Soranoha

後の業平文治

のちのなりひらぶんじ

三遊亭 円朝

一

えゝ此の度たびは誉ほまれ高き時事新報社より、何か新作物を口演致すようとの御註文でございますから、嘗かつて師匠の圓朝えんちょうが喝采かっさいを博しました業平文治なりひらぶんじの後篇を申上げます。圓朝師が在世中、数百の人情噺にんじょうばなしを新作いたしました事は皆様が御承知であります。本篇は師が存生中ぞんしょうちゅう、筋々すじ〱を私わたくしにお話しになりました記憶の儘まゝを申上ぐる次第であります。そも私わたくしが師匠の門に入いりましたのは御維新前まえで、それから圓橘えんきつとなりましたのが明治二年の五月でございます。まだ其の頃は圓朝師も芝居掛り大道具というので、所謂いわゆる落語と申しましては一夜限り或あるいは二日続きぐらいのもの、其の内で永く続きましたのが新皿屋敷しんさらやしき、下谷義賊したやぎぞくの隠家かくれが、かさねヶ淵ふちの三種などでございます。それより素話すばなしになりましてからは沢さわの紫むらさき(粟田口あわだぐち)に次ついでは此の業平文治でございます。その新作の都度つど私わたくしどもにも多少相談もありましたが、その作意の力には毎度ながら敬服して居ります。師匠は皆様が御存じの通り、業平文治は前篇だけしか世に公おおやけにいたしませぬが、その当時私わたくしは後のちの文治の筋々を親しく小耳に挟はさんで居りました。即すなわち本篇が師匠の遺稿にかゝる後の業平文治でございまする。さて師匠存生中府下の各寄席よせで演じ、または雑誌にて御存じの業平文治は、安永の頃下谷したや御成街道おなりかいどうの角に堀丹波守ほりたんばのかみ殿家来、三百八十石浪島文吾なみしまぶんごという者の忰せがれでございまして、故ゆえあって父文吾の代より浪人となり、久しく本所ほんじょ業平橋なりひらばしに住居すまいいたして居りましたが、浪人でこそあれ町地面まちじめん屋敷等もありまして、相応の暮しをして居りました。で、業平橋に住居して居りました処から業平文治といいますか、乃至ないし浪島を誤って業平と申しましたか、但たゞしは男の好よいところから斯かく綽名あだないたしたものかは確しかと分りませぬ。併しかし天性弱きを助け強きを挫ひしぐの資性に富み、善人と見れば身代しんだいは申すに及ばず、一命いちめいを擲なげうってもこれを助け、また悪人と認むれば聊いさゝか容赦なく飛蒐とびかゝって殴り殺すという七人力にんりきの侠客きょうかくでございます。平生へいぜい荒々しき事ばかり致しますので、母親も見兼て度々たび〱意見を加えましたが、強情なる文治は一向肯入きゝいれませぬ。情深なさけぶかき母親も終ついには呆れ返って、「これほど意見しても肯かぬ気性の其方そち、行ゆく〱は親の首へ縄を掛けるに相違ない、長生ながいきして死恥しにはじを掻こうより寧いっそのこと食事を絶って死ぬに越したことはない」と涙を流しての切諫せっかん、それを藤原喜代之助ふじわらきよのすけが見兼て母に詫入わびいれ、母は手ずから文治の左の腕に母という字を彫付ほりつけ、「以来は其の身を母の身体と思って大切にいたせよ」と申付けまして、それからというものは一切表へ出しませぬ。さア今まで表歩きばかりしていた者が、俄にわかに家うちにばかり居おるようになりましたから、少しく身体の具合が悪くなりました。母も心配して、気晴しに参詣さんけいでもするが宜よいと云われて、母と同道で本所の五つ目の五百羅漢らかんへ参詣の帰り途みち、紀伊國屋友之助きのくにやとものすけの大難を見掛け、日頃の気性直すぐに助けようとは思いましたが、母の手前そういう訳にもまいりませぬから、渋々しぶ〱我家わがやへ帰り、様子を尋ねますると、友之助という者が大伴蟠龍軒おおともばんりゅうけんと賭碁かけごを打って負けましたので、女房お村を奪とられた上に、百両の証文が三百両になっているという、友之助は斯かくと聞いて大いに怒り、大伴に向って悪口あっこういたしましたので、蟠龍軒は友之助を取って押え、高手小手たかてこてに縛り上げて割下水わりげすいの溝どぶへ打込んだという話を聞き、義憤むら〱と発して抑え難く、ついに蟠龍軒の道場へ踏込ふみこみ、一味加担の奴ばらを打殺し、大伴だけ打漏うちもらして、窃ひそかに自宅へ帰ったという処までが、故圓朝師の話でございます。これより私わたくしが予かねて聞きおぼえたる記憶を喚起よびおこして、後の文治の伝記を伺います。さて其の翌日は安永五年の六月三十日でございます、蟠龍軒の道場にて何者にか数多あまたの者が殺されたという届出とゞけいでがありますから早速北割下水蟠龍軒の道場へ御検視が御出張になりまして吟味いたしましたが、誰が殺したのか一向分りませぬ。其の頃八丁堀の町与力小林藤十郎こばやしとうじゅうろうという人は、「これは多分蟠龍軒のためさん〲恥辱を受けた友之助の仕事であろう」と疑いましたが、誰たれあって文治の仕事と心付く者はございませぬ。まして百日あまり外出いたしませず、また近所の者は日頃文治を蔭かげでさえ呼棄てにする者はないくらいな人望家じんぼうか、子供に至るまで、業平の旦那、業平の旦那。と敬って居おるのでありますから、文治と疑う者のないのも道理でございます。その明あくる日、小林藤十郎殿は本所の名主の家うちへ出役しゅつやくいたし、また其の頃八丁堀にて捕者とりての名人と聞えたる手先二人ににんは業平橋の料理屋にまいりました。

二

手先の林藏りんぞうと申します者が立花屋たちばなやへ参りまして、

林「親方ア宅うちかえ」

主「これは親分さん、さアどうぞ此方こちらへお上りなさいまし、おい、お火を持って来い」

林「親方、今日来たのは外ほかじゃアねえ、少し大切だいじな事があって来たのだから不都合のねえように云ってくんなよ」

主「へえ大切な御用と云うのは何事ですか」

林「奥に友之助が隠れているな」

主「えっ」

林「やい親爺おやじ、とぼけるな、それだから予あらかじめ不都合のないようにしろと云ったんだ、二三日ち前から緑町みどりちょうの医者が出入でいりをしているが、ありゃア誰が医者にかゝっているのだ」

主「えっ……」

林「この親爺、何処どこまでとぼける積りだ、えゝ面倒だ、金藏きんぞう踏ん込ごめ」

金「やい友之助、御用だ」

主「もし〱親分え、そんな無慈悲な事を為すっちゃア困るじゃアございませんか、友之助は身体中疵きずだらけでございますぜ」

林「うむ、少しは疵も付いたろう、自業自得じごうじとくだ、誰を怨うらむところがあるか、神妙にお縄を頂戴しろえ、これ友之助、大切たいせつな御用だぞ、上かみへお手数てすうの掛らねえように有体ありていに申上げろよ」

友之助は何なんの為か更に合点がてんが行ゆかず、呆気あっけに取られて居りますと、林藏は屹きっと睨にらみ付けて、

林「やい友之助、貴様は十五日の晩には何処どこにいた」

主人は横合よこあいから、

主「親方、大切な御用とは何どういう筋かは知りませぬが、友さんは十四日の夕景、蟠龍軒一味の者にさん〲な目に遇いましてな、可愛相かわいそうに身体も自由にならないで、私方わたくしかたへ泊りました、で、十五日には外へも出ませず、終日いちんち此処こゝにうむ〱呻うなりながら寝て居りました」

林「黙れ、貴様に尋ねるのじゃアねえ、これ友之助、貴様は十四日は割下水の蟠龍軒の屋敷で、少しばかり打擲ちょうちゃくされたのを遺恨に思って、十五日の晩に其の仕返しを為しようと云う了簡りょうけんで、蟠龍軒の屋敷へ切込きりこんだろうな」

友之助は恟びっくり首を擡もたげて、

友「なゝなゝ何を云いなさる」

林「いやさ友之助、どうせ天の網を免のがれる訳にゃアいかねえ、あの手際てぎわは貴様一人の仕業じゃアあるめえの、相手は何者だ、男らしく有体に申上げた其の上でお慈悲を願うが宜よいぞ、己おれたちも悪くは計らわねえ、ぐず〱すると却かえって貴様の為にならねえぞ」

友之助は怪訝けゞんな面持おももちにて、

友「へえ、あの蟠龍軒めが何どうぞしましたか」

林「友、しらばっくれるな、あの時アたしか三人だったなア」

友「あなたの仰しゃることは何が何なんだか一向分りませんが」

林「ふむゝ、貴様は往生際おうじょうぎわの悪い奴だな、よし此の上は手前てめえの身体に聞くより外ほかはねえ」

主「えゝ親分、一体これは何ういう訳ですか」

林「汝われの知った事じゃアねえや」

主「それでも斯様こんな大病人たいびょうにんを何うなさる積りで」

林「おい金藏、この親爺も腰縄こしなわにしてくれえ、兎とも角かくも玄関まで引いて往いくから……」

この玄関と申しますのは、其の頃名主の邸やしきを通称玄関と申したのでございます。

主「親分、なんで其様そんな足腰の立たないものをお縛りなさるのです、私わたくしア名主様へ引かれるような罪を犯した覚えはございません」

林「往いく処へ往けば分らア、黙っていろ、金藏、この近所に駕籠屋かごやがあるだろう、一挺いっちょう雇って来い」

やがて友之助と立花屋の主人あるじを召捕めしとって相生町あいおいちょうの名主方へ引立ひきたてゝまいりました。玄関には予かねて待受まちうけて居りました小林藤十郎、左右に手先を侍はべらせ、友之助を駕籠から引出して敷台に打倒うちたおし、

小「京橋銀座三丁目紀伊國屋友之助、業平橋立花屋源太郎たちばなやげんたろう、町役人」

一同「はゝア」

小「友之助、其の方は去る十五日の夜よ、大伴蟠龍軒の屋敷へ踏込ふんごみ、家内の者四人、蟠龍軒舎弟しゃてい蟠作ばんさくを殺害せつがいいたしたな、何なんらの遺恨あって、何者を語らって左様な無慙むざんなる事を致したか、さア後あとで不都合のなきよう有体に申立てろ」

立「まア怪けしからぬ仰せでございます、余計な事を申すようでございますが、友之助は御覧の通り疵だらけ、十四日夜はさん〲打ぶたれて動きが取れませず、私方わたくしかたへ泊り込んだのでございます」

小「黙れ」

林「さア友之助、とても免のがれるものじゃアない、只今旦那のお尋ねの通り有体に申上げろ」

友之助は暫しばらく考えて居りましたが、

友「へえ、大伴の屋敷へ切込みまして、家内四人の者を殺害せつがいいたしましたるは全く私わたくしに相違ございません、へえ遺恨あって切込みました」

立「これ〱友さん、血迷っちゃアいかねえ、お前は十四日に……」

林「黙れ、其の方の口を出すべき場合でない、さア友之助、貴様一人の仕業しわざでないと云うことは分って居おる、何者を同道してまいったか、一つ白状して後あとを隠しては何なんにもならんぞ」

友「どの様な御吟味を受けましても、外ほかに頼んだ者はございませぬ」

三

林藏は少しく気を焦立いらだちて、

林「これ汝われがな、私わたくし一人の仕事でございますなどとしらを切っても、うむそうかと云って済ますような盲目めくらじゃア無ねえ、よく考えて見ろよ、手前てめえのような痩男やせおとこに、剣術遣つかいの屋敷へ踏込ふんごみ三四人の人殺しが出来る仕事かえ、さアいよ〱申上げねえか、旦那に申上げて少し叩いて見ようか」

友「何なんと云われても私わたくし一人の仕業に相違ございません」

立「もし〱友さん、お前何どうしたんだ、気が違やアしねえか、旦那様え、なか〱此の人一人でそんな事の出来る訳はございません、全く大疵のために気が違ったに相違ございません…おい友さん、確しっかりしなよ」

林「えゝ黙れ、旦那様、此奴こいつはなか〱一筋縄じゃア白状しませんぜ、一つ叩きましょうか」

小「まア林藏待て、下手人げしゅにんは友之助と決って居おるから追って又取調べるであろう、何しろ三四さんしの番屋へ送って置け」

この三四の番屋と申しますのは本材木町ほんざいもくちょう三四丁目の町番屋にて、この番屋には二階があって常の自身番とは違い、余程厳しく出来て居ります。町番屋とは申しながら重おもに公用に使ったものでございます。尚なお小林藤十郎殿は林藏に向いまして、

小「これ林藏、立花屋源太郎の縄を解いて家主いえぬしへ引渡せ」

林「はゝア、おい差配人さはいにん、不都合のないように預かり置け、友之助立てえ」

其の儘まゝ駕籠に乗せて本材木町の番屋を指さして出て往ゆきました。お話別れて、此方こちらは文治の宅、母は九死一生で、家内の心配一方ひとかたならず、折おりから訪れ来きたる者があります。

「えゝ頼む」

森松「やアこれは〱何方どなたかと思ったら藤原様、どうも大層お立派で……お萓かや様も御一緒ですか宜ようおいでゝございます」

藤「お母様ふくろさまは」

森「いやもう、お悪いの何なんのじゃアございません、何どうも今の様子じゃおむずかしゅうございますな」

藤「なに、むずかしい、そんなら少しも早く奥へ」

森「どうか此方こちらへ……旦那え、藤原様と御新造ごしんぞ様がおいでになりました」

文「おゝそうか、さア此方へ、やア何どうも暫く、お萓か、よくおいでだ」

両人「お母様が大層お悪いそうで、さぞ御心配でございましょう」

文「はい〱有難う、今度は些ちとむずかしかろうよ」

藤「それは何どうも、併しかし私わたくしどもの顔が分りましょうか」

文「いや少しは分りそうだ、兎も角も此方へ……お母様っかさま、藤原氏うじがまいりました、お母様、分りましたか、お萓も一緒に……」

藤「伯母様、藤原喜代之助でござる、お萓も一緒に、分りましたか、大層お瘁やつれ……」

と申しますと、病人に通じたものと見えて、「おゝ」と少し起上ろうと致しますから、

藤「どうか其の儘にして」

母「永いことお世話になりました、此の度たびはもうこれがお訣わかれで、お萓は御存じの通り外ほかに身寄もなき不束者ふつゝかもの、何どうぞ幾久しゅう、お萓や見棄てられぬように気を付けなよ、それでも文治の嫁が思ったより優しいので、何どの位安心したか知れません、もう是で思い残すことはありません」

此の時台所の方に当って頻しきりに水を汲んでは浴あびせる音が聞えまする何事か知らぬと一同耳をそばだてますると、

「南無大聖不動明なむだいしょうふどうみょう……のうまく……む……だあ……」

文治はそれと心付きまして、手燭てしょくを持って台所の戸を明けますと、表は霙みぞれまじりに降ふりしきる寒風に手燭は消えて真黒闇まっくらやみ。

文「誰だえ」

一向答えがありませぬ。一生懸命ざあ〱と寒水を浴びては「南無大聖不……」

文「おい、誰か提灯ちょうちんを持って来てくれ」

藤原が提灯を持ちまして袖そでに隠し、燈火の隙間すきまから井戸端いどばたを見ますると、お浪なみが単物ひとえもの一枚に襷たすきを掛け、どんどん水を汲くんでは夫國藏くにぞうに浴せて居ります。國藏は一心不乱に眼まなこを閉じ合掌して、

「南無大聖不動尊、今一度お母上様はゝうえさまの御病気をお助け下さりませ」

文「これ其処そこに居おるのはお浪じゃないか、國藏待て、その親切は千万せんばん辱かたじけないが、まア〱此処こゝへ来い、お浪や早く國藏に着物を着せてやれ、森松、國藏夫婦は何時いつの間まに来たのだ」

森「へえ、藤原様のおいでの少し前、いつもは蔵前の不動様へまいるんですが、今夜は御門が締りましたそうで」

文「うむ、毎夜此の通りか、寒中といい況まして今夜は此の大雨に……國藏、お前の親切は千万辱けないがな、命数は人の持って生れたものじゃ、寿命ばかりは神にも仏にも自由になるものじゃアない、神様や仏様は人の苦しむのを見て悦びなさる筈はずはないが、人が物を頼むにも無理力むりぢからを入れて頼んだからって肯きくものではない、お前も同じ人に生れていながら、この寒空さむぞらに垢離こりなど取って、万一身体に障さわったら、それこそ此の上もない不孝じゃないか、お前の親切は届いて居おる、もう〱止してくれよ」

四

文治は國藏夫婦の水垢離みずごりを諫いさめて居りますると、妻のお町が泣声にて、

町「旦那様ア、お早く〱」

文「なに、お母様っかさまが息を…」

と病間に駈戻り、

文「お母様、お母様、ほい、もういかんか」

町「お母様ア、お母様ア」

文「これ〱お町、そう泣悲なきかなしんでも仕方がない、もう諦めろ」

萓「伯母様おばさまえ、伯母様え、もう是がお別れか、伯母様え」

藤「お萓、そう呼ぶものではない、文治殿、さぞ〱御愁傷ごしゅうしょうでござりましょう」

文「いや永い御苦労を掛けました、あゝ何どうも、思えば私わたくしも不孝を尽しましたなア」

お町を始め一同顔を揃そろえて言葉もなく、鼻詰らして俯向うつむく折から、表の方かたで慌あわただしく、

「森松々々」

森「おうい、豊島町としまちょうの棟梁とうりょうか」

これは亥太郎いたろうという豊島町の棟梁でございます。

亥「おゝ亥太郎だ」

森松が立って戸を明けますると亥太郎は息急いきせきながら、

亥「森松、お母様ふくろさまは」

森「たった今……」

亥「えッ、亡なくなりなすったか、道理で新しい草鞋わらじが切れて変だと思った、えゝ間に合わなかったな」

森「昨日きのうからむずかしいから、お前さんの所へ知らせに往いくとな、今朝早く成田へ立ったと云うことだから、こいつア必定てっきりお百度だろうと後あとから往こうか知らんと思ったが、家うちが無人ぶにんで困っているのに何なんぼ信心だからと云って、出先から成田へ往ったら又旦那に叱られるだろうと、こう思って止したのが結句幸いであった、今も國藏兄あにいが成田様の一件で小言まじりに一本やられたところだ」

亥「己おらアな、昨夜ゆうべの内にお百度を済まして、何どうやら気が急せかれるから、今朝早立はやだちにして、十八里の道を急ぎ急いでもう些ちっと早くと思ったが、生憎あいにくの大雨で道も捗取はかどらず、到頭とうとう夜半よなかになっちまった、あゝ何うも胸がドキ〱して気が落着かねえ、水を一杯いっぺえくれねえか」

森「おゝ気の付かねえ事をした」

文「やア亥太郎殿か、成田へお出で下すったそうで、母のために毎いつも変らぬ御親切、千万辱けのう存じます、母も只たった今往生いたしました、さア何どうか直すぐに奥へ往って見てやって下さい」

亥「えゝ皆様御免なせえ、えゝお母様ふくろさま、なぜ私わっちが……旦那御免なせえよ、こんな時にゃア何なんと挨拶あいさつして宜いいのか私にゃア分んねえ」

藤「これは亥太郎殿、藤原喜代之助でござる、あなたの御親切で伯母も誠に宜よい往生を致しました、人の寿命ばかりは何なんとも致し方がありません」

亥「旦那御免なせえ、私わっちやア物心をおぼえて此の方かた、涙というものア流したことが無ねえんですが、いつぞや親子てえものは斯こう〱いうもんだと、此方こちらの旦那に意見されてから、此の間親父の死んだ時にゃア思わず泣きました、今日で二度目でござんす、御免ねえ」

とわッ〱と泣出しました。時に文治は、

文「いつも変らぬ御親切、有難う存じます、さぞお腹なかが減りましたろう」

亥「なアに、さしたる事もありません」

文「お昼食ちゅうじきは何方どちらでやって来なすったね」

亥「なアに昼食なんざア、実は十八里おっ通しで」

文「やッ、それは〱昼食も喰たべずに十八里日着ひづきとは、何どうも恐入りましたなア」

亥「云われて始めて腹が減った、そんなら森松、握飯むすびでも呉れや」

森「さア大変だ、昼間からの騒ぎで飯を炊くのを忘れたア」

町「いゝえ、私が炊いて置きましたよ、さア亥太郎さん召上れ」

亥「こりゃア勿体もったいねえな、やい森公、貴様は相変らず馬鹿だな」

森「こりゃア己の十七番だ」

亥「それも違ってらア、馬鹿野郎」

それから手を分けて仏の取片付とりかたづけをいたしまして、葬式はいよ〱明後日と取極めました。藤原喜代之助は明日御登城のお供がありますから、夜よの中うちに屋敷へ帰りまして、翌朝重役へ、

藤「明日お供を致します筈でござりますが、親戚しんせきに忌中これあり、如何いかゞ致しましょうや」

と伺い出でますると、何どういう都合でござりますか、藤原は明後日葬式を菩提寺ぼだいじまで見送ることが出来ませんので、その翌晩通夜つやをいたし、翌早朝葬式を途中まで見送って、自分は西丸下へ帰り、お葬式とむらいは愛宕下あたごした青松寺せいしょうじで営みまして、やがて式も済みましたから、文治は※〔前の「※」は「ころもへん+上」、後の「※」は「ころもへん+下」〕かみしものまゝ愛宕下を出まして、亥太郎、國藏、森松の三人を伴い、其の他の見送り人は散り〲に立帰りました。丁度江戸橋へ掛ってまいりますと、朝の巳刻よつ頃でございますが、向うから友之助が余程の重罪を犯したものと見えて、引廻しになってまいります様子、これは友之助の罪状が定きまって、小伝馬町こでんまちょうの牢屋の裏門を立出たちいで、大門通おおもんどおりから江戸橋へ掛ってまいりましたので、角の町番屋にて小休みの後のち、仕置場へ送られるのでございます。

五

文治が先に立って江戸橋へ向って参りますと、真先まっさきに紙幟かみのぼりを立て、続いて捨札すてふだを持ってまいりますのは、云わずと知れた大罪人をお仕置場へ送るのでございます。文治は何気なく正面から罪人を見ますと、紛まごう方かたなき友之助ですから、はて不思議と捨札を見ると、「京橋銀座三丁目当時無宿友之助二十三歳」と記してありまして、「右の者去さんぬる六月十五日本所北割下水大伴蟠龍軒方へ忍び込み、同人舎弟を始め外ほか四人の者を殺害せつがい致し候者也そうろうものなり」と読むより、左さなきだに義気に富みたる文治、血相を変えて引廻しの馬の前に寄付よりつき、罪人の顔を見ますと、今度は俯向うつむいていまして少しも顔が見えませんけれども、友之助に相違ありませんから、文治は麻※〔前の「※」は「ころもへん+上」、後の「※」は「ころもへん+下」〕あさがみしも長大小なが[#「なが」は底本では「なだ」と誤記]だいしょうのまゝ馬の轡くつわに飛付く体ていを見るより附添つきそいの非人ひにんども、

「やい〱何を為しやがる、御用だ〱」

亥「やい乞食こじきめら、静かにしろえ」

非「やア豊島町のがむしゃらだぜ」

と怯ひるんで居りますところへ、与力が馬上にて乗付けまして、

与「これ〱其の方ほうは何をするのか、御用だ、控えろ」

と制する言葉に勢いきおいを得て、非人どもが文治を突退つきのけようと致しますると、國藏、森松の両人が向う鉢巻、片肌脱かたはだぬぎ、

両人「この乞食め、何を小癪こしゃくなことを為しやがる、ふざけた事をすると片ッ端ぱしから打殺ぶちころすぞ」

さア江戸橋魚市うおいちの込合こみあいの真最中まっさいちゅう、まして物見高いのは江戸の習い、引廻しの見物山の如き中に裃かみしも着けたる立派な侍が、馬の轡に左手ゆんでを掛け、刀の柄つかへ右手めてを掛けて、

文「さア一歩も動かすことは成らぬ、無法かは知らぬが、此の友之助は決して罪人ではない、その罪人は此の文治だア」

与「これ〱何なんであろうと此の通り当人が白状の上、罪の次第が極きまったのじゃ、今となっては致し方がないわ、其処そこ退のけッ」

文「いかさま無法ではござるが、狂人ではござらぬ、一寸ちょっとも放すことは出来ませぬ」

と七人力の文治が引留めたのでございますから、如何いかんとも致し方がございませぬ。馬上なる友之助は何事か夢中で居りましたが、暫くして漸ようやく我に返りまして、

友「えゝ旦那様でござりますか、お久しくござります」

文「友之助、よく生きていてくれたなア、貴様が此の様な目に逢うとは夢にも知らなんだ、さぞ難儀したろうな、此の文治は自分の罪を人に塗付け、のめ〱生きて居おるような者ではないぞよ、目指す相手の蟠龍軒を討洩らし、心当りを捜す内、母の大病に心を引かれ、今日きょうまで惜おしからぬ命を存ながらえていたが、もうお母様っかさまを見送ったからにゃア後あとに少しも思い残すことはない、此の上は罪に罪を重ねても貴様を助けにゃア己おれの義理が立たない、さアお役人衆やくにんしゅ、お手数てかずながら此の文治に縄を打って、友之助と共に奉行所へお引立て下せえ、それとも乱暴者と見做みなし此の場に切捨てるというお覚悟なら、遺憾ながら腕の続く限り根こん限りお相手致します、如何いかに御処分下さるか」

と詰寄せまする。橋の上から四辺あたりは一面の人立ひとだちで、往来が止ってしまいました。

甲「こゝは往来だ、何を立っていやがるのだえ、さア〱歩け歩け」

時に亥太郎國藏の両人口を揃えて、

「静かにしろ、ぐず〱すると打殺ぶちころすぞ」

野次馬「やア豊島町の乱暴棟梁だ、久しく見掛けなかったが、また始めたぞ」

流石さすがの与力も文治と聞いて怖気付おじけつき、一先ひとまず文治と友之助の両人を江戸橋の番屋へ締込みましたが、弥次馬連は黒山のようでございます。表に居りました亥太郎、森松、國藏は躍起やっきとなって、

「此奴こいつら何が面白くって見に来やがった、片ッ端から将棋倒しにしてしまうぞ」

と有合ありあわせたる六尺棒をぐん〱と押振廻おっぷりまわして居ります。飯の上の蠅はい同然、蜘蛛くもの子を散らしたように逃げたかと思うと、また集ってまいります。其の中うちに与力の家来は斯かくと八丁堀へ知らせ、また一方は奉行所へ訴えますと、諸役人も驚いて早速駈付けました。時に表に居りました亥太郎、國藏、森松の三人は自身番へ這入りまして、

亥「えゝお役人様、蟠龍軒の屋敷へ踏込ふんごんで四五人の者を殺したのは私わっちです、何どうぞ私を縛っておくんなせえ」

森「亥太郎兄あにいか、そんな事を云っちゃア困るじゃねえか、お役人様、そりゃア私わっちの仕業で」

國「馬鹿をいうな、お前めえたちは此の騒ぎで血迷うたか、己がやッつけたんだ」

文「一同静かにしろ、兎も角も御用の馬を引留めました乱暴者は私わたくしでござります、お手数てかずながらお引立ひきたての上、その次第を御吟味下さいまし」

出張の役人は文治を駕籠に乗せ、外ほか一同は腰縄にて、町奉行石川土佐守いしかわとさのかみ役宅へ引立て、其の夜よは一同仮牢かりろうに止とゞめ、翌日一人々々に呼出して吟味いたしますると、何いずれも私わたくしが下手人でござる、いや私わたくしが殺したのでござると強情を云いますので、誰が殺したのかさっぱり分らぬように成りました。取敢とりあえず文治には乱暴者として揚屋入あがりやいりを仰付おおせつけ、其の他たの者は当分仮牢留置とめおきを申付けられました。

六

さて明治のお方様は、昔の裁判所の模様は御存じありますまいが、今の呉服橋内うちにありまして、表から見ますと只の屋敷と少しも変った処はありませぬ。只だ窓々に鉄網かなあみが張ってあるだけの事、また屋敷の向う側の土手に添うて折曲おりまがった腰掛がありまして、丁度白洲しらすの模様は今の芝居のよう、奉行の後うしろには襖ふすまでなく障子が箝はまっていまして、今の揚弓場ようきゅうばのように、横に細く透いている所があります。これは後うしろから奥の女中方が覗のぞく処だと申しますが、如何いかゞでございましょうか。白洲には砂利が敷いてあって、其の上は廂ひさしを以もって蔽おおい、真中まんなかは屋根無しでございます。正面に蓆むしろの敷いてある処は家主いえぬし、組合、名主其の外ほか引合ひきあいの者が坐すわる処でございます。文治は今日お呼出しになりまして、奉行石川土佐守御自身の御吟味、やがてシッ〱という警蹕けいひつの声が聞えますと、正面に石川土佐守肩衣かたぎぬを着けて御出座、その後うしろにお刀を捧さゝげて居りますのはお小姓でございます。少しく下さがって公用人が麻裃で控えて居ります。奉行の前なる畳の上に控えて居りますのは目安方めやすかたの役人でありまして、武士は其の下の敷台の上に麻裃大小なしで坐るのが其の頃の扱いでございます。一座定まって目安方が名前を読上げますと、奉行もまた其の通り、

奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、神田豊島町惣兵衞店そうべえたな亥太郎、本所松倉町源六店げんろくたな國藏、浪人浪島方同居森松、並ならびに町役人、組合名主ども」

と、一々呼立てゝ後のち、

奉「浪島文治郎、其の方儀去さんぬる十二月二十一日、江戸橋に於て罪人友之助引廻しの際、一行を差止め、我こそ罪人なりと名告なのり出いで候う由なるが、全く其の方は数人の人殺しを致しながら、今日きょうまで隠れいるとは卑怯ひきょうな奴じゃぞ、併しかし上かみに於ては吟味の末、友之助が自身白状致したに依って、仕置を申付けた次第であるぞ、上の裁判に一点の曇りは無いわ、何故なぜ今日となって左様な事を申出もうしいでたか、徒いたずらに上を弄もてあそぶに於ては其の分ぶんには捨置かんぞ」

文「恐れながら文治申上げます、不肖なれども理非の弁わきまえはございます、お上様かみさまを弄ぶなどとは以もっての外ほかの仰せでございます、かく申す文治、捨置きがたい仔細あって蟠龍軒を殺害せつがいいたすの覚悟にて、同人屋敷へ踏込ふみこみ候ところ、折悪おりあしく同人を討洩らし、如何いかにも心外に存じ候ゆえ、一時其の場を遁のがれ、たとい何処いずくの果はてに潜むとも、汝おのれ生かして置くべきや、無念を霽はらして後のち訴え出でようと思い居ります内、母の大病、めゝしくも一日々々と看病に其の日を送り、命数尽きて母は歿みまかりましたゆえ、今日こんにち母の葬式を済まし、一七日ひとなのか経ちたる上は卑怯未練なる彼かの蟠龍軒を捜し出して、只一打ひとうちと思い詰めたる時こそあれ、どういう了簡で濡衣ぬれぎぬを着たかは存じませぬが、江戸橋にて友之助の引廻し捨札を見れば、斯こう〱云々うんぬん、よしや目指す敵は討ち得ずとも、我に代って死罪の言渡しを受けたる友之助を助けずば、武士の一分いちぶん相立ち申さず、お上へ対し恐多おそれおおい事とは存じながら、かく狼藉ろうぜきいたし候段、重々恐入り奉たてまつります、此の上は無実の罪に伏ふくしたる友之助をお助け下され、文治に重罪を仰付おおせつけ下さいますよう願い奉ります」

