Soranoha

文学以前

ぶんがくいぜん

豊島 与志雄

A

現に中央アラビア国の元首で、全アラビア人の信望を一身に担い、モハメッドの再来と目せられて、汎回教運動に多大の刺戟を与えている怪傑、イブン・サウドが、二十数年前、中央アラビアの砂漠の中を、少数の手兵を率いて疾駆していた頃の話である。

当時、イブン・サウドは三十三四歳の血気盛り、出没自在を極め、幾度か危険に瀕しても屈しなかった。強大なアジマン族が四方の村々を侵している時、彼はひそかに兵を集め、急遽強行軍を決行して、アジマン族を追跡し、その不意を襲った。

夜明け前のこと、アジマン族も急を知って応戦した。イブン・サウドは徒歩で銃を執り、軍の先頭に立っていたが、近距離からの敵の一弾を股に受けた。出血はげしく、立っているに堪えなかった。このために全軍はためらい、そのひまに敵は逃げのびた。

イブン・サウドの軍は其地に露営したが、その陣営には種々の噂がひろまった。或は、アジマン族が大挙襲来して来るともいい、或は、新手の強族が襲って来るともいった。更に不幸な噂としては、イブン・サウドは敵弾のために陽物を失い、もはや男ではなくなり、軍勢を指揮するどころか、何の役にも立たない者になってしまったというのである。

この最後の噂は、男性的力を頼りとする砂漠の民兵等をひどく動揺させた。指揮者を失えば彼等は単なる烏合の衆である。故郷へ帰った方がよいとの囁きが起り、逃亡がはじまった。

天幕の中に寝ていたイブン・サウドは、その情勢を察知した。股の負傷は可なり深く、痛みも甚しかったが、致命的なものではなかった。全軍を落着かせるために、早速行動を取らねばならないし、殊に負傷はしたがやはり男であるとの証拠を見せてやらねばならなかった。

彼は直ちに、近くの村の族長を呼び寄せ、結婚にふさわしい処女を一人選出するように命じた。命令は容易く実行された。

そしてその夜、陣営の中央の天幕で、盛大な結婚式が挙げられた。賑かな祝賀の宴が張られた。云うまでもなく、イブン・サウドと選出された処女との結婚なのである。

この一事によって、全軍の意気は俄に揚った。イブン・サウドの手兵は元より各地からの部落兵等も、感嘆し、喝采し、勇躍した。まさしくイブン・サウドこそは男の中の男である。陽物を失って男でなくなったとは嘘である。それのみならず、重傷を負いながらも恋人の務めを立派に果すことの出来る超人だ。そうした賞讃の念は信頼の念となり、この驚嘆すべき男、吾等の指揮者のためには、命を捨てても惜しくなく、砂漠の果までも従って行き、如何なる敵とも戦おうと、全軍は勇み立った。

斯くて、イブン・サウドの素晴しい芝居はみごとに効を奏したのだった。――(以上、アアムストロング著、古沢安次郎訳、「イブン・サウド」に拠る。)

この素晴しい芝居の時、イブン・サウドは固より独身ではなかった。遠い居城には愛妻ジオハラがいた。彼が真に愛した女はジオハラ一人だろうと云われている。然し彼はその生涯中、多くの女と結婚した。但し同時に四人以上の妻を持ったことはなかった。彼は敬虔な回教信者で、予言者の定めた戒律を厳重に守ったのである。モハメッドは次のように規定している。

「汝は二人、三人、或いは四人の妻を娶るも差支なし。されどそれより多くは娶るべからず。」

イブン・サウドは大抵三人の妻を養い、四人目は空席にしておくことが多かった。このことだけでも、アラビアの王室に於ては道徳的と云われるだろう。そしてこのために、イブン・サウドは何等戒律にそむくことなしに素晴しい芝居が打てたのである。

私は先般、上海の租界裏町で、数名の人々と回教料理を味いながら、老酒の酔がまわるにつれて、イブン・サウドのことを思い出したのである。

回教料理は面白い。初めに幾種類かの前菜が出て、それからいよいよ羊の肉となる。食卓の中央に焜炉が据えられ、焜炉の上の鍋には、真中に小さな煙筒がつきぬけていて、下の火力が衰えないようにされている。羊の肉は薄く切って、径十五センチぐらいの平皿に河豚の刺肉のように並べてある。それを一切ずつ箸でとって、ぐらぐら沸立ってる鍋の湯に浸し、各自の好みに合う程度に自ら煮て、したじにつけて食べる。そのしたじの薬味が大変で、各種の醤油や酢や味噌や葱や香料など、十種類から十五種類に及ぶものを、これまた各自の好みに応じて自ら調合するのである。

羊肉の皿は次々と運ばれてくる。沢山食べるほど豪いとされている。空皿を自分の前にうず高く積上げるのが自慢なのである。もし一二枚で終るほど弱い胃袋の持主なら、料亭の主人から軽蔑の眼で見られる。――アラビアの砂漠では、一人の妻しか持ち得ない弱体の王族は、恐らく同様な眼で人々から見られるだろう。

ところで、上海のその料亭で陶然とした私の心に浮んだものは、胃袋とか、結婚とか、戒律とか、つまり、緯度や経度で異る習俗道徳のことではなくて、イブン・サウドがその素晴しい芝居によって自らを素晴しい男性だと証明し、ために兵士等が俄然勇み立ったという一事である。それは単に男性的な力というのでは言い尽せない。――一種の砂漠の幻影であろうか。

B

モーリアックが書いてる大体次のような一節が、ふと私の目に止った。

「……或る作家たちは、その小説の舞台面として、自分が全く知らない町などを選び、構想に必要な期間だけそこのホテルに滞在する、などと語るけれど、そういうことは私には不可能のようだ。全然見知らない土地に、たとえ長い間落着いていても、それは私には何の役にも立ちそうにない。私が常に暮してきた場所に、事件を据える時、それは初めて私の精神のなかで生き上る。私は室から室へとそれらの人物の跡をつけなければならない。往々にして、彼等の容貌は不明瞭であり、その映像しか分らないこともあるが、それでも私は、彼等が通りすぎる廊下の黴くさい匂いを感じ、昼や夜の或る時間に、彼等が玄関から出て行く折、彼等がどんな匂いを嗅ぎ、どんな音を聞くかについては、何一つ知らないことはないのである……。」

