西鶴の作品についてはつい近年までわずかな知識さえも持合せなかった。ところが、二、三年前にある偶然な機会から、はじめて『<ruby><rb>日本永代蔵</rb><rt>にっぽんえいたいぐら</rt></ruby>』を読まなければならない廻り合せになった。当時Ｒ研究所での仕事に聯関して<ruby><rb>金米糖</rb><rt>こんぺいとう</rt></ruby>の製法について色々知りたいと思っていたところへ、矢島理学士から、西鶴の『永代蔵』にその記事があるという注意を受けたので、早速岩波文庫でその条項を読んでみた。そのついでにこの書のその他の各条も読んでみるとなかなか面白いことが沢山にある。のみならず、自分がこれまでに読んだ<ruby><rb>馬琴</rb><rt>ばきん</rt></ruby>や近松や<ruby><rb>三馬</rb><rt>さんば</rt></ruby>などとは著しく違った特色をもった作者であることが感ぜられた。そうしてこれを手始めに『<ruby><rb>諸国咄</rb><rt>しょこくばなし</rt></ruby>』『<ruby><rb>桜陰比事</rb><rt>おういんひじ</rt></ruby>』『<ruby><rb>胸算用</rb><rt>むねさんよう</rt></ruby>』『<ruby><rb>織留</rb><rt>おりとめ</rt></ruby>』とだんだんに読んで行くうちに、その独自な特色と思われるものがいよいよ明らかになるような気がするのであった。それから引続いて『五人女』『一代女』『一代男』次に『武道伝来記』『武家義理物語』『置土産』という順序で、ごくざっと一と通りは読んでしまった。読んで行くうちに自分の一番強く感じたことは、西鶴が物事を見る眼にはどこか科学者の自然を見る眼と共通な点があるらしいということであった。そんなことを考えていた時にちょうど改造社の『日本文学講座』に何か書けという依頼を受けたので、もし上掲の表題でも宜しければ何か書いてみようということになった。云わば背水陣的な気持で引受けた次第である。そんな訳であるから、この一篇は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>思い付くままの随筆であって、もとより論文でもなく、考証ものでもなく、むしろ一種の読後感のようなものに過ぎない。この点あらかじめ読者の<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>を得ておかなければならないのである。

西鶴の人についてもあまりに何事も知らな過ぎるから、この際の参考のためにと思って手近にあった徳富氏著『近世日本国民史、元禄時代』を見ていると、その中に近松と西鶴との比較に関する蘇峰氏の所説があって、その一説に「西鶴のその問題を取扱うや、概して科学者の態度だ。すなわち実験室において、<ruby><rb>南京</rb><rt>なんきん</rt></ruby>兎を注射するごとく、もしくは解剖室において、解剖刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>うがごとくであった、云々」というのがあり、また「西鶴は検事でなければ、裁判官だ。しかも近松は往々弁護料を要求せざる、名誉弁護者の役目を、自ら進んで勤めている」というのがある。そうしていろいろの具体的の作品に関して西鶴近松両者の詳細な比較論がしてある。

この所説を見ても西鶴の態度を科学的と見るという見方はおそらく多くの人に共通な見方であって自分が今ここに事新しく述べるまでもないことかも知れないであろうが、ただ自分が近頃彼の作品を乱読しているうちに特に心付いた若干の点を後日の参考また備忘のために簡単に<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>しておきたいと思った次第である。

第一に気の付く点は、西鶴が、知識の世界の広さ、可能性の限界の不可測ということについて、かなりはっきりした自覚をもっていたと思われることである。この点もまたある意味において科学的であると云われなくはない。

科学者は実証なき何物をも肯定しないと同時に、不可能であると実証されない何物の可能性をも否定してはならないはずである。尤も科学者の中には往々そういう大事な根本義を忘れて、自分の既得の知識だけでは決して不可能を証明することの出来ない事柄を自分の浅はかな独断から否定してしまって、あとでとんだ恥をかくという例もあえて稀有ではない。こうした独断的否定はむしろ往々にしていわゆる<ruby><rb>斯学</rb><rt>しがく</rt></ruby>の権威と称せられまた自任する<ruby><rb>翰林院</rb><rt>かんりんいん</rt></ruby>学者に多いのである。例えばダイナモの発明に際してある大家がその不可能を論じたにかかわらず電流が遠慮なく流れ出したのは有名な話である。また若い学士が申出したある可能現象の実験的検査をその先生の大家が一言の下に叱り飛ばしたのが、それから数年の後に国外の学者によってその若い学士によって予測された現象の実在が証明されたというようなことも<ruby><rb>適</rb><rt>たま</rt></ruby>にはあるようである。

