Soranoha

青春論

せいしゅんろん

坂口 安吾

一 わが青春

今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も尚なお青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持のいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように唸うなったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生れて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当らぬとは、ひどく悲しい。生れて七十年、どこにも区切りが見当らぬ、となっては、之これは又助からぬ気持であろう。ひとつ区切りをつけてやろうか。僕は時にこう考える。さて、そこで、然らば「如何にして」ということになるのであるが、ここに至って再び僕は参ってしまう。多分誰でも同じことを考えると思うけれども、僕も又「結婚」というひとつの区切りに就ついて先ず考える。僕は結婚ということに決して特別の考えを持ってはおらず、こだわった考え方もしてはおらず、自然に結婚するような事情が起ればいつでも自然に結婚してしまうつもりなのである。けれども、それで僕の一生に区切りが出来るであろうか。多分区切りは出来ないと思うし、かりに区切りが出来たとしても、その区切りによって僕の生活が真実立派になるということは決してないと考える。僕は愚かだけれども、その愚かさは結婚に関係のない事情にもとづくものである。結婚して、子供も大きくなって七十になって、そうして、やっぱり、青春――どこにも一生の区切りがない、これは助からぬ話だと僕は恐れをなしてしまう。

青春再びかえらず、とはひどく綺麗きれいな話だけれども、青春永遠に去らず、とは切ない話である。第一、うんざりしてしまう。こういう疲れ方は他の疲れとは違って癒いやし様のない袋小路のどんづまりという感じである。世阿弥が佐渡へ流刑のあいだに創った謡曲に「檜垣ひがき」というものがある。細いことは忘れてしまったけれども荒筋は次のような話である。なんでも檜垣寺というお寺があって(謡曲をよく御存じの方は飛ばして読んで下さい。どんなデタラメを言うかも知れませんよ)このお寺へ毎朝閼伽あかの水をささげにくる老婆がある。いつ来る時も一人であるが、この老婆の持参の水が柔らかさ世の常のものではない。そこで寺の住持があなたは何処の何人であるかと尋ねてみると、老婆は一首の和歌を誦してこの歌がお分りであろうか、と云う。生憎あいにくこの和歌を僕はもう忘れてしまったが「水はぐむ」とか何とかいう枕言葉に始まっていて、住持にはこの枕言葉の意味が分らないのである。この和歌にも相当重要な意味があった筈であるが、然し、物語の中心そのものではないのだから勘弁していただきたい。そこで住持が不思議に思って、この枕言葉は聞きなれないものであるが、いったいどういう意味があるのですかと尋ねた。すると老婆が答えて言うには、その意味が知りたいと仰有おっしゃるならば何とか河(これも忘れた)のほとりまで御足労願いたい。自分はそこに住んでいるから、そのときお話致しましょう、と帰ってしまった。翌日(ではないかも知れぬ。もともと昔の物語は明日も十年後もありゃしない)住持は何とか河のほとりへ老婆を訪ねて行ってみた。と、なるほど、一軒の荒れ果てた庵があるが、住む人の姿はなく、又、人の住むところとも思われぬ廃屋である。と、姿のない虚空に老婆の恐ろしい声がして、いざ、私の昔を語りましょう、と言い、自分は、昔、都に宮仕えをして楽しい青春を送ったもので、昨日の和歌は自分の作、新古今だか何かに載っているものである。自分は年老ゆると共に、若かった頃の美貌が醜く変って行くのに堪えられぬ苦しみを持つようになった。そうして、そのことを気にして悩みふけって死んでしまったが、そのために往生を遂げることが出来ず、いまだに妄執を地上にとどめて迷っている。和尚様においでを願ったのも、有難い回向えこうをいただいて成仏したいからにほかならぬ、と物語る。そこで和尚は、いかにも回向してあげようが、先ず姿を現しなさい、と命令し、老婆はためらっていたが、然らば醜い姿であさましいがお目にかけましょうと言って妄執の鬼女の姿を現す。そこで和尚は回向を始めるのであるが、回向のうちに、老婆はありし日の青春の夢を追い、ありし日の姿を追うて恍惚こうこつと踊り狂い、成仏する、という筋なのである。

北海の孤島へ流刑の身でこんな美しい物語をつくるとは、世阿弥という人の天才ぶりに降参せざるを得ない。ところで、話はそういうことではないのだが、僕がこの物語を友人に語ったところが(僕はあらゆる友人にこの物語を話した)最も激しい感動を現した人は宇野千代さんであった。この時以来宇野さんは謡曲のファンになり、頻しきりに観能にでかけ、僕が文学として読んではいても舞台として殆んど見たことがないので冷やかされる始末になったが、女の人は誰しも老醜を怖れること男の比にはならないのであろうけれども、宇野さんが物語をきいたときの驚きの深さは僕の頭を離れぬことのひとつである。宇野さんもかなりの年齢になられているから、鬼女の懊悩おうのうが実感として激しかったという意味もあろうけれども、失われた青春にこんなにハッキリした或いはこんなに必死な愛情を持ち得るということで、僕は却かえって女の人が羨しいような気がしたのだ。この羨しさは、毛頭僕の思いあがった気持からではないのである。

女の人には秘密が多い。男が何の秘密も意識せずに過している同じ生活の中に、女の人は色々の微妙な秘密を見つけだして生活しているものである。特に宇野さんの小説は、私小説はもとより、男の子の話だの、女流選手の話だの老音楽夫人の話だの、語られていることの大部分はこういう微妙な綾あやの上の話なのである。これらの秘密くさい微妙なそして小さな心のひとつひとつが正確に掘りだされてきた宝石のような美しさで僕は愛読しているのだが、さればとて、然らば俺もこういうものを書いてやろうか、という性質のものではない。僕の頭を逆さにふっても、こういうものは出てこない。なるほど宇野流に語られてみれば、こういう心も僕のうちに在ることが否定できぬが、僕の生活がそういうものを軌道にしてはいないのである。だが、僕は今、文学論を述べることが主眼ではない。

このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいように大切であろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕等に分らぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。まして容貌の衰えに就ての悲哀というようなものは、同じものが男の生活にあるにしても、男女の有り方には甚だ大きな距へだたりがあると思われる。宇野さんの小説の何か手紙だったかの中に「女がひとりで眠るということの佗しさが、お分りでしょうか」という意味の一行があった筈だが、大切な一時間一時間を抱きしめている女の人が、ひとりということにどのような痛烈な呪いをいだいているか、とにかく僕にも見当はつく。

このような女の人に比べると、僕の毎日の生活などはまるで中味がカラッポだと言っていいほど一時間一時間が実感に乏しく、且、だらしがない。てんでいのちが籠こもっておらぬ。一本の髪の毛は愚かなこと、一本の指一本の腕がなくなっても、その不便に就ての実感や、外見を怖れる見栄に就ての実感などはあるにしても、失われた「小さないのち」というものに何の感覚も持たぬであろう。

だから女の人にとっては、失われた時間というものも、生理に根ざした深さを持っているかに思われ、その絢爛けんらんたる開花の時と凋落ちょうらくとの怖るべき距りに就て、すでにそれを中心にした特異な思考を本能的に所有していると考えられる。事実、同じ老年でも、女の人の老年は男に比べてより多く救われ難いものに見える。思考というものが肉体に即している女の人は、その大事の肉体が凋落しては万事休すに違いない。女の青春は美しい。その開花は目覚しい。女の一生がすべて秘密となってその中に閉じこめられている。だから、この点だけから言うと、女の人は人間よりも、もっと動物的なものだという風に言えないこともなさそうだ。実際、女の人は、人生のジャングルや、ジャングルの中の迷路や敵や湧き出る泉や、そういうものに男の想像を絶した美しいイメージを与える手腕を持っている。もし理智というものを取去って、女をその本来の肉体に即した思考だけに限定するならば、女の世界には、ただ亡国だけしか有り得ない。女は貞操を失うとき、その祖国も失ってしまう。かくの如く、その肉体は絶対で、その青春も亦また、絶対なのである。

どうも、然し、女一般だの男一般というような話になると、忽たちまち僕の舌は廻らなくなってトンチンカンになってしまうから、このへんで切上げて、僕はやっぱり僕流に自分一人のことだけ喋ることにしよう。ただ、さっきの話のちょっとした結論だけ書加えておくと、女の人は自分自身に関する限り、生活の一時間一時間を男に比べて遥に自覚的に生きている。非常にハッキリと自分自身を心棒にした考え方を持っていて、この観点から言う限りは、男に比べて遥かに「生活している」と言わなければなるまいと思う。だいたい先刻の「檜垣」の話にしても、容貌の衰えを悩むあまり幽霊になったなどという、光源氏を主人公にしても男では話にならない。光源氏を幽霊にすることは不可能でもないけれども、すくなくとも男の場合は老齢と結びつけるわけには参らぬ。ここに一人の爺さんがあって、容貌の衰えたのを悲嘆のあまり、魂魄こんぱくがこの世にとどまって成仏が出来なくなってしまった、というのでは読者に与える効果がよほど違ってくる。むしろ喜劇の畑であろう。女は非常にせまいけれども、強烈な生活をしているのである。

三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入はいってみると畳が敷かれていない感じだ、と言ったそうだ。近頃の名評だそうで、僕も笑ってしまったけれども、まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに一枚のウスベリも見当らない。大切な一時間一時間をただ何となく迎え入れて送りだしている。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままヌッと這入りこまれて、そのままズッと出て行かれても文句の言いようもない。どこにも区切りがないのだ。ここにて下駄をぬぐべしと云うような制札がまったくどこにもないのである。

七十になっても、なお青春であるかも知れぬ。そのくせ老衰を嘆いて幽霊になるほどの実のある生活もしたことがない。そのような僕にとっては、青春というものが決して美しいものでもなく、又、特別なものでもない。然らば、青春とは何ぞや? 青春とは、ただ僕を生かす力、諸々の愚かな然し僕の生命の燃焼を常に多少ずつ支えてくれているもの、僕の生命を支えてくれるあらゆる事どもが全て僕の青春の対象であり、いわば僕の青春なのだ。