奉「フウム、然しからば其の方が……」

時に横合よこあいより亥太郎「恐れながら申上げます」

役人「控えろ」

亥「えゝ、こりゃア私わっちの……」

役「黙れ」

亥「控えろたって残らず私の仕業で」

役「控えろと申すに何を寝言を申す」

亥「だって皆みんな己が為したんでえ、お奉行様、この亥太郎を御処分下せえ」

國「恐れながら國藏申上げます、その六月十五日夜は私わしが切込みまして殺したのでござんす、何どうぞお仕置き下さいますよう」

森「兄イ、何を云うんだ、蟠龍軒の家うちへ切込んだのは誰でもねえ、この森松がやッつけたんで」

亥「やい、森松、國藏、何を云やがる、お奉行様、此奴こいつらア気が違ったんです、私に相違ございません」

役「其の方ども控えろ控えろ」

つくばいの同心は赤房あかぶさの十手じゅってを持って皆々の肩を突きましたが一向に聞入れませぬ。お取上げがないので三人とも立上って頻しきりに罪を背負しょおうと焦あせって居ります。時に文治が、「これ一同静かにしろ」と睨にらみ付けられてピタリと止って、平蜘蛛ひらぐものようになって居ります。

文「恐れながら文治申上げます、此の者どもが御場所柄をも弁わきまえず大声おおごえに罪を争います為態ていたらく、見るに忍びず、かく申す文治までがお奉行職の御面前にて高声こうせいを発したる段重々恐れ入ります、尚なお此の上一言いちごん申し聞けとう存じます故、御免を願い奉ります」

奉「ウム」

文「これ一同よく承まわれ一人いちにんならず三四人を一時いちじに殺すというは剣法の極意ごくいを心得て居らんければ出来ぬことじゃぞ、技倆わざばかりではなく、工夫もせねばならぬ、まして夏の夜よの開放あけはなし、寝たというでもなし、さア貴様たちは何どうして切込んだか、その申し口によっては御検視に御吟味をお願い申そうが、何うじゃ」

森「何うでも斯こうでも其の時ア夢中でやッつけた」

と臆面おくめんもなく自分の身に罪を引受けようと云う志は殊勝しゅしょうなものでございます。

七

文治は少しく声を荒あららげ、

文「これ森松、夢中で人が殺せるか、貴様の親切は辱かたじけないが、人に罪を背負しょうて貰もろうては此の文治の義理が立たない、控えてくれ、お役人様、恐れながら申上げます、全く此の文治の仕業に相違ございませぬ、お疑いが有りますなら誰たれと誰を切りましたのか、一々御吟味の程を願い奉ります」

奉「亥太郎、森松、國藏、其の方どもが上かみを偽る段不届であるぞ、五十日間手錠組合預あずけを申付ける、文治郎其の方ことは吟味中揚屋入あがりやいりを申付ける」

左右に居ります縄取なわとりの同心が右三人へ早縄を打ち、役所まで連れ行ゆきまして、一先ひとまず縄を取り、手錠を箝はめ、附添つきそいの家主やぬし五人組へ引渡しました。手錠と申しますと始終箝めて居おるように思召おぼしめす方もあるか知れませぬが、そうではございませぬ。錠の封印へ紙を捲まき、手に油を塗ってこれを外はずし、只吟味に出ます時分又自分で箝めてまいりますだけの事でございます。こゝに松平右京殿、御下城の折柄おりから駕籠訴かごそを致した者があります。これは御登城の節よりかお退さがりを待って訴える方が手続が宜しいからであります。お駕籠先の左右に立ちましたのはお簾先すだれさきと申します御家来、または駕籠の両側に附添うて居りますがお駕籠脇かごわき、その後あとがお刀番でございます、これは殿中でんちゅうには御老中と雖いえどもお刀を佩さすことは出来ませぬ、只脇差ばかりでございます。それ故お刀番がお玄関口にてお刀を預り、御退出の折に又これを差上げます為にまいりますので、事によるとお増供ましどもと申して一二人余計連れてまいる事もございます。其の昔、駕籠訴をいたします者は何いずれも身軽に出立いでたちまして、お駕籠脇の隙すきを窺うかゞい、右の手に願書を捧げ、左手ゆんででお駕籠に縋すがるのでございますから、時に依ると簾を突破つきやぶることがございます。大概お簾先が取押えて、押えの者を呼んで引渡してしまいますが、屋敷へ帰りましてから其の書面は封の儘に焼棄やきすて、当人は町人百姓なれば町奉行へ引渡すのでありますが、実は願書は中を入替えて焼棄るのでございますから、御老中へ駕籠訴をするのが一番利目きゝめがあったそうでございます。右京殿が御下城の折に駕籠訴を致しましたのは、料理店立花屋源太郎でございます。さて源太郎は隙を覘うかゞって右手めてに願書を捧げ、

源「お願いでござい、お願いでござい」

と呼よばわりながらお駕籠の簾に飛付きました。

供「それ乱心者が、願いの筋あらば順序を経て来い」

と寄ってたかって源太郎を取押え、押えの侍に引渡してしまいました。右京殿は御帰邸の後のち、内々ない〱その願書を御覧になりまして、

右京「これ、喜代之助を呼べ」

近習「はゝア、喜代之助殿、御前のお召めしでござる」

喜「はゝア」

右「喜代之助、近ちこう進め」

喜「はゝア」

右京殿は四辺あたりを見廻し、近習きんじゅに向い、

右「暫く遠慮いたせ」

お人払いの上、喜代之助にお向いなされ、

右「喜代之助、そちを呼んだのは別儀ではないが、今日予が下城の節、駕籠訴いたした者がある、それは本所業平橋の料理屋立花屋源太郎と申す者であるが、そちは浪人中業平橋辺に居ったそうじゃのうあの辺の事はよう存じて居ろう、いつぞや閑ひまの折に文治という当世に珍らしい侠客があると云ったのう、その文治と申す者は一体何どういう人間か」

喜「申上げます、彼は母の命の親とも申すべきもので、近年稀まれな侠客でござります」

右「フーム、侠客か、一体文治の平生へいぜいの行状は何どんなものじゃ」

喜「御意にございます、先ず本所にて面前にては申すに及ばず、蔭にても文治と呼棄よびずてにする者は一人いちにんもござりませぬ、皆文治様々々々と敬うやもうて居ります、これにて文治の人となりを御推察を願います」

右「して、そちの母の命の恩人と申すは」

喜「左様でござります、手前が浪人中、別に一文の貯たくわえあるでは無し、朝から晩まで内職をして其の日〱の煙を立てゝ居りました、それが為に手前は始終不在勝でございまして、家内の事は一切女房に任せて置きましたのが手前の生涯の過失あやまちでございます、女房のお淺と申します者が、手前の居ります時はちやほや母に世辞をつかいます故、左程邪慳じゃけんな女とも思いませなんだが、不在を幸いに只たった一人いちにんの老母に少しも食事を与えませず、ついには母を乾殺ほしころそうという悪心を起して、三日半程湯茶さえ与えず、母を苦しめました」

右「フーム、世には恐ろしい奴もあるものじゃの、そちは何か、内職から帰ってそれを知らなかったのか」

喜「何なんとも恐入った次第でございますが、母は当年七十四歳、手前などと違い余程覚悟の宜よい母でございまして、食を絶って死のうという覚悟と見えまして、只病気とのみ申し打臥うちふしたまゝ一言いちごんも女房の邪慳なことを口外致しませぬ故、一向心付かんで居りました」

右「そちも不覚であったの、それから何どう致した」

と膝を突付つきつけ、耳を欹そばだてゝ居ります。

八

喜代之助は其の当時の事を想い起したものと見えまして、口惜くやし涙に暮れながら、

喜「悪事というものは隠す事の出来ぬものと見えます、母は手前にさえ一言も話さぬ位ですから勿論もちろん隣家の者などに話す気遣いはございませぬが、何時いつしか隣家の者が聞付けて、お淺さんも邪慳な事をなさる人だ、あのような辛抱強い年寄を、何が憎くって乾殺そうという了簡になったのだろう、お気の毒な事だ。と云ってお淺の不在を窺うかゞい、親切にも粥かゆか何かを持参致しました所へ、生憎あいにくお淺が帰ってまいりまして、烈火の如く憤いきどおり、いきなり其の食器を取って母の眉間みけんに打付け、傷を負わせました、其の時文治殿は何処どこで聞付けましたか其の場に駈付けてまいりまして、義理ある親を乾殺そうとは人間業でない、此の様な者を生かして置いては此の上どんな邪慳な事を仕出来しでかすかも知れぬと云って、お淺を取って押えて口を引っ裂き……いや私わたくしが其処そこへ帰ってまいって手討にいたしました」

右「ふうむ、文治が其の毒婦を殺したのか」

喜「いゝえ私が……」

右「おゝ其方そちか、それは何方どちらでも宜よい、文治という奴は余程義侠の心に富んだ奴と見えるな、定めし剣術の心得もあろうな」

喜「はい、真影流しんかげりゅうの奥許おくゆるしを得て居りまして、なか〱の腕利うできゝでございます」

右「天晴あっぱれな腕前じゃの、それで七人力あるのか」

喜「御意にございます」

右「以前もとは堀家の浪人と申すが左様であるか」

喜「御意にございます」

右「よし〱、それで文治の素性すじょう並びに日頃の行状は能く相分った、少し思う仔細があるから、内々ない〱にて蟠龍軒と申す者の素性及び行状を吟味いたすよう取計らえ」

喜「畏かしこまりました」

それから段々蟠龍軒の身の上を取調べますると、法外な悪党という事が分りましたので、事細かに右京殿へ言上ごんじょういたしました。それと同時に此方こなたは文治の身の上、石川土佐守殿は再応文治をお取調べの上、口証爪印こうしょうつめいんも相済みまして、いよ〱切腹を仰せ渡されました。併しかし其の申渡し書には御老中お月番つきばんの御印形が据すわらなければ、切腹させる訳にはまいりませぬ。町奉行石川土佐守殿は文治の口供こうきょうばかりではございませぬ、幾枚も一度に持参いたしますると、正面に松平右京殿その外ほか公用人御着席、それより余程下さがって町奉行が組下くみした与力を従え、その口証を一々読上げて、公用人の手許てもと迄差出します。御老中はお手ずから印形の紐ひもを解くのが例でございます。其の紐の長さは一丈余もありまして、紐の先を御老中が持って居りますと、公用人が静かに印形を取出して奉行に渡し、奉行がこれを請取うけとって捺おすという掟おきてですから中々暇が取れます。其の内にお退ひけの時計が鳴りますと、直ぐ印形の紐を引きますから、捺しかけても後あとは次のお月番へ廻さなければなりませぬ。それが為に命の助かった例ためしもございます。だん〱捺してまいりまして愈々いよ〱文治の口供に移りますと、まだ公用人が手を掛けませぬ内に御老中が頻しきりに紐を引きますので、奉行は捺すことが出来ませぬ。再びお印形をと心の中うちに促しながら公用人の顔を見ますと、公用人も不思議に思いまして御老中のお顔を見上げました。けれどもお駕籠訴の一件がありますから、右京殿は不興気ふきょうげに顔を反そむけて居りますので、何が何なんだか一向訳が分りませぬ。暫く無言で睨にらみ合って居ります内に、ちん〱とお退のお時計が鳴りました。右京殿は待っていたと云わぬばかりのお顔にて印形を手許に引寄せ、其の儘すっとお立ちに相成り、続いてお附添一同もお立ちになりました。余儀なく奉行も渋々立帰りましたが、何故なにゆえに御老中が斯様かような計らいをするのか一向分りませぬ。何か仔細ある事と土佐守殿も智者ちしゃでございますから、其の後ご外ほか御老中のお月番の時は、文治の口供を持ってまいるのを見合せまして、又々右京殿お月番の時に、前の如く文治の口供を持参いたしますると、矢張前の通り手間取って居りますので、到頭とうとう印形を捺すことが出来ませぬ。はて不思議な事と処分に困って居りますと、時のお月番右京殿より、「浪島文治郎事こと業平文治儀は尚なお篤とくと取調ぶる仔細あり、評定所ひょうじょうしょに於おいて再吟味仰付おおせつくる」という御沙汰になりました。この評定所と申しますのは、竜たつの口の壕ほりに沿うて海鼠壁なまこかべになって居おる処でございますが、普通のお屋敷と格別の違いはありませぬ。これは天下の評定所でございますから、御老中は勿論将軍家も年に二度ぐらいはお成なりになるという定例じょうれいでございます、即すなわち正面の高座敷たかざしきが将軍家の御座所でございまして、御老中、若年寄わかどしより、寺社奉行、大目附おおめつけ、御勘定ごかんじょう奉行、郡こおり奉行、御代官並びに手代てだい其の外与力に至るまで、それ〲席を設けてあります。業平文治が数人の者を殺しながら、評定所に於て再吟味になると云うのは全く義侠の徳でございます。

九

月番御老中を始め諸役人一同列座の上、町奉行石川土佐守殿がお係でございまして、文治を評定所へ呼込めという。

同心「当時浪人浪島文治郎、這入りましょう」

と白洲の戸を明けて、当人の這入るを合図に又大きな錠を卸おろしました。文治は砂上に畏かしこまって居りますと、町奉行は少し進み出でまして、

奉「本所業平橋当時浪人浪島文治郎、去さんぬる六月十五日の夜同所北割下水大伴蟠龍軒の屋敷へ忍び込み、同人舎弟なる蟠作並びに門弟安兵衞やすべえ、友之助妻村むら、同人母崎さきを殺害せつがいいたし、今日こんにちまで隠れ居りしところ、友之助が引廻しの節、自分の罪を人に嫁かするに忍びず、引廻しの馬を止め、蟠龍軒の屋敷に於て数人の家人を殺害いたしたるは全く自分の仕業なりと、自訴に及びたる次第は前回の吟味によって明白であるが確しかと左様か」

文「恐れながら申上げます、再応自白いたしましたる通り全く文治の仕業に相違ございませぬ」

奉「うむ、何なんらの遺恨あって切殺したか其の仔細を申立てえ」

文「申上げ奉ります、大伴蟠龍軒なる者が舎弟蟠作と申し合せ、出入でいり町人友之助を語らい、百金の賭碁を打ち候由、然しかるに其の勝負は予かねて阿部忠五郎と申す碁打と共謀して企たくみたる碁でございますから、友之助は忽たちまち失敗いたしました、然しかし百両というは大金、即座に調達ちょうだつも出来兼できかねます処から、予ての約束通り百両の金の抵当かたに一時女房お村を預けて置きました、それから漸ようやく百両の金を算段して持参いたし、女房と証文を返してくれと申入れました処、その証文面めんの百という字の上に三の字を加筆いたし、いや百両ではない、三百両だ、もう二百両持って来なければ女房を返す訳には行ゆかぬと云って、只百両の金を捲上まきあげてしまいました、余りの事に友之助が騙かたりめ泥坊めと大声を放って罵のゝしりますと、門弟どもが一同取ってかゝり、友之助を捕縛ほばくして表へ引出し、さん〲打擲ちょうちゃくした揚句あげくの果はて、割下水の大溝おおどぶへ打込うちこみ、木刀を以もって打つやら突くやら無慙至極むざんしごくな扱い、その折柄おりから何十人という多くの人立でございましたが、只気の毒だ、可愛相だというばかりで、もとより蟠龍軒の悪人なことは界隈かいわいで誰たれ知らぬ者もございませぬ故、係り合って後難こうなんを招いてはと皆逡巡しりごみして誰たれ一人いちにん止める者もございませぬ、ところへ丁度私わたくしが通りかゝりましたから、直ぐさま飛懸って止めようかとは存じましたが。予て左様な処へ口出しは一切いたしませぬと誓いました母と同道のこと故、急立せきたつ胸を押鎮おししずめ、急ぎ宅へ帰って宅の者を見届に遣つかわしましたる所、以前に弥いや増す友之助の大難、最早棄置すておき難しと心得、早速蟠龍軒の屋敷へ駈付け、只管ひたすら詫入り、せめて金だけ返してやってくれと申入れましたる所、私に対して聞くに忍びぬ悪口雑言あっこうぞうごん、其の上門弟ども一同寄って群たかって手当り次第に打擲いたし、今でも此の通り痕あとがございますが、眉間みけんに打疵うちきずを受けました、其の時私は蟠龍軒を始め一同の者を打果うちはたそうかとは思いましたが、予て母の意見もあります事ゆえ、無念を忍んで其の儘帰宅いたしました、然しかる処母が私の眉間の疵を見まして、日頃其方そちの身体は母の身体同様に思えと、二の腕に母という字を入墨いれずみして、あれ程戒めたのに、何故なぜ眉間に疵を負うて来たかと問詰められて一言いちごんの申訳もございませぬ、母の身体同様の此の身に疵を付けては第一母に対して申訳なく、二つには彼あのような悪漢を生け置く時は、此の後のちどのようなる悪事を仕出来しでかすかも知れぬ、さぞ町人方が難渋するであろうと思いますと、矢も楯たても堪たまらず、彼等の命を絶って世間の難儀を救うに若しかずと決心いたし、去さんぬる十五日の夜よ、御法度ごはっとをも顧かえりみず、蟠龍軒の屋敷へ踏込ふんごみ、数人の者を殺害せつがいいたし候段重々恐入り奉ります」

奉「蟠龍軒が悪人ならば上かみに於て成敗いたす、悪人だから切殺したと申すは言訳にはならぬぞ」

文「恐入ります、言訳にならぬは承知の上、如何様いかようとも御処分を願います」

奉「其の夜よ如何いかゞ致して忍び込み、如何いかにして殺害いたしたか、詳しゅう申立てえ」

文「其の夜の丑刻こゝのつ頃庭口の塀へいに飛上とびあがり、内庭の様子を窺うかゞいますると、夏の夜とてまだ寝もやらず、庭の縁台には村と婆ばゞの両人、縁側には舎弟の蟠作と安兵衞の両人、蚊遣かやりの下もとに碁を打って居りました、よって私は突然いきなり女ども両人を切らば、二人の奴らが逃げるであろうと斯こう思いまして、心中しんちゅう手順を定さだめ、塀より下り立ち、先ず庭に涼んで居りました村と婆を後うしろへ引倒し、逃げられぬように手早く二人の足に一刀を切付け、それから縁側の両人を目がけて其の場に切伏せ、当の敵たる蟠龍軒は何処いずくにありやと間毎まごと々々を尋ねますと、目指す敵かたきの蟠龍軒は生憎あいにく不在と承知いたし、無念遣やる方かたなく手向う門人二三を打懲うちこらし、庭に残して置きました村と婆を切殺して其の儘帰宅致しました、このお村という奴は顔に似合わぬ毒婦にて、二世にせを契った夫友之助を振捨てゝ、蟠龍軒と情じょうを通じて、友之助を亡なき者にせんと企たくみたる女でございます、いつぞや私を取って押え、痰たんまで吐きかけた恩知らず、私の遺恨とは申しながら、今に残念に思うて居ります」

と、一点の澱よどみもなく滔々とう〱と申立てました。

十

時に石川土佐守殿、

「其の方の心底しんていはよう相分ったが、左様の義侠心を持ちながら何故其の場を逃退にげのきしぞ」

文「恐れながら申上げます、逃げたとはお情ないお言葉でござります、たとい敵かたきの片割かたわれ数人を切殺すとも、目指す敵の蟠龍軒を討洩らし、其の儘相果て申すも残念至極でござります故、瓦をめくり草の根を分けても彼を尋ね出いだし、遺恨を霽はらした其の上にて潔いさぎよく切腹いたそうか、斯かくては卑怯ひきょうと云われようか、寧いっそ此の場で切腹いたそうかと思案にくれて居りますところへ、何処どこで聞付けましたか下男森松が駈付けまして、母の大病直ぐ帰るようにと急立せきたてられて、思わず帰宅仕つかまつりました、ところが案外の大病、母の看護に心を奪われ、思わず今日こんにちまで日を送りましたる次第、心から女々しき仕打を致しました訳ではございませぬ、文治の心底、御推量下さらば有難き次第に存じ奉ります」

奉「ふうむ、確しかと左様か」

文「恐れながら一言半句いちごんはんくたりとも上かみを偽るような文治ではございませぬ、御推察を願います」

奉「うむ、同心、源太郎を引け」

同心「はゝっ、業平橋三右衞門店さんうえもんたな源太郎、這入りませえ」

奉「源太郎、其の方儀、去る十四日御老中松平右京殿御下城の折、手続きも履ふまずお駕籠訴申上げ候段不届であるぞ」

源「恐入ります、併しかし手前は町人の事にて何なんの弁わきまえもございませぬが、何の罪もない者に重罪を申付くるという御法ごほうがございましょうか」

奉「黙れ今日こんにち其の方に尋ぬるは余の儀ではない、友之助が北割下水にて重傷を負い、其の方宅へ持込まれたと云うは何月何日じゃ」

源「御意にございます、それは六月十四日の夕刻とおぼえて居ります」

奉「確しかと左様か」

源「はい」

奉「其の時浪島文治郎は其の方宅へまいったか」

源「はい、もう其の日の暮方くれがたでございましたが、急いで手前の宅へまいりまして、友之助は何処どこに居おるかと申しますから、奥に寝たきり正体もございませんと申上げますと、誠に気の毒な事をしたと申しながら奥へまいって、何どういう訳で今日こんにちあのような目に遇あったか、事の概略あらましは聞いて来たが、一通りお前の口から聞かしてくれと申しまして、あの悪党の蟠龍軒が無慈悲な為され方を聞いて居りました、そう云う訳では聞棄きゝずてにならぬ、これから蟠龍軒の処へ往って掛合かけおうて来ると申しますから、手前は彼あのような悪人にお構いなさるなと強たって止めましたが、日頃の御気象、お肯入きゝいれもなく其の儘おいでになりました、其の時は何ういうお掛合をなすったか知りませんが、遇ったら聞こうと思って居りますと、其の翌晩、蟠龍軒の屋敷に四人の人殺しがあったという評判、只今承われば文治様の仕業だと申す事ですが、全く蟠龍軒の屋敷の者を斬殺ざんさつしましたのは、諸人しょにんの為でございます、何卒なにとぞお命だけはお助け下さいますよう願い奉ります」

と文治のあさましき姿を見ては水洟みずっぱなを啜すゝって居ります。

奉「それに相違ないな」

源「御意にございます」

奉「文治郎、源太郎、追って呼出すゆえ神妙に控え居おろうぞ」

同心「立ちませえ」

是にて吟味落着致しまして、諸役人評定の上、文治儀は死罪一等を減じて、改めて遠島を申付けるという事に決定いたしました。総じて罪人に仕置を申し渡しますのは朝に限ったものですが、尤もっとも牢名主へは其の前夜、明日あすは誰々が御年貢ごねんぐということを知らしたものでございます、そうすると牢名主の指図で、甲の者がお召めしになります時は、外ほかの罪人二人ににんと共に髪を結わせ湯を使わせますから、事実誰たれがお召出しになるのか分りませぬ。銘々慾がありますから自分ではあるまいと思って居ります。さア其の日の朝になりますと、当人へ今日お年貢という事を申し聞けるや否や、すぐ切縄きりなわと申しまして荒縄で縛って連れて行ゆかれるのでございます。此の時は何様どんな悪人でも、是が此の世の見納めかと萎しおれ返らぬ者はありませぬ。其の昔罪人は日本橋を中央として、東国とうごくの者ならば小塚原こづかっぱらへ、西国さいこくの者ならば鈴ヶ森でお仕置になりますのが例でございます。で、鈴ヶ森へ往ゆく罪人ならば南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう、また小塚原へ往く罪人ならば牢内の者が異口同音いくどうおんに南無阿弥陀仏なむあみだぶつを唱となえて見送ったそうでございます。さて文治遠島の次第は重役は勿論、右京殿家来藤原喜代之助も其の前日聞知りましたが、当番の都合にて直ぐ様文治の留守宅へ知らせる事が出来ませぬ。漸ようやく其の日の夕方文治の宅へまいりまして、

喜「えゝ頼みます」

町「はい……おや藤原様でございますか、さア何どうぞお上あがり下さいまし、まア暫しばらくでございました、何うぞ此方こちらへ」

喜「存外御無沙汰いたしました」

町「手前の方でも御存じの通り種々いろ〱心配がございますので、思いながら御無沙汰いたしました」

という声も涙声、母には死なれ、頼みに思う夫は揚屋入あがりやいり、後あとに残るのは其の身一人ですから、思えばお町の身の上は気の毒なものでございます。

十一

喜代之助は云い出しにくそうに、

喜「さて、今日きょう参りましたのは、えゝ……いや、どうも誠に御無沙汰いたした、就つきましては……」

町「もし藤原様、あなたは文治の事でお出いで下すったのではございませんか」

喜「さゝ左様」

町「さア何どうなりました藤原様え……藤原様、文治が命に別状でもありはしませぬか、ねえ藤原様」

喜「いえ、お命に別条はござらぬが、只たゞ……」

町「藤原様、何どうぞお早く仰しゃって下さいまし、もし文治が遠島にでも……」

喜「左様、これが愈々いよ〱明日みょうにちになりました」

町「えッ、いよ〱……」

喜「はい」

と暫く二人は俯向うつむいたまゝ思案に暮れて居りましたが、やがてお町は心を取直しまして、

町「藤原様え、明日みょうにちは何時頃いつごろ出帆しゅっぱんいたすのでございましょう、たしか万年橋まんねんばしから船が出るとか承わりましたが左様でございますか」

喜「左様、あなたも嘸さぞ御心配なすったでしょうが、明日こそはお目に懸れます、併しかし私わたくしはお役柄の御近習ごきんじゅゆえ、役目に対して残念ながらお目に懸ることが出来ませぬ、あなたはお名残なごりのためお出でなさいまし、御近所まで私が御案内いたしましょう」

町「はい、何どうも致し方がございません、一目ひとめ……えゝ、もう止しましょうよ」

喜「そりゃまた何故なぜですか」

町「何故って貴方あなた、叱られますもの」

喜「あゝ成程日頃の御気性をよく御存じでございますな、併しかし是が一生の……」

町「左様でございますね、会って話は出来ませんでも、せめては……いや思い切りましょう、事に依よると生涯離縁するなどと……もう〱諦めましょう」

と云う声さえも涙でございます。

喜「それは御尤ごもっともですが、併し……はてな、何どうしたら宜よかろうか知らん」

と倶ともに涙に暮れて居りますと、表の方ほうに

「お頼み申します」

町「はい、何方どなたで……おや亥太郎さんでございますか、さアお上りなさいまし」

亥「えゝもう此処こゝで宜よろしゅうござります、御新造ごしんぞ様永々お世話になりましたが、明日あした私わっちやア遠方へまいります、また長なげえことお目にかゝれません、へえ、ご、ご御機嫌よう、左様なら……」

町「あゝもし亥太郎さん、まアお待ちなさい」

亥「えゝ、もう」

町「まア〱少しお待ちなさい、お顔色もお悪い様子で、何か変事でもございますか」

亥「いゝえ別に」

また、表の方で、

「へえお頼み申します、國藏でございます」

亥「やア國藏か」

國「やア棟梁か、へえ御新造、御機嫌宜しゅうござんす、棟梁にも宜いい処でお目にかゝりました、まア当分お目にかゝれませんから、随分御機嫌よう、へえ左様なら、お暇いとまを……」

亥「おい〱國藏待て、変なことを云うじゃねえか、己おれも実は此方こちらへお暇に来たんだ、お前めえは何処どこへ往いくのだ」

國「えゝ中々遠方でござんすまア当分お別れだ」

亥「手前てめえは明日万年橋へ……」

と云いかけて暫しばらく四辺あたりを見廻し、

「國藏、貴様も遣付やっつける積りか」

國「棟梁、お前めえも」

亥「ウム、己も決心した」

國「そんなら頼もしい」

と眼と眼で示し合わして、

両人「御新造様、御機嫌よう」

町「まア〱お二人ともお待ちなさい、今一言いちごん仰おっしゃった万年橋というのは」

二人「実は命を棄てましても」

町「まアお二人とも」

喜「こら〱お二人ともお控えなさい」

二人「これは〱藤原様、お前めえさんのお蔭様で旦那も命が助かりました、有難うござんした、さア直ぐお暇致しましょう」

喜「まアお二人とも少しお待ちなさい、えゝ只今お二人がお蔭で旦那の命が助かりましたと仰しゃったが、その次第柄しだいがらは御存じで仰しゃったか」

亥「そんな事を知らねえで済みますものか、ねえ、いろ〱お前めえさんのお骨折ほねおりで助かったこたア蔭ながら……なア國藏、お礼を申さねえ日は無ねえなア」

喜「それほど文治殿の助かった事を喜びながら、その文治殿に恥を掻かせる積りかな、それとも殺す気かな」

亥「こりゃア妙な事を仰しゃいますねえ、旦那を殺すの恥を掻かせるのとは何なんのことでござんす、此方こちとらア自分の命を棄てゝも旦那を助ける覚悟だ、又一旦思い込んだ事こたア一寸いっすんも後あとへ退ひかねえ此の亥太郎でござんすぜ」

喜「然しからばお前さん方は其の恩人の文治殿を、明日みょうにちの遠島船えんとうぶねの出帆の場に切込み、同人を助け出して上州じょうしゅうあたりへ隠そうという積りでござろうな、それとも違いましたかね、何どうでござりますな、さア其の文治殿は悪人でござるか、乃至ないし泥坊どろぼうでござるか」

亥「えッ旦那、妙なことを仰しゃいますね、誰が悪人と申しやした、泥坊なんぞ為するような旦那で無ねえと云うことは誰でも知ってるじゃアござんせぬか」

喜「さア其処そこです、文治殿こそは日本にっぽんに二三とあるまじき天晴あっぱれ名士と心得ますが、何どうでござるな、その日本名士が上州あたりの長脇差や泥坊が、御法度ごはっとを犯して隠れている汚よごれた国へまいりますか、よもや文治殿はそんな拙つたない者ではありますまい、よしまた往ゆくとしても、生涯山中さんちゅうに隠れ潜ひそんで、埋木うもれぎ同然に世を送るような人物とは些ちと肌が違いましょうぞ、左程逃げたき文治殿ならば、友之助が無実の罪に服したのを幸いに、のめ〱と宅たくに居て知らぬ顔をしていましょう、友之助を助けようが為に自分の一命を差出して明白に上かみのお裁きを仰ぐくらいの名士、そんな端はしたない者ではござりませんな」

と云われて亥太郎と國藏は眼ばかりパチ〱やって居ります。

十二

藤原喜代之助は尚なおも言葉を継いで、

「こゝで文治殿が一度逃出せば、生涯悪人の汚名を負わなければ成らぬ、そんなむずかしい事を云っても分りますまいが、天網恢々てんもうかい〱疎そにして洩らさず、其の内に再び召捕めしとられたら、いよ〱国中こくちゅうへ恥を曝さらさなければ成りますまい、只今お町殿へ明日あすのことを申上げ、お別れに只たった一目お逢いなされてはと申入れましたが、文治殿の平常ふだんの気象を御存じゆえ、此の場合未練がましく別れにまいったら、定めし叱られましょう、お目に懸りたいは山々なれども、じッと堪こらえてまいりますまいと、流石さすがは文治殿の御家内だけ……女ですら斯様かようでありますのに、あなた方は只文治殿の事のみを思い、お心得違いをなさいましたなア、さア分りましたらお止とゞまりなさい、如何いかゞでござるな」

これを聞きました両人は頭を下げ、只男泣おとこなきに歯ぎしりして口もきかれませぬ。

喜「まだ御合点ごがてんなさいませんか」

両人「それじゃア旦那にお目にかゝる事は出来ませぬか」

喜「いゝえ、何どうしてあなた方も明日あしたは是非お見送りを願います、まさか私わたくしは役人でござるから、よし義の為にもせよ、一旦罪人と極きまって遠島申付けられた者に逢うことは出来ませぬ、是非ともあなた方はお出で下すって、私の申した事を文治殿へ宜しく申伝もうしつたえて下さい」

両「よく分りました、じゃア仰せに従って諦めましょう、けれども御新造様も私わっちどもと一緒に、お別れに只たった一目お逢いなせえまし、此の世の名残なごりに往いかっしゃるのに、何なんぼ御気象の勝すぐれた旦那だって、人情を知らねえ事アありますめえ、何なんとも仰しゃる気遣きづかいはありゃアしませんや、ねえ旦那」

