Soranoha

ジロリの女

ジロリのおんな

坂口 安吾

私は人の顔をジロリと見る悪い癖があるのだそうだ。三十三の年にさる女の人にそう言われるまで自分では気づかなかったが、人の心をいっぺんに見抜くような薄気味わるさで、下品だという話だ。それ以来、変に意識するようになり、あゝ、又やったか、そう思う。なるほど、我ながら、変に卑しい感じがする。魂の貧困というようなものだ。男にはメッタにやらぬ。自分では媚びるような気持のときに、逆に変にフテブテしくジロリとやるようなアンバイであるらしい。然し、どんな時にジロリとやるのだか、自分にも明確には分らず、その寸前に、あゝ今、やるな、と思うと果してジロリとやるグアイで、意識すると、後味の悪いものだ。

けれども、三十三の年までは、自分のことには気がつかず、女の人が私に対して、そうするのだけが、ひどく切なく胸にこたえて仕方がなかった。すべての女が私にそうするわけではない。あるきまった型の女の人だけがそうで、キリキリ意地っぱりの敏腕家という姐さん芸者や女将などがそうなのである。

そういうタイプの女は、私と性格的に反撥し、一目で敵意をもったり、狎れがたい壁をきずいたりするふうで、先ずどこまでも平行線、恋など思いもよらぬ他人同志で終るべき宿命のものゝようだ。

だから、私が口説いてモノになったという女は、もっとベタ〱とセンチな純情派や肉感的な荒々しい男性型、平凡な良妻型などいう月並なところで、知的な自信や骨っぽさのある女は例のジロリで、私と交る線がない。ところが、ジロリ型の婦人に限って、美人が多い。

然し、交る線がないということは、おのずから恋愛感情に自制や限定をつくるものか、コイツ美人だな、と思っても、夢中になるような心にならない。つまり恋愛というものは、そして恋愛感情というものは、無軌道に自然奔放なものではなしに、おのずから制限のあるもので、たとえば異国の映画女優に、どんなに夢中になったところで、悶々の情、夜もねむれずというような恋愛感情は起る筈のないものなのである。

だから私は若いときから、しばしば女にベタ惚れという惚れ方をして、だらしなく悶々と思いつめたり、夢心持によろこび、よろこびのあまりに苦悶、苦痛、ねむれず、まことにとり乱してあられもない有様であったが、それはみんな手ぢかな女、中には万人の認める美人もいたが、気質的に近い人、成功率の高いある型に限られていた。ジロリ型の女は、始めから他人のつもりにしている自然の構えができていたのである。

然し、ジロリ型の女でも、手をつくして口説けばモノになるということが分ったのは私が大学を卒業する二十四の年、そのときから、私の人生が変った。

そのころの東京はまだ漫才というものが一般的なものでなく、寄席にかゝることも稀れで、浅草の片隅などでごく限られた定連相手に細々と興行していただけであった。私はそこの常連で、ついには楽屋へ遊びに行って漫才師と交驩こうかんするような、学生時代をそんなことで空費したのであるが、あるとき漫才屋さん方に時ならぬ欠勤続出して、舞台がもてなくなる騒ぎ、そのとき、楽屋へ一人の女漫才嬢が遊びに来合せていた。彼女は亭主の漫才屋さんと喧嘩別れして、目下相棒がなくて、楽屋へ油を売りに来ていたのだ。そこで私が、

「どうだい、アヤちゃん。あなたと私の即製コンビで、お手伝いをしようじゃないか」

「あんた、できる?」

「やってみなきゃア分らないやね。然し、なんとか、なるでしょう。お客さん方も幕を睨んでいるよりはマシだろう。まさか舞台へとび上ってヒッパタキにくることもなかろうさ」

というわけで、着物を拝借して、高座へ上った。なんとか呼吸も合い、私が浪花節を唸ったり、ヒッパタかれてノビてみせたり、ハデなもので、それから十日間ほど、やった。思うに第一回目が最上の出来で、このときは気持に特別のハリがこもっていたせいか、却ってスラスラ、うまく呼吸もあい、ハデな珍演も湧出というていであったが、芸ごとゝいうものは本腰にかゝると全然ウダツがあがらぬもので、三日四日とだんだん自分のヘタさが我が目に立つばかり、自縄自縛というものだ。

ところでその何日目かのことであるが、私が大学の三年間、親の脛すねをかじりながら、安値に遊ばせて貰ったさる土地の、私のナジミの妓を抱えているのが土地の名題の姐さんで、金龍という、この姐さんがジロリの女であった。

私のナジミの妓は照葉という平凡な、いつも金龍に叱りつけられているような女だから、私が金龍姐さんのジロリを反撥し合って両々ソッポの向けっくらでも一向に気にもかけない。姐さんは我利々々の凄腕すごうでの冷めたくって薄情者の男だましの天才なのよと色々と内幕をあばいてきかせる。それが一々却ってその悪党ぶりに魅力をひかれるていであるが、まだそのころは、私はこれは他人だという、てんからきめこんだ構えがあるから、その魅力も、たゞきゝおく以上に身に泌しみた情慾をかきたてるものとはならなかった。

私は漫才のお手伝いをしたとき、これは一度、ぜひともナジミの彼女方に披露しておく必要があると思って、招待を発した。そのとき、どういう風の吹き廻しか、若い妓たちと一緒に金龍姐さんが現れたのである。

あのとき私が筆をふるって自ら出演の紙札を書いた即席の芸名が、漫才、ゴロー三船、つまりただ私の本名を二つに分けたにすぎないのである。

「あなたは本名を二つにわるぐらいの人なのね」

と金龍姐さんは例のジロリと一ベツして、こう言ってソッポをむいた。なんの意味だか分りやしないが、何か気のきいたヤッツケ文句のつもりであろう。意あまって言葉足らず、姐さんはチョットそういう御仁でもあった。

それからの一夜、私が照葉をよぶと、同じ待合でよそのお座敷をつとめていた照葉がやってきて、

「ゴロー師匠にお座敷よ」

という。

金龍姐さんが客人に披露して、こんどこの土地にゴロー三船という大学生幇間ほうかんが現れたのよ、趣向が変ってバカらしいから呼んでやりなさい、と言ったという。

私も癪にさわったが、よろし、その儀ならば、目に物を見せてくれよう、というわけで、幇間になりすまして、即席、見事に相つとめて見せた。

すると金龍姐さんは案外にも、宴の終りに、この人はホンモノの幇間じゃなくて、大学生であり、こんど卒業だから、あなた方、カバン持ちにやとって上げなさい。あなた方も遊びが本職の仕事のような御方ぞろいなのだから、こんなカバン持ちも趣向でしょうよ、と云ってくれて、その場で就職がきまった。私はモーロー会社々長の秘書にやとわれたのである。おかげで、官費で遊べるようになったが、その代り照葉は社長の悪友にとりあげられて、甚だ貧しいミズテン芸者をあてがわれることになったのである。

モーロー会社はつぶれ、社長は雲隠れ、悪友どもゝ四散して、この土地に現れなくなっても、私だけは大学時代からの精勤であった。そして私は自然のうちに金龍姐さんの幕僚になっていたのである。

私は金龍にコキ使われ、嘘をつかれ、だまされ、辱しめられ、そして手切れだの間男の尻ぬぐいだのに奔走した。

私は然し平然として、腹をたてず、お世辞をつかい、惚れているが、思いがとげられないような切ない素振りをみせた。そうすることが、姐さんの気に入ることが、自然に分ったからである。

それは私の本心でもあった。金龍姐さんの凄腕や薄情ぶりには私もホトホト敬服していた。男なんか屁とも思っていないのだ。そして男をだますことがたのしいのである。たのしいのだか、どうだか、そこまでは知らないけれども、生れつきがそういう天性の根性で、六代目が素敵だとかハリマ屋がどうとか、そんな芸者なみの量見は全然ない。尤も、なんでも知っているし、見てもいる。それも男をだます技術の一つであるからで、三味線や唄も達者なのだが、それがダマシの技術上必要な時でなければ用いたためしはない。万事につけてその筆法で、その意味の専門技術士であった。

私は酒間に、わざと、何年間と思いやつれている人がいるんだけど、一晩ぐらい、なんとか、ならないものかなア、などゝ三日に一度ぐらいは特別の大声で言うのであった。

又、金龍が待合などで風呂へはいるとき、せめて三助でいゝや、玉の肌にふれるぐらいはしてみてえなア、と言ってみたり、実際にガラリ戸をあけて、いかゞ、お流し致しましょうか、と言ったりする。すると例のジロリと一べつ、私は然しイサイかまわず、後へまわって流してあげる。できるだけテイネイに、やわらかく、心をこめて流してあげる。それは尊敬というものだ。この尊敬のまごゝろほど御婦人の心に通じ易いものはない。

だから、そのうちには、昼さがりチャブダイにもたれて雑誌かなにか読んでいるうちに、ふと私の方へ白い脚を投げだして、

「蒸しタオルで足をふいてちょうだい」

イサイ承知と、さてこそ私はマゴコロこめて、毛孔ひとつおろそかにせず、なめらかに、やわらかく、拭いては程よく蒸し直し、それに心根さゝげる。まさしく魂こめるのである。

夏は冷めたいタオルで、膝小僧のあたりまで、ふく。私は然し劣情をころし、そういう時には、決して、狎れず、ただ忠僕の誠意のみをヒレキする。

然しそれは恋愛の技法上から体得したことではなくて、処世上、おのずから編みだしたことで、なぜなら私は金龍によって、金銭上の恩恵を蒙っており、金持ちの客に渡りをつけて、それからそれへ儲けの口を与えてくれるからであった。だから私は金銭上の奴隷として女王に仕えつゝあるうちに、おのずから恋愛の技法を発見するに至ったのであった。

私は一夜、お客をふって中ッ腹でもどってきた金龍の情けをうけて、夢の一夜を経験した。それは金龍に奉仕して四年目、私が二十八、金龍は二十七であった。

そして、奴隷、間夫まぶという関係は、私が三十七の年まで、戦争で金龍が旦那と疎開するまで、つゞき、そして金龍は旦那と結婚して田舎へ落ちついて、もとより私のことなどは、忘れてしまった。

★

私がこの手記を書くのは、金龍の思い出のためではないのだ。私ももう四十を越した。私の一生は金龍によって変えられ宿命づけられたようなものであった。

私は二十六の年に平凡な結婚をして、今では三人の子供もある。私は然し、恋愛せずには生きられない。けれども、私にとって、気質的に近い女を手易く口説いてモノにするのは恋ではなく、私の情熱はそのような安直な肉体によって充たされることが、できなくなっていた。私は例のジロリ型の反撥に敵意をいだく女を、食い下り追いつめて我がものとすることだけに情熱を托しうるのであった。それは金龍が私の一生に残してくれたミヤゲであった。

金龍と私との十年の歳月は多事多難であったが、又、夢のようにも、すぎ去った。私は多情多恨であり、思い屈し、千々に乱れて、その十年をすごしはしたが、なにか切実ではなかったような思いがする。

四十にして惑わず、という、孔子は不惑をどの意味で用いたのか知らないけれども、私にとっても、四十はまさしく不惑で、私は不惑の幽霊になやまされているのである。

私の不惑という奴は、人生の物質的発見というような、ちょッと巧うまく言い現わしができないけれども、感傷とか甘さというものゝ喪失から来たこの現実の重量感の負担であった。

私自身が昔から人をジロリと見る癖があったというが、そういうジロリの意識の苦しさが、つまり今では私のノベツの時間のような、現実というものにたゞ物的に即している苦しさ冷めたさで、心というものが、物でしかないようで、それが手ざわりであるような自覚についての切なさであった。

それはまさしく不惑なのである。惑うべからざる切実な現実感覚なのである。

私は自分の子供でも、やっぱり、ジロリとみる。そして、それが、私の心の全部であるということが、ハッキリとわかった。むろん女房に対してもジロリであり、金龍に対しては、これは昔からジロリ対ジロリによって終始している関係であった。すべてがジロリであった。そのほかには、何もない。そういうことがハッキリしてきた。この発見は、せつない発見であった。発見というものではない、それが現実の全部であるという切実な知覚であった。

日本は負けた。サンタンたる負け景色であるが、私の方は、それどころじゃない。もっとサンタンたるもので、まるでもう、心には一枚のフトンはおろか、ムシロもなく、吹きさらしだ。

私はインチキ新聞の社長であった。インチキといっても恐カツなどやるわけじゃない。その方面では至って平和主義者であるが、つまりたゞ、配給の紙の半分以上は闇に流すという流儀なのである。同時に私はインチキ雑誌をやっていた。このインチキはエロ方面で、雑誌の五分の四頁ぐらいは色々の名前で私が一人で書きまくる流儀であった。

私は遊ぶ金が必要なのだ。だから必死に稼ぐ必要があるのである。要するに、私は、それだけなのだ。

私は三人の女を追いまわしていた。いずれもジロリの女であった。

一人は四十一の未亡人で、亡夫の院長にひきつゞいて病院を経営していた。亡夫が私の従兄で、その関係で、病気のたびにこの病院のヤッカイになり、家族はもとより、金龍も入院したことがあった。あげくに院長と関係ができて、このときは辛い思いをしたものである。このときばかりは、特別、嫉妬に苦しんだ。病気のたびに世話をかけるばかりでなく、金銭のことでもかなり迷惑をかけており、ヒケメを覚えて卑屈になっているときは、口惜しさがひどいのだろう。嫉妬といっても、立場は奴隷にすぎないのだから、ゴマメの歯ぎしりという奴だ。

ウップンを金龍にもらすわけに行かないから、このとき私はひどいヘマをやった。院長のところへ行って、金龍は私のものだというようなことを、それとなく匂わしたのだ。

院長は豪酒と漁色で音にきこえた人物だが、金と地位があり、遊びは自在で、妾をたくわえるというような一人の女に長つゞきしない性質であった。金龍は奥さん同様のジロリ型で、だいたいこういう型と結びつき易い男であるから、要するに男としても、私にとっては苦手の型であったのである。つまり、冷酷で、残酷であった。

この結果は、私が金龍の出入り差しとめを食うという哀れな自爆に至ったばかり、私はもはや嫉妬どころの段ではなかった。

私は死にますと言った。そのとき金龍はキリキリと眉をつりあげて、

「死になさい。私の目の前で、死んでみせなさい」

私は意地にも死んで見せますと言いたかったが、言えなかった。私はゾッとした。ノドを突こうと、毒薬を飲もうと、私がのたうって息絶えるまで、眉ひとつ動かしもせず、ジッと見つめているのだ。見終ると、フンとも言わず立去って、お座敷で世間話でもしているだけだ。私は、すくんだ。

私は魂がぬけてしまった。ふらふら立上って、二階へ登って、若い妓の着物のブラ下っているのを、一時間ほども、眺めていたのである。そのうちに、もはや一つの解決しか有り得ないと自分の心が分ったので、私は降りてきて、両手をついて、あやまった。

「心を入れ換えます。いゝえ、心を入れ換えました。今後はたゞもう、誠心誠意、犬馬の労をつくして、君の馬前に討死します。毛頭、異心をいだきません」

君前に討死します、と言ったので、一緒にいた若い妓が腹をかゝえて笑いころげてしまった。そして、さすがの金龍もクスンと苦笑いして、私は虎口を脱することができたのである。

金龍は意地の悪い女であった。そんな風に腹をたてると、たゞはキゲンを直してくれず、もう冬近いころだというのに風呂桶にマンマンと冷水をみたして、私にはいれ、というのであった。そして私がふるえながら蒼ざめて水にはいるのを、ジット見つめていて、面白くもなさそうに振向いて立去るのだ。

