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        <title type="main" xml:lang="ja">化生のもの</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">けしょうのもの</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>豊島</surname><forename>与志雄</forename><idno type="aozora-person-id">000906</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>とよしま</surname><forename>よしお</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Toyoshima</surname><forename>Yoshio</forename></persName></author>
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        <bibl><title>豊島与志雄著作集　第五巻（小説Ⅴ・戯曲）</title><publisher>未来社</publisher><date>1966（昭和41）年11月15日</date><note type="input-edition">1966（昭和41）年11月15日第1刷</note><note type="proof-edition">1966（昭和41）年11月15日第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「世界」1950（昭和25）年12月</bibl>
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      <classDecl><taxonomy xml:id="ndc"><bibl>日本十進分類法 (Nippon Decimal Classification), as recorded by <title>青空文庫</title> in its 分類番号 field.</bibl></taxonomy><taxonomy xml:id="aozora-orthography"><bibl><title>青空文庫</title> 文字遣い種別: the orthographic style Aozora Bunko records for the transcription.</bibl></taxonomy></classDecl>
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      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-445-951">小泉美枝子は、容姿うるわしく、挙措しとやかで、そして才気もあり、多くの人から好感を持たれた。海軍大佐だった良人を戦争で失い、其後、再婚の話も幾つかあったが、それには耳をかさず、未亡人生活を立て通していた。書生が一人、奥働きの女中が一人、下働きの女中が一人、それだけの家庭で、なお遠縁に当る中学生を一人預っている。近所の評判もよかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-951-1124">ところが、近頃、知人たちの間に、ひそひそと交わされる噂が拡まっていった。美枝子に愛人があるらしいというのである。</seg></p>
      <p>「まあ、あのひとに。」</p>
      <p>「そうなんですよ。」</p>
      <p>「ほんとうかしら。」</p>
      <p>「どうやら、ほんとうらしいんですの。でも、相手の男のひとが誰だか、さっぱり分らないそうですから、それがすこし、おかしいんですって。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1423-1635">美枝子の交際範囲の男たちを物色してみても、一向に見当はつかなかったし、噂の出所も不明だった。そうなってくると、噂そのものの真偽も疑われた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1635-1757">そのうちに、噂は別な形を取っていった。美枝子が姙娠してるらしいというのである。</seg></p>
      <p>「まあ、だんだん具体的になりますのね。」</p>
      <p>「そうですよ。けれど、相手の男のひとが誰だか、やっぱり分らないそうですの。」</p>
      <p>「ほほほ、聖母マリアみたい……。もっとも、あのひとは処女ではない筈ですけれど。」</p>
      <p>「いまに、キリストさまがお産れなすったら、たいへんなことになりましょうね。」</p>
      <p>「さあ、どうでしょうか。産れる前に、処置しておしまいなさるかも知れませんし。」</p>
      <p>「そのようなこと、簡単に出来るものでしょうかしら。」</p>
      <p>「いずれは、入院とか旅行とか、そんなことでございましょうね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2467-3279">然し、美枝子の日常は聊かの変りもなかった。入院も旅行もなく、面やつれさえも見えず、芝居や映画やお茶の集りなど、平素の通りの社交ぶりだった。知人たちの好奇な眼を腹部に受けても、全く気にかけていないようだった。親しい友だちの間でも、噂がただ愛人のことに止まってるうちはまだしも、姙娠ということになってくると、さすがに、未亡人たる彼女に面と向って言い出すのは憚られた。但し愛人から姙娠へと、噂の移り方が時間的に早すぎはしたけれど、そのようなことに留意するのは、単なる交際上では無理だったろうし、第一、両者が同時に起ることだってあり得るのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3279-3623">美枝子の腹部は少しもふくらんでこなかった。ただ、秋気が深まるにつれて、彼女はいくらか肥ってきたようだった。そして、煙草をもてあそぶことが多くなった。それも、もともと煙草好きというのではなかったし、時折、口先でふかすだけである。</seg></p>
      <p>「わたくし、なんだか肥ってきたようで、いやですわ。」と彼女は言った。</p>
      <p>「却って、結構ではございませんの。どちらかと言えば、痩せていらっしゃる方ですもの。」</p>
      <p>「それはそうですけれど、もしも、ぶくぶく肥ってきたら……と思いますと、いやになりますの。この年では、まだ、可哀そうでしょう。」</p>