愚かと云えば常に愚かであり又愚かであった僕である故、僕の生き方にただ一つでも人並の信条があったとすれば、それは「後悔すべからず」ということであった。立派なことだから後悔しないと云うのではない。愚かだけれども、後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず、という、いわば祈りに似た愚か者の情熱にすぎない。牧野信一が魚籃坂ぎょらんざか上にいたころ、書斎に一枚の短冊が貼りつけてあって「我事に於て後悔せず」と書いてあった。菊池寛氏の筆であった。その後、きくところによれば、これは元来宮本武蔵の言葉だということであったが、このように堂々と宣言されてみると、宮本武蔵の後悔すべからず、と、僕の後悔すべからずでは大分違う。『葉隠れ論語』によると、どんな悪い事でもいったん自分がやらかしてしまった以上は、美名をつけて誤魔化してしまえ、と諭しているそうだけれども、僕はこれほど堂々と自我主義を押通す気持はない。もっと他人というものを考えずにはいられないし、自分の弱点に就て、常に思いを致し、嘆かずにもいられぬ。こういう『葉隠れ論語』流の達人をみると、僕はまっさきに喧嘩がしたくなるのである。

いわば、僕が「後悔しない」と云うのは悪業の結果が野たれ死をしても地獄へ落ちても後悔しない、とにかく俺の精一杯のことをやったのだから、という諦らめの意味に他ならぬ。宮本武蔵が毅然として「我事に於て」後悔せず、という、常に「事」というものをハッキリ認識しているのとは話が余程違うのだ。尤もっとも、我事に於て後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにいられなかった宮本武蔵は常にどれくらい後悔した奴やら、この言葉の裏には武蔵の後悔が呪のろいのように聴えてもいる。

僕は自分の愚かさを決して誇ろうとは思わないが、そこに僕の生命が燃焼し、そこに縋すがって僕がこうして生きている以上、愛惜なくして生きられぬ。僕の青春に「失われた美しさ」がなく、「永遠に失われざるための愚かさ」があるのみにしても、僕も亦、僕の青春を語らずにはいられない。即ち、僕の青春論は同時に淪落りんらく論でもあるという、そのことは読んでいただけば分るであろう。

二 淪落に就て

日本人は小役人根性が旺盛で、官僚的な権力を持たせると忽たちまち威張り返ってやりきれぬ。というのは近頃八百屋だの魚屋で経験ずみのことで、万人等しく認めるところだけれども、八百屋や魚屋に縁のない僕も、別のところで甚だ之を痛感している。

電車の中へ子供づれの親父やおふくろが乗込んでくる。或いはお婆さんを連れた青年が這入ってくる。誰かしら子供やお婆さんに席を譲る。すると間もなく、その隣りの席があいた場合に、先刻、子供や婆さんに席を譲ってくれた人がそこに立っているにも拘かかわらず、自分か、自分の連れをかけさせてしまう。よく見かける出来事であるが、先刻席を譲ってくれた人に腰かけて貰っている親父やおふくろを見たためしがないのである。

つまり子供だのお婆さんだのへの同情に便乗して、自分まで不当に利得を占めるやからで、こういう奴等が役人になると、役人根性を発揮し、権力に便乗して仕様のない結果になるのである。

僕は甚だ悪癖があって、電車の中へ婆さんなどがヨタヨタ乗込んでくると、席を譲らないといけないような気持になってしまうのである。けれども、ウッカリ席を譲ると、忽ち小役人根性の厭なところを見せつけられて不愉快になるし、そうかといって譲らないのも余り良い気持ではない。要するに、こういう小役人根性の奴等とは関係を持たないに限るから、電車がガラ空きでない限り、僕は腰かけないことにしている。少しくらいくたびれても、こういう厭な連中と関係を持たない方が幸福である。

去年の正月近い頃、渋谷で省線を降りて、バスに乗った。バスは大変な満員で、僕ですら喘あえぐような始末であったが、僕の隣りに学習院の制服を着用した十歳ぐらいの小学生男子が立っていた。僕の前の席が空いたので、隣りの少年にかけたまえとすすめたら、少年はお辞儀をしただけで、かけようとしなかった。又、席があいたが同じことで少年は満員の人ごみにもまれながら、自分の前の空席に目をくれようともしなかったのである。

僕はこの少年の躾しつけの良さにことごとく感服した。この少年が信条を守っての毅然たる態度はただ見事で、宮本武蔵と並べてもヒケをとらない。学習院の子供達がみんなこうではあるまいけれども、すくなくとも育ちの良さというものを痛感したのである。

このような躾けの良さは、必ずしも生家の栄誉や富に関係はなかろうけれども、然しながら、生家の栄誉とか、富に対する誇りとか、顧みて怖れ怯おびゆるものを持たぬ背景があるとき、凡人といえども自らかかる毅然たる態度を維持することが出来易いと僕は思う。

とはいえ、栄誉ある家門を背景にした子供達が往々生れ乍ながらにしてかかる躾けの良さを身につけているにしても、栄誉ある人々の大人の世界も子供の世界もおしなべて決して常に此の如きものではない。のみならず、大人の世界に於ける貴族的性格というものは、その悠々たる態度とか毅然たる外見のみで、外見と精神に何の脈絡なく、真の貴族的精神というものは、又、自ら、別個のところにあるのである。躾けよき人々は、ただ他人との一応の接触に於て、礼儀を知っているけれども、実際の利害関係が起った場合に、自己を犠牲にすることが出来るか。甘んじて人に席を譲るか。むしろ他人を傷つけて自らは何の悔いもない底の性格をつくり易いと言い得るであろう。

蓋けだし、大人の世界に於て、犠牲とか互譲とかいたわりとか、そういうものが礼儀でなしに生活として育っているのは淪落の世界なのである。淪落の世界に於ては、人々は他人を傷けることの罪悪を知り、人の窮迫にあわれみと同情を持ち、口頭ではなく実際の救い方を知っており、又、行う。又、彼等は人の信頼を裏切らず、常に仁義というものによって自らの行動を律しようとするのである。

とはいえ、彼等の仁義正しいのは主として彼等同志の世界に於てだけだ。一足彼等の世界をでると、つまり淪落の世界に属さぬ人々に接触すると、彼等は必ずしも仁義を守らぬ。なぜなら淪落の人々は概おおむね性格破産者的傾向があるし、又いくらかずつ悪党で、いわば自分自身を守るために、同僚を守ったり、彼等の秩序を守ったりするけれども、外部に対してまで秩序を守る必要を認めないからでもあるし、大体が彼等の秩序と一般家庭の秩序とは違っているから、別に他意がなくとも食い違うことが出来てしまう。

乞食を三日すると忘れられない、と言うけれども、淪落の世界も、もし独立不羈ふきの魂を殺すことが出来るなら、これぐらい住み易く沈淪し易いところもない。いわば、着物もいらず住宅もいらず、野生の食物にも事欠かぬ南の島のようなものだ。だから僕は淪落の世界を激しく呪い、激しく憎む。不羈独立の魂を失ったら、僕などはただ肉体の屑にすぎない。だから僕の魂は決してここに住むことを欲しないにも拘らず、どうして僕の魂は、又、この世界に憩いを感じ、ふるさとを感じるのであろうか。

今年の夏、僕は新潟へ帰って、二十年ぶりぐらいで、白山様の祭礼を見た。昔の賑いはなかったが、松下サーカスというのが掛っていた。僕は曲馬団で空中サーカスと云っているブランコからブランコへ飛び移るのが最も好きだが、松下サーカスは目星めぼしい芸人が召集でも受けているのか、座頭の他には大人がなく、非常に下手で、半分ぐらい飛び移りそこねて墜落してしまう。このあとでシバタサーカスというのを見たが、この方はピエロの他は一人も墜落しなかった。一見したところ真ん中のブランコが一番大切のようだけれども、実際は両側のブランコに最も熟練した指導者が必要でこの人が出発の呼吸をはかってやるのである。シバタサーカスは真ん中のブランコが女だけれども、両側のブランコに二人の老練家がついているから、全然狂いがない。松下サーカスは真ん中のブランコに長老が乗っているが、両側が子供ばかりで指導者がないのだ。

落ちる。落ちる。そうして、又、登って行く。彼等が登場した時はただの少年少女であったが、落ちては登り、今度はという決意のために大きな眼をむいて登って行く気魄きはくをみると、涙が流れた。まったく、必死の気魄であった。長老を除くと、その次に老練なのは、ようやく十九か二十ぐらいの少年だったが、この少年は何か猥褻わいせつな感じがして見たくないような感じだったが、この少年が最後の難芸に失敗して墜落したとき、彼が歯を喰いしばりカッと眼を見開いて何か夢中の手つきで耳あての紐ひもを締め直しながら再び綱にすがって登りはじめた時は、猥褻の感などはもはやどこにもなかった。神々しいぐらい、ただ一途に必死の気魄のみであったのである。その美しさに打たれた。

いつか真杉静枝さんに誘われて帝劇にレビューを見たことがあったが、レビューの女に比べると、あの中へ現れて一緒に踊る男ぐらい馬鹿に見えるものはない。あんまり低脳な馬鹿に見えて同性の手前僕がいささかクサっていると、真杉さんが僕に向いて、どうしてレビューの男達ってあんなに馬鹿に見えるのでしょうか、と呟つぶやいた。男には馬鹿に見えても、女の人には又別な風に見えるのだろうと考えていた僕は、真杉さんの言葉をきいて、女の人にもやっぱりそうなのかと改めて感じ入った次第である。

ところが、僕は一度だけ例外を見たのである。

それは京都であった。昭和十二年か十三年。京都の夏は暑いので、僕は毎日十銭握ってニュース映画館へ這入り、一日中休憩室で本を読んだりしていた。ニュース映画館はスケート場の附属で、ひどく涼しいのだ。あの頃は仕事に自信を失って、何度生きるのを止めにしようと思ったか知れない。新京極に京都ムーランというレビューがあって、そこへよく身体を運んだ。まったく、ただ身体を運んだだけだ。面白くはなかった。僕の見たたった一度の例外というのは、だから、京都ムーランではないのである。

