法でやったものとよく一致した。またこの結果が熱の器械的等量の電気的測定の結果と器械的測定の結果との齟齬そごを撤回したので、ジュールはたいそう喜んだ手紙をレーリーに寄せた。しかしレーリーはこれだけでは満足せずに、更にロレンツ(Lorenz)の方法によってやり直しをして、その結果を確かめた。結局三年かかって得た彼の結果は、その後多数の優秀な学者によって繰返された測定によっても事実上なんらの開きを生じなかった。

次にはアンペーアの測定にかかった。この際クラーク電池の長所を認めていわゆるH型のものを工夫した。レーリーの定めたこの電池の e. m. f. の価もその後の時の試煉に堪えたのである。

電気単位に関する国際的会議のいきさつはここには略するが、この問題に関してレーリーの仕事が重要な要石かなめいしとなったことは明らかである。

彼の指導を受けていたジェー・ジェー・タムソンが引続いて e. s. u. と e. m. u. との比を測定することにかかった。タムソンの仕事ぶりを見ていたレーリーは、“Thomson rather ran away with it.”と云って一切をこの若者の手に任せてしまった。後進の能力を認めこれに信頼することの出来ない大御所的大家ではなかったのである。

ケンブリッジ在職中の私生活も吾々にはなかなか興味がある。ここでもソリスベリーの別荘に住んでいた。講義のない日の午前はたいてい宅で仕事をしていた。昼飯の時には子息のためまた自分の稽古のために、なるべく仏語で話すことを主張した。それから二頭の小馬をつけた無蓋馬車をレーリー男爵夫人が自ら御して大学へ出勤し、そこで午後中、時には夜まで実験をやった。午後のお茶は実験室内の教授室で催され、夫人と姉のシジウィック夫人もしばしば列席した。茶瓶の口が欠けていたので夫人が新しいのと取換えようと云ったが、「これでも結構間に合う」と云って、そのままになった。夕食前の数分間には子供部屋をおとずれている彼を見かけた。一八八〇年七月には三番目の子息のジュリアンが生れた。その年の八月にはスコットランドに旅してアルジル公の客となり、ヨットに乗って「長湖」に浮んだり、公爵の子供の時に見たという狐火きつねび(will-o'-the-wisp)の話に興味をもったりした。

一八八一年三月に Trinity の Honorary Fellow になった。マクスウェルの後を継いだのである。丁度ヘルムホルツも学位を受けに来合せて夫婦連れで二晩泊った。「ヘルムホルツは対話ではさっぱり要領を得なかったが、しかし彼は very fine head をもっている」と評した。

一八八二年サザンプトンにおける大英学術協会では Section A の座長をつとめた。その時の座長の演説の中に物理学者の二つの流派、すなわち実験派と理論派との各自の偏見から来る無用の争いを誡いましめた一節は、そのまま現代にもあてはまるべきものである。会のあとでプリモースへ行ってそこで始めて電話というものを実見した。そして何よりもその器械の簡単さに驚いた。「これは確かに驚くべき器械である。しかし大した実用にはなりそうもない」と云っているのは面白い。

一八八二年十月に発熱性のリューマチスに罹って数週間出勤が出来なかった。丁度この時に王立協会から恩賜賞(Royal Medal)を貰ったが受取りに出ることが出来なかった。実験室ではグレーズブルックとショーが引受けていて時々病床へ何かの相談に来た。加減のいい時は小説『岩窟王』を読んでいた。二、三年後長子と散歩していたときにこの話をして聞かせた。そしてこの主人公の復讐はクリスチャンとしてはあまりひど過ぎると云った。

病後の冬休みにはイタリアへ転地し、フロレンス近くのバルフォーア家の別荘に落着いた。ピサの傾塔やガリレーの振子よりも彼を喜ばせたものはその浸礼堂の円塔の不思議な反響の現象であった。

この病気は時々再発の気味があったので、再び転養のためにホンブルク(Homburg)に行った。そこで毎午前はマクスウェルの色の図に対する面倒な対数表計算をやった。夫人が一々験算をした。レーリーはこういう計算はあまり得意でなかったのである。ホンブルクからハイデルベルクへ行ってクインケ(Quincke)を訪ねた。ク教授は新醸のワインを取出して能書きを並べた。スイス行を思い立ってムルレン(Murren)まで行ったら病気が再発して動けなくなった。四日目に少しよくなったので、四人舁がきの椅子にのって山を下り一路ケンブリッジに帰った。それで次のクリスマスの休暇にはバス(Bath)に行って温泉療養をすることになった。浴槽の中で掌てのひらを拡げたまま動かすと指が振動する現象を面白がった。その時に浮んだ考えが三十年後の論文となっている(全集、五、p. 315)。