私は要領を心得ていた。そういう時には、できるだけバカバカしくふるまって、笑わせるに限る。だから、冷水風呂にはいれ、という。ハイ、かしこまりました、どうせハダカのついでだから、今日は縁の下の大掃除を致しましょうと云って、いきなり、下帯ひとつに箒ほうきをかついで縁の下へもぐりこみ、右に左に隈なく掃き清めてスヽだらけ黒坊主、それより冷水風呂へはいる。重労働の結果はカラダもあたゝまって冷水への抵抗もつくというもので、縁の下の大掃除には、又、それのみにマゴコロこめて虚心の活躍、これが大切なところである。

終戦の年の暮であったが、院長が死んだその葬式に、私は喪服の未亡人、衣子を見つめつゝ、神に誓い、又、院長の霊に誓い、必ずあなたを私の恋人の一人の席に坐らしめてみせます、と堅く心を定めた。そして、あなたの未亡人は必ず私の恋人の一人としますから、と、心に約束の言葉を述べつゝ、霊前に焼香し、黙祷したのであった。

衣子はもはや四十一、十九の女子大学生があり、十四の中学生があったが、その冴えた容色はなお人目をひき、目も切れて薄く、鼻もツンと薄く、唇も薄く、すべてが薄く、そしてそれは金龍と同じ性質のもので、そしてやっぱり私をジロリと見るのであった。

私は然し、こういう女の生態が分らない。金龍は浮気、浮気というよりも妖婦であったが、芸者ならざる衣子の場合はどうだろう? 私には予測がつかない。一般の型によっても、割りきれない。そのことが、又、さらに私の冒険心と闘志をふるいたたせた。

私は先ず年来の恩義を霊前に謝する意味に於て、多額の新円をたずさえて、幾たびか足を運び、そうすることによって、女の客間の交通手形のようなものを彼女の心に印刷させることができた。

私はそのために貧乏であった。必死に稼がなければならないのである。

そして私は、衣子を観劇などに誘っても応じてくれる見込がついたときに、彼女の趣味を発見することに注意した。彼女が好きであるものに誘うというのは芸がない。彼女が好きな筈であるが、まだ彼女の知らないものに誘い、感謝をうけることが必要なのだ。衣子は感謝を知らない女であっても、要するに彼女の心をある点まで私の方に傾斜せしめることが必要で、そのためには、微細に注意した筋書きを組み立てゝ行くことが必要なのである。彼女は元来が私のようなガラ八の性格に反撥軽蔑する別人種であるのだから。

ところが私は念には念をいれたあげくに、哀れビンゼンたる手法を用いてしまったのである。由来、恋のかなわぬ恋人というものは、とかく恋仇に恋の手引きをするような奇妙なめぐり合せになるものだが、そのあさましさを知りながら、私もそのハメに自分を陥し入れてしまったのである。

衣子には恋人があった。亡夫の院長は盲腸だの癌だの内臓外科の手術に名声ある人であったが、その歿後は、亡夫の級友で、大学教授の大浦市郎という博士が週に二回出張して金看板になっている。この人が衣子の恋人であった。

大浦博士は色好みの人であるから、衣子という一人の女に特別打ちこむようなところはなかったのだが、その財産には目をつけた。そういう人だから、私が砂糖だバタアだ醤油だ米だとチョイ〱差上げるのを狎れてきて、まるで当り前のように、今度は何をとサイソクする。私を三下奴さんしたやっこのように心得ている。先方がこうでるようになればシメタもので、私の方はサギにかけよう、今に大きくモトデを取り返してやろう、そんな金モウケはミジンも考えていないのだから、相手が私をなめてくれると、友達になったシルシのように考えるだけの話なのである。

なめられる、ということは、つまり相手が私に近づいてくれたことなのである。さしずめ、私は、もう背中を流してやることができるわけで、女の場合なら、その肌に近づいたというシルシなのだ。

だから、私は、わざと、こうやって犬馬の労をつくすからは、私だけ、ということはないでしょう、私にも、なにかモウケさせて下さいな、と云って、大浦博士の文章をいたゞいて、新聞や雑誌にのせる。精神病だの婦人科だの法医学などゝ違って、内臓外科、こんなものゝ文章は当節は一向に読み物にはならず、大博士の文章でも、もらって有難メイワクであるが、そんなソブリはいさゝかも見せず、たゞもう嬉しがり、恩に感じて見せるのである。

その返礼は何か、というと、つまり、アイツは気立のよい奴だ、腹に一物あるようなところもあり、そゝっかしい愚か者だが、案外心のよい奴だ、そう言ってくれる。そのうちには、案外あれで頭もよい、となり、アイツは却々なかなかシッカリした奴だ、手腕もある、だんだん、そういう風になる。私のモウケは要するに、それだけでよかった。こうして、衣子の周囲に、おのずから私の方へ向いてくる傾斜をつくることが大切なのである。

ある日のこと、大浦博士の自宅へよばれたので、出向いてみると、私に一肌ぬいで貰いたいことがあるという。

大浦氏は、富田病院の財産に目をつけたが、女房子供もある身のことで、衣子と結婚するというわけにも行かぬ。衣子が又、したゝかなところがあって、金銭上のことになると、色恋とハッキリ区切って、金庫の上にアグラをかいているような手堅いところがあった。

大浦博士の末弟は大浦種則という私大出の婦人科の医学士で二十八、まだ大学の研究室にいる、これを衣子の長女の美代子という十九になる女子大生とめあわせることを考えた。種則を富田病院の入聟いりむこにする。衣子の長男はまだ十四で、独立するまでには時間があるから、富田家の財産を折半して、病院の方は美代子にやらせる。長男は何職業を選ぶのも本人次第、気まゝに勉学させて、成人後、財産を分けて独立させる、という大浦博士の思惑なのである。

この話は、衣子がなかなか乗ってくれない。そこで私に一肌ぬいで、うまくまとめてくれないかという相談なのだ。

「衣子夫人の信望を一身に担っている博士に説得できないことが、私なんかに出来ませんや。私なんか親類縁者というわけで出入りはしているものゝ、親身にたよられているわけじゃアなし、第一、それだけすゝんでいる話を、今まで相談もうけたことがないのだから」

「そこが君、私が信望を担っているといったところで、私が当事者だから、私には説得力の最後の鍵が欠けているのさ。あれで、君、君の世間智というものは、衣子さんに案外強く信頼されているんだぜ。女というものは妙なところに不正直で、これは自信がないせいだと思うんだがネ、ひどく親しく接触しているくせに、その人を疑ったり蔑んでいたり、疎々うとうとしくふるまう相手を、内々高く買っていたり、君の場合などがそうで、案外高く信頼されているのだよ」

と大浦博士は言った。

博士は人に接触する職業の人であるから、人間通で、人の接触つながりに就ての呼吸を心得ている。それで私の場合も、衣子と私とのツナガリにわだかまる急所のところを、こうズバリと言ってのけて、つまりは私の説得に成功した。衣子が内々私を高く評価しているか、どうか、むしろ博士はそうでないことを知っているから、アベコベのことを言った。私は博士の肚をそう読んだが、往々にして、こういう策のある言葉が実は的を射ていることがあるもので、人間通などゝ云ってもタカの知れたもの、人間の心理の動きは公式の及ばぬ世界、つまり個性とその独自な環境によるせいだ。

博士のオダテは見えすいていたが、それが案外的を射てもいるように思うことができたから、私は内々よろこんだ。要するに、私はウマウマとオダテにのったわけで、私はつまり、こういう甘い人間である。こせっからくカングッたあげく、要するに、向うの手に乗っているわけなのだ。

けれども私はよろこんで、じゃア、まア、ひとつ、ともかく私から話してみましょうなどゝ、つりこまれたフリをした。

そこで私は衣子に、

「まア、なんだなア、私はどうも、大浦先生のお頼みを受けてこの縁談のことを頼まれたわけだけど、大浦先生には大恩をうけているからイヤとは云えず、然し、どうも、縁談などゝいう礼儀正しい公式の世界は私の苦手ですよ。私はレッキとした天下のヤミ屋だからね。だから、あなた、浮気のとりもちだとか、オメカケの世話だとか、そういうクチなら柄にかなっているけれども、縁談ときちゃア、とりつく島がないですよ」

と、まず頭をかく。これがカンジンなところで、夫婦ゲンカは犬も食わぬ、と云われる通り、カラダを許し合った二人というものは鋭く対立していても、ともかく他人じゃないのだから、こっちのことは、みんな一方の口から一方へ筒抜けになるものと心得ておかねばならぬ。

大浦博士からこう頼まれたけれども、実は私はこの縁談に反対だと云ってしまうと、一時は衣子を喜ばせるかも知れないが、これがいつどう変るか、相手の二人は他人じゃないということは、これが私の片時も忘るべからざるオトシアナというものだ。

「縁談などゝいうものはマトモすぎるからヤヽコシクて、これがあなた、当世のヤミ商談なら、公定千円の紙、ヤミに流して二千五百円、これを百レン買って二十五万円、これを一万何千部かの本にして一冊七十円、七カケで売ってザッと七十万、諸がゝりをひいて、二十万はもうかる。じゃア買いましょう、ハイお手打ちということになる。話はハッキリしていまさア。縁談という奴は、ソレ家柄だ、合い性だ、そんなモヤモヤしたものは、ヤミ屋じゃ扱えないね。これがオメカケとくるてえと、合い性も家柄もありませんや、年齢も男前もないのだから、月々いくら、これはハッキリ、つまりヤミ屋の扱いものになるんだけど」

と益々シャッポをぬいでおく。実はこの縁談のカケヒキの方が、ヤミ屋の扱いよりも、もっと複雑な金銭勘定、例のお家騒動という含みの深い係争の根を蔵しているのである。こういう古来の家庭的な損得関係という奴は、ヤミ屋の取引には見かけないモヤモヤネチネチしたもので、たしかに私の気質に向かないことは事実である。

ところが甚だ奇妙なことが起ってしまった。

★

そのころ私の社に入社してきた婦人記者があった。陸軍大将の娘で、陸軍大尉と結婚して子供も一人ある二十六の夏川ヤス子という才媛だ。

夫は幼年学校、陸士育ちの生粋の軍人であるから、敗戦にヤブレカブレ、グウタラ、不キゲン、毎日腹を立てゝいる。ヤス子は女子大英文科出身の美貌と才気をうたわれた名題の女で、この人の就職は金銭上のことよりも、家庭の逃避、新生活の発見、人生探求というような意味の方が勝っている。

掘り出し物だと思ったから、即日なにがしかポケットマネーをつゝんで、入社のお祝いまでに、と差上げると、このときヤス子は例のジロリ、一べつをくれたのである。

これは社に定まったお手当でしょうか、と私をハッキリ見つめて言うから、いゝえ、私が差上げるお祝の寸志ですと申上げると、それでしたら辞退させていたゞきたいと存じますが、たっていたゞかねばならないものでございますか、と益々ハッキリと見つめて言う。その目が、妙に深く、うるんで、その奥には、私には距てられた何かゞあり、さえぎられているような気がする。私は笑って、

「いゝえ、そんな大問題のものじゃアありませんよ。もとより、それはです。何かの底意がなければ、なにがしの金円を人に差上げるものではありませんな。然しです。あなたが下さいとも仰有おっしゃらないのに人が勝手にくれるものは、あなたがそれを受取っても、あなたは何を支払う必要もない。私はつまり、あなたのような立派なお方に長く社にいて欲しいという考えで、この寸志を差上げるわけですが、これを受取ることによって、あなたに義務の生じることはありませんです。人が勝手にくれる物は、気軽に受取る方がよろしいです。映画を見たり、本を買ったり、靴の一足ぐらいは買えるでしょう。いくらかなりとあなたの人生のお役にたてば、差上げる私の方の満足というものですよ。あなたが妙にカングルと、そのために人生がキュークツになる。万事気軽に受けいれると、万事が気軽に終始する、人生はそんなものです」

ヤス子は分りましたと受取ってくれたが、そこで私が一夕晩メシに招待して、例の紙の横流しなどザックバランに社のヤミ性をうちあけて、

「かく申さばお分りの通り、私はしがないヤミ屋の一人、たゞ金銭を追いまわしている奴隷ですが、金銭万能というわけではありませんよ。金銭によって真実幸福をもとめうるかどうか、これは問題のあるところですが、金銭をこゝろみずにハナから金銭を軽蔑したり金銭に絶望したりすることは私はとりません。まず金銭をこゝろみて、それによって真の幸福の買えないことに絶望して、精神上の幸福をもとめる、これなら順が立っていますよ。万事こうこなくちゃ、空論だけの人生観は私は信用しないタテマエなんです」

ヤス子は人生探求というタテマエだから、悪徳に対しては一応甚だ寛大で、あるがまゝ全てを一応うけいれて、という心構えであった。編輯などのことでも、啓蒙とか主義主張も、先ず第一に面白く読ませること、それに気がつく女であり、美名とか、たゞ破綻がないという文章などにはだまされない着実なところがある。

誘えば一しょに酒席にもつらなり、ダンスホールにもつきあってくれる。けれども、私をジロリと見る。それは警戒の意味ではなしに、性格的な対立からくるものであった。そこで私は、この夏川ヤス子も、必ずやモノにしなければならぬと天地神明に誓いをたてた。

ある日のこと、私がおくれて出社すると、意外にも、衣子の長女美代子が夏川ヤス子と話をしているではないか。

これが又、小娘ながら、やっぱりジロリの小娘で、何がさてジロリの母からジロリ的観察によって私の内幕を意地悪く吹きこまれているに相違ないから、一人前でもないくせに、てんから私を見くびっている。こういう未成品のジロリは小憎らしいもので、衣子家飼いならしのよく吠えるフォックステリヤ、その程度のチンピラ小動物に心得て、かねて私の敬遠していた存在であった。

「これは、これは、姫君、よくこそ、いらせられた。意外な光臨じゃないか」

自宅にいると、こんな時には即座にジロリ、つゞいてプイと座を立つところだが、さすがに小娘のことで、やゝ俯向いて、クスリと笑っている。

このチンピラがなぜ又ヤス子を訪れたかと云えば、これが又、意外きわまるものであった。

美代子が附属の女学校へあがったころ、ヤス子は大学英文科評判の才媛で、全校の女王のような存在であった。美代子はチンピラ組の女王であったが、かねて大女王にあこがれたあげく、自分も成人して大学英文科にはいり、あのような御方になりたいと思いつのって、ラヴレターのようなものを差上げて、ヤス子にコンコンと諭されて嬉し涙を流すという古いツキアイの由であった。あげくに初志を貫徹して、目下大学英文科御在学であり、小娘の一念、あなどるべからずである。

戦禍のドサクサ以来音信も絶えていたが、このたび我が身にあまる悩みの種が起って、姉君に相談したいと手をつくして、住所をつきとめ、かくてわが社へ御来臨と相成った次第の由、悩みの種とは、申すまでもなく、例の縁談のことであった。

さて姉の君を訪れてみれば、こは又意外、かのエゲツなきヤミ屋の奴めが社長とくる。姉の君の御威光は大したもので、私に対しても、手の裏を返したように、フォックステリヤではなくなった。

美代子は縁談の相手の男、種則という婦人科医者が嫌いだという。然し私の見るところでは、種則が嫌いではなく、嫌いになろうとしているだけだ。彼女が嫌っているのは、この縁談のフンイキなのである。

少女のカンはたしかであるから、この縁談にからまるお家騒動的フンイキをかぎだして胸をいためているのである。

「実は私も、その話では、かねて大浦先生の依頼をうけて、美代子さんの御心労とはアベコベに、なんとかマトメてくれというお話があったんだよ。美代子さんのような可憐な小鳩を敵に廻しちゃ、私も地獄へ落ちなきゃならない。私も心を入れかえて、美代子さんの気持を第一番に尊重して、犬馬の労をつくしましょう」

