Soranoha

三つの悲憤

みっつのひふん

豊島 与志雄

ある田舎に、阮という豪族の一家がありました。

阮家の一人息子の阮東は、志を立てて、都に出ました。そして学問をしながら、長官の周家に、書生として暮すことになりました。

その翌年の春さき、阮東は周家の令嬢素英と親しくなり、いつしか愛を語らう仲になりました。けれども、それも一ヶ月ばかりの間で、素英から急に疎んぜられるようになりました。

阮東は、頭髪を乱し、悲しみに胸をふくらまして、何事も手につきませんでした。そしてよく裏庭へ出てゆきました。その片隅に、竹藪があり、竹藪のそばに四五本の李すももの木があって、白い花が咲いていました。阮東はその花の下で、熱い涙を流して泣きました。

夜通し一睡も出来なかった日の、朝早く、阮東はまた李の花の下に来て、泣き悲しんでいました。

すると、爽かな細い歌声が聞え、やがて、空色の化粧着をつけた素英の姿が、まるで幻のように現われてきました。

阮東ははっとして、息がつまり、血の循りがとまり、ただ眼を大きく見張りました。そして暫く見ない彼女の姿を、じっと見つめていましたが、次には、かっと逆上して、そこに走り出で、彼女の足もとに跪きました。

「ああ、お嬢さん、よく来て下さいました、よく来て下さいました。私は毎日、毎夜、ここにこうして、あなたをお待ちしておりました。」

けれど、何の返事もありませんでした。素英は一足とびしざって、棒のようにつっ立ち、じっと阮東を見すえてるきりでした。

阮東は涙声で訴えました。

「私はもう、あなたと離れては生きてゆけません。あなたと一緒なら、死んでもかまいません。死んで下さい、一緒に死んで下さい。」

凍りついたような素英の眉が、ぴくりと動きました。そして風のようなすげない声がしました。

「そこをどいて下さい。私は髪にさすために、李の花を取りに来たのです。」

「おお、李の花……。」と阮東は叫びました。「あなたの髪のために、私に取らして下さい。一番美しい花を……蕾から咲きだしたばかりで、まだ蜂も虻もとまったことのない綺麗な花を、私が取ってあげます。」

「いけません。」と風のようにすげない声がいいました。

「私はあなたとお話することを、母から厳重にとめられております。あなたに御用をたのむことを、父から厳重にとめられております。こうしてお目にかかるのも、私は、心が咎めてなりません。」

「それは間違いです。いえ、それならば……向うをむいていて下さい。私の方を見ないで、そこに待っていて下さい。一番きれいな花を、私の心をこめた花を、取ってあげます。」

阮東は直ちに、李の木の大きなのに駆けより、その幹をよじのぼり、高い梢を引きたわめて、目につく一枝――蕾から咲き出たばかりでまだ蜂も虻もとまったことのない美しい花の一枝を、折り取りました。そして飛び降りてきますと、もう、素英の姿はどこにも見えませんでした。

幻を見たのでしょうか。幻と話をしたのでしょうか。――阮東は頭を振りました。手にしてる李の花を眺めました……。

やがて、彼は幻にでもひかれるように、李の花を持ったまま、ふらふらと歩きだしました。

土塀の小門をくぐって来ると、広い中庭で、池を中心に、太湖石が奇怪な形につみ重ねてあります。

「お嬢さん……素英さん……。」

阮東は口の中で胸いっぱい叫びながら、池のほとりまで来ましたが、池の澆水のつきるところ、高廊の朱の柱が眼にしみると、もう先へは進みかねて、そこの、飛竜の形の岩に身をなげかけ、さめざめと泣きました。

時たって、高廊の上に、周家の主人が立現われ、朱の柱に左手をかけ、右手を握りしめ、のびあがってじっと阮東の方を睨まえました。

「阮東……不埓者、阮東。」

怒りに震えた雷のような声でした。

「書生の分際で、お前は、周家の娘を何と心得ているのだ。そういう不埓者は、もう邸に置くことは出来ない。出て行け。即刻立ち退け。」

その言葉を阮東は胸の真中に受けて、仰向けにひっくり返りそうになりました。そこを持ちこたえようとしたはずみに、足がよろけて、池の中にざぶりと落ちこんでしまいました。

水は胸の下までの深さでしたが、横倒しに落ちこみましたので、彼は一度水に沈んで、それから慌て騒ぎ、夢中にあばれて、漸くはい上がり、そのまま、裏庭の方へ駆け出しました。