一八八四年カナダのモントリオルで大英学術協会が開かれたときにレーリーが会長に選ばれた。当時彼は四十二歳、こんなに若くて President になった例は珍しかった。彼は承諾はしたが、しかしその Presidential Address が苦になり、その予想にうなされ、そうしてひどく悄気しょげたりした。アーサー・バルフォーアは手紙で彼を激励した。「科学と英国と貴族とを代表しなければならない」と云い、また眼前の政治的危機に対するカナダ新聞界の判断は、レーリーの印象によって左右されるだろうと云ったりした。クェベックまでの航海中のある夜ロバート・オースチンがナンセンス科学演説をやった。レーリーはたいそう感心し、また乗客のあるものがそれを本気に受取っているのを見て嬉しがっていた。

いよいよ彼の座長演説をやる日に、入場券を持たずに会場へ行って門番と押し問答をやった。この時の演説の一部は科学者の教育問題に触れ、古典的死語に代えるべき仏独語の効能を述べている。また、科学はマテリアリズムに導く、という一般的謬見びゅうけんを排し、計算や実験では解けない“higher mysteries of being”のあることを暗示した。この会のエキスペジションで彼はインディアンの国土を見舞い、シカゴで始めて電車を見、またマイケルソンやローランドと親しく言葉を交わし、またエジソンの有名な昼寝を驚かした。ケルヴィンの有名な Baltimore Lecture の一部にも顔を出した。これについてレーリーが後に息子にこんな話をした。「実にあの講義は驚くべき芸当だった。午前の講義を聞いていると、たった今、朝食のときに吾々の話していた問題がもう講義の種子になっているのを発見することがしばしばあった。」また母への手紙にもこの講義が「例のタムソン式で、つまり情熱的で、取り止めもなく声を出しながら考えるという行き方」であったと評している。

カナダから帰るとすぐケンブリッジへ辞表を出した。在職五年間に出した論文の数は六十余あった。「あの調子で永くはとても続けられなかった」というのが後年の述懐であった。

郷里ターリングに引上げてから、自分の研究室の準備にかかった。厩うまやの二階の物置を二つに仕切って一方を暗室とし、壁と天井を、煤すすとビールの混合物で塗った。この室の両窓にヘリオスタートを取付け、ここへ分光器その他の光学器械を据え付けた。片方の仕切りにはテプラーポンプや附属のマノメーターなどを置いた。後にアルゴンの発見されたのはこの室であった。感応コイルの第一次電路をピストルで切る実験もここで行われた。この室と煉瓦壁を隔てた一室が寝室であって、この隔壁に穴をあけて音響学実験の際に便利なようにした。実験室の階下が工場で、その隣室の「学校部屋」に棚を吊って薬品をならべた。ここで、液体運動の実験が行われ、また写真現像も出来た。彼の書斎は無頓着にいつでも取り散らされ、大きな机の上は本や論文でおおかた埋められてほんのわずかの面積だけが使われていた。机の片隅には彼が元服祝に貰った鳶色とびいろの革函かわばこが載っており、これに銭と大事な書類がしまってあった。右手の書架には学生中のノートブックがあり、ストークスの講義の筆記もその中にあった。自著『音響学』が一部、これは紙片にかいたノートがいっぱい這入はいっていた。彼が何かたいそう熱心に読んでいると思ったら大抵自分の書いたものだと云って家族達はよく笑った。室の照明は私設ガスタンクのガスによって、倹約と保守的な気分と面倒がりとのために電燈設備をしないでしまった。

雑誌類は人に貸さなかった。ケルヴィンが Phil. Mag. を借りようとしたときも許さなかった。古い包紙やボール函や封筒なども棄てずに取っておいて使った。

地下室の物置部屋へ行く隧道トンネルが著しい反響を示すことは彼の『音響学』に書いてある。この隧道の一端で、水面による干渉縞かんしょうじまの実験や、マイケルソン干渉計の実験が行われた。

ターリングでやろうと計画していた研究の一つは、主要なガス元素の比重を精密に測定してブラウト方則を験しようというのであった。これは何でもないようでなかなかの大仕事であった。レーリーの手一つでは間に合わないので、ケンブリッジの助手前記のゴルドンを呼び寄せた。彼は家族を挙げてターリングの邸内に移り、死ぬまでここでレーリーの片腕となって働いた。村人は時々「旦那様の遊戯部屋」の「実験室」についてゴルドンに質問し“That ain't much good, is it?”などと云った。

