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        <title type="main" xml:lang="ja">暗い青春</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">くらいせいしゅん</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>坂口</surname><forename>安吾</forename><idno type="aozora-person-id">001095</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>さかぐち</surname><forename>あんご</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Sakaguchi</surname><forename>Ango</forename></persName></author>
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        <bibl><title>坂口安吾全集　05</title><publisher>筑摩書房</publisher><date>1998（平成10）年6月20日</date><note type="input-edition">1998（平成10）年6月20日初版第1刷</note><note type="proof-edition">1998（平成10）年6月20日初版第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「潮流　第二巻第五号」潮流社、1947（昭和22）年6月1日</bibl>
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      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-475-606">まつたく暗い家だつた。いつも陽当りがいゝくせに。どうして、あんなに暗かつたのだらう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-606-926">それは芥川龍之介の家であつた。私があの家へ行くやうになつたのは、あるじの自殺後二三年すぎてゐたが、あるじの苦悶がまだしみついてゐるやうに暗かつた。私はいつもその暗さを呪ひ、死を蔑み、そして、あるじを憎んでゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-926-1339">私は生きてゐる芥川龍之介は知らなかつた。私がこの家を訪れたのは、同人雑誌をだしたとき、同人の一人に芥川の甥の葛巻義敏がゐて、彼と私が編輯をやり、芥川家を編輯室にしてゐたからであつた。葛巻は芥川家に寄宿し、芥川全集の出版など、もつぱら彼が芥川家を代表してやつてゐたのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1339-1677">葛巻の部屋は二階の八畳だ。陽当りの良い部屋で、私は今でも、この部屋の陽射しばかりを記憶して、それはまるで、この家では、雨の日も、曇つた日もなかつたやうに、光の中の家の姿を思ひだす。そのくせ、どうして、かう暗い家なのだらう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1677-2057">この部屋には青いジュウタンがしきつめてあつた。これは芥川全集の表紙に用ひた青い布、私の記憶に誤りがなければ、あの布の余りをジュウタンにつくつたもので、だから死んだあるじの生前にはなかつた物のやうである。陰鬱なジュウタンだつた。いつも陽が当つてゐたが。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2057-2326">大きな寝台があつた。葛巻は夜ごとにカルモチンをのんでこの寝台にねむるのだが、普通量ではきかないので莫大な量をのみ、その不健康は顔の皮膚を黄濁させ、小皺がいつぱいしみついてゐる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2326-2532">この部屋では、芥川龍之介がガス栓をくはへて死の直前に発見されたこともあつたさうで、そのガス栓は床の間の違ひ棚の下だかに、まだ、あつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2532-3218">この部屋で私は幾夜徹夜したか知れない。集つた原稿だけで本をだすのは不満だから、何か飜訳して、と葛巻が言ふ。だから、こゝで徹夜したのは大概飜訳のためであつたが、私は飜訳は嫌ひなのだが、ぢやあ小説書いて、とくる。私は当時はさう気軽に小説は書けないたちで、なぜなら、本当に書くべきもの、書かねばならぬ言葉がなかつたから。私は一夜に三四十枚飜訳した。辞書をひかずに、分らぬところは、ぬかして訳してしまふから早いのは当りまへ、明快流麗、葛巻はさうとは知らなかつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3218-3565">ところが葛巻は、私の横で小説を書いてゐる。これが又、私の飜訳どころの早さではない。遅筆の叔父とはあべこべ、水車の如く、一夜のうちに百枚以上の小説を書いてしまふ。この速力は私の知る限りでは空前絶後で、尤も彼は一つも発表しなかつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私はこの部屋へ通ふのが、暗くて、実に、いやだつた。私は「死の家」とよんでゐたが、あゝ又、あの陰鬱な部屋に坐るのか、と思ふ。歩く足まで重くなるのだ。私は呪つた。芥川龍之介を憎んだ。然し、私は知つてゐたのだ。暗いのは、もとより、あるじの自殺のせゐではないのだ、と。ジュウタンの色のせゐでもなければ、葛巻のせゐでもなかつた。要するに、芥川家が暗いわけではなかつたのだ。私の年齢が暗かつた。私の青春が暗かつたのだ。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4179-4211">青春は暗いものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4211-4537">この戦争期の青年達は青春の空白時代だといふけれども、なべて青春は空白なものだと私は思ふ。