Soranoha

化生のもの

けしょうのもの

豊島 与志雄

小泉美枝子は、容姿うるわしく、挙措しとやかで、そして才気もあり、多くの人から好感を持たれた。海軍大佐だった良人を戦争で失い、其後、再婚の話も幾つかあったが、それには耳をかさず、未亡人生活を立て通していた。書生が一人、奥働きの女中が一人、下働きの女中が一人、それだけの家庭で、なお遠縁に当る中学生を一人預っている。近所の評判もよかった。

ところが、近頃、知人たちの間に、ひそひそと交わされる噂が拡まっていった。美枝子に愛人があるらしいというのである。

「まあ、あのひとに。」

「そうなんですよ。」

「ほんとうかしら。」

「どうやら、ほんとうらしいんですの。でも、相手の男のひとが誰だか、さっぱり分らないそうですから、それがすこし、おかしいんですって。」

美枝子の交際範囲の男たちを物色してみても、一向に見当はつかなかったし、噂の出所も不明だった。そうなってくると、噂そのものの真偽も疑われた。

そのうちに、噂は別な形を取っていった。美枝子が姙娠してるらしいというのである。

「まあ、だんだん具体的になりますのね。」

「そうですよ。けれど、相手の男のひとが誰だか、やっぱり分らないそうですの。」

「ほほほ、聖母マリアみたい……。もっとも、あのひとは処女ではない筈ですけれど。」

「いまに、キリストさまがお産れなすったら、たいへんなことになりましょうね。」

「さあ、どうでしょうか。産れる前に、処置しておしまいなさるかも知れませんし。」

「そのようなこと、簡単に出来るものでしょうかしら。」

「いずれは、入院とか旅行とか、そんなことでございましょうね。」

然し、美枝子の日常は聊かの変りもなかった。入院も旅行もなく、面やつれさえも見えず、芝居や映画やお茶の集りなど、平素の通りの社交ぶりだった。知人たちの好奇な眼を腹部に受けても、全く気にかけていないようだった。親しい友だちの間でも、噂がただ愛人のことに止まってるうちはまだしも、姙娠ということになってくると、さすがに、未亡人たる彼女に面と向って言い出すのは憚られた。但し愛人から姙娠へと、噂の移り方が時間的に早すぎはしたけれど、そのようなことに留意するのは、単なる交際上では無理だったろうし、第一、両者が同時に起ることだってあり得るのである。

美枝子の腹部は少しもふくらんでこなかった。ただ、秋気が深まるにつれて、彼女はいくらか肥ってきたようだった。そして、煙草をもてあそぶことが多くなった。それも、もともと煙草好きというのではなかったし、時折、口先でふかすだけである。

「わたくし、なんだか肥ってきたようで、いやですわ。」と彼女は言った。

「却って、結構ではございませんの。どちらかと言えば、痩せていらっしゃる方ですもの。」

「それはそうですけれど、もしも、ぶくぶく肥ってきたら……と思いますと、いやになりますの。この年では、まだ、可哀そうでしょう。」

「いいえ、お気になさるほど肥ってはいらっしゃいませんよ。そんなこと仰言ると、わたくしなんか、あてつけみたいに聞えましてよ。」

「だって、わたくし、独り身ですもの。痩せてる方がよろしいわ。だから、こうして、煙草を吸うことにしていますの。煙草を吸ってると、肥らないそうですから。」

彼女は晴れやかに笑った。

そのようなこと、全く、彼女の腹部とは関係がなさそうだった。その腹部がいつまでもふくらんでこないので、知人たちは少し期待外れがした。

知人たちといっても、三十五歳にもなる彼女の交際だから、男性が相当に多かった。そして男の側には、彼女に関するひそかな噂は、女の側によりも、一層悪い印象を与えた。

「あのひとが愛人を拵えようとどうしようと、それは俺たちの知ったことじゃない。」

それが最初の意見だった。美枝子は美しかったし、未亡人だったし、無関心に見過せる相手ではなかったが、然し、ただ愛人が出来たというだけで、それが何処の誰だか分らない間は、ただ一種の色気を彼女に添えるに止った。相手がはっきり分れば、おのずから事情は異ってきたろう。