      <p>「いいえ、お気になさるほど肥ってはいらっしゃいませんよ。そんなこと仰言ると、わたくしなんか、あてつけみたいに聞えましてよ。」</p>
      <p>「だって、わたくし、独り身ですもの。痩せてる方がよろしいわ。だから、こうして、煙草を吸うことにしていますの。煙草を吸ってると、肥らないそうですから。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4461-4502">彼女は晴れやかに笑った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4502-4702">そのようなこと、全く、彼女の腹部とは関係がなさそうだった。その腹部がいつまでもふくらんでこないので、知人たちは少し期待外れがした。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4702-4944">知人たちといっても、三十五歳にもなる彼女の交際だから、男性が相当に多かった。そして男の側には、彼女に関するひそかな噂は、女の側によりも、一層悪い印象を与えた。</seg></p>
      <p>「あのひとが愛人を拵えようとどうしようと、それは俺たちの知ったことじゃない。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5063-5455">それが最初の意見だった。美枝子は美しかったし、未亡人だったし、無関心に見過せる相手ではなかったが、然し、ただ愛人が出来たというだけで、それが何処の誰だか分らない間は、ただ一種の色気を彼女に添えるに止った。相手がはっきり分れば、おのずから事情は異ってきたろう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5455-5781">ところが、噂が一転して姙娠となると、それはもう一種の嫌悪の情を伴ってくる。色気どころか、穢らしいものとなる。そしてこうなると、男は無慈悲なものだ。彼女の腹部がふくれてこないことにも、皮肉な解釈が加えられたのである。</seg></p>
      <p>「全くのところ、女というものには油断がならない。秘密に愛人をこさえ、秘密に姙娠し、秘密に事を処理する……つまり、一切のことを秘密に運ぶ能力を、女は持ってるのだ。それに比べると、男はまるで赤ん坊だ。どんなに秘密に事を運ぼうとしても、すぐに尻尾を出すからね。」</p>
      <p>「しかし君、秘密に姙娠する、それだけはちと言いすぎたね。」</p>
      <p>「ははは、男が知らないうちに、と訂正するか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6327-6493">そしてもう一笑に附されてしまった。噂の真偽などは問題でなかった。軽蔑と無関心とは紙一重の差だったのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6493-6534">丁度その頃のことである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6534-6803">小泉美枝子は少しく思い悩んでいた。彼女自身にも訳の分らない欝陶しさで、一時間も、二時間も、ぼんやりしていることがあった。それでも、来客にはすべて快活に応対した。習性なのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6803-7216">浅野正己が来た晩、美枝子は彼を応接室の方へ通さした。中学生の哲夫の勉学を週に二回ほど見てもらってる男なので、哲夫が風邪の心地で寝ているところだから、そのまま帰してもよかったのだが、ちょっと心にかかることがあったのである。彼女は哲夫の様子を見て、それから応接室へ出て行った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7216-7368">浅野はつっ立って、壁にかかってる洋画の風景を眺めていた。慌てたようにお時儀をして、まだ立っていた。</seg></p>
      <p>「どうぞ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7388-7486">窓際の小卓を美枝子は指して、自分は横手のソファーに腰を下した。</seg></p>
      <p>「哲夫君、いかがですか。」</p>
      <p>「ちょっと風邪の気味ですけれど、一日か二日、臥っておりましたら、なおろうかと存じます。お知らせするひまがなくて、済みませんでしたね。」</p>
      <p>「いえ、僕の方は構いませんが……どうぞ、お大事に。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7810-7914">も少し居たものか、すぐに辞し去るべきか、浅野は迷ってるらしかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7914-8072">美枝子の頬にかすかな微笑が浮んだ。彼女は卓上に片肱をつき、手先で煙草をもてあそびながら、浅野を眺めた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8072-8884">浅野はいつも、彼女に対して、おずおずとした卑下した態度、むしろ彼女を避けるような態度を取っていた。哲夫の勉強がすんで帰り際に、お鮨でもと言って茶の間に呼ばれても、何かの口実を設けて、さっと帰ってゆくのだった。それでも、古くからの知り合いなのだ。美枝子の亡夫は、ずいぶん彼の面倒をみてやり、彼が専門学校を無事に卒業出来たのも、半ばは亡夫の援助に依るのだった。其後、彼はずっと出入りを続けている。哲夫の謂わば家庭教師となったのも、美枝子の好意に依ることで、多分の謝礼を受けている。けれども彼は、美枝子と親しむのをなんだか遠慮してるらしかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8884-9081">そして一方では、彼は美枝子に対して遠慮のない口を利いた。何事でも思い切って率直に言った。つい先日も、二人きりの時、彼女に言った。</seg></p>
      <p>「奥さん、しっかりして下さい。なんだか嫌な噂が伝わっておりますよ。僕は勿論、それを信じはしません。僕は……奥さんのためなら何でも致します。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9293-9418">彼女は問い返そうとしたが、哲夫がそこへやって来たし、彼はあわただしく辞し去った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9418-9702">美枝子が知ってる男たちは、殆んど凡てと言ってもよいくらい、彼女に対して、馴れ馴れしい態度を取り、一方では、持って廻った曖昧な言葉遣いをするのだった。それが、浅野はまるで正反対なのである。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9702-9842">髪の毛はこわくてばさばさだが、眼鏡をかけていない細面の顔は、蒼白い方で、上品にさえ見える。</seg></p>