ガス比重測定は、一八四五年レニョー(Regnault)の発表したもの以来誰もやらなかった。レーリーはレニョーの実験における浮力の補正に誤りのあることに気付いたので、もう一度詳しくやり直す必要を感じたのである。

地下室の中に作った天秤室てんびんしつの空気を乾かすのに、毛布を使ったりしたところにレーリーの面目が現われている。二つのガラス球の容積の差を補正するために添えたU字管に、眼に見えぬくらいの亀裂があったのを気付かないでいたために不可解な故障が起って、ほとんど絶望しかけたとき、珍しい低気圧がやって来て、その時の異常な結果からやっとこの故障の原因が分ったというような挿話もあった。

酸素対水素の比重に関する最初の論文を出したのは一八八八年で、つまりこの仕事をはじめてから三年の後である。その後のは一八八九年と一八九二年に出た。結果の比は一五・八八二であった。水素の純度について苦心していたとき、デュワー(Dewar)はスペクトル分析をすすめた。それに関するレーリーの手紙に「スペクトロスコピーの泥沼に踏込むことになっても困るが」と書いてある。

この頃『大英百科全書』の第九版の編輯へんしゅうが進行していた。これにレーリーの「光学」と「光の波動論」が出ることになった。彼の原稿があまり専門的であった上に予定の頁数を超過するので編輯者の方から苦情が出た。そのために一部を割愛して後に“Aberration”と題して『ネーチュアー』誌に掲載した。後日彼は、あるアメリカの農夫が『百科全書』を買ってAからZまで通読しているという噂をして「私の波動論をどう片付けるか見ものだ」と云った。

一八八四年にレーリーは王立協会の評議員をつとめたことがあった。その後当時の幹事ストークスが会長になることになったので後任幹事の席があき、それにレーリーが推挙された。色々の雑務をなるべく他の人にやらせるからという条件で彼を説き伏せた。主な仕事は論文の審査であった。彼は四十年前の審査員に握り潰されていた論文反古ほごの中から J. J. Waterston という男の仕事を掘出し、それがガス論に関すジュール、クラウジウス、マクスウェルの仕事の先駆をなしていることを発見して、これを出版し、同時に隠れたこの著者の行衛ゆくえを詮索したりした。この奇人は数年前行衛不明になっていた。

協会の集会に列席する以外は大抵ターリングに居て書信で用を足した。そうして一八九六年まで十一年間この職をつとめた。協会幹事として彼はウィラード・ギブスの酬われざる貢献を認めこれを表彰したいと望んだが、化学方面の評議員が「あれは化学じゃない」と云って承知せず、ケルヴィン卿までも反対した。レーリーはこう云ってこぼした。「ケルヴィンは、自分の考えがいろいろあるからだろうが、それならそれで、ちゃんとそれを発表すべきだと思う。」しかしずっと後になって最高の栄誉と考えられるコプリー賞牌しょうはいが授与されることになったのである。それ以前にギブスがレーリーに送った手紙に「自分でもこの論文は長過ぎるのが難だと思う。しかしこれを書いたときは、自分のためにも読者のためにも、時間の価値など考えなかった」とある。

王立協会幹事在職中に色盲検査法に関する調査委員会の委員長をつとめた。一方ではこの期間に彼は政治界の嵐に捲込まれ、郷里で演説をしたり、弟の立候補の声援運動を助けたりした。義兄弟のバルフォーア、当時のアイルランド政務総監がターリングへ遊びに来た時は護衛の警官が十二人もついて来たりした。スコットランドへ旅行して鳶色とびいろをした泥炭地の河水の泡に興味を感じて色々実験をしたのもこの時代のことであった。

家産の管理を引受けた弟のエドワードは始めは月給を貰っていたが、後には利益配当の方法によった。小麦が安くなったので、乳牛を飼い始め、一八八五年に十二頭だったのが一九一九年レーリーの死んだ年には八〇〇頭の牝牛と六十人の搾乳夫が居た。ロンドン中に八箇所の牛乳配達店をもっていた。王立美術協会の絵画展覧会に彼の肖像が出品された時に、観客の一人が「三四二号、ロード・レーリー、アー、あの牛乳屋か」と云っているのを聞いた友人があった。ある時は営業上の事で警察へ呼ばれたが、出頭しなかったので五ポンドの罰金を取られた。