京都ムーランよりももっと上手の活動小屋へ這入ったら、偶然アトラクションにレビューをやっていた。小さな活動小屋のアトラクションだから、レビューは甚だ貧弱である。女が七八人に男が一人しかいない。ところが、このたった一人の男が僕の見参した今迄の例をくつがえして、この男が舞台へでると、女の方が貧弱になってしまうのである。何か木魚もくぎょみたいなものを叩いてアホダラ経みたいなものを唸ったりしていたのを思いだすが、堂々たる男の貫禄が舞台にみち、男の姿が頭抜けて大きく見えたばかりでなく、女達が男のまわりを安心しきって飛んでいる蝶のような頼りきった姿に見えて、うれしい眺めであった。まったくレビューの男にあんな頼もしい貫禄を見ようとは予期しないところであった。

こういう印象は日がたつにつれて極端なものになる。男の印象が次第に立派に大きなものになりすぎて、ほかのレビューの男達が益々馬鹿に見えて仕方がなくなるのである。あれぐらいの芸人だから浅草へ買われてこない筈はなかろうと思い、もう一度見参したいと思ったが、あいにく名前を覚えていない。会えば分る筈だから、浅草や新宿でレビューを見るたびに注意したが再会の機会がない。

ところが、この春、浅草の染太郎というウチで淀橋太郎氏と話をした。この染太郎はお好み焼屋だが、花柳地の半玉相手のお好み焼と違って、牛てんだのエビてんなどは余り焼かず、酒飲み相手にオムレツでもビフテキでも魚でも野菜でも何でも構わず焼いてしまう。近頃我々の仲間、『現代文学』の連中は会というと大概このウチでやるようなことになり、我々の大いに愛用するウチだけれども、我々のほかにはレビュー関係の人達が毎晩飲みにくる所なのである。そういうわけで淀橋太郎氏と時々顔を合せて話を交したりするようになり、ある日、京都ムーランの話がでた。そこで、雲をつかむような話で所詮分る筈がないだろうと思ったけれども、同じ頃、活動小屋のアトラクションにでた男の名前が分らないかと訊いてみた。すると僕が呆れ果てたことにはタロちゃんちょっと考えていたが、それはモリシンです、といともアッサリ答えたものである。当時京都の活動小屋へアトラクションに出たのはモリシン以外にない。小屋の場所も人数もそっくり同じだから疑う余地がないと言うのであった。一緒にいた数人のレビューの人達がみんなタロちゃんの言を裏書きした。モリシンは渾名あだなで、芸名はモリカワシン、多分森川信と書くのか、そういう人であった。常に流れ去り流れ来っているようなこの人々の足跡のひとつ、数年前の京都の小さな活動小屋の出来事がこんなにハッキリ指摘されるものだとは。僕も甚だ面喰った。

僕は梅若万三郎や菊五郎の舞台よりも、サーカスやレビューを見ることが好きなのだ。それは又、第一流の料理を味うよりも、ただ酒を飲むことが好きなのと同じい。然し、僕は酒の味が好きではない。酔っ払って酒の臭味が分らなくなるまでは、息を殺して我慢しながら飲み下しているのである。

人は芸術が魔法だと云うかも知れぬが、僕には少し異論がある。対坐したのでは猥褻見るに堪えがたくて擲なぐりたくなるような若者がサーカスのブランコの上へあがると神々しいまでに必死の気魄で人を打ち、全然別人の奇蹟を行ってしまう。これは魔法的な現実であり奇蹟であるが、しかもこの奇蹟は我々の現実や生活が常にこの奇蹟と共に在る極めて普通の自然であって、決して超現実的なものではない。レビューの舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するが、モリカワシンの堂々たる男の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女達の遊楽の舞台を見ると、女達の踊りがどんなに下手でも又不美人でも一向に差支えぬ。甘美な遊楽が我々を愉しくさせてくれるのである。これも一つの奇蹟だけれども、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、芸術の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、肉体の奇蹟なのである。酒も亦、僕にはひとつの奇蹟である。

僕は碁が好きだけれども、金銭を賭けることは全く好まぬ。むしろ、かかる人々を憎み蔑さげすむのである。大体、賭事というものは運を天にまかして一か八かというところに最後の意味があるのである。サイコロとルーレットのようなものが、本当の賭事なのだ。碁のような理智的なものは、勝敗それ自身が興味であって、金銭を賭けるべき性質のものではない。運を天にまかして一か八かという虚空から金がころがりこむなら大いに嬉しくもなろうけれども、長時間にわたって理智を傾けつくす碁のようなもので金銭を賭けたのでは、一番見たくない人間の悪相をさらけだして汚らしくいどみ合うようなもので、とても厭らしくて勝負などは出来ぬし、勝つ気にもなれぬ。ああいう理智的なもので金銭を賭ける連中は品性最も下劣な悪党だと僕は断定している。

然しながら、カジノのルーレットの如きもの、いささかの理智もなく、さりとてイカサマも有り得ない。かかるものも亦現実のもつ奇蹟のひとつである。人はあそこに金を賭けているのではなく、ただ落胆か幸福か、絶望か蘇生か、実際死と生を天運にまかせて賭ける人もいるのだ。あそこでは自らを裁くほかには犠牲者、被害者が誰もいない。理智という嵐が死に、我自らを裁くに、これぐらい誂あつらえ向きの戦場はないのである。

我が青春は淪落だ、と僕は言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、然らずんば――鳴呼ああ、然し、破滅以外の何物が有り得るか! 何物が有り得ても、恐らく満ち足りることが有り得ないのだ。

この春、愛妻家の平野謙が独身者の僕をみつめてニヤニヤ笑いながら、決死隊員というものは独身者に限るそうだね、妻帯者はどうもいかんという話だよ、と仰有おっしゃるのである。これは平野謙の失言だろうと僕は思った。原稿紙に向えば、こういう気楽な断定の前に、まだ色々と考える筈の彼なのである。こうなると、女房というものはまるで特別の魔女みたいなものだ。ひどく都合のいいものである。女一般や恋人はどうなるのか。女房はとにかくとして、有情の男子たるもの、あに女性なくして生き得ようか。

とはいうものの、僕は又考えた。これはやっぱり平野君の失言ではない。こういう単純怪奇な真理が実際に於て有り得るのである。それは女房とか家庭というもの自体にこのような魔力があるのではなく、女房や家庭をめぐって、こんな風な考え方が有り得るという事柄のうちに、この考えが真理でもあるという実際の力が存在しているのである。こういう考え方があり、こういう風に考えることによって、こういう風に限定されてしまうのである。真理の一面はたしかにこういう物でもある。

実際、わが国に於ては、夫婦者と独身者に非常にハッキリと区別をつけている。それは決して事変このかた生めよ殖ふやせよのせいではなく、もっと民族的な甚だ独特な考え方だと僕は思う。独身者は何かまだ一人前ではないというような考え方で、それは実際男と女の存在する人間本来の生活形態から云えばたしかに一人前の形を具えておらぬかも知れぬけれども、たとえば平野謙の如き人が、まるで思想とか人生観というものにまで、この両者が全然異質であるかのような説をなす。俗世間のみの考えでなく、平野君ごとき思索家に於ても、尚、かような説を当然として怪しまぬ風があるのである。

僕はかような考え方を決して頭から否定する気持はない。むしろ甚だユニックな国民的性格をもった考え方だと思うのである。

実際、思ってもみなさい。このような民族的な肉体をもった考えというものは真理だとか真理でないと言ったところで始まらぬ。実際、僕の四囲の人々は、みんなそう考え、そう生活しているのである。或いは、そう生活しつつ、そう考えているのである。彼等は実際そう考えているし、考えている通りの現実が生れてきているのだ。これでは、もう、喧嘩にならぬ。僕ですら、もし家庭というものに安眠しうる自分を予想することが出来るなら、どんなに幸福であろうか。芥川龍之介が「河童」か何かの中に、隣りの奥さんのカツレツが清潔に見える、と言っているのは、僕も甚だ同感なのである。

然し、人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。

魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖しあわせだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪めい達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。

数年前、二十歳で死んだ姪があった。この娘は八ツの頃から結核性関節炎で、冬は割合いいのだが夏が悪いので、暖くなると東京へ来て、僕の家へ病臥し、一ヶ月に一度ぐらいずつギブスを取換えに病院へ行く。ギブスを取換える頃になると、膿うみの臭気が家中に漂って、やりきれなかったものである。傷口は下腹部から股のあたりで、穴が十一ぐらいあいていたそうだ。

八ツの年から病臥したきりで発育が尋常でないから、十九の時でも肉体精神ともに十三四ぐらいだった。全然感情というものが死んでいる。何を食べても、うまいとも、まずいとも言わぬ。決して腹を立てぬ。決して喜ばぬ。なつかしい人が見舞いに来てもニコリともせず、その別れにサヨナラも言わぬ。いつもただ首を上げてチョット顔をみるだけで、それが久闊きゅうかつの挨拶であり、別離の辞である。空虚な人間の挨拶などは、喋る気がしなくなっているのであった。その代り、どんなに長い間、なつかしい人達が遊びにきてくれなくとも、不平らしい様子などはまったく見せない。手のかかる小さな子供があったので、母親はめったに上京できなかったが、その母親がやってきてもニコリともしないし、イラッシャイとも言わぬ。別れる時にサヨナラも言わず、悲しそうでもなく、思いつきの気まぐれすら喋る気持にはならないらしい。それでも、一度、朝母親が故郷へ立ってしまった夕方になって、食事のとき、もう家へついたかしら、とふと言った。やっぱり、考えているのだと僕は改めて感じた程だった。毎日、『少女の友』とか『少女倶楽部クラブ』というような雑誌を読んで、さもなければボンヤリ虚空をみつめていた。