つまり、作品の構想に必要なのは、作中人物についての可見的知識よりも、彼等が動き廻る場所についての明確な実感的知識の方が、より大切だというのである。

作家の書いた文章などというものは、そのまま迂濶には信じられない。モーリアックの右の文章にも、或は何等かの自己弁護の下心があるやも知れない。けれども、右のような事柄は、実際多くの作家が経験するところであろう。いろいろな作品のなかから、たとえ断片的にせよモデルを探すならば、人物についてよりも、室や家屋や街路や野原や川や海などを含めた広義の場所について、如何に多くのものが見出されることであろう。

不思議なのは、場所に対する吾々の感覚である。

私は面白い話を聞いた覚えがある。――寄席の舞台で、即席記憶の実演をやってみせる者が、以前はよくあった。一は煙草、二はビール、三は時計、四はナイフ……という工合に客の任意に指定させておいて、さて、三と云えば時計という風に直ちに答えるのである。ところで、その記憶の仕方だが、品物と数字とはなかなかくっつけられるものではない。最も容易く覚えるには、自分の自宅から一軒目二軒目三軒目と、はっきり頭にある人家を規準にして、一軒目のあの家には煙草、二軒目のあの家にはビール……という工合にくっつけるのである。少しく練習すれば、自分でも驚くほど上達するそうである。――誰から聞いた話だか、今私は覚えていない。即ち、その人は忘れてしまったが、その方法、人家ということはよく覚えている。

また、吾々が日常通る道筋、例えば自宅から電車停留場まで行く街路や、勤務先まで行く交通機関や、梯子酒の常習者ならばその飲みまわるコースや、広い家屋ならばその奥の室から湯殿へ行く廊下など、それが一筋でなく幾筋もあり得る場合に、何かのことで一度決定した時、人は大抵いつも同じ道筋を倦きずに繰返すものであって、その習慣は容易に破り難い。犬に等しいのである。

だから……と云ってはあまり飛躍しすぎるけれども、リイラダンの「ヴェーラ」に於て、ダトール伯爵はその最愛の夫人ヴェーラの死後、その居室を彼女の生前の状態通りにし、彼女と二人で暮していた時と同様の日常を続け、そこに閉じこもっていたところ、遂にその室――長椅子、衣裳、煖炉棚、宝石、香料、寝台、花瓶、ピアノ、楽譜、窓掛、其他さまざまのもの、その全体が、彼女の生前同様の雰囲気で生き上り、その中心にある空虚が、次第に凝り、彼女の形態を取り、そこに彼女が身を置けば凡て満たされるばかりになり、而も未だその空虚はそのまま、じっと持ちこたえられて、今や極限に達し、崩壊の危機の瞬間に、彼女と全く同質のその空虚は、忽然と彼女を出現させた……。

場所は空虚を許容しない。全部崩壊か空虚填充があるのみである。――幻覚を以て譬うれば、長い不在の折など、自分が日常坐り続けた自室の、自分がいないその丁度空しいところに、自分の姿がじっと坐ってはいないであろうか。

C

猫はその習性として、始終自分の身体をなめている。あのざらざらした舌でなめるのだから、ともすると毛が唾液と共に嚥下され、その毛がどうかして胃袋のなかに停滞することがある。すると猫は草の葉の尖いもの、芒や茅などのような葉を、短く噛みきって呑みこみ、それが胃袋を擽る拍子に自然と嘔気を催し、胃袋の毛を吐き出してしまうのである。――毛をなめるのが猫の化粧であるとするならば、その結果の胃袋の毛を吐き出すのに、草の葉を呑みこんで胃袋を擽るというのは、随分ととぼけたやり方である。

以前、埼玉県の或る農家の娘に、訳の分らぬ胃の病気にかかったのがあった。あちこちの医者に診せたが、どうしても明瞭なことが分らない。遂に某外科医が診察を主眼として胃の切開をやったところ、沢山の毛髪が胃袋の底にこんぐらかっていたという。――田舎の娘などはよく、髪の後れ毛をちょっと唇に含む嬌態をなすことがある。この娘にもその癖があって、長い間に知らず識らず髪の毛を沢山嚥下したために胃袋を切開されたのも、おかしな話である。

ところで、或る謹厳な君子が、地方の知人から一人の青年を自宅に預ったところ、二ヶ月ほどして、その青年を追い出してしまった。理由はその家にだらしない女中がいて、食物のなかに髪の毛などを時々落すことがあるが、青年はそれを平気で食べてしまうからであり、女の髪の毛を嫌がらないような青年は、ひどく淫蕩な性質だというのである。――この話、甚だ不快で、右のような解釈を考えたその謹厳な君子こそ、甚だ淫蕩な気質だと思われるが、如何なものであろうか。

D

これは笑話だが、ごく常識的に云って、痛さと、痒さと、擽ったさと、どれに人は最も我慢しやすいであろうか。

答えは大抵きまっている。痛さが最も我慢しやすいというのである。痛さというものは、何かしら堅固で明確で、強い抵抗力を持っているので、こちらもそれにぶつかって、積極的に抵抗することが出来るし、緊張の極、他のものに転化する可能性さえある。

之に反して、痒さや擽ったさは、何かしら不確実でぬらくらしているので、積極的に抵抗し難く、随って我慢し難いのである。感情的にも、痒さは卑俗であり、擽ったさは卑猥である。

そこで、次に、痒さと擽ったさとどちらが我慢しやすいかとなると、答えはさまざまである。それはもはや、情操の問題、好尚の問題である。試みに想像してみれば、痒さを我慢している人の相貌には、唾棄すべきものがあり、擽ったさを我慢してる人の相貌には、擯斥すべきものがある。