      <p>「浅野さん。」と美枝子は呼びかけた。「あなたに、すこし伺いたいことがあるんですの。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9970-10065">浅野がびっくりしたように顔を挙げると、美枝子は頬笑んでいた。</seg></p>
      <p>「哲夫のことですけれど、なんだか勉強に身がはいらないように思われますが、どういうものでしょうかしら。いったいに、この頃の中学生なんか、生意気になってるようですけれどね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10322-10759">その聞き方に、実は、身がはいっていないのだった。女中が持って来た紅茶に、彼女はウイスキーをさしてやり、自分の紅茶にもウイスキーをちょっぴりさして、匙ですくっては味をみ、またちょっぴりさして、匙で一掬いずつ味をみていた。子供が戯れに味わってるみたいで、銀の匙と小さな爪とが光りに映えていた。</seg></p>
      <p>「哲夫君のことなら、御心配いりませんよ。頭もよいし、真面目じゃありませんか。なにか、お気になることがありましたら、あの学校の担任教師に聞いてあげましょうか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10998-11093">浅野が勤めてる学校は、哲夫が通学してる学校とは別なのである。</seg></p>
      <p>「あなたがそう御覧なさるなら、それでもう結構なんですの。わたしが充分に面倒もみてやれませんので、どうかと思いましてね。なにしろ、田舎から預ってる子なものですから……。」</p>
      <p>「然し、あなたによくなついてるし、あなたもたいへん可愛がっていらっしゃるし、それだけでもう充分ですよ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11505-11597">美枝子は眼でちらと笑った。青いような感じのする黒目である。</seg></p>
      <p>「でも、わたしにへんな噂でもたったりすると、いけませんわね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11692-11772">浅野が返事に迷っていると、美枝子はまた眼で笑った。</seg></p>
      <p>「あなたは、先日、わたしにへんな噂がたってると仰言ったわね。どんな噂でしょう。」</p>
      <p>「では、なんにも御存じないんですか。」</p>
      <p>「いいえ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11973-12035">こんどは、彼女はほんとに頬笑んでいた。</seg></p>
      <p>「勿論、ばかばかしいことです。あなたに恋人が出来たとか、どうとか……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12145-12189">浅野はぱっと顔を赤らめた。</seg></p>
      <p>「まあ、そんなことですの。それから……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12254-12301">浅野は俯向いて、黙っていた。</seg></p>
      <p>「それだけですの、噂というのは。」</p>
      <p>「ええ。」浅野は答えた。</p>
      <p>「つまらない噂ですわね。それを、あなたはどこでお聞きになりましたの。」</p>
      <p>「立花さんの御宅です。御紹介して下すってから、週に一回、やはりお子さんの勉強を見に行っています。なにかお祝いごとがあるらしく、大勢の客がありまして、僕も無理やりにその席へ引張り込まれましたが、その時、縁側にいた二人の御婦人の間に、その噂が囁かれてるのを耳にしました。はっきり名前は出ませんでしたが、たしかにあなたのことに違いなかったようです。」</p>
      <p>「分りましたわ。それなら、噂はそれだけではなかったでしょう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13112-13147">浅野は眉をひそめた。</seg></p>
      <p>「実は、まだひどいことがあります。あなたが姙娠されてるとかいうような……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13263-13304">美枝子はにっこり頷いた。</seg></p>
      <p>「むしろお芽出度い話ですわ。恋人が出来たり、赤ちゃんが出来たり……ふふふ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13420-13740">含み笑いをして、彼女は立ってゆき、ドアわきの呼鈴のボタンを押して、女中に紅茶を言いつけた。紅茶と林檎とが来ると、彼女はまた、紅茶にウイスキーをさして、一匙ずつ嘗めるように味わいはじめたが、ふと、その手を休めた。</seg></p>
      <p>「あ、あの方がよろしいかも知れないわ。じきですから、待ってて下さいね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13850-14035">彼女が出て行き、一人になると、浅野は卓上に首を垂れて、両の掌に額をかかえた。戸外に虫の声がするだけの、深い静けさだった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14035-14169">銀盆に、ジンフィールのコップ二つと、チーズの小皿。それを美枝子は浅野の前に押しやった。</seg></p>
      <p>「お礼のつもりよ。だって、あんな噂のこと、率直にわたしへ<app type="base-text-variant" source="#source-14262-14316"><lem><seg source="#source-14253-14262">言って</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-14301-14310">行って</seg></rdg></app>下すったのは、あなた一人だけですもの。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14378-14410">浅野は顔を挙げた。</seg></p>