こうマゴコロをヒレキする。するとチンピラ動物はとたんに喜んで、実は私は、別に好きな人があるのだなどゝ言いだした。こんな文句をまともにきくと、とんでもないことになる。

この病院に岩本という婦人科の医者がいた。まだ三十だが、手術は名手で、患者の評判が甚だよろしい。大酒飲みで、生一本の男であるが、それだけに、粗野で、私同様、ジロリの女に軽蔑毛ぎらいされる男であった。

この岩本が美代子を自分の女房にと衣子にそれとなく申入れていたのだが、商売柄、女のことでは浅からぬ経験があるくせに、持って生れた性格は仕方のないもので、性格だけの手法でしか女の観察ができないためか、衣子に内々嫌われていることに気がつかない。患者の評判がよろしいから、衣子も大切にする。岩本の申込みもていよくあしらい、気をそらさぬように努めているうちに、今度の縁談であるから、岩本が持ち前の強情で、対抗的に談判を開始する。あらたに聟たるべき人物は、婦人科の医者であるから、自分の地位にも関係する問題であった。

この岩本を美代子はかねがね最も嫌っていたのであったが、大浦種則の縁談が起る、そして私が一肌ぬぎましょう、とこうでると、実は私、岩本さんが好きなのよ、と言いだした。これ実に、私という存在に対する無意識の軽蔑の如きものであり、巧まざる嘲弄、もしも私以外の然るべき人物が一肌ぬぎましょう、と持ちかけたら、こんな軽ハズミなことは言わなかったに相違ない。

「おや〱美代子さん、それは本当ですか。そんな言葉を、私がそっくり岩本先生にお取次する、そのとき、岩本先生が、例の猪の如き早のみこみをもって、得たりとばかり、あなたをさらってお嫁にしてしまう。悲鳴をあげても、あの猪の先生にかゝっては、もう、手おくれですよ」

と、眼にやさしい笑みをこめて睨んであげる。美代子はクスリと笑って、返事をしない。

こうして見直すと、成熟しかけたジロリの娘、親の顔にやゝふくらみを持たせ、目は細からずパッチリしているが、やっぱり全体どことなく薄く、白々と、父親の酷薄な気性をうけ、父の性もうけ、情火と強情と冷めたさをつゝんで、すくすくと延びた肢体、見あきないものがある。

そこで私は、この小動物も、万苦をしのび、いつの日かモノにする折がなければ、生れいでた主意がたゝぬと、堅く天地神明に誓いをたてた。

私は然し、肉慾自体に目的をおくものではなかった。金龍の手練は美事であったし、謎のゆたかな肉体というものならば、私程度の遊び人は、誰しも一生に五人や六人その心当りはあり、然し、そのようなものによっては、我々のグウタラな魂すらも充たされぬものであることを知っている筈のものだ。

私はすでに三十のころから、単なる肉慾の快楽には絶望していた。

恥をお話しなければならぬが、私が金龍にコキ使われ、辱しめに堪え、死ぬ以上の恥を忍んで平伏してふし拝んだり、それというのも、肉体のミレンよりも、そうすることが愉しかったからである。

私というものは、金龍にとっては歯牙にもかけておらぬ奴隷にすぎず、踏んだり蹴ったり、ポイとつまんでゴミのように捨てゝ、金龍は一秒間の感傷に苦しむこともないのである。男女関係に於て、その馬鹿阿呆になりきること、なれるということ、それが金龍を知ることによって、神に授けていただいた恩寵であり宿命であった。

三人のジロリの女を射とめなければならないこと、そしてそれが特にジロリの女でなければならぬこと、これ又、私の宿命である。

こう言いきると、いかにも私がムリに言いきろうとしているように思われるかも知れないが、ムリなところは更にない。あべこべに、私の生きる目的が、もはや、これだけのものだ、とハッキリ分ってしまったことが、切ないのである。自分の人生とか、自分の心というものに、自分の知らない奥があり、まだ何かゞある。そう感じられる人生は救いがあるというものだ。

私のように、自分がこれだけのものだと分ってしまっては、底が知れた、あとがない、ヌキサシならぬ重量を感じる。首がまわらぬ、八方ふさがり、全体がたゞハリツメタ重さばかりで、無性にイライラするばかり。

そのあげくには、自分の人相がメッキリ険悪になったという、鏡を見ずに、それが感じられる変な自覚に苦しむようになった。

目薬をさしたり、毎日ていねいにヒゲをそったり、一日に何回となく顔を洗ったり、できれば厚化粧のメーキアップもしたいような気持になるのも、美男になりたい魂胆などでは更になく、たゞ人相をやわらげたいという一念からだ。

私は然し、こうして三人のジロリの女に狙いをつけても、決して恋愛の技術などに自信のあるものではなかった。私はたゞ目的に徹し、目的のためにのみ生きることに自信をかけていた。そして、目的のためにマゴコロをさゝげる。したがって、この御三方にマゴコロをさゝげる。私の知る口説くどきの原理はそれだけであった。

私など本来のガラッ八で、およそ通人などゝいうものではなく、又、もとより、人間通でもない。だから、堅く天地神明に誓いをたてて御婦人を追い廻しても、悟らざること甚しく、恋いこがれ、邪推し、千々に乱れて、あげくには深酒に浮身をやつす哀れなキリギリスにすぎなかった。

もっとも、色道はこれ本来迷いの道であるが、私などはその迷いにすら通じてはおらず、こしかたを振りかえればサンタンたるヌカルミの道であったが、後世のお笑い草に筆をとるのも、今は私のはかない楽しみである。

★

十九の娘の縁談などゝいうものは、男が好きだの嫌いだのと云っても、恋愛感情によってじゃなしに、全然浪漫的気分によって自分の人生を遊んでいるに過ぎないようなものだから、好きも嫌いも、ちょッとの風の吹き廻しで、百八十度にグラリと変ってすましたものだ。

岩本は芸なし猿で、美代子に直談判して、大浦博士と衣子に関係があること、今度の縁談はていよく病院を乗取る魂胆だというようなことをきかせたものだ。美代子は内々そのフンイキを感じて怖れていたのだから、これを別の人の口からきかされたら話は別だが、それによって利益を得る当人が自ら言ってはブチコワシで、事の当否にかゝわらず、綺麗ずきの娘心が立腹するのは当然である。

あなたは卑怯者、脅迫者だと云って、美代子は即座に岩本に最後の言葉をたゝきつけた。

美代子の激昂はそれだけではおさまらず、衣子を面詰して、私のことをダシに使わず、お母様自身大浦博士と結婚したらいいでしょう、と罵った。まだそれでも、おさまらない。大浦博士を同じように面詰した。つゞいて、大浦種則を面詰した。

そのとき、種則が、まごゝろをあらわして罪を謝し、

「然し、美代子さん、僕はあなたのお母さんと僕の兄とのことなどは毛頭知らなかったのです。まして僕には、富田病院を乗取るなどゝいう魂胆のあるべきものではありません。なるほど、この縁談は兄のはじめたことですが、今となっては、あなたは僕にとって、なくてはならぬ御方です。あなたの財産などは欲しくはありません。欲しいどころか、くれると云われても、コンリンザイ受取るものではありませんよ。僕はたゞ、あなたゞけが欲しいのです。僕が聟になるのじゃなく、あなたをお嫁に欲しいのです。兄のはじめた縁談とは別に、改めて僕自身からの求婚を考慮して下さいませんか」

と、きりだした。そして、ともかく、二人だけで、もっと冷静に話しあって下さいませんか、と云って、帰るというのを送ってでて、喫茶店で話をしたが、美代子は、母と大浦博士との問題がある限り、これ以上の汚辱を加えることはできないと席を蹴って、その足で、私の社へかけこんだ。

美代子はもう家へ帰りたくないからヤス子の家へ同居させてくれ、そして私の社で使ってくれ、というのだが、もとより一時のことで、いずれは心が落付く、然しそれまで、ともかく一日二日はヤス子さんに泊めていたゞくがよろしいかも知れません、と私がヤス子にささやくと、ヤス子はしばらく考えていたが、やがてハッキリと私を見つめて、キッパリと、

「私のうちはお泊め致しかねるのです」

という。問いつめてみると、自分の良人はダラシなくなり、女中には手をつける、同居の娘や人の奥さんにも怪しいフルマイをしかける、だからお泊めできないのだ、とハッキリ言った。

「敗戦を口実にするのが、卑怯なのです」

と語気強くつけたしたから、私もいさゝかその割り切り方に反撥を感じて、

「然し、ヤス子さん。敗戦を口実にと云いますが、敗戦の場合はいかにも口実がハッキリして良く分るからよろしいが、いったい、我々人間が、口実なしに、罪を犯しているでしょうかね。人間の弱さを、そんな割りきった角度から安直に咎めたてるのはどうでしょう」

こう良人を弁護してやるのも、彼女自身への思いやりというものだ。女房が亭主を罵倒しても、それにオツキアイをしてはいけない。夫婦はいつも夫婦であるということを、我々他人は心得ておかねばならないのである。こう言っておいて、

「そうですか。それでは、今夜一夜は、私のうちへ、ヤス子さんも一緒にお泊りになっては。むさくるしいところですが、うちの女房だけは自慢の女房で、まことに親切な女です」

ヤス子も考えたあげく賛成して私の家で一夜をあかしたが、私はこんな機会をねらって御婦人に言い寄るような、そんな便乗的な手法は用いない。そんなことをするぐらいなら、はじめから天地神明に誓いをたてやしないのである。

美代子の話をシサイにきゝたゞしてみると、しかし、その家出の原因は、決して美代子の述べる表面だけのものではない。私は思った。美代子はむしろ、まごゝろを面にあらわして罪を謝し、兄の縁談とは別に、自分一個の求婚を考慮してくれ、という種則に好意を感じているのである。そしてその好意を感じたということが、自己嫌悪の絶叫となり、その怒りが、家へ、母へ、大浦一家へ呪いとなって、激情のトリコとなっているのではないか。

ジロリの御婦人が二人まで私の住所へお泊り遊ばすなどゝは天変地異のたぐいで、二度とめぐり合う性質のものじゃない。これこそ彼女らのジロリズムを中和せしめる機会というものであるから、私自身がタスキをかけて女房よりも忙しくお勝手で活躍してあげる。その合の手に子供が喧嘩をオッパジメルとその御仲裁にも立合わねばならず、三分毎に一分ぐらいはジロリストの御機嫌奉仕も致さねばならず、この忙しさは心たのしいものである。

御食事がすむ、姫君方はお疲れだから、それ御寝所の用意を致せというので、私があらゆる押入をひっかきまわして有るたけのフトンをつみ重ねてあげると二尺ぐらいの高さになる。御婦人方を笑わせておいて、ともかく報告に行ってきましょう、と私は病院へかけつけた。

衣子は私の報告をきいて、

「じゃア、私と大浦先生にきまりがつかなければ、うちへは戻らぬと申したのですか」

と、例のジロリを私の顔にはりつけるように見すくめるから、私はカンラカンラの要領でいと心おきなく笑って、

「いけません、いけません。そんな、お嬢さんを一人前の敵あつかいに対立なさってはいけません。十九という年齢の浪漫精神による童話的創作というものですよ。実際問題はそんなところに有りゃせんです。自分の問題は自分の問題、人の問題は人の問題、これはハッキリ区別があって各々独立独歩のもの、事の真相に於てこの二つが交錯するというのはウソで、これは専ら心緒の浪漫的散歩に属するヨケイ物です。奥さんと大浦先生に属することは、これはもっぱら御二人だけの問題、美代子さんに気がねがあっては、却ってウソというものです」

衣子は大浦との秘密が私どもの目にさらされたということに腹を立てゝいるに相違ない。とりも直さず、その心では私に対して益々イコジにジロリズムに傾く一方である筈であるのに、

「ネエ、三船さん、なんだ、そんな女かとお思いなんでしょう」

こう言いながら、本来ならば、こゝでジロリのあるべきところを、あふれた色ッぽさで、クスリと私に流し目をくれた。私は思わずヒヤリとした。まったく私は心の凍る思いで、にわかに放心したほどである。

こんな時にどんな返事をしてよいのやら、まともな返事はバカみたいだし、はぐらかしてもバカみたいだし、私はまったくこうなると、幼稚園の生徒みたいで、

「だって、私は、惚れたハレタ、そのことしかほかに一生まともなことを知らないような奴ですもの、ようやくホットしたようなものですよ。人間万事、そうこなくっちゃア、失礼ながら、ほかのことではテンデ無策無能ですけど、その方面の御心痛については、いつなりと犬馬の労を致しますとも。これが私どもヤクザの仁義というもので、そこまでクダケテ下さらなくちゃア、人間らしくつきあっている気が致しません。左様然らばは、願い下げです」

美代子が戻らないものだから、電話で話し合って、大浦博士がこちらへ訪ねてくれることになっている。それで衣子の流し目、あふれたつ色ッポサも一瞬の幻、あとは又、とりつく島もないジロリ婦人に戻ったが、私はそれで満足であった。

私は然し、大浦博士なる人物は、予想以上の強敵、怪物であることを痛感した。事情をきゝ終り、衣子を慰めて、私と共に病院を辞した博士は、私を酒席に誘った。

博士の念頭にあることは、衣子や美代子ではなく、もっぱら夏川ヤス子であった。博士の親戚の娘にヤス子の同級生がいるとか、然しそのうえに、博士はヤス子の盲腸を手術しているのであった。

「すると夏川ヤス子夫人は三船君の特別秘書というわけだね」

「御冗談仰言っては困ります。そんなことを申上げては、あの御方は柳眉を逆立てゝ退社あそばすです」

「然し、君、社長と美人社員なら、先ず、そんなところだろう。なんにしても、本来、筋のよからぬ会社のことだからな」

「まア、まア、おやき遊ばすな。あなた方、病院内の生活はいざしらず、ヤミ屋の仁義は御婦人を手ごめに致さぬところにあるものです。かの御婦人は、我々の仁義を諒とせられて、目下、下情を御視察中のけなげなる美丈夫というものですよ」

「然し、思召おぼしめしはあるだろう」

「それは、あなた、木石ならぬ我が身です」

「アッハッハ」

大笑一番、ふと私に盃をさして、

「これは面白い。ヤミ屋にくらべると、私らはヤボかも知れん。君らが物質的である以上に、私らはフィジカルだからな。私は君の会社へ遊びに行くよ。夏川夫人に御交際を仰ぎにさ。よろしく頼むぜ。敗戦このかた身辺ラクバクたるもので、とんと麗人の友情に飢えているから、千里の道を遠しとせずさ」

「先生のような強敵が現れちゃア、これは困るな。御手やわらかに」

と、私もウマを合せておいたが、よしよし、これ又、一つの展開である。すべて現れいでる新展開は、身にいかほど不利であろうとも、不利も亦また利用しうるもの、この心構えのあるところ、いかなる不利の展開も歓迎せずということはない。私はむしろ、新展開を祝福した。

然し、その翌日、早くも、彼が私の社へ姿を現したときには、私は怒りに目がくらんだ。なぜともなく、絶望にうたれた。私は彼を殺してやりたいと切に思った。

私らヤミ屋のガサツな新装にくらべて、古いけれども上品高価な衣裳の何と心憎いことであったか。彼の来臨は光を放って社屋を圧倒するような落付いた余裕があった。

こうなれば、死んでも負けられぬ、と私もムキに力んだものだ。

★

半生、タイコモチ然と日陰の恋に浮身をやつして育ち上った私は、今日なにがしの金力を握って一ぱし正面切ってみても、恋の表座敷では、とんとイタにつかないミスボラシサを確認したにすぎないようなものだった。