私が暗かつたばかりでなく、友人達も暗かつたと私は思ふ。発散のしやうもないほどの情熱と希望と活力がある。そのくせ焦点がないのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4537-4905">私は小説を書いた。文学に生きると言ふ。然し、何を書くべきか、私は真実書かずにはゐられぬやうな言葉、書かねばならぬ問題がなく、書き表はさねば止みがたい生き方も情熱もなかつたのだ。たゞ虚名を追ふ情熱と、それゆゑ、絶望し、敗北しつゝある魂があつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4905-5678">あの頃の同人では、あの頃のうちに、もう三人、死んだ。一番目が根本君。彼は葛巻に絶交のハガキを送つたことがあつた。その前夜、根本君のアパートへ同人が集つた。そのアパートは九段下にあり、私達のたむろする三崎町のアテネ・フランセから近かつたので、彼の不在の部屋へあがりこみ（管理人から扉をあけてもらつて）何か雑誌の相談をしたのであつたと思ふ。寒かつたので、押入から根本君の布団をだし、それを敷いて葛巻が、布団をかぶつてゐた。そこへ根本君が帰つてきた。絶交のハガキは我々が帰つたあとで、直ちに書かれたものゝやうであつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5678-6241">ハガキには、絶交の理由は分るでせう、と書いてあつたが、葛巻は分らぬといひ、私も亦、今もつて、分らない。無断で上りこんだのがいけないのか、布団を敷いたのが、いけないのか。根本君は肺病だつた。官吏であつた。力のないセキをしながら、いつもトボトボ歩いてゐる陰気なマジメな人であつた。笑ふこともなかつたし、殆ど、話をしかけるといふこともなかつた。そして、根本君は、まもなく死んだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6241-6604">根本君は何を、なぜ、怒つたか。私はそれを知りたいとは思はない。知る必要もないではないか。どうせ、人は、ヒステリイなんだ。怒りは常に親しい者に、そして、怒りの悲しさは、何とまあ、人の悲しい姿そのものであらうか。力のないセキを落しながら常にトボ</seg><choice source="#source-6604-6610"><orig>／＼</orig><reg>〱</reg></choice><seg source="#source-6610-6972">たゞ俯向いて歩いてゐた根本君は、大いなる怒りが、常に又、その胸に秘められてゐた筈だつた。何ものに向けられた怒りだか、根本君すら分らなかつた筈だ。たゞ、葛巻に向けられた怒りでなかつたことだけは、たしかだ。それは、根本君の青春だつたに相違ない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6972-7398">二番目は脇田君。彼は三田の学生であつた。セムシであつた。こんなヒネクレたところのない不具者は珍しい。私達が劇団をつくらうとした時、彼は笑ひながら、俺にできるのはノートルダムだけだ、と言つた。彼は明るく爽やかであつた。彼の葬儀は世田ヶ谷だかの遠い寺で行はれ、私は道に迷ひ、田舎道をぐる</seg><choice source="#source-7398-7404"><orig>／＼</orig><reg>〱</reg></choice><seg source="#source-7404-7919">歩き廻つてゐるうち、もう葬儀が終り、寺をでて帰路を歩いてくる同人諸君に会つた。うらゝかなお天気。おだやかな田舎道。私はお寺を見つけずに却つて良かつたと思つた。私は頭をかいて、やつぱり死んぢやつた、と苦笑しながら昇天して行く脇田君が見えるやうな気がした。サヨナラ、と言つてゐる。御達者で、と言つてゐる。三田の学帽をふつてゐる。サヨナラ、脇田君。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7919-8314">私はこの戦争中、爆撃の翌朝、電車が通らないので、東京へ歩く途中、大森で警報がでた。そのとき、家から顔をだして、立ち止つて思案してゐる私に呼びかけた人があつた。セムシであつた。脇田君の死んだ頃と同じぐらゐの年配だつた。セムシ特有の蒼白な顔に、静かな笑顔があつた。</seg></p>
      <p>「単機ださうです」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8343-8399">御安心なさい、といふ笑顔であつた。</seg></p>
      <p>「うちの防空壕を御遠慮なく使つて下さい」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8461-8787">脇田君は大森の木原山に住んでゐたのだ。私が彼を思ひだしたのは言ふまでもない。あたゝかい心と、やさしい魂が私の心をみたしてくれた大きな感謝に、私はほてるやうな気持で、暫くは夢心持で、逃げるやうに道を急いでゐたものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8787-8808">三人目は長島</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8808-8829"><rb>萃</rb><rt>あつむ</rt></ruby><seg source="#source-8829-8846">であつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8846-9307">彼にとつては、私だけが、唯一の友達であつたやうだ。他の誰とも親しい交りをほつしてゐないやうだつた。文学を志す青年に、芥川龍之介の自殺した家が珍しくない筈はない。彼は然し、さういふ興味にテンタンで、雰囲気的なものなどに惹かれることのない気質のやうで、この家を訪ねたことは一度だけ、たしか、さういふ話である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9307-9684">彼はよく自殺して、しくじつた。彼はたぶん遺伝梅毒だつたと思ふ、周期的に精神錯乱し、その都度自殺を試みる。