しかるに、西鶴はその著書中にしばしば「世界の広さ」という言葉を繰返している。狭い国土の中に限られた経験だけから帰納して珍稀と思われるものの存在を否定してはいけないということを何遍となく唱えている。先ず『諸国咄』の序文に「世間の広き事国々を見めぐりてはなしの種をもとめぬ」とあって、湯泉に棲む魚や、<ruby><rb>大蕪菁</rb><rt>おおかぶら</rt></ruby>、大竹、二百歳の<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>等、色々の珍しいものが挙げてある。中には<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>の<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>、浦島の火打箱などといういかがわしいものもあるにはあるのである。また『諸国咄』の一項にも「おの〱広き世界を見ぬゆへ也」とあって、<ruby><rb>大蕪菜</rb><rt>おおかぶな</rt></ruby>、<ruby><rb>大鮒</rb><rt>おおふな</rt></ruby>、大山芋などを並べ「遠国を見ねば合点のゆかぬ物ぞかし」と駄目をおし、「むかし<ruby><rb>嵯峨</rb><rt>さが</rt></ruby>のさくげん和尚の<ruby><rb>入唐</rb><rt>にっとう</rt></ruby>あそばして後、信長公の<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>にての物語に、りやうじゆせんの御池の<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はちすば</rt></ruby>は、およそ一枚が二間四方ほどひらきて、此かほる風心よく、此葉の上に昼寝して涼む人あると語りたまへば、信長笑わせ給へば、云々」とあり、和尚は信長の頭脳の偏狭を嘆いたとある。この大きな<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の葉は多分ヴィクトリア・レジアの広葉を指すものと思われる。また『武道伝来記』には、ある武士が人魚を射とめたというのを意地悪の男がそれを偽りだという。それを第三者が批評して「貴殿広き世界を三百石の屋敷のうちに見らるゝ故なり。山海万里のうちに異風なる<ruby><rb>生類</rb><rt>しょうるい</rt></ruby>の有まじき事に非ず」と云ったとしてある。その他にも『永代蔵』には「一生<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>の皿の中をまはり広き世界をしらぬ人こそ<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちおし</rt></ruby>けれ」とか「世界の広き事思ひしられぬ」とか「智恵の海広く」とか云っている。<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱれ</rt></ruby>天下の物知り顔をしているようで今日から見れば<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいかもしれないが、彼のこの心懸けは決して悪いことではないのである。

可能性を許容するまでは科学的であるが、それだけでは科学者とは云われない。進んでその実証を求めるのが本当の科学者の道であろうが、それまでを元禄の西鶴に求めるのはいささか無理であろう。

ともかくも西鶴の知識慾の旺盛であった事は上述の諸項からも知られるが、しかし西鶴の知識慾の向けられた対象を、例えば馬琴のそれと比較してみるとそこに興味ある差違を見出すことが出来るであろう。

江戸時代随一の物知り男<ruby><rb>曲亭馬琴</rb><rt>きょくていばきん</rt></ruby>の博覧強記とその知識の振り廻わし方は読者の周知の通りである。『八犬伝』中の竜に関するレクチュアー、『胡蝶物語』の中の酒茶論等と例を挙げるまでもないことである。しかるに馬琴の知識はその主要なるものは全部机の上で書物から得たものである。事柄の内容のみならずその文章の字句までも、古典や雑書にその典拠を求むれば一行一行に枚挙に<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>がないであろうと思われる。

勿論、馬琴自身のオリジナルな観察も少なくはないであろうが、全体として見るときは彼の著書には強烈な「書庫の匂い」がある。その結果として、あらゆる描写記載にリアルな、生ま生ましい実感を求めることが困難である。馬琴自身の自嘲の辞と思われる文句が『胡蝶物語』にある。「そなたのやうな生物しり。……。唐山にはかういふ故事がある。……。和漢の書を引て<ruby><rb>瞽家</rb><rt>こけ</rt></ruby>を<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>し。しつたぶりが一生の<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>になつて……」というのである。