大浦博士がわが社へ現れた時は、ちょうど家出中の美代子も来合してヤス子と一しょに居たものだから、博士は美代子とヤス子を食事に誘う。ヤス子に紹介の労をとった私がその場に居合わすにも拘らず、てんで私の無きが如く、お世辞にも、私を誘いやしないから、私は煮えくりかえる怒りに憑かれたが、又、感心せずにいられなかった。

もとより私のことだから、誘われなくとも、ハイ、では、参りましょう、と、御婦人方の荷物を持ってあげて、お忘れ物は? 私が誘ったようなグアイに、それぐらいのことはヌカリがない。

その代りには、大浦先生いざまずアレへ、お嬢さん方、こちらへ、とんと旦那とその令嬢と、私が番頭みたいなもので、あげくにお会計は私がいそいそと払うことになるのだから、あさましかりける次第である。

私は嫉妬というものに人一倍身を焼くくせに、人の恋路に一応の寛容を持たざるを得ず、その道の手腕に敬服せざるを得ないという因果なディレッタントでもあり、敵ながら大浦博士に内々感服しているのだから、私はまったくバカバカしい。

彼はたしかに達人であった。恋路の育ちが、私と違う。人の育ちもあるかも知れぬ。

彼は言い訳をしないのである。衣子と自分の秘密は、すでに我々に知れている。富田病院の資産に対する色目、それもカングラレているようである。そんなことの言い訳は一切合切やらないのである。

そして言い訳の代りに、ヤス子を口説くのもいきなり露骨に口説きはしないが、私はあなたが好きです、あなたは美しく又才気あるまことに敬服すべき麗人だという心の程を折あるごとに匂わせる。美代子に対しても同様、あなたのような可愛らしいお嬢さんは二人とあるものじゃないという敬意と愛を言動の要所に含めることを忘れておらない。

なまじいの言い訳は、とるには足らぬ。御婦人に対しては、まさしく彼の如くに、御当人への尊敬と愛とが、何よりすぐれた言い訳にきまっているのだ。

そういうことを知ってはいても、私などは育ちが下根げこんで、ぬけぬけとそうはやりきれずに、つい女々しく、イヤミッたらしく言い訳に及んでしまうテイタラクであるから、まことに敵が憎く、また口惜しいのだが、偉い奴だと思わずにもいられぬ。

翌日、ヤス子は大浦博士を評して、あまり図太い、まるでカラカワレテいるようで不愉快に思った、と言っていた。私は内々大喜び、よくぞお気がつかれた、というところであるが、それでは大人物らしくないものだから、イヤ、人間は、図太いということゝ、善良さとは無関係なものですよ、変に小心ヨクヨクたる奴が内々はフテクサレのミミッチイ嘘つきのホラ吹きなどゝは、よくある奴ですよ、などゝ言う。

「えゝ、紳士はあのようなものかも知れません」

と、ヤス子はつゝましく考えこんで、

「でも、私は、あのような紳士の型に好感がもてないのです」

と、言った。

そんな言葉をマにうけて、胸に大事に守っているから、私はバカだ。すべて紳士というものは、そこのジロリをジロリでなくする。さればこそ、恋も浮気も四十から、そうきまったものではないか。一目見て、惚れ合った、胸がワクワク、恋の歓喜、バカバカしい。好き合ったなら、それだけのことじゃないか。狐も蝉も秋の夜の虫も森にすだく、ツガもないこと、若気の恋は人も虫も変りはない。ジロリをジロリでなくすること、それを人生の目的の如くに心得ている私でありながら、私というバカは、御婦人の快い言葉をいとも大事に胸の宝にだきしめているのだから、私はダメな人間である。

二週間も後になると、もうヤス子は、あの方は立派な方、というようになっている。にわかに私が慌てる、もう、おそい。

★

美代子はともかく家へ戻った。送りとゞけた私は、衣子に向って、

「ねえ、奥さん。あなたがこの縁談に不満なのは、入聟、そしてお聟さんが当病院の後継者、その条件が御不満なのじゃありませんか。ところが、大浦種則氏は美代子さんに向って、自分もこの条件に賛成ではない。兄博士からの縁談は御破算にして、自分一個と美代子さん、自分が美代子さんをお嫁にいたゞく、改めてそれを考慮していたゞきたいと言ったそうですよ。美代子さんはそれをブリブリ怒っているのですが、これが娘心の秘密という奴なんで、実は大浦種則氏が好きになった、好きになったということが納得できないもので、アベコベに御立腹遊ばされておるというのが実状だと私は見立てた次第です。御両人が内々好きあっており、共に入聟ということに御不満で、兄博士の申入れとは別個に、自分たちだけの結婚にしたいという御意向の様子ですから、成行きにとらわれず、内々の御希望通り、まとめてあげては如何なものでしょう」

と申上げた。すると衣子は、そうですか、考えてみましょう、などゝは言わず、例のジロリと一ベツをくれて、

「ずいぶん、ワケ知りですことね」

と突き刺した。

そんなジロリはお構いなし、というのが、私が金竜から得た教訓で、このジロリはつまり承諾の意と解し、ひとり合点の要領で、シャニムニ自分勝手にオセッカイを取りはからう。そのアゲクが柳眉を逆立てられることになったら、そこは又そこで、窮余の奥の手にすがるのである。私自身がオッチョコチョイの窮地へ落ちこむことによって、おのずから虎穴に虎児をつかむのが要するに私の要領というものだ。

私はさっそく大浦種則を訪れて、兄さんの申込みとは別に、あなた自身から衣子夫人に申入れをなさい。そして、美代子さんをお嫁に貰う、持参金などビタ一文いりません、という赤誠がありゃ、奥さんも令嬢も、内々はその気持があるんだから、こゝは決行の一手あるのみ。マゴコロと不撓不屈の情熱です、といってケシかけた。

すると種則は患者の容態をきいているような愛想のよさはあったけれども、私の厚意に狎れるような反応はなく、たゞうなずいて、

「なるほど、うむ。我々二十の世代は失われた青春ですな。先ず、失われた情熱というものを探しもとめて行かなければならないのですよ」

と言った。私は小僧にカラカワレているように不快であった。彼の言葉には実感などは何もなく、通り一ペンのカラ念仏でお義理の返事をまに合わせておく。つまり私というものを、軽蔑、無視しきった態度としか受取ることができないのだった。

いわば女のジロリの相対的な敵意や反撥よりも、もっと思い上り、大人ぶり、見下している態度であった。

「ハハア。情熱というものは、探すものですか。失われた青春てえと、なんですかな、どこかへオッコトしていらせられたわけですか。青春てえものは、ふところのガマ口みたいのものなのかな」

「空白な世代ということですよ。戦争のおかげで、我々の青春は空白なのですね」

「なにが空白なものですか。恋の代りに、戦争をしていたゞけじゃないですか。昔の書生は恋も戦争もせず、下宿の万年床にひっくりかえってボンヤリ暮していたゞけさ。空白な世代などという人間の頭だけが空白なのでしょう」

「世代の距りですよ」

と、オーヨーに莞爾と、こう仰せられて、紫煙を吹いておられる。頭の悪い男なのである。それだけ、女には巧者なのかも分らない。軽蔑したわけではないが、なんとなく、此奴ウスバカ、と反撥して軽く片づける気持をいだいてしまったのが、またしても、失敗のもと、バカでも、ウスノロでも、人間そのものが元々タンゲイすべからざる怪物なのである。この心得を忘れがちな私はまことにアサハカであった。

私は美代子に、

「大浦種則さんて方は、ちょいとしたハンサムボーイじゃないですか。あんまり御利巧じゃないかも知れないが、御利巧などゝいうことは紳士の資格に不要なことなんだろうな。その日その日を一緒にホガラカに暮せる、それが紳士の才能でしょうから、つまり種則さんは紳士であり、ハンサムボーイというもんじゃないか。花の青春に、英文学などひもとかれるよりも、ハンサムボーイの心臓とキンミツにレンラクをとられる方が淑女の道だと思うんだがなア」

と、内々の胸のうちをクスグッテあげる。ヤス子には才媛の高風があり、文学を学んでおかしくない自然なところもあるけれども、美代子と文学は本来ツナガリがないのである。御当人も英文学をひもとくよりは映画見物が性に合っていることを御存知で、内々は学問に見切りをつけていらせられるのだが、私がこんな風にクスグッテあげると、忽ちツンとして、例のジロリをやる。

衣子がまた私にオカンムリのていで、

「三船さん、オセッカイはよして下さい。あなたはガサツすぎますよ。騒々しいのよ。よその家庭へガサツを持ちこんで、迷惑をお気づきになることも出来ないのね」

「これは失礼いたしました。然し、これは犬馬の労というものですよ。ガサツは生れつきだから仕方がないけど、マゴコロを買っていたゞかなくちゃア」

「マゴコロは押売りするものじゃありません」

と、カンシャクが青白い皮膚の裏にビリビリ透いている。私という人間は、そのとき如何にも心外で、恨みと悲しみに混乱しながら、又一方に、そんなところに色気に打たれてムセルという、奴隷根性が身にしみついているのであった。

そして、私に締め出しをくわせて、縁談はすゝめられていた。ところが、大浦種則というウスノロ先生が、却々もって、タダのネズミではなかったのである。

種則は美代子に向って、入聟になって病院をつぐ、財産を半分貰うなどとは自分の意志ではなく、自分は美代子さんの外にビタ一文欲しいわけじゃないから、兄の話とは別に、自分一個の申込みについて改めて考慮してくれ、とシオラシイことを言った。

そして実際、衣子に直談判をはじめて、赤誠をヒレキするところがあり、押の一手、まったく押の強い男で、衣子よりも、美代子の心をほぐしてしまった。

日曜ごとに美代子を誘う。夜になると、たいがい病院へ遊びにくる。とうとう毎晩現れ、我が家同然、こうなると、美代子もにわかに昔にかえって私にジロリ、つれなくなる。ここが私の至らざるところで、こうなると、私もムキになり、それではとヤス子をつれて病院へ行く。崇拝する姉君の社長の貫禄という奴をお見忘れがないように、というアサハカな示威戦術であるが、私という奴はいったん、弱気になるとダラシがなくて、今はもう、病院を訪れるには、ヤス子の同伴がなくては恥辱を受けるような不安があって、毎々ヤス子を拝み倒すのであった。

「私は、あなた、それは元来が小人物ですから、腹も立ちますよ。察しても下さい。美代子さんが内々は実は大浦種則氏を好いていると見抜いて、それとなく御両人を結び合してあげようと犬馬の労をつくしたのが、私ではありませんか。それをあなた、できてしまうと、オセッカイな邪魔ものみたいに、私を辱しめ、なぶりものにする。とかく苦労を知らない人は、そんな風に、好意とマゴコロもてかしずく人を、なぶりものにして快をむさぼるものではありますがね。私だって、腹が立ちますよ。それでも、私という人間は、そんなにまで踏みつけられても、いったんマゴコロをもって計った事の完成を見るまでは、附き添ってあげたいのです。いえ、附き添ってあげずにいられぬ性分なのです。こゝのところを、お察し下さい。ですから、踏みつけられても、私は遊びに行かずにはいられないのですよ。そこで、あなたに御同伴をお願いする。すこしでも、みじめな思いが少いように、そして、みすぼらしさを自覚せずにすむように。私はねえ、ガサツな奴ですよ、然し、至って、小心臆病なんです。私はみじめな思いを見るほど、悲しいことはないのですよ。悲しい思いほど、私の人生の敵はない。これを察して下さい、夏川さん」

こうやって、底を割ってみせるのも、私の示威だ。どうせジロリの相手なのだから、むしろ楽屋をさらけだす。衣子や美代子には、親切気などないけれども、ヤス子は頼まれゝば、人のためにも計ろうとする気持があった。

「ヤス子さん。三船さんの新聞社などお止しあそばせ。ヤミ会社の社員なんて、人格にかゝわりますわ」

と衣子が言う。ヤス子はすこし考えて、それから、キッと顔をあげて、

「新聞の仕事そのものはマジメな仕事なんです。私、かなり、やりがいのある仕事のつもりで、精一杯やってますわ。社長さんの編輯方針にも、時々不満はありますけれど、概して、共鳴することが多いのです」

ヤス子は嘘がつけない。ジョークを解さぬわけではないけれども、先方の軽い言葉が、ヤス子にとって軽視できない意味があると、本当のことしか言えないという気質であった。冗談のつもりで話しかけて、居直られるようなことになりがちだから、衣子はヤス子を煙たがり、親しみをいだいていなかった。

「ヤス子さんも、可愛げのない人ね。あんなに居直るみたいに談じこまれちゃ、旦那様もオチオチくつろげやしないわね」

と、衣子は私を意地悪くジロリと見て、言う。

「それは、あなた、話というものは、ピントが合わなきゃ、仕様がない。ヤス子さんは、奥さんとはピントが合わないかも知れないけれども、ピントの合う人にとっては、あんな可愛げのある御婦人もメッタにありゃしませんよ」

「三船さんはピントが合うつもり? でも、ヤス子さんは、ピントが合わなくて、お困りの御様子ね」

すると美代子のチンピラまでが、私にジロリと一べつをくれて、

「社長と社員でなかったら、おそばへ寄りつくこともできない筈ね。ヤミ屋の御時世よ。インフレの終ると共に、誰かさんの三日天下も終りを告げます」

恋は曲者くせものである。あれほど崇拝の姉の君を、美代子も内々煙たがるようになっているのだ。けれども、それを意識せず、あげて私への侮蔑となって表れてくる。

ところが、この恋が、却々うまく行かないのだ。

大浦種則は美代子さんだけが欲しい、ビタ一文欲しいわけではないと仰有る。

ところが、兄の博士が、ドッコイ、そうは勝手にさせられませぬ、と膝を乗り入れてきた。当節、学者の生活ほど惨めなものはない。医学部教授はまだしもヨロクがあるとは云っても、タカの知れたもの、酒タバコの段ではなく、必要のカロリーも充分にはとれぬ。本も買えぬ。火鉢の炭のカケラにまで御不自由のていたらくで、かねて多少の貯えなどもインフレと共に二束三文に下落して、明日の希望もないようなものだ。

弟の種則には分けてやる一文の財産もなく、礼服一着こしらえてやれぬ。花嫁の然るべき持参金が頼みの綱であるから、富田病院という名題の長者の一人娘に持参金もないような、そんなベラボーな縁談には賛成するわけに参らぬ、と仰有る。もとより、美代子の思いが充分以上に種則に傾いたのを見越した上で、潮時を見はからって、膝を乗り入れてきたのである。

だいたいが、婚姻政策というものは、政治家や官僚以上に、学者に於て甚しいものだそうであるが、大浦博士に至っては、結婚と持参金、あたりまえときめてかゝった殿様ぶり、天下泰平、オーヨーなものだ。

かねて自分一個の赤誠をヒレキする種則のことであるし、新憲法と称し、家の解体、個人の自由時代、兄博士の横槍もヘチマもある筈がないと思うと、あにはからんや、脱兎の如き恋の情熱児が、にわかにハニカンで、ハムレットになった。

結婚すれば、兄の家も出なければならぬ。自分はまだ研究室の副手にすぎず、独立して生計を営む自信がないから、兄の援助を断たれると、直ちに生活ができなくなる、純情や理想の問題じゃなく、現実の問題だから、と云って、暗然として面を伏せ、天を仰いで長大息、サメザメと暗涙をしぼらんばかりの御有様とある。

