生い立ち

わたしは<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>だった。

でも八つの年まではほかの子どもと同じように、母親があると思っていた。それは、わたしが<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>けばきっと一人の女が来て、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくだきしめてくれたからだ。

その女がねかしつけに来てくれるまで、わたしはけっしてねどこにははいらなかった。冬のあらしがだんごのような雪をふきつけて<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ガラスを白くするじぶんになると、この女の人は両手の間にわたしの足をおさえて、歌を歌いながら<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>めてくれた。その歌の<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>も<ruby><rb>文句</rb><rt>もんく</rt></ruby>も、いまに<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れずにいる。

わたしが外へ出て<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>の世話をしているうち、急に夕立がやって来ると、この女はわたしを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しに来て、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>の前かけで頭からすっぽりくるんでくれた。

ときどきわたしは<ruby><rb>遊</rb><rt>あそ</rt></ruby>び<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>とけんかをする。そういうとき、この女の人はじゅうぶんわたしの言い分を聞いてくれて、たいていの場合、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことばでなぐさめてくれるか、わたしの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をもってくれた。

それやこれやで、わたしに物を言う調子、わたしを見る目つき、あまやかしてくれて、しかるにしても<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくしかる様子から見て、この女の人はほんとうの母親にちがいないと思っていた。

ところでそれがひょんな<ruby><rb>事情</rb><rt>じじょう</rt></ruby>から、この女の人が、じつは<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>い<ruby><rb>親</rb><rt>おや</rt></ruby>でしかなかったということがわかったのだ。

わたしの村、もっと正しく言えばわたしの育てられた村は――というのが、わたしには父親や母親という者がないと同様に、自分の生まれた村というものがなかったのだから――で、とにかくわたしが子どもの時代を<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごした村は、シャヴァノンという村で、それはフランスの中部地方でもいちばんびんぼうな村の一つであった。

なにしろ土地がいたってやせていて、どうにもしようのない場所であった。どこを歩いてみても、すきくわのはいった田畑というものは少なくて、見わたすかぎりヒースや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えにしだ</span>のほか、ろくにしげるもののない草原で、そのあれ地を行きつくすと、がさがさした<ruby><rb>砂地</rb><rt>すなじ</rt></ruby>の高原で、風にふきたわめられたやせ木立ちが、所どころひょろひょろと、いじけてよじくれたえだをのばしているありさまだった。

そんなわけで、木らしい木を見ようとすると、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>を<ruby><rb>見捨</rb><rt>みす</rt></ruby>てて谷間へと下りて行かねばならぬ。その谷川にのぞんだ川べりにはちょっとした<ruby><rb>牧草</rb><rt>ぼくそう</rt></ruby>もあり、空をつくようなかしの木や、ごつごつしたくりの木がしげっていた。

その谷川の早い<ruby><rb>瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>の<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>がロアール川の<ruby><rb>支流</rb><rt>しりゅう</rt></ruby>の一つへ流れこんで行く、その岸の小さな家で、わたしは子どもの時代を送った。

八つの年まで、わたしはこの家で男の<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>というものを見なかった。そのくせ、『おっかあ』と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいた人はやもめではなかった。<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>というのは<ruby><rb>石工</rb><rt>いしく</rt></ruby>であったが、このへんのたいていの<ruby><rb>労働者</rb><rt>ろうどうしゃ</rt></ruby>と同様パリへ仕事に行っていて、わたしが<ruby><rb>物心</rb><rt>ものごころ</rt></ruby>ついてこのかた、つい一度も帰って来たことはなかった。ただおりふしこの村へ帰って来る<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の者に、<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りをことづけては来た。

「バルブレンのおっかあ、こっちのもたっしゃだよ。<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらずかせいでいる、よろしく言ってくれと言って、このお金を<ruby><rb>預</rb><rt>あず</rt></ruby>けてよこした。数えてみてください」

これだけのことであった。おっかあも、それだけの<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りで<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>していた。ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>がたっしゃでいる、仕事もある、お金がもうかる――と、それだけ聞いて、<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>していた。

このご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>のバルブレンがいつまでもパリへ行っているというので、おかみさんと<ruby><rb>仲</rb><rt>なか</rt></ruby>が悪いのだと思ってはならない。こうやって<ruby><rb>留守</rb><rt>るす</rt></ruby>にしているのは、なにも気まずいことがあるためではない。パリに<ruby><rb>滞在</rb><rt>たいざい</rt></ruby>しているのは仕事に引き<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>められているためで、やがて年を取ればまた村へ帰って来て、たんまりかせいで来たお金で、おかみさんと気楽にくらすつもりであった。

十一月のある日のこと、もう日のくれに、見知らない一人の男がかきねの前に立ち止まった。そのときわたしは、<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>でそだを<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>っていた。中にはいろうともしないで、かきねの上からぬっと頭を出してのぞきながら、その男はわたしに、「バルブレンのおっかあのうちはここかね」とたずねた。

わたしは、「おはいんなさい」と言った。

男は<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>の戸をきいきい言わせながらはいって来て、のっそり、うちの前につっ立った。

こんなよごれくさった男を見たことがなかった。なにしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで板を<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>ったようにどろをかぶっていた。それも半分まだかわききらずにいた。よほど長いあいだ、悪い道をやって来たにちがいない。

話し声を聞いて、バルブレンのおっかあはかけだして来た。そして、この男がしきいに足をかけようとするところへ、ひょっこり顔を出した。

「パリからことづかって来たが」と男は言った。

それはごくなんでもないことばだったし、もうこれまでも何べんとなく、それこそ耳に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たこ</span>のできるほど聞き<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れたものだったが、どうもそれが『ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はたっしゃでいるよ。<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらずかせいでいるよ』という、いつものことばとは、なんだかちがっていた。

「おやおや。ジェロームがどうかしましたね」

と、おっかあは両手をもみながら声を立てた。

「ああ、ああ、どうもとんだことでね。ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はけがをしてね。だが気を落としなさんなよ。けがはけがだが命には<ruby><rb>別状</rb><rt>べつじょう</rt></ruby>がない。だが、かたわぐらいにはなるかもしれない。いまのところ病院にはいっている。わたしはちょうど病室でとなり合わせて、今度国へ帰るについて、ついでにこれだけの事をことづけてくれとたのまれたのさ。ところで、ゆっくりしてはいられない。まだこれから三里（約十二キロ）も歩かなくてはならないし、もうおそくもなっているからね」

でもおっかあは、もっとくわしい話が開きたいので、ぜひ<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうはん</rt></ruby>を食べて行くようにと言ってたのんだ。道は悪いし、森の中にはおおかみが出るといううわさもある。あしたの朝立つことにしたほうがいい。

男は<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくれた。そこで<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のすみにすわりこんで、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>いっぱい食べながら、<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>のくわしい話をした。バルブレンはくずれた足場の下にしかれて大けがをした。そのくせ、そこはだれも行く用事のない場所であったという<ruby><rb>証言</rb><rt>しょうげん</rt></ruby>があったので、<ruby><rb>建物</rb><rt>たてもの</rt></ruby>の<ruby><rb>請負人</rb><rt>うけおいにん</rt></ruby>は一文の<ruby><rb>賠償金</rb><rt>ばいしょうきん</rt></ruby>もしはらわないというのである。

「ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>も<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>のどくな。運が悪かったのよ」

と、男は言った。

「まったく、運が悪かったのよ。世間にはわざとこんなことを<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>に、しこたませしめるずるい<ruby><rb>連中</rb><rt>れんちゅう</rt></ruby>もあるのだが、おまえさんのご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>ときては、一文にもならないのだからな」

「まったく運が悪い」と男はこのことばをくり返しながら、どろでつっぱり返っているズボンをかわかしていた。その口ぶりでは、手足の一本ぐらいたたきつぶされても、お金になればいいというらしかった。

「なんでもこれは、<ruby><rb>請負人</rb><rt>うけおいにん</rt></ruby>を<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>どって<ruby><rb>裁判所</rb><rt>さいばんしょ</rt></ruby>へ持ち出さなければうそだと、おれは<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めておいたよ」

男は話のしまいに、こう言った。

「まあ。でも<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>なんということは、ずいぶんお金の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>ることでしょう」

「そうだよ。だが勝てばいいさ」

バルブレンのおっかあは、パリまで出かけて行こうかと思った。でも、それはずいぶんたいへんなことだった。道は遠いし、お金がかかる。

そのあくる朝、わたしは村へ行ってぼうさんに<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>した。ぼうさんは、まあ向こうへ行って役に立つかどうか、それがよくわかったうえにしないと、つまらないと言った。それでぼうさんが<ruby><rb>代筆</rb><rt>だいひつ</rt></ruby>をして、バルブレンのはいっている<ruby><rb>慈恵</rb><rt>じけい</rt></ruby>病院の<ruby><rb>司祭</rb><rt>しさい</rt></ruby>にあてて、手紙を出すことにした。その返事は二、三日して着いたが、バルブレンのおっかあは来るにはおよばない、だが、ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>が<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>を受けた<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にかけ合うについて、<ruby><rb>入費</rb><rt>にゅうひ</rt></ruby>のお金を送ってもらいたいというのであった。

それからいく日もいく週間もたった。ときおり手紙が届いて、そのたんびにもっと金を送れ金を送れと言って来る。いちばんおしまいには、これまでの手紙よりまたひどくなって、もう金がないなら、<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>のルセットを売っても、ぜひ金をこしらえろと言って来た。

いなかで<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>にはいってくらした者でなければ、『雌牛を売れ』というこのことばに、どんなにつらい、悲しい思いがこもっているかわからない。百姓にとって、雌牛のありがたさは、一とおりのものではなかった。いかほどびんぼうでも、<ruby><rb>家内</rb><rt>かない</rt></ruby>が多くても、ともかくも<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>が<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>ってあるあいだは、<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えて死ぬことはないはずだ。

それにうちの雌牛は、なにより<ruby><rb>仲</rb><rt>なか</rt></ruby>よしのお友だちであった。わたしたちが話をしたり、その<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>をさすってキッスをしてやったりすると、それはよく聞き分けて、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい目でじっと見た。つまりわたしたちはおたがいに<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>し合っていたと言えば、それでじゅうぶんだ。

けれどもいまはその<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>とも、わたしたちは<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れなければならなかった。『雌牛を売る』それでなければ、もうご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>を<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>させることはできなかった。

そこでばくろう（馬売買の商人）がやって来て、細かく雌牛のルセットをいじくり回した。いじくり回しながらしじゅう首をふって、これはまるで役に立たない。<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>も出ないしバターも取れないと、さんざんなんくせをつけておいて、つまり引き取るには引き取るが、それもおっかあが正直な、いい人で気のどくだから、引き取ってやるのだというのであった。

かわいそうに、ルセットも、自分がどうされるかさとったもののように、牛小屋から出るのをいやがって鳴き始めた。

「後ろへ回って、たたき出せ」とばくろうはわたしに言って、首の回りにかけていたむちをわたした。

「いいえ、そんなことをしてはいけない」とおっかあはさけんだ。

それでルセットのはづな（馬の口につけて引くつな）をつかまえながら、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく言った。

「さあ、おまえ出ておくれ。ねえ、いいかい」

ルセットはそれをこばむことができなかった。それで<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>へ出ると、ばくろうはルセットを車の後ろにしばりつけた。馬がとことこかけだすと、ルセットはいやでもあとからついて行かなければならなかった。

わたしたちはうちの中にはいったが、しばらくのあいだまだルセットの鳴き声が聞こえていた。

もう<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>もなければバターもない。朝は一きれのパン、<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>は<ruby><rb>塩</rb><rt>しお</rt></ruby>をつけたじゃがいものごちそうであった。

<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>を売ってから四、五日すると、<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>が来た。一年まえのこの日には、バルブレンのおっかあが、わたしにどら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きと<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げりんごのごちそうをこしらえてくれた。それでたくさんわたしが食べると、おっかあはごきげんで、にこにこしてくれた。

けれどそのときは<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>がパン<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>をとかす<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>や、揚げ物の油のバターをくれるルセットがいた。

もうルセットもいない、<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>もない、バターもない、これでは、<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>もなにもないと、わたしはつまらなそうに<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>を言った。

ところがおっかあはわたしをびっくりさせた。おっかあはいつも人から物を<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りることをしない人ではあったが、おとなりへ行って<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>を一ぱいもらい、もう一けんからバターを一かたまりもらって来て、わたしがお昼ごろうちへ帰って来ると、おっかあは大きな<ruby><rb>土</rb><rt>ど</rt></ruby>なべにパン<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>をあけていた。

「おや、パン粉」とわたしはそばへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って言った。

「ああ、そうだよ」と、おっかあはにっこりしながら答えた。「上等なパン粉だよ、ご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>、ルミ、いいかおりだろう」

わたしはこのパン<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>をなんにするのか知りたいと思ったが、それをおしてたずねる<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がなかった。それにきょうが<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>だということを思い出させて、おっかあをふゆかいにさせたくなかった。

「パン<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>でなにをこさえるのだったけね」とおっかあはわたしの顔を見ながら聞いた。

「パンさ」

「それからほかには」

「パンがゆ」

「それからまだあるだろう」

「だって……ぼく知らないや」

「なあに、おまえは知っていても、かしこい子だからそれを言おうとしないのだよ。きょうが<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>で、どら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きをこしらえる日だということを知っていても、バターとお<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>がないと思って、言いださずにいるのだよ。ねえ、そうだろう」

「だって、おっかあ」

「まあとにかく、きょうのせっかくの<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>を、そんなにつまらなくないようにしたつもりだよ。このはこの中をご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>」

わたしはさっそくふたをあけると、<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>とバターと<ruby><rb>卵</rb><rt>たまど</rt></ruby>と、おまけにりんごが三つ、中にはいっていた。

わたしがりんごをそぐ（小さく切る）と、おっかあは<ruby><rb>卵</rb><rt>たまご</rt></ruby>を<ruby><rb>粉</rb><rt>こな</rt></ruby>に<ruby><rb>混</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜて<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>をしらえ、<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>を少しずつ混ぜていた。

衣がすっかり<ruby><rb>練</rb><rt>ね</rt></ruby>れると、<ruby><rb>土</rb><rt>ど</rt></ruby>なべのまま、<ruby><rb>熱灰</rb><rt>あつばい</rt></ruby>の上にのせた。それでどら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きが焼け、<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げりんごが揚がるまでには、<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんしょく</rt></ruby>のときまで待たなければならなかった。正直に言うと、わたしはそれからの一日が、それはそれは待ち遠しくって、何度も、何度も、おさらにかけた<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を取ってみた。

「おまえ、<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>にかぜをひかしてしまうよ。そうするとうまくふくれないからね」とかの女はさけんだ。けれど、言うそばからそれはずんずんふくれて、小さなあわが上に立ち始めた。<ruby><rb>卵</rb><rt>たまご</rt></ruby>と<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>がぷんとうまそうなにおいを立てた。

「そだを少し持っておいで」とおっかあが言った。「いい火をこしらえよう」

とうとう明かりがついた。

「まきを<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の中へお入れ」

かの女がこのことばを二度とくり返すまでもなく、わたしはさっきからこのことばの出るのをいまかいまかと待ちかまえていたのであった。さっそく赤いほのおがどんどん<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の中に<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>え上がり、この光が台所じゅうを明るくした。

そのときおっかあは、<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げなべをくぎから<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して火の上にのせた。

「バターをお出し」

ナイフの先でかの女はバターをくるみくらいの大きさに一きれ切ってなべの中へ入れると、じりじりとけ出してあわを立てた。

もうしばらくこのにおいもかがなかった。まあ、そのバターのいいにおいといったら。

わたしがそのじりじりこげるあまい音楽にむちゅうで聞きほれていたとき、<ruby><rb>裏庭</rb><rt>うらにわ</rt></ruby>でこつこつ人の歩く足音がした。

せっかくのときにだれがじゃまに来たのだろう。きっとおとなりからまきをもらいに来たのだ。

わたしはそんなことに気を取られるどころではなかった。ちょうどそのときバルブレンのおっかあが、大きな木のさじをはちに入れて、<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を一さじ、おなべの中にあけていたのだもの。

するとだれかつえでことことドアをたたいた。ばたんと戸が開け放された。

「どなただね」とおっかあはふり向きもしないでたずねた。

一人の男がぬっとはいって来た。明るい火の光で、わたしはその男が大きなつえを<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>わきについているのを見つけた。

「やれやれ、祭りのごちそうか。まあ、やるがいい」とその男はがさつな声で言った。

「おやおやまあ」とバルブレンのおっかあが、あわててさげなべを下に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてさけんだ。

「まあジェローム、おまえさんだったの」

そのときおっかあはわたしのうでを<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>って、戸口に立ちはだかったままでいた男の前へ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行った。

「おまえのとっつぁんだよ」

<ruby><rb>養父</rb><rt>ようふ</rt></ruby>

おっかあはご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>にだきついた。わたしもそのあとから同じことをしようとすると、かれはつえをつき出してわたしを止めた。

「なんだ、こいつは……おめえいまなんとか言ったっけな」

「ええ、そう、でも……ほんとうはそうではないけれど……そのわけは……」

「ふん、ほんとうなものか。ほんとうなものか」

かれはつえをふり上げたままわたしのほうへ向かって来た。思わずわたしは後じさりをした。

なにをわたしがしたろう。なんの<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>があるというのだ。わたしはただだきつこうとしたのだ。

わたしはおずおずかれの顔を見上げたが、かれはおっかあのほうをふり向いて話をしていた。

「じゃあ感心に<ruby><rb>謝肉祭</rb><rt>しゃにくさい</rt></ruby>のお<ruby><rb>祝</rb><rt>いわ</rt></ruby>いをするのだな、まあけっこうよ。おれは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っているのだ。<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>はなんのごちそうだ」とかれは言った。

「どら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きとりんごの<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>をこしらえているところですよ」

「そうらしいて。だが何里も<ruby><rb>遠道</rb><rt>とおみち</rt></ruby>をかけて来た者に、まさかどら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きでごめんをこうむるつもりではあるまい」

「ほかになんにもないんですよ。なにしろおまえさんが帰るとは思わなかったからね」

「なんだ、なんにもない。<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうはん</rt></ruby>にはなにもないのか」とかれは台所を見回した。

「バターがあるぞ」

かれは<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>をあお向いて見た。いつも<ruby><rb>塩</rb><rt>しお</rt></ruby>ぶたがかかっていたかぎが目にはいったが、そこにはもう長らくなんにもかかってはいなかった。ただねぎとにんにくが二、三本なわでしばってつるしてあるだけであった。

「ねぎがある」とかれは言って、大きなつえでなわをたたき落とした。「ねぎが四、五本にバターが少しあれば、けっこうなスープができるだろう。どら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きなぞは下ろして、ねぎをなべでいためろ」

どら焼きをなべから出してしまえというのだ。

でも一言も言わずにバルブレンのおっかあはご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>の言うとおりに、急いで仕事に取りかかった。ご亭主は<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のすみのいすにこしをかけていた。

わたしはかれがつえの先で追い立てた場所から、そのまま動き<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>なかった。<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>に<ruby><rb>背中</rb><rt>なか</rt></ruby>を向けたまま、わたしはかれの顔を見た。

かれは五十ばかりの意地悪らしい顔つきをした、ごつごつした様子の男であった。その頭はけがをしたため、少し右の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>のほうへ曲がっていた。かたわになったので、よけいこの男の<ruby><rb>人相</rb><rt>にんそう</rt></ruby>を悪くした。

バルブレンのおっかあはまたおなべを火の上にのせた。

「おめえ、それっぱかりのバターでスープをこしらえるつもりか」とかれは言いながら、バターのはいったさらをつかんで、それをみんななべの中へあけてしまった。もうバターはなくなった……それで、もうどら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きもなくなったのだ。

これがほかの場合だったら、こんな<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>に会えば、どんなにくやしかったかしれない。だが、わたしはもうどら<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きもりんごの<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>も思わなかった。わたしの心の中にいっぱいになっている考えは、こんなに意地の悪い男が、いったいどうしてわたしの父親だろうかということであった。

「ぼくのとっつぁん」――うっとりとわたしはこのことばを心の中でくり返した。

いったい父親というものはどんなものだろう、それをはっきりと考えたことはなかった。ただぼんやり、それはつまり、母親の声の大きいのくらいに考えていた。ところが、いま天から<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>って来たこの男を見ると、わたしはひじょうにいやだったし、こわらしかった（おそろしかった）。

わたしがかれにだきつこうとすると、かれはつえでわたしをつきのけた。なぜだ。これがおっかあなら、だきつこうとする者をつきのけるようなことはしなかった。どうして、おっかあはいつだってわたしをしっかりとだきしめてくれた。

「これ、でくのぼうのようにそんな所につっ立っていないで、来て、さらでもならべろ」とかれは言った。

わたしはあわててそのとおりにしようとして、<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>なくたおれそこなった。スープはでき上がった。バルブレンのおっかあはそれをさらに入れた。

するとかれは<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>ばたから立ち上がって、<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>の前にこしをかけて食べ始めた。合い間合い間には、じろじろわたしの顔を見るのであった。わたしはそれが気味が悪くって、食事がのどに通らなかった。わたしも横目でかれを見たが、向こうの目と出会うと、あわてて目をそらしてしまった。

「こいつはいつもこのくらいしか食わないのか」とかれはふいにこうたずねた。

「きっとおなかがいいんですよ」

「しょうがねえやつだなあ。こればかりしかはいらないようじゃあ」

バルブレンのおっかあは話をしたがらない様子であった。あちらこちらと<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>き回って、ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>のお<ruby><rb>給仕</rb><rt>きゅうじ</rt></ruby>ばかりしていた。

「てめえ、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>は<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らねえのか」

「ええ」

「うん、じゃあすぐとこへはいってねろ。ねたらすぐねつけよ。早くしないとひどいぞ」

おっかあはわたしに、なにも言わずに言うとおりにしろと目で知らせた。しかしこの<ruby><rb>警告</rb><rt>けいこく</rt></ruby>を待つまでもなかった。わたしはひと言も口答えをしようとは思わなかった。

たいていのびんぼう人の家がそうであるように、わたしたちの家の台所も、やはり<ruby><rb>寝部屋</rb><rt>ねべや</rt></ruby>をかねていた。<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のそばには食事の道具が<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずあった。<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>もパンのはこもなべも<ruby><rb>食器</rb><rt>しょっき</rt></ruby>だなもあった。そうして、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の向こうの<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>が寝部屋であった。一方の角にバルブレンのおっかあの大きな<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>があった。その向こうの角のくぼんだおし入れのような所にわたしの寝台があって、赤い<ruby><rb>模様</rb><rt>もよう</rt></ruby>のカーテンがかかっていた。

わたしは急いでねまきに着かえて、ねどこにもぐりこんだ。けれど、とても目がくっつくものではなかった。わたしはひどくおどかされて、ひじょうにふゆかいであった。

どうしてこの男がわたしのとっつぁんだろう。ほんとうにそうだったら、なぜ人をこんなにひどくあつかうのだろう。

わたしは鼻をかべにつけたまま、こんなことを考えるのはきれいにやめて、言いつかったとおり、すぐねむろうと<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>を<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>ったがだめだった。まるで目がさえてねつかれない。こんなに目のさえたことはなかった。

どのくらいたったかわからないが、しばらくしてだれかがわたしの<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>のそばに<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来た。そろそろと引きずるような重苦しい足音で、それがおっかあでないということはすぐにわかった。

わたしはほおの上に温かい息を感じた。

「てめえ、もうねむったのか」とするどい声が言った。

わたしは返事をしないようにした。「ひどいぞ」と言ったおそろしいことばが、まだ耳の中でがんがん聞こえていた。

「ねむっているんですよ」とおっかあが言った。「あの子はとこにはいるとすぐに目がくっつくのだから、だいじょうぶなにを言っても聞こえやしませんよ」

わたしはむろん、「いいえ、ねむっていません」と言わねばならないはずであったが、言えなかった。わたしはねむれと言いつけられた。それをまだねむらずにいた。わたしが悪かった。

「それでおまえさん、<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>のほうはどうなったの」とおっかあが言った。

「だめよ。裁判所ではおれが足場の下にいたのが悪いと言うのだ」そう言ってかれはこぶしで<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>をごつんと打って、なんだかわけのわからないことを言って、しきりにののしっていた。

「<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>には負けるし、金はなくなるし、かたわにはなるし、びんぼうがじろじろ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をねめつけて（にらみつけて）いる。それだけでもまだ足りねえつもりか、うちへ帰って来ればがきがいる。なぜおれが言ったとおりにしなかったのだ」

「でもできなかったもの」

「<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くことができなかったのか」

「だってあんな小さな子を<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てることはできないよ。自分の<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>で育ててかわいくなっているのだもの」

「あいつはてめえの子じゃあねえのだ」

「そうさ。わたしもおまえさんの言うとおりにしようと思ったのだけれど、ちょうどそのとき、あの子が<ruby><rb>加減</rb><rt>かげん</rt></ruby>が悪くなったので」

「加減が悪く」

「ああ、だからどうにもあすこへ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れては行けなかったのだよ。死んだかもしれないからねえ」

「だがよくなってから、どうした」

「ええ、すぐにはよくならなかったしね、やっといいと思うと、また病気になったりしたものだから。かわいそうにそれはひどくせきをして、聞いていられないようだった。うちのニコラぼうもそんなふうにして死んだのだからねえ。わたしがこの子を<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>に送ればやっぱり死んだかもしれないよ」

「だが……あとでは」

「ああ、だんだんそのうちに時がたって、<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>び延びになってしまったのだよ」

「いったいいくつになったのだ」

「八つさ」

「うん、そうか。じやあ、これからでもいいや。どうせもっと早く行くはずだったのだ。だが、いまじゃあ行くのもいやがるだろう」

「まあ、ジェローム、おまえさん、いけない……そんなことはしないでおくれ」

「いけない、なにがいけないのだ。いつまでもああしてうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>けると思うか」

しばらく二人ともだまり返った。わたしは息もできなかった。のどの中にかたまりができたようであった。

しばらくして．バルブレンのおっかあが言った。

「まあ、パリへ出て、おまえさんもずいぶん人が<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わったねえ。おまえさん、行くまえにはそんなことは言わない人だったがねえ」

「そうだったかもしれない。だが、パリへ行っておれの人が変わったかしれないが、そこはおれを<ruby><rb>半殺</rb><rt>はんごろ</rt></ruby>しにもした。おれはもう<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くことはできない。もう金はない。牛は売ってしまった。おれたちの口をぬらすことさえおぼつかないのに、おたがいの子でもないがきを<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>うことができるか」

「あの子はわたしの子だよ」

「あいつはおれの子でもないが、きさまの子でもないぞ。それにぜんたい<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>の子どもじゃあない。びんぼう人の子どもじゃあない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃしゃ</span>すぎて物もろくに食えないし、手足もあれじゃあ<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>けない」

「あの子は村でいちばん<ruby><rb>器量</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしの子どもだよ」

「器量がよくないとは言いやしない。だがじょうぶな子ではないと言うのだ。あんなひょろひょろした<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をしたこぞうが<ruby><rb>労働者</rb><rt>ろうどうしゃ</rt></ruby>になれると思うか。ありゃあ町の子どもだ。町の子どもを<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>く<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>はないのだ」

「いいえ、あの子はいい子ですよ。りこうで、物がわかって、それで<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいのだから、あの子はわたしたちのために<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いてくれますよ」

「だが、さし当たりは、おれたちがあいつのために働いてやらなければならない。それはまっぴらだ」

「もしかあの子のふた親が引き取りに来たらどうします」

「あいつのふた親だと。いったいあいつにはふた親があったのか。あればいままでに<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて来そうなものだ。あいつのふた親が訪ねて来て、これまでの<ruby><rb>養育料</rb><rt>よういくりょう</rt></ruby>をはらって行くなどと考えたのが、ずいぶんばかげきっていた。気ちがいじみていた。あの子がレースのへりつきのやわらかい<ruby><rb>産着</rb><rt>うぶき</rt></ruby>を着ていたからといって、ふた親があいつを訪ねに来ると思うことができるか。それに、もう死んでいるのだ。きっと」

「いいや、そんなことはない。いつか<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて来るかもしれない……」

「女というやつはなかなか<ruby><rb>強情</rb><rt>ごうじょう</rt></ruby>なものだなあ」

「でも訪ねて来たら」

「ふん、そうなりゃ<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へ<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>し向けてやる。だがもう話はたくさんだ。おれはあしたは村長さんの所へあいつを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行って<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>する。今夜はこれからフランスアの所へ行って来る。一時間ばかりしたら帰って来るからな」

そのあいだにわたしはさっそく<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上で起き上がって、おっかあを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。

「ねえ、おっかあ」

かの女はわたしの寝台のほうへかけてやって来た。

「ぼくを<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやるの」

「いいえ、ルミぼう、そんなことはないよ」

かの女はわたしにキッスをして、しっかりとうでにだきしめた。そうするとわたしもうれしくなって、ほおの上のなみだがかわいた。

「じゃあおまえ、ねむってはいなかったのだね」とかの女は<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくたずねた。

「ぼく、わざとしたんじゃないから」

「わたしは、おまえをしかっているのではない。じゃあ、あの人の言ったことを聞いたろうねえ」

「ええ、あなたはぼくのおっかあではないんだって……そしてあの人もぼくのとっつぁんではないんだって」

このあとのことばを、わたしは同じ調子では言わなかった。なぜというと、この<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がわたしの母親でないことを知ったのは<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けなかったが、同時にあの男が父親でないことがわかったのは、なんだか<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>でうれしかった。このわたしの心の中の<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>はおのずと声に<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れたが、おっかあはそれに気がつかないらしかった。

「まあわたしはおまえにほんとうのことを言わなければならないはずであったけれど、おまえがあまりわたしの子どもになりすぎたものだから、ついほんとうの母親でないとは言いだしにくかったのだよ。おまえ、ジェロームの言ったことをお聞きだったろう。あの人がおまえをある日パリのブルチュイー町の<ruby><rb>並木通</rb><rt>なみきどお</rt></ruby>りで拾って来たのだよ。二月の朝早くのことで、あの人が仕事に出かけようとするとちゅうで、赤んぼうの<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>を聞いて、おまえをある庭の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>で拾って来たのだ。あの人はだれか人を<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぼうと思って見回しながら、声をかけると、一人の男が木のかげから出て来て、あわててにげ出したそうだよ。おまえを<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てた男が、だれか拾うか<ruby><rb>見届</rb><rt>みとど</rt></ruby>けていたとみえる。おまえがそのとき、だれか拾ってくれる人が来たと感じたものか、あんまりひどく<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>くものだから、ジェロームもそのまま捨てても帰れなかった。それでどうしようかとあの人も<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>っていると、ほかの<ruby><rb>職人</rb><rt>しょくにん</rt></ruby>たちも<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来て、みんなはおまえを<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>へ<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>けることに<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>を決めた。おまえはいつまでも泣きやまなかった。かわいそうに寒かったにちがいない。けれど、それから警察へ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行って、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かくしてあげてもまだ<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。それで今度はおなかが<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っているのだろうというので、近所のおかみさんをたのんで<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>を飲ました。まあ、まったくおなかが減っていたのだよ。

やっとおなかがいっぱいになると、みんなは<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の前へ連れて行って、着物をぬがしてみると、なにしろきれいなうすもも色をした子どもで、りっぱな<ruby><rb>産着</rb><rt>うぶぎ</rt></ruby>にくるまっていた。<ruby><rb>警部</rb><rt>けいぶ</rt></ruby>さんは、こりゃありっぱなうちの子をぬすんで<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てたものだと言って、その着物の細かいこと、子どもの様子などをいちいち書き<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めて、いつどういうふうにして拾い上げたかということまで書き入れた。それでだれか世話をする者がなければ、さしずめ<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやらなければなるまいが、こんなりっぱなしっかりした子どもだ、これを育てるのはむずかしくはない。両親もそのうちきっと<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しに来るだろう。探し当てればじゅうぶんのお礼もするだろうから、と<ruby><rb>署長</rb><rt>しょちょう</rt></ruby>さんがお言いなすった。このことばにひかれて、ジェロームはわたしが引き取りましょうと言ったのだよ。ちょうどそのじぶん、わたしは同い年の赤んぼうを持っていたから、二人の子どもを楽に育てることができた。ねえ、そういうわけで、わたしがおまえのおっかあになったのだよ」

「まあ、おっかあ」

「ああ、ああ、それで<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>目の<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>にわたしは自分の子どもを<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くした。そこでわたしはいよいよおまえがかわいくなって、もう他人の子だなんという気がしなくなりました。でもジェロームは<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらずそれを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れないでいて、三年目の末になっても、両親が引き取りに来ないというので、もうおまえを<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやると言って聞かないので<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったよ。だからなぜわたしがあの人の言うとおりにしなかった、と言われていたのをお聞きだったろう」

「まあ、ぼくを<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へなんかやらないでください」とわたしはさけんで、かの女にかじりついた。

「どうぞどうぞおっかあ、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だから孤児院へやらないでください」

「いいえ、おまえ、どうしてやるものか、わたしがよくするからね。ジェロームはそんなにいけない人ではないのだよ。あの人はあんまり<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>をたくさんして、気むずかしくなっているだけなのだからね。まあ、わたしたちはせっせと<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きましょう。おまえも働くのだよ」

「ええ、ええ、ぼくはしろということはなんでもきっとしますから、<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こいじん</rt></ruby>へだけはやらないでください」

「おお、おお、それはやりはしないから、その代わりすぐねむると言ってやくそくをおし。あの人が帰って来て、おまえの起きているところを見るといけないからね」

おっかあはわたしにキッスして、かべのほうへわたしの顔を向けた。

わたしはねむろうと思ったけれども、あんまりひどく感動させられたので、<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにねむりの国にはいることができなかった。

じゃあ、あれほど<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいバルブレンのおっかあは、わたしのほんとうの母さんではなかったのか。するといったいほんとうの母さんはだれだろう。いまの母さんよりもっと優しい人かしら。どうしてそんなはずがありそうもない。

だがほんとうの父さんなら、あのバルブレンのように、こわい目でにらみつけたり、わたしにつえをふり上げたりしやしないだろうと思った……。

あの男はわたしを<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやろうとしている。母さんにはほんとうにそれを引き止める力があるだろうか。

この村に二人、孤児院から来た子どもがあった。この子たちは、『孤児院の子』と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれていた。首の回りに番号のはいった<ruby><rb>鉛</rb><rt>なまり</rt></ruby>の<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>をぶら下げていた。ひどいみなりをして、よごれくさっていた。ほかの子たちがみんなでからかって、石をぶつけたり、<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>い<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>を追って遊ぶように追い回したりした。迷い犬にだれも<ruby><rb>加勢</rb><rt>かせい</rt></ruby>する者がないのだ。

ああ、わたしはそういう子どものようになりたくない。首の回りに番号札を下げられたくない。わたしの歩いて行くあとから、『やいやい<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>のがき、やいやい<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>』と言ってののしられたくない。

それを考えただけでも、ぞっと<ruby><rb>寒気</rb><rt>さむけ</rt></ruby>がして、歯ががたがた鳴りだす。わたしはねむることができなかった。やがてバルブレンも、また帰って来るだろう。

でも幸せと、ずっとおそくまでかれは帰って来なかった。そのうちにわたしもとろろとねむ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>がさして来た。

ヴィタリス親方の<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>

その<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>一晩、きっと<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行かれたゆめばかりを見ていたにちがいない。朝早く目を開いても、自分がいつもの<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>にねているような気がしなかった。わたしは目が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めるとさっそく寝台にさわったり、そこらを見回したり、いろいろ<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>してみた。ああ、そうだ、わたしはやはりバルブレンのおっかあのうちにいた。

バルブレンはその朝じゅう、なにもわたしに言わなかった。わたしはかれがもう<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやる考えを<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てたのだと思うようになった。きっとバルブレンのおっかあが、あくまでわたしをうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>くことに決めたのであろう。

けれどもお昼ごろになると、バルブレンがわたしに、ぼうしをかぶってついて来いと言った。

わたしは目つきで母さんに<ruby><rb>救</rb><rt>すく</rt></ruby>いを<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めてみた。かの女もご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>に気がつかないようにして、いっしょに行けと目くばせした。わたしは<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>った。かの女は行きがけにわたしの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をたたいて、なにも心配することはないからと知らせた。

なにも言わずにわたしはかれについて行った。

うちから村まではちょっと一時間の道であった。そのとちゅう、バルブレンはひと言もわたしに口をきかなかった。かれはびっこ引き引き歩いて行った。おりふしふり返って、わたしがついて来るかどうか見ようとした。

どこへいったいわたしを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くつもりであろう。

わたしは心の中でたびたびこの<ruby><rb>疑問</rb><rt>ぎもん</rt></ruby>をくり返してみた。バルブレンのおっかあがいくらだいじょうぶだと目くばせして見せてくれても、わたしにはなにか一大事が起こりそうな気がしてならないので、どうしてにげ出そうかと考えた。

わたしはわざとのろのろ歩いて、バルブレンにつかまらないようにはなれていて、いざとなればほりの中にでもとびこもうと思った。

はじめはかれも、あとからわたしがとことこついて来るのて、安心していたらしかった。けれどもまもなく、かれはわたしの心の中を<ruby><rb>見破</rb><rt>みやぶ</rt></ruby>ったらしく、いきなりわたしのうで首をとらえた。

わたしはいやでもいっしょにくっついて歩かなければならなかった。

そんなふうにして、わたしたちは村にはいった。すれちがう人がみんなふり返って目を<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>くした。それはまるで、山犬がつなで引かれて行くていさいであった。

わたしたちが村の<ruby><rb>居酒屋</rb><rt>いざかや</rt></ruby>の前を通ると、入口に立っていた男がバルブレンに声をかけて、中にはいれと言った。バルブレンはわたしの耳を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>って、先にわたしを中へつっこんでおいて、自分もあとからはいって、ドアをぴしゃりと立てた。

わたしはほっとした。

そこは<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>な場所とは思われなかった。それに<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>からわたしは、この中がいったいどんな様子になっているのだろうと思っていた。

<ruby><rb>旅館</rb><rt>りょかん</rt></ruby><ruby><rb>御料理</rb><rt>おんりょうり</rt></ruby>カフェー・ノートルダーム。中はどんなにきれいだろう。よく赤い顔をした人がよろよろ中から出て来るのをわたしは見た。表のガラス戸は歌を歌う声や話し声で、いつもがたがたふるえていた。この赤いカーテンの後ろにはどんなものがあるのだろうと、いつもふしぎに思っていた。それをいま見ようというのである……

バルブレンはいま声をかけた<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>と、<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>に向かい合ってこしをかけた。わたしは<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>ばたにこしをかけてそこらを見回した。

わたしのいたすぐ向こうのすみには、白いひげを長く生やした<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>がいた。かれはきみょうな着物を着ていた。わたしはまだこんな様子の人を見たことがなかった。

長い<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>をふっさりと<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>まで<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らして、緑と赤の<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>でかざったねずみ色の高いフェルト<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をかぶっていた。ひつじの毛皮の毛のほうを中に返して、すっかりからだに着こんでいた。その毛皮服にはそではなかったが、<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>の所に二つ大きな<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>をあけて、そこから、もとは録色だったはずのビロードのそでをぬっと出していた。ひつじの毛のゲートルをひざまでつけて、それをおさえるために、赤いリボンをぐるぐる足に巻きつけていた。

かれは長ながといすの上に横になって、下あごを左の手に<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えて、そのひじを曲げたひざの上にのせていた。

わたしは生きた人で、こんな<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かな落ち着いた様子の人を見たことがなかった。まるで村のお寺の<ruby><rb>聖徒</rb><rt>せいと</rt></ruby>の<ruby><rb>像</rb><rt>ぞう</rt></ruby>のようであった。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>の回りには三びきの犬が、<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>まってねていた。白いちぢれ毛のむく犬と、黒い毛深いむく犬、それにおとなしそうなくりくりした様子の<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>色の<ruby><rb>雌犬</rb><rt>めすいぬ</rt></ruby>が一ぴき。白いむく犬は<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のかぶる古いかぶと<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をかぶって、皮のひもをあごの下に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えつけていた。

わたしがふしぎそうな顔をしてこの<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>を見つめているあいだに、バルブレンと<ruby><rb>居酒屋</rb><rt>いざかや</rt></ruby>の<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>低</rb><rt>ひく</rt></ruby>い声でこそこそ話をしていた。わたしのことを話しているのだということがわかった。

バルブレンはわたしをこれから村長のうちへ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行って、村長から<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>に向かって、わたしをうちへ<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>く代わりに<ruby><rb>養育料</rb><rt>よういくりょう</rt></ruby>が<ruby><rb>請求</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>してもらうつもりだと言った。

これだけを、やっとあの気のどくなバルブレンのおっかあが<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>に<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>いて<ruby><rb>承諾</rb><rt>しょうだく</rt></ruby>させたのであった。けれどわたしは、そうしてバルブレンがいくらかでも金がもらえれば、もうなにも心配することはないと思っていた。

その<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はいつかすっかりわきで聞いていたとみえて、いきなりわたしのほうに指さしして、耳立つほどの外国なまりでバルブレンに話しかけた。

「その子どもがおまえさんのやっかい者なのかね」

「そうだよ」

「それでおまえさんは<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>が<ruby><rb>養育料</rb><rt>よういくりょう</rt></ruby>をしはらうと思っているのかね」

「そうとも。この子は両親がなくって、そのためにおれはずいぶん金を使わされた。お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>からいくらでもはらってもらうのは当たり前だ」

「それはそうでないとは言わない。だが、物は正しいからといってきっとそれが通るものとはかぎらない」

「それはそうさ」

「それそのとおり。だからおまえさんが<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>んでおいでのものも、すらすらと手にはいろうとはわたしには思えないのだ」

「じゃあ<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へやってしまうだけだ。こちらで<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>いたくないものを、なんでも養えという<ruby><rb>法律</rb><rt>ほうりつ</rt></ruby>はないのだ」

「でもおまえさんははじめにあの子を養いますといって引き受けたのだから、そのやくそくは守らなければならない」

「ふん、おれはこの子を<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>いたくないのだ。だからどのみちどこへでもやっかいばらいをするつもりでいる」

「さあ、そこで話だが、やっかいばらいをするにも、手近なしかたがあると思う」<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はしばらく考えて、「おまけに少しは金にもなるしかたがある」と言った。

「そのしかたを教えてくれれば、おれは一ぱい買うよ」

「じゃあさっそく一ぱい買うさ。もう<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>は決まったから」

「だいじょうぶかえ」

「だいじょうぶよ」

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は立ち上がって、バルブレンの向こうに<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>をしめた。ふしぎなことには、老人が立ち上がると、ひつじの毛皮服がむずむず動いて、むっくり高くなった。たぶん、もう一ぴき犬をうでの下にかかえているのだとわたしは思った。

この人たちは、いったいわたしをどうしようというのだろう。わたしの<ruby><rb>心臓</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>がまたはげしく打ち始めた。わたしはちっとも<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>から目をはなすことができなかった。

「おまえさんはこの子のためにだれか金を出さない<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>、自分のうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>っていることはいやだという、それにちがいないのだろう」

「それはそのとおりだ……そのわけは……」

「いや、わけはどうでもよろしい。それはわたしにかかわったことではない。それでもうこの子が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らないというのなら、すぐわたしにください。わたしが引き受けようじゃないか」

「おや、おまえさんはこの子を引き受けると言うのかね」

「だっておまえさんはこの子をほうり出したいんだろう」

「おまえさんにこんなきれいな子をやるのかえ。この子は村でもいちばんかわいい子だ。よく見てくれ」

「よく見ているよ」

「ルミ、ここへ来い」

わたしは<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>に進み<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>った。ひざはふるえていた。

「これこれぼうや、こわがることはないよ」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。

「さあ、よく見てくれ」とバルブレンは言った。

「わたしはこの子をいやな子だとは言いやしない。またそれならば<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しいとも言わない。こっちは化け物は欲しくはないのだ」

「いやはや、こいつがいっそ二つ頭の化け物か、または<ruby><rb>一寸法師</rb><rt>いっすんぼうし</rt></ruby>ででもあったなら……」

「だいじにして<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>にやりはしないだろう。<ruby><rb>香具師</rb><rt>やし</rt></ruby>に売っても見世物に出しても、その化け物のおかげでお金もうけができようさ。だが子どもは一寸法師でもなければ、化け物でもない。だから見世物にすることはできない。この子はほかの子どもと同じようにできている。なんの役にも立たない」

「仕事はできるよ」

「いや、あまりじょうぶではないからなあ」

「じょうぶでないと、とんでもない話だ。……だれにだって負けはしないのだ。あの足を見なさい。あのとおりしっかりしている。あれよりすらりとした足を見たことがあるかい……」

バルブレンはわたしのズボンをまくり上げた。

「やせすぎている」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。

「それからうでを見ろ」とバルブレンは<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「うでも同様だ。――まあこれでもいいが、苦しいことや、つらいことにはたえられそうもない」

「なに、たえられない。ふん、手でさわって調べてみるがいい」

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はやせこけた手で、わたしの足にさわってみながら、頭をふったり、顔をしかめたりした。

このまえ、ばくろうが来たときも、こんなふうであったことを、わたしは見て知っていた。その男もやはり牛のからだを手でさわったりつねったりしてみて、頭をふった。この牛はろくでもない牛だ、とても売り物にはならない、などと言ったが、でも牛を買って<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行った。

この<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>もたぶんわたしを買って連れて行くだろう。ああバルブレンのおっかあ。バルブレンのおっかあ。

不幸にもここにはおっかあはいなかった。だれもわたしの味方になってくれる者がなかった。

わたしが思い切った子なら、なあにきのうはバルブレンも、わたしを弱い子で、手足がか細くて役に立たぬと<ruby><rb>非難</rb><rt>ひなん</rt></ruby>したのではないかと言ってやるところであった。でもそんなことを言ったら、どなりつけられて、げんこをいただくに決まっているから、わたしはなにも言わなかった。

「まあつまり当たり前の子どもさね。それはそうだが、やはり町の子だよ。<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>仕事にはたしかに向いてはいないようだ。<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>しに畑をやらしてごらん、どれほど<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>くかさ」

「十年は続くよ」

「なあにひと月も<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>くものか」

「まあ、このとおりだ。よく見てくれ」

わたしは<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>のはしの、ちょうどバルブレンと<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>の間にすわっていたものだから、あっちへつかれ、こっちへおされて、いいようにこづき回された。

「さあ、まずこれだけの子どもとして」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>に言った。「つまりわたしが引き受けることにしよう。もちろん買い切るのではない、ただ<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りるのだ。その<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>り<ruby><rb>賃</rb><rt>ちん</rt></ruby>に年に二十フラン出すことにしよう」

「たった二十フラン」

「どうして高すぎると思うよ。それも前ばらいにするからね。ほんとうの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を四<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>にぎったうえに、やっかいばらいができるのだからね」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。

「だがこの子をうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>けば、<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>から毎月十フランずつくれるからな」

「まあくれてもせいぜい七フランか十フランだね。それはよくわかっているよ。だがその代わり食べさせなければならないからね」

「その代わり<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>きもするさ」

「おまえさんがほんとにこの子が働けると思うなら、なにも追い出したがることはないだろう。ぜんたい<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>を引き取るというのは、その<ruby><rb>養育料</rb><rt>よういくりょう</rt></ruby>をはらってもらうためではない、<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>かせるためなのだ。それから金を取り上げこそすれ、<ruby><rb>給金</rb><rt>きゅうきん</rt></ruby>なしの<ruby><rb>下男</rb><rt>げなん</rt></ruby><ruby><rb>下女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>に使うのだ。だからそれだけの役に立つものなら、おまえさんはこの子をうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>くところなのだ」

「とにかく、毎月十フランはもらえるのだから」

「だが<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>で、いや、そんならこの子はおまえさんには<ruby><rb>預</rb><rt>あず</rt></ruby>けない、ほかへ預けると言ったらどうします。つまりなんにもおまえさんは取れないではないか。わたしのほうにすればそこは<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かだ。おまえさんの<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>はただ金を受け取るために、手を出しさえすればいいのだ」

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はかくしを<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って、なめし皮の<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>を引き出した。その中から四<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>、<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>をつかみ出して、<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>の上にならべ、わざとらしくチャラチャラ音をさせた。

「だが待てよ」とバルブレンが言った。「いつかこの子のふた親が出てくるかもしれない」

「それはかまわないじゃないか」

「いや、育てた者の身になればなにもかまわなくはないさ。またそれを思わなければ、<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めっからだれが世話をするものか」

「それを思わなければ<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めっからだれが世話をするものか」――このことばで、わたしはいよいよバルブレンがきらいになった。なんという悪い人間だろう。

「なるほど、だがこの子のふた親がもう出て来ないだろうとあきらめたからこそ、おまえさんもこの子をほうり出そうと言うのだろう。ところで、どうかしたひょうしでこののちそのふた親が出て来たとして、それはおまえさんの所へこそまっすぐに行こうが、わたしの所へは来ないだろう。だれもわたしを知らないのだから」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。

「でもおまえさんがそのふた親を見つけ出したらどうする」

「なるほどそういう場合には、わたしたちで<ruby><rb>利益</rb><rt>りえき</rt></ruby>を分けるのだね。ところで、ひとつ、きばってさしあたり三十フラン分けてあげようよ」

「四十フランにしてもらおう」

「いいや、この子の使い道はそこいらが<ruby><rb>相応</rb><rt>そうおう</rt></ruby>な<ruby><rb>値段</rb><rt>ねだん</rt></ruby>だ」

「おまえさん、この子をなんに使おうというのだ。足といえばこのとおりしっかりしたいい足をしているし、うでといえばこのとおりりっぱないいうでをしている。いま言ったことをどこまでもくり返して言うが、この子をいったいどうしようというのだ」