ところが、噂が一転して姙娠となると、それはもう一種の嫌悪の情を伴ってくる。色気どころか、穢らしいものとなる。そしてこうなると、男は無慈悲なものだ。彼女の腹部がふくれてこないことにも、皮肉な解釈が加えられたのである。

「全くのところ、女というものには油断がならない。秘密に愛人をこさえ、秘密に姙娠し、秘密に事を処理する……つまり、一切のことを秘密に運ぶ能力を、女は持ってるのだ。それに比べると、男はまるで赤ん坊だ。どんなに秘密に事を運ぼうとしても、すぐに尻尾を出すからね。」

「しかし君、秘密に姙娠する、それだけはちと言いすぎたね。」

「ははは、男が知らないうちに、と訂正するか。」

そしてもう一笑に附されてしまった。噂の真偽などは問題でなかった。軽蔑と無関心とは紙一重の差だったのである。

丁度その頃のことである。

小泉美枝子は少しく思い悩んでいた。彼女自身にも訳の分らない欝陶しさで、一時間も、二時間も、ぼんやりしていることがあった。それでも、来客にはすべて快活に応対した。習性なのである。

浅野正己が来た晩、美枝子は彼を応接室の方へ通さした。中学生の哲夫の勉学を週に二回ほど見てもらってる男なので、哲夫が風邪の心地で寝ているところだから、そのまま帰してもよかったのだが、ちょっと心にかかることがあったのである。彼女は哲夫の様子を見て、それから応接室へ出て行った。

浅野はつっ立って、壁にかかってる洋画の風景を眺めていた。慌てたようにお時儀をして、まだ立っていた。

「どうぞ。」

窓際の小卓を美枝子は指して、自分は横手のソファーに腰を下した。

「哲夫君、いかがですか。」

「ちょっと風邪の気味ですけれど、一日か二日、臥っておりましたら、なおろうかと存じます。お知らせするひまがなくて、済みませんでしたね。」

「いえ、僕の方は構いませんが……どうぞ、お大事に。」

も少し居たものか、すぐに辞し去るべきか、浅野は迷ってるらしかった。

美枝子の頬にかすかな微笑が浮んだ。彼女は卓上に片肱をつき、手先で煙草をもてあそびながら、浅野を眺めた。

浅野はいつも、彼女に対して、おずおずとした卑下した態度、むしろ彼女を避けるような態度を取っていた。哲夫の勉強がすんで帰り際に、お鮨でもと言って茶の間に呼ばれても、何かの口実を設けて、さっと帰ってゆくのだった。それでも、古くからの知り合いなのだ。美枝子の亡夫は、ずいぶん彼の面倒をみてやり、彼が専門学校を無事に卒業出来たのも、半ばは亡夫の援助に依るのだった。其後、彼はずっと出入りを続けている。哲夫の謂わば家庭教師となったのも、美枝子の好意に依ることで、多分の謝礼を受けている。けれども彼は、美枝子と親しむのをなんだか遠慮してるらしかった。

そして一方では、彼は美枝子に対して遠慮のない口を利いた。何事でも思い切って率直に言った。つい先日も、二人きりの時、彼女に言った。

「奥さん、しっかりして下さい。なんだか嫌な噂が伝わっておりますよ。僕は勿論、それを信じはしません。僕は……奥さんのためなら何でも致します。」

彼女は問い返そうとしたが、哲夫がそこへやって来たし、彼はあわただしく辞し去った。

美枝子が知ってる男たちは、殆んど凡てと言ってもよいくらい、彼女に対して、馴れ馴れしい態度を取り、一方では、持って廻った曖昧な言葉遣いをするのだった。それが、浅野はまるで正反対なのである。

髪の毛はこわくてばさばさだが、眼鏡をかけていない細面の顔は、蒼白い方で、上品にさえ見える。

「浅野さん。」と美枝子は呼びかけた。「あなたに、すこし伺いたいことがあるんですの。」

浅野がびっくりしたように顔を挙げると、美枝子は頬笑んでいた。

「哲夫のことですけれど、なんだか勉強に身がはいらないように思われますが、どういうものでしょうかしら。いったいに、この頃の中学生なんか、生意気になってるようですけれどね。」