      <p>「奥さん、誤解しないで下さい。あんなこと、僕は全く信じてはいません。だから、ありのまま言えたんです。ただ、腹が立つだけです。僕は長い間、今でも、お宅にはたいへん世話になっています。そしてあなたの名誉を傷つけるようなことを聞くのが、悲しいんです。腹が立つんです。」</p>
      <p>「それで、どうすれば宜しいんですの。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14864-14947">やさしく頬笑んでる彼女の姿が、浅野には眩しく見えた。</seg></p>
      <p>「僕には何も分りません。あなたがたの社会のことは、何も分りません。あんな噂をたてたり、それを面白がって吹聴したり、御当人が笑って聞いていらしたり……僕には何もかも分らなくなりました。そして、悲しいんです。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15258-15329">彼はジンフィールのコップを一息に飲み干した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15329-15592">美枝子はちょっと宙に眼を据え、立ち上って二三歩あるき、マントルピースの上に、壺や花瓶の間に置き忘れられてる、今はもう用のない白檀の扇を取って、それを無心に眺めながら言った。</seg></p>
      <p>「それでは、種明しをしてあげましょうか。あの噂は、わたしが立花のおばさまに頼んで、吹聴してもらったんですのよ。」</p>
      <p>「嘘です。ごまかそうとなすってはいけません。」浅野は憤慨したように言った。「あなたがたの悪い癖です。だいたい、みなさんには隙が多すぎるんです。だから、つまらないことが大事に見えたり、大事なことがつまらなく見えたりするんです。あなたも、も少し働いて下さればいいがと、僕はいつも思っていました。室の掃除でもよいし、雑巾がけでもよいし、庭の草むしりでもよいし、針仕事でもよいし、とにかく、働いて下さい。お金持ちであることは構いませんし、お召の着物をふだん着になすってることも構いません。ただ、も少し働いて下さい。夜更しをなさらず、朝は早く起きて下さい。僕なんか、どんなに働いてるか、御想像もつきますまい。そりゃあ、貧乏ですし、住宅がなくて妻は田舎に預けてる始末ですから、働くのが当然ですけれど、然し、働くことの喜びを僕は知っていますし、それに慰められています。働くことの喜び、それを少しでも知っていただけたら、あなたはもっともっと立派になられる筈です。」</p>
      <p>「あら、わたしだって、忙しいんですのよ。いろいろな用事を女中に言いつけたり、書生の杉山はいても、法律事務所に午後は通ってますから、午前中に家の用件を済まさしたり、指図だけでもたいへんですわ。」</p>
      <p>「その、指図がいけないんです。いつも指図ばかりじゃありませんか。どんな些細なことでもよいから、なにか一つか二つでも、御自分でなさる気はありませんか。交際のことではなく、なにか別なことです。草花を植えるとか、水を撒くとか、そんなことでもよろしいし……。」</p>
      <p>「はだしで馳け廻っても……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17753-17938">言いかけて、美枝子は口を噤んだ。浅野は泣いていたのである。瞼にあふれてくる涙をとめかねて、ハンカチで顔を蔽ってしまった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17938-18132">美枝子はぴくりと肩を震わした。上目を見据えて考えこんだ。ややあって、浅野の方へ歩み寄り、ソファーに腰を下して、やさしく言った。</seg></p>
      <p>「あなたの仰言ること、わたしにもよく分っておりますわ。でも、どうにもならないことだって、ありますのよ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18290-18337">浅野はまだ顔を挙げなかった。</seg></p>
      <p>「それにしても、ずいぶん思い切ったことを仰言ったわね。だから、わたしの方でも、思い切ってお頼みがありますわ。聞いて下さいますか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18534-18668">浅野は鼻をかんで、眼を挙げた。その前へ、美枝子はジンフィールの残りの一杯をつき出した。</seg></p>
      <p>「これをお飲みになってから……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18721-18786">浅野は茫然とした面持ちで、その通りした。</seg></p>
      <p>「わたしね、いちど、男のかたの頬ぺたを、思いきり引っ叩いてやりたいの。あなたの頬を打たせて下さい。その代り、私の頬を打たせてあげます。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18992-19027">声は少し震えていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19027-19074">浅野は殆んど無意識に応じた。</seg></p>
      <p>「さあどうぞ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19100-19156">彼は眼をつぶって、頬を差し出した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19156-19287">一瞬の躊躇の後、美枝子は平手で、浅野の頬をはっしと打った。薄い硝子のような音がした。</seg></p>
      <p>「ありがとう。」泣いてるような声だった。「こんどはあたしのを、どうぞ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19397-19540">彼女は眼をつぶった。すっきりした細い眉、すこしふくれ気味の瞼、長い睫毛がちらちら震えていた。</seg></p>
      <p>「どうぞ。」彼女は促した。</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19581-19715">浅野は静かに膝をついて、彼女の腿に顔を伏せた。かすかな香りが、鼻にではなく心に沁みた。</seg></p>
      <p>「僕には出来ません。」彼はすすり泣いた。「出来ません。許して下さい。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19822-19935">美枝子はまだ眼をつぶったまま、両手をのべて、彼のこわい髪をそっと撫でた。</seg></p>