そのとき<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はあざけるようにバルブレンの顔を見て、それからちびちびコップを<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>した。

「つまりわたしの<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>になってもらうのだ。わたしは年を取ってきたし、夜なんぞはまことにさびしくなった。くたびれたときなんぞ、子どもがそばにいてくれるといいおとぎになるのだ」

「なるほど、それにはこの子の足はじゅうぶんたっしゃだから」

「おお、それだけではだめだ。この子はまたおどりをおどって、はね回って、遠い道を歩かなければならない。つまりこの子はヴィタリス親方の<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の役者になるのだ」

「その一座はどこにある」

「もうご<ruby><rb>推察</rb><rt>すいさつ</rt></ruby>あろうが、そのヴィタリス親方はわたしだ。さっそくここで一座をお目にかけよう」

こう言ってかれはひつじの毛皮服のふところを開けて、左のうでにおさえていたきみょうな動物を引き出した。それが、さっきからたびたび毛皮を下から持ち上げた動物であったのだ。だがそれは<ruby><rb>想像</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>したように、犬ではなかった。

わたしはこのきみょうな動物を生まれて<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて見たとき、なんと名のつけようもなかった。

わたしはびっくりしてながめていた。

それは<ruby><rb>金筋</rb><rt>きんすじ</rt></ruby>をぬいつけた赤い服を着ていたが、うでと足はむき出しのままであった。<ruby><rb>実際</rb><rt>じっさい</rt></ruby>それは人間と同じうでと足で、前足ではなかった。黒い毛むくじゃらの皮をかぶっていて、白くももも色でもなかった。にぎりこぶしぐらいの大きさの黒い頭をして、<ruby><rb>縦</rb><rt>たて</rt></ruby>につまった顔をしていた。横へ向いた鼻の<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>が開いていて、くちびるが黄色かった。けれどもとりわけわたしをおどろかしたのは、くちゃくちゃとくっついている二つの目で、それは<ruby><rb>鏡</rb><rt>かがみ</rt></ruby>のようにぴかぴかと光った。

「いやあ、みっともないさるだな」とバルブレンがさけんだ。

ああ、さるか。わたしはいよいよ大きな目を開いた。それではこれがさるであったのか。わたしはまださるを見たことはなかったが、話には聞いていた。じゃあこの子どものようなちっぽけな動物が、さるだったのか。

「さあ、これが<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>花形</rb><rt>はながた</rt></ruby>で」とヴィタリス親方が言った。「すなわちジョリクール君であります。さあさあジョリクール君」と動物のほうを向いて、「お客さまにおじぎをしないか」

さるは指をくちびるに当てて、わたしたちに一人一人キッスをあたえるまねをした。

「さて」とヴィタリスはことばを<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて、白のむく犬のほうに手をさしのべた。「つぎはカピ親方が、ご<ruby><rb>臨席</rb><rt>りんせき</rt></ruby>の<ruby><rb>貴賓諸君</rb><rt>きひんしょくん</rt></ruby>に<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>のものをご<ruby><rb>紹介</rb><rt>しょうかい</rt></ruby>申しあげる<ruby><rb>光栄</rb><rt>こうえい</rt></ruby>を有せられるでしょう」

このまぎわまでぴくりとも動かなかった白のむく犬が、さっそくとび上がって、後足で立ちながら、前足を<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>の上で十文字に組んで、まず主人に向かってていねいにおじきをすると、かぶっている<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のかぶと<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>が地べたについた。

<ruby><rb>敬礼</rb><rt>けいれい</rt></ruby>がすむとかれは<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>のほうを向いて、かたっぽの前足でやはり胸をおさえながら、<ruby><rb>片足</rb><rt>かたあし</rt></ruby>をさしのべて、みんなそばに<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>るように合図をした。

白犬のすることをじっと見つめていた二ひきの犬は、すぐに立ち上がって、おたがいに前足を取り合って、交際社会（社交界）の人たちがするように<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かに六歩前へ進み、また三足あとへもどつて、代わりばんこにご<ruby><rb>臨席</rb><rt>りんせき</rt></ruby>の<ruby><rb>貴賓諸君</rb><rt>きひんしょくん</rt></ruby>に向かっておじぎをした。

そのときヴィタリス親方が言った。

「この犬の名をカピと言うのは、イタリア語のカピターノをつめたので、犬の中の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>ということです。いちばんかしこくって、わたしの<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>を代わってほかのものに<ruby><rb>伝</rb><rt>つた</rt></ruby>えます。その黒いむく毛の<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>いハイカラさんは、ゼルビノ<ruby><rb>侯</rb><rt>こう</rt></ruby>ですが、これは<ruby><rb>優美</rb><rt>ゆうび</rt></ruby>という意味で、よく様子をご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>なさい、いかにもその名前のとおりだ。さてあのおしとやかなふうをした歌い<ruby><rb>雌犬</rb><rt>めすいぬ</rt></ruby>はドルス<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>です。あの子はイギリス<ruby><rb>種</rb><rt>だね</rt></ruby>で、名前はあの子の<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい気だてにちなんだものだ。こういうりっぱな<ruby><rb>芸人</rb><rt>げいにん</rt></ruby>ぞろいで、わたしは国じゅうを流して回ってくらしを立てている。いいこともあれば悪いこともある、まあ何事もそのときどきの回り合わせさ。おおカピ……」

カピと<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれた犬は前足を十文字に組んだ。

「カピ、あなた、ここへ来て、ぎょうぎのいいところをお目にかけてください。わたしはこの<ruby><rb>貴人</rb><rt>きじん</rt></ruby>たちにいつもていねいなことばを使っています――さあ、この玉のような<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>い目をしてあなたを見てござる小さいお子さんに、いまは何時だか教えてあげてください」

カピは前足をほどいて、主人のそばへ行って、ひつじの毛皮服のふところを開け、そのかくしを<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って大きな銀時計を取り出した。かれはしばらく時計をながめて、それから二声しっかり高く、ワンワンとほえた。それから、今度は三つ小声でちょいとほえた。時間は二時四十五分であった。

「はいはい、よくできました」とヴィタリスは言った。「ありがとうございます、カピさん。それで今度は、ドルス<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>になわとびおどりをお願いしてもらいましょうか」

カピはまた主人のかくしを<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>って一本のつなを出し、軽くゼルビノに合図をすると、ゼルビノはすぐにかれの<ruby><rb>真向</rb><rt>まむ</rt></ruby>かいに<ruby><rb>座</rb><rt>ざ</rt></ruby>をしめた。カピがなわのはしをほうってやると、二ひきの犬はひどくまじめくさって、それを回し始めた。

つなの運動が<ruby><rb>規則</rb><rt>きそく</rt></ruby>正しくなったとき、ドルスは<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>の中にとびこんで、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい目で主人を見ながら<ruby><rb>軽快</rb><rt>けいかい</rt></ruby>にとんだ。

「このとおりずいぶんりこうです」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。「それも<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べるものができるとなおさらりこうが目立って見える。たとえばここにあれらと<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>になって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>の役を<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>める者があれば、いっそうそれらの<ruby><rb>値打</rb><rt>ねう</rt></ruby>ちがわかるのだ。そこでわたしはおまえさんのこの子どもが<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しいというのだ。あの子に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>の役を務めてもらって、いよいよ犬たちのりこうを目立たせるようにするのだ」

「へえ、この子が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>を<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めるのかね」とバルブレンが口を入れた。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>の役を務めるには、それだけりこうな人間が入りようなのだ。この子なら少ししこめばやってのけよう。さっそく<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>してみることにします。この子がじゅうぶんりこうな子なら、わたしといっしょにいればこの国ばかりか、ほかの国ぐにまで見て歩けることがわかるはずだ。だがこのままこの村にいたのでは、せいぜい朝から<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>まで同じ<ruby><rb>牧場</rb><rt>ぼくじょう</rt></ruby>で牛やひつじの番人をするだけだ。この子がわからない子だったら、<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じだんだ</span>をふむだろう。そうすればわたしは<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れては行かない。それで<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>に送られて、ひどく<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>かされて、ろくろく食べる物も食べられないだろう」

わたしも、そのくらいのことがわかるだけにはかしこかった。それにこの親方のお<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>たちはとぼけていてなかなかおもしろい。あれらといっしょに旅をするのは、ゆかいだろう。だがバルブレンのおっかあは……おっかあに<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるのはつらいなあ……

でもそれをいやだと言ってみたところで、バルブレンのおっかあとこの先いることはできない。やはり<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>に送られなければならない。

わたしはほんとに<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けなくなって、目にいっぱいなみだをうかべていた。するとヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が軽くなみだの流れ出したほおをつついた。

「ははあおこぞうさん、大さわぎをやらないのはわけがわかっているのだな。小さい<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>で<ruby><rb>思案</rb><rt>しあん</rt></ruby>をしているのだな。それであしたは……」

「ああ、おじさん、どうぞぼくをおっかあの所へ<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてください。どうぞ置いてください」とわたしはさけんだ。

カピが大きな声でほえたので、じゃまされてわたしはそれから先が言えなかった。そのとたん犬はジョリクールのすわっていた<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>のほうへとび上がった。<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のさるはみんながわたしのことで気を取られているすきをねらって、す早く酒をいっぱいついである主人のコップをつかんで、飲み<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>そうとしたのだ。けれどもカピは目早くそれを見つけて止めたのであった。

「ジョリクールさん」とヴィタリスが<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しい声で言った。「あなたは食いしんぼうのうえにどろぼうです。あそこのすみに行ってかべのほうを向いていなさい。ゼルビノさん、あなたは番をしておいでなさい。動いたらぶっておやり。さてカピさん、あなたはいい犬です。前足をお出しなさい。<ruby><rb>握手</rb><rt>あくしゅ</rt></ruby>をしましょう」

さるは息づまったような鳴き声を出して、すごすごすみのほうへ行った。幸せな犬は<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>な顔をして前足を主人に出した。

「さて」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はことばをついで、「<ruby><rb>先刻</rb><rt>せんこく</rt></ruby>の話にもどりましょう。ではこの子に三十フラン出すことにしよう」

「いや、四十フランだ」

そこでおし問答が始まった。だが<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はまもなくやめて、「子どもにはおもしろくない話です。外へ出て遊ばせてやるがよろしい」と言った。そうしてバルブレンに目くばせをした。

「よし、じゃあ<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>へ行っていろ。だがにげるな。にげるとひどい目に会わせるから」

バルブレンがこう言うと、わたしはそのとおりにするほかはなかった。それで裏庭へ出るには出たが、遊ぶ気にはなれない。大きな石にこしをかけて考えこんでいた。

あの人たちはわたしのことを<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>している。どうするつもりだろう。

心配なのと寒いのとでわたしはふるえていた。二人は長いあいだ話していた。わたしはすわって待っていたが、かれこれ一時間もたってバルブレンが<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>へ出て来た。

かれは一人であった。あのじいさんにわたしを手わたすつもりで<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来たのだな。

「さあ帰るのだ」とかれは言った。

なに、うちへ帰る。――そうするとバルブレンのおっかあに<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れないでもすむのかな。

わたしはそう言ってたずねたかったけれども、かれがひどくきげんが悪そうなのでえんりょした。

それで……だまってうちのほうへ歩いた。

けれどもうちまで行き着くまえに、先に立って歩いていたバルブレンはふいに立ち止まった。そうして<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>にわたしの耳をつかみながらこう言った。

「いいかきさま、ひと言でもきょう聞いたことをしゃべったらひどい目に会わせるから。わかったか」

おっかあの家

「おや」とバルブレンのおっかあはわたしたちを見て言った。「村長さんはなんと言いましたえ」

「会わなかったよ」

「どうして会わなかったのさ」

「うん、おれはノートルダームで友だちに会った。外へ出るともうおそくなった。だからあしたまた行くことにした」

それではバルブレンは犬を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れたじいさんと取り引きをすることはやめたとみえる。

うちへ帰える道みちもわたしはこれがこの男の手ではないかと<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>っていたが、いまのことばでその<ruby><rb>疑</rb><rt>うたが</rt></ruby>いは消えて、ひとまず心が落ち着いた。またあした村へ行って村長さんを<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねるというのでは、きっとじいさんとのやくそくはできなかったにちがいない。

バルブレンにはいくらおどかされても、わたしは一人にさえなったら、おっかあにきょうの話をしようと思っていたが、とうとうバルブレンはその<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>一晩じゅううちをはなれないので話す<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>がなかった。

すごすごねどこにもぐりながら、あしたは話してみようと思っていた。

けれどそのあくる日起き上がると、おっかあの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が見えない。わたしがそのあとを追ってうちじゅうをくるくる回っているのを見て、なにをしているとバルブレンは聞いた。

「おっかあ」

「ああ、それなら村へ行った。<ruby><rb>昼過</rb><rt>ひるす</rt></ruby>ぎでなければ帰るものか」

おっかあはまえの<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>、村へ行く話はしなかった。それでなぜというわけはないが、わたしは心配になってきた。わたしたちが昼過ぎから出かけるというのに、どうして待っていないのだろう。わたしたちの出かけるまえにおっかあは帰って来るかしらん。

なぜというしっかりしたわけはないのだが、わたしはたいへんおどおどしだした。

バルブレンの顔を見るとよけいに心配が<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もるばかりであった。その目つきからにげるためにわたしは<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>の<ruby><rb>野菜畑</rb><rt>やさいばたけ</rt></ruby>へかけこんだ。

畑といってもたいしたものではなかった。それへなんでもうちで食べる<ruby><rb>野菜物</rb><rt>やさいもの</rt></ruby>は<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずじゃがいもでもキャベツでも、にんじんでも、かぶでも作りこんであった。それはちょっとの空き地もなかったのであるが、それでもおっかあはわたしに少し地面を<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>しておいてくれたので、わたしはそこへ<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>を<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いながら野でつんで来た草や花を、ごたごた植えこんだ。わたしはそれを『わたしの畑』と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んでだいじにしていた。

わたしがいろいろな草花を集めては、植えつけたのは去年の夏のことであった。それが<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>をふくのはこの春のことであろう。早ざきのものでも冬の終わるのを待たなければならなかった。これから<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いておいおい芽を出しかけている。

もう黄ずいせんもつぼみを黄色くふくらましていたし、リラの花も芽を出していた。さくらそうもしわだらけな葉の中からかわいいつぼみをのぞかせている。

どんな花がさくだろう。

それを楽しみにして、わたしは毎日出てみた。

それからまたわたしのだいじにしていた畑の一部には、だれかにもらっためずらしい<ruby><rb>野菜</rb><rt>やさい</rt></ruby>を植えている。それは村でほとんど知っている者のない『きくいも』というものであった。なんでもいい味のもので、じゃがいもと、ちょうせんあざみと、それからいろいろの<ruby><rb>野菜</rb><rt>やさい</rt></ruby>をいっしょにした味がするのであった。わたしはそっとこの野菜をじょうずに作って、おっかあをおどろかそうと思っていた。ただの花だと思わせておいて、そっと実のなったところを引きぬいて、ないしょで<ruby><rb>料理</rb><rt>りょうり</rt></ruby>をして、いつも同じようなじゃがいもにあきあきしているおっかあに食べさせて、『まあルミ、おまえはなんて<ruby><rb>器用</rb><rt>きよう</rt></ruby>な子だろう』と感心させてやろう。

こんなことを思い思いこのときも、まだ<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>が出ないかと思って、<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>のまいてある地べたに鼻をくっつけて調べていた。ふと気がつくとバルブレンがかんしゃく声で<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>びたてているので、びっくりしてうちへはいった。まあどうだろう。おどろいたことには、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の前にヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>と犬たちが立っているではないか。

すぐとわたしはバルブレンがわたしをどうするつもりだということがわかった。老人がやはりわたしを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くのだ。それをおっかあがじゃましないように村へ出してやったのだ。

もうバルブレンになにを言ってみてもむだだということがわかっているから、わたしはすぐと<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>のほうへかけ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>った。

「ああ、ぼくを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行かないでください。<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>ですから、連れて行かないでください」とわたしはしくしく<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きだした。

すると<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい声で言った。「なにさ、ぼうや、わたしといればつらいことはないよ。わたしは子どもをぶちはしない。<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>には犬もいる。わたしと行くのがなぜ悲しい」

「おっかあが……」

「どうせきさまはここには<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>けないのだ」とバルブレンはあらあらしく言って、耳を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>った。

「このだんなについて行くか、<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>へ行くか、どちらでもいいほうにしろ」

「いやだいやだ、おっかあ、おっかあ」

「やい、それだとおれはどうするか見ろ」とバルブレンがさけんだ。「思うさまひっぱたいて、このうちから追い出してくれるぞ」

「この子は母親に<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるのを悲しがっているのだ。それをぶつものではない。<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい心だ。いいことだ」

「おまえさんがいたわると、よけいほえやがる」

「まあ、話を決めよう」

そう言いながら、<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は五フランの<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を八<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>テーブルの上にのせた。バルブレンはそれをさらいこむようにしてかくしに入れた。

「この子の荷物は」と老人が言った。

「ここにあるさ」とバルブレンが言って、青いもめんのハンケチで四すみをしばった<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みをわたした。

中にはシャツが二<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>と、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>のズボンが一着あるだけであった。

「それではやくそくがちがうじゃないか。着物があるという話だったが、これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼろ</span>ばかりだね」

「こいつはほかにはなにもないのだ」

「この子に聞けば、きっとそうではないと言うにちがいないが、そんなことを<ruby><rb>争</rb><rt>あらそ</rt></ruby>っているひまがない。もう出かけなければならないからな。さあおいで、こぞうさん、おまえの名はなんと言うんだっけ」

「ルミ」

「そうか、よしよし、ルミ。<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>みを持っておいで。先へおいで、カピ。さあ、行こう、進め」

わたしは<ruby><rb>哀訴</rb><rt>あいそ</rt></ruby>するように両手を<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>に出した。それからバルブレンにも出した。けれども二人とも顔をそむけた。しかも、老人はわたしのうで首をつかまえようとした。

わたしは行かなければならない。

ああ、このうちにもお<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れだ。いよいよそのしきいをまたいだとき、からだを半分そこへ<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>して行くようにわたしは思った。

なみだをいっぱい目にうかべてわたしは見回したが、手近にはだれもわたしに<ruby><rb>加勢</rb><rt>かせい</rt></ruby>してくれる者がなかった。<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>にもだれもいなかった。<ruby><rb>牧場</rb><rt>ぼくじょう</rt></ruby>にもだれもいなかった。

わたしは<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「おっかあ、おっかあ」

けれどだれもそれに答える者はなかった。わたしの声はすすり<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きの中に消えてしまった。

わたしは<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>について行くほかはなかった。なにしろうで首をしっかりおさえられているのだから。

「さようなら、ごきげんよう」とバルブレンがさけんだ。

かれはうちの中へはいった。

ああ、これでおしまいである。

「さあ、行こう、ルミ、進め」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が言って。わたしのひじをおさえた。

わたしたちはならんで歩いた。幸せとかれはそう早く歩かなかった。たぶんわたしの足に合わせて歩いてくれたのであろう。

わたしたちは坂を上がって行った。ふり返るとバルブレンのおっかあのうちがまだ見えたが、それはだんだんに小さく小さくなっていった。この道はたびたび歩いた道だから、もうしばらくはうちが見えて、それから<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>の四つ角を曲がるともう見えなくなることをわたしはよく知っていた。行く先は知らない国である。後ろをふり返ればきょうの日まで幸福な生活を送ったうちがあった。おそらく二度とそれを見ることはないであろう。

幸い坂道は長かったが、それもいつか<ruby><rb>頂上</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>に来た。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はおさえた手をゆるめなかった。

「少し休ましてくださいな」とわたしは言った。

「うん、そうだなあ」とかれは答えた。

かれはやっとわたしをはなしてくれた。

けれどカピに目くばせをすると、犬もそれをさとった様子がわたしには見えた。

それですぐと、ひつじ<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いの犬のように、<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の先頭からはなれてわたしのそばへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来た。

わたしがにげ出しでもすれば、すぐにかみついてくるにちがいない。

わたしは草深い小山の上に登ってこしをかけると、犬も後ろについていた。

わたしはなみだにくもった目で、バルブレンのおっかあのうちを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>した。

下には谷があって、所どころに森や<ruby><rb>牧場</rb><rt>ぼくじょう</rt></ruby>があった。それからはるか下にいままでいたうちが見えた。黄色いささやかなけむりが、そこのけむり出しからまっすぐに空へ立ちのぼって、やがてわたしたちのほうへなびいて来た。

気の<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>いか、そのけむりはうちのかまどのそばでかぎ<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れたかしの葉のにおいがするようであった。

それは遠方でもあり、下のほうになってはいたが、なにもかもはっきり見えた。ただなにかがたいへん小さく見えたのは言うまでもない。

ちりづかの植えにうちの太っためんどりがかけ回っていたが、いつものように大きくは見えなかった。うちのめんどりだということを知っていなかったら、小さなはとだと思ったかもしれない。うちの横には、わたしが馬にしていつも乗った曲がったなしの木が、小川のこちらには、わたしが水車をしかけようとして大さわぎをしてきずきかけたほりわりが見えた。まあ、その水車にはずいぶんひまをかけたが、とうとう回らなかった。わたしの畑も見えた。ああ、わたしのだいじな畑が。

わたしの花がさいてもだれが見るだろう。わたしの『きくいも』をだれが食べるだろう。きっとそれはバルブレンだ。あの<ruby><rb>悪党</rb><rt>あくとう</rt></ruby>のバルブレンだ。

もう一<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby><ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>へ出れば、わたしの畑もなにもかもかくれてしまうのだ。

ふと村からわたしのうちのほうへ通う往来の上に、白いボンネットが見えて、木の間にちらちら見えたりかくれたりしていた。

それはずいぶん遠方であったから、ぽっちり白く、春のちょうちょうのように見えただけであった。

けれど目よりも心はするどくものを見るものだ。わたしは、それがバルブレンのおっかあであることを知った。<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かにおっかあだ、とわたしは思いこんでいた。

「さて出かけようか」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が言った。

「ああ、いいえ、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>ですからも少し」

「じゃあ話とはちがって、おまえは、から（ぜんぜん）、足がだめだな。もうつかれてしまったのか」

わたしは答えなかった。ただながめていた。

やはりそれはバルブレンのおっかあであった。それはおっかあのボンネットであった。水色の前だれであった。足早に、気がせいているように、うちに向かって行くのであった。

白いボンネットはまもなくうちの前に着いた。戸をおし開けて、急いで庭にはいって行った。

わたしはすぐにとび上がって、土手の上に立ち上がった。そばにいたカピがおどろいてとびついて来た。

おっかあはいつまでもうちの中にはいなかった。まもなく出て来て、両うでを広げながら、あちこちと庭の中をかけ回っていた。

かの女はわたしを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しているのだ。

わたしは首を前に<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>ばして、ありったけの声でさけんだ。

「おっかあ、おっかあ」

けれどもそのさけび声は空に消えてしまった、小川の水音に消されてしまった。

「どうしたのだ。おまえ、気がちがったのか」とヴィタリスは言った。

わたしは答えなかった。わたしの目はまたバルブレンのおっかあをじっと見ていた。けれども向こうではわたしが上にいるとは知らないから、あお向いては見なかった。そうして庭をぐるぐる回って、<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>へ出て、きょろきょろしていた。

もっと大きな声でわたしはさけんだ。けれども、<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めの声と同様にむだであった。

そのうち<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>もやっとわかったとみえて、やはり土手に登って来た。かれもまもなく白いボンネットを見つけた。

「かわいそうに、この子は」とかれはそっと<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>を言った。

「おお、わたしを帰してください」と、わたしはいまの<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことばに<ruby><rb>乗</rb><rt>の</rt></ruby>って、<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>を出した。

けれどもかれはわたしの手首をおさえて、土手を下りて<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>へ出た。

「さあ、だいぶ休んだから、もう出かけるのだ」と、かれは言った。

わたしはぬけ出そうともがいたけれども、かれはしっかりわたしをおさえていた。

「さあカピ、ゼルビノ」と、かれは犬のほうを見ながら言った。

二ひきの犬がぴったりわたしにくっついた。カピは後ろに、ゼルビノは前に。

<ruby><rb>二足</rb><rt>ふたあし</rt></ruby><ruby><rb>三足</rb><rt>みあし</rt></ruby>行くと、わたしはふり向いた。

わたしたちはもう坂の曲がり角を通りこした。もう谷も見えなければ家も見えなくなった。ただ遠いかなたに<ruby><rb>遠山</rb><rt>とおやま</rt></ruby>がうすく青くかすんでいた。<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>てしもない空の中にわたしの目はあてどなく<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>うのであった。

とちゅう

四十フラン出して子どもを買ったからといって、その人は<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>でもなければ、その子どもの肉を食べようとするのでもなかった。ヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はわたしを食べようという<ruby><rb>欲</rb><rt>よく</rt></ruby>もなかったし、子どもを買ったが、その人は悪人ではなかった。

わたしはまもなくそれがわかった。

ちょうどロアール川とドルドーニュ川と、二つの谷を分かった山の<ruby><rb>頂上</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>で、かれはふたたびわたしの手首をにぎった。その山を南へ下り始めて十五分も行ったころ、かれは手をはなした。

「まああとからぽつぽつおいで。にげることはむだだよ。カピとゼルビノがついているからな」

わたしたちはしばらくだまって歩いていた。

わたしはふとため息を一つした。

「わしにはおまえの心持ちはわかっているよ」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った、「<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きたいだけお泣き。だがまあ、これがおまえのためにはいいことだということを考えるようにしてごらん。あの人たちはおまえのふた親ではないのだ、おっかあはおまえに<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくはしてくれたろう。それでおまえも<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>いていたから、それでそんなに悲しく思うのだろう。けれどもあの人は、ご<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>がおまえをうちに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>きたくないと言えば、それを止めることはできなかったのだ。それにあの男だって、なにもそんなに悪い男というのでもないかもしれない。あの男はからだを悪くして、もうほかの仕事ができなくなっている。かたわのからだでは食べてゆくだけに<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>が<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れるのだ。そのうえおまえを<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>っていては、自分たちが<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えて死ななければならないと思っているのだ。そこでおまえにひとつ<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>てもらいたいことがある。世の中は<ruby><rb>戦争</rb><rt>せんそう</rt></ruby>のようなもので、だれでも自分の思うようにはゆかないものだということだ」

そうだ、<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>の言ったことはほんとうであった。<ruby><rb>貴</rb><rt>とうと</rt></ruby>い<ruby><rb>経験</rb><rt>けいけん</rt></ruby>から出た<ruby><rb>訓言</rb><rt>くんげん</rt></ruby>（教訓）であった。でもその訓言よりももっと力強い一つの考えしか、わたしはそのとき持っていなかった。それは『<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れのつらさ』ということであった。

わたしはもう二度とこの世の中で、いちばん<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きだった人に会うことができないのだ。こう思うとわたしは息苦しいように感じた。

「まあ、わたしの言ったことばをよく考えてごらん。おまえはわたしといれば<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せなことはないよ」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は言った。「<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こいじん</rt></ruby>などへやられるよりはいくらましだかしれない。それで言っておくが、おまえはにげ出そうとしてもだめだよ。そんなことをすれば、あのとおりの<ruby><rb>広野原</rb><rt>ひろのはら</rt></ruby>だ。カピとゼルビノがすぐとおまえをつかまえるから」

こう言ってかれは目の前のあれた<ruby><rb>高原</rb><rt>こうげん</rt></ruby>を指さした。そこにはやせこけた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えにしだ</span>が、風のまにまに波のようにうねっていた。

にげ出す――わたしはもうそんなことをしようとは思わなかった。にげていったいどこへわたしは行こう。

この<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は、ともかく<ruby><rb>親切</rb><rt>しんせつ</rt></ruby>な主人であるらしい。

わたしは一息にこんなに歩いたことはなかった。ぐるりに見るものはあれた土地と小山ばかりで、村を出たらば向こうはどんなに美しかろうと思ったほど、この世界は美しくはなかった。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はジョリクールを<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>の上に乗せたり、<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>の中に入れたりして、しじゅう<ruby><rb>規則</rb><rt>きそく</rt></ruby>正しく、大またに歩いていた。三びきの犬はあとからくっついて来た。

ときどき老人はかれらに<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことばをかけていた。フランス語で言うこともあったし、なんだかわからないことばで言うこともあった。

かれも犬たちもくたびれた様子がなかった。だがわたしはつかれた。足を引きずって、この新しい主人にくっついて歩くのが<ruby><rb>精</rb><rt>せい</rt></ruby>いっぱいであった。けれども休ませてくれとは言いだし<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>なかった。

「おまえがくたびれるのは木のくつのせいだよ」とかれは言った。「いずれユッセルへ着いたらくつを買ってやろう」

このことばはわたしに元気をつけてくれた。わたしはしじゅうくつが欲しいと思っていた。村長のむすこも、はたごやのむすこもくつを持っていた。それだから日曜というとかれらはお寺へ来て石のろうかをすべるように走った。それをわれわれほかのいなかの子どもは、木ぐつでがたがた、耳の遠くなるような音をさせたものだ。

「ユッセルまではまだ遠いんですか」

「ははあ、<ruby><rb>本音</rb><rt>ほんね</rt></ruby>をふいたな」とヴィタリスが<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いながら言った。「それではくつが<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しいんだな。よしよし、わたしはやくそくをしよう。それも大きなくぎを<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>に打ったやつをなあ。それからビロードの半ズボンとチョッキとぼうしも買ってやる。それでなみだが引っこむことになるだろう。なあ、そうしてもらおうじゃないか。そしてあと六マイル（約四十キロ）歩いてくれるだろうなあ」

<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>にくぎを打ったくつ、わたしは<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>でたまらなかった。くつをはくことさええらいことなのに、おまけにくぎを打ってある。わたしは悲しいことも<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れてしまった。

くぎを打ったくつ、ビロードの半ズボンに、チョッキに、ぼうし。

まあバルブレンのおっかあがわたしを見たらどんなにうれしがるだろう。どんなに<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になるだろう。

けれども、なるほどくつとビロードがこれから六マイル歩けばもらえるというやくそくはいいが、わたしの足はそんな遠方まで行けそうにもなかった。

わたしたちが出かけたときに青あおと晴れていた空が、いつのまにか黒い雲にかくれて、細かい雨がやがてぽつぽつ落ちて来た。

ヴィタリスはそっくりひつじの毛皮服にくるまっているので、雨もしのげたし、さるのジョリクールも、一しずく雨がかかるとさっそくかくれ<ruby><rb>家</rb><rt>が</rt></ruby>ににげこんだ。けれども犬とわたしはなんにもかぶるものがないので、まもなく<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>まで通るほどぬれた。でも犬はぬれてもときどきしずくをふり落とすくふうもあったが、わたしはそんなことはできなかった。下着までじくじくにぬれ通って、骨まで<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>えきっていた。

「おまえ、じきかぜをひくか」と主人は聞いた。

「知りません。かぜをひいた<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えがないから」

「それはたのもしいな。だがこのうえぬれて歩いてもしようがないことだから、少しでも早くこの先の村へ行って休むとしよう」

ところがこの村には一けんも<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>というものはなかった。当たり前の家ではじいさんのこじきの、しかも子どもに三びきの犬まで引き<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて、ぬれねずみになった<ruby><rb>同勢</rb><rt>どうぜい</rt></ruby>をとめようという者はなかった。

「うちは<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>じゃないよ」

こう言ってどこでも戸を立てきった。わたしたちは一けん一けん聞いて歩いて、一けん一けん<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>られた。

これから四マイル（約六キロ）ユッセルまで一休みもしないで行かなければならないのか。暗さは暗し、雨はいよいよ<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たく<ruby><rb>骨身</rb><rt>ほねみ</rt></ruby>に通った。ああ、バルブレンのおっかあのうちがこいしい。

やっとのことで一けんの<ruby><rb>百姓家</rb><rt>ひゃくしょうや</rt></ruby>がいくらか親切があって、わたしたちを<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>にとめることを<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくれた。でもねるだけはねても、明かりをつけることはならないという言いわたしであった。

「おまえさん、マッチを出しなさい。あしたたつとき返してあげるから」とその<ruby><rb>百姓家</rb><rt>ひゃくしょうや</rt></ruby>の主人はヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>に言った。

それでもとにかく、風雨を<ruby><rb>防</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぐ屋根だけはできたのであった。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は<ruby><rb>食料</rb><rt>しょくりょう</rt></ruby>なしに旅をするような<ruby><rb>不注意</rb><rt>ふちゅうい</rt></ruby>な人ではなかった。かれは<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>にしょっていた<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>から一かたまりのパンを出して、四きれにちぎった。

さてこのときわたしははじめて、かれがどういうふうにして、<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の<ruby><rb>規律</rb><rt>きりつ</rt></ruby>を立てているかということを知った。さっきわれわれが一けん一けん<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>して歩いたとき、ゼルビノがある家にはいったが、さっそくかけ出して来たとき、パンの切れを口にくわえていた。そのとき<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はただ、

「よしよし、ゼルビノ……今夜は<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていろ」とだけ言った。

わたしはもうゼルビノのどろぼうをしたことは<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れて、ヴィタリスがパンを切る手先をぼんやり見ていた。ゼルビノはしかしひどくしょげていた。

ヴィタリスとわたしはとなり合ってジョリクールをまん中に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて、二つあるわらのたばの上、かれ草のたばの上にこしをかけて、三びきの犬はその前にならんでいた。カピとドルスは主人の顔をじっと見つめているのに、ゼルビノは耳を立ててしっぽを足の間に入れて立っていた。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>するような調子で言った。「どろぼうは<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>をはずれて、すみに行かなければならんぞ。夕食なしにねむらなければならんぞ」

ゼルビノは<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>を去って、指さされたほうへすごすご出て行った。それでかれ草の<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>んである下にもぐりこんで、<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が見えなくなったが、その下で悲しそうにくんくん<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いている声が聞こえた。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はそれからわたしにパンを一きれくれて、自分の分を食べながら、ジョリクールとカピとドルスに、小さく切って分けてやった。

どんなにわたしはバルブレンのおっかあのスープがこいしくなったろう。それにバターはなくっても、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の火がどんなにいい心持ちであったろう。夜着の中に鼻をつっこんでねた小さな<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>がこいしいな。

もうすっかりくたびれきって、足は木ぐつですれて<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>んだ。着物はぬれしょぼたれているので、<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たくってからだがふるえた。夜中になってもねむるどころではなかった。

「歯をがたがた言わせているね。おまえ寒いか」と<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が言った。

「ええ、少し」

わたしはかれが<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>を開ける音を聞いた。

「わたしは着物もたんとないが、かわいたシャツにチョッキがある。これを着てまぐさの下にもぐっておいで。じきに<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かになってねむられるよ」

でも<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が言ったようにそうじき暖かにはならなかった。わたしは長いあいだわらのとこの上でごそごそしながら、苦しくってねむられなかった。もうこれから先はいつもこんなふうにくらすのだろうか。ざあざあ雨の<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>る中を歩いて、寒さにふるえながら、<ruby><rb>物置</rb><rt>ものお</rt></ruby>きの中にねて、夕食にはたった一きれの<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>パンを分けてもらうだけであろうか。スープもない。だれもかわいがってくれる者もない。だきしめてくれる者もない。バルブレンのおっかあももうないのだ。

わたしの心はまったく悲しかった。なみだが首を流れ落ちた。

そのときふと<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい息が顔の上にかかるように思った。

わたしは手を<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>ばすと、カピのやわらかい毛が手にさわった。かれはそっと草の上を音のしないように歩いて、わたしの所へやって来たのだ。わたしのにおいを<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくかぎ回る息が、わたしのほおにも<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>にもかかった。

この犬はなにをしようというのであろう。

やがてかれはわたしのすぐそばのわらの上に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げて、それはごく<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにわたしの手をなめ始めた。

わたしもうれしくなって、わらのとこの上に半分起き返って、犬の首を両うでにかかえて、その<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たい鼻にキッスした。かれはわずか息のつまったような<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>を立てたが、やがて手早く前足をわたしの手に<ruby><rb>預</rb><rt>あず</rt></ruby>けて、じつとおとなしくしていた。

わたしはつかれも悲しみも<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れた。息苦しいのどがからっとして、息がすうすうできるようになった。ああ、わたしはもう一人ではなかった。わたしには友だちがあった。

<ruby><rb>初舞台</rb><rt>はつぶたい</rt></ruby>

そのあくる日は早く出発した。

空は青あおと晴れて、夜中のから風がぬかるみをかわかしてくれた。小鳥が林の中でおもしろそうにさえずっていた。三びきの犬はわたしたちの回りにもつれていた。ときどきカピが後足で立ち上がって、わたしの顔を見ては二、三度<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けてほえた。かれの心持ちはわたしにはわかっていた。

「元気を出せ、しっかり、しっかり」

こう言っているのであった。

かれはりこうな犬であった。なんでもわかるし、人にわからせることも知っていた。この犬の<ruby><rb>尾</rb><rt>お</rt></ruby>のふり方にはたいていの人の<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>や口で言う<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>頓知</rb><rt>とんち</rt></ruby>と<ruby><rb>能弁</rb><rt>のうべん</rt></ruby>がふくまれていた。わたしとカピの間にはことばは<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らなかった。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めての日からおたがいの心持ちはわかっていた。

わたしはこれまで村の外には出たことがなかったし、<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて町を見るのはなにより楽しみであった。

でもユッセルの町は子どもの目にそんなに美しくはなかったし、それに町の<ruby><rb>塔</rb><rt>とう</rt></ruby>や古い<ruby><rb>建物</rb><rt>たてもの</rt></ruby>などよりも、もっと気になるのはくつ屋の店であった。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>がやくそくをしたくぎを打ったくつのある店はどこだろう。

わたしたちがユッセルの古い町を通って行ったとき、わたしはきょろきょろそこらを見回した。ふと老人は<ruby><rb>市場</rb><rt>いちば</rt></ruby>の後ろの一けんの店にはいった。店の外に古い<ruby><rb>鉄砲</rb><rt>てっぽう</rt></ruby>だの、金モールのへりのついた服だの、ランプだの、さびたかぎだのがつるしてあった。

わたしたちは<ruby><rb>三段</rb><rt>だん</rt></ruby>ほど段を下りてはいってみると、それはもう屋根がふけてからのち、太陽の光がついぞ一度もさしこまなかったと思われる大きな<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいった。

くぎを打ったくつなんぞを、どうしてこんな気味の悪い所で売っているだろう。

けれども<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>にはわかっていた。それでまもなくわたしは、これまでの木ぐつの<ruby><rb>十倍</rb><rt>ばい</rt></ruby>も重たい、くぎを打ったくつをはくことになった。うれしいな。

老人の<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けはそれだけではなかった。かれはわたしに水色ビロードの上着と、<ruby><rb>毛織</rb><rt>けお</rt></ruby>りのズボンと、フェルトぼうしまで買ってくれた。かれのやくそくしただけの品は<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずそろった。

まあ、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>の着物のほか着たことのなかったわたしにとって、ビロードの服のめずらしかったこと。それにくつは。ぼうしは。わたしはたしかに世界じゅうでいちばん幸福な、いちばん気前のいい大金持ちであった。ほんとうにこの<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>は世界じゅうでいちばんいい人でいちばん<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>け深い人だと思われた。

もっともそのビロードは油じみていたし、<ruby><rb>毛織</rb><rt>けお</rt></ruby>りのズボンはかなり<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れていた。それにフェルトぼうしのフェルトもしたたか雨によごれて、もとの色がなんであったかわからないくらいであった。けれどもわたしはむやみにうれしくって、品物のよしあしなどはわからなかった。

ところで<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>に帰ってから、さっそくこのきれいな着物を着たいとあせっていたわたしをびっくりさせもし、つまらなくもさせたことは、<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>がはさみでそのズボンのすそをわたしのひざの長さまで切ってしまったことであった。

わたしは丸い目をしてかれの顔を見た。

「これはおまえをほかの子どもと同じように見せないためだよ。フランスではおまえはイタリアの子どものようなふうをするのだ。イタリアではフランスの子どものようなふうをするのだ」とかれは<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>した。

わたしはいよいよびっくりしてしまった。

「わたしたちは<ruby><rb>芸人</rb><rt>げいにん</rt></ruby>だろう。なあ。それだから当たり前の人のようなふうをしてはならないのだ。われわれがここらのいなかの人間のようなふうをして歩いたら、だれが目をつけると思うか。わたしたちはどこでも立ち止まれば、回りに人を集めなければならない。困ったことには、なんでもていさいを作るということが、この世の中でかんじんなことなのだよ」

こういうわけで、わたしは朝まではフランスの子どもであったが、その<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>はもうイタリアの子どもになっていた。

ズボンはやっとひざまで<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いた。<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はくつ下にひもをぬいつけて、フェルトぼうしの上にはいっぱいに赤いリボンを<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>びつけた。それから毛糸の花でおかざりをした。

わたしはほかの人がどう思うかは知らないが、正直に言えば自分ながらなかなかりっぱになったと思った。親友のカピも同じ考えであったから、しばらくわたしの顔をじっと見て、<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>したふうで前足を出した。

わたしはカピの<ruby><rb>賛成</rb><rt>さんせい</rt></ruby>を<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>たのでうれしかった。それというのが、わたしが着物を着かえている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のジョリクールめが、わたしのまん前にべったりすわって、大げさな身ぶりで、さんざんひとのするとおりのまねをして、すっかり仕度ができると、今度はおしりに手を当て、首をちぢめて、あざけるように<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>ったので、一方にそういう実意のある<ruby><rb>賛成者</rb><rt>さんせいしゃ</rt></ruby>のできたのがよけいにうれしかったのである。

いったいさるが笑うか笑わないかということは、学問上の問題だそうだ。わたしは長いあいだジョリクールと<ruby><rb>仲</rb><rt>なか</rt></ruby>よくくらしていたが、かれはたしかに笑った。しかもどうかすると人をばかにした<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>い<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>をしたものだ。もちろんかれは人間のようには笑わなかった。けれどもなにかおもしろいことがあると、口を曲げて、目をくるくるやって、あのしっぽをす早く<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>かせる。そうしてまっ黒な目はぴかぴか光って、火花がとび出すかと思われた。

「さあ仕度ができたら」と<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>にぼうしを頭にかぶると<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>が言った。「わたしたちはいよいよ仕事にかからなければならない。あしたは<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>の立つ日だから、おまえは<ruby><rb>初舞台</rb><rt>はつぶたい</rt></ruby>を<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めなければならない」

初舞台。初舞台とはどんなことだろう。

<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はそこで、この初舞台というのは、三びきの犬とジョリクールを<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>に<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をすることだと教えてくれた。

「でもぼく、どうして<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をするのか知りません」と、わたしはおどおどしながらさけんだ。

「それだから、わたしが教えてあげようというのだよ。教わらなけりゃわかりゃしない。この動物どももいっしょうけんめい自分の役をけいこしたものだ。カピが後足で立つのでも、ドルスがなわとびの<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>をやるのでも、みんなけいこをして<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたのだ。ずいぶん<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>の<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れたことではあったが、その代わりご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>、あのとおりかしこくなっている。おまえも、これからいろいろの役を覚えるためにはよほど勉強が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る。とにかく仕事にかかろう」

これまでわたしは仕事といえば、畑にくわを入れるとか、石を切るとか、木をかるとかいうほかにはないように思っていた。

「さてわたしたちのやる<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>は、『ジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>の家来、一名とんだあほうの取りちがえ』というのだ。それはこういう<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>だ。ジョリクール氏はこれまで一人家来を使っていた。それはカピという名前で、ジョリクール氏はこの家来に<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>していたのだが、年を取ったのでひまを取ろうとする。それでカピは主人にひまを取るまえに、代わりの家来を見つけるやくそくをする。さてその後がまの家来というのは、犬ではなくって子どもなのだ。ルミと名乗るいなかの子どもなのだ」

「やあ、ぼくと同じ名前の……」

「いや、同じ名前ではない、それがおまえなんだ。おまえはジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>の所へ<ruby><rb>奉公口</rb><rt>ほうこうぐち</rt></ruby>を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しにいなかから出て来たのだ」

「おさるに家来はないでしょう」

「そこが<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>だよ。さておまえはいきなり村からとび出して来た。それでおまえの新しい主人はおまえをあほうだと思う」

「おお、ぼく、そんなこといやです」

「人が<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いさえすれば、そんなことはどうでもいいじゃないか。さておまえは<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてこのだんなの所へ家来になってやって来た。そして食事のテーブルごしらえを言いつけられる。それ、ちょうどそこに、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>に使うテーブルがある。さあ、仕度におかかり」

このテーブルの上には、おさらに、コップに、ナイフが一本、フォークが一本、白いテーブルかけが一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby><ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてあった。

どうしてこれだけのものをならべようか。

わたしはそれを考えて、両手をつき出してテーブルによっかかって、ぽかんと口を開けたまま、なにから手をつけていいか困っていると、親方は両手を打って、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をかかえて<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いだした。

「うまいうまい。それこそ本物だ」とかれはさけんだ。「わたしが<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>に使っていた子どもは<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>そうな顔つきで、どうだ、あほうのまねはうまかろうと言わないばかりであった。おまえのはそれがいかにも<ruby><rb>自然</rb><rt>しぜん</rt></ruby>でいい。どうしてすばらしいものだ」

「でもぼく、どうしていいのかわからないんです」

「それだからそんなにうまくやれるのだ。おまえに<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>がわかるとかえって、いま思っているようなことをわざとするようになるだろう。なんでもいまのどうしていいかわからずに<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>っている心持ちを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れないようにしてやれば、いつも上出来だよ。つまり役の<ruby><rb>性根</rb><rt>しょうね</rt></ruby>は、さると人間が、主人と家来と身分を取りかえたついでに、ばかをりこうと取りかえて、とんだあほうの取りちがえ、これが<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>のおかしいところなのだ」

『ジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>の家来』は<ruby><rb>大芝居</rb><rt>おおしばい</rt></ruby>というのではなかったから、二十分より長くは<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>かなかった。ヴィタリスはわたしたちにたびたびそれをくり返させた。わたしは主人がずいぶんしんぼう強いのでおどろいた。これまで村でよく動物をしこむところを見たが、ひどくしかったり、ぶったりしてやっとしこむのであった。ずいぶんけいこは長くやったが、親方は一度もおこったこともなければ、しかったこともなかった。

「さあ、もう一度やり直しだ」とかれは<ruby><rb>厳</rb><rt>きび</rt></ruby>しい声で言って、いけないところを直した。「カピ、それはいけません。ジョリクール、気をつけないとしかりますぞ」

これがすべてであった。しかしそれでじゅうぶんであった。

わたしを教えながらかれは言った。「なんでもけいこには犬をお手本にするがいい。犬とさるとを比べてごらん。ジョリクールはなるほどはしっこいし、ちえもあるけれども、注意もしないし、<ruby><rb>従順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>でもないのだ。かれは教えられたことはわけなく<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるが、すぐそれを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れてしまう。それにかれは言われたことをわざとしない。かえってあべこべなことをしたがる。それはこの動物の<ruby><rb>性質</rb><rt>せいしつ</rt></ruby>だ。だからわたしはあれに対してはおこらない。さるは犬と同じ<ruby><rb>良心</rb><rt>りょうしん</rt></ruby>を持たない。あれには<ruby><rb>義務</rb><rt>ぎむ</rt></ruby>ということばの意味がわかっていない。それが犬におとるところだ。わかったかね」

「ええ」

「おまえはりこうで注意深い子だ。まあなんによらずすなおに、自分のしなければならないことをいっしょうけんめいにするのだ。それを一生<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えておいで」

こういう話をしているうち、わたしは<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>をふるい起こして、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>のけいこのあいだなによりわたしをびっくりさせたことについてかれに<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>した。どうしてかれが犬やさるやわたしに対してあんなにしんぼう強くやれるのであろうか。

かれはにっこり<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。「おまえは<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>たちの<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>にいて、手あらく生き物を取りあつかっては、言うことを聞かないと<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>でぶつようなところばかり見てきたのだろう。だがそれは大きなまちがいだよ。手あらくあつかったところでいっこう役に立たない。<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくしてやればたいていはうまくゆくものだ。だからわたしは動物たちに優しくするようにしている。むやみにぶてばかれらはおどおどするばかりだ。ものをこわがるとちえがにぶる。それに教えるほうでかんしゃくを起こしては、ついいつもの自分とはちがったものになる。それではいまおまえに感心されたようなしんぼう力は出なかったろう。他人を教えるものは自分を教えるものだということがこれでわかる。わたしが動物たちに<ruby><rb>教訓</rb><rt>きょうくん</rt></ruby>をあたえるのは、同時にわたしがかれらから教訓を受けることになるのだ。わたしはあれらのちえを進めてやったが、あれらはわたしの<ruby><rb>品性</rb><rt>ひんせい</rt></ruby>を作ってくれた」

わたしは<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。それがわたしにはきみょうに思われた。でもかれはなお<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「おまえはそれをきみょうだと思うか。犬が人間に<ruby><rb>教訓</rb><rt>きょうくん</rt></ruby>を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けるのはきみょうだろう。だがこれはほんとうだよ。

すると主人が犬をしこもうと思えば、自分のことをかえりみなければならない。その<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>い<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>を見れば主人の人がらもわかるものだ。悪人の飼っている犬はやはり悪ものだ。<ruby><rb>強盗</rb><rt>ごうとう</rt></ruby>の犬はどろぼうをする。ばかな<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>が飼い犬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばか</span>で、もののわからないものだ。親切な<ruby><rb>礼儀</rb><rt>れいぎ</rt></ruby>正しい人は、やはり<ruby><rb>気質</rb><rt>きしつ</rt></ruby>のいい犬を飼っている」