喜「如何いかにも……就ついてはお町殿、せめて遠目でなりとも」

町「万年橋とやら申す橋より船までは余程離れて居りますか」

國「へえ、僅わずか半丁ばかりしか離れて居りません」

町「それでは其の橋の上から旦那の心付かぬように、余所よそながらお別れいたしましょう」

喜「成程、それが宜よろしゅうござろう、各々おの〱文治殿には見知られぬよう気を付けてやって下さい」

両「承知いたしました」

お話分れて、本所大橋向うの万年橋、正木稲荷まさきいなりの河岸かしは、流罪人るざいにんの乗船のりふねを扱いまする場所でござります。尤もっとも遠島と申しますのは八丈島、三宅島みやけじまにて、其の内佐渡は水掻人足みずかきにんそくと申しまして、お仕置の中うちでも名目みょうもくは宜よいのでござりますが、囚人めしゅうどの身に取っては一番辛つらい処でありますから、滅多に長生ながいきする者はございませぬ。今文治が遠島と極りましたのは三宅島でございます。いよ〱船が万年橋から出るという前夜になって、親戚故旧こきゅうの人に知らせますので、当日は親類縁者は申すに及ばず、友人達は何いずれも河岸に集って身寄の囚人を待受けて居ります。其の内に追々囚人が送られてまいりますが、中には歩けませんで畚もっこに乗って参る者もございます。文治は成るたけ人に逢わぬように、俯向うつむいて目立たぬように小さくなってまいりましたが、國藏が早くも見付けまして、

國「やア旦那々々」

文「國藏か、よく来てくれたな、皆みんな達者で居おるだろうな」

國「へえ、皆みんな達者ですが、旦那、何故なぜ私わっちを代りにやってくれねえんです、やい森松、早くお町様をお連れ申せ」

文「こりゃ國藏何故なにゆえに町を連れて来たか、此の姿を女房に見せて己おれに恥を掻かせるのか、此処こゝへ連れて来ると女房も貴様も離縁してしまうぞ、此の文治は予かねて切腹と覚悟して居ったところ、上かみのお慈悲で助けられ、生恥いきはじを曝さらすことかとなるたけ人に姿を見られぬよう心して来たのに、未練にもお前達まで集まって此の文治に恥の上塗うわぬりをさせる了簡か、近寄ると生涯義絶するぞ」

國藏は恟びっくり驚いて、

國「何時いつに変らぬ旦那の気象、悪い気で来たのじゃ無ねえから勘弁して下せえ、やア森松、御新造を橋の上に置いて手前てめえばかり来い」

森「だってそりゃア無理というものだ、御新造様、旦那があゝ云っても生涯のお別れですから、彼処あすこまでお出でなせえ」

町「いゝえ、私わたくしは此処こゝでお顔を拝見してお別れいたします、日頃の御気象はよう存じて居ります」

と橋の上にて手を合せたまゝ、声も出さず、涙一滴流しもせず、一心に夫の無事を祈って居ります。森松は気の毒に思いまして、

森「御新造様、たとい叱られてもお側へ往って一目お逢いなせえまし」

町「未練がましく近寄れば必ず離縁されるに相違ござりませぬ、私わたしゃアそれが辛つろうございますから」

國「やア森松、もう時間が切れるぞ、早く〱」

時に獄丁ごくていの横目よこめと申す者が、

「さア〱限りはねえ、早くしろ〱、長くなると為に成らねえぞ」

と一々囚人を集めて居ります中うちに、ブウ〱という法螺貝の音、

横「さア〱此奴こいつらア何時いつまで居やがるんだ」

と追々囚人を引立てゝ船に乗込まして居ります。

十三

見送って居ります國藏、森松の両人は

「旦那ア、旦那ア、御新造を始め後あとのこたア御心配なさいますな」

と男泣に泣出す途端に亥太郎が駈付けてまいりまして、

亥「森松、國藏、旦那は何処どこに居るんだ」

國「あゝ亥太郎兄イか、旦那は彼処あすこへ」

亥「ど、ど何処に」

森「もう船に乗っていらア」

亥「やア旦那、一寸ちょっと待って下せえ、遅かった」

役「これ〱控えろ、もう時間だ」

亥「時間も糸瓜へちまもあるものか、ぐず〱すると打殺ぶちころしてしまうぞ、誰だと思う、豊島町の亥太郎だぞ」

役「やアまた亥太郎めが来やがったな」

亥「やかましい、旦那、何どうも飛んだ事になりましたなア」

と鬼を欺あざむく亥太郎も是が一生の別れかと、わッとばかりに泣出しました。附添の同心も予かねて亥太郎の事は承知して居りますから、

同心「やア亥太郎が始めて泣きやアがったぜ、大きな口だなア、其の癖手放しで泣いて居やがらア、アッハヽハヽ、さア〱もう宜よかろう」

亥「えゝ未まだ何なんにも云やしねえ、ぐず〱しやがると死者狂しにものぐるいだぞ、片ッ端から捻ひねり殺すからそう思え」

文「これ〱亥太郎殿、お上かみの御法を犯しては成りませんぞ、何事も是までの因縁と諦めて、随分達者にお暮しなさい」

亥「お前さんばかり口がきけて私わっちにゃア少しもく、く、口がきけねえ、旦那、達者でいて下せえよ」

此処こゝへ大橋の方から前橋まえばしの松屋新兵衞まつやしんべえが駈付けてまいりましたが、人ごみで少しも歩けませぬ、突退つきのけ撥返はねかえし、或あるいは打たれ或は敲たゝかれ、転がるように駈出しましたが、惜おしいかな罪人はあらまし船に乗って、今一度の貝の音でいよ〱出帆するのであります。新兵衞は大声を挙げて、

新「業平橋の旦那ア、業平橋の旦那ア」

役「これ〱静かにしろ、控えろ」

と突退けますので、此方こっちから潜くゞって往いこうとしますると又突退けられます。向うに亥太郎と文治の姿が見えながら近寄ることが出来ませぬ。新兵衞はふと一策を案じて懐中から金入かねいれを取出し、物をも云わず掴出つかみだ[#「つかみだ」は底本では「つかだ」と誤記]しては横目や同心に水向け致しまするが、同心どもは金の欲しいは山々なれども、仲間ちゅうげんや重役の前を憚はゞかって顔と顔を見合せて居ります。気が急せかれます故、新兵衞は突然いきなり一分銀いちぶぎんを一掴みパラ〱と撒付まきつけますと、それ金が降って来たと、餓虎がこの肉を争う如く金を拾わんと争う間を駈抜けて文治の前へまいりまして、

新「旦那様、お情ないお姿におなりなさいましたな」

文「新兵衞殿、ようお出で下された、かく成り果はつるも自業自得、致し方がござらぬ、最早出帆の時刻、お役人にお手数てすうをかけては相済まぬから、早くお帰り下さい」

役「其の方ほうは何者じゃ、控えて居れ」

新兵衞はホロ〱涙を流しながら、

新「旦那様、これが一生のお別れかと思うと、何どうも此の身体が……申上げたいことは山々ございますが、何から申上げて宜しいやら……これはお餞別せんべつでござります、何うか御受納下さいますよう」

と五十両の小判を文治の懐中へ入れようと致しまする。側に居ります同心は一応検あらためて罪人に渡しまするが掟おきてでございますから、横合よこあいから手を出して取ろうと致しますると、亥太郎が承知いたしませぬ。

亥「やい同心、刃物や火道具じゃア有るめえし、引ひッ奪たくるには及ぶめえ、何なんだと思う金じゃアねえか、さア己おれが検めて見せてやろう、此の通りだ、何も不都合はあるめえ、旦那、お懐ふところへ入れますよ」

文「新兵衞殿、何よりのお餞別、何時いつに変らぬ御親切、御恩誼ごおんぎは決して忘却致しませぬ」

と言葉の切れぬ中うちに法螺貝ほらがいの音ブウ〱〱。文治が船に足を掛けるや否いなや、はや船は万年橋の河岸を離れました。船中に居ります罪人は何いずれも大胆不敵の曲者くせものでありますが、流石さすがに面おもてに一種の愁うれいを帯び、総立そうだちに立上りまして、陸おかを見上げる体ていを見るより、河岸に居おる親戚故旧の人々はワッ〱と声を放って泣叫ぶ。その有様は宛さながら鼎かなえの沸くが如く、中にもお町は悲哀胸に迫って欄干に掴つかまったまゝ忍び泣をして居りまする。さて三宅島は伊豆七島の中うちでありまして、最も罪人の沢山まいる処であります。先まず島へ船が着きますると、附添の役人は神着村こうづきむら大尽だいじん佐治右衞門さじうえもんへ泊るのが例でございます。此の島は伊豆七島の内で横縦よこたて三里、中央に大山おおやまという噴火山がありまして、島内は坪田つぼた村、阿古あこ村、神着村、伊豆村、伊ヶ島村の五つに分れ、七寺院ありて、戸数千三百余、陣屋は伊ヶ島に在ありまして、伊豆国いずのくに韮山にらやま郡代官ぐんだいかん太郎左衞門たろうざえもんの支配、同組下五ヶ村名主兼勤けんきんの森大藏もりだいぞうの下役頭したやくがしら平林勘藏ひらばやしかんぞうという者が罪人一同を預かり、翌日罪状と引合せて、それ〲牢内に入れ置く例でございます、文治を乗せたる船が海上恙つゝがなく三宅島へ着きますると、こゝに一条の騒動出来しゅったいの次第は次回に申上げます。

十四

護送役人の下知げじに従いまして、遠島の罪人一同上陸致しますると、図らずも彼方あなたに当りパッパッと砂煙すなけむりを蹴立けたって数多あまたの人が逃げて参ります。村方むらかたの家々にては慌あわてゝ戸を閉じ子供は泣く、老人は杖つえを棄てゝ逃にげるという始末で、いやもう一方ひとかたならぬ騒ぎでございます。何事か知らんと一同足を止めて見ますると、向うから罪人が四五十人、獲物えもの々々を携たずさえ、見るも恐ろしい姿で、四辺あたりに逃げ惑まどう老若男女ろうにゃくなんにょを打敲うちたゝくやら蹴飛けとばすやら、容易ならぬ様子であります。中には刃物を持って居おる者もあります。此方こなたは数十人の役人、突棒つくぼう刺叉さすまた鉄棒てつぼうなどを携えて、取押えようと必死になって働いて居りますが、何しろ死者狂しにものぐるいの罪人ども、荒れに荒れて忽たちまち役人も三四人打倒うちたおされました。一同何どうなることかと顔を見合せて居りましたが、追々怪我人けがにんは増えますばかり、義気に富みたる文治は堪こらえ兼て、突然いきなり一本の棒を携え、黒煙くろけむりの如き争闘の真只中まったゞなかに飛込んで大音だいおんを挙げ、

文「まア〱待て、何事かは知らぬが控えろ〱」

と仁王立におうだちに突立つったちました。此の態ていを見るより先に立ちたる大だいの男が、

「やい、汝わりゃア何者か、邪魔をしやアがると打殺うちころすぞ」

死者狂いの四五十人が異口同音に、「それ畳たゝめ、殺せ」と犇ひしめく勢いきおい凄すさまじく、前後左右より文治に打ってかゝりました。

文「よし、拙者せっしゃの止めるのを肯きかぬのか、さア来い」

と二打三打ふたうちみうち打合いましたが、予かねて一人でも打据うちすえる気はございませぬ、受けつ流しつ数十人を相手に程よくあしらって居ります。「えゝ、こんな奴を相手に手間取るは無益だ」と一人の罪人は烈はげしく打合う其の中を掻潜かいくゞって通り抜けようと致しますから、文治は飛退とびのきながら、その一人を引留め、「まア〱待った」と声を掛ける途端に、また其の他たの者が逃出そうと致しますから、飛鳥ひちょうの如く彼方あなたへ駈け此方こなたに戻って一々引留める文治が手練てだれの早業はやわざに、さしも死者狂の罪人も一歩も進むことが出来ませぬ。隙すかさず文治は立直りまして大音を張上げ、

文「どういう訳でお前達が挙こぞって騒ぎ立てるかは知らぬが、見れば喧嘩のようでもなし、御法を破るからにゃア何か仔細があろう、何どうじゃ〱」

罪人「やい、汝わりゃア何者だ、死者狂いの己おいらを何故なぜ止めるか、ふざけやアがると其の分には棄置すておかねえぞ」

文「まア〱静かにしろ、己おれはの、只たった今此の島に流罪の身になって来た罪人だ、仔細を聞いた其の上で共々とも〲味方になってやろう、業平橋の文治という者だ」

と聞いて囚人めしゅうどは顔と顔とを見合せて、少しく怯ひるみました様子でございます。先に立ちたる二三の者は、

「やア旦那様か、始めてお目にかゝります、予かねてお名前なめえは聞いて居りましたがあなたが業平の旦那様ですか、道理で腕に応こてえがあると思った、仔細というは外ほかでもない、少し訳があって此の島の取締り役人を敲たゝき殺し、一同死ぬ気でございます」

文「その又取締が如何いかゞいたした」

罪「日頃罪人一同の喰物くいものの頭を刎はね、剰あまつさえ年ねんに二度か三度のお祭日まつりびに娑婆飯しゃばめしをくれません、余り無慈悲な扱いゆえ、三人の総代を立てゝ只管ひたすら歎願たんがんいたしました処が、聞入れないのみか、上役人かみやくにんの扱いに不服を唱えるとは不届千万ふとゞきせんばんな奴だと云って、その三人を庭の樹きの枝に縛くゝり上げ、今日で三日半ほど日乾ひぼしにされて居ります、たとい悪党にもせよ其の三人を助けなきゃア浮世の義理が立ちません、何どうぞ業平の旦那様、此の儘我ら一同をお通しなすって下せえまし」

文「ふうむ、そうか、そりゃ宜よくない話だ、そういう訳なら斯かく申す文治が一身いっしんに引受けて、お役人にお詫わびをして見ようから、まア暫く静かにして下さい」

一同「旦那、そりゃア兎とても駄目でござんす、訳を云ったところが兎ても分る奴じゃアありません、いっその事に」

文「まア〱待ちなさい、兎も角も己おれが往って詫びて見る、己が挨拶をするまでは決して手出しをしては成らんぞ、悪口あっこうしても棄置かんぞよ、いよ〱肯入きゝいれなければ兎も角も、血気に逸はやって心得違いをいたすまいぞよ」

と一同を制して、其の中の重立おもだちたる一人いちにんを案内に立たせまして、流罪人取締の屋敷へまいりますると、二三の若者が抜刀ばっとうで立って居ります。そんな事に恐れる文治ではございませぬから表に一同を待たせ置き、身に寸鉄も帯びず、泰然自若たいぜんじじゃくとして只たゞ一人ひとり玄関指してまいりますと、表に居ります数多あまたの罪人が、「旦那、危ねえ、危ねえ、抜いてら〱、そうれやッつけろ」と気早きばやな連中は屋敷の内へ飛込もうと致します。

文「これ〱無礼を致すな、己にも心得があるから暫く静かにしていろ」

やがて文治は抜刀を携えたる若者の面前に膝を突いて一礼いたしますと、

役人「やい〱貴様は何者か、ぐず〱すると打切ぶっきるぞ」

文「はい、私わたくしは只今江戸表より流罪になりました囚人めしゅうどでござります、只今一同の囚人の大騒ぎを見るに忍びず、一旦鎮め置きまして段々仔細を聞きましたるところ、囚人に有勝ありがちの食料のこと、棄置かれませんゆえ、お役人様へお目通り歎願いたしとうござります、宜しゅうお取次を願います」

と落着き払って述立てました。

十五

文治の言葉を聞いて役人は目に角を立て、

役「何なんだ新入しんいりの囚人めしゅうどだ、生意気な奴だ、打据うちすえるぞ」

文「これはしたり、囚人一同の者に代り申上げます事故ゆえ、御無礼の段は御容赦下さいまして、一度はお聞済きゝずみの上、お頭様かしらさまに拝顔の適かないまするようお取計とりはからいを願います」

役「小癪こしゃくな奴だ、新入の癖に一同の総代とは何事だ、えゝ面倒だ、切殺せ」

と一人の役人が抜刀を振上げました。此の時に奥に居りました平林が、「これ〱少し待て」と玄関正面に立上り、文治を眼下に見下みおろしまして、

平林「其の方は何者か」

文「恐れながら申上げ奉ります、手前は江戸表本所業平橋の浪人者でござります、此の度たび流罪申付けられ、只今御島内へ到着いたした者でござります、もとより島内の御様子を知ろう筈はずもございませぬが、数多あまたの罪人どもが死者狂いの大騒ぎ、何事やらんと取押えまして様子を承わりましたる所、何かお上かみよりのお手当に就つきまして不服を抱いだき、大勢徒党いたしましたる様子、以もっての外ほかの事、不届至極と一応取鎮め置きまして、歎願にまかり出でた次第でござります、承われば罪人の内三人の総代をお留置とめおきに相成り候由、非道のおん事も是れ有るまじくとは存じますが、残り一同の罪人どもは、何どのような扱いを受けて居おるかも知れぬと心配いたして居りますに依よって、何卒なにとぞお留置に相成ります三人の総代をお免ゆるし下さいまするよう、さすれば一同の悦び如何いかばかりかと存じます、併しかし一旦騒ぎ立ち候う段は如何にも不届至極の振舞でございます故、御法に照しての御処分は余儀なき次第でございます、くれ〲もお慈悲を以もって偏ひとえに御勘弁の程を願い上げ奉ります」

平「して只今其の方ほうが申したお上よりのお手当とは何事じゃ」

文「はゝア、手前は只今島に着きましたばかり、一向島内の御法は弁わきまえませぬが、何か一箇年いっかねんに両三度罪人どもへ娑婆飯とか申して米の御飯ごはんを下され候由、僅わずかの事を楽しみに歳月としつきを送ります無気力の囚人ども、お助け下され候わば一同悦ばしく存じます、此の儀偏ひとえにお汲取り下さいますよう」

平「黙れ、それはな、上のお慈悲を以て下さる事ではあるが、本年は囚人どもが平生へいぜいの不届少からぬに依って、白飯しろめしのお手当がないのじゃ、虫けら同然の其の方どもとは云いながら、人間の皮を被かぶって居おるからにゃア少しは考えて見るが宜よい、然しかるに上のお慈悲なきは身に罪ある故と知らず、徒党を組んで乱暴いたすとは容赦ならぬ曲者ども、一人いちにんも免ゆるすことは相成らぬ、皆殺しに致すから左様心得ろ」

文「お言葉に背そむくは恐入りますが、平生不届の事がございますれば、それ〲御処分方かたもございましょう、お手当を減ずるというは如何いかゞかと存じます、お慈悲を以てお改め下さいますようくれ〲も願い奉ります」

平「うるさい、いや、貴様も同類だな、者ども縛り上げえ」

文「かくの通りお役人様方抜刀ぬきみの下もとに居りますこと故、縛られて居おるも同様、此の上お縄を頂戴いたしますとも決して厭いといは致しませぬが、何卒なにとぞ右の願いお聞済きゝずみの上にて……」

平「成らぬ、それ打て」

下役「はっ」

と抜刀ぬきみを鞘さやに納め、樫棒かしぼうを持ちまして文治の脊中せなかを二つ三みつ打ちましたが、文治は少しも動く気色けしきもなく、両手を支ついたまゝ暫く考えて居りました。何思いけん不図ふと起き上りまして、又打ち来きたる利腕きゝうでをピタリと押え付け、

文「無法なことを為なさいますな」

役「あいたゝゝ、あいたゝ」

見るより平林は烈火の如く憤いきどおり、

「それ、その悪党を切ってしまえ」

役「畏かしこまって候」

と抜刀ぬきみの両人、文治の後うしろより鋭く切掛けました。其の時早く文治は前に押えた腕を捩上ねじあげ、同役二人ににんが振下ふりおろす刀の下へ突付けました。はっと思って二人ににんが退さがる途端に身を交かわして空くうを打たせ、素早く掻潜かいくゞって一人いちにんの利腕を捩上げ、尚なお一人ひとりが、「小癪なことを為しやがる」と横合よこあいより打込み来る其の間まに、以前に捩上げたる下役の腕を反かえして前へ突放したから耐たまりませぬ、同役同志鉢合はちあわせをして二人ににんともに打倒れました。残りし一人ひとりが又々抜刀ぬきみを取直し、「無礼なやつ」と打掛る下を潜って一当ひとあて当てますと、脂やにを甞なめた蛇のように身体を反らせてしまいました。此奴こいつ容易ならぬ曲者なりと、平林は手早くも玄関の長押なげしに懸けてありました鉄砲へ火縄ひなわを挟はさみ、文治へ筒口を向けましたから、文治は取って押えた両人を玉除たまよけに翳かざし、

文「さア打つなら打って見ろ」

と袖下に忍んで様子を窺うかゞって居りまする。流石さすがの平林も如何いかんとも詮方せんかたなく、踵きびすを反かえして奥の方へ逃込みました。何をするか知らぬと思う間もなく、三日半も干乾ひぼしにして庭樹にわきの枝に縛り付けてあった囚人しゅうじん目がけてズドンと一発放つや否や、キャッという叫び声。最早これまでなりと文治は飛鳥の如く飛上り、平林が振上げて居ります鉄砲の手元へ潜り付き、一当て急所へ当てゝ倒れるを見向きもせず、吊し上げたる三人の縄を解き、疵きずを検あらためて見ますると、弾丸たまは外それたものと見えて身体に疵はありませぬ、尤もっとも鉄砲の音に胆きもを消したものと見えて、三人とも気絶して居りまする。

十六

樹きの枝に縛り付けられて居ります三人の囚人めしゅうどは気絶して居おるので、文治は冷水れいすいを吹掛けて介抱して居りますると、後うしろの方に当ってわア〱という騒がしい声、振向きますと、表に待たして置いた罪人の内七八人の逸雄はやりおが踏込ふんごんでまいりまして、最早もはや平林を刺殺さしころしてしまいました。文治は恟びっくりして、

文「えゝこれ何事じゃ、役人を殺すくらいなら今まで苦労は致さぬぞ、最早これまでなり」

と身支度して切腹の様子でございます。

一同「旦那、何を為なせえます、あなたは何も知らねえ事、素々もと〱こちとらが始めた仕事です、仮令たとえ何どの様な事が有ろうとも決して旦那に御迷惑は掛けません、さア斯こうなるからは仕方がねえや、遣やる所まで遣付やっつけろ」

文「此の上尚お徒党を組んで乱暴な振舞をしては上かみの御法に対して済むまいぞ、先まず一同控えろ」

一同「何なんの、何どうせ晩おそかれ早かれ命の無ねえ身体だ、それ遣付けろ」

文「まア〱暫く」

と制して居ります処へ、江戸より送りの役人を始め地役人じやくにん一同表の方へ駈付けてまいりました。切腹と覚悟したる文治は、諸役人の姿を見るより門外に飛出し、後あとに続く罪人一同を制しながら、ピタリと両手を支つかえて、

文「え、恐れながら文治申上げ奉ります、只今不法の振舞、皆私わたくしが仕業しわざでござります、御吟味の上お仕置を願います」

時に江戸役人は、

「其の方共一同静かにいたせ、文治とやら、只今不法の振舞は其方そち一人いちにんであると申すか」

文「御意にござります」

役「然しからば其の方を召連れ吟味致さねばならぬ、一同の者、文治の吟味中、謹んで居おろうぞ、立ちませえ」

と文治一人いちにんを連れて役所へまいりますと、続いて地役人一同も引上げました。これは江戸役人の頓智とんちで、死物狂いの囚人を残らず召捕めしとろうと致しますと、どんな騒動を仕出来しでかすかも知れませぬ故、一時其の場を治めるために態わざと文治一人いちにんを引立てたのでございます。さて江戸役人島役人立会いにて、文治を白洲へ引出し、吟味いたしますと、全く平林が非道の扱いに堪たえ兼て、囚人一同徒党を組んで暴れ出したという事が分りました。そればかりではございませぬ、平林という奴は誠に横着おうちゃくな奴で、平生罪人の内女の眉目みめ好よき者がありますと、役柄をも憚はゞからず妾しょうにするという、現に只今でも一人ひとり囲い者にして男児を設けたということでございます。それに引換えて文治の罪状送書おくりがきを見ますと、下しものような裏書うらがきがあります。

「右の者思召有之候おぼしめしこれありそうろうに付、遠島中軽々しく取扱い申すまじく候事、町奉行公用人某印」

としてあります。さア其の頃の事でございますから、町奉行公用人の裏書は中々幅の利いたものでございます。一同顔を見合せましたまゝ別に評議もいたしませぬが、以心伝心で文治に十分の利を持たせ、結句平林は自業自得、殺され損ということに落着らくちゃくいたしました。尚なお別席に於て諸役人一同評議の上、文治を呼び出して、「今日こんにちより右平林の後役あとやくは其の方に申付けるによって役宅に住すまい、不都合なきよう島内囚人しゅうじんの取締を致せ、下役人一同左様心得ませえ」との有難き言渡しでございます。文治は恐入って両三度辞退いたしましたが、お聞済きゝずみがございませぬから、余儀なくお請け致しました。文治は上々の首尾にて白洲を引取り、何どうなる事かと心配して居りました徒党の囚人めしゅうど一同に向いまして、

文「各々方おの〱がたお悦び下さい、拙者は軽くって切腹、重くって縛り首と覚悟してお白洲へまいりしところ、上かみのお慈悲を以て罪をお免ゆるし下されたのみか、勿体なくも平林殿の後役を不肖ふしょう文治に仰付おおせつけられました、一同左様心得ませえ」

一同夢かとばかり暫しばし呆気あっけに取られて居りましたが、

一同「え旦那、貴方あなたへお取締役を申付けたのでござんすかえ」

文「如何いかにも」

一同「それじゃア嬉しいなア、流石さすがにお役人様にゃア眼が有らア、時に私わっちどもが徒党の罪は何どうなったのでござんすか」

文「そち達は好んで徒党いたした訳でない、平林の非道に堪たえ兼て起った事ゆえ、今度に限り其の罪を宥ゆるすとの事じゃ」

と聞くより一同雀躍こおどりして、

「えっ無罪、え、も勿体もってえねえ、旦那様お有難う存じます、天道様てんとうさまは正直だなア」

と一同手を合せ大声を上げて泣出しました。文治も共に涙に暮れて居りましたが、稍やゝあって声を和やわらげ、

文「えゝ各々少し文治がお前達にお頼みがあるが、快く聞済きゝすんでくれるか」

一同「そりゃア旦那様、何事かは存じませんが、私わっちどもの命を助けて下すった恩人の仰しゃること、何事によらず承わりましょう」

と一同静まり返って居ります。

十七

文「うむ、聞済んでくれるか、頼みと云うは外ほかではない、只今御吟味中に一寸ちょっと小耳に挟はさんだ事だが、先役人せんやくにんの妾めかけに子供が有るそうじゃな」

と云いかけますと、三四人の荒くれ男が思い出したように立上り、面相変えて駈出しました。

文「これ〱待てっ」

三人「何なんですか」

文「何なんだじゃない、仮令たとい夫は非道な扱いをしたにもしろ、女子供に罪はない、その婦人と子供に少しでも手を出す者は棄置かぬぞ、夫が殺されて見れば嘸さぞその女子供が難儀するであろう、義として助けなければ成らんから、拙者を其の妾の宅へ案内してくれぬか」

一同「えっ、旦那、あんな奴を助けるのですか、私わっちやア面つらを見るのも小憎らしい」

文「いや、坊主が憎けりゃ袈裟けさまでというのは人情だが、そこが文治が一同への頼みじゃ、何どうか気を鎮めて聞済んでくれ」

×「然しかし旦那、彼女あいつめ以前江戸にいる時分にゃア、同じ悪党仲間で随分助け合ったものですが、此の島へ来て平林の妾になってからは、一緒になって非道なことを為しやがって、義理も人情も知らねえ悪婆あくばでござんすぜ、何どうで生かして置いたからって為になる奴じゃアありやせん、寧いっそ今から往って是までの意趣返いしげえしに……」

一同「そうとも〱遣付やっつけろ」

文「それをする位なら、こうして一同へ手を下げて頼みはせぬ、まア己に任してくれえ」

×「旦那の仰しゃる事だから一言いちごんでも背そむきたかア無ねえが、本当に彼奴あいつア憎らしいからなア」

文「それだから頼むのじゃ、何どうぞ其の宅へ案内してくれ」

×「別段案内にゃア及びますめえ、先刻さっき二三人廻して縛くゝって……」

文「何なんだ、縛くゝり上げて置いた、無法なことをするなア、そんなら仕方がない、兎も角此処こゝへ連れて来てくれぬか」

暫く経ちますると、「助けて〱、何どうかお慈悲を〱」と叫び狂う婦人を連れてまいりました。数多あまたの罪人が揃そろって居りますのを見て、その婦人は色を失って居ります。文治は遠くより声をかけまして、

文「これ〱手荒いことをするな、是これへ〱」

お瀧という妾は恐る〱文治の傍そばへ坐りました。

文「お前は何なんという名じゃ」

瀧「瀧と申します」

文「今日のことは嘸さぞお前も立腹したであろうが、何事も成行なりゆきじゃ、諦めなさい、さて今日の始末は定めてお聞及びであろうが、お前が夫の平林氏うじが非道の扱いに堪兼たえかねて、一同の囚人めしゅうどが徒党を組んで既すでに屋敷へ押懸けようと云うところを、此の文治が止めたが、つい過あやまってお前の夫を殺してしまったのは誠に気の毒の事であった」

一同「なアに、そりゃア己おいらが殺したんだ」

文「まア〱静かにしてくれ、さア私わたしゃアお前のためには夫の仇あだ、その仇の此の方ほうがお前を呼付けて斯様かようなことを申したら定めし心外に思うであろうがな、何事も是までの因縁と諦めて、一時いちじ此の場の治まりの付くよう勘忍してくれ、然しかし其の子供が成長して私を仇と狙ねらうなら、其の時は又快く打たれてやろう、それまでは何事も私わたしに任せてくれんか、その内子供が十五歳になって親の後役あとやくを継ぎたいという志があるならば、必ず譲るように計らってやろう、それ故お前も昔は音に聞えた悪党、残念では有ろうが善よく〱謹しんで赦免の日を待つが宜よかろう、何どうだ」

瀧「えゝ、お有難う存じます、私わたくしは決して貴方あなたをお怨うらみは致しませぬ、何どうぞお慈悲をお願い申します」

文「よし、そういう了簡なら、お前の身は此の文治が引受けて助けてやる、これ一同、此の後ごこの婦人に対して少しにても無礼を致すと其の分にゃア棄置かんぞ、さアお瀧殿、平林の屋敷の有金ありがねは勿論、衣類其の外ほか入用いりようの品は何なんなりと持って行きなさい」

もう是までの運命かと半ば諦めて居りますお瀧は、文治の情なさけで一命を取留めた其の上に、只今の情厚き言葉に悪婆あくばながらも感じたものと見えまして、

瀧「お有難うございます」

と泣伏して居ります。罪人どもは、

「旦那、金や衣類を遣やるなんて、そりゃア余あんまりお慈悲が過ぎらア、せめて其れだけは……」

文「あゝ、そう〱、気の毒ながら米は其の儘文治が受取ります、明日みょうにちは後役あとやく引受ひきうけの祝いとして、一同の者へ赤飯せきはんを振舞ってやるぞ」

いや罪人どもは赤飯と聞いて悦んだの何なんの。

一同「へえ〱お有難う存じます、旦那様、寿命が延びます、辱かたじけなく存じます」

文「一同今日は是にて引取りませえ」

とそれ〲役人へ引渡しました。いやもう囚人しゅうじんどもは明日あすの赤飯を楽しみに喜び勇んで引取りました。思えば罪のないものでございます。此のお瀧と申します婦人はもと八丁堀の碁打ごうち阿部忠五郎という者の娘でございます。是にてお話が一寸ちょっと後あとへ戻ります。

