Soranoha

囚われ人

とらわれびと

豊島 与志雄

或るコンクリー建築の四階の室。室内装飾は何もないが、ただ、大きな電灯の円笠が天井からぶらさがっていて、室中に明るみを湛えている。片側だけ窓で、窓の外は闇夜。全体が箱の中のような感じ。室の一方に、巨大な円卓があって、その端寄りに数人の男女が集まっている。彼等と向い合って、室の他方に、四角な小卓があり、正夫が坐っている。正夫はたいてい卓上に顔を伏せていて、ごく稀にしか顔を挙げない。――この一篇、単に寓話であって、戯曲ではないから、人物の言語動作、唐突なこと多く、謂わば人形芝居めいた雰囲気。その上、正夫に対して大円卓の正面に坐っている一人の男だけが、通常の人間の恰好で、その周囲にいる男女たちは、なんだか畸形的なグロテスクな様子。どんなことになってゆくのか、私(筆者)にも見当はつかない。というのは、この箱のような室内の一隅に、私はたまたま居合せていたに過ぎないからである。長い沈黙。正夫、立ち上って伸びをし、また腰を下して、卓上に顔を伏せる。円卓の正面の男、議一が声をかける。

議一――正夫君、退屈してるようだね。退屈は人生の最大の悪だ。そういう言葉を覚えてるだろうね。だが、まあいいや。君には、この前逢った時から、其後、一度も逢わなかったね。この前逢った時から其後一度も逢わなかったというのは、変な言い方だが、僕の実感としては真実なんだ。ずいぶん久し振りだった。変りはないかね。僕も……いや僕たちと言おう。文化会議の仲間で、ここにいるのは僕一人だが、一同を代表して言うよ。そこで、僕たちも、相変らずだ。但し、相変らずということが、停滞を意味するならば、相変らずではないと言い直さなければならない。会合毎に、一歩一歩前進してるからね。

――ところで、今日の会合で面白いことがあった。君も知ってる通り、僕たちの文化会議は、文化の在りかたを検討するのが主眼であって、政治問題には触れないことになっている。然るに、昨今の政治の状態は、その反動的な攻勢といい、逆コースの方向といい、もう黙ってはおられないところまで来ている。つまり、吾々の方では政治問題に触れまいとしても、政治の方から吾々の身辺に迫って来ているんだ。そういう議論が一同の間に出た。そこで、その原因は何かということになった。一口に言えば、険悪な国際情勢から来る圧力、その圧力を受けてる国家権力の歪曲、その歪曲から生れるさまざまな弾圧的立法……これはもう立派なファシズムだ。徒らに左翼と右翼との抗争のみが激化し、基本人権は侵害され、自由と平和は脅威を受ける。このまま放置しておいてよいかどうか。歪曲された国家権力に対して、何等かの抗議を提出すべきではないか。だいたいそういう結論だったが、当面の実際運動については、次の会合で話し合うことになった。

――これだけ言えば、正夫君、君の胸に応えるものがある筈だ。以前、君がしばしば提出していた意見と全く同じだからね。其後どうしたことか、君は殆んど会合に出て来なくなったし、たまに出て来ても、殆んど口を利かなくなった。だから、今日の会合で、会議のあとの雑談の折に、僕たちが君のことを思い出したとしても、不思議ではあるまい。誰からともなく、君の噂が出た。君がやってるあのちっぽけな旬刊新聞、「黎明」の話も出た。あれはたしか、少数の読者を相手にした文化啓蒙のパンフレットの筈だが、それが近来、頗る政治色を帯びて来た、という説もあった。どこからか秘密な資金が出てるのだろう、という説もあった。評判は香ばしくなかった。そこで、正夫君、僕は、いや僕たちは、君にはっきり聞きたいんだ。君が金銭のために身を売ったかどうか、それが聞きたいんだ。まあそこまで言わなくても、少くとも、文化会議に君が背を向けてることは事実らしい。そこで、こちらに背を向けることは、あちらに顔を向けることだ。人間は、両方に二つ顔を持ってはいないからね。いったい、君の顔は何に向いてるんだ。

正夫はふと顔を挙げる。眉根をしかめて、かすかな苦笑を浮べている。彫りの深い容貌なので、その苦笑が不敵だとも言える印象を与える。彼はちらと議一の方を見やっただけで、また顔を伏せ、卓上に肱をついた両手の拳で頬を支え、眼は卓上に落したまま、口を利く。

正夫――僕の顔は地面の方を向いてる。僕の眼は足元の方を向いてる。もう暫く、僕はそうしていたいんだ。

議一はふいに立ち上って、正夫をじっと見つめ、それからまた腰を下す。

議一――それは君の今の姿勢だろう。そんなことを聞いてるんじゃない。僕たちが聞いてるのは、君の心の在りかた、精神の持ちかたのことだ。

正夫――僕は、体の姿勢と精神の在りかたとを、別物だと考えてはいない。もう暫く、僕をこのまま放っといてくれ。

議一――宜しい、君がそう言うなら、干渉はしない。然し……。

沈黙。

議一――さっき、僕たちは少し言い過ぎだったかも知れない。僕たちは君のことをやはり仲間だと思っているんだ。日本人の悪い癖で、些細なことからすぐに、右の陣営だの左の陣営だの、敵だの味方だのと、符牒を貼りたがる、そういう通弊に陥りたくはないのだ。然しまた、甘っぽい感傷や未練のために、思い違いをしたくもないのだ。