わたしはあしたおおぜいの前に<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れるということを思うと、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>がどきどきした。犬やさるはまえからもう何百ぺんとなくやりつけているのだから、かえってわたしよりえらかった。わたしがうまく役をやらなかったら、親方はなんと言うだろう。見物はなんと言うだろう。

わたしはくよくよ思いながらうとうとねいった。そのゆめの中で、おおぜいの見物が、わたしがなんてばかだろうと言って、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をかかえて<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>うところを見た。

あくる日になると、いよいよわたしは心配でおどおどしながら、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をするはずのさかり場まで行列を作って行った。

親方が先に立って行った。<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高いかれは首をまっすぐに立て、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>を前へつき出して、おもしろそうにふえでワルツをふきながら、手足で<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>をとって行った。その後ろにカピが<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いた。イギリスの<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>軍服</rb><rt>ぐんぷく</rt></ruby>をまねた金モールでへりをとった赤い上着を着、鳥の<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>でかざったかぶとをかぶったジョリクールがその<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>にいばって乗っていた。

ゼルビノとドルスが、ほどよくはなれてそのあとに続いた。

わたしがしんがりを<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めていた。わたしたちの行列は親方の指図どおり<ruby><rb>適当</rb><rt>てきとう</rt></ruby>な間をへだてて進んだので、かなり人目に立つ行列になった。

なによりも親方のふくするどいふえの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>にひかれて、みんなうちの中からかけ出して来た。とちゅうの家の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>という窓はカーテンが引き上げられた。

子どもたちの<ruby><rb>群</rb><rt>む</rt></ruby>れがあとからかけてついて来た。やがて広場に着いたじぶんには、わたしたちの行列に、はるか多い見物の行列がつながって、たいした人だかりであった。

わたしたちの<ruby><rb>芝居小屋</rb><rt>しばいごや</rt></ruby>はさっそくできあがった。四本の木になわを<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>び回して、その長方形のまん中にわたしたちは<ruby><rb>陣取</rb><rt>じんど</rt></ruby>ったのである。

番組の第一は犬の<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じるいろいろな<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>であった。わたしは犬がなにをしているかまるっきりわからなかった。わたしはもう心配で心配で自分の役を<ruby><rb>復習</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>することにばかり気を取られていた。わたしが<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>していたことは、親方がふえをそばへ<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>き、ヴァイオリンを取り上げて、犬のおどりに合わせてひいたことで、それはダンス曲であることもあれば、<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かな悲しい調子の曲であることもあった。なわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りの外に見物はぞろぞろ集まっている。わたしはこわごわ見回すと、数知れないひとみの光がわたしたちの上に集まっていた。

一番の<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>が終わると、カピが歯の間にブリキのぼんをくわえて、お客さまがたの間をぐるぐる回りを始めた。見物の中で<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>を入れない者があると、立ち止まって二本の前足をこのけちんぼうなお客のかくしに当てて、三度ほえて、それから前足でかくしを軽くたたいた。それを見るとみんな<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いだして、うれしがってときの声を上げた。

じょうだんや、<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>のささやきがそこここに起こった。

「どうもりこうな犬じゃないか。あいつは金を持っている人といない人を知っている」

「そら、ここに手をかけた」

「出すだろうよ」

「出すもんか」

「おじさんから<ruby><rb>遺産</rb><rt>いさん</rt></ruby>をもらったくせに、けちな男だなあ」

さてとうとう<ruby><rb>銀貨</rb><rt>ぎんか</rt></ruby>が一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>おく<ruby><rb>深</rb><rt>ふか</rt></ruby>いかくしの中からほり出されて、ぼんの中にはいることになった。そのあいだ親方は一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>もものは言わずに、カピのぼんを目で見送りながら、おもしろそうにヴァイオリンをひいた。まもなくカピが<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>らしくぼんにいっぱいお金を入れて帰って来た。

いよいよ<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>の始まりである。

「さてだんなさまがたおよびおくさまがたに申し上げます」

親方は、<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>に<ruby><rb>弓</rb><rt>ゆみ</rt></ruby>、片手にヴァイオリンを持って、身ぶりをしながら<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>述</rb><rt>の</rt></ruby>べだした。

「これより『ジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>の家来。一名とんだあほうの取りちがえ』と題しまするゆかいな<ruby><rb>喜劇</rb><rt>きげき</rt></ruby>をごらんにいれたてまつります。わたくしほどの<ruby><rb>芸人</rb><rt>げいにん</rt></ruby>が、手前みそに<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>功能</rb><rt>こうのう</rt></ruby>をならべたり、<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の役者のちょうちん持ちをして、自分から<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>を下げるようなことはいたしませぬ。ただ一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>申しますることは、どうぞよくよくお目止められ、お耳止められ、お<ruby><rb>手拍子</rb><rt>てびょうし</rt></ruby>ごかっさいのご用意を<ruby><rb>願</rb><rt>ねが</rt></ruby>っておくことだけでございます。<ruby><rb>始</rb><rt>はじ</rt></ruby>まり」

親方はゆかいな<ruby><rb>喜劇</rb><rt>きげき</rt></ruby>だと言ったが、じつはだんまりの身ぶり<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>にすぎなかった。それもそのはずで、<ruby><rb>立役者</rb><rt>たてやくしゃ</rt></ruby>の二人まで、ジョリクールも、カピもひと言も口はきけなかったし、第三の役者のわたしもふた言とは言うことがなかった。

けれども見物に<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をよくわからせるために、親方は芝居の進むにつれて、かどかどを音楽入りで<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>した。

そこでたとえば<ruby><rb>勇</rb><rt>いさ</rt></ruby>ましい<ruby><rb>戦争</rb><rt>せんそう</rt></ruby>の曲をひきながら、かれはジョリクール<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>が登場を知らせた。大将はインドの戦争でたびたび<ruby><rb>功名</rb><rt>こうみょう</rt></ruby>を<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>して、いまの高い<ruby><rb>地位</rb><rt>ちい</rt></ruby>にのぼったのである。これまで大将はカピという犬の家来を一人使っていたが、出世していてお金が取れて、ぜいたくができるようになったので、人間の家来をかかえようと思っている。長いあいだ動物が人間の<ruby><rb>奴隷</rb><rt>どれい</rt></ruby>であったけれども、それがあべこべになるときが来たのである。

家来の来るのを待つあいだに、大将は<ruby><rb>葉巻</rb><rt>はま</rt></ruby>きをふかしながらあちこちと歩き回る。見物の顔にかれがたばこのけむりをふっかけるふうといったら、<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>であった。なかなか来ないのでじれて、人間がかんしゃくを起こすときのように目玉をくるくる回し始める。くちびるをかむ。じだんだをふむ。三度目にじだんだをふんだときに、わたしがカピに<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れられて<ruby><rb>舞台</rb><rt>ぶたい</rt></ruby>に<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れることになる。

わたしが役を<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れていれば犬が教えてくれるはずになっていた。

やがてころ合いのじぶんに、かれは前足をわたしのはうへ出して、<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>がわたしを<ruby><rb>紹介</rb><rt>しょうかい</rt></ruby>した。

<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>はわたしを見ると、がっかりしたふうで両手を上げた。なんだ、これがわざわざ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来た家来かい。それからかれは歩いて来て、わたしの顔をぶえんりょにながめた。そうして<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をそびやかしながら、わたしの回りを歩き回っていた。その様子がそれはこっけいなので、だれもふき出さずにはいられなかった。見物がなるほど、このさるはわたしをあほうだと思っているなとなっとくする。そうして見物もやはりわたしをあほうだと思いこんでしまう。

<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>がまたいかにもわたしのあほうさの<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>が知れないようにできていた。することなすことにさるはかしこかった。

いろいろとわたしを<ruby><rb>試験</rb><rt>しけん</rt></ruby>をしてみた<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>、<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>はかわいそうになって、とにかく<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べさせることにする。かれはもう朝飯の仕度のできているテーブルを指さして、わたしにすわれといって合図をした。

「大将の考えでは、この家来にまあなにか食べるものでも食べさしたら、これほどあほうでもなくなるだろうというのですが、さて、どんなものでしょうか」と、ここで親方が<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>をはさんだ。

わたしは小さなテーブルに向かってこしをかけた。テーブルの上には<ruby><rb>食器</rb><rt>しょっき</rt></ruby>がならんで、さらの上にナプキンが<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてあった。このナプキンをわたしはどうすればいいのだろう。

カピがその使い方を手まねで教えてくれた。しばらくしげしげとながめたあとで、わたしはナプキンで鼻をかんだ。

そのとき<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>が<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をかかえて<ruby><rb>大笑</rb><rt>おおわら</rt></ruby>いをした。そうしてカピはわたしのあほうにあきれ返って、四つ足ででんぐり返しを打った。

わたしはやりそこなったことがわかったので、またナプキンをながめて、それをどうすればいいかと考えていた。

やがて思いついたことがあって、わたしはそれを<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>く<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いてネクタイにした。<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>がもっと<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。カピがまたでんぐり返しを打った。

そのうちとうとうがまんがしきれなくなって、大将がわたしをいすから引きずり下ろして、自分が代わりにこしをかけて、わたしのためにならべられている<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>を食べだした。

ああ、かれのナプキンをあつかうことのうまいこと。いかにも上品に<ruby><rb>軍服</rb><rt>ぐんぷく</rt></ruby>のボタンの<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>にナプキンをはさんでひざの上に広げた。それからパンをさいて、お酒を飲む<ruby><rb>優美</rb><rt>ゆうび</rt></ruby>なしぐさといったらない。けれどいよいよ食事がすんで、かれが小ようじを言いつけて、<ruby><rb>器用</rb><rt>きよう</rt></ruby>に歯をせせって（つついて）見せたとき、<ruby><rb>割</rb><rt>わ</rt></ruby>れるほど大かっさいがほうぼうに起こって、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>はめでたくまい<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>めた。

「なんというあほうな家来だろう。なんというかしこいさるだろう」

<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>に帰る道みち、親方はわたしをほめてくれた。わたしはもうりっぱな<ruby><rb>喜劇役者</rb><rt>きげきやくしゃ</rt></ruby>になって、主人からおほめのことばをいただいて、<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になるほどになったのである。

読み書きのけいこ

ヴィタリス親方の小さな役者の<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>は、どうしてなかなかたっしゃぞろいにはちがいなかったが、その曲目はそうたくさんはなかったから、長く同じ町にいることはできなかった。

ユッセルに着いて三日目には、また旅に出ることになった。

今度はどこへ行くのだろう。

わたしはもう<ruby><rb>大胆</rb><rt>だいたん</rt></ruby>になって、こう<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>を親方に発してみた。

「おまえはこのへんのことを知っているか」と、かれはわたしの顔を見ながら言った。

「いいえ」

「じゃあなぜ、どこへ行くと言って聞くのだ」

「知りたいと思って」

「なにを知りたいのだ」

わたしはなんと答えていいかわからないので、だまっていた。

「おまえは本を読むことを知っているか」

かれはしばらく考え深そうにわたしの顔を見て、こうたずねた。

「いいえ」

「本にはこれからわたしたちが旅をして行く土地の名やむかしあったいろいろなことが書いてある。一度もそこへ来たことがなくっても、本を読めばまえから知ることができる。これから道みち教えてあげよう。それはおもしろいお話を聞かせてもらうようなものだ」

わたしはまるっきりものを知らずに育った。もっともたったひと月村の学校に行ったことがあった。けれどその月じゅうわたしは一度も本を手に持ったことはなかった。わたしがここに話をしている時代には、フランスに学校のあることをじまんにしない村がたくさんあった。よし学校の先生のいる所でも、その人はなんにも知らないか、さもなければなにかほかに仕事があって、<ruby><rb>預</rb><rt>あずか</rt></ruby>った子どもの世話をろくろくしない者が多かった。

わたしたちの村の学校の先生がやはりそれであった。それは先生がものを知らないというのではないが、わたしが学校に行っているひと月じゅうかれはただの一<ruby><rb>課</rb><rt>か</rt></ruby>をすら教えなかった。かれはほかにすることがあった。その先生は商売がくつ屋であった。いやだれもそこから皮のくつを買う者がなかったから、ほんとうは木ぐつ屋だと言ったほうがいい。かれは一日こしかけにこしをかけて木ぐつにするけやきやくるみの木をけずっていた。そういうわけでわたしはなにも学校では教わらなかったし、<ruby><rb>ＡＢＣ</rb><rt>アベセ</rt></ruby>をすら教わらなかった。

「本を読むってむずかしいことでしょうか」

わたしはしばらく考えながら歩いて、こう聞いた。

「頭のにぶい者にはむずかしいが、それよりも習いたい気のない者にはもっとむずかしい。おまえの頭はにぶいかな」

「ぼくは知りません。けれども教えてくだされば習いたいと思います」

「よしよし、考えてみよう。まあ、ゆっくり教えてあげよう。たっぷりひまはあるからね」

たっぷりひまがあるからゆっくりやろう。なぜすぐに始めないのだろう。わたしは本を読むことを習うのがどんなにむずかしいか知らなかった。もう本を開ければすぐに中に書いてあることがわかるように思っていた。

そのあくる日歩いて行くとちゅう、親方はこしをかがめて、ほこりをかぶった板きれを拾い上げた。

「はら、これがおまえの習う本だ」とかれは言った。

なにこの板きれが本だとは。わたしはじょうだんを言っているのだろうと思って、かれの顔を見た。けれどかれはいっこうにまじめな顔をしていた。わたしは木ぎれをじっと見た。

それはうでぐらい長さがあって、両手をならべたくらいはばがあった。そのうえには字も絵も書いてはなかった。

わたしはからかわれるような気がした。

「あすこの木のかげへ行って休んでからにしよう。そこでどういうふうにわたしがこれを使って、本を読むことを教えるか、話してあげよう」と親方は言って、わたしのびっくりしたような顔を<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いながら見た。

わたしたちは木のかげへ来ると、<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>を地べたに下ろして、そろそろひなぎくのさいている青草の上にすわった。ジョリクールはくさりを<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いてもらったので、さっそく木の上にかけ上がって、くるみを落とすときのように、こちらのえだからあちらのえだをゆすぶってさわいでいた。犬たちはくたびれて回りに<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>くなっていた。

親方はかくしからナイフを出して、いまの板きれの<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>をけずって、同じ大きさの小板を十二本こしらえた。

「わたしはこの一本一本の板に一つずつの字をほってあげる」とかれはわたしの顔を見ながら言った。わたしはじっとかれから目を放さなかった。「おまえはこの字を形で<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるのだ。それを一目見てなんだということがわかれば、それをいろいろに組み合わせてことばにするけいこをするのだ。ことばが読めるようになれば、本を習うことができるのだ」

やがてわたしのかくしはその小さな木ぎれでいっぱいになった。それで<ruby><rb>ＡＢＣ</rb><rt>アベセ</rt></ruby>の字を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるのにひまはかからなかったけれども、読むことを覚えるのは<ruby><rb>別</rb><rt>べつ</rt></ruby>の仕事であった。なかなか早くはいかないので、ときにはなぜこんなものを教わりたいと言いだしたかと思って、<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>した。でもこれは、わたしがなまけ者でもなく、負けおしみが強かったからである。

わたしに字を教えながら親方は、それをいっしょにカピにも教えてみようかと思い立った。犬は時計から時間を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>し出すことを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたくらいだから、文字を覚えられないことはなかった。それでカピとわたしは同級生になって、いっしょにけいこを始めた。犬はもちろん口で言えないから、木ぎれが<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず草の上にまき<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らされると、かれは前足で、言われた文字をその中から拾い出して来なければならなかった。

はじめはわたしもカピよりはずっと進歩が早かった。けれどわたしは<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>こそ早かったが、<ruby><rb>物覚</rb><rt>ものおぼ</rt></ruby>えは、犬のほうがよかった。犬は一度物を教わると、いつもそれを覚えて<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れることがなかった。わたしがまちがうと親方はこう言うのである。

「カピのはうが先に読むことを覚えるよ、ルミ」

そう言うとカピはわかったらしく、<ruby><rb>得意</rb><rt>とくい</rt></ruby>になってしっぽをふった。

そこでわたしはくやしくなって気を入れて勉強した。それで犬がやっと自分の名前の四つの字を拾い出してつづることしかできないのに、わたしはとうとう本を読むことを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えた。

「さて、おまえはことばを読むことは覚えたが、どうだね、今度は<ruby><rb>譜</rb><rt>ふ</rt></ruby>を読むことを覚えては」と親方が言った。

「譜を読むことを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えると、あなたのように歌が歌えますか」とわたしは聞いた。

「ああ。そうするとおまえもわたしのように歌が歌いたいと思うのかい」と親方が答えた。

「とてもそんなによくはできそうもないと思いますけれども、少しは歌いたいと思います」

「じゃあわたしが歌を歌うのを聞くのは<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きかい」

「ええ、わたしは、なによりそれが好きです。それはうぐいすの歌よりずっと好きです。けれどもまるでうぐいすの歌とはちがいますね。あなたが歌っておいでになると、ぼくは歌のとおりに<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きたくなることもあるし、<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いたくなることもあります。ばかだと思わないでください。あなたが<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにさびしい歌をお歌いになると、わたしはまたバルブレンのおっかあの所へ帰ったような気がするのです。目をふさいで聞いていると、またうちにいるおっかあの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が目にうかびますけれども、歌はイタリア語だからわかりません」

わたしはあお向いてかれを見た。かれの目にはなみだがあふれていた。そのときわたしはことばを切って、

「気にさわったのですか」とたずねた。

かれは声をふるわせながら言った。「いいや、気にさわるなんということはないよ。それどころかおまえは、わたしを遠い子どもだったむかしにもどしてくれた。そうだ、ルミや、わたしは歌を教えてあげよう。そうしておまえは<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>け深いたちだから、やはりその歌で人を泣かせることもできるし、人にほめられるようにもなるだろう」

かれは言いかけてふとやめた。わたしはかれがそのとき、そのうえに言うことを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まないらしいのがわかった。わたしにはかれがそんなに悲しく思うわけがわからなかった。でもあとになって、それはある悲しい<ruby><rb>事情</rb><rt>じじょう</rt></ruby>から<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてわかった。いずれわたしの話の進んだとき、それを言うおりがあるであるう。

そのあくる日、かれは小さく木を切って文字を作ったと同様に<ruby><rb>音譜</rb><rt>おんぷ</rt></ruby>をこしらえた。

音譜は<ruby><rb>ＡＢＣ</rb><rt>アベセ</rt></ruby>より入りくんでいた。今度は習うのにもいっそう<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>も<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れたし、たいくつでもあった。あれほど犬に対してしんぼうのいい親方も、一度ならずわたしにはかんにんの<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>を切ったこともあった。かれはさけんだ。

「<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>に対しては、かわいそうな、口のきけないものだと思ってがまんするけれど、おまえではまったく気ちがいにさせられる」と、こうかれは言って、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>のように両手を空に上げて、急にまた下に下ろして、はげしくももを打った。

自分がおもしろいと思うと、まねをしてはおもしろがっているジョリクールは、今度も主人の身ぶりをまねていた。毎日わたしのけいこのときに、さるはいつもそばにいるので、わたしがつかえでもすると、そのたんびにがっかりした様子をして、かれが両うでを空に上げて、また下に下ろしては、ももを打つところを見ると、わたしはしょげずにはいられなかった。

「ご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>、ジョリクールまでが、おまえをばかにしている」と親方がさけんだ。

わたしが思い切った子なら、さるがばかにしているのは<ruby><rb>生徒</rb><rt>せいと</rt></ruby>ばかりではなく、先生までもばかにしているのだと言ってやりたかった。けれども<ruby><rb>失礼</rb><rt>しつれい</rt></ruby>だと思ったし、こわさもこわいのでえんりょして、心のうちでそう思うだけで<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>した。

とうとう何週間もけいこを<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて、わたしは親方が書いた紙から、曲を読むことができるようになった。もう親方も、両手を空に上げなかった。それどころかかえって、歌うたんびにほめてくれて、この調子でたゆまずやってゆけば、きっとえらい歌うたいになれると言ってくれた。

むろんこれだけのけいこが一日でできあがるはずはなかった。何週間のあいだ何か月のあいだ、わたしのかくしはいつも小さな木ぎれで、いっぱいになっていた。

しかし、わたしの<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>は学校にはいっている子どものそれのように、<ruby><rb>規則</rb><rt>きそく</rt></ruby>正しいものではなかった。親方が課業を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けてくれるのは、そのひまな時間だけであった。

毎日決まった道のりだけは歩いて行かなければならなかった。もっともその道のりは村と村との間が遠いか近いか、それによって長くもなり短くもなった。いくらかでも、<ruby><rb>収入</rb><rt>しゅうにゅう</rt></ruby>のある<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>を見つけしだい、そこで止まって<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をうたなければならなかった。犬たちやジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>に役々の<ruby><rb>復習</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>をもさせなければならなかった。<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>も<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>もてんでんに自分で用意しなければならなかった。読書なり音楽なりの仕事は、つまりそういうもののすんだあとのことであった。まあいちばんよく教えてもちったのは、<ruby><rb>休憩</rb><rt>きゅうけい</rt></ruby>の時間で、木の根かたや、<ruby><rb>小砂利</rb><rt>こじゃり</rt></ruby>の山の上や、または<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>なり、道ばたの草の上が、みんなわたしの木ぎれをならべる<ruby><rb>机</rb><rt>つくえ</rt></ruby>が代わりになった。

この<ruby><rb>教育法</rb><rt>きょういくほう</rt></ruby>はふつうの子どもの受けるそれとは、少しも<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>たところがなかった。ふつうの子どもなら、ただ勉強するほかに仕事はないし、それでもかれらはしじゅうあたえられた<ruby><rb>宿題</rb><rt>しゅくだい</rt></ruby>をやる時間がないといって、ぶつぶつ言うのである。

けれど、勉強に使う時間のあるなしよりも、もっとたいせつなものがあった。それはその仕事に<ruby><rb>専念</rb><rt>せんねん</rt></ruby>するということであった。<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かった<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるのは、覚えるために<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>される時間ではなくって、それは覚えたいと思う<ruby><rb>熱心</rb><rt>ねっしん</rt></ruby>であった。

幸いにわたしは、ぐるりに起こる出来事に心をうばわれることなしに、むちゅうに勉強のできるたちであった。もしそのじぶんわたしが、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中に<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこもって、両手で耳をふさいで、目を本にはりつけたようにしているのでなければ、勉強のできない<ruby><rb>生徒</rb><rt>せいと</rt></ruby>のようであったら、わたしになにができたろう、なにもできはしない。なぜというに、わたしには、閉じこもる部屋もなかった。<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>に<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って前へ前へと進みながら、ときどきもうつまずいてたおれそうになるほど<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>い足の先を、見つめ見つめしてゆかなければならなかった。

だんだんわたしはおかげでいろんなことを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えた。と同時に親方の<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けてくれた<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby><ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>に<ruby><rb>有益</rb><rt>ゆうえき</rt></ruby>な長い旅行をした。わたしがバルブレンのおっかあの所にいたじぶんには、ごくやせっぽちな子どもであった。みんながわたしを見て言ったことばで、その様子はよくわかる。「町の子どもだ」と、バルブレンは言ったし、「ひどくひょろひょろした手足の子だ」と親方は言った。

ところが親方のあとについて、広い青空の下に<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>な生活を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けているあいだに、わたしの手足は強くなり、<ruby><rb>肺臓</rb><rt>はいぞう</rt></ruby>は<ruby><rb>発達</rb><rt>はったつ</rt></ruby>し、<ruby><rb>皮膚</rb><rt>ひふ</rt></ruby>は<ruby><rb>厚</rb><rt>あつ</rt></ruby>くなり、ちょうどかぶとをかぶったように寒さをも暑さをもしのぐことができるようになった。

こうして、このつらいお<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby><ruby><rb>修業</rb><rt>しゅぎょう</rt></ruby>のおかげで、わたしは少年時代に、たいていの<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>に打ち勝ってゆく力を<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>うことのできたのは、あとで思えばひじょうな幸福であった。

山こえて谷こえて

わたしたちはフランスの<ruby><rb>中央</rb><rt>ちゅうおう</rt></ruby>の一部、たとえばローヴェルニュ、ル・ヴレー、ル・リヴァレー、ル・ケルシー、ル・ルーエルグ、レ・セヴェンネ、ル・ラングドックというような土地土地をめぐって歩いた。

わたしたちの流行はしごく<ruby><rb>簡単</rb><rt>かんたん</rt></ruby>であった。どこでもかまわずまっすぐに出かけて行って、あまりびんぼうでない町だと見ると、まず行列を作る用意を始めて、犬たちに着物を着せかえてやり、ドルスの<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>にくしを入れてやる。カピが<ruby><rb>老兵</rb><rt>ろうへい</rt></ruby>の役をやっているときは、目の上に<ruby><rb>包帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>をしてやる。<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>にいやがるジョリクールに<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>軍服</rb><rt>ぐんぷく</rt></ruby>を着せる。これがなによりいちばんやっかいな仕事であった。なぜというにこのさるは、これが仕事にかかるまえぶれだということを知りすぎるほど知っていて、なんでも着物を着させまいとするために、それはおかしな<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>を考え出すのであった。そこでわたしはしかたがないからカピを<ruby><rb>加勢</rb><rt>かせい</rt></ruby>に<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んで来て、二人がかりでどうやらこうやらおさえつけて、言うことを聞かせるのであった。

さて<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby><ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずの仕度ができあがると、ヴィタリス親方は<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のふえでマーチをふきながら村の中へはいって行く。

そこでわれわれのあとからついて来る<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>の数が<ruby><rb>相応</rb><rt>そうおう</rt></ruby>になると、さっそく<ruby><rb>演芸</rb><rt>えんげい</rt></ruby>を始めるが、ほんの二、三人気まぐれな<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>やかしのお客だけだとみると、わざわざ足を止める<ruby><rb>値打</rb><rt>ねう</rt></ruby>ちもないので、かまわずずんずん進んで行く。

一つの町に五、六日も<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて<ruby><rb>滞留</rb><rt>たいりゅう</rt></ruby>いているようなときには、カピがついていさえすれば、親方はわたしを一人手放して外へ出してくれた。親方はつまりわたしをカピに<ruby><rb>預</rb><rt>あず</rt></ruby>けたのである。

「おまえは同じ年ごろの子どもがたいがい学校に行っている時代に、ひょんなことからフランスの国じゅうを歩く回り合わせになっているのだ」と親方はあるときわたしに言った。「だから学校へ行く代わりに、自分で目を開いて、よくものを見て<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるのだ。見てわからないものがあったら、かまわずにわたしに<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>するがいい。わたしだってなんでも知っているわけではないが、一とおりおまえの知りたい心を<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>させるだけのことはできるだろう。わたしもいまのような人間でばかりはなかった。かなりむかしはいろいろほかの気のきいたことも知っていた」

「どんなことを」

「それはまたいつか話そうよ。ただまあ、むかしから犬やさるの<ruby><rb>見世物師</rb><rt>みせものし</rt></ruby>でもなかったことだけ知ってもらえばよい。なんでも人間は心がけしだいで、いちばん<ruby><rb>低</rb><rt>ひく</rt></ruby>い<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>からどんなにも高い<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>に上ることができる。これも<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていてもらいたい。それでおまえが大きくなったとき、どうかまあ、気のどくな旅の<ruby><rb>音楽師</rb><rt>おんがくし</rt></ruby>が自分を<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>い<ruby><rb>親</rb><rt>おや</rt></ruby>の手から引きさらって行ったときには、つらくもこわくも思ったようなものも、つまりそれがよかったのだと思って、<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでくれるときがあればいいと思うのだ。まあ、こうして<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>の<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わるのが、つまりはおまえのために悪くはないかもしれないのだからな」

いったいこの親方はもとはなんであったろう、わたしは知りたいと思った。

さてわたしたちはだんだんめぐりめぐって行って、ローヴェルニュからケルシーの高原にはいった。これはおそろしくだだっ広くってあれていた。小山が波のようにうねっていて、開けた土地もなければ、大きな<ruby><rb>樹木</rb><rt>じゅもく</rt></ruby>もなかったし、人通りはごく少なかった。小川もなければ池もない。所どころ水がかれきって、石ばかりの谷川が目にはいるだけであった。その原っぱのまん中にバスチード・ミュラーという小さな村があった。わたしたちはこの村のある<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の<ruby><rb>物置</rb><rt>ものお</rt></ruby>きに一夜を<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごした。

「そうだ、この村だったよ」とヴィタリス親方が言った。「しかもこの同じ宿屋だったかもしれないが、のちに何万という<ruby><rb>軍勢</rb><rt>ぐんぜい</rt></ruby>を<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>いる<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>がここで生まれたのだ。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めはうまやのこぞうから身を起こして、<ruby><rb>公爵</rb><rt>こうしゃく</rt></ruby>がなり、のちには王さまになった。名前をミュラーと言った。みんながその人を<ruby><rb>英雄</rb><rt>えいゆう</rt></ruby>と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んで、この村をもその名前で呼ぶことになった。わたしはその男を知っていた。たびたびいっしょに話をしたこともあった」

わたしもさすがにことばをはさまずにはいられなかった。

「うまやのこぞうだったときにですか」

「いいや」と親方は<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いながら答えた。「もう王さまだったじぶんにだよ。今度<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてわたしはこの地方にやって来たのだ。わたしはその男が王さまだったナポリの<ruby><rb>宮殿</rb><rt>きゅうでん</rt></ruby>で知り合いになったのだ」

「あなたは王さまと知り合いなのですか」

わたしのこういった調子は少しこっけいであったとみえて、親方はさもゆかいそうに<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いだした。

わたしたちはうまやの戸の前のこしかけにこしをかけて、昼間の太陽のぬくもりのまだ<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っているかべに<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>をおしつけていた。われわれの頭の上におっかぶさっている大きないちじくの木の中で夕ぜみが鳴いていた。<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の屋根の上には、いま出たばかりの<ruby><rb>満月</rb><rt>まんげつ</rt></ruby>が<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かに青空に上がっていた。その日は昼間こげるように暑かったので、それがいっそう心持ちよく思われた。

「おまえ、とこにはいりたいか」と親方はたずねた。「それともミュラー王の話でもしてもらいたいと思うか」

「ああ、どうぞそのお話をしてください」

そこで親方はわたしとこしかけの上にいるあいだ、長物語をしてくれた。親方が話をしているうちに、だんだん青白い月の光がななめにさしこんできた。わたしはむちゅうになって耳を立てた。両方の目をすえてじっと親方の顔を見ていた。

わたしはまえにこんなむかし物語などを聞いたことがなかった。だれがそんな話をして聞かせよう。バルブレンのおっかあはとても話すわけがない。かの女はそんな話は少しも知らなかった。かの女はシャヴァノンで生まれて、たぶんはそこで死ぬのだろう。かの女の心は目で見るかぎりをこえて先へは行かなかった。それもアンドゥーズ山の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>から見晴らす地平線上に<ruby><rb>限</rb><rt>かぎ</rt></ruby>られていた。

わたしの親方は王さまに会ったことがある。その王さまはかれと話をした。いったいこの親方は<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>いときなんであったろう。それがどうしてこの年になって、いまのような身の上になったのだろう……

わたしの、活発に<ruby><rb>鋭敏</rb><rt>えいびん</rt></ruby>に<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>く<ruby><rb>幼</rb><rt>おさな</rt></ruby>い<ruby><rb>想像</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>と<ruby><rb>好奇心</rb><rt>こうきしん</rt></ruby>は、この一つのことにばかり<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>いた。

七里ぐつをはいた大男

南部地方の高原のかわききった土地をはなれてのち、わたしたちは、いつも青あおとした谷間の道を通って、旅を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。これはドルドーニュ川の谷で、わたしたちは毎日少しずつこの谷を下りて行った。なにしろこの地方は土地が<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かで、<ruby><rb>住民</rb><rt>じゅうみん</rt></ruby>も<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って<ruby><rb>富貴</rb><rt>ふうき</rt></ruby>であったから、わたしたちの<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>の度数もしぜん多くなり、<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のカピのおぼんの中へもなかなかたくさんのお金が投げこまれた。

ふと空中に、ふうわりとちょうど<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>の中にくもの糸でつり下げられたように、橋が一つ、大きな川の上にかかっていた。川はその下にごくおだやかに流れていた――これはキュブザックの橋で、川はドルドーニュ川であった。

あれた町が一つ、そこには古いおほりもあり、岩屋もあり、<ruby><rb>塔</rb><rt>とう</rt></ruby>もあった。<ruby><rb>修道院</rb><rt>しゅうどういん</rt></ruby>のあれたへいの中には、せみが<ruby><rb>雑木</rb><rt>ぞうき</rt></ruby>の中で、そこここに止まって鳴いていた――これはセンテミリオン寺であった。

けれどそれもこれもみんなわたしの<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>の中でこんがらがって、ぼやけてしまっているが、そののちほどなく、ひじょうに強い<ruby><rb>印象</rb><rt>いんしょう</rt></ruby>をあたえた<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>が<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れた。それは今日でもありありと、全体のうきぼりがさながら目の前に現れるくらいあざやかであった。

わたしたちはあるごくびんぼうな村に一夜を明かして、あくる日夜の明けないうちから出発した。長いあいだわたしたちは、ほこりっぽい道を歩いて来て、<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>にはしじゅうぶどう畑ばかりを見て来たのが、ふと、それはあたかも目をさえぎっていた窓かけがぱらりと落ちたように、<ruby><rb>眼界</rb><rt>がんかい</rt></ruby>が自由に開けた。

大きな川が一つ、わたしたちのそのとき行き着いた<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>のぐるりをゆるやかに流れていた。この川のはるか向こうに<ruby><rb>不規則</rb><rt>ふきそく</rt></ruby>にゆがんだ地平線までは、大都市の屋根や<ruby><rb>鐘楼</rb><rt>しょうろう</rt></ruby>が<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いて<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らばっていた。どれが家だろう。どれがえんとつだろう。中でいちばん高い、いちばん細いのが、五、六木、柱のように空につっ立って、そのてっぺんからまっ黒なけむりをふき出しては、風のなぶるままに、たなびいて、町の<ruby><rb>真上</rb><rt>まうえ</rt></ruby>に黒いガスの雲をわかしていた。川の上には、ちょうど中ほどの<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>通りに<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って数知れない船が<ruby><rb>停泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>して、林のようにならんだ<ruby><rb>帆柱</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>や、帆づなや、それにいろいろの色の<ruby><rb>旗</rb><rt>はた</rt></ruby>を風にばたばた言わせながらおし合いへし合いしていた。がんがんひびく<ruby><rb>銅</rb><rt>どう</rt></ruby>や鉄の音やつちの音、そういう物音の中に、<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>通りをからから走って行くたくさんの車の音が交じって聞こえた。

「これがボルドーだ」と親方がわたしに言った。

わたしのような子どもにとっては――その年までせいぜいクルーズのびんぼう村か、道みち通って来たいくつかのちっぽけな町のほかに見たことのない子どもにとっては、これはおとぎ話の国であった。

なにを考えるともなく、わたしの足はしぜんと止まった。わたしはじっと立ち止まったまま、前のほうをながめたり、後ろのほうをながめたり、ただもうぼんやりそこらを見回していた。

しかし、ふとわたしの目は一点にとどまった。それは川の面をふさいでいるおびただしい船であった。

つまりそれはなんだかわけのわからない、ごたごたした活動であったが、それが自分でもはっきりつかむことのできない、ひじょうに強い<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>をわたしの心にひき起こした。

いくそうかの船は<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>をいっぱいに<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>って、一方にかたむきながら、ゆうゆうと川を下って行くと、こちらからは反対に上って行った。島のように動かずに止まっているものもあれば、どうして動いているかわからないで、くるくる回っている船もあった。<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>にもう一つ、<ruby><rb>帆柱</rb><rt>ほばしら</rt></ruby>もなければ、帆もなしに、ただえんとつの口から黒いけむりのうずを空に<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>きながら、黄ばんだ水の上に白いあわのあぜを作りながら、ずんずん走っているものもあった。

「ちょうどいまが<ruby><rb>満潮</rb><rt>まんちょう</rt></ruby>だ」と親方はこちらから問いかけもしないのに、わたしのおどろいた顔に答えて言った。

「長い<ruby><rb>航海</rb><rt>こうかい</rt></ruby>から帰って来た船もある。ほら、ペンキがはげてさびついたようになっているだろう。あすこへは港をはなれて行く船がある。川のまん中にいる船が満潮にかじを向けるようなふうに、いかりの上でくるくる回っている。けむりの雲の中を走って行く船は引き船だ」

わたしにとってはなんということばであろう。なんという目新しい事実であろう。

わたしたちが、パスチードとボルドーを通じている橋の所へ来るまでに、親方はわたしが聞きたいと思った<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>の百分の一に答えるだけのひまもなかった。

これまでわたしたちはけっしてとちゅうの町で<ruby><rb>長逗留</rb><rt>ながとうりゅう</rt></ruby>をすることはなかった。なぜというに、しじゅう見物をかえる<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>から、しぜん毎日<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>の場所をも<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>えなければならなかった。それに『名高いヴィタリス親方の<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>』の役者では、<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>芸題</rb><rt>げいだい</rt></ruby>をいろいろにかえてゆく自由がきかなかった。『ジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>の家来』『<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>の死』『<ruby><rb>正義</rb><rt>せいぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>勝利</rb><rt>しょうり</rt></ruby>』『<ruby><rb>下剤</rb><rt>げざい</rt></ruby>をかけた病人』、そのほか三、四<ruby><rb>種</rb><rt>しゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をやってしまえば、もうおしまいであった。それで<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の役者の<ruby><rb>芸</rb><rt>げい</rt></ruby>は<ruby><rb>種切</rb><rt>たねぎ</rt></ruby>れであった。そこでまた場所を<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>えて、まだ見ない見物の前で、これらの<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>を、<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらず、『下剤をかけた病人』か、『正義の勝利』をやらなければならなかった。

しかし、ボルドーは大都会である。見物は<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>に入れかわったし、場所さえ変えると毎日三、四回の<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>をすることができた。それでもカオールに行ったときのように、『いつでも同じことばかりだ』とどなられるようなことはなかった。

ボルドーを打ち上げてから、わたしたちはポーへ行かなければならなかった。そのとちゅうでは大きなさばくをこえなければならなかった。さばくはボルドーの町の門からピレネーの<ruby><rb>連山</rb><rt>れんざん</rt></ruby>まで<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いていて、『ランド』という名で<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれていた。

もうわたしもおとぎ話にある<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>いはつかねずみのように、見るもの聞くものが<ruby><rb>驚嘆</rb><rt>きょうたん</rt></ruby>や<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>の<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>になるというようなことはなかった。それでもわたしはこの旅行の<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めから、親方を<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>わせるような<ruby><rb>失敗</rb><rt>しっぱい</rt></ruby>を<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じて、ポーに着くまで、そのためなぶられどおしになぶられるほかはなかった。

わたしたちは七、八日のちボルドーを出発した。ガロンヌ川<ruby><rb>沿岸</rb><rt>えんがん</rt></ruby>の土地を回ったのち、ランゴンで川をはなれて、モン・ド・マルサンへ行く道をとった。その道はつま先下がりに下がっていった。もうぶどう畑もなければ、<ruby><rb>牧場</rb><rt>ぼくじょう</rt></ruby>もない。<ruby><rb>果樹園</rb><rt>かじゅえん</rt></ruby>もない、ただ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつ</span>と<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の林があるだけであった。やがて人家もだんだん少なくなり、だんだんみすぼらしくなった。とうとうわたしたちは大きな高原のまん中にいた。所どころ<ruby><rb>高低</rb><rt>こうてい</rt></ruby>はあっても、日の<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>くかぎり野原であった。<ruby><rb>畑地</rb><rt>はたち</rt></ruby>もなければ森もない、遠方から見るとただ一色のねずみ色の土地であった。道の<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>がうす黒いこけや、しなびきった<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>や、いじけた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えにしだ</span>でおおわれていた。

「わたしたちはランドの中に来たのだ」と親方が言った。「このさばくのまん中まで行くには二十里か二十五里（八十キロか百キロ）行かなければならない。しつかり足に元気をつけるのだぞ」

元気をつけなければならないのは足だけではなかった。頭にも、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>にも、元気をつけなければならなかった。なぜといって、もう終わる時のないように広いさばくの道を歩いて行くとき、だれでもばんやりして、わけのわからない悲しみと、がっかりしたような心持ちに<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>がふさがるのであった。

そののちもわたしはたびたび海上の旅をしたが、いつも大洋のまん中で<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげ一つ見えないとき、わたしはやはりこの<ruby><rb>無人</rb><rt>むじん</rt></ruby>の土地で感じたとおりの言いようもない悲しみを、また<ruby><rb>経験</rb><rt>けいけん</rt></ruby>したことがあった。

大洋の中にいると同様に、わたしたちの日は遠い<ruby><rb>秋霧</rb><rt>あきぎり</rt></ruby>の中に消えている地平線まで<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いていた。ひたすら<ruby><rb>広漠</rb><rt>こうばく</rt></ruby>と<ruby><rb>単調</rb><rt>たんちょう</rt></ruby>が広がっている<ruby><rb>灰色</rb><rt>はいいろ</rt></ruby>の野のほかに、なにも目をさえぎるものがなかった。

わたしたちは歩き<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。でも<ruby><rb>機械的</rb><rt>きかいてき</rt></ruby>にときどきぐるりと見回すと、やはりいつまでも同じ場所に立ち止まったまま、少しも進んでいないように思われた。目に見える<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はいつでも同じことであった。<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらずの<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>、相変わらずの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えにしだ</span>、相変わらずのこけであった。風がふくとやわらかなわらびの葉がなよなよと動いて、まるで波の走るように高く<ruby><rb>低</rb><rt>ひく</rt></ruby>く走った。

ずいぶん長いあいだをおいて、たまさか、わたしたちはちょいとした森を通りぬけることがあったが、その森はふつうの森のように、とちゅうの<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>をそえるようなものではなかった。いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつ</span>の木の森で、そのえだはこずえまで風に打ち落とされていた。<ruby><rb>幹</rb><rt>みき</rt></ruby>に長く、深い<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>がえぐれていた。その赤い傷口からすきとおったまつやにのなみだが流れ出していた。風が傷口からふきこむと、いかにも悲しそうな音楽を<ruby><rb>奏</rb><rt>そう</rt></ruby>して、この気のどくな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつ</span>がみずから<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>みをうったえる声のように聞かれた。

わたしたちは朝から歩き<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けていた。親方は夜までにはどこかとまれる村に着くはずだと言っていた。けれど夜になっても、その村らしいものは見えなかったし、人家に近いことを知らせるけむりも上がらなかった。

わたしはくたびれたし、ねむたかった。わたしたちは<ruby><rb>前途</rb><rt>ぜんと</rt></ruby>はただ原っぱを見るだけであった。

親方もやはりくたびれていた。かれは足を止めて道ばたに休もうとした。

わたしはそれよりも、左手にあった小山に登って、村の火が見えるかどうか見たいと思った。

わたしはカピを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだが、カピもやはりくたびれていたので、呼んでも聞こえないふりをしていた。これはいつでも言うことを聞きたくないときにカピのやることであった。

「おまえ、こわいのか」とヴィタリスは言った。

この<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>がすぐにわたしを<ruby><rb>奮発</rb><rt>ふんぱつ</rt></ruby>さして、一人で行く気を起こさせた。

夜はすっかり<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れまくを下ろした。月もなかった。空の上には星の光がうすもやの中にちらちらしていた。歩いて行くと、そこらのさまざまな物がぼんやりした光の中できみょうな<ruby><rb>幽霊</rb><rt>ゆうれい</rt></ruby>じみた形をしているように見えた。野生の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えにしだ</span>が、頭の上にぬっと高く<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>びて、まるでわたしのほうへ向かって来るように見えた。上へ登れば登るほどいばらや草むらはいよいよ深くなって、わたしの頭をこして、上でもつれ合っていた。ときどきわたしはその中をくぐってぬけて行かなければならなかった。

けれどわたしはぜひも<ruby><rb>頂上</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>まで登らなければならないと決心した。でもやっとのこと登ってみれば、どちらを見ても明かりは見えなかった。ただもうきみょうな物の形と、大きな<ruby><rb>樹木</rb><rt>じゅもく</rt></ruby>が、いまにもわたしをつかもうとするようにうでを<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>ばしているだけであった。

わたしは耳を立てて、犬の声か、<ruby><rb>雌牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>のうなり声でも聞こえはしないかと思ったが、ただもうしんと<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>まり返っていた。

どうかして聞き取ろうと思うから、耳をすませて、自分の立てる息の音さええんりょをして、わたしはしばらくじっと立っていた。

ふとわたしはぞくぞく身ぶるいがしだした。このさびしい、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない<ruby><rb>荒野原</rb><rt>あらのはら</rt></ruby>の<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>けさが、わたしをおびやかしたのであった。なんにわたしはおびえたのであったか、たぶんあまり<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かなことが……夜が……とにかく言いようのない<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>がわたしの心にのしかかるようにしたのであった。わたしの<ruby><rb>心臓</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>は、まるでそこになにか<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>がせまったようにどきついた。

わたしはこわごわあたりを見回した。するとそのとき、遠方に大きな<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>をしたものが木の中で動いているのを見た。それといっしょにわたしは木のえだのがさがさいう音を聞いた。

わたしは<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に、それは自分の気の<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>いだと思いこもうとした。きっとそれは木のえだか<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>のかげかなんぞだったのだ。

けれど、そのとき風は、木の葉を動かすほどの軽い風もふいてはいなかった。はげしい風でふかれるか、だれかがさわらないかぎり動くはずはなかったのである。

「だれかしら」

いや、この自分のほうを目ざしてやって来る大きな<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>が人間であるはずがなかった――わたしのまだ知らないなにかのけものか、またはおそろしい大きな夜鳥か、大きなばけぐもが木の上をとびこえて来るのだ。なんにしても<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かなことは、この化け物はおそろしく長い足をしていて、ばかばかしく早く飛んで来るということであった。

それを見るとわたしはあわてて、あとをも見ずに、足に<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せて小山をかけ下りて、ヴィタリスのいる所までにげようとした。

けれどきみょうなことに、登るときだけに早くわたしの足が進まなかった。わたしはいばらや、<ruby><rb>雑草</rb><rt>ざっそう</rt></ruby>のやぶの中に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がって、二足ごとにひっかかれた。

ちくちくするいばらの中からはい出して、わたしはふと後ろをふり向いてみた。<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>はいよいよ近くにせまっていた。もういまにも頭の上にとびかかりそうになっていた。

運よく野原はそういばらがなかったので、いままでよりは、早くかけだすことができた。

でもわたしがありったけの<ruby><rb>速力</rb><rt>そくりょく</rt></ruby>で、<ruby><rb>競争</rb><rt>きょうそう</rt></ruby>しても、その<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>はずんずん追いぬこうとしていた。もう後ろをふり返る<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>はなかった。それがわたしのすぐ<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>にせまっていることはわかっていた。

わたしは息もつけなかった。競争でつかれきっていた。ただはあすう、はあすう言っていた。しかし<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>の<ruby><rb>大努力</rb><rt>だいどりょく</rt></ruby>をやって、わたしは<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げこむように親方の足もとにかけこんだ。三びきの犬はあわててはね起きて、大声でほえた。わたしはやっと二つのことばをくり返した。

「化け物が、化け物が」

犬たちのけたたましいほえ声よりも高く、はちきれそうな<ruby><rb>大笑</rb><rt>おおわら</rt></ruby>いの声を聞いた。それと同時に親方は両手でわたしの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をおさえて、<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に顔を後ろにふり向けた。

「おばかさん」とかれはさけんで、まだ笑いやめなかった。「まあよく見なさい」

そういうことばよりも、そのけたたましい<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>い<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>がわたしを正気に返らせた。わたしは<ruby><rb>片目</rb><rt>かため</rt></ruby>ずつ開けてみた。そうして親方の指さすほうをながめた。

あれほどわたしをおどかした<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>はもう動かなくなって、じつと<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>に立ち止まっていた。

その<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見ると、正直の話わたしはまたふるえだした。けれど今度はわたしも親方や犬たちのそばにいるのだ。草やぶのしげった中に<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっちいるのではなかった……わたしは思い切って目を上げて、じっとその姿を見つめた。

けものだろうか。

人だろうか。

人のようでもあって、胴はあるし、頭も両うでもあった。

けものらしくもある。けれどもかぶっていた毛むくじゃらな身の皮と、それをのせているらしい二本の長細いすねは、それらしい。

夜はいよいよ暗かったが、この黒い<ruby><rb>影法師</rb><rt>かげぼうし</rt></ruby>は星明かりにはっきりと見えた。

わたしはしばらく、それがなんだかまだわからずにいたのであったが、親方はやがてその影法師に向かって話をしかけた。

「まだ村にはよほど遠いでしょうか」と、かれはていねいにたずねた。

話をしかけるところから見れば人間だったか。

だがそれは返事はしないで、ただ黙った。その笑い声は鳥の鳴き声めいていた。

するとけものかな。

主人はやはり問いを<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

こうなると、それが今度口をきいて返事をしたら、やはり人間にちがいなかった。

ところでわたしのびっくりしたことには、その<ruby><rb>怪物</rb><rt>かいぶつ</rt></ruby>は、この近所には人家はないが、ひつじ小屋は一けんあるから、そこへ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行ってやろうと言った。

おやおや、口がきけるのに、なぜけものような前足があるのだろう。

わたしに<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>があったら、その男のそばへ行って、どんなふうに前足ができているか見て来るところであったろうが、わたしはまだ少しこわかった。そこで<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>をしょい上げてひと言も言わずに親方のあとについて行った。

「これでおまえ、正体がわかったろう」と親方は言って、道みち歩きながらも<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>っていた。