それでも稀に、よっぽど身体の調子のいいとき、東宝へ少女歌劇を見に連れて行ってもらった。相棒がなければそんな欲望が起る筈がなかったのだが、あいにく、そのころ、もう一人の姪が泊っていて、この娘は胸の病気の治ったあと楽な学校生活をしながら、少女歌劇ばかり見て喜んでいた。この姪が少女歌劇の雑誌だのブロマイドを見せてアジるから、一方もそういう気持になってしまうのは仕方がない。尤もっとも、見物のあと、やっぱり面白いとも言わないし、つまらないとも言わなかった。相変らず表情も言葉もなかったのである。それでも、胸の病の娘がかがみこんで、ねえ、ちょっとでいいから笑ってごらんなさい。一度でいいから嬉しそうな顔をしなさいったら。こら、くすぐってやろうか、などといたずらをすると、関節炎の娘の方はうるさそうに首を動かすだけだったが、それでも稀には、いくらか上気して、二人で話をしていることもあった。それも二言か三言で、あとは押し黙って、もう相手になろうともしないのである。胸の病の娘の方は陽気で呑気のんき千万な娘だったのに、二十一の年、原因の分らぬ自殺をとげてしまった。雪国のふるさとの沼へ身を投げて死んでいた。この自殺の知らせが来たときも、関節炎の娘は全然驚きもせず、又、喋りもせず、何を訊こうともしなかった。

その後、子規の『仰臥漫録』を読んだが、子規も姪と同じような病気であったらしい。場所も同じで、やっぱり腹部であった。子規の頃にはまだギブスがなかったとみえ、毎日繃帯ほうたいを取換えている。繃帯を取換えるとき「号泣又号泣」と書いてある。姪の方もさすがに全身の苦痛を表す時があったが、泣いたことは一度もなかった。

明治三十五年三月十日の日記に午前十時「此日始メテ腹部ノ穴ヲ見テ驚ク穴トイフハ小キ穴卜思ヒシニガランドナリ心持悪クナリテ泣ク」とある。その日の午後一時には「始終ドコトナク苦シク、泣ク」とも書いてある。子規は大人だから泣かずにいられなかったのだろうが、娘の方は十一もある穴を見たとき、まったく無表情で、もとより泣きはしなかった。食事だけが楽しみで、毎日の日記に食物とその美味、不味ばかり書いている子規。何を食べても無言の娘。この二人の世界では、大人と子供がまったく完全に入れ違いになっているので、僕は『仰臥漫録』を読む手を休めて、なんべん笑ってしまったか知れなかった。(こんなことを書くと、渋川驍君の如く、不謹慎で不愉快極るなどというお叱言こごとが又現れそうだが、それでは、いっそ「なつかしい笑いであった」というような惨めな蛇足をつけたしてやろうか。まったく困った話である)

然し、この話はただこれだけで、なんの結論もないのだ。なんの結論もない話をどうして書いたかというと、僕が大いに気負って青春論(又は淪落論)など書いているのに、まるで僕を冷やかすように、ふと、姪の顔が浮んできた。なるほど、この姪には青春も淪落も馬耳東風で、僕はいささか降参してしまって、ガッカリしているうちに、ふと書いておく気持になった。書かずにいられない気持になったのである。ただ、それだけ。

僕は次第に詩の世界にはついて行けなくなってきた。僕の生活も文学も散文ばかりになってしまった。ただ事実のまま書くこと、問題はただ事実のみで、文章上の詩というものが、たえられない。

僕が京都にいたころ、碁会所で知り合った特高の刑事の人で、俳句の好きな人があった。ある晩、四条の駅で一緒になって電車の中で俳句の話をしながら帰ってきたが、この人は虚子が好きで、子規を「激しすぎるから」嫌いだ、と言っていた。

けれども『仰臥漫録』を読むと、号泣又号泣したり、始めて穴をみて泣いたりしている子規が同じ日記の中で「五月雨ヲアツメテ早シ最上川(芭蕉)此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句ノヤウニ思フタノデ今日迄古今有数ノ句トバカリ信ジテ居タ今日フト此句ヲ思ヒ出シテツクヾヽト考へテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアツテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒(蕪村)トイフ句ハ遥カニ進歩シテ居ル」という実のない俳論をやっている。子規の言っていることは単に言葉のニュアンスに関する一片の詩情であって、何事を歌うべきか、如何なる事柄を詩材として提出すべきか、という一番大切な散文精神が念頭にない。号泣又号泣の子規は激しいけれども、俳句としての子規は激しくなく平凡である。『白描』の歌人を菱山修三は激しすぎるから厭だ、と言った。まったくこの歌は激しいのだから、厭だという菱山の言もうなずけるが、僕はこの激しさに惹かれざるを得ぬ。

僕も一昔前は菊五郎の踊りなど見て、それを楽しんだりしたこともあったが、今はもうそういう楽しみが全然なくなってしまった。曲馬団だとか、レビューだとか、酒だとか、ルーレットだとか、そういう現実と奇蹟の合一、肉体のある奇蹟の追求だけが生き甲斐になってしまったのである。

子規は単なる言葉のニュアンスなどにとらわれて俳句をひねっているけれど、その日常は号泣又号泣、甘やかしようもなく、現実の奇蹟などを夢みる甘さはなかったであろう。然るに僕は、一切の言葉の詩情に心の動かぬ頑固な不機嫌を知った代りに、現実に奇蹟を追うという愚かな甘さを忘れることが出来ない。忘れることが出来ないばかりでなく、生存の信条としているのである。

大井広介は僕が決して畳の上で死なぬと言った。自動車にひかれて死ぬとか、歩いてるうちに脳溢血でバッタリ倒れるとか、戦争で弾に当るとか、そういう死に方しか有り得ないと言う。どこでどう死んでも同じことだけれども、何か、こう、家庭的なものに見離されたという感じも、決して楽しいものではないのである。家庭的ということの何か不自然に束縛し合う偽りに同化の出来ない僕ではあるが、その偽りに自分を縛って甘んじて安眠したいと時に祈る。

一生涯めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終りである。永遠に失われざる青春、七十になっても現実の奇蹟を追うてさまようなどとは、毒々しくて厭だとも考える。甘くなさそうでいて、何より甘く、深刻そうでいて何より浅薄でもあるわけだ。

スタンダールは青年の頃メチルドという婦人に会い、一度別れたきり多分再会しなかったと記憶しているが、これをわが永遠の恋人だと言っている。折にふれてメチルドを思いだすことによって常に倖せであったとも言い、この世では許されなくても、神様の前では許されるだろうなどと大袈裟なことを言っている。本気かどうか分らないが、平然としてこう甘いことを言い、ヌケヌケとしたところが面白い。スタンダールと仲がいいような悪いようなメリメは、これは又変った作家で、生涯殆んどたった一人の女だけを書きつづけた。彼の紙の上以外には決して実在しない女である。コロンバでありカルメンであり、そうして、この女は彼の作品の中で次第に生育して、ヴィナス像になって、言いよる男を殺したりしている。

だが、メリメやスタンダールばかりではない。人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるより外には仕方がなかろう。

一昔前の話だけれども、その頃僕はある女の人が好きになって、会わない日にはせめて手紙ぐらい貰わないと、夜がねむれなかった。けれども、その女の人には僕のほかに恋人があって僕よりもそっちの方が好きなのだと僕は信じていたので、僕は打ち明けることが出来なかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて僕は淪落の新らたな世間に瞬きしていたのであった。僕はもう全然生れ変っていた。僕はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はもう僕の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから三年目ぐらいに(その間には僕は別の女の人と生活していたこともあった)女の人が突然僕を訪ねてきて、どうしてあの頃好きだと一言言ってくれなかったと詰問した。女の人も内心は最も取乱していたのであろうが、外見は至極冷静で落着いて見えた。僕はすっかり取乱してしまったのである。忘れていた激情がどこからか溢れてきて、僕はこの女の人と結婚する気持になった。それから一ヶ月ぐらいというもの、二人は三日目ぐらいずつに会っていたが、淪落の世界に落ちた僕はもう昔の僕ではなく、突然取乱して激情に溺おぼれたりしても、ほんとはこの人がそんな激しい対象として僕の心に君臨することはもう出来なくなっていたのである。

女の人がこれに気付いて先に諦らめてしまったのは非常に賢明であったと僕は思う。女の人が、もう二度と会わない、会うと苦しいばかりだから、ということを手紙に書いてよこしたとき、僕も全く同感した。そうして、まったく同感だから再び会わないことにしましょう、という返事をだして、実際これで一つの下らないことがハッキリ一段落したという幸福をすら覚えた。今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった。この偶像が亡びても、決して亡びることのない偶像が生れてしまったのだから、仕方がない。さりとて僕にはヌケヌケとスタンダールのメチルド式の言い種ぐさをたのしむほどの度胸はないし、過去などはみんな一片の雲になって、然し、スタンダールの墓碑銘の「生き、書き、愛せり」ということが、改めてハッキリ僕の生活になったのだ。だが、愛せり、は蛇足かも知れぬ。生きることのシノニイムだ。尤も、生きることが愛すことのシノニイムだとも言っていい。

三 宮本武蔵

突然宮本武蔵の剣法が現れてきたりすると驚いて腹を立てる人があるかも知れないけれども、別段に鬼面人を驚かそうとする魂胆があるわけでもなく、まして読者を茶化す思いは寸毫すんごうといえども無いのである。僕には、僕の性格と共に身についた発想法というものがあって、どうしてもその特別の発想法によらなければ論旨をつくし難いという定めがある。僕の青春論には、どうしても宮本武蔵が現れなくては納まりがつかないという定めがあるから、そのことは読んで理解していただく以外に方法がない。

大東亜戦争このかた「皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る」という古来の言葉が愛用されて、我々の自信を強めさせてくれている。先日読んだ講釈本によると柳生流の極意だということであるが、真偽の程は請合わない。とにかく何流かの極意の言には相違ないので、僕が之から述べようとする宮本武蔵の試合ぶりは、常に正しくこの極意の通りに外ならなかった。