十八

えゝ、大伴蟠龍軒は丁度秋のことでございますが、自分の屋敷に居りまして、手を拍うち、

蟠「これ〱お瀧か、一寸ちょっとお出いで」

瀧「はい、何なんぞまた旨い仕事でもありますか」

蟠「いやお瀧今日は御殿女中になって貰わにゃアならん」

瀧「おや、御殿女中とは俄にわかの出世だねえ、まア」

蟠「旨くやると今日こそ金になるぞ」

瀧「そりゃア有難いね」

蟠「緑町みどりちょうの口入屋の婆ばゝアを頼んで置いたが、髪は奥女中の椎茸髱しいたけたぼに結ゆってな、模様の着物も金襴きんらんの帯も或る屋敷から借りて置いた、これ〱安兵衞、緑町の婆アが来たら是れへ通せ」

安「へえ、婆アは先刻さっきから仲の口で独語ひとりごとを言ったり居眠りをしたり、欠伸あくびの十もした時分で」

蟠「そうか、此処こちらへ通せ、おゝ婆アか、久し振ぶりだな、何時いつも達者で結構々々、何どうだ近頃は金儲かねもうけでも有るかな」

婆「いゝえ、此の頃じゃア金儲けどころじゃアございません、不景気なせいか田舎から奉公人が皆無かいむ出て来ませんし、また口も好よい口がございませんで困り切って居ります、私わたくしどもで此の商売を始めてから斯こんな商売の閑ひまなことはござんせんねえ」

蟠「時に婆ア、手前てめえは始終屋敷方がたへ奉公人を入れて居おるが、大名や旗下はたもとへ女を出すにゃア、髪はどんな風に結うかな、定めしそう云う女中の髪ばかり結う者もあろうな」

婆「そうね、只の髪と違って御殿女中の椎茸髱は六むずかしいんですよ、幸い此の婆アは年来結いつけて慣れていますから、旗下は斯こう大名は斯うと、まア婆アぐらいに結分ゆいわけるものは有りませんね」

蟠「お前は一体器用だからな、婆ア少しお前に頼みがある、今日はまア緩ゆっくり遊んで往ゆくが宜よい」

婆「有難う存じます」

蟠「こりゃア誠に少しばかりで気の毒だが、これで酒の一口も飲んでくれ」

婆「まア、何どうも済みませんね、毎度有難う存じます」

蟠「礼にゃア及ばねえ、頼みというのは外ほかじゃねえがな、此女これを今度或る大名へ奉公に出すのだが、余り下方風しもがたふうも安ッぽい、手数であろうが御殿風に髪を直してくれまいか」

婆「そんな事なら何なんの造作ぞうさも有りませんが、少し道具が入りますから、一寸宅へ帰って持ってまいりましょう、奉公先はお大名ですか、お旗下ですかえ」

蟠「大名よ」

婆「それなら其の様に道具を持ってまいりましょう」

蟠「宅へ帰るのは宜よいが、己の宅で斯こう〱斯様こうなんて事を云っちゃア困るぞ」

婆「へゝゝ、そんな入らざる口をきくような婆アじゃアございません、何か外ほかに御趣向が……」

蟠「いや別に」

婆「そんなら一寸往って参じます」

蟠「なるたけ急いでな」

と出て往ゆく婆を見送りまして、

蟠「お瀧ッ」

瀧「はい、今日は何どんな狂言をするんですかね」

蟠「これは何処其処どこそこの御殿女中でござると云って、それ彼あの松平の屋敷へ往ってな、殿様の碁の相手をするのよ、己は御近習衆ごきんじゅしゅと隣座敷へ退さがって、一杯飲みながら折を見て寝た振ふりをして居おる、やがて御近習が居眠りを始めたら、己がエヘンと咳払せきばらいをするから、それを合図に宜いか、旨くやってくれ」

瀧「だって、そんな事は私には……」

蟠「何なんの出来ぬ事があるものか、遣やりそこなったら斯こう斯う」

とひそ〱囁さゝやいて居ります処へ、

婆「只今往ってまいりました、さアお髪ぐしを解きましょう、まア好いい恰好に出来ていますねえ、ほんに毀こわすのは勿体ないよ」

瀧「まだお前、昨日きのう結うたばかりだもの」

婆「椎茸髱は、何どうしても始めて結う時は、油を沢山たんと塗つけないと旨い恰好に出来ませんからね、お心持こゝろもちは悪うございますが、我慢して下さいまし、少しお痛うございましょう……さア出来ました、まア〱好よくお似合い申しますよ、全体お人柄でございますから、本当に好く似合いますねえ」

蟠「やア何時いつの間まにか出来上ってしまったな、ウム、旨い、併しかし婆ア近所へも極ごく内々ない〱にしてくれえ」

婆「大丈夫でございますよ、序ついでに召物めしものもお着せ申しましょうか」

蟠「宜よろしく頼む」

婆「まアすッぱり出来上りました、左様ならお暇いとま申します」

蟠「くれ〲も内々にしてくれよ」

婆「はい、宜しゅうございますとも、左様なら」

蟠龍軒はお瀧を連れて松平某ぼうの中の口へまいりまして、

蟠「頼む〱」

中小姓「どーれ……これは〱大伴先生」

蟠「お殿様は御在邸でござるかな」

小姓「はい〱丁度御前様ごぜんさまもお屋敷でござります、暫くお控え下さいまし」

暫くして近習きんじゅが出てまいりまして、

近習「これは〱先生、よくおいでになりました、さア何どうぞ此方こちらへ、おうこれは〱予かねてお話しの御婦人様でござりますか」

蟠「はい、左様にござります」

近「御前様もお待兼まちかねでいらせられます、直すぐお通り下さりませ」

蟠「然しからば御免を蒙こうむります、さア何どうぞお先へ」

近「どう致しまして、先まず〱先生、お通り下さいますよう」

蟠「これは恐入ります、仰せに従いまして失礼を致します」

と先立って御殿へ上あがる其の様子は、如何いかにも事慣れたものであります。

十九

このお瀧という女が、先に申上げました阿部忠五郎という碁打の娘で、碁は初段の位くらいでございます。諸家しょけへ奉公致して居りました故、なか〱多芸な娘でございますが、阿部の悪心から終ついに島流しになるような不運な身になったのでございます。御殿女中というものは苦労のない割合に、身体を動かしますから、大概は栗虫くりむしのように太りかえって、其の上着物に八口やつくちがありませんから、帯が尻の先へ止ってヒョコ〱して、随分形の悪いものであります。お瀧は其れとは打って変って成程眉目みめ形は美しゅうございますが、丈せい恰好から襟元えりもとまでお尻の詰った細ほっそり姿、一目見ても気味の悪くなるような婦人でございます。

殿「宜よう先生おいでたな」

蟠「これは〱御前様、此方こなたは予かねて申上げました御殿女中瀧村様でござります」

殿「おゝ左様か」

とにこ〱御機嫌の態てい。

蟠「さア瀧村様此方こちらへ、御当家の御前様であらせられます、お近附に」

瀧「はい左様でございますか、始めて拝顔を得まして辱かたじけのう存じます、私わたくしは瀧村と申します不束者ふつゝかもの、何どうか宜よろしゅう」

という挨拶振あいさつぶりの芝居掛りなるに蟠龍軒は笑いを洩らして、

蟠「はゝゝ、奥女中の御挨拶は些ちと芝居めきますな、さて御前、お約束のお碁でございますが、私わたくしは瀧村殿に二目にもく置きますから、丁度御前様とはお相碁あいごでございましょう」

殿「いや、それは〱、なか〱強いの」

蟠「何どうも御前、世の中には種々いろ〱の気性の方もあったもので、瀧村殿には僅わずかに三日や四日のお宿下やどさがりに芝居はお嫌い、花見遊山ゆさんなどと騒々しいことは大嫌いで、只緩々ゆる〱と変ったお方と碁を打つのが何よりの楽たのしみとは、お年若としわかに似合わぬ御風流なことでござりますな」

殿「風流を好む女子おなごには、時として然そういう者もあるの」

蟠「時に御前、始めてのお手合せでござりますから、何か勝ちました者に御褒美を出すとしては如何いかゞでございましょう」

殿「それも宜よいの」

蟠「御前が万々ばん〱お負けなさる気遣きづかいはありますまいが、万一お負けなすったら、えゝ斯こうと……金子きんす……金子は些ちと失礼なようではございますが、外ほかに是れという心付きもござりませんから、矢張金子がお宜しゅうござりましょう、また瀧村殿が負けました時は、金子という訳にもまいりませず、はてな其の外の品々を差上ぐるも失礼、こうと、困りましたな、何か御前また御所望ごしょもうもござりましょうから、何なんなりお好みにお任せ申すとして、其の辺は取極めぬ方がお宜しゅうござりましょう」

殿様は婦人の珍客ですから余程悦に入いって居ります様子。

蟠「何どうも御前様、毎度まいります度たびに御酒ごしゅの馳走は恐入りますな、これは〱千万辱かたじけのう存じます、さア〱御近習衆、お側で御酒はお碁のお邪魔だ、ちょっとお次で戴くとしましょう、何いずれもさア〱」

近「さらばお次で」

蟠「えゝ御前一寸ちょっと御免を蒙こうむります」

と其の場を外はずして次の間へ退さがり、胸に企たくみある蟠龍軒は、近習の者に連しきりと酒を侑すゝめますので、何いずれも酩酊めいていして居眠りをして居ります。蟠龍軒も少しくいびきを掻きながら、様子を窺うかゞって居りますと、

瀧「おゝ昼の中うちに帰ろうと思いましたら、図はからず夜よに入いりまして恐入りました、御前様それはいけませんよ、いゝえ私わたくしは其処そこへ打ちましたのではございません、此方こちらへ伸びたのでございます、お寄せなすッちゃア御無理ではございませんか、御前様お止よし遊ばせ、手前は碁のお相手に……」

頃合を計って蟠龍軒、

「ウーイ、余り御酒を過したので御前をも憚はゞからず、とろ〱と睡ねむって大きに失礼いたした、おや、お燈火あかりが消えましたな、御近習お燈火を」

と御前の座敷へ踏込ふみこみ、何やら難題を吹掛ふっかけましたので、松平の殿様も弱り果て、

殿「何事も内済ないさいに致せ、これ誰たそある、金子を遣つかわせ」

近「はゝッ」

とまご〱して居ります処へ、後うしろの襖ふすまを押開けて、当家の老臣妻木數馬つまぎかずまという者が入いり来きたりまして、

數「その金子は手前どもが遣わします、御前様にはお奥へ〱、これ御近習衆、御前をお奥へお連れなさい」

近「はゝア」

と殿様のお手を取って奥へ連れ込んでしまいました。老臣數馬は容かたちを正し、

數「これ大伴氏うじ、いや先生もう少しお進みなされ、さて先生、この婦人は何いずれからお連れなすった、御殿女中なら御宰ごさい(下供したども)を連れべき筈なるに、男一人いちにん同道するとは如何いかにも不審と承わりましたゆえ、御殿へまいり、篤とくと様子を取調べました処、左様な女はござらぬという、さア何処いずこの奥からお連れになりました、大伴氏如何いかゞでござるな」

と問詰められて、流石さすがの悪漢あっかんも返す言葉なく、

蟠「えゝ〱これはその何なんでござる、実は先日朋友ほうゆうがまいりまして、八丁堀辺の侍の娘で、御殿奉公を致して居おる者であるが、至って碁好ずきな娘、折があったら御前へととと取持とりもちを頼まれまして」

と苦しまぎれの出鱈目でたらめを云って居りまする。

二十

時に妻木數馬は、

數「いやさ、御殿女中とは真赤まっかな偽りでござろう、尤もっとも衣類簪かんざしの類るいは好よう似て居おるが、髪の風ふうが違いますぞ、これはお旗下か諸役人衆しゅの女中の結い方、御城中並びに御三家とも少しずつ区別があると申す事故ゆえ、其の道の者に鑑定致させたる処、よく出来ては居おるものゝ御殿風ではないという、察するところ、囲碁の心得ある何者かの娘を御殿女中風に仕立て、御前を欺いて金銭を貪むさぼる手段でござろう、さればこそ衣類と髪の不似合な装いをしたのでござらぬか、さりとは不届至極な為され方、さア此の上は両人とも当家を引立ひったて、大目附衆おおめつけしゅうへ差出さねば成らぬ、其の上当家に越度おちどあらば寺社奉行の裁判を受けるでござろう、とは申すものゝ罪人ざいにんを作るも本意ほんいでない、何も言わずに此の儘お帰りなさるか」

とすっかり図星を指されて何なんと言い紛らす術すべもなく、

蟠「ウウッ、ウーム、これは全く、へえ〱何も言わずに此の儘……」

數「然しからば免ゆるし遣つかわす、併しかし大伴氏、今日きょう限り当家へお出入は御無用でござるぞ」

と追立おったてられまして、蟠龍軒、お瀧の両人は目算がらりと外れ、這々ほう〱の体ていで其の儘逃帰りました。悪事千里とは好よう申したもの、何時いつしか此の事がお上かみの耳に伝わりまして、お瀧は忽たちまち召捕めしとりとなり、続いて遠島を申付けられました次第でございますが、如何いかにも島人しまびとに珍らしき美人でありますから、平林が勝手に引出して、妾にいたして置きました処、前回に申上げた騒動が起って、夫平林は殺されてしまったのでございます。お話変って町奉行石川土佐守は、ある日御用があって御老中松平右京殿のお役宅へまいりました。さて御用済の上右京殿は土佐守に向いまして、

右「いかに御奉行、唐土もろこしから種々いろ〱の薬種やくしゅが渡来いたして居おるが、その薬種を医者が病気の模様に依よって或あるいは緩ゆるめ、或は煮詰めて呑ませるというのも、畢竟ひっきょう多くの病人を助ける為で、結句けっく御国みくにの為じゃの」

土「御意にござります」

右「日本の島々に居おる者でも随分用いように依ると、国の為になる者もあろうの」

土佐守は御老中が突然だしぬけの問といに、はて奇妙なお尋ねも有るものかなと暫く考えて居りましたが、もとより奉行でも勤めるくらいのお方でありますから、それと心付きまして、

土「御尤ごもっともにござります、思召おぼしめし通り取計らいましょう」

とお受を致しました。別段申上げませずとも、文治を赦免いたせと云う思召であると云うことは皆様もお察しでございましょう。奉行は役宅へ帰りまして、「三宅島罪人小頭こがしら浪人浪島文治郎儀、流罪人扱い方宜しく且かつ又当人島則を厳重に相守り候段、神妙の至りに付、思召を以て流罪赦免致すもの也」という赦免状を認したゝめまして、その赦免状の三宅島に着きましたのは、天明てんめいの前年即すなわち安永あんえい九年初夏の頃でございます。さてまた本所業平橋の文治留守宅におきましては、主人あるじが流罪の身となりましたので、お町は家計を縮め、森松を相手に賃仕事などして、其の日〱を煙を立てゝ居ります。松屋新兵衞を始めとして亥太郎、國藏も文治の恩誼おんぎを思い、日々夜々にち〱よゝ稼ぎましては幾許いくらかの手助けをして居ります故、お町は存外困りませぬ、或日あるひ友之助が尋ねてまいりまして、

友「へえ、お頼み申します、友之助でござります」

森「やア友さん、よく来たなア、大分だいぶ暑くなったじゃアねえか、さア上らっしゃい」

友「時に御新造様は御機嫌宜しゅうござりますか」

森「あゝ別に変った事もねえね」

友「それは何より結構、へえ御新造様、おや今日こんにちはお土用干どようぼしでござりますか、これは皆旦那様のお品々、思い出すも涙の種、御新造様世の中には神も仏もないのでございましょうか…これも旦那様のお品でございますな」

町「それに就ついていろ〱お話があるのでございます、丁度私わたくしが当家へまいって二日目でございますが、亥太郎さんのお父とっさんが歿なくなりました、其の時に亥太郎さんが葬式金とむらいきんにお困りなすって、これを抵当かたに金を貸してくれと申してまいりました、旦那は彼あアいう気象ですから、金は貸すが品物は預からぬと云って、暫く押問答して居りますと、亥太郎さんが何なんと云っても肯ききませんので、そんなら私わしも少し考える事があるから、兎も角も預かって置くと申しまして、その儘預かりました、ところが彼あアいう訳で良人やどが島流しになりましたから、何どういう仔細があって預かったかは知りませぬが、何時いつまでも人の物を預かって置くのも不実と思いまして、今日にもお出いでがあったらお返し申そうかと思って居おるのでございますよ」

友之助は不審の眉まゆを顰ひそめまして、

友「はてな、亥太郎さんが此品これを持っていると云うのは不思議でございますな、この煙草入たばこいれは皮は高麗こうらいの青皮せいひ、趙雲ちょううんの円金物まるがなもの、後藤宗乘ごとうそうじょうの作、緒締おじめ根附ねつけはちぎれて有りませんが、これは不思議な品で、私わたくしが銀座の店に居りました時、手掛けた事のある品物でございますぜ」

と噂をすれば影とやら、表の方かたから亥太郎がやってまいりました。

二十一

亥太郎は門口に立ちて、

亥「えゝお頼み申します、亥太郎で、滅相めっそうお暑くなりました」

と云う声を聞付けまして、

友「これは〱豊島町の棟梁、さアお上あがりなさいまし」

森「さア〱棟梁お上んなせえな」

亥「御免よ」

友「いや棟梁、一寸ちょっとお聞き申しますが、此の煙草入は貴方あなたがお持ちなすっていたのですか」

亥「持ってたと云う訳じゃアありませんが、実はこりゃア桜の馬場の人殺しが持っていた品です、左様さ、御新造が此方こちらへ縁付かたづいてから二日目のこと、丁度三年以前の五月三十日の晩ですが、水道町の仕事の帰りに勘定を取って、相変らず一口やった揚句あげくの果はて、桜の馬場の葭簀張よしずばり、明茶屋あきぢゃやでうと〱寝入ると、打ぶちまけるような大夕立にふと気が付いて其処そこらを見ると、枕元でキャッという叫び声、さては人殺しと寝ぼけ眼まなこで曲者の腰の辺あたりへ噛かじり付いたが、その曲者も中々堪こたえた奴で、私わっちへ一太刀ひとたち浴あびせやがった、やられたなと思ったが、幸いに仕事の帰りで、左官道具をどっさり麻布さいみの袋に入れて背負しょっていたので、宜いい塩梅あんばいに切られなかった、振放す機はずみに引断ひっちぎった煙草入、其の儘土手下へ転がり落ちた、こりゃ堪たまらぬと草へ掴つかまって上あがって見たら、何時いつの間にか曲者は跡を晦くらましてしまう。翌日あくるひ聞けば殺された奴は盲目めくらの侍だそうで、其の時図らず取った煙草入だが、持っていちゃア悪かろうとぐず〱している中うちに親父の大病、医者に掛けるにも銭はなし、脊せに腹は代えられねえから、一時の融通に旦那へお預け申しましたが、其の儘になっているのでさア」

町「亥太郎さん、それは確かに五月三十日のことですね」

亥「えゝ、勘定取った帰りがけで」

町「その殺された侍は盲目でございますか」

亥「いかにも」

友「もし棟梁、その煙草入は私わっちが銀座の店で蟠龍軒に売った品、御新造の敵かたきは確かに蟠龍軒でございますぞ」

お町は恟びっくりして、

町「え、父の敵はあの蟠龍軒ッ」

亥「御新造、あなたのお父とっさんの敵が蟠龍軒と知れて見れば、この敵討かたきうちをせざアなりませんよ」

友「そうとも〱、此品これこそ何よりの証拠、私わしが確かに証人でござります」

と一同歯がみをなして居ります処へ、家守いえもりの吉右衞門きちえもんが悦ばしそうに駈けてまいりまして、

吉「皆みんな悦んで下せえ、今日お奉行所よりのお達しで、旦那様が御赦免になりました、もう直ぐにお帰りでございます」

亥「えッ、旦那が赦免だ、そりゃア有難ありがてえ」

國藏と森松は気も顛倒てんどうして、物をも云わず躍おどり上って飛出し、文治の顔を見るより、あッと腰を抜かしてしまいました。

亥「そんな処で腰を抜かしてくれちゃア困るじゃねえか」

と大騒ぎ。近所では火事と間違えて手桶ておけを持って飛出すもあれば鳶口とびぐちを担かついで躍り出すもあると云う一方ひとかたならぬ騒動でございます。只と見ると、文治は痩衰やせおとろえて鬚ひげぼう〱、葬式とむらいの打扮いでたちにて、裃かみしもこそ着ませぬが、昔に変らぬ黒の紋付、これは流罪中上かみへお取上げになっていた衣類でございます。お町は嬉しさ余って途方に暮れ、手持無沙汰に狼狽うろたえて居りましたが、文治の姿を見るより玄関まで出迎えまして、両手を突き、

町「旦那様、御無事で……」

と云ったきり、後あとは口がきけません。文治は落着き払って、

文「これは皆さん、ようこそお出で下さいました、流罪中は万事お心に懸け、よくお世話下さいました、千万辱かたじけのう存じます、おゝ町か、留守中さぞ苦労しなすったろう、よう達者でいてくれた、文治も皆さんの助力おちからと天の助けで、再びお前に逢うとは此の上の喜びはない、さア皆さん奥へお出で下さいまし、ゆるりとお礼を申しましょう、いや皆の衆、予かねて覚悟とは申しながら、何なんとも彼かとも申しようのなき心配をいたしました、いっそあの時死んだら此のような苦労は致すまじきに、皆々様に余計な心配を掛けまして、飛んだことを仕出来しでかしましたなア、併しかしこれも男の役やくか知らんて」

亥「私わっしやア嬉しくって〱」

森松も國藏も胸一杯になって嬉し涙を流しては、文治の顔ばかり見詰めて居ります。

喜「頼みます、藤原喜代之助でござる」

森「あッ、藤原様が来た……いや今日こんにちは裃で」

喜「お喜びにまいりました、宜しくお取次ぎ下さい」

森「えゝ旦那様、藤原様がお喜びにまいりました」

文「さア何どうぞ是れへお通り下さりませ、宜ようこそおいで下さいました、定めし其許様そこもとさまのお執成とりなしとは存じますが、何から何まで御配慮下さいまして、千万辱のう存じます」

喜「どう致しまして、此の上の喜びはございません、お町様、こんなお目出度めでたい事はござりませんな、お喜び申上げます」

町「はい、有難うございます、あなた様が万事にお執成し、何なんともお礼の申そうようもございませぬ」

とお町は気も軽く、取っときの茶を仕立てゝ親切に扱うて居ります。

二十二

この時亥太郎は、

亥「えゝ旦那、まことに面目めんぼく次第もごぜえません、旦那が万年橋から島流しになりやす時、國藏と二三の奴らを頼み合い、飛んだ事をやろうと為しやしたところを、お前めえさんに叱り付けられて思い直したお蔭で、旦那を始め私わっちらまで今日きょうの喜び、実に面目次第もござんせぬ、有難う存じます」

喜「併しかしあの時は宜よくお止とまり下すった、そのお蔭には此の通り文治殿にも表向きで、お目に懸れるような仕合せになりました」

文治はそれと悟りまして、

文「ハヽア、それじゃア流罪になります時、あの万年橋で、多分そんな事だろうと思って、それとなく叱りましたが、藤原氏何かに付けて穏便おんびんなおあつかい、有難う存じます」

亥「えゝ旦那、もっと目出度めでてえことが有りやすぜ、おい友さん、此方こっちへ来きねえ、あの桜の馬場の人殺し一件よ、あの時取った煙草入を旦那に預けて置きましたが、ありゃア友さんが蟠龍軒に売った品だという、して見りゃア御新造様のお父とっさんを殺した奴は、あの蟠龍軒に相違ござんせぬ」

文「フーウム、友之助、ちょっと此処こゝへ、今棟梁が申した通り、あの煙草入は確かにお前が蟠龍軒に売った品か」

友「えゝ、こりゃア私が仕立てました、高麗青皮の胴乱どうらん、金具は趙雲の円形まるがた、後藤宗乘の作、確かにも〱外ほかに二つとない品でござります、口惜くやしい事をしましたな、それと知ったら早くお上かみへ訴えて、敵かたきを取ってやるのに、神ならぬ身の知るよすがもなく、皆さんに苦労を掛けたのは口惜しいなア」

森松と國藏は膝を叩いて

「こいつア話が面白くなって来た」

喜「いや文治殿、その蟠龍軒なら少し聞込んだことがござる、拙者主家しゅうかの御領分越後えちご高田たかたよりの便たよりによれば、大伴蟠龍軒似寄によりの人物が、御城下に来きたりし由、多分越後新潟辺に居おるであろうと思われます」

文「さて〱悪運というものは永く続かぬものじゃなア、然しからばお国表の様子を聞合せ、直ぐさま出立いたすでありましょう」

喜「それなら此方こちらに伝手つてがありますから、早速屋敷へ帰り、お国表を調べた上、お知らせ申す事に致しましょう」

文「それは辱かたじけない、何分なにぶん宜しく」

一同「さア、いよ〱面白くなって来たぞ」

と皆々腕を撫さすって居りまする。さて中山道なかせんどう高崎より渋川、金井、横堀、塚原、相俣あいまたより猿が原の関所を越えて永井の宿しゅく、これを俗に三宿さんしゅくと申しまして、そろ〱難所なんじょへかゝります。三国峠みくにとうげへ差しかゝりました文治と妻お町の二人連れ、

文「漸ようようのことで國藏、森松、亥太郎の三人を言い伏せて出立いたしたが、いや藤原は身内のこと、まして侍だが、町人三人の志、実に武士も及ばんなア、さぞ〱後あとで怨んでいようが、苟かりそめにも親の仇討あだうちに出立する者が、他人の助力を受けたとあっては、後日世間の物笑いになるからな」

町「はい、実にお留守中も貴方あなたがおいでの時と少しも変りなく、朝夕まいりまして一方ひとかたならぬお世話をして下さいました」

文「左様かな、併しかし今日こんにちは霜月しもつきの中日ちゅうにち、短日たんじつとは云いながらもう薄暗くなったなア」

町「はい、少し雪催ゆきもよおしで曇りました」

文「山中さんちゅうは寧いっそ人に逢わぬ方が心安い、眼前に大事を控えた身でなくば、さぞ此の景色も佳よいであろうがな」

町「左様でございます、併し今夜はお寒うございますから、早く泊りへまいり度たいものでございます」

文「そう〱三国峠を越えれば浅貝宿あさがいじゅく、三里で泊るのは少し早いが、浅貝宿へ泊るとしよう」

と話しながらまいりますと、二人の舁夫かごやが、

舁「えゝ、もし〱旦那え、私わっちどもは三俣みつまたまで帰るものですが、尤もっとも駕籠は一挺いっちょうしか有りませんが、お寒うござんすから、奥様ばかりお召めしになったら如何いかゞでござんす、二居ふたいまで二里八丁、いくらでも宜しゅうございます、空荷からにで歩くと却かえって寒くて堪たまりません、女中衆一人ぐらい何なんの空籠からかごより楽でござんす、ねえ旦那、乗って下せえな」

文「いや、もう私わしは浅貝で泊る積りだ、折角だがいらんよ」

舁「えゝ、旦那え、今日は雪空のようでございますが、此の峠は冬向ふゆむきは何時いつでも斯様こんな天気でござりやす、三里でお泊りも余りお早うござんす、二居までお供を致しやしょう、えゝ旦那、失礼ですが二百文もん下さいまし、後あとの宿しゅくで一口やって最早もう一文なしでござりやす、えゝ、もう向うへ浅貝が見えます、それから只たった二里八丁、今までのような山阪やまさかではござりません、えゝ奥様え、お足から血が出ましたね」

と二人の舁夫は煩うるさく附纒つきまとうて勧めて居ります。

二十三

文治はお町の足から血が出ると聞きまして、

文「町、何どうした、足が冷ひえるから一寸ちょっと躓つまずいても怪我をする、大分だいぶ血が出るな、足袋たびを脱いで御覧」

町「いゝえ、少しも痛みはしません、何なんの貴方、長い旅に是しきの事で然そう御厄介ごやっかいになりましては、思ったことが遂げられませぬ」

文「これ〱舁夫かごや、駄賃だちんは幾許いくらでもやるから浅貝の宿しゅくまでやって呉れ」

舁「へえ〱、なアに駄賃なんざア一合で宜しゅうござりやす、さア奥様お召しなせえ、駕籠の中でお足を御覧なせえまし、大した疵きずじゃアございやせん」

と急いでまいりますと、程なく浅貝宿。

文「御苦労々々もう宿しゅくへ来たの、此処こゝで下おろしてくれ」

舁「旦那え、余りお早いじゃアありませんか、此の通りの道で只たった二里八丁、二居宿ふたいじゅくまで遣やりましょう、それとも日のある中うちにお泊りなせえますか、ねえ奥様、如何いかゞで」

町「旦那様、貴方さえ宜しくば私わたくしは一宿も先へまいる方が宜しゅうございます」

舁「えゝ旦那え、二三日ち中うちに大雪かも知れませんぜ、雪の無ねえ中に峠を越した方が宜しゅうござんしょう」

文「左様か、二里三里思案したところで足しにもなるまい、舁夫、急いでやるかな」

舁「へえ、有難う存じます、さア此の肩で棒組、確しっかりしろよ」

棒組「よし、どっこいさ、旦那少し急ぎましょう」

文治は二居までに峠はあるまいと思いますと、此の二里八丁の路みちは山ばかりで中々登るに骨が折れます。さりとて途中で引返ひっかえすことも出来ず、駕籠に附いてまいります中うちに、吹雪が風にまじって顔へ当ります。舁夫は慣れて居りますから、登るに従って却かえって足が早うございます。やがて火打坂ひうちざかと申す処へ来かゝりますと、向うから一人いちにんの旅人、物をも云わず摺すれ違いました。文治は心にも懸けず遣やり過しましたが、二三丁まいりますと、一人いちにんの旅人が素すッ裸体ぱだかで杉の樹きに縛くゝり付けられ、身体は凍えて口もきけず、がた〲震え上って居おる体ていを見るより、舁夫は、

「やア大変だ、旦那〱」

文治もこれを認めまして、

文「これ〱舁夫、その駕籠は二三間げん先へ置けよ」

舁「成程、女中衆にこんな物を見せては」

と云いながら五六間けん先へ駕籠を下おろしまして、一人いちにんが附添い、一人いちにんが帰って来まして手を合せ、

舁「旦那様、何どうぞ助けてやって下さいまし」

文「山賊の仕業しわざと見えるな、何しろ恐ろしい奴もあるもんだな、これ舁夫、駕籠は何どうした」

舁「舁」は底本では「文」と誤記「へえ、直じき其処そこへ下しまして棒組一人ひとりを附けて置きました、御安心なせえまし」

文「そうか」

と文治は手早く差添さしぞえを抜き、その縄を切解きりほどきまして、

文「文」は底本では「舁」と誤記「おい舁夫、水はないか、そこらに水溜りがあるなら手拭を霑しめして来い」

舁「御覧の通り此処こゝは山の上で、水は少しもありませんが、一体何どうしたんでしょう」

文「知れた事、追剥おいはぎよ、何なんとかして水を見付けてくれんか」

舁「地蔵様の前に水がありますが、凍こおり切って居りやす」

文「その氷を持って来い」

文治は懐中より薬を取出し、旅人の口へ入れて氷を含ませ、

文「旅人々々」

と呼ばれて漸ようやく気が付きました。

旅「ウ、ウ、ウーム」

文「旅人、気が付いたか、確しっかりしろ」

旅「有難う存じます」

文「定めし山賊の仕業であろうな」

旅「ウヽヽヽウ、おゝ苦しい」

文「金子も衣類も取られたか」

旅「皆取られてしまいました、今しがた二三の山賊が其処そこらに居りました」

文「山中とは申しながら、日中にっちゅう旅人の衣類金銭を剥はぐとは恐ろしい奴だなア」

旅「私わっちもこんな目に遇あおうとは夢にも思いませんでした」

舁「これ旅人、その追剥は何方どっちへ逃げたか知らねえか」

文「いやさ舁夫、知れたところが己おれが追掛けて往って捕まえるという訳にも往ゆかぬ、併しかし其方そちも素ッ裸で、嘸さぞ寒かろう、あの舁夫、其方も裸体はだか同様だが、今の駕籠の中に少しの包つゝみがあるから持って来てくれんか」