その聞き方に、実は、身がはいっていないのだった。女中が持って来た紅茶に、彼女はウイスキーをさしてやり、自分の紅茶にもウイスキーをちょっぴりさして、匙ですくっては味をみ、またちょっぴりさして、匙で一掬いずつ味をみていた。子供が戯れに味わってるみたいで、銀の匙と小さな爪とが光りに映えていた。

「哲夫君のことなら、御心配いりませんよ。頭もよいし、真面目じゃありませんか。なにか、お気になることがありましたら、あの学校の担任教師に聞いてあげましょうか。」

浅野が勤めてる学校は、哲夫が通学してる学校とは別なのである。

「あなたがそう御覧なさるなら、それでもう結構なんですの。わたしが充分に面倒もみてやれませんので、どうかと思いましてね。なにしろ、田舎から預ってる子なものですから……。」

「然し、あなたによくなついてるし、あなたもたいへん可愛がっていらっしゃるし、それだけでもう充分ですよ。」

美枝子は眼でちらと笑った。青いような感じのする黒目である。

「でも、わたしにへんな噂でもたったりすると、いけませんわね。」

浅野が返事に迷っていると、美枝子はまた眼で笑った。

「あなたは、先日、わたしにへんな噂がたってると仰言ったわね。どんな噂でしょう。」

「では、なんにも御存じないんですか。」

「いいえ。」

こんどは、彼女はほんとに頬笑んでいた。

「勿論、ばかばかしいことです。あなたに恋人が出来たとか、どうとか……。」

浅野はぱっと顔を赤らめた。

「まあ、そんなことですの。それから……。」

浅野は俯向いて、黙っていた。

「それだけですの、噂というのは。」

「ええ。」浅野は答えた。

「つまらない噂ですわね。それを、あなたはどこでお聞きになりましたの。」

「立花さんの御宅です。御紹介して下すってから、週に一回、やはりお子さんの勉強を見に行っています。なにかお祝いごとがあるらしく、大勢の客がありまして、僕も無理やりにその席へ引張り込まれましたが、その時、縁側にいた二人の御婦人の間に、その噂が囁かれてるのを耳にしました。はっきり名前は出ませんでしたが、たしかにあなたのことに違いなかったようです。」

「分りましたわ。それなら、噂はそれだけではなかったでしょう。」

浅野は眉をひそめた。

「実は、まだひどいことがあります。あなたが姙娠されてるとかいうような……。」

美枝子はにっこり頷いた。

「むしろお芽出度い話ですわ。恋人が出来たり、赤ちゃんが出来たり……ふふふ。」

含み笑いをして、彼女は立ってゆき、ドアわきの呼鈴のボタンを押して、女中に紅茶を言いつけた。紅茶と林檎とが来ると、彼女はまた、紅茶にウイスキーをさして、一匙ずつ嘗めるように味わいはじめたが、ふと、その手を休めた。

「あ、あの方がよろしいかも知れないわ。じきですから、待ってて下さいね。」

彼女が出て行き、一人になると、浅野は卓上に首を垂れて、両の掌に額をかかえた。戸外に虫の声がするだけの、深い静けさだった。

銀盆に、ジンフィールのコップ二つと、チーズの小皿。それを美枝子は浅野の前に押しやった。

「お礼のつもりよ。だって、あんな噂のこと、率直にわたしへ言って下すったのは、あなた一人だけですもの。」

浅野は顔を挙げた。

「奥さん、誤解しないで下さい。あんなこと、僕は全く信じてはいません。だから、ありのまま言えたんです。ただ、腹が立つだけです。僕は長い間、今でも、お宅にはたいへん世話になっています。そしてあなたの名誉を傷つけるようなことを聞くのが、悲しいんです。腹が立つんです。」

「それで、どうすれば宜しいんですの。」

やさしく頬笑んでる彼女の姿が、浅野には眩しく見えた。

「僕には何も分りません。あなたがたの社会のことは、何も分りません。あんな噂をたてたり、それを面白がって吹聴したり、御当人が笑って聞いていらしたり……僕には何もかも分らなくなりました。そして、悲しいんです。」

彼はジンフィールのコップを一息に飲み干した。

美枝子はちょっと宙に眼を据え、立ち上って二三歩あるき、マントルピースの上に、壺や花瓶の間に置き忘れられてる、今はもう用のない白檀の扇を取って、それを無心に眺めながら言った。