西鶴の知識の種類はよほど変っている。稀に書物からの知識もあるが、それはいかにも附焼刃のようで直接の読書によるものと思われないのが多い。彼の大多数の知識は主として耳から<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った耳学問と、そうして、彼自身の眼からはいった観察のノートに<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>るものと思われる。

彼が新知識、特にオランダ渡りの新知識に対して強烈な<ruby><rb>嗜慾</rb><rt>しよく</rt></ruby>をもっていたことは到る処に明白に指摘されるのであるが、そういう知識をどこから得たか自分は分からない。しかし『永代蔵』中の一節に或る利発な商人が商売に必要なあらゆる経済ニュースを蒐集し記録して「洛中の<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>」となったことを誌した中に、「<ruby><rb>木薬屋</rb><rt>きぐすりや</rt></ruby>呉服屋の若い者に長崎の様子を尋ね」という文句がある。「竜の子」を二十両で買ったとか「火喰鳥の卵」を小判一枚で買ったとかいう話や、色々の輸入品の棚ざらえなどに関する資料を西鶴が蒐集した方法が、この簡単な文句の中に無意識に自白されているのではないかという気がする。

こうした外国仕入れの知識は何といっても貧弱であるが、手近い源泉から採取した色々の知識のうちで特に目立って多いものは雑多なテクニカルな伝授もの風の知識である。例えば『永代蔵』では前記の<ruby><rb>金餅糖</rb><rt>こんぺいとう</rt></ruby>の製法、<ruby><rb>蘇枋染</rb><rt>すおうぞめ</rt></ruby>で<ruby><rb>本紅染</rb><rt>ほんもみぞめ</rt></ruby>を<ruby><rb>模</rb><rt>も</rt></ruby>する法、弱った<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>を活かす法などがあり、『織留』には<ruby><rb>懐炉</rb><rt>かいろ</rt></ruby>灰の製法、鯛の焼物の速成法、<ruby><rb>雷除</rb><rt>かみなりよ</rt></ruby>けの方法など、『胸算用』には日蝕で暦を<ruby><rb>験</rb><rt>ため</rt></ruby>すこと、油の凍結を防ぐ法など、『桜陰比事』には地下水脈験出法、血液検査に関する記事、脈搏で罪人を検出する法、<ruby><rb>烏賊墨</rb><rt>いかずみ</rt></ruby>の証文、<ruby><rb>橙汁</rb><rt>だいだいじる</rt></ruby>のあぶり出しなどがある。

詐欺師や<ruby><rb>香具師</rb><rt>やし</rt></ruby>の品玉やテクニックには『永代蔵』に<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>の黒焼や<ruby><rb>閻魔鳥</rb><rt>えんまちょう</rt></ruby>や<ruby><rb>便覧坊</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>があり、<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>行の煙草の話では不正な輸出商の<ruby><rb>奸策</rb><rt>かんさく</rt></ruby>を喝破しているなど現代と比べてもなかなか面白い。『胸算用』には「仕かけ山伏」が「祈り最中に<ruby><rb>御幣</rb><rt>ごへい</rt></ruby>ゆるぎ<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>、ともし火かすかになりて消」ゆる手品の種明かし、樹皮下に<ruby><rb>肉桂</rb><rt>にっけい</rt></ruby>を注射して立木を枯らす法などもある。

こういう種類の資料は勿論馬琴にもあり近松でさえ無くはないであろうが、ただこれが西鶴の中では如何にもリアルな実感をもって生きて働いている。これは著者が特にそうした知識に深い興味をもっていたためではないかと思われる。

西鶴がこういうテクニカルな方面における「独創」を尊重したのみならず、それをもって致富の要訣と考えていたことも彼の著書の到る処に<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われる。例えば『永代蔵』の中では前記の紅染法の発明があり、「工夫のふかき男」が種々の改良農具「こまざらへ」「後家倒し」「打綿の唐品」などを製出した話、蓮の葉で味噌を包む新案、「行水舟」「<ruby><rb>刻昆布</rb><rt>きざみこんぶ</rt></ruby>」「ちやんぬりの<ruby><rb>油土器</rb><rt>あぶらがわらけ</rt></ruby>」「しぼみ形の<ruby><rb>莨入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の人のせぬ事」で三万両を儲けた話には「いかにはんじやうの所なればとて常のはたらきにて長者には成がたし」などと云っている。どんな行きつまった世の中でもオリジナルなアイディアさえあればいくらでも金儲けの道はあるというのが現代のヤンキー商人のモットーであるが、この事を元禄の昔に西鶴が道破しているのである。木綿をきり売りの手拭を<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>の天神で売出した男の話は神宮外苑のパン、サイダー売りを想わせ、『諸国咄』の終りにある、江戸中の町を歩いて落ちた金や金物を拾い集めた男の話は、近年隅田川口の泥ざらえで儲けた人の話を想い出させて面白い。これの高じたものが沈没船引上げの魂胆となるのである。