然しながら「肉を切らして骨を切る」という剣術の極意は、必ずしも武士道とは合致しない所がある。具えなき敵に切りかかっては卑怯だとか、一々名乗りをあげて戦争するとか、所謂いわゆる武士道的形式に従うと剣術の極意に合わない。「剣術」と「武士道」とは別の物だと言ってしまえば、正しくその通りであって、武士道は必ずしも剣道ではない。主に対する臣というものの機構から生れてきた倫理的な生き方全般に関するもので、一剣術の極意を以て律する事は出来難い所以ゆえんであるが、逆に武士道から剣を律しようとして「剣は身を守るものだ」と言ったり、村正の剣は人を切る邪剣で正宗の剣は身を守る正剣だ、などと言うことになると、両者の食い違うところが非常にハッキリしてくるのである。

剣術には「身を守る」という術や方法はないそうだ。敵の切りかかる剣を受止めて勝つという方法はないというのだ。大人と子供ぐらい腕が違えばとにかく、武芸者同志の立合いなら一寸でも先に余計切った方が勝つ。肉を切らして骨を切るというのが、正しく剣術の極意であって、敢て流派には限らぬ普遍的な真理だという話である。

いったい武士というものは常に腰に大小を差しており、寸毫の侮辱にも刀を抜いて争わねばならぬ。又、どういう偶然で人の恨みを買うかも知れず、何時、如何なるとき白刃の下をくぐらねばならぬか、測りがたきものである。そうして、いったん白刃を抜合う以上、相手を倒さねば、必ずこちらが殺されてしまう。死んでしまっては身も蓋もないから、是が非でも勝たねばならぬ道理だ。一か八かということが常に武士の覚悟の根柢になければならぬ筈で、それに対する万全の具えが剣術だと僕は思う。

だが、剣術本来の面目たる「是が非でも相手を倒す」という精神は甚だ殺伐で、之を直ちに処世の信条におかれては安寧をみだす憂いがあるし、平和の時の心構えとしてはふさわしくないところもある。そんなわけで、剣術本来の第一精神があらぬ方へ韜晦とうかいされた風があり、武芸者達も老年に及んで鋭気が衰えれば家庭的な韜晦もしたくなろうし、剣の用法も次第に形式主義に走って、本来殺伐、あくまで必殺の剣が、何か悟道的な円熟を目的とするかのような変化を見せたのであろうと思われる。蓋けだし剣本来の必殺第一主義ではその荒々しさ激しさに武芸者自身が精神的に抵抗しがたくなって、いい加減で妥協したくなるのが当然だ。

相手をやらなければこちらが命をなくしてしまう。まさに生死の最後の場だから、いつでも死ねるという肚がすわっていれば之に越したことはないが、こんな覚悟というものは口で言い易いけれども達人でなければ出来るものではない。

僕は先日勝海舟の伝記を読んだ。ところが海舟の親父の勝夢酔という先生が、奇々怪々な先生で、不良少年、不良青年、不良老年と生涯不良で一貫した御家人くずれの武芸者であった。尤も夢酔は武芸者などと尤もらしいことを言わず剣術使いと自称しているが、老年に及んで自分の一生をふりかえり、あんまり下らない生涯だから子々孫々のいましめの為に自分の自叙伝を書く気になって『夢酔独言』という珍重すべき一書を遺した。

遊蕩三昧ゆうとうざんまいに一生を送った剣術使いだから夢酔先生殆んど文章を知らぬ。どうして文字を覚えたかと云うと、二十一か二のとき、あんまり無頼な生活なので座敷牢へ閉じこめられてしまった。その晩さっそく格子を一本外してしまって、いつでも逃げだせるようになったが、その時ふと考えた。俺も色々と悪いことをして座敷牢へ入れられるようになったのだから、まアしばらく這入っていてみようという気になったのだ。そうして二年程這入っていた。そのとき文字を覚えたのである。

それだけしか習わない文章だから実用以外の文章の飾りは何も知らぬ。文字通り言文一致の自叙伝で、俺のようなバカなことをしちゃ駄目だぜ、と喋るように書いてある。

僕は『勝海舟伝』の中へ引用されている『夢酔独言』を読んだだけで、原本を見たことはないのである。なんとかして見たいと思って、友達の幕末に通じた人には全部手紙で照会したが一人として『夢酔独言』を読んだという人がいなかった。だが『勝海舟伝』に引用されている一部分を読んだだけでも、之はまことに驚くべき文献のひとつである。

この自叙伝の行間に不思議な妖気を放ちながら休みなく流れているものが一つあり、それは実に「いつでも死ねる」という確乎不抜、大胆不敵な魂なのだった。読者のために、今、多少でも引用してお目にかけたいと思ったのだが、あいにく『勝海舟伝』がどこへ紛失したか見当らないので残念であるが、実際一頁も引用すれば直ちに納得していただける不思議な名文なのである。ただ淡々と自分の一生の無頼三昧の生活を書き綴ったものだ。

子供の海舟にも悪党の血、いや、いつでも死ねる、というようなものがかなり伝わって流れてはいる。だが、親父の悠々たる不良ぶりというものは、なにか芸術的な安定感をそなえた奇怪な見事さを構成しているものである。いつでも死ねる、と一口に言ってしまえば簡単だけれども、そんな覚悟というものは一世紀に何人という小数の人が持ち得るだけの極めて稀れな現実である。

常に白刃の下に身を置くことを心掛けて修業に励む武芸者などは、この心掛けが当然有るべきようでいて、実は決してそうではない。結局、直接白刃などとは関係がなく、人格のもっと深く大きなスケールの上で構成されてくるもので、一王国の主たるべき性格であり、改新的な大事業家たるべき性格であって、この稀有な大覚悟の上に自若と安定したまま不良無頼な一生を終ったという勝夢酔が例外的な不思議な先生だと言わねばならぬ。勝海舟という作品を創るだけの偉さを持った親父ではあった。

夢酔の覚悟に比べれば、宮本武蔵は平凡であり、ボンクラだ。武蔵六十歳の筆になるという『五輪書』と『夢酔独言』の気品の高低を見れば分る。『五輪書』には道学者的な高さがあり『夢酔独言』には戯作者的な低さがあるが、文章に具わる個性の精神的深さというものは比すべくもない。『夢酔独言』には最上の芸術家の筆を以てようやく達しうる精神の高さ個性の深さがあるのである。

然しながら、晩年の悟りすました武蔵はとにかくとして、青年客気の武蔵は之これ亦また稀有な達人であったということに就て、僕は暫く話をしてみたいのである。

晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向って、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と訊ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、又外に取柄というものも見当らぬ平凡な人物である。殿様も甚だ呆れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日頃の心構えをお訊ねになれば分りましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日頃の心構えというものを訊ねてみた。

太兵衛は暫く沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のおメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日頃の心構えということに就てのお訊ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、又、生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起って命を落すかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟が出来れば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を怖れなくなるような様々な工夫を凝らしたりした。そのおかげで、近頃はどうやら、いつ殺されてもいい、という覚悟だけは出来て、夜も安眠できるようになったが、これが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。

都甲太兵衛はその後重く用いられて江戸詰の家老になったが、このとき不思議な手柄をあらわした。丁度藩邸が普請中で、建物は出来たがまだ庭が出来ていなかった。ところが殿様が登城して外の殿様と話のうちに、庭ぐらい一晩で出来る、とウッカリ口をすべらして威張ってしまった。苦労を知らない殿様同志だから、人の揚足あげあしをとったとなるともう放さぬ。それでは今晩一晩で庭を作って見せて下さい。ああ宜よろしいとも。キッとですね。ということになって、殿様は蒼白になって藩邸へ帰ってきた。すぐさま都甲太兵衛を召寄せて、今晩一晩でぜひとも庭を造ってくれ。宜しゅうございます。太兵衛はハッキリとうけあったものである。一晩数千の人夫が出入した。そして翌朝になると、一夜にして鬱蒼たる森が出来上っていたのであった。尤も、この森は三日ぐらいしか持たない森で、どの木にも根がついていなかったのだ。宮本武蔵の高弟はこういう才能をもっていた。都甲家は今も熊本につづいているという話である。

宮本武蔵に『十智』という書があって、その中に「変」ということを説いているそうだ。つまり、智慧のある者は一から二へ変化する。ところが智慧のないものは、一は常に一だと思い込んでいるから、智者が一から二へ変化すると嘘だと言い、約束が違ったと言って怒る。然しながら場に応じて身を変え心を変えることは兵法の大切な極意なのだと述べているそうだ。

宮本武蔵は剣に生き、剣に死んだ男であった。どうしたら人に勝てるか自分よりも修業をつみ、術に於いてまさっているかも知れぬ相手に、どうしたら勝てるか、そのことばかり考えていた。

武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」という覚悟を、これが剣法の極意でございますと、言っているけれども、然し、武蔵自身の歩いた道は決してそれではなかったのである。彼はもっと凡夫の弱点のみ多く持った度し難いほど鋭角の多い男であった。彼には、いつ死んでもいい、という覚悟がどうしても据すわらなかったので、そこに彼の独自な剣法が発案された。つまり彼の剣法は凡人凡夫の剣法だ。覚悟定まらざる凡夫が敵に勝つにはどうすべきか。それが彼の剣法だった。

松平出雲守は彼自身柳生流の使い手だったから、その家臣には武術の達人が多かったが、武蔵は出雲守の面前で家中随一の使い手と手合せすることになった。

選ばれた相手は棒使いで、八尺余の八角棒を持って庭に現れて控えていた。武蔵が書院から木刀をぶらさげて降りてくると、相手は書院の降り口の横にただ控えて武蔵の降りてくるのを待っている。無論、構えてはいないのである。

武蔵は相手に用意のないのを見ると、まだ階段を降りきらぬうちに、いきなり相手の顔をついた。試合の挨拶も交さぬうちに突いてくるとは無法な話だから、大いに怒って棒を取り直そうとするところを、武蔵は二刀でバタバタと敵の両腕を打ち、次に頭上から打ち下して倒してしまった。

武蔵の考えによれば、試合の場にいながら用意を忘れているのがいけないのだと言うのである。何でも構わぬ。敵の隙につけこむのが剣術なのだ。敵に勝つのが剣術だ。勝つためには利用の出来るものは何でも利用する。刀だけが武器ではない。心理でも油断でも、又どんな弱点でも、利用し得るものをみんな利用して勝つというのが武蔵の編みだした剣術だった。