「それでは、種明しをしてあげましょうか。あの噂は、わたしが立花のおばさまに頼んで、吹聴してもらったんですのよ。」

「嘘です。ごまかそうとなすってはいけません。」浅野は憤慨したように言った。「あなたがたの悪い癖です。だいたい、みなさんには隙が多すぎるんです。だから、つまらないことが大事に見えたり、大事なことがつまらなく見えたりするんです。あなたも、も少し働いて下さればいいがと、僕はいつも思っていました。室の掃除でもよいし、雑巾がけでもよいし、庭の草むしりでもよいし、針仕事でもよいし、とにかく、働いて下さい。お金持ちであることは構いませんし、お召の着物をふだん着になすってることも構いません。ただ、も少し働いて下さい。夜更しをなさらず、朝は早く起きて下さい。僕なんか、どんなに働いてるか、御想像もつきますまい。そりゃあ、貧乏ですし、住宅がなくて妻は田舎に預けてる始末ですから、働くのが当然ですけれど、然し、働くことの喜びを僕は知っていますし、それに慰められています。働くことの喜び、それを少しでも知っていただけたら、あなたはもっともっと立派になられる筈です。」

「あら、わたしだって、忙しいんですのよ。いろいろな用事を女中に言いつけたり、書生の杉山はいても、法律事務所に午後は通ってますから、午前中に家の用件を済まさしたり、指図だけでもたいへんですわ。」

「その、指図がいけないんです。いつも指図ばかりじゃありませんか。どんな些細なことでもよいから、なにか一つか二つでも、御自分でなさる気はありませんか。交際のことではなく、なにか別なことです。草花を植えるとか、水を撒くとか、そんなことでもよろしいし……。」

「はだしで馳け廻っても……。」

言いかけて、美枝子は口を噤んだ。浅野は泣いていたのである。瞼にあふれてくる涙をとめかねて、ハンカチで顔を蔽ってしまった。

美枝子はぴくりと肩を震わした。上目を見据えて考えこんだ。ややあって、浅野の方へ歩み寄り、ソファーに腰を下して、やさしく言った。

「あなたの仰言ること、わたしにもよく分っておりますわ。でも、どうにもならないことだって、ありますのよ。」

浅野はまだ顔を挙げなかった。

「それにしても、ずいぶん思い切ったことを仰言ったわね。だから、わたしの方でも、思い切ってお頼みがありますわ。聞いて下さいますか。」

浅野は鼻をかんで、眼を挙げた。その前へ、美枝子はジンフィールの残りの一杯をつき出した。

「これをお飲みになってから……。」

浅野は茫然とした面持ちで、その通りした。

「わたしね、いちど、男のかたの頬ぺたを、思いきり引っ叩いてやりたいの。あなたの頬を打たせて下さい。その代り、私の頬を打たせてあげます。」

声は少し震えていた。

浅野は殆んど無意識に応じた。

「さあどうぞ。」

彼は眼をつぶって、頬を差し出した。

一瞬の躊躇の後、美枝子は平手で、浅野の頬をはっしと打った。薄い硝子のような音がした。

「ありがとう。」泣いてるような声だった。「こんどはあたしのを、どうぞ。」

彼女は眼をつぶった。すっきりした細い眉、すこしふくれ気味の瞼、長い睫毛がちらちら震えていた。

「どうぞ。」彼女は促した。

浅野は静かに膝をついて、彼女の腿に顔を伏せた。かすかな香りが、鼻にではなく心に沁みた。

「僕には出来ません。」彼はすすり泣いた。「出来ません。許して下さい。」

美枝子はまだ眼をつぶったまま、両手をのべて、彼のこわい髪をそっと撫でた。

「奥さん、許して下さい。僕はあなたを、心から慕っておりました。」

ひっそりとした美枝子の体が、一つ大きく息をし、椅子の背に反り返っていった。浅野は半身を起して、その胸の方へ、唇の方へ、のりだそうとした。それを、美枝子は手で遮り、頭を振った。