大して金儲けには関係はないが、『織留』の中にある猫の<ruby><rb>蚤取</rb><rt>のみとり</rt></ruby>法や、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>にささった釣針を外ずす法なども独創的巧智の例として挙げたものと見られる。

それはとにかく西鶴のオリジナリティーの尊重の中にも、西鶴の中の科学的な要素の一つを認めることが出来るかと思われる。

次には、『桜陰比事』に最も明白に現われている西鶴の「探偵趣味」とも称すべきものが、これもまたある意味では西鶴の中の科学者の面貌を露出したものと云われるであろう。尤もこの短篇探偵小説における判官の方法は甚だしく直観的要素の勝ったもので解析的論理的な要素には乏しいと云わねばならないが、しかし現代科学の研究法の中にも実はこの直観的要素が極めて重要なものであって、これなしには科学の本質的な進歩はほとんど不可能であるということはよく知られたことである。とにかくそういう見方から西鶴の探偵趣味とその方法を観察するのも一興であろう。

例えば殺人罪を犯した浪人の一団の隠れ家の見当をつけるのに、目隠しされてそこへ連れて行かれた医者がその家で聞いたという<ruby><rb>琵琶</rb><rt>びわ</rt></ruby>の音や、ある特定の日に早朝の街道に聞こえた人通りの声などを手掛りとして、先ず作業仮説を立て、次にそのヴェリフィケーションを遂行して、結局真相をつき止めるという行き方は、科学の方法と一脈の相通ずる所があると云われる。また例えば山伏の橙汁の<ruby><rb>炙出</rb><rt>あぶりだ</rt></ruby>しと見当をつけてから、それを検証するために検査実験を行って詐術を実証観破するのも同様である。「十夜の<ruby><rb>半弓</rb><rt>はんきゅう</rt></ruby>」「善悪ふたつの取物」「人の刃物を出しおくれ」などにも同じような筆法が見られる。

また一方で、彼の探偵物には人間の心理の鋭い洞察によって事件の真相を見抜く例も沢山ある。例えば毒殺の嫌疑を受けた十六人の女中が一室に監禁され、明日残らず<ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>すると<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>される、そうして一同新調の<ruby><rb>絹</rb><rt>すずし</rt></ruby>のかたびらを着せられて幽囚の一夜を過すことになる。そうして翌朝になって<ruby><rb>銘々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の<ruby><rb>絹帷子</rb><rt>きぬかたびら</rt></ruby>を調べ「少しも<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>のよらざる女一人有」りそれを下手人と<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むというのがある。「身に覚なきはおのづから楽寝<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>り衣裳付<ruby><rb>自堕落</rb><rt>じだらく</rt></ruby>になりぬ。又おのれが身に心遣ひあるがゆへ夜もすがら心やすからず。すこしも寝ざれば<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れて一人帷子に皺のよらざるを吟味の種に仕り候」とある。少し無理なところもあるが、狙い処は人間のかくれた心理の描写にある。この一篇で、幽閉された女中等が泣いたり<ruby><rb>読経</rb><rt>どきょう</rt></ruby>したりする中に小唄を歌うのや<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>のまねをして人をおどすのがあったりするのも面白い。その外にも、例えば「人の刃物を出しおくれ」「<ruby><rb>仕</rb><rt>し</rt></ruby>もせぬ事を隠しそこなひ」のような諸篇にも人間の機微な心理の描写が出ている。「白浪のうつ脈取坊」には犯罪被疑者がその性情によって色々とその感情表示に差違のあることを述べ「拷問」の不合理を<ruby><rb>諷諫</rb><rt>ふうかん</rt></ruby>し、実験心理的な脈搏の検査を推賞しているなども、その精神においては科学的といわれなくはないであろう。「小指は高くゝりの覚」で貸借の争議を示談させるために借り方の男の両手の小指をくくり合せて封印し、貸し方の男には常住坐臥不断に片手に<ruby><rb>十露盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を持つべしと命じて迷惑させるのも心理的である。エチオピアで同様の場合に貸し方と借り方二人の片脚を<ruby><rb>足枷</rb><rt>あしかせ</rt></ruby>で縛り合せて不自由させるという話と似ていて可笑しい。また有名な「三人一両損」の裁判でもこれを西鶴に扱わせるとその不自然な作り事の化けの皮が剥がれるから愉快である。勿論これらの記事はどこまでが事実でどこからが西鶴の創作であるかは不明であるが、いずれにしてもこれらの素材の取扱い方に著者の心理分析的な傾向を認めても不都合はないはずであろうと思われる。