あげくに美代子をそゝのかして、家出をした。

十日あまりして、兄貴のところへ旅館の支払いの泣き手紙が来て、大浦博士が箱根へ急行して取り押えたという結末であるが、戻ってくる、こうなった以上は結婚を、という、衣子もその気持になったが、ドッコイ、大浦博士が居直った。是が非でも、財産の半分の持参金がなければ、結婚はさせられない、というのであった。動産、不動産、病院の諸設備に至るまで財産に見積って、その全額のキッチリ半分、ちゃんと金額を明示して、これだけの持参金がなければいかぬ、という。税務署の査定よりもはるかに厳しく、自分勝手で、そんな持参金を持ち出されては、病院の運営もできない。

「これは、あなた、サギですよ。まるで、男のツツモタセみたいなものだな。もちろん、種則も、兄貴の博士とグルですとも。よろしい。見ていてごらんなさい。私が泥を吐かせてみせます」

と、種則に来てもらい、衣子と私の面前にすえて、さて、大浦君、と、私が訊問にかゝろうとすると、にわかに衣子の様子が変って、当の敵は私であるかのよう、青白く冴えた面持、キッと私を見つめて、

「この話は当家の恥ですから、内輪だけで話し合いますから、三船さんは御ひきとり下さいね」

女中を呼びよせて、

「三船さんが、お帰りです」

有無を言わさず、宣告を下す。ここまで踏みつけられては、私もたゞは退ひき下れぬ。

なるほど、私が種則をよんで泥を吐かせましょう、と持ちかけた時に、衣子はすゝんで賛成するようなところは無かったかも知れない。けれども、一言といえども反対の言葉は述べなかったのだから、そして、私が電話で種則を呼んでいるのを黙って見過していたのだから、これを賛成と見て怪しからぬところは有り得ない。

ところが、種則が現れる。とつぜんガラリと、こう、くるのだから、私もにわかにムクレ上って、

「ハア、そうですか。然し、御当家の恥というのを、一から百まで承知している私ですよ。これから先をお隠しになったところで、頭かくして何とか云うイロハガルタの文句みたいじゃありませんか。私はたゞ御当家のために良かれと」

皆まで言わせず、

「イロハガルタの文句で相済みませんことね。三船さんはカン違いしていらっしゃるわね。当家と大浦家の関係は格別のものなんです。お分りになりませんこと。親戚以上の大切なもの。当家と三船家の比較にならない格別のものですのよ。ですから」

と言葉を切って、凜然たる一睨み、こうなっては尻尾をまいて引退るほかに仕方がない。芸人は引ッ込み方が大切なもので、気のきいたところをピリリとひとつ、それだけのユトリがあらばこそ、尻尾をまいた負け犬よりもショボ〱と、その哀れさ。

それでも廊下を通り玄関へきた時には、急にムクムクとふてくされて、河内山の百分の一ぐらいの悪度胸で居直り、

「オヨシちゃん。私を暫時、女中部屋で休ませて下さいな」

「アラ、そんな」

鼻薬を握らせて、

「お酒でも、買ってきて飲ませてくれると、オヨシちゃんも、女中なんかはさせておかないと言う人がアチラコチラから現れてくるだろうがな」

と、女中を相手に、からかいながら、待っている。

種則の帰るを待って、茶の間へヌッと推参、もとより、御不興は覚悟の上である。衣子はイマイマしげに、また、いかにもウルサげに、ジロリと一べつ、顔をそむけて、喋らない。

「いかなるテンマツとなりましたか」

「どんなテンマツがお気に召すのですか」

ハッタと、にらむ。私はビックリ、すくみながら、その色気に目を打たれて、ひそかに満足する。

「当家と大浦家の仲たがいが、血の雨でも降ることになったら、御満足なんですか。ゴセッカイに、チョロ〱、なに企んでいるのです」

「チョロ〱何を企むったって、屋根裏の鼠がひそかにカキモチを狙うんじゃあるまいし、それは、奥さん、あんまりですよ。私だって、一人前の男、四十歳、多少の分別はありますよ。失礼ながら温室育ちの奥さんに比べりゃ、数等世情に通じているからこそ、見るに見かねて、いえ、やむにやまれぬオセッカイ。ほんとですとも。毒殺ぐらい覚悟の上で、いえ、失言ではありません。坊主と医者てえものは気が許せませんや。年中扱いなれていやがるから、トンマな赤鬼よりも冷静なもんですよ。私は何も企みません。大浦一家が何事か企んでいると申上げているにすぎません。私の場合は必死の善意あるのみです」

衣子はプイと横を向いて答えない。

その言葉や様子から、私の推量と同じような結論を衣子もつかむに至ったのだろう。私はそう見てとって安心したが、図にのって、こまかくせゝくるとゴカンムリをまげさせるばかり、万事は時期というものがある。

「私の公明正大な心事ばかりはお察し下さい。私のカングリがあさはかな邪推に終りました折は、見事に切腹して、御当家ならびに大浦博士にお詫びします。私は事をブッコワそうとしているわけじゃアありませんよ。事の円満なる解決に就て不肖の微力をおもとめならば、何を措いても犬馬の労をつくす所存、又、その労苦を身の光栄に感じているものであります」

なぞと、たゞそれとなく脈をつないでおくだけで、その日はおいとまを告げた。

★

あの夜、私は衣子にていよく追っ払われて、大いにヒガミ、腹を立てた。私の至らざるところで、人の気持というものが分らないのである。つまり私は一ぱし人間通ぶって、あれこれとオセッカイをやるくせに、実は一人のみこみ、その上、何かというとヒガンだり腹を立てたり、人の気持を察してやることができないのだ。

衣子にしてみれば、娘の一生の大事であるから、真剣であり、思い決し、悲痛なものがある筈だ。だから私のオセッカイを軽くかわして、私を追払い、種則と膝ヅメ談判に及んだが、私なんかゞ三百代言よろしく一寸見ちょっとみだけ凄んでみせるのと違って、猛烈に急所をついて食い下ったらしい。

いったいが、女というものは本来そうある筈で、必死の大事となると、人まかせでは安心できず、喉笛に食いつくぐらいの意気込みで、相手怖れず乗のりだす性質のものである。それぐらいのことは、かねて知っている筈ながら、私はバカだから、ヒガンだり、スネたりするのである。

新憲法の今日、一人前の男が、兄貴の気持がどうだからと云って、自分の思いを諦めるなどゝは奇妙な話、世間では、新憲法だというので、若い者が仕放題、親を泣かせている御時世である。これは大方、兄弟グルで仕組んだ逃げ口上でしょう、と、衣子に問いつめられて、種則の返答が、

「いゝえ、然し一人前の男だなんて、とんでもないことですよ。大学の副手の手当なんて、配給のタバコを買うにも足りないのです。全然、生活無能者なんです」

「ですから生活できるだけの持参金は持たせてやりますし、又、月々の面倒も見るぐらいのことは致しますと申したではありませんか。無能力のバカには、それでも、多すぎますぐらいでしょう。全財産の半分とは、あなた方兄弟の肚の中は盗人ぬすっと根性というものです」

ひどいことを言う。女がドタン場で居直ると、意地悪く急所をつかんで、最大級の汚らしさで解説して下さるものだ。私のような小悪党は敵の弱所に同感もあることだから、こうは汚らしく攻めたてるわけには参らない。

そのとき、種則先生、こう答えたということだ。

「奥さんは僕の立場、理解しておられませんね。僕は兄貴と仲違いしては、生涯破滅、浮ばれなくなるのです。僕は私大の副手ですが、これも兄貴のせいで、僕の頭は特別ダメなんです。中学のとき、数学、物理化学は丁、英語も丁、漢文と国語が丙ですが、それでも兄貴のおかげで大学へ入学もでき、副手になって、ともかく医者らしくさせてもらっているのです。医者はヒキと要領のものなんですよ。僕はそれに、愛想がよくって患者をうまくあしらうでしょう、これはコツですね。医局のツキアイをうまくやってボロのバレないうちは、患者にウケがいゝんですよ。まア、相当な、若手先生なんです。これも兄貴のおかげ、それに僕が要領を心得て、いかにも教授、先輩、同輩に好かれるように、立廻っているのです。これは、マア、僕の才能ですね。僕は人に怒られるようなことは、しないんですよ。ですけれど、この才能が物を言うのも、バックに兄貴の威光があるからで、これがなくちゃア、誤診ばっかりやらかしているものですから、本当は看護婦だって、肚の中じゃア、なめきっているわけですものね。だから、兄貴に見すてられちゃ、一気に看護婦にまで見捨てられちゃうでしょう。僕は一生、浮ぶ瀬がなくなるわけなんです」

数学、物理化学が丁、英語も丁、漢文と国語が丙、よくぞ申したり、アッパレな奴で、どんなに仏頂ヅラで怒っていても、たいがい腰がくだけてしまう。

衣子もさすがにウンザリして、完璧な低能なのね、とからかうと、えゝ、まア、生れつきですからねえ、と答えたそうで、色事のモメゴトのあげくの力演は、概してカケアイ漫才の要領になるものかも知れぬ。これは私も身に覚えのあるところである。

然し、衣子が種則をハッタと睨んで、それでは、あなたは、はじめから美代子を弄ぶつもりで、私たちをダマしたのですね。今になって、低能とは、あなたは、兄さんの縁談とは別に、自分一個の意志で美代子をもらいたいと仰有った筈ではありませんか。それもこれも、はじめから兄弟グルの計画でしょう、ときめつけると、とんでもないことです、それは、つまり、恋の一念だったのです。

何が恋の一念ですか。一文の持参金もいらないなどゝ仰有りながら、今となって、全財産の半分などゝは、兄弟グルのカラクリでなくて何ですか。世間知らずの女にも、それぐらいのことは見えすいています。

そのとき、種則はやおら泣きだして、恨めしそうに衣子を睨み、

「ですから、僕は低能なんですというのに。こんなこと、誰にも言いたくないのです。僕は、恥は隠しておきたいのです。あなたは僕の悲しい思いを理解して下さらなければダメですよ。僕が兄貴に捨てられたら、僕はどうすればいゝのですか。それは分るじゃありませんか。僕だって、自分がそれほど能なしのバカだなんて、思いだしたくないですよ」

ざッとこういうカケアイ漫才の調子では、もとより埒のあく筈はない。

衣子はカンカンに立腹して、美代子に種則との絶交を申し渡し、再び会うことも文通することもいけないと宣告した。

けれども、ものゝ十日とたたないうちに、再び二人は失踪した。今回は、美代子は前回の経験によって、ダイヤの指輪とか、金時計とか、相当の金額のものを持ちだして行ったのである。心当りを探したが、行方が知れない。

これも機会だと思ったから、どうですか、ジッと閉じこもってクヨクヨしても仕方がないから、捜査がてら保養をかねて、温泉辺りでもいかゞですか。ヤス子さんも心配していますから、三人でブラ〱いかがです、と言ってみたが、ソッポを向いて返事もしない。

こうなると、私も意地で、私はどうも、行きがゝりにとらわれ、押しつけがましくなって、キレイにさばくということができず、変にしつこく汚らしいモツレ方を見せてしまう結末となる。

そこで、私は社員に三泊の慰安温泉旅行を与えることゝして、つまりヤス子と内々捜査もしてみようという、いかにも実のありそうな見せかけ、行きがゝりであるが、マズイ芝居だ。第一、失費も大変である。

こういうマズイ芝居は忽ち報いのあるもので、こう話のきまったところへ現れたのが大浦博士である。こういう悪漢は私の肚が忽ち分る筈であるが、そうとは色にもださず、それはいゝね、僕も気がゝりで、ジッとしていられない気持のところだから、その一行に加えてくれ、費用は自弁だと言う。むろんヤス子が狙いなのである。

私もこうなればイマイマしい。その肚ならば、こっちもママヨ、当って砕けろと、悪度胸をきめて、何食わぬ顔、衣子を訪ねた。

「実は奥さん、ウチの社で、箱根伊豆方面へ三泊の慰安旅行をやることになったんですが、これを機会に、先々で、お嬢さんの消息も調べてみようと思っています。ところがですなア。大浦博士がこれを耳にして、ちょうどよい都合だから、自分も一行に加えてくれ、という。便宜があったら捜査にでたいと内々思っていたところだと仰有るわけです。尤も、なんです、ちょうどよい都合だって、便宜がなきゃ探さない、便宜てえのは変ですなア。探したきゃア、さっそく御一人おでかけとあればよさそうなものですよ。然し、まア、それは、なんです。ところで、いかゞですか。いっそのこと、奥さんも、これこそ便宜というものでしょうから、一しょに、いらっしゃいませんか」

と、しらっぱくれて、言った。

色恋というものは、思案のほかのものだ。肉体というものは、まことに悲しいものなのである。美代子と種則には爾今じこん逢い見ることかなわぬ、などゝ厳しくオフレをだす衣子、大浦博士の魂胆を見ぬいておりながら、やっぱり、まだ二人のクサレ縁は切れずにいる。

そこは大浦博士の巧者なところで、弟は疎んぜられ、己れの策は見ぬかれても、しらっぱくれて、からみついている。からみついている限りは、男を蔑み憎んでいても、女の方からクサレ縁を断ちきることは出来ないものだということを、ちゃんと知りぬいていらっしゃる。

男の肉体にくらべれば、女の肉体はもっと悲しいものゝようだ。女の感覚は憎悪や軽蔑の通路を知るや極めて鋭く激しいもので、忽ちにして男のアラを底の底まで皮をはいで見破ってしまう。そして極点まで蔑み憎んでいるものだ。そのくせ、女の肉体の弱さは、その極点の憎悪や軽蔑を抱いたまゝ、泥沼のクサレ縁からわが身をどうすることもできないという悲しさである。

大浦博士がわが社の慰安旅行の一行に加わりたいという。ヤス子に寄せる御執心のせいである。私はしらっぱくれて、意地悪くそれを匂わしてやった。私だって、腹も立ちます。これくらいバカ扱いに扱われては、そちらにも、ちょッとぐらいは腹を立てゝもらいたいものだ。あげくに私がドジをふんでも、私だって、たまにはドジをふんでも、意地わるをしてみたいものだ。

衣子がキリキリ柳眉をさかだてる。ハッタと私を睨みすくめる。ジロリと軽蔑の極をあそばす。それぐらいは、覚悟の上だ。

と、あにはからんや、柳眉をさかだてる段ではなく、ちょッとマツ毛をパチパチさせるぐらいのことがあったと思うと、ニッコリと、いと爽やかに私をふりむいて、

「あなた、裏口営業というものに私をつれて行ってちょうだいよ。私、まだ、インフレの裏側とやら、浮浪児もパンパンも裏口営業も見たことがないわ」

「何を言ってますか。当病院がインフレ街道の一親分じゃありませんか」

私はとっさに慌てふためいて、胸がわくわく、心ウキウキというヤツ、衣子の次なる言葉が怖ろしい、何やらワケの分らぬ早業で、心にもないウワズッタ返事をする。

「お巡りさんにつかまって、留置場へ投げこまれたら、却って、面白いことね」

なんでもない顔、私をうながしている。はからざる結果となった。

衣子は酔った。私が酔わせもしたのであるが、衣子がより以上に酔いたい気持でいたのであろう。とゞのつまり、私たちは待合をくゞった。

私という男を衣子が愛している筈はなかった。むしろ蔑んでいる筈だ。酔っ払った衣子は、美代子なんかどうでもいゝのよ。死のうと、パンパンになろうと、もう、かまわない。私は私よ、と言った。ヤケクソである。四囲の様々な情勢がこゝまで衣子を運んできた筋道は理解がつくが、その四囲の情勢というヤツが、私が細工を施したわけでなく、その一日の運びすら私がたくらんだものではない。

私はいさゝか浮かない思いもあった。誇りをもつことができなかったからだ。私は自分の工夫によって、こゝまで運んできたかったのだ。

私は三人のジロリの女をモノにしたいと専念する。愛するが為よりも、彼女らに蔑まれている為である。私の気持はもっぱら攻略というもので、その難険の故に意気あがり、心もはずむというものだ。いわば三人の御婦人は私の可愛いゝ敵であるが、汝の敵を愛せという、まさしく私は全心的にわが敵を愛しもし、尊敬したいとも考える。