      <p>「奥さん、許して下さい。僕はあなたを、心から慕っておりました。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20033-20299">ひっそりとした美枝子の体が、一つ大きく息をし、椅子の背に反り返っていった。浅野は半身を起して、その胸の方へ、唇の方へ、のりだそうとした。それを、美枝子は手で遮り、頭を振った。</seg></p>
      <p>「今は、いけません。」彼女は彼の耳元に囁いた。「これから、わたし、英語の勉強をはじめますから、面倒みて下さいね。書斎の方をわたしの居間みたいにしています。こんどから、あちらで……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20574-20698">彼女はすりぬけるように立ち上り、すーっとドアの方へ行き、呼鈴のボタンを押した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20698-21261">十一月にはいると、菊花鑑賞に事よせて、あちこちでティー・パーティーが催された。戦争前、新宿御苑で観菊の招宴があった、それに做ったものである。もっとも、この節では、菊花鑑賞というのも名ばかりで、大して多くの菊の鉢もなかったし、全くお茶の集りで、食物といってはサンドウィッチにコーヒーぐらいなもの、余興におでんや鮨の屋台店が出ることもあるが、実は単に社交の催しにすぎなかった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21261-21716">板倉邸でもその催しがあった。無風の好天気だったし、広庭で日向ぼっこをしながらお饒舌りをするのに、誂え向きだった。菊花の鉢がまばらに竝べられ、あちこちに小卓やベンチが配置されていた。紅白の幕が縁側近くに張り廻され、それに引き続いて、屋台店には和洋の酒瓶が竝んでいた。但しこの酒類は有料なのが愛嬌だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21716-21967">広庭の隅っこの小卓に、人を避けるような工合で、立花恒子と小泉美枝子とが差し向いでコーヒーを飲んでいた。恒子はもう五十近い年配で、ふくよかな体躯に貫禄が具わっていた。</seg></p>
      <p>「ねえ、おばさま。」美枝子は甘えるような口の利き方をした。「やっぱり、わたくしが申した通りでございましたでしょう。」</p>
      <p>「そうね。だけど、少し薬が利きすぎたかも知れませんよ。」</p>
      <p>「姙娠のこと。」</p>
      <p>「そう。愛人まではよろしいけれど、姙娠となると、ちょっと聞きぐるしいことですからね。わたしも、骨が折れましたよ。」</p>
      <p>「でも、おばさま、噂をひろめるのが、お上手でいらっしゃるわね。」</p>
      <p>「まあ、なにを言うんですか、ひとにさんざん頼んでおいてさ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22618-22656">恒子は睥むまねをした。</seg></p>
      <p>「わたくし、初めて分りましたわ。姙娠ということが、どんなにひとに嫌われるか……。」</p>
      <p>「ことに、男のかたにはそうですよ。」</p>
      <p>「考えてみると、やっぱり、いやなことですわね。お腹がぶくぶくふくらんできて、お尻がでっぱってきて……わたくし、結婚中に姙娠しないでよかったと、つくづく思いますわ。」</p>
      <p>「今だから、あんた、そんなことが言えるんです。わたしなんか、三人も子供を産みしたよ<note type="sic" source="#source-23208-23247">「産みしたよ」はママ</note>。」</p>
      <p>「それは、昔のことでございましょう。」</p>
      <p>「当り前じゃありませんか。」</p>
      <p>「昔だったら、構いませんわ。わたくしでも、昔のことなら平気ですわ。いま、この身体で……と思うと、ぞっとしますの。」</p>
      <p>「あ、ちょっと。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23560-23769">恒子は美枝子の腕にさわった。目配せされた方に眼をやると、星山が、あの大きな図体で、だぶだぶの服をつけて、あちらへ歩いてゆくところだった。</seg></p>
      <p>「わたしたちの方を見て、引き返していらしたようですよ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23855-23902">美枝子は肩をすくめて笑った。</seg></p>
      <p>「だから、おばさま、姙娠の効果はてきめんでしょう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23982-24032">恒子はじっと美枝子の顔を見た。</seg></p>
      <p>「いったい、あんたは、どうして星山さんがそんなに嫌いなんですの。危い噂までたてて……それほどにしなくてもねえ。」</p>
      <p>「しんから嫌い。もう我慢なりませんでしたの。御商売がどうの、御様子がどうのと、そんなことではありませんわ。わたくしに直接なんとも言わないで、菅野の奥さまを通して、甘言を竝べ立て、しつっこく言い寄るなんて、そのやり口もいやですけれど、それもまあよいとして、あの指輪が気に入りませんの。」</p>
      <p>「指輪……。」</p>
      <p>「精巧な彫りのある、太い金の指輪、いつもはめていらっしゃるあれですの。」</p>
      <p>「ああ、あんなもの、なんでもないじゃありませんか。」</p>
      <p>「では、おばさま、お貰いなさいませよ。おばさまになら、きっと下さるわ。」</p>
      <p>「そうね。貰いましょうか、ほほほ。」</p>
      <p>「あんなの、アメリカ趣味とでも言うんでしょうかしら。」</p>
      <p>「さ、どうだか。それより、一時代前の日本趣味とでも言ったほうが、よろしそうですね。」</p>
      <p>「とにかく、ア・ラ・モードではございませんわね。あんなの、いつの時代にでも、オール・ド・モードのたぐいでしょう。あのかた自身も、そうですわ。」</p>
      <p>「なによ、そのオールなんとか……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25491-25592">美枝子はもう心がそこになく、何を思い出したか、くすくすと笑った。</seg></p>