僕は先日、吉田精顕氏の『宮本武蔵の戦法』という文章を読んで、目の覚めるような面白さを覚えた。吉田氏は武徳会の教師で氏自身二刀流の達人だということであるが、武術専門家の筆になった武蔵の試合ぶりというものは甚だ独特で、小説などで表わす以上に、光彩陸離りくりたる個性を表わしているのである。以下、吉田氏の受売りをして、すこしばかり武蔵の戦法をお話してみたいと思う。ただ、僕流にゆがめてあるのは、これは僕の考えだから仕方がない。

武蔵が吉岡清十郎と試合したのは二十一の秋で、父の無二斎が吉岡憲法に勝っているので、父の武術にあきたらなかった武蔵は、自分の剣法をためすために、先ず父の勝った吉岡に自分も勝たねばならなかった。

武蔵は約束の場所へ時間におくれて出掛けて行った。待ち疲れていた清十郎は武蔵を見ると直ちに大刀の鞘さやを払った。ところが武蔵は右手に木刀をぶらさげている。敵が刀を抜くのを見ても一向に立止って身構えを直したりせず、今迄歩いてきた同じ速度と同じ構えで木刀をぶらさげたまま近づいてくるのである。試合の気配りがなくただ近づいてくるので清十郎はその不用意に呆れながら見ていると、武蔵の速度は意外に早くもう剣尖のとどく所まで来ていた。猶予すべきではないので、清十郎はいきなり打ちだそうとしたが、一瞬先に武蔵の木刀が上へ突きあげてきた。さては突きだと思って避けようとしたとき、武蔵は突かず、ふりかぶって一撃のもとに打ち下して倒してしまった。清十郎は死ななかったが、不具者になった。

清十郎の弟、伝七郎が復讐の試合を申込んできた。伝七郎は大力な男で兄以上の使い手だという話なのである。武蔵は又約束の時間におくれて行った。今度の試合は復讐戦だから真剣勝負だろうと思って武蔵は木刀を持たずに行ったが、行ってみると驚いた。伝七郎は五尺何寸もある木刀を持っていて、遠方に武蔵の姿を見かけるともう身構えているのである。武蔵は瞬間ためらったが直ぐ決心して刀を抜かず素手のまま今迄通りの足並で近づいて行った。伝七郎は油断なく身構えていたが、いつ真剣を抜くだろうかということを考えていたので気がついた時には、五尺の木刀が長すぎるほど武蔵が近づいていたのである。そのとき刀を抜けば武蔵は打たれたかも知れぬが、突然とびかかって、伝七郎の木刀を奪いとった。そうして一撃の下に打ち殺してしまったのである。

吉岡の門弟百余名が清十郎の一子又七郎という子供をかこんで武蔵に果合はたしあいを申込んだ。敵は多勢である。今度は約束の時間よりも遥かに早く出向いて木の陰に隠れていた。そこへ吉岡勢がやってきて、武蔵は又おくれてくるだろうなどと噂うわさしているのが聞える。武蔵は大小を抜いて両手に持っていきなり飛びだして又七郎の首をはね、切って逃げ、逃げながら切った。敵が全滅したとき、武蔵がふと気がつくと、袖そでに弓の矢が刺さっていたが、傷は一ヶ所も受けていなかった。

宍戸梅軒ししどばいけんというクサリ鎌の達人と試合をしたことがある。クサリ鎌というものは大体に於て鎌の刃渡りが一尺三寸ぐらい。柄が一尺二寸ぐらい。この柄からクサリがつづいていて、クサリの先に分銅がつけてある。之を使う時には、左手に鎌を持ち、右手でクサリのほぼ中程を持ち、右手でクサリの分銅を廻転させる。講談によると、分銅と鎌とで交互に攻撃してくるように言うけれども、これは不可能で、離れている間は分銅はいつ飛んでくるか分らぬが、鎌の方は接近するまで役に立たない。だから離れている時は、分銅にだけ注意すれば良いのである。又、クサリ鎌の特色の中で忘れてはならぬことはクサリの用法で、これを引っぱると棒になるから、之で大刀を受けたり摺すり外したり出来るのだそうだ。講談によると、クサリを太刀にまきつけたらもうしめたもので、クサリ鎌使いの方は落着いてジリジリ敵を引寄せるなどと言うけれども、そんな間抜けなクサリ鎌使いはいないそうで、分銅のまきついた瞬間には鎌の方が斬りこんでいるものだそうだ。

宍戸梅軒は武蔵を見ると分銅を廻転させはじめた。武蔵は五六十歩離れて右手に大刀をぬいてぶらさげたまま暫く分銅の廻転を見ていたが、右手の大刀を左手に持ち変えた。それから右手に小刀を抜いた。武蔵は左ギッチョではないから(肖像を見ると分る)本来だったら右手に大刀、左手は小刀の筈だけれどもこの時は逆になっていることを注意していただきたい。さて武蔵は左右両手ともに上段にふりかぶったのである。そうして、右手の小刀を敵の分銅の廻転に合せて同じ速度で廻しはじめた。こうして廻転の調子を合せながらジリジリと歩み寄って行った。

梅軒は驚いた。分銅で武蔵の顔面を打つには同じ速度で廻転している小刀が邪魔になる。

邪魔の小刀に分銅をまきつければ、左の大刀が怖しい。やむなくジリジリ後退すると武蔵はジリジリ追うてくる。と、クサリが下へ廻った瞬間に武蔵の小刀が手を離れて梅軒の胸へとんできた。慌てて廻転をみだした時には左手の大刀が延びて梅軒の胸を突きさしていた。梅軒は危く身をそらしたが次の瞬間には頭上から一刀のもとに斬り伏せられていたのである。この試合には梅軒の弟子が立合っていたが、先生斬らるというので騒ぎかけたとき、武蔵はすでに両刀を持ち直して弟子の中へ斬りこんでいたのであった。

剣法には固定した型というものはない、というのが武蔵の考えであった。相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は型にとらわれた柳生流を非難していた。柳生流には大小六十二種の太刀数があって、変に応じたあらゆる太刀をあらかじめ学ばせようというのだが、武蔵は之を否定して、変化は無限だからいくら型を覚えても駄目であらゆる変化に応じ得る根幹だけが大事だと言って、その形式主義を非難したのである。

これとほぼ同じ見解の相違が、佐々木小次郎と武蔵の間にも見ることが出来る。

小次郎は元来富田勢源の高弟で、勢源門下に及ぶ者がなくなり、勢源の弟の次郎左衛門にも勝ったので、大いに自信を得て「巌流がんりゅう」という一派をひらいた男である。元々富田流は剣の速捷そくしょうを尊ぶ流派だから、小次郎も亦速技を愛する剣法だった。彼は橋の下をくぐる燕つばめを斬って速技を会得したというが、小次郎の見解によれば、要するに燕を斬るには初太刀をかわして燕が身をひるがえす時、その身をひるがえす速力よりも早い速力で斬ればいいという相対的な速力に関する考えだった。

ところが武蔵によれば、相対的な速力それ自身には限度がある。つまり変化に応じてあらかじめ型をつくることと同じで、燕の速力に応じる速力を用意しても燕以上の速力のものには用をなさぬ。だから、一番大切なのは敵の速力に対するこちらの観察力で、如何なる速力にも応じ得る眼をつくることが肝心だという考えだった。

小次郎は燕から会得した速剣を「虎切剣」と名付けて諸国を試合して廻り一度も負けたことがなく、小倉の細川家に迎えられて、剣名大いに高かった。その頃京都にいた武蔵は小次郎の隆々たる剣名を耳にして、その速剣と試合ってみたいと思ったのだ。速剣それ自身は剣法の本義でないという彼の見解から、当然のことであった。

彼は小倉へ下って細川家へ試合を願い出で、許されて、船島で試合を行うことになった。武蔵は家老の長岡佐渡の家に泊ることになり、翌朝舟で船島へ送られる筈であったが、彼自身の考えがあって、ひそかに行方をくらまし、下関の廻船問屋小林太郎左衛門の家へ泊った。

翌日になって、もう小次郎が船島へついたという知らせが来たとき、ようやく彼は寝床から起きた。それから食事をすませ、主人を呼んで櫓をもらい受けて、大工道具を借り受け、木刀を作りはじめた。何べんも渡航を催促する飛脚が来たが、彼は耳をかさず丹念に木刀をきざんだ。四尺一寸八分の木刀を作ったのである。

元来、小次郎は三尺余寸の「物干竿」とよばれた大剣を使い、それが甚だ有名であった。武蔵も三尺八分の例外的な大刀を帯びてはいたが、物干竿の長さには及ばぬ。のみならず小次郎は速剣で、この長い剣を振り下すと同時に返して打つ。この返しが小次郎独特の虎切剣であった。これに応ずるには、虎切剣のとどかぬ処から、片手打に手を延ばして打つ、これが武蔵の戦法で、特殊な木刀を作ったのもそのためだった。

武蔵は三時間おくれて船島へついた。遠浅だったので武蔵は水中へ降りた。小次郎は待ち疲れて大いに苛立っており、武蔵の降りるのを見ると憤然波打際まで走ってきた。

「時間に遅れるとは何事だ。気おくれがしたのか」

小次郎は怒鳴ったが、武蔵は答えない。黙って小次郎の顔を見ている。武蔵の予期の通り小次郎益々怒った。大剣を抜き払うと同時に鞘を海中に投げすてて構えた。

「小次郎の負けだ」と武蔵が静かに言った。

「なぜ、俺の負けだ」

「勝つつもりなら、鞘を水中へ捨てる筈はなかろう」

この間答は武蔵一生の圧巻だと僕は思う。武蔵はとにかく一個の天才だと僕は思わずにいられない。ただ彼は努力型の天才だ。堂々と独自の剣法を築いてきたが、それはまさに彼の個性があって初めて成立つ剣法であった。彼の剣法は常に敵に応じる「変」の剣法であるが、この最後の場へ来て、鞘を海中へ投げすてた敵の行為を反射的に利用し得たのは、彼の冷静とか修練というものも有るかも知れぬが、元来がそういう男であったのだ、と僕は思う。特に冷静というのではなく、ドタン場に於いても藁わらをつかむ男で、その個性を生かして大成したのが彼の剣法であったのだ。溺れる時にも藁をつかんで生きようとする、トコトンまで足場足場にあるものを手当り次第利用して最後の活へこぎつけようとする、これが彼の本来の個性であると同時に、彼の剣法なのである。個性を生かし、個性の上へ築き上げたという点で彼の剣法はいわば彼の芸術品と同じようなものだ。彼は絵や彫刻が巧みで、絵の道も剣の道も同じだと言っているが、至極当然だと僕は思うのである。

