Soranoha

影

かげ

豊島 与志雄

叔父達が新らしい家へ移転してすぐに、叔父は或る公務を帯びて、二ヶ月ばかり朝鮮の方へ旅することになりました。勿論この旅行は前から分っていましたが、その出発の間際に、前々から探していた適当な貸家が見当ったので、慌しく其処へ引越して、まだ荷物もよく片付かない三日目の朝、叔父は特急の列車で朝鮮へ出発しました。そして新らしい家の中には、叔母と八歳になる千代子と、五歳になる繁と、顔の真円い女中とが、ごたごたしてる荷物と一緒に残されたのです。

その頃私は、本郷に下宿して高等学校に通っていました。叔父一家の引越の時は、その高輪の家へ、夕方から夜の十時頃まで手伝いに行きました。実は泊りがけで学校も休んで手伝いたかったのですが、私用のために学校を休ましては国の御父さんに済まないと、厳格な叔父が命令的に云うものですから、それに従っていました。所が叔父の出発の日は、暗黙の許可で学校を休んで、品川駅まで見送りをして、それから叔母達と一緒に高輪の家へ帰りました。何しろ叔父の旅の方の用事が多かったものですから、家の中はまだちっとも片附いていませんでした。それで、半ばは私の方から願い、半ばは叔母の方から願う形で、私は二三日学校を休んで手伝ってゆくことにしました。はっきりした口実の下に公然と学校を休んで、好きな叔母と無駄話などしながら、のらくらと家具なんかを弄って、そして晩にはうまい御馳走になり、おまけにいくらかの――学生の身には可なり有難い額の――小遣を貰う日当があるんですから、実にいい機会だったのです。

所が叔母の方にも、単に私から手伝って貰うということ以外に、私を引止めたい他の理由があったらしいのです。「この家をどう思いますか、」と尋ねておいてから、こんなことを云い出したのです。

「日当りのよい割合に、何だか陰気な変な家ですよ。妙に息苦しい気がして夜中に眼を覚すと、それから頭のしんが冴えて、どうしても寝つかれません。そんなことが、引越してきた翌晩――一昨日の晩も、昨晩も、あったのですよ。」

私は叔母の蒼白い顔を眺めながら答えました。

「それは引越に疲れたせいでしょう。」

けれども心の中ではこう考えました。「この呑気な叔母も案外神経質だな。親しみのない新らしい家と、良人の旅行とのために、神経が興奮してるんだな。」

けれども私達は、そんなことにこだわってはおられませんでした。前の家とはすっかり間取の模様が違っていましたので、家具を据付けたりなんかするのにも、何度かやり直してみなければ気が済みませんでした。それに道具好の叔父なものですから、いろんな品物がごたごたしていて、なかなかうまく治りがつきませんでした。その上、障子を張り替えたり、庭に盆裁を並べたり、いろんな用がありました。

そんなことを隙にあかしてゆっくりやってるうちに、いつのまにか夕方になりましたので、また明日のことだと一先ずきりをつけて、叔母の心尽しの御馳走が並んでる餉台で、皆は楽しい晩餐をしたためました。可なり遅く八時頃だったと思います。新らしい家と主人の不在とのために、何だか電灯の光りまでが珍らしげな色合をしてるように感ぜられました。

その電灯が丁度食事の終り頃、ふいに消えてしまったのです。千代子と繁とが驚きの声を立てたきり、動いていた皆の手や口や眼が途中でぱったり止って、暗闇の中にしんとしてしまいました。暫く待っても、電灯はなかなかつきそうにありません。叔母は女中に蝋燭を探さしました。女中は長い間かかって、漸く一本の小さな蝋燭を持って来ました。それを餉台の真中に立てて、皆は赤い光りの中でまじまじと顔を見合せながら、食事の終りを簡単に済しました。

その時、箸を置いて立上りかけた繁が、ふいに大きな声を立てました。

「やあ、兄ちゃんの影が!」

振返ってみると、後ろの壁に、馬鹿に大きな影が写っていました。ひょいと首を引込めると、影もひょいと首を引込めました。

「あら、影が踊ってるわ。」と千代子が頓狂な声で叫びました。

私はその方を振向きました。すると、向うの壁にも、千代子と繁のとの影が二つ並んでいます。

「後ろを見てごらん、千代ちゃんと繁ちゃんとの影も写ってるよ。」

二人は同時に振向いて、自分達の影を見ました。影の頭が動いて横顔になった途端に、小さな鼻の頭が少し覗き出しました。

「あら、繁ちゃんの影には鼻があるわ。」

その時私は蝋燭を取って、ずっと二人に近寄せました。二人の影が大きく背延をして天井まで届きました。

「おばーけ!」

繁は喫驚して母の膝に寄り縋りました。

「ちっとも恐かないわ。」と千代子は云いました。

私は立上って、何か恐い影を写してやろうとしました。途端に、電灯がぱっとつきました。皆は変梃な気持で顔を見合せました。私は蝋燭を手にしてつっ立ってる自分の姿を、明るい光の下に見出して、極り悪さのてれ隠しに、電灯の光に代って云ってやりました。

「今晩は。」

そして蝋燭の火を吹き消しましたが、その時、千代子の新たな影が畳の上に小さく蹲っているのを見て、また悪戯気分が湧いてきました。

女中が餉台を片附けてゆくと、私は電灯を低く引下げて千代子と繁とを相手に、壁に影を写して遊びました。拡げた両手の先をふらふらと動かし頭を下げて、すーと伸び上りながら、「おばーけ、」と云いますと、その影を見て、繁は急いで逃げて行き、千代子は眼を見張って我慢しています。やがて不安な遊びは、彼等二人をも引込んでしまって、三人でいつまでも影人形の遊びに耽りました。