「今は、いけません。」彼女は彼の耳元に囁いた。「これから、わたし、英語の勉強をはじめますから、面倒みて下さいね。書斎の方をわたしの居間みたいにしています。こんどから、あちらで……。」

彼女はすりぬけるように立ち上り、すーっとドアの方へ行き、呼鈴のボタンを押した。

十一月にはいると、菊花鑑賞に事よせて、あちこちでティー・パーティーが催された。戦争前、新宿御苑で観菊の招宴があった、それに做ったものである。もっとも、この節では、菊花鑑賞というのも名ばかりで、大して多くの菊の鉢もなかったし、全くお茶の集りで、食物といってはサンドウィッチにコーヒーぐらいなもの、余興におでんや鮨の屋台店が出ることもあるが、実は単に社交の催しにすぎなかった。

板倉邸でもその催しがあった。無風の好天気だったし、広庭で日向ぼっこをしながらお饒舌りをするのに、誂え向きだった。菊花の鉢がまばらに竝べられ、あちこちに小卓やベンチが配置されていた。紅白の幕が縁側近くに張り廻され、それに引き続いて、屋台店には和洋の酒瓶が竝んでいた。但しこの酒類は有料なのが愛嬌だった。

広庭の隅っこの小卓に、人を避けるような工合で、立花恒子と小泉美枝子とが差し向いでコーヒーを飲んでいた。恒子はもう五十近い年配で、ふくよかな体躯に貫禄が具わっていた。

「ねえ、おばさま。」美枝子は甘えるような口の利き方をした。「やっぱり、わたくしが申した通りでございましたでしょう。」

「そうね。だけど、少し薬が利きすぎたかも知れませんよ。」

「姙娠のこと。」

「そう。愛人まではよろしいけれど、姙娠となると、ちょっと聞きぐるしいことですからね。わたしも、骨が折れましたよ。」

「でも、おばさま、噂をひろめるのが、お上手でいらっしゃるわね。」

「まあ、なにを言うんですか、ひとにさんざん頼んでおいてさ。」

恒子は睥むまねをした。

「わたくし、初めて分りましたわ。姙娠ということが、どんなにひとに嫌われるか……。」

「ことに、男のかたにはそうですよ。」

「考えてみると、やっぱり、いやなことですわね。お腹がぶくぶくふくらんできて、お尻がでっぱってきて……わたくし、結婚中に姙娠しないでよかったと、つくづく思いますわ。」

「今だから、あんた、そんなことが言えるんです。わたしなんか、三人も子供を産みしたよ「産みしたよ」はママ。」

「それは、昔のことでございましょう。」

「当り前じゃありませんか。」

「昔だったら、構いませんわ。わたくしでも、昔のことなら平気ですわ。いま、この身体で……と思うと、ぞっとしますの。」

「あ、ちょっと。」

恒子は美枝子の腕にさわった。目配せされた方に眼をやると、星山が、あの大きな図体で、だぶだぶの服をつけて、あちらへ歩いてゆくところだった。

「わたしたちの方を見て、引き返していらしたようですよ。」

美枝子は肩をすくめて笑った。

「だから、おばさま、姙娠の効果はてきめんでしょう。」

恒子はじっと美枝子の顔を見た。

「いったい、あんたは、どうして星山さんがそんなに嫌いなんですの。危い噂までたてて……それほどにしなくてもねえ。」

「しんから嫌い。もう我慢なりませんでしたの。御商売がどうの、御様子がどうのと、そんなことではありませんわ。わたくしに直接なんとも言わないで、菅野の奥さまを通して、甘言を竝べ立て、しつっこく言い寄るなんて、そのやり口もいやですけれど、それもまあよいとして、あの指輪が気に入りませんの。」