舁「私わっちも寒さが身に泌しみて、動けそうもござりやせん」

文「そうか、それじゃア気の毒だ、そんなら一寸ちょっと己が往って来よう」

半丁ばかりまいりましたが、駕籠は何処どこに在あるのか影も形も見えませぬ。

文「お町や、お町」

と呼べども一向応こたえはありませぬ。

文「何処どこへ駕籠を下おろしたのか知らん、あの舁夫に聞いたら分るだろう」

と気遣いながら元の処へ引返ひっかえしてまいりますと、何いずれへ行ったか旅人も舁夫も居りませぬ。

文「さては奴らは山賊の同類か、して遣やられるとは浅はかな、汝おのれ、この分には棄置かぬぞ」

と又取って返してお町の乗りました駕籠の跡を追掛けてまいりましたが、いくら往ゆきましても姿が見えませぬ。それも其の筈道が違いますので、駕籠は五六間先へ下おろすや否や、待伏まちぶせして居りました一人いちにんの盗賊が後棒あとぼうを担かつぎまして、

舁「えゝ御新造さま、旦那様は泥坊を捕おさえると云って後あとに残っておいでなさいます、駕籠は二居の宿しゅくまで遣やって置けと仰しゃいましたぜ、さア棒組、急げ〱、少し雪がやって来たようだぜ」

と頻しきりに急いでまいりまする。

二十四

お町は舁夫のいうことが能よく分りませぬから、

町「舁夫さん、旦那様は何どう為されたと云うのです」

舁「あの、樹きに縛られて居た旅人の着物や金を取返してやると云って、盗人ぬすびとの跡を追掛おっかけて行かしった、もう今頃は浅貝あたりへお帰りになりましたろう、旦那の云うにゃア、奥様に斯こんな物を見せちゃア悪いから、一足先へ二居までやってくれろと、こう仰しゃいました」

町「いえ〱、旦那より先へ往ゆくことはなりません、どうぞ後あとへ返して下さい」

舁「まア折角旦那が先へやれと仰しゃってたものを、後へ帰ると泥坊が居りますよ」

町「いえ〱何が居ても構いません、後へ〱、何故そう急ぐのです、私はもう飛降りますよ」

舁「やい女郎めろう、静かにしろ、もう後へ往いくも先へ往くもねえ、此処こゝは道が違わい、二居ふたいヶ嶺みねの裏手「裏手」は底本では「裹手」と誤記の方だ、猪いのしゝ狼おおかみの外ほか人の来る処じゃア無ねえや、これから貴様を新潟あたりへばらすのだぞ」

町「さては汝なんじらは山賊か、無礼いたすな、たとい女であろうとも武士の女房、彼是いたすと棄置かんぞ」

と懐剣の柄つかに手を掛けるより早く、「どッこい、然そうは」と後うしろから抱締めました。

町「あいたゝ」

舁「虎藏とらぞう、其の手を確しっかり押えて居ろ」

と二人掛りでとうとうお町を押え付けました。最前からの山冷やまびえにて手足も凍え、其の儘に打倒うちたおれましたが、女の一心、がばと起上り、一喝いっかつ叫んでドンと入れました手練しゅれんの柔術やわら、一人の舁夫はウームと一声ひとこえ、倒れる機はずみに其の場を逃出しました。ところが一人の舁夫が追掛おっかけて参りますので、お町は女の繊細かぼそき足にて山へ登るは適かないませぬから、転げるように谷へ下おりました。続いて後あとから追掛けて来ました盗人は、よう〱追付おっついて、ドンとお町の脊中せなかを突きましたから、お町はのめる機はずみに熊の棲すんでいる穴の中へ落ちました。穴は雪の為に入口を塞ふさがれて居りますから、表からは見えませぬが、手を突くはずみに、土の盛ってある処を突破つきやぶり、其の儘穴の中へころ〱〱。熊の棲む穴にはいろ〱種類がありまして、また国々によって違いますが、多くは横穴でございます。縦に深く掘ろうと思いましても土を出すことが出来ませぬから、横へ〱と深くなりますので、或あるいは天然の穴を利用するのもありますが、これは大きな井戸の如き穴を利用したのでございますから、深さは十四五間けんあります、底にはいろ〱な柔かな物が敷いてありまして、其の上に熊の児こが三四匹居りました。親熊は其の物音に驚き、落ちた女に構わず、一散いっさんに飛上って件くだんの盗人を噛倒かみたおし、尚お驚いて逃出そうとする一賊の後うしろから両手を伸のばして噛かじり付き、あわや喰殺し兼まじき見幕けんまく、山賊も九死一生きゅうしいっしょうの場合ですから、持合しましたお町の短刀、熊を目がけて打付けましたが、短刀は外それて熊の穴へ落ちました。熊は二人ににんの旅人を谷底まで打落しまして、子が気に懸ると見えて、すぐと穴の中へ飛んで帰りました。此方こなたのお町は隅すみの方に蹲うずくまり、両手を合せて一心に神仏かみほとけを念じて居りますと、何か落ちて手の甲に当りました。何かしらんと取上げて見ますと、自分が所持の懐剣、幸いに柄つかの方が手に当りましたので怪我も致しませぬ。お町は胸中に

「こりゃ私が所持の短刀、これを持って熊か猪しゝかは知らぬが殺して出よという、神様のお告つげか知らん、あゝ有難し有難し、いや併しかし此の穴の深さは何どのくらいあるか知れぬ、殊ことに獣けものも沢山いる様子ではあり、迂濶うかつな真似をして此の身を害そこなってはならぬ、いよ〱一命が危あやういという時にこそ、この短刀を持って突殺してくれよう、それまでは獣の様子を見ましょう」

と短刀を懐中に隠して、隅の方へ小さくなって居りますところへ、熊が飛返ってまいりまして、正面からお町の顔を見て居おる其の物凄ものすごさ、両眼烱々けい〱として身を射らるゝの思い、普通なみの婦人なら飛掛って突くのでございましょうが、流石さすが文治の女房、胆力も据すわって居りますから、じっと堪こらえて此方こなたも熊を見詰めて居りまする。熊はだん〱近づいて、今度はお町の顔となく手となく嗅ぎ始めました。お町はいよ〱気味が悪くなって突こうかと思いましたが、この時は日の暮方くれがたで、穴の様子も確しかと分りませんから、じっと辛抱して、いよ〱となったら突いてくれようと身構えて居りまする其の恐ろしさは何なんに喩たとえようもございませぬ。暫くして熊は後あとへ退さがり、しず〱と児この側へ往ゆきましたから、お町も少し心を落着けまして、人に物をいうような静かな声で、

町「これ、そちは私を何なんと思うぞ、くれ〲も猟人かりゅうどではない、また悪人でもないぞよ、山賊のために追掛けられ、過あやまって此の穴へ落ちたのじゃ、決して其方そちに手出しはせぬ、どうぞ私を助けてくれ、これ熊よ、私は此の通りの扮装なりで居おるぞよ、夜よが明けたら穴の様子を見て、どうぞして此の穴を出るゆえ、心あらば助けてくれよ」

と両手を合せて頼みました。

二十五

無心の熊もお町の言葉を聞分けしか、児こを抱いたまゝころりと寝た様子でござります。お町は漸ようやく安堵あんどして、其の夜は神仏しんぶつへ願がん掛けて、「八百万やおよろずの神々よ、何卒なにとぞ夫文治郎に逢おうて敵かたきを討つまで、此の命を全まっとうせしめ給わるように」と瞬またゝきもせず夜よの明くるまで祈って居りました。其の中うちに冬の夜よの明方あけがたと見え、穴の口より少し日が映さして居りますが、四辺あたりはまだ暗がりで未まだ能く見えませぬ、まるで井戸の中へ這入ったようでござります。恐る〱四方を捜さぐって見ましたが、少しも足掛りはなし、如何いかゞせばやと胸騒ぎいたしましたが、余り騒いで熊が目を覚さまし、噛付かれてはならぬと思案に暮れて居ります中うちに、もう夜よは明けたに相違ござりませんが、何処どこから上ろうという足掛りもございませぬ。

町「あゝ、世に私ほど不幸なものはあらじ、図らずも夫文治が赦免という有難き日に親の敵かたきを知り、多年の欝憤うっぷんを霽はらさばやと夫と共に旅立ちして、敵討かたきうちの旅路たびじを渡る山中にて、何なんの因果か神罰か、かゝる憂目うきめの身となりしぞ、たとい此の身は何どうなるとも夫に逢わで死すべきか」

と思わず独語ひとりごとした其の物音に熊は起上り、暫く四辺あたりを見廻して居りましたが、何思いけん、また穴の入口を目がけ、ひらりと飛上りました。

町「いや、熊が私に噛付かぬは神仏のお蔭か、但たゞしは友を呼びに往ゆき、帰って私を殺す気か、いよ〱噛付く様子なら、私が命のあらん限り突いて〱突殺してくれる、それまでは何事も」

と少しも体たいを崩さぬよう身構えて居りました。文治は其の夜二居ヶ峰みねの谷々まで根こん限り尋ねましたが、少しも足が付きませぬ。その筈でございます、雪は益々降頻ふりしきり、いやが上に積りまして、足跡とても見えぬくらい、谷々は只真っ白になって少しも様子が分りませぬ。其の中うちに長き夜の白々しろ〲と明渡りまして、身体はがっかり腹は減る、如何いかゞせばやとぼんやり立縮たちすくんで居りましたが、思い直して麓ふもとの方へ下くだりました。二居ヶ峰の中の峰より二里半、三俣みつまたという処まで来ますると、宿しゅくはずれに少しばかり家はござりますが、いずれも門かどの戸を閉切たてきって焚火たきびをして居ります様子、文治はその家の前に立ちまして、

文「もし〱、少々お願い申します、私は旅人でござるが、大雪に難儀を致します故、お助けを願います」

と戸を叩きますと、内より一人の老人、

「あゝ旅の衆か、この雪で御難渋なさるとは、そりゃ気の毒だ、さア明きますからお明けなせえ」

文「はい、有難う存じます」

老「やれ〱此のお寒いのに宜よくお一人で峠をお越しなさいましたな、さア〱火の側へ其の儘お出でなせえまし、やア貴方はお武家様でござんすな、これは御無礼、御免下せえましよ」

文「何どうぞお構い下さるな」

と炉端に両手を出したまゝ、暫く口もきけませぬ様子。

文「当家には鉄砲が掛けてあるが、猟人かりゅうどではござらぬか」

老「はい、左様で、忰せがれが只今出掛けましたがな、此の辺では猟人でなくても鉄砲が無くちゃア一夜でも寝られやアしません」

文「何方どちらを向いても山ばかり、恐ろしい獣けものでも来ますかな」

老「左様さ、獣も折節おりふし来ますが、第一泥坊が多いので困るでがす」

文「はゝア、そんなに盗人ぬすびとが来ますかな」

老「併しかし私わたくしどもには金も衣物きものもないと知って居ますから、金を取りに来やアしませんが、火打坂や二居ヶ峰あたりで、旅人を殺したり追剥をしたりしちゃア此処こゝまで来て、真夜中に泊めてくれと云って時々戸を叩くでがす、さア明けねえと打毀ぶちこわすぞなんて威おどしますからな、其の時にゃア此の鉄砲を一発やるだね」

文「はゝア、して見ると此の辺は盗人の往来と見えますな」

老「時々女が担かつがれたり、旅人が裸体はだかで逃げて来るでがす」

思わず文治は、

文「さては其奴そいつらにやられたか、えゝ残念」

と聞いて老人、

老「旦那様、お連れの方でもやられましたか」

文「はい婦人を一人」

老「道理で昨夜ゆうべ、曲者らしい奴が二三人、往ったり来たりして居やした様子」

文「その人体にんていはどんな者でありました」

老「なアに戸を締めて置きやしたから分りやせんが、また何か仕事をしやがったと思いました」

文「その曲者は何方どっちへ往った様子ですか」

老「いやそれは確しかと分りやせんが、多分下手しもての方へ往ったかと思いやした」

文「然しからば長岡か新潟辺かな」

老「先まず六日町むいかまちから十六里、船に乗って長岡か新潟あたりへ持って往ゆきましてな、それから着物は故買屋けいずやへ売り、女は女郎町へ売るそうだが、早くお殿様から手を廻して捕まえて下されば宜よいが、時々取逃すので困るでがす」

文「此の辺は矢張やはり榊原式部さかきばらしきぶ殿の領分でござろうな」

老「いや此の辺はお代官持もちで、公方様くぼうさまから沙汰が無ねえば手え入れられねえでがす」

文「何なんと御無心だが飯はありますまいか、昨夜はまんじりともせず、食事も致さぬ故、如何いかにも空腹で堪たまらぬが、一飯いっぱん助けてくれまいか」

老「へえ、お安いことで有りやすが、飯を炊きかけて居ります、少し有った飯はな、忰が皆猟に持って往ったでな、少しも無ねえだ」

二十六

この時文治は、

文「御子息が猟師ならば、此の辺の山道やまみちは委くわしく存じて居りましょうな、今から御子息を尋ねて往って、今一度此の辺を捜して見たいが、御子息は何方どちらの方へお出でか、分って居りましょうな」

老「さアとても分りやせん、分ったにしたところで、この雪じゃアとても尋ねて往ゆくことは出来ねえだ、雪解ゆきとけまで待たざアなりますめえ、幸いお女中が無事で居なさりゃア、此の辺に居る気遣きづけえは無ねえね、越後か上州へ連れて往いかれたに違ちげえねえだ」

文「成程、それも尤もっとも、何なんしても腹が減って堪たまらない、飯が出来たら一飯いっぱん売ってはくれまいか」

老「えゝ旦那様、麦飯ですが宜ようござりやすかね、とても不味まずくって喰えるもんじゃア無ねえだ、それよりか此の先へ半里はんみちほど往ゆきやすと、三俣という町があって、宿屋もあるし飯もあるべえから、我慢して其処そこまで往いきなせえまし」

文「いや大事ない、ひもじい時に不味まずい物なし、是非一飯売って貰いたい、大分だいぶ身体も暖まって来た」

と御飯の出来るのを待って居りますと、

老「旦那様、お飯めしが出来やしたが、菜さいは何もありませんぜ、只玉味噌たまみその汁と大根のどぶ漬があるばかりだ」

文「何なんでも苦しゅうない、そんなら一飯頂かして下さい」

と文治は漸ようよう飢うえを凌しのぎまして、

文「これ〱親父殿おやじどの、これは些いさゝかであるが、ほんのお礼の印だ」

老「やア旦那様、こんなに頂いちゃア済まねえな」

文「どうか受納して貰いたい」

老「はい〱恐入ります、有難う存じます」

文治は支度そこ〱猟師の家を立去りまして、三俣へ二里半、八木沢やぎさわの関所、荒戸峠あらどとうげの上下じょうげ二十五丁、湯沢ゆさわ、関宿せきじゅく、塩沢しおざわより二十八丁を経て、六日町へ着ちゃくしました。其の間あいだ凡およそ九里何丁、道々も手掛りの様子を聞きつゝまいりますこと故、なか〱捗取はかどりませぬ。夕景漸ようやく六日町に着しますと、松屋仙次郎まつやせんじろうという商人宿がございます、尋ね物をするには斯こういう宿に若しくはないと考えて、宿の表に立ちかゝりますと、

下女「お早うござりやす、お寒うござりやす、只今お湯を上げやす、えゝ内の旦那どん、お客あはアお侍様だが、此間こねえだ見たように座敷が無ねえとって、グザラしっても困りやすのう」

文「いや〱、皆々と同席でも大事ない」

女「はアそうけえ、お湯へ這入へえりますけえ」

文「都合で何どうでも宜よい」

女「さア此処こけえお上んなせえまし、お荷物を持ってめえりやしょう」

文「もう宜い〱……これは皆さん御免下さい、御一同お早いお着きですな」

旅人「これは〱旦那様、さア上座かみざへお坐りなせえ」

文「何どう致して、後あとからまいって上座じょうざは恐入る、私は何分なにぶんにも此の寒さに耐こたえられないから、なるたけ囲炉裏の側へ坐らして貰いたい、今日の寒気かんきは又別段ですなア」

旅「旦那様、お一人でごぜえますか」

文「はい、連れがありましたが、途中ではぐれて誠に心配して居ります、もしや貴方あなたがたは女を一人お見掛けなさいませんか」

旅「へえ旦那様もお女中連づれかね、やっぱり女ア連れて逃げてござらしったのけえ」

文「これは怪けしからぬ、連れと申すは私の女房でござります」

旅「あゝ左様かね、その女あ泥坊に勾引かどわかされて新潟へ売られてしまいましたよ」

文「さては貴方は其の女を御覧になりましたか」

旅「知ってますとも、年の頃二十五六で……」

文「左様々々」

旅「江戸っ子で色の白い、好いい女でありやした、だん〱話を聞いたところが、今こそ斯様「斯様」は底本では「斯斯」と誤記《こん》な零落おちぶれているが、昔は侍の娘だと云って大変溢こぼしていやした、余あんまり気の毒だから、私わっちやア別に百文気張って来ました」

文「それは何時いつのことですか」

旅「先月十日頃、新潟で遊んだ女です」

文「いや、それは違います、私の申すのは昨日きのうのことです」

旅「はゝあ昨日、また其様そんな事がありましたかね、何方どっちの方へ連れて行って何処どこへ売ったのでしょうか」

文「これはしたり、それが知れぬからお前さんに尋ねるので……」

旅「はア左様けえ」

文「外ほかのお客様にお尋ねしますが、此の辺では左様なことが度々たび〱あるのでござりましょうか」

乙「どうも此の辺は物騒な処で、冬向ふゆむき女連おんなづれや一人旅では歩けませぬ、折々勾引かどわかしや追剥が出ます」

文「成程、その品物や女は何処へ売捌うりさばくのですか、御存じありますまいか」

旅「まア重おもに新潟へ捌くそうで、何しろ新潟は広いから、一寸ちょっと気が付きませんからな」

丙「此の間新潟の者の話に、海賊の大将が沖にいて、その子分達が女や金を奪って持ち運ぶとかいうことで、それで此の頃御領主様から船頭の達者なものと剣術の先生を欲しいと云って、江戸屋敷へ御沙汰になったそうでございます」

文「成程、これから新潟へ往ゆくには船で往く方が便利でしょうな」

旅「はい、これから船で十六里、長岡へ着きまして、それから又船で十五里、信濃川しなのがわを下くだって新潟へ着くのでございます」

文「左様か、それは千万辱かたじけない」

と翌日あくるひは意を決して新潟へ往ゆく支度をして居ります。御案内でもございましょうが、十六里、十五里とも川舟かわふねで、夜に掛って往くのでございます。

二十七

さて文治は漸ようやく新潟に着きまして、古手町ふるてまち秋田屋清六あきたやせいろく方へ泊り、早速主人を呼びまして、

文「御主人外ほかの事ではないが、自分は仔細あって当地の海辺を見物したいと思うが、船の都合は何どういうものであろうな、それに就ついて途中で様子を聞くと、海賊が船中に忍んで居って此の辺を荒すということだが、そんな事もあるものかな」

主「左様さまでしけえ、そんな噂をしやすもんな有りやすが、誰も是だアと云うものを見たもんが無ねえすけに、まア分りやしねえ」

文「併しかし、そんな噂をいたす者もあるかなア」

主「いえはアえらく有りやす、お上様かみさまでもえれい船頭と剣術遣つかいが有らば宜よいと、尋ね居おるだてえ話がありやした」

文「噂があれば尚更のこと、海辺見物の船を出して貰いたいが、何どうじゃな」

主「いえ、それが往いけやしねえ、二三日沖は荒れ通していやす、まア一降り降りやすか風が変らねえば、とても沖へ出ることはなりやせん」

文「はゝア、然しからば舟子ふなこが出ぬのかな」

主「いくら銭を出しても命にゃア替えられねえと云って、往いく者がありやせん、まア二三日逗留とうりゅうなさるが宜よいね、また海でなくともへえ見物場けんぶつばアえらく有りやすでえ」

文「そういう訳では何どうも致し方がない、事によると二三日厄介になるかも知れぬ、兎も角も御飯の支度をしてくれんか」

主人はにこ〱笑いながら、

主「へえ御機嫌宜しゅう、こりゃアお客様に飯を上げろえ」

後うしろの襖ふすまを開けまして、年の頃四十前後の飛脚体ひきゃくていの者、旅慣れた拵こしらえにて、

旅「えゝ御免下せえまし、只今隣で聞いて居りますと、海辺を御見物なさりてえと亭主へお頼みなさりましたが、宿屋てえもなアいやはや狡ずるいもんでしてね、三四日か御逗留を願ねげえてえもんだから、あんな事を申しやす、私は此の辺を歩きます旅商人たびあきんどで、こゝらの船頭に幾干いくらも知った者がありやすから、直すぐに頼んで上げましょう、併しかし旦那ア、こりゃア亭主に云わねえ方が宜ようござりやすよ」

文「それは御親切な事で、併し今も亭主から聞きましたが、大分此辺こゝらに盗人ぬすびとが居って、婦人などを勾引かどわかすとか申しますが、全く左様な事があるのでございましょうか」

旅「専もっぱら然そういう評判を致す者があります、併し私は年来此処こゝらを歩いて居りやして、大抵の事は知って居りやすが、まア新潟には無ねえようでございますね、尤もっとも海岸は広うござんすから、確しかとお請合うけあいは出来ませぬが、まア此辺こゝらは天領でござんしてな、存外御政治も行届ゆきとゞいて居りやすから、そんな事アありそうもござんせぬ、何なんなら舟人ふなびとを頼んで上げましょうかね」

文「併し見ず知らずのお前様に、御苦労を掛けるも気の毒でござるな」

旅「なアに直じき其処そこでございます、ちょっくら序ついでもありますから、じゃア往ってまいりましょう」

文「それはお気の毒な、宜しくお頼み申します」

出て往ゆく後姿うしろすがたを見送って、文治は手を鳴らし、

文「これ〱亭主」

亭「へえ、何御用で」

文「今出て行った客は当家へ折々泊る客か」

亭「よく見掛ける人でござりやす」

文「ふうむ、聞けば旅商人たびあきんどということじゃが、渡世とせいは何なんだか知っておるか」

亭「左様、どうも能よう分りませんね、旦那何かお頼みなら、まア止すが宜ようござりやす」

文「ふうむ、分らぬか」

亭「へえ、どうも世間じゃア余あんまり好よく申しやせんが、お客様ゆえ断る訳にも往ゆきやせんで、お泊め申して置くとは云うものゝ、実は持余もてあまして居おるんでやす、後あとが恐こおうござりやすからなア」

文「なに、後が恐い、ふうむ何なんだ、恐いというのは」

亭「意趣返しが……はア今に帰るべえに、私わしが此処こゝにいたら、又酷ひでえ目に逢わねえとも云われやせん、まアお気をお付けなせえまし」

文「はゝア、彼奴あいつは譬たとえにいう護摩ごまの灰はいか、よし〱承知した」

と心の中うちに頷うなずいて思案して居ります処へ、例の旅商人が帰りまして、何か主人と話をして居りましたが、それから直ぐ奥へまいりまして、

商「旦那え、舟人ふなびとたちに聞合きゝあわせますと、陸おかと沖とは余程違ったものだそうですが、二人頼んでまいりました」

文「違うと申して幾ら呉れというのか」

商「一日一貫文いっかんもん、其の代り御祝儀ごしゅうぎには及びません」

文「それは〱千万お手数てかずであった、これ〱亭主」

亭「へえ」

文「いよ〱明日あすは見物に出掛ける所存だ、これは誠に少々だが、お茶代じゃ」

亭「へえ、有難う存じます、併しかし旦那、明日はまだ沖合が何どうでございましょうかな」

商「あ、これ〱主人、旦那が往いこうと仰しゃるのに何なんだ、入らざるお世話をして、引込ひっこんで居れ」

亭「へえ〱、旦那お支度をなさいまし、随分お支度を……」

と心ありげに立ち去りました。文治はそれと悟り、蛇じゃの道は蛇へびとやら、此奴こいつを楷子はしごにしたらお町の様子が分らぬ事もあるまい、また敵かたきの様子も知れるであろうと十分に心を用いて、翌日船に乗込む事に取極めましたが、これぞ文治が大難に逢うの基もとでございます。

二十八

さて文治は船頭を二人雇うて乗出しますると、

舟子「旦那、心配しなさるな、私わしらが二人附いていりゃアどんな風でも大丈夫でがす、陸おかを行くよりも沖の方が宜いいくらいで、やい吉きちい確しっかりしろ」

吉「よし、やッ、どっこいさア」

だん〱漕こいでまいりますと、俄にわかに空合そらあいが悪くなりまして、どゝん〲と打寄する浪は山岳の如く、舟は天に捲上まきあげられるかと思う間もなく、ごゝゝゝごうと奈落ならくの底へ沈むかと怪しまるゝばかり、風はいよ〱烈はげしく、雨さえまじりてザア〱〱ドドドウという音の凄すさまじさ、大抵の者なら気絶するくらいでございます。

文「もう斯こうなったら仕方がない、二人とも確しっかりやれ」

と文治も一生懸命であかを掻出かきだして居ります。烈風ます〱猛たけり狂って、黒雲くろくもの彼方かなた此方こなたは朱しゅをそゝいだようになりました。船頭はこれを赤じまと申します。何方どっちが西か東か一向見分けも付かぬくらいで、そこらに船でもあれば、船は微塵みじんと砕けるは必定ひつじょう、実げに三人の命は風前の燈火ともしびの如くであります。流石さすがに鉄腸強胆てっちょうごうたんな文治も、思わず声を挙げまして、

「不幸なる我が運命、何卒なにとぞ敵かたきを討つまでは、文治が命をお助けあれ、神々よ武士の一分いちぶん立てさせ給え」

もう斯こうなっては何人なにびとも神仏を頼むより外ほかに道はございませぬ。二人の船頭も大声を挙げて思い〱の神々を祈って居りますが、風雨は一向歇やむ模様はございませぬ。

吉「もう兎とてもいけやせん、日頃悪事の報いか、魚うおの餌食えじきとなるは予かねての覚悟だ、仕方が無ねえ、南無阿弥陀仏〱」

庄「えゝ縁起の悪い奴だ、何を云ってやがる、手前てめえや己おらア生れて此方こっち悪事を働いた覚えは無ねえ、確しっかりしろえ、舟乗稼業ふなのりかぎょうは御年貢ごねんぐだ、旦那アまだ宜しゅうごぜえやす、どうぞ神様をお頼み申して下せえやし」

と三人とも手に手を尽して漕いだ甲斐もなく、とうとう日は暮れて四方八方黒白あやめも分らぬ真の闇、併しかし海は陸おかと違いまして、どのような闇でも水の上は分りますが、最早もはや三人とも根こん絶え力尽きて如何いかんとも為せん術すべなく、舟一ぱいに水の入った其の中へどッかり坐って、互に顔を見合せ、只夜よの明けるのを待つのみでございますが、そうなると又長いもので、中々夜が明けませぬ。運を天にまかして船の漂うまゝに彼方あちらへ揺られ、此方こちらへ流されて居ります内に、東の方がぼんやりと糸を引いたように明るくなりました。さては彼方が東か知らん、夜が明けたら少しは風も静まるであろうと思いの外ほか、明るくなっても風は止まず、益々烈はげしく吹いて居りまする。三人とも心付いて見ると、櫓櫂ろかいも皆吹流されてしまいました。

船頭「やア、これじゃア風が止んだって何処どこへも往ゆかれることじゃねえ、情なさけねえな、吉、もう是までの運命と諦めろ」

文「まア〱待て、決して短気な事をしては成らんぞ、今にも大船おおぶねが通らぬとも限らぬ、又異国の船でも此の難儀を見れば助けてくれるは人情だ」

と云って居ります中うちに、風は漸ようやく凪ないでまいりました。

文「やア大分風が静かになって来た、これで天気になったらば、また助ける風も吹くであろう、死ぬも生きるも約束だ、各々おの〱確しっかりしろよ」

船「有難うござりやす、旦那の方が気が丈夫だ、こうなっちゃア人間業わざで助かる訳にゃア往いかねえ、どうか旦那、神様を信心して下せえ」

文「そち達も信心が肝要だぞ」

吉「なアに此方こちとらア信心したって神様が……」

庄「やい何を云うんだ、確しっかりしろよ、気が違ったか、心を改めて信心するが肝心だ、ねえ旦那」

文「そうとも〱、それ天気になった、風も止んだぞ」

庄「やア、こりゃア有難ありがてえ、これと云うのも信心のお蔭だ、何なんしろあかを掻かざアなるめえ」

吉「だって、あか掻かきも何も流されてしまったじゃアねえか」

時に文治は、

文「よし〱、こゝに宜よい物がある」

吉「へえ、宜い物って何なんですか」

文「宿屋から持って来た弁当箱がある」

吉「何処どこに」

文「此の通り腰にぶら下げて居おる、飯も菜さいも沢山あるが、これを明けてから気長に掻い出そうじゃないか」

吉「旦那、飯をお棄てなせえますか、そりゃア勿体ねえ、これから何日食わずに居いるか知れやしねえ、旦那、勿体ねえじゃ有りませんか」

文「いや私わしは食べとうない」

吉「旦那、棄てるのなら私わっちに下せえまし、弁当も何も此の暴風あらしで残らず流してしまったア、旦那が上らねえなら私どもに下せえな」

文「いや〱これは食わぬ方が宜よかろう」

両人「なアに勿体ねえ、少しぐらい汐しおが入っても此の場合だ、飯と聞いちゃア食わずには居いられねえ、何どうか下せえな」

文「そんなら上げもしようが、中あてられるなよ」

吉「大丈夫、さア庄しょう、あかは後あとにして先ず二人で遣付やっつけようじゃねえか、成程こいつア中々旨うめえ」

と二人とも十箇とおばかりの握飯むすびと菜さいまで残らず食しょくしてしまいました。

二十九

吉「さア重箱が殻からになった、これから気長にあか掻をするんだ」

文「これ〱重箱の毀こわれぬよう静かにやってくれよ」

暫くすると船の底の見えるように掻い干しました。

吉「さア、これから船を動かす道具だ、何も彼かも皆みんな流して始末に往いかねえな、えゝ旦那え、此の木をお刀で割って下せえな、少し柄えの方を細く削って下さいまし」

文「櫂をこしらえるのか、成程手頃の棒だ」

と文治は脇差を抜きまして、

文「こうか、これで宜よいかな、これ〱手を出しては危い、さアこれで宜いだろう」

庄「旦那ア、貴方あなたア些ちったア道具ごしらえをやった事があると見えますな、それで結構でござりやす」

文「これ〱船頭、遥か向うに黒く見えるものがあるが、ありゃ国か島か」

両人は飛上って、

「やア有難ありがてえ、島だ〱」

文「あの島は何処どこだろう」

庄「昨夜ゆうべから大分暖かになりましたから、余程南へ流されて来たに違ちげえねえ、何しろ新潟の河岸かしを離れてから昼夜三日目、事に依よったら唐からまで流されて来たかも知れねえなア」

文「ウム、そうかも知れぬ、併しかし何処どこの国でも人鬼ひとおには居らぬ、こういう訳で難渋するからと頼んだら助けてくれぬ事もあるまい。さア一生懸命でやれ〱」

文治も手伝って船を漕ぎますが、どうも手ごしらえの櫂といえば櫂、棒同然な物で大海たいかいを乗切のっきるのでありますから、虫の匍はうより遅く、そうかと思うと風の為に追返されますので、なか〱捗取はかどりませぬ。其の内に何処どこかの岸へ近づきました。

文「やれ〱信心のお蔭でいよ〱命が助かったぞ、おい船頭、何どうぞしたか」

庄「ウム〱ウーム、旦那々々……旦那……苦しい、薬があるなら早く〱」

吉「これ庄藏、確しっかりしろえ」

文「これ、庄藏とやら、気を確かり持てよ」

と云いながら、手早く印籠いんろうより薬を取出して、汐水しおみずで庄藏の口に含ませましたが、もう口がきけませぬ、其処そこら辺あたりへ取付きまして苦しむ途端に、固まったような血をカッと吐きまして、其の儘息が絶えた様子。

