一

わたしの友達――著述家で哲学者である男が、ある日、冗談と真面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。

「われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかに<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>け<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>屋敷を見つけたぜ」

「ほんとうか。何が出る。……幽霊か」

「さあ、たしかな返事はできないが、僕の知っているのはまずこれだけのことだ。六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具付きのアパートメントをさがしに出て、ある閑静な町をとおると、窓に家具付き貸間という<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>が貼ってある家を見つけたのだ。場所もわれわれに適当であると思ったので、はいってみると部屋も気に入った。そこでまず一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。三日目に立ちのいてしまった。誰がどう言ったって、家内はもうその家にいるのは<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>だという。それも無理はないのだ」

「君は何か見たのか」

「別にいろいろの不思議を見たり聞いたりしたわけでもないのだが、家具のないある部屋の前を通ると、なんとも説明することの出来ない一種の<ruby><rb>凄気</rb><rt>せいき</rt></ruby>にうたれるのだ。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、その部屋で何も見えたのではなし、聞こえたのでもないが……。そこで、僕は四日目の朝、その家の番をしている女を呼んで、あの部屋は<ruby><rb>何分</rb><rt>なにぶん</rt></ruby>われわれに適当しないから、約束の一週間の終わるまでここにいることは出来ないと言い聞かせると、女は平気でこう言うのだ。

〈わたしはその<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>を知っています。それでもあなたがたはほかの人たちよりも長くいたほうです。ふた晩辛抱する人さえ少ないくらいで、三晩泊まっていたのはあなたがたが初めてです。それも恐らくあの連中があなたがたに好意を持ったせいでしょう〉

なんだかおかしな返事だから、僕は笑いながら〈あの連中とはなんだ〉と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてみると、女はまたこう言うのだ。

〈なんだか知りませんが、ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り着いている者です。わたしは遠い昔からあの連中を識っています。その頃わたしは奉公人ではなしに、ここの家に住んでいたことがあるのです。あの連中はいずれ私を殺すだろうと思っていますが、そんなことは<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>いません。わたしはこの通りの年寄りですから、どの<ruby><rb>道</rb><rt>みち</rt></ruby>やがて死ぬからだです。死ねばあの連中と一緒になって、やはりこの家に住んでいることが出来るのです〉

いや、どうも驚いたね。女はそんなことを実に怖ろしいほど平気で話しているのだ。僕は薄気味が悪くなって、もう何も話す元気がなくなったので、<ruby><rb>早</rb><rt>そう</rt></ruby>そうに立ち去ってしまった。もちろん約束通りに一週間分の<ruby><rb>間代</rb><rt>まだい</rt></ruby>を払って来たが、そのくらいのことで逃げ出せれば<ruby><rb>廉</rb><rt>やす</rt></ruby>いものさ」

「不思議だね」と、わたしは言った。「そう聞くと、僕はぜひその化け物屋敷に寝てみたいよ。君が不名誉の退却をしたという、その家のありかを<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だから教えてくれないか」

友達はそのありかを教えてくれた。彼に別れたのち、わたしはまっすぐにかの化け物屋敷だという家へたずねて行くと、その家はオックスフォード・ストリートの北側で、陰気ではあるが<ruby><rb>家並</rb><rt>やなみ</rt></ruby>の悪くない抜け道にあったが、家はまったく<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>め切って、窓に貸間の札もみえない。戸を叩いても返事がない。仕方がなしに引っ返そうとすると、となりの空地にビールの配達が白い金属の<ruby><rb>鑵</rb><rt>かん</rt></ruby>をあつめていて、わたしのほうを見かえりながら声をかけた。

「あなたはそこの家で誰かをお<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねなさるんですか」

「むむ。貸家があるということを聞いたので……」

「貸家ですか。そこはＪさんが雇い婆さんに一週間一ポンドずつやって、窓の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てをさせていたんですがね。もういけませんよ」

「いけない。なぜだね」

「その家は何かに<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>られているんですよ。雇い婆さんは眼を大きくあいたままで、寝床のなかに死んでいたんです。世間の評判じゃあ、化け物に<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>め殺されたんだと言いますが……」

「ふむう。そのＪさんというのは、この家の持ち主かね」

「そうです」

「どこに住んでいるね」

「Ｇ町です」と、配達はその番地をも教えてくれた。

わたしは彼にいくらかの心付けをやって、それから教えられた所へたずねて行くと、主人のＪ氏は都合よく在宅であった。Ｊ氏はもう初老を過ぎた人で、理智に富んでいるらしい風貌と、人好きのするような態度をそなえていた。

正直に自分の姓名と職業とを明かした上で、わたしはかの貸間の家に何かの祟りがあるらしく思われるということを話した。そうして、わたしはぜひその家を探険してみたいから、ひと晩でもいいからどうぞ貸してくれまいか。それを承知してくれれば、お望み通りの金を払うと言った。

Ｊ氏はそれに対して、非常に丁寧に答えた。

「よろしゅうございます。あなたのご用の済むまでお貸し申しましょう。家賃などはどうでもかまいません。あの婆さんは<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>なしの貧乏人で養育院にいたのを、わたしが