首くゝりの縄が切れて気絶して発見されたり、致死量以上の薬をのみすぎて、助かつたり、その都度、私のところへ遺書がくる。最後に発狂し、脳炎で死んだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">私は長島の自殺が、いはゞ私への抵抗ではないかと思つた。彼は私と争つてゐた。然し、私の影と。私が真実あるよりも、彼はもつと高く深い何かを私に投影し、そして、私と争つてゐたやうだ。彼の死後、手垢にまみれたフランスの本だけが残された。その本のあちこちに書かれてゐる彼の感想、その中に凡そフランスの本自身とは縁のない言葉が現れてくる。「安吾はエニグムではない」「安吾は死を怖れてゐる。然し彼は、知識は結ひ目を解くのでなしに、結ひ目をつくるものだと自覚してゐるから」「苦悩は食慾ではないのだよ。安吾よ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10427-10630">この最後のは、どういふ意味なのだらう。私には分らない。彼はいつかコクトオのポトマックをぶらさげて、私のところへ現れてきたことがある。</seg></p>
      <p>「読んだかい、この本？」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10668-10808">私はうなづいた。葛巻がコクトオの熟読者だから、私も彼の蔵書をかりて、読むことがあつたから。</seg></p>
      <p>「笑ひだしてしまつたのだ。君はヘドが吐けないたちぢやないか。君は何をたべても、あたらない。然し、君自身にも、毒はないね。君は<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-10994-11012"><rb>蝮</rb><rt>まむし</rt></ruby>ぢやないね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11032-11331">彼の笑顔はせつなさうだつた。私は彼の言葉が理解できなかつた。然し、彼が私に就て考へるやうに、私が私に就て考へることの必要を認めてゐなかつたので、私は彼に対しては、たゞ、黙殺、無言でゐるだけだつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11331-11477">私は彼が自殺に失敗し、生き返り、健康をとりもどして私の前へ現れたとき、思はず怒つたものだつた。</seg></p>
      <p>「自殺だなんて、そんなチャチな優越が。おい、笑はせるな」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11563-11616">彼の淋しい顔は今も忘れられない。</seg></p>
      <p>「知つてゐるよ。然し、ダメなんだ。俺は」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11678-12181">然し、ダメなんだ、俺は。それは彼の周期的な精神錯乱のことであらうか。その意味だけではなかつたやうだ。彼は私ごとき者を怖れ、闘ふ必要はなかつたのである。彼が私に投影してゐたものは、彼の何であつたのか。然し、彼は、その錯乱のたびに、私への抵抗から死へ急いだことは事実だと私は思ふ。安吾は死ねない。ともかく、俺は死ねる、といふことだつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12181-12583">彼の死床へ見舞つたとき、そこは精神病院の一室であつたが、彼は家族に退席させ、私だけを枕頭によんで、私に死んでくれ、と言つた。私が生きてゐては死にきれない、と言ふのだ。お前は自殺はできないだらう。俺が死ぬと、必ず、よぶから。必ず、よぶ。彼の狂つた眼に殺気がこもつてギラ</seg><choice source="#source-12583-12589"><orig>／＼</orig><reg>〱</reg></choice><seg source="#source-12589-12873">した。すさまじい気魄であつた。彼の精神は噴火してゐた。灼熱の熔岩が私にせまつてくるのではないかと思はれたほどである。どうだ。怖しくなつたらう。お前は怖しいのだ、と彼は必死の叫びをつゞけた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12873-13370">彼はなぜ、そこまで言つてしまつたのだらう？　そこまで、言ふべきではなかつた。私はたしかに怖しかつたのだ。私は圧倒され、彼に殺される宿命を感ぜざるを得なかつたのである。然し、お前は怖しくなつたらう、といふ叫びは、私にともかく余裕を与へた。私は反射的に傲然と答へてゐた。あたりまへだ、と。そして私は全ての力をこめて、彼を睨んでゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13370-13486">彼の顔に、にはかに、激しい落胆があらはれた。そして、彼は沈黙してしまつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13486-14618">けれども、私は、彼の死の瞬間の幽霊を怖れてゐたものである。然し、幽霊の訪れはなかつた。彼の心は柔和なのだ。彼の私への友情は限りない愛によつてみたされてゐた。思へば彼は、その死床に於て、私をよぶ、といふ奇怪に古風な呪縛のカラクリを発案してまで、私をへこませ、一生の痛打、一撃を加へずにゐられぬ念願があつたのだらう。彼はさういふ男であつた。真実幽霊となつて一撃しうるひたむきな情熱はない。それをカラクリに一撃しようとする茶番の心得はあつた。その茶番に彼の悲願が賭けられ、噴火する気魄と情熱が賭けられてゐても、それが茶番であることを彼自身も亦知つてゐた。常に悲しく知つてゐた。彼の自殺も同じ茶番であつたのだ。その一生の終るとき、彼の幽霊は私を訪れる代りに、蒼ざめた唯一語をむなしく虚空に吐きすてゝゐた筈であつた。茶番は終つた！　と。茶番は彼の一生であつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 10em" rend="first-line-indent(10)"><seg source="#source-14618-14655">★</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14655-15050">青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家はたゞ一人、それが死だ。