文「吉公、可愛相なことをしたの、とうとう死んでしまった、折角骨を折って此処こゝまで漕付こぎつけて、もう一丁も行ゆけば国か島かへ上あがれるものを、一体何どうしたのか知らん」

吉「今、私わしどもが喰った弁当は宿屋から呉れましたか、それとも小頭こがしらか、いやさ彼あの相宿あいやどの者がくれたのですか」

文「飛脚体ひきゃくていの旅人が折角くれると云うから貰って来た」

吉「えッ、あの相宿の飛脚から……やアしまった、秋田屋の印しるしの重箱だから、腹の減ったまぎれに油断して喰ったのが……」

文「なに、油断して喰った、それじゃア相宿の飛脚は怪しい者か」

吉「旦那、これが因果応報というのでござんしょう、何なんだか私わっちも腹が痛くなりました、済まねえが旦那気付きつけを一服下せえまし」

文「やア其方そちも腹痛か」

吉「旦那、大変な事をいたしました、真ッ平ぴら御免下せえまし、実は私わっちらは海賊の手下でござんす、あの旅人に姿を扮やつしていたなア小頭の八十松やそまつという者で、貴方を親船へ連れて往って、懐中にある百両余りの金と大小衣服を剥ぎ取って、事に依よったら貴方をば手下にするか、殺すかしてと相談しましたが、一昨日おとゝい宿屋を出る時に手強てごわい奴と思ったかして、弁当の中へ毒を入れたのでござんしょう、それとも知らず自分の弁当は流してしまい、旦那の持って居なさる弁当箱には秋田屋の印しるしがござんすから、二日二夜ふたよさの飢ひもじさに浮うっかり喰ったのが天道様てんとうさまの罰ばちでござんしょう、旦那、宥ゆるして下せえまし」

文「成程、分った、新潟を出る時に怪しい奴と思わぬでもないが、それ程の奴とは心付かなんだ、そう貴様が懺悔ざんげするからは其方そちの罪は宥して遣つかわす、さア今少し薬を呑んで助かれ、庄藏とやらはとても助からんぞ」

吉「旦那ア、私わっちも最早もういけません、眼が眩くらんで旦那の顔さえ見えなくなりました」

文「これ、吉とやら宜よく聞けよ、生前に何どの様な悪事を働いても、臨終いまわの際きわに其の罪を懺悔すれば、慈悲深き神様は其方そちの未来を加護し給うぞ、さらりと悪心を去って静かに命数の尽つきるを待て」

吉「あ、あ、有難うがす、私わっちも今更発心ほっしんしました、死ぬる命は惜おしみませぬ、何どうか楽に成仏じょうぶつの出来ますよう、念仏の一つも唱えて下せえまし」

文「ウーム、殊勝しゅしょうな心掛こゝろがけじゃ、時に吉とやら、そちの親方という新潟の沖にて親船に乗って居おる奴は何なんという名で何処どこの国の者か」

吉「私わっちも根からの海賊じゃアござんせぬ、新潟在の堅気かたぎの舟乗ふなのりでござんしたが、友達の勧めに従って不図ふとした事から海賊の手下となり、女でござれ金品でござれ、見付け次第に欺だましたり剥取はぎとったりして親船へ持運びして、女の好いいなア頭かしらの妾、また頭の気に入らぬ女は寄って群たかって勝手にした其の上に、新潟の廓くるわへ売飛ばすという寸法で、悪事に悪事を重ねる中うち、去年の秋から一人の剣術遣つかいが来て、頭を毒殺して其の子分を手下に従え、以前に優まさる悪業あくぎょう、今じゃア其の侍が頭でござりやす、悪事に悪事を重ねた私わっちども、此の苦しみを受けるのは天道様の罰ばちでござりやす、おゝ苦しい、旦那様早く殺して下さいまし」

と両手を合せたまゝ悶もだえ苦くるしんで居ります。

三十

文治は吉藏が懴悔話を聞いて、そゞろに愛憐あいれんの情を起し、共に涙に暮れて居りましたが、二度目に来た剣術遣いと聞いて、

文「待て〱確しっかりしろよ、今いう二度目に来た剣術遣いの名は何なんというのだ、また幾人ばかりでまいったのか」

吉「確か、今頭になっているのは大伴蟠龍軒といいました、今一人はもと医者だそうです」

文「その名は何なんと申したぞ、これ〱今一人いちにんの名は何と……」

吉「あゝ苦しい、いゝゝゝ今一人ひとりは確か秋田……」

文「これ吉藏、吉藏」

と呼べども答えはございませぬ。

文「はて、これも縡切ことぎれたか、自業自得とは云いながら二人ににんの舟人ふなびとに死別しにわかれ、何処どことも知れぬ海中に櫓櫂もなく、一人ひとりにて取残されしは何なんたる不運ぞ、今この吉藏が臨終いまわの一言いちごん、海賊の頭を殺して再び其の跡を受継ぎしは大伴蟠龍軒、医者は秋田と聞くからは、こりゃ滅多には死なれぬわい、何処の島かは知らねども最早岸には一二丁、夜よの明けるのを待った上、命限りに助けを得て、新潟沖の親船に賊窟ぞくくつを構えたる敵かたき大伴蟠龍軒、秋田穗庵すいあんの両人、やわか討たずに置くべきか、此の日本に神あらば武士たる者の一分いちぶんをお立てさせなされて下されまし」

と其の夜一夜を祈り明かし、夜の白々しら〱と明くるを幸い、板子いたごを割さいたる道具にて船を漕ぎ寄せようと致しますると、一二丁は遠浅で、水へ入れば腰のあたり、

文「いよ〱神の助け給うか、有難し、辱かたじけなし」

と漸ようよう陸おかへ上あがりまして、船を引上げ、二人ににんの死骸は人目にかゝらぬようにして、島の入口二三丁往ゆけども〱人家はなし、只荒れ果てたる草木くさきのみ、人の通りし跡だになければ、流石さすがの文治も暫しばし呆気あっけに取られて、ぼんやり彼方かなた此方こなたを眺めて居りましたが、小首を捻ひねって、

文「いや、これほどの島に人の上らぬ事はあるまい、何処どこにか住居すまいがあるに違いない」

と心を励まして或あるいは上あがり或は下くだり、彼是一里余も捜しましたが、人の居そうな模様はございませぬ。もとより用意の食事は無し、腹は減る、力は抜ける、進退こゝに谷きわまって、どっかと尻を据すえまして、兎とやせん角かくやと思案に暮れて居りまする。

文「最早十二月の中旬なかば、妻は何処どこに何どうしている事やら、定めし今頃は雪中に埋うずもれて死んだであろう、さなくば色里に売られて難儀をして居おるか、救いたきは山々なれども、此の身さえ儘ならぬ無人島の主あるじ、思えば我が身ほど不運な者はない、いや〱愚痴を溢こぼすところでない、海上にて彼あの難風なんぷうに出会い、幸さいわいに船は覆くつがえりもせず、此の島に漂い着いたというのは……それのみか海賊の口から敵かたきの在処ありかの知れしは是ぞ神の助けであろう、あゝ無分別な事をしては第一神様に対しても相済まぬ」

と心を取直して又々一里ほど行ゆけども〱人の足跡さえござりませぬ。

文「はて変だな、此の通り草木の生い立って居おる処を見ると、余程暖かい島に相違ない、何処にか人里があるであろう」

と一番高い樹きに登って四辺あたりを見廻しましたが、眼に遮さえぎるは草木ばかりで人家のあるべき様ようもござりませぬ。

文「さては愈々いよ〱話に聞いていた無人島か」

と力なく樹を降り、根こん尽きて其の儘其処そこへ気絶いたしました。お話分れて、此方こちらは信州二居ヶ峰、中ノ峰の谷間たにあいの熊の穴に落ちましたお町が成行なりゆきでございます。前に申上げました通り、お町は隅の方に小さくなって居りますと、穴の外へ飛出した親熊が帰って、我子わがこの寝て居ります側に蹲うずくまって居ります様子、お町は薄気味悪く、熊の正面に向いまして、人間に物いうように、

町「これお前、先刻さっきも申す通り私は決して悪人ではない、賊の為に災難に逢おうて逃げる機はずみに此の穴へ落ちた者、其の時お前が追掛おっかけて出た彼あの二人の者こそ泥坊じゃぞえ、私は仔細あって夫と共に此の山へ来かゝりしに、山賊共に欺だまされての此の災難、今頃夫は何処いずこへまいられしか、定めし所々方々しょ〱ほう〲とお尋ねであろう、どうぞ夫に逢うまでは不憫ふびんと思って助けて下さいよ」

と後あとへ退さがって小さくなって居りますと、件くだんの親熊はのそり〱とお町の前へまいりました。

町「さては是ほど頼んでも聞分けなく、私に噛付く了簡か、そんなら斯こうよ」

と懐剣に手を掛けながらも、心の中うちに業平天神を祈り、どうぞ夫に逢うまではお町の一命をお助け下さいますようと、油断なく熊を見詰めて居りますと、熊は何やらお町の前へ持って来まして、又元の通り子の寝ている処へ帰りました。お町も少しは安心いたしましたが、さりとて眠ることもならず、其の儘にして居おること一日二日、いよ〱熊も囓付かみつく様子がありませんので大分気も落着きました。さア腹が減って堪たまりませぬ、ふと心付いて見ると、毎日熊が持って来ましたのは胡桃くるみの実やら榧かやの実やら、乃至ないし芋のような物であります。

三十一

お町は余り腹が空すきましたから、前に積んである胡桃を取上げましたが、さア割ることが出来ませぬ、懐剣を出して割ろうかとも思いましたが、いや〱熊が見て自分を殺すと思い違い、万一の怪我でもあっては成らぬと気遣きづかいまして、歯に掛けて見ますけれども頓とんと割れませぬ、二つ持ってカチ〱叩いて居りますると、熊はむっくり起き上って、のそり〱とお町の前へまいりまして、その胡桃を取ろうとする様子でありますから、お町は震え上って、思わず持っていた胡桃を投出しました。熊は一向騒ぐ気色もなく、静かに其の胡桃を取上げて二つ三つ口へ入れましたが、忽たちまちぽり〱と二つに割って、それを両手に乗せてお町の前に出しました。さては私に食べろということかと、そっと一つ取りまして熊の顔を見ながら食べました。又二つ三つと其の通りにして食べますると、熊も安心の様子にて我子の側にころりと寝転んで、児こに乳を呑まして居ります。お町は漸ようやく胸を撫でおろして、

町「この猛獣までが私を助けてくれるか、あゝ有難い、これと云うのも日頃念ずる神様が此の熊に乗り移って我身を守護して下さるのでありましょう、此の上ともに首尾好よく穴を脱ぬけ出いで、夫文治殿に逢わして下さいますよう祈り奉ります」

と一心不乱に祈りまして、

町「どうしたら此の穴を出ることが出来るか知らぬ」

と足掛りのする処へ足を掛けて立上っては見ますが、前にも申す如く此の穴は熊が自身に掘ったのでなく、天然の穴を用いたので有りまして、さながら井戸の如き切立きったて、深さも二三丈はありまして、其の穴からまた横に掘ったのでございます。熊は慣れて居りますから自由に出入でいりいたしますが、人間殊ことに女子じょしの身では熊のように自在に飛上ったり飛下りたりする事が出来ませぬ。居おるともなしに此の穴の中で余程の日数ひかずを費ついやしました。熊は折々雪の塊かたまりを持って来ては児にも食はませ、自分にも喰い、またお町の前へも持ってまいります。ところが段々その雪も解けて失なくなる時分になりますと、穴の隅からたら〱と清水が垂れてまいります。さア然そうなると一日々々とだん〲寒くなってまいりまして、もう穴の中に居耐いたゝまらぬ位になりました。獣類とは申しながら熊は誠に感心なもので、清水が滴したゝるようになったので、熊の児を穴の途中まで出しました様子、お町の心配は何程か知れませぬ。さては神様が我身を見殺しにする思召おぼしめしか、情ないと思って居りますと、親熊が頻しきりにお町の前へ来て、後向うしろむきに脊中を出して居ります。お町も始めの内は心付きませぬが、

町「はて是れは、熊が私の脊に取付けというのか知らん」

と恐々こわ〲熊の脊中を撫でて見ますと、いかにも温順おとなしくジッとして居りますから、思い切って熊の脊中へ確しっかり取付き、一生懸命神々を念じながら目を瞑ねむって居りますと、件くだんの熊は一飛びで穴の入口へ飛上りました。お町はホッと一息、四辺あたりを見れば谷間々々に少しずつ花が咲いて居ります。始めて蘇生そせいの思いをなして、

町「あゝ辱かたじけない、夢ではないか、それとも今までのが夢であったか知らん」

と心を定めて四辺を見廻しますと、後うしろの方に例の熊がジッと守って居りまする。

町「まだお前は私を守護してくれるのか、人と見たら囓付かみつくべき猛獣が、私の命を助けるとは此の上の恩誼おんぎはない、辱けない〱、さア熊よ、お前はもう宜よいから早く元の穴へお戻り、うか〱して居おると猟人かりゅうどのために撃たれるぞよ、必ず〱お前の恩誼は忘れませぬ、早くお帰りなさい」

と熊の頭かしらを撫で〱、「さア〱」と熊を後うしろに向けて促しますと、のそり〱歩き出しましたから、其の後姿を見送り、手を合せて、

町「あゝ有難い、辱けない」

と熊の影の見えなくなるまで暫く休みまして、又々一丁程登って後うしろを見ますと、横に熊が来て居ります。

町「えゝ、まだお前は安心せぬか、此処こゝまで来れば大丈夫じゃ、何どうぞ帰って下さいよ」

と頭を撫でて居りますと、

猟「やア女郎めろう、脇へ寄れ、その熊を撃つのだ、早く〱」

と声掛けられてお町は恟びっくり驚き、

町「なゝゝゝなゝ何なんと仰しゃいます、この熊をお撃ちなさると、そりゃアまア惨むごたらしい」

と熊の惣身そうしんに抱付きました。此の体ていを見るより猟人かりゅうどは益々大音だいおんに、

「汝われえ其処そこ退のかねえか、そんな真似をして居おると共に打放ぶっぱなすぞ」

町「いゝえ、この熊は私が命の恩人でございます、何どうぞ助けて下さいませ、今頃熊をお取りなさいましても、左程のお徳にもなりますまい、どうぞ〱助けて下さい」

と熊の前に立塞たちふさがり、両手を合せて拝んで居りまする。

三十二

一人の猟人かりゅうどは他ほかの猟人に向いまして、

甲「おい、あの女め、熊に抱付いたぞ、ありゃア只者たゞものじゃアあるめえ、魔法使か化物だろう、いっそ人ぐるみ撃殺してしまおうじゃアねえか」

と鉄砲を向けますと、

乙「これ〱人間を撃つと又名主殿へ呼付けられて酷ひどい目に遇あうぞ、まア待て〱」

甲「それもそうだな、やい女郎めろうめ、其の熊ア汝われえ縛って引いて来いやア」

乙「おい〱そんな無理な事を云うなってば……女郎に熊ア連れて来られるもんか、何か仔細があるに違ちげえねえだ、汝わりゃア此処こゝに只鉄砲を向けて見張っているが宜よい、己おらア名主殿へ往って話して来くべえ」

甲「そんなら早く往って来いよ、これ女郎、その熊ア逃がすと汝われえ撃つぞ」

と暫く山と山、谷を隔へだてゝ睨にらみ合って居りました。

町「それ見なさい、お前は今更逃げる事も出来ない、あの猟人が万一お前を撃つならば、私も共に命を棄てましょう、必ず〱お前ばかり撃たせはせぬ、世にまします神々よ、たとい獣類なればとて、命を助けし大恩あるもの何どうぞ助けて給われかし」

と熊の傍そばに寄り添いまして、

町「さア穴の方へ往ゆけよ、さア〱」

と追いやる如く引立つれば、熊は頷うなずく様子にてお町の顔を一度見て、一散走いっさんばしりに谷間の方へ駈け出します。

町「それ撃たれなよ」

と云う間まもあらばこそ、一発ズドンと打放うちはなしました。お町は熊を見返りまして、

町「やれ撃たれしか」

と云う間にまた一発放ちました。さてお話変って、文治の漂い着きました無人島は、佐渡を離れること南へ何百里でございますか、島の大きさも確しかとは分りませぬが、白鳥、鸚鵡おうむ、阿呆鳥などいう種々しゅ〲の鳥が沢山居ります。文治は尋ねあぐみて殆ほとんど気絶の体ていでございましたが、暫くして我に返り、

文「あゝ天何故なにゆえに我を斯かくまで懲らしめ給うか、身に悪事をなしたる覚えなきに、如何いかなれば斯く我を苦しめ給うぞ、世にある時は人を助け、人のために人を懲こらしもし、また彼あの友之助を助けるために蟠龍軒の屋敷へ踏入り、悪事加担の奴ばらを切殺したりとは云いながら、これ私慾のためならず、世のため人のため、天に代って誅戮ちゅうりくを加えたるに過ぎざれど、其の職其の身にもあらぬため却かえって罪となりつるか、かゝる無人島に彷徨うろついて徒いたずらに乾殺され、後世人の笑いを受けるより、寧いっそ此の場に切腹して潔いさぎよく相果て申さん」

と覚悟いたしましたが、また思い直して、

文「いや、見す〱蟠龍軒似寄によりの者が、新潟の沖なる親船に忍んで居おると聞きながら、武士と生れて一太刀ひとたち怨うらみもせず、此の儘死ぬるも残念至極、また女房とても生死の程も分らぬ中うちに、空しく無人島の鬼と化したる其の後のちに、それと知ったなら嘸さぞかし我身を恨むであろう、さぞや蟠龍軒が笑うであろう、こりゃ土を喰っても死なれぬわい、よし〱二人の舟子ふなこの衣類を剥はいで、船の修覆しゅふくの材料となし、獣類魚類さては木の実を捜して命を繋つなぐ工夫が肝腎かんじん、ウム、向うに見えるは鳥なるべし」

とやおら身を起して腕に覚えの一礫ひとつぶて、見事に中あたって白鳥一羽撃留うちとめました。やれ嬉しやと切石きりいしを拾うて脇差の柄つかに打付け、袂たもとにあり合う綿に火を移し、枯枝にその火を掛けて焚火たきびをなし、また樹きの枝を折って樹から樹を柱に、屋根をこしらえて雨露あめつゆを凌しのぐの棲家すみかとなし、先ず其の日暮しの用意は出来ました。

文「これで先ず露命を繋つなぐ趣向が出来たというもの、此の上は一日いちじつも早く此の島を脱ぬけ出いでて、再び蟠龍軒に廻めぐり合い、武士の嗜たしなみ思う存分に敵かたきを討たなければならぬ、あゝ〱我は斯かかる無人の島に漂うて辛うじて命を継つなぎ居おるに、仇あだは日々夜々ひゞよゝに歓楽を極めて居おることであろう、實げに浮世とは申しながら、天はさま〲に人を操あやつるものかな、蟠龍軒よ、此の方ほうが再び廻り合うまでは達者で居れよ、我妻わがつまもまた此の世に居らば何どうぞ無事で居てくれよ」

と心の中うちに祈らぬ日とてはござりませぬ。別に話し相手というもなく、只ただ船を繕つくろうことにのみ屈托くったくして居りまする。折々おり〱木を切り魚うおを捕とりますごとに、思わず、

文「汝おのれ蟠龍軒、切って〱切殺しくれん」

と大声たいせいに呼よばわりましては又我に返り、

文「これで思いが届かねば、人と生れた甲斐もなし、蟠龍軒達者で居れよ」

と云う折しも、木蔭こかげに怪しき声ありて、「達者で居れ」という。文治は暫く四辺あたりを見廻しまして、

文「さては何者か、我が哀れ果敢はかなき境涯を見て笑うものと見えるわい」

と体たいを潜めて様子を窺うかゞって居りましたが、別に怪しい様子もござりませぬ。

文「はて、不思議なこともあるものだ、達者で居れと己おれの口真似をしたのは何者か知らん、まさか夢ではあるまい」

と段々山深く入込いりこんで、彼方あちら此方こちらを尋ね廻りますると、高き樹の上に一筋の矢が刺さって居りまする。

三十三

文治は端はしなくも樹の上に征矢そやを認め、

文「はて、彼処あすこに矢の刺さっている処を見れば、今は人が居ないにしても、我のように漂うて来た者があるに違いない」

と独語ひとりごとをいいながら其の樹に攀登よじのぼり、矢を抜いて見ますと、最早竹の性しょうは脱ぬけて枯枝同然、三四年も前から雨曝あまざらしになっていたものと見えて、ぽき〱と折れまする。文治は窃そッとこれを抜取りまして、

文「チエ…有難や、これこそ確かに人の造りし征矢、案に違たがわず此の島は折々四辺あたりの島人しまびとの訪い来る島に相違ない、たとい其の島人が鬼であろうが蛇じゃであろうが、事を分けて話したら、よもや頼みにならぬ事もあるまじ、やれ嬉しや、やッ……それ〱、今達者でおれと口真似をしたのは其の島人にはあらざるか、但たゞし心の迷いかは知らぬが、かゝる矢種やだねのあるからには、何時いつしか人の来るに相違ない、あゝ有難い〱」

また木蔭に声ありて、

「あゝ有難い〱」

文「いや、今のは確かに……」

と四辺あたりを見ますと、一羽の鸚鵡おうむがつくねんと樹の叉またに蹲うずくまって居りまする。文治は心中に、「さては鸚鵡でありしか」と我ながら可笑おかしさに耐えず、

文「達者で居れ」

鸚「達者で居れ」

文「馬鹿野郎」

鸚「馬鹿野郎」

なか〱よく人の真似を致します。

文「やッ、これは面白い」

と其の鳥を押えますと、平生人の居りませぬ島でありますから、少しも人を恐がる様子もなく、馴々しく手の上へも止ります。

文「これは好よい鳥を見付けたわい」

とそれから二三の鸚鵡を押えて、住居すまいへ持帰りまして、「旦那様か、お町でございます」などと口真似をさせるのが何よりの楽たのしみ。日々鸚鵡を話相手同様にして其の日〱を送って居りましたが、何分にも島には虫が多く居りまして、少しも火を絶やすことが出来ませぬ、昼夜とも焚火をして其の側に寝起ねおきして居りまする。虫が多いくらいですから、夏は随分暑うございますが、冬は案外暖かく、寒中でも四月頃の陽気であります。月日の絶たつのは早いもので、早くも一箇年いっかねんを過ぎました。待てど暮せど人も来ず、身の上にも別に変りたる事もなく、食物しょくもつを漁あさるの外ほかは日々船繕いに余念なく、無事に大海たいかいへ乗出すことの出来るようにと工夫する外には何なんの考えもございませぬ。此の島へ上あがってから最早もう一年余になりますから、着物は切れ、髯ひげはぼう〱として、何どう見ても人間とは思われませぬ。今日も船繕いに疲れて、夜よに入いり木の実などを食べて、例の通り焚火の端に打倒れて一寝入りいたしますると、何者にや枕元に立って揺り起すものがあります。文治はがばと撥起はねおき、

文「いや、其の方は何人なにびとじゃ、おゝ、お町ではないか」

町「はい旦那様、ようお達者でおいで下さいました、お懐かしゅうございます」

文「ウム、町や、そちも達者でいてくれたか、まア何どうして斯様かような処へまいりしぞ、して能よく私わしの居おる処が知れたの」

町「はい、あの峠で端なくも貴方にお別れ申してから、さま〲の艱難辛苦かんなんしんくをいたしましたが、それでも神様のお助けで、虎の顎あぎとを遁のがれまして、再び貴方にお目に懸ることが出来ました、これと云うのも矢張やっぱり神様のお助けでございます」

文「まア何は扨置さておき、明暮あけくれ其方そちのことを案じぬ日とてはなかった、宜よく達者でいてくれた、人も通わぬ無人島、再び其方に逢うというのは斯こんな嬉しいことはない」

町「はい、貴方もお達者で」

と後あとは涙に物云わせ、暫しばし文治の顔を見詰めて居りますと、文治も堪こらえ兼て熱い涙を流しながら、お町の手を握って引寄せますると、足もとから長さ三尺にも余ります蛇くちなわがのたりを打ってずる〱〱。お町は驚いて、「あれッ」と夫に凭もたれかゝりますと、

文「町や、こんな事は毎日の事じゃ、何どうも致しはせぬ、お町々々」

と呼べども答えはございませぬ。文治は眼をこすりながら、

文「えゝ、また夢か、馬鹿々々しい」

総身の汗を拭いまして、

文「もう夜よが明けたのか、誠や聖人に夢なしとか、心の清らかなる人に夢のあるべき筈はない、我は夜よるとなく昼となく夢現ゆめうつゝに心を痛め、さながら五臓を掻きむしらるゝの思い、武士の家に生れながら腑甲斐ふがいなし」

と我と我が心に愧はじて、焚火の辺ほとりにてほッと息を吐つく折しもあれ、怪しや弦音げんおん高く一枝いっしの征矢は羽呻はうなりをなして、文治が顔のあたりを掠かすめて、向うの立木たちきに刺さりました。

文「やア今の夢といい、また矢の飛び来きたりしは此の身の助かる前兆か知らん、此の身が彼あのまゝ寝ていたら、或は此の矢のためにあたら命を失ったかも知れぬ、妻の夢のため眼を覚せしところを見れば、定めしお町が八百万やおよろずの神々に此の身の無難を祈っているのであろう、あゝ辱かたじけない」

人情の常として、何なんに付けても思い出すのは女房子でございます。

文「あゝ危あぶなかった」

と思う間もなく、また二の矢がブウンと羽響きをなして飛んで来ました。文治はハッと身を拈ひねり、矢の来た辺あたりへ眼を付けて、

文「やア〱拙者は決して怪しい者ではないぞ、漂流いたして難儀の者、助けたまえ」

と声を限りに手を合せて助けを乞いましたが、弓取る人は、聾つんぼか但たゞしは言葉の通ぜぬためか、何程手を合わして頼み入っても肯入きゝいれず、又も飛び来る矢勢やせい鋭く、殊ことに矢頃近くなりましたから、憫あわれむべし、文治は胸のあたりを射通されて其の儘打倒れました。

三十四

文治は図らずも二の矢を射られて倒れたまゝ、身動きもせず様子を窺うかゞって居りますると、弓を提さげたる島人しまびとが、小石を拾って打付けましたけれども、文治は少しも動かぬものですから、死んだと思うてか、いよ〱側に寄りまして、文治の胸元に刺さりました矢に手を掛け、引起そうと致しまする其の手をむんずと掴つかんで起き上りますと、島人は恟びっくりして、

島人「あゝ、あゝ」

文治は手を取った儘、胸元に刺したと見せた矢を片手に持ち、

文「これ島人、最前から怪しい者ではない、助けてくれと申した言葉は其許そこもとの耳に通じないか、我は難船した者でござる、頼りなき漂流人でござるぞ、お聞入れなすったか、宜しいか」

と手を放しますると、又々腰に差したる木刀様ようの物を持って文治に打ってかゝる。その小手下こてしたを掻潜かいくゞって又も其の手を確しかと押え、

文「はて、此奴こいつは言葉が通ぜぬと見えるわい、何時いつまで問答しても無益なり」

と考え直して、手真似口真似して「己おれは決してお前に仇あだをなす者ではない、漂流人で難儀して居おる者である」ということを知らせますると、少しは分ったものと見えまして、強しいて手向いする様子もございませぬ。

文「あなたは何処どこからお出いでになりました、何なんと申すお国のお方でございます」

島人「これ、己おれえ島だ」

文「成程、何なんと申す処からお出でかな」

島人「これ、己え島だ、彼方あっちからカノーで来ただ」

文「左様でござるか、どうぞ貴方の島へ御同道して下さいまし」

と手真似かた〲申しますると、

島人「己え此の島で鳥を捕とるだ」

文「左様ならば私わたくしも同道して鳥を捕るお手伝いをいたしましょう」

文治はもう此の島人を逃がしては此の島を出る機会おりがないと思いまして、いろ〱上手を使って、話も確しかと分りませぬが、片言かたことまじりで交際つきあいながら、彼方かなた此方こなたを経廻へめぐって、さま〲の鳥を撃取りました。最早日暮になりましたが、島人は夜よに入いっても帰る気色けしきがございませぬ。勿論無人島は虫や獣が沢山居りまして、慣れぬ身には安心して泊ることが出来ませぬから、島人は夜に入って一夜を明かす所存と見えます。併しかしこう何か思案して居りますから、文治は、

文「さア〱」

と急せき立てゝ海岸へ出て見ますと、舟がございます。只今申上げましたカノウと申しまするは舟のことであります。これは丸木で彫上ほりあげました物で、長さは凡およそ三間さんげん、幅は二尺五寸ぐらいあります。只今考えて見ますと、大阪の博物館にあります、古風の独木舟まるきぶねのようなもので、何なんの木か一向分りませぬ。舟といえば舟、人の二人も乗りますると、外ほかに何も置く処はございませぬ。さア何どうか此の舟へ乗せて連れて往ってくれと申しますと、島人は何なんだか未まだ文治を疑うたぐって居ります様子、飛乗る途端に文治を陸おかへ突き放し、自分一人が飛乗りまして漕ぎ出そうと致します。併しかし海岸は遠浅で、岩角が沢山有りますから思うように舟が出ませぬ。是幸いに文治は突然いきなり海へ飛込み、カノーの小縁こべりに取付きました。その手を件くだんの島人が木刀を振上げて打とうと致しますから、文治は手早く其の手を取って押え、其の儘舟へ飛上りまして、

文「やい最前から是ほど申しても分らぬか、いかに言葉が碌々ろく〱通ぜずとも、あれ程手を合わして頼んだじゃないか、いよ〱肯きかずば打殺うちころすぞ、さア何どうだ、これでもか」

と手を捩上ねじあげますると、

島「ウーム、負けろ〱」

文「分ったか」

島「大隅明おおすみあきらへ……」

文「その大隅明と申すのは其許そのもとの名か」

と指さし致しますると、

島「えッ〱」

と親指を出しましたので、

文「さては此の島人の居おる島に大隅明という島司しまつかさが居おると見えるわい、其の人ならば必ず分るであろう、召使同様な此奴こいつが分らぬのも無理はない我われが舟に乗るのを拒んで手向いしたというのも、我が同類を殺しはせぬかと疑うたぐっての事であろう、尤もっとも千万、併しかし我われが強力ごうりきに恐れてか、温順おとなしくなったとは云うものゝ、油断はならぬわい」

と文治は不図ふと思い付きまして、提物さげものを取出して島人に遣つかわしますると、島人は嬉しそうに繰返し〱見て居りまする。又文治が胴巻の中うちより金を取出し、一分銀一枚を与えますると、島人は然さも嬉しそうに之を押戴おしいたゞきました。掌ての上に乗せて、ためつすがめつ見る様は、始めて手にしたものとは思われませぬ。

文「こう喜ぶところを見ると、金かねということを知って居おるものと見え。併し島司が有って見れば、この金を遣やったところで、自分の物にするという訳には行ゆくまい」

と感付きましたから、又々銭を出してやりますと、島人は両手を支つき、頭を下げて喜んで居おりまする。

三十五

さて文治は島人の喜ぶ様子を見まして、

文「漸ようやく心が解けたと見えるわい、さア舟を漕ぐように」

と手真似で知らせますると、島人は頷うなずき、箆へらのような物を出しまして、ギュウ〱と漕ぎ始めました。只今の短艇たんていのようなものと見えます。始めの内は風もなく、誠に穏おだやかな海上でありましたが、夜よの更ふけるに従って浪はます〱烈はげしく、ざぶり〱と舟の中に汐水が入りますのみか、最早小縁こべりと摩すれ〱になりまして、今にも覆くつがえりそうな有様でございます。文治は心の中うちに、

「又も難船か、何なんたる不幸の身ぞ、八百万やおよろずの神々よ、どうぞ一命を助けたまいて、一度蟠龍軒に邂めぐり逅あいますよう、又二つには女房お町に逢いまして、共々に敵討の出来まするよう、助けたまえ護らせたまえ」

と思わず声を放ちて祈りますると、島人は不思議そうに文治の顔を見ては、何どうかされるのかと怪あやしんで居りまする。文治はそれと心付きて、島人を励まし、自分も力を添えて舟を操あやつりましたが、

