## 一

<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>春の日暮です。

<ruby><rb>唐</rb><rt>とう</rt></ruby>の都<ruby><rb>洛陽</rb><rt>らくよう</rt></ruby>の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。

若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>い尽して、その日の暮しにも困る位、<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>な身分になっているのです。

何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、<ruby><rb>繁昌</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>の帽子や、<ruby><rb>土耳古</rb><rt>トルコ</rt></ruby>の女の金の<ruby><rb>耳環</rb><rt>みみわ</rt></ruby>や、<ruby><rb>白馬</rb><rt>しろうま</rt></ruby>に飾った色糸の<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>が、絶えず流れて行く<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>は、まるで画のような美しさです。

しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せて、ぼんやり空ばかり<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていました。空には、もう細い月が、うらうらと<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いた<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の中に、まるで爪の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。

「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない」

杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。

するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、

「お前は何を考えているのだ」と、横柄に声をかけました。

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」

老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。

「そうか。それは可哀そうだな」

老人は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、

「ではおれが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの<ruby><rb>黄金</rb><rt>おうごん</rt></ruby>が<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まっている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だから」

「ほんとうですか」

杜子春は驚いて、伏せていた眼を<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げました。ところが更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりも<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>が二三匹ひらひら舞っていました。

## 二

杜子春は一日の内に、洛陽の都でも<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

大金持になった杜子春は、すぐに立派な<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を買って、<ruby><rb>玄宗</rb><rt>げんそう</rt></ruby>皇帝にも負けない位、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な暮しをし始めました。<ruby><rb>蘭陵</rb><rt>らんりょう</rt></ruby>の酒を買わせるやら、<ruby><rb>桂州</rb><rt>けいしゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>竜眼肉</rb><rt>りゅうがんにく</rt></ruby>をとりよせるやら、日に<ruby><rb>四度</rb><rt>よたび</rt></ruby>色の変る<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>を庭に植えさせるやら、<ruby><rb>白孔雀</rb><rt>しろくじゃく</rt></ruby>を何羽も放し飼いにするやら、玉を集めるやら、<ruby><rb>錦</rb><rt>にしき</rt></ruby>を縫わせるやら、<ruby><rb>香木</rb><rt>こうぼく</rt></ruby>の車を造らせるやら、<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>の椅子を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。

するとこういう<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を聞いて、今までは<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>で行き合っても、<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に数が増して、半年ばかり<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>なことは、<ruby><rb>中々</rb><rt>なかなか</rt></ruby>口には尽されません。<ruby><rb>極</rb><rt>ごく</rt></ruby>かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に西洋から来た<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んで、<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんじく</rt></ruby>生れの魔法使が刀を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は<ruby><rb>翡翠</rb><rt>ひすい</rt></ruby>の<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の花を、十人は<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>面白く奏しているという景色なのです。

しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさえ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

そこで彼は或日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人が、どこからか姿を現して、

「お前は何を考えているのだ」と、声をかけるではありませんか。

杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、暫くは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、

「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」と、恐る恐る返事をしました。

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いことを一つ教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だから」

老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き消すように隠れてしまいました。

杜子春はその翌日から、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使――すべてが昔の通りなのです。

ですから車に一ぱいにあった、あの<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい黄金も、又三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。

## 三

「お前は何を考えているのだ」

片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人は、三<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby><ruby><rb>杜子春</rb><rt>とししゅん</rt></ruby>の前へ来て、同じことを問いかけました。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいたのです。

「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです」

「そうか。それは可哀そうだな。ではおれが好いことを教えてやろう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るが好い。きっと車に一ぱいの――」

老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>りました。

「いや、お金はもういらないのです」

「金はもういらない？　ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」

老人は<ruby><rb>審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。

「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>がつきたのです」

杜子春は不平そうな顔をしながら、<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つっけんどん</rt></ruby>にこう言いました。

「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ？」

「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も<ruby><rb>追従</rb><rt>ついしょう</rt></ruby>もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」

老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」

杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、

「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>になって、<ruby><rb>仙術</rb><rt>せんじゅつ</rt></ruby>の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、<ruby><rb>一夜</rb><rt>ひとよ</rt></ruby>の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」

老人は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめたまま、暫くは黙って、何事か考えているようでしたが、やがて又にっこり笑いながら、