私はわが敵を尊敬したいから、そのハシタナイ姿は見たくない。だから私は私の工夫によって事を運び、私の暴力によって征服したいものであり、彼女らの情慾などは見たくない。

私はどうやらアベコベに、衣子のヤケクソに便乗して待合の門をくゞったが、もとよりそれはここをセンドと私が必死に説得してのアゲクであるが、それとは別に、私はやっぱり淋しかった。

「遊びですよ、奥さん。大浦先生と違って、私は遊びということのほかに、何ひとつ下心はないのです。私はあなたに何一つ束縛は加えませんし、第一、いつまでも、あなたと云い、奥さんとよび、遊びは二人だけのこと、死に至るまで、これっぱかしも人に秘密をもらしは致しません。私はたゞ奥さんを心底から尊敬し、また愛し、まったく私は、下僕というものですよ」

酔い痴しれた衣子は、然し、もうこんな理窟は耳にきゝわけられなかった。

「どうなったって、いゝですよ。野たれ死んだって、私はいゝのよ」

と、衣子は廻らぬロレツで、私の肩にすがりついて、よろめいている。それはまだしもであるが、

「ねえ、あなた」

ふと酔眼に火のような情慾をこめて私を見る。もとより理知ある人間のものじゃなくて、キチガイのものだ。私はいさゝかふるえた。泣きたかった。やるせないものである。とは云いながら、私の胸は夢心持にワクワクしてもいるのである。

衣子はネマキに着代えずにドスンとフトンの上にころがったが、私が寄りそって横になると、さすがに、にわかにキリリとして、

「三船さん、ダメ」

「だって、あなた、今さら、そんな」

衣子は身もだえて、はゞみ、

「あなた、酔ってるのね」

「いゝえ、酔ってはおりません。私はひどく冷静なんです」

「私は酔ってる。ヨッパライよ。けれども、頭はハッキリしたわ。あなた、約束してくれる。旅行に行っちゃダメよ。私を一人にしちゃダメよ」

「えゝ、えゝ、御命令には断じて服従します。行きませんとも」

そして私は何とも悲しく、なつかしい思いになった。そして気違いのように衣子のウナジをだいて、接吻の雨をふらしたものだ。

私はながく眠らなかった。

衣子が眠ったのを見すますと私は起き上って、枕元に用意させた酒をのんだ。

何か茫々とした心の涯に、悲しさもあった。然し、あたゝかい愛情がこもっていた。いとしい女よ。私は時間について考えた。この女を口説きつゝあった時間、心に征服を決意してからの長い時間、その時間に起った様々の出来事ではなく、たゞその時間というものだけをボンヤリ意識しているだけだった。それは何か「なつかしさ」というものゝ総量のような感覚であった。ほかに思うこともない。私はボンヤリ酒をのんだ。

★

その翌日は忙しい。私は衣子との約をまもって、旅行に不参しなければならないのだが、私は然し、私の行かないことは構わぬけれども、大浦博士とヤス子のことを考えると、我慢ができない。

私は出社して局長をよび、

「私は明日の旅行には行かないよ。私の行かない方が、みんなの慰安にもなるだろうよ。ところで、大浦博士だがね、こいつを君の力でなんとかゴマカしてくれないかね。この先生はヤス子さんが狙いなのだから、私はヤス子さんにムネを含めて、これも不参ということにしていただくつもりだが、まったく君、この先生にのさばられちゃ、たまったものじゃアないからな。君たちだって、やりきれないだろう」

そこで局長と相談して、ひとつ大浦博士をこの機会にコラシメのためナブリモノにしてやろう、というわけで、伊豆へつれだしておいてから、実は社長とヤス子さんは、おくれてくる筈、ほかに宿をとっている筈ですがね、慰安旅行の邪魔にならないように、最後の日にチョッとだけ顔をだすようなことを云ってましたぜ、昼はどことかのお嬢さんの行方を探しているそうです、と言ってもらうことにした。

社にいると大浦博士がやってくる怖れがあるから、ヤス子を誘いだして、

「実は、ヤス子さん、お願いがあるのですが、あすの旅行に欠席してもらいたいのです」

こう、きりだしておいて、私も意を決し、計略を立てゝきたのであるから、ヤス子を近郊の温泉旅館へ案内して、昼食をたべた。

こういうことは、ハズミというもので、だいたい色事はそんなものだ。衣子に別れる。すぐその足で別の女を口説きたくなる。これがハズミで、変に度胸のこもった決意がかたまるものである。

まア落付いて話しましょう。こゝはつまり、鉱泉といったって、実はアイビキ旅館ですがね、これも後学のためですよ、などゝヤス子を案内してきたが、ヤス子は平然たるものであるが、テーブルに向いあってキチンと坐って、いさゝかも油断なく、厳然古武士のような正座である。私は遠慮なくくつろいで、お酒をのんだ。

「さて、先刻の話ですが、この旅行、なぜ欠席していたゞきたいか、実は大浦先生のコンタンが癪にさわるからなんです。もちろん、おわかりのことでしょうが、大浦先生の目的は、失踪者の捜査じゃなくて、ヤス子さん、あなたがお目当なんですな」

ヤス子は毛筋ほども表情をかえず、

「私のことは私の責任で致しますことですから、欠席は無用と存じますけど」

「いえ、そこが私のお願いなんです。これは社長の命令ではありません。お願い、つまりですな、私は大浦先生が憎らしいから、ひとつ、裏をかいてやろうというわけです」

「私は大浦先生を憎らしいとは思いません」

ズバリと云った。私への敵意がこもって見えたけれども、私はこれを決意の激しさによるせいとして、たじろがない。

「だって、憎たらしいじゃありませんか。美代子さんの捜査だなんて、心にもないことを云って、卑怯ですよ」

「あの場合、それが自然ではないでしょうか。つまらぬことを、わざわざ正直に申す方が、私には異様に思われます」

「これは参った。まさしく仰せの通りです。それは実は私のかねての持論の筈だが、私はまったく、持論を裏切る、小人物の悲しさというものですよ」

こういう御婦人に対してはカケヒキなしにやるに限る。

ヤス子は初対面の博士を好ましからぬおもいで見ていた様子であるが、並々ならぬ御執心にほだされて、好意に変っているのである。ヤス子の正義と見るものは、その人の偽りなき直情であり、その人の過去の色事などは意としておらぬ。これは最もあたりまえな女の感情であるが、ヤス子はその理知と教養と凜々しい気魄をさしひくと、つまり最もあたりまえの女であり、生半可の学問で、自分の女の本能的な感情を理論的に肯定しているだけなのだ。

もとより私は、それに相応して、想をねってきたのである。

「まったく、あさましい次第です。支離メツレツ、これ実に、あさはかな嫉妬のせいです。打開けて申せば、ヤキモチによるあさはかなカラクリ、ザンキにたえません。私はだいたい、ヤキモチが好きではないのです。私は御婦人に惚れます。私の惚れるとは犬馬の労をつくし、尊敬の限りをつくすことで、私は下僕となる喜びによってわが恋をみたすタテマエなんです。私はわが愛人と遊びたい。愛とは遊ぶことです。その代り、踏みつけられてもよろしい。踏まれるためには、やわらかな靴となって差上げたいとすら思うものです。恋の下僕にとって、愛人は常に自由の筈であり、ほかに何をしようと、恋人をつくろうと、私は目をつぶっていなければならない筈です。私はヤキモチはキライです。自分にとっても、これは不快な感情ですよ。そのくせ、やっぱり、やくんです。これは本能というヤツで、まったく、なさけない次第です」

ヤス子の表情もその正座も微動もしない。私だって、切りだした以上は、オメズ、オクセズ、めったなことで、あとへは引かない。

「私も然し、たいがいのヤキモチはジッとこらえていられるのです。又、こらえていなければいけない筈のものなんですよ。けれども、大浦先生の場合だけは特別ですよ。先生と私との関係は、今までたゞもう私が犬馬の労をつくすに拘らず、踏みつけられ、利用され、傷けられるのみの関係ですから、ヤキモチ、いや、これはもう、男の意地というものなんです。特に、ヤス子さん、あなたの場合だけは、負けられない。大浦博士が旅行参加を申しでゝこのかた、私は殆ど、寝もやらず、遂に悲愴なる決意をかためた次第なんです。私はあなたを尊敬し、敬愛し、祈りたいほども愛し、あこがれていました。けれども、大浦先生に出鼻をくじかれて、あの先生と私との関係が今までもそういう関係なものですから、その惰性によって、たゞもう、ひそかに、ネチネチと思い屈し、恋いこがれるのみ、悲しい思いをしていたのです。こうして、今、うちあけることができて、私は清々しているのです。左様なわけですから、どうか、お願いです。旅行は不参ということにして下さいませんか。さもなければ、私は胸の切なさに、死なゝければなりません」

ヤス子は黙然と無表情であったが、やがて始めて意志的に笑おうとつとめて、

「私、そんなお言葉を承るには馴れていないものですから、今すぐ私の本心からの御返事ができるかどうか、心もとない気持なのです。そうまで仰有います以上は、旅行に不参と致さなければいけないように思われますから、不参することに致しましょう。お言葉に逆らうことが致しにくいように思われるための御返事なのです。私の本心がそう致したいということとは無関係なことなのです」

ひどく冷静なものである。私もいくらか戸惑いした。次の言葉に窮したという気持であったが、そんなことではいけないと、ムリに機械に油をさすようにして、

「ありがたいシアワセです。おかげで私も安心しましたが、然し、ムリヤリあなたの気持をネジ向けていたゞいた心苦しさには、当惑、むしろ、罪悪、やりきれません。私はまったく御婦人に思いをかけるということは、下僕として仕え、尊敬するというタテマエですから、何かこう、社長めいてお話するのが変テコで、まして、その関係を利用しているようなのが、やりきれないのです。社長なんかと思わずに、きいて下さい。私はあなたを尊敬し、おしたいしている下僕です。もとより私は、一介のヤミ屋、教養とても低い男です。無数に恋もしてきました。私は然しいつも恋に仕え、愛人に仕えることを喜びとしたものです。私は結婚しようの何のと、そんなウソはついたことがありません。私はいつも下僕と遊んで下さい、たゞ遊んで下さいと頼むのです。どうせ私のような者には、はじめから御気に召して下さる御婦人はありませんから、私はいつも、必死にたゞもう頼むのですよ。その代り、お気に召すよう、どのような努力も致します。仰せにしたがい、どのようにもして実を見せます。水火をいといません。どの愛人にも、そうでした。然し、ヤス子さん、地位も学もない私如き者のことですから、私のかかわりあった御婦人も御同様、学も理想も気品もない方々ばかりで、これはひとえに敗戦によるタマモノでしょう、あなたのような高貴な、また識見高い御婦人に近づき得るなどゝは、夢のような思いなのですよ。あなたから見れば、下賤、下素げす下郎げろう、卑しむべきウジムシに見えるでしょうが、恋に奉仕する私の下僕の心構えというものは、これはともかく、私がとるにも足らぬものながらこの一生を賭けているカケガエのない魂で、これだけが私の生存の意味でもあり、誇りでもあり、私の全部でもあるのです。私があなたにマゴコロこめて奉仕することを許していたゞきたいものです。如何なる仰せにも従います。犬馬の労をつくします。私はあなたの心もからだも、下僕のマゴコロの尊敬をこめて愛し仕えますから、どうか私と遊んで下さい。この願いをきゝいれて下さい」

ヤス子の顔色は相変らず犯しがたいものがあったが、むしろいくらか、やわらかな翳がさして、

「私は肉体にこだわるものではありません。終戦後、様々な幻滅から、私の考えも変りましたが、然し、理想をすてたわけではありません。肉体の純潔などゝいうことよりも、もっと大切な何かゞある。そういう意味で、私はもはや肉体の純潔などに縛られようとは思わなくなっているのです。然し、肉体を軽々しく扱うつもりはありませず、肉慾的な快楽のみで恋をする気もありませぬ。社長はよく仰有いますね。恋は一時のもの、一時的な病的心理にすぎないのだから、と。それは私も同感致しておりますのです。然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思いだすのでございます。自然があのように静かで爽やかであるように、人の心も静かで爽やかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋心とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと、女心の感傷かも知れませぬ、けれども、私の願いなのです。夢なのです。私は現実に夢をもとめてはおりませぬけれども、その夢に似せて行きたいとは思います。私は肉体や、その遊びを軽蔑いたしてはおりませぬ。肉体を弄ぶことも、捨てることも怖れてはおりませぬ。たゞその代償をもとめています。それの代りに、ほかに高まる何かゞ欲しいと思います。女の心は、殿方の心によって高まる以外に仕方がないとも思います。私の心を高めて下さる殿方ならば、私はどなたに身をおまかせ致しても悔いませぬ」

「そうですか。すると、お言葉の意味は、私はつまり、あなたの心を高める男ではないというわけですね」

「いゝえ、今までの浅いおつきあいでは、わかりかねるというだけの意味です」

ヤス子は一きわ顔をひきしめ、私をきびしく見つめて、言った。それは私を励ますような様子でもあった。母性愛の一変形というような、いわば不良児へのいたわりと激励というところであろう。そこで私がウマを合わせて、

「じゃア、見込みがないわけでもないのだな。そう考えて、よろしいのですね」

ヤス子は答えない。なんとなく、侘びしそうな浮かない様子であった。冗談が嫌いなのだろう。

「ヤス子さん。あなたを高めるといったって、事実、私は全部のものを今こゝへさらけ出しているのですよ。手練手管のある人間でもなく、頭のヒキダシの中に学問をつめこんでおく男でもありません。まったく、これだけの人間です。先程も申しました通り、つまり、恋と愛人とに奉仕する、すべてを賭けて奉仕のマゴコロを致すというだけの人間なんです。それが私の身上です。イノチなのです。それが人を、高めるのか、低めるのか、それは私は知りません。たゞ、人を傷つけないことは確かです。そして高めるかどうか、その答が、実際にためしてみた後でなくて、いったい、現れてくるものでしょうか。私は私のすべてのものに賭けて、ひたすら、あなたに奉仕のマゴコロを致したいのです。ためして下さい。そして、それが意にみたぬものであったら、もともと私は下僕です、すて去り、突き放して下さればよろしいのです。あなたへの奉仕と尊敬は、その切なさにも堪えねばならぬと命じるのですよ」

ヤス子は答えない。

「ためして下さい。私の切なる希ねがいをきゝとゞけて下さい。さもないと、死にます。いゝえ、ほんとですとも。この場で、今すぐにも、アッサリと、自殺します。ツラアテではないのです。私は生きているのが面倒なんですよ。私みたいなバカは、いつまで生きてみたって仕方がない。バカながら、自分のバカを感じることは、もう、タクサンという気持ですな。私は今朝、ふッと、考えたのです。一つのチャンスというものだから、この恋がダメなら、これをキッカケに、いっそ、それで死んじまえと思ったのです。そんな覚悟めいたものは、四五年前から、できていました。然し、実行の気持になったのは、今日がはじめてのことなんです。然し、もとより、死ぬことよりは、切なる思いをきゝとゞけていたゞく方が、どれだけ身にしみて有難いか知れません。どうか、私の哀願に許しを与えて下さい」

ヤス子は再び答えなかった。

私は胸のポケットへ右手をいれた。ある物を握りしめた。私はしばらく、目を閉じていた。私は自然、うなだれてしまった。私の心は寒々と澄んだ。むなしく、ひろく、何もなかった。こんなものか、と私は思った。なんの感動もなければ、悔いもない。