酸素と水素の比重を定めた次の仕事は当然窒素の比重を定めることであった。その結果がアルゴンの発見となったのは周知の事実である。空気から酸素と水素を除いて得たものと、 Vernon-Harcourt 法で得たものとのわずかな差違を見逃さなかったのが始まりである。彼はその結果を『ネーチュアー』誌に載せて化学者の批評と示教を乞うた。そうしてあらゆる方法で、あらゆる可能性を考慮して、周到な測定を繰返した後に、結局空気から得たあらゆる窒素と化学的に得られるあらゆる窒素とが、それぞれ一定のしかも異なる比重をもつという結果に到着した。その間に彼は、昔キャヴェンディッシが自分と同じ道をあるいていたことを知って驚いたりした。ラムゼーが同時に同じ目的の研究を進めていることが分ったが、喧嘩にはならないで、二人は手を携えて稀有ガス発見の途を進んで行った。「空気中の新元素アルゴン」と題する論文が王立協会で発表されたのは一八九五年の正月であった。これと一緒にこのガスの性質に関するオルツェウスキーとクルックスの論文も出た。同時に、この新元素に対する疑惑の眼も四方から光っていたために色々な不愉快も経験しなければならなかった。後年彼は「この仕事で得たものは愉快よりもむしろ苦痛の方が多かった」とつぶやいていた。しかし模範的に周到な注意によって築き上げた結果は、時の試練に堪えて、あらゆる懐疑者は泣寝入りとなった。アルゴンに次いで他の稀有ガスが発見された。今日我帝都の夜を飾るネオンサインを見る時に、吾々はレーリー卿の昔の辛苦を偲ぶ義務を感ずるであろう。

一八九四―九六年に『音響学』の第二版が出た。これに増補された交流に関する章の一節は、十年ほど前に大英学術協会に提出したものであるが、その時どうした訳か出した論文原稿に著者の名が抜けていた。審査委員はつまらぬ人の寄稿だと思って危うくこの論文を落第させようとした。しかし著者の名が判ってから、早速及第ということになったのである。

一八九五年に彼は再び心霊現象の実験に携わったが、やはり失望する外はなかった。この年の八月には Dieppe で疲労を休めた。その時母への手紙に“I suppose however that one's brain has a chance of recruiting itself.”と書いた。

一八九七年に王立研究所(Royal Institution)の自然科学教授になった。先任者ティンダルが病気でやめたその後を継いだのである。主な仕事は毎年復活祭の前の土曜の午後六回の講演をするのと、その外に一回金曜の晩専門的な研究結果の講演をするだけであった。講義には色々の実験をやって見せるのでその助手には例のゴルドンが任命された。ここの設備は極めて貧弱で、例えば標準抵抗一つさえなかった。午後の通俗講演の聴衆三百人ほどの中には専門家も居れば素人も居た。彼は一枚の紙片に書いた覚え書によって講演し、実験をやって見せる時にはちょっと手品師のような所作をして聴衆を喜ばせたりした。一八九九年このインスティテューションの創立百年記念式にはトーマス・ヤングの業績について講演した。レーリーが深くヤングに私淑していたであろうということは、二人の仕事の一体のやり口を比較すれば自ずから首肯されるであろう。レーリーの持っていたヤングの『自然科学講義』(一八〇七)は鉛筆でつけたしるしがいっぱいである。一九〇五年にこの椅子を去ったが、その後にも一九一〇年と一九一四年に金曜の講演をつとめた。