――例えば、映画を観る若い娘の話を持ち出してもいい。Nというスター俳優のファンだとする。右側の席にいた娘は、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。左側の席にいた娘も、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。中央の席にいた娘も、やはり同じことを言う。一階の席でも二階の席でも、同じことだ。映画とはそうしたもので、Nの眼は凡ての人を見てるので、つまり誰をも見ていないことになる。そういう画面の俳優のようであってほしくないと、君に僕たちは希望する。ここに眼のことを言うのは比喩であって、実は顔のことだ。君の顔がどっちに向いてるか、それが問題なんだ。

――顔を地面に向け、眼を足元に注ぐ、それは君の自由で僕たちはとやかく言いたくない。体の姿勢と精神の在りかたとは別物でないと君は言うが、それも一応は承認しておこう。然し、そういう体の姿勢、そういう精神の在りかたが、君がやはり僕たちの仲間だとすると、実は心配になるんだ。それは取りも直さず、病気か衰弱の兆候だからね。もう暫くこうしていたいとは、いったい何事だ。自滅を待つばかりじゃないか。

議一は激しく卓を叩く。正夫はちらと顔を挙げるが、また顔を伏せて、静かに言う。

正夫――僕は無理に死のうとは思わないし、それと同じ程度に、無理に生きようとも思わない。

議一――ばかな。万事無抵抗主義で、万事成り行きに任せるというのか。そんなら君の、あの積極的な、反暴力思想、反権力思想は、どこへ行ったんだ。病気か衰弱か知らないが、へんに投げやりなところが君には見える。どうしてそうなったんだ。何が君をそうさせたんだ。投げやりの気持ちは、自暴自棄よりも一層悪い。自暴自棄には少くとも、何物かに対する一種の抵抗がある。投げやりには何もない。頽廃ほどの気慨さえない。君のうちにはなにか、深淵みたいなもの、空洞みたいなものがある。

――それで分ったよ。君が文化会議に殆んど出て来なくなった理由も、その他の会合にも殆んど出席しなくなった理由も、よく分った。君はどこにも殆んど顔出ししなくなったばかりか、誰に逢っても、ただにやりと気味悪く頬笑むだけで、殆んど話らしい話もしないというじゃないか。勿論、口を利きたくない時は利かなくてもいいが、君の様子はちっと変梃だと、皆が言っている。然しもう、とやかく言うのは止そう。まあせいぜい、顔を地面に向けて、僕たちに背を向けるのもよかろう。眼を足元に注いで、青空を見ないのもよかろう。そして君のうちにあるその深淵に、その空洞に、君自身すっぽりと呑み込まれるのもよかろう。

――おい、正夫君、僕たちにばかり饒舌らせないで、何とか言ってみたらどうだい。そのくせ、自分では退屈してるじゃないか。いったい、君は一日中何をしてるんだ。退屈ばかりしてるのか。時間をどんな風につぶしてるんだ。何とか言ってみないか。

議一は拳固でやたらに卓を叩きつける。正夫はじっと頬杖をついたままでいる。議一はなお卓を叩き続ける。

間。

議一の腕を、横合から一本の手が押え止める。そして手の主は、すっくと立ち上る。胴体が短く、足が長く、極端に痩せ細った男で、体にきっちり合った服を着てるので、火箸のようにひょろ長く見える。彼は突っ立ったまま、室内を睥睨するように見廻し、正夫に眼を止めて、右手を差し伸べ、更に人差指を一本差し伸べて、正夫を指し示す。

時彦――俺は時彦という者だが、この人をよく知っている。煩いから騒ぐのは止しなさい。この人は決して退屈なんかしていない。退屈したことなんか決してない。ただ、俺を軽蔑してるだけだ。言い換えれば、俺を無視してるだけだ。

――この人は恐ろしく懶け者だ。ただそれだけだ。だから、懶け者の癖として、決して退屈することなんかない。何もすることがなくても、退屈しないし、何もしないでいても、退屈しないし、どんなに忙しくても、退屈しない。恵れた性格さ。ね、そうだろう、正夫君。

正夫君と呼びかけて、時彦は初めて差し伸べた右手を下し、両手の甲を腰に当てがい、真直に突っ立ったまま口を利く。

時彦――いつだったか、面白いことがあったね。君は宿酔の体を日向に投げ出して、絵本を見ていた。開かれてる頁は、兎と亀の馳けっこの話の、兎が途中で昼寝をしてる、あのところだった。いつまでも君がそれを眺めてるし、しかも嬉しそうに眺めてるので、俺は不思議に思って、何をそんなに感心しているのかと、尋ねてみた。すると、この兎の昼寝は実にいいと、君は答えたね。あの昔話を、君が知らない筈はない。そしてそれに含まれてる教訓を、知らない筈はない。俺はその点を突っ込んでみた。ところが君は、そのような教訓など、頭からばかにしてかかっていて、ただ、競争の最中に昼寝した兎の無頓着さ、時間を無視した兎の無邪気さだけを、しきりに楽しんでいた。そこで、俺とちょっと議論になって、兎ならそれでも宜しいが、人生ではそうはいかないぞと、言ってやると、君が何と答えたか覚えているか。兎にしても人生にしても同じことで、自信のある者は何事にもこせこせしないのだと、君は答えた。俺に言わせれば、そういう自信は、懶け者の自信に過ぎない。