池の中には、李の花の一枝が、花弁を幾つか散らして、ゆらゆらと浮いていました。そのそばに、阮東の黒い沓が片方、ぽかりと浮いていました。

阮東は、裏庭から書生部屋の方へかけこみ、床ゆかの上に身を投げ出して、死んだように横たわっていました。もう眼も開かず、泣く力もありませんでした。

長い間たちました。誰も見舞ってくれる者もありませんでした。阮東は身体中つめたくなったのに気付いて、ぼんやり起き上りました。そしてそこに坐ったまま、また長い間じっとしていました。

万事窮した、面目もすべてつぶれた、と彼は思いました。

その午後、彼は黒い絹の晴着をつけ、片足によごれた沓をはき、片足ははだしのまま、街に出て、百貨店に行き、上等の沓を買ってはきました。そして六階の塔の上にのぼりました。

塔の上から眺めると、都会の煤け黒ずんだ屋根並が、いろいろな勾配をなして、無心にごたごたと並んでいます。狭い深い街路には、蟻のような人通りです。

そうだ、ここから……と彼は何かに促されたようで、ぞっとしました。眼の下の深いところへと、強い力が渦巻きこんで、その中に自分も巻きこまれる気持でした。

その、巻きこまれる前に、彼はふと眼をあげて、うつろな瞳を空に向けました。鳥が一羽、宙に浮いていました。その映像が次第に生きてきて、力強い悠長な鳶となり、鳶は空高く、両の翼を張って、大きな圏を描いて舞っています。

彼の瞳は鳶に囚えられました。囚えられながら輝いてきました。身内からあらゆる悲しみという悲しみがわき出し、それが大きな憤りと変ってきました。自分自身に対する、また世の中に対する、大きな憤りでした。

彼の全身は震えおののいて、そこに屈みこんでしまいました。そして彼は両膝に顔を埋めて泣きました。泣きながら、歯をくいしばり、両手の拳を握りしめました。

久しくたって、彼はその塔からおりてゆきました。憤りに燃え立った恐ろしい顔をしていました。

それから四年ほどたった秋のことです。阮家の近くの、海岸寄りの湖水のほとりで、阮家に出人りをしている老船頭の張達が、煙草をふかしながら、湖水に小舟を浮べて網の寄せ打ちをやっている漁夫たちを、笑顔で眺めていました。

その湖水の渚を、馬上でやってくる二人の男がありました。いずれも逞しい若者で、粗末ながら乗馬用の服装をし、腰には拳銃らしい革袋をさげ、鞍には大きな荷をつけていました。

その二人は、時々なにか語りあいながら、渚づたいにゆっくり馬を進めて来ましたが、張達の前まで来ると、一人がぴたりと馬を止めて、声をかけました。

「お前は、張達ではないか。」

張達はとびあがらんばかりに驚いた様子で、それからもう頭をさげて、はいはい……とお辞儀ばかりしています。

若者は馬からおりて、張達の肩を叩いていました。

「何をしてるのだ、張達、僕が分らないのか。」

「はあ、あなた様は……。」

張達は上眼使いに、若者の顔を見ていましたが、ふいに、わっと大きな声を立てて、両手を差出しました。

「おう、阮の若者でいらっしゃいましたか。私はまた、匪賊……なにかと思って、びっくり致しました。若様で、……よくまあ無事に帰っておいでになりました。」

「ああ、御無沙汰をした。御両親とも達者かね。」

「はい、それはもう……。」

張達は涙の眼をしばたたいて、袖で鼻を拭きました。

「お前に逢って丁度よかった。」と阮東はいいました。

「邸まで案内してくれないか。そしてお前から、御無沙汰のお詫びを御両親にしてくれないかね。いきなり馬を乗りつけるのも、ちょっと気が咎めるからね。あの男は、僕の伴をしてくれた友人で仔細ないのだ。」