そして私は、握りしめたものを、胸にきつく押しつけた。心臓からの血しぶきが、胸のワイシャツに赤々とあふれ出た。

私はのめろうとする上体を起して、ヤス子をボンヤリ眺めていた。ヤス子は恐怖と驚愕にすくんだが、今にも私めがけて飛びつこうとするときに、私はガックリのめってしまった。

「三船さん、バカ、バカ」

私を抱き起そうとしたが、にわかに私の耳に口を当てて、

「シッカリして。今、医者をよびます。そんな、そんな、子供じみたことを」

私は顔をあげた。同時に、からだを起した。私は無言、呆気にとられるヤス子を見つめ、そして、ヤス子の手を静かにとって、ゆっくりと甲に接吻した。

「ヤス子さん。ごめんなさい。死ぬマネをしてみたのですよ。でも、ちょッと、死んだような気もしましたよ。ゴムフーセンに入れた赤インキですよ」

ヤス子は思いのこもった鋭い視線で私を睨んでいたが、私は平然たるものである。

「ヤス子さん、事の結果が、あなたをバカにしているようですが、そんな気持じゃないのです。私は私のバカさ加減をお目にかけるつもりだったのです。私は軽蔑されようと思ったのです。その意味を御存知ですか。私の一生はピエロなんです。私はそれをハッキリ自覚しているのです。それは世間にはピエロを自認するニヒリストは有り余るほどおりますよ。然し、彼らがピエロでしょうか。ウソですよ。みんな自尊心が強くって、そのアガキの果に、マジナイみたいにピエロ気取りでいるだけですよ。私は、自尊心がないのです。ですから、ピエロ、下僕ですよ。私は尊敬し、愛するものに、すべてをあげて奉仕すれば足りるのですよ。私はあなたに軽蔑されてもよろしいのです。それでもマゴコロをさゝげています。踏んづけられても蹴られても、やっぱりマゴコロをさゝげて、かりそめにも仕返しなどは致しません。どうせ、それだけのものなんだから、ひとつ、と、私は今朝ふと思ったのです。急に自殺のマネをしてみようと思ったのです。実際、死んでもよかったのです。まったく、そうでした。私は胸のインキのタマを握りしめていたとき、死ぬマネをするなどゝは思わず、実際、短刀を握りしめているのと変りのない気持になっていたのです。よし、死のう、と思いました。おかしくもなければ、悲しくもなかったです。まったく、無意味千万でした。でも、ヤス子さん、このバカさ、これは、いつわらぬ私の姿なんですよ。恋をしても、これだけ、恋に奉仕しても、これだけ、いつも、これで、全部です」

私はヤス子の手をとり、バカみたいに敬々うやうやしく、くちづけした。そして、その手を放さずに、

「まったく、わけが分りゃしませんよ。今朝目がさめて、あなたにひとつ、胸のうちを打ちあけてと思うと、たゞなんとなく、ふッと、こんなことをしてみたい気持になった始末なのですから。われながら、バカらしい次第です」

まったく、その通りでもあったのである。然し、私は尋常では、どうせダメだと思ったから、ふと、こんなことをやる気になった。別に確たる計算はない。蛇がでるか、何がでるか知らないが、とにかくキッカケをつくって、そこから後はその場次第に、出たとこ勝負、当って砕けるというタテマエの仕事なのである。そして、それには、なまじいに、心理の筋道を考え、計算をとゝのえてやるよりも、いっそデタラメなバカゲきったことをやらかして、偶然に賭ける方がたのしみだと思っただけだ。

この賭けは思いのほかに成功したらしい。なぜなら、ヤス子は私に手を握られて、ボンヤリしているからである。世の中のことは分らぬものだ。後日、ヤス子は私に言ったが、このときは、バカらしくなったのだそうだ。要するに、それだけであったが、なんだか、感動したということだ。

私は、このバカバカしい成功を、信じていゝか、迷ったほどだ。そして私は信じるよりも、えゝ、どうせバカのついでだ、という居直り強盗の心境になった。

私はそこで、すり寄って、ヤス子の肩をやわらかくだいて、静かに接吻した。ヤス子はボンヤリして、うつろな目をあいたまゝ、されるまゝになっていた。

「ヤス子さん。私の魂はあげて下僕、ドレイのマゴコロです。けれども、とにかく、邪念なく、マジリケなしに、マゴコロがすべてゞすよ。私はあなたを愛し、尊敬し、こよなく、祈るようにお慕いしています」

とネンゴロに云って、次第にはげしくだきしめた。

★

思いをとげるということは、ある意味では、むなしいことだ。けれども、私はそうは言わない。マゴコロのもえ育つ日という。私は愛する人が、いとしい。それは、私よりも、いとしくさえ思われる。否、私よりもいとしいとハッキリ言いきれるのである。

わけてもヤス子はいとしかった。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ景色のように、人の心も、その恋も澄む筈だと云った。あのリンリンたる言葉を、美しい音楽のようにわが耳に思いだして、私の心はいとしさに澄み、そしてひろびろとあたゝまる。

私のようなバカ者の中から何らかの高貴を見出し、高まろうとする。それはヤス子の必死の希いだ。さすれば下僕のマゴコロたるもの、何ものか自ら高貴でありたいと切に祈るのも仕方がない。さりとて、こればっかりはムリである。私は所詮高貴じゃない。

梨の花がさいていた。それは私にとっては別に美なるものには見えなかった。こんなものが、あの食べられる梨になるのかなアと思った。

私はいつもオシャベリだ。人に対して何か喋らずにいることが悪事のようにすら思われる幇間的な性根が具わっているのだが、アイビキのはての帰りの散歩の道などでは、どういう言葉もイヤになって、怒ったように、黙りこんでしまう。私の心がむなしくないからだ。いとしくて、そして、せつないからである。

私は、まったく、金竜のような女と一しょにいる時でも、その悪党ぶり薄情ぶりに敬服し、私よりもはるかに偉いものだと思っていた。ヤス子には、あゝいう水際立った目ざましい特技はないが、そのあたりまえさ、あたりまえの高さ、凜々しさ、それは私の心をやすらかにして、そしてそれだけの何でもないことの中で、金竜のそれとは異質の、然しそれよりも一そうの目ざましい何かで、とびあがるほど私の心をしめつけることがあった。それは気品というものだろうか。私は自分が、下素なバカ者であることが、あさましくて、せつなかった。

私は自分が甘ったれているのだろうかと思った。自分が下素でバカ者だ、などゝは、甘ったれていることだ。けれども、私はそれで納得できるわけでもないのである。

私はいっそ衣子とのことを、ヤス子に白状しようかと思った。ヤス子に甘えているわけではないのである。そんなことで高まろうというわけでもない。要するに、何かしないといけないような気がし、圧倒されるからで、それ以外にどういうことでもないのである。

何か奉仕をしなければならぬ。私は夜毎、衣子を訪れるたびに、高価なオクリモノを忘れなかった。それも奉仕だ。衣子はそれを喜ぶ女だからである。けれども、ヤス子に対しては、奉仕する物の心当りがない。はては帰りの道々で、喋る言葉の奉仕すらもできなくなっている始末である。

昼はヤス子に逢い、夜ごとに衣子を訪れた。そして三日の慰安旅行が終って、大浦博士も戻ってきた。

その夕方、私はシラッパクれて、東京駅へ一行を出迎えにでて、やア、私は商用で、旅行にでられませんで、残念致しましたよ、ヤス子さんにも居残って手伝いしてもらいましたよ、捜査の方はいかゞでしたか、手がゝりがありましたか、と言ってやった。先生、むくれて、返事もしない。

大浦博士は私を見くびっているから、私と衣子のことなどは考えてみたこともない。

その足で、博士はわが家へは帰らず、衣子を訪ねた。情炎の始末をせめてはこゝで、というわけであろうが、ところが、こゝに、さらに、はからざる痛撃をくらった。

意外や、衣子がキリキリとマナジリを決し絶縁を言い渡す。財産横領、結婚サギ、兄弟の共同謀議、面罵をくらったものである。いかなる弁解も、哀願も、うけつける段ではない。

「あなたの腹は底の底まで分りました。いつまでもダマされてはおりません。インフレの生活難とは申せ、名誉ある学者が、市井しせいの無頼漢にも劣らない卑劣なことが、よくもまア、おできになったものですね。病院の出張診療ももはや御無用に願います」

と云って、完全に縁がきれてしまった。この病院の大浦博士の出張診療は、この病院の看板であるから、衣子が博士とのクサレ縁をきることができなかった理由の一つは、その利害にもよるのである。博士はそれを見抜いているから、婆さん慾にからんでいると見くびっていた。腹を立てゝも、この病院の一枚カンバンはおろすわけにはゆくまい、とタカをくゝっている、そこをやられて驚いた。博士の方にしてみても、大学教授ではインフレがのりきれないから、これをやられると、糧道をおびやかされる。

博士はひと先ず引きあげたが、あゝは云っても、あの病院の大切なカンバン、折れてこない筈はない、と、電話をかけて、ためしてみても、何日すぎても形勢の変る見込みがない。

仕方がないから、私を訪れてきて、

「あの病院、僕がやめたら成立ちゃしないだろう。先方も、今さら後悔しても、行きがゝりの勢い、内々困っているのだろうから、三船君、君が行って、こだわらなくともよいから、安心させてやりたまえ」

「そうですか。先生の意志はお伝えしてもよろしいけれども、然し、どうも、実は、なんです、衣子さんから私が依頼をうけたこともあるのです」

「なんだい。じゃア、もう、先方から、僕に復帰してくれるように、君にたのんできたのかい」

「とんでもない。実はA大の久保博士ですなア。あの方は天下に先生と並び立つ隠れもないその道の大家、名医ですが、あの方に後任をたのんでくれとのことで、四五日まえ、ハッキリ話がきまって、今日あたりはもう出張診療されている筈なんですな。この先生を口説き落すには、私もずいぶん骨を折りましたよ」

愕然、大浦博士は顔色を失い、私の言葉を、鉛色の目の玉でみつめている。

「君は、その依頼をうけて、僕に復帰をたのむ方がいゝというようなことを、言ってやらなかったのか」

「それは、もう、如才なく、申上げたものですとも。けれども、衣子さんが受付けやしませんや。物凄い見幕で、私の方が叱りとばされる始末ですもの」

博士の目にランランたる憎しみの光がこもって、

「久保という男は、天下名題の色魔だよ」

まるで私に食ってかゝる見幕である。私も腹にすえかねて、

「そうですか。然し、もう、あの病院には、お嬢さんは例の通り、どこかの色魔にそゝのかされて家出をあそばして、あとはもう、別に色魔にかゝるような御方もいらっしゃらないじゃありませんか」

博士は口をひきしめジロリと私に睨みをくれてでゝ行ったが、まもなく、ヤス子がはいってきて、大浦先生が誘うから、三十分ほど外出させてくれ、と云って、立ち去った。彼がヤス子を誘いだすのは、殆ど、毎日の例なのである。平素は、ヤス子を誘いにきても、私の部屋に顔をだしはしなかった。

私の胸は、常に嫉妬に悩んでいた。

私は嫉妬の色をヤス子に見せないために、異常な努力を払っている。すると私の目の色は、日毎に濁り、無気味な光をたくわえて行くようである。

そして、私は、時々、変なことをするようになった。街を歩いていると、とある家にハシゴがかゝっていて、屋根屋が屋上で仕事をしているのである。ちょうど私が通りかゝった時、屋根屋が屋根の向う側へノソノソ消えて行く時であった。私はフッとハシゴをつかんで、横に地上に倒して見向きもせず歩きだしていた。

又、ある時、買い物して現れて自転車に乗ろうとする男が万年筆を落して知らずに走り去ろうとするから、よびとめて、万年筆を拾いあげて渡してやった。すると、男が胸のポケットへ万年筆を入れようとして、片手に買い物の包みを持ち、片手でゴソゴソ苦労している、そのジャンパーのポケットから大きな紙入れが半分ものぞけている、とッさに私はそれをスリ抜いて歩いていた。一万円ちょッと、はいっていた。

私はヤス子に関する限り、大浦博士に勝ち誇る気持には、どうしても、なることができない。私の心は、いつも負け、嫉妬しているだけであった。

私はいったい何者だろうと考える。私は遊びふけって尽きないだけのお金をかせいでいる。大浦博士はヤス子とお茶をのむ金にも窮しがちであるかも知れない。私は、大浦博士の知らないヤス子の肉体を知っている。

私は然しそのほかに何一つとるに足らない人間にすぎない。大浦博士は、名医であり、教授であり、学者である。立派な風采をもっている。ひろい趣味をもっている。洗練されたマナーをもっている。

どうして、こうも嫉妬深い私であろうか。私はヤキモチはキライなのだ。然し私はいつも嫉妬に狂っている。

私はヤス子を誘う。今夜はダメですと云う。大浦先生と約束があると云う。又、ほかの誰かと約束があると云う。今日は家に用があると云う。一しょに夕食をとっても、それだけで帰ってしまう。

ヤス子はハッキリと私を見つめて返事をする。それは嘘はつきません、ということではなくて、こゝまではホントです、というように私には見える。そして、そこから先は、私は訊くことができない。

「ヤス子さん、あなたは恋愛したいと思いますか?」

「えゝ」

と、ハッキリ答えるのである。

「どんな人と?」

「一番偉い、立派な方」

「有名な人がお好きですか」

「有名な方は、ともかく才能ある方でしょう。女は有名が好きですわ。すべての方に好かれる人を、自分のものにしたがるのですわ」

「なんだか、あてつけられているようだな」

こういう時には、ヤス子はいつも返事をしない。

「私の心は、浮気です。そして、私の浮気の心を縛りつけてくれる鎖となるような、大きな力が知りたいのです。欲しいのです」

ヤス子の目に浮気の光は見ることができない。然し、誰よりも浮気であるかも知れないことを、私もたしかに信じていた。

ヤス子はダンスホールの喧噪の中でも、いつもと変らぬ自若たる様子である。他に無数の踊り狂い恋い狂う人々があることに、目もくれる様子がなかった。それは、そういうことに無頓着なわけではなくて、そういうものゝ最高を見つめ、そのためには、いつ何時でも身をひるがえして飛び去る用意ができているから、という様子でもあった。

「今日は泊りにつれて行って」

と、ヤス子はハッキリと申しでる。その目に色情の翳が宿っていないものだから、私はヤス子の無限の色情、浮気心に圧倒されてしまうのだった。

私はヤス子が妖婦に見えた。これが本当の妖婦だと思うようになっていた。

★

失踪の二人は金を費つかい果して帰って来た。

美代子はわが家へ帰ることができず、先ず私の会社へヤス子を訪ねてきたが、ヤス子をみると力が尽きて、倒れてしまった。熱がある。然し、それよりも、腹部の苦痛のために、呻き、もがいた。

生家の病院へかつぎこむ。淋毒であった。

二人は温泉などへは行かず、種則の知人の病院の病室へ、入院の形で下宿させてもらっていたのだ。種則は時々外泊した。美代子の持ちだした品物を売って、ダンサーと遊んでいたのである。二人は争うことが多くなったが、家出の身では、美代子は種則に縋らざるを得ない。種則の外泊のうちに、美代子は種則の知人の医者に犯された。その関係を、種則は見ないフリをしていた。病院の宿泊代を払わなくても済むからと、彼はむしろ喜んでいたのだ。種則は、金がつきたので、美代子に命じて、再び家から金目の物を持ち運ばせる手筈であったが、美代子が病気になったので、追い返してしまったのである。

泊っていた病院から、種則のもとへ宿泊料のサイソクが行った。種則は支払うことができないから、美代子に手紙を届けさせて、宿泊料はそっちで支払え、美代子は院長と関係があるのだから、宿泊料の始末は美代子がつける責任がある、という言い分である。食費がはいっているから、この金額は二万七千円になっている。