僕は船島のこの問答を、武蔵という男の作った非常にきわどいが然しそれ故見事な芸術品だと思っている。

実際試合は危なかった。間一髪のところで勝ったのである。

小次郎は激怒して大刀をふりかぶった。問答に対する答えとしての激怒をこめて振りかぶった刀なのだ。この機会を逃してならぬことを武蔵は心得ていた。なぜなら、小次郎に時間を許せば、彼も手練てだれの剣客だから、振りかぶった剣形の中から冷静をとりもどしてくるからである。

武蔵は急速に近づいて行った。大胆なほど間をつめた。小次郎は斬り下した。だが、小次郎の速剣は初太刀よりもその返しが更に怖しい。もとより武蔵は前進をとめることを忘れてはいない。間一髪のところで剣尖をそらして、前進中に振り上げた木刀を片手打ちに延ばして打ち下した。小次郎は倒れたが、同時に武蔵の鉢巻が二つに切れて下へ落ちた。

小次郎は倒れたが、まだ生気があった。武蔵が誘って近づくと果して大刀を横に斬り払ったが、武蔵は用意していたので巧みに退き袴はかまの裾すそを三寸程切られただけであった。然しその瞬間木刀を打ち下して小次郎の胸に一撃を加えていた。小次郎の口と鼻から血が流れて、彼は即死をとげてしまった。

武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著『五輪書』がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである。

武蔵の剣法というものは、敵の気おくれを利用するばかりでなく、自分自身の気おくれまで利用して、逆に之を武器に用いる剣法である。溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、之を利用して勝つ剣法なのだ。

之が本当の剣術だと僕は思う。なぜなら、負ければ自分が死ぬからだ。どうしても勝たねばならぬ。妥協の余地がないのである。こういう最後の場では、勝って生きる者に全部のものがあり、正義も自ら勝った方にあるのだから。是が非でも勝つことだ。我々の現下の戦争も亦然り。どうしても勝たねばならぬ。

ところが甚だ気の毒なことには、武蔵の剣法は当時の社会には容れられなかった。形式主義の柳生流が全盛で、武蔵のような勝負第一主義は激しすぎて通用の余地がなかったのだ。

武蔵の剣法も亦、いわば一つの淪落の世界だと僕は思う。世に容れられなかったから淪落の世界だと言うのではないが、然し、世に容れられなかった理由の一つは、たしかにその淪落の性格のためだとは言えるであろう。

一か八かであるが、しかも額面通りではなく、実力をはみだしたところで勝敗を決し、最後の活を得ようとする。伝七郎との試合では相手が大きな木刀を持参したのに驚いた時に逆にそれを利用して素手で近づくという方法をあみだしている。小次郎の試合では、相手が鞘を投げすてるのを逃さなかったし、松平出雲守の御前試合では相手の油断に目をとめると挨拶の前に相手を打ち倒してしまった。

武蔵は試合に先立って常に細心の用意をしている。時間をおくらせて、じらしたり、逆をついて先廻りしたり、試合に当って心理的なイニシアチヴをとることを常に忘れることがなく、自分の木刀を自分でけずるというような堅実な心構えも失わないし、クサリ鎌に応じては二刀をふりかぶるという特殊な用意も怠らない。試合に当って常に綿密な計算を立てていながら、然し、愈々いよいよ試合にのぞむと、更に計算をはみだしたところに最後の活をもとめているのだ。このような即興性というものは如何程深い意味があってもオルソドックスには成り得ぬもので、一つごとに一つの奇蹟を賭けている。自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭博をしているのである。その賭博には万全の用意があり、又、自信があったのかも知れぬが、然し、賭博であることには変りがない。

「小次郎の負けだ」

めざとくも利用して武蔵はそう言ったが、然し、そこに余裕などがあるものか。武蔵はただ必死であり、必死の凝った一念が、溺れる者の激しさで藁の奇蹟を追うているだけの話だ。余裕というものの一切ない無意識の中の白熱の術策だから、凄すさまじいほど美しいと僕は言う。万全の計算をつくし、一生の修業を賭けた上で、尚、計算や修業をはみだしてしまう必死の術策だから美しい。彼はどうしても死にたくなかった。是が非でも生きたかった。その執着の一念が悪相の限りを凝らして彼の剣に凝っており、縋すがり得るあらゆる物に縋りついて血路をひらこうとしているだけだ。最後の場にのぞんだ時に、意識せずしてこの術策を弄ろうしてしまう武蔵であった。救われがたい未練千万な性格を、逆に武器に駆り立てて利用している武蔵であった。

然しながら、武蔵には、いわば悪党の凄味すごみというものがないのである、松平出雲の面前で相手の油断を認めると挨拶前に打ち倒してしまったりして、卑怯といえば卑怯だが、然し悪党の凄味ではなく、むしろ、ボンクラな田舎者の一念凝らした馬鹿正直というようなものだ。彼はとにかく馬鹿正直に一念凝らして勝つことばかり狙っていた。所詮は一個の剣術使いで、一王国の主たるべき悪党ぶりには縁がなかった。

いつでも死ねる、という偉丈夫の覚悟が彼にはなかったのだ。その覚悟がなかったために編みだすことの出来た独特無比の剣法ではあったけれども、それ故また、剣を棄てて他に道をひらくだけの芸がなく、生活の振幅がなかった。都甲太兵衛は家老になって、一夜に庭をつくる放はなれ業わざを演じているが、武蔵は二十八で試合をやめて花々しい青春の幕をとじた後でも、一生碌々ろくろくたる剣術使いで、自分の編みだした剣法が世に容れられぬことを憤るだけのことにすぎない。六十の時『五輪書』を書いたけれども、個性の上に不抜な術を築きあげた天才剣の光輝はすでになく、率直に自己の剣を説くだけの自信と力がなく、徒いたずらに極意書風のもったいぶった言辞を弄して、地水火風空の物々しい五巻に分けたり、深遠を衒てらって俗に堕し、ボンクラの本性を暴露しているに過ぎないのである。

剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春そのものの剣術であった。一か八かの絶対面で賭博している淪落の術であり、奇蹟の術であったのだ。武蔵自身がそのことに気付かず、オルソドックスを信じていたのが間違いのもとで、元来世に容れられざる性格をもっていたのである。

武蔵は二十八の年に試合をやめた。その時まで試合うこと六十余度、一度も負けたことがなかったのだが、この激しさを一生涯持続することができたら、まさに驚嘆すべき超人と言わざるを得ぬ。けれども、それを要求するのは余りに苛酷なことであり、血気にはやり名誉に燃える彼とは云え、その一々の試合の薄氷を踏むが如く、細心周到万全を期したが上にも全霊をあげた必死の一念を見れば、僕も亦思うて慄然りつぜんたらざるを得ず、同情の涙を禁じ得ないものがある。然しながら、どうせここまでやりかけたなら、一生涯やり通してくれれば良かったに。そのうちに誰かに負けて、殺されてしまっても仕方がない。そうすれば彼も救われたし、それ以外に救われようのない武蔵であったように僕は思う。鋭気衰えて『五輪書』などは下の下である。

まったくもって、剣術というものを、一番剣術本来の面目の上に確立していながら、あまりにも剣術の本来の精神を生かしすぎるが故に却かえって世に容れられず、又自らはその真相を悟り得ずに不満の一生を終った武蔵という人は、悲劇的な人でもあるし、戯画的な滑稽さを感じさせる人でもある。彼は世の大人たちに負けてしまった。柳生派の大人たちに負け、もっとつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大人になろうとしなければ、負けることはなかったのだ。

武蔵は柳生兵庫のもとに長く滞在していたことがあったという。兵庫は柳生派随一の使い手と言われた人だそうで、兵庫は武蔵を高く評価していたし、武蔵も亦兵庫を高く評価していた。二人は毎日酒をくんだり碁を打ったりして談笑し、結局試合をせずに別れてしまった。心法に甲乙なきことを各々認め合っていたので試合までには及ばなかったのだという話で、なるほどあり得ることだと頷うなずけることではあるが、然し僕は武蔵のために甚だ之をとらないものだ。試合をしなければ武蔵の負けだ。試合の中にだけしか武蔵の剣はあり得ず、又、試合を外に武蔵という男も有り得ない。試合は武蔵にとっては彼の創作の芸術品で、試合がなければ彼自身が存在していないのだ。談笑の中に敵の心法の甲乙なきを見て笑って別れるような一人前らしい生き方を覚えては、もう武蔵という作品は死滅してしまったのだ。

何事も勝負に生き、勝負に徹するということは辛いものだ。僕は時々日本棋院の大手合を見物するが、手合が終ると、必ず今の盤面を並べ直して、この時にこう、あの時にはあの方がというような感想を述べて研究し合うものである。ところが、勝った方は談論風発、感想を述べては石を並べその楽しそうな有様お話にならないのに、負けた方ときたら石のように沈んでしまって、まさに永遠の恨みを結ぶかの如く、釈然としないこと甚だしい。僕でも碁を打って負けた時には口惜しいけれども、その道の商売人の恨みきった形相は質的に比較にならないものがある。いのちを籠こめた勝負だから当然の話だけれども、負けた人のいつまでも釈然としない顔付というものは、眺めて決して悪い感じのものではない。中途半端なところがないからである。テレ隠しに笑うような、そんなところが全然ないのだ。

将棋の木村名人は不世出の名人と言われ、生きながらにしてこういう評価を持つことは凡そあらゆる芸界に於いて極めて稀れなことであるが、全く彼は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である。碁打の方には、この闘志の片鱗だに比肩すべき人がない。相撲取にも全然おらぬ。