「いかにもおれは<ruby><rb>峨眉山</rb><rt>がびさん</rt></ruby>に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいる、<ruby><rb>鉄冠子</rb><rt>てっかんし</rt></ruby>という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、それ程仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう」と、快く<ruby><rb>願</rb><rt>ねがい</rt></ruby>を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れてくれました。

杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に<ruby><rb>御時宜</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をしました。

「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。おお、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>、ここに<ruby><rb>竹杖</rb><rt>たけづえ</rt></ruby>が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」

鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>咒文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、<ruby><rb>勢</rb><rt>いきおい</rt></ruby>よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。

杜子春は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が<ruby><rb>夕明</rb><rt>ゆうあか</rt></ruby>りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、（とうに霞に紛れたのでしょう）どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を風に吹かせて、高らかに歌を<ruby><rb>唱</rb><rt>うた</rt></ruby>い出しました。

<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に北海に遊び、<ruby><rb>暮</rb><rt>くれ</rt></ruby>には<ruby><rb>蒼梧</rb><rt>そうご</rt></ruby>。

<ruby><rb>袖裏</rb><rt>しゅうり</rt></ruby>の<ruby><rb>青蛇</rb><rt>せいだ</rt></ruby>、<ruby><rb>胆気粗</rb><rt>たんきそ</rt></ruby>なり。

三たび岳陽に入れども、人<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず。

朗吟して、<ruby><rb>飛過</rb><rt>ひか</rt></ruby>す<ruby><rb>洞庭湖</rb><rt>どうていこ</rt></ruby>。

## 四

二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りました。

そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、<ruby><rb>中空</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>に垂れた北斗の星が、<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>程の大きさに光っていました。元より<ruby><rb>人跡</rb><rt>じんせき</rt></ruby>の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の絶壁に<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。

二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、

「おれはこれから天上へ行って、<ruby><rb>西王母</rb><rt>せいおうぼ</rt></ruby>に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。多分おれがいなくなると、いろいろな<ruby><rb>魔性</rb><rt>ましょう</rt></ruby>が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>でも口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。

「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」

「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」

老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。

杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に星を眺めていました。するとかれこれ<ruby><rb>半時</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>り出した頃、突然空中に声があって、

「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。

しかし杜子春は仙人の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>通り、何とも返事をしずにいました。

ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>しつけるのです。

杜子春は勿論黙っていました。

と、どこから登って来たか、<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>と眼を光らせた<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>が一匹、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と岩の上に<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り上って、杜子春の姿を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みながら、一声高く<ruby><rb>哮</rb><rt>たけ</rt></ruby>りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくざわざわ揺れたと思うと、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の絶壁の頂からは、<ruby><rb>四斗樽</rb><rt>しとだる</rt></ruby>程の<ruby><rb>白蛇</rb><rt>はくだ</rt></ruby>が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。

杜子春はしかし平然と、<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>も動かさずに坐っていました。

虎と蛇とは、一つ<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>って、互に<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>でも<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うのか、暫くは睨合いの<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>まれるか、蛇の舌に<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まれるか、杜子春の命は<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。

すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じく<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに<ruby><rb>瀑</rb><rt>たき</rt></ruby>のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に、恐れ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>いたと思うと、空に<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に違いありません。杜子春は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く安心して、額の<ruby><rb>冷汗</rb><rt>ひやあせ</rt></ruby>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いながら、又岩の上に坐り直しました。

が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>を<ruby><rb>着下</rb><rt>きくだ</rt></ruby>した、身の<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>三丈もあろうという、<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かな神将が現れました。神将は手に<ruby><rb>三叉</rb><rt>みつまた</rt></ruby>の<ruby><rb>戟</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を持っていましたが、いきなりその戟の<ruby><rb>切先</rb><rt>きっさき</rt></ruby>を杜子春の<ruby><rb>胸</rb><rt>むな</rt></ruby>もとへ向けながら、眼を<ruby><rb>嗔</rb><rt>いか</rt></ruby>らせて叱りつけるのを聞けば、

「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>の昔から、おれが<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>をしている所だぞ。それも<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。

しかし杜子春は老人の言葉通り、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでいました。

「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>たちが、その方をずたずたに<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>ってしまうぞ」