――まったく、君は懶け者で、そして自信家だ。両方がうまく合体して、時間を無視することになる。その結果、如何なる場合にも決して退屈することなんかない。分ったかね。

正夫は顔を挙げて、不思議そうに時彦を眺める。それからまた、卓上に頬杖をついて、顔を伏せる。

正夫――君は誰のことを言ってるんだい。

時彦――これは驚いたね。君のことを言ってるんじゃないか。

正夫――少しは当ってるところもあるようだが、実は、だいぶ見当違いだ。

時彦――また議論をするつもりか。そんなら言ってやろうか。君のずぼらな行動は、すべて、時間を無視するところから起るんだ。退屈はしない代りに、顔を上に挙げ、眼を上に挙げて、真直に歩くことが出来ないんだ。それが分っていながら、わざと白ばくれてるな。そんなのは、卑怯というものだ。そら、また一つ肩書が殖えたぞ、卑怯者とね。

――然し、君が如何に卑怯者で自信家で懶け者であり、そしてこの俺を無視しようとしても、そうはいかないぞ。結局は、俺の一歩一歩に、時間の一秒一秒に、ついて来なければならない。決定的な鉄鎖でつながれているんだ。いくらじたばたしようと、いくら踠こうと、どうにもならないぞ。

――だから、いっそのこと、俺に従順になってはどうだ。そっぽ向かないで、俺の方をじっと見るがいい。ずいぶんと可愛がってやるよ。そしたら君は、昂然と頭をもたげて歩けるだろう。如何なる場合にも自由に口が利けるだろう。さあどうだ、俺に素直について来い。そっぽ向かないで、俺の方にだけ眼を向けろよ。

時彦は正夫の注意を惹こうとするかのように、卓をことこと叩く。だが正夫は、顔を伏せたきりで、前よりも一層項垂れて、額を両の掌でかかえている。時彦のそばから、女が一人立ち上る。赤い服装。体も四肢もへんにくねくねして、骨の代りにぜんまいでもはいってるように見える。

愛子――愛子にも言い分があるわ。あんた一人で正夫さんを独占しようとしても、そうはいきませんよ。ねえ、正夫さん。

正夫は顔を挙げて、不思議そうに愛子を眺め、そしてまたすぐに顔を伏せてしまう。

愛子は正夫の方に片腕を差し伸べ、人差指と中指とを二本差し出し、その手をふらふらと打ち振る。

愛子――正夫さん、正夫さん……愛子の方を見てごらんなさい。そっぽ向くもんじゃないわ。

愛子は突然笑いだして、腕を引っこめ、両手を腰にあてがい、時彦と同じような姿勢を取る。ただ、時彦は棒みたいに突っ立っているが、愛子は始終、体をくねくねと動かす。

愛子――正夫さん、時彦なんかに騙されちゃだめよ。あんたはすぐ人に騙されるたちだからね。騙されるなら、あたしに騙されなさい。だって、あんたは愛子が好きでしょう。いつも愛子、愛子って、あたしのそばにつきっきりじゃないの。あたしが外に出かけて、帰りが少し遅くなると、あんたはごろりと寝ころんでいて、声をかけても、すねたように返事をしない。そのくせ、眼には一杯涙ぐんでるわね。愛子がいないのが淋しかったんでしょう。その涙を見ると、あたしほんとに済まなかったと思うわ。外に出ても、あんたがどうしてるか気にかかって、おちおち用も達せやしない。

――夜寝ても、あんたはいつも、愛子の顔を自分の方に向けさせるわね。あちら向きになると、頸筋をくすぐって、こちら向きにならせる。そして、あたしの額にあんたの額を、あたしの鼻にあんたの鼻を、こすりつけてくる。ちっちゃな子供みたいね。そのくせ、あんたはほんとに眼ざとい。あたしがちょっと身動きすると、あんたはぱっちり眼を開いて、あたしの顔を見てるでしょう。いったい、あんたはほんとに眠ることがあるのかしらと、不思議に思うことがあるわ。一緒の布団に寝るのがいけないのかも知れないわね。

――それでいて、あたしなんだか、気持ちがしっとりと落着かないの。あんたが愛子をほんとに好きだってことは、そりゃあ分ってるわ。分ってるけれど、ほかにまだ何かある。何か冷りとするようなものがある。あんたのうちにあるのよ。あの「黎明」のために、人の出入りが多いことなど、あたしは何とも思ってやしません。月三回のあんなちっぽけな新聞なんか、止めてしまったらどうかと、思わないこともないけれど、それも男の仕事のことだから、さほど気にはしないわ。また、あの女事務員にあんたが色目を使ってるともあたしは思いません。それから、貧乏なこともあたしは平気です。金があったとて、どうせあんたは酒を飲んでしまうにきまってるわ。そんなこと一切、あたしは何とも思わないけれど、別に、冷酷なものがあんたのうちにある。

――あたしがにこにこした顔をしていると、あんたはいい気になって、酒を飲んで酔っ払ってしまう。あたしがちょっと不機嫌な顔をしていると……誰だってちょっと不機嫌なこともあるものよ……するとあんたは、ぷいと席を立ってしまう。だからわたし言ったでしょう。愛子がもし病気にでもなったら、あんたはどうなさるかしら。きっと放ったらかして、看病なんかして下さらないでしょう。そう言うと、あんたは苦い顔をして、黙ってしまったわ。黙ってるのは、そうだという返事と同じことよ。つまりあんたには人情味がない。人間らしい温かさがない。

――これは別なことだけれど、新聞記事のことや、映画のことや、世間の噂など、つまらない話を時々するでしょう。そんな場合、あんたは、それはこういう気持ちなんだろうと、心理的な批判はするけれど、よい人だとか、悪い人だとか、ひどい人だとか、そうした道徳的な批評は一切しないわね。その上、道徳なんか下らないことだと、口癖のように言ってるでしょう。だけど実は、一般庶民の道徳というものは、人情を元にしたものだわ。そう言うと、あんたはさもおかしそうに笑ったでしょう。