「もうお止しなさいよ。」と叔母が云いました。

「それより叔母さんも写してみませんか。」と私は反対に勧めてみました。「叔母さんが長い髪を振乱して中腰で立つと、屹度本物のお化のような影が写りますよ。」

「お止しなさいよ、本当に!」と叔母は云いました。「子供が夜うなされて困りますから。」

私は昼間の言葉を思い出して、叔母は子供達よりも自分がうなされはすまいかと恐れているのだ、とそんな風に考えました。そしてなお執拗に影人形の遊びを続けました。

やがて、子供達の寝る時間になりましたので、叔母が彼等を寝かしつけてる間、私は二階に上って、叔父の書棚を片附けたりなんかしました。揷絵のある書物はそれを一々眺めたりして、ゆっくり時間をつぶしてるうちに、だいぶたってからふと、縁側の硝子戸に自分の姿が、顔や手先の皮膚をなま白く浮出さして、底気味悪く写っているのを見付けました。それを見ると、天井板や床の間や唐紙からかみの模様など、凡て眼新らしいその室の中が、心をそそるような冷かさに静まり返ってきて、同時に、先刻の影人形の遊びの気分がむらむらと湧いてきて、私は我知らず立上って、両腕を拡げ首を前に突出し変梃な蟹足の足取りで、「おばーけ!」と云いながら踊り出したものです。そして次の瞬間には、自ら喫驚して立悚みました。自分の踊りが余り馬鹿げきった変梃なものである上に、「おばーけ!」と云ったつもりの声が少しもでなかったのに、俄に気付いたのでした。ぞーっと怪しい気持に襲われて、逃げるように階下へ降りてゆきました。

叔母が茶の間にぼんやり坐っていました。私はその顔を見て喫驚しました。

「どうなすったんです!」

「どうって……あなたこそ。」と叔母は鸚鵡返しに云いました。

実際叔母は、しかめた眉の下に眼を円くし、口を尖らして、不満なのか悲しんでるのか分らない顔付をしていました。そして私は叔母の言葉で、自分の顔の筋肉が変に硬ばってるのを知りました。

私達は妙に無言になって、じっと坐っていました。暫くすると、向うの室の方で、何かひそひそと囁く声が聞えます。耳を澄すと、「恐い?……恐くない?」というような言葉や、「ほら、こんどは狐よ、」などという言葉が聞き取れました。

「ごらんなさい、」と叔母は云いました、「いつまでも寝つかないで、いろんな手真似をして脅かしあってるじゃありませんか。あなたがあんまり悪いたずらをするからですよ。」

そして叔母は何度も立っていって、子供達を叱ったり賺したりして、無理に布団の下に押し入れてるようでした。

そのうちに、子供達は眠ってしまい、夜は更けて、家の中がしいんと静まり返りました。まだ荷物の取散らされてる新らしい家の、鼻馴れぬ呆けた香りが、あたりの空気に漂っていて、妙に気持が落付きませんでした。私達の話は自然に叔父のことへ向いてゆきました。もう神戸……岡山あたりだろうかとか、いつ頃朝鮮へ着かれるだろうか、とかそんなことを話しながら、夜の中を走ってる汽車と、それに関連するいろんな想像上の椿事とが、心の奥に巣くってきました。そして二人は、遠くを見守る心地で、お寝みなさいとはいつまでも云い出しかねていたのです。女中までが隅の方で、妙にまじまじとした眼を真円い顔の中に見張っていました。

「おや!」叔母は突然顔を上げました。

「え?」と私は眼付で尋ねました。

「誰か来たのじゃないかしら?」

然しそんな筈はありませんでした。もう表の門も玄関の戸も早くから女中が閉めた筈です。それでも、暫くすると、叔母はまた誰か来たようだと云い出すんです。

「表をこつこつ叩く音がするんですよ。聞いてごらんなさい。」

耳を傾けると、しいんと静まり返った夜更けで、風までがぱったり止んでしまって、何の物音もしませんでした。

「この家には鼠一匹居ないようですね、」と私は云いました。

叔母はぴくりと眉根を動かしたきり、何とも答えませんでした。けれどもやがて、また戸を叩く音がすると云い出したんです。私も少し気にかかって、兎に角も見て来ることにしました。

茶の間を出て、階段の横の薄暗い廊下を通り過ぎて、何の気もなく階段を見上げながら、一寸薄ら寒い気持になり、それから玄関の障子を開くと……ぼんやり輪郭のぼやけたものが……ぼーっとした影が、其処につっ立ってるのです。おや! と思って一歩退ると、影がむくむく伸び上ったのです。「何だろう!」と思った途瑞に、がーんと響く大声で、「俺だ!」

ぞーっと冷たいものが全身に流れて、私は其処に棒立ちになってしまいました。が次の瞬間には、もう影も何も消えてしまって、茫っとした薄ら明りが玄関に一杯湛えています。気がついて見ると、ついてた筈の玄関の電灯が消えています。それで私はまたぞっとして、茶の間に引返すはずみに、後からついて来てる叔母に突き当りました。

「あなたにも聞えましたか。」と私は息をはずまして尋ねました。

「え? 何が?」

叔母の顔は俄に真蒼になりました。

私はほっと息をつきました。そして茶の間に戻りながら、夢からさめたような心地で明るい電灯の光を眺めました。

私はその話を叔母へは――また誰にも――決してしませんでしたが、叔母はその家が何だか陰気で不気味だというので、間もなく他へ引越してしまいました。そして影のことは、それきりになってしまいました。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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豊島 与志雄「影」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)』未来社、1967年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042482_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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