阮東は、友の范志清を呼んで、張達に紹介し、それから、家郷のことをいろいろ尋ねました。

張達のいうところに依りますと、四年前、阮東が失踪したことは、周家から阮家へも知らせがありました。何か阮東に不始末なことがあって、周大人がこらしめのためにひどく叱りつけ、あとで詫びに来たら懇々と説諭してやるつもりでいたところ、阮東はそのまま失踪してしまったとの由で、阮家の人たちは歎き悲しみ、朝に夕に、消息を待ちあぐみ、はては人を遣って探らせたが、其の後のことは更に手掛りもなく、悲しい遺品だけが周家から届いたに過ぎませんでした。それから一年たち、二年たち、三年たつうちに、阮大人は阮東のことを口にするのを禁じてしまいました。けれど、口にしないだけに、想いは胸に深まっていったようで、めっきり老けてきました。それだけのことで、阮一家には、他に何の変りもありませんでした。ただ、近頃、その辺にも匪賊が侵入してきて、三ヶ月ほど前、数千金を奪ってゆかれた上、また、多額の金を、明晩までに要求されてるとのことでありました。そして阮大人は、何と思ってか、今晩、一家中で盛宴を催すとかで、そのために、張達は漁夫たちを指図して、湖水の美魚を捕えているのでありました。

「よいところへ帰っておいでになりました。天の思召しに依るのでございましょう。」と張達は涙ぐんだ眼を輝かせました。

そして張達の案内で、二人の騎士は、大きな阮家の門をくぐりました。

邸内にはいると、張達は俄に老年を忘れたかのように、駆け廻り、喚き立て、前後の筋途もなく饒舌り立てました。

豪族阮家の大勢の人たちが、急いで飛び出してきて、阮東と范志清とを取巻きました。阮東はその一人一人に向って、ただ黙って頭をさげました。それから、母親の胸には顔を埋め、父親の前には跪きました。

「遠くから来たようだ、少し休息させなさい。」と阮大人は誰にともなくいいました。

その言葉が、阮東の胸にしみました。

けれど、阮東はゆっくり休息するひまがありませんでした。準備されていた盛宴は、阮東を迎えるためのものと変って、早くから初められました。

両親をはじめ一家の人たち二十人ばかり、みな顔を輝かしていました。阮東だけはなんだか沈痛な顔色でした。范志清はにこにこして、自分の家にでも来たように落着きはらっていました。

阮東は、一同から尋ねられても、これまでの四年間のことをあまり、話しませんでした。概略のところ、周家を出てから、知人を頼って、西方遠くの或る都市の匪賊討伐隊に加わったこと、そして時折戦闘もしたが、それよりはおもに、隊の医務をやっていた老人から、本草の学をまなんだこと、そしてその老師が亡くなったので、休暇をもらって帰省したこと、大体そんなことだけでした。

「この范君は、僕以上によく知っています。」と彼は口を噤んで苦笑するのでした。

「ははは、阮君のことなら、阮君自身よりもよく知っていますが。皆さんに御披露するほどよくは知りませんよ。」と范志清は快活に笑うのでした。

二人の友人の間には何か秘密な了解があるようでした。

食卓には、田舎で出来る限りの料理が、次々に持出されました。犢の肉や臓物、豚の肉、まるのままの鶏、湖水のいろいろな魚や蝦、葱や大蒜にんにくや茴香、栗や筍、それからまた、百年もたったという老酒の甕も取出されていました。

ところが、料理が食べ荒され、酒が汲み交されるにつれて、賑かになるべき一座の空気は、却って沈んでゆくばかりでした。酔った范志清の高笑いが、へんに浮き上って耳につくようになりました。

阮東は、側に坐ってる父親に、声をひそめて尋ねました。

「匪賊の要求は、いかほどですか。」

「明晩までに八千金というのだ。」と平然たる調子でした。

「それだけの金が、うちにありますか。」

「この前やられたのでね、半分もあるまい。」

「では、どうなさるのですか。」

「どうにか、なるようになるだろう。家の者は皆、蔵の奥に隠れることになっている。わしは、人質になるかも知れない。」

「それでよいのですか。」

「よいもわるいもないのだ。そのため、今晩ゆっくり、御馳走を食べることにした。お前が帰って来たので丁度よかった。ただ残念だが、お前たちは、明日の朝出かけなさい。」

「本気でそう仰言るのですか。」

「どうも仕方がない。」

「お父さん。」

「お前はまだ若い。世の中のことが分るものではない。」

父親の落着いた平気な調子は、阮東の血を却って湧き立たせました。

彼はいきなりつっ立って、范志清に叫びました。

「おい、土産物を持出そう。あれが途中で役立たなくて、家に帰って役立つとは、僕は夢にも思わなかった。」

「よろしい、僕が引受けた。」

范志清は、杯を高く差上げ、一息にぐっと飲みほして、ふらふらした足どりで、室から出て行きました。阮東も出て行きました。

暫くすると、二人は、小銃を二挺ずつかついで戻って来、それを音高く食卓の上に投げ出しました。

「僕たちの土産物です。」

女たちは声を立てました。男たちは立上りました。

阮大人は静かにいいました。

「今晩だけは許すから、賑かにやって、そして、お前たち二人は、明日の朝、ここをたちなさい。」

それももう、二人の耳にははいりませんでした。若い人たちが集ってきて、乾杯の音がしきりに起りました。

酒杯のうちに、匪賊に対する計画は進められました。小銃が四挺に拳銃が二挺あります。弾薬も充分にあります。なお家の中には、いろいろ武器もあります。動員出来る若い農夫や漁夫も、近くに大勢いる筈でした。