神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に<ruby><rb>充満</rb><rt>みちみ</rt></ruby>ちて、それが皆<ruby><rb>槍</rb><rt>やり</rt></ruby>や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。

この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったの怒らないのではありません。

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」

神将はこう<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くが早いか、三叉の戟を<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。

北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けにそこへ倒れていました。

## 五

杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。

この世と地獄との間には、<ruby><rb>闇穴道</rb><rt>あんけつどう</rt></ruby>という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて<ruby><rb>森羅殿</rb><rt>しんらでん</rt></ruby>という<ruby><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>の<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>った立派な御殿の前へ出ました。

御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な<ruby><rb>袍</rb><rt>きもの</rt></ruby>に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に聞いた、<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>いていました。

「こら、その方は何の<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に、峨眉山の上へ坐っていた？」

閻魔大王の声は<ruby><rb>雷</rb><rt>らい</rt></ruby>のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くな」という鉄冠子の<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めの言葉です。そこで唯<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を垂れたまま、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の<ruby><rb>笏</rb><rt>しゃく</rt></ruby>を挙げて、顔中の<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を逆立てながら、

「その方はここをどこだと思う？　<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わせてくれるぞ」と、<ruby><rb>威丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りました。

が、杜子春は相変らず<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこま</rt></ruby>って、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。

地獄には誰でも知っている通り、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の山や血の池の外にも、焦熱地獄という<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の谷や<ruby><rb>極寒</rb><rt>ごくかん</rt></ruby>地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代る代る杜子春を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれるやら、鉄の<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>に<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>かれるやら、油の<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>に煮られるやら、毒蛇に<ruby><rb>脳味噌</rb><rt>のうみそ</rt></ruby>を吸われるやら、<ruby><rb>熊鷹</rb><rt>くまたか</rt></ruby>に眼を食われるやら、――その苦しみを数え立てていては、到底際限がない位、あらゆる<ruby><rb>責苦</rb><rt>せめく</rt></ruby>に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も口を利きませんでした。

これにはさすがの鬼どもも、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返ってしまったのでしょう。もう一度<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、

「この罪人はどうしても、ものを言う<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がございません」と、口を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えて<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじょう</rt></ruby>しました。

閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、

「この男の<ruby><rb>父母</rb><rt>ちちはは</rt></ruby>は、<ruby><rb>畜生道</rb><rt>ちくしょうどう</rt></ruby>に落ちている筈だから、早速ここへ引き立てて来い」と、一匹の鬼に言いつけました。

鬼は忽ち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、又星が流れるように、二匹の<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>を駆り立てながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。

「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」

杜子春はこう<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>されても、やはり返答をしずにいました。

「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思っているのだな」

閻魔大王は森羅殿も<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れる程、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きました。

「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ」

鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練<ruby><rb>未釈</rb><rt>みしゃく</rt></ruby>なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程<ruby><rb>嘶</rb><rt>いなな</rt></ruby>き立てました。

「どうだ。まだその方は白状しないか」

閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに<ruby><rb>階</rb><rt>きざはし</rt></ruby>の前へ、倒れ伏していたのです。

杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、<ruby><rb>緊</rb><rt>かた</rt></ruby>く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとんど</rt></ruby>声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。

「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と<ruby><rb>仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>っても、言いたくないことは黙って<ruby><rb>御出</rb><rt>おい</rt></ruby>で」

それは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>む<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さん」と一声を叫びました。…………

## 六

その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」

片目<ruby><rb>眇</rb><rt>すがめ</rt></ruby>の老人は微笑を含みながら言いました。

「なれません。なれませんが、しかし<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はなれなかったことも、<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って嬉しい気がするのです」

杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。

「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」

「もしお前が黙っていたら――」と鉄冠子は急に<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそか</rt></ruby>な顔になって、じっと杜子春を見つめました。

「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。――お前はもう仙人になりたいという<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ。ではお前はこれから後、何になったら<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いと思うな」

「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」

杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が<ruby><rb>罩</rb><rt>こも</rt></ruby>っていました。

「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わないから」

鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、<ruby><rb>幸</rb><rt>さいわい</rt></ruby>、今思い出したが、おれは<ruby><rb>泰山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>の南の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。