文「いや待てよ、何処どこの島へ往ゆくのか知らぬが、磁石も無ければ的まともない、何方どっちの方へ往く所存か知らん、困ったものだ」

と思いまして、

文「これ〱島人、何処まで往っても見当が知れぬではないか」

と真似をして見せますと、

島「風暑い」

と申します。さては南の方へ往ゆくのかと少しは安心いたしましたが、兎角する内に東の方ほうが糸を引いたように明るくなりました。

文「はゝア、東は彼方あっちの方だな、途方もない見当違いをして居いるものだ、大分浪も静かになったようだが、こうして居おる内には何いずれかの島へ着くであろう」

と夜よの明けるに従っていよ〱安心いたしました。よう〱其の日の巳刻よつ頃になりますと、嬉しや遥か彼方あなたに当り微かすかに一つの島が見えまする。これぞ当時は八九分通り開けて居りますが、小笠原島おがさわらじまでございます。文治は盲亀もうきの浮木うきぎに有附きたる心地して、

「正直の頭こうべに神宿るとは宜よく申した、我は生れて此の方、不正不義の振舞をした例ためしはない、天我を憐みたまいてお救い下さるか、あゝ有難し辱かたじけなし」

と喜んで居りますると、俄然がぜん一陣の猛風吹き起って、忽たちまち荒浪あらなみと変じました。見る〱中うちに逆捲さかまく浪に舟は笹の葉を流したる如く、波上はじょうに弄もてあそばれて居おる様は真に危機一発でございます。取付く島の見えぬ内は案外胆きもも据すわっておるものでございますが、微かすかなりとも島が見えますると、頼りに想う心が出ますので、何どうしても気が焦あせるものでございます。文治も島人も一生懸命になって居りますが、何分櫓ろ一挺いっちょうしかござりませぬから、何どうすることも出来ませぬ。浪のまに〱揺られて居ります折しもあれ、大きな岩と岩との間に打込まれました。其の儘にして風の止むのを待って居れば宜しいのでございますが、其処そこが気が焦って居おるものですから、

文「やッ、こりゃ大変、もし此処こゝに斯こうして居て、今に波が被かぶって来ると、岩間いわまの鬼と消えなければ成らぬ、それッ」

と島人を励まして、岩と岩との間に櫓を挟はさんで舟をこじり出そうと致しましたのが運の尽つき、すわと云う間まに櫓は中程よりポッキと折れてしまう。その機はずみに舟は再び海上に飛出しました。もう如何いかんともする事が出来ませぬ。どう〲と寄せ来る波上に車輪の如く廻りながら、彼是二三十丁も押流されましたが、又も大きな岩角へ打付けられて、無慙むざんや両人とも打ち処が悪かったと見えて、其の儘絶息いたしました。不思議にも文治が命の助かります次第は後のちのお話といたしまして、扨さて此方こなたは二居ヶ峰の麓ふもと、こんもり樹茅きかやの茂れる山間やまあいには珍らしき立派な離家はなれやがあります。多分猟人かりゅうどの中うちの親方でございましょう。

猟人「やア喜右衞門きえもんどん、今なア二居ヶ峰にえれえ事がありやしたア、己おらアとな彌右衞門やえもんと二人での、帰けえるべえと思ったら、えれえ熊ア出やした、撃ぶつべえと思うと、側に女さア附いているだて撃つことが出来ねえだ、己ア大でけえ声で、女郎めろう退どけやアと喚がなっても退かねえでな、手を合せて助けてくれちッて泣くでえ、女郎退かねえば撃ぶっ殺すぞと云っても逃げねえだ、彌右衞門め腹ア立って、彼奴あいつは化物だんべえから熊と一緒に撃つべえと云うだ、そんだから己ア後あとでまたお前めえにおっ叱ちかられると詰つまんねえだから、一走ひとッぱしり往って喜右衞門どんに聞いて来くべえと云って、此処こゝへ来る途中で鉄砲が鳴りやした、多分彌右衞門め、己おらの帰けえりを待たねえで撃ったんだんべえ、何なんぼ何なんでも喜右衞門どん、人間を撃っちゃア悪かんべえな」

喜「悪いとも〱、たとい間違いでも人を撃ぶっ殺すと、自分の首さアおっ飛ぶぞ」

猟「やア、そりゃ困った事が出来たな」

と両人ふたりは顔をしかめて居ります。

三十六

猟人かりゅうど二人が案じて居りますところへ、見馴れぬ女が尋ねてまいりまして、

女「はい、御免下さいまし」

一人の猟人は消魂けたゝましく、

猟「やアあの化物がやって来た」

喜「馬鹿野郎、そんなに騒ぐもんじゃア無ねえ」

流石さすがに猟師の親方だけあって落着いたもの。言葉静かに、

喜「一体お前様めえさんは何なんでがすえ」

女「はい、私は仔細あって昨年夫婦連ふうふづれにて旅行の途中、二三里あとの山中にて山賊に逢いまして、連合つれあいの者は行方知れず、私は二人の山賊に追われます途端、幸か不幸か、思いがけなく熊の穴へ落ちまして、其の熊に囓み殺されることかと思いの外ほか、却かえって熊のために助けられまして、今まで命を存ながらえて居りました、不憫ふびんと思召して何どうぞお助け下さいまし」

喜「何しろ怖おっかねえ姿なりだなア、化物じゃアあるめえなア」

女「決して怪しい者ではござりません」

喜「はア、そんじゃアお前めえは何処どこの国の者で、名ア何なんちゅうのか其処そこえ書つけて見なせえ」

猟「成程、喜右衞門どんが云わっしゃる通り、字イ書くが一番宜いいだ、さア化物、字イ書けやア」

喜「紙イ無ねえが、六郎どんが置いて往った筆えあるから、これで書かっせえ」

女「私は江戸の者で」

喜「まアそんな事は後あとで宜いいから早く字を書かっせえ」

女「はい」

と筆を執とりまして古今集の中の

我が恋は行方も知らず果はてもなし

逢ふを限りと思ふばかりぞ

本所業平橋際ぎわ某ぼうと書きました。

猟「それが汝われが名けえ、馬鹿に長なげえ名だなア」

女「いゝえ、これは私が子供の時習いおぼえました古い歌でございます」

猟「やア歌きゃア、そんなら汝われえ唄え、己おらア踊るべえ」

喜「馬鹿野郎、汝われが踊るような歌とは違わア、汝われイえれえ字イ書くだなア、これじゃアはア人間だんべえ、こんな字イ書くもなア己おらが村に無ねえだ、名主どんに見せべえ」

喜右衞門が其の書いた物を持参しまして、其の村の名主に見せますと、

名主「やアこりゃア能いい書てじゃア、喜右衞門、なぜ其の女を連れて来ねえか」

喜「己おれはア連れて来くべえと思っただが、出し抜けに連れて来てほざかれると詰らねえだから、連れて来きねえだ」

これからお町を同道致しまして名主の宅へ連れてまいりますると、

名「さア此方こちらへお上りなせえ、さぞ難儀しなすったんべえ」

町「これは御丁寧な御挨拶で恐入ります」

喜「ひやアこれ女子おなご、こりゃ此の村の名主の紋左衞門もんざえもん様で、よく頼まっしゃい」

町「有難うございます」

紋「お前めえらが熊女くまおんな先生でがすかねえ、何処どこの者にしろ、金がねえば仕様がねえで、村でも何どうかしべえから心配しんぺえしねえで居おるが宜いいだ、此の村の奥へ十丁べえ参めえりやすと寺があるだ、此の頃尼が死しにやして子供らア字イ書くことがなんねえで、手におえねえが、淋しかんべえが旅金たびがねの出来るまで子供らに字イ書くことを教おせえてくんろ」

町「御親切に有難うございますが、人さまに字を教えるなどという手前ではございません」

紋「そうでねえ、この界隈かいわいにお前めえぐれえ書くものはねえだ、まアその形なりじゃア仕様がねえだ、これ婆ばゞアどん、女の着るもんが有るなら出してくんろ、さア熊女、この着物を着るが宜いいだ」

町「はい、有難う存じます、そのお寺と申すは余程山奥でございましょうか」

紋「なアに、山ア一つ越すべえで、そうさ、これから十丁もあるかな」

町「そうでございますか、私は其の山奥が大好だいすきでございます」

喜「ひやア山奥が好きだてえぞ、それい〱化物だんべえ」

町「なるたけ人の目に掛らんのが宜しいのでございます」

田舎殊ことに山間の僻村へきそんでは別に手習師匠もござりませんので、寺の住持が片手間に教えて居ります。その住持も近頃居りませんので、お町は日々にち〱子供を相手にして、せい〲仮名尽かなづくしや名頭ながしらぐらいを指南して居ります。偶たまには歌などを書くことも有ります。何しろ熊女が書いたというので土地では大おお評判、新潟あたりへ聞えることもござります。一日いちじつ名主紋左衞門が寺へやってまいりまして、

紋「ひやア御免下せえまし」

町「これは〱名主様、ようお出でなさいました、さア何どうか此方こちらへお通り下さいまし」

名「夕方ゆうかた、人の家うちへ来るでもねえが、急用あってめえりました」

町「急用とは何事でございましょう」

紋「先ず話をしねえば分らねえだ、此の間中新潟の沖に親船が居りやしたが、それが海賊だという事でな、その船の側に来る船は矢鱈に鉄砲を撃掛けたり、新潟あたりの旅人を欺だましちゃア親船に連れだって、素すッ裸体ぱだかに剥ぎ取って、海に投ほうり込むてえ話だ、さア御領主様も容易ならねえ海賊だてえんで、御人数ごにんずを出しても、海の中から飛道具で手向いするもんだに依よって、何どうにも手に負えねえてんだ、そこで御領主様から誰か船の中へ忍び込んで討取る者へは褒美を出すてえ触ふれが出ただ、すると此の頃江戸から武者修行だと云って来ていた二人の侍が、その親船へ乗込んで海賊の親方を叩ッ切って、船へ火イ掛けやして、泥坊を根絶ねだやしにしただ、何と強つええ侍じゃねえか、大層お役所から御褒美を貰ったそうだが、その剣術の先生が今日わざ〱己おらア処へやって来ただ」

町「へえ、江戸表の剣術の先生でございますか」

と首を傾けました。

三十七

紋左衞門は一服吸って煙草盆を叩きながら、

紋「その剣術の先生様がな、お前様めえさまの字イ書くのを見て、此の女ア只者たゞものじゃア無ねえちゅうて、わざ〲越後からお前様に会いにござらしって、私わしが家うちにいるだ、悪い事アあんめえから、ちょッくら私が家へござらっしゃい」

お町は暫く考えて居りましたが、

町「えゝ其の先生と申すのは、まったく江戸のお方でございますか」

紋「言葉の様子では全く江戸のお方に相違ねえだ」

時にお町は、

「その剣術の先生というのは若もしや蟠龍軒ではないか知らん、まこと蟠龍軒にしたところが、夫の誡いましめもあるゆえ我身一人で手出しはならぬ、また蟠龍軒にあらずとも、江戸のお侍に此の今の姿を見られるのも心苦しい」

と思いまして、

町「はい、あなたの御親切はまことに辱かたじけのうございますが、零落おちぶれ果てたる此の姿、誰方どなたかは存じませぬが、江戸のお侍に会いますのは心苦しゅうございます、何卒どうぞお断り下さいまし」

紋「いや、それは宜よくあんめえ、たとえ昔は何様どんな身分だっても今は今じゃねえか、海賊を退治して御領主様から莫大ばくだいの御褒美を頂きなすった位の大先生だ、会って悪いこともあんめえから、会うが宜よいじゃねえか、事に依よって金でも呉れさしったら、その金で路用も出来るてえもんだ、二つにはまた我わが亭主の居所も知れるかも知れねえだ、そんな因業いんごうなことを云わねえで、私わしと一緒に往いかっせえ」

町「いゝえ、思召おぼしめしは有難う存じますが、お断り申します」

紋「まア然そう云わねえでござらっしゃい」

町「此の儀ばかりは何どうぞお免ゆるし下さいまし」

と押問答して居りますると、表の方ほうにて大伴蟠龍軒外ほか二人ににんが、

「えゝ、そんな事であろうと思って、表に立って聞いていた、御免よ」

と押取刀おっとりがたなで入ってまいりました。お町は素もとより顔を知らぬものですから、蟠龍軒とは心付かず、

町「いゝえ、お恥かしゅうござんす」

と裏口から逃出しました。

大「それッ」

と云うより早く、遠見とおみに張って居りました門弟一人いちにん、一筋道に立塞たちふさがり、

門人「どッこい、そう肯うまくはいかんぞ」

と取押える後うしろから追い来きたりし蟠龍軒、お町を取って引据ひきすえ、と見ると心の迷いか、小野庄左衞門の娘の顔だちと少しも違いませぬ、心の中うちに、

大「はて、よく似た女子おなごもあるものだ、併しかし彼がこんな山奥に来よう訳もない、寧いっそ打明けて蟠龍軒と云おうか、いや〱桜の馬場でお町の親父おやじ庄左衞門を殺し、脛すねに疵きず持つ此の身、迂濶うかつなことは云えぬわい、他人の空似そらにということはあるが、真実庄左衞門の娘かも知れぬ」

と思いました故、さあらぬ体ていにて、

蟠「これ〱女中、お前は何処どこの者だか知らんがな、拙者の眼には都の者としか見えぬ、拙者も元は江戸の者だ、難儀なことがあるならば何処までもお貢みつぎ申そう、これ〱女中、そんなに力を出しても……これ門弟、えゝ気の利かぬ奴らだな、手伝てづたえというのではない、何をまご〱して居おるのだ、予かねて貴様たちに言付けて置いたではないか」

門弟二人は頷うなずきまして、

「左様々々、まア名主、そなたも我らと一緒にまいれ」

と無理に連立って此方こなたへまいりました後あとで、

蟠「これ女中、もう其許そこもとが何程〔「※」は「あしへん+宛」〕もがいても逃すもんじゃアない」

町「あなた、何どうぞ御免下さいまし」

蟠「分らん奴だな、えゝ面倒な、じたばたすると斯様かよういたすぞ」

とお町を其の場に押倒し、其の上に乗し掛って、

蟠「さア何どうだ、今更何うも斯こうもねえ」

今はお町も一生懸命、用意の懐剣を取出そうと致しますると、

蟠「やア此奴こいつめ、刃物を持って居やがるな」

ぎゅッと其の手を押え付けました。

町「あいたゝ〱」

蟠「さアこれでもか、何どうだ〱」

と無理強談ごうだん、折柄おりから暮方くれかたの木蔭よりむっくり黒山の如き大熊が現われ出でゝ、蟠龍軒が振上げた手首をむんずと引ッ掴つかみ、どうと傍かたえに引倒しました。思いがけなき熊の助勢にお町は九死きゅうしの境さかいを遁のがれ、熊の脊に負われて山奥深く逃げ延びました。何時いつまで経っても先生が帰って来る様子がございませんから、二人の門人は気遣いながら、名主同道にて引返してまいりますると、こは如何いかに、先生が樹きの根方ねがたに倒れて居ります。恟びっくり驚いて、

門「やア先生が倒れて居おる、先生々々、何どうなすった、やッこりゃ大変、先生が気絶して居る、これ名主、水を、早く〱」

二人の介抱で蟠龍軒は漸ようやく心付きました。

門「先生、お気が付きましたか」

蟠「いや何どうも飛んだ目に逢おうた」

門「何うなさいました彼あの女は」

蟠「とうとう逃げられてしまった」

門「馬鹿々々しいなア、併しかし先生、あの婦人は全く船中でお話のあった庄左衞門の娘お町と申す者でございましょう」

蟠「まったくお町に相違ない、相違ないが、何どうして斯様こんな山奥へ来て居おるか、それが分らぬ、併し筆蹟と云い顔形かおかたちといい、確かにお町に相違ない」

門「そりゃア惜おしいことをしましたなア、やア先生、大層お手から血が出ているじゃア有りませんか」

蟠「実はこれがために気絶したのじゃ」

門「あのお町が喰付いたのですか」

蟠「いや〱何か其処そこらに居りはせぬ「ぬ」は底本では「ね」と誤記か」

と云われて門人二人は、「何が〱」と云いつゝ五六間けん先へまいりますと、山のような真ッ黒な物がむず〱〱。

門「やゝッ〱……やゝッ……熊だ」

と叫びながら一同其の場を逃去りました。

三十八

お町は熊に助けられて山深く逃げ延びましたが、身を寄せる処は勿論、食物くいものもございませんから、進退いよ〱谷きわまりました。その辺あたりを打見ますと、樵夫きこりの小屋か但しは僧侶が坐禅でもいたしたのか、家の形をなして、漸ようやく雨露うろを凌しのぐぐらいの小屋があります。

町「たとえ此の山奥で餓死うえじにするとも野天のでんで自殺は後日の物笑い、何者の住すまいかは知らぬが、少々お椽えんを拝借いたします、南無阿弥陀仏〱」

と静かに坐を占めまして、何方どっちが江戸か分りませぬが、

町「亡なき御両親様、此の身が此の世に出でし幼き時より、朝夕の艱難苦労かんなんくろうあそばしてお育て下さりました甲斐もなく、無事で亡き魂たまをお弔とむらい申すことも適かないませず、人も通わぬ山奥でむざ〱相果あいはてるとは、何なんたる不孝でございましょう、くれ〲もお許し下さいまし、たま〱御両親のお鑑識めがねにて、末頼もしき夫を持ちましても、運拙つたなくして重なる不幸、今頃何処どこに何どうしておいでなさるやら、但しは山賊のためにお果てなされしか、私わたくしは不幸にも斯かかる深山みやまに流浪の身、一粒の米もなければ居所もなし、此の儘餓死うえじにいたすでございましょう、不孝な娘とお叱りなきよう、くれ〲も願いまする、先程無法な振舞をした剣客者けんかくしゃというは、面おもては素もとより知りませぬが、江戸の者といい、又大伴……万一敵かたきではないか知らん……たとえ敵であればとて、先程の手並では迚とても及ばぬ女の悲しさ、寧いっそ辱はずかしめられぬ其の内に、おゝ左様そうじゃ左様じゃ、此の身を汚けがしては其れこそ自害にまさる不孝不義、旦那様お免ゆるし下さいまし」

と覚悟の折柄、がさ〱音がしまするので、瞳を定めて見ますると、例の大熊でございます。

町「おゝ、そちは何時いつぞやの熊であったか、先程は宜よう加勢をしてくれやった、其方そちと私と何どういう因縁か知らぬが、去年こぞの冬から我身を助け、今又此処こゝに来合わして、既すんでのこと辱はずかしめを受けようとする危急を救うてくれるとは辱かたじけない、有難い、よう聞分けてくれよ、かく申す私は親の代から浪人の身とは云いながら、武士の娘で武士へ縁付き、夫の出世大事と身を粉こに砕きて辛労しんろうの甲斐もなく、又我が夫とても数多あまたの人を助けた事こそあれ、塵ちりほども我が心に愧はずるような行いをした事はない、それに如何いかなる因果の廻めぐり合せか、重ね〲の不幸続き、いよ〱今日という今日は死なねばならぬ事に成り果てました、今までの恩誼おんぎはたとえ彼あの世へ往ゆこうとも決して〱忘れはせぬ、此の上は其方そちも山奥へ帰り、くれ〲も用心して猟人かりゅうどや無法者に出会わぬよう、無事で達者で長生ながいきしてくれよ、思えば〱、人間を助けるほどの情深きお前をば、何故なぜ天は人にしなんだか、世はさま〲とは申しながら、甲斐なく思うぞよ」

と熊の頭つむりを撫でて暫く有難涙ありがたなみだにくれて居りますると、熊も聞分けてか、悄然しょうぜんと萎しおれ返って居りまする。お町は涙を払いながら、

町「さア〱、もう覚悟の我が身、何なんの怖いこともない、早く帰ってくれ、さゝ帰ってくれ、まだ私わしを慕したっていますか」

と思わず熊の首のあたりに飛付きまして、よゝとばかりに泣き沈んで居りましたが、暫くして我に返り、

町「さゝ、夜よでも明けて猟人に見付けられては其方そちが危あぶない、早う帰ってくれ」

と両手を合せて伏し拝み、懐中より取出したる夫文治より譲りの懐剣を抜放ち、

町「旦那様、御免遊ばせ」

とあわや喉笛のどぶえへ突き立てようと身構えました。さて文治が再度の難船に舟人諸共もろとも気絶いたしました次第は前回に申上げました。天義士を棄てず、あたりの船頭がこれを見付けまして、

「やア〱彼処あすこに旅人が倒れてらア、それ難船人なんせんにん々々々、確しっかりしろよ、おゝ気が付いたか」

文「これは〱何処どこのお方か存じませぬが、お助け下さりまして有難う存じます」

船頭「とても駄目だと思ったが、よく気が付いたなア」

文「有難う存じます、今一人いちにんの舟人は如何いかゞ致したか、御存じありませぬか」

船「此処こゝにいるじゃねえか、見なせえ、此の通りの打傷、いろ〱介抱もしたが、とても駄目だ、諦めなせえ」

と聞いて文治は舟人の亡骸なきがらに縋すがり。

文「これ島人、これ島人」

もう冷え切って居りますから、いくら呼んでも甦よみがえりは致しませぬ。

文「さて〱不憫ふびんなことを致したわい」

船「どうも仕方がねえだ、諦めなさるが宜いい」

文治は夢を見たような心地、

文「一体こゝは何処どこでござりましょう」

船「何処ッて大変な処だ、己おらア新潟通いの船頭だが、昨日きのうの難風なんぷうで、さしもの大船たいせんも南の方ほうへ吹付けられ、漸ようよう此処こゝまで帰る途中、毀こわれた小舟に二人の死骸、やれ不憫なことをした、定めし昨日の風で難船したのだろうと、幸いに風も静かになったから、手数を掛けてお前がたを助けてやったのだ」

文「何なんともお礼の申そうようもございませぬ、こゝは越後の新潟近所でございましょうな」

船「どうして〱、これから新潟までは何百里という海路、三日や五日で往いかれるもんじゃアねえ」

と聞いて文治は今更呆気あっけに取られて居りまする。

三十九

文治は暫しばし呆気に取られて居りましたが、

文「新潟通いの船とあれば、定めし此の船は新潟へまいるのでございましょうな」

船「へえ、新潟へ往いく船でがす、見受けるところお前様めえさんはお武家様のようだが、一体何処どこのお方かね」

文「私は江戸の者でござります、故ゆえあって越後新潟へまいります途中、信州二居ヶ峰、中の峠にて山賊に出会い追い往ゆく中うち、女房を見失い、彼方あちら此方こちらと尋ねますと、新潟沖に大船たいせんがあって、其の船に海賊が……」

と云いかけて四辺あたりを見廻し、

文「多分その大船に居おるであろうと人々のいうにまかせ、取急ぎ新潟へまいりまして、旅宿りょしゅくにて船の様子を尋ねて居おると、こう〱いう奴の勧めに従い、二人ににんの舟人を雇うて沖へ乗出したところが、図らずも難風に出会い、その二人の舟人は途中に於おいて相果てました、一人いちにんの舟人が死際しにぎわの懴悔話ざんげばなしを聞きますると、旅宿で船の世話をしてくれた商人あきんども其の二人の舟人も同じ穴の貂むじな、やはり海賊の手下であったそうでございます、察するところ私わたくしの女房も同じ仲間の奴に勾引かどわかされ、海賊船かいぞくぶねに取押えられて居りはせぬかと案じて居おる折柄、こゝに死んで居る島人が、私の漂うて居った無人島へ来きたりしゆえ、辛かろうじて其の舟に乗込み、一度新潟沖に着ちゃくいたし、女房の在所ありかを尋ねようと思って小舟を乗出したところが、又も難船して此の始末、お救い下さいまして有難う存じます、只今貴所方あなたがたより此の船は新潟行ゆきと承わって、恟びっくりするほど喜びました、此の上の御親切に何どうか私を新潟までお連れ下さいまし、此の御恩は死すとも忘れませぬ」

船「まア〱お前めえさん、安心して目でも眩まわすといかねえ、薬でも飲まっせえ」

文「何から何まで辱かたじけのう存じます」

船「お前めえらが連つれの死んだ人ア何どうすべえ」

文「ほんに心付かなかった、只今まで船の中で死んだ者は何ういう扱いを致すものでしょう」

船「陸おかが近けりゃア伝馬てんまへ積んで陸へ埋うめるだが、何処どこだか知んねえ海中じゃア石ウ付けて海へ打投ぶっぽり込むだ」

文「左様ですか、永く置いては船の汚けがれ、此の儘何どうぞ」

船「おゝ合点がってんだ、客人成仏じょうぶつさっせえ、それ〱江戸の客人危ねえぞ」

文「はい、有難う存じます、南無阿弥陀仏〱」

さて文治は船頭の介抱にて身体も以前に復し、それ〲金を出して礼をいたし、日を経て無事に新潟沖へ着船いたしまして、伝馬で陸おかへ上あがり、一同無事を祝して別れを告げました。これより文治は彼方あなた此方こなたと尋ね廻りまして、漸ようやく此の前泊りました旅籠屋はたごやへまいりました。

文「はい、御免下さい」

女「入っしゃいまし」

文「一昨年中はいろ〱お世話になりました」

と云われて主人は暫く文治の顔を見詰めて居りましたが、漸く思い付いたと見えまして、

主「やア旦那様、よくまア……ほんにマア宜よく御無事でお帰りなさいましたなア、何どうして助かりやしたえ、あの時私わしがあれ程お前様めえさまに、ありゃア海賊の手下だと申しやしたのに、何なんでもお前様ア見物に往いくだってお出でなさりやしたが、それきりお帰りが無ねえから、いくらお侍でも殺されたんべえと思っていやしたが、宜くまア帰ってござらしった、お目出度めでとう存じます」

文「いや、あの二人の舟人と親船までまいらぬ内に難船してな」

主「へえー難船しなすったかえ」

文「どうせ魚の餌食えじきと覚悟して船の漂うまゝに任したのが、却かえって幸いとなって無人島むにんとうへ着きましてな」

主「へえ、無人島、それから何どうしなすった」

文「いやはや無人島でさん〲難儀いたしました」

主「まア、そりゃア飛んだ事でござりやした、お同伴の船頭二人は何どう為なせえましたね」

文「お前のいう通りあの二人も海賊の手下であった」

主「それ御覧なせえ、それだから私わしがあんなに止めたのに到頭とうとう強情をお張りなさって」

文「今更そんな事を云っても追付おっつかない」

主「その二人は何どうしやした」

文「天罰は恐ろしいもので到頭船の中で死にました」

主「旦那様がお殺しなすったのでやすかえ」

文「いや左様ではない、彼ら二人は毒を喰って死にました」

主「へゝえ成程、因果ちゅうものは恐ろしいもんでやすなア」

文「御主人、話は変るが、この貼付はりつけの中うちにある短冊たんざくは何者の筆蹟でござるな」

主「へえ、こりゃ熊女が書きやした」

文「その熊女と申すのは誰でござるな」

主「何なんだか知りましねえが、信州の山の中で熊に助けられたとかいう女でござりやす」

文「はてな、この歌といい筆蹟といい好よく似た者もあるものだな」

と暫く首を拈ひねって居りましたが、

文「こりゃア正まさしくお町の筆蹟に相違ない……この女はまだ生きて居りますか」

主「生きて居おるにも何も此の通り字を書きます」

文「何処どこに此の女は居りますか」

主「此の間まで二居峠、中の峰の寺に居りやしたそうで、これを其の先頃せんころ当所で海賊を退治しやした江戸の剣術の先生が聞付けやしてな、美人だてえので態々わざ〱逢いに往いきやしたところが、その熊女が逃出したそうで、けれども先生だから免ゆるさねえ、山の中へ追ッ掛けてまいりやすと、何処どこを何どう嗅付けたか、大きな熊がむく〱と出て来やして、先生様の腕を押えておっぽり出しやした、それきりさア、誰もその熊が怖おっかねえッて其の山へ往ゆく者もなアありやせんよ」

と伝聞の儘を物語りました。

四十

文「御亭主、それは何時頃いつごろの事ですか」

主「なアに直じき先月のことでありやす」

文「左様か、どうも有難い、就ついては御亭主中食ちゅうじきの用意をして下さい、今から夜へ掛け、その二居峠中の峰まで往ゆかにゃアならぬ」

主「へえ、あなたも熊女に逢いたいのでがすかえ、兎角剣術の先生は熊女が好きと見えますな」

文「そんな事は何どうでも宜よい、早く中食を」

主「今から何うでも往いかっしゃるか、十里べえありやすぜ」

文「次第に依よっては一晩ぐらい途中へ泊っても苦しゅうない」

主「さア駄目でがす、雨え降ってまいりやした」

文「ウーム、何処どこまで天道様は此の文治をお憎にくしみなさるか、これしきの雨、何程のことやある、それッ」

と身軽に打扮いでたち、夜よに入いるも厭いとわず出立いたしますると、途中から愈々いよ〱雨が烈はげしくなりましたので、余儀なく一泊いたしまして、翌日二居峠の三俣村という処へまいります。日はとっぷりと暮れて足元も分らぬくらいになりました。地の理は宜よく聞いてまいりましたから、岐路わかれみちに迷いもせず、足元を見ては歩一歩ほいっぽ山深く入ってまいりますると、大樹だいじゅの蔭からのっそりと大熊が現われ出でました。流石さすがの文治も恟びっくりして、思わず二三歩後あとへ退さがり、刀の柄つかに手を掛けて寄らば突かんと身構えましたが、更に飛付く様子もなく、先に立って後うしろを振向き〱心ありげに奥深くまいります。

文「さては噂に聞いたお町を助けし熊はこれなるか、併しかし遥々はる〲越後から雨を冒おかして此の山奥まで尋ね来て、お町で無かった日にゃア馬鹿々々しいな、何どうかお町であってくれゝば宜いいが」

と心中に神々を祈りながら熊に尾ついてまいります。やがて半道はんみちも来たかと思いますと、少し小高き処に一際ひときわ繁りました樹蔭こかげがありまする。何か知らんと透すかして見れば、樵夫きこりが立てましたか、但たゞしは旅僧たびそうが勤行ごんぎょうでもせし処か、家と云えば家、ほんの雨露うろを凌しのぐだけの小屋があります。文治は立止って表から大声に、

文「えゝ、お小屋に何方どなたかおいでなさるか、はて、人のいそうな家だが、御免下さい」

と中へ入って見ましたが、暗がりで少しも分りませぬ。懐中から用意の火打道具を取出しまして、附木つけぎに移し、四辺あたりを見ますと、何時いつか熊は何処どこへか往ってしまいました。

文「何どうも人の住んだような跡があるが」

と又附木を出して隈くまなく見廻しますと、柱とおぼしき処に何か書いてあります。それも木の燃えさしで書きましたのですから、はっきり分り兼ます。その内に附木は燃え切ってしまう。

文「やア、こりゃ困ったわい」

と其処そこらの木屑きくずに火を移して読みますると、「我が恋は行方ゆくえも知らず果てもなし」までは読めましたが、後あとは確しかと分りませぬ。これは古今集の恋歌こいかでございますが、筆蹟は消し炭で書いたのですから確と分りませぬ。

文「全くお町の成れの果ではないか知らん、旅宿りょしゅくで見た短冊たんざくといい、今また此の歌といい、何どうもお町らしい、お町であってくれゝば何どれ程嬉しかろう、神よ仏よ、早く此処こゝに居合す人に逢わせ給え」

と祈って居りますと、積る木この葉を踏分け来きたるは正まさに人の足音でございます。

文「はてな、今其処そこへ人が立止った様子、もしやお町では無いか知らん」

と燈火あかりを翳かざして見ようとする途端に火は消えてしまいました。何か口の中うちで云うて居おる言葉は確かに女の声であります。もう文治は耐たまり兼て、「やアお町か」と駈出そうと致しましたが、心を静め、

文「待てよ、先刻せんこくから表に佇たゝずんだまゝ近寄らぬ処を見れば、日頃女房に恋い焦こがれている我が心に附け入って、狐狸こりのたぐいが我を誑たぶらかすのではないか知らん、いや〱全く人かも知れぬ、兎も角も声をかけて見よう」