――あんたという人は、実に冷酷なエゴイストだわ。そういう面に触れる時、あたしはいつも冷りとします。そしてあんたからつきまとわれればまとわれるほど、なにかごまかされてるような気がするわ。あたしがほしいのは、本当の愛情、人情の流れ、心から自然に溢れ出る温かみです。

――だから、言っておきますが、愛子の温かい心が、あんたの冷酷な性格に冷されてしまう時こそ、もうお別れです。よく考えてみて下さい。そんなぎりぎりのところまで行かないうちに、すぐにお別れするか、それとも、人情を身につけてみようと努力なさるか、どちらともあんたの自由です。御返事を待ちましょう。御返事はどうですか。

愛子は正夫の注意を惹こうとするかのように、卓をことこと叩く。何度も叩く。だが正夫は、顔を伏せたまま身動きもしない。愛子のそばに、肥満した男が立ち上る。顔も太く、体も太く、手足も太く、殊に腹はでっぷりしている。その上、ひどくだぶだぶの服を着ているので、よけい肥満して見える。

酒太郎――この酒太郎に言わせると、そりゃ愛子の方が無理だ。何もはっきりした理由もないのに、徒らに難癖をつけるというものだ。どだい、女の言うことは、すべて主観的でいかん。俺が本当に客観的なことを言ってやろう。それなら承認出来るだろう、ね、正夫君。

正夫はちらと顔を挙げて、不思議そうに酒太郎の方を眺め、急に顔をしかめて俯向く。

酒太郎は両腕を差し出し、指をすっかり開いた両の掌をちらちら動かす。

酒太郎――いつも君は丈夫で、いいなあ。だから俺は君が好きさ。酒を飲みすぎると体に障る、と言う奴もいるが、そんなことに耳を貸しちゃいかん。遠慮会釈なく飲むがいいよ。

酒太郎は両手を腰にあてて、正夫をじっと見る。そのそばで、体をくねくねさしてる愛子こそ、酔っ払ってるように見える。

酒太郎――正夫君、君の酔いっぷりは甚だよろしい。世の中の者、たいてい阿呆だから、何度も繰り返して言ってきかせなければ、はっきり納得しない。そこを君はよく心得てるね。繰り返し繰り返し、同じことを言う。もっとも、合の手に他のことがはさまりはするが、銚子一本あける間に、同じことを四回ぐらいは繰り返す。阿呆相手には、それに限るよ。

――ただちょっと可笑しいのは、酔っ払って言ったことを、君があとでけろりと忘れてることだ。だから俺にも一抹の疑念が起ろうじゃないか。即ち、銚子一本あける間に、同じことを四回も繰り返すのは、前に言ったという事実を忘れて、初めて言うつもりで繰り返すのか、それとも、阿呆相手だからというわけなのか、どちらなんだい。これは君の告白を俟たなければ、俺には分らない。

正夫――僕にも分らないさ。

酒太郎――ははあ、それじゃ俺に分らない筈だ。ところで、考えてみれば、酔っ払った時のことを後でけろりと忘れるのも、いいことだ。君はずいぶん辛辣な口を利くからね。そして思った通り無遠慮に言ってのけるからね。相手はずぶりと突き刺されて、深い痛手を蒙る。だから、相手の方はとにかく、君自身、そのことを後々まで覚えているとすれば、これはずいぶん困ったものだ。いくら形式打破を標榜し、徳義無視を標榜しても、社会生活には多少とも一種のエチケットが必要だから、痛手を与えた相手の前へ、のこのこ出て行きかねるという意味合いもあろうというものだ。少くともいくらかの気兼ねがあろうじゃないか。すっかり忘れてしまえば、どうでも宜しい。酔っ払い罷り通るというものだ。

――ところで、ちょっと注意しておくがね。後でけろりと忘れるにしても、酔っ払ったその時の君の態度にせよ言葉にせよ、少しも取り乱したところがなく、むしろ素面の時よりも立派なほどだ。だから、相手には君が酔っ払ってることがよく分らない。そういう酔い方は、ぐでんぐでんの酔い方よりも、よほど危険だぜ。とんだ誤解を招く恐れがある。用件なんかいくら忘れたって構やしない。冗談なんかいくら飛ばしたって構やしない。だが、相手が生真面目な女性だとか、謹厳な君子人だとかの場合には、後から弁解のしようもないことに立ち到らないとも限らない。この点は用心したがいいぜ。

――とにかく、君のは乱れない酒で、甚だ結構。口数が多くなるのも、胸中がすっきりする結果になって、甚だ結構。見識らぬ人にでも誰にでも話しかけるのも、万人同胞の意味で、甚だ結構。結構づくめだが、ただ一つ困るのは、金が乏しいことだ。財産があるわけではなし、雑誌や新聞に書き散らす雑文の原稿料だって高が知れたものだし、「黎明」だって購読料月三十円ではいくらの収入にもなるまい。だから、「黎明」への怪しい寄附金も時には欲しくなろうというものだ。然し、どうにか生計を立てて来たのは感心。借金だってそう沢山はないだろうね。もっとも、飲み代なんてものはどこからか出て来るものさ。