肉体的に、まずそうしておこう。ところで、精神状態も生理の一部であってみれば、ここに、痛さを我慢してる精神や、痒さを我慢してる精神や、擽ったさを我慢してる精神などが、在るわけである。

更に、絵画や彫刻や文学作品などにも、痛さと痒さと擽ったさのどれかを我慢してるものが在るわけである。――私はそういうものを少し物色してみたことがある。非常に面白い結果を得た。だがここにはそれを列挙するを憚るとしよう。

E

仔細あって、各地の民話を調べていたところ、随分面白いのがある。ちょっと風変りなのを拾い出してみようか。――これはフランスのべリー地方のもので、簡略に書き直してみたもの。

――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。

――銀の羽子の鳥を見たよ。

――そんなのがいるものかい。

――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。

――おう伴の人、銀の羽子の鳥を見たとか、御主人が云うのは本当かね。

――それは違うよ。私は銀の翼の鳥を見たが、その鳥のことでもあろう。

――バルバリー、タルタリー、パリーからのお戻りか。あちらに何かあったかね。

――ぼうぼう燃えてる池を見たよ。

――そんなのがあるものかい。

――嘘か本当か、伴の男に聞いてみなさい。

――おう伴の人、ぼうぼう燃えてる池を見たとか、御主人が云うのは本当かね。

――それは違うよ。私は尻尾の焦げた鯉の泳ぐを見たが、その池の鯉でもあろう。

こんな調子で長く続くのである。而もこれは民話というより、一種の民謡で、歌うように語られるのである。

こんなことを肥った年とった女が、日当りのよい庭などで、編物をしながら、或は糸車を廻しながら、孫でもあろう子供に歌ってきかしている、そうした光景を想像するのも、時にとっては一興である。

F

宮本武蔵政名が、仇敵佐々木劔刀斎岸柳の動静を探らんがため、変名して木下家の足軽に住み込んでいた頃、この木下若狭守の居城、播州姫路の城の、五重の天主閣の絶頂には、嘗て羽柴筑前守秀吉がそれを造営した頃より、故あって、高野師直の娘刑部おさかべ姫の霊が祀られてあって、そこへ登ること相成らずと禁ぜられていた故、其後誰一人登った者もなく、もし登れば刑部明神の怒りにふれて命を失うものと、いつしか言い伝えられていた。その怪異を見届けんがため、宮本武蔵は家老木下将監の内命を受けて、この陰々たる天主閣、下が千畳敷、二重が八百畳、三重が六百畳、四重が四百畳、五重が百畳敷、その頂上へ登ったところ、深夜、灯火も消えた闇の中に、瞭然と、十二単衣に緋の袴、薄化粧のあでやかな女性が、刑部明神と名乗って立現われ、さすがの武蔵の武芸を以てしても、それを取押えることが出来ない。斯くすること両三度に及び、武蔵は如何にも残念に心得、思案をこらすうち、夢中に悟るところあって、姫路の城下を去ること三里、法華ヶ嶽という山に、名木薬王樹の一枝を求めに行った。其処ではからずも、世に隠棲している竹光柳風軒に出逢い、姫路の天守閣の怪物は、狐三百歳にして黒狐こっことなり、五百歳にして白狐びゃっことなるという、その黒狐であることを聞き、なお退治の方法を教わり、薬王樹の一枝をも貰い受けた。うち喜んだ武蔵は、姫路の天主閣の頂上に登り、身構えて待ち受けたるところ、深夜忽然として、またもや刑部明神の姿が立現われ、武蔵の方をはったと睨んだ。この時武蔵は少しも騒がず、静かに薬王樹の一枝に手をかけ、竹光柳風軒の教えにより、凡て通力を得た奴は、前に姿を現わすと雖もその本体は後ろに在ることを知る故、前面の刑部姫には眼を止めず、そっと後ろを振向けば、武蔵の身体を離るること、三間ばかりのところ、何やら黒く蹲まっているものがある。さてこそと、武蔵は身を開きざま薬王樹を振被って、気合の声と共に打下した……。

――これは勿論、事実ではなく、宮本武蔵黒狐退治の講談の一節の概略である。講談ではあるが、なかなかに面白い。何が面白いかといえば、凡て神通力を得たものは、その偽りの姿を人の前方に現わすと雖も、その本体を常に人の後方に置く、というただその一事である。ただその一事だけではあるが、それだけではあまり素気ないから、少々味をつけて、講談のあら筋をまねてみたのである。この一事の秘訣を知っているのは、ただに神通力を得た妖怪ばかりとは限るまい。文筆の士も往々にして、意地悪い楽しみからそういう悪戯をやることがある。だがそれはほんの余興で、もしそれが常習となる時には、精神はねじけ心情はくらむ。

然しながら、勝敗を争う方面に於ては、黒狐的方法は、一の戦術として、既に孫呉の昔から闡明されている。当然のことながら、戦争には常にそれが応用されているし、囲碁将棋にも応用されている。――更にこれが、悲しくも、外交にまで応用されるようになったのは、誰の罪であろうか。――更にこれが、一層悲しいことには政治にまで応用されることがあるようになったのは、何の罪であろうか。斯かる政治は、民衆の知慧をして政治から離反せしむるの結果をしか齎さないであろう。

G

千九百三十一年のこと、南仏の地中海沿岸で冬を過した二人のパリー婦人が、復活祭後、パリーへ戻ることになった。その一人、D夫人は自動車で行くことにし、も一人のB夫人は、マルセイユの親戚を訪れるため、汽車で行くことになった。ところが、D夫人には一匹の愛猫があった。精悍放縦な美しいシャム猫でアユーチアと呼ばれていた。このアユーチアは自動車が嫌いで、その代り汽車をさほど嫌がらない。そこでD夫人は、それをB夫人に託した。空色の籠の中に、柔かな綿を敷き、そこに猫をとじこめてこまごまと依頼した。B夫人はそれを受取り、身に代えて大切にしてやると誓った。