これらの心理的写実を馬琴や近松のそれと比べてみると後者の不自然さが目立って来るようである。後者等は大体において人間心理を伝統的理想の鋳型に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めて活動させているとしか思われないのに反して、西鶴だけは自分自身の肉眼で正視し洞察し獲得した実証的素材を赤裸々に記録している傾向がある。

西鶴の人間に関する観察帰納演繹の手法を例示するものとしてはまた『織留』中の「諸国の人を見しるは伊勢」に、<ruby><rb>取付虫</rb><rt>とりつきむし</rt></ruby>の<ruby><rb>寿林</rb><rt>じゅりん</rt></ruby>、ふる<ruby><rb>狸</rb><rt>だぬき</rt></ruby>の<ruby><rb>清春</rb><rt>せいしゅん</rt></ruby>という二人の<ruby><rb>歌比丘尼</rb><rt>うたびくに</rt></ruby>が、通りがかりの旅客を一見しただけですぐにその郷国や職業を見抜く、シャーロック・ホールムス的の「<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ち」をも挙げておきたい。

科学者としても理論的科学者でなくてどこまでも実験的科学者であった西鶴が、また人間の経験の習熟練磨の効果を尊重したのは当然のことである。そうした例としては『諸国咄』中の水泳の達人の話、<ruby><rb>蚤虱</rb><rt>のみしらみ</rt></ruby>の曲芸の話、また「力なしの大仏」の色々の条項を挙げることが出来る。『桜陰比事』の「四つ<ruby><rb>五器</rb><rt>ごき</rt></ruby>かさねての御意」などもそうした例であると同時に、西鶴の実証主義を暗示するものと見られる。

彼の実証主義写実主義の現われとしてその筆によって記録された雑多の時代世相風俗資料は近頃ある人達の称える「考現学的」の立場から見て貴重な材料を供給するものであることは周知なことである。例えば当時の富人の豪奢の実況から<ruby><rb>市井裏店</rb><rt>しせいうらだな</rt></ruby>の風景、質屋の出入り、牢屋の生活といったようなものが窺われ、美食家や異食家がどんなものを<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>んだかが分かり、<ruby><rb>瑣末</rb><rt>さまつ</rt></ruby>なようなことでは、例えば、万年暦、石筆（鉛筆か）などの存在が知られ、江戸で<ruby><rb>蝿取蜘蛛</rb><rt>はえとりぐも</rt></ruby>を愛玩した事実が窺われ、北国の積雪の深さが一丈三尺、稀有の<ruby><rb>降雹</rb><rt>こうひょう</rt></ruby>の一粒の目方が八匁五分六厘と数字が出ている。好色物における当時の性的生活の記録については云うも<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>であろう。

実証的な西鶴のマテリアリズムは彼の「町人もの」の到る処に現われているのであるが、『永代蔵』にある「其種なくて長者になれるは独りもなかりき」という言葉だけからもその一端を想像される。彼は興味本位の立場から色々な怪奇をも説いてはいるが、腹の中では当時行われていた各種の迷信を笑っていたのではないかと思われる節もところどころに見える。『桜陰比事』で偽山伏を暴露し埋仏詐偽の品玉を明かし、『一代男』中の「命捨ての光物」では火の玉の正体を現わし、『武道伝来記』の一と三では鹿嶋の神託の嘘八百を笑っている。

この迷信を笑う西鶴の態度は翻って色々の暴露記事となるのは当然の成行きであろう。例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>を<ruby><rb>撚</rb><rt>よ</rt></ruby>り、『一代女』には自堕落女のさまざまの暴露があり、『一代男』には美女のあら捜しがある。