ターリングにおける日常生活を紹介する。朝九時家族が集まって祈祷、寝坊して出ないものは睨にらまれた。それから朝飯まで書斎で書信の開封。朝飯中は手紙を読むか、さもなくば大抵黙っていたが、子供等には冗談を云ったり一緒に騒いだりした。朝飯後書斎で手紙の返事、十時に助手のゴルドン出勤、その日の仕事の打合せ、午前中は大抵読書か書きもの、Phil. Mag. か Ann. d. Ph. が来ると安楽椅子で約半時間それに目を通してから書棚へ入れる。書卓で実験の結果の計算、数式の計算または論文原稿執筆、途中で時々安楽椅子へ行って参考書を読んだり紙片へ鉛筆で何か書きながら黙想したり、天気のいい日は温室や庭を行ったり来たりして、午前中一、二度実験室をのぞいて何かと指図をする、昼飯前三十分くらい子供や孫に数学の教授、詰込主義でなくて子供等を自然に導くというやり方であった。昼飯時に午後のプランをきめた。例えば夫人と馬車でドライヴする相談、何時にどこへ行くというような事でも必ず先ず相手に意見を出させ、あとから自分の説を出すのが彼の流儀であった。食後新聞を一通り読む。新聞を熟読するのが彼の生涯の楽しみの一つであった。昼飯後コーヒーを出す習慣が始まった頃、どうもだんだん世の中が贅沢になって困ると云い云いコップを手にした。午後の散歩には農園を見巡る事もあった。豚とその習性に興味があった。夏は散歩の代りにローンテニスもやった。かなりうまかったが、五十歳後は止めてしまった。実験室で一、二時間仕事をしてからお茶になる。一杯の茶が有効な刺戟剤であった。仕事の難点が一杯の茶をのんでしまうとするすると解決するということも珍しくなかった。お茶の後、ことに冬季はよく子供達と遊んだ。ポンチの漫画を見せたり、また Engineering 誌の器械の図を見せたり、また「ロンドンを見せてやる」と称して子供に股覗またのぞきをさせ、股の間から出した腕をつかまえて、ひっくら返す遊戯をした。しかし子供の不従順に対しては厳格であった。「子供を打擲ちょうちゃくするのはいやなものだ、あと一日気持が悪い」と云った。六時に実験室へ行って八時まで仕事。着物を更かえて晩餐、食後新聞、雑誌、小説など。トランプもやった。若いうち就寝前の一時間を実験室か書卓で費やしたが、晩年はやめた。そうして、十一時から十二時頃までは安楽椅子でうたた寝をしてから寝室へ行くという不思議な癖があった。

煙草は生涯吸わず、匂いも嫌いであった。音楽は好きであったが深入りはしなかった。政治上の談論に興味があった。

ターリングの家の来訪者名簿には、内外の一流の学者の名前の外に英国一流政治家の名前も見える。

一八九二年にはソリスベリー卿の懇請でエセックス州の名誉知事(Lord Lieutenant)を引受けさせられた。一九〇一年ボーア戦争後、軍隊組織に関する新しい職責が加わったので辞職した。その時の辞表が一枚の紙片に鉛筆で書いたものであったので当局者は苦い顔をしたそうである。彼はその頃色鉛筆を愛用していた。

一八九五年にはトリニティ・ハウス(海事協会)の学術顧問に聘へいせられた。かつてはファラデー、ティンダルの務めた職である。一八九七―一九一三年の間、しばしば所属のヨット、イレネ号に、国王や王子その他のいわゆる Elder Brethren と一緒に乗込んで燈台の検分をしたり、燈光や霧報(fog-signals)の試験をした。これには色や音に関する彼の知識が役に立ったのである。

国民科学研究所(National Physical Laboratory)の設立が問題となって調査委員会が出来たときにレーリーが議長に選ばれ、いよいよ設立となったときには副委員長となった。研究所長にグレーズブルックが推挙されたのは、レーリーの考えから出たに相違ない。この創立に際して中心人物となるにはレーリーは最も適任であった。科学者の側からも信頼されると同時に政府側の有力者、また貴族の間に信用が厚かったからである。

一九〇三年に「肝油事件」というのが起った。それは所長が知人から頼まれて肝油の分析をしてやった、その分析表が訴訟事件の証拠物件となり、分析業者や化学者の団体から抗議が出てだいぶ面倒な問題になったのである。これが動機となって研究所の存在理由に関する質問が議会に出たりしたが、これに対する答弁には同所で出版された論文集二巻が役に立った。その後もこの研究所の財政問題などで心を煩わすことが多かったようである。純粋な自由研究と政府の要求に応ずるような功利的研究との融和塩梅あんばいも最も痛切な困難であったらしい。一九一九年彼の死ぬる少し前に辞表を出し、間もなくグレーズブルックも停年で退職した。

一八九七年頃レーリーは自分の仕事が少しだれ気味になるのを自覚した。それで気を変えるために休暇の必要を感じた。一八九八年の初めにインドのプーナー(Poonah)で皆既日蝕かいきにっしょくが見られるというので思い立って十月末にコロンボ行の船に乗って出掛けた。インドでは到るところで歓迎されたが、それは貴族としてであって、彼を迎えた人達は彼の科学上の仕事などは全く知らないように見えた。彼はインド魔術を面白がり、夫人がいろいろの、彼から見ると無駄な買物をするのを気にしたりした。

一九〇〇年軍務局で爆発物調査委員会が設置されたとき、レーリーが委員長に選ばれた。彼の好みにはあまり合わないこの仕事を、彼は愛国的感情から引受けたと云われている。無煙火薬の形を管状にする方が有利であるということを論じた論文が全集の第五巻に出ているのはこういう機縁に因るのである。