然るに、そのアユーチアが姿を消したのだ。B夫人がマルセイユの親戚の家に着いて、籠からアユーチアを出してやろうとすると、驚くべきことには、美事なシャム猫の姿は見えず、汚い灰色のどら猫が、のっそりとはい出して来た。

全く腑に落ちない事件だった。空色の籠はまさしくD夫人から預ったままのものである。途中で何者かが、全然同様な籠とすりかえたのであろうか。或は、中の猫だけをすりかえたのであろうか。それとも、あのアユーチアがどら猫に化けたのであろうか。その謎は解かれずに終った。

――この話は全く事実である。この事のために、D夫人はB夫人と諍いを生じ、D夫人は弁護士に依頼して、B夫人を相手取り、愛猫喪失の慰藉料を請求した。その記録まで残っている。D夫人は後で思い直して、その訴訟を取下げはしたが、一時はかっとなって訴訟にまで及んだことに、シャム猫の主人公たるパリー貴婦人の面目が窺われないでもない。

日本では、猫はその死にぎわに失踪して決して死体を人に見せないと、昔から云い伝えられている。然し当節では、猫も人の看護を受けながら、畳の上、布団の上で、安らかに息を引取る。猫に通力が無くなったのであろうか。否、事実は、昔の猫は病苦のあまりやたらにうろつき廻り、そこらの藪の中や物陰に我と我身をつきこんだものだったが、当節では、文化的看護の方を信頼するようになったのであろう。文化の進歩に依る――遺憾ながら――猫性の退歩である。

H

私は或る夏、大阪府下の或る教護院で四十日ばかり暮した。そこの少年少女たちの生活に親しむのが主旨であったが、後には、昔そこにいた少年少女たちの生活記録の補綴が主な仕事となった。ところで、親しく談話を交えたり、真裸で河水のなかで共に遊んだり、其他いろいろ、日常生活に於て得た実際の印象と、それから記録を調べて得た知識と、その両者がへんに喰い違って、初めのうち両者どちらにも余り信用がおけない気持になったものである。

このことは、多くの場合に、経験されるところだろう。実際の印象と記録による知識との喰い違いは、よくあることである。だからといって、両者を否定してかかれば何にも得られないことになる。悩みは、両者を如何に案配統一するかに在る。これに比ぶれば、文学の世界の純一性が貴く思われる。文学の世界に於ては、実際的印象と調査的知識とは、創作上の感性によって初めから統一的に運用される。

だが、この問題についての饒舌は止めよう。実は他のことを云うつもりだったのである。

少年教護院というのは、昔の少年感化院である。感化院といえば誰にでも或る観念が浮ぶだろう。然るに私がはいっていた大阪の教護院は、一般の感化院的観念とは、凡そ異った施設がなされてるのであった。その最も大きな一例は学院の構えである。

この教護院は、赤土砂礫の松山の中腹から裾地へかけて、四万坪あまりの敷地を占めている。街道に面して正門が一つ、ぽつりと建っていて、そこには門番は固より居らず、門扉は昼夜開け放しで、ただ門柱を二本立てたに等しい。それだけで、学院には敷地をめぐらす柵さえもない。平地の方面では、学院内の地所と他の地所とが、耕地の畦で区別されてるだけであり、小路は平らに通じており、山手の方面では、地所の境界さえ定かでない。全く四方八方開放されてるのである。

こうした学院の中で、世間では不良だと言われてる二百名余りの少年少女が、勉強し労働しまた遊びまわってるのである。外部からは学院内の各家庭に訪客や商人などが自由にはいって来るし、深夜迷い込んでくる怪しい男までないではない。然し院生等は、時折の登山や遠足などに連れ出される外、無断外出は一歩たりとも厳禁されている。

こうした状態に於て、たとえ厳禁されてるとはいえ、また教師保姆の不断の警告があるとはいえ、所謂不良少年少女の二百余名のうちに、無断外出がないとすれば驚異であろう。そして実際、無断外出は屡々ある。屡々あるが、然し意外に――私などが意外とするほどに――少い。学院の立前としては、外出後の所業だけが問題であって、無断外出はさほど恐れない。余し実際に於ては、恐れるほどに多くはないのである。

これが普通の少年少女であったとしたら、たとえ無断外出を厳禁されたとしても、案外に禁を犯す者が多かろう。然るに院生等には意外なほど少い。特殊の個人には何回も繰返して禁を犯す者もあるが、一般的にはごく少い。これは彼等に対する平素の訓育の効果もあろうし、学院の院風といったものの作用もあろうが、然し、彼等がこの禁制に意外なほど従順なところに、或る人は、彼等自身の憂鬱を見て取る。何かしら過去の所業から来る重圧のもとに、そうした一種の諦めに似た憂鬱さに陥ってるところに、そしてそこには自発的自己鍛錬の心が少いだけに、或る人は、彼等に対する不憫さを覚ゆる。

だが、この或る人の感懐にはまだ私心があろう。吾々の道徳は、大体地理的境界に基くところが多い。吾々は実際、デパートには自由に出入しても、単に品物を見るだけのために普通商店にははいりかねるし、開け放してある人家に好奇心ではいって行くことは出来ない。普通の義理人情や仁義などから、善悪の悟性に至るまで、そこには或る地理的境界というものが考えられる。これは所有権の問題とは全く別物で、公地公道に於てのことである。人の道徳には一種の精神的地理がある。教護院の所謂不良少年少女も、この精神的地理を知っており、もし彼等が憂鬱であるとすれば、その故にこそ憂鬱なのであろう。

I

大勢の人々が集まってる場所に於て、人間を弁別する特殊な眼が働くというのは、面白いことである。互に見ず識らずの人の偶然の集まりであり、互の声音の響きさえ知らない人々の集まりでありながら、その中の個々の人物について、年齢、職業、身分、人柄など、大凡のことを一目で見て取るような、そういう眼が存在する。その眼に逢っては、全然得態の知れないような人間は非常に少い。