このような批判の態度をもって西鶴が当時の武士道の世界を眺めたときに、この特殊な世界が如何に不合理に見えたかということは想像するに難くないのである。由来西鶴の武家物は観察が浅薄であり、要するに彼は武士というものに対する認識を欠いていたというのが従来の定評のようで、これも一応尤もな考え方であると思うが、しかしこれについて多少の疑いがないでもない。『武道伝来記』に列挙された仇討物語のどれを見ても、マテリアリストの眼から見た武士<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の不合理と矛盾の<ruby><rb>忌憚</rb><rt>きたん</rt></ruby>なき描写と見られないものはない。

『武家義理物語』の三の一に「すこしの<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>とがめなどいひつのり、無用の喧嘩を取むすび、或は相手を切りふせ、首尾よく立のくを、侍の本意のやうに沙汰せしが、是ひとつと道ならず。子細は、其主人、自然の役に<ruby><rb>立</rb><rt>たて</rt></ruby>ぬべしために、其身相応の<ruby><rb>知行</rb><rt>ちぎょう</rt></ruby>をあたへ置れしに、此恩は外にないし、自分の事に、身を捨るは、天理にそむく大悪人、いか程の手柄すればとて、是を高名とはいひ難し」とはっきりした言葉で本末の取りちがえを非難している。してみると、これらの武家物は決してかくのごとき末世的武士道を礼讃し奨励するつもりではなく、反対にその馬鹿らしさを強調し諷諫するような心持が多分にあったのではないかとも想像される。しかしまた、西鶴のような頭のいい観察者が、真の武士道の中の美点をも認めることが出来なかったとは想像されない。そうした例も実際捜せばところどころには散在するのである。

それはいずれにしても、武士道というものに対しても西鶴が独自の見解をもっていて、その不合理と矛盾から起る弊害を指摘する心持があったであろうという想像は、マテリアリストとしての彼の全体から判断し推測してそれほど無稽なものではないと思われるのである。

恋愛に関する西鶴の考えにもかなり独自なものがあり、伝統的な性の道徳に批判的の眼を向けていたように思われる。その一例とも見られるのは、『諸国咄』の中の「忍び扇の<ruby><rb>長歌</rb><rt>ながうた</rt></ruby>」に、ある高貴な姫君と身分の低い男との恋愛事件が暴露して男は即座に成敗され、姫には自害を勧めると、姫は断然その勧告をはねつけて一流の「不義論」を陳述したという話がある。その姫の言葉は「<ruby><rb>我</rb><rt>われ</rt></ruby>命をおしむにはあらねども、身の上に不義はなし。人間と生を請て、女の男只一人持事、是作法也。あの者<ruby><rb>下〲</rb><rt>したじた</rt></ruby>をおもふは是縁の道也。おの〱世の不義といふ事をしらずや。夫ある女の、外に男を思ひ、または死別れて、<ruby><rb>後夫</rb><rt>ごふ</rt></ruby>を求るとて、不義とは申べし。男なき女の、一生に一人の男を、不義とは申されまじ。また下〲を取あげ、縁をくみし事は、むかしよりためし有。我すこしも不義にはあらず、云々」というのである。現代ならかなり保守的な女学者でも云いそうなことであるが、ともかくもこれは西鶴自身の一種の自由恋愛論を姫君の口を借りて言明したものであることには疑いは無いであろう。それは当代にあってはずいぶんラジカルな意見であろうと思われる。

彼の好色物に現われた性生活の諸相の精細な描写記録は、この人間界の最も深刻な事実を事実として客観的に集輯したものであるには相違ないが、彼がそういうものを著述する際における彼の態度が、果して動物の観察者が動物の生活を記載する場合と同じものであったかどうかは疑問である。勿論、大衆読者というものを意識していることは云うまでもないことであるが、しかし、もしも彼の中に伝統的な恋愛道徳観が強烈に活きてはたらいていたら、こういう、当時としては破天荒なものを書く気にはなれなかったであろうと想像される。そういう方向から見ると、西鶴は当代としては非常に飛び離れた性道徳観の信奉者であったと思われないこともない。少なくも、恋愛の世界を勧善懲悪の縄張りから解放すべきものと考えていたのではないかと思われるふしが少なくないのである。