      <p>「わたくしね、おばさま、英語の勉強をはじめましたの。すっかり忘れていたので、自分でもびっくりしましたわ。」</p>
      <p>「若いうちに、なんでもやってみるものですよ。先生は……。」</p>
      <p>「それが、あまり上手ではないんですけれど……。」</p>
      <p>「どなた。外人のかたですか。」</p>
      <p>「お上手らしくないから、もちろん、日本人ですの。あの……浅野さん。」</p>
      <p>「あ、そう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26090-26215">何気なく返事をしながら、恒子はじっと美枝子の様子を窺った。美枝子は話を外らした。</seg></p>
      <p>「それから、おばさま、どうなんでしょうかしら、株の方……。」</p>
      <p>「あ、忘れていました。大丈夫、安心しててよさそうですよ。さっきね、高木の奥さまにお目にかかって……御存じでしょう、総理府のあのかたの奥さま……それとなく探ってみますと、船の方は見込みが多そうですよ。あんたもまた、無鉄砲に背負いこみすぎてるようですけれど、まあ今のところ、なんとか辛棒するんですね。望みがありそうですから、手放さないことですね。」</p>
      <p>「おばさまは、どうなさいますの。」</p>
      <p>「わたしも、時期を待つことにしましょう。それから、ちょっと、あんたを紹介したい方があるから、あちらへ行きましょうか。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27057-27128">立ちかけて、俄に、恒子は美枝子の手を押えた。</seg></p>
      <p>「ところで、あのこと、このままでよろしいかしら。」</p>
      <p>「あのことって……。」</p>
      <p>「なんですか、顔を赤めて……。」恒子は頬笑んだ。「噂のたてっぱなしで、ほおっといて宜しいかしら。もっとも、相手のひとが誰だか、それこそ、まったく根も葉もないことだし、あんたもこうして、平気で人中に出てるんだから、間もなく噂も消えてしまうことでしょうけれど、なにしろ、問題が問題ですからね。」</p>
      <p>「だって、今更、取り消すわけにもまいりませんでしょう。」</p>
      <p>「だからさ、わたしがまた一骨折りしなければならないかと思って……。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27867-27911">美枝子は眼を足先に落した。</seg></p>
      <p>「ほおっといて、大丈夫だと思いますの。もう噂はこりごりですもの。それに、わたくしも、どうせ覚悟の上のことですから。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28087-28221">恒子はまだ不安心らしく、美枝子の顔を覗き込んだ。それから、気を変えるように立ち上った。</seg></p>
      <p>「あまり心配させないで下さいよ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28274-28317">二人は黙って歩き出した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28317-28427">板倉邸でティー・パーティーが催された日、而も真昼間、妙な事件が起った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28427-29062">板倉邸は広い敷地で、コンクリートの塀に取り巻かれていた。その塀から出外れてしばらく行くと、左手が五メートルばかりの低い崖になっており、崖の下に小さな泥池があった。そのへん、崖の下は一面、戦災の焼け跡で小さな人家がぽつぽつ建ってるきりで、雑草の荒地と菜園とが入り交っていた。泥池は湧き水だが、赤く濁って、もう子供たちもそこでは遊ばず、木片を浮べて放置されたままだった。その泥池の崖上に、松が数本、ひょろひょろと植っていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29062-29728">その松の木立のところで、突然、二人の男が格闘を始めたのである。二人とも洋服姿の、相当な身なりだった。一人は五十年配の肥満した男で、一人はまだ若く痩せ型だった。年寄りの方がぶらりぶらり歩いてゆくのを、若い方が追っかけてきて、なにかちょっと言葉をかけ、いきなり殴りつけたものらしい。そして暫く揉み合ってるうちに、年寄りの方が、突き落されるか足を滑らすかして、子供みたいに崖下へ転げ落ち、泥池にはまってしまった。若い方は、それを上から眺めて、しばく</seg><note type="sic" source="#source-29728-29761">「しばく」はママ</note><seg source="#source-29761-29865">突っ立っていたが、自分の帽子を拾うと、足早にすたすた行ってしまった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29865-30278">その光景を目撃したのは、通りがかりの二三人に過ぎなかった。短時間のことで、訳が分らなかった。馳けつけてみると、男は池の中に坐りこむようにして、ぽかんとしていた。それからのこのこ逼い出してきた。見物人は小径伝いに降りてゆき、彼を崖上に援け上げた。大した怪我もなさそうだった。</seg></p>
      <p>「この近所に、自動車はないかね。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30331-30417">びっくりするほど元気なそして横柄な調子で、彼は尋ねた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30417-30746">この近所に自動車はなかなか見当るまいと聞いて、彼はちょっと考えてる風だったが、帽子は忘れ、泥水にずぶ濡れになったまま、すたすた歩き出して、板倉邸の方へ行き、その裏口へはいってしまった。見物人は呆気に取られた形だった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30746-31144">その男が、星山浩二だった。星山は板倉邸へ裏口からはいってゆき、下男をよんで、ティー・パーティーの際だからと秘密に頼み、遠い自宅へ電話をかけて、着換えを持って自動車の迎いを依頼し、下男部屋を借りて身体を洗った。額と腕に擦り傷があるだけだった。まだ可なり酔っていた。</seg></p>