一九〇一年には Chief Gas Examiner(ガス受給に関する監督局の長官)に任命され、ガス法規修正案の調査会の議長となり、また訴訟問題の判定に参与したりした。この職には死ぬまで停とどまっていたのである。

一九〇一年にロンドンのチューブ地下鉄道が開設されたが、このために家が振動して困るという苦情が出たので、政府はそのために調査委員を設け、レーリーが委員長になった。色々実験の結果モーターの取付けに適当な弾条ばねをつけただけで、この問題は容易に解決された。

青年時代に手をつけた「空の青色」に関する問題が、二十六年後の一八九九年に現われた論文で取扱われている。空気分子自身による光の分散によって青色が説明され、それから分子数が算定される事を示した。

永い間レーリーの手足となって働いて来たジョージ・ゴルドンが一九〇四年の暮に病死した。それから一年ほどは助手なしであったが、子息すなわち現在のレーリー卿が休暇で帰っているときは父を助けてガラス吹きや金工をやっていた。一九〇五年に新しい助手 J. C. Enock を得たが、この人は一九〇八年にターリングを去った。

一八七六年頃から音の方向知覚の問題に興味を感じていたが、一九〇六年に到って、両耳に来る波の位相の差がこの知覚に重要な因子であることをたしかめた。

一八九九年に彼の全集の第一巻が出た。この巻頭に聖歌の一節“The works of the Lord are great, ……”を刷るつもりであったが、出版所の秘書が云いにくそうに「これでは、ひょっとすると、Lord すなわち貴方あなただと読者が思うかもしれませんが」と注意した。なるほどというのでこの句は別の句に移した。

全集の終りの第六巻は彼の死んだ翌年に出た。論文の総数四六六である。彼の論文のスタイルはコンサイスで一種独特の風貌がある。数学的論文と純実験的論文とが併立しているのも目に立つ。彼はまた論文の終りに短い摘要を添えるのが嫌いであった。理由は、摘要だけ見たのでは実験の内容にはないものまでも責を負わされる虞おそれがあるというのであった。

彼は自分でもしばしば言明したように、全く自分の楽しみのために学問をし研究をした。興味の向くままに六かしい数学的理論もやれば、甲虫の色を調べたり、コーヒー茶碗をガラス板の上に滑らせたりした。彼にはいわゆる専門はなかった。しかし何でも、手を着ければ端的に問題の要点に肉迫した。

彼自身は楽しみにやっていても、学界はその効績を認めない訳には行かなかった。一九〇二年エドワード王が Order of Merit を設けた時に最初に選ばれた十二人の中にレーリーの名も入っていた。ケルヴィンやキチナー将軍や画家のワッツなども顔を並べていた。また一九〇四年にはノーベル賞を受けた。一九〇五年には王立協会の会長に選ばれたが、五年の期限が満たない三年後に辞任した。その理由は、長い海外旅行をしたいというのと、少し耳が遠くて困るというのと、外国語がよくしゃべれないので外国人との交渉に不便だというのであった。一九〇八年ケンブリッジで名誉総長デヴォンシャヤー公が死んで、その椅子がレーリーに廻って来た。就任式の仰々しい行列は彼にいささか滑稽に思われたようであった。見物人の群衆の中に交じった自分の息子を発見した時、眼をパチパチとさせて眼くばせをした。そういう心持を眼で伝えたのである。この時の記念としてレーリー賞の資金が集められた。彼はまた大学財政の窮乏を救うためにカーネギーを説いたり、タイムス紙を通して世間に訴えたりした。一九〇九年のダーウィン百年祭はレーリー総長の司会で行われたが、その時の彼の追懐演説に現われたダーウィンの風貌は興味が深いものであった。また一九一一年に出た版権法修正案が大学の権利を脅かすものであったので、総長レーリーは上院で反対演説をした。

レーリーは前から南洋の島々を見たいという希望をもっていた。一九〇八―九年の冬の間に南アフリカへ遊びに来ないかという招待を、時の南アの長官セルボーン卿から受けたので、そのついでに南洋へも廻る気で出かけた。しかしケープからシドニーへの荒い旅路は遂に彼の南洋行を思い止まらせた。アフリカでキンバーレー、ヴィクトリア滝を見てプレトリアへの途上赤痢に罹り、その報知はロンドンを驚かせた。それからナタル、ザンジバールをも見舞った。アフリカ沿岸航海中に深海の水色について色々の観察をした。その結果を一九一〇年に発表したが、彼の説は後にラマン等の研究によって訂正された。この旅行の帰途ナポリでカプリの琅玕洞ろうかんどうをも見物したのであった。

