Soranoha

一つの約束

ひとつのやくそく

太宰 治

難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、必死にしがみついた所は、燈台の窓縁である。やれ、嬉しや、たすけを求めて叫ぼうとして、窓の内を見ると、今しも燈台守の夫婦とその幼き女児とが、つつましくも仕合せな夕食の最中である。ああ、いけねえ、と思った。おれの凄惨な一声で、この団欒だんらんが滅茶々々になるのだ、と思ったら喉のどまで出かかった「助けて!」の声がほんの一瞬戸惑った。ほんの一瞬である。たちまち、ざぶりと大波が押し寄せ、その内気な遭難者のからだを一呑みにして、沖遠く拉らっし去った。

もはや、たすかる道理は無い。

この遭難者の美しい行為を、一体、誰が見ていたのだろう。誰も見てやしない。燈台守は何も知らずに一家団欒の食事を続けていたに違いないし、遭難者は怒濤にもまれて(或いは吹雪の夜であったかも知れぬ)ひとりで死んでいったのだ。月も星も、それを見ていなかった。しかも、その美しい行為は厳然たる事実として、語られている。

言いかえれば、これは作者の一夜の幻想に端を発しているのである。

けれども、その美談は決して嘘ではない。たしかに、そのような事実が、この世に在ったのである。

ここに作者の幻想の不思議が存在する。事実は、小説よりも奇なり、と言う。しかし誰も見ていない事実だって世の中には、あるのだ。そうして、そのような事実にこそ、高貴な宝玉が光っている場合が多いのだ、それをこそ書きたいというのが、作者の生甲斐になっている。

第一線に於いて、戦って居られる諸君。意を安んじ給え。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行い、今後もまた、変る事なく、その伝統を継承する。

底本 / Source edition

底本:「道化の精神」大和出版
1969(昭和44)年2月28日初版発行
1992(平成4)年6月30日新装1刷発行
初出:青森県某誌
1944(昭和19)年頃
入力:青空文庫
校正:土屋隆
2005年1月15日作成
2011年1月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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太宰 治「一つの約束」(新字新仮名)、底本『道化の精神』大和出版、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043069_000035, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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