「でもぼくはまだなんだかわかりません。じやあこのへんには大男がいるのですか」

「そうさ。竹馬に乗っていれば大男にも見えるさ」

そこでかれはわたしに<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>してくれた。<ruby><rb>砂地</rb><rt>すなじ</rt></ruby>や<ruby><rb>沼沢</rb><rt>しょうたく</rt></ruby>か多いランド地方の人は、<ruby><rb>沼地</rb><rt>ぬまち</rt></ruby>を歩くとき水にぬれないように、竹馬に乗って歩くというのであった。なんてわたしはばかだったのであろう。

「これでこのへんの人が、七里ぐつをはいた大男になって、子どもをこわがらせたわけがわかったろうね」

<ruby><rb>裁判所</rb><rt>さいばんしょ</rt></ruby>

ポー市にはゆかいな<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>がある。そこは冬ほとんど風のふかない心持ちのいい休み場であった。

わたしたちはそこに冬じゅういた。金もずいぶんたくさん取れた。お客はたいてい子どもたちであったから、同じ<ruby><rb>演芸</rb><rt>えんげい</rt></ruby>を何度も何度もくり返してやってもあきることがなかった。金持ちの子どもたちで、多くはイギリス人とアメリカ人の子どもであった。ぽちゃぽちゃとかわいらしく太った男の子、それに、大きな<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい、ドルスの目のような美しい目をした女の子たちであった。そういう子どもたちのおかげでわたしはアルバートだのハントリだのという<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>の味を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えた。なぜというに子どもたちはいつでもかくしにいっぱいお菓子をつめこんで来ては、ジョリクールと犬とわたしに分けてくれたからであった。

けれども春が近くなるに<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って、お客の数はだんだん少なくなった。<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>がすむと一人ずつまた二人ずつ、子どもたちはやって来て、ジョリクールとカピとドルスに<ruby><rb>握手</rb><rt>あくしゅ</rt></ruby>をして行った。みんなさようならを言いに来たのであった。そこでわたしたちもまたなつかしい冬の休息所を<ruby><rb>見捨</rb><rt>みす</rt></ruby>てて、またもや<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>て<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>れない<ruby><rb>漂泊</rb><rt>ひょうはく</rt></ruby>の旅に出て行かなければならなかった。それはいく週間と知らない長いあいだ、谷間をぬけ山をこえた。いつもピレネー<ruby><rb>連山</rb><rt>れんざん</rt></ruby>のむらさき色のみねを横に見た。それはうずたかくもり上がった雲のかたまりのように見えていた。

さてある<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>わたしたちは川に<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>った<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かな平野の中にある大きな町に着いた。赤れんがのみっともない家が多かった。とんがった<ruby><rb>小砂利</rb><rt>こじゃり</rt></ruby>をしきつめた<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>が、一日十二マイル（約十九キロ）も歩いて来た旅行者の足をなやました。親方はわたしに、ここがツールーズの町だと言って、しばらくここに<ruby><rb>滞留</rb><rt>たいりゅう</rt></ruby>するはずだと話した。

<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>によってそこに着いていちばん<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めにすることは、あくる日の<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>につごうのいい場所を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>すことであった。

つごうのいい場所はけっして少なくはなかったが、とりわけ植物園の<ruby><rb>近傍</rb><rt>きんぼう</rt></ruby>（近所）のきれいな<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>には、大きな<ruby><rb>樹木</rb><rt>じゅもく</rt></ruby>が気持ちのいいかげを作っていて、そこへ広い<ruby><rb>並木道</rb><rt>なみきみち</rt></ruby>がほうぼうから集まっていた。その並木道の一つで第一回の<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>がすることにした。すると<ruby><rb>初日</rb><rt>しょにち</rt></ruby>からもう見物の山を<ruby><rb>築</rb><rt>きず</rt></ruby>いた。

ところで<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふこう</rt></ruby>なことに、わたしたちが仕度をしているあいだ、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>が一人そばに立っていて、わたしたちの仕事を<ruby><rb>不快</rb><rt>ふかい</rt></ruby>らしい顔で見ていた。その巡査はおそらく犬がきらいであったか、あるいはそんな所にわれわれの<ruby><rb>近寄</rb><rt>ちかよ</rt></ruby>ることをふつごうと考えたのか、ひどくふきげんでわたしたちを追いはらおうとした。

追いはらわれるままにわたしたちはすなおに出て行けばよかったかもしれなかった。わたしたちは巡査にたてをつくほどの力はないのであったが、しかし親方はそうは思わなかった。

かれはたかが犬を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れていなかを<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>いて回る<ruby><rb>見世物師</rb><rt>みせものし</rt></ruby>の<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>ではあったが、ひじょうに<ruby><rb>気位</rb><rt>きぐらい</rt></ruby>が高かったし、<ruby><rb>権利</rb><rt>けんり</rt></ruby>の<ruby><rb>思想</rb><rt>しそう</rt></ruby>をじゅうぶんに持っていたかれは、<ruby><rb>法律</rb><rt>ほうりつ</rt></ruby>にも<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>規律</rb><rt>きりつ</rt></ruby>にも<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>かないかぎりかえって警察から<ruby><rb>保護</rb><rt>ほご</rt></ruby>を受けなければならないはずだと考えた。

そこで<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>が立ちのいてくれと言うと、かれはそれを<ruby><rb>拒絶</rb><rt>きょぜつ</rt></ruby>した。

もっとも親方はひじょうにていねいであった。親方があまりはげしくおこらないとき、または他人をすこし<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>（ばかにする）しかけるときするくせで、まったくかれはそのイタリア風の<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>（ばかていねい）を<ruby><rb>極端</rb><rt>きょくたん</rt></ruby>に<ruby><rb>用</rb><rt>もち</rt></ruby>いていた。ただ聞いていると、かれはなにか<ruby><rb>高貴</rb><rt>こうき</rt></ruby>な<ruby><rb>有力</rb><rt>ゆうりょく</rt></ruby>な人物と<ruby><rb>応対</rb><rt>おうたい</rt></ruby>しているように思われたかもしれなかった。

「<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>を代表せられるところの<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>よ」とかれは言って、ぼうしをぬいでていねいに<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>におじぎをした。「閣下は<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>たして、右の権力より発動しまするところのご<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>をもって、われわれごときあわれむべき<ruby><rb>旅芸人</rb><rt>たびげいにん</rt></ruby>が、公園においていやしき<ruby><rb>技芸</rb><rt>ぎげい</rt></ruby>を<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じますることを<ruby><rb>禁止</rb><rt>きんし</rt></ruby>せられようと言うのでございましょうか」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>の答えは、<ruby><rb>議論</rb><rt>ぎろん</rt></ruby>の<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>はない、ただだまってわたしたちは<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>すればいいというのであった。

「なるほど」と親方は答えた。「わたくしはただあなたがいかなる<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>によって、このご<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>をお発しになったか、それさえ<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>いたしますれば、さっそくおおせつけに<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>いたしますことを、つつしんで<ruby><rb>誓言</rb><rt>せいごん</rt></ruby>いたしまする」

この日は<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>も<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を向けて行ってしまった。親方はぼうしを手に持ってこしを曲げたまま、にやにやしながら、<ruby><rb>旗</rb><rt>はた</rt></ruby>を<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いて<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>く<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>に向かって<ruby><rb>敬礼</rb><rt>けいれい</rt></ruby>した。

けれどその<ruby><rb>翌日</rb><rt>よくじつ</rt></ruby>も、巡査はまたやって来た。そうしてわたしたちの<ruby><rb>芝居小屋</rb><rt>しばいごや</rt></ruby>の<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いのなわをとびこえて、<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>なかばにかけこんで来た。

「この犬どもに<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>をはめんか」と、かれはあらあらしく親方に向かって言った。

「犬に口輪をはめろとおっしゃるのでございますか」

「それは<ruby><rb>法律</rb><rt>ほうりつ</rt></ruby>の命ずるところだ。きさまは知っているはずだ」

このときはちょうど『<ruby><rb>下剤</rb><rt>げざい</rt></ruby>をかけた病人』という<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をやっている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>でツールーズでは<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めての<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>なので、見物もいっしょうけんめいになっていた。

それで<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>の<ruby><rb>干渉</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>に対して、見物がこごとを言い始めた。

「じゃまをするない」

「<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をさせろよ、おまわりさん」

親方はそのときまず見物のさわぐのをとどめて、さて毛皮のぼうしをぬぎ、そのかざりの<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>が地面の<ruby><rb>砂</rb><rt>すな</rt></ruby>と、すれすれになるほど、三度まで大げさなおじぎを<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に向かってした。

「<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>を代表せられる<ruby><rb>令名</rb><rt>れいめい</rt></ruby>高き<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>は、わたくしの<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>俳優</rb><rt>はいゆう</rt></ruby>どもに、<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>をはめろというご<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>でございますか」

とかれはたずねた。

「そうだ。それもさっそくするのだ」

「なに、カピ、ゼルビノ、ドルスに<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>をはめろとおっしゃるか」親方は<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に向かって言うよりも、むしろ見物に対して聞こえよがしにさけんだ。「さてさてこれは皮肉なお考えですな。なぜと申せば、音に名高き大先生たるカピ<ruby><rb>君</rb><rt>ぎみ</rt></ruby>が、鼻の先に口輪をかけておりましては、どうして<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふこう</rt></ruby>なるジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>が服すべき<ruby><rb>下剤</rb><rt>げざい</rt></ruby>の調合を命ずることができましょう。物もあろうに<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>などとは、氏が<ruby><rb>医師</rb><rt>いし</rt></ruby>たる<ruby><rb>職業</rb><rt>しょくぎょう</rt></ruby>がふさわしからぬ道具であります」

この<ruby><rb>演説</rb><rt>えんぜつ</rt></ruby>が見物をいっせいに<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>わした。子どもたちの黄色い声に親たちのにごった声も交じった。親方はかっさいを受けると、いよいよ図に乗って<ruby><rb>弁</rb><rt>べん</rt></ruby>じ<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「さてまたかの美しき<ruby><rb>看護婦</rb><rt>かんごふ</rt></ruby>ドルス<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>にいたしましても、ここに<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>の<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なる<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>を実行いたしましたあかつきには、いかにしてあの<ruby><rb>巧妙</rb><rt>こうみょう</rt></ruby>なる<ruby><rb>弁舌</rb><rt>べんぜつ</rt></ruby>をもって、病人に<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めてよくその<ruby><rb>苦痛</rb><rt>くつう</rt></ruby>を<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>ぐる<ruby><rb>下剤</rb><rt>げざい</rt></ruby>を服用させることができましょうや。<ruby><rb>賢明</rb><rt>けんめい</rt></ruby>なる<ruby><rb>観客諸君</rb><rt>かんきゃくしょくん</rt></ruby>のご<ruby><rb>判断</rb><rt>はんだん</rt></ruby>をあおぎたてまつります」

見物人の<ruby><rb>拍手</rb><rt>はくしゅ</rt></ruby>かっさいと<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>い<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>で、しかしその答えはじゅうぶんであった。みんなは親方に<ruby><rb>賛成</rb><rt>さんせい</rt></ruby>して<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>を<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>した。とりわけジョリクールがかげでしかめっ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をするのをおもしろがっていた。このさるは『<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>が代表せられる<ruby><rb>令名</rb><rt>れいめい</rt></ruby>高き<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>』の<ruby><rb>真後</rb><rt>まうし</rt></ruby>ろに<ruby><rb>座</rb><rt>ざ</rt></ruby>をかまえてこっけいなしかめっ面をして見せていた。<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は両うでを組んで、それからまた放して、げんこつをこしに当てて、頭を後ろに<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせていた。そのとおりをさるはやっていた。見物人らはおかしがって、きゃっきゃっと言っでいた。

巡査はそのときふとなにをおもしろがっているのか見ようとして後ろをふり向いた。するとしばらくのあいださると人間とはたがいににらみ合わなければならなくなった。どちらが先に目をふせるか問題であった。

<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>はおもしろがって金切り声を上げていた。

「きさまの<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>い<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>があすも<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>をしていなかったらすぐきさまを<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>する。それだけを言いわたしておく」

「さようなら<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>。ごきげんよろしゅう。いずれ明日」と親方は言って頭を下げた。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>が大またに出て行くと、親方はこしをほとんど地べたにつくほどに曲げて、からかい<ruby><rb>面</rb><rt>づら</rt></ruby>に<ruby><rb>敬礼</rb><rt>けいれい</rt></ruby>していた。そして<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>は<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>ぜられた。

わたしは親方が犬の<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>を買うかと思っていたけれども、かれはまるでそんな様子はなかった。その<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>は巡査とけんかをしたことについては一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>の話もなしに<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎた。

わたしはとうとうがまんがしきれなくなって、こちらからきりだした。

「あしたもしカピが<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>の<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>に、<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>を食い切るようなことがあるといけませんから、まえからそれをはめておいて<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>らしてやらないでもいいでしょうか。わたしたちはカピによくはめているように教えこむことができるでしょう」

「おまえはあれらの小さな鼻の上にそんな物をのせたいとわたしが思っているというのか」

「でも<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>がやかましく言いますから」

「おまえはんのいなかの子どもだな。<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>らしくおまえは巡査をこわがっているのか。心配するなよ。わたしはあしたうまい具合に取り計らって、巡査がわたしをつかまえることのできないようにするし、そのうえ犬がふゆかいな目に会わないようにしてやるつもりだ。それに見物も少しはうれしがるだろう。この<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はおかげでわたしたちによけいな金もうけをさせてくれることになるだろう。おまけにあいつは、わたしがあいつのためにしくんでおいた<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>で<ruby><rb>道化役</rb><rt>どうけやく</rt></ruby>を<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じることになるだろう。さてあしたは、おまえはあそこへジョリクールだけを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くのだ。おまえはなわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りをして、ハーブで二、三回ひくのだ。やがておおぜい見物が集まって来れば、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>めさっそくやって来るだろう。そこへわたしは犬を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れることにする。それから茶番が始まるのだ」

わたしはそのあくる日一人で行きたいことは少しもなかったけれども、親方の言うことには<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>しなければならないと思った。

さてわたしはいつもの場所へ出かけて、<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いのなわを回してしまうと、さっそく曲をひき始めた。見物はぞろぞろほうぼうから集まって来て、なわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りの外に<ruby><rb>群</rb><rt>むら</rt></ruby>がった。

このごろではわたしもハープをひくことを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたし、なかなかじょうずに歌も歌った。とりわけわたしはナポリ<ruby><rb>小唄</rb><rt>こうた</rt></ruby>を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えて、それがいつも大かっさいを<ruby><rb>博</rb><rt>はく</rt></ruby>した。けれどもきょうだけは見物がわたしの歌をほめるために来たのでないことはわかっていた。

きのう<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>との<ruby><rb>争論</rb><rt>そうろん</rt></ruby>を見物した人たちは<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず出て来たし、おまけに友だちまで<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>って来た。いったいツールーズの土地でも巡査はきらわれ者になっていた。それで<ruby><rb>公衆</rb><rt>こうしゅう</rt></ruby>はあのイタリア人のじいさんがどんなふうにやるか。「<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>、いずれ明日」と言った<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てぜりふの意味がなんであったか、それを知りたがっていたのである。

それで見物の中には、わたしがジョリクールと二人だけなのを見て、わたしの歌っている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>口を入れて、イタリアのじいさんは来るのかと言ってたずねる者もあった。

わたしはうなずいた。

親方は来ないで、先に<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>がやって来た。ジョリクールがまっ先にかれを見つけた。

かれはさっそくげんこつをこしの上に当てて、こっけいないばりくさった様子で、大またに歩き回った。<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>はかれの<ruby><rb>道化芝居</rb><rt>どうけしばい</rt></ruby>をおかしがって手をたたいた。

巡査はこわい目つきをしてわたしをにらみつけた。

いったいこの<ruby><rb>結末</rb><rt>けつまつ</rt></ruby>はどうなるだろう。わたしは少し心配になってきた。ヴィタリス親方がいてくれれば、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に答えることもできよう。巡査がわたしに立ちのけと<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>したら、わたしはなんと言えばいいのだ。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はなわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りの外を行ったり来たりしていた。それもわたしのそばを通るときには、なんだか<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>ごしにわたしをにらみつけるようにした。それでいよいよわたしは気が気でなかった。

ジョリクールは<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>の重大なことを<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>しなかった。そこでおもしろ半分なわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りの中で<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>とならんで歩きながら、その<ruby><rb>一挙一動</rb><rt>いっきょいちどう</rt></ruby>を身ぶりおかしくまねていた。おまけにわたしのそばを通るときには、やはり巡査のするように首を曲げて、<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>ごしににらみつけた。その様子がいかにもこっけいなので、見物はなおのことどっと<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

わたしはあんまりやりすぎると思ったから、ジョリクールを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>せた。けれどもかれはとても言うことを聞くどころではなかった。わたしがつかまえようとすると、ちょろちょろにげ出して、す早く身をかわしては、<ruby><rb>相変</rb><rt>あいか</rt></ruby>わらずとことこ歩いていた。

どうしてそんなことになったかわからなかったが、たぶん<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はあんまり<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てて気がちがったのであろう。なんでもわたしがさるをけしかけているように思ったとみえて、いきなりなわ<ruby><rb>張</rb><rt>ば</rt></ruby>りの中へとびこんで来た。

と思うまにかれはとびかかって来て、ただ一打ちでわたしを地べたの上にたたきたおした。

わたしが目を開いて起き上がろうとすると、ヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>はどこからとび出して来たものか、もうそこに立っていた。かれはちょうど<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のうでをおさえたところであった。

「わたしはあなたがその子どもを打つことを止めます。なんというひきょうなまねをなさるのです」とかれはさけんだ。

しばらくのあいだ二人の人間はにらみ合って立っていた。

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はおこってむらさき色になっていた。

親方はどうどうとした様子であった、かれは<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の美しいしらが頭をまっすぐに上げて、その顔には<ruby><rb>憤慨</rb><rt>ふんがい</rt></ruby>と<ruby><rb>威圧</rb><rt>いあつ</rt></ruby>の<ruby><rb>表情</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>がうかべていた。その顔つきを見ただけで巡査を地の下にもぐりこませるにはじゅうぶんであった。

けれどもかれはどうして、そんなことはしなかった。かれは両うでを広げて親方ののど首をつかまえて、<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>に前へおし出した。

ヴィタリス親方はよろよろとしてたおれかけたが、す早く立ち直って、平手で巡査のうで首を打った。

親方はがんじょうな人ではあったが、なんといっても<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>であった。<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>のほうは年も若いし、もっとがんじょうであった。このけんかがどうなるか、長くは取っ組めまいと、わたしははらはらしていた。

けれども取っ組むまでにはならなかった。

「あなたはどうしようというのです」

「わたしといっしょに来い」と<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は言った。「<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>するのだ」

「なぜあの子を打ったのです」と親方は<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>した。

「よけいなことを言うな。ついて来い」

親方は返事をしないで、わたしのほうをふり向いた。

「<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>へ帰っておいで」とかれは言った。「犬といっしょに待っておいで。あとで<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>で言って<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>こすから（ことずてをするから）」

かれはそのうえもうなにも言う<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>がなかった。<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はかれを引きずって行った。

こんなふうにして、親方が<ruby><rb>余興</rb><rt>よきょう</rt></ruby>にしくんだ<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>はあっけなく<ruby><rb>結末</rb><rt>けつまつ</rt></ruby>がついた。

犬たちは<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>め主人のあとについて行こうとしたけれども、わたしが<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び返すと、<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>らされているので、かれらはわたしのほうへもどって来た。気をつけてみるとかれらは<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>をはめていた。けれどもそれはふつうの金あみや<ruby><rb>金輪</rb><rt>かなわ</rt></ruby>ではなくって、ただ細い<ruby><rb>絹糸</rb><rt>きぬいと</rt></ruby>を二、三本、鼻の回りに<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>びつけて、あごの下にふさを<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らしてあった。白いカピは赤い糸を<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>んでいた。黒いゼルビノは白い糸を結んでいた。そうしてねずみ色のドルスは水色の糸を結んでいた。気のどくな親方はこんなふうにして、いかめしい<ruby><rb>権力</rb><rt>けんりょく</rt></ruby>の<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>を<ruby><rb>逆</rb><rt>ぎゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>喜劇</rb><rt>きげき</rt></ruby>の<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>に<ruby><rb>利用</rb><rt>りよう</rt></ruby>しようとしていたのである。

<ruby><rb>群衆</rb><rt>ぐんしゅう</rt></ruby>はさっそく<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>ってしまった。二、三人ひま<ruby><rb>人</rb><rt>じん</rt></ruby>が<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていまの<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>を<ruby><rb>論</rb><rt>ろん</rt></ruby>じ合っていた。

「あのじいさんがもっともだよ」

「いや、あの男がまちがっている」

「なんだって<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>は子どもを打ったのだ。子どもはなにもしやしなかった。ひと言だって口をききはしなかった」

「とんだ<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>さ。巡査に<ruby><rb>反抗</rb><rt>はんこう</rt></ruby>したことを<ruby><rb>証明</rb><rt>しょうめい</rt></ruby>すれば、あのじいさんは<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>へやられるだろう、きっと」

わたしはがっかりして<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>へ帰った。

わたしはこのころでは毎日だんだんと親方が<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きになっていた。わたしたちは朝から<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>までいっしょにくらしてきた。どうかすると夜から朝までも同じわらのねどこにねむっていた。どんな父親だって、かれがわたしに見せたような<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いた注意をその子どもに見せることはできなかった。かれはわたしに字を読むことも、計算することも教えてくれたし、歌を歌うことも教えてくれた。長い<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>の旅のあいだに、かれはこのことあのことといろいろにしこんでくれた。たいへん寒い日には、<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>を半分わけてくれたし、暑い日にはいつもわたしの代わりに荷物をかついでくれた。それから食事のときでもかれはけっして、自分がいい所を食べて悪い所をわたしにくれるというようなことはしなかった。それどころか、かれはいい所も悪い所も同じように分けてくれた。なるほどときどきはわたしがいやなほど、ひどく<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>に耳を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>ることもあったけれど、わたしに<ruby><rb>過失</rb><rt>かしつ</rt></ruby>があれば、それもしかたがなかった。一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>で言えばわたしはかれを<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>していたし、かれはわたしを愛していた。

だからこの<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れはわたしにはなによりつらいことであった。

いつまたいっしょになれるだろうか。

いったいどのくらい<ruby><rb>牢屋</rb><rt>ろうや</rt></ruby>へ入れておくつもりなのだろう。

そのあいだわたしはどうしたらいいだろう。どうして生きてゆこう。

ヴィタリス親方はいつもからだに<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>をつけている<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>であった。それが<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>られて行くときになにもわたしに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて行くひまがなかった。

わたしはかくしに五、六スーしか持っていなかった。それだけでジョリクールと犬とわたしの食べるだけの物が買えようか。

わたしはそれから二日のあいだ、<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>から外へ出る気にもならずに、ぼんやりくらしてしまった。さるも犬もやはりすっかりしょげきっていた。

やっとのことで三日目に一人の男が親方の手紙を<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>けて来た。その手紙によると、親方はこのつぎの土曜日に、<ruby><rb>警察権</rb><rt>けいさつけん</rt></ruby>に<ruby><rb>反抗</rb><rt>はんこう</rt></ruby>し、かつ<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に手向かいをした<ruby><rb>科</rb><rt>とが</rt></ruby>で<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>を受けるはずになっていた。

「わたしがかんしゃくを起こしたのは悪かった」と手紙に書いてあった。「とんだ<ruby><rb>災難</rb><rt>さいなん</rt></ruby>を<ruby><rb>招</rb><rt>まね</rt></ruby>いたがいまさらいたしかたもない。<ruby><rb>裁判所</rb><rt>さいばんしょ</rt></ruby>へ来てごらん、<ruby><rb>教訓</rb><rt>きょうくん</rt></ruby>になることがあるであろう」

こういって、それからなお二、三の注意を書きそえて、自分に代わって犬やさるたちをかわいがってくれるようにと書いてあった。

わたしが手紙を読んでいるあいだ、カピがわたしの両足の間にはいって、鼻を手紙にこすりつけて、くんくんやっていた。かれが<ruby><rb>尾</rb><rt>お</rt></ruby>をふる具合で、わたしはかれがこの手紙が主人から来たことを知っていると思った。この三日のあいだにかれが少しでもうれしそうな様子を見せたのはこれが<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてであった。

わたしは土曜日の朝早く<ruby><rb>裁判所</rb><rt>さいばんしょ</rt></ruby>に行って、いの一番に<ruby><rb>傍聴席</rb><rt>ぼうちょうせき</rt></ruby>にはいった。<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>とのけんかを<ruby><rb>目撃</rb><rt>もくげき</rt></ruby>した人たちの多くがやはり来ていた。わたしは裁判所に出るのがなんだかこわかったので、大きなストーブのかげにはいってかべにくっついて、できるだけ小さくからだをちぢめていた。

どろぼうをして<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>された男や、けんかをしてつかまった男が<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めに<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>を受けた。<ruby><rb>弁護人</rb><rt>べんごにん</rt></ruby>は<ruby><rb>無罪</rb><rt>むざい</rt></ruby>を<ruby><rb>言</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>っていたけれど、それはみんな<ruby><rb>有罪</rb><rt>ゆうざい</rt></ruby>を<ruby><rb>宣告</rb><rt>せんこく</rt></ruby>された。

いちばんおしまいに親方が引き出された。かれは二人の<ruby><rb>憲兵</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>の間にはさまってこしかけにかけていた。

はじめにかれがなにを言ったか、人びとがかれになにをたずねたか、わたしはひじょうに<ruby><rb>興奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>しきっていたのでよくわからなかった。

わたしはただじっと親方を見ていた。

かれはしらが頭を後ろに<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせて、まっすぐに立っていた。かれははじて苦んでいるように見えた。<ruby><rb>裁判官</rb><rt>さいばんかん</rt></ruby>は<ruby><rb>尋問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>を始めた。

「おまえは、おまえを<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>しようとした<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>を何回も打ったことを<ruby><rb>承認</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>するか」と、裁判官は言った。

「何回も打ちはいたしません、<ruby><rb>閣下</rb><rt>かっか</rt></ruby>」と親方は言った。「わたしはただ一度手を上げました。わたくしはいつもの<ruby><rb>演芸</rb><rt>えんげい</rt></ruby>をいたしまする場所にまいりますと、ちょうど警官がわたくしの<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れています子どもを地の上に打ちたおすところを見たのでございます」

「その子はおまえの子ではないだろう」

「はい、しかしわたくしの実子同様にかわいがっております。それで<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がかれを打ちますところを見て、わたしはかっととりのぼせまして、警官が打とうとする手をおさえました」

「おまえは警官を打ったろう」

「<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>がわたくしに向かって手をあげましたから、わたくしはもはや警官としてではない、通常の人としてこれに向かってのであります。まったくいかりに乗じた<ruby><rb>結果</rb><rt>けっか</rt></ruby>であります」

「おまえぐらいの<ruby><rb>年輩</rb><rt>ねんぱい</rt></ruby>でいかりに乗ずるということはないはずだ」

「そうです。そういうはずはないのですが、人はおうおう<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふこう</rt></ruby>にして<ruby><rb>過失</rb><rt>かしつ</rt></ruby>におちいりやすいのです」

<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>はそれから自分の言い分を申し立てた。それは打たれたことよりも、より多く自分が<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>（あざける）された事実についてであった。

親方の目はそのあいだ<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>すようであった。それはわたしがいるかどうか探しているのだということがわかっていたから、わたしは思い切ってかくれ場所からとび出して、おおぜいの中をおし分けながら、前へ出て、いちばん前の列の、かれの<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>に近い所へ出た。かれのさびしい顔はわたしを見るとかがやきだした。わたしの目にもなみだがあふれ出した。

まもなく<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>は決まった。かれは二か月の<ruby><rb>禁固</rb><rt>きんこ</rt></ruby>と、百フランの<ruby><rb>罰金</rb><rt>ばっきん</rt></ruby>に<ruby><rb>処</rb><rt>しょ</rt></ruby>せられることになった。

ああ、二か月の<ruby><rb>禁固</rb><rt>きんこ</rt></ruby>。

ドアは開かれた。なみだにぬれた目の中からわたしは、かれが<ruby><rb>憲兵</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>のあとからついて行くのを見た。ドアはその後ろからばたんと<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>ざされた。ああ、二か月の<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れ。

どこへわたしは行こう。

船の上

わたしが重たい心で、赤い目をふきふき<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>に帰ると、ちょうど<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>が庭に出ていた。

わたしは犬のいる所へ行こうとしてその前を通ると、かれはわたしを引き止めた。

「どうだ、親方は」とかれは言った。

「<ruby><rb>有罪</rb><rt>ゆうざい</rt></ruby>の<ruby><rb>宣告</rb><rt>せんこく</rt></ruby>を受けました」

「どのくらい」

「二か月の<ruby><rb>禁固</rb><rt>きんこ</rt></ruby>です」

「<ruby><rb>罰金</rb><rt>ばっきん</rt></ruby>はどのくらい」

「百フラン」

「二か月……百フラン」かれは二、三度くり返した。

わたしはずんずん行こうとした。するとかれはまた引き止めた。

「その二か月のあいだおまえはどうするつもりだ」

「ぼくはわかりません」

「おや、おまえわからないと。おまえ、とにかく自分も食べて、犬やさるに食べ物を買ってやるお金がなければなるまい」

「いいえ、ないのです」

「じゃあ、おまえはわたしが<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>ってくれると思っているのか」

「いいえ、わたしはだれのやっかいになろうとも思いません」

それはまったくであった。わたしはだれのやっかいにもなるつもりはなかった。

「おまえの親方はこれまでも、もうずいぶんわたしに<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りがある」とかれは言った。「わたしは二か月のあいだ金をはらってもらえるかどうかわからずに、おまえをとめておくことはできない。出て行ってもらわなければならないのだ」

「出て行く。どこへ行ったらいいでしょう」

「それはわたしの知ったことではない。わたしはおまえのおやじでも親方でもなんでもないからな。どうしておまえの世話をしてやれよう」

しばらくのあいだわたしは目がくらくらとした。<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>の言うことはもっともであった。どうしてかれがわたしの世話をしてくれよう。

「さあ、犬とさるを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて出て行ってくれ。親方の荷物は<ruby><rb>預</rb><rt>あず</rt></ruby>かっておく。親方が<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>から出て来れば、いずれここへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>るだろうし、そのときこちらの<ruby><rb>始末</rb><rt>しまつ</rt></ruby>もつけてもらおう」

このことばから、ある考えがわたしの心にうかんだ。

「いずれそのときはお<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をはらうことになるでしょうから、それまでわたしを<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてはくださいませんか。その勘定にわたしのぶんも<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>えてはらえばいいでしょう」

「おやおや、おまえの親方は二日分の<ruby><rb>食料</rb><rt>しょくりょう</rt></ruby>ぐらいははらえるかもしれんが、二か月などはとてもとてもだ。そりやあまるで<ruby><rb>別</rb><rt>べつ</rt></ruby>な話だよ」

「わたしはいくらでも少なく食べますから」

「だが、犬もいればさるもいる。いけないいけない。出て行ってくれ。どこかいなかで仕事を見つけて、金をもらって歩けばいいのだ」

「でも親方が<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>から出て来たときに、どうしてわたしを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>すでしょう。きっとこちらへ<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて来るにちがいありません」

「だからおまえもその日にここへ帰って来ればいいのだ」

「それでもし手紙が<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いたら」

「手紙は取っておいてやるよ」

「でもわたしが返事を出さなかったら……」

「まあいつまでもうるさいな。急いで出て行ってくれ。五分間の<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>をやる。五分たってわたしが帰って来ても、まだここにいれば<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>しないから」

わたしはこの男と言い合うのはむだだということを知っていた。わたしは出て行かなければならなかった。

わたしは犬とジョリクールを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れにうまやへ行った。それから<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>にハープをしょって、<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>を出た。

わたしは大急ぎで町を出なければならなかった。なぜというに、犬に<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>がはめてないのだから、<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>にとがめられてもなんと答えようもなかった。わたしには金がないといおうか、それはまったくであった。わたしはかくしにたった十一スーしか持たなかった。それだけでは口輪を買うにも足りなかった。巡査がわたしを<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>するかもしれない。親方もわたしも二人とも<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>に入れられたら、犬やさるはどうなるだろう。わたしは自分の<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>に<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>を感じていた。

わたしが足早に歩いて行くと、犬たちが顔を上げてながめた。その様子をどう見ちがえようもなかった。かれらは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っていた。

わたしの<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>に乗っていたジョリクールは、しじゅうわたしの耳を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>って<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に自分の顔を見させようとした。わたしが顔を向けると、かれはせっせと<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をかいて見せた。

わたしもやはり腹がすいていた。わたしたちは<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>を食べなかった。わたしの持っている十一スーでは昼食と<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんしょく</rt></ruby>を食べるには足りなかった。そこでわたしたちは一食で両方<ruby><rb>兼帯</rb><rt>けんたい</rt></ruby>の昼食を食べて、<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>しなければならなかった。

わたしたちは<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に出っくわさないように、少しでも急いで市中をはなれなければならなかったから、どの道をどう行くなんていうことはかまわなかった。どの道を歩いても同じことであった。どこへ行っても食べるには金が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るし、<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>へとまれば<ruby><rb>宿銭</rb><rt>やどせん</rt></ruby>を取られる。それにねむる場所を見つけるくらいはたいしたことではなかった。このごろの<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい<ruby><rb>季節</rb><rt>きせつ</rt></ruby>ではわたしたちは野天にねむることができた。

さしせまっているのは食物だ。

一休みもせずに、わたしたちは二時間ばかり歩き<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けたあとで、やっと立ち止まることができた。そのあいだ犬たちはたのむような目つきでしじゅうわたしの顔を見た。ジョリクールは耳を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>って、<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えずおなかをさすっていた。

とうとう、わたしはここまで来ればもうなにもこわがることはないと思うところまで来てしまった。わたしはすぐそこにあったパン屋にとびこんだ。

わたしは一<ruby><rb>斤半</rb><rt>きんはん</rt></ruby>パンを切ってくれと言った。

「おまえさん、二斤におしなさいな。二斤のパンはどうしても<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>りますよ」とおかみさんは言った。「それでもそれだけの<ruby><rb>同勢</rb><rt>どうぜい</rt></ruby>にはたっぷりとは言えない。かわいそうに、<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>にはじゅうぶん食べさしておやんなさい」

おお、どうして、むろんわたしの同勢にはたっぷりではなかった。けれどもわたしの<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>にはたっぷりすぎた。

パンは一<ruby><rb>斤</rb><rt>きん</rt></ruby>五スーであった。二斤買えば十スーになる。わたしはあしたどうなるかわからないのに、手もとを使いきるのはりこうなことではなかった。わたしはおかみさんに打ち明けて一斤半でたくさんだというわけを話して、それ<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>らないようにていねいにたのんだ。

わたしは両うでにしっかりパンをかかえて店を出た。犬たちがうれしがって回りをとび回った。ジョリクールが<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>ってうれしそうにくっくっと<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

わたしたちはそこから遠くへは行かなかった。

まっ先に目に当たった道ばたの木の下でわたしはハープを<ruby><rb>幹</rb><rt>みき</rt></ruby>によせかけて、草の上にすわった。犬たちはわたしの向こうにすわった。カピはまん中に、ドルスとゼルビノはその両わきにすわった。くたびれていないジョリクールは、きょろきょろとうの目たかの目で、なんでもまっ先に一きれせしめようとねらっていた。

パンを同じ大きさに分けるのはむずかしい仕事であった。わたしはできるだけ同じ大きさにして、五きれにパンを切った。そのうえいくつかの小さなきれに割って一きれずつめいめいに分けた。

わたしたちよりずっと少食だったジョリクールはわりがよかった。それでかれがすっかり<ruby><rb>満腹</rb><rt>まんぷく</rt></ruby>してしまったとき、わたしたちはやはり<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>がすいていた。わたしはかれのぶんから三きれ取って<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>の中にかくして、あとで犬たちにやることにした。それからまだ少し<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていたので、わたしはそれを四つにちぎって、てんでに一きれずつ分けた。それが食後のお<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>であった。

このごちそうがけっして食後の<ruby><rb>卓上演説</rb><rt>たくじょうえんぜつ</rt></ruby>を<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>とするほどりっぱなものではなかったのはもちろんであるが、わたしは食事がすんだところで、いまがちょうど<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の者に二言三言いいわたす機会だと感じた。わたしはしぜんかれらの<ruby><rb>首領</rb><rt>しゅりょう</rt></ruby>ではあったが、この重大な場合に当たって、かれらに死生をともにすることを<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>むだけの<ruby><rb>威望</rb><rt>いぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>りないことを感じていた。

カピはおそらくわたしの意中を<ruby><rb>察</rb><rt>さっ</rt></ruby>したのであろう。それでかれはその大きなりこうそうな目を、じつとわたしの日の上にすえてすわっていた。

「さて、カピ、それからドルスも、ゼルビノも、ジョリクールも、みんなよくお聞き。わたしはおまえたちに悲しい知らせを<ruby><rb>伝</rb><rt>つた</rt></ruby>えなければならないのだよ。わたしたちはこれから二か月も親方に会うことができないのだよ」

「ワウ」とカピがほえた。

「これは親方のためにも<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったことだし、わたしたちのためにも困ったことなのだ。なぜといって、わたしたちはなにもかも親方にたよっていたのだから、それがいま親方がいなくなれば、わたしたちにはだいいちお金がないのだ」

この金ということばを言いだすと、カピはよく知っていて、後足で立ち上がって、ひょこひょこ回り始めた。それはいつも『ご<ruby><rb>臨席</rb><rt>りんせき</rt></ruby>の<ruby><rb>貴賓諸君</rb><rt>きひんしょくん</rt></ruby>』から金を集めて回るときにすることであった。

「ああ、おまえは<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をやれというのだね。カピ」とわたしは言った。「それはいい考えだが、どこまでわたしたちにできるだろうか。そこが考えものだよ。うまくゆかない場合には、わたしたちはもうたった三スーしか持っていない。だからどうしても食べずにいるほかはない。そういうわけだから、ここはたいせつなときだと思って、おまえたちはみんなおとなしくぼくの言うことを聞いてくれなければだめだ。そうすればおたがいの力でなにかできるかもしれない。おまえたちはみんなしていっしょうけんめい、ぼくを助けてくれなければならない。わたしたちはおたがいにたより合ってゆきたいと思うのだ」

こういったわたしのことばが、<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずかれらにわかったろうとはわたしも言わないが、だいたいの<ruby><rb>趣意</rb><rt>しゅい</rt></ruby>は飲みこめたらしかった。かれらは同じ考えになってはいた。かれらは親方のいなくなったについて、そこになにか<ruby><rb>大事件</rb><rt>だいじけん</rt></ruby>が起こったことを知っていた。それでその<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>をわたしから聞こうとしていた。かれらがわたしの言って聞かせた<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずを<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>しなかったとしても、すくなくともわたしがかれらの身の上を心配してやっていることには<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>していた。それでおとなしくわたしの言うことに身を入れて聞いて、<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>の意味を表していた。

いやお待ちなさい。なるほどそれも、犬の<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>だけのことで、ジョリクールには、いつまでもじっとしていることが<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>めなかった。かれは一分間と一つ事に心を向けていることができなかった。わたしの<ruby><rb>演説</rb><rt>えんぜつ</rt></ruby>の<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めの部分だけはかれも<ruby><rb>殊勝</rb><rt>しゅしょう</rt></ruby>らしくたいへん<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>を持って<ruby><rb>傾聴</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>していたが、二十とことばを言わないうちに、かれは一本の木の上にとび上がって、わたしたちの頭の上のえだにぶら下がり、それからつぎのえだへととび回っていた。カピが同じやり方でわたしを<ruby><rb>侮辱</rb><rt>ぶじょく</rt></ruby>したならば、わたしの<ruby><rb>自尊心</rb><rt>じそんしん</rt></ruby>はずいぶん<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>つけられたにちがいなかった。けれどもジョリクールがどんなことをしようと、わたしはけっしておどろかなかった。かれはずいぶん頭の空っぽな、軽はずみなやつだった。

けれどそうはいうものの、少しはふざけたいのもかれとして<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>はなかった。わたしだってやはり同じことをしたかったと思う。わたしもやはりおもしろ半分木登りをしてみたかった。けれどもわたしの<ruby><rb>現在</rb><rt>げんざい</rt></ruby>の<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>の重大なことが、わたしにそんな遊びをさせなかった。

しばらく休んだあとで、わたしは出発の合図をした。わたしたちはどうせ、どこかただでとまる<ruby><rb>青天井</rb><rt>あおてんじょう</rt></ruby>の下を見つけさえすればいいのだから、なにより、あしたの食べ物を買う<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>をいくらかでももうけることが、さし当たっての問題であった。

小一時間ばかり歩くと、やがて一つの村が見えてきた。

びんぼう村らしくって、あまりみいりの多いことは<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>めないが、村が小さければ<ruby><rb>巡査</rb><rt>じゅんさ</rt></ruby>に出会うことも少なかろうと考えた。

わたしはさっそく<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>服装</rb><rt>ふくそう</rt></ruby>を<ruby><rb>整</rb><rt>ととの</rt></ruby>えて、できるだけりっぱな行列を作りながら、村へはいって行った。運悪くわたしたちはあのふえがなかったし、そのうえヴィタリス親方のりっぱなどうどうとした<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>がなかった。<ruby><rb>軍楽隊</rb><rt>ぐんがくたい</rt></ruby>の<ruby><rb>隊長</rb><rt>たいちょう</rt></ruby>のようなりっぱな様子でかれはいつも人目をひいていた。わたしには<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高いという<ruby><rb>利益</rb><rt>りえき</rt></ruby>もないし、あのりっぱなしらが頭も持たなかった。それどころかわたしはちっぽけで、やせっぽちで、そのうえひどくやつれた心配そうな顔をしていたにちがいなかった。

行列の先に立って歩きながら、わたしは右左をきょろきょろ見回して、わたしたちがどういう<ruby><rb>効果</rb><rt>こうか</rt></ruby>を村の人たちにあたえているか、見ようとした。ごくわずか――と<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないけれど言わなければならなかった。だれ一人あとからついて来る者もなかった。

ちょっとした広場のまん中に<ruby><rb>泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>があって、木かげがこんもりしている所を見つけると、わたしはハープを下ろしてワルツを一曲ひき始めた。曲はゆかいな調子であったし、わたしの指も軽く動いた。けれどもわたしの心は重かった。

わたしはゼルビノとドルスに向かって、いっしょにワルツをおどるように言いつけた。かれらはすぐ言うことを聞いて、<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>に合わせてくるくる回り始めた。

けれどもだれ一人出て来て見ようとする者もなかった。そのくせ家の戸口では五、六人の女が<ruby><rb>編</rb><rt>あ</rt></ruby>み<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>をしたり、おしゃべりをしているのを見た。

わたしはひき<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。ゼルビノとドルスはおどり<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

一人ぐらい出て来る者があるだろう。一人来ればまた一人、だんだんあとから出て来るにちがいなかった。

わたしはあくまでひき<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。ゼルビノとドルスもくるくるじょうずに回っていた。けれども村の人たちはてんでこちらをふり向いて見ようともしなかった。

けれどもわたしはがっかりしまいと決心した。わたしはいっしょうけんめいハープの糸が切れるほどはげしくひいた。

ふと一人、ごく小さい子が<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて、うちの中からちょこちょことかけ出して、わたしたちのほうへやって来た。

きっと母親があとからついて来るであろう。その母親のあとから、<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>が出て来るだろう。そうして見物ができれば、少しのお金が取れるであろう。

わたしは子どもをおびえさせまいと思って、まえよりは<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにひいた。そうして少しでもそばへ<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>せようとした。両手を<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>ばして、<ruby><rb>片足</rb><rt>かたあし</rt></ruby>ずつよちよち上げて、かれは歩いて来た。もう二足か三足で、子どもはわたしたちの所へ来る。ふと、そのしゅんかん母親はふり向いた。きっと子どもの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>の見えないのを見て、びっくりするにちがいない。

でもかの女はやっと子どもの行くえを見つけると、わたしの思ったようにすぐあとからかけては来ないで自分のほうへ<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び返した。すると子どもはおとなしくふり返って母親のほうへ帰って行った。

きっとこのへんの人は、ダンスも音楽も<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>かないのだ。きっとそんなことであった。

わたしはゼルビノとドルスを休ませて、今度は、わたしの<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きな<ruby><rb>小唄</rb><rt>こうた</rt></ruby>を歌い始めた。わたしはこんなにいっしょうけんめいになったことはなかった。

二<ruby><rb>節</rb><rt>せつ</rt></ruby>目の終わりになったとき、<ruby><rb>背広</rb><rt>せびろ</rt></ruby>を着て、ラシャのぼうしをかぶった男が目にはいった。その男はわたしのほうへ歩いて来るらしかった。

とうとうやって来たな。

わたしはそう思って、いよいよむちゅうになって歌った。

「これこれこぞう、ここでなにをしている」と、その男はどなった。

わたしはびっくりして歌をやめた。ぽかんと口を開いたまま、そはへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来るその男をぼんやりながめた。

「なにをしているというのだ」

「はい、歌を歌っています」

「おまえはここで歌を歌う<ruby><rb>許可</rb><rt>きょか</rt></ruby>を<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>たか」

「いいえ」

「ふん、じやあ行け。行かないと<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>するぞ」

「でも、あなた……」

「あなたとはなんだ、<ruby><rb>農林監察官</rb><rt>のうりんかんさつかん</rt></ruby>を知らないか。出て行け、こじきこぞうめ」

ははあ、これが農林監察官か。わたしは親方の見せたお手本で、<ruby><rb>警官</rb><rt>けいかん</rt></ruby>や<ruby><rb>監察官</rb><rt>かんさつかん</rt></ruby>に<ruby><rb>反抗</rb><rt>はんこう</rt></ruby>すると、どんな目に会うかわかっていた。わたしはかれに二度と<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>をくり返させなかった。わたしは急いでわき道へにげだした。

こじきこぞうか、ひどい言いぐさだ。わたしはこじきはしなかった。わたしは歌を歌ったまでだ。

五分とたたないうちに、わたしはこの<ruby><rb>人情</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>のない、そのくせいやに<ruby><rb>監視</rb><rt>かんし</rt></ruby>の行き<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いている村をはなれた。

犬たちは<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れて、すごすごあとからついて来た。きっとつまらない目に会ったことを知っていた。

カピはしじゅうわたしたちの先頭に立って歩いていた。ときどきふり向いては<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のりこうそうな目で、いったいどうしたのですと言いたそうに見えた。ほかのものがかれの<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>かれたのだったら、きっとわたしにそれをたずねたであろうけれども、カピはそんな<ruby><rb>無作法</rb><rt>ぶさほう</rt></ruby>をするには、あんまりよくしつけられていた。

かれはふに落ちないのを、いっしょうけんめいがまんしているふうを見せるだけで<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>していた。

ずっと遠くこの村からはなれたとき、わたしは<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてかれらに（止まれ）という合図をした。それで三びきの犬はわたしの回りに<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>を作った。そのまん中にはカピがじっとわたしに目をすえていた。

わたしはかれらがわからずにいることを、ここで<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>してやらなければならなかった。「わたしたちは<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>の<ruby><rb>許可</rb><rt>きょか</rt></ruby>を<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ていないから、追い出されたのだよ」とわたしは言った。

「へえ、それではどうしましょう」と、カピは首を一ふりふってたずねた。

「だからわたしたちは今夜はどこか野天でねむって、<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>なしに歩くのだ」

<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>ということばに、みんないちどにほえた。わたしはかれらに三スーの<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>を見せた。

「知ってるとおり、わたしの持っているのはこれだけだ。今夜この三スーを使ってしまえば、あしたの<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>になにも<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らない。きょうはとにかく少しでも食べたのだから、これはあしたまでとっておくほうがいいようだ」こう言って、わたしは三スーをまたかくしに入れた。

カピとドルスはあきらめたように首を下げた。けれどもそれほどすなおでなかったし、そのうえ大食らいであったゼルビノは、いつまでもぶうぶううなっていた。わたしはこわい目をしてかれを見たが、<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>がなかった。

「カピ、ゼルビノに言ってお聞かせ。あれはわからないようだから」と、わたしは<ruby><rb>忠実</rb><rt>ちゅうじつ</rt></ruby>なカピに言った。

カピはさっそく前足でゼルビノをたたいた。それはいかにも二ひきの犬の間に言い合いが始まっているように見えた。言い合いというようなことばを犬に使うのは少し<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>だと言うかもしれないが、動物だってたしかにその<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>に通用する<ruby><rb>特別</rb><rt>とくべつ</rt></ruby>なことばがあった。犬だけで言えば、かれらは話すことを知っているだけではない、読むことも知っていた。かれらが鼻を高く空に向けたり、顔を下げて地べたをかいだり、やぶや石の上をかぎ回ったりするところをご<ruby><rb>覧</rb><rt>らん</rt></ruby>なさい。ふとかれらはとある草むらの前で立ち止まる。またはかべの前で立ち止まって、しばらくはじっと目をすえている。わたしたちが見てはその上になにもないが、犬はわたしたちの<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>しないふしぎな文字で書かれた、いろいろの変わったことをそこに読み分けるのである。

カピがゼルビノに言ったこともわたしにはわからなかった。なぜと言うに、犬には人間のことばがわかっても、人間はかれらのことばを<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>しないのだ。わたしがただ見たところでは、ゼルビノは道理に耳をかたむけることをこばんだ。なんでも三スーのお金をすぐに使ってしまえと言い<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>ったようであった。カピは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てて歯をむき出すと、少しおくびょう者のゼルビノはすごすごだまってしまった。だまるということばにも少し<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るが、ここではころりと横になることを言うのである。