かかる眼を、大抵の者は持っている。保安警察の事務にたずさわる者、政治や実業や商業に関係してる者、其他挙げれば殆んどあらゆる者となるだろう。芸妓や料理屋の女中や、カフェーや酒場の主婦などは固より、普通の女や少年までがそうだろう。――こんな下らないことを一々挙げたのは、そういう人達がまた、この眼の対象になり易いからだ。

ところで、この眼について私は、その所有者のことでなく、その所在のことを考えたいのである。

この眼は大体、常識とか概念とか云われるものの中に在る。即ち人間の年齢とか職業とか身分とか人柄とかについて、常識的な概念的な型が出来ており、その型を規準として眼が働くのであろう。

この眼を、理論的に考究すれば、文学の普遍性ということにまで辿りつけるかも知れない。然し、実際に於て、この眼にばかり頼る時には、作品は卑俗なものに堕して、芸術的香気を失ってしまうのは、何故であろうか。――また、通俗小説などに於けるくだくだしい人物の描写より、例えば酒場の一夕に於けるこの眼の一瞥の方が、よりよく人間を生々と捉えるのは、何故であろうか。

茲でも、饒舌を止めよう。行き当るところは、創造と現相との問題であり、真実と虚構との問題である。

文学に疲れた時、大衆の中に交って、更に大衆の中に没して、陶然たる気持で酒杯を挙げながら、逆にこの眼を呼び寄せ、この眼の奥を窺うのも、また楽しいことである。

J

公共の園の樹木の枝葉を折り取るべからざる禁制は、尤もである。公共の池の魚鳥を捕うべからざる禁制も、尤もである。

だが、園の方はともかく、池で、六七歳の子供達が、彼等の漁を楽しんでる風景には、微笑ましいものがある。竹切れで釣り糸を垂れたり、手網で岸辺をかきまわしたりして、僅か二三びきの小魚や小蝦を、バケツの中に生捕りにしてる子供たちを見ては、誰も恐らく禁制のことなど忘れて、暫くは立止って笑顔でうち眺めるだろう。

子供等のかかるささやかな漁も、無心に見ておれば、池の濁水がおのずから清浄になってくるような幻覚が起る。小魚や小蝦も鮮鱗の一種であり、鮮鱗の住むところ、その水はおのずから清らかである。――東京市内の池や堀は、みな泥深く水濁っているが、鮮鱗の住むことによって漸く救わるる。例えば、不忍池の濁水は、貸ボートの浮んでることよりも、蓮の青葉の繁茂してることよりも、なお一層、子供等が数ひきの小魚や小蝦をしゃくいあげてくれることによって、生きてる清水の幻想を与える。

就学以前の小さな子供等には、そのささやかなそして微笑ましい漁の戯れを、時には、公共の池で許してもよかろう。悪いのは大人の利得的な密漁である。

不忍池には、手の長い小蝦が沢山いる。傘大の網に餌を設けて、そっと水底に沈め、数分たって引上げれば、網の中には多くの蝦が群れている。この密漁の手長蝦を芝蝦の代りにして、お好み焼の材料に使い、客に売りつけた男があったが、これなど沙汰の限りと云うべきであろうか。

不忍池の鰻は、なお一層、その道の人には有名である。田端の方から根津の低地をへて、不忍池に流れこむ川があり、これが今は暗渠となって地下に隠れているが、その川水が池に注ぎこむところに、水門が設けてあり、そこに大きなマンホールがある。夜中にこのマンホールの蓋をあけて、勇敢に中にはいりこみ、水門口に網を仕掛けておけば、数時間にして笊一杯ほどの鰻が捕れる。尤も、降雨後などの特殊な事情で、鰻がやたらに活動する時に限るのである。――この大胆不敵な密漁の鰻を、知らずして、料理屋などで食べた者も多かろう。だが密漁者たちは、決して幸福には終らなかったとかいう。マンホールの中の幸福など、どうせ悪魔的なものに違いない。

君子は……と云えばおかしいが、道を楽しむ者は、収獲の多きを望まない。二三びきの小魚を楽しむ子供等に似ている。釣りをたしなむ人に之を聴こうか。

信州の佐久郡あたりでは、稲田に鯉を飼う。植付けの後、鯉の子を水田に放せば、秋までには五六寸になる。それを池の中で冬を越させ、翌年また水田の中に放せば、その年の秋までに、料理に程よい大きさとなる。餌には乾燥蛹をやる。蛹を食って育った養殖鯉も、数週間、清冽な池水の中に泳がせておけば、河中に育ったのと同様の美味になるのである。――この二年目の鯉が放たれてる水田は実に賑かで畦道を伝って歩けば、魚群の泳ぎ逃げる水音が津浪のように聞える。

水田の中に群れてるこの鯉が、大雨の為などで、水口の梁が破けたり畦が壊れたりすると、川の中に多く逃げ出すことがある。鯉をめあての釣師がくさるのは、そういう鯉に出逢う時である。水田で蛹を与えられてのんびり育った鯉ゆえ、前後の弁えもなく餌に食いつき鉤にかかる。そういうのを釣りあげるのは釣師の恥としてある。彼は舌打ちしてもう釣りをやめる。水田から出て来た鯉が河中の生活に馴れ、相当狡猾になるまでは、その辺で釣りをすることをひかえるのである。釣りの楽しみは単に獲物を得るだけの楽しみではないと、真の釣師は云う。

K

呉清源の随筆集「莫愁」はたのしい書であるが、その中に、私が愛誦する歌が紹介されている。

古昔、舜帝が齢尽きて此世を去り、遺骸は珠丘の上に葬られた時、後に残った二人の妃は、その丘上に相擁して三昼夜ほど泣き続け、涙が尽きると次いで血が流れた。その血が竹にそそいで斑痕をなし、今もなお名物の斑竹となって残っている。

二人の妃はそれから、湘江のほとりで帝が生前愛玩していた五絃の琴を取出し、悲怨の歌を弾じて、泣きながら湖水のなかに身を投じ、帝の後を追って果てた。

その時の悲怨の歌――

一片白雲青山内

一片白雲青山外

青山内外有白雲

白雲飛去青山在

これは、既に悲怨の域を越えて、悠久の自然の懐の中に於ける高い諦観に達してるものであり、無限の慈味がある。

私はこの歌の深い美しさを愛し、この歌を口ずさみながら囲棋に親しむことに、云い知れぬ楽しみを覚えたのである。舜帝の二人の妃が、碁道を創始したとも或は碁道を仙人から教わったとも云われる堯帝の、娘だったという因縁にもよるのである。

ところで、北京に遊んで、天壇の圜丘の上に立った時、ふと私の胸中に右の歌が浮んできた。

圜丘は天壇の主体であって、毎年冬至の未明に、天子斎戒して昊天上帝を祭られた所であり、壇上には、昊天上帝に配して祖宗の神位を奉祀し、日月星辰風雲雷雨の諸神を従祀されたのである。

壇は天円地方の義に則った広大な円形の構築、白大理石の欄干をめぐらした三重の丘壇で、各丘壇毎に九つの階段をのぼって、壇上に出で、天数に応じた九つの敷石をふんで、中央の円形の大敷石に達する。

その中央の敷石の上に、絨緞を敷き碁盤を据え、端坐して碁石を手にしたならば……という途方もない夢想を私は懐いたのである。その夢想と共に、白雲青山の歌が胸に浮んできたのである。

この話を、北京で幼時を過したという呉清源氏に私は語った。呉氏は私の話にうなずいてくれて、更に、天壇での碁の第一着手は天元に下すべきであろうと云った。まさに、至芸の人の言である。

L

或る女人の話――。

そこは、鋪装した広い街路だが、新らしく開かれたばかりのものであり、ゆるやかな坂をなしており、片側には小さな家が建並び、片側は神社の淋しい境内となっていて、人通りも少い処である。そこを、或る日の午頃、彼女は通りかかった。

すると、神社よりの片隅に見すぼらしい身装の年老いた人が、しょんぼり立っている。可哀そうなお爺さんの乞食……という思いがとっさに胸にきて、他に見てる人もないところから、その思いが更に深く、また或る物優しい心境にも在ったので、何の気もなく懐中をさぐって貨幣を一枚、お爺さんに与えた。

お爺さんは、貨幣を押戴いて受取ったが、じっと彼女の顔を眺め、それから、通りすぎようとする彼女のそばへ、追いすがるように寄って来て、掌を見せて下さいと云うのだった。

彼女はちょっと不気味な気持がしながら、左手を差出すと、右手の方をと先方は云う。そこで、右手の掌を差出すと、お爺さんはそれをじっと眺め、小首をかしげて更に眺めてから、よいものを見せて頂いた、と云うのである。

何のことですかと尋ねると、お爺さんは彼女の手には触れず、指先で彼女の掌を指して、ここのところとここのところが……とて、親指の根本と小指の根本との掌のふくらみについて、実によい相をなしている、今月はちょっと塞りでいけないが、来月から実によい福運にあなたは向います……。

ありがとうございました、と彼女はお礼を云って、そのままお爺さんに別れてしまったが……。

そのお爺さんの姿が、いつしかすっと神社の境内に消えてしまった、となるとこれは少しく神仙談めいてくるし、また、その乞食のお爺さんが実は稀代の名手相見だったとなると、これは少しく巷の美談めいてくるし、また、翌月から彼女に大変な福運が見舞ってきたとなると、これは少しく迷信談めいてくる。が然し、それらのことをぬきにして、単に、一片の貨幣に対する礼心からの手相見であったとしても、この話、人の世に一脈の温みを齎すものたることを妨げない。

M

吾々東洋の知性は、新旧の対立をはっきり感じている。そしてこの新と旧とについて、新たな検討探求に発足することを要求されている。

このことについて私は或る一つのイメージを得た。書物に依ってである。――ショーレム・アッシュの大作「ナザレ人」という小説の日本語完飜が、「永遠の人」と題して発行されているのを、私は読み耽ったのである。この小説は云うまでもなく、キリスト伝としては最も注目すべき作品であるが、私は茲にその批評をする意志はない。ただ、この作品から得た上述のイメージを書き誌すだけに止める。

キリストが出た当時のユダヤ民族、それは四方を多神教の異教徒等にとりまかれた唯一の一神教徒だった。すぐ近くのシドンやツロの町などでは、奴隷を酷使しながら、金属工業や機織工業などで繁栄を極め、さまざまな偶像を崇拝して風習は淫靡頽廃していた。ユダヤの地ゲデラの町でさえ、さまざまな偶像の社殿が立ち並んでいた。この中にあってユダヤ人等は、唯一のエホバ神のみを信仰していたが、それはただ在天の神で、如何なる形体をも取り得ないものであり、社殿の内部も簡素なものであった。聖地エルサレムの神殿も、世界各地のユダヤ人からの寄進により、金銀其他の豪華は燦然たるものであったが、神に関する偶像的装飾は何もなかった。

このユダヤ人等は、政治的にはローマ総督と分封王との支配下にあり、宗教的にはエルサレムの祭司の支配下にあって、幾重もの苛税の下に呻吟していた。そして彼等の日常生活は、厳格なる道徳律によって制約されていた。そうした生活のなかで彼等は、昔のいろいろな予言者等の言葉を信じ、救世主の出現を待望し、それを告げる荒野の中の声に耳を澄していたのである。

彼等の上層部には、祭司と教師の階級があって律法や誡命などの解釈に当っていた。そして彼等民衆の大多数は、道徳律を厳守してる所謂清浄な人々であったが、その下に、不浄とされてる人々がいた。それは一般に嫌悪軽蔑されてる人々で取税人、犯罪人、謀叛人、遊女、癩者、乞食などであって、普通の人交りは出来なかった。

そうしたところへ、ナザレの大工ヨセフの子シュアが、救世主として立現われたのである。彼はおもに貧しい人々に話しかけた。不浄とされてる人々にも話しかけた。そして彼が説くところはすべて新らしい意味合を持ち、その行為も新味を持っていた。彼が好んで貧しい人々や所謂不浄な人々へ接近したのは、彼等がその悩みや悔恨の深さによって神へ近づいてることを示すためであった。憤怒と懲罰の面を主として見せていたエホバの神は、彼によって、慈愛憐愍の面を示してきた。救世主による民族救済から世界への君臨の夢想は、この救世主のため、人間苦の象徴たる「人の子」の運命の確立によって、人間救済から人類への君臨の思念と変ってきた。

彼は幾度も繰返して云った、古き衣に新らしき補布をあてる者があろうかと、また、新らしき酒を古き革袋に入れる者があろうかと、これらの言葉はただ譬えなのである。然し、彼が貧しい人々や所謂不浄な人々と共に食卓に就いて、手を洗わずにパンを割いて食べたことは、食事の前に手を洗うという律令を破るものであって、この点で、彼は直接に祭司や教師の階級と衝突した。然し彼に云わすれば、信仰深き者にとっては口から入るものは凡て潔められるが、信仰浅き者の口から出るものこそ人を汚すのである。茲に於て彼は、律令や誡命などの解釈を飛び越えて、じかに神の許へ行った。彼に見らるる新らしさとか革新さとかいうものは、律令や誡命などの夥しい旧解釈を乗り越して、じかに神の許へ赴いたことにある。

この新旧についてのイメージこそ、私が茲に提出したいものである。私はキリストのことを取上げたのではない。キリスト教の神のことを取上げたのでもない。夥しい旧解釈を乗り越えて神へじかに復帰することから来る新らしさを、答えとして持出したのである。

文化の理念に於て、斯かる新旧のことを私は考えるのである。復帰すべき神性を持たない文化こそは憐れである。そこに萠す新らしいものは、旧なるものを打倒しなければならないと共に、それ自身はまだ根柢浅く、充分の成育はなかなか見通しがつき難いであろう。その上、斯かる新らしさは明日は直ちに旧さとなるやも知れない。天が下に新らしきもの無し、とは私は敢て云うまい。然しこの苛酷な言葉は掘り下げて考えられなければならない。

万物は日々に新たなりということは、発展或は衰退の意味に於て、そして絶対新の理論的拒否に於て、理解されなければならない。然しながらまた更に、新たなものをはばむ旧の存在を充分に考慮することに於ても、理解される必要がある。斯かる理解の上で、万物は日々に新たである。然しその悠長さに任せてはおけない時代に吾々はある。東洋に一種の文芸復興というものが要望されるとしたならば、それは東洋が持つ神性なるものへ一躍復帰することによって、夥しく累積してる旧なるものを乗り越すことから発足し、更にこの発足を世界的規模にまで高めなければならない。

これがどういうことを具体的に意味するかは、茲には云うまい。さし当って「永遠の人」のキリスト像によって得た新旧のイメージを凝視して、それを吾々自身のものともしたいのである。

N

何かの機縁で――それがどういうものだったか今は忘れたほどのごく些細な機縁で――私は亀を飼うようになった。庭の隅に低い囲いをし、小池をあしらった、二坪ほどの地面で、固より大きな海亀などを飼えようわけはなく、ごく普通の亀で、今では、いし亀とくさ亀とが十匹ばかりいるきりである。そのいし亀とくさ亀にしても、初めは、甲羅が美しく均勢のとれたものを吟味して集めたのだが、長く飼養しているうちに、徐々にではあるが勝手な成長をし、また汚れはてて、ごく平凡なものとなってしまった。――その代りよく人に馴れて、手を差出せば指先をしゃぶって、食餌を請求するほどになった。人間にばかりでなく、猫にも馴れてきた。家に二匹の猫がいて、漆黒の親猫の方は、もう亀などを見向きもしないが、純白の仔猫の方は、しばしば亀の囲いの中にはいりこんで、珍らしそうに亀たちをからかっていたが、遂には互に馴れてきて、魚の生肉などを與える時には、同じ皿のものを仔猫と亀と仲よく食べてる始末である。

無心で亀を眺めるのは楽しい。あの重い甲羅を背負って、水中を泳いだり地上を匐ったりしてる時、その緩慢な動作のうちには、少しも齷齪焦躁の気はなく、ひどく悠然たるものがある。だが、日光の直射にじっと甲羅を干しながら、頸を長く伸ばして四辺を眺め、やがてその頸をひっこめて静まり返る時、その熱せられた甲羅の内側には、如何なる夢想がはぐくまれることであろうか。亀を眺める人の方でも、いつしかうつらうつらとして、怪しい夢想に陥ってゆくのである。――斯かる夢想の本体はなかなか捉え難い。それはもはや超俗の哲理である。

通俗には、亀について三様の見解があるようである。三様の寓話がそれを象徴する。

第一の寓話――

イソップ物語の中のもので、兎と亀の競争として世界的に有名である。日本でも特殊の完成した形態を取り、一般に知られている。

亀は兎から歩みのおそいのをあざけられまして、それでは競走をしてみようと申込みました。兎は笑って取合いませんが、亀が強いて云いますので、競走をすることになりました。兎は走り出しましたが、途中で、遊んだり居眠りしたりしました。亀はゆっくりとたゆまず歩き続けました。兎がやがて気がついて、決勝点に駆けつけてきますと、亀はもうそこへ到着していました……。

私見――この話の中の亀は、随分気の強い自惚者か、または相手の性質を見通してる賢者かである。結果としては、勤勉が怠惰に勝つのであるが、亀は果して勤勉かどうか疑問で、ただのそのそ歩き続けてるところだけが亀なのである。