――それはとにかく、この頃、どうも俺の腑に落ちないことがある。まさか君は、この俺に背を向けるつもりじゃあるまいね。というのは、酒の取り方が違ってきた。二合とか、三合とか、また二合とか、三合とか、日に何度も酒屋へ電話をかけるじゃないか。酒屋でも呆れてるだろうよ。どうかすると朝っぱらから、そして晩まで続く。一日に一升以上になることも多い。そんなだったら、小刻みに取らないで、初めから一升壜を取り寄せたらいいじゃないか。いつぞや、愛子にからかわれたろう。二合とか三合とか、そう何度も電話をかけるから、電話料だって大変だ。あたしだったら、初めから一升壜を註文して、それを食卓の上にでんと据える。そうすれば、きっとうまくゆく……。

――俺はその時うっかり聞き流したが、うまくゆくとは、どういう意味だったろうか。俺だって疑いたくなろうじゃないか。まさか、酒を止めようなどと、謀反気を起してるんじゃあるまいね。俺と君とは長い間の仲だ。そして、島流しの刑に処せられて、一方は女だけの島で酒はなく、一方は酒だけの島で女の気はないが、どちらへ行くかと聞かれたら、もちろん、酒の島を選ぶと、ふだん言明してる君のことだ。まさかとは思うが、気になるね。

――二合とか三合とか小刻みに取り寄せるのは、禁酒の前提として減酒をする、という下心じゃあるまいね。それから、酔っ払うと君は、たいへん怒りっぽくなった。もとは、にこにこした和やかな酒だった。そうでなくなったのは、また飲み過ぎたと、自分自身に腹を立ててるんじゃあるまいね。もしそうだとすると、俺にも少し考えがある。ただでは済まさないから、覚悟しておいて貰いたいものだ。正夫君、どうなんだい。酒で顔でも洗って、きっぱり返答しないか。

正夫は顔を挙げて、じっと酒太郎を見つめ、険悪な表情をするが、思い返したように、また俯向いてしまう。

酒太郎のそばから、小さな男が立ち上る。時彦のような細そりした体だが、時彦がひどく長身なのに比べて、これはばかに背が低い。透いて見えるような服をまとっている。

煙吉――この煙吉から見ると、みんな可笑しいや。正夫君に未練たらたらで、そして正夫君を自分のものにしようとかかっている。俺はそんなことは企らまないよ。どうせ世の中は成るようにしかならないものだ。正夫君と別れようとどうしようと、まったく平ちゃらさ。正夫君だってそうだろう。

正夫は顔を挙げて、煙吉を不思議そうに眺め、皮肉な薄ら笑いを浮べるが、それにも拘らず、溜息をついて、また顔を伏せてしまう。その方を、煙吉はちらりちらり見やって、腕組みをする。

煙吉――正夫君、君はずいぶん煙草が好きなようだが、吸いすぎると体に悪いよ。煙草は口臭を去るとか、空腹の助けになるとか、考えごとをまとめるとか、いろんなことが言われてるが、それも適度な場合だけだ。吸い過ぎると、食慾が無くなるし、注意力が散漫になるし、記憶力が減退する。この俺が言うのだから、間違いはないよ。口臭を去るどころか、正夫君、君の口はひどく臭くなってるし、舌はざらざらに荒れてるし、歯は脂で真黒だ。少し慎しんだらどうかね。それに、ニコチンの害毒はひどいからね。

煙吉は向きを変えて、そばに突っ立ってる者たちを眺める。

煙吉――正夫君をあんな風にしたのは、お前たちのせいだよ。酒を飲んでると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。恋愛のことを考えてると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。何もせずにぼんやりしてると、やたらに煙草が吸いたくなるものだ。あまり吸い過ぎて、正夫君、見たところ、どうも健全とは言えないよ。

――そこで、どうだろう、罪滅しの意味で、正夫君に何か贈物をしようじゃないか。第一、ここにこうしてじっと突っ立ってるのは、気が利かんね。俺はじっとしてるのが嫌いだ。動き廻りたいよ。何か面白いことはないかなあ。遊びごとはないかなあ。いや、それは後のことだ。先ず正夫君への贈物だ。どうだい、賛成しないかね。

煙吉は順々に呼びかける。相手は返事と共にこっくりこっくり二回頷く。

煙吉――酒太郎はどうだね。

酒太郎――よかろう。賛成だ。

煙吉――愛子はどうだね。

愛子――いいわ。賛成よ。

煙吉――時彦はどうだね。

時彦――よかろう。賛成だ。

煙吉――正夫君、みんなそれぞれ、君に贈物をするよ。珍らしくもなかろうが、心こめた品だから、立ち上って、お辞儀をし、鄭重に受け取るんだよ。

奇怪な行列が始った。煙吉を先頭にして、一同、ゆっくりと正夫の方へ進んで行く。だが正夫は、ちらと一同を見て、卓につっ伏し、両の掌で額をかかえ、息を殺したように動きもしない。その代り、円卓の正面に坐っていた議一が、立ち上って、一同の後を見送る。

煙吉は正夫に近づき、正夫の様子を眺めて、ちょっと立ち止るが、首を振って、また歩き出す。いつのまにどこから取り出したのか、一同はめいめい、片手に品物を持っている。そして正夫の前に、煙吉は煙草の缶を捧げる。酒太郎は酒瓶を、愛子は蜂蜜の瓶を、時彦は鉄側の時計を、順次に正夫の前に捧げる。

正夫は突っ伏したまま身じろぎもしない。それには構わず、煙吉を先頭に一同は、踊るような足取りで、正夫のまわりを、一回、二回、三回と、ぐるぐる廻って、元の円卓の方へ戻ってゆく。