そこで<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>ったのは今夜の<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の問題だけだ。

<ruby><rb>時候</rb><rt>じこう</rt></ruby>はよし、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい、いい天気であった。だから<ruby><rb>青天井</rb><rt>あおてんじょう</rt></ruby>の下にねむることはさしてむずかしいことではなかった。ただこのへんに悪いおおかみでもいるようなら、それをさけるようにすればよかった。おおかみよりもおそろしい<ruby><rb>農林監察官</rb><rt>のうりんかんさつかん</rt></ruby>からさけることもさらに<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>であった。

わたしたちは白い道の上をずんずんまっすぐに進んで行った。山のはしに落ちかけた赤い夕日の<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>の光が空から消えるころまで、<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>を<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めて歩き<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けたが、まだ見つからなかった。

もう<ruby><rb>善悪</rb><rt>ぜんあく</rt></ruby>なしに、どうでもとまらなければならなかった。やっと林の間に出た。そこここに大きな<ruby><rb>花</rb><rt>か</rt></ruby>こう<ruby><rb>岩</rb><rt>がん</rt></ruby>が<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっていた。この場所はずいぶんあれたさびしい所であったが、それよりいい場所は見つからなかった。それに花こう岩の中にはいってねむれば、しめっぽい夜風を<ruby><rb>防</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぐたしにもなろうと思った。ここでわたしたちというのは、さるのジョリクールとわたし自身のことを言うので、犬たちは外でねむったところでかぜをひく気づかいもなかった。わたしは自分のからだをだいじにしなければならなかった。わたしのしょっている<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>は重かった。わたしが病気になったらわたしたちみんなどうなるだろう。またわたしがジョリクールの<ruby><rb>看病</rb><rt>かんびょう</rt></ruby>をしなければならないようだったら、今度はわたしがどうなるだろう。

わたしたちは石の間にほら<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>のような所を見つけた。そこには<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつ</span>の落ち葉がたまっていた。これで、上には風を<ruby><rb>防</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぐ屋根があり、下にはしいてねるふとんができた。これはひじょうに具合がよかった。足りないのは食べ物ばかりであった。わたしはおなかのすいていることを考えまいと<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。ことわざにも言うではないか、『ねむるのは食べるのだ』と。

いよいよ横になるまえに、わたしはカピに<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>り<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>をたのむと言った。するとこの<ruby><rb>忠実</rb><rt>ちゅうじつ</rt></ruby>な犬はわたしたちといっしょに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつ</span>葉の上でねむろうとはしないで、わたしの<ruby><rb>野営地</rb><rt>やえいち</rt></ruby>の入口に、<ruby><rb>歩哨</rb><rt>ほしょう</rt></ruby>のように横になっていた。わたしはカピが番をしてくれればだれも<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>なしに近づけないと思ったから、落ち着いてねむることができた。

でもこれだけは心配はなかったが、すぐにはねむりつけなかった。ジョリクールはわたしの上着の中にくるまって、そばでぐっすりねむっていた。ゼルビノとドルスは、わたしの足もとでからだをのばしていた。けれどもわたしの心配はからだのつかれよりも大きかった。

この旅行の第一日は悪かった。あくる日はどんなであろう。わたしは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>ったし、のどがかわいていた。それでいてたった三スーしか持っていなかった。あしたいくらかでももうけなかったら、どうしてみんなに食べ物を買ってやることができよう。それに<ruby><rb>口輪</rb><rt>くちわ</rt></ruby>はどうしよう。これから歌を歌う<ruby><rb>許可</rb><rt>きょか</rt></ruby>は、いったいどうしたらいいだろう。<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してくれるだろうか。さもないとわたしたちはみんな、やぶの中でおなかが<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>って死んでしまうだろう。

こういうみじめな、あわれっぽい<ruby><rb>疑問</rb><rt>ぎもん</rt></ruby>を心の中でくり返しくり返しするうちに、わたしは暗い空の上にかがやいている星を見た。そよとの風もなかった。どこもかしこもしんとしていた。木の葉のそよぐ音もしない。鳥の鳴く声もしない。<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>を車のとろとろと通る音もしない。目の<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>く<ruby><rb>限</rb><rt>かぎ</rt></ruby>りは青白い空が広がっていた。わたしたちは<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっちであった。世の中から<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てられていた。

なみだは目の中にあふれた。バルブレンのおっかあはどうしたろう。気のどくなヴィタリスは。

わたしはうつぶしになって、顔を両手でかくして、しくしく<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。するとふと、かすかな息が<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>にふれるように思った。わたしはあわててふり向いた。そのひょうしに大きなやわらかな<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>がなみだにあふれたわたしのほおをなめた。それはカピが、わたしの泣き声を聞きつけて、あのわたしの<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>の<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めての日にしてくれたように、今度もわたしをなぐさめに来てくれたのである。

両手でわたしはかれの首をおさえて、そのしめった鼻にキッスした。かれは二、三度おし<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>したような悲しそうな鼻声を出した。それがわたしといっしょに<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いてくれるもののように思われた。

わたしはねむって目が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めてみると、もうすっかり明るくなっていた。カピはわたしの前にすわったままじっとわたしを見ていた。小鳥が林の中で歌を歌っていた。遠方のお寺で朝の<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>のかねが鳴っていた。太陽はもう空の上に高く上って、つかれた心とからだをなぐさめる光を心持ちよく投げかけていた。

わたしたちはかねの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を目当てに歩き出した。そこには村があって、パン屋もきっとあるにそういなかった。昼食も夕食もなしにねどこにはいれば、だれにだって<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>が『おはよう』を言いに来る。わたしは思い切って、三スーを使ってしまう決心をした。そのあとではどうなるか、それはそのときのことにしよう。

村に着くと、パン屋がどこだと聞く<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>もなかった。わたしたちの鼻がすぐにその店に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行ってくれた。においをかぎつけるわたしの<ruby><rb>感覚</rb><rt>かんかく</rt></ruby>は、もう犬に負けずにするどかった。遠方からわたしは温かいパンの、うまそうなにおいをかぎつけた。

一斤五スーするパンを三スーではたんとは買えなかった。わたしたちはてんでんに、ほんの小さなきれを分け合った。それで<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>もあっけなくすんでしまった。

わたしたちはきょうこそいくらかでももうけなければならなかった。わたしは村の中を歩いて、どこか<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>につごうのいい場所を見つけようとした。それに村の人びとの顔色を見て、<ruby><rb>敵</rb><rt>てき</rt></ruby>か味方か<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>ろうとした。

わたしの考えはすぐに芝居を始めようというのではなかった。それには時間があまり早すぎた。けれどいい場所が見つかれば、昼ごろ帰って来て、わたしたちの運命を決する<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>をとらえるつもりであった。

わたしがこの考えに心をうばわれていると、ふとだれか後ろからとんきょうな声を上げる者があった。あわててわたしがふり向くと、ゼルビノがわたしのほうへ向かってかけて来る。そのあとから一人のおばあさんが追っかけて来るのを見た。もうすぐ何事が起こったかということはわかった。わたしがほかへ気を取られているすきをねらって、ゼルビノは一けんの家にかけこんで、肉を一きれぬすみだしたのであった。かれはえものを歯の間にくわえたまま、にげ出して来たのであった。

「どろぼう、どろぼう」とおばあさんはさけんだ。「そいつをつかまえておくれ。そいつらみんなつかまえておくれ」

おばあさんのこう言うのを聞いて、わたしはとにかく自分にも<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>がある。いやすくなくともゼルビノの<ruby><rb>犯罪</rb><rt>はんざい</rt></ruby>に<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>があると感じた。そこでわたしはかけ出した。もしおばあさんがぬすまれた肉の<ruby><rb>代価</rb><rt>だいか</rt></ruby>を<ruby><rb>請求</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>じたら、なんと言うことができよう。どうして金をはらうことができよう。それでわたしたちがつかまえられれば、きっと<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>に入れられるだろう。

わたしがにげ出して行くのを見て、ドルスとカピもさっそくわたしの<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>にならった。かれらはわたしのかかとについて走った。ジョリクールはわたしの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>に乗ったまま、落ちまいとしてしっかり首にかじりついた。

だれかほかの者もさけんでいた。待て、どろぼう……そしてほかの人たちも<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>になって追っかけていた。けれどもわたしたちはどんどんかけた。<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>がわたしたちの<ruby><rb>速力</rb><rt>そくりょく</rt></ruby>を進めた。わたしはドルスがこんなに早く走るのを見たことがなかった。かの女の足はほとんど地べたについていなかった。横町を曲がって、野原をつっ切って、まもなくわたしたちは追っ手をはるかぬいてしまった。けれどもやはりどんどんかけ<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて、いよいよ息がつけなくなるまで止まらなかった。わたしたちは少なくとも三マイル（約五キロ）も走った。ふり返って見るともうだれも追っかけて来なかった。カピとドルスはやはりわたしのすぐ後について来た。ゼルビノは遠くにはなれていた。たぶんぬすんだ肉を食べるので手間を取ったのであろう。

わたしはかれを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。けれどもかれはひどい<ruby><rb>刑罰</rb><rt>けいばつ</rt></ruby>に会うことを知りすぎるほど知っていた。そこでわたしのほうへは<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来ないで、できるだけ早くかけ出したのである。かれは<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えていた。それだから肉をぬすんだのだ。けれどもわたしはそれを<ruby><rb>口実</rb><rt>こうじつ</rt></ruby>として<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>すことはできなかった。かれはぬすみをした。わたしが<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の間に<ruby><rb>規律</rb><rt>きりつ</rt></ruby>を<ruby><rb>保</rb><rt>たも</rt></ruby>とうとすれば、<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>を<ruby><rb>犯</rb><rt>おか</rt></ruby>したものは<ruby><rb>罰</rb><rt>ばっ</rt></ruby>せられなければならない。それをしなかったら、つぎの村へ行って、今度はドルスが同じ事をするであろう。そうなるとカピまでが<ruby><rb>誘惑</rb><rt>ゆうわく</rt></ruby>に負けないとは言えぬ。

わたしはゼルビノに対し、<ruby><rb>公然刑罰</rb><rt>こうぜんけいばつ</rt></ruby>を<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>えなければならなかった。けれどもそれをするためにはかれをつかまえなければならなかった。それはたやすいことではなかった。

わたしはカピのほうへ向いた。

「行ってゼルビノを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しておいで」とわたしは重おもしく言った。

かれはさっそく言いつけられたとおりするために出て行った。けれどもいつものような元気のないことをわたしは見た。かれの顔つきを見ていると、<ruby><rb>憲兵</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>としてかれはわたしの言いつけを<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>たすよりも、<ruby><rb>弁護人</rb><rt>べんごにん</rt></ruby>としてゼルビノをかばってやりたいように見えた。

わたしはかれが<ruby><rb>囚人</rb><rt>しゅうじん</rt></ruby>を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて帰って来るのを、べんべんとこしかけて待つほかはなかった。気ちがいじみたかけっこをしたあとで、休息するのがうれしかった。わたしたちが休んだ所はちょうどこんもりした木かげと、<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>に広びろと野原の開けた、<ruby><rb>堀割</rb><rt>ほりわり</rt></ruby>の岸であった。ツールーズを出て<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて、青あおした、すずしいいなか道に出たのだ。

一時間たったが、犬たちは帰って来なかった。わたしはそろそろ心配になりだしたとき、やっとカピが<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっち首をうなだれたまま帰って来た。

「ゼルビノはどうした」

カピはおどおどした様子で、<ruby><rb>平伏</rb><rt>へいふく</rt></ruby>した。わたしはかれのかたっぽの耳から血の出ているのを見た。わたしはそれで様子をさとった。ゼルビノはこの<ruby><rb>憲兵</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>に<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>いをしかけてきたのである。わたしはカピがそうして、いやいやわたしの<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>に<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>いながらも、ゼルビノとの<ruby><rb>格闘</rb><rt>かくとう</rt></ruby>にわざと負けてやったことがわかった。そしてそのため自分もやはりしかられるものと<ruby><rb>覚悟</rb><rt>かくご</rt></ruby>しているらしく思われた。

わたしはかれをしかることができなかった。わたしはしかたがないから、ゼルビノが自分から帰って来るときを待つことにした。わたしはかれがおそかれ早かれ<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>して帰って来て、<ruby><rb>刑罰</rb><rt>けいばつ</rt></ruby>を受けるだろうと思っていた。

わたしは一本の木の下に、手足をふみのばして<ruby><rb>横</rb><rt>よこ</rt></ruby>になった。ジョリクールはしっかりとうでにだいていた。それはこのさるまでがゼルビノと<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>になる気を起こすといけないと思ったからであった。ドルスとカピはわたしの足の下でねむっていた。時間がたった。ゼルビノは出て来なかった。とうとうわたしもうとうととねむりこけた。

四、五時間たってわたしは目を覚ました。日かげでもう時刻のよほどたったことがわかったが、それは日かげを見て知るまでもなかった。わたしの胃ぶくろは一きれのパンを食べてからもう<ruby><rb>久</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しい時間のたつことをわめきたてていた。それに二ひきの犬とジョリクールの顔つきだけでも、かれらの<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えきっていることはわかった。カピとドルスは<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けない目つきをして、じっとわたしを見つめた。ジョリクールはしかめっ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をしていた。

でもやはりゼルビノは帰ってはいなかった。

わたしはかれを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>びたてたり、口ぶえをふいたりしたけれどもむだであった。たぶんごちそうをせしめたので、すっかり<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>がふくれて、どこかのやぶの中に<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がって、ゆっくり消化させているのであろう。

やっかいなことになってきた。わたしがここを立ち去れば、ゼルビノはわたしたちを見つけることができないから、そのまま行くえ知れずになってしまう。かといってここにこのままいては、少しでも食べ物を買うお金をもうける<ruby><rb>機会</rb><rt>きかい</rt></ruby>がまるでなかった。

わたしたちの<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>はいよいよやりきれなくなってきた。犬たちは<ruby><rb>哀願</rb><rt>あいがん</rt></ruby>するような目つきをたえずわたしに向けた。そしてジョリクールはおなかをさすって、おこって、きゃっきゃっとさけんでいた。

それでもゼルビノはまだ帰って来なかった。もう一度わたしはカピをやって、なまくらものの行くえを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>させた。けれども三十分たってから、やはりカピだけ<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼんやり帰って来た。

どうしたらいいであろう。

ゼルビノは<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>を<ruby><rb>犯</rb><rt>おか</rt></ruby>したが、またかれの<ruby><rb>過失</rb><rt>かしつ</rt></ruby>のためにわたしたちはこんなひどい目に会わされることになったのであるが、かれをふり<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てることはできなかった。三びきの犬を<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて帰らなかったら、親方はなんと言うであろう。それになんといっても、わたしはあのいたずら者のゼルビノをかわいがっていた。

わたしは<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>がたまで待つ決心をした。けれどなにもせずにいることはできるものではなかった。わたしたちはなにかしていればきっとこれほどひどい<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>がこたえないであろうと思った。

わたしはなにか気をまぎらすことを考え出したなら、さし当たりこれほどひもじい思いを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れるかもしれない。

なにをしたらよかろう。

わたしはこの問題をいろいろ考え回した。そのときわたしが思い出したのは、ヴィタリス親方がいつか言ったことに、<ruby><rb>軍隊</rb><rt>ぐんたい</rt></ruby>が長い<ruby><rb>行軍</rb><rt>こうぐん</rt></ruby>で<ruby><rb>疲労</rb><rt>ひろう</rt></ruby>しきると、<ruby><rb>楽隊</rb><rt>がくたい</rt></ruby>がそれはゆかいな曲を<ruby><rb>演奏</rb><rt>えんそう</rt></ruby>する、それで<ruby><rb>兵隊</rb><rt>へいたい</rt></ruby>の疲労を<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れさせるようにするというのであった。

そうだ。わたしがなにかゆかいな曲をハープでひいたら、きっと<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>を忘れることができるかもしれない。わたしたちはみんなひどく弱りきっている。でもなにかゆかいな曲をひいたら、かわいそうな二ひきの犬たちも、ジョリクールといっしょにおどりだして、時間が早く<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎるかもしれない。

わたしは二本の木によせかけておいた<ruby><rb>楽器</rb><rt>がっき</rt></ruby>を取り上げて、<ruby><rb>堀割</rb><rt>ほりわり</rt></ruby>のほうに<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を向けながら、動物たちの列を作ってならばせ、ダンス曲をひき始めた。

<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めのうちは、犬もさるもダンスをする気にもなれないらしかった。かれらの<ruby><rb>欲望</rb><rt>よくぼう</rt></ruby>は食べ物のほかになかった。そのいじらしい様子を見ると、わたしの<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>は<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>んだ。けれどもかわいそうに、かれらも<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>を<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れなければならなかった。わたしはいよいよ調子を高く早くとひいた。すると少しずつだんだんに、音楽がその<ruby><rb>偉力</rb><rt>いりょく</rt></ruby>を<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>してきた。かれらはおどりだした。わたしはひき<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「うまい」――ふとわたしはすみきった子どもの声でこうさけぶのを聞いた。その声はすぐ後ろから聞こえた。わたしはあわててふり向いた。

一せきの<ruby><rb>遊船</rb><rt>ゆうせん</rt></ruby>が<ruby><rb>堀割</rb><rt>ほりわり</rt></ruby>の中に止まっていた。その<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>っている二ひきの馬は、向こう岸に休んでいた。それはきみょうな小舟であった。わたしはまだこんなふうな船を見たことはなかった。

それは堀割にうかんでいるふつうの船に<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べて、ずっとたけが短かった。そして水面からわずか高い<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の上には、ガラスしょうじをたてきった船室があり、その前にはきれいなろうかがあって、つたの葉でおおわれていた。

そこには二人、人がいた。一人はまだ<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>い<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>で、美しい、そのくせ悲しそうな顔をしていた。もう一人はわたしぐらいの年ごろの男の子で、これはあお向けにねているらしかった。

「うまい」と声をかけたのは、あきらかにこの子どもであった。

わたしはかれらを見つけて、一度はたいへんびっくりしたが、落ち着くと、わたしはぼうしを取って、かれらの<ruby><rb>賞賛</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>に<ruby><rb>感謝</rb><rt>かんしゃ</rt></ruby>の意を<ruby><rb>表</rb><rt>ひょう</rt></ruby>した。

「あなたはお楽しみにやっておいでなのですか」と、<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>は外国なまりのあるフランス語で言った。

「わたしは犬をしこんでいるのです。それに……自分の気晴らしにも」

子どもはなにか言った。婦人はそのほうにのぞきこんだ。

「あなた、まだやってもらえますか」と、そのとき<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はこちらを向いて言った。

なにかやってくれるか。やらなくってどうするものか。こういうところへ来てくれたお客のために、どうしてやらずにいられよう。わたしはそれを二度と言われるまでも待たなかった。

「ダンスにしましょうか。<ruby><rb>喜劇</rb><rt>きげき</rt></ruby>にしましょうか」とわたしは聞いた。

「ああ、喜劇だ、喜劇だ」と子どもがさけんだ。

けれども<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>は口をはさんで、「まあ先にダンスを」と言った。

「ダンスはだって短すぎるもの」と子どもは言った。

「お客さまのお<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みとございましたら、ダンスのあとでちがった番組をいろいろとりかえてごらんにいれましょう」

これはうちの親方の使う<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>の一つであった。わたしはなるべくかれと同じようなしかつめらしい言い方でやろうと<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。だがなおよく考えると、<ruby><rb>喜劇</rb><rt>きげき</rt></ruby>を<ruby><rb>所望</rb><rt>しょもう</rt></ruby>してくれなかったことは<ruby><rb>結局</rb><rt>けっきょく</rt></ruby>ありがたかった。なぜといって、どうそれをやるかくふうがつかなかった。ゼルビノという役者が一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>足りないばかりではない、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をするには<ruby><rb>衣装</rb><rt>いしょう</rt></ruby>も道具もなかった。

とにかくわたしはハープを取り上げて、まずワルツの第一<ruby><rb>節</rb><rt>せつ</rt></ruby>をひいた。カピは前足でドルスのこしをだいて、じょうずに<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>を取りながらおどり回った。つぎにジョリクールが一人でおどって、それからそれとわたしたちは<ruby><rb>順々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>に番組を進めていった。もう少しもくたびれたとは思わなかった。かわいそうな動物どもは、やがて<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>の<ruby><rb>報酬</rb><rt>ほうしゅう</rt></ruby>の出ることを知って、いっしょうけんめいにやった。わたしもそのとおりであった。

するととつぜん、みんながいっしょになってダンスをしている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>に、ゼルビノがやぶのかげから出て来た。そして<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>がそのそばを通ると、かれはずうずうしくもその仲間に割りこんで来た。

ハープをひきひき役者たちの<ruby><rb>監督</rb><rt>かんとく</rt></ruby>をしながら、わたしはときどき子どものほうを見た。かれはわたしたちの<ruby><rb>演技</rb><rt>えんぎ</rt></ruby>にひじょうなゆかいを感じているらしく見えたが、からだを少しも動かさなかった。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上にあお向いたまま、ただ両手を動かして<ruby><rb>拍手</rb><rt>はくしゅ</rt></ruby>かっさいした。<ruby><rb>半身不随</rb><rt>はんしんふずい</rt></ruby>なのかしら、板の上に<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>りつけられたように見えた。

いつのまにか風で船が岸にふきつけられていたので、いまは子どもをはっきり見ることができた。かれは金茶色の<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛</rb><rt>け</rt></ruby>をしていた。顔色は青白くて、すきとおった<ruby><rb>皮膚</rb><rt>ひふ</rt></ruby>のもとに<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の<ruby><rb>青筋</rb><rt>あおすじ</rt></ruby>すら見えるほどであった。その顔つきには病人の子どもらしい、おとなしやかな、悲しそうな<ruby><rb>表情</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>があった。

「あなたがたのお<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>のさじき<ruby><rb>料</rb><rt>りょう</rt></ruby>がいかほどですね」と、<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はたずねた。

「おなぐさみに<ruby><rb>相応</rb><rt>そうおう</rt></ruby>した<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>だけいただきます」

「じゃあ、お母さま、たんとおやりなさい」と子どもが言った。かれはそのうえなにかわたしにわからないことばでつけ<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>えていた。すると<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>は、

「アーサがお<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の役者たちをそばで見たいと言うのですよ」と言った。

わたしはカピに目くはせをした。<ruby><rb>大喜</rb><rt>おおよろこ</rt></ruby>びでかれは船の中へとびこんで行った。

「それから、ほかのは」とアーサと<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれたこの子どもはさけんだ。

ゼルビノとドルスがカピの<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>にならった。

「それからおさるは」

ジョリクールもわけなくとびこむことができたろう。でもわたしは安心がならなかった。一度船に乗ったら、きっとなにか<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>の気にいらないような悪さをするかもしれなかった。

「おさるは気があらいの」と貴婦人はたずねた。

「いいえ、そうではありませんが、なかなか言うことを聞きませんから、<ruby><rb>失礼</rb><rt>しつれい</rt></ruby>でもあるといけないと思います」

「おや、それではあなた、<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れておいでなさい」

こう言って<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はかじのほうに立っていた男に合図をした。この人は出て来て、へさきから岸に板をわたした。

<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>にハープをかけて、ジョリクールをうでにだいたまま、わたしは板をわたった。

「おさるだ。おさるだ」とアーサはさけんだ。その子どもを<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はアーサと<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいた。

わたしはかれのそばへ寄って、かれがジョリクールをなでたりさすったりしているとき、わたしは注意してその様子を見た。<ruby><rb>実際</rb><rt>じっさい</rt></ruby>にかれは一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>の板に皮でからだを<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>びつけられていた。

「あなた、お父さんはあるの」と<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はたずねた。

「いえ、いまは<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっちです」

「いつまで」

「二か月のあいだ」

「二か月ですって、まあかわいそうに、あなたぐらいの年ごろに、どうして独りぼっち<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>き去りにされるようなことになったの」

「そんな回り合わせになったのです」

「あなたの親方さんはふた月のあいだにたんとお金を持って帰れと言いつけたのではないのですか。そうでしょう」

「いいえ、おくさん、親方はわたしになにも言いつけはしません。ただい<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>ののものといっしょに、そのあいだ食べてゆかれさえすればそれでいいんです」

「それで、どれだけお金が取れましたか」

わたしは答えようとしてちゅうちょした。わたしはこの美しい<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の前では<ruby><rb>一種</rb><rt>いっしゅ</rt></ruby>のおそれを感じたけれども、<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はひじょうに親切に話しかけてくれたし、その声はいかにも<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しかったから、わたしはほんとうのことを打ち明ける決心をした。またそれをしてならない理由はなにもなかった。

そこでわたしは<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>に向かって、ヴィタリスとわたしが<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れたいちぶしじゅうを話した。ヴィタリス親方がわたしを<ruby><rb>保護</rb><rt>ほご</rt></ruby>するために、<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行かれたこと、それから親方がいなくなってから、金を取ることができなくなった次第を話した。

わたしが話をしているあいだ、アーサは犬と遊んでいたが、わたしの言ったことばはよく耳に止めていた。

「じゃあきみたち、みんなずいぶんおなかがすいているだろう」とかれは言った。

このことばを動物たちはよく知っていて、犬は<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでほえ始めるし、ジョリクールははげしくおなかをこすった。

「ああ、お母さま」とアーサがさけんだ。

<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>は聞き知らないことばで、半分開けたドアのすきから頭を出しかけていた女中に、なにか二言三言いった。まもなく女中は食物をのせたテーブルを運んで来た。

「おかけ」と貴婦人は言った。

わたしは言われるままにさっそく、ハープをわきへ<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて、テーブルの前のいすにこしをかけた。犬たちはわたしの回りに列を作ってならんだ。ジョリクールはわたしのひざの上でおどっていた。

「きみの犬はパンを食べるの」とアーサはたずねた。

「パンを食べるどころですか」

わたしが一きれずつ切ってやると、かれらはむさぼるようにして見るまに<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らげてしまった。

「それからおさるは」とアーサは言った。

けれども、ジョリクールのことで気をもむ<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>もなかった。わたしが犬にやっているあいだ、かれは横合いから肉入りのパンを一きれさらって、テーブルの下にもぐって、息のつまるほどほおばっていた。

わたし自身もパンを食べた。ジョリクールのようにのどにはつまらせなかったけれど、同じようにがつがつして、もっとたくさんほおばった。

「かわいそうに、かわいそうに」と<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>は言った。

アーサはなにも言わなかったが、大きな目を<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>ってわたしたちをながめていた。わたしたちのよく食べるのにびっくりしたのであろう。わたしたちはてんでんに<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>をすかしきっていた。肉をぬすんで少しは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>にこたえのあるはずのゼルビノまでが、がつがつしていた。

「きみはぼくたちに会わなかったら、きょうの<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>はどうするつもりだったの」とアーサがたずねた。

「なにを食べるか当てがなかったのです」

「じゃああしたは」

「たぶんあしたはまた運よく、きょうのようなお客さまにどこかで会うだろうと思います」

アーサはわたしとの話を打ち切って、そのとき母親のほうにふり向いた。しばらくのあいだかれらは外国語で話をしていた。かれはなにかを<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めているらしかったが、それを母親は<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めのうち<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>したがらないように見えた。

するうち、ふと子どもはくるりと向き返った。かれのからだは動かなかった。

「きみはぼくたちといっしょにいるのはいやですか」とかれはたずねた。

わたしはすぐ返事はしないで、顔だけ見ていた。わたしはこのだしぬけの<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>にめんくらわされていた。

「この子があなたがたにいっしょにいてくださればいいと言っているのですよ」と<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>がくり返した。

「この船にですか」

「そうですよ。この子は病気で、この板にからだを<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えつけていなければならないのです。それで昼間のうち少しでもゆかいにくらせるように、こうして船こ乗せて外へ出るのです。それであなたがたの親方が<ruby><rb>監獄</rb><rt>かんごく</rt></ruby>にはいっておいでのあいだ、よければここにわたしたちといっしょにいてください。あなたのその犬とおさるが毎日<ruby><rb>芸</rb><rt>げい</rt></ruby>をしてくれば、アーサとわたしが見物になってあげる。あなたはハープをひいてくれるでしょう。それであなたはわたしたちに<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めてくれることになるし、わたしたちはわたしたちで、あなたがたのお役に立つこともありましょう」

船の上で。わたしはまだ船の上でくらしたことがなかったが、それはわたしの<ruby><rb>久</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しい<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みであった。なんといううれしいこと。わたしは幸福に心のくらむような感じがした。なんという親切な人たちだろう。わたしはなんと言っていいかわからなかった。

わたしは<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>の手を取ってキッスした。

「かわいそうに」とかの女は<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく言った。

かの女はわたしのハープを聞きたいと言った。そのくらい手軽ななぐさみですむことなら、わたしはどうかして、自分がどんなにありがたく思っているか見せたいと思った。

わたしは<ruby><rb>楽器</rb><rt>がっき</rt></ruby>を手に取って、船のへさきのほうへ行って、<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かにひき<ruby><rb>始</rb><rt>はじ</rt></ruby>めた。

<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>はふとくちびるに小さな<ruby><rb>銀</rb><rt>ぎん</rt></ruby>の<ruby><rb>呼子</rb><rt>よぶこ</rt></ruby>ぶえを当てて、するどい<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を出した。

わたしはなぜ貴婦人がふえをふいたのであろうと思って、ちょいと音楽をやめた。それはわたしのひき方が悪いからであったか、それともやめろという合図であったか。

自分の身の回りに起こるどんな小さなことも見のがさないアーサは、わたしの<ruby><rb>不安心</rb><rt>ふあんしん</rt></ruby>らしい様子を見つけた。

「お母さまは馬を行かせるために、ふえをふいたんだよ」とかれは言った。

まったくそのとおりであった。馬に引かれた<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>は、そろそろと<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>をはなれて、<ruby><rb>堀割</rb><rt>ほりわり</rt></ruby>の<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かな波を切ってすべって行った。<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>には木があった。後ろにはしずんで行く夕日のななめな光線が落ちた。

「ひきたまえな」とアーサが言った。

頭をちょっと動かしてかれは母親にそばに来いという合図をした。かれは母親の手を取って、しっかりにぎった。わたしはかれらのために、親方の教えてくれたありったけの曲をひいた。

<ruby><rb>最初</rb><rt>さいしょ</rt></ruby>の友だち

アーサの母親はイギリス人であった、名前をミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>と言った。<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>さんで、アーサは一人っ子であった。少なくとも生きているただ一人の子どもだと考えられていた。なぜというに、かの女はふしぎな<ruby><rb>事情</rb><rt>じじょう</rt></ruby>のもとに、長男をなくした。

その子は生まれて<ruby><rb>六月</rb><rt>むつき</rt></ruby>目に人にさらわれてしまった。それからどうしたかかいもく行くえがわからなかった。もっともその子がかどわかされたころ、ちょうどミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はじゅうぶんの<ruby><rb>探索</rb><rt>たんさく</rt></ruby>をすることのできない<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>であった。かの女の<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>は死にかかっていたし、なによりもかの女自身がひどくわずらって、身の回りにどんなことが起こっているか、まるっきりわからずにいた。かの女が<ruby><rb>意識</rb><rt>いしき</rt></ruby>を取り返したときには、夫は死んでいたし、赤子はいなくなっていた。かの女の実の弟に当たるジェイムズ・ミリガン<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>はイギリスはもちろん、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリアとほうぼうに子どもを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>させたが、<ruby><rb>結局</rb><rt>けっきょく</rt></ruby>行くえは知れなかった。そうなるとあとつぎの子どもがないので、この人がにいさんの<ruby><rb>財産</rb><rt>ざいさん</rt></ruby>を<ruby><rb>相続</rb><rt>そうぞく</rt></ruby>するつもりでいた。

ところがやはり、ジェイムズ・ミリガン<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>は、にいさんからなにも相続することができなかった。なぜというに、<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>の死後七か月目に、夫人の二番目のむすこのアーサが生まれたのであった。

けれどもお医者たちはこの病身な、ひよわな子どもの育つ見こみはないと言った。かれはいつ死ぬかもしれなかった。その子が死んだ場合には、ジェイムズ・ミリガン<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>は<ruby><rb>財産</rb><rt>ざいさん</rt></ruby>を<ruby><rb>相続</rb><rt>そうぞく</rt></ruby>することになるであろう。

そう思ってかれはあてにして待っていた。

けれども医者の<ruby><rb>予言</rb><rt>よげん</rt></ruby>はなかなか<ruby><rb>実現</rb><rt>じつげん</rt></ruby>されなかった。アーサはなかなか死ななかった。もう二十度も追っかけ追っかけ、なんぎな<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>という病にかかって、それでも生きていた。そのたんびにこの子を生かしたものは母親の<ruby><rb>看護</rb><rt>かんご</rt></ruby>の力であった。

<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>の病は<ruby><rb>腰疾</rb><rt>ようしつ</rt></ruby>（こしの病気）であった。それにはしじゅう板にねかしておくがいいというので、板の上にからだを<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えつけて動けないようにした。けれどそれをそのままうちの中に閉じこめておけば、今度は<ruby><rb>気鬱</rb><rt>きうつ</rt></ruby>と空気の悪いために死ぬかもしれない。

そこでかの女は子どものためにきれいな、ういて動く家をこしらえてやって、フランスの国じゅうのいろいろな川を旅行しているのであった。その両岸の<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は、病人の子どもがねながら、ただ目を開いていさえすれば、目の前に動いて行くのであった。

もちろんこのイギリスの<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>とむすこについて、わたしはこれだけのことを<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず、<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めての日に<ruby><rb>聞</rb><rt>き</rt></ruby>いたのではなかった。わたしはときどきかの女といるあいだに少しずつ細かい話を聞いた。

わたしが初めの日に聞いたことは、ただこの船の名が白鳥号ということ、それからわたしが<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>と定められた船室がどんなものであるかということだけであった。

わたしは高さ七<ruby><rb>尺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>（約二メートル）、はば三、四尺（約〇・九～一・二メートル）のかわいらしい船室を一つ当てがわれた。それはなんというふしぎな<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>におもわれたであろう。部屋のどこにもしみ一つついていなかった。

その船室に備えつけたたった一つの道具は、<ruby><rb>衣装</rb><rt>いしょう</rt></ruby>戸だなであった。けれどなんという戸だなだろう。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>とふとんとまくらと<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>とがその下から出て来た。そして寝台についた引き出しには、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はけ</span>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くし</span>やいろいろなものがはいっていた。いすやテーブルというようなものも少なくともふつうの形をしたものはなかったが、かべに板がぴったりついている、それを引き出すと四角なテーブルといすになった。この小さな<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>にねむることをどんなにわたしは<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだであろう。生まれて<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてわたしはやわらかいしき物をはだに当てた。バルブレンのおっかあのうちのはひじょうに<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>くって、いつもあらくほおをこすった。ヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>とわたしはたいていしき物なしでねむった。<ruby><rb>木賃宿</rb><rt>きちんやど</rt></ruby>にあるものは、みんなバルブレンのおっかあのうちのと同様にごりごりしていた。

わたしはあくる朝早く起きた。<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>が<ruby><rb>一晩</rb><rt>ひとばん</rt></ruby>どんなふうに<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごしたか知りたかったからである。

見るとかれらはみんなまえの<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>入れてやった所にいて、このきれいな<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>はもう何か月もかれらの家であったかのようによくねいっていた。犬たちはわたしが近づくとはね起きたが、ジョリクールは<ruby><rb>片目</rb><rt>かため</rt></ruby>を開いているくせに動かなかった。かえってラッパのような大いびきをかき始めた。

わたしはすぐにそのわけをさとった。ジョリクールはたいへんおこりっぽかった。かれは一度<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を立てると、長いあいだむくれていた。いまの場合は、ゆうべわたしがかれを船室に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行かなかったのをおもしろく思わなかったので、わざとふてねをして、ふきげんを<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>していたのであった。

わたしはなぜかれを<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて行かなければならなかったか、そのわけを<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>することができなかった。それで少なくとも外見だけでも、わたしはかれにすまなかったと感じているふうを見せるために、かれをうでにだいて、なでたりさすったりしてやった。

<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めはかれもむくれたままでいたが、まもなく、気が<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わりやすい<ruby><rb>性質</rb><rt>せいしつ</rt></ruby>だけに、なにかほかのことに考えが<ruby><rb>移</rb><rt>うつ</rt></ruby>って、手まねで、よし、外へ<ruby><rb>散歩</rb><rt>さんぽ</rt></ruby>に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くなら、かんべんしてやろうという意を<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>した。

<ruby><rb>甲板</rb><rt>かんぱん</rt></ruby>をそうじしていた男が、気軽に板をわたしてくれたので、わたしは部下を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて野原へ出た。

犬とかけっこしたり、ジョリクールをからかったり、ほりをとんだり、木登りをしたりして遊んでいるうちに時間がたった。帰ってみると、馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はこやなぎ</span>の木につながれて、すっかり仕度ができていて、<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>はいつでも出発するようになっていた。

わたしたちがみんな船の上に乗ってしまうと、まもなく船をつないだ大づなは<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>かれて、船頭はかじを、<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>は<ruby><rb>手</rb><rt>た</rt></ruby>づなを取った。引きづなの<ruby><rb>滑車</rb><rt>かっしゃ</rt></ruby>がぎいぎい鳴って、馬は引き船の道をカッパカッパ歩きだした。

これでも動いているかと思うはど<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かに船は水の上をすべって行った。そこに聞こえるものは小鳥の歌と、船に当たる水の音、それから馬の首につけたすずのチャランチャランだけであった。

所どころ水はこい緑色に見えてたいへん深いようであった。そうかと思うと<ruby><rb>水晶</rb><rt>すいしょう</rt></ruby>のようにすみきっていて、水の<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>できらきら光る小石だの、ビロードのような水草をすかして見ることができた。

わたしが水の中をじっとのぞきこんでいると、だれかがわたしの名前を<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。それはアーサであった。かれは<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の板に乗せられて運び出されていた。

「きみ、よくねられたかい、野原にねむるよりも」とかれはたずねた。わたしは半分、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>にあいさつするように、ていねいによくねむられたことを話した。

「犬は」アーサが聞いた。

わたしはかれらを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。かれらはジョリクールといっしょにかけて来た。このさるはいつも<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をやらされると思うときするように、しかめっ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をしていた。

ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はむすこを日かげに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて、自分もそのそばにすわった。

「それでは、あちらへ犬とさるを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行ってください。わたしたちは<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>がありますから」とかの女は言った。

わたしは<ruby><rb>連中</rb><rt>れんじゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れてへさきのほうへ<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>いた。

あの気のどくな病人の子どもに、どんな<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>ができるのだろう。

わたしはかれの母親が手に本を持って、むすこに課業を<ruby><rb>授</rb><rt>さずけ</rt></ruby>けているのを見た。

かれはそれを<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるのがなかなか<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>であるらしく見えた。しじゅう母親は<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めていたが、同時になかなか手ごわかった。

「いいえ」とかの女は<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>に言った。「アーサ、あなたはまるで<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていません」

「ぼく、できません。お母さま、ぼく、ほんとにできないんです」とかれは<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>くように、言った。「ぼく病気なんです」

「あなたの頭は病気ではありません。アーサ、病人だからといって、だんだんばかになるような子をわたしは<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きません」

これはずいぶん<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なようにわたしには思われた。けれどかの女はあくまで<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい親切な調子で言った。

「なぜ、あなたはわたしにこんな<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けない思いをさせるでしょう。あなたが習いたがらないのが、どんなにわたしには悲しいかわかるでしょう」

「ぼく、できません、お母さま、ぼくできないんです」こう言ってかれは<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きだした。

けれどもミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は子どものなみだに負かされはしなかった。そのくせかの女はひじょうに感動して、ますます悲しそうになっていた。

「わたしもけさあなたをルミや犬たちと遊ばせてあげたいのだけれど、すっかりお話を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えるまでは遊ばせることはできません」こう言ってかの女は本をアーサにわたして、一人<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>き去りにしたまま向こうへ行った。

わたしの立っていた所までかれの<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>が聞こえた。

あれほどまでに<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>しているらしい母親がどうしてこのかわいそうな子どもにこれほど<ruby><rb>厳格</rb><rt>げんかく</rt></ruby>になれるのであろう。アーサの<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えられないのは病気のせいなのだ。かの女は<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことば一つかけないではいってしまうのであろうか。

しばらくたってかの女はもどって来た。

「もう一度二人でやってみましょうね」とかの女は優しく言った。

かの女は子どものわきにこしをかけて、本を手に取って、『おおかみと小ひつじ』というお話を読み始めた。アーサはその読み声について<ruby><rb>文句</rb><rt>もんく</rt></ruby>をくり返した。

三度<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めからしまいまで読み返して、それから本をアーサに返して、あとは一人で習うように言いつけて、船の中にはいってしまった。

わたしはアーサのくちびるの動くのを見た。

かれはたしかにいっしょうけんめい勉強していた。

けれどもまもなく目を本からはなした。かれのくちびるは動かなくなった。かれの目はきょろきょろとあてもなく<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>ったが、本にはもどって来なかった。

ふとかれの目はわたしの目を見つけた。

わたしは<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けてやるようにかれに目くばせした。かれは注意を<ruby><rb>感謝</rb><rt>かんしゃ</rt></ruby>するように<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>した。そしてまた本を読み始めた。けれどもまえのようにやはりかれは考えを一つに集めることができなかった。かれの目は川のこちらの岸から向こう岸へと<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>い始めた。ちょうどそのとき一<ruby><rb>羽</rb><rt>わ</rt></ruby>のかわせみが矢のように早く船の上をかすめて、青い光をひらめかしながら飛んだ。

アーサは頭を上げてその行くえを見送った。鳥が行ってしまうと、かれはわたしのほうをながめた。

「ぼく、これが<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えられない」とかれは言った。「でもぼく、<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたいんだ」

わたしはかれのそばへ行った。

「この話はそんなにむずかしくはありませんよ」とわたしは言った。

「うん、むずかしい。……たいへんむずかしいんだ」

「ぼくにはずいぶん<ruby><rb>易</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいと思えますよ。あなたのお母さまが読んでいらっしゃるときに聞いていて、ぼくはたいてい<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えました」

かれはそれを<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じないように<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>した。

「言ってみましょうか」

「できるもんか」

「やってみましょうか。本を持っていらっしゃい」

かれはまた本を取り上げた。わたしはその話を<ruby><rb>暗唱</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>し始めた。わたしはほとんど<ruby><rb>完全</rb><rt>かんぜん</rt></ruby>に<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていた。

「やあきみ、知っているの」

「そんなによくは知りません。けれどこのつぎのときまでには、一つもちがえずに言えるでしょう」

「どうして<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたの」

「あなたのお母さまが読んでいらっしゃるあいだ、ぼくは聞いていました。ただいっしょうけんめいに、そこらの物を見向したりなんぞせずに、聞いていたのです」

かれは顔を赤くした、そして目をそらした。

「ぼくもきみのようにやってみよう」とかれは言った。「けれど一々のことばをどうしてそう<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたか、言って聞かしてくれたまえ」

わたしはそれをどう<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>していいかわからなかった。そんなことを考えてみたことはなかった。けれどやれるだけは説明してみた。

「このお話はなんの話でしょう」とわたしは言った。「ひつじのことでしょう。ねえ、だからなにより先にぼくはひつじのことを考えました。それからひつじはなにをしているか考えます。『多くのひつじは安全なおりの中で住んでいました』というのだから、ひつじがおりの中で安心して<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がってねむっているところが見えてきます。そういうふうに目にうかべると<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れません」

「そうだそうだ」とかれは言った。「ぼくは見えるよ。黒いひつじだの、白いひつじだの、おりも、<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>も見える」

「ひつじの番をするのはなんですか」

「犬さ」

「ひつじがおりの中にいて番をしないですむとき、犬はなにをするでしょう」

「なんにも仕事はない」

「では犬はねむってもいいでしょう。ですから、『犬はねむっていました』と言うのです」

「そうだ。わけはない」

「ええ、わけはないのですとも、今度はほかのことに<ruby><rb>移</rb><rt>うつ</rt></ruby>ります。では犬といっしょに番をするのはだれです」

「ひつじ<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いさ」

「その犬やひつじ飼いは、ひつじがだいじょうぶだと思うとなにをしていたでしょう」

「犬は、ねむっていたのさ、ひつじ飼いは、遠くのほうへ行って、ほかのひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいた」

「あなたはそれが見えますか」

「ええ」

「どこにいます」

「にれの木のかげに」

「一人ですか」

「いいえ、近所のひつじ<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いといっしょに」

「そらひつじやおりや犬やひつじ飼いのことを考えてごらんなさい。それができれば、このお話の<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めのほうは<ruby><rb>暗唱</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>ができるでしょう」

「ええ」

「やってごらんなさい」

「多くのひつじは安全なおりの中におりましたから、犬はみなねむっていました。ひつじ飼いも大きなにれの木のかげに、近所のひつじ飼いたちとふえをふいて遊んでいました。――<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていた、<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えていた、まちがいはなかった」

アーサは両手を打ってさけんだ。

「あともそういうふうにして覚えたらどうです」

「そうだな、きみといっしょにやればきっと覚えられる。ああ、お母さまがどんなに<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶだろう」

アーサはやがてお話<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずを心の目にうかべるようになった。わたしはできるだけ一々の細かい話を<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>した。かれがすっかり<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>を持ってきたときに、わたしたちはいっしょに<ruby><rb>文句</rb><rt>もんく</rt></ruby>をさらった。そして十五分あとでは、かれはすっかり<ruby><rb>卒業</rb><rt>そつぎょう</rt></ruby>いていた。

やがて母親は出て来たが、わたしたちがいっしょにいるのでふきげんらしかった。かの女はわたしたちが遊んでいたと思った。けれどアーサはかの女に口をきかせるいとまをあたえなかった。

「ぼく、<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>えました」とかれはさけんだ。「ルミが教えてくれました」

ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、びっくりしてわたしの顔を見た。けれどかの女がわけを問うさきに、アーサは『おおかみと小ひつじ』のお話を<ruby><rb>暗唱</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>しだした。わたしはミリガン夫人の顔を見た。かの女の美しい顔は<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>にほころびた。そのうちわたしはかの女の目になみだがうかんだと思った。けれどかの女はあわててむすこのほうをのぞきこんで、そのからだに両うでをかけた。かの女が<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いていたかどうか<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かではなかった。

「ことばには意味がないのだから、目に見える事がらを考えなければいけないのです。ルミはぼくにふえをふいているひつじ<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いだの、犬だのひつじだの、それからおおかみだのを考えさせてくれました。おまけにひつじ飼いのふいていた<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>まで聞こえるようになりました。お母さま、ぼく、歌を歌ってみましょうか」

こう言ってかれは、イギリス語の悲しいような歌を歌った。

今度こそミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はほんとうに<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。なぜならかの女が<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>を立ったとき、わたしはアーサのほおがかの女のなみだでぬれているのを見た。そのとき<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はわたしのそばに<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って、わたしの手を自分の手の中におさえて、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくしめつけた。

「あなたはいい子です」とかの女は言った。

わたしがこのちょいとした出来事を長ながと書くにはわけがある。ゆうべまではわたしも<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>なしのこぞうで、<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の犬やさるたちを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて、船のそばへやって来て、病人の子どもをなぐさめるだけの者であった。けれどこの<ruby><rb>課業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>のことから、わたしは犬やさるから引きはなされて、病人の子どもの<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>になり、ほとんど友だちになったのである。

もう一つ言っておかなければならないことがある。それはずっとあとで知ったことであるが、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は<ruby><rb>実際</rb><rt>じっさい</rt></ruby>このむすこの<ruby><rb>物覚</rb><rt>ものおぼ</rt></ruby>えの悪いこと、もっと正しく言えばなにも物を覚えないことを知って、ふさぎきっていた。病人の子ではあっても、勉強はさせておきたいと夫人は思った。それには病気が長びくだろうから、いまのうち物を習う<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>をつけておいて、いつか<ruby><rb>回復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>したとき、むだになった時間を取り返すことができるようにしたいと考えたのであった。

ところがその日までもかの女はそれが思うようにならないでいた。アーサはけっして勉強することをいやだとは言わなかったが、注意と<ruby><rb>熱心</rb><rt>ねっしん</rt></ruby>がまるでがけていた。書物を手にのせればいやとは言わずに受け取った。手は<ruby><rb>喜</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでそれを受け取ろうとして開いたが、心はまるで開かなかった。ただもう<ruby><rb>機械</rb><rt>きかい</rt></ruby>のように動いて、しいて頭におしこまれたことばを<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>にくり返しているというだけであった。

そういうわけでむすこに<ruby><rb>失望</rb><rt>しつぼう</rt></ruby>した母親の心には、<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>え<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>のない物思いがあった。

だから、アーサがいまたった半時間でお話を<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えて、一時をちがえず<ruby><rb>暗唱</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>して聞かせるのを聞いたとき、かの女のうれしさというものはなかった。それはもっともなわけであった。

わたしはいま思い出しても、この船の上で、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>やアーサと<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごしたあのじぶんが、少年時代でいちばんゆかいなときであったと思う。

アーサはわたしに<ruby><rb>熱</rb><rt>あつ</rt></ruby>い<ruby><rb>友情</rb><rt>ゆうじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>せていた。わたしのほうでもわざとでなしに、また気のどくという<ruby><rb>同情</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>からでなしに、しぜんとかれを兄弟のように思っていた。二人はけんか一つしたことはなかった。かれにはかれのような身分にありがちないばったところはみじんもなかった。わたしのほうも少しもひけめは感じなかった。またひけめを感じなければならないなどと思ったことすらなかった。

これはきっとわたしが子どもで、世の中を知らないためであったろう。しかしそれにはたしかに、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>いた親切のおかげもあった。かの女はたいてい自分の子どものようにしてわたしに話しかけた。