美代子はまだ病床についていた。家人には手紙を隠していたのだが、病院からサイソクがきて、バレてしまった。

衣子は私をよんで、大浦家へ行って、この始末をつけてくるように、なんなら、こっちから慰藉料請求の訴訟ぐらい起してもいいのだから、というキツイ御命令である。

そこで私は大浦家を訪れて、

「あなた方御兄弟もミミッチイ悪党じゃありませんか。こんな宿泊料を小娘に押しつけようなんて、ケチもいゝけれど、あんまりミミッチイ話じゃありませんか。第一、ヤブヘビですよ。慰藉料請求というような訴訟を起されたら、どうなさる」

種則は平然と苦笑して、

「君は、いったい、ユスリ屋かい。どこに僕の支払いの責任があるんだ。美代子は僕に隠れて院長とできているのだ。僕は裏切られているのだぜ。慰藉料を請求するんだったら、院長のところへ行くがいゝさ。それで宿泊料を帳消しにするのがよかろうよ。とっとゝ、帰りたまえ。変なユスリ方をすると、タメにならないよ」

と云って、ヨタ者みたいなセセラ笑いをしている。私は全く腹を立てた。

「よろしい。只今の言葉をお忘れなさるな」

私はその足で、二人の泊った病院へ行き院長に会い、

「さて、先生、私は富田病院から来た者ですが、大浦種則なる先生が、この病院の宿泊料二万七千円、これを美代子に支払いの義務があると云ってきました。その理由は、あなたと美代子に関係があるから、と、こういう次第です。関係のことはともかくとして、美代子の方に支払いの責任ありとは思われませんから、当方の意志をこちらへお伝えに参りました。宿泊料の請求は大浦種則にお願いします」

院長は顔色ひとつ変えず、苦々しげに皺をよせて、

「なに、関係? なにを云っとる。パンパンみたいなものじゃないか。こっちは淋病をもらって、被害を蒙っているだけだ。こっちは、とにかく、誰からでもいゝさ。宿泊料だけ、もらえばいゝのさ」

私はカンカン立腹して、立ち戻って、報告して、

「あんな悪党どもったら、ありゃしません。黙っている手はありません。これは、もう、ハッキリ訴訟を起して、慰藉料をとるべきです」

すると、衣子の顔色が変った。

「なんですって、三船さん。あなたは美代子の恥を表向きにさせたいのですか」

「そんなバカな。然し、あなた、これだけナメられて、それでいゝのですか。種則はユスリだと云い、院長は美代子なんてパンパンじゃないか、というゴセンタクですよ。慰藉料だって請求できるんだとは、これは先刻、あなたの口からでた御意見ではありませんか」

衣子はジロリと私を見た。

「慰藉料だって請求できる立場にあると申しましたが、慰藉料を請求すると私がいつ申しましたか。三船さん。あなたはワガママですよ。それに、なさることが卑劣ですよ。あなたのカケアイはなんですか。先方にユスリだのパンパンなどゝ言いくるめられて、ひき下ってきて、それはあなたの責任ではありませんか。御自分が勝つべきカケアイに言いくるめられて、そのハライセに、美代子の恥をさらさせてまで仇をとって、と、それはあなたが、ワガママ、卑劣ではありませんか」

「卑劣とは、何事ですか」

私は立腹のあまり、思わず叫んだ。

衣子は然し、冷然として、最もつめたくジロリと一ベツをくれた。そこには、怒りと憎しみが燃えたっていた。

「三船さん。卑劣とは、あなたという人、そっくり、それのことですよ。当然理のあるカケアイに、ユスリなどゝ言いがゝりをつけられるのも、あなたの人柄のせい、あなたの性根のせい、あなたがユスリのような人で、大方、ユスリでもするように談じこんだのでしょう。恥さらしではありませんか。当家の名誉はどうなるのです。まして、美代子がパンパンなどゝ、そのような無礼なことを、あなたという人が相手であればこそ、あなたが下品、粗野、無教養、礼儀知らず、卑劣であればこそ、言われるのです。美代子のような娘をパンパンなどゝ辱しめられるのも、あなたのせい、あなたの柄の悪さのために、当家の娘がパンパンなどゝ」

衣子は血の気を失って、目は宙に吊り、うわずって、言葉をのんだが、私の怒りは、血が逆流し、コメカミの青筋が激痛をともなってフクレあがり、目がくらんだ。

「何が当家ですか。当家の娘が、笑わせるよ。まさしく、パンパンじゃないか。大浦種則みたいなウスノロにだまされて、家出をして、金品をまきあげられて、別の男と関係ができて、まさしくパンパンさ。病気になって、追んだされなきゃア、半年あとには、立派にパンパンになって、どこかの辻にたゝずんでいたに極ってらア」

「お帰り下さい。出て行きなさい。そして、もう、二度と当家のシキイをまたいではいけません。ヤミ屋、サギ師、イカサマ師のブンザイで、上流家庭へ立入るなどゝ、身の程も知らず、さがりなさい。出て行きなさい」

最後であった。

その裏に、一つのワケがある筈だ。久保博士の出現である。女のハラワタの汚さよ。男はたとえ人を殺し、人をだまし、盗みをしても、このように汚らしく人を裏切り傷けるものではない。女の最後の底なるものゝ醜悪さ。醜悪なるものゝ最も醜悪なるものである。

私は口惜しさ、泣くにも泣かれぬ。

この恨みは、必ず、はらす。私は、誓った。見事、美代子をパンパンにおとしてみせる。パンパンの如くに、私が美代子を弄んでみせる。

その二日あと、美代子を見舞ったヤス子が、衣子にことづかったからと云って、ハンケチに包んだ私の入れ歯を持ってきた。

衣子の憎しみと嘲弄がそこにこもっているのである。私はヤス子に羞しかった。

「ねえ、ヤス子さん、人の怒りというものは、すさまじいものですよ。私は怒りましたよ。そして、喚きましたよ。然し、ですよ。喚いたと云ったって、歌唄いほどデッカク声をはりあげるわけじゃなし、ちょッとばかり声高になったというだけで、別に飛び上りもしなけりゃ、腕をふりまわしもしないのです。それでいて、どうですか。喚くうちに、私は入れ歯を吹きとばしたのです。喚き声のでるのと一しょに、とびだして、なくなったのですよ。嘘のようだが、本当なのですから、不思議ではありませんか。人の怒りというものは、つまり、気魄というようなものに、何か電気の動力みたいな運動力があるんじゃないかな」

ヤス子の顔に、あたゝかい笑いがこもった。こんなことは、この時までは殆んど、なかったことであった。そして、しばらく、何かをあたゝかく抱いているような様子であったが、

「この入れ歯、病院の奥様が私にお渡しの時は、汚い雑巾につつんでありましたのです。その雑巾で拾いあげたまゝを、お渡しになったのですわ」

なるほど、たゞは入れ歯を返してよこす筈はない。

ヤス子の笑顔のあたゝかさは、衣子の醜怪な憎しみに対して私へ寄せるいたわりのシルシであろうか。私はヤス子に、こんなにあたゝかく遇せられたことはなかった。怒りも羞らいも、私は忘れることができた。

「すると、あなたが、ハンケチに包んで下さったのですね。なんて、幸福なんだろう」

私はハンケチを押しいたゞいた。すると、胸がつまり、にわかに涙があふれでゝくるのである。私は押しいたゞいたまゝハンケチを目に押し当てゝごまかしたが、涙はいつまでもとまらず、顔を膝に当てゝ起すことができなかった。

★

私が美代子を誘拐したのは、それから二ヶ月ほど後のことであった。

私はヤス子の名を用いて美代子をよびだし、会員組織のホールへ案内して、今にヤス子がくる筈だからと、飲んで踊って酔わせておいて、じゃア、こゝのあとで、御飯をたべる約束だから、そっちで待っているのだろうと、さらに飲み屋へ案内して泥酔させ、前後不覚の美代子を待合へつれこんで、衣子と寝たその部屋で、私はかねての思いをとげた。

私という奴がどんなバカだか、すでに皆さん御承知の筈だ。

私は結果の怖しさを知りながら、本能的な何かに惹かれて、すでに事をやり終っているのである。

私はヤス子に恋いこがれ、あこがれ、祈り、狂っているのである。そのヤス子の名をかたり、ヤス子の慈しむ少女をさらって暴行する、ヤス子は怒り、蔑み、私を捨てゝ去るであろう。

私はヤス子に捨てられる日の不安のために、日夜を問わず悩み狂っているのである。その不安と怖れにくらべれば、美代子などは何物でもない。魅力もさしたるものではなく、衣子への復讐の誓いと云っても、それも、今は、すでにさしたるものではなかった。

そのくせ、思いたつ。熱心に計画する。私は緊張し、図太くなり、そして、私の目の鉛色に光りだすのが自分にも分るように思われる。メンミツに、ジンソクに、着々と、私はすでに実行しているのであった。

オロカである。オロカ。オロカ。ああ! オロカ。オロカモノよ。

すでに、すべては、破滅したと思った。

どうして再びヤス子の顔を見る勇気があろう。

私は美代子と、せめて最後の悲しい旅にでようと思った。

美代子は、まるで、白痴であった。怒り、呪い、蔑んでも、私に従わざるを得ないのである。再三の罪の怖れのために、わが家へ戻る力がつきているのであろう。

私の胸には、もはや怒りも復讐もなかったけれども、私を憎み蔑みながら私に従わざるを得ぬ美代子を見ると、衣子を思い、あの女の最後の底なる醜悪なるものを思って、目を閉じ、耳をふさぎ、嘔吐を覚えるのであった。

私は然し、美代子をオロソカにはしなかった。どのように私を憎み蔑んでも、私はいたわり、貴重な品物のように、大切に扱ってやる。私にとっては、やっぱり、いとしく、いじらしい品物なのである。

「さア、おいで、髪の毛がみだれているよ」

美代子はうずくまり、突きさすように私を睨んでいる。

「よし、よし、それでは」

私が立って美代子のそばへ寄りそい、髪の毛をくしけずってやる。美代子はジッと、私が今立ち去った空白を、さっきと同じあのまゝの視線で睨みつけて動かない。然し、私のされるがまゝになっている。

私たちは雪国へ行った。例年はまだ雪に早い季節であったが、この年は特別で、もはや数尺、根雪となっているのである。

死んでもいゝとは思っていたが、特に死ぬ気も持たなかった。私はヤス子を怖れていたが、罪を怖れてはいなかった。

誘拐の罪で捕われて裁かれる、それぐらいに、たじろぐ気持はなかったのだ。私はニヒリストでもロマンチストでもない。私のような人間は、金さえあれば、と思っている。金銭万能、金さえあれば、なんでもある、イノチもある。牢獄から出たときに、私の仕事のツナガリがまだ残っていて、なんとか金のはいる道があれば、それでよい。然し、会社がうまくそれまで存続するか、もしもツブレてしまっていれば、私はそれを思うと、やっぱり、いくらか、ゾッとする。いさゝか恐怖に目をとじる。そのときは、死ななければならないような気がするからだ。金がなければ、イノチもないのである。まア、然し、そのときはその時だ、と、思いついて、私は安心して目をあけるのである。

私はヤス子が入れ歯を包んできてくれたハンケチを貰って、大事に胸のポケットにしまっていた。時々それを取りだして、せつない思慕にふけった。

別に魅力のある肉体でもない。どこといって、特に考えると、つかまえどころのない平凡なヤス子であった。何が、いったい、私の心をつかみ、これほども思いの全てを切なくさせてしまうのだか、もう私には考える力もないのであった。

私の思慕の切なさは、たまらなくなった。思いきって、ヤス子に逢いたい決意をかためた。ヤス子の怒りと憎しみを見ることがどれほど苦しいものであっても、ヤス子を一目も見られぬ怖れの苦しさが切なくなっていたからだ。

私たちは東京へもどり、私はヤス子に電話をかけた。

私はヤス子が現れたとき、顔をあげることができなかった。

美代子がヤス子にすがって泣いている。私はそれも見なかった。私はついに、最初の視線がチラリと合って顔をそむけてのちは、どうしても顔があげられず、その方にからだを向けていることすらもできなかった。

私は顔を伏せてそむけたまゝヤス子に近づいて、胸のポケットのハンカチをとりだして突きだして、

「美代子さんと、このハンケチとを、あなたに返えすよ。おわびする。どんな憎しみも軽蔑も、容赦なく、私はみんな受けます。そして、どうか、行って下さい」

ヤス子が私に近づき、私の正面に廻った。私はそれにつれて、からだを横にずり向けた。ヤス子はそれを追い、正面へ正面へと廻ろうとしていたが、あきらめて、止った。

「美代子さんをお返しして、すぐ、また、来ます。こゝに待っていて下さい」

ヤス子と美代子は立去った。遠からぬ時間のうちにヤス子は一人戻ってきた。

ヤス子は又私の正面へ廻った。横へずれる私の肩を両手でシッカと抑えとめて、

「三船さん。顔をあげて、私を見て下さい。私は怒っていません。憎んでいません。蔑んでいません。ほら、私の目を見て下さい」

私はやっぱり顔をあげられなかった。

ヤス子の手が肩を放れて、私の額にやわらかくふれた。その手が、私の顔をあげさせた。

ヤス子が私をのぞきこんで、エンゼンとほゝえんでいるではないか。然し私がどうしてそれを喜ぶことができようか。何事を私が言い得ようか。私はすくみ、放心した。悲しさすらもなかった。苦痛の果のむなしさが全てゞあった。

「三船さん。私は今こそあなたを愛すことができると信じられるようになったのです。以前はそうではなかったのです。軽蔑も、どこかに感じておりました。汚なさも、どこかに感じておりました。今はそうではありません。尊敬の思いすらもいだいております。私はあなたから、人の子の罪の切なさを知りました。罪のもつ清純なものを教わりました。あなたはたゞ弱い方です。然し、あなたは清らかな方です。いつか、あなたに申したでしょう。上高地で見た大正池と穂高の澄んだ姿のように、人の姿も自然のように澄まない筈は有り得ないのだ、と。三船さん。私は今では、私自身の中ではなしに、あなたのお姿の中に、上高地の澄んだ自然を感じることができるようになりましたのです。私は、この私の感じの正しさを信じております。私はいつまでもお待ちしております。今すぐに自首して下さい。そして、お帰りの日を」

ヤス子のエンゼンたるほゝえみに、大らかな、花のような光がさした。ヤス子の唇があたゝかく私にせまり、ヤス子の腕が私のウナジを静かに然し強くまいた。

それから一時間半ほどの後である。私は警察へたどりついた。玄関前で、ヤス子に別れた。私は結局、あれからも、ヤス子に一言も語らなかった。語る何ものもなかったのだ。別れの挨拶の言葉すらも、なかったのである。私はふりむきもしなかった。

ほどへて私は刑事部屋で、一人の刑事にこう頼んでいた。

「ねむらせて下さい。一時間でいいのです。あゝ、疲れた。ウワゴトを言ったら、覚えておいて下さい。あゝ、何か、オレの喋ることが、分ればいゝ」

そして、ゴロンところがっていると、はじめて、うすい涙があふれてきた。

底本 / Source edition

底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:前半「文藝春秋 第二六巻第四号」
1948(昭和23)年4月1日発行
後半「別冊文藝春秋 第六輯」
1948(昭和23)年4月1日発行
初出:前半「文藝春秋 第二六巻第四号」
1948(昭和23)年4月1日発行
後半「別冊文藝春秋 第六輯」
1948(昭和23)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042827_001095/

坂口 安吾「ジロリの女」(新字新仮名)、底本『坂口安吾全集 06』筑摩書房、1998年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042827_001095, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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