「指輪……。」

「精巧な彫りのある、太い金の指輪、いつもはめていらっしゃるあれですの。」

「ああ、あんなもの、なんでもないじゃありませんか。」

「では、おばさま、お貰いなさいませよ。おばさまになら、きっと下さるわ。」

「そうね。貰いましょうか、ほほほ。」

「あんなの、アメリカ趣味とでも言うんでしょうかしら。」

「さ、どうだか。それより、一時代前の日本趣味とでも言ったほうが、よろしそうですね。」

「とにかく、ア・ラ・モードではございませんわね。あんなの、いつの時代にでも、オール・ド・モードのたぐいでしょう。あのかた自身も、そうですわ。」

「なによ、そのオールなんとか……。」

美枝子はもう心がそこになく、何を思い出したか、くすくすと笑った。

「わたくしね、おばさま、英語の勉強をはじめましたの。すっかり忘れていたので、自分でもびっくりしましたわ。」

「若いうちに、なんでもやってみるものですよ。先生は……。」

「それが、あまり上手ではないんですけれど……。」

「どなた。外人のかたですか。」

「お上手らしくないから、もちろん、日本人ですの。あの……浅野さん。」

「あ、そう。」

何気なく返事をしながら、恒子はじっと美枝子の様子を窺った。美枝子は話を外らした。

「それから、おばさま、どうなんでしょうかしら、株の方……。」

「あ、忘れていました。大丈夫、安心しててよさそうですよ。さっきね、高木の奥さまにお目にかかって……御存じでしょう、総理府のあのかたの奥さま……それとなく探ってみますと、船の方は見込みが多そうですよ。あんたもまた、無鉄砲に背負いこみすぎてるようですけれど、まあ今のところ、なんとか辛棒するんですね。望みがありそうですから、手放さないことですね。」

「おばさまは、どうなさいますの。」

「わたしも、時期を待つことにしましょう。それから、ちょっと、あんたを紹介したい方があるから、あちらへ行きましょうか。」

立ちかけて、俄に、恒子は美枝子の手を押えた。

「ところで、あのこと、このままでよろしいかしら。」

「あのことって……。」

「なんですか、顔を赤めて……。」恒子は頬笑んだ。「噂のたてっぱなしで、ほおっといて宜しいかしら。もっとも、相手のひとが誰だか、それこそ、まったく根も葉もないことだし、あんたもこうして、平気で人中に出てるんだから、間もなく噂も消えてしまうことでしょうけれど、なにしろ、問題が問題ですからね。」

「だって、今更、取り消すわけにもまいりませんでしょう。」

「だからさ、わたしがまた一骨折りしなければならないかと思って……。」

美枝子は眼を足先に落した。

「ほおっといて、大丈夫だと思いますの。もう噂はこりごりですもの。それに、わたくしも、どうせ覚悟の上のことですから。」

恒子はまだ不安心らしく、美枝子の顔を覗き込んだ。それから、気を変えるように立ち上った。

「あまり心配させないで下さいよ。」

二人は黙って歩き出した。

板倉邸でティー・パーティーが催された日、而も真昼間、妙な事件が起った。

板倉邸は広い敷地で、コンクリートの塀に取り巻かれていた。その塀から出外れてしばらく行くと、左手が五メートルばかりの低い崖になっており、崖の下に小さな泥池があった。そのへん、崖の下は一面、戦災の焼け跡で小さな人家がぽつぽつ建ってるきりで、雑草の荒地と菜園とが入り交っていた。泥池は湧き水だが、赤く濁って、もう子供たちもそこでは遊ばず、木片を浮べて放置されたままだった。その泥池の崖上に、松が数本、ひょろひょろと植っていた。

その松の木立のところで、突然、二人の男が格闘を始めたのである。二人とも洋服姿の、相当な身なりだった。一人は五十年配の肥満した男で、一人はまだ若く痩せ型だった。年寄りの方がぶらりぶらり歩いてゆくのを、若い方が追っかけてきて、なにかちょっと言葉をかけ、いきなり殴りつけたものらしい。そして暫く揉み合ってるうちに、年寄りの方が、突き落されるか足を滑らすかして、子供みたいに崖下へ転げ落ち、泥池にはまってしまった。若い方は、それを上から眺めて、しばく「しばく」はママ突っ立っていたが、自分の帽子を拾うと、足早にすたすた行ってしまった。

その光景を目撃したのは、通りがかりの二三人に過ぎなかった。短時間のことで、訳が分らなかった。馳けつけてみると、男は池の中に坐りこむようにして、ぽかんとしていた。それからのこのこ逼い出してきた。見物人は小径伝いに降りてゆき、彼を崖上に援け上げた。大した怪我もなさそうだった。