それにこの船の旅がわたしにはじつにおもしろかった。一時間とたいくつしたこともなければ、つかれたと思うこともなかった。朝から<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>までわたしの心はいつも<ruby><rb>充実</rb><rt>じゅうじつ</rt></ruby>しきっていた。

鉄道ができて<ruby><rb>以来</rb><rt>いらい</rt></ruby>、フランス南部地方の<ruby><rb>運河</rb><rt>うんが</rt></ruby>を見に来る人もなければ、知る人すらないようになったが、でもこれはやはりフランス名物の一つであった。

わたしたちはローラゲーのヴィーフランシュから、アヴィニオンヌまで行って、アヴィニオンヌからノールーズの岩まで行った。ノールーズにはこの運河の<ruby><rb>開鑿者</rb><rt>かいさくしゃ</rt></ruby>であるリケの<ruby><rb>記念碑</rb><rt>きねんひ</rt></ruby>が、<ruby><rb>大西洋</rb><rt>たいせいよう</rt></ruby>に注ぐ水と<ruby><rb>地中海</rb><rt>ちちゅうかい</rt></ruby>に落ちる水とが分かれる<ruby><rb>分水嶺</rb><rt>ぶんすいれい</rt></ruby>の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>に<ruby><rb>建</rb><rt>た</rt></ruby>てられてあった。

それからわたしたちは水車の町であるカステルノーダリを下って、中世の都会であったカルカッソンヌへ、それから<ruby><rb>貯水溝</rb><rt>ちょすいこう</rt></ruby>のめずらしいフスランヌの<ruby><rb>閘門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>（船を高低の差のある水面に上げたり下ろしたりするしかけのある水門）をぬけてベジエールに下った。

おもしろい所ではわたしたちはたいそうゆっくり船を進めた。けれど<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がつまらなくなると馬は引き船の道を早足にとっとっとかけた。

いつどこでとまって、いつまでにどこまでへ着かなければならないということもなかった。毎日同じ決まった食事の時間に<ruby><rb>露台</rb><rt>ろだい</rt></ruby>の上に集まって、<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かに両岸の<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をながめながら食事をした。日がしずむと船は止まった。日がのぼると船はまた動き出した。

雨でも<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ると、わたしたちは船室の中にはいって、<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いよく<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えた火を取り<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いてすわる。病人の子どもがかぜをひかないためであった。そういうとき、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はわたしたちに本を読んで聞かせたり、画帳を見せたり、美しいお話をして聞かせたりした。

それから夜、晴れた日には、わたしには一つ役目があった。船が止まったときわたしはハープをおかに持って下りて、少し遠くはなれた木のかげにこしをかける。それから木のえだのしげった中にかくれて、いっしょうけんめいにひいたり、歌を歌ったりするのである。<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かな<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>など、アーサは、だれがひいているか見えないようにして、遠くの音楽を聞くことを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>んだ。そこでわたしがアーサの<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きな曲をひくと、かれは「アンコール」（もっと）と声をかける。それでわたしは同じ曲を二度くり返してひくのである。

それはバルブレンのおっかあの<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>ばたに育ち、ヴィタリス<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>とほこりっぽい<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>を<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>して歩いたいなか育ちの少年にとっては思いがけない美しい生活であった。

あの気のどくな<ruby><rb>養母</rb><rt>ようぼ</rt></ruby>がこしらえてくれた<ruby><rb>塩</rb><rt>しお</rt></ruby>のじゃがいもと、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の<ruby><rb>料理番</rb><rt>りょうりばん</rt></ruby>のこしらえるくだもの入りのうまいお<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>やゼリーやクリームやまんじゅうと<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べると、なんというそういであろう。

あのヴィタリス親方のあとからとぼとぼくっついて、<ruby><rb>沼</rb><rt>ぬま</rt></ruby>のような道や、横なぐりの雨や、こげつくような太陽の中を歩き回るのと、この美しい<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>の旅と比べては、なんというそういであろう。

<ruby><rb>料理</rb><rt>りょうり</rt></ruby>はうまかった。そうだ、まったくすばらしかった。<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>も<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らないし、くたびれもしないし、暑すぎもせず、寒すぎもしなかった。けれどほんとうに正直なことを言えば、わたしがいちばん深く感じたのは、この<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>と子どもの、めずらしい親切と<ruby><rb>愛情</rb><rt>あいじょう</rt></ruby>であった。

二度もわたしはわたしの<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>していた人たちから引きはなされた。<ruby><rb>最初</rb><rt>さいしょ</rt></ruby>はなつかしいバルブレンのおっかあから、それからヴィタリス親方から、わたしは犬とさるといっしょに<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>で、みじめなまま<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てられた。

そこへ美しい<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がわたしと同じ年ごろの子どもを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れた。わたしをむかえて、まるでわたしが兄弟ででもあるようにあつかってくれた。

たびたびわたしはアーサが<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えつけられて、青い顔をしてねむっているところを見ると、わたしはかれをうらやんだ。<ruby><rb>健康</rb><rt>けんこう</rt></ruby>と元気に<ruby><rb>満</rb><rt>み</rt></ruby>ちたわたしが、かえって病人の子どもをうらやんだ。

それはわたしがうらやむのは、この子を引き<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>んでいるぜいたくではなかった。美しい<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>ではなかった。それはかれの母親であった。ああ、どのくらいわたしは自分の母親を<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しがっているだろう。

かれの母はいつでもかれにキッスした。そして、かれはいつでもしたいときに、両うでにかの女をだくことができた。その<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の手はたまたまわたしに向けられることもあっても、わたしからは思い切ってそれにさわり<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ないのではないか。わたしは自分にキッスしてくれる母親、わたしがキッスすることのできる母親を持たないことを悲しいと思った。

あるいはいつかまたわたしもバルブレンのおっかあには会うことがあるかもしれない。それはどんなにかうれしいことであろう。でもわたしはもうかの女を母親と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶことはできない。なぜならかの女はわたしのほんとうの母親ではないのだから。

わたしは<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっちだった。わたしはいつでも独りぼっちでいなければならない……だれの子どもでもないのだ。

わたしはもうこの世の中は、そうなんでも思うようになる所でないことを知るだけに大きくなっていた。それでわたしは母親もないし、家族もないから、友だちでもあればどんなにうれしいだろうと思っていた。だからこの<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>に来て、わたしは幸福であった。ほんとうに幸福であった。けれど、ああ、それは長く<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けることはできなかった。わたしがまたむかしの生活に返る日はおいおいに近づいていた。

<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>

旅の<ruby><rb>日数</rb><rt>ひかず</rt></ruby>のたつのは早かった。親方が<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>から出て来る日がずんずん近づいていた。船がだんだんツールーズから遠くなるに<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って、わたしはこの考えに心を苦しめられていた。

船の旅はこのうえなくおもしろかった。なんの<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>もなければ、心配もなかった。これがせっかく水の上を気楽に通って来た道を、今度は足でとぼとぼ歩いて帰らなけれはならないときがじき来るのだ。

これはたまらなくおもしろくないことであった。そうなればもう<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>もなければ、クリームもない。お<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>もなけれは、テーブルを取り<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いた楽しい夜会もなくなるのだ。

でもそれよりもこれよりもいちばんつらいのは、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>とアーサとに<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れることであった。わたしはこの人たちの<ruby><rb>友情</rb><rt>ゆうじょう</rt></ruby>からはなれなければならないであろう。そのつらさはバルブレンのおっかあに別れたときと同じことであろう。

わたしはある人びとをしたったり、その人びとからかわいがられると、もう一生その人たちといっしょにくらしたいと思う。それがあいにくいつもじきその人たちと<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れなければならないようになる。いわばちょうどその人たちと別れるために、<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>し愛されたりするようなものであった。

このごろの楽しい生活のあいだに、ただ一つこの<ruby><rb>心痛</rb><rt>しんつう</rt></ruby>がわたしの心をくもらせた。

ある日とうとうわたしは思い切って、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>に、ツールーズへ帰るにはどのくらいかかるだろうと聞いた。親方が<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>から出る日に、わたしは刑務所の戸口で待っていようと思ったのである。

アーサはわたしが帰って行くという話を聞くと、急にさけびだした。

「帰っちゃいやだ、ルミ。行ってしまってはいやだ」

かれはすすり<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きをしていた。

わたしはかれに、自分がヴィタリス親方のものになっていること、かれが金を出して両親からわたしを<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りていること、用のあるときいつでも帰って行かなければならないことを話した。

わたしは両親のことを話した。けれどもそれがほんとうの父親でも母親でもないことは話さなかった。わたしは自分が<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>であることをはじに思った――<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>で拾われた子どもだということを<ruby><rb>白状</rb><rt>はくじょう</rt></ruby>することをはじに思った。わたしは<ruby><rb>孤児院</rb><rt>こじいん</rt></ruby>の子どもというものがどんなにあなどられるものであるか知っていた。世の中で<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>であるということほどいやなことがあろうとは、わたしには思えなかった。それをミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>やアーサに知られることを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まなかった。それを知られたら、あの人たちはわたしをきらうようになるだろう。

「お母さま、ルミはどうしても止めておかなければだめですよ」とアーサは言い<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「わたしもルミをここへ止めておくことはたいへんけっこうだと思うけれど」とミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は答えた。「わたしたちはずいぶんあの子が<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きなのだからね。でもこれには二つやっかいなことがある。第一にはルミがいたがっているかどうか……」

「ああ、それはいますとも、いますとも」とアーサがさけんだ。「ねえルミ、行きたかないねえ、ツールーズへなんか」

「第二には」と、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がかまわず<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。「この子の親方が手放すだろうか、どうかということですよ」

「ルミが先です。ルミが先です」とアーサは言い<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>った。

ヴィタリスはいい親方であった。かれがわたしにものを教えてくれたことに対しては、わたしはひじょうに<ruby><rb>感謝</rb><rt>かんしゃ</rt></ruby>していた。けれどもかれとくらすのと、アーサとこうしてくらすのとではとても<ruby><rb>比較</rb><rt>ひかく</rt></ruby>にはならなかった。同時に親方に持つ<ruby><rb>尊敬</rb><rt>そんけい</rt></ruby>と、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>とその病身の子どもに対して持つ<ruby><rb>愛着</rb><rt>あいちゃく</rt></ruby>とは比較にはならなかった。わたしはこういう外国人を、世話になった親方よりありがたいものに思うのはまちがっていると感じていた。けれどもそれはそのとおりにちがいなかった。わたしはミリガン夫人とアーサを心から<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>していた。

「ルミがわたしたちの所にいても、いいことばかりはないでしょう」とミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「この船にだって遊び半分ではいられません。ルミもやはりあなたと同じようにたくさん勉強をしなければなりません。とても青空の下で旅をして回るような自由な<ruby><rb>境涯</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>ではないでしょう」

「ああ、ぼくの思っていることがおわかりでしたら……」とわたしは言いかけた。

「ほらほらね、お母さま」とアーサが口を出した。

「ではわたしたちがこれからしなければならないことは」とミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>が言った。「この子の親方の<ruby><rb>承諾</rb><rt>しょうだく</rt></ruby>を受けることです。わたしはまあ手紙をやってここへ来てもいようにたのんでみましょう。こちらからツールーズへは行かれないからね。わたしは<ruby><rb>汽車賃</rb><rt>きしゃちん</rt></ruby>を送ってあげて、なぜこちらから汽車に乗って行かれないか、そのわけをよく書いてあげましょう。つまりこちらへ<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶことになるのだが、たぶん<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくださることだろうと思うから、それで<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>したうえで、親方がこちらの申し出を承知してくだされば、今度はあなたのご両親と相談することにしましょう。むろんだまっていることはできないからね」

この<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>のことばで、わたしの美しいゆめは<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れた。

両親に<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>する。そうしたらかれらはわたしが<ruby><rb>内証</rb><rt>ないしょう</rt></ruby>にしようとしていることをすぐ言いたてるだろう。わたしが<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>だということを言いたてるだろう。

ああ<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>。そうなればアーサもミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>もわたしをきらうようになるだろう。

まあ自分の父親も母親も知らない子どもが、アーサの友だちであったか。

わたしはミリガン夫人の顔をまともにながめた。なんと言っていいか、わたしはわからなかった。かの女はびっくりしてわたしの顔を見た。わたしがどうしたのか、かの女はたずねようとしたが、わたしはそれに答えもできずにいた。たぶん親方が帰って来るという考えに気が<ruby><rb>転倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>していると考えたらしく、かの女はそのうえしいては問わなかった。

幸いにじきねむる時間が来たので、アーサからいつまでもふしぎそうな目で見られずにすんだ。やっと心配しながら自分の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に一人<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこもることができた。これはわたしが白鳥号に乗り合わせて<ruby><rb>以来</rb><rt>いらい</rt></ruby><ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてのふゆかいな<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>であった。それはおそろしくふゆかいな、長い<ruby><rb>熱病</rb><rt>ねつびょう</rt></ruby>をわずらったような心持ちであった。わたしはどうしたらいいだろう。なんと言えばいいのだ。

たぶん親方はわたしを手放さないであろう。それなればかれらはどうしたってほんとうのことは知らずにいよう。かれらは、わたしの<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>だということを知らずにすむだろう。<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を知られることについてのわたしの<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>と<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>があまりひどかったので、もうアーサ<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>と<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れても、しかたがない。ヴィタリスがなんでも自分といっしょに来いと<ruby><rb>主張</rb><rt>しゅちょう</rt></ruby>することを<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>し始めたくらいであった。そうなれば少なくともかれらはこののちわたしを思い出すたんびにいやな気がしないであろう。

それから三日たってミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はヴィタリスに送った手紙の返事を受け取った。かれは夫人の文意をよくくんで、向こうから来てかの女に会おうと言って来た。つぎの土曜日の二時の汽車で、セットへ着くはずにするからと言って来た。わたしは犬たちとジョリクールを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて、かれに会いに<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>まで行くことを<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>された。

その朝になると、犬たちはなにか<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わったことでも起こると思ったか、ひどくはしゃいでいた。ジョリクールだけは知らん顔をしていた。わたしはひじょうに<ruby><rb>興奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>していた。きょうこそわたしの運命が決められる日であった。わたしに<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>があったら、親方にたのんで<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>だということをミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>に言ってもらわないようにたのむことができたであろう。けれどもわたしはかれに対してすら『<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>』ということばを口に出して言うことができないような気がしていた。わたしは犬をひもでつないで、ジョリクールは上着の下に入れて、<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>すみに立って待っていた。わたしは身の回りに起こっていることはほとんど目にはいらなかった。汽車の着いたことを知らせてくれたのは犬であった。かれらは主人のにおいをかぎつけた。

ふとわたしのおさえているひもを前に引くものがあった。わたしはうっかり<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>りをゆるめていたので、かれらはぬけ出したのであった。ほえながらかれらは前へとび出した。わたしはかれらが親方にとびかかるのを見た。ほかの二ひきに<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べてははげしくしかもしたたかにカピが、いきなり主人のうでにとびかかった。ゼルビノとドルスがその足にとびかかった。

親方はわたしを見つけると、手早くカピをどけて、両うでをわたしのからだに投げかけた。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてかれはわたしにキッスした。

「ああよく<ruby><rb>無事</rb><rt>ぶじ</rt></ruby>でいてくれた」とかれはたびたび言った。

親方はこれまでわたしにつらくはなかったが、こんなふうに<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくはなかった。わたしはそれに<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れていなかった。それでわたしは感動して、思わずなみだが目の中にあふれた。それにいまのわたしの心持ちはたやすく物に動かされるようになっていた。わたしはかれの顔をながめた。<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>にはいっているまにかれはひじょうに年を取った。<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>も曲がったし、顔は青いし、くちびるに血の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>はなかった。

「ルミ、わたしは<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わったろう。なあ」とかれは言った。「<ruby><rb>刑務所</rb><rt>けいむしょ</rt></ruby>はけっしてゆかいな所ではなかった。それに<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>というものは、たちの悪い病気のようなものだ。けれどもう出て来ればだいじょうぶだ。これからはよくなるだろう」

それから話の題を<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>えてかれは言い<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。

「わたしの所へ手紙を<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>こしたおくさんのことを話しておくれ。どうしてそのおくさんと知り合いになったのだ」

わたしはここで、どうして白鳥号に乗って<ruby><rb>堀割</rb><rt>ほりわり</rt></ruby>をこいでいたミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>とアーサに出会ったか、それからわたしたちの見たこと、したことについてくわしく話した。わたしは自分でもなにを言っているのかわからないほど、のべつまくなしに話をした。こうしてわたしは親方の顔を見ると、これから<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れてミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の所にいたいと言いだす気にはなれなかった。

わたしたちはまだ話のすっかりすまないうちに、ミリガン夫人のとまっているホテルに着いた。親方は夫人が手紙でなんと書いて来たか、それは言わなかったから、わたしはかの女の申し出がどんなものであるかなんにも知らなかった。

「そのおくさんはわたしを待っていられるのかな」と、わたしたちがホテルにはいったときにかれは言った。

「ええ、ぼくがいまおくさんの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>しましょう」とわたしは言った。

「それにはおよばないよ」とかれは答えた。「わたしは一人で上がって行く。おまえはここでジョリクールや、犬たちといっしょにわたしを待っておいで」

わたしは、いつでもかれに<ruby><rb>従順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>であったけれども、この場合はかれといっしょにミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の部屋に行くことが、わたしとしてむろん正当でもあり<ruby><rb>自然</rb><rt>しぜん</rt></ruby>なことだと思っていた。けれども手まねでかれがわたしのくちびるに出かかっていることばをおさえると、わたしはいやいや犬やさるといっしょに下に<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていなければならなかった。

どうしてかれはミリガン夫人と話をするのにわたしのいることを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まなかったか。わたしはこの<ruby><rb>質問</rb><rt>しつもん</rt></ruby>を心の中でくり返しくり返したずねた。それでもまだ<ruby><rb>明快</rb><rt>めいかい</rt></ruby>な答えが<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>られずに考えこんでいたときにかれはもどって来た。

「行っておくさんに、さようならを言っておいで」とかれはことば短に言った。「わたしはここで待っていてやる。あと十分のうちにたつのだから」

わたしはかみなりに打たれたような気がした。

「それ」とかれは言った。「おまえはわたしの言ったことがわからないか。なにを気のぬけた顔をして立っている。早くしないか」

かれはまだこんなふうにあらっぽくものを言ったことがなかった。<ruby><rb>機械的</rb><rt>きかいてき</rt></ruby>にわたしは<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>して、立ち上がった。なにがなんだかわからないような顔をしていた。

「あなたはおくさんになんとお言いに……」二足三足行きかけてわたしは問いかけた。

「わたしはおまえがなくてならないし、おまえにもわたしは<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>なのだ。<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>ってわたしはおまえに対するわたしの<ruby><rb>権利</rb><rt>けんり</rt></ruby>を<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てることはできませんと言ったのさ。行って来い。いとまごいがすんだらすぐ帰れ……」

わたしは自分が<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>だったという考えばかりに気を取られていたから、わたしがこれですぐに立ち去らなければならないというのは、きっと親方がわたしの<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を話したからだとばかり思っていた。

ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいると、アーサがなみだを流している。そのそばに母の夫人が<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>りそっているところを見た。

「ルミ、きみ行ってはいやだよ。ねえ、ルミ、行かないと言ってくれたまえ」とかれはすすり<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きをした。

わたしはものが言えなかった。ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がわたしの代わりに答えた。つまりわたしがいま親方に言われたとおりにしなければならないことを、アーサに言って聞かせた。

「親方さんにお願いしましたが、あなたをこのままわたしたちにくださることを<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくださいませんでした」とミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は、いかにも悲しそうな声で言った。

「あの人は悪い人だ」とアーサがさけんだ。

「いいえ、あの人は悪い人ではありません」とミリガン夫人は言った。「あの人にはあなたがだいじで手放せないわけがあるのです。それにあの人はあなたをかわいがっていられる……あの人はああいう身分の人のようではない、どうしてりっぱな口のきき方をなさいました。お<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>りになる理由としてあの人の言われたのは――そう、こうです、――わたしはあの子を<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>している、あの子もわたしを愛している。わたしがあれに<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けている世間の<ruby><rb>修業</rb><rt>しゅぎょう</rt></ruby>は、あれにとって、あなたがたといるよりもずっといい、はるかにいいのだ。あなたはあれに教育を授けてくださるでしょう。それはほんとうだ。なるほどあなたはあれのちえを<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>ってはくださるだろう、だがあれの<ruby><rb>人格</rb><rt>じんかく</rt></ruby>は作れません。それを作ることのできるのは人生の<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>ばかりです。あれはあなたの子にはなれません。やはりわたしの子どもです。それはどれほどあれにとって<ruby><rb>居心地</rb><rt>いごこち</rt></ruby>がよかろうとも、あなたの病身のお子さんのおもちゃになっているよりは、はるかにましです。わたしもできるだけあの子どもを教えるつもりですから――とこうお言いになるのですよ」

「でもあの人、ルミの父さんでもないくせに」とアーサはさけんだ。

「それはそうです。でもあの人はルミの主人です。ルミはあの人のものです。さし当たりルミはあの人に<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>うほかはありません。この子の両親が親方さんにお金で<ruby><rb>貸</rb><rt>か</rt></ruby>したのですから。でもわたしはご両親にも手紙を書いて、やれるだけはやってみましょう」

「ああ、いけません。そんなことをしてはいけません」とわたしはさけんだ。

「それはどういうわけです」

「いいえ、どうかよしてください」

「でもそのほかにしかたがないんですもの」

「ああ、どうぞよしてください」

ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>が両親のことを言いださなかったなら、わたしは親方がくれた十分の時間<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>をさようならを言うために<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>したであろう。

「ご両親たちはシャヴァノンにいるんでしょう」とミリガン夫人はたずねた。

それには答えないで、わたしはアーサのほうへ行って、両うでをかれのからだに回して、しばらくはしっかりだきしめていた。それからかれの弱いうでからのがれて、わたしはふり向いてミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>に手をさし<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>べた。

「かわいそうに」と、かの女はわたしの<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にキッスしながらつぶやいた。

わたしは戸口へかけて行った。

「アーサ、わたしはいつまでもあなたを<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>します」とわたしは言って、こみ上げて来るなみだを飲みこんだ。「おくさん、わたしはけっしてけっしてあなたを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れません」

「ルミ、ルミ……」とアーサがさけんだ。その後のことばはもう聞こえなかった。

わたしは手早くドアを<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じて外に出た。一分間ののち、わたしはヴィタリスといっしょになっていた。

「さあ出かけよう」とかれは言った。

こうしてわたしは<ruby><rb>最初</rb><rt>さいしょ</rt></ruby>の友だちから<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れた。

ふぶきとおおかみ

またわたしは親方のあとについて<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>い<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>にハープを<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>びつけたまま、雨が<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>っても、日が<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>りつけても、ちりやどろにまみれて、旅から旅へ毎日<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>して歩かなければならなかった。広場であほうの役を<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じて、<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>ったり<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いたりして見せて、「ご<ruby><rb>臨席</rb><rt>りんせき</rt></ruby>の<ruby><rb>貴賓諸君</rb><rt>きひんしょくん</rt></ruby>」のごきげんをとり<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>ばなければならなかった。

長い旅のあいだ<ruby><rb>再三</rb><rt>さいさん</rt></ruby>わたしは、アーサやその母親や白鳥号のことを考えて足が進まないことがあった。きたならしい村にはいると、わたしはあのきれいな<ruby><rb>小舟</rb><rt>こぶね</rt></ruby>の船室をどんなに思い出したろう。それに<ruby><rb>木賃宿</rb><rt>きちんやど</rt></ruby>のねどこのどんなに<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>いことであろう。（もう二度とアーサとも遊べないし、その母親の<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい声も聞くことはできない）それを考えるだけでもおそろしかった。

これほど深い、しつっこい悲しみの中で、うれしいことには、一つのなぐさめがあった。それは親方がまえよりはずっと優しく、温和になったことであった。

かれのわたしに対する様子はすっかり<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わっていた。かれはわたしの主人というより<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>のものであるように感じた。もうたびたび思い切って、かれにだきつきたいと思うほどのことがあった。それほどにわたしは<ruby><rb>愛情</rb><rt>あいじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めていた。けれどもわたしにはそれをする<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がなかった。親方はそういうふうになれなれしくすることを<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さない人であった。

<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めは<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>がわたしをかれから遠ざけたけれど、このごろはなんとは知れないが、ぼんやりと、いわば<ruby><rb>尊敬</rb><rt>そんけい</rt></ruby>に<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>た<ruby><rb>感情</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>がかれとわたしをへだてていた。

わたしがいよいよ村の家を出るじぶんには、ふつうのびんぼうな<ruby><rb>階級</rb><rt>かいきゅう</rt></ruby>の人たちと同じように親方を見ていた。わたしは世間なみの人からかれを<ruby><rb>区別</rb><rt>くべつ</rt></ruby>することができずにいたが、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>と二か月くらしたあいだに、わたしの目は開いたし、ちえも進んだ。よく気をつけて親方を見ると、<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>でも様子でも、かれにはひじょうに<ruby><rb>高貴</rb><rt>こうき</rt></ruby>なところがあるように見えた。かれの様子にはミリガン夫人のそれを思い出させるところがあった。

そんなときわたしは、ばかな、親方はたかが犬やさるの<ruby><rb>見世物師</rb><rt>みせものし</rt></ruby>というだけだし、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>である、それが<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>かよったところがあるはずがないと思った。

だがそう思いながら、よくよく見ると、わたしの目がまちがわないことが<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かになった。親方はそうなろうと思えば、ミリガン夫人が貴婦人であると同様に<ruby><rb>紳士</rb><rt>しんし</rt></ruby>になることができた。ただちがうことは、ミリガン夫人がいつでも貴婦人であるのに反して、親方がある場合だけ紳士であるということであった。でも一度そうなれば、それはりっぱな紳士になりきって、どんな向こう見ずな、どんな<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>な人間でも、その<ruby><rb>威勢</rb><rt>いせい</rt></ruby>におされてしまうのであった。

だからもともと向こう見ずでも、乱暴でもなかったわたしは、よけい威勢に打たれて、言いたいことも言い<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ずにしまった。それは向こうから<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことばでさそい出してくれるときでもそうであった。

セットをたってからのち、しばらくわたしたちはミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>のことや、白鳥号に乗っていたあいだのことを口に出すことをしなかった。けれどもだんだんとそれが話の<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>になるようになって、まず親方がいつも話の口を切った。そうしてそれからは一日も、ミリガン夫人の名前の口にのぼらない日はないようになった。

「おまえは<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>いていたのだね、あのおくさんを」と親方が言った。「そうだろう、それはわたしもわかっている。あの人は親切であった。まったくおまえには親切であった。その<ruby><rb>恩</rb><rt>おん</rt></ruby>を<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れてはならないぞ」

そのあとでかれはいつも言い足した。

「だがしかたがなかったのだ」

こう言う親方のことばを、<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めはわたしもなんのことだかわからなかった。するうちだんだんそれは、ミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がそばへ<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>きたいという申し出をこばんだことをさして言うのだとわかった。

親方がしかたがなかったと言ったとき、こういう考えになっていたのは<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かであった。そのうえこのことばの中には<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>に<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>た心持ちがふくまれていたように思われた。かれはアーサのそばにわたしを<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>しておきたいと思ったのであろう。けれどそれはできないことだったというのである。

でもなぜかれがミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の申し出を<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>することができなかったか、よくはわからなかったし、あのとき夫人がくり返し言って聞かしてくれた説明も、あまりよくはわからずにしまったが、親方が<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>しているということがわかって、わたしは心の<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>に<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>した。

もうこれでは親方も<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくれるだろう。そうしてこれはわたしにとって大きな<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>目標</rb><rt>もくひょう</rt></ruby>になった。

それにしても、なぜ白鳥号には出会わないのであろう。

それはローヌ川を上って行くはずであった。そうしてわたしたちはその川の岸に<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って歩いていた。

それで歩きながらわたしの目は<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>を<ruby><rb>限</rb><rt>かぎ</rt></ruby>っている<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>や、<ruby><rb>豊饒</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>な田畑よりも、よけい水の上に注がれていた。

わたしたちがアルルとか、タラスコンとか、アヴィニオン、モンテリマール、ヴァランス、ツールノン、ヴィエンヌなど、という町に着いたときに、いちばん先にわたしの行ってみるのは、<ruby><rb>波止場</rb><rt>はとば</rt></ruby>か橋の上で、そこから川の上流を見たり、下流を見たり、わたしの目は白鳥号を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>した。遠方に半分、深い<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>にかくれてぼんやりした船のかげでも見つけると、それが白鳥号であるかないか、見分けられるほど大きくなるのを待つのであった。

でもそれはいつも白鳥号ではなかった。

ときどきわたしは思い切って船頭に聞いてみた。わたしの<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>す美しい船の<ruby><rb>模様</rb><rt>もよう</rt></ruby>を話して、そういう船を見なかったかとたずねた。でもかれらはけっしてそういう船の通るのを見たことがなかった。

このごろでは親方も、わたしをミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>にわたそうと決心していた。少なくともわたしにはそう<ruby><rb>想像</rb><rt>そうぞう</rt></ruby>されたから、もはやわたしの<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>告</rb><rt>つ</rt></ruby>げたり、バルブレンのおっかあに手紙をやったりされるおそれがなくなった。そのほうの<ruby><rb>事件</rb><rt>じけん</rt></ruby>は親方とミリガン夫人との間の<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>でうまくまとめてくれるだろう。そう思って、わたしの子どもらしいゆめでいろいろに事件を<ruby><rb>処理</rb><rt>しょり</rt></ruby>してみた。ミリガン夫人はわたしをそばに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>きたいと言うだろう。親方はわたしに対する<ruby><rb>権利</rb><rt>けんり</rt></ruby>を<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てることを<ruby><rb>承知</rb><rt>しょうち</rt></ruby>してくれるだろう。それでいっさい事ずみだ。

わたしたちは何週間もリヨンに<ruby><rb>滞在</rb><rt>たいざい</rt></ruby>していた。そのあいだひまさえあればいく度もわたしはローヌ川と、ソーヌ川の<ruby><rb>波止場</rb><rt>はとば</rt></ruby>に行ってみた。おかげでエーネー、チルジット、ラ・ギョッチエール、ロテル・デューなどという橋のことは、生えぬきのリヨン人同様によく知っていた。

しかしやはりわからなかった。とうとう白鳥号を見つけることはできなかった。

わたしたちはとうとうリヨンを去らなければならなかった。そしてディジョンに向かった。それでわたしはもうミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>に二度と会う<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てなければならなかった。それはリヨンでフランス全国の地図を調べてみたが、どうしても白鳥号がロアール川に出るには、これより先へ川を上って行くことのできないことを知ったからであった。船はシャロンのほうへ<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れて行ったのであろう。そう思ってわたしたちはシャロンに着いたが、やはり船を見ることなしにまた進まなければならなかった。これがわたしの<ruby><rb>夢想</rb><rt>むこう</rt></ruby>の<ruby><rb>結末</rb><rt>けつまつ</rt></ruby>であった。

いよいよいけなくなったことは、冬がいまや<ruby><rb>目近</rb><rt>まぢか</rt></ruby>にせまってきたことであった。わたしたちは目も見えないような雨とみぞれの中をみじめに歩き回らなければならなかった。夜になってわたしたちがきたない<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>かまたは<ruby><rb>物置</rb><rt>ものお</rt></ruby>き<ruby><rb>小屋</rb><rt>ごや</rt></ruby>につかれきってたどり着くと、もうはだまで水がしみ通って、わたしたちはとても<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>をうかべてねむる元気はなかった。

ディジョンをたってから、コートドールの山道をこえたときなどは、雨にぬれて<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>までもこおる思いをした。ジョリクールなどは、わたしと同様いつも<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けない悲しそうな顔をしていた。よけい意地悪くなっていた。

親方の<ruby><rb>目的</rb><rt>もくてき</rt></ruby>は少しでも早くパリへ行き着くことであった。それは冬のあいだ<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>をして回れるのはパリだけであった。わたしたちはもうごくわずかの金しか得られなかったので、汽車に乗ることもできなかった。

道みちの町や村でも、<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>のつごうさえよければ、ちょっとした<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>をやって、いくらかでも<ruby><rb>収入</rb><rt>しゅうにゅう</rt></ruby>をかき集めて、出発するようにした。寒さと雨とで苦しめられながら、でもシャチヨンまではどうにかしてやって来た。

シャチヨンをたってから、<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たい雨の<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ったあとで、風は北に<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わった。

もういく日かしめっぽい日が<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いたあとでは、わたしたちも顔にかみつくようにぶつかる北風を、いっそ気持ちよく思っていたが、まもなく空は大きな黒い雲でおおわれて、冬の日はすっかりかくれてしまった。大雪の近づいていることがわかっていた。

わたしたちがちょっとした大きな村に着くまではまだ雪にもならなかった。でも親方は、なんでもトルアの町へ早く行こうとあせっていた。そこは大きい町だから、ひじょうに悪い天気で五、六<ruby><rb>日</rb><rt>にち</rt></ruby><ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>しても、少しは<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けて回る見こみがあった。「早くとこにおはいり」とその<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby><ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>に着くと親方は言った。「あしたはなんでも早くからたつのだ……だが雪に<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りこめられてはたまらないなあ」

でもかれはすぐにはとこにはいらなかった。台所の<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のすみにこしをかけて、<ruby><rb>寒</rb><rt>さむ</rt></ruby>さでひどく弱っているジョリクールを<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>めていた。さるは<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>にくるまっていても、やはり苦しがって、うめき声をやめなかった。

あくる日の朝、わたしは言いつけられたとおり早く起きた。まだ夜が明けてはいなかった。空はまっ暗な雲が<ruby><rb>低</rb><rt>ひく</rt></ruby>く<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れて、星のかげ一つ見えなかった。ドアを開けると、はげしい風がえんとつにふき入って、<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>なくゆうべ<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>の中にうずめたほだ火をまい上げそうにした。

<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は親方の顔を見て、

「わたしがあなただったら、きょうは出るどころではありません。いまにひどいふぶきになりますぜ」

「わたしは急いでいるのだ」と親方は答えた。「その大ふぶきの来るまえにトルアまで行きたいと思っている」

「六、七里（約二十四～二十八キロ）もありますよ。一時間やそこらで行けるものですか」

でもかまわずわたしたちは出発した。

親方はジョリクールをしっかりからだにだきしめて、自分の温かみを少しでも分けてやろうとした。犬は<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>いこちこちな道を歩くのをうれしがって、先に立ってかけた。親方はデイジョンでわたしにひつじの毛皮服を買ってくれたので、わたしは毛を裏にしてしっかり着こんだ。これがこがらしでべったりからだにふきつけられていた。

わたしたちは口を開くのがひどくふゆかいだったので、だまりこんで歩きながら、少しでも<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>まろうとして急いだ。

もう夜明けの時間をよほど<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎていたが、空はまだまっ暗であった。東のほうに白っぽい<ruby><rb>帯</rb><rt>おび</rt></ruby>のようなものが雪の間に流れてはいたが、太陽は出て来そうもなかった。

<ruby><rb>野景色</rb><rt>のげしき</rt></ruby>を見わたすと、いくらか物がはっきりしてきた。葉をふるった木も見えるし、<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>や小やぶの中でかれっ葉ががさがさ風に鳴っていた。

<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>にも畑にも出ている人はなかった。車の音も聞こえないし、むちの鳴る音も聞こえなかった。

ふと北の空に青白い<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>が見えたが、だんだん大きくなってこちらのほうへ向かって来た。そのときわたしたちはきみょうながあがあいうささやき声のような音を聞いた。それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>か野の白鳥のさけび声であったろう。この気ちがいじみた鳥の<ruby><rb>群</rb><rt>む</rt></ruby>れは、わたしたちの頭の上を<ruby><rb>飛</rb><rt>と</rt></ruby>んだと思うと、もう北から南のほうへおもしろそうにかけって行った。かれらが遠い空の中に見えなくなると、やわらかな<ruby><rb>雪片</rb><rt>せっぺん</rt></ruby>が<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>かに落ちて来た。それは空中を遊び歩いているように見えた。

わたしたちが通って行く道は<ruby><rb>喪中</rb><rt>もちゅう</rt></ruby>のようにしずんでさびしかった。あれきって<ruby><rb>陰気</rb><rt>いんき</rt></ruby>な野原の上にただ北風のはげしいうなり声が聞こえた。雪片が小さなちょうちょうのように目の前にちらちらした。<ruby><rb>絶</rb><rt>た</rt></ruby>えずくるくる回って、地べたに着くことがなかった。

わたしたちはまた少ししか歩いてはいなかった。雪の<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>るまえにトルアに着くということは、むずかしいことに思われた。けれどわたしは心配しなかった。雪が降りだせば風がやんで、かえって寒さもゆるむだろうと思った。

わたしはまだ雪風というものがどんなものだかよく知らなかった。

しかしまもなくそれがほんとうにわかった。しかもわたしにはけっして<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れることのできないものであった。

雲が東北からむくむく集まって来た。そこの空にかすかな明るみが見えたと思うと、やがて雲のふところが開いて、どんどん大きな雪のかたまりが落ちて来た。もう空中をちょうちょうのようにはまわなかった。ふんぷんとすばらしい<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いで<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>って来て、わたしたちの目鼻を開けられないようにした。

「とてもトルアまではだめだ。なんでもうちを見つけしだい休むことにしよう」と親方が言った。

わたしは親方がそう言うのを聞いてうれしかったけれども、いったいうまく休むうちが見つかるであろうか。まだそこらが白くならないまえにわたしが見ておいたかぎりでは、一けんもうちは見えなかった。そればかりではない。おいおい村に近づいているという気配も見えなかった。

わたしたちの前には<ruby><rb>底知</rb><rt>そこし</rt></ruby>れぬ黒い森が横たわっていた。わたしたちを<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>んでいる<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>丘陵</rb><rt>きゅうりょう</rt></ruby>もやはり深い森であった。

雪はいよいよはげしく<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ってきた。わたしたちはだまって歩いた。親方はおまけにひつじの毛皮服を持ち上げて、ジョリクールが楽に息のできるようにしてやった。ただときどき首を左右に動かさなければ息ができなかった。

犬たちももう先に立ってかけることができなかった。かれらはわたしたちのかかとについて歩いて、早く休むうちを<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めたがっているような顔をしていたが、それをあたえてやることができなかった。

道はいっこうにはかどらなかった。わたしたちはとぼとぼ<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>を<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>って歩いた。目を開けてはいられなかった。じくじくぬれた着物がこおりついたまま歩いて行った。もう深い森の中にはいっていたが、まっすぐな道で、わたしたちはさえぎるもののないあらしにふきさらされていた。そのうち風はいくらか<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>まったが、雪のかたまりはますます大きくなって、みるみる<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もった

わたしは親方がなにか<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>し<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>をするように、おりおり左のほうへ目を注ぐのを見たが、かれはなにも言わなかった。なにをかれは見つけようとするのであろう。

わたしは長い道の向こうばかりまっすぐに見ていた。この森がもうほどなくおしまいになって、人家が<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れてきはしないかという<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みをかけていた。

だが目の<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>く<ruby><rb>限</rb><rt>かぎ</rt></ruby>り<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>は雪にうずまった林であった。前はもう二、三間（四～五メートル）先が雪でぼんやりくもっていた。

わたしはこれまで<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい台所の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>ガラスに雪の<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>るところを見ていた。その暖かい台所がどんなにかはるか遠いゆめの世界のように思われることであろう。

でもやはり行くだけは行かなければならなかった。わたしたちの足はだんだん深く雪の中にもぐりこんだ。そのときふと、なにも言わずに親方が左手を指さした。なるほど、わたしはぼんやりと、空き地の中に<ruby><rb>堀立小屋</rb><rt>ほったてごや</rt></ruby>のようなものを見た。

わたしたちはその小屋に通う道を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>さなければならなかった。でも雪がもう深くなって、道という道をうずめてしまったので、これは<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>な仕事であった。わたしたちはやぶの中をかけ回って、みぞをこえて、やっとのことで小屋へ行く道を見つけて中へはいることができた。

その小屋は<ruby><rb>丸太</rb><rt>まるた</rt></ruby>やしばをつかねて<ruby><rb>造</rb><rt>つく</rt></ruby>ったもので、屋根も木のえだのたばを<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>み重ねて、雪が間から流れこまないように<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>くなわでしめてあった。

犬たちはうれしがって、元気よく先に立ってかけこんだ、ほえながらたびたびかわいた土の上をほこりを立てて<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げ<ruby><rb>回</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていた。

わたしたちの<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>もかれらにおとらず大きかった。

「こういう森の中の木を切ったあとには、きこりの小屋があるはずだと思っていた」と親方が言った。「もういくら雪が<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ってもかまわないぞ」

「そうですとも。雪なんかいくらでも降れだ」とわたしは大いばりで言った。

わたしは戸口――というよりも小屋に<ruby><rb>出入</rb><rt>しゅつにゅう</rt></ruby>する<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>というほうが<ruby><rb>適当</rb><rt>てきとう</rt></ruby>で、そこにはドアも<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>もなかったが――そこまで行って、わたしは上着とぼうしの雪をはらった。せっかくのかわいた<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>をぬらすまいと思ったからである。

わたしたちの<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の<ruby><rb>構造</rb><rt>こうぞう</rt></ruby>はしごく<ruby><rb>簡単</rb><rt>かんたん</rt></ruby>であった。<ruby><rb>備</rb><rt>そな</rt></ruby>えつけの家具も同様で、土の山と、二つ三つ大きな石がいすの代わりに<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてあるだけであった。それよりもありがたかったのは、部屋のすみに赤れんがが五、六<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>、かまどの形に<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>んであったことである。なによりもまず火を<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>やさなければならぬ。

なによりも火がいちばんのごちそうだ。

さてまきだが、このうちでそれを見つけることは<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>ではなかった。

わたしたちはただかべや屋根からまきを引きぬいて来ればよかった。それはわけなくできた。

まもなくたき火の赤いほのおがえんえんと立った。むろん小屋はけむりでいっぱいになったが、そんなことはいまの場合かまうことではなかった。わたしたちの<ruby><rb>欲</rb><rt>ほっ</rt></ruby>しているのは火と<ruby><rb>熱</rb><rt>ねつ</rt></ruby>であった。

わたしは両手をついて、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>ばいになって火をふいた。犬は火のぐるりをゆうゆうと取り<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、首をのばして、ぬれた<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を火にかざしていた。

ジョリクールはやっと親方の上着の下からのぞくだけの元気が出て、用心深く鼻の頭を外に向けてそこらをながめ回した。安全な場所であることを<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かめて<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>したらしく、急いで地べたにとび下りて、たき火の前のいちばん上等な場所を<ruby><rb>占領</rb><rt>せんりょう</rt></ruby>して、二本の小さなふるえる手を火にかざした。

親方は用心深い、<ruby><rb>経験</rb><rt>けいけん</rt></ruby>に<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>んだ人であるから、その朝わたしが起き出すまえに道中の<ruby><rb>食料</rb><rt>しょくりょう</rt></ruby>を<ruby><rb>包</rb><rt>つつ</rt></ruby>んでおいた。パンが一本とチーズのかけであった。わたしたちはみんな食物を見て<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>した。

<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないことにわたしたちはごくわずかしか分けてもらえなかった。それはいつまでここにいなければならないかわからないので、親方がいくらか<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>に<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>しておくほうが<ruby><rb>確実</rb><rt>かくじつ</rt></ruby>だと考えたからであった。

わたしはわかったが、しかし犬にはわからなかった。それでかれらはろくろく食べもしないうちにパンが<ruby><rb>背嚢</rb><rt>はいのう</rt></ruby>に<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>められるのを見ると、前足を主人のほうに向けて、そのひざがしらを引っかいた。目をじっと背嚢につけて、中の物をぜひ開けさせようといろいろの身ぶりをやった。けれども親方はまるでかまいつけなかった。

背嚢はとうとう開かれなかった。犬はあきらめてねむる決心をした。カピは<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>の中に鼻をつっこんでいた。わたしもかれらの<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>にならおうと考えた。けさは早かった。いつやむか、見当のつかない雪を見てくよくよしているよりも、白鳥号に乗って、ゆめの国にでも遊んだほうが気が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いている。

わたしはどのくらいねむったか知らなかった。目が<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>めると雪がやんでいた。わたしは外をながめた。雪はひじょうに深かった。<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に出て行けばひざの上までうずまりそうであった。

何時だろう。

わたしはそれを親方にたずねることができなかった。なぜなら<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のカピが時間を<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>した大きな銀時計は売られてしまった。かれは<ruby><rb>罰金</rb><rt>ばっきん</rt></ruby>や<ruby><rb>裁判</rb><rt>さいばん</rt></ruby>の<ruby><rb>費用</rb><rt>ひよう</rt></ruby>をはらうためにありったけの金を使ってしまった。そしてディジョンでわたしの毛皮服を買うときに、その大きな時計も売ってしまったのであった。

時計を見ることができないとすれば、日の<ruby><rb>加減</rb><rt>かげん</rt></ruby>で知るほかはないが、なにぶんどんよりしているので、何時だか時間を<ruby><rb>推量</rb><rt>すいりょう</rt></ruby>するのが<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>であった。

なんの物音も聞こえなかった。雪はあらゆる生物の活動をそれなりこおらせてしまったように思われた。

わたしは小屋の入口に立っていると、親方の<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶ声が聞こえた。

「これから出て行けると思うかな」とかれはたずねた。

「わかりません。あなたのいいようにしたいと思います」

「そうか、わたしはここにいるほうがいいと思う。まあまあ屋根はあるし、たき火もあるのだから」

それはほんとうであったが、同時にわたしは食物のないことを思い出した。けれどもわたしはなにも言わなかった。

「どうせまた雪は<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ってくるよ。とちゅうで雪に会ってはたまらない。夜はよけい寒くなる。今夜はここでくらすほうが<ruby><rb>無事</rb><rt>ぶじ</rt></ruby>だ。足のぬれないだけでもいいじゃないか」

そうだ。わたしたちはこの小屋に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>するほかはない。<ruby><rb>胃</rb><rt>い</rt></ruby>ぶくろのひもを<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>くしめておく、それだけのことだ。

<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうはん</rt></ruby>に親方が<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>りのパンを分けた。おやおや、もうわずかしかなかった。すぐに食べられてしまった。わたしたちはくずも<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>さず、がつがつして食べた。このつましい<ruby><rb>晩食</rb><rt>ばんしょく</rt></ruby>がすんだとき、犬はまたさっきのようにあとねだりをするだろうと思っていたが、かれらはまるでそんなことはしなかった。今度もわたしは、どのくらいかれらがりこうであるか知った。

親方がナイフをズボンのかくしにしまうと、これは食事のすんだ知らせであったから、カピは立ち上がって、食物を入れたふくろのにおいをかいだ。それから前足をふくろにのせてこれにさわってみた。この二重の<ruby><rb>吟味</rb><rt>ぎんみ</rt></ruby>で、もうなにも食物の<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていないことがわかった。それでかれはたき火の前の自分の<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>に帰って、ゼルビノとドルスの顔をながめた。その顔つきはあきらかにどうもしんぼうするほかはないよという意味を<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>していた。そこでかれはあきらめたというように、ため息をついて全身を長ながとのばした。

「もうなにもない。ねだってもだめだよ」かれはこれを大きな声で言ったと同様、はっきりと<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の犬たちに<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>さしていた。

かれの<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>はこのことばを<ruby><rb>理解</rb><rt>りかい</rt></ruby>したらしく、これもやはりため息をつきながらたき火の前にすわった。けれどゼルビノのため息はけっしてほんとうにあきらめたため息ではなかった。おなかの<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っているうえに、ゼルビノはひじょうに大食らいであった。だからこれはかれにとっては大きな<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>であった。

雪がまたずんずん<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りだしていた。ずいぶんしつっこく降っていた。わたしたちは白い地べたのしき物が高く高くふくれ上がって、しまいに、小さな<ruby><rb>若木</rb><rt>わかぎ</rt></ruby>や<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>がすっかりうずまってしまうのを見た。夜になっても、大きな<ruby><rb>雪片</rb><rt>せっぺん</rt></ruby>がなお暗い空からほの明るい地の上にしきりなしに落ちていた。

わたしたちはいよいよここへねむるとすれば、なによりいちばんいいことは、できるだけ早くねつくことであった。わたしは昼間火でかわかしておいた毛皮服にくるまってまくらの代わりにした。平ったい石に頭をのせて、たき火の前に横になった。

「おまえはねむるがいい」親方が言った。「わたしのねむる番になればおまえを起こすから。この小屋ではけものもなにも心配なことはないが、二人のうち一人は起きていて、火の消えないように番をしなければならない。用心してかぜをひかないように気をつけなければいけない。雪がやむとひどい寒さになるからな」

わたしはさっそくねむった。親方がまたわたしを起こしたときには、夜はだいぶふけていた。たき火はまだ<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えていた。雪はもう<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>ってはいなかった。

「今度はわたしのねむる番だ」と親方が言った。「火が消えたら、ここへこのとおりたくさん<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>っておいたまきをくべればいい」

なるほどかれはたき火のわきに小えだをたくさん<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>み上げておいた。わたしよりずっと少ししかねむれない親方は、わたしがいちいちかべからまきをぬくたんびに音を立てて目を<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>まさせられることをいやがった。それでわたしはかれのこしらえておいてくれたまきの山から取っては、そっと音を立てずに火にくべれはよかった。

たしかにこれはかしこいやり方ではあったけれど、<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないことに親方は、これがどんな意外な<ruby><rb>結果</rb><rt>けっか</rt></ruby>を生むかさとらなかった。