そのうちに阮東と范志清とは、長旅の疲れも出て、長椅子の上にうとうと眠りました。

阮東が眼をさました時は、もう太陽が高く昇っていました。范志清が万事の指揮をして、忙しく動き廻っていました。

阮東は、長年ぶりの生家に、而も戦闘を目前にひかえて、なにか涙ぐましい気持で、ぶらりと庭の方へ出て行きました。数本の灌木が紅葉し、叢のなかに咲いてる小さな花の白と紫が、眼にしみました。少し剥げおちた白壁には、昔のままの汚点がついていました。

その白壁の向う側の、高い木の梢にかかってる小鳥の巣が、子供の頃とそっくりな記憶をよびさましましたので、彼はその方へ足を向けると、はっと立止りました。

秋の陽を受けて、木の根本に屈みこんで、阮大人がじっと頭を傾けているのです、もう髪の毛はなかば白くなっています。なんとなく肌寒そうにも見えます。そして膝の上に、両袖で蔽うようにして、何かを大事そうに抱えています。

阮東には、それが何だかすぐに分りました。古くから伝わってる小さな壺で、手垢で黒ずんでいますが、貴重な品だと聞かされたことがありました。父はその中に、蟋蟀こおろぎを入れて、鳴き声に耳をすましているのです。

そうした父の姿が、阮東の涙ぐましい気持を、急に深くかきたてました。瞼にいっぱい涙がにじんできました。その涙を自分で感ずると、彼は唇をかみしめました。とたんに、今夜に迫った危急な情況がぱっと頭に映りました。彼は嗚咽に似たものが胸にこみあげてくるのを感じました。それが胸にあふれて、激しい憤りとなりました。

彼はつかつかと父の側に歩み寄り、その小壺を手荒くひったくって、木の根本に叩きつけました。壺は砕け散りました。

父は飛び立って、呆然と彼を見つめました。

彼は足は棒のようで、上半身をわなわな震わしていましたが、その震えがやむと、そこに跪いていいました。

「お父さん、許して下さい。然し、私は、四年間も持ち続けた憤りの火が、次第に消えかかったので、家に帰って来ましたが、家に来て、また憤りの火が燃えだしました。大事な壺を壊した代りに、私は私自身を生かします。匪賊のことも、私に任して下さい。」

それから五年後の晩春の頃、阮家では范志清のために盛大な葬儀が行われました。

この間に、附近の情勢はすっかり改まっておりました。阮東が帰来した翌晩、三十人ばかりの匪賊を邸内で、謀略にかけて、半ば殺し半ば追い払ってから、阮東と范志清とは、その地方の人々を結合させることにかかりました。義勇民兵団が組織され、武器も次第に整備されました。幾度か匪賊の来襲もありましたが、それも大した損害がなくて撃退されました。

阮東の両親は相次いで病歿しました。阮東は一家の主人となってから、同族中の中敏という娘を范志清にめあわしました。そして次第に、一切の事を范志清に任せて、自らは本草学の研究に耽るようになりました。

范志清は時には無謀大胆で、そして常に勇敢で、威令を振いました。ところが或る日、湖水のほとりで、死体となって横たわっているのが、発見されました。背中に二ヶ所、銃弾を受けていました。

范志清の葬儀は、その民兵団の公葬となりました。阮東は、ただ沈鬱に黙々として、葬儀を主宰しました。

死体は、楠の大木のくりぬきの箱に、朱を塗って納められ、五寸ほどの厚みの楠の蓋が、鎹で留められました。墓地は、本人の姓名と生年月日とで占われることもなく、ただ阮東の見立てにより、湖水のそばの小高い丘の上に定められ、やがて、柩を埋めた上に煉瓦の廟を築くように準備されました。木蓮の花が式場一面に飾られ、むせかえるような芳香でありました。遠くから迎えられた大禅師が読経一切を指揮しました。