と度胸を据すえて、

文「表においでなさるのは何方どなたでござる、私わたくしは此の山中に迷うて居おる女子おなごを尋ぬる者でござるが……」

と云いながら静かに立って女の側に立寄ろうと致しますと、件くだんの女は二三歩後あとへ退さがりまして、

女「おのづから涙ほす間まも我が袖に[#欄外に「続千載集巻四、秋上、太政大臣。」の校注あり]」

文「露やは置かぬ秋の夕暮」

町「えッ、そんなら貴方は旦那様か」

文「おゝ、お町であったか」

町「旦那様ア、御免遊ばせ、おゝ嬉しい、おゝ嬉しい」

と馳はせ寄って文治に抱き付き、胸に顔当てゝ、よゝとばかりに泣き悲かなしんで居りまする。文治も拳こぶしにて涙を払いながら、左手ゆんでに確しっかりとお町の首を抱えて、

文「町や、よう達者でいてくれた、よもや此の世の人ではあるまいと思うた、よう達者でいてくれた、こんな嬉しい事はないぞ、さぞ難儀したであろう、さぞ困苦艱難こんくかんなんしたであろう、この文治もの、そちに劣らぬ難儀はしたが、天日てんぴに消ゆる日向ひなたの雪同前、胸も晴々はれ〲したわい、おゝ斯様こんな悦ばしい事は……」

と鬼を欺あざむく文治もそゞろに愛憐あいれんの涙に暮れて、お町を抱かゝえたまゝ暫く立竦たちすくんで居りまする。お町は漸ようやく気も落着いたと見えまして、

町「旦那様、私わたくしは……」

文「もう宜いい、もう宜い、何も云うてくれるな、敵かたきの手掛りも薄々知れて居おるゆえ、今に満足させるぞよ」

町「はい、旦那様、あの蟠龍軒めは……」

文「よし〱、左様に心配してくれるな、おゝ悦ばしい」

とお町の手を取って小屋の内に一休み、言わず語らず涙にくれている、互いの心の中うちは思いやられて不憫ふびんでござりまする。

四十一

文治夫婦は深山みやまの小屋にて、島に一年蟄居ちっきょの話、穴に一年難儀の話、積る話に実が入いりまして、思わず秋の夜長を語り明しました。

文「もう夜よが明けたの」

町「おや、もう夜が明けたのですか」

と云って居りますところへ一人の男がやってまいりまして、

「やア旦那様」

文「おゝ、そちは國藏ではないか」

國「旦那様、漸ようようのことで尋ね当てました、これは御新造様御無事で」

町「おや、國藏さんですか」

國「まア何どうしてお二人が斯様こんな処に、夢じゃアありますまいなア、私わっちやア嬉しくって耐たまらねえ」

文「まア其方そちは何うして斯様な処へ来たのか」

國藏は涙を払い、

國「話しゃア長なげえことですが、一昨年の秋中あきじゅう、旦那が越後へお出でなすったと聞きやして、後あとを慕したって参めえりやして、散々此処こゝらあたりを捜しましたが、さっぱり行方が分りませんので、到頭越後まで漕付こぎつけやした、だん〱尋ねたところが、斯こう〱いう方が何処其処どこそこへ泊ったと云いやすから、其処へ往って聞きますと、二三日前ぜんに沖見物をすると云って船に乗り出したと聞いて、私わっちアどの位くれえがっかりしたか知れやせん、まご〱している内に生憎あいにく病気に罹かゝりやして、さるお方の厄介になって居ります中うちに、江戸の侍が海賊を退治したという噂、幸い病気も癒なおりやしたから、もしや旦那ではないかと様子を聞きやしたところが、確かに大伴蟠龍軒、どうか旦那方を捜してお知らせ申したいと思っている内に、その手柄か何か知らねえが、江戸においでなさる御領主様がお抱かゝえになるとか云う事で、先月末に蟠龍軒めは江戸を指して出立しやした」

文「それは宜よい事を聞いた、それにしてもお前は何どうして此処こゝへ」

國「さア、その御不審は御尤ごもっともですが、越後にいる時分この山中に迷っている美人があると云うことを風の便りに聞きましたから、江戸に帰る途中、もしやと思って昨日きのうから捜した甲斐あって、此処でお二人にお目に懸るとは神様のお手引でござんしょう、私わっちアこんな嬉しい事はござりやせん」

文「あゝ、つい話に紛れて忘れて居ったが、お前は何どうして蟠龍軒の顔を知って居おるか」

國「私わっちア一向存じやせんが、女房にょうぼのお浪なみが浅草の茶屋にいる頃から宜よく知って居りまして」

文「左様か、お前は女房まで連れて私わしの跡を慕って来たのか」

國「へえ、ところが今いう通り、越後で病気に罹かゝりやしたが、私わっちア一文も銭がねえから可愛想だとは思ったが、お浪を稼ぎに……」

文「なに、お浪を勤めに出したと」

國「へえ、旦那の為にゃア命を助けられた私わっちども夫婦でござんす、身を売るくれえは当り前めえの事です、さア今からお支度なさいまし、江戸へお供を致しやしょう」

文「そうするとお前は、お浪を越後へ置去りにして来たのだな」

國「そんな事は何どうでも宜いいじゃ有りやせんか」

文「いや左様そうでない、幸いに文治は二度も難船して、九死一生の難儀をしたが、肌身離さず持っていた金は失わぬ、さアこの金子きんすでお浪を請出し、そちは後あとからまいれ、礼は江戸で致すぞよ」

國「そんなら旦那様、折角の御親切を無にするも如何いかゞ、このお金は有難く頂戴いたします、御新造様、随分危険けんのんな山路やまみちですからお気をお付けなせえまし」

町「有難うございます、早くお浪さんを連れて江戸へお帰り下さいまし」

文「國藏、心置こゝろおきなく緩ゆっくりと後あとからまいれ、さアお町、もう斯こうなったら一刻も早く里へ出て支度をせねばならぬ」

と衣類其の他たの支度をなし、江戸表をさして出立しまして、先まず本所業平を志して立花屋へまいりますと、何時いつか表は貸長屋になって、奥に親父おやじが隠居して居ります。

文「御免下さい、立花屋の御主人は御在宅かね」

主「はい何方様どなたさまで、いや、これは〱旦那様、よくお達者でおいでなさいました」

という言葉も涙ぐんで居ります。

主「よくまア旦那様、おや、これは〱御新造様でございますか、ようまアお揃そろいで、何方どちらからおいでになりました」

文「いや永々なが〱御心配をかけまして有難う存じます、何から申して宜しいやら、何どうも江戸を経たって後のちはさま〲な難儀に逢いました」

町「伯父おじさん、あなたも宜ようお達者で」

主「さア〱お上りなさいまし……おい、婆ばアさん、お茶を持って」

婆「これはまア旦那様、御新造様、何どうしてまア」

主「婆ばゞアや、御挨拶は後あとにしろ」

主「えゝ旦那様、私も御覧の通りの老人、料理屋を止やめまして、只今では表長屋を人に貸しまして、忰せがれは向島の武藏屋むさしやへ番頭と料理人兼帯けんたいで頼まれて往って居ります、旦那様はお宅をお払いになりまして、差当り御当惑なさいましょう、実は婆さんと二人で淋しく思っているところでございますから、おいで下さいますれば却かえって好都合でございます」

と老人夫婦は下へも置かず懇ねんごろにもてなして居ります。

四十二

文治も悦んで、

文「実は差当り居所いどこに当惑いたしましたので、お頼みにまいりました、何分よろしく、お町丁度宜よかったなア」

町「まア何より有難う存じます」

文「友之助や森松は相変らず折々遊びにまいりましょうか」

主「えゝ、もう皆さんが代り〱お尋ね下さいます、いつも森松さんが来なさると、貴方のお話をしちゃア帰りには泣別れを致します、それからつい十日ばかり以前でございますが、友之助と豊島町の亥太郎さんが落合いまして、旦那様方が無事に蟠龍軒を討って来れば宜よいがと、大層心配しておいでなさいました」

文「はい、手前どもゝ其の決心で江戸表を立ってまいったのでござりますが、行違ゆきちがいまして、又ぞろ江戸へ引返ひっかえしてまいるような事になりました、此の上は松平公の御家中藤原氏しを頼み、手続きをもって尋ねましたなら、蟠龍軒の居所いどこの知れぬことも無かろうと思います」

主「それは〱、何どうかまア此の老爺おやじの生きて居ります中うちに、敵かたきが討てますれば、もう私わたくしは外ほかに思い残すことは有りませぬ、何うか一刻もお早く」

町「他人の貴方様までそう思召して下さるのは誠に有難う存じます」

ところへ亥太郎がぶらりと遣やってまいりました。文治夫婦を認むるより狂気の如く飛上って、

亥「やッ旦那、よくお帰りなせんした、御新造嬉しい、私わっちア亥太郎でござんす」

と互の挨拶も済んで、それから主客数人、久々の逢瀬おうせに語り尽つきせぬ其の夜よを明しまして、一日二日と過ぎます内にはや三月の花見時、向島の引ける頃、混雑の人を掻退かきのけ〱一人の婦人が立花屋へ駈付けてまいりまして、

女「はい御免下さいまし、此方こちらは立花屋の隠居でござりますか」

主「何方どなたでございますえ」

女「はい私わたくしは向島の權三郎方ごんざぶろうかたから」

主「あゝ忰がまいって居りますから其の使つかいにでもおいで下さいましたか、それとも忰めが何か馬鹿な事でも致しましたか」

女「いえ〱私わたくしはそんな忌いやらしいことで参ったのではありませぬ」

主「へえ、これは失礼な事を申しました、貴方は年を取っておいでゞもお美くしいから、万一忰が夫婦約束でも致しはせぬかと邪推して失礼を申しました、へえ御免下さいまし、へえ〱何なんの御用でござりますか」

女「ちょっと貴方の息子さんにお聞き申したい事がありまして」

主「それいよ〱、いえ忰は一寸ちょっと」

女「いゝえ、そんな事ではござりません、此方こちらに文治様がおいでなさいましょうか、ちょっとお伺い申します」

主「一体あなたは何方どちらからおいでになりました」

女「私わたくしは当時權三郎方に居ります下女でござりますが、何なんと申したら宜ようござりましょうね、あの何なんでござんすよ、三宅島からと申して下さいまし」

主「えッ、島から、さア大変、旦那様ア女嫌いだとばかり思っていたが、島においでなすったらお気が変ったと見えて、飛んだ事をやらかしなさいましたなア」

女「御老人様、あなたは何を仰しゃるのでございます、私わたくしはそんな浮気なことで参ったのじゃア有りません、ちょっとお目に懸って大事な事を」

主「大事な事とは何事で」

女「まア取次いで下さいまし」

主「えゝ旦那様、島から女が来ました」

文「文」は底本では「女」と誤記「はてな、無人島むにんとうから来る訳はないから定めし三宅島でありましょう、何方どなたか知らんがお通し下さい」

女「これは〱旦那様、暫く」

文「さア此方こちらへ、何どうも見覚えはございませんが何方でございましたろう」

女「はい、お忘れは御尤ごもっともでございます、私わたくしは三宅島に居りまして、いろ〱お世話どころではございません、一命をお助け下さいました八丁堀阿部忠五郎の娘お瀧でございます」

文「やアお瀧さんでしたか、まるで見違いました、赦免の後のちは此の辺へまいって居おるのですか」

女「はい、向島の權三郎というお家うちに下女奉公を致して居ります、旦那様が島においでの時分、折々お話のございました大伴蟠龍軒」

文「えッ」

女「その大伴がまいりました」

文「えッ、そゝそゝそれは何方どちらへ」

女「花見がてら權三郎方へまいりました」

文「それは何時いつの事で」

女「今日のことでございます、此の十四日かに松平様とかのお役人様方をお連れ申すから、八九人前の膳部ぜんぶを整えて置くようにというお頼みでございます」

文「ウム」

女「私わたくしは他事ひとごととは云いながら、命の恩人の敵かたき、すぐに飛びかゝろうかと思いましたが、先は剣術遣つかい、女の痩腕やせうででなまじいな事を仕出来しでかして取逃すような事がありましては、御恩を仇あだで返すようなものだと思い直しまして、何どうしようかと案じて居ります矢先、御当家の御子息さんから、近頃私の家うちの隠居所に島から帰った侠客おとこがいると聞いたことを思い出しまして、それとなくかまを掛けて聞きますと、確かに旦那様のようでございますから、直すぐとは存じましたが、ひょッと途中で蟠龍軒に気取けどられるといかぬと思いまして、日の暮々くれ〲に出かけてまいったのでございます」

という知らせ、情は人の為ならずとは宜よう申したものでございます。

四十三

文治はお瀧の注進を聞きまして、飛立つばかり打悦び、

文「フーム、この十四日に蟠龍軒が權三郎方へ来るとな、辱かたじけない、その大伴は十四日の何時なんどき頃来ますか、定めし御存じでしょうな」

女「多分昼前からまいるように申して居ったように聞きました、お帰りは確かに夕方ゆうかたと申しました」

文「この御親切は決して忘わすれませんぞ、さゝ、お前さんは人に心付かれぬように早くお帰り下さい、お礼は後あとで致します」

女「何どう致しまして、そんなお心遣こゝろづかいには及びません、左様なら旦那様、追ってまた私わたくしからお礼をいたします」

文「それこそ無用、これが何よりの礼だ、この文治は生れてより是れ程悦ばしいお礼を受けた事はござらぬ、千万辱けのう存じます」

と両手を支ついて居ります。

女「旦那様、それでは恐入ります、何どうぞお手をお上げ下さいまし」

文「御主人……御主人」

主「はい〱、すっかり聞きました、さアお使つかいなら何処どこへでもまいります」

文「御老人を使うは心ないようでござるが、大切の使、外ほかの者に頼むわけにまいらぬから、御苦労でも一寸ちょっと松平右京殿のお屋敷まで」

主「はい、あの藤原喜代之助様のお屋敷」

文「左様、この手紙を御持参下さい」

主「主」は底本では「文」と誤記「へえ〱畏かしこまりました」

ところへまた亥太郎が参りまして、

亥「へえ、亥太郎でございます」

文「おゝ、亥太郎殿か、さア〱此方こちらへ」

亥「まア御機嫌ようござんす」

文「亥太郎殿、一寸ちょっと奥へ……さて亥太郎殿、文治が改めて申入れる」

亥「へえ、何事でござんすか」

文「これまで永らく兄弟同様の縁を結びまして何から何までお世話にあずかりましたが、此の後ごこの文治の頼むことを屹度きっとお聞済み下さるか」

亥「さりとは又改まった御口上ごこうじょう、へえ旦那のいう事なら何なんでも聞きましょう、命に懸けても」

文「千万辱けのう存じます、さて亥太郎殿、かく申す文治は此の度たび一生に一度の悦ばしい事が出来ました」

亥「そいつア有難ありがてえ」

文「その悦びと申すは外ほかではない、敵かたき蟠龍軒が壮健で居りますぞ」

亥「へえ、それは〱」

文「一両日中に此の近辺で対面致します」

亥「あの蟠龍軒に、そいつア有難え、野郎め、其の時こそなぶり殺ころしに」

文「それでござる、其の時お助太刀すけだちは誓って御無用でござりますぞ」

亥「やッ、それ計ばかりは旦那聞かれません、今まで彼奴あいつの為に何どの位くれえ苦労をしたか知れやしねえ」

文「いやさ、其処そこがお頼みだ、武士の敵討に他人の力を借りたとあっては後世の物笑いになります、今まで文治が苦労をした甲斐がありません、さア此の道理を聞分けて、御心情はお察し申すが必らず助太刀して下さるな」

亥「へえ〱分りやした、そんなら宜ようござんす、併しかし唯たゞ見ているだけなら宜うござんしょう」

文「それは御勝手、成るべく遠くへ離れて御覧下さい」

亥「併し先方に助太刀があれば」

文「いや、それも御無用」

亥「それじゃア旦那余あんまりじゃアねえか」

文「はい、痩やせても枯れても文治は侍でござります」

亥「そりゃア云わずと分って居ます、それじゃア皆みんなに断らずばなるまい」

文「どうぞ宜しく頼む、なるたけ人に知れぬよう、万一逃がしたら百日の何なんとやら、そう事が分ったら一盃いっぱいやりましょう、これ町や」

亥「いや、私わっちア酒は絶って居りますから」

文「はて、それは又何故なぜに」

亥「それだから少しゃア手伝わして下さいと云うんです」

文「いや、それ程に思ってくれる御親切は辱けないが、武士の面目めんぼくに関わるから」

亥「えゝ宜ようがす、御機嫌宜う、十四日にゃア一生に一度の楽たのしみ、早朝から見物にまいりやしょう」

文「左様なら」

亥太郎は表へ出まして、

亥「あゝ、いつに変らぬ武士の魂、当世に二人とねえ男だなア」

入れ違いに藤原喜代之助が入って参りまして、

喜「文治殿、藤原でござります、先程から亥太郎殿がおいでの様子ゆえ少々控えて居りました、数年御苦労の甲斐あって此度こんどの悦び、お察し申上げます」

文「ようこそお出で下さいました、是に過ぎたる悦びはござりません、今日までの御助力有難うぞんじます」

喜「時に文治殿、予かねてお話の小野氏うじの脇差、中身は確か彦四郎定宗と覚え居りますが、拵こしらえは何なんでござりますか」

文「縁頭ふちかしらは赤銅魚子しゃくどうなゝこ、金にて三羽の千鳥、目貫めぬきは後藤宗乘の作、鍔つばは伏見の金家の作であります」

喜「承知いたしました、様子に依よったら御主人へ申上げて置きましょう」

文「いや、それは余り大業おおぎょうです、時の御老役のお耳に入れるまでの事はございません」

喜「併しかし御前へ上あがりますと折々文治は何方どちらに居おるのであろうというお尋ねがござりますゆえ」

文「いつに変らぬお情、切腹を御免になり、又流罪を御赦免下さいましたのも、皆其許そこもとのお執成とりなしと右京殿の御仁心ごじんしんによる事、文治は神仏より尊とうとく思うて居ります」

喜「いや、それと申すも、其許の日頃の行状が宜よければこそ、我らは真に世の中の鑑かゞみと信じて居ります、時に御家内様、敵かたきの行方が知れまして嘸々さぞ〱お悦びでござりましょう」

と一通りの挨拶をして、大分夜よも更けましたゆえ藤原喜代之助は暇いとまを告げて、一先ひとまず我家へ帰りました。

四十四

喜代之助は一旦我家へ帰りましたが、夜よの明くるを待兼て、其の夜の中うちに奥の女中に、

喜「夜更よふけにて恐入りますが、文治夫婦のお物語を申上げとうござる」

と取次を願いました。右京殿はお側の者を相手に一口召上っておいでの所へ、女中のお取次、早速御面会、喜代之助が

喜「予かねてお話のござりました文治事こと、来きたる十四日夕申刻なゝつ頃、向島に於て舅しゅうとの敵かたき大伴蟠龍軒を討ちます」

と申上げますと、

右京「本来ならば早速町奉行を呼んで取鎮め方を申付くべき筈であるが、予て義侠の心に富みたる業平文治が、舅の敵を討つとあっては棄置く訳にも行ゆくまい、承まわれば蟠龍軒とやらは宜よからぬ奴じゃそうな、討たせるが宜い」

と仰せられて、其の夜密書を藤原に持たせ、「文治の身の上に万一の事なきよう忍びやかに警固致し候うように」と御老中お月番松平右京殿より南町奉行石川土佐守殿へ御内達になりました。委細承知の趣おもむきを申上げて、それ〲手配りを致しました。此方こなた文治は其の夜から湯を沸かさして身体を浄め、ゆる〱十四日を待って居ります。またお町も例いつになく磨き立て、立派に髪を結上げまして、当日は別して美しく化粧を致しました。只さえ人並勝れた美人、髪の出来たて、化粧のしたて、衣類も極々ごく〱上品な物を選みましたので、いや綺麗の何なんの眼が覚さめるような美人であります。殊ことに貞女で、女の業わざは何なんでも出来るというのでありますから、文治とは好一対こういっついの美夫婦であります。頃は向島の花見時、一方口いっぽうぐちの枕橋近辺に其れとなく見張って居りますので、往来ゆきゝの人は立止りますくらい、文治は遥か離れて向島より知らせの来るのを待受けて居ります。そこら辺あたりに八丁堀の同心がちら〱見えるは、余所よそながら文治夫婦を警固して居おるのでござります。それから又權三郎の入汐いりしおから三囲渡みめぐりわたし、竹屋の渡しは森松、國藏が持切りで見張って居ります。其の頃は今と違いまして花見の風俗は随分下卑げびたもので、鼻先の円まるくなった百眼ひゃくまなこを掛け、一升樽を提さげて双肌もろはだ脱ぎの若い衆しゅも多く、長屋中総出の花見連、就中なかんずく裏店うらだなの内儀かみさん達は、これでも昔は内芸者うちげいしゃぐらいやったと云うを鼻に掛けて、臆面おくめんもなく三味線を腰に結び付け、片肌脱ぎで大きな口を開あいて唄う其の後あとから、茶碗を叩く薬缶頭やかんあたまは、赤手拭の捩ねじり鉢巻、一群ひとむれ大込おおごみの後うしろから、脊割羽織せわりばおりに無反むぞりの大小を差し、水口みなくち或は八丈の深い饅頭笠まんじゅうがさを被かぶって顔を隠したる四五人の侍がまいりました。確かにそれと思いましたが、顔は少しも見えませぬ。文治は扨さてはと身固めをして、件くだんの侍の近寄るを待って居ります後うしろから、立花屋の忰せがれが予かねての約束に従い、渋団扇しぶうちわをもって合図を致しました。ところが、ずぶろく酔うた亥太郎が横合からひょろ〱出かけまして、突然いきなり侍の笠に手を掛け、力まかせに引きますと、二人の侍は笠を取られて輪ばかり被り、真ッ赤になって、

侍「やい待て、無礼だ」

亥「やア人違ひとちげえだ、そんなら此奴こいつか」

とまた側に居おる侍の笠を取ろうと手を掛けますと、一人は其の場を外はずして逃げようとする後うしろから、立花屋の忰が怖々こわ〲ながら渋団扇で合図をいたしました。

亥「それッ」

と亥太郎は飛び掛って笠へ手をかける、其の手を取って捩上ねじあげようと致しましたが、仮にも十人力と噂のある左官の亥太郎、只今でも浅草代地の左官某が保存して居おるそうですが、亥太郎が常に用いました鏝板こていたは、ざっと一尺五六寸、軽子かるこが片荷かたに程の土を其の板の上に載せますと、それを左に持ちまして、右の手で仕事をすると申します。斯程かほどの大力だいりきある亥太郎、なか〱一人や二人の力で腕を捩上げるなどという事の出来るものではござりません。

亥「この三一さんぴんめ、生意気なことをするな」

と忽たちまち其の手を捩返しました。ところへ文治が駈はせ寄って亥太郎の腕を押え、

文「亥太郎殿、こんな事があろうと思えばこそ、あれ程頼んだではないか、お控えなさい」

亥「へえ〱」

文「御免」

と其の侍の笠に手をかけ、ぽんと〔「※」は「てへん+毟」〕むしり取りました。

文「いや大伴蟠龍軒、久々で逢いましたな」

はたと睨にらみ付けますると、後うしろに笠の輪ばかり被って居りました四人の侍、「汝おのれ、無礼者」と刀に手をかける其の横合より、八丁堀の同心体ていの人、

「これ〱お控えなさい、舅の敵討でござるぞ、それとも尊公そんこう達はお助太刀なさる思召おぼしめしか」

侍「いや、助太刀ではござらぬ」

同心「左様ならお控えなさい」

亥「やい三一、ぐず〱しやがると豊島町の亥太郎が打殺ぶちころすぞ」

同「其の方の出るところではない、お控えなさい」

亥「何なんだと」

文「おい亥太郎殿、お役人様だぞ、控えろ、さア大伴、もう斯こうなったら致し方はござらぬ、侍らしく名告なのって尋常に勝負なさい」

侍「何事かは知らぬが、人違いではござらぬか、よし又拙者が大伴にもせよ、敵といわれる訳はござらぬ」

文「卑怯なことを云うな、過ぐる年三十日みそかの夜よ、お茶の水にて小野庄左衞門を切殺し、定宗の小刀しょうとうを奪い取りし覚えがあろう、論より証拠、その差添さしぞえは正まさしく庄左衞門の差添、然しからずと云うならば出して見せえ、小野の娘お町は今は斯かく申す文治の妻なり、お町〱、これへ参れ」

と云われて大伴蟠龍軒は顔色がんしょく土の如く、ぶる〱震えて居りまする。

四十五

お町は敵討の支度かい〲しく現われ出で、

町「おのれ蟠龍軒、眼さえも見えぬ父上様を、よくも欺だまして引出し、無慚むざんにも切殺したなア、さア汝おのれも武士の端くれ、名告なのって尋常に勝負せい、さア〱悪党、いかに〱」

時に友之助、

友「やい蟠龍め、この煙草入は覚えが有ろう、この友之助が其方そちへ売った煙草入、お茶の水の人殺しの時、亥太郎さんに取られたであろう、さア何どうじゃ、えゝ、この意気地無いくじなしめが」

いかに卑怯な蟠龍軒でも、もう斯こうなっては逃げる訳に参りませぬ。

蟠「ウーム、かく申す大伴の道場へ夜中やちゅう切込んで、泥坊同様なことをしたのは其の方どもだな、よし、片ッ端から切伏せくれん、さア支度いたせ」

と言いながら四辺あたりを見ますると人一ぱい。國藏、森松、亥太郎始め、皆々手に〱獲物を携たずさえ、中にも亥太郎は躍起やっきとなって、

亥「さア人面獣心にんめんじゅうしん、逃げるなら逃げて見ろ、五体を微塵みじんに打砕うちくだくぞ」

文「大伴氏、最早逃げようとて逃すものでない、積る罪業ざいごうの報いと諦めて尋常に勝負せい、お町、其方そち少し下さがって居れよ」

相手は大勢おおぜい、蟠龍軒は隙すきあらば逃げたいのは山々でござりますが、四辺あたりは一面土手を築ついたる如く立錐りっすいの余地もなく、石川土佐守殿は忍び姿で御出馬に相成り、与力は其の近辺を警戒して居ります。尚お右京殿の使者も忍び姿にて人込みの中に紛まぎれ込み、藤原其の他二三の侍も固唾かたずを呑んで見張って居りまする。文治は静かに太刀を抜放ち、

文「さア大伴氏、其許そこもとは舅の敵の其の上に、よくも此の文治が面部に疵きずを負わし、痰唾たんつばまで吐き掛けたな、今日こそ晴れて一騎討の勝負、疾とく〱打って来い」

蟠龍軒はぶる〱総身そうみに震いを生じ、すらりと大刀抜くより早くお町の方を目がけて一太刀打込みました。

文「何をするッ」

と文治は横合より打込む太刀を受け止め、

文「女を相手にしようとは卑怯な奴じゃな、さア此の文治が相手だ」

時に見物一同声を挙げて、

「馬鹿野郎、卑怯な奴だ、叩たゝッ切ってしまえ」

乙「どうだえ、女が切られなくって宜よかったなア」

丙「どうも美いい女だなア、あの後姿の好いいこと、桜の花より美くしいや、ちょっと姉ねえさん、此方こちらを向いて顔を見せておくれ」

丁「気楽なことを云うな」

同心「これ黙れッ、やかましい」

甲「見ろ〱八丁堀が見張っているぞ、併しかし今日の花見は宜いい日だったなア、雨が降出さねえと好いいがな」

乙「馬鹿野郎、こんなに日が当って居いるじゃねえか」

甲「でも己おれの頭へ露が垂れたぞ、やア今日の雨は腐っていると見えて馬鹿に臭いなア」

と後うしろを振向いて見ますと、糞柄杓くそびしゃくを担かついだ男が居ります。

甲「この野郎め、途方もねえ野郎だ」

同心「これ百姓、静かにしろ」

見物「何なんだ箆棒べらぼうめ、糞の掛けられ損か、それ打込むぞ、やア御新造危あぶねえ〱、此方こっちへお出でなせえ、やアれ危えッてば」

こゝぞと文治は打込もうと隙を窺うかゞって居りますと、蟠龍軒は其の切っ先に怖れてか、じり〱後あとへ退さがります。

見物「やア親爺おやじ、後うしろは川だぞ、もう一足ひとあしで川だ、馬鹿野郎」

と口々に呶鳴どなり立てられて、元来卑怯未練な蟠龍軒、眼が眩くらんだと見えまして、五分ごぶの隙もないのに滅茶苦茶に打込みました。文治はチャリンと受流し、返す刀で蟠龍軒の二の腕を打落しました。やれ敵かなわぬと逸足いちあし出して逃出す後うしろから、然そうはさせじと文治は髻たぶさを引ッ掴つかみ、ずる〱と引摺り出して、

文「さアお町、親の敵存分に怨うらめ」

町「はい……おのれ蟠龍軒、よくも我が父を殺せしよな、汝おのれ如き畜生のために永い月日の艱難苦労、旦那様は入牢じゅろうまで致したぞよ」

と胸元目がけて一太刀打込みますると、

文「お町待て、これ蟠龍軒、よくも今まで達者で居てくれたの、斯こうなるからは最早怨みはないぞ、静かに往生しろよ、死後には必らず香華こうげを手向たむけて遣つかわすぞ」

と申し聞けまして、お町に向い、

文「さアお町、十分に止とゞめを刺せ」

町「はい、大伴、親の敵思い知れッ」

とずぶりと突き通されて息は絶えました。見物一同、山の崩れる如くわッ〱という人声ひとごえ、文治は取急ぎ血刀ちがたなを拭い、お町に支度を改めさせて与力に向い、

文「いずれお役人様が御出役ごしゅつやくになりましょうが、市中を騒がし御法を犯せし我ら夫婦、お縄を頂戴いたします」

と大小を投出しました。

与力「いや御浪士、縄には及ばぬ、併しかし大小はお預かり申す、ゆる〱お支度なさい」

文「有難う存じます、お町支度は宜よいか」

同心「大分お疲れの様子、こゝに薬が有りますが、同役、水を」

文「何から何までお手数てすうをかけまして恐入ります、私わたくしは気付には及びませぬ」

法は法、抂まげる訳になりませぬから、文治お町の両人を駕籠に乗せて奉行所へ引立ひったてました。花時の向島、敵討があると云うので土手の上は浪を打ちますよう、どや〱押掛けてまいりまして、蟠龍軒の死骸を見ては唾つばを吐くやら蹴飛けとばすやら弥次馬連が大騒ぎをして居ります。此方こなたは奉行所、一応吟味の上、

奉行「悪漢無頼の曲者くせもの、殊に舅の仇あだを討つは武士の嗜たしなみ、天晴あっぱれな手柄」

というお誉ほめ言葉がありまして、早速帰宅を許されました。此の事がパッと世間に広まりまして、さア諸家から召抱めしかゝえにまいること何人という数知れず、なれど文治は、

文「手前は主取しゅうとりの望みはござらぬ、折を見て出家いたす心底しんていでござる」

と一々断りましたが、旧主堀丹波守殿よりの仰せは拒むに拒まれず、余儀なく隠居同様として親の元高もとだか三百八十石にてお抱えになりました。近頃まで御藩中に浪島という名跡みょうせきが残って居りました。又女房のお町は長命でありまして、文政年間の人でお町と知合しりあいの者も大分あったそうでござります。後の業平文治の敵討、これにて終局といたします。

(拠時事新報社員速記)

底本 / Source edition

底本:「圓朝全集 巻の四」近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年9月10日発行
底本の親本:「圓朝全集 巻の四」春陽堂
1927(昭和2)年6月28日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
※誤記等の確認に、「三遊亭円朝全集 第三巻」(角川書店、1975(昭和50)年7月31日発行)を参照しました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年2月25日公開
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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三遊亭 円朝「後の業平文治」(新字新仮名)、底本『圓朝全集 巻の四』近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫、1963年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042687_000989, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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