かれはいまジョリクールを自分の外とうですっかりくるんだまま、たき火の前にからだをのばした。まもなくしだいに高く、しだいに<ruby><rb>規則</rb><rt>きそく</rt></ruby>正しいいびきで、よくねいったことが知れた。

そのときわたしはそっと立ち上がって、つま先で歩いて、外の様子がどんなだか、入口まで出て見た。

草もやぶも木もみんな雪にうまっていた。日の<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>くかぎりどこも目がくらむような白色であった。空にはぽつりぽつり星の光がきらきらしていた。それはずいぶん明るい光ではあったが、木の上に青白い光を投げているのは雪の明かりであった。もうずっと寒くなっていた。ひどくこおっていた。すきまからはいる空気は氷のようであった。<ruby><rb>喪中</rb><rt>もちゅう</rt></ruby>にいるような<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>けさの中に、雪の表面のこおりつく音がいく度となく聞こえた。

「ああ、この森のおくで雪の中にうめられてわたしたちはどうすればいいのだ。この雪と寒さの中で、この小屋でもなかったらどうなったであろう」

わたしはそっと音のしないように出たのであったが、やはり犬たちを起こしてしまった。中でもゼルビノは起き上がってわたしについて来た。夜の<ruby><rb>荘厳</rb><rt>そうごん</rt></ruby>はかれにとってなんでもなかった。かれはしばらく<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をながめたが、やがてたいくつして外へ出て行こうとした。

わたしはかれに中にはいるように<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>した。ばかな犬よ。このおそろしい寒さの中でうろつき回るよりは、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かいたき火のそばにおとなしくしていたほうがどのくらいいいか知れない。かれは<ruby><rb>不承不承</rb><rt>ふしょうぶしょう</rt></ruby>にわたしの言うことを聞いたが、しかしひどくふくれっ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして、目をじっと入口に向けていた。よほどしつっこい、いったん思い立ったことを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れない犬であった。

わたしは、まっ白な夜をながめながらまだ二、三分そこに立っていた。それは美しい<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ではあったし、おもしろいと思ったが、なんとも言えないさびしさを感じた。むろん見まいと思えば目をふさいで中にはいって、そのさびしい景色を見ずにいることはできるのだが、白いふしぎな景色がわたしの心をとらえたのであった。

とうとうわたしはまたたき火のそばへ帰って、二、三本まきをたがいちがいに火の上に組み合わせて、まくらの代わりにした石の上にこしをかけた。

親方はおだやかにねむっていた。犬たちとジョリクールもまたねむっていた。ほのおが火の中から上って、ぴかぴか火花を<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らしながら屋根のほうまで<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>き上がった。ぱちぱちいうたき火のほのおの音だけが夜の<ruby><rb>沈黙</rb><rt>ちんもく</rt></ruby>を<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>るただ一つの音であった。

長いあいだわたしは火をながめていたけれど、だんだん<ruby><rb>我知</rb><rt>われし</rt></ruby>らずうとうとし始めた。わたしが外へ出てまきをこしらえる仕事でもしていたら、日を<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>ましていられたかもしれなかったが、なにもすることもなくって火にあたっているので、たまらなくねむくなってきた。そのくせしょっちゅう自分ではいっしょうけんめい目を<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>ましているつもりになっていた。

ふとはげしいほえ声にわたしは目が覚めて、とび上がった。まっ暗であった。わたしはかなり長いあいだねむったらしく、火はほとんど<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えかかっていた。もう小屋の中にほのおが光ってはいなかった。

カピはけたたましくほえたてていた。けれどふしぎなことにゼルビノの声もドルスの声もしなかった。

「どうした。どうした」と親方が目を<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>ましてさけんだ。

「知りません」

「おまえはねむっていたのだな。火も消えている」

カピは入口までかけ出して行ったが、外へとび出そうとはしなかった。出口でウウ、ウウ、ほえていた。

「どうした。どうしたというんだろう」わたしは今度は自分にたずねた。

カピのほえ声に答えて、二声三声、すごい悲しそうなうなり声が聞こえた。それはドルスの声だとわかった。そのうなり声は小屋の後ろから、しかもごく近い<ruby><rb>距離</rb><rt>きょり</rt></ruby>から聞こえて来た。

わたしは外へ出ようとした。けれど親方はわたしの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>に手をのせて引き止めた。

「まあまきをくべなさい」かれは<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>の調子で言った。

言いつけられたとおりにわたしがしていると、かれは火の中から一本小えだを引き出して、火をふき消して、<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えている先を<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた。

かれはそのたいまつを手に持った。

「さあ、行って見て来よう」とかれは言った。「わたしのあとについておいで。カピ、先へ行け」

外へ出ようとすると、はげしいほえ声が聞こえた。カピはこわがって、あとじさりをして、わたしたちの間に身をすくめた。

「おおかみだ。ゼルビノとドルスはどこへ行ったろう」

なにをわたしが言えよう。二ひきの犬はわたしのねむっているあいだに出て行ったにちがいない。ゼルビノはわたしがねつくのを待って、ぬけ出して行った。そしてドルスが、そのあとについて行ったのだ。

おおかみがかれらをくわえたのだ。親方が犬のことをたずねたとき、かれの声にはその<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>があった。

「たいまつをお持ち」とかれは言った。「あれらを助けに行かなければならない」

村でわたしはよくおおかみのおそろしい話を開いていた。でもわたしはちゅうちょすることはできなかった。わたしはたいまつを取りにかけて帰って、また親方のあとに<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いた。

けれども外には犬も見えなければおおかみも見えなかった。雪の上にただ二ひきの犬の足あとがぽつぽつ<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていた。わたしたちはその足あとについて小屋の回りを歩いた。するとややはなれて雪の中でなにかけものが<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がり回ったようなあとがあった。

「カピ、行って見て来い」と親方は言った。同時にかれはゼルビノとドルスを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>せる<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>をふいた。

けれどこれに答えるほえ声は聞こえなかった。森の中の重苦しい<ruby><rb>沈黙</rb><rt>ちんもく</rt></ruby>を<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>る物音はさらになかった。カピは言いつけられたとおりにかけ出そうとはしないで、しっかりとわたしたちにくっついていた。いかにも<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きょうふ</rt></ruby>にたえない様子であった。いつもはあれほど<ruby><rb>従順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>でゆうかんなカピが、もう足あとについてそれから先へ行くだけの<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がなかった。わたしたちの回りだけは雪がきらきら光っていたが、それから先はただどんよりと暗かった。

もう一度親方は<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>をふいて、<ruby><rb>迷</rb><rt>まよ</rt></ruby>い<ruby><rb>犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>を呼びたてた。でもそれに答える声はなかった。わたしは気が気でなかった。

「ああ、かわいそうなドルス」親方はわたしの心配しきっていることをすっぱり言った。

「おおかみがつかまえて行ったのだ。どうしてあれらを放してやったのだ」

そう、どうして――そう言われて、わたしは答えることばがなかった。

「行って<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>して来なければ」とわたしはしばらくして言った。

わたしは先に立って行こうとしたけれど、かれはわたしを引き止めた。

「どこへ探しに行くつもりだ」とかれはたずねた。

「わかりません、ほうぼうを」

「この暗がりでは、どこに行ったかわかるものではない。この雪の深い中で……」

それはほんとうであった。雪がわたしたちのひざの上まで<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もっていた。わたしたちの二本のたいまつをいっしょにしても、暗がりを<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>らすことはできなかった。

「ふえをふいても答えないとすると、遠方へ行ってしまっているのだ」とかれは言った。

「わたしたちは、むやみに進むことはならない。おおかみはわれわれにまでかかって来るかもしれない。今度は自分を守ることができなくなる」

かわいそうな犬どもを、その<ruby><rb>運命</rb><rt>うんめい</rt></ruby>のままに<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せるということは、どんなに<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないことであったろう。

――われわれの二人の友だち、それもとりわけわたしにとっての友だちであった。それになにより<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったことは、それがわたしの<ruby><rb>責任</rb><rt>せきにん</rt></ruby>だということであった。わたしはねむりさえしなかったら、かれらも出て行きはしなかった。

親方は小屋に帰って行った。わたしはそのあとに<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>きながら、一足ごとにふり返っては、立ち止まって耳を立てた。

雪のほかにはなにも見えなかった。なんの声も聞こえなかった。

こうしてわたしたちが、小屋にはいると、もう一つびっくりすることがわたしたちを待っていた。火の中に投げこんでおいたえだは<ruby><rb>勢</rb><rt>いきお</rt></ruby>いよく<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>え上がって、小屋のすみずみの暗い所まで<ruby><rb>照</rb><rt>て</rt></ruby>らしていた。けれどもジョリクールはどこへ行ったか見えなかった。かれの着ていた<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>はたき火の前にぬぎ<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>ててあった。けれどかれは小屋の中にはいなかった。親方もわたしも<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。けれどかれは出て来なかった。

親方の言うには、かれの目を<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>ましたときには、さるはわきにいた。だからいなくなったのは、わたしたちが出て行ったあとにちがいなかった。<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えているたいまつを雪の<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もった地の上にくっつけるようにして、その足あとを見つけ出そうとした。でもなんの手がかりもなかった。

どこかたばねたまきのかげにでもかくれているのではないかと思って、わたしたちはまた小屋へ帰って、しばらく<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>し回った。いく度もいく度も同じすみずみを探した。

わたしは親方の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>に上って、屋根に<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてあるえだたばの中を探してみた。二度も三度も<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んでみた。けれどもなんの返事もなかった。

親方はぷりぷりかんしゃくを起こしているようであった。わたしはがっかりしていた。

わたしは親方に、おおかみがかれまでも取って行ったのではないかとたずねた。

「いいや」とかれは言った。「おおかみは小屋の中までははいっては来なかっただろう。ゼルビノとドルスは外へ出たところをくわえられたかと思うが、この中までははいって来られまい。たぶんジョリクールはこわくなって、わたしたちの外に出ているあいだにどこへかかくれたにちがいない。それをわたしは心配するのだ。このひどい寒さでは、きっとかぜをひくであろう。寒さがあれにはなにより<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>くのだから」

「じゃあどんどん<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>してみましょうよ」

わたしたちはまたそこらを歩き回った。けれどまるでむだであった。

「夜の明けるまで待たなければならない」と親方が言った。

「どのくらいで明けるでしょう」

「二時間か三時間だろう」

親方は両手で頭をおさえてたき火の前にすわっていた。

わたしはそれをじゃまする<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がなかった、わたしはかれのわきにつっ立って、ただときどき火の中にえだをくべるだけであった。一、二度かれは立ち上がって戸口へ行って、空をながめてはじっと耳をかたむけたが、また帰って来てすわった。

わたしはかれがそんなふうにだまって悲しそうにしていられるよりも、かまわずわたしにおこりつけてくれればいいと思った。

三時間はのろのろ<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎた。その長いといったら、とても夜がおしまいになる時がないのかと思われた。

でも星の光がいつか空からうすれかけていた。空がだんだん明るく、夜が明けかかっていた。けれども明け方に近づくに<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って、寒さはいよいよひどくなった。戸口からはいって来る風が<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>までこおるようであった。

これでジョリクールを見つけたとしても、かれは生きているだろうか。

見つけ出す<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>がほんとにあるだろうか。

きょうもまた雪が<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りださないともかぎらない。

でも雪はもう来なかった。そして空にばら色の光がさして、きょうの<ruby><rb>好天気</rb><rt>こうてんき</rt></ruby>を<ruby><rb>予告</rb><rt>よこく</rt></ruby>するようであった。

すっかり明るくなって、<ruby><rb>樹木</rb><rt>じゅもく</rt></ruby>の形がはっきり見えるようになった。親方もわたしもがっかりして、<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をかかえて小屋を出た。

カピはもうゆうべのようにびくついてはいないようであった。目をしっかり親方にすえたまま、いつでも合図しだいでかけ出す仕度をしていた。

わたしたちが下を向いてジョリクールの足あとを<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>し回っていると、カピが首を上に上げてうれしそうにほえ始めた。かれはわたしたちに地べたではなく、上を見ろといって合図をしたのであった。

小屋のわきの大きなかしの木のまたで、わたしたちはなにか黒い小さなもののうごめく<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見つけた。

これがかわいそうなジョリクールであった。夜中に犬のほえる声におびえて、かれはわたしたちが出ているまに、小屋の屋根によじ上った。そしてそこから一本のかしの木のてっべんに登って、そこを安全な場所と思って、わたしたちの<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶ声にも答えず、じっとからだをかがめてすわっていたのであった。

かわいそうな弱い動物。かれはこごえてしまったにちがいない。

親方がかれを<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。かれは動かなかった。わたしたちはかれがもう死んでいると思った。

数分間親方はかれを<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けさまに呼んだ。けれどさるはもう生きているもののようではなかった。

わたしの<ruby><rb>心臓</rb><rt>しんぞう</rt></ruby>は<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>で<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>んだ。どれほどひどく<ruby><rb>罰</rb><rt>ばっ</rt></ruby>せられたことだろう。

わたしはつぐないをしなければならない。

「登ってつかまえて来ましょう」とわたしは言った。

「<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>ないよ」

「いいえ、だいじょうぶです。わけなくできますよ」

それはほんとうではなかった。それは<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>でむずかしい仕事であった。大きなこの木は氷と雪をかぶっているので、それはずいぶん<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>な仕事であった。

わたしはごく小さかったじぶんから木登りをすることを習った。それでこの<ruby><rb>術</rb><rt>じゅつ</rt></ruby>には<ruby><rb>熟練</rb><rt>じゅくれん</rt></ruby>していた。わたしはとび上がって、いちばん下のえだにとびついた。そして木のえだをすけて雪が落ちて日の中にはいって来たが、でもどうやら木の<ruby><rb>幹</rb><rt>みき</rt></ruby>をよじて、いちばんしっかりしたえだに手がかかった。ここまで登れば、あとは足をふみはずさないように気をつければよかった。

わたしは登りながら、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくジョリクールに話しかけた。かれは動かないで、目だけ光らせてわたしを見ていた。

わたしはほとんど手の<ruby><rb>届</rb><rt>とど</rt></ruby>く所へ来て、手をのばしてつかまえようとした。するとひょいとかれはほかのえだにとびついてしまった。

わたしはそのえだまでかれを追っかけたけれど、人間の<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けなさ、子どもであっても、木登りはさるにはかなわなかった。

これでさるの足が雪でぬれていなかったら、とてもかれをつかまえることはできそうもなかった。かれは足のぬれることを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まなかった。それでじきにわたしをからかうのがいやになって、えだからえだへととび下りて、まっすぐに主人の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>にとび下りた。そして上着の<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>にかくれた。

ジョリクールを見つけるのはたいへんなことであったがそれだけではすまなかった。今度は犬を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>さなければならなかった。

もうすっかり昼になっていた。わけなくゆうべの出来事のあとをたどることができた。雪の中でわたしたちは犬の死んだことがわかった。

わたしたちは十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>（約十八メートル）ばかりかれらの足あとをつけることができた。かれらは<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いて小屋からぬけ出した。ドルスが、ゼルビノのあとに<ruby><rb>続</rb><rt>ぞく</rt></ruby>いた。

それからほかのけものの足あとが見えた。一方にはおおかみどもは犬にとびかかって、はげしく<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>ったしるしが<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていた。こちらにはおおかみがえものをつかんでゆっくり食べて歩いて行った足あとが残っていた。もうそこには、そこここに赤い血が雪の上にこぼれているほかには、犬のあとはなにも残っていなかった。

かわいそうな二ひきの犬は、わたしのねむっているあいだに死にに行ったのであった。

でもわたしたちはできるだけ早く帰って、ジョリクールを温めてやらなければならなかった。わたしたちは小屋へ帰った。親方がさるの足と手を持って、赤んぼうをおさえるようにして、たき火にかざすと、わたしは<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>を温めて、その中へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がす仕度をした。けれども毛布ぐらいでは足りなかった。かれは湯たんぽと温かい飲み物を<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めていた。

親方とわたしはたき火のそばにすわって、だまってまきの<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えるのをながめた。

「かわいそうに、ゼルビノは。かわいそうに、ドルスは」

わたしたちは代わりばんこにこんなことばをつぶやいた。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めに親方が、つぎにはわたしが。

あの犬たちは、楽しいにつけ苦しいにつけ、わたしたちの友だちであり、<ruby><rb>道連</rb><rt>みちづ</rt></ruby>れであった。そしてわたしにとっては、わたしのさびしい身の上にとっては、このうえないなぐさめであった。

わたしがしっかり<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>りをしなかったことは、どんなにくやしいことだったろう。おおかみはそうすれば小屋までせめては来なかったろうに。火の光におそれて遠方に小さくなっていたであろうに。

どうにかしていっそ親方がひどくわたしをしかってくれればよかった。かれがわたしを打ってくれればよかった。

けれどかれはなにも言わなかった。わたしの顔を見ることすらしなかった。かれは火の上に首をうなだれたまま、おそらく犬がなくなって、これからどうしようか考えているようであった。

ジョリクール<ruby><rb>氏</rb><rt>し</rt></ruby>

夜明けまえの<ruby><rb>予告</rb><rt>よこく</rt></ruby>はちがわなかった。

日がきらきらかがやきだした。その光線は白い雪の上に落ちて、まえの<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>あれほどさびしくどんよりしていた森が、きょうは目がくらむほどのまばゆさをもってかがやき始めた。

たびたび親方はかけ物の下に手をやって、ジョリクールにさわっていたが、このあわれな小ざるはいっこうに温まってこなかった。わたしがのぞきこんでみると、かれのがたがた身ぶるいをする音が聞こえた。

かれの<ruby><rb>血管</rb><rt>けっかん</rt></ruby>の中の血がこおっていたのである。

「とにかく村へ行かなければならない。さもないとジョリクールは死ぬだろう。すぐたつことにしよう」

<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>はよく温まっていた。それで小ざるはその中にくるまれて、親方のチョッキの下のすぐ<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>に当たる所へ入れられた。わたしたちの仕度ができた。

小屋を出て行こうとして、親方はそこらを見回しながら言った。

「この小屋にはずいぶん高い<ruby><rb>宿代</rb><rt>やどだい</rt></ruby>をはらった」

こう言ったかれの声はふるえた。

かれは先に立って行った。わたしはその足あとに<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いた。わたしたちが二、三<ruby><rb>間</rb><rt>げん</rt></ruby>（四～六メートル）行くと、カピを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んでやらなければならなかった。かわいそうな犬。かれは小屋の外に立ったまま、いつまでも鼻を、<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>がおおかみにとられて行った場所に向けていた。

大通りへ出て十分間ほど行くと、とちゅうで馬車に会った。その<ruby><rb>御者</rb><rt>ぎょしゃ</rt></ruby>はもう一時間ぐらいで村に出られると言った。これで元気がついたが、歩くことは<ruby><rb>困難</rb><rt>こんなん</rt></ruby>でもあり苦しかった。雪がわたしのこしまでついた。

たびたびわたしは親方にジョリクールのことをたずねた。そのたんびにかれは、小ざるはまだふるえていると言った。

やっとのことでわたしたちはきれいな村の白屋根を見た。わたしたちはいつも上等な<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>にとまったことはなかった。たいてい行っても追い出されそうもない、<ruby><rb>同勢</rb><rt>どうぜい</rt></ruby><ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らずとめてくれそうな<ruby><rb>木賃宿</rb><rt>きちんやど</rt></ruby>を選んだ。

ところが今度は親方がきれいな<ruby><rb>看板</rb><rt>かんばん</rt></ruby>のかかっている宿屋へはいった。ドアが開いていたので、わたしはきらきら光る<ruby><rb>赤銅</rb><rt>あか</rt></ruby>のなべがかかって、そこから湯気のうまそうに上っている大きなかまどを見ることができた。ああ、そのスープが<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>な旅人にどんなにうまそうににおったことであろう。

親方は<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のもっとも『<ruby><rb>紳士</rb><rt>しんし</rt></ruby>』らしい<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>を用いて、ぼうしを頭にのせたまま、首を後ろにあお向けて、<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>にいいねどこと<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かい火を<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めた。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めは宿屋の亭主もわたしたちに目をくれようともしなかった。けれども親方のもっともらしい様子がみごとにかれを<ruby><rb>圧迫</rb><rt>あっぱく</rt></ruby>した。かれは女中に言いつけて、わたしたちを<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>へ通すようにした。

「早くねどこにおはいり」と親方は女中が火をたいている<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>わたし言った。わたしはびっくりしてかれの顔を見た。なぜねどこにはいるのだろう。わたしはねどこなんかにはいるよりも、すわってなにか食べたほうがよかった。

「さあ早く」

でも親方がくり返した。

<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>するよりほかにしかたがなかった。<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上には鳥の毛のふとんがあった。親方がそれをわたしのあごまで深くかけた。

「少しでも温まるようにするのだ」とかれは言った。「おまえが温まれば温まるほどいいのだ」

わたしの考えでは、ジョリクールこそわたしなんぞよりは早く温まらなければならない。わたしのほうは、いまではもうそんなに寒くはなかった。

わたしがまだ毛のふとんにくるまってあったまろうと<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>を<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>っているとき、親方はジョリクールを<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>くして、まるで<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>し<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>きにして食べるかと思うほど火の上でくるくる回したので、女中はすっかりびっくりした。

「あったまったか」と親方はしばらくしてわたしにたずねた。

「むれそうです」

「それでいい」かれは急いで<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>のそばに来て、ジョリクールをねどこにつっこんで、わたしの<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>にくっつけて、しっかりだいているようにと言った。かわいそうな小ざるは、いつもなら自分のきらいなことをされると<ruby><rb>反抗</rb><rt>はんこう</rt></ruby>するくせに、もういまはなにもかもあきらめていた。かれは見向きもしないで、しっかりだかれていた。けれどもかれはもう<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たくはなかった。かれのからだは<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>けるようだった。

台所へ出かけて行った親方は、まもなくあまくしたぶどう酒を一ぱい持って帰って来た。かれはジョリクールに二さじ三さじ飲ませようと<ruby><rb>試</rb><rt>こころ</rt></ruby>みたけれど、小ざるは<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>を食いしばっていた。かれはぴかぴかする目でわたしたちを見ながら、もうこのうえ自分を<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めてくれるなとたのむような顔をしていた。それからかれはかけ物の下から<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>うでを出して、わたしたちのほうへさし<ruby><rb>延</rb><rt>の</rt></ruby>べた。

わたしはかれの思っていることがわからなかった。それでふしぎそうに親方の顔を見ると、こう<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>してくれた。

わたしがまだ来なかったじぶん、ジョリクールは<ruby><rb>肺炎</rb><rt>はいえん</rt></ruby>にかかったことがあった。それでかれのうでに<ruby><rb>針</rb><rt>はり</rt></ruby>をさして出血させなければならなかった。今度病気になったのを知ってかれはまた<ruby><rb>刺絡</rb><rt>しらく</rt></ruby>（血を出すこと）してもらって、<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>のようによくなりたいと思うのであった。

かわいそうな小ざる。親方はこれだけの<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>で深く感動した。そしてよけい心配になってきた。ジョリクールが病気だということはあきらかであった。しかもひじょうに悪くって、あれほど<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きな<ruby><rb>砂糖</rb><rt>さとう</rt></ruby>入りのぶどう酒すらも受けつけようとはしないのであった。

「ルミ、ぶどう酒をお飲み。そしてとこにはいっておいで」と親方が言った。「わたしは医者を<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んで来る」

わたしもやはり砂糖入りのぶどう酒が好きだということを<ruby><rb>白状</rb><rt>はくじょう</rt></ruby>しなければならない。それにわたしはたいへん<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っていた。それで二度と言いつけられるまも待たず、一息にぶどう酒を飲んでしまうと、また毛ぶとんの中にもぐりこんだ。からだの温かみに、酒まではいって、それこそほとんど息がつまりそうであった。

親方は遠くへは行かなかった。かれはまもなく帰って来た。金ぶちのめがねをかけた<ruby><rb>紳士</rb><rt>しんし</rt></ruby>――お医者を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来た。さるだと聞いては医者が来てくれないかと思って、ヴィタリスは病人がなんだということをはっきり言わなかった。それでわたしがとこの中にはいって、トマトのような赤い顔をしていると、医者はわたしの額が手を当てて、すぐ「<ruby><rb>充血</rb><rt>じゅうけつ</rt></ruby>だ」と言った。

かれはよほどむずかしい病人にでも向かったようなふうで首をふった。

うっかりしてまちがえられて、血でも取られてはたいへんだと思って、わたしはさけんだ。

「まあ、ぼくは病人ではありません」

「病人でない。どうして、この子はうわごとを言っている」

わたしは少し<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>を上げて、ジョリクールを見せた。かれはその小さな手をわたしの首に<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>きつけていた。

「病人はこれです」とわたしは言った。

「さるか」とかれはさけんで、おこった顔をして親方に向かった。「きみはこんな日にさるをみせにわたしを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れ出したか」

親方はなかなか<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>なことでまごつくような、まのぬけた男ではなかった。ていねいにしかも<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>ふうな様子で、医者を引き止めた。それからかれは<ruby><rb>事情</rb><rt>じじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>説明</rb><rt>せつめい</rt></ruby>して、ふぶきの中に<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこめられたことや、おおかみにこわがってジョリクールがかしの木にとび上がったこと、そこで死ぬほどこごえたことを話した。

「病人はたかがさるにすぎないのですが、しかしなんという天才でありますか。われわれにとってどれほどだいじな友だちであり、<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>でありますか。どうしてこれほどのふしぎな<ruby><rb>才能</rb><rt>さいのう</rt></ruby>を持った動物をただの<ruby><rb>獣医</rb><rt>じゅうい</rt></ruby>やなどに<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>されるものではない。村の獣医というものはばかであって、その代わりどんな小さな村でも、医師といえば学者だということはだれだって知っている。医師の<ruby><rb>標札</rb><rt>ひょうさつ</rt></ruby>の出ているドアの<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>びりんをおせば、<ruby><rb>知識</rb><rt>ちしき</rt></ruby>があり<ruby><rb>慈愛</rb><rt>じさい</rt></ruby>深い人にかならず会うことができる。さるは動物ではあるが、<ruby><rb>博物学者</rb><rt>はくぶつがくしゃ</rt></ruby>に<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>えば、かれらはひじょうに<ruby><rb>人類</rb><rt>じんるい</rt></ruby>に近いので、病気などは人もさるも同じようにあつかわれると聞いている。のみならず学問上の立場から見ても、人とさるがどうちがうか、研究してみるのも<ruby><rb>興味</rb><rt>きょうみ</rt></ruby>のあることではないでしょうか」

こういうふうに<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>かれて、医者は行きかけていた戸口からもどって来た。

ジョリクールはたぶんこのめがねをかけた人が医者だということをさとったとみえて、またうでをつき出した。

「ほらね」と親方がさけんだ。「あのとおり<ruby><rb>刺絡</rb><rt>しらく</rt></ruby>していただくつもりでいます」

これで医者の足が止まった。

「ひじょうにおもしろい。なかなかおもしろい<ruby><rb>実験</rb><rt>じっけん</rt></ruby>だ」とかれはつぶやいた。

一とおり<ruby><rb>診察</rb><rt>しんさつ</rt></ruby>して、医者はかわいそうなジョリクールが今度もやはり<ruby><rb>肺炎</rb><rt>はいえん</rt></ruby>にかかっていることを<ruby><rb>告</rb><rt>つ</rt></ruby>げた。医者はさるの手を取って、その<ruby><rb>血管</rb><rt>けっかん</rt></ruby>に少しも苦しませずにランセット（針）をさしこんだ。ジョリクールはこれできっと<ruby><rb>治</rb><rt>なお</rt></ruby>ると思った。<ruby><rb>刺絡</rb><rt>しらく</rt></ruby>をすませて、医者はいろいろと<ruby><rb>薬剤</rb><rt>やくざい</rt></ruby>にそえて注意をあたえた。わたしはもちろんとこの中にはいってはいなかった。親方の言いつけに<ruby><rb>従</rb><rt>したが</rt></ruby>って、<ruby><rb>看護婦</rb><rt>かんごふ</rt></ruby>を<ruby><rb>務</rb><rt>つと</rt></ruby>めていた。

かわいそうなジョリクール。かれは自分を看護してくれるのでわたしを<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>いていた。かれはわたしの顔を見てさびしく<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。かれの顔つきはひじょうに<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しかった。

いつもあれほど、せっかちで、かんしゃく持ちで、だれにもいたずらばかりしていたかれが、それはもうおとなしく<ruby><rb>従順</rb><rt>じゅうじゅん</rt></ruby>であった。

その後毎日、かれはいかにわたしたちをなつかしがっているかを<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>そうと<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めた。それはこれまでたびたびかれのいたずらの<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>であったカピに対してすらそうであった。

<ruby><rb>肺炎</rb><rt>はいえん</rt></ruby>のふつうの<ruby><rb>経過</rb><rt>けいか</rt></ruby>として、かれはまもなくせきをし始めた、この<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>のたびごとに小さなからだがはげくふるえるので、かれはひどくこれを苦しがった。

わたしの持っていたありったけの五スーで、わたしはかれに<ruby><rb>麦菓子</rb><rt>むぎがし</rt></ruby>を買ってやった。けれどこれはよけいかれを悪くした。

かれのするどい<ruby><rb>本能</rb><rt>ほんのう</rt></ruby>で、かれはまもなくせきをするたんびにわたしが麦菓子をくれることに気がついた。かれはそれをいいことにして、自分のたいへん<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きな薬をもらうために、しじゅうせきをした。それでこの薬はかれをよけい悪くした。

かれのこのくわだてをわたしが<ruby><rb>見破</rb><rt>みやぶ</rt></ruby>ると、もちろん<ruby><rb>麦菓子</rb><rt>むぎがし</rt></ruby>をやることをやめたが、かれは弱らなかった。まずかれは<ruby><rb>哀願</rb><rt>あいがん</rt></ruby>するような目つきでそれを<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めた。それでくれないと見ると、かれはとこの上にすわって両手を<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>の上に当てたまま、からだをゆがめて、ありったけの力でせきをした。かれの<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の<ruby><rb>青筋</rb><rt>あおすじ</rt></ruby>がにょきんととび出して、なみだが目から流れた。そしてのどのつまるまねをするのが、しまいには本物になって、もう自分でおさえることができないほどはげしくせきこんだ。

わたしはいつも親方が一人で出て行ったあと、ジョリクールといっしょに<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>に<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていた。ある朝かれが帰って来ると、<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>がとどこおっている<ruby><rb>宿料</rb><rt>しゅくりょう</rt></ruby>を<ruby><rb>要求</rb><rt>ようきゅう</rt></ruby>したことを話した。かれがわたしに金の話をしたのはこれが<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めてであった。かれがわたしの毛皮服を買うために時計を売ったということはほんのぐうぜんにわたしの聞き出したことであって、そのほかにはかれのふところ具合がどんなに苦しいか、ついぞ打ち明けてもらったことはなかったが、今度こそかれはもうわずか五十スーしかふところに<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていないことを話した。

こうなってただ一つ<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>った手だてとしては、今夜さっそく一<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>やるほかにないとかれは考えていた。

ゼルビノもドルスもジョリクールもいない興行。まあ、そんなことができることだろうか、とわたしは思った。

それができてもできなくても、どう少なく<ruby><rb>見積</rb><rt>みつ</rt></ruby>もってもすぐ四十フランという金をこしらえなければならないとかれは言った。ジョリクールの病気は<ruby><rb>治</rb><rt>なお</rt></ruby>してやらなければならないし、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>には火がなければならないし、薬も買わなければならないし、<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>にもはらわなければならない。いったん<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>りている物を返せば、あとはまた<ruby><rb>貸</rb><rt>か</rt></ruby>してもくれるだろう。

この村で四十フラン。この寒空といい、こんなあわれない<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>でなにができよう。

わたしが、ジョリクールといっしょに<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>に待っているあいだに親方がさかり場で一けん見世物小屋を見つけた。なにしろ<ruby><rb>野天</rb><rt>のてん</rt></ruby>で<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>するなんということはこの寒さにできない<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>であった。かれは<ruby><rb>広告</rb><rt>こうこく</rt></ruby>のびらを書いて、ほうぼうにはり出したり、二、三<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>の板でかれは<ruby><rb>舞台</rb><rt>ぶたい</rt></ruby>をこしらえたりした。そして思い切って<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>りの五十スーでろうそくを買うと、それを半分に切って、明かりを二<ruby><rb>倍</rb><rt>ばい</rt></ruby>に使うくふうをした。

わたしたちの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>窓</rb><rt>まど</rt></ruby>から見ていると、かれは雪の中を行ったり来たりしていた。わたしはどんな番組をかれが作るか、心配であった。

わたしはすぐにこの問題を<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>くことができた。というのは、そのとき村の<ruby><rb>広告屋</rb><rt>こうこくや</rt></ruby>が赤いぼうしをかぶってやって来て、<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>の前に止まった。たいこをそうぞうしくたたいたあとで、かれはわれわれの番組を読み上げた。

その<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>を聞いていると、よくもきまりが悪くないと思われるほど親方は思い切って大げさなふいちょうをした。なんでも世界でもっとも高名な<ruby><rb>芸人</rb><rt>げいにん</rt></ruby>が出る――それはカピのことであった――それから『<ruby><rb>希世</rb><rt>きせい</rt></ruby>の天才なる少年歌うたい』が出る。その天才はわたしであった。

それはいいとして、この<ruby><rb>山勘口上</rb><rt>やまかんこうじょう</rt></ruby>で第一におもしろいことは、この<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>に決まった<ruby><rb>入場料</rb><rt>にゅうじょうりょう</rt></ruby>のなかったことであった。われわれは見物の<ruby><rb>義侠心</rb><rt>ぎきょうしん</rt></ruby>に<ruby><rb>信頼</rb><rt>しんらい</rt></ruby>する。見物は<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず見て聞いてかっさいをしたあとで、いくらでもお<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>しだいにはらえばいいというのである。

これがわたしにはとっぴょうしもなくだいたんなやり方に思われた。だれがわたしたちをかっさいする者があろう。カピはたしかに高名になってもいいだけのことはあったけれど、わたしが……わたしが天才だなどとは、どこをおせばそんな<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が出るのだ。

たいこの音を聞くと、カピはほえた。ジョリクールはちょうどひじょうに悪かった<ruby><rb>最中</rb><rt>さいちゅう</rt></ruby>であったが、やはり起き上がろうとした。たいこの音とカピのほえ声を聞くと、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>の始まる知らせであるということをさとったようであった。

わたしは<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>にかれをねどこにおしもどさなければならなかった。するとかれは<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のイギリスの<ruby><rb>大将</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>軍服</rb><rt>ぐんぷく</rt></ruby>――<ruby><rb>金筋</rb><rt>きんすじ</rt></ruby>のはいった赤い上着とズボン、それから<ruby><rb>羽根</rb><rt>はね</rt></ruby>のついたぼうしをくれという合図をした。かれは両手を合わせてひざをついて、わたしにたのみ始めた。いくらたのんでも、なにもしてもらえないとみると、かれはおこって見せた。それからとうとうしまいにはなみだをこぼしていた。かれに向かって、今夜<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>するなんという考えを<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てなければならないことを<ruby><rb>納得</rb><rt>なっとく</rt></ruby>させるには、たいへんな手数のかかることがわかっていた。それよりもかくれて出て行くほうがいいとわたしは思った。

親方が帰って来ると、かれはわたしにハープをしょったり、いろいろ<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>に入りようなものを用意するように言いつけた。それがなんの意味だということを知っているジョリクールは、今度は親方に向かって<ruby><rb>請求</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>を始めた。かれは自分の<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>を表すために苦しい声をしばり出したり、顔をしかめたり、からだを曲げたりするよりいいことはなかった。かれのほおにはほんとうになみだが流れていたし、親方の手におしつけたのは心からのキッスであった。

「おまえも<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>がしたいのか」と親方はたずねた。

「そうですとも」とジョリクールのからだ全体がさけんでいるように思われた。かれは自分がもう病人でないことを<ruby><rb>示</rb><rt>しめ</rt></ruby>すために、とび上がろうとした。でもわたしたちは外へかれを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れ出せば、いよいよかれを<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>すほかはないことをよく知っていた。

わたしたちはもう出て行く<ruby><rb>時刻</rb><rt>じこく</rt></ruby>になった。出かけるまえにわたしは長く持つようにいい火をこしらえて、ジョリクールを<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>の中にすっかりくるんだ。かれはまたさけんで、できるだけの力でわたしをだきしめた。やっとわたしたちは出発した。

雪の中を歩いて行くと、親方はわたしに今夜はしっかりやってもらいたいということを話した。もちろん<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>おも</rt></ruby>な役者たちがいなくなっていては、いつものようにうまくいくはずはなかったが、カピとわたしとでおたがいにいっしょうけんめいにやれるだけはやらなければならなかった。なにしろ四十フラン集めなければならなかった。

四十フラン。おそろしいことであった。できない<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>であった。

親方はいろいろなことを用意しておいたので、わたしたちがすべきいっさいのことはろうそくの火をつけることであった。けれどこれはむやみにつけてしまうこともできない。見物がいっぱいになるまではひかえなければならない。なにしろ<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>のすむまでに明かりがおしまいになるかもしれないのであった。

わたしたちがいよいよ芝居小屋にはいったとき、<ruby><rb>広告屋</rb><rt>こうこくや</rt></ruby>はたいこをたたいて、<ruby><rb>最後</rb><rt>さいご</rt></ruby>にもう一度村の<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>を一めぐりめぐり歩いていた。

カピとわたしの仕度ができてから、わたしは外へ出て、柱の後ろに立って見物の来るのを待っていた。

たいこの音はだんだん高くなった。もうそれはさかり場に近くなって、ぶつぶつ言う人の声も聞こえた。たいこのあとからは子どもがおおぜい調子を合わせてついて来た。たいこを打ちやめることなしに、<ruby><rb>広告屋</rb><rt>こうこくや</rt></ruby>は<ruby><rb>芝居小屋</rb><rt>しばいごや</rt></ruby>の入口にともっている二つの大きなかがり火のまん中に<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>をしめた。こうなると見物はただ、中にはいって<ruby><rb>場席</rb><rt>ばせき</rt></ruby>を取れば、<ruby><rb>芝居</rb><rt>しばい</rt></ruby>は始められるのであった。

おやおや、いつまで見物の行列は手間を取ることであろう。それでも戸口のたいこはゆかいそうにどんどん鳴り<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けていた。村じゅうの子どもは<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>らず集まっているにちがいなかった。けれど四十フランの金をくれるものは子どもではなかった、ふところの大きい、物おしみをしない<ruby><rb>紳士</rb><rt>しんし</rt></ruby>が来てくれなければならなかった。

とうとう親方は始めることに決心した。でも小屋はとてもいっぱいになるどころではなかった。それでもわたしたちはろうそくというやっかいな問題があるので、このうえ長くは待てなかった。

わたしはまずまっ先に<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>れて、ハープにつれて二つ三つ歌を歌わなければならなかった。正直に言えばわたしが受けたかっさいはごく<ruby><rb>貧弱</rb><rt>ひんじゃく</rt></ruby>だった。わたしは自分を<ruby><rb>芸人</rb><rt>げいにん</rt></ruby>だとはちっとも思ってはいなかったけれど、見物のひどい<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>さがわたしをがっかりさせた。わたしがかれらをゆかいにしえなかったとすると、かれらはきっとふところを開けてはくれないであろう。わたしはわたしが歌った<ruby><rb>名誉</rb><rt>めいよ</rt></ruby>のためではなかった。それはあわれなジョリクールのためであった。ああ、わたしはどんなにこの見物を<ruby><rb>興奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>させ、かれらを<ruby><rb>有頂天</rb><rt>うちょうてん</rt></ruby>にさせようと<ruby><rb>願</rb><rt>ねが</rt></ruby>っていたことだろう……けれども<ruby><rb>見物席</rb><rt>けんぶつせき</rt></ruby>はがらがらだったし、その少ない見物すら、わたしを『<ruby><rb>希世</rb><rt>きせい</rt></ruby>の天才』だと思っていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。

でもカピは<ruby><rb>評判</rb><rt>ひょうばん</rt></ruby>がよかった。かれはいく度もアンコールを受けた。カピのおかげで<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>が<ruby><rb>割</rb><rt>わ</rt></ruby>れるようなかっさいで終わった。かれらは両手をたたいたばかりでなく、<ruby><rb>足拍子</rb><rt>あしびょうし</rt></ruby>をふみ鳴らした。

いよいよ勝負の決まるときが来た。カピはぼうしを口にくわえて、見物の中をどうどうめぐりし始めた。そのあいだわたしは親方の<ruby><rb>伴奏</rb><rt>ばんそう</rt></ruby>でイスパニア<ruby><rb>舞踏</rb><rt>ぶとう</rt></ruby>をおどった。カピは四十フラン集めるであろうか。見物に向かってはありったけのにこやかな<ruby><rb>態度</rb><rt>たいど</rt></ruby>を示しながら、この問題がしじゅうわたしの<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>を打った。

わたしは息が切れていた。けれどカピが帰って来るまではやめないはずであったから、やはりおどり<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。かれはあわてなかった。一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>の<ruby><rb>銀貨</rb><rt>ぎんか</rt></ruby>ももらえないとみると、前足を上げてその人のかくしをたたいた。

いよいよかれが帰って来そうにするのを見て、もうやめてもいいかと思ったけれど、親方はやはりもっとやれという目くばせをした。

わたしはおどり<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。そして二足三足カピのそばへ行きかけて、ぼうしがいっぱいになっていないことを見た。どうしていっぱいになるどころではなかった。

親方はやはりみいりの少ないのを見ると、立ち上がって、見物に向かって頭を下げた。

「<ruby><rb>紳士</rb><rt>しんし</rt></ruby>ならびに<ruby><rb>貴女</rb><rt>きじょ</rt></ruby>がた。じまんではございませんが、<ruby><rb>本夕</rb><rt>ほんせき</rt></ruby>はおかげさまをもちまして、番組どおりとどこおりなく<ruby><rb>演</rb><rt>えん</rt></ruby>じ終わりましたとぞんじます。しかしまだろうそくの火も<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>えつきませんことゆえ、みなさまのお<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>みに<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せ、今度は一番てまえが歌を歌ってお聞きに入れようと思います。いずれ<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>のカピ<ruby><rb>丈</rb><rt>じょう</rt></ruby>はもう一度おうかがいにつかわしますから、まだご<ruby><rb>祝儀</rb><rt>しゅうぎ</rt></ruby>をいただきませんかたからも、今度はたっぷりいただけますよう、まえもってご用意を<ruby><rb>願</rb><rt>ねが</rt></ruby>いたてまつります」

親方はわたしの先生ではあったが、わたしはまだほんとうにかれの歌うのを開いたことはなかった。いや、少なくともその<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>歌ったように歌うのを開いたことがなかった。かれは二つの歌を<ruby><rb>選</rb><rt>えら</rt></ruby>んだ。一つはジョセフの物語で、一つはリシャール<ruby><rb>獅子王</rb><rt>ししおう</rt></ruby>の歌であった。

わたしはほんの子どもであったし、歌のじょうずへたを聞き分ける力がなかったが、親方の歌はみょうにわたしを動かした。かれの歌を聞いているうちに、目にはなみだがいっぱいあふれたので、<ruby><rb>舞台</rb><rt>ぶたい</rt></ruby>のすみに引っこんでいた。

そのなみだの<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>の中から、わたしは、前列のこしかけにすわっていた<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>いおくさんがいっしょうけんめい手をたたいているのを見た。わたしはまえから、この人が一人、今夜小屋に集まった<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>たちとちがっていることを見つけた。かの女は<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>い美しい<ruby><rb>貴婦人</rb><rt>きふじん</rt></ruby>で、そのりっぱな毛皮の上着だけでもこの村一番の金持ちにちがいないとわたしは思った。かの女はいっしょに子どもを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れていた。その子もむちゅうでカピにかっさいしていた。ひじょうによく<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>ているところを見れば、それはかの女のむすこであった。

<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めの歌がすむと、カピはまたどうどうめぐりをした。ところがそのおくさんはぼうしの中になにも入れなかったのを見て、わたしはびっくりした。

親方が第二の曲をすませたとき、かの女は<ruby><rb>手招</rb><rt>てまね</rt></ruby>きをしてわたしを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。

「わたし、あなたの親方さんとお話ししたいんですがね」とかの女は言った。

わたしはびっくりした。（そんなことよりもなにかぼうしの中へ入れてくれればいい）とわたしは思った。カピはもどって来た。かれは二度目のどうどうめぐりでまえよりももっとわずか集めて来た。

「あの<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>がなにか用があると言うのか」と親方がたずねた。

「あなたにお話がしたいそうです」

「わたしはなにも話すことなんかない」

「あの人はなにもカピにくれませんでした。きっといまそれをくれようというんでしょう」

「じゃあ、カピをやってもらわせればいい。わたしのすることではない」

そうは言いながら、かれは行くことにして、犬を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行った。わたしもかれらのあとに<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いた。そのとき一人の<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>（下男）が出て来て、ちょうちんと<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>を持って来た。かれは<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>と子どものわきに立っていた。

親方は<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>に<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>にあいさつをした。

「おじゃまをしてすみませんでした。けれどわたくし、お<ruby><rb>祝</rb><rt>いわ</rt></ruby>いを申し上げたいと思いました」

でも親方は一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>も言わずに、ただ頭を下げた。

「わたくしも音楽の道の者でございますので、あなたの<ruby><rb>技術</rb><rt>ぎじゅつ</rt></ruby>の天才にはまったく感動いたしました」

技術の天才。うちの親方が。大道の歌うたい、犬使いの<ruby><rb>見世物師</rb><rt>みせものし</rt></ruby>が。わたしはあっけにとられた。

「わたしのような<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いぼれになんの<ruby><rb>技術</rb><rt>ぎじゅつ</rt></ruby>がありますものか」とかれは<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>に答えた。

「うるさいやつとおぼしめすでしょうが」と<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>はまた始めた。

「なるほどあなたのようなまじめなかたの<ruby><rb>好奇心</rb><rt>こうきしん</rt></ruby>を<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>させてあげましたことはなによりです」とかれは言った。「犬使いにしては少し歌が歌えるというので、あなたはびっくりしておいでだけれど、わたしはむかしからこのとおりの人間ではありませんでした。これでも<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>いじぶんにはわたしは……いや、ある大音楽家の<ruby><rb>下男</rb><rt>げなん</rt></ruby>でした。まあおうむのように、わたしは主人の口まねをして<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えたのですね。それだけのことです」

<ruby><rb>婦人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>は答えなかった。かの女は親方の顔をまじまじと見た。かれもつぎほのないような顔をしていた。

「さようなら、あなた」とかの女は外国なまりで言って、「あなた」ということばに力を入れた。

「さようなら。それからもう一度今夜味わわせていただいた、このうえないゆかいに対してお礼を申し上げます」こう言ってカピのほうをのぞいて、ぼうしに<ruby><rb>金貨</rb><rt>きんか</rt></ruby>を一<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>落とした。

わたしは親方がかの女を戸口まで送って行くだろうと思ったけれど、かれはまるでそんなことはしなかった。そしてかの女がもう答えない所まで遠ざかると、わたしはかれがそっとイタリア語で、ぶつぶこごとを言っているのを聞いた。

「あの人はカピに一ルイくれましたよ」とわたしは言った。そのときかれは<ruby><rb>危</rb><rt>あぶ</rt></ruby>なくわたしにげんこを一つくれそうにしたけれど、上げた手をわきへ<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らした。

「一ルイ」とかれはゆめからさめたように言った。「ああ、そうだ、かわいそうに、ジョリクールはどうしたろう。わたしは<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れていた。すぐ行ってやろう」

わたしはそうそうに切り上げて、<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>へ帰った。

わたしはまっ先に<ruby><rb>宿屋</rb><rt>やどや</rt></ruby>のはしごを上がって<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>へはいった。火は消えてはいなかったが、もうほのおは立たなかった。

わたしは手早くろうそくをつけた。ジョリクールの声がちっともしないので、わたしはびっくりした。

やがてかれが<ruby><rb>陸軍大将</rb><rt>りくぐんたいしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>軍服</rb><rt>ぐんぷく</rt></ruby>を着て、手足をいっぱいにつっぱったまま、<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>の上に横になっているのを見た。かれはねむっているように見えた。

わたしはからだをかがめて、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくかれの手を取って引き起こそうとした。

その手はもう<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たかった。

親方がそのとき部屋にはいって来た。

わたしはかれのほうを見た。

「ジョリクールが<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たいんですよ」とわたしは言った。

親方はそばへ来て、やはりとこの上にのぞきこんだ。

「死んだのだ」とかれは言った。「こうなるはずであった。ルミや、おまえをミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>の所から<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来たのは悪かった。わたしは<ruby><rb>罰</rb><rt>ばっ</rt></ruby>せられたのだ。ゼルビノ、ドルス、それから今度はジョリクール……だがこれだけではすむまいよ」

パリ入り

まだパリからはよほどはなれていた。

わたしたちは雪でうずまった道をどこまでも歩いて行かなければならなかった。朝から<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>まで北風に顔を打たれながら、とぼとぼ歩いて行かなければならなかった。

この長いさすらいの旅はどんなにつらかったろう。親方が先に立って歩く。<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いてわたし、その後からカピがついて来た。こうして一列になって、わたしたちは何時間も、何時間も、ひと言も口をきかずに、寒さで血の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>のなくなった顔をして、ぬれた足と空っぽな<ruby><rb>胃</rb><rt>い</rt></ruby>ぶくろをかかえて歩き<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。とちゅうで行き会う人はふり返って、わたしたちの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>が見た。まさしくかれらはきみょうに思ったらしかった。このじいさんは、子どもと犬をどこへ<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行くのであろう。