煙吉――これで、正夫君への贈物は済んだ。

愛子――こんどはあたしたちも、少し御馳走になりたいものね。

酒太郎――そうだ、こちらも酒盛をしよう。

酒太郎が酒瓶を出すと、一同はそれぞれ、正夫に与えたのと同じ品物を取り出す。

酒太郎――おい時彦、時計なんか仕様がないじゃねえか。もっと景気のいいものを出せよ。

時彦はにっこり笑って、時計を両の掌に包みこみ、その掌を開くと、まるで奇術のように、時計は沢山の小さな丸い玉になっていた。半透明の丸玉で、恰も真珠のようだ。それを彼は、卓上にざーとあける。

時彦――食べてみろ、うまいから。その代り、断っておくが、これを食べると、なかなか眠られなくなる。それでもいいか。

酒太郎――いいとも、どうせ夜明しだ。

一同は真珠めいた菓子に手を出し、かじってみる。うまいうまい、という歎声。そして酒を飲み始める。酒太郎はなお、酒の小瓶を幾つも出して、皆に勧める。一同ラッパ飲みをする。

間。

次第に酔いが廻ってくる。手当り次第に、酒を飲み、煙草をふかし、真珠菓子をかじり、蜂蜜まで嘗める。――その乱雑な光景を、議一は少しわきの方に突っ立ったまま、茫然と眺めている。

愛子――あんた、そんなところに突っ立ったきりで、どうしたのよ。ばかみたい。こっちい来て、仲間にはいりなさいよ。構わないわよ。

議一はおずおず近寄って、酒盛の仲間にはいる。そして彼一人だけ、椅子に腰を下す。

煙吉――少し動きたくなった。歌でもうたいたくなった。お前たちはどうだい。

時彦――よしきた。元気にいこう。

時彦が音頭を取って、ラ・マルセイエーズを歌い出し、一同それに和して歌いながら卓を叩いて拍子を取る。議一ひとり黙っている。

愛子――あんた、なぜ歌わないの。

議一――僕は、そんなバター臭い歌は知らないんだよ。

愛子――まあ、フランスの国歌じゃないの。そんなら、何を知ってるの。

議一――そうさなあ。ノーエ節ぐらいなもんかな。

愛子――ノーエ節……。ああ、富士の白雪というあれでしょう。

酒太郎――宜しい、こんどはあれにしよう。ぐるぐる廻って、際限なく歌える。この円卓みたいなもんだ。

一同はノーエ節を歌いながら、円卓のまわりを踊るように歩き始める。歌は終りからまた初めへと連続し、彼等は円卓のまわりを何回も廻る。――ただ議一だけ、腰掛けたままでいる。

ふと、時彦は議一の側に立ち止って、その顔を覗き込む。

時彦――やあ、これは不思議だ、俺のあの菓子を食ったのに、この男は居眠りをしている。眠られる筈はないんだがなあ。

皆そこに集まってくる。

煙吉――眠られなくなるって、本当かね。

時彦――俺は嘘は言わない。

煙吉――それじゃあ此奴、狸寝入りか。

煙吉は議一の背中を殴る。他の者も一緒になって殴る。議一は眼を覚して、あたりを見廻す。

煙吉――お前、ほんとに眠ってたのか。

議一――自分自身がどっかへ、すーっと消し飛んでゆくような気持ちだった。そして夢を見た。

煙吉――どんな夢だ。

議一――河の深い淵だった。上手の方は、浅い瀬で、きれいな水がさらさらと流れていた。その水が流れ下って、深い淵になっている。心のうちで、その淵を見つめていると、淵はだんだん深くなる。底知れず深くなる。そして水は濁り黒ずんで、澱みきっている。底の方がどうなっているか、見当もつかない。たぶん空気も通っていないんだろう。水は腐ってるんだろう。魚も寄りつかないらしい。そうした深い淵が、ずっと下流まで続いていた。淵の一方は高い急な崖で、僕はその崖の上にいた。崖から淵の方を覗き込むと、恐ろしい力で吸い込まれるようだった。否応なく、運命的に、僕は淵に落ち込むことになっていた。僕は一生懸命に抵抗した。崖縁にしがみついた。だが、ずるずる滑り落ちてゆく。どうにもならない。そら、もうすぐ淵だ。上からは石ころが落ちてくる。どんどん落ちて来て、背中に当る。もう駄目だと思った。そして眼が覚めたんだ。

煙吉――ほほう、そんな夢か。それじゃあお前は、俺たちに感謝していいよ。俺たちのお陰で、お前は淵に落ち込まなかったんだからな。

議一――夢の中のことだよ。

煙吉――夢にしてもさ。俺たちがお前を叩き起してやったんだ。

議一――魘されてでもいたのかい。まったく、あの深い淵はいやだった。胸がむかつくようだ。

酒太郎――夢の話なんか止せよ。胸がむかつくようなら、もっと酒でも飲め。

愛子――この真珠菓子を食べたのが、いけなかったんじゃないの。

時彦――ばか言うな。これを食べたくせに居眠りなんかするから、いけないんだ。然し、この男はちょっと変ってるな。夢の話も捨てたもんじゃない。ちっとばかり、気骨を持ってるようだ。