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我々の生存に決定的な力を加へるものはなく、或ひはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、私は思はざるを得ぬ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15050-15436">青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着してゐる時期なのだ。人生の迷路は解きがたい。それは魂の迷路であるが、その迷路も死が我々に与へたものだ。矛盾撞着、もつれた糸、すべて死が母胎であり、ふるさとでもある人生の愛すべく、又、なつかしい綾ではないか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15436-15660">私の青春は暗かつた。私は死に就て考へざるを得なかつたが、直接死に就て思ふことが、私の青春を暗くしてゐたのではなかつた筈だ。青春自体が死の翳だから。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15660-15863">私は野心に燃えてゐた。肉体は健康だつた。私の野性は、いつも友人達を悩ましたものだ。なぜなら、友人達は概ね病弱で、ひよわであつたから。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15863-16303">葛巻はカリヱスだつた。胸のレントゲン写真を私に見せ、自分も頬杖をついて眺めてをり、どう？　ちよつと、いやね、と言ふ。クスリと大人のやうな笑ひ方をする。そして、君は健康だねえ、と言ふ。私はまつたく健康だつた。然し健康な肉体、健康な魂ほど、より大きな度合ひをもつて、死にあやつられてゐるものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16303-16362">私はまつたく野心のために疲れてゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16362-16835">その野心は、たゞ、有名になりたい、といふことであつた。ところが私は、たゞ有名になりたいと焦るばかりで、何を書くべきか、書かねばならぬか、真実、わが胸を切りひらいても人に語らねばならぬといふ言葉をもたない。野心に相応して、盲目的な自信がある。すると、語るべき言葉の欠如に相応して、無限の落下を見るのみの失意がある。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">その失意は、私にいつも「逃げたい心」を感じさせた。私は落伍者にあこがれたものだ。屋根裏の哲学者。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-16982-17000"><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby><seg source="#source-17000-17614">の袋小路のどん底の料理屋のオヤヂの哲学者ボンボン氏。人形に惚れる大学生。私は巴里へ行きたいと思つてゐた。私の母も私を巴里へやりたい意向をもつてゐたが、私は然し、暗い予感があつて、巴里の屋根裏で首をくゝつて死ぬやうな、なぜか、その予感から逃れることができなかつたので、積極的に巴里行を申しでる気持にもならなかつたのだ。思へば落伍者へのあこがれは、健康な心の所産であるかも知れぬ。なぜなら、野心の裏側なのだから。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17614-17967">さういふ一日、私は友人にも、母にも、すべてに隠して、ひそかに就職にでかけて行つた。神田のさるカフェーで支配人を求めてゐた。カフェーの名は忘れたが、私は新聞広告を見て意を決した。誰の目にも一番くだらなさうな職業だから、意を決したのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17967-18206">私はその日をハッキリ覚えてゐる。昭和五年、五月、五日であつた。私は省線に乗つた。切符の日附のスタンプが5, 5, 5, と三つ並んでゐたので、忘れることができないのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18206-18820">私は酒をのまなかつたから、カフェーなどといふものへ這入つたことはなかつた。二度か三度、人に誘はれて小さなバーへ這入つたことはあつたと思ふが、こんな大カフェーは始めてゞ、然し午前中のことだから、人の姿は一人もない。何とも陰鬱、邪悪、強慾そのものゝ五十ぐらゐの主人であつた。蛇の感じで、地べたを這つてすりよる感じ、細い目が底光りをたゝへてゐる。きゝとれぬやうな低いしやがれ声で話しかけ、私の目をうかゞつてゐる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18820-19152">支配人といふのは、このカフェーの支配人のことではない、と言ふのだ。当分はこのカフェーの支配人だが、自分の目的はホテルの経営にあるのだから、やがてはホテルの支配人で、ホテルとそこに所属するバー、それが理想である、と言ふ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19152-19439">観光事業に趣味があるか、ときくから、口から出まかせに、ある、と答へると、では抱負があるか、述べてみよ、と言ふ。考へてみたこともないのだからこれには全く閉口して、仕方がないから白状に及んだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19439-20215">私はホテルの支配人に出世する意志はないのである。私はカフェーの支配人が望みであつた。タキシードかなんか着て（ボンボン先生はたしか年中エンビ服だか礼装してゐた）酔つ払ひの騒音の中で、松だかモミだか鉢植ゑの植物かなんかの彼方に、間抜け面でいとも厳粛に注意を怠らぬ顔付をしてゐる。誰が見ても、誰よりも馬鹿だ。こんな気のきかないヌカラヌ顔付といふものは人に具はる天性があつて、誰にもできるといふものでなく、私にはしごく向いてゐるのだ。私はひそかに自信をいだいて出向いてきたので、そこには少なからぬ抱負もある。抱負は何ぞや。</seg></p>