「この近所に、自動車はないかね。」

びっくりするほど元気なそして横柄な調子で、彼は尋ねた。

この近所に自動車はなかなか見当るまいと聞いて、彼はちょっと考えてる風だったが、帽子は忘れ、泥水にずぶ濡れになったまま、すたすた歩き出して、板倉邸の方へ行き、その裏口へはいってしまった。見物人は呆気に取られた形だった。

その男が、星山浩二だった。星山は板倉邸へ裏口からはいってゆき、下男をよんで、ティー・パーティーの際だからと秘密に頼み、遠い自宅へ電話をかけて、着換えを持って自動車の迎いを依頼し、下男部屋を借りて身体を洗った。額と腕に擦り傷があるだけだった。まだ可なり酔っていた。

「酔ってたため、崖から落ちても、怪我がなくて済んだよ、ははは。」

彼は磊落そうに笑った。

それだけのことだったが、然し、秘密には済まなかった。板倉の家人たちにはすぐに知れ渡った。格闘を目撃した者もいたのである。然し、様子を見に来た警官に向って、星山は、下らないことだと言い、襲われたのは事実だが、顔見知りの男だし、物取りでもないことだし、内分に願うと言った。

事件は一応落着した。

その話が、翌日の夕方、立花恒子の耳にはいった。彼女はティー・パーティーを早めに辞去したため、その時は知らなかったのである。なにか胸に思い当ることがあって、彼女は板倉邸へ電話し、なお事情を確かめた。考えこみながら夕食をすましたが、どうにも落着かず、自動車を駆って小泉美枝子を訪れた。

美枝子が出て来るまで、恒子は応接室の中をぐるぐる歩いていた。

彼女は立ったまま、美枝子の腕を掴んだ。

「まあ、あんた、知ってるの。」

「どうなさいましたの、おばさま。」

美枝子はにこやかに彼女を迎え、隅の方のソファーに招じた。

恒子は急に気落ちした思いで、美枝子の顔をしげしげと眺めた。思い惑った末、漸く言い出した。

「昨日、あの板倉さんのティー・パーティーの日にね、星山さんが、途中で誰かに襲われなすったこと、知ってますか。」

「あ、あのことでございますか、おばさま。存じておりますわ。」

「それなら、わたしに電話ぐらいして下すってもよろしいでしょう。」

「だって、つまらないことですもの。」

「いえ、わたしが言うのは、星山さんのことではありません。どういう人が、どういうわけで襲ったか、それがすこし気になって、わざわざ、こうして出て来たんですよ。わたしたち、星山さんとはああした係り合いがあるでしょう。だから、もしも、その襲った人にも係り合いがあったら、どうしますか。こんどは、噂だけでは済みませんからね。警察の方からも人が来たそうですよ。」

「そのようなこと、御心配なすっていらしゃいますの「いらしゃいますの」はママ。それでは、おばさまにお目にかけるものがございます。」

美枝子は立ってゆき、間もなく、一つの封筒を持って来た。

封筒にはただ、「小泉美枝子様、必親展」とだけしてあった。

「今日の午後、宅の郵便箱にはいっておりましたの。御本人が自分で投げ込んでいったものと思われます。」

恒子は封筒を開いた。粗末な紙に几帳面な細字が竝んでいた。

御別れしなければならなくなりました。私は田舎へ引込みます。愛情にかけて、万事を御許し下さい。

詳しい御話を承わってから、私はHを憎みました。校舎増築について前からHを知っていただけに、猶更、憎悪の念が深まりました。あなたは一笑に附しておいでになりましたが、噂話其他により、またS夫人の仲介により、世間的にあなたの顔へ泥を塗ったのは、みなHが原因です。

あなたが私の頬を打たれた真意はどこにあったのでしょうか。あなた自身の自己解放の契機と、私は理解します。然しそればかりではなく、Hへの復讐、ひいては男性一般への復讐も、交っていたに違いありません。

板倉家の観菊の会へあなたがおいでになることを、私は知っていました。それは何でもありません。然し、Hも行くことを私は偶然知り、憤慨しました。あなたの身辺にHが存在することは、あなたを涜すことです。尚且、嫉妬反目の念も私にあったことは否定しません。