南ア旅行から帰ったときは、病後のせいもあったが、あまり元気がなかった。もう仕事をする気力がなくなったのではないかという気がした。それでも帰るとから水の色に関する実験をぽつぽつ始めた。この頃から以後は全く実験助手なしであったから仕事は思わしく進まなかった。従って自然に数学的な方面の仕事に傾いて行った。彼は六十七歳になったが研究の興味も頭脳の鋭さも、少しも衰えなかった。ただ全く新しい馴れぬ方面の仕事に立入る気はなくなっていた。ある時彼の長子が「科学者も六十過ぎると、役に立たないばかりか、むしろ害毒を流す」と云ったハクスレーの言葉を引いて、どう思うかと聞いたら、「それは、年寄って若い人の仕事を批評したりするといけない事になるかもしれないが、自分の熟達した仕事を追究して行くなら別に悪い事はあるまい」と答えた。

一九一二年の暮にレーリーの末男が死んで、幸福な彼の晩年にも一抹の黒い影がさした。一九一三年の春は肋膜ろくまくを病んだ。そのとき「もう五年生きていたいのだが」と云った。一九一四年ルムフォード賞牌を受けたときに、人への手紙に「私の光学上の仕事が認められたのは嬉しい。あれは外の仕事よりも一層道楽半分にやったのだが」と書いている。

大戦中ターリングは軍隊の駐屯所となった。ある時はツェペリンの焼け落ちるのが見えたり、西部戦線の砲声が聞こえたりした。音響学における彼の深い知識は戦争の役に立った。飛行機や潜航艇の所在を探知する方法について絶えず軍務当局から相談を受け、また一方では国民科学研究所と航空研究顧問委員会の軍事的活動の舞台でも主役を勤めていたので、その頃の彼の書斎は机の上も床の上もタイプライターでたたいた報告書類などで埋まっていた。

レーリーの航空趣味は久しいものであった。子供の時分に燈火をつけた紙鳶たこを夜の空に上げて田舎の村人を驚かし、一八九七年には箱形の紙鳶を上げ、糸を樹につないだまま一晩揚げ切りにしておいたこともあった。一八八三年には鳥の飛翔について、『ネーチュアー』誌に通信を寄せた。これがリリエンタールの滑翔の研究を刺戟したことは本人からレーリーに寄せた手紙で分る。ライト兄弟もまたレーリーの影響を受けたらしい形跡がある。一九〇〇年マンチェスターでの講演では飛行機の原理を論じ、ヘリコプテルや垂直スクリューにも論及した。それで航空研究顧問委員会が組織されたときに彼が委員長になったのも偶然ではない。航空研究に関して彼の極めて重要な貢献は「力学的相似の原理」(Principle of dynamical similarity)の運用であった。これがなくてはすべての模型実験は役に立たないのである。短い論文ただ二つではあったが、これがこの方面の研究の基礎となった。

レーリーが公衆の面前に現われた最後は心霊学界の会長就任演説(一九一九)をした時であった。この演説も全集に収められている。

一九一七―一八年の冬頃からどうも脚が冷えて困ると云ってこぼしていた。一九一八年の夏は黄疸おうだんで二箇月寝込んだ。彼は自分の最後の日のあまり遠くないのを悟ったらしかった。それでもやはり仕事を続け、一九一八年には五篇、一九一九年には七篇の論文を出した。

一九一八年の暮バキンガム宮で大統領ウィルソンのために開かれた晩餐会に列席した。明けて一九一九年正月の国民科学研究所の集会に出た時に所長の重職を辞したいと申出たが、一同の強い勧誘で一先ず思い止まった。その時のついでに彼はインペリアルカレッジの実験室に長子をおとずれた。丁度その時子息が実験していた水銀燈を見たときに、彼は、干渉縞の写真を撮って、それで光学格子を作るという、自分で昔考えた考察を思い出した。しかしターリングの設備では実行が出来ないのであった。それで、次にロンドンへ来た折に二人で一緒にやってはどうかという子息の申出を喜んだように見えた。それから帰宿の途中、地下鉄の昇降器の中で卒倒したが、その時はすぐに回復した。