第二の寓話――

支那のものとされているが、ドイツの兎と針鼠の話と同様なものである。

広い河のふちで、亀と烏とが仲よしになりました。ところで、年下の方は年上の方を敬わねばなりませんが、さてどちらが年上かさっぱり分りませんでした。すると亀は、この河を向う岸まで早く渡りついた方を年上にしようと、云いだしました。もとより、烏は空中を飛んでゆき、亀は水中を泳いでゆくのです。そんな競争を、烏は笑いましたが、亀が云い張りますので、とうとうやってみることになりました。二人は岸にならんで、いちどに、烏は飛びだし、亀は泳ぎだしました。烏はまもなく向う岸について、「亀さん、まだかい、」と叫びました。すると、近くの草のなかから、亀が首をだして、「もうここに着いてるよ、」と云いました。――烏はひどくびっくりして、も一度やってみようと云いました。そしてまた競争をしましたが、烏が向う岸について、「亀さん、まだかい、」と叫びますと、近くの草のなかから、亀が首をだして、「もうここに着いてるよ、」と云いました。――烏はなおびっくりして、も一度、これきりも一度、競争をやりなおしてみようと云いました。そしてこんどは、烏は河の真中ほどまで飛んだ時、そこで翼をやすめて、「亀さんまだかい、」と叫びました。すると、河の両方の岸に、同じような亀の首がでて、「もうここに着いてるよ、」と同時に云いました。そして烏から見られると、両方とも、眼をぱちくりやって、首をちぢこめ、こそこそと水の中に隠れてしまいました……。

私見――この話のなかで、亀は狡猾な者となっているが、その狡猾さも一種ユーモラスな気味に包まれ、相手を見くびった不敵な大愚とでも云うべきものが目立つのは、亀がおのずから持つ徳の然らしむる所であろうか。結果から見れば策略の失敗だが、他から見て相似た二匹の亀であるところに、失敗は救われているのである。

第三の寓話――

印度のものであるが、内容はイソップの亀と鷹の話や狐と烏の話などと相通ずるものである。

小さな池に住んでいました一匹の亀が、その池に時々来る二羽の鸛こうのとりから、いろいろ旅の面白い話をきかされて、自分でも空を飛んでみたくなりました。そこで、鸛にむりに頼みまして、木の枝を一本もってきてもらい、自分はその真中を口でくわえてぶら下り、枝の両端をそれぞれ鸛がくわえて、そうして空中の旅をすることになりました。「地上におりるまで決して口をあけてはいけませんよ、」と鸛はくれぐれも注意しておきました。――そのようにして、亀は二羽の鸛の間に木の枝に口でぶら下りながら、すばらしい空中の旅を楽しみました。ところが、ある都会の上にさしかかりますと、その珍らしい空の旅人たちを、大勢の人々が見つけて、ひどい騒ぎになりました。――「おかしな亀だ。」――「ふざけた亀だ。」――「亀の王様だな。」――「そうだ、亀の王様だな。」――わいわい騒いでる声が、亀のところまで聞えますし、やがて亀にも、みんなから笑われてることが分りました。亀はとうとう辛抱しきれなくなりまして、「そうだよ、俺は亀の王様だよ、どうして王様ではいけないんだ!」と叫んでやるつもりでしたが、その最初の一言を云うために口をあけたとたんに、木の枝から離れ、まっすぐに地面に落ちて、甲羅もなにもかもくしゃくしゃに砕けてしまいました……。

私見――この話のなかの亀は、無謀な野心家で、遂には亀らしくもない短気のために身を亡ぼしてしまったが、それはどうでもよく、あの重い身体で空中旅行を夢みるところだけが真実である。その夢想は、小池のふちの石の上で甲羅を干してる折などに、熱くはぐくまれるもので、たとえ身が亡びてもそれだけは残存するであろう。

私見は、普通の説とは少し距りがあるかも知れない。それも、私が亀を愛するからであろうか。

亀を静かに見ていると、私自身も亀の仲間入りをした気持になってくる。亀には少しも人を反撥させるものがないのだ。そして私は、今庭にいる以外のもの、少くも東洋近傍にいるものをみな飼いたくなる。まる亀ややま亀やしな亀は固より、海に住む大きなもの、あか海亀やあお海亀をも飼いたく、美しいたいまいをも飼いたい。亀を愛する気持からして、私が今かけてる眼鏡のふちは、たいまいの甲羅からとれる鼈甲にしている。

すっぽんだけは少し危い。鋭い歯を具えていて、喰いついたなら雷が鳴らなければ離さないと云われている。だが、このすっぽんの親方について、日本にはいろいろの面白い民話がある。その中で一つ、柳田国男氏が書かれているのを、茲に大略借用すれば――

昔、美濃の大垣から一里ほど東の中津という村で、古池の水をほして、非常に大きなすっぽんを捕ったことがあります。その人が之を肩に荷うて、大垣の町の魚屋へ売りに行きましたところ、途中である大池の堤を通る時、池の中から大きな声で、おい何処へ行くぞいと云うものがありました。すると背中の籠の中から、今日は大垣へ行くわいと答えました。するとまた池の中から、同じ声で、いつ帰るぞと問いました。これにも籠の中から返事をして、いつまでいるものぞ、明日はじきに帰るわいと、大きな声で云いました。男はびっくりして、こういうのが池の主というものであろうかと思いましたが、ここで弱気をだしては大変と考えて、とうとう魚屋へ行って売ってしまいました。そして翌日、また町に行って、魚屋へなにげない顔で立寄ってみますと、そこの主人の話では、あのすっぽんは恐ろしいものであった、刄物がなくては人間でも破れない生簀のなかから、どうして出て行ったか、見えなくなってしまったそうであります。これが恐らくすっぽんの親方であったろうという話であります。

この話、なんだか本当にありそうな話で、すっぽんと限らず、年経た亀一般にありそうな話である。――私の庭の亀は口は利かないが、食餌を持って行ってやる時など、大きな古いいし亀は、キーキーと細い声で鳴く。亀としては言葉を発してるつもりなのかも知れない。

亀を愛する気持は、生物の秘奥に一脈相通ずる気持であり、また超俗の気持であり、更に、日向ぼっこをしてる亀に親しむ気持は、熱い夢を静にはぐくむ気持である。――斯く云うこともまた、亀に類した愚かな夢想であろうか。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042565_000906/

豊島 与志雄「文学以前」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)』未来社、1967年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042565_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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