      <p>「酔ってたため、崖から落ちても、怪我がなくて済んだよ、ははは。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31242-31280">彼は磊落そうに笑った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31280-31687">それだけのことだったが、然し、秘密には済まなかった。板倉の家人たちにはすぐに知れ渡った。格闘を目撃した者もいたのである。然し、様子を見に来た警官に向って、星山は、下らないことだと言い、襲われたのは事実だが、顔見知りの男だし、物取りでもないことだし、内分に願うと言った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31687-31722">事件は一応落着した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31722-32147">その話が、翌日の夕方、立花恒子の耳にはいった。彼女はティー・パーティーを早めに辞去したため、その時は知らなかったのである。なにか胸に思い当ることがあって、彼女は板倉邸へ電話し、なお事情を確かめた。考えこみながら夕食をすましたが、どうにも落着かず、自動車を駆って小泉美枝子を訪れた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32147-32242">美枝子が出て来るまで、恒子は応接室の中をぐるぐる歩いていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32242-32304">彼女は立ったまま、美枝子の腕を掴んだ。</seg></p>
      <p>「まあ、あんた、知ってるの。」</p>
      <p>「どうなさいましたの、おばさま。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32404-32493">美枝子はにこやかに彼女を迎え、隅の方のソファーに招じた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32493-32630">恒子は急に気落ちした思いで、美枝子の顔をしげしげと眺めた。思い惑った末、漸く言い出した。</seg></p>
      <p>「昨日、あの板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすったこと、知ってますか。」</p>
      <p>「あ、あのことでございますか、おばさま。存じておりますわ。」</p>
      <p>「それなら、わたしに電話ぐらいして下すってもよろしいでしょう。」</p>
      <p>「だって、つまらないことですもの。」</p>
      <p>「いえ、わたしが言うのは、星山さんのことではありません。どういう人が、どういうわけで襲ったか、それがすこし気になって、わざわざ、こうして出て来たんですよ。わたしたち、星山さんとはああした係り合いがあるでしょう。だから、もしも、その襲った人にも係り合いがあったら、どうしますか。こんどは、噂だけでは済みませんからね。警察の方からも人が来たそうですよ。」</p>
      <p>「そのようなこと、御心配なすっていらしゃいますの<note type="sic" source="#source-33642-33690">「いらしゃいますの」はママ</note>。それでは、おばさまにお目にかけるものがございます。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33773-33859">美枝子は立ってゆき、間もなく、一つの封筒を持って来た。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">封筒にはただ、「小泉美枝子様、必親展」とだけしてあった。</p>
      <p>「今日の午後、宅の郵便箱にはいっておりましたの。御本人が自分で投げ込んでいったものと思われます。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34097-34145">恒子は封筒を開いた。粗末な紙に</seg><app type="base-text-variant" source="#source-34157-34217"><lem><seg source="#source-34145-34157">几帳面な</seg></lem><rdg type="base-text"><seg source="#source-34199-34211">凡帳面な</seg></rdg></app><seg source="#source-34217-34248">細字が竝んでいた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34248-34391">御別れしなければならなくなりました。私は田舎へ引込みます。愛情にかけて、万事を御許し下さい。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34391-34780">詳しい御話を承わってから、私はＨを憎みました。校舎増築について前からＨを知っていただけに、猶更、憎悪の念が深まりました。あなたは一笑に附しておいでになりましたが、噂話其他により、またＳ夫人の仲介により、世間的にあなたの顔へ泥を塗ったのは、みなＨが原因です。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34780-35076">あなたが私の頬を打たれた真意はどこにあったのでしょうか。あなた自身の自己解放の契機と、私は理解します。然しそればかりではなく、Ｈへの復讐、ひいては男性一般への復讐も、交っていたに違いありません。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35076-35447">板倉家の観菊の会へあなたがおいでになることを、私は知っていました。それは何でもありません。然し、Ｈも行くことを私は偶然知り、憤慨しました。あなたの身辺にＨが存在することは、あなたを涜すことです。尚且、嫉妬反目の念も私にあったことは否定しません。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35447-35758">私は殆んど無意識的に、板倉家の近くを彷徨しました。中にはいって行くことの出来ない自分自身を苛立ちました。その時、板倉家から出て来るＨを見かけました。酒に酔ってるらしい彼の足取りは、更に私を激昂させました。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35758-36093">私は彼を追いかけ、崖のところで呼び止めておいて、迂濶にもあなたの名前を口走り、彼の頬を殴りつけました。あなたの名前を口に出したのは、全く迂濶でしたが、然し私は冷静でありました。あなたに代っての復讐という気もあったのです。