けれども、木村名人も、もう何度負けたか知れないのだ。これに比べれば武蔵の道は陰惨だ。負けた時には命がない。佐々木小次郎は一生に一度負けて命を失い、武蔵はともかく負けずに済んで、畳の上で往生を遂げたが、全く命に関係のない碁打や将棋指ですら五十ぐらいの齢になると勝負の激しさに堪えられない等と言いだすのが普通だから、武蔵の剣を一貫させるということは正に尋常一様のことではなかった。僕がそれを望むことは無理難題には相違ないが、然しながら武蔵が試合をやめた時には、武蔵は死んでしまったのだ。武蔵の剣は負けたのである。

勝つのが全然嬉しくもなく面白くもなく何の張合いにもならなくなってしまったとか、生きることにもウンザリしてしまったとか、何か、こう魔にみいられたような空虚を知って試合をやめてしまったというわけでもない。それは『五輪書』という平凡な本を読んでみれば分ることだ。ただ、だらだらと生きのびて『五輪書』を書き、その本のおかげをもって今日も尚その盛名を伝えているというわけだが、然し、このような盛名が果して何物であろうか。

四 再びわが青春

淪落の青春などと言って、まるで僕の青春という意味はヤケとかデカダンという意味のように思われるかも知れないけれども、そういうものを指しているわけでは毛頭ない。

そうかと云って、僕自身の生活に何かハッキリした青春の自覚とか讃歌というものが有るわけでもないことは先刻白状に及んだ通りで、僕なんかは、一生ただ暗夜をさまよっているようなものだ。けれども、こういうさまよいの中にも、僕には僕なりの一条の灯の目当ぐらいはあるもので、茫漠たる中にも、なにか手探りして探すものはあるのである。

非常に当然な話だけれども、信念というようなものがなくて生きているのは、あんまり意味のないことである。けれども、信念というものは、そう軽々に持ちうるものではなくて、お前の信念は何だ、などと言われると、僕などまっさきに返答が出来なくなってしまうのである。それに、信念などというものがなくとも人は生きていることに不自由はしないし、結構幸福だ、ということになってくると、信念などというものは単に愚か者のオモチャであるかも知れないのだ。

実際、信念というものは、死することによって初めて生きることが出来るような、常に死と結ぶ直線の上を貫いていて、これも亦ひとつの淪落であり、青春そのものに外ならないと言えるであろう。

けれども、盲目的な信念というものは、それが如何ほど激しく生と死を一貫して貫いても、さまで立派だと言えないし、却かえって、そのヒステリイ的な過剰な情熱に濁りを感じ、不快を覚えるものである。

僕は天草四郎という日本に於ける空前の少年選手が大好きで、この少年の大きな野心とその見事な構成に就て、もう三年越し小説に書こうと努めている。そのために、切支丹キリシタンの文献をかなり読まねばならなかったけれども、熱狂的な信仰をもって次から次へ堂々と死んで行った日本の夥おびただしい殉教者達が、然し、僕は時に無益なヒステリイ的な饒舌のみを感じ、不快を覚えることがあるのであった。

切支丹は自殺をしてはいけないという戒めがあって、当時こういう戒めは甚だ厳格に実行され、ドン・アゴスチノ小西行長は自害せず刑場に引立てられて武士らしからぬ死を選んだ。又、切支丹は武器をとって抵抗しては殉教と認められない定めがあって、そのために島原の乱の三万七千の戦死者は殉教者とは認められていないのだが、この掟によって、切支丹らしい捕われ方をするために、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ腰の刀を鞘ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて縄を受けたなどという御念の入った武士もあったし、そうかと思うと、主のために殉教し得る光栄を与えてもらえたと言って、首斬りの役人に感謝の辞と祈りをささげて死んだバテレンがあったりした。当時は殉教の心得に関する印刷物が配布されていて、信徒達はみんな切支丹の死に方というものを勉強していたらしく、全くもって当時教会の指導者達というものは、恰あたかも刑死を奨励するかのような驚くべきヒステリイにおちいっていたのである。無数の彼等の流血は凄惨眼を掩おおわしめるものがあるけれども、人々を単に死に急がせるかのようなヒステリイ的性格には時に大いなる怒りを感じ、その愚かさに歯がみを覚えずにいられぬ時もあったのだ。

いのちにだって取引というものがある筈だ。いのちの代償が計算外れの安値では信念に死んでも馬鹿な話で、人々は十銭の茄子なすを値切るのにヒステリイは起さないのに、いのちの取引に限ってヒステリイを起してわけもなく破産を急ぐというのは決して立派なことではない。

宮本武蔵は吉岡一門百余名を相手に血闘の朝、一乗寺下り松の果し場へ先廻りして急ぐ途中、たまたま八幡様の前を通りかかって、ふと、必勝を祈願せずにいられない気持になり、まさに神前に額ぬかずこうとして、思いとどまった。自力で勝ち抜かねばならないという勇猛心を駆り起したのである。

僕はこの武蔵を非常にいとしいと思うけれども、これはただこれだけの話で、この出来事を彼の一生に結びつけて大きな意味をもたせることには同感しない。武蔵のみではないのだ。如何なる神の前であれ、神の前に立ったとき何人が晏如あんじょたり得ようか。神域とかお寺の境内というものは閑静だから、僕は時々そこを選んで散歩に行くが、一片の信仰もない僕だけれども、本殿とか本堂の前というものは、いつによらず心を騒がせられるものである。祈願せずにいられぬような切ない思いを駆り立てられる。さればといって本当に額ずくだけのひたむきな思いにもなりきれないけれども、こんなに煮えきらないのは怪しからぬことだから、今度から思いきって額ずくことにしようと思って、或日決心して氏神様へでかけて行った。愈々いよいよとなってお辞儀だけは済ましたけれども、同時に突然僕の身体に起ったギコチのなさにビックリして、やっぱり僕のような奴は、心にどんな切ない祈願の思いが起っても、それはただ心の綾あやなのだから実際に頭を下げたりしてはいけないのだと諦らめた。

自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も怖れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りの出来ない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお賽銭をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に羨しいと思ったけれども、僕はどうしても一緒に並んで拝む勇気が起らず、離れた場所で鳩の豆を蹴とばしたりしていた。

数年前、菱山修三が外国へ出帆する一週間ぐらい前に階段から落ちて喀血かっけつし、生存を絶望とされたことがあった。僕も、もう、菱山は死ぬものとばかり思っていたのに、一年半ぐらいで恢復かいふくしてしまった。菱山の話によると、肺病というものは、病気を治すことを人生の目的とする覚悟が出来さえすれば必ず治るものだ、と言うのであった。他の人生の目的を一切断念して、病気を治すことだけを人生の目的とするのである。そうして、絶対安静を守るのだそうだ。

その後、僕が小田原の松林の中に住むようになったら、近所合壁かっぺきみんな肺病患者で、悲しい哉、彼等の大部分の人達は他の一切を放擲ほうてきして治病を以もって人生の目的とする覚悟がなく、何かしら普通人の生活がぬけきれなくて中途半端な闘病生活をしていることが直ぐ分った。菱山よりも遥かに軽症と思われた人達が、読書に耽ったり散歩に出歩いたりしているうちに忽ちバタバタ死んで行った。治病を以て人生の目的とするというのも相当の大事業で、肺病を治すには、かなり高度の教養を必要とするということをさとらざるを得なかったのだ。

死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたい、酔いもしたい、忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。

そういう僕にとっては、青春ということは、要するに、生きることのシノニイムで、年齢もなければ、又、終りというものもなさそうである。

僕が小説を書くのも、又、何か自分以上の奇蹟を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかも知れないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇蹟に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に外の生き方を知らなくなってしまったのだ。

これは甚だ自信たっぷりのようでいて、実は之ぐらい自信の欠けた生き方もなかろう。常に奇蹟を追いもとめるということは、気がつくたびに落胆するということの裏と表で、自分の実際の力量をハッキリ知るということぐらい悲しむべきことはないのだ。

だが然し、持って生れた力量というものは、今更悔いても及ぶ筈のものではないから、僕に許された道というのは、とにかく前進するだけだ。

僕の友達に長島萃という男があって、八年前に発狂して死んでしまったけれども、この男の父親は長島隆二という往昔名高い陰謀政治家であった。この政治家は子供に向って、まともな仕事をするな、山師になれ、ということを常々説いていたそうで、株屋か小説家になれと言ったそうだ。

この話をその頃僕の好きだった女の人に話したら、その人はキッと顔をあげて、小説家は山師ですかと言った。

その当時は僕も閉口して、イエ、小説家は山師の仕事ではありません、と言ったかも知れないが(良く覚えていないのだ)今になって考えると、流石さすがに陰謀政治家は巧いことを言ったものだ。尤も彼は山師の意味を僕とは違った風に用いているのかも知れないが、僕は全く小説は山師の仕事だと考えている。金が出るか、ニッケルが出るか、ただの山だか、掘り当ててみるまでは見当がつかなくて、とにかく自分の力量以上を賭けていることが確かなのだから。もっと普通の意味に於ても小説家はやっぱり山師だと僕は考えている。山師でなければ賭博師だ。すくなくとも僕に関する限りは。

こういう僕にとっては、所詮一生が毒々しい青春であるのはやむを得ぬ。僕はそれにヒケ目を感じること無きにしもあらずという自信のない有様を白状せずにもいられないが、時には誇りを持つこともあるのだ。そうして「淪落に殉ず」というような一行を墓に刻んで、サヨナラだという魂胆をもっている。

要するに、生きることが全部だというより外に仕方がない。

底本 / Source edition

底本:「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年6月26日第1刷発行
1993(平成5)年3月10日第2刷発行
底本の親本:「日本文化私観」文体社
1943(昭和18)年12月5日発行
初出:「文学界 第九巻第十一号、第十二号」
1942(昭和17)年11月1日、12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:宮元淳一
2006年1月11日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042624_001095/

坂口 安吾「青春論」(新字新仮名)、底本『坂口安吾全集14』ちくま文庫、筑摩書房、1990年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042624_001095, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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