      <p>「私は虫歯が痛むときに、痛いと言へないこの商売が気に入つてゐるのです。会社につとめてゐるでせう。課長が私をよびつけて、君は朝から仏頂面をしてゐるぢやないか、何か不平があるのか、言ひ給へ、と怒鳴ります。すると私は、実は虫歯が痛いのです、と蚊の鳴くやうな声をだします。私は実際虫歯が持病で、この痛さには泣いてゐるのです。私は我慢がないから泣き面をします。然しです。カフェーでは私が泣き面をしても、課長みたいに仏頂面を気にかけるお客はありませんよ。常に黙殺され、無視され、バカのバカですから、私は虫歯が痛くても、痛くない顔付をして、心ひそかに悲しむのみです。だから、天分があるのです。私は虫歯が痛くても、このカフェーの鉢植ゑの植物の彼方に立つ限り、植物よりも無自覚に、虫歯の痛みをこらへてゐることができます」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21270-21401">彼はウハ目でチラと見上げただけだつた。如何なる感情も見せない水のやうな冷気であつた。</seg></p>
      <p>「どうすれば、店が繁昌すると思ふね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21457-21930">私は全然ダメだつた。私は私とこの職業を結びつける雰囲気的な抱負にだけ固執して、一晩まんじりともせず、私自身を納得させる虫歯の哲理に溺れてゐた。店を繁昌させる秘訣に就ては考へてゐなかつたのだ。私は手ぬかりに気がついた。彼が私に求めることは、私が虫歯をこらへることではなく、店を繁昌させる秘訣であつたにきまつてゐる。</seg></p>
      <p>「美人ばかり集めることです。きまつてますよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21998-22174">と、仕方がないので、私は大威張りで答へた。私が威張つたのは、真理の威厳のために、であるが、彼は冷やかにうなづいて、</seg></p>
      <p>「それはきまつてゐる」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22209-23312">私は狼狽して、まつたく、のぼせてしまつた。私はその任にあらざることを自覚したから、履歴書を返してくれ、とたのんだ。彼はそれが当然だといはぬばかりに履歴書を返してくれたが、自分のもとめてゐるのはホテルの支配人たるべき人材で、カフェーの支配人などはとるにも足らぬ仕事だ、といふ意味のことを述べ、ホテルの経営はむつかしいものだ、とつけ加へた。それは私の軽率を咎めてゐるやうでもなく、彼自身の大きな抱負がおのづともれた一語であつたかも知れない。彼は目的を果したらうか。大いに成功したやうな気が私はするのだが、私はその後、当分の間、この男の幻影に圧倒されてゐた。それは彼が最後に至るまで水の如く無感情で、私に対して蔑むとか説教するとか、さういふ態度がなかつたせゐであつた。つまり私が自らの軽率、ひとりよがりの独り相撲に呆れ、嘆いてゐたせゐだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23312-23683">ところで私が家人にも友人にも内密にこのやうな就職にでかけた心事がどのやうなものであつたかといへば、たゞ、暗く、せつなかつたといふ一語につきる。このやうにしか生きられぬ私なのか、といふ嘆きであつた。落伍者気どりの軽快な洒落心などはなかつたものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23683-23892">陰鬱、邪悪、冷酷な面魂の主人を見たそのとき、私が彼の人相に特別暗く身ぶるひしたのも、私が私を突き落さうとする現実の暗さの影を見たからだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23892-24209">青春は絶望する。なぜなら大きな希望がある。少年の希望は自在で、王者にも天才にも自ら化して夢と現実の区別がないが、青春の希望の裏には、限定された自我がある。わが力量の限界に自覚があり、希望に足場が失はれてゐる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24209-25198">これもそのころの話だ。私は長島と九段の祭で、サーカスを見た。裸馬の曲乗りで、四五人の少女がくるくる乗り廻るうちに、一人の少女が落馬した。馬の片脚が顔にふれた。たゞ、それだけのことであつた。少女の顔は鮮血に色どられてゐた。驚くべき多量の鮮血。一人の男衆が駈けよりざま、介抱といふ態度でなし、手を掴んで、ひつぱり起した。馬の曲乗りは尚くるくる廻つてゐるから、その手荒さが自然のものでもあつた。少女は引き起されて立上り、少しよろめいたゞけで、幕の裏へ駈けこんだが、その顔いつぱいの鮮血は観衆に呻きのどよめきを起したものだ。然し一座の人々の顔は、いたはりでなしに、未熟に対する怒りであつた。少女の顔にも、未熟に対する自責の苦痛が、傷の苦痛に越えてゐる険しさだつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25198-25614">無情も、このときは、清潔だつた。落馬する。馬の片脚が顔にふれる。実に、なんでもない一瞬だつた。怪我などは考へられもしないやうな、すぎ去る影のやうなたわいもない一瞬にすぎないのだから、顔一面にふきだしてゐる鮮血は、まるでそれもなんでもない赤い色にすぎないやうな気がしたものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25614-25931">美しい少女ではなかつた。然し鮮血の下の自責に対する苦悶の恐怖は私の心を歎賞で氷らせたものであつた。引き起され立ち上つてよろめいて、すぐ駈けこんだ、それを取りまく彼方此方の一座の者の怒りの目、私は絶美に酔つた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25931-26230">私達は小屋をでて、小屋の裏側へ廻つてみた。楽屋の口らしい天幕の隙間から、座頭らしいのが出てくるのを見たので、私の心は急にきまつた。私は近づいて、お辞儀して、座頭ですか、ときくと、さうだ、と答へた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26230-26466">私はどもりながら頼んでゐた。私を一座に入れてくれといふことを。私にできることは脚本と、全体の構成、演出だが、その他の雑用に使はれても構はないとつけたした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26466-26882">私の身なりは、さういふことを申しでる男の例と違つてゐたからに相違ない。私はそのころはハイカラで身だしなみが良かつたのである。彼は訝るといふよりも、むしろ、けはしく私を睨んでゐた。そして何を、と言ふやうに、たゞ二つ三つ捨てるやうにうなづいて、一言も答へず、歩き去つてしまつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26882-27208">私はまつたく狐につまゝれたやうな馬鹿げた気持であつた。むしろ不快がこみあげてゐた。なぜ私がサーカスの一行に加はりたいと思つたか、私は然し、加はる気などはなかつたのだ。たゞ、そんなことを申しでてみたかつたゞけなのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27208-27435">血まみれの少女の顔が私にさうさせたわけでもない。私は多少は感動した。然し、大きな感動ではなかつた。大きな感動にまで意識的に持つて行つたゞけのことだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27435-27653">その上、困つたことには、長島に見せるための芝居気まで有つたと私は思ふ。すくなくとも、喋りだしてのちは、長島といふ見物人をしつこく意識してゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27653-27757">然し、やつぱり、青春の暗さ、そのやみがたい悲しさもあつたのだらう。</seg></p>
      <p>「君は虚無だよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27783-28016">長島の呟きは切なげだつた。彼は私をいたはつてゐたのだ。彼の顔はさびしげだつた。愚行を敢てした者が彼自身であるやうな、影のうすい、自嘲にゆがめられた顔だ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28016-28069">それは自嘲であつたと今私は思ふ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28069-28785">彼は私の前で、又、他の同人に向つても、女に就て語つたことがない。如何なる美女にふりむく素振りもなかつた。ところが、私は彼の死後、彼の妹、彼の家庭的な友人などから、はからざる話をきかされた。彼は常に女を追うてゐたのである。宿屋へ泊れば女中を口説き、女中部屋へ夜這ひに行き、いつも成功してゐたといふ。彼は貴公子の風貌だつた。喫茶店の女に惚れ、顔一面ホータイをまき、腕にもホータイをまいて胸に吊り、片足にもホータイをまいてビッコをひき、杖にすがつて連日女を口説きにでかけたといふ。</seg></p>
      <p>「助平は私たちの血よ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28820-29220">お通夜の席で、彼の妹が呟いた。自嘲の寒々とした笑ひであつたが、兄の自嘲と同じものだ。私はそのとき、あの日の彼の自嘲の顔を思ひだしてゐたのだ。愚行を敢てする者は彼自身であつたのである。彼は人を笑へぬ男であつた。自分のことしか考へることができないタチの孤独者だつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 10em" rend="first-line-indent(10)"><seg source="#source-29220-29257">★</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29257-29550">戦争中のことであつたが、私は平野謙にかう訊かれたことがあつた。私の青年期に左翼運動から思想の動揺を受けなかつたか、といふのだ。私はこのとき、いともアッサリと、受けませんでした、と答へたものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29550-29996">受けなかつたと言ひ切れば、たしかにそんなものでもある。もとより青年たる者が時代の流行に無関心でゐられる筈のものではない。その関心はすべてこれ動揺の種類であるが、この動揺の一つに就て語るには時代のすべての関心に関聯して語らなければならない性質のもので、一つだけ切り離すと、いびつなものになり易い。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29996-30340">私があまりアッサリと、動揺は受けませんでした、と言ひ切つたものだから、平野謙は苦笑のていであつたが、これは彼の質問が無理だ。した、しなかつた、私はどちらを言ふこともでき、そのどちらも、さう言ひきれば、さういふやうなものだつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30340-31290">今、回想しつゝあるこの年代は、もはや動揺の末期であつた。葛巻を訪れると、昨日中野重治が来たとか、窪川鶴次郎が今帰つたところだとか、私は行き違つて誰に会ふこともなかつたが、地下運動の闘士が金策にきて今帰つたといふまだ座布団の生あたゝかい上へ坐つたこともあつた。葛巻も留置され、私はあるじのゐない部屋でたつた一人徹夜してゐたこともあり、そのとき高橋幸一が警察の外に身をひそめて一夜留置場の窓を眺めつゞけてゐたといふ、驚くべき彼の辛棒力であるが、いつか私の家へ夜更けに訪ねてきたが、私の部屋から光が外へもれ、私の勉強の姿が見えるので、外に佇んで私の勉強の終るのを待ち、夜が明けて私が寝ようとするのを認めて、訪ひを通じたといふこともある。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31290-31625">サーカスの一座に加入をたのむ私であつたが、私のやぶれかぶれも、共産主義に身を投じることで騒ぎ立つことはなくなつてゐた。私は私の慾情に就て知つてゐた。自分を偽ることなしに共産主義者ではあり得ない私の利己心を知つてゐたから。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31625-31900">私の青春は暗かつた。身を捧ぐべきよりどころのない暗さであつた。私は然し身を捧ぐべきよりどころを、サーカスの一座に空想しても、共産主義に空想することは、もはや全くなくなつてゐたのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31900-31962">私はともかくハッキリ人間に賭けてゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31962-32105">私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32105-32569">我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32569-32862">政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へらるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性質のもので、政治はたゞ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32862-33086">その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根柢の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33086-33223">自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33223-33384">私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33384-33500">私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">然し、私が政治に就てかう考へたのは、このときが始めてゞはなく、私にとつて政治が問題になつたとき、かなり久しい以前から、かう考へてゐた筈であつた。だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるひは最も多く主義者の「勇気」ある踏み切りに就てゞはなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的にも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。私は当時ナポレオンを熱読したものだ。彼がとらはれの島で死の直前まで語つた言葉の哀れ呆れ果てた空疎さ、世にこれほどの距離ある言葉、否、言葉自体が茶番の阿呆らしさでしかない。私の胸の青春は、笑ひころげつゝ、歎息し、時には涙すら滲んだ夜もあつた。言葉にのみイノチを見る文学がその言葉によつてナポレオンを笑ひうるのか、ナポレオンが文学を笑ひうるのか、私には分らなかつた。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34627-34842">青春の動揺は、理論よりも、むしろ、実際の勇気に就てゞはないかと私は思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えてゐた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34842-35288">そのころアテネ・フランセの校友会で江ノ島だかへ旅行したことがある。そのとき、私の見知らない若いサラリイマンに、妙になれなれしく話しかけられたものであつた。彼は私だけ追ひまはして、私にいつも話しかけ、私の影のやうにつきまとつて私を苦しめたものであるが、あたりに人のゐないとき、彼はとつぜん言つた。</seg></p>
      <p>「あなたには何人の、何十人のお嬢さんの恋人があるのですか」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35377-35463">私は呆気にとられた。彼は真剣であつたが、落着いてゐた。</seg></p>
      <p>「あなたは、あなたを讃美するお嬢さん方にとりまかれてゐる。私はいつも遠くから見てゐたのです。私は寂しくも羨しくもありますが、私の夢をあなたの現実に見てゐることの爽やかさにも酔ひました。あなたは王者ですよ。美貌と才気と力にめぐまれて」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35813-36100">彼の言葉はかなり長いものだつた。彼は私の友達になりたいのではなく、たゞ、私に一言話しかける機会だけを持つてゐたといふのである。私の現実に彼自身の夢の実現を見て悲しく酔つてゐるといふことを。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36100-36291">そして彼は私に話すべく用意してゐた言葉だけを言ひ終ると、変にアッサリと立ち去つた。そしてもう私の身辺へ立寄らうとしなかつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36291-36332">実際バカげた青年だつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36332-36610">私にはお嬢さんの恋人どころか、友達だつてありはしない。彼はいつたい何を夢見てゐたのだらう？　私の身辺の何事から、こんな思ひもよらぬ判断がでてくるのだか、思ひ当ることは一つもなかつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36610-36903">けれども私は長島と白水社でフランスの本を買つて出たたそがれ、やつぱり見知らぬ青年によびとめられた。この青年は三十をすぎてゐるやうだつた。彼は私とちかづきになることを長らく望んでゐたのだといふ。</seg></p>