酒太郎――なあに、気骨もくそもあるものか。さあ、飲め飲め。

議一はぼんやり酒瓶を取り上げる。一同も再び飲み食いを始める。席は乱雑になる。

間。

不思議なことが起った。議一を除いて、他の者たちは、後ろから髪の毛でも引っ張られるかのように、時々、手を挙げて後頭部を打ち払う仕種をし、振り向きもする。

酒太郎――誰だ、俺の髪の毛を引っ張るのは。

煙吉――誰だ、髪の毛を引っ張るのは。

愛子――だめよ、髪の毛なんか引っ張っちゃあ。

時彦――いたずらは止せよ。

その都度、互に顔を見合せて、怪訝な面持ちになる。

時彦――どうもおかしいぞ。俺たちは誰も、ひとの髪の毛なんか引っ張ってはいないね。そして誰からか引っ張られてる。振り向いても誰もいない。然し引っ張られてることは確かだ。これは、酔っ払ったせいじゃない。何かある。奇怪極まる。

愛子――なんでしょうね。あたしなんだか怖くなっちゃった。

酒太郎――なあに、こんどやったら、俺が引っ捕えてみせる。

煙吉――世の中には理外の理ということもある。お化じゃないか。お化だったら面白いぞ。お化、出て来い。

何かの気配を感じて、警戒するかのように、一同は一つ所に寄り集まる。

一同の正面、つまり正夫を背後にして円卓の一端に、ぼんやりと人影が現われる。白髪の老女で、薄鼠色の和服を着ているが、全体がぼやけて形体は定かでない。――このあたりから、正夫は顔を挙げて、やはり卓上に頬杖をついているが、眼は伏せず、一同の方をぼんやり眺めている。

老女――お前さんたちの髪の毛を引っ張ったのは、このわたしだよ。なあに、ちょっとした悪戯さ。気味わるがらなくてもいいよ。悪意はないんだからね。

――お前さんたちには、古い馴染みだ。わたしの夫、正夫の父がね、やはり正夫のようだった。いえ、正夫が父に似たんだろうよ。父の方はたいへんな酒好きで、とても正夫どころではなかった。毎日朝酒を飲んで、昼酒を飲んで、そしてまた寝酒を飲んだものさ。もっとも、それは亡くなる前のことだがね。煙草は始終口から離さなかったよ。若い時から女道楽で、老いてますます盛んな方だった。どこやらに、落し胤も幾人かある筈だ。そんなだから、したがって懶け者で、まとまった仕事をしたこともなく、ぶらぶら遊んでばかりいたよ。そして肝臓と腎臓とを悪くして、亡くなってしまった。

――そんな男だけれど、ただ一つ取り柄があった。物にこだわらないことだよ。恬淡というか、無頓着というか、一つのものに執着することがなかった。酒を飲んでも酒に呑まれることはなかった。煙草をいくら吸っても、煙草に吸い込まれることはなかった。女好きではあったが、女に丸めこまれることはなかった。その点を、わたしから見れば偉いと思うよ。何事も、心から執着しなければ本当のことは分らない、と言われてるけれど、また逆に、執着したために分らなくなることも、しばしばあるからね。

――そこへゆくと、この節の男たちは、みみっちくなったものだ。何にでもすぐに溺れ込んでしまうからね。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる……。溺れないものがあるかね。溺れたらもう駄目だよ。水に溺れた者が水から逼い出して来たためしがあるかね。水から出るのは、もう死体になってからだ。

――だから、お前さんたちも用心するがいいよ。うっかりすると、とんだ殺人罪を犯すことになる。なにしろ相手が相手だ。何にでも溺れたがってるものね。泳ぎを知らない者が、旱魃だからって、深い淵に飛び込むような真似を、すぐにしたがるからね。

――それに、お前さんたちの方にも、罪があるよ。みんな慾が深くなってきた。つかまえたらもう放さないという慾心さ。さもしいものだ。きっとお前さんたち、昔と違って、貧乏になったんだろうね。貧すれば貪するさ。でも、自分の分限を知らなければいけないよ。のさばるのはまあよいが、慾張ってはいけない。注意しておくがね、あまり慾張ると、元も子も無くしてしまうよ。分ったかね、分ったらそれでいいさ。

老女の姿、掻き消すように消えてしまう。一同はほっとしたように、酒を飲みだす。

暫く無言。

酒太郎――忌々しい婆だ。

煙吉――俺たちに意見をしていきやがった。

愛子――あのひとに髪の毛を引っ張られたかと思うと、頭中がむずむずしてくる。

時彦――然し、みごとにやっつけられたね。

煙吉――誰がさ。

時彦――俺たちみんなだ。

煙吉――いや、俺はやっつけられたとは思わん。

愛子――あたしもそうは思わんよ。時代が違って、物の考え方が違っただけのことさ。

酒太郎――だが、俺たち、貧乏になったんだろう、には参ったね。まったく、下落したんだからね。

煙吉――下落したって構わん。何もかもがそうじゃないか。

一同は何かがやがや言いながら、自暴自棄のように飲み食いする。その光景は、ますます乱雑になる。

不思議なことに、室内にいるのはどうも彼等だけではないような感じだった。私(筆者)は初めからそういう印象を受けていた。眼に見えるのは彼等だけだが、まだ他にもいろんな人物がどこかに潜んでいる、そういう気配だった。もとより、それらの者は、姿を現わしもせず、口を利きもしなかったが、確かにその室内にいるに違いなかった。実体の分らないそれらの者のため、室内の雰囲気はへんに乱されて、落着かない不安なものになっていた。だから、老女の姿が現われたり消えたりしても、私にはさほど意外ではなかった。眼に見える者たちの饗宴にしても、影の人物がたくさん参加してるような感じだった。然しそれら影の人物が、なかなか姿を現わさないのは、私の甚だ遺憾とするところである。

一人黙っていた議一が、ふと、こちらを向いて顔を挙げてる正夫に気付き、その方を凝視し、そして立ち上る。

議一――正夫君、さっきのお婆さんは、ほんとに君のお母さんかね。本人はそのように言っていたが……。

正夫は頬杖をついたまま、もう顔を伏せず、不敵な笑みを浮べる。

正夫――さあどうだか、よくは分らない。

議一――なんだって。君は母親をも見分けられないようになったのか。

正夫――そっちを向いていたから、後ろ姿だけでははっきり分らなかった。

議一――そんなら立って来るなり、言葉をかけるなりして、確かめたらいいじゃないか。

正夫――その興味もなかった。

議一――興味の問題じゃない。心情の問題だ。

正夫――僕にとっては、今のところ、自分一人のことで一杯だ。然し、あのひとが言ったことは、なかなか参考になった。或は、僕になにか教えるつもりで言ったのかも知れない。ただ、世代の違いから来る不理解な点があるのは、止むを得ないだろう。

議一――どういう点が不理解なんだ。

正夫――解決の方法が違う。

議一――何の解決なんだ。

正夫――それはいずれ見せてやるよ。

愛子――あら、正夫さんが話をしてるわ。

一同は正夫の方を見る。――おかしなことに、彼等は最初立ち上った時からずっと立ち続けてるのだ。

酒太郎――ほう、悪びれずにこっちを見てるね。その通り、元気を出すんだ。そして、まあ酒でも飲めよ。俺たちはもうずいぶん酔っ払った。さっき、君のお母さんとかいうひとから、だいぶ意見をされたが、君も聞いたろう。面白いことを言うひとだ。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる、それが現代の通弊だってさ。通弊というものは、然し、時代思潮みたいなもので、一通りは身につけておくべきものだ。だから、溺れて構わん。どうだ、こっちに来ないか。それとも、俺たちの方で押しかけて行こうか。

議一――おい、君たち、もっと静かにしてくれ。正夫君は初めから、もう暫く放っといて貰いたいと、僕に頼んだ。その通りにしておいてやろうじゃないか。

煙吉――だから、俺たちは、静かに贈物を捧げたんだ。よけいな干渉はしないよ。

時彦――それも、時によりけりだ。どうも、正夫君を一人きりにしておきたくないね。

愛子――そうよ、そうよ。あたし行って、連れて来よう。

煙吉――まあ待て。

正夫は卓上にある品々を眺める。酒瓶を取って、ぐっと飲む。蜂蜜の瓶を取って、口一杯嘗める。再び酒をぐっと飲む。時計を取り上げて、時刻を見る。それから、缶の煙草を一本取って、悠々と吹かす。――その一々の動作を、一同は見守る。

正夫――僕がここでやってることが、どういう意味だか、君たちに分るか。お別れの挨拶だぞ。もうたくさんだ、きっぱり別れよう。だが、僕は卑怯に逃げ隠れするのではない。僕にも多少の意地と体面とがある。そして君たちに思い知らせてやりたいんだ。そうだ、思い知らせてやる、こいつは素晴しいことだ。見ておれ、思い知らせてやるから。

正夫は卓上の品々、酒瓶と蜜瓶と煙草缶と時計を、一つずつ取り上げ、窓へ投げつける。窓硝子の壊れる音がして、品々は外の闇の中に消える。――硝子の砕け散った窓が、ぽっかり口を開いている。正夫は一瞬、身を飜えすと、駆け出して行って、窓の穴から外へ飛び出してしまう。

議一――あ、いけない。しまった。

議一は窓へ駆けつける。一同も駆けつける。他の窓も開けて、外を透し見る。

議一――ここは四階だ。無事に飛び降りられるものではない。体は粉微塵だ。行ってやろう。

一同は足をめぐらして、窓と反対側にある扉を開き、廊下へ出て行く。

その時私(筆者)は、彼等の足音ばかりでなく、他のざわめきをも、確かに聞いた。眼に見える彼等ばかりでなく、他に多くの者が室内にいたに違いない。そして正夫は、それら多くの者の前に、曝しものとなっていたのであろう。それを思って、私はぞっとした。だが、一人残らず皆が出て行った後、室内はしんしんと静まり返り、更に深く静まり返ってゆくのが、耳にも感じ肌にも感じられて、何とも言えない恐ろしい思いだった。開け放されたままの窓から、開け放されたままの扉へと、冷たい夜気が流れていった。ふと見廻すと、円卓の上の饗宴の品々は、奇蹟のように消え失せていた。どうなったのであろうか。まさか彼等は魔法使ではなかったろうが、不思議極まる事態だった。考えてる時、また奇怪にも、天井の電灯がふっと消えた。室内は闇にとざされた。

寸時の躊躇の後、私は手探り足探りで、窓の方へ近づいて行った。窓口が、仄かな明るみで浮き出していた。窓から身を乗り出して覗いてみたが、戸外には深々と闇が湛えているきりだった。樹木も見えず、他の建物も見えなかった。窓の下方の地面も見えず、何一つ見えず、燈火も見えず、人声どころか、物音一つ聞えなかった。正夫や、其他の者たちは、どうなったのであろうか。忽然と消え失せたとしか思えなかった。私は夢をみたのであろうか。茫然とそこに佇むばかりだった。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「群像」
1952(昭和27)年7月
※底本では「 時彦――どうもおかしいぞ。~奇怪極まる。」の段落だけ「改行天付き、折り返して1字下げ」になっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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豊島 与志雄「囚われ人」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第五巻(小説5・戯曲)』未来社、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042678_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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