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36093-36503">彼は私に抵抗し、組打となりました。一瞬、私には殺意が萌しました。これは重大なことです。然し幸にも、彼は崖から転落して、その下の泥沼にはまり込みました。もし彼が酒に酔っていなかったら、彼は大兵肥満で強力ですから、私の方が締め殺されるか、泥沼に投込まれるかしたことでしょう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36503-36877">Ｈは私を知っております。校舎増築のことでです。Ｈとしては、私をこのまま放任してはおきますまい。必ずや陰険な仕返しをするに違いありません。そうなると、自然、あなたの御名前も出ることになるかも知れません。私はあなたに累を及ぼすことを何よりも恐れます。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36877-37125">私は一方ならぬ恩義を御宅から受けています。然るに、何を以て私はあなたに御報いしたでしょうか。私は自殺をも考えました。然し、それは却って悪結果になるかも知れません。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37125-37556">私はいつも非常な恐怖と悲哀と歓喜とに嘖まれました。自分の道ならぬ恋愛を怖れました。地位や身分や境遇から考えても、いずれは御別れしなければならないと悲しみました。なおそれらを超えて、あなたの愛情に浸ることは天国的な喜びでした。私は深夜、独りで、どんなにか涕泣し且つ絶叫したことでしょう。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37556-38155">然し、もう凡て終りです。現実は苛酷です。私は身を退きます。恋する者にとっては、恋人は神聖無垢なものでなければなりません。私にとってあなたは神聖無垢です。それが、私のために、たとい一点の汚点でも附いたら、私は堪え切れませんでしょう。私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38155-38513">私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。妻は理解してくれるでしょう。明朝、学校へは辞表を出します。それから、この手紙を御宅の郵便箱へ届けます。お目にかかる勇気はとてもありません。Ｔ様の方へは、よろしく御取りなしおき下さい。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38513-38569">手紙の署名は、ただＭ・Ａとあった。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38569-38613">恒子は大きく溜息をついた。</seg></p>
      <p>「ねえ、おばさま、法律か哲学の文章みたいでございましょう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38705-38770">恒子は飛びあがって、美枝子の手を押えた。</seg></p>
      <p>「これ、ほんとうのことですか。」</p>
      <p>「さあ、御本人が書いたのですから、たぶん……。」</p>
      <p>「あんた、冗談じゃありませんよ。よく平気でおられますねえ。」</p>
      <p>「だって、ほかに仕様がございませんわ。それに、もう済んでしまったことですから。」</p>
      <p>「まだ、昨日からのことですよ。もし間違って、新聞にでも書かれたらどうします。万一のことがあったら、揉み消してもらうように、手を廻しておいてもいいんですけれど……。」</p>
      <p>「大丈夫ですよ、おばさま。昨日から今日で、すんでしまったんですもの。そしてじきに、明日になりますわ。」</p>
      <p>「明日……またなにか始めるつもりですか。」</p>
      <p>「いいえ。」美枝子は頬笑んだ。「もうおばさまに御心配かけませんわ。」</p>
      <p>「ああ、なんだか分らなくなってきた……。もっとよく考えてみます。あんたも考えておきなさいよ。明日、宅へ来て下さいね。」</p>
      <p>「伺いますけれど、おばさま、ほんとに、大丈夫でございますよ。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39954-40151">恒子はまだなんだかそわそわしていた。卓上に置き放しの手紙を、美枝子の懐に押し込んでやり、冷えた紅茶を一口飲み、すぐに立ち上った。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40151-40201">表には自動車が待たしてあった。</seg></p>
      <p>「御機嫌よろしゅう。」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40236-40413">自動車を見送って、美枝子は、皮肉めいた笑みを頬に浮べながら、家にはいった。そのあとに続いて、女中が玄関の扉を閉した。</seg></p>
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        <note type="source-attribution" source="#source-40421-40664"><seg type="source-line">底本：「豊島与志雄著作集　第五巻（小説5［＃「5」はローマ数字、1-13-25］・戯曲）」未来社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1966（昭和41）年11月15日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「世界」</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1950（昭和25）年12月</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-40664-40993"><seg type="source-line">入力：tatsuki</seg><lb/><seg type="source-line">校正：門田裕志、小林繁雄</seg><lb/><seg type="source-line">2007年1月2日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
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