葬儀万端、盛大に滞りなくすみまして、その夜、さめざめと泣いてる中敏と、すやすや眠ってる二歳の子供との枕頭に、阮東は腕を組んで、いつまでも坐っていました。中敏が泣き疲れて眠ってからも、なお夜通し坐っていました。眼を見据え、眉根をよせて、何か或る想念を、幻像に喚起しようとしてるかのようでありました。時々、酒をのみました。

夜の明け方、彼は胸から一片の紙を取出しました。紙には、「誓約を返上し、後事を委托す。」と認めてありました。范志清がかねて用意していたものとみえて、その死体の内隠しの中から見出されたものでした。阮東はその文字をじっと眺め、それから、火桶の火に紙をくべました。黒い煙が、そして次に白い煙が、ゆらゆらと立昇りました。――その誓約というのが、どういうことだか、誰も知りませんでした。ただ、後で范志清のことを語る阮東の言葉のはしから察すれば、死体を共にするというほどの普通のことらしく思われるのでした。

その翌日、阮東は突然、奇怪な行動をとりました。

范志清を狙撃した犯人はどうしても分りませんでしたが、それについて阮東は、民兵団全員に責任を問い、この責任は血を以て贖うべきであるとし、その血の犠牲者五名を選出せよと、断乎たる命令を出したのであります。

人々はどよめきました。いろいろと諌める者もありましたが、阮東は命令を取消しませんでした。

するうちに、血の犠牲者として、自ら進み出て来た五名がありました。常に范志清のそばで戦ってきた逞しい若者たちでありました。

彼等は阮東の前に直立して、決心の色を顔に浮べていました。その様子を、阮東は冷酷な眼付で眺めて、いいました。

「予がこの拳銃で処置してやるが、覚悟はよいか。」

五名のうちの一人が答えました。

「はい、覚悟をしております。私共が民兵団全部の責任を負い、その責任を私共の血で贖います。ついては、一つのお願いがあります。范司令殿の貴い血は、敵兵全部の血を以て償って頂きたいと思います。」

その言葉を聞いて、阮東は暫くじっと考えこんでいましたが、急に熱い血を顔に漲らして、立上って叫びました。

「よろしい、その願いは叶えてやる。そして君たちのことは、明日まで待っておれ。」

阮東はそういいすてて、自分の室へはいってゆきました。

その夕方、意外な通達が人々を驚かせました。范志清未亡人中敏は、これから阮東夫人になるというのでした。而もその晩、葬儀に引続いたその晩に、結婚の宴が催されました。

なにか名状し難い宴席でありました。そこに集った数十名の人々は、静かに飲食をしました。阮東の一身から或る強烈なものが発散して、一同はそれに気圧されてるようでありました。けれど彼は、見たところ無心そうに、范志清の一子を胸に抱いて、その子をあやして楽しんでるらしい様子でした。中敏がしとやかに傍に侍って、時々子供を抱き取りました。

そして最後の乾杯をする時、阮東は恐ろしい声で叫びました。

「わが悲しみと憤りとのために。」

それはもはや悲しみや憤りを超えた沈痛なもので、一同はぞっと水を浴びたような気がしました。

その次の日から、阮東の行動は勇猛果敢を極めました。あの五名の若者が、常に彼の身辺に附添っていました。彼は村々を次第に自分の支配下に編入し、民兵団の兵員を増加し、武器弾薬を何処からか夥しく輸送してきて蓄え、遠方へまで匪賊討伐に出かけました。

「恐ろしいことだ。何かがのりうつったのかも知れない。」と人々は蔭で囁きあいました。

それから急に阮東の名は、英傑として遠近に響き渡るようになりました。その地方一帯は、彼の領地に等しい状態となりました。

これから先のことは、ただ英傑阮東という名だけで、詳しいことは分りません。彼の姿も、多数の手兵の蔭にひそんで、見た者も少いとのことであります。ただ、中敏を中心とした婦人たちの医療斑に、土地の人々は大いに救われたそうであります。

其の後、阮東はどうなったか、はっきり分りません。戦死したという説もあり、行方不明になったという説もあり、外国に渡ったという説もあり、多くの伝説と同様、曖昧に終っていますのは、甚だ遺憾なことであります。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
1940(昭和15)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月13日作成
2008年1月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042712_000906/

豊島 与志雄「三つの悲憤──――近代伝説――」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)』未来社、1965年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042712_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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