      <p>「十五分だけ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36926-37078">彼は十五分に力をいれて言つた。十五分だけ自分と語る時間を許せと言ふのだ。私たちは喫茶店へはいつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37078-37389">彼の語つたことは、然し、彼自身の心境だけで、傍観者以外であり得ない無気力、マルキストにもなれなければエピキュリアンにもなり得ない、安サラリイマンの汲々たる生活苦が骨の髄まで沁みついた切なさに就てゞあつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37389-37769">彼は小男であつた。そして安サラリイマンの悲劇、傍観者の無気力、虚無に就て語りながら、然し彼は傲然と椅子にふんぞり返つて、およそ何物をも怖れぬやうな威張りかへつた態度であつた。たゞ、口べりに苦笑がうかんでゐたが、私をも刺殺するやうな横柄な苦笑であつた。</seg></p>
      <p>「君には自信がある。満々たる自信だ。君はいつも大地をふみしめて歩いてゐるやうだ。僕は君を見るたびに、反撥とあるなつかしさ、憎しみと切なさのやうなものを、いつもゴッチャに感じてゐたものだ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38050-38283">彼はかう私をおだてるやうなことを言ひながら、益々傲然とふんぞりかへり、苦笑は深かまり、私を嘲笑するかのやうなふうでもある。彼はとつぜん言葉を切りかへて、</seg></p>
      <p>「僕は近々日本を去る。支那へ行つてしまふのさ。何物と果して訣別しうるかね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38396-38503">彼は悠々と立上つて私たちにいとまをつげ、傲然と消えてしまつたものだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38503-39069">満々たる自信どころか、ひとかけらの自信、生きぬくよりどころのない私であつた。私の踏む足はいつも宙に浮いてゐたのだ。私は私自らが、人生を舞台の茶番の芸人にすぎないやうな悲しさ、もどかしさに、苦しめられたものだ。なんとも異様なむなしさだつた。彼等は私を嘲笑してゐるわけではなかつたらう。傲然先生の口べりの苦笑も、彼はさういふふうにしかその親愛を表す手段を知らなかつたに相違ない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39069-39602">葛巻義敏なども、よそ目には最も幸福な人のやうに人々には思はれてゐたのである。彼は柔和な貴公子で、芥川龍之介の甥である。人々は彼が多くの麗人たちにとりかこまれ、いづれアヤメと思案中、さういふ多幸な憂鬱を嗅ぎだしてゐるやうだつた。ところが御本人ときては、ある令嬢に片思ひで、夜は悶々ねむられず、カルモチンをガブのみにして、寝台からころげ落ちてゐるのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39602-39728">そして葛巻と私は、芥川家の二階の一室で、言ひ争ひ、幾夜徹夜したであらうか。私はプン</seg><choice source="#source-39728-39734"><orig>／＼</orig><reg>〱</reg></choice><seg source="#source-39734-39874">怒りながら飜訳してゐる。彼は小説を書いてゐる。どちらもひどい速力なのだ。私はいつも暗かつた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39874-40225">私は思ひだす、あの家を。いつも陽当りの良い、そして、暗い家。戦争はあの家も小気味よく灰にしてしまつたさうだが、私の暗い家は灰にならない。その家に私の青春がとぢこめられてゐる。暗さ以外に何もない青春が。思ひだしても、暗くなるばかりだ。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-40233-40552"><seg type="source-line">底本：「坂口安吾全集　05」筑摩書房</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1998（平成10）年6月20日初版第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">底本の親本：「潮流　第二巻第五号」潮流社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1947（昭和22）年6月1日発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「潮流　第二巻第五号」潮流社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1947（昭和22）年6月1日発行</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-40552-41038"><seg type="source-line">※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」（区点番号5-86）を、大振りにつくっています。</seg><lb/><seg type="source-line">入力：tatsuki</seg><lb/><seg type="source-line">校正：深津辰男・美智子</seg><lb/><seg type="source-line">2009年4月20日作成</seg><lb/><seg type="source-line">2016年4月15日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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