<ruby><rb>沈黙</rb><rt>ちんもく</rt></ruby>はわたしにとって、つらくもあり悲しくも思われた。わたしはしきりと話をしたかったけれど、やっと口を切ると、親方はぷっつり手短に答えて、顔をふり向けもしなかった。うれしいことにカピはもっと人づき（人づき合い）がよかった。それでわたしが足を引きずり引きずり歩いて行くと、ときどきかれのぬくい<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>が手にさわった。かれはあたかもお友だちのカピがここについていますよというように、<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しくなめてくれた。そこでわたしもさすり返してやった。わたしたちはおたがいに心持ちをさとり合った。おたがいに<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>し合っていた。

わたしにとっては、これがなによりのたよりであったし、カピもそれをせめてものなぐさめとしているらしかった。物に感ずる心は犬の心も子どもの心もさしてちがいがなかった。

こうしてわたしがカピをかわいがってやると、カピもそれになぐさめられて、いくらかずつ<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>をなくした悲しみをまぎらしてゆくようであった。でも<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>の力はえらいもので、ときどき立ち止まっては、<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>の<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>が後から来るのを待ちうけるふうであった。それはかれが<ruby><rb>以前</rb><rt>いぜん</rt></ruby>一座の部長であったとき、座員を前にやり<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごして、いちいち<ruby><rb>点呼</rb><rt>てんこ</rt></ruby>する<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>があったからである。けれどそれもほんの数秒時間のことで、すぐ思い出すと、もうだれも後から来るはずがないと思ったらしく、すごすご後から追い着いて来て、ドルスもゼルビノも来ませんが、それでやはりちがってはいないのですというように親方をながめるのであった。その目つきには<ruby><rb>感情</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>とちえがあふれていて、見ていると、こちらも引き入れられるように思うのであった。

こんなことは、ちっとも旅行をゆかいにするものではなかったが、わたしたちの気をまぎらす<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>にはなった。

行く先ざきの<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>はまっ白な雪でおおわれて、空には日の光も見えなかった。いつも青白い<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>色の空であった。<ruby><rb>畑</rb><rt>はた</rt></ruby>をうつ<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>のかげも見えなかった。馬のいななきも聞こえなければ、牛のうなりも聞こえなかった。ただ食に<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えたからすが、こずえの上で虫を<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>しあぐねて悲しそうに鳴いていた。村で戸を開けているうちはなくって、どこもしんと<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>まり返っていた。なにしろ寒気がひどいので、人間は<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のすみにちぢかまっているか、牛小屋や<ruby><rb>物置</rb><rt>ものお</rt></ruby>き<ruby><rb>小屋</rb><rt>ごや</rt></ruby>でこそこそ仕事をしていた。

でこぼこな、やたらにすべる道をまっしぐらにわたしたちは進んで行った。

夜はうまややひつじ小屋で一きれのパン、<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>にはじつに少ない一きれのパンを食べてねむった。その一きれが昼飯と晩飯をかねていた。

ひつじ小屋に明かすことのできるのは、中での楽しい<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>であった。ちょうど<ruby><rb>雌</rb><rt>め</rt></ruby>ひつじが子どもに<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>を飲ませる<ruby><rb>時節</rb><rt>じせつ</rt></ruby>で、ひつじ<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>いのうちには、ひつじの乳をかってにしぼって飲むことを<ruby><rb>許</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してくれる者もあった。でもわたしたちはひつじ飼いに向かっていきなり、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>って死にそうだとも話しえなかったけれど、親方は<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のうまい口調でそれとなしに、「この子どもはたいへんひつじの<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>が<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きなのですよ。それというのが赤子のじぶん飲みつけていたものですから、それでよけい子どものじぶんが思い出されるとみえます」というように言うのであった。この作り話の<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>がいつもあるわけではなかったが、たまにそれが当たるといい<ruby><rb>一晩</rb><rt>ひとばん</rt></ruby>が<ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ごされた。そうだ、わたしはほんとにひつじの<ruby><rb>乳</rb><rt>ちち</rt></ruby>を<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>いていた。だからこれがもらえると、そのあくる日はずっと、元気になったように感じた。

パリに近づくにしたがって、いなか道がだんだん美しくなくなるのが、きみょうに思われた。もう雪も白くはないし、かがやいてもいなかった。わたしはどんなにかパリをふしぎな国のように言い聞かされていたことであろう。そしてなにかとっぴょうしもないことが始まると思っていた。それがなんであるか、はっきりとは知らなかった。わたしは黄金の木や、大理石の町や玉でかざったご<ruby><rb>殿</rb><rt>てん</rt></ruby>がそこにもここにも<ruby><rb>建</rb><rt>た</rt></ruby>っていても、ちっともおどろきはしなかったであろう。

われわれのようなびんぼう人がパリへ行って、いったいなにができるのであろう。わたしはしじゅうそれが気になりながら、それを親方に聞く<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>がなかった。かれはずいぶんしずみきってふきげんらしかった。

けれどある日とうとうかれのほうからわたしのほうへ近づいて来た。そしてかれのわたしを見る目つきで、このごろしじゅう知りたいと思っていたことを知ることができそうだと感じた。

それはある大きな村から遠くない<ruby><rb>百姓家</rb><rt>ひゃくしょうや</rt></ruby>にとまった朝のことであった。その村はブアシー・セン・レージェという名であることは、<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の<ruby><rb>標柱</rb><rt>ひょうちゅう</rt></ruby>でわかった。

さてわたしたちは日の出ごろ<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>をたって、<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>のへいに<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って、そのブアシー・セン・レージェの村を通りぬけて、とある坂の上にさしかかった。その坂のてっぺんから見下ろすと、目の前には<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>てしもなく大きな町が開けて、いちめんもうもうと立ち上がった黒けむりの中に、所どころ<ruby><rb>建物</rb><rt>たてもの</rt></ruby>のかげが見えた。

わたしはいっしょうけんめい目を<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>って、けむりやかすみの中にぼやけている屋根や<ruby><rb>鐘楼</rb><rt>しょうろう</rt></ruby>や<ruby><rb>塔</rb><rt>とう</rt></ruby>などのごたごたした正体を見きわめようと<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めていたとき、ちょうど親方がやって来た。ゆるゆると歩いて来ながら、いままでの話のあとを<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けるというふうで、

「これからわたしたちの身の上も<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わってくるよ。もう四時間もすればパリだから」と言った。

「へえ、ではあすこに遠く見えるのが、パリなんですか」とわたしは問うた。

「うん」

親方がそう言って指さしをしたとき、ちょうど日がかっとさして、ちらりと<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>にかがやく光が目にはいったように思った。

まったくそのとおりであった。やがて黄金の木を見つけるであろう。

「わたしたちはパリへ行ったら<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れようと思う」とかれはとつぜん言った。

すぐに空はまた<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>くなった。黄金の木は見えなくなった。わたしは親方に目を向けた。かれもまたわたしを見た。わたしの青ざめた顔色とふるえるくちびるとは、わたしの心の中のあらしをはっきりと<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>していた。

「おまえ、心配しているとみえるね。悲しいか。わたしにはわかっているよ」

「<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるんですって」わたしはやっとつぶやいた。

「ああそうだよ。別れなければね」

こう言ったかれの調子がわたしの目になみだをさそった。もう<ruby><rb>久</rb><rt>ひさ</rt></ruby>しくわたしはこんな<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいことばを聞かなかった。

「ああ、あなたはじつにいい人です」とわたしはさけんだ。

「いや、いい子はおまえだよ。じつに親切ないい子だ。人間は一生にしみじみ人の親切を感ずるときがあるものだ。何事もよくいっているときには、だれが自分といっしょにいるか、ろくろく考えることなしに世の中を通って行く。けれど物事がちょいちょいうまくいかなくなり、悪いはめには落ちてくるし、とりわけ人間が年を取ってくると、だれかにたよりたくなるものだ。わたしがおまえにたよると聞いたら、びっくりするかもしれないが、でもそれはまったくだよ。ただおまえがわたしのことばを聞き、わたしをなぐさめてくれて、なみだを流してくれると、わたしはたまらないほどうれしい。わたしも<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せな人間であったよ」

わたしはなんと言っていいかわからなかった。わたしはただかれの手をさすった。

「しかも<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふこう</rt></ruby>なことには、わたしたちはおたがいのあいだがだんだん近づいてこようというじぶんになって、<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れなければならないのだ」

「でもあなたはわたしをたった一人パリへ<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てて行くのではないでしょう」とわたしはこわごわたずねた。

「いいや、けっしてそんなことはない。おまえはこの大きな町で自分一人なにができよう。わたしはおまえを捨てる<ruby><rb>権利</rb><rt>けんり</rt></ruby>がないのだ。それは<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えておいで。わたしはあの<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しいおくさんが、おまえを引き取って自分の子にして育てようというのを、聞かなかった。あの日からわたしはおまえのためにできるだけつくしてやる<ruby><rb>義務</rb><rt>ぎむ</rt></ruby>ができたのだ。だがわたしはいまの場合、なにもしてやることができない。それでわたしは<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるのがいちばんいいと考えたわけだ。それもほんのしばらくのあいだだ。わたしたちはこの<ruby><rb>時候</rb><rt>じこう</rt></ruby>の悪い二、三か月だけも<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れているほうがいいのだ。カピのほかみんないなくなってしまった<ruby><rb>一座</rb><rt>いちざ</rt></ruby>では、パリにいてもなにができよう」

かれの名が出ると、かわいいカピはわたしたちのそばへやって来た。かれは前足を右の耳の所へ上げて、<ruby><rb>軍隊</rb><rt>ぐんたい</rt></ruby>風の<ruby><rb>敬礼</rb><rt>けいれい</rt></ruby>をして、それを<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いて、あたかもわたしたちはかれの<ruby><rb>誠実</rb><rt>せいじつ</rt></ruby>に<ruby><rb>信頼</rb><rt>しんらい</rt></ruby>することができるというようであった。親方は犬の頭に<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく手を当てそれをおさえた。

「そうだよ。おまえは<ruby><rb>善良</rb><rt>ぜんりょう</rt></ruby>な<ruby><rb>忠実</rb><rt>ちゅうじつ</rt></ruby>な友だちだ。けれど<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないことにはほかのものがいないでは、もうたいしたことはできないのだ」

「でもわたしのハープは……」

「わたしもおまえのような子どもが二人あれば、うまくゆくのだ。けれど<ruby><rb>老人</rb><rt>ろうじん</rt></ruby>がたった一人、男の子を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れたのでは、ろくなことはない。わたしはまだ<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いくちたというのでもない。まあいっそめくらになるか、足の<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>でも<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れてくれればいいのだ。だがまだわたしは人びとの足を止めさせ、目をつけさせるほど<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けないありさまにもなってはいない。それにお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>救助</rb><rt>きゅうじょ</rt></ruby>を受けるようなはずかしいことはできない。そこでわたしはおまえを冬の終わりまで、ある親方の所へやろうと心を決めた。親方はおまえをほかの子どもたちの<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>に入れてくれるだろう。そこでおまえはハープをひけばいいのだ」

「そうしてあなたは」とわたしはたずねた。

「わたしはパリでは顔を知られている。たびたびこちらへは来ていたことがある。このまえおまえの村へ行ったときも、パリから行ったのだ。大道でハープやヴァイオリンをひくイタリアの子どもらにけいこをしてやる。わたしはただ<ruby><rb>広告</rb><rt>こうこく</rt></ruby>をさえすれば<ruby><rb>欲</rb><rt>ほ</rt></ruby>しいだけの<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>は集まるのだ。そこでそのあいだにゼルビノとドルスの代わりになる犬を二ひきしこもうと思う。それから春になってルミ、またいっしょに出かけようよ。まあ当分は<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>と<ruby><rb>忍耐</rb><rt>にんたい</rt></ruby>が<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>だ。わたしたちはこれまでちょうどつごうの悪い、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>時節</rb><rt>じせつ</rt></ruby>ばかり通って来た。春になればだんだん<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>も楽になる。そこでわたしはおまえを<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて、ドイツとイギリスを回るつもりだ。そのうちおまえも大きくなるし、考えも進んでくる。わたしはおまえにたくさんのことを教えて、りっぱな人間にしてやる。わたしはそれをミリガン<ruby><rb>夫人</rb><rt>ふじん</rt></ruby>とやくそくした。おまえにイギリス語を教えだしたのもそのわけだ。おまえはフランス語とイタリア語を話すことができる。これはおまえの年ごろの子どもとしてはえらいことだ。おまえはからだもじょうぶだし、どうしてこの先、運の開ける<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みはじゅうぶんある」

たぶん親方がこう言ってわたしのために計画してくれたことは、みんないちばんいいことにちがいなかった。けれどそのときにはわたしはただ二つのことだけしか考えられなかった。

わたしたちは<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れなければならない。そしてわたしはよその親方の所へ行かなければならない。

<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>のあいだにわたしはいくたりかの親方に会ったが、いつもほうぼうからやとい入れて使っている子どもたちをひどく打ったりたたいたりする者が多かった。かれらはひじょうに<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>であった。ひどく口ぎたなかったり、いつも<ruby><rb>酔</rb><rt>よ</rt></ruby>っぱらっていた。わたしはそういうおそろしい人間の一人に使われなければならないのであろうか。

それでもし運よく親切な親方に当たるとしても、これはまた一つの<ruby><rb>変化</rb><rt>へんか</rt></ruby>であった。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めが<ruby><rb>養母</rb><rt>ようぼ</rt></ruby>、それから親方、それからまた一人――それはいつでもこうなのであろうか。わたしはいつまでもその人を<ruby><rb>愛</rb><rt>あい</rt></ruby>して、その人といっしょにいることのできる<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>を見つけることができないのであろうか。

だんだんわたしは親方に引きつけられるようになっていた。かれはほとんど父親というものはこんなものかとわたしに思わせた。

でもわたしはほんとうの父親を持つことがないのだ。うちを持つことがないのだ。この広い世界に、いつも<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りぼっちなのだ。だれの子でもないのだ。

わたしにも言うことはあった。だが親方は「<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>を持て」とわたしに<ruby><rb>求</rb><rt>もと</rt></ruby>めた。わたしはこのうえかれに<ruby><rb>苦労</rb><rt>くろう</rt></ruby>を<ruby><rb>加</rb><rt>くわ</rt></ruby>えることを<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>まなかった。けれどつらいことであった。かれと<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるのはまったくつらいことであった。

かれも重ねてわたしに<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きつかれるのがうるさいと思ったように、かまわずどんどん歩きだした。わたしは引きずられるようにして後に<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いた。

わたしはその後について行くと、まもなく橋をわたって川をこした。その橋はこのうえなくきたなくって、どろが深く<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もっていた。その上を黒い石炭くずのような雪がかぶさって、そこにふみこむとくるぶしまでずぶりとはいった。

橋のたもとからは、村<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>きでせまい<ruby><rb>宿場</rb><rt>しゅくば</rt></ruby>があった。村がつきると、また野原になって、野原にはこぎたない家が<ruby><rb>散</rb><rt>ち</rt></ruby>らばっていた。<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>には荷車がしじゅう行ったり来たりしていた。わたしは、親方の右手に<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>りそって歩いた。カピは後からついて来た。

いよいよ野原がおしまいになって、わたしたちは<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>てしのない長い町の中にはいった。<ruby><rb>両側</rb><rt>りょうがわ</rt></ruby>には見わたすかぎり家が<ruby><rb>建</rb><rt>た</rt></ruby>てこんでいた。それもボルドーや、ツールーズや、リヨンなどに<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べては、ずっとびんぼうらしいあわれな<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>ばかりであった。

雪がほうぼうにうず高く<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>み上げられていて、黒く<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>まったかたまりの上に、<ruby><rb>灰</rb><rt>はい</rt></ruby>やくさった<ruby><rb>野菜</rb><rt>やさい</rt></ruby>や、いろいろのきたない<ruby><rb>廃物</rb><rt>はいぶつ</rt></ruby>が投げ<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>てられてあった。空気はいやなにおいにむせるようであった。その中を荷車がごろごろ通って行くが、人びとはそれをうまくかわしかわし歩いていた。

「ここはどこです」とわたしは言った。

「パリだよ」

どこに大理石のうちがあるか。それから黄金の木が。そしてりっぱに着かざった人たちが。これが見たい見たいとあこがれていたパリであったか。わたしはこんな場所で、親方に<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れて……カピに別れて、この冬じゅうくらさなければならなかったのか。

ルールシーヌ<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の親方

いま、わたしのぐるりを<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>巻</rb><rt>ま</rt></ruby>いているものは、気味の悪いものばかりであったが、わたしはいっしょうけんめい<ruby><rb>好奇</rb><rt>こうき</rt></ruby>のの目を<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>って新しい<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>を見回した。そのためにいまの身の上にさしせまっただいじのことは<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れるくらいであった。

パリの町の中に深くはいればはいるほど、見るものごとにわたしの<ruby><rb>幼</rb><rt>おさな</rt></ruby>い<ruby><rb>夢想</rb><rt>むそう</rt></ruby>とだんだんへだたるようになった。こおりついたみぞからは、なんともいえないくさいいきれが立っていた。雪と氷がいっしょにとけて<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>まったいうす黒いどろが、荷車の<ruby><rb>輪</rb><rt>わ</rt></ruby>にはねとばされて、そこらの小店のガラス戸に<ruby><rb>厚板</rb><rt>あついた</rt></ruby>のようにへばりついていた。<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かにパリはボルドーにもおよばなかった。

これまで通って来た町に<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べては、だいぶんりっぱな広い町で、いくらかきれいな店もならんだ通りを長いこと歩いて、親方はついと右へ曲がると、急にみすぼらしい町に出た。高い黒い家のならんだまん中に、<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>のいやなにおいのするどぶがあった。たくさんある<ruby><rb>居酒屋</rb><rt>いざかや</rt></ruby>の店先で、おおぜいの男女ががやがや言いながら、お酒を飲んでいた。

町の角には、ルールシーヌ<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>と書いた<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>が打ってあった。

親方は<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>を知っているらしくせまい通りにこみ合う<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の人の<ruby><rb>群</rb><rt>む</rt></ruby>れを分けて進んだ。わたしはそのそばに<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>りそって歩いた。

「おい、気をつけて、わたしの<ruby><rb>姿</rb><rt>すたが</rt></ruby>を<ruby><rb>見失</rb><rt>みうしな</rt></ruby>わないように」と親方が注意した。けれどかれの注意は<ruby><rb>必要</rb><rt>ひつよう</rt></ruby>がなかった。なぜといって、わたしはかれの後にくっついて歩いたうえ、おまけにかれの上着のすそをしっかりとおさえていたのであった。

わたしたちは大きな路地をつっ切って、もう一日じゅう日の光がけっしてもれたことのないような、きたならしい、じめじめした一けんの家にはいった。それはこれまでわたしの見たかぎりのいちばんひどい家であった。

「ガロフォリさんはいるかね」と親方が、ランプの光で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼろ</span>をドアにぶら下げていた男にたずねた。

「知らねえや。上がって見て来い」とその男はうなった。「はしごだんのいちはんてっぺんだ。それおまえの鼻っ先に見えてるじゃないか」

「ガロフォリというのは、ルミ、おまえに話した親方だよ。ここが住まいだ」<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>を上がりながら親方はこう言った。その<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>は<ruby><rb>厚</rb><rt>あつ</rt></ruby>いどろがこちこちに<ruby><rb>積</rb><rt>つ</rt></ruby>もって、ややもするとすべって足を取られそうになった。<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>といい、家といい、はしご<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>といい、いよいよわたしを安心させる<ruby><rb>性質</rb><rt>せいしつ</rt></ruby>のものではなかった。いったい今度の親方というのはどんな男であろう。

四階のてっぺんに上がって、ドアをたたくことなしに親方はすぐ前のドアをおし開けて、<ruby><rb>穀物倉</rb><rt>こくもつぐら</rt></ruby>のような大きな<ruby><rb>屋根裏</rb><rt>やねうら</rt></ruby>の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいった。部屋のまん中はがらんとしていて、四方のかべにぐるりと<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>みんなで十二ならべてあった。一度は白かったことのあるかべと天井が、いまではけむりとすすとちりでよごれきって、なんとも知れない色をしていた。かべの上にはすみで人間の首だの、花や鳥だのが落書きしてあった。

「ガロフォリさん、いるのかい」と親方がたずねた。「あんまり暗くってだれも見えない。ヴィタリスだよ」

かべにかけたうす暗いランプの明かりですかすと、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはだれもいないらしかった。すると弱いのろのろした声が、親方のことばに答えた。

「ガロフォリさんは出かけましたよ。二時間ほどしなければ帰りませんよ」

こう言いながら十三ばかりの子どもが出て来た。わたしはその子のきみょうな様子におどろいた。いまでもそのとき見たとおりを目にうかべることができる。いわば<ruby><rb>胴体</rb><rt>どうたい</rt></ruby>がなくって、足からすぐ首が生えているように見えた。その大きな頭は、まるでつり合いもなにもとれていなかった。そんなふうなからだつきでけっしてりっぱとは言えなかったが、その顔にはしかしきみょうに人をひきつけるものがあった。悲しみと<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しみの<ruby><rb>表情</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>、そしてそれから……たよりなげな表情であった。かれの大きな目は<ruby><rb>同情</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>をふくんで、<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の目をひきつけずにはおかないのであった。

「<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに二時間すれば帰って来るのかね」と親方がたずねた。

「確かですよ。もう<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>の時間ですからね。ここで食べるのはガロフォリさんばかりですから」

「そうかい。もしそのまえに帰って来たら、ヴィタリスという人が来て、二時間たつとまた来ると言って帰ったと言ってください」

「かしこまりました」

わたしも親方について行こうとすると、かれはわたしを止めた。

「おまえはここにおいで」とかれは言った。「少し休んでいるがいい」

「…………」

「おお、わたしは帰って来るよ」とかれはわたしの心配そうな顔つきを見て安心させるようにまた言った。わたしは<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の<ruby><rb>服従</rb><rt>ふくじゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>習慣</rb><rt>しゅうかん</rt></ruby>から、それをいやとは言えなかった。

「きみはイタリア人かい」

親方の重い足音がもうはしご<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>の上に聞こえなくなったときに、イタリア語で子どもがたずねた。親方といっしょにいるあいだにわたしはイタリア語がぽつぽつわかっていたが、まだ自由には使えなかった。

「いいえ」と、わたしはフランス語で答えた。

「おやおや、つまらないなあ。きみがイタリアだといいんだがなあ」とかれは大きな目で見ながら、ほんとにつまらなそうに言った。

「きみはどこ」

「リュッカだよ。きみもそうだと、いろいろ聞きたいと思ったのだ」

「ぼくはフランス人です」

「そう、それはいいね」

「おや、きみはイタリア人よりも、フランス人のほうが<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きなの」

「おお、そうじゃない。ぼくがそれはいいねと言ったのは、きみのことを考えて言ったのだ。だってきみがイタリア人だったら、きっとガロフォリ親方に使われにここへやって来たのだろうから、そうすると気のどくだと思ってね」

「じゃあ、あの人悪い人なんですか」

子どもは答えなかった。けれどわたしにあたえた目つきはことばよりも多くを語った。かれはこの話を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けるのを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まないように<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のほうへ行った。炉のたなの上に大きななべがあった。わたしは火に当たろうと思ってそばへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、このなべがなんだか<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>わった形をしているのに気がついた。なべのふたにはまっすぐな<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>がつき出して、<ruby><rb>蒸気</rb><rt>じょうき</rt></ruby>がぬけるようになっていた。そのふたはちょうつがいになっていて、一方には<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>がかかっていた。

「なぜ錠ががかっているの」と、わたしはふしぎそうにたずねた。

「ぼくがスープを飲まないようにさ。ぼくはなべの番を言いつかっているけれど、親方はぼくを<ruby><rb>信用</rb><rt>しんよう</rt></ruby>しないのだ」

わたしはほほえまずにはいられなかった。

するとかれは悲しそうに言った。

「きみは<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>うね。ぼくが食いしんぼだと思うからだろう。でもきっときみがぼくの<ruby><rb>境遇</rb><rt>きょうぐう</rt></ruby>だったら、ぼくと同じことをしたかもしれないよ。ぼくはぶたではないけれど、<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っている。だからなべの口からスープのにおいがたてば、ますます腹が減ってくるのだ」

「ガロフォリさんはきみにじゅうぶん食べるものをくれないの」

「ああ、それが<ruby><rb>罰</rb><rt>ばつ</rt></ruby>なんだ…」

「まあ……」

「そうだ。それにこれだけのことは話してもいい」と少年は<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。「きみももしあの人を親方に持つんだったら、<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>になることだからね。ぼくの名前はマチアと言うよ。ガロフォリはぼくのおじさんだ。ぼくの母さんはいるが、六人の子どもをかかえているし、たいへんびんぼうでくらしがたたないでいる。ガロフォリが去年来たとき、ぼくをいっしょに<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れて帰ったのさ。いったいぼくよりはつぎの弟のレオナルドを連れて行きたかったのだ。レオナルドはぼくとちがって<ruby><rb>器量</rb><rt>きりょう</rt></ruby>がいいのだからね。お金をもうけるには<ruby><rb>不器量</rb><rt>ぶきりょう</rt></ruby>ではだめだよ。ぶたれるか、ひどく悪口を言われるだけだ。でもぼくの母さんはレオナルドが<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きで手ばなさないから、やはりぼくが来ることになったのだ。ああ、うちをはなれて、親兄弟や、小ちゃな妹に<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>れるのはどんなにつらかったろう。

ガロフォリ親方はこのうちへ子どもをたくさん<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>いてあって、中にはえんとつそうじもあれば、紙くず拾いもある。<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くだけの力のない者は町で歌を歌ったりこじきをしている。ガロフォリはぼくに二ひき小さな白いはつかねずみをくれて、それを<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>で見世物に出させて、<ruby><rb>毎晩</rb><rt>まいばん</rt></ruby>三十スー持って帰って来なければならないと言いわたした。三十スーに一スーでも<ruby><rb>不足</rb><rt>ふそく</rt></ruby>があれば、不足だけむちでぶたれるのだ。きみ、三十スーもうけるにはずいぶん<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>が<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れる。けれどぶたれるのはもっとつらい。とりわけガロフォリが自分で手を下ろすときはよけい<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>いのだ。それでぼくは金を取るためいろんなことをしてみるが、よく不足なことがあった。たいていほかの子どもたちが夜帰って来て、決められた金を持って来たとき、ぼくは自分の分に足りないとガロフォリは気ちがいのようにおこった。もう一人<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>にやはりはつかねずみの見世物を出す子どもがある。このほうは四十スーと決められているのだが、<ruby><rb>毎晩</rb><rt>まいばん</rt></ruby>きっとそれだけの金を持って帰る。そんなときぼくはその子がどんなふうにして金をもうけるか見たいと思って、いっしょについて行った……」

かれはことばを切った。

「それで」とわたしはたずねた。

「おお、見物のおくさんたちは決まってこう言うのだ。きれいな子のほうへおやりよ。みっともない子どものほうでなく、と。そのみっともない子どもというのはむろんぼくだった。そこでぼくはもうその子とは行かないことにした。ぶたれるのは<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>いけれど、そんなことをしかもおおぜいの人の前で言われるのはもっとつらい。きみはだれからも、おまえはみにくいと言われたことがないから知るまい。だがぼくは……さてとうとうガロフォリは、ぶってもたたいてもぼくには<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>き<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>がないのをみて、ほかのしかたを考えた。それは<ruby><rb>毎晩</rb><rt>まいばん</rt></ruby>ぼくの<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>のいもを<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らすのだ。きさまの皮はいくらひっぱたいても平気で<ruby><rb>固</rb><rt>かた</rt></ruby>いが、<ruby><rb>胃</rb><rt>い</rt></ruby>ぶくろはひもじいだろうと言った。それはつらいが、でもぼくのねずみの見世物を見ている<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>の人に向かって、どうか一スーください、くださらないと、今夜はおいもが食べられませんとは言われない。人はそんなことを言ったって、なにもくれるものではないよ」

「じゃあ、どうするとくれるの」

「それはきみ、だれだって自分の心を<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>させるためにくれるのだ。なんでもなく人に物をくれるものではないよ。その子どもがかわいらしくって、きれいであるか、あるいはその人たちの<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くした子どものことを思い出させるとかいうならくれる。子どもはおなかがすいているからかわいそうだと思って、くれる者はない。ああ、こんなことで長いあいだにぼくは世の中の人の心持ちがわかってきた。ねえ、きょうは寒いじゃないか」

「ああ、ひどい寒さだね」

「ぼくはこじきをしてから、だんだん太れないで青くなった」と少年は<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>いて言った。「ぼくはずいぶん青い顔をしている。それでぼくはたびたび人が、あのびんぼう人の子どもはいまに<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えて死ぬだろうと言っているのを聞いた。だが苦しそうな顔つきは、楽しそうな顔つきではできないことをしてくれる。その代わりひじょうにひもじい目をこらえなければならない。とにかくおかげでだんだんぼくを気のどくがる人が近所にできた。みんな、ぼくのもらいの少ないときにはパンやスープをめぐんでくれる。これはぼくのいちばんうれしいときで、ガロフォリにぶたれもしないし、<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>にいもがもらえなくっても、どこかでなにか<ruby><rb>昼飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>にもらって食べて来るから苦しいこともなかった。けれどある日ガロフォリが、ぼくが<ruby><rb>水菓子屋</rb><rt>みずがしや</rt></ruby>にもらった一さらのスープを飲んでいるところを見つけると、なぜぼくがうちで<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>をもらわずに平気で出て行くか、そのわけを<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて知った。それからはぼくにうちで<ruby><rb>留守番</rb><rt>るすばん</rt></ruby>させて、このスープの<ruby><rb>見張</rb><rt>みは</rt></ruby>りを言いつけた。毎朝出て行くまえに肉と<ruby><rb>野菜</rb><rt>やさい</rt></ruby>をなべに入れて、ふたに<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>をかってしまう。そしてぼくのすることはそのにえたつのを見るだけだ。ぼくはスープのにおいをかいでいる。だがそれだけだ。スープのにおいでは<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>は<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>らない。どうしてよけい<ruby><rb>空腹</rb><rt>くうふく</rt></ruby>になる。ぼくはずいぶん青いかい。ぼくはもう外へ出ないから、みんながそう言うのを聞かないし、ここには<ruby><rb>鏡</rb><rt>かがみ</rt></ruby>もないのだからわからない」

「きみはほかの人よりかよけい青いとは思えないよ」とわたしは言った。

「ああ、きみはぼくを心配させまいと思ってそう言うのだ。けれどぼくはもっともっと青くなって、早く病気になるほうがうれしいのだ。ぼくはひじょうに悪くなりたいのだ」

わたしはあきれて、かれの顔をながめた。

「きみはわからないのだ」とかれはあわれむような<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>をふくんで言った。「ひどく<ruby><rb>加減</rb><rt>かげん</rt></ruby>が悪くなればみんなが世話をしてくれる。さもなければ死なせてくれる。ぼくを死なせてくれればなにもかもおしまいだ。もう<ruby><rb>腹</rb><rt>はら</rt></ruby>を<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らすこともないし、ぶたれることもないだろう。それにぼくたちは死ねば天にのぼって神様といっしょに住むことになるのだ。そうだ、そうなればぼくは天にのぼって、上から母さんや、クリスチーナを見下ろすことができる。神様にたのんで妹を<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せにしないようにしてもらうこともできる。だからぼくは病院へやられればうれしいと思うよ」

病院――というとわたしはむやみにおそろしい所だと思いこんでいた。わたしはいなか道を旅をして来たあいだ、どんなに気分が悪く思うときでも、病院へやられるかもしれないと思い出すといつでも力が出て、<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>にも歩いたものだった。マチアのこういうことばにわたしはおどろかずにはいられなかった。

「ぼくはいまではずいぶんからだの具合が悪くなっている。だがまだガロフォリのじゃまになるほど悪くはなっていない」と、かれは弱い、ひきずるような声で話を<ruby><rb>続</rb><rt>つづ</rt></ruby>けた。「でもぼくはだんだん弱くなってきたよ。ありがたいことにガロフォリはまるっきりぶつことをやめずにいる。八日まえにもぼくの頭をうんとひどくぶった。おかげでこのとおりはれ上がった。見たまえ、この大きなこぶを。あいつはきのうぼくに、これはできものだと言った。そう言ったあの人の様子はなんだかまじめだった。おそろしく<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>むのだ。夜になるとひどく目がくらんでまくらに頭をつけるとぼくはうなったり<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>いたりする。それがほかの子どものじゃまになるのをガロフォリはひどくきらっている。だから二日か三日のうちにいよいよあの人もぼくを病院へやることに決めるだろうと思う。ぼくは<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>に<ruby><rb>慈恵病院</rb><rt>じけいびょういん</rt></ruby>にいたことがある。お医者さんはかくしに安いお<ruby><rb>菓子</rb><rt>かし</rt></ruby>をいつも入れているし、<ruby><rb>看護婦</rb><rt>かんごふ</rt></ruby>の<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>さんたちがそれは<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく話をしてくれるよ。こう言うんだ。ぼうや、<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>をお出しとか、いい子だからねとかなんでもなにかしたいたんびに、『ああ、おしよ』と言ってくれる。それがうちにいる母さんと同じ調子なんだ。ぼくはどうも今度は病院へ行くほど悪くなっていると思う」

かれはそばへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って来て、大きな目でじっとわたしを見た。わたしはかれの前に<ruby><rb>真実</rb><rt>しんじつ</rt></ruby>をかくす理由はなかったが、しかしかれの大きなぎょろぎょろした目や、くぼんだほおや、血の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>のないくちびるがどんなにおそろしく見えるかということを、かれに語ることを<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>まなかった。

「きみは病院へ行かなければならない。ずいぶん悪いと思うよ」

「いよいよかね」

かれは足を引きずりながらのろのろ<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>のほうへ行って、それをふき始めた。

「ガロフォリがまもなく帰って来る」とかれは言った。「ぼくたちはもう話をしてはいけない。もうこれだけぶたれているのだ。このうえよけいなぐられるのは<ruby><rb>損</rb><rt>そん</rt></ruby>だからね。なにしろこのごろいただくげんこは<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>よりもずっと<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>くからね。人間はなんでも<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れっこになるなんて言うが、それはお人よしの言うことだよ」

びっこひきひきかれは<ruby><rb>食卓</rb><rt>しょくたく</rt></ruby>の回りを回って、さらやさじならべた。<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>すると二十<ruby><rb>枚</rb><rt>まい</rt></ruby>さらがあった。そうするとガロフォリは二十人の子どもを使っているのだ。でも<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>は十二しか見えなかったから、かれらのある者は一つの寝台に二人ねむるのだ。それにとにかくなんという寝台であろう。なんというかけ物であろう。かけ物の<ruby><rb>毛布</rb><rt>もうふ</rt></ruby>はうまやから、もう古くなって馬が着ても<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>かくなくなったようなしろものを、持って来たにちがいない。

「どこでもこんなものかしら」と、わたしはあきれてたずねた。

「なにがさ」

「子どもを<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>く所は、どこでもこんなかしら」

「そりゃ知らないがね、きみはここへは来ないほうがいいよ」と、少年は言った。「どこかほかへ行くようにしたまえ」

「どこへ」

「ぼくは知らない。どこでもかまわない。ここよりはいいからねえ」

どこへといって、どこへわたしは行こう。――ぼんやり当てもなしに考えこんでいると、ドアがあいて、一人の子どもが<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>の中にはいって来た。かれは小わきにヴァイオリンをかかえて、手に大きな<ruby><rb>古材木</rb><rt>ふるざいもく</rt></ruby>を持っていた。わたしはガロフォリの<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>にたかれている古材木の出所と<ruby><rb>値段</rb><rt>ねだん</rt></ruby>もわかったように思った。

「その木をくれよ」とマチアは子どものほうへ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って行った。けれど子どもは材木を後ろにかくした。

「ううん」とかれは言った。

「まきにするんだからおくれよ。するとスープがおいしくにえるから」

「きみはぼくがこれをスープをにるために持って来たと思うか。ぼくはきょうたった三十六スーしかもらえなかった。だからこの<ruby><rb>材木</rb><rt>ざいもく</rt></ruby>をぶたれないおまじないにするのだ。これで四スーの<ruby><rb>不足</rb><rt>ふそく</rt></ruby>の代わりになるだろう」

「やっぱりやられるよ。なんの足しになるものか。<ruby><rb>順</rb><rt>じゅん</rt></ruby>ぐりにやられるんだ」

マチアはそう<ruby><rb>機械的</rb><rt>きかいてき</rt></ruby>に言って、あたかもこの子どもも<ruby><rb>罰</rb><rt>ばっ</rt></ruby>せられると思うのがかれに<ruby><rb>満足</rb><rt>まんぞく</rt></ruby>をあたえるもののようであった。わたしはかれの<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい悲しそうな目のうちに、<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい目つきの表れたのを見ておどろいた。だれでも悪い人間といっしょにいると、いつかそれに<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>てくるということは、わたしがのちに知ったことであった。

一人一人子どもたちは帰って来た。てんでんにはいって来ると、ヴァイオリン、ハープ、ふえなど自分の楽器を<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上のくぎにかけた。<ruby><rb>音楽師</rb><rt>おんがくし</rt></ruby>でなく、ただ<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>らしたけものの見世物をやる者は、小ねずみやぶたねずみをかごの中に入れた。

それから重い足音がはしご<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>にひびいて、ねずみ色の外とうを着た小男がはいって来た。これがガロフォリであった。

はいって来るしゅんかん、かれはわたしに目をすえて、それはいやな目つきでにらめた。わたしはぞっとした。

「この子どもはなんだ」と、かれは言った。

マチアはさっそくていねいにヴィタリス親方の<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>をかれに<ruby><rb>伝</rb><rt>つた</rt></ruby>えた。

「ああ、じゃあヴィタリスが来たのか」とかれが言った。「なんの用だろう」

「わたしはぞんじません」とマチアが答えた。

「おれはきさまに言っているのではない。この子どもに話しているのだ」

「親方がいずれもどって来て、用事を自分で申し上げるでしょう」と、わたしは答えた。

「ははあ、このこぞうはことばの<ruby><rb>値打</rb><rt>ねう</rt></ruby>ちを知っている。<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬことは言わぬ。おまえはイタリア人ではないな」

「ええ、わたしはフランス人です」

ガロフォリが<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>にはいって来たしゅんかん、二人の子どもがてんでんにかれの両わきに<ruby><rb>席</rb><rt>せき</rt></ruby>をしめた。そしてかれのことばの終わるのを待っていた。やがて一人がそのフェルト<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をとって、ていねいに<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の上に<ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>くと、もう一人はいすを持ち出して来た。かれらはこれを同じようなもったいらしさと、<ruby><rb>行儀</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>よさをもって、<ruby><rb>寺小姓</rb><rt>てらこしょう</rt></ruby>が<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>さんにかしずくようにしていた。ガロフォリがこしをかけると、もう一人の子どもがたばこをつめたパイプを持って来た。すると第四の子どもがマッチに火をつけてさし出した。

「いおうくさいやい。がきめ」とかれはさけんで、マッチを<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の中に投げこんだ。

この<ruby><rb>罪人</rb><rt>ざいにん</rt></ruby>はあわてて<ruby><rb>過失</rb><rt>かしつ</rt></ruby>をつぐなうために、もう一本のマッチをともして、しばらく<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>やしてから主人にそれをささげた。けれどもガロフォリはそれを受け取ろうとはしなかった。

「だめだ。とんちきめ」とかれは言って、あらっぽく子どもをつきのけた。それからかれはもう一人の子どものほうを向いて、おせじ<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いをしながら言った。

「リカルド、おまえはいい子だ。マッチをすっておくれ」

この「いい子」はあわてて言いつけどおりにした。

「さて」とガロフォリは具合よくいすに<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>まって、パイプをふかしながら言った。

「おこぞうさんたち、これから仕事だ。マチア、帳面だ」

こう言われるまでもなく、子どもたちはガロフォリのまゆの動き方一つにも心を配っていた。そのうえにガロフォリがわざわざ口に出して用向きを言いつけてくれるのは、たいへんな<ruby><rb>好意</rb><rt>こうい</rt></ruby>であった。

ガロフォリはマチアの持って来たあかじみた小さな帳面には目もくれなかった。<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めのいおうくさいマッチをつけた子どもに、来いと合図をした。

「おまえにはきのう一スー<ruby><rb>貸</rb><rt>か</rt></ruby>してある。それをきょう持って来るやくそくだったが、いくら持って来たな」

子どもは赤くなって、<ruby><rb>当惑</rb><rt>とうわく</rt></ruby>を顔に表して、しばらくもじもじしていた。

「一スー足りません」とかれはやっと言った。

「はあ、おまえは一スー足りないのかね。それでいいのだね」

「きのうの一スーではありません。きょう一スー足りないのです」

「それで二スーになる。おれはきさまのようなやつを見たことがない」

「わたしが悪いんではないんです」

「<ruby><rb>言</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>をしなさんな。<ruby><rb>規則</rb><rt>きそく</rt></ruby>は知っているだろう。着物をぬぎなさい。きのうの分が二つ、きょうの分が二つ。合わせて四つ。それから<ruby><rb>横着</rb><rt>おうちゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>罰</rb><rt>ばつ</rt></ruby>に夕食のいもはやらない。リカルド、いい子や。おまえはいい子だから、気晴らしをさせてやろう。むちをお取り」

二本目のマッチをつけた子どものリカルドが、かべから大きな<ruby><rb>結</rb><rt>むす</rt></ruby>び<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>のある皮ひもの二本ついた、<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>の短いむちを下ろした。そのあいだに二スー足りない子どもは上着のボタンをはずしていた。やがてシャツまでぬいでからだをこしまで<ruby><rb>現</rb><rt>あらわ</rt></ruby>した。

「ちょっと待て」とガロフォリがいまいましい<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>を見せて言った。

「たぶんきさまだけではあるまい。<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>のあるということはいつでもゆかいなものだし、リカルドにたびたび手数をかけずにすむ」

子どもたちは親方の前に身動きもせずに立っていたが、かれの<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なじょうだんを開いて、みんな<ruby><rb>無理</rb><rt>むり</rt></ruby>に<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>わされた。

「いちばん笑ったやつはいちばん足りないやつだ」とガロフォリが言った。「きっとそれにちがいない。いちばん大きな声で笑ったのはだれだ」

みんなは<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の大きな<ruby><rb>材木</rb><rt>ざいもく</rt></ruby>を持って、まっ先に帰って来た子どもを指さした。

「こら、きさまはいくら足りない」とガロフォリがせめた。

「わたしのせいではありません」

「わたしのせいではありませんなんかと言うやつは、一つおまけにぶってやろう。いくら足りないのだ」

「わたしは大きな材木を一本持って来ました。りっぱな材木です」

「それもなにかになる。だがパン屋へ行ってその<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>でパンにかえてもらって来い。いくらにかえてくれるか。いくら足りないのだ。言ってみろ」

「わたしは三十六スー持って来ました」

「この悪者め、四スー足りないぞ。それでいて、そんなしゃあしゃあした<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして、おれの前につっ立っている。シャツをぬげ。リカルドや、だんだんおもしろくなるよ」

「でも<ruby><rb>材木</rb><rt>ざいもく</rt></ruby>は」と子どもがさけんだ。

「<ruby><rb>晩飯</rb><rt>ばんめし</rt></ruby>の代わりにきさまにやるわ」

この<ruby><rb>残酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>なじょうだんが<ruby><rb>罰</rb><rt>ばっ</rt></ruby>せられないはずの子どもたちみんなを<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>わせた。それからほかの子どもたちも一人一人<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>をすました。リカルドがむちを手に持って立っていると、とうとう五人までの<ruby><rb>犠牲者</rb><rt>ぎせいしゃ</rt></ruby>が一列にかれの前にならべられることになった。

「なあ、リカルド」とガロフォリが言った。「おれはこんなところを見るといつも気分が悪くなるから、見ているのはいやだ。だが音だけは聞ける。その音でおまえのうでの力を聞き分けることができる。いっしょうけんめいにやれよ。みんなきさまたちのパンのために<ruby><rb>働</rb><rt>はたら</rt></ruby>くのだ」

かれは<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のほうへからだを向けた。それはあたかもかれがこういう<ruby><rb>懲罰</rb><rt>ちょうばつ</rt></ruby>を見ているにしのびないというようであった。

わたしは一人すみっこに立って、いきどおりとおそれにふるえていた。これがわたしの親方になろうとする男なのである。わたしもこの男に言いつけられた物を持って帰らなければ、やはりリカルドに<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>を出さねばならなかった。ああ、わたしはマチアがあれほど平気で死ぬことを口にしているわけがわかった。

ぴしり、第一のむちがふるわれて、<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>に当たったとき、もうなみだがわたしの目にあふれ出した。わたしのいることは<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れられていたと思っていたけれど、それは考えちがいで、ガロフォリは目のおくからわたしを見ていた。

「<ruby><rb>人情</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>のある子どもがいる」とかれはわたしを指さした。「あの子はきさまらのような<ruby><rb>悪党</rb><rt>あくとう</rt></ruby>ではない。きさまらは<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>が苦しんでいるところを見て<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>っている。この小さな仲間を手本にしろ」

わたしは頭のてっぺんから足のつま先までふるえた。ああ、かれらの仲間か……。

第二のむちをくって<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>はひいひい<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>を立てた。三度目には引きさかれるようなさけび声を上げた。ガロフォリが手を上げた。リカルドはふり上げたむちをひかえた。わたしはガロフォリがさすがに<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けを見せるのだと思ったが、そうではなかった。

「きさまらの泣き声を聞くのはおれにはどのくらいつらいと思う」とかれはねこなで声で<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>に向かって言いかけた。「むちがきさまらの皮をさくたんびにさけび声がおれのはらわたをつき<ruby><rb>破</rb><rt>やぶ</rt></ruby>るのだ。ちっとはおれの苦しい心も<ruby><rb>察</rb><rt>さっ</rt></ruby>して、気のどくに思うがいい。だからこれから<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>を立てるたんびによけいに一つむちをくれることにするからそう思え。これもきさまらが悪いのだ。きさまらがおれに対してちっとでも<ruby><rb>情</rb><rt>なさ</rt></ruby>けや<ruby><rb>恩</rb><rt>おん</rt></ruby>を知っているなら、だまっていろ。さあ、やれ、リカルド」

リカルドがむちをふり上げた。皮ひもは<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>の<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>でくるくる回った。

「おっかあ。おっかあ」とその子どもがさけんだ。

ありがたい。わたしはこのうえこのおそろしい<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>を見ずにすんだ。なぜといってこのしゅんかんドアがあいて、ヴィタリス親方がはいって来たからである。

人目でかれはなにもかも<ruby><rb>了解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>した。かれははしご<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>を上がりながらさけび声を聞いたので、すぐリカルドのそばにかけ<ruby><rb>寄</rb><rt>よ</rt></ruby>って、むちを手からうばった。それからガロフォリのほうへくるりと向いて、うで組みをしたままかれの前につっ立った。

これはいかにもとっさのあいだに起こったので、しばらくはガロフォリもぽかんとしていた。けれどもすぐ気を取り直しておだやかに言った。

「どうもおそろしいようじゃないか。なにね、あの子どもは気がちがっているのだ」

「はずかしくはないか」ヴィタリスがさけんだ。

「それ見ろ、わたしもそういうことだ」とガロフォリがつぶやいた。

「よせ」とヴィタリス親方が<ruby><rb>命令</rb><rt>めいれい</rt></ruby>した。「とぼけるなよ。おまえのことだ。子どもではない。こんな手向かいのできないかわいそうない子どもらをいじめるというのは、なんというひきょうなやり方だ」

「この<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いぼれめ。よけいな世話を<ruby><rb>焼</rb><rt>や</rt></ruby>くな」とガロフォリが急に調子を<ruby><rb>変</rb><rt>か</rt></ruby>えてさけんだ。

「<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>ものだぞ」とヴィタリスが<ruby><rb>反抗</rb><rt>はんこう</rt></ruby>した。

「なに、きさま、警察でおどすのか」とガロフォリがさけんだ。

「そうだ」と、わたしの親方は<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>な<ruby><rb>相手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の<ruby><rb>気勢</rb><rt>きせい</rt></ruby>にはちっともひるまないで答えた。

「ははあ」とかれはあざ<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った。「そんなふうにおまえさんは言うのだな。よしよし、おれにも言うことがあるぞ。おまえのしたことはなにも<ruby><rb>警察</rb><rt>けいさつ</rt></ruby>に<ruby><rb>関係</rb><rt>かんけい</rt></ruby>はないが、おまえさんに用のあるという人が世間にはあるのだ。おれがそれを言えば、おれが一度名前を言えば……はてはずかしがって頭をすぼめるのはだれだろうなあ。世間が知りたがっているその名前を言い回っただけでも、はじになる人がどこかにいるぞ」

親方はだまっていた。はじだ。親方のはじだ。なんだろう。わたしはびっくりした。けれど考えるひまのないうちに、かれはわたしの手を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>った。

「さあ、行こう、ルミ」とかれは言った、そうして戸口までぐんぐんわたしを引っ張った。

「まあ、いいやな」ガロフォリが今度は<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いながらさけんだ。「きみ、話があって来たんだろう」

「おまえなんぞに言うことはなにもない」

それなり、もうひと言も言わずに、わたしたちははしご<ruby><rb>段</rb><rt>だん</rt></ruby>を下りた。かれはまだしっかりわたしの手をおさえていた。なんというほっとした心持ちで、わたしはかれについて行ったろう。わたしは<ruby><rb>地獄</rb><rt>じごく</rt></ruby>の口からのがれた。わたしが思いどおりにやれば、親方の首に両手をかけて、強く強くだきしめたところであったろう。

（つづく）