一九一九年五月十八日の日曜、例の通り教会へ行ったが気分が悪いと云って中途で帰宅し、午後中ソファで寝ていた。翌朝は臥床を離れる元気がなかった。五月二十七日と二十八日とは好天気であったので、戸外の美しい日光の下でお茶に呼ばれるために、二階からやっと下りて来た。六月一日長子が週末で帰省したときに、自分はもう永くはないが、ただ一つ二つ仕上げておきたいことがあると云った。六月二十五日には「移動低気圧」に関する論文の最後の一節を夫人に口授して筆記させ、出来上がった原稿を Phil. Mag. に送らせた。六月三十日には少し気分がよさそうに見えた。晩餐後ミス・オーステンの小説『エンマ』を読んでいた。しかし従僕が膳部を下げにはいって見ると、急に心臓麻痺を起していたので、急いで夫人を呼んで来た。それから間もなくもうすべてが終ってしまった。

葬式はターリングで行われた。キングは名代を遣わして参列させ、その他ケンブリッジ大学や王立協会の主要な人々も会葬し、荘園の労働者は寺の門前に整列した。墓はターリング・プレースの花園に隣った寺の墓地の静かな片隅にある。赤い砂岩の小さな墓標には“For now we see in a glass darkly, but then face to face.”と刻してある。その後ウェストミンスター・アベーに記念の標石を納めようという提議が大学総長や王立協会会長などの間に持出され、その資金が募集された。標石の上の方には横顔を刻したメダリオンが付いている。レーリーの私淑したと思わるるトーマス・ヤングの記念標と丁度対称的に向き合っている。除幕式は一九二一年十一月三十日、ジェー・ジェー・タムソンの司会の下に行われた。その時のタムソンの演説はさすがにレーリー一代の仕事に対する簡潔な摘要とも見られるものである。その演説の要旨の中から、少しばかり抄録してみる。

「レーリーの全集に収められた四四六篇の論文のどれを見ても、一つとしてつまらないと思うものはない。科学者の全集のうちには、時のたつうちには単に墓石のようなものになってしまうのもあるが、レーリーのはおそらく永く将来までも絶えず参考されるであろう。」

「レーリーの仕事はほとんど物理学全般にわたっていて、何が専門であったかと聞かれると返答に困る。また理論家か実験家かと聞かれれば、そのおのおのであり、またすべてであったと答える外はない。」

「彼の論文を読むと、研究の結果の美しさに打たれるばかりでなく、明晰な洞察力で問題の新しい方面へ切り込んで行く手際の鮮やかさに心を引かれる。また書き方が如何にも整然としていて、粗雑な点が少しもない。」「優れた科学者のうちに、一つの問題に対する『最初の言葉』を云う人と、『最後の言葉』を述べる人とあったとしたら、レーリーは多分後者に属したかもしれない。」

しかし彼はまたかなり多く「最初の言葉」も云っているように思われる。

(附記) 以上はほとんどすべて Robert John Strutt すなわち現在のレーリー卿の著書“John william Strutt, Third Baron Rayleigh”から抄録したものである。ここでは彼の科学的な仕事よりはむしろこの特色ある学者の面目と生活とを紹介する方に重きをおいた。近頃の流行語で云えば彼は代表的のブールジョア理学者であったかもしれない。しかし彼の業績は世界人類の共有財産に莫大な寄与を残した。彼はまた見方によれば一種のディレッタントであったようにも見える。しかし如何なるアカデミックな大家にも劣らぬ古典的な仕事をした。彼は「英国の田舎貴族」と「物理学」との配偶によってのみ生み出され得べき特産物であった。吾々は彼の生涯の記録と彼の全集とを左右に置いて較べて見るときに、始めて彼の真面目しんめんもくが明らかになると同時に、また彼のすべての仕事の必然性が会得されるような気がする。科学の成果は箇々の科学者の個性を超越する。しかし一人の科学者の仕事が如何にその人の人格と環境とを鮮明に反映するかを示す好適例の一つを吾々はこのレーリー卿に見るのである。

冒頭に掲げた写真(省略)は一九〇一年五十九歳のときのである。マクスウェルとケルヴィンとレーリーとこの三人の写真を比べて見ると面白い。マクスウェルのには理智が輝いており、ケルヴィンのには強い意志が睨にらんでおり、レーリーのには温情と軽いユーモアーが見えるような気がする。これは自分だけの感じかもしれない。

(昭和五年十二月、岩波講座『物理学及び化学』)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「岩波講座 物理学及び化学」岩波書店
1930(昭和5)年12月30日
※誤植を疑った箇所を、「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店、1961(昭和36)年2月7日第1刷発行の表記にそって、あらためました。
※〔〕内の編集者による注記は省略しました。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2014年6月9日修正
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リリース / Release
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TEI
/works/043083_000042/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/043083_000042/

寺田 寅彦「レーリー卿(Lord Rayleigh)」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦全集 第六巻』岩波書店、1997年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043083_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite