Soranoha

黒点

こくてん

豊島 与志雄

前から分っていた通り、父は五十歳限り砲兵工廠を解職になった。

十二月末の、もう正月にも五日という、風の強い寒い日だった。父はいつになく早く帰ってきた。

「電気はまだか、薄暗くなってるに。」

初めは怒鳴りつけるような、後は泣くような、声の調子だった。が、まだどこか昼の光の残ってる中につけられた、赤っぽい電燈の光で見る父の顔に、私はなお一層びっくりした。父は弁当箱を抛り出して、火鉢の前にぼんやり坐っていた。その顔付がまるで腑脱けのようで、眼だけが気味悪く光っていた。

これはずっと後の話だが、私の友人に、初犯二年間の刑務に服してきた男がいる。私も少し掛り合いの間柄だったので出迎いにいってやった。その時刑務所の門の前で七八人の知人に取巻かれた彼の顔が、あの時火鉢の前に坐ってた父の顔と、丁度同じような印象を私に与えた。

一口に云えば、もうすっかり精根つきながら、きょとんとした眼の底から、興奮してぴくぴく躍ってる魂が覗き出してる、というような顔付だった。額や頬骨のあたりの皮膚が硬ばってかさかさになっていた。

台所から母がやって来て、二人で何かごちゃごちゃ話し出した。私は室の隅に縮こまっていたので、二人の話をよく聞きもしなかったし、またはっきり覚えてもいないが、八百円という言葉が何度もくり返されてるようだった。――今になって考えると、それは父が退職手当に貰った金高だったらしい。父は私が生れる遙に以前から、まだ母と一緒にならない前からずっとその時まで三十年間砲兵工廠に勤めて、五十歳になったので、八百円で逐っ払われたのだ。

三十分ばかりして、父は何処へか出て行った。私と妹と母と三人で食事をした。

 母は何かしら興奮してるようだった。しょぼしょぼした眼をいつもより大きく見開いて、妹が御飯粒や醤油おしたじを少しでもこぼすと、すぐにがみがみ叱りつけた。かと思うと、その眼がまたすぐにじくじく水気ずいてきて、小さくどんよりとなって、箸の手を休めて物を考えこむのだった。

何かえらい事が起るんじゃないかと、そういう気が私はした。ところが実際は、全く思いもかけないようなことになっていった。

私は妹と二人で炬燵にあたりながら、新聞の広告の大きな字などを、虫眼鏡で眺めていた。それは隣りの寺田さんから貰ったもので、鯨骨の柄のついた非常に大きなものだった。

「普通の者がいくら欲しがったって、なかなか手にはいらない立派なものなんだから、大事にしまっておけよ。これでこんな風にして空を見ると、眼に見えない星が見えてくる。太陽を見ると、表に黒い汚点があるのだって分るんだ。」

その太陽という言葉が私には嬉しかった。然し太陽を透し見ると、ただ一面にぎらぎらするだけで、どこにも黒い汚点なんか見えなかった。ただ、夜の空を眺めると素晴らしく綺麗だった。昼間でも星がよく見えた。

それを、新聞の大きな字の上にあてると、黒い線の中にいろんな形が白く浮出してきた。花や虫や変梃な模様が、次々に現われてきた。「ほら……ほら……。」と小声で囁きながら、私は妹に見せてやった。私達子供はおとなしくしていなければいけないような気がしたのだった。

母は用が済んでも炬燵の方へやって来なかった。火鉢の前に坐って何か調べ物を初めた。

箪笥の下の方の片隅に、黒い鉄の延板がやたらに打ちつけてあって、そこに、手文庫代りの小さな抽出が幾つもついていた。母はその中から、いろんな紙片のはいってる袋や、小さな帳面や、黒い玉の小さな算盤などを取出した。そして、脂の多い皺くちゃな眼をしかめて、しきりに計算を初めた。――後で分ったことだが、母は内々知人の間に、日歩の金なんかを廻していた。それもごく僅かな額で兄の慰藉料や姉の身代金などから差引いたものらしかった。さんざん借金に苦しんできたので、自分でもそんなことをしてみたくなったのだろう。

計算が少しこんぐらがってきたとみえて、母は癇癪を起し初めた。口の中でぶつぶつ云ってみたり、器具にあたりちらしたりしていたが、しまいにその飛沫を私達の方へ持って来た。

「何をぐずぐずしてるんだい。寝ておしまいよ。」

「もう寝てもいいの。」と私は云った。

「寝ておしまいよ。」と母はくり返して云った。「またそんな役にも立たないものを持ち出して、何をしてるんだい。勉強もしないで……そんなもの、こっちへよこしておしまい。」

私は虫眼鏡を取上げられはすまいかと思って、急いで立ち上った。そして次の四畳半に蒲団を敷いて、妹と一緒に寝た。妹はすぐに眠ってしまったが、私はなかなか眠られなかった。

九時を打って間もなく、父が帰ってきた。母は帳面やなんかを元の通りにしまって、抽出に鍵をかった。父は酔ってるようだった。足音が非常に大きかった。

「どうだったんだい。」と母は尋ねた。

「どうもこうも……ばかばかしい話さ。俺達のような、期限がきて解雇された者あ、ほんの僅かきり集ってやしねえ。臨時解雇の者ばかりなんだ。ところが彼奴等あ、まだ金が下ってねえって始末だろう。そう強えことばかりも云えねえわけさ、ぐずってばかりいてつまらねえから、俺あ先に帰ってきた。」

「だからさ、ごらんな、わたしが云った通りだろう。初めから出かけていくのが間違ってるよ。でもまあ、巻き込まれなくてよかったよ。」

「うむ……。向うでもうまくやったものだ。おしつまって金を渡す、そうすりゃあすぐ正月だ。何だ彼だ云ったって、うまくいくわけのものじゃあねえ。……だが、寺田さんも黒幕の一人だから、何とかなるかも知れねえが……。」

「寺田さんもそうかい。」

「うむ。」

私はぼんやり聞いていたが、その寺田さんという言葉に、はっきり眼がさめてしまった。然し父母の話は、私の頭ではよく分らない事柄に及んでいったし、声も低くなっていった。そのうちに、父はも少し酒を飲みたいと云い出した。

不思議なことには、その晩母は少しも逆らわなかった。平素なら、夜遅くなって父が酒を飲み出したりすると、母は頭から小言を浴せて、飲んだくれだの碌でなしだのと叱りつけるんだが、その晩に限って何とも云わないで、台所から一升壜まで持ち出してきた。

「酒は沢山あるから、いいだけおあがりよ。わたしも一杯やってみよう。」

焼鰑の匂いがしてきたので、私は寝返りをしたり、欠伸をしてみたりした。

「まだ起きてるのかい。」と母がこちらの室を覗き込んできた。

「うむー……。」と私は生返辞をした。「何時だろう。」

「なにを生意気なこと云ってるんだい。眼がさめてるなら起きておいでよ。」

母の声は案外やさしかった。で私は飛び起きて、着物をひっかけながら、炬燵の方へもぐりこんでいった。

餉台の上には、蛸の足だの鰑だの海苔などが並んでいた。父はそれらのものには手もつけないで、ただ酒ばかり飲んでいた。それもいつものように濁酒ではなかった。私は鰑を貰ってしゃぶった。

「啓太郎でもいてくれると、これからのわたし達も楽なんだがね。」

そんなことを母はしみじみと云い出していた。それから暫く話は啓太郎のことになっていった。私は何となく嬉しかった。父母がそんな風にしんみりと彼のことを話すのを、私は余り見たことがなかったのである。

私は長兄啓太郎については、非常に清らかな記憶を持っていた。彼の死骸が砲兵工廠から運ばれてきた時、私はまだ六歳にしかなっていなかったが、彼が死んだとはどうしても思えなかった。木香きがのぷーんとする白木の棺の中に、真白な布にくるくる巻かれて、誰が入れてくれたものか、黄色い花の中に寝ていた。その寝顔を、私は父の腋の下から覗いた。いつも落凹んだ恐い眼付だったが、その時は、金魚の出目を思わせるように、閉じた眼瞼が円くふくらんでいた。口が半ば開いていた。小鼻がぴしゃんこになっていた。その全体が、どこか道化た異常なものに見えた。で私はその瞬間、兄はえらい者になったような気がした。

その感じが、後々まで私の頭から去らなかった。

「機械が悪かったんで、お前の兄さんが悪かったんじゃない。それを役員達は、お前の兄さんの方を悪いことにして、たった二百円で済ましてしまったのだ。」

寺田さんはそういう風に私に話して聞かしたことがある。兄が巻き込まれた調革しらべがわには、前から少し損所があって、そこに兄の上衣の裾が捉えられたのを、役員達はどうしても是認しないで、兄が巻き込まれたために損所が出来たのだと主張したそうである。

然し幼い私には、そんなことはどうでもいい問題だった。ただ兄の死体の印象だけが大事だった。そして私の頭の中には、兄が何だか異常なものに……神にでもなったような幻想が次第にはっきり出来上っていったのだった。

暫くすると母は何と思ってか、押入の隅っこにある小さな仏壇に、蝋燭をともしたり線香を上げたりした。しまいには声にまで出して、南無阿弥陀仏を唱えた。

「何をしてるんだ、止せよ。」と父はふいに声を立てた。「人が酒を飲んでるところへもってきて、抹香臭え真似をしやがって……。」

「いいじゃないかね。わたしは仏様にお礼を云ってるんだよ。」

母は落付き払っていた。

「仏様にお礼だって……何を云ってるんだ。」

「お前さんが無事にこれまで勤めてきたのも、仏様の御蔭だよ。わたしはね、毎日、お前さんが無事で戻るようにと、仏様に願っていた。そりゃあね、お前さんの仕事は啓太郎のとは違っちゃいたが、いつどんな怪我をしないとも限らないじゃないか。それがこうして……。」

「無事にお払い箱になったってことか。ばかな。」

そんな話を聞いてるうちに、私は呆気にとられてしまった。これまで一度も、母が仏壇を拝んでることも見たことがなかったし、父に対して母がそんなにおとなしいことも見たことがなかったのである。そしてふと気付いたのだが、母の髪が変に赤茶けてるのと父の髪が変に灰色がかってるのとに、何となくびっくりした。

母はまた南無阿弥陀仏を初めていた。

「止しなったら……止せよ。」

父はひどく癇癪を起してるらしかった。その拍子に、銚子を一本ひっくり返してしまった。

「それごらんな仏様の罰があたったんだ。」

「なに、仏様の罰だって……。あたるならあたってみろ。どこからでもあたってみろ。」

私は驚いて、台所から雑巾を持って来た。が母はそれをひったくって、自分で畳を拭いた。それから銚子の酒を代えたりした。

「うむ、慾張りめ、八百円がそんなに有難えか。」

父はまだむしゃくしゃしてるらしかった。が母はやはり落付き払っていた。

「ええ、どうせそうだろうよ。わたしはこれでもね、自分の息子を殺されて、その涙金の二百円ぽっちりの金を、お辞儀をして貰ってきやしないよ。」

「何だと、誰がお辞儀をした。さあ云ってみねえ、誰がお辞儀をした。」

然し父はもう酔っ払って、お辞儀みたいに頭をふらふらやっていた。それをきょとんと振立てて、私をじっと眺めた。

「おや、とんちきな真面目くさった顔をしてるじゃねえか。うむそうか、お前は豪い者になるんだったな。何でもいいから豪い者になれよ、いつまでも、世の中に用が無くならねえようにな。俺のようになっちゃあ、もう駄目だぜ。駄目ってこたあ、世の中に用がなくなるってことだ。」

父はもう舌がよく廻らないのを、一生懸命に云い続けてるらしかった。

「俺はな、十二の時から世の中に乗り出したものだぜ。十二の時から……鉄屑を拾ってな、大した仕事じゃねえさ。だが、素晴らしく大きな釜だったぜ。十石も二十石もはいろうというやつでね。その中に鉄が真赤に煮えくり返ってるんだ。そんな釜を持ってる者あ、ど豪い人だろうと、俺は子供の時分そう思ったね。そして俺はどうかと云やあ、工場の隅から隅まで鉄屑を拾って歩く役目さ。立派な職工達が夜中まで働えてた。造兵なんかよりもっときちっと整ってた。今から見りゃあ、ちっぽけな工場だが……。その工場で俺は、鉄屑を拾ってきたんだ。そして……なあに考えてみりゃあ、一生鉄屑を拾ったようなもんだ。他人のためにな……。だが、こいつが肝心だぜ。こいつ一つだ。鉄屑でも拾ってるうちゃあ、まだ世の中に用があったんだ。鉄屑も拾えなくなっちゃあ、もうおしまいだからな。だが、今時の若え者あ、豪いことを考えてるぜ。そいつが俺にはよく分らねえんだが……。何しろ、もう年が年だからね。啓太郎でもいりゃあ、俺も気が強えんだが、俺一人じゃあ、気が弱くなるのも無理はねえさ。一番大事なこたあ、年が若くって、……豪い者になることだ。」

父はもう私に話しかけてるのでもなかった。杯の酒を見い見い、時々それをぐっとあおっては、ぐずぐず饒舌り続けていた。母はそんなことには頓着なく、小皿の物をつまんだり、自分でもお酒を飲んだりしていた。

おかしな状態だった。がなおおかしなことには、父はいつのまにか仏壇の方へにじり寄って、新らしい位牌と睨めっこをしていた。

「いつまでつけっ放しにしてるんだ。火事でも起したらどうする。」

父はさも忌々しそうにそう云って、よろよろ立ち上りながら、燃えつきようとしてる蝋燭の火を吹き消したが、その後にまた新らしい蝋燭をともした。

「明るくなったろう、ははは。」

そこに屈みこんで、銚子と杯とを両手に取って、仏壇と差向いに酒を飲み初めた。そしていつしか、南無阿弥陀仏を口の中で唱えだして、身体をふらふら揺っていたが、そのまま横のめりに寝入ってしまった。

「仕様がないね。」

母は独語ちながら、父の上に蒲団をかけてやった。

父のところへは、時々仲間の職工達が一人二人ずつやって来て、十分か二十分くらいしては帰っていった。そういう人達に父は余り取り合わないらしかった。母が応対してることさえあった。何の話だか私には分らなかったが、後になって考えてみると、一部の職工達の間に何等かの計画がめぐらされてたものらしい。

父は毎日、朝から酒を飲んでいた。酒は台所の縁の下にしまってある濁酒だった。時には一杯つまった一升壌が三四本も並んでることがあった。その上奥の方には、大きな甕が据えてあった。

「あの甕のことを人に云っちゃいけないよ。人に聞かれたら、酒はよそから買ってくるんだと云うんだよ。いいかい、忘れると承知しないよ。」

母は私にそう云って聞かしていた。そしてよく知ってる私にまで甕を見せまいとしていた。その理由が私にはどうしても分らなかった。なぜ自分で酒を拵えてはいけないんだろう。酒を拵えるとなぜ罰金を取られたり監獄に入れられたりするんだろう……。

私は或る時そのことを寺田さんに尋ねてみた。すると寺田さんはこう答えた。

「そうだ、お前の云うことが本当だ。だが、そんなことを人に云っちゃいけない。……今に分るよ。」

私はばかばかしい気がした。人に聞かれたらいつでも云ってやるつもりでいた。――幸なことには、一度も人に聞かれたことがなかった。

父は朝から酒を飲むばかりでなく、酒の肴に目差や鰑などをしゃぶっていた。それまではいつも味噌汁と漬物ばかりだったのである。そして晩の惣菜もずっとよくなっていた。職に離れた父だけがそうなので、私には不思議に思えた。姉までが時々、カフェーから何やかや父に持って来ることがあった。

然し父は皆から食物の上で大事にされながら、他の事では殆んど相手にされなくなっていった。正月の買物のことだの、炭を買入れることだの、竈の下を瓦斯にするか薪にするかということだの、姉がカフェーを住み換えるかどうかということだの、秋から持ちこされていた家賃値上の問題だの、凡てが母と姉との間で相談され解決されてるようだった。

或る時、植物園の前のところに、駄菓子屋が一軒売物に出ていた。母と姉とは二日も三日もそれについて話をし合って、わざわざ店を見にまでいった。

「そりゃあいいぜ。」と父は云った。「そうなりゃあ、俺が車を引っ張って売りに歩いてもいい。」

「まだきめてやしないんだよ。」

母はそう答えたきりで、姉の方へ話を向けてしまった。

「だが、俺もこうぶらぶらしていたんじゃあやりきれねえからな。」

そして父は、時々出歩いては職を探し廻っていた。そのことについてだけは、母も真面目に相談にのって、あれこれと就職口を頼みこむ方便を考えてやった。然しいつまでも父の職は見付からなかった。初め砲兵工廠を止すとすぐに王子分廠の方へ出る手筈だったらしいが、それももう駄目ときまっていた。

「お前さんがどじだからよ。」と母は腹を立てたような蔑んだような口の利き方をした。「だけど、長年苦労をしてきたんだから、暫く遊んでおいでよ。わたし達はお前さんを当にはしていないんだからね。」

「そりゃあ、どうせ俺はもう、世の中に用のねえ人間なんだが……。」

世の中に用のないということは、殆んど父の口癖となっていた。そしてそれはまた、父が口を噤む最後の捨台辞でもあった。その極り文句を吐き出してしまうと、いつもむっつり黙り込んでしまった。そしてひどく陰欝な顔付になった。それが、髯を剃ってる時には痛々しく見え、髯が伸びてる時には兇悪に見えた。

髯が剃られてるのと伸びてるのとで、人の顔の感じが甚しく異るのを、私は最初に父に於て見てきた。髯のない父の顔は如何にも善良そうで、世の中の苦労を嘗めつくしてきて弱りはててる、云わば温良な落伍者の感じだった。けれど、不精髯がもじゃもじゃ生えてる父の顔は、何だか世の中に始終不平を懐いていて、何かのきっかけがあれば、どんな悪事をも平気でやってのけそうな感じだった。

母もそれに気付いてると見えて、父が就職口を探しに出歩く時なんか、やかましく云って髯を剃らせた。が平素、父は髯を剃ることをひどく億劫がっていた。

或る時、父は一包みの古釘をどこからか持って帰った。そして火鉢の横に、厚い鉄板と金槌とを持出して、曲りくねった古釘を丁寧に伸ばし初めた。

「そんなことをして、何にするんだい。」

母は頭ごなしにやっつけていたが、父はただにやにや笑ってばかりいた。

その翌々日の夕方、山本屋の小僧に住み込んでる中の兄の啓次が、自転車で慌しくやって来た。真赤になって怒っていた。父が店にやって来て、古釘を貰っていった、自分は恥かしくて顔が上げられなかった、あんなことをして貰っては、朋輩に顔向も出来ない……とそう云うのだった。そして云うだけのことをぽんぽん云って、そのままぷいと帰っていった。

母はびっくりしたような顔付をしていた。兄が帰ってしまうと、暫くたってから、じりじり父の方へつめ寄った。

「お前さんにも呆れて物が云えやしない。何てことをするんだい。お前さんがそんな了見だから、お花だって啓次だって、家に寄りつきゃしないんだ。自分の子供の顔に泥を塗るようなことを、よくものめのめ云って行けたものだね。そんなことをするよりは、立ん坊でもした方が、どれほど立派だか知れやしない。お前さんは乞食根性だ。」

それでも、何と云われても、父は弁解をしなかった。

「ほう、そんなにいけねえことかなあ。」

そして陰欝に顔を渋めてるきりだった。

それでも、十日ばかりたつと、父は晴れやかな顔をして、また古釘の包みを持って帰って来た。

「さすがは大店おおだなの旦那だ、お前達とは了見が違うぜ。俺が行って話をすると、そいつあ啓次の方がいけねえって、さんざん小言をくってた。そして、見ねえ、この通り向うから頼んで、古釘を持たしてくれた。どんな物だって、世の中に廃り物はねえんだ。その心得が肝心なんだ。山本屋じゃあ、これから俺の手におえねえほど古釘を取っておくってよ。荷物の出入がはげしいから、古釘はいくらも出る、新らしい釘はいくらも要る、そこで俺の仕事が役立つってわけだ。金なんか貰わねえ。俺はただ働えてやるんだ。」

父はすっかり喜んでいた。金槌の音が煩いと母から云われると、寒い中を裏口に出てカンカンやっていた。

そういう父の生活は、ひどく退屈なものだったに違いない。そこから不幸が起ってきたのだ。――然し私は余り先まで筆を運びすぎた。元に戻って事件を述べてゆこう。

父が砲兵工廠を罷めてから間もなく、私達を最も驚かしたことは、寺田さんの失踪だった。

寺田さんは父と同じ砲兵工廠の職工で、レンズ磨きの方に働いていた。四十年配の、背の高い痩せた独身者で、いつも蒼白い顔をしていた。頣にしょんぼり短い髯を生やしてるのと、右の手が左の手より長いように思われる恰好とで、特殊な印象を与えるのだった。

彼は一年余り前、砲兵工廠へはいると同時に、隣家の離室へ越してきた。その離室が、隣家というよりも寧ろ私の家と隣家との界にあって、大きな窓が私の家のすぐ裏口に面していたので、間もなく非常に懇意になった。離室から一寸木戸を押し開けると、私の家の裏口に出られた。彼は度々てって来て、夜遅くまで話しこんでゆくことがあった。と云っても至極無口の性質で、自分の経歴などは少しも話したがらなかった。他人の経歴も余り聞きたがらなかった。そして多くは私を相手に、面白い歴史の話や地理の話をして聞かした。私はまだ学校で歴史も地理も教わっていなかったので、彼を学校の先生よりも豪いと思った。そして殊に、彼が日本中のどこでもよく知ってるのに喫驚した。彼はまた、星のことをも話して聞かした。それから習字も直してくれた。

「わたしは字は下手なんだが、お前よりは上手なつもりだよ。何事でも、自分より少しでも上手な人には教わっとくと、いつか為めになるものだ。どれ、わたしが直してやろう。」

学校の清書を見せると彼はそう云って、二重まるのついてる字でも何でも構わずに、どしどし直していった。――彼の字は何だかひどくまるっこい感じのするものだったことを、私は未だに覚えている。

父が砲兵工廠を止す前後、彼はひどく忙しそうで、毎晩出歩いていたらしい。私は彼の姿がちっとも見えないので、よく裏口からその室の方を覗いて見た。けれど窓に光のさしてることは一度もなかった。

彼が職工の運動に関係してることは、父の話でほぼ分った。ただそれがどんなことだかは、当時の私には全く分らなかった。

ところが、大晦日の前日の夜、彼は久しぶりで私の家にやって来た。私は嬉しかった。職工の運動云々のことにも拘らず、父母も喜んで彼を迎えた。そして彼は父と酒を飲み初めた。

その晩彼がどんなことを云ったか、私は殆んど覚えていない。思い出すことといってはただ、酒を飲むに随って、彼の額が益々蒼白く澄んでゆくような感じだったのと、帰りしなに、母へ眼病の妙薬とかいう薬草を置いていったのと、虫眼鏡で私と暫く遊んでくれたのだけである。――薬草というのは、四五寸ばかりの小さな乾草で、その汁を水にしみ出さして眼につけると、どんな眼病にも利くというのだった。が、母は其後一度もそれを使わなかった。薬草はどこかの隅に永久に置き忘られてしまったらしい。

彼は二三時間私の家で過ごして、いつもの通り裏口から静かに帰っていった。然し彼はその晩、私が殆んど何にも覚えていないように、特別に変ったことは何一つ為しも云いもしなかったに違いない。もし、何か特別なことがあったら、私が見落す筈はなかった。なぜなら、私と彼と虫眼鏡でいろんな物を眺めながら、凡そ印刷物のうちでも、紙幣が一番よく印刷してあるというようなことを、彼から聞かされてるうちに、ふと、これきり彼はどこかへ行ってしまうんじゃないかという気がしたのである。

世の中には、何か特別なことをしなくても或るはっきりした印象を残すような、そういう人がいる。彼も恐らくその一人だったろう。何にもはっきりしたことを云いも為しもしないで、ごく些細な動作や身振や言葉遣いなど全体の感じで、それと人に納得させるのである。何か一つの事柄についてばかりではない。彼に対する私達一家の尊敬がやはりそうだった。父の仲間のうちでただ彼だけに対して、さんをつけて寺田さんと私達が呼ぶようになったのも、彼が何か優れた能力を見せたからでもなく、比較的知識が広いからでもなく、普通の労働者と少し違った言葉遣いをするからでもなく、自然と人柄の感じから理由なしにそうなったのである。職工達の間に彼が声望を持っていたとすれば、それもやはり理由なしに自然とそうなったのだろう。

彼が帰っていってから、暫く空虚な沈黙が続いた。私は堪まらなくなって云った。

「寺田さんは、どっかへ行ってしまうんじゃないかい。」

母はぎくりとしたように顔を上げた。

「ほんとにそうかも知れないねえ。だがまさか……。」

「なあに行くもんか。寺田さんは解雇されやしねえ。」

父は一人で反対して、残りの酒をまだ飲んでいた。

が実際、寺田さんはその夜限り行方をくらましてしまったのである。

翌日、寺田さんの室が、戸が閉ったままになってるので、私は一人気を揉んでいた。すると晩になって、隣家のお上さんが慌ててやって来た。手に葉書を一枚持っていた。

母は顔色を変えて父のところへ飛んできた。隣家のお上さんも上ってきた。葉書は寺田さんからのものだった。――此度都合で旅行することになった、もう帰って来ないから、室は自由にして欲しい、残してる蒲団や書物を、少いけれど今月分の宿料の代りに処分して欲しい……とただそれだけの文面だったらしい。

「ふだん御懇意だったようですから、御心当りはありませんかと思って……。」

お上さんはさも当惑そうな顔をして、遠慮しいしいそんな風に云い出していた。そして、残ってるのは薄い蒲団と五六冊の書物とだけで、とても宿料なんかに追っつきはしないことを、遠廻しに云ってから、信玄袋が一つあったのだが、いつのまに持ち出したのかしらと父母の顔を探るように見比べていた。

それが母の癪に障ったらしかった。母は箪笥の隅の抽出から、一枚の紙を取出して見せた。

「わたしの方もこの通りですよ。」

寺田さんの五十円の借金証書だった。

父は二人の女の話を聞きながら、堪え難いような顔付をしていた。眉根に深い縦の皺を刻んで、顔の皮膚をくしゃくしゃにして、畳の上を見つめていた。その時くらい私は父に同情したことはない。全く穴でもあればはいりたいような様子だった。ところが、ふいに調子が一変した。

「やかましい、いいじゃねえか。出来てしまったこたあ仕方がねえ。」

女二人は突然の叫び声に飛び上るような身振りをした。

「寺田さんはそんなことをする男じゃねえ。」

母は坐り直した。

「おや、そんなことをする男じゃないんだって……それじゃあ、これはどうしたんだよ、どうしたっていうんだよ。」

そして証文と葉書とを父の前へつきつけていた。

「いつまでもそのままにしとく男じゃねえってことさ。」

「へえー、時さえ来りゃあ、二倍にも三倍にもして返してくれるというんだろう。ばかばかしい。」

父と母との見幕に驚いて、隣家のお上さんはそこそこにして帰っていった。――だが、全く厄介な目にあったのは彼女である。彼女の方では訴えも何もしなかったのに、後で警察の方からわざわざやって来て、寺田さんの書物はそっくり押収してゆき、布団は当分保管を命じていったのである。

寺田さんの逃亡は、私達に大きな打撃を与えた。

父はひどく落胆しきって、益々一人で憂欝そうに考え込むようになった。父が寺田さんに何を期待していたかは私には分らないが、今になっての私の想像を許さるるならば、寺田さんがもし労働運動に成功していたら、父は容易く王子分廠に就職出来たかも知れないように思われる。或はさほど深い関係がなかったにもせよ、寺田さんが逃亡したということは父の気持の上では杖を失ったようなものだったろう。

「寺田さんは屹度いつかこっそりやって来る。」

父は後々までそう云い続けていたし、そう信じきってるらしかった。

母は寺田さんを許していいか憎んでいいか、自分でも分らないような風だった。何かにつけては五十円の証文のことをもち出して、口汚く罵りながらも、すぐその後で、いい人だったとか恐い人だったとか云って、溜息をついていた。

私は何だか、誰に向ってともなく無性に腹が立った。寺田さんが母や隣りのお上さんに金銭上の迷惑をかけていったことが、寺田さんの方の不正ではなくて、或る大きな漠然とした……云わば社会の不正であるように思われた。それに私は、寺田さんが置いていったという書物がほしくてたまらなかったのだが、それをみな警察に持って行かれたと聞いた時、憤慨の気持は一層高まった。私は不安の余り虫眼鏡を戸棚の隅に隠しながら、寺田さんの蒼白い顔を思い慕った。

寺田さんは幼い私の性情に最も感化を及ぼした人の一人だった。思い出はいくらもある。そしてこの「回想記」の主題と密接な関係があるのは、後年横浜で出逢ってから以後のことである。その時彼は、共産主義とトルストイ流の労働主義とをこね合した思想の把持者だった。がそれらのことは後に述べるとして、茲にはただ一つ、私が自分でも知らずに彼を喜ばした揷話をつけ加えておこう。

同じ年の秋の末だった。或る爽かな晩、私は寺田さんと二人で外を歩いていた。どうして二人で出歩いたかは今覚えていない。

両側の軒並に切り取られた長い空に、星が実に綺麗に輝いていた。薄暗い裏通りだったので、その星空が河を逆さに覗き込むようで殊に美しかった。

寺田さんは空を仰ぎながら、立ち止ったり歩き出したりして、私に星の名を教えていた。天の川を中心にあちらこちらへ飛んでいくので、私にはどれがそれだかよく分らなかった。そんな星の名前なんかより、それを指し示してる寺田さんの右手の、不恰好に長いような感じのする方へ、私の注意は向きがちだった。それは変に悪魔的な手だった。今にもぬーっと伸び出して天まで届きそうに思えた。

「昔は、ああいう星が動いていて、東から西へぐるぐる廻ってるものだと思われていたんだよ。ところがだんだん調べてみると、動いてるのはこのわたし達の地球で、星の方はじっとしてることが分ってきた。何万年も何億年も、あの限りなく広い空の真中に、いつまでもじっと一つ処に浮いているんだよ。或は動いてるのかも知れないが、まだそこまではよく分らないから、今のところ動かないものとしてあるんだ。」

星を指してる寺田さんの手と、永久に大空の一つところに浮いてるという星とに、私はすっかり気圧されてしまって、むりに反抗してみたくなった。

「だって……だって……星は動くよ。」と私は呟いた。「僕が歩き出すと、星がついて来るんだ。」

そして私はとっとっと歩いてやった。一寸間があった。と突然あはははと高く笑う声が聞えた。そしてすぐに、固い感じのする手で肩をしっかと捉えられた。私は冷りとした。

「あははは。」と寺田さんはまだ笑っていた。「お前は面白いことを云うね……。なるほど、星は動く……わたし達についてくる……。」

もし他に通行人がなかったら、寺田さんは私の両肩を抱きしめたかも知れない。

私は寺田さんを怒らしたように思っていたので、その如何にも愉快でたまらなそうな晴々とした顔を見て、きょとんとしてしまった。寺田さんは私の肩になお右手を置いたまま、左の短い感じの手で頣のしょぼ髯をしごきながら、眼をくるくるさしていた。

「星がついてくるか……うむ……。」

その言葉が何でそれほど寺田さんを感心さしたのか、私には分らなかった。――今でもまだよく分らない。

ただ、実に綺麗な星空だった。

大晦日の晩寺田さんの逃亡が分ったので、それからすぐに引続いた正月は、私達にとっていつもほど晴れやかなものではなかった。その上父までが職を離れたばかりのところだった。

「俺はもう世の中に用のねえ身体だから、この正月は家にすっこんで暮そう。」

「何を云ってるんだい、縁起でもない。……松が過ぎたら、元気を出して仕事でも探しに出歩いてくるがいいよ。」

父と母とがそんな風な応対をしてるのを見ると、私は頼り無いような気持になった。それでも、食べ物の方はいつもより御馳走があるようだった。

そのうちに私達は、或る形態えたいの知れない圧迫を外部から感ずるようになった。

隣家へ警察の者がやって来て寺田さんの書物を押収していったのは、十日過ぎのことだった。それから間もなく、私の家へも刑事がやって来て、寺田さんのことを――私達と懇意になった初めの頃からのことや寺田さんの平素のことなどをこまかく聞き訊した上に、もし寺田さんが姿を見せたらすぐに届出るようにと云い置いていったそうである。

「お前は何を誰から聞かれようと、知らない知らないと、それで頑張り通すんだぜ。」と父は私に云った。

「そうだ、うっかり何か饒舌っちゃいけないよ。」と母も云った。

それから母は、台所の縁の下の酒甕のことをしきりに気にしだした。そんなことじゃないと父が云っても、母は始終その方へ気を取られるらしく、姉とくどくど相談してることもあった。それでも酒甕はやはり元のままで、沸々と新らしい濁酒を醸し出していた。

大人って馬鹿なものだな、何をびくびくしてるんだろう、とそんな風に私は考えていた。

或る日私が学校から帰ってくると、途中で、汚い身装なりをした労働者風な男が、にこにこ愛相笑いをして近づいて来た。

「あなたは西村さんの坊ちゃんじゃありませんか。」

私は喫驚して立止った。そんな丁寧な口を利かれたことは滅多になかったのである。

「西村さんの坊ちゃんでしょう。」

「そうだよ。」と私は多少得意になって答えた。

「そんなら、あの……寺田さんをよく知っていらした……。」

男は腰を低く屈めながら私の顔を覗きこんできた。

「そうだよ。」と私は答えた。

「では、寺田さんの居所いどころを教えてくれませんか。わたしはもと、寺田さんと一緒に、子分同様に働いてた者ですが、急に用が出来て、寺田さんを尋ね廻ってるんです。何処へ行っても分らないから、あなたのことを思い出して……ええ、寺田さんから聞いていたんですよ……あなたなら御存じだろうと思って、家の方へ尋ねていくと、学校からまだ帰らないというんで、学校へ行ってみようと思ってたところです。……ねえ、坊ちゃん、寺田さんは今、何処にいるんです。」

「僕は知らないよ。」

私は相手の様子を見調べた。初めから何だか変な奴だなという気がした。かねて聞いてたところでは、職工とそうでない者とは、手を見れば、殊に手の節を見れば、一番よく見分けがつくそうだった。が生憎その時男は古い外套のポケットに両手をつっ込んで、両肩をねじり加減に前方へつき出していた。その恰好は如何にも見すぼらしい職工風だった。然し、妙に鋭い眼付と耳の前の黒子ほくろとが何だか変だった。職工にだって耳に黒子のある者はいくらもある筈だが、その男の黒子はどうも職工らしい感じではなかった。

「じゃあほんとに知らないんですか。」

男は私の眼をじっと見つめてきた。

「本当に知らないよ。」

「そいつあ、弱ったなあー。」

男は何と思ったか、五十銭銀貨を一つ取出して、強いて私に握らした。

「わたしが寺田さんを探し廻ってることは、誰にも……家の人にも、内証にしといて下さいよ。警察にでも知れると一寸厄介ですから。……では、坊ちゃんは本当に知らないんですね。」

「ああ知らないよ。」

「弱ったな。」

男はなお暫くもじもじしていたが、溜息をつきながら立去っていった。

私は家に飛んで帰った。

暫く考えた上で、私は父に尋ねてみた。

「お父ちゃんは、寺田さんがどこへ行ったか、本当に知らないのかい。」

「知らねえよ。何だい。」

で私は、途中で逢った男のことを話した。

父はひどく淋しそうな顔付をして、考えこんでしまった。

「知らないと云うのが一番だよ。」と母は云った。「実際何にも知らないんだからね。」

父も母も五十銭玉を私から取上げようとはしなかった。不思議にその時は、金のことなんかどうでもいいというような調子だった。私はすっかり安心した。五十銭玉を大事にしまいこみながら、もっとあんな男が出て来ないかなあなどと考えた。

これは後年寺田さんから直接聞いた話だが、寺田さんは砲兵工廠にはいる前、九州の或る硝子工場で可なり過激な労働運動を起しかけたことがあったそうである。そのことが警察の方へ知れたので、こんどの事件もあって、先に逃げてしまったのだとか。然し他にもまだ何かあったらしい。

私達はそんなことを少しも知らなかった。殊に私はまだ小さな子供だった。

幸なことには、警察の方ではもうそれ以上私達に目をつけないで、ただそれとなく網を張ってるくらいらしかった。然しそのことが、変な風にこんがらかっていった。

一月の末から、寺田さんがいた隣家の離室には、姉のお新と同じカフェーに出てる若い女が、姉の紹介でだろうが越してきた。

肉付のいい中柄な女で、顔立も姉なんかよりずっと整っていた。そして、額から眼から口元の様子が、真面目な時には一寸西洋人風に見え、笑う時にはあどけなく見えた。カフェーで混血児あいのこと綽名されてるそうだった。

私は初め彼女に余り馴染めなかった。その上、彼女は姉と一緒に、午前中に出かけて夜十二時過ぎでなければ帰って来なかったし、私は朝早くから学校へ出て行くので、顔を合せることも少なかった。

その女が越してきてから、暫くたつうちに、父は俄に戸締りを厳重にしだした。隣家との間の木戸に輪掛金をつけたり、裏口の古戸に新らしい板片を打付けたり、表も早くから閉めてしまった。

「大丈夫だったら。……まさかそんなことじゃあるまいよ。」

そう母が云ってるのを私は聞いた。父は首を振っていた。

「そうじゃないかも知れねえ。だが、俺は家の中をじろじろ見られるのが嫌えなんだ。見られたっていけねえことがあるわけじゃねえが、どうも、薄気味悪くって……。それに、縁の下の……あれだって、いつばれるか知れねえ。奴等の眼が早えからな。」

「ばれるならもうとうにばれる筈じゃないか、お新の友達っていうからね。往きも帰りも一緒なんだろう。」

「だがどうも、合点がいかねえよ。」

それが何のことだか私には分らなかったが、ただその時の感じで、父の方が道理らしい気がした。

然し実は、父の方の間違いだと分ってきた。

或る晩遅く、私はふと眼を覚した。隣りの室に、父も母も寝間着の上に着物をはおって坐っていた。その前に、カフェーから帰ってきたままの姿で、姉がいきり立っていた。

「家の近くにいちゃいけないというなら、あたしからお清せいちゃんにはそう云うよ。ばかばかしい。人の情人いろおとこを探偵と間違える者がどこにあるものかね。だからお父つぁんは耄碌したって云われるんだよ。」

「だが、こないだなんか、朝っぱらからやって来て、家の中をじろじろ覗き込んでいったぜ。」

「そりゃあ、隣りだし、あたしの家だってことが分ってるからだよ。これであたしがちゃんとしてるからいいが、もし色っ気でも出して、男につけ廻されるようなことになったら、お父つぁんは死んじまうだろうよ。ほんとにばかばかしくって、呆れ返っちまうわ。」

「いや俺も、寺田さんの一件やなんかがなかったら、こんなに気を揉みゃあしねえが、あれ以来何だが気が弱っていけねえ。それにしたって、今晩はちとひどすぎるじゃねえか。塀を乗りこしたりしてさ……。」

「そりゃあもう夢中なんだから、それくらいのことはするだろうよ。」

「お前さんだって、」と母が口を入れた、「若い時のことを考えてごらんな。女を追い廻したことだってあるだろう。」

「ふーむ、あんなに執念深えもんかな。」

「ええ、あの人は特別なんだってさ。それをまた、お清ちゃんが嫌で嫌で、振りぬいてるもんだから、なお逆せ上っちまうんだよ。」

「ほう、いい男なのか。」

「いやな奴さ。」

それから話は、お清とその男とのことになっていった。その時聞きかじったことや後で分ったことなどを概括すれば、お清はもと静岡で女工をしていた。するうちに、そこの年若い事務員と愛し合って、何かごたごたがあって、二人で東京へ出奔してきた。男は或る保険会社の外交員になったところが、生活難や虚栄心や其他いろんなことからだろうが、半年ばかりのうちにお清は男を捨ててカフェーにはいった。そして間もなくふしだらに身を持ちくずした。その頃から、前の男が執念深くつき纒ってきた。それをお清は逃げ廻っていた。――その男というのが、父が問題にした男である。

私は眼が覚めたのを床の中にじっと我慢していたので、ひどく窮屈で息苦しかったし、また隣室の話が低くなったので、ごく大体のことしか聞き取れなかったが、父はむやみとこまかくこまかくつっ込んで尋ねているらしかった。それがしまいには、わきから聞いてると不思議なほど執拗くなっていった。お清と男との間柄ばかりでなく、お清の周囲のことから日常の振舞まで、根掘り葉掘り問い訊していた。私には誰の顔も見えなかったが、その時の父の眼付は、いつぞや学校の帰りに出逢ったあの男の眼付と同じようだろうと、そんな風に思われるのだった。

姉はとうとう腹を立てたらしかった。

「どうするの、そんなことまで聞いて。あたしはお清ちゃんの番人じゃないよ。」

暫く話声が途切れると、父は云い訳でもするように口籠っていた。

「なあに……よく聞いておかなくっちゃあ、安心がならねえからな。……すると、じゃあ何だね……。」

そしてまた父は訊問を続けていった。

「知らないよ、もう……。お清ちゃんにじかに聞くがいいわ。」

姉は本当に怒りだしたようだった。父もそれきり口を噤んだ。

その時になって気付いたことなんだが、父と姉とがお清のことを話してる間、母は殆んど一言も口を利かなかった。それも私に変な感じを与えた。そして、父の執拗な問いと母の沈黙とが、冬の夜更のひっそりした寒さの中で、私の幼い頭に絡みついてきた。

私は頭から布団を被った。長く眠れなかったような気がする。父母と姉とはまだ起きていた。間を置いては何だかもそもそ話をしていた。

私は父の方のことは殆んど気付かなかった。そして新たな興味でお清に近づいていった。姉の話を聞いてから、お清が何だか晴れやかな華々しいものに思われた。それは自分達のじめじめした生活とは全く別な世界のようだった。

前に述べた通り、私は彼女と顔を合せる機会はごく少かったが、それでも日曜日にはいつでも逢えた。彼女は姉と連立ってカフェーに往復していたので、朝はよく姉を誘いに来た。それからまた彼女は屡々カフェーを休んでいた。そんな時は大抵午ひる近くまで寝ていて、何処かへ出かけてゆくこともあり、室の中でぼんやりしてることもあった。

私は不器用だった。いきなりぞんざいに近寄っていったり、遠くからこわごわ眺めたりした。それを彼女は殆んど気にも留めないらしかった。

その代り、妹のお三代は彼女によく馴染んでいた。彼女の方でも千代紙なんかを買ってきてくれることがあった。そしていつも「みいちゃん」と呼んでいた。そのやさしい呼名がお三代をひどく喜ばせたらしい。

或る朝彼女は裏口にやって来て呼んだ。

「みいちゃん……みいちゃん……。」

お三代が立っていくと同時に、私も立っていった。彼女は朝日の光の中にぱっとした身装で、紙風船をふくらましてぽんぽんやっていた。嘗て見たこともない大きな美しい五色のものだった。

「これをあげましょう。」

私は羨ましくなった。

「僕にもおくれよう。」

彼女は私の顔をしげしげ見守っていたが、突然笑い出した。

「ほほほほほ……あんたも玩具おもちゃがいるの。」

私は喫驚した。何て笑い方だったろう。すっかり面喰ってしまった。

「いるならこんど買ってきてあげるわ。でも……突けて。」

「突けるとも。」

私は妹を押しのけて、紙風船をついた。ぽーんぽーんという素敵な音だった。

それから姉が仕度を済して出て来るまで、私は妹や彼女と風船玉をついて遊んだ。夢中になって汗をぐっしょりかいた。

「何をしてるんだよ、男のくせに。」と姉は私を叱った。

「いいじゃないの。……啓ちゃんも紙風船がほしいんだってよ。」

私は恥しくなった。それから腹が立った。仕返しをしてやれという気になった。

そして、それが却って役立った。

三四日後、午後のこと、裏口に出て、彼女の離室の方を見ると、窓の障子が少し開いていて、中で何かちらちら動いていた。それがやがて、彼女だということが分った。

私は一寸考えてから、小石を三つ四つ拾った。初めのはいい加減のところへ投げやって、最後の一つを、狙いをつけて窓の障子に投げた。古い紙だったとみえて、ぷすっというような音がした。

「あら。」

頓狂な声がして、障子が開いた。小さな壜を片手に持ったままお清が上半身を見せた。彼女は方々を透し見て、それから最後に私の方を見た。

「あんた、今石を投げたのは。」

私は彼女が怒り出すだろうと待ち構えていたが、少しもそんな様子がないので、昂然と云ってやった。

「そうだよ。」

「いやね、障子に放ほうったりしちゃ。壁にでも……屋根にでも……投るものよ。いいからいらっしゃい。」

彼女がほんのちょっちょっと指先で手招きしたので、私は何のことだか分らなかったが、やはり顔をふくらましたまま近づいていった。

「なあに。」

彼女の方からそう尋ねかけて、私の顔をじっと見入ってきたので、私はなおまごついてしまった。

「どうしたの。」

そこで私は咄嗟に思いついて云ってやった。

「風船玉……。」

「あ、あれ。忘れちゃった。こんど買ってきてあげるわ。……でも、あんた誰から石を投ることを教わったの。」

「教わらなくたって、石くらい放れるよ。」

「え。」

「放ってみせようか。あの木だって越せるよ。」

「そう……。」

曖昧な返辞をしておいて、それからふいに彼女はあはははと笑い出した。こないだのとはまるで違った、男のような笑い方だった。

「あっちから廻っていらっしゃいよ。誰もいないわ。」

私が一足も動かないうちに、障子はもう閉っていた。

私は木戸を押し開けて、縁側の方に廻った。

「何をぐずぐずしてるの。」

私は思いきって上っていった。

彼女は顔の化粧を直してるところだった。後ろ向きになって、私の方を鏡の中に映してみながら、猫のような手付で気忙しく顔をこすっていた。その目まぐるしいほどの手の運動と、鏡の端に映った自分の顔半分とに、私はすっかり気圧けおされて、顔を外そ向けながら室の中を見廻した。

寺田さんの時とは全く違ってしまっていた。薄暗くがらんとして而もちゃんと整ってたのが、今は乱雑に散らかってぱっと明るかった。柱にかかってる着物や、座布団や炬燵布団や、鏡台のまわりの化粧壜や、机の上に盛り上ってる雑誌や小箱や人形など、どれもこれも手当り次第に放り出されて派手な明るい色に浮出していた。そして室の隅には、油の肖像画が一枚不似合に置いてあった。

やがてお清は化粧刷毛を投げ出して向き直った。

「そんなところに坐って、何してるの。」

私はむっつりして顔を外らしていた。

「あ、あの絵、あれはあたしを書いたのよ。展覧会にも通った立派な画家のよ。似てるでしょう。」

然しちっとも似てないように私には思えた。

それから彼女は私にいろんな物を見せた。写真だの絵葉書だの函迫はこせこだの人形だの……。小さな人形が沢山あるのに私は驚いた。

そんなことをしてるうちに、遠くで私の名を呼んでる母の声がしたので、私は急いで帰っていった。凡てが何だか夢のようだった。

母は控え目な小言を云った。

「やたらに遊びにいっちゃいけないよ。行くなら断っておいで。」

然し私は平気だった。平気よりも寧ろ心が浮々していた。お清の側にいる時は気がつかなかったが、姉の道具にも嗅いだことのない甘い涼しい香が、いつまでも鼻に残っていた。

そして私はお清に親しんでいった。

その上私には他の目論見もあった。知らず識らずいつのまにか考えついたことだった。

私達兄弟はちりぢりになっていた。一番上の兄の啓太郎は死んでいた。二番目の兄の啓次は山本屋に住み込んでいた。一番上の姉のお花は洲崎の女郎になっていた。二番目の姉のお新はカフェーに通っていた。三番目の姉は早く死んだ。家に始終一緒にいるのは私と妹のお三代だけだった。ところが、お花も啓次も殆んど家に寄りつかなかった。だけならまだいいけれど洲崎はともかくとして、山本屋へもカフェーへも私は行くことが出来なかった。父母でさえ逢いに行けなかったので、私は猶更厳重に禁ぜられていた。

そのことが私には全く腑に落ちなかった。子供心にも不正とさえ思われた。親兄弟が逢いに行くのを禁ずるなどと、そんな道理があるわけはなかった。――今でも私は、啓次やお新にこの点で怨みを含んでいる。世の中に対して怨みを含んでいる。

そこで私は子供心の反抗心から、不意にお新のカフェーへ押しかけてやろうと思ったのである。山本屋へ行ったってつまらないが、カフェーは華かな別世界のような気がした。それも一二度連れてって貰ったことのある、硝子に紙のはってあるバーや外部から見通しの呉服屋の食堂と違って、お新の出てる神田のバーは、二階がレストーランになってるごくハイカラな大きなものだった。私は一度、その前をひそかにうろついて、どうしても中にはいれなかったことがあった。

お清がそこへ出てることは何よりの幸だった。私は彼女に連れていって貰おうときめた。

で或る時私はお清へそのことを頼んでみた。

お清は不思議そうに私の顔を見た。

「姉さんも行ってるじゃないの。どうして姉さんに連れてって貰わないの。」

私は説明するのに顔が真赤になった。詳しくはなかなか云えなかったし簡単には猶更云えなかった。もし相手が寺田さんだったら、胸の欝憤や疑問をそっくりさらけ出したかも知れないが、お清へは何だかそれが出来なかった。で苛ら苛らしながら、いくら頼んでも姉は連れて行ってくれないとだけ答えた。

「そう。でも……。」

彼女はまだ不思議そうに私の顔を見守っていた。私は無理に頼んだ。

「後で叱られやしないの。」

「大丈夫だい。叱られたって平気だよ。僕は意趣返をしてやるんだ。」

「なにを生意気云ってるの。」

だがその時、彼女は眼をちらっと光らした。とそれがすぐにくるくると動いた。

「いいわ。連れてってあげよう。……だけど……。」と彼女は暫く考え込んだ。「こうするといいわ。あたしが連れて行くと怨まれるかも知れないから、時間をきめていらっしゃい。ね、いいでしょう。一人で来られるでしょう。その時間にあたしが待っててあげるわ。」

一度決心すると、彼女はなぜかひどく面白がっていた。そして、翌々日が階下の番だから、その七時に待ってると云い出した。

「昼間はいないかも知れないから、晩の方がいいわよ。でも家から出られて……。そう、じゃあ屹度よ。間違えると承知しないわよ。あの……神保町の四つ角に交番があるでしょう。知ってて……。そう。あの交番の時計がきっかり七時になったら、一二一二って歩いてくるのよ。あたしあの時計に自分のを合して、入口で待っててあげるわ。」

私はその通りにすると誓った。

「ああそれから、あんたお金があって。」

「ないよ。」と私は小声で答えた。

「じゃあ、これを持っていらっしゃい。あすこじゃ都合が悪いから。」

彼女は小さな蟇口から五十銭銀貨を二つ出してくれた。私は驚いた。一円そこいらではとても行けないと思っていたのである。

「これでいいの。」

「ええ。」

「これくらいなら持ってるよ。」

「じゃあそれも一緒に持ってくるといいわ。……よくって。交番の時計がきっかり七時になったら、一二一二って歩き出すのよ。」

私はお清と約束した通り決行した。全くそれは決行と云ってもいい程度のものだった。平素の憤懣を晴らすというような、また空漠とした愛慾に惹かされるというような、また何かしら未知の世界に憧れるというような、いろんな気持が一種の熱となって、私は夢中に燃え上っていたのである。

二日の間に私はあるだけの智恵をしぼって考えた上で、父母の前はどうにかごまかすことが出来た。そして他処行よそゆきの着物を――それも久留米絣のものだったが――着込んで、古いマントにくるまって、早くから家を出かけた。神保町の四つ角で電車を降りると、交番の時計はまだ七時に三十分余りも前だった。その間古本屋を覗きながら、何度も時計を見に戻って来た。巡査の顔付や眼付は眼中になかった。愈々七時になると、一二一二という足取りで出かけた。そしてカフェーの扉の少し手前でぴったり立止った。擦硝子の電球を見るような硝子扉だった。電車や自動車や自転車や人間が、素晴らしく沢山通っていた。真暗な空と冷い風との中で、何もかもが、明るい街路までが、幻影のように浮出して見えた。

お清が出て来てくれなかったら、私はいつまでもつっ立っていたかも知れない。ふと気がつくと、カフェーの扉から半身を出して彼女が、混血児そっくりの顔付で手招きしていた。それを見た瞬間、今迄の熱情はすっかり消え失せてしまって、私は石のように冷くなった。そして真直に歩み寄っていった。

「何をぼんやり立ってたの。」

私は返辞をしなかった。彼女の後について中にはいった。ぱっと光の中に飛び込んだような気持だった。彼女に連れられて隅っこの卓子に坐るまで殆んど無意識だった。

円い腰掛、真白な冷い卓子、黒ずんだ植木、それらを意識しだして我に返ると、私は喫驚してしまった。胸をどきつかせながら空想していたようなものは何もなかった。学校の講堂より狭い天井の低いだだ広い室、所々に置かれてる生気のない植木、卓子の列、鉄の煖炉と錆びた煙突……あちらこちらに二三人ずつの男が声低く話してるきりだった。

お清は私の前につっ立ってにこにこしていた。

「どう。……でもよく来られたわね。」

その彼女までが、白いエプロンをつけてるせいか、ずっと年取ってるように見えた。あの素晴らしい笑い方もしなければ、飛び上るような物の云い方もしなかった。

ただ、天井の大きな電球の光だけが素敵だった。

私はがっかりした。次には泣きたくなった。がそれをじっと我慢してやった。

「何を食べるの……珈琲……お菓子……ホット・クラレット……。」

私はただうむうむと気のない返辞をした。

私はもう何にも考えもせず感じもせずただぼんやりしていた。一人になっても、お清がやって来ても、同じことだった。そして、甘い洋菓子と苦い珈琲とに手を出した。

「案外つまんないな。」

「何が案外なの。」

そして彼女が初めて心からにっこり笑ってくれたので、私はいくらか落付いた。

然しその晩私は全く気がぽーっとしていたらしい。細かな出来事は少しも覚えていないし、大体の事柄だって霧を通して眺めるようにぼやけている。はっきりしてるのはただ、私が次第に人の注意の的となっていったことだけである。

カフェーの中は客が殖えていった。お清は大抵の者と知り合いらしかった。通りがかりに何かと冗談を云い合っていた。

「何だい、あの子供は。」

そういう声が私にも聞えた。

「あたしの弟よ。」とお清は答えていた。

「うまく云ってらあ。君の子供だろう。混血児あいのこは……早いって云うからな。」

その連中はどっと笑った。

「いいわよ。」

お清は怒った風をしながらも、笑顔をして私の方へよくやって来てくれた。が話は別になかった。

黙ってじろじろ私の方を見てる客もあった。

向うの植木の影からわざわざ顔をつき出して、私の方を覗いた女給があった。

二階に通ずる階段から、足音も立てないでひょっこりお新が降りてきた。私は思わず首を縮めた。

間もなくお新はまた出て来て通りかかった。と、不意に立止って私の方を見つめた。お清が立って、何やら耳元に囁いた。お新は蒼白い微笑をした。そしてつかつかと私の方へやって来た。

「早くお帰りよ。」

それだけ小声で云って、睥みつけもしないで、澄した顔で二階に上っていった。

いつものお新とはまるで違った感じを私は受けた。姉でも何でもない他人のような気がした。私の方でも意趣晴しなどということをすっかり忘れていた。

その後お新はも一度二階から降りて来た。然し往きも戻りも、私の方へちらちらと眼をやったきりで、何とも思っていない様子だった。私の方では、姉の立派な姿に感心さえした。

珈琲もお菓子も無くなると、お清は大きなコップに麦稈のついてるやつを持って来てくれた。口の中ですーっと消えて無くなるような飲物だった。

私は皆から観察されながら、こちらでも皆の方を観察してやった。女給は大抵お清より年下の者が多いようだった。どれもみな同じような顔に見えた。ただお清の混血児顔が一人違っていた。客は会社員や学生だった。みな髪の毛を長くして顔の艶がよかった。誰も彼も愉快そうでそして威張りたがってるように見えた。が不思議なことには、一人もどっしり腰を落付けてる者がなく、いつでもひょいと立上れるようにしている、とそういう感じがした。それがひどく私には不安だった。そしても一つ不安なのは、皆が赤の他人で而も互に識り合いだという変な矛盾した感じだった。

痩せたハイカラな男とお清が暫く話をして私の方へやって来た時、私は尋ねた。

「もう帰ってもいい。」

「ええ、いいわ。こんどまたいらっしゃい。」

そして彼女は私の方へ屈みこんで、一円だけ置いてゆくように云って、つと身を退いた。私は立上って、わざと様子ぶって五十銭玉を二つ卓子の上に置いた。そしてぷいと飛び出してやった。

ぞーっと寒けがした。街路が薄暗く思えた。私はぶつぶつと唾を吐いた。形態えたいの知れない反抗心が湧き起ってきた。前に考えたことがみなひっくり返ってしまい、皆から馬鹿にされ、恥しい目に逢った、とそんな気がした。

寒い北風を真正面に受けながら、戸崎町の自分の家まで歩いて帰った。

母から何やかや問いかけられても、碌に返辞もしないで、布団を被って寝てしまった。

父は酒に酔っ払って炬燵で居眠りをしていた。お三代がその傍で千代紙を折っていた。

私はひどく疲れていた。背骨まで、ぐにゃぐにゃになってるような気がした。熱に浮かされたような心地で、眠っていった。

ところが、それからが大変だった。

私は夜中にいきなり母から引きずり起された。

母は歯をくいしばってぎりぎりやっていた。父は薄暗い眼をしていた。お新が私を睨みつけていた。

「お前は今日、何をしたんだい。」母は逆せ上って舌が廻りかねてるようだった。「餓鬼のくせに、わたしに嘘を云って、カフェーなんかに遊びに行って……何だと思ってそんなことをしたんだい。」

「そして一円払っていったんだよ。」と姉がつけ加えた。

「そのお銭あしを、どこから持っていったんだい。……さあ云ってごらん。云えないか。云えないだろう。この野郎……。」

返辞をする間もなく、私はそこに叩きつけられてしまった。力任せに二つ三つ殴られた。

殴ってしまうと、母は少し気が静まったようだったようだった。

「さあ、どうしてあんなとこへ行ったか、云ってごらん。お銭もどこから持っていったか、白状しておしまい。すっかり云ってしまわないと、承知しないよ。」

だが、私はしつっこく黙っていた。

母はくどくどと責め立て初めた。愚痴っぽくなったり、怒り出したりした。何のために学校へ行ってるのか、とも云った。先生に云いつけてやる、とも云った。カフェーなんか子供の行くところじゃない、とも云った。誰にそそのかされて行ったのか、とも云った。金はどこから持ち出したのか、盗んだのか、とも云った。嘘をついて瞞かしたんだから、初めから何か目論見があったに違いない、とも云った。隠し立てをして云わないようなら、外に逐い出してしまう、交番につき出してしまう、とも云った。皆がどんなに苦労してるか分ってるか、とも云った。そして、父が長年造兵に出て苦労したものも、兄がよそに奉公してるのも、上の姉が辛い勤めをしてるのも、次の姉がカフェーなんかに出てるのも、母が眼の悪いのもいとわず竹楊子の内職をしてるのも、みんな私のためだそうだった。――が私は茲に母の揚足をとるつもりではない。後で分ったことだが、母が日歩の金なんかを内々廻すようになったのも、私が少し学校が出来るものだから、私だけには立派に学問をさせたいという腹もあったらしい。

私は寝間着一枚で震えていた。母に殴られた頭や頸筋が痛むのを心で見つめていた。そして、カフェーへはただ行きたかったから行ってみた、金は自分で持っていた、とそう簡単に答えたきり、何を云われようと黙りこくっていた。

姉も母に代っていろんなことを云った。それからまた母が怒り出した。私はも一度殴りつけられた。

そしてるうちに、皆黙りこんでしまった。しいーんとなった。私は云うものか云うものかと思っていたが、気が弛んできた拍子に、お清のことが頭に映ってきた。

私はふと吃驚して顔を挙げてみた。母も姉も一度だってお清の名を口にしなかった。当然そこに持出される筈のお清のことが、皆から忘れられていた。

私は前後の考えもなく、勝ち誇ったように云ってやった。

「お清ちゃんに行ってもいいかと云ったら、いいって云うから行ったんだよ。」

母と姉とは眼を見合せた。それから母は私を見据えて云った。

「お銭もお清ちゃんから貰ったのかい。」

「うむ。」と私は答えた。

「嘘じゃないだろうね。」

「嘘じゃないよ。」

母は何だか少し安心したもののようだった。姉が得意そうに母の顔を見た。私には訳が分らなかった。

けれども、その時私は、そんなことは一度に消し飛んでしまうほど驚いた。父がじいっと私を睨みつけていた。髯の伸びかかった兇悪な方の顔付で、眼を底光らせて、探るように見つめていた。私は胸の底まで冷りとした。

その眼付が後まで胸に残っていた。殺されるかも知れないという気がした。私は父が恐ろしくなった。

私は父を恐れたために父を観察するようになった。するとやがて、父の心の秘密な動きが分ってきた。

父は時々山本屋から古釘を持ってきては、それを鉄板と金槌とで真直になおしていた。その音を母が煩さがるので、よく裏口でやっていた。

そういう時の父や、また酒を飲んでる時の父は、職に離れた如何にも気の毒な老職工だった。また炬燵にしがみついてぼんやりしてる時の父は、世間に対する不平と諦めとの中にある廃残者だった。けれども、そういう父の中から、時々、電気にでも触れるような不気味なものが覗き出した。炬燵によりかかりながら、じっと空くうを見つめて、一心に幻を追ってるような眼付になることがあった。それが、お清に出逢うと更にひどかった。お清の身体のどこといわず眼の落ちたところを、しつっこく見つめていた。その視線がじっくりと、お清の身体に絡みついてゆくようなのに、私はぞっとした。

お清自身は平気らしかった。少くとも平気らしく振舞っていた。一寸挨拶をしておいて、澄ました顔でつっ立っていた。以前の通りよくやって来た。お三代に物を持ってきてくれたり、朝は大抵お新を誘いに来た。私に対しても元通りだった。

「あんた、すっかり云っちゃったのね。お金を返されて困ったわ。」

あれから最初に顔を合せた時に彼女はそう云った。

「またカフェーに遊びに来ないの。来ちゃいけないの。」

二度目にはそう云った。

「カフェーなんかつまんないでしょう。じゃあ、あたしが隙な時、あたしの室へいらっしゃい。」

三度目にはそう云った。

然し私は、彼女と話をするのが憚られた。どこからか父が恐い眼付で覗いてるような気がした。その上、カフェーへ行ってからは、彼女の魅力がひどく薄らいでしまった。

「何か怒ってるの。ああ、紙風船を買って来ないから……。」

そう云って彼女はやさしく笑ったこともあった。

だが、彼女はいつまでも私に紙風船を買ってくれなかった。私のことなんかは殆んど念頭に置いていなかったらしい。次第に素気なくなっていった。

その代り彼女は、父の恐ろしい眼付の前に大胆になっていった。

私は或る日曜日の朝、彼女と父との様子を裏口に見た。父は古釘を叩き止めて、金槌の工合をでも見るような風に、その頭と柄とを両手でぎりぎりやっていた。が眼は、前方へ下目がちに錐のように鋭く注がれていた。そこに、一二尺のところに、お清がしゃがんでいた。そして、冷たい感じのする頬辺をして、釘箱の中をかき廻しながら、この釘は本当に真直だとか、これはまだ少し曲ってるとか云っていた。父も口の中で何とか答えをしていた。その二人の言葉は、心がまるで別なところにあるような調子に見えた。そのうちにお新が出ていった。お清は立上って、高慢ちきにつんと空を仰いだ。それが彼女の混血児顔にふさわしかった。さも何かを――父を――軽蔑しきってるような様子だった。

私は流し場で筆を洗う風をしながら、障子戸の破け穴から隙見していたが、父が一寸振向いたのでぎくりとした。父のその眼付では、何でも素通しに見透されるような気がした。

そういう時の父と、平素のぼんやりしてる時の父とが、別々のものとなって頭に映るのが、殊に私は不安だった。大きな鉄の扉をでも見るようだった。平素一方を向いてるかと思うと、ぎいーっと音を立てながら他方へ向いてしまう。もう何の余裕もなかった。

父の酒の量は俄に増していった。朝から酔っ払ってることが多かった。縁の下の酒甕だけでは間に合わなかった。外から買われることが多くなった。勿論それ迄だって、人の注意を避けるためだったろうが、酒は外から買われていた。それが俄に殖えていった。母がいくら云っても父はきかなかった。しまいには焼酎が買われるようになった。

焼酎を沢山飲んだことが、父の頭にはいけなかったらしい。眼瞼がたるんで、眼付が据ってきた。

お新が感冒の心地でカフェーを休んでると、或る日お清は、午過ぎからどこかへ出かけて、晩遅くなって戻って来た。そして、殆んど毎朝寄ってるくせに、大きな果物籠を下げてわざわざ見舞に来た。いい御馳走を食べたか酒でも飲んだかして、ぽーっと上気していた。

父は焼酎に酔っ払っていた。がお清が来ると炬燵から起き上って坐った。

お新は感冒と云っても大したことではなかった。

母はお清の見舞物に恐縮していた。そして皆で一時間ばかり話をした。ただ取留めもない世間話だった。お清は愉快そうに一人ではしゃいでいた。混血児顔を消してしまうあどけない笑いが、始終口元に浮んでいた。

父は酔ってただぼんやり坐ってるだけというように見えた。然しその眼は時々、いつぞや私が裏口で隙見した時と同じような鋭さになって、お清の顔や手足や胴体など、どこといわず落ちたところに、ぴったりくっついていって長く離れなかった。その方へまた私は、見まいとしてもじりじり気が惹きつけられていった。父が眼をつぶって顔を外らすと、私はほっと息がつけた。がそれでもやはり、父の心全体がお清の方にねじ向いてるのが感じられた。

お清は勿論父の眼付を感づいてるに違いなかった。上気してたような顔が次第に蒼白くなってゆき、あどけない笑いが消え、額のあたりが冷たそうになっていった。そしてしまいには反抗的な態度に出た。爪の色がどうだとか云ってしきりに指先を弄んだ。その手をだらりと炬燵の上に投げ出した。膝を崩してしどけない坐り方をした。わりに毛深くて困ると云って、実は毛の少いまるっこい二つの腕をまくってみせた。彼女の皮膚は非常に毛穴が小さく肉のぼってりした感じで、見ようによってはいくらか不気味だった。

それらのものを一々、父の執拗な眼付が吸い取っていった。

お清は時々かすかに身震いをして唇を噛んだ。今にも彼女が喚き出しはすまいかと思って、私はびくびくしていた。

その時、話はだんだん内証事に落ちていって、母はお清がつけ廻されてる男のことを持ち出した。その男を刑事と間違えて酒のことで心配したなどと云った。

「どうしてあんなに執念深いんでしょう、嫌になっちまうわ。」とお清はぼんやり云っていた。「だけど、あの男ばかりじゃないわ。あたし毎晩泥棒につけられてるような気がするのよ。夜中に家のまわりによく足音がして、おちおち眠られもしないことがあってよ。」

「それもやはりあの人じゃないかしら。」とお新が云った。

「そんなことないでしょう。……あたし何だか気味が悪いから、近いうちに引越そうかと思ってるの。」

それから話は家賃や室代のことになった。

その、お清が殆んどでたらめに云ったことが、強く父の注意を惹いたらしかった。父はぎくりと頭をもたげて、正面にお清を見つめ初めた。皆がその場に居合してることを忘れたかのようだった。お清は少し身を引いてもじもじしだした。混血児風の顔が石の彫刻のように見えた。そして、話半ばに突然帰っていった。

母と姉とは、彼女から貰った立派な果物を持出して、いろいろ品評し感心し合った。

お清に対する父の凝視には誰も気付かないらしかった。五十を越した失職職工がお清に夢中になろうとは、思いも寄らぬことだったに違いない。

然し私は父を責めたくはない。当時私はただ恐怖と不安とだけしか感じなかったが、今になっていろいろ考えてみると、父に同情したくなってくる。長年やり続けてきた労働を突然奪い取られてしまい、古釘なんか叩いて僅かに生理的なごまかしをつけ、その上、もう世の中に用がないという気持から、酒にばかり浸っていたところへ、何かの機会から若い女の肉体に心惹かれてゆく……。そこにはどうにもならないものがあったらしい。その上父は、元気こそ衰えていたが身体はまだ丈夫だった。私は父の心の動き方の特殊な点を考えては、父にも仕事さえあったら……とそう思わざるを得ない。寺田さんの云い草ではないが、人間には死ぬまで仕事を与えるがよいのだ。仕事を奪うことは残酷であり罪悪である。

それにしても、私は父の執拗な眼付をこまかく見て取ったことに、一種の羞恥を感ずる。私がもしお清に対して全然性的無関心でいたら、ああまで深く父の眼付が私の心に刻みこまれはしなかったろう。

私はただ胸をどきつかせてばかりいた。漠然とした不安と恐れとに押っ被されて、出来るだけ身を隠しながら見てるより外に仕方がなかった。

お三代はひどく低能だった。その代りひどくおとなしかった。そして皆から無視されがちだった。お新は夜十二時過ぎでなければ帰って来なかった。それを母は眼をしょぼしょぼさせて待っていた。母は気性はあくまでも確かだったが、眼は益々悪くなっていった。いつも目脂めやにをためてじめじめした眼付をしていた。夜は何も出来なかったけれど、昼間はせっせと内職の竹楊子を拵えていた。その惨めな仕事に時々、父のカンカンいう金槌の音が織りこまれた。が大抵は、父はもう酔っ払ってばかりいた。そして炬燵にねそべっていて、不意に飛び起きては眼をぎろぎろさしていた。

不幸なことは、お清につき纒ってる例の男が、益々執念深くなってゆくようだった。夜遅く父がむっくり起きるのを私は見たことがあった。ただ、父は初めほど戸締りを厳重にしなくなった。というよりも寧ろ、戸を開け放しておきたがってるかのようだった。私は一度も見たことのないその男に対して、さまざまの空想を逞うしながら、幽鬼にでも対するような恐怖を覚えた。

お清とお新だけが、凡てに無関心に伸び伸びと振舞っていた。大抵連れ立ってカフェーに出かけていった。が気のせいか、お清は次第に醜くなるようだった。

或る朝、顔を洗ったばかりの彼女を見て、私は吃驚した。混血児風の顔立が変に骨立って、唇に黒い皺が寄っていた。それが、日の光のさしてる窓の真中にぽかっと浮出していた。

「何をそんなに見てるの。」

彼女はそう云って弱々しい微笑を洩らした。私は飛んで行きたいのをじっと我慢した。

彼女が醜くなり陰気になるに従って、私は反対にまた彼女に惹きつけられそうだった。初め彼女に惹きつけられたのと逆の気持だった。それを私はぼんやり自分でも感じて、どうしていいか分らなかった。

そのうちに、不意に、全く不意に、最後の事件が持ち上った。

風のない少し暖かな、三月初めの夜中だった。曇っていたのか晴れていたのか、ただ星が二つ三つだけ光ってたことを私は覚えている。

何か大きな音がしたようだった。それを夢現に聞き流してまたうとうとした頃、私はいきなり母から呼び起された。喫驚して起き上ると、母は何とも云わないで裏の方へ出ていった。姉も続いて出て行った。私は一寸待ってから、ふいに駆け出した。

裏の狭い空地の中、お清の室の窓の近くに、低い椿の木の横に、寝間着のまま母と姉とお清とが立っていた。お清は裸の蝋燭を手に持っていた。そのほんのりと赤い光の流れてる地面に、起き上ろうと踠いてるような恰好をしてつっ伏しに男が一人横たわっていた。

それが父だった。私が駆けつけた時には、お新がわっと父の上に泣き伏していた。

一発を足先に、一発を脇腹に、父は二発のピストルの弾丸を受けて、血に染っていた。

父はもう意識を回復しなかった。医者が来た時は死んでいた。

事件は当時、「戸崎町の殺人」として新聞に詳しく報道された。

犯人はすぐにつかまった。頭字入りのソフト帽が現場に残っていたのと、お清やお新や母の証言があった。そして犯人の陳述は有利だった。お清を殺すつもりでつけ廻していたが、あの晩ふいに後ろから飛びつかれたので、逃げるためにピストルを放って、一つは足を狙い一つは腕を狙ったのである……。それに反対の立証は成されなかった。それでも後に、彼は七年の刑に処せられた。

私は当時新聞紙にのってる彼の写真を見て驚いた。目鼻立の整ったやさしそうな青年で、人殺しをしそうな顔ではなかった。

それから父は、盗賊を捕えようとして殺された勇敢な老人と報道された。砲兵工廠に長年勤続した模範職工とも書かれていた。お清と父との間柄は何一つ発あばかれなかった。それを知ってるのは、当事者以外では恐らく私一人だけだったろう。

父の葬式は悲しかった。警察署や裁判所などとの交渉の間に挾って、慌しく取行われた。お花も啓次も久しぶりで家にやって来た。

私は寺田さんが来てくれやしないかと思って喜んだり心配したりした。寺田さんに逢うのはその場合私の最も嬉しいことだった。然しもしやって来たら警官に捕つかまりはすまいかと心配した。

寺田さんはやって来なかった。何の便りもなかった。

私は寺田さんから貰った大きな虫眼鏡をなつかしく取出した。始終持って歩いて、いろんなものを眺めては一人心を慰めた。それをお花が不思議そうに見とがめた。

「それ、珍らしいものねえ。」

「うむ。」と私は昂然として答えた。「これで太陽を見ると、汚点しみが見えるんだ。」

太陽という言葉を口にするのが私は得意だった。

「ほんとうに見えるの。」

「見えやしないや。ぎらぎらして……。」

姉は笑った。そして、青か黒かの薄い色をレンズに塗れば眩しくない、と教えてくれた。

「日の照っている海を、虫眼鏡で見ると、そりゃあ綺麗だわよ。」

なよなよした身体付をして、舌ったるい口を利いて、家に来ても一日火鉢にばかりかじりついてるその姉を、私は何だか好きだった。母のような気持さえした。

その姉に教えられたことが私は嬉しかった。そして、どうにか太陽の黒点らしいものを見ることが出来た。

然し、それから間もなく、私の悲惨な放浪生活が初ったのである。

底本 / Source edition

底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新潮」
1926(大正15)年3月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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豊島 与志雄「黒点──――或る青年の「回想記」の一節――」(新字新仮名)、底本『豊島与志雄著作集 第二巻(小説Ⅱ)』未来社、1965年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042444_000906, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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