私は殆んど無意識的に、板倉家の近くを彷徨しました。中にはいって行くことの出来ない自分自身を苛立ちました。その時、板倉家から出て来るHを見かけました。酒に酔ってるらしい彼の足取りは、更に私を激昂させました。

私は彼を追いかけ、崖のところで呼び止めておいて、迂濶にもあなたの名前を口走り、彼の頬を殴りつけました。あなたの名前を口に出したのは、全く迂濶でしたが、然し私は冷静でありました。あなたに代っての復讐という気もあったのです。

彼は私に抵抗し、組打となりました。一瞬、私には殺意が萌しました。これは重大なことです。然し幸にも、彼は崖から転落して、その下の泥沼にはまり込みました。もし彼が酒に酔っていなかったら、彼は大兵肥満で強力ですから、私の方が締め殺されるか、泥沼に投込まれるかしたことでしょう。

Hは私を知っております。校舎増築のことでです。Hとしては、私をこのまま放任してはおきますまい。必ずや陰険な仕返しをするに違いありません。そうなると、自然、あなたの御名前も出ることになるかも知れません。私はあなたに累を及ぼすことを何よりも恐れます。

私は一方ならぬ恩義を御宅から受けています。然るに、何を以て私はあなたに御報いしたでしょうか。私は自殺をも考えました。然し、それは却って悪結果になるかも知れません。

私はいつも非常な恐怖と悲哀と歓喜とに嘖まれました。自分の道ならぬ恋愛を怖れました。地位や身分や境遇から考えても、いずれは御別れしなければならないと悲しみました。なおそれらを超えて、あなたの愛情に浸ることは天国的な喜びでした。私は深夜、独りで、どんなにか涕泣し且つ絶叫したことでしょう。

然し、もう凡て終りです。現実は苛酷です。私は身を退きます。恋する者にとっては、恋人は神聖無垢なものでなければなりません。私にとってあなたは神聖無垢です。それが、私のために、たとい一点の汚点でも附いたら、私は堪え切れませんでしょう。私の胸の奥に神聖無垢なあなたが永久に留ることを、御信じ下さいますでしょうか。私は今、あなたに対する感謝と愛とで一杯です。同時に、世間というものに対する憎悪で一杯です。

私は田舎に戻り、一切のことを妻に告白するつもりです。妻は理解してくれるでしょう。明朝、学校へは辞表を出します。それから、この手紙を御宅の郵便箱へ届けます。お目にかかる勇気はとてもありません。T様の方へは、よろしく御取りなしおき下さい。

手紙の署名は、ただM・Aとあった。

恒子は大きく溜息をついた。

「ねえ、おばさま、法律か哲学の文章みたいでございましょう。」

恒子は飛びあがって、美枝子の手を押えた。

「これ、ほんとうのことですか。」

「さあ、御本人が書いたのですから、たぶん……。」

「あんた、冗談じゃありませんよ。よく平気でおられますねえ。」

「だって、ほかに仕様がございませんわ。それに、もう済んでしまったことですから。」

「まだ、昨日からのことですよ。もし間違って、新聞にでも書かれたらどうします。万一のことがあったら、揉み消してもらうように、手を廻しておいてもいいんですけれど……。」

「大丈夫ですよ、おばさま。昨日から今日で、すんでしまったんですもの。そしてじきに、明日になりますわ。」

「明日……またなにか始めるつもりですか。」

「いいえ。」美枝子は頬笑んだ。「もうおばさまに御心配かけませんわ。」

「ああ、なんだか分らなくなってきた……。もっとよく考えてみます。あんたも考えておきなさいよ。明日、宅へ来て下さいね。」

「伺いますけれど、おばさま、ほんとに、大丈夫でございますよ。」

恒子はまだなんだかそわそわしていた。卓上に置き放しの手紙を、美枝子の懐に押し込んでやり、冷えた紅茶を一口飲み、すぐに立ち上った。

表には自動車が待たしてあった。

「御機嫌よろしゅう。」

自動車を見送って、美枝子は、皮肉めいた笑みを頬に浮べながら、家にはいった。そのあとに続いて、女中が玄関の扉を閉した。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「世界」
1950(昭和25)年12月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042664_000906/

豊島 与志雄「化生のもの」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第五巻(小説Ⅴ・戯曲)』未来社、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042664_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite