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        <title type="main" xml:lang="ja">ものの影</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">もののかげ</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>豊島</surname><forename>与志雄</forename><idno type="aozora-person-id">000906</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>とよしま</surname><forename>よしお</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Toyoshima</surname><forename>Yoshio</forename></persName></author>
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        <bibl><title>豊島与志雄著作集　第五巻（小説Ⅴ・戯曲）</title><publisher>未来社</publisher><date>1966（昭和41）年11月15日</date><note type="input-edition">1966（昭和41）年11月15日第1刷</note><note type="proof-edition">1966（昭和41）年11月15日第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「心」1952（昭和27）年1月</bibl>
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      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-441-800">池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-800-1030">この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は宙に浮きがちだった。微風もなく、夜気は冴えていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1030-1161">松の近くまで来て、彦一ははたと足を止めた。なにか、妖気に触れたかのような感じである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1161-1880">道路からそれて、葦の茂みの中に、いや、茂みの表面に、和服姿の少年らしい人影が立っていた。月の光りはないが、星明りなのか、透いて見える薄暗がりに、その人影がくっきり浮いていた。彼は、彦一がやって来るのを認め、道を避けて佇み、通りすぎるのを待ってるのか、或るいは、出会いがしらに、ひょいと横へ退いたのか。それはとにかく、足音一つせず、葦の葉擦れの音もしなかった。葦の茂みはひそと静まり返っていて、その表面に、人影だけが、何の厚みもなく、紙のように平べったく、浮き出してるのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1880-2521">とっさに、彦一はぞっとした。鬼気とか、妖気とか、もののけとか、そんなものに触れた感じだ。彼は戦時中、召集されて、北海道で軍隊生活をし、訓練の間には、深山幽谷で孤立した数時間を闇夜のうちに過したこともあるが、嘗て、ぞっとする不気味さを経験したことはなかった。恐怖とか驚駭ならば、まだよいが、へんな不気味さは、どうにもいけない。而もそれが、沼だの葦の茂みだの空襲の焼跡だのがあるにしても、近くに人家が見える東京都内で起ったのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2521-2862">不気味なのは、その人影が、なまの人間の姿とは見えないことだった。さりとて、幻燈で映し出された像でもない。影の微粒子が寄り集まり凝り固まって、謂わば死気に生きてるのだ。葦の茂みの中を動き廻っても、葉擦れの音さえ立てないだろう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2862-3303">酩酊の気魄を眼にこめて、彦一はじっと見つめた。少年の人影は、うつろな眼をこちらに向けてるらしいだけで、身じろぎだにしなかった。死気とも言えるものを、彦一はまともに感じた。一瞬、不気味さが憤りに変った。彼は一歩踏み出した。相手は小揺ぎもしない。彼はまた一歩踏み出し、同時に、拳固の一撃を相手の横</seg><g ref="#gaiji-4-2-92-25" source="#source-3303-3350">頣</g><seg source="#source-3350-3370">に喰わした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3370-3550">彦一にとって意外だったのは、たしかに手応えがあったことだ。相手は人影でもなく、死気でもなく、なまの肉体の重みでばったり</seg><app type="base-text-variant" source="#source-3556-3604"><lem><seg source="#source-3550-3556">倒れ</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-3592-3598">例れ</seg></rdg></app><seg source="#source-3604-3813">、葦の茂みがざわざわ揺れた。夜気が渦巻き、総毛立って、それから冷りと静まる。張り合いのない真剣さだ。何物へともない、憤怒、そして憎悪……。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3813-4061">彦一は靴の足先に、堅い重いものを意識した。土瓶大の石塊だ。それを彼は両手に取り上げ、地面に伸びてるものに向って、力一杯投げつけた。穢らわしい感じの、鈍い音がした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4061-4219">ざまあ見やがれ。吐き捨てるような思いだった。歩き出して、ふと空を仰ぐと、星々が燃えるように光っていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4219-4379">それから彼は、明るい街路に出て、屋台店でまた焼酎をあおった。アパートの室に帰りついたのは、深夜だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4379-4645">翌日の夕刊から次の日の朝刊にかけた新聞に、一本松の事件が簡単に報道されていた。大きく取扱われるほどのものではなかったが、少年の怪死体として、多くの謎を含んだ記事になっていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4645-5083">通称一本松と言われてる路傍の葦の茂みの中に、少年の死体が発見された。縊死する旨の遺書と、縊死に用ゆるつもりだったらしい細紐とが、懐にはいっていた。遺書は彼の自筆であり、細紐は彼の寝間着紐だった。然るに、死体には致命傷と見られる頭蓋骨折があり、そばに血まみれの人頭大の石が落ちていた。なお、左</seg><g ref="#gaiji-4-2-92-25" source="#source-5083-5130">頣</g><seg source="#source-5130-5291">下に打撲傷も見られた。明らかに他殺らしい。それにしても、格闘の形跡もなく、物取りの仕業とも思われなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5291-5683">この少年は、一キロほど離れたところに中華ソバを営んでる伯父夫婦の、店の手伝いをしていた。少しく低脳、そして浪費癖があった。店の現金を持ち出しては、始終叱られていた。最近では、茨城県下の農家へ追いやられるとかの話があって、それを苦にしての自殺覚悟だったらしい。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5683-5799">だいたい右のような記事で、真相は明らかでなく、どの新聞のも大同小異である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5799-6161">その記事の一つを、島野彦一はふと見つけた。そして各新聞を熱心に読みあさった。アパートにはいろんな新聞がはいっている。それらを彼は、監理人のおばさんの室へ行って借りて読んだ。ふだんは、自分のところへ来る一つの新聞さえろくに覗かない彼である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6161-6211">おばさんは眉をひそめて言った。</seg></p>
      <p>「たいへん御熱心ね。」</p>
      <p>「この近くに起った事件ですよ。」</p>
      <p>「自殺でしょうか、それとも、他殺でしょうか。島野さんはどう思いますの。」</p>
      <p>「それが、問題です。まあ、自分で死のうと思っていたのに、気後れがして、他人から手伝って貰って死んだ、というところでしょうか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6597-6707">彦一は平然と、多少皮肉な微笑さえ浮べて、自分の見解を披瀝するのだった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6707-7414">あの少年は、少しく低能でそして浪費癖があったという。だいたい、低脳な者は大食いだし、随って浪費癖はつきものだ。彼もまた、店の中華ソバばかりでは食い足りなくて、金を持ち出しては買い食いをする。その揚句、農村へ追いやられる話まで起って、これが大打撃となった。農村の労働と、そして粗食を、彼は知ってた筈だ。それからまだ、新聞記者が探り出さない事柄もあったに違いない。伯父夫婦も私生活については余り語りたがらなかったろう。とにかく、いろいろな原因が重って少年は死ぬ気になった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7414-7782">なにか衝撃を受けて、一時にかっと逆せ上り、やけくそに自殺する、そんなんじゃない。病人が次第に衰弱してゆくように、気力がじわじわ衰えて、いつしか死ぬ気になった。これが重大な点だ。立ち枯れする樹木と同じだ。こんな奴は、自殺しなくとも、どうせ死ぬ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7782-8492">あの一本松の沼のほとりに、彼は子供たちに交って、魚釣りなどにも出かけたに違いない。子鮒とか泥鰌とか、ろくなものはいないだろうが、大食いの懶け者には、手頃な時間つぶしだ。そして松の枝ぶりなどを眺めた。その枝ぶりが、愚かな頭の中に残っていて、首を縊ってぶら下るのに恰好だなどと、ぼんやり考えたのだろう。そして夜遅く、寝間着紐なんか懐に入れて、ふらりと出かけたんだ。自殺の決心とか覚悟とか、そんな気の利いたものがあるものか。遺書とかいうものも、きっといい加減なものだろう……。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8492-8560">聞いていて、おばさんは、こんどは頬笑んだ。</seg></p>
      <p>「島野さん、まるで、小説家みたいね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8619-8726">だが、そこに居合せた中年の止宿人は、不快そうな面持ちで、口を出した。</seg></p>
      <p>「然し、問題は、そんなことではなく、自殺か他殺かという点にあるんでしょう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8842-8892">彦一は強い視線を相手に向けた。</seg></p>
      <p>「勿論、他殺でしょう。彼は死神にとっ憑かれたように、ぼんやりつっ立ってたんですよ。覚悟したわけでもなく、ただなんとなく死ぬ気でいる。いや、もう死んでたと言ってもいい。はっきりした自意識もなく、ただ、死ぬ気持ち……死気とでも言ったらいいでしょうか、その、死気に包まれて、暗がりにつっ立っていたんです。これは、不気味だとばかりは言えますまい。そんな奴に出合ったら、誰だって張り倒してやりたくなるに違いない。僕だってそうしますね。」</p>
      <p>「それにしても、石で頭を打ち割るなんて、どういうもんですかね。」</p>
      <p>「それは、時のはずみでしょう。」</p>
      <p>「いくら時のはずみにしても、少し残酷すぎはしませんか。前から怨みでも含んでおればとにかく……。あなたの説によれば、犯人はただ通りがかりの者にすぎないことになりますね。」</p>
      <p>「そうです。」</p>
      <p>「すると、あの少年は、張り倒されたとたんに、自分から頭を石にぶっつけたとも見られますね。それも、倒れるはずみにですよ。そうすると、他殺とは言えませんね。」</p>
      <p>「いや、僕は他殺説を執ります。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10241-10320">彦一は言い切って、不快そうに口を噤んでしまった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10320-10550">新聞の報道はだいたい二回きりで、途切れた。詳報も結論もなく、潮が引いたような工合で、空白な浜地だけが残った。その浜地に、彦一は身を曝してる感じがした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10550-10672">潮が引けば、貝は口を閉じる。彦一も口を閉じて、一本松事件に触れることを避けた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10672-11058">不用意に、ずいぶん危険な行動をしてきたものである。アパートに来るいろんな新聞をあさり読むばかりか、際どいことまで公言してしまった。単に好奇心からの推理だけだとは言えないものがあった。彼の表情を注視する者があったら、何等かの疑念を懐かないとは限らなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11058-11414">捜査の手は伸びてるに違いなかった。少年の身元も詳しく洗われたことだろう。死体は解剖に附されたろう。そしてあの石には、彦一の指紋が残ってた筈だ。何か些細な遺留品でもありはしなかったろうか。あの時のことを瞥見した人目はなかったであろうか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11414-11731">あの夜、彦一はしたたか酔っていた。その上にまた飲んだ。酔ってるのは珍らしくないとしても、あの夜は少しひどすぎた。そして深夜の帰宅。どこをどう歩き廻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。アリバイは困難だろう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11731-11883">然し、彦一自身は、冷静に反省してみても、あのことに対してさほど自責の念を覚えてるわけではなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11883-12353">あれは、殺人ではない、と彼は感じた。また、彼は自殺幇助を罪悪だとは認めなかったが、あれは自殺幇助でさえもない、と彼は感じた。それならば、あれはいったい何だったのか。忌わしいものに対する嫌悪、憎悪、それだけではなかったか。そして、そういう感情も、それに伴う半無意識な行動も、人間に許されてる正当な権利ではないか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12353-12541">そうしたことのために、逮捕され、そして投獄されるのは、実にばかげてる。用心しなければいけないぞ、と彼は自分に言いきかした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12541-12819">刑務所生活というものは、先ず何よりも、自由の拘束として彼の眼に映じた。贖罪とか悔悛とか、そのようなものではなく、ただ具体的に自由の拘束なのだ。なんとしても忌避すべきだ、と彼は思った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12819-13361">ところが、他方、彼はひどく当惑した。口を噤めば噤むほど、あのことを公言してみたい欲望が起ってきた。自分一人だけが知ってることだ。自分一人だけが感じたことだ。それをなぜ言ってはいけないのか。誰にも告げずに、胸中に秘めて、永久に密閉しておかなければならないのか。ミダス王の理髪師の悩みを、彼は思った。口外出来ないということも、それ自体、具体的に自由の拘束なのだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13361-13582">右にも左にも、自由はなかった。眼隠しをして、真直に歩くより外はなかった。そしてあの一本松のあたりが却って、何の気兼ねもない気安いものに思われた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13582-13977">はじめのうち、彼はその道を通るのは避けた。然しそこは、彼のアパートから国鉄電車の駅に出る近道だった。わざと迂回するのは、もし彼に目をつけてる者があるとすれば、疑念を招く種になるだろう。また、そこでこそ、彼は天に向って、地に向って、真実のことを囁き得るのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13977-14207">そこに、あの石が転がっていたのだ。石に血痕が附着していたというのは、たぶん本当のことだろう。更に一層本当のことは、石には彼の手証が印せられていた筈だ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14207-14509">松の古木は、横へ低く枝をひろげている。葦の茂みは、風にそよいでいる。路面には草が生えて、雨水の流れ跡も見える。あたりは菜園や雑草地で、人家はだいぶ距たり、その彼方に、工場の煙筒が黒い煙を吐いている。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14509-14655">夢のようだった。だが、呪縛された夢の感じだった。彦一は肩をそびやかし、意識的に歩調をゆるめた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14655-14705">おい、ほんとに此処だったのか。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14705-14803">何かに呼びかける気持ちで、そして見廻すと、胸がむかついてくる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14803-14913">夜分は殊にいけなかった。そこを通りかかる前に、彼は焼酎をあおっていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14913-15434">何かの影が、そのへんに立ち罩めてるのである。あの少年の影、というわけではない。あの血の飛沫、というわけでもない。そのようなことを思うほど神経質では、彦一はなかった。事実はそれ自体で完結する、と彼は信じていた。それでも、何かの影のようなものがそこにあって、自然に彼は、肩をそびやかして見廻すのである。反撥の気が眼にこもって、憎悪の念が湧いてくる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15434-15691">死神にとっ憑かれたような、あのしょんぼりした姿が、何よりも忌わしいのだった。そしてあれに手をつけたことが、忌わしいのだった。手を洗え。手を洗え。血を流したからではない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15691-15803">彼はますますアルコールにしたしむようになった。朝から飲むこともあった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15803-16009">そこの、丈高い雑草を押し分けて、しきりに棒で突っついてる男がいた。青いジャケツ、カーキ色の汚れたズボン、なんだか浮浪者めいた姿である。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16009-16161">彼は背を伸ばし、五十年配の陽やけした顔を挙げ、彦一の方をじろりと見て、軽く会釈をした。田中さんだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16161-16259">狂人、というほどではないが、頭がだいぶおかしいとの評判だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16259-17032">アパート附近の家並の出外れに、荒地があって、その片隅が、塵芥捨場のようになっていた。あちこちからそこへ、塵芥を捨てに来る。塵芥の中には、紙屑や落葉がたくさん交っている。すると、田中さんがやって来て、それに火をつけた。たいてい午後から夕方へかけてだ。塵芥交りの紙屑や落葉は、容易に燃えきらず、いつまでもくすぶっている。田中さんはそれを掻き廻して、丹念に燃やそうとする。そして夕方、薄暗くなると、ふらりと立ち去ってゆく。火はくすぶり続ける。風のある夜など、不用心きわまる。人家に飛び火して大事にならないとも限らない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17032-17280">そういうこと、田中さんは一向に平気だ。一日おきぐらいに、必ず火をつける。近所の人々は、不安な眼で眺めながらも半ば気が狂ってる人だというので、注意を促がす者もない。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17280-17555">或る時、彦一は酒に酔っていた気紛れに、田中さんが火を燃やしてるのを見て、側へ行って一緒に燃やした。二人とも黙っていたが、時々、顔を見合して頬笑んだ。別れる時、互いに軽く会釈をした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17555-17698">それから、二人は道で出逢うと、会釈し合うようになった。なんとなく親しみが出来てきたのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17698-17835">一本松の近くの雑草の中の田中さんは、ひどく淋しそうに見えた。彦一は立ち止って声をかけた。</seg></p>
      <p>「何をなすってるんですか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17879-17929">田中さんは無表情な顔で答えた。</seg></p>
      <p>「探してるんです。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17961-18011">彦一も草の中にはいっていった。</seg></p>
      <p>「落し物ですか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18040-18093">田中さんは棒で地面を突っついた。</seg></p>
      <p>「この辺にある筈だが……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18137-18199">そしてなおあちこち突っついて、呟いた。</seg></p>
      <p>「分らん。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18219-18311">諦めたように、草の中にしゃがんで、尻を落ちつけてしまった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18311-18460">彦一もそこに屈みこんだ。雑草は丈高く、薄荷の匂いがして、世間から遮断された感じで、空が青く高い。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18460-18564">田中さんは彦一の方へ眼を向けず、誰に言うのか分らない調子で言った。</seg></p>
      <p>「たいへん立派な、石の燈籠が、この辺にあって、地面に埋ってる筈です。その恰好といい、苔のつき工合といい、なかなか、ほかでは見られません。」</p>
      <p>「地面に埋ってるんですか。」</p>
      <p>「誰も盗んでいった者はない。私だけが知ってることです。」</p>
      <p><seg source="#source-18903-18906">「</seg><app type="base-text-variant" source="#source-18921-18987"><lem><seg source="#source-18906-18921">それじゃあ</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-18966-18981">それじやあ</seg></rdg></app>、空襲前には、あなたはここに住んでたんですか。」</p>
      <p>「住んではいなかったが、私だけが知ってることで、誰にも分りゃしません。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19171-19284">それきり、話が途切れた。田中さんは煙草を取り出し、彦一にも一本すすめた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19284-19403">その煙草を、半分ばかり吸ってるうちに、彦一は突然、吐き出すように言い出した。</seg></p>
      <p>「あの一本松の、葦の茂みの中に、中華ソバ屋の小僧が、殺されていましたね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19516-19578">草の中からは、松だけしか見えなかった。</seg></p>
      <p>「石で頭を打ち割られていましたね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19634-19681">田中さんはただ頷いてみせた。</seg></p>
      <p>「誰があんなことをしたか、御存じですか。いや、あなたに分る筈はない。警察にも分ってはいない。だが、私は知ってるんですよ。私だけが知ってるんです。なぜなら、私がしたんですから。」</p>
      <p>「ほう、あなたがね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19982-20023">無関心らしい返事だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20023-20118">彦一は腹が立った。田中さんの顔を、殴りつけるように見つめた。</seg></p>
      <p>「あすこに、あの小僧が立っていたんです。死神にとっ憑かれて、ぶら下ったみたいにふらりと立って、もう半分死んでいたんです。だから、私は、そいつを張り倒して、頭を石でぶち割ってやったんです。どう思いますか。」</p>
      <p>「そりゃあ素敵だ。」</p>
      <p>「え、素敵だというのは……。」</p>
      <p>「とにかく、素敵だ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20540-20650">言葉の調子には何の感動もなく、田中さんは淡々と独り頷いてるだけだった。</seg></p>
      <p>「ばかにしてはいけません。私がしたんですよ。」</p>
      <p>「素敵だ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20741-21007">彦一の方へは眼も向けず、一本松の方も振り向かず、草の茂みごしに遠くをぼんやり眺めている。事柄を理解していないのではないかとも疑えるし、前から知っていたのではないかとも疑えた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21007-21429">然し、その時、彦一ははっと気付いたのである。あのことについて、聊かの罪悪をも彼は感じなかったし、今でも感じてはいない。だが、なにか、ものの影がさしてきたのだ。何ものの影であろうか。得体の知れないその影が、あの現場に立ち罩めているし、それが彼の上にまで覆い被さってくるようだった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21429-21485">彼は田中さんを見つめながら言った。</seg></p>
      <p>「私の言葉を信じて下さらなければいけません。あれはまったく、私がしたことです。私自身が手を下したのです。その証拠には、あの死体が横たわっていた、一本松の葦の茂みのほとりに、何ものとも知れない暗い影を私は感ずるし、それが私の上にまで被さってくる。こんなことは、当の本人でなければ分るものではない。ね、そうでしょう。勿論私は、罪悪を感じたり、自責の念を覚えたりはしません。彼奴が悪いのだ。」</p>
      <p>「そうだ、先方が悪い。」</p>
      <p>「然し、なにか影がさしてくる……。」</p>
      <p>「そんなもの、焼き捨てればいい。」</p>
      <p>「焼き捨てる……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22245-22322">彦一は夢からさめたかのように、ふと苦笑を浮べた。</seg></p>
      <p>「紙屑みたいにはいきませんよ。」</p>
      <p>「いや、紙屑だって容易じゃない。」</p>
      <p>「だから、どうなんです。」</p>
      <p>「焼き捨てるのさ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22498-22614">彦一はまた腹が立ってきた。いい加減、狂人のなぶり者になってるような感じだ。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22614-22771">彼は黙って立ち上り、挨拶もせずに歩き去った。田中さんは草の中にしゃがみこんだまま、空を仰ぎ見ていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22771-23403">翌日の払暁、一本松の葦のほとりに火の手があがった。もとより、その辺に人家はないから火災ではない。然し火先や煙の勢が大きく、ただの焚火とも見えないので、近くの人々が行ってみると、田中さんが葦の茂みを焼いているのだった。木炭の空俵や、藁束や、新聞紙などを、夥しく積み上げて、それに火をつけ、その火種をあちこちに投げ散らして、葦を焼いてるのだ。葦はまだ霜枯れておらず、容易に燃えないのを、田中さんは懸命に燃やそうとしている。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23403-23663">集まってきた人々は驚いて、田中さんを制止しようとしたが、なかなか言うことをきかなかった。衆人を全く無視した態度で、そして凄い形相で、黙々として火を燃やし続けてるのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23663-24271">その朝、彦一は珍らしく早く眼を覚した。彼の職業は保険会社の外交員で、時には小さな劇場の演出を手伝い、また稀に詩を書いていた。詩作は一文にもならず、芝居の方からは僅少な不時の収入があり、生活は主として外交員の仕事で立てていたが、彼にとっての重要さは、全くその逆だった。保険会社の外交員ほど下らない職業はないと思って、その職業を選んだのである。随って、仕事に勤勉でも忠実でもなかった。朝は遅くまで寝ていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24271-24501">ところがその朝、なにか気にかかる心地がしたし、室外の空気にざわめきが感ぜられたので、寝床の中に落着けず、起き上ってみた。そして田中さんの一件を知った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24501-24590">彼は服装をととのえるとすぐ、一本松のところへ駆けつけた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24590-24736">田中さんは衆人にかこまれながら、燃え上る炭俵を見つめていた。一人の警官が、その手を押えていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24736-24783">田中さんは大きな声で叫んだ。</seg></p>
      <p>「ここで、何事が起ったか、私は知ってる。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24848-24883">ちょっと息をついた。</seg></p>
      <p>「亡霊の影が出ることも、私は知ってる。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24945-24986">またちょっと息をついた。</seg></p>
      <p>「葦なんか茂らしておくからだ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25036-25068">警官をちらと見た。</seg></p>
      <p>「警察の怠慢だ。だから私が、葦を焼き捨ててやるのだ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25151-25243">彼はあたりをぐるりと見廻した。そして彦一の顔に眼をとめた。</seg></p>
      <p>「うむ、丁度よく来たな。あとは君が焼くんだ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25314-25487">そして彼は安心したのか、もうけろりとした表情で、警官から導かれるまま、近くの警察派出所へおとなしくついて行った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25487-25570">数名の人々が後に続き、彦一も一番後からついて行った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25570-25749">派出所の中で、彼は前と同じようなことを数言怒鳴った。それきりで、もう口を利かなかった。彦一の方は見向きもしなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25749-26003">彼の身内の者らしい若い男と、町内の有力者らしい老人とが、警官にしきりと何やら釈明していた。一通りの調書を取られて、彼はその二人に守られ、先に立ってすたすた歩み去った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26003-26143">別に危険な狂人というわけではなかったのだ。家庭も裕福な方で、彼は謂わば隠居の身の上だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26143-26253">事はそれで済んだ。葦の茂みのそばの燃やし火も直ちに消し止められていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26253-26606">然し、田中さんは拘禁されてるわけではなく、葦はまだ茂っており、いつどういうことが起るか分らなかった。不安な空気が漂っていた。それで、警官や有力者の肝入りで、葦の茂みのある土地の所有者と談合の上、葦はすっかり刈り取られることになった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26606-26728">松の古木一本だけで、その下の方に、浅い泥沼が広がり、さっぱりした土地になった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26728-26823">少年の怪死事件は、いろんな謎を秘めて、未解決のまま残された。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26823-26954">おれはまだ自由を欲する、と彦一は胸中で叫んだ。そして間もなく、遠くへ移転して行った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26954-27203">――彦一については、まだ後日物語がある。田中さんについても、後日物語がある。然し、二人が別れ別れになってしまった以上、この物語も一応ここで終止符を打つべきであろう。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-27211-27450"><seg type="source-line">底本：「豊島与志雄著作集　第五巻（小説5［＃「5」はローマ数字、1-13-25］・戯曲）」未来社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1966（昭和41）年11月15日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「心」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1952（昭和27）年1月</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-27450-27780"><seg type="source-line">入力：tatsuki</seg><lb/><seg type="source-line">校正：門田裕志、小林繁雄</seg><lb/><seg type="source-line">2007年1月16日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
    </back>
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</TEI>