これらの武士道観、恋愛観は、ある意味からともかくも唯物論的な西鶴の立場を窺わせる窓口となるものでないかと思われる。

『永代蔵』中に紹介された致富の妙薬「長者丸」の処方、『織留』の中に披露された「長寿法」の講習にも、その他到る処に彼一流の唯物論的処世観といったようなものが織り込まれている。

これらは、西鶴一流とは云うものの、当時の日本人、ことに町人の間に<ruby><rb>瀰漫</rb><rt>びまん</rt></ruby>していて、しかも意識されてはいなかった潜在思想を、西鶴の冷静な科学者的な眼光で観破し摘出し大胆に日光に曝したものと見ることは出来よう。もしもそうでなかったらいかに彼の名文をもってしても、<ruby><rb>書肆</rb><rt>しょし</rt></ruby>の<ruby><rb>十露盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>に大きな狂いを生じたであろうと思われる。

要するに西鶴が冷静<ruby><rb>不羈</rb><rt>ふき</rt></ruby>な自分自身の眼で事物の真相を洞察し、実証のない存在を蹴飛ばして眼前現存の事実の上に立って世界の縮図を書き上げようとしている点が、ある意味で科学的と云っても大した不都合はないと思われる。

科学者にも色々の型がある。馬琴型の立派な科学者も決して稀ではない。いわゆるアカデミックな学界の権威にはこの型が多い。しかしまた一方で西鶴型の優れた科学者も時に出現し、そうしてそういう学者の中に往々劃期的な大発見、破天荒の大理論を仕遂げる人が生まれるようである。科学全体としての飛躍的な進歩はただ後者によって成さるると云っても過言ではない。

西鶴を生んだ日本に、西鶴型の科学者の出現を望むのは必ずしも空頼めでないはずであるが、ただそういう型の学者は時にアカデミーの<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めを受けて成敗される危険がないとも限らない。これも、いつの世にも変らない浮世の事実であろう。

余談ではあるが、西鶴の文章には、例えば馬琴などと比べて、簡単な言葉で実に生ま生ましい実感を盛ったものが多い。例えば、瑣末な例であるが『武道伝来記』一の四に、女に変装させて送り出す際に「風俗を<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>やくの女に作り、<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の網袋に葉付の蜜柑を入」れて持たせる記事がある。この網袋入りの蜜柑の印象が強烈である。また例えば『桜陰比事』二の三にある埋仏詐偽の項中に、床下の土を掘っても仏らしいものは見えず「<ruby><rb>口欠</rb><rt>くちかけ</rt></ruby>の茶壺又は<ruby><rb>消炭螺</rb><rt>けしずみさざえ</rt></ruby>からより外は何もなかりき」とある。こういう風に、聯想の火薬に点火するための口火のようなものを巧みに選び出す伎倆は、おそらく俳諧における彼の習練から来たものではないかと思われる。もう一つの例は『一代女』の終りに近く、ヒロインの一代の薄暮、多分雨のそぼ降る折柄でもあったろう「おもひ出して観念の窓より<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>けば、<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の<ruby><rb>葉笠</rb><rt>はがさ</rt></ruby>を着たるやうなる子供の面影、腰より下は血に<ruby><rb>染</rb><rt>そ</rt></ruby>みて、九十五、六程も立ならび、声のあやぎれもなくおはりよ〱と泣きぬ、云々」とある、これが昔おろした子供の亡魂の幻像であったというのである。実に簡潔で深刻に生ま生ましい記載である。蓮の葉はおそらく胎盤を指すものであろうか。こういう例は到底枚挙する暇のないことであろう。

錯綜した事象の渾沌の中から主要なもの本質的なものを一目で見出す力のないものには、こうした描写は出来ないであろう。これはしかし、俳諧にも科学にも、その他すべての人間の仕事という仕事に必要なことかもしれないのである。

西鶴についてはなお色々述べたいこともあるが、ここではただ表題に関係のあると思われる事項の略述に止めた。甚だ<ruby><rb>杜撰</rb><rt>ずさん</rt></ruby>なディレッタントの<ruby><rb>囈語</rb><rt>たわごと</rt></ruby>のようなものであるが、一科学者の立場から見た元禄の文豪の一つの側面観として、多少の参考ないしはお笑い草ともならば大幸である。

（昭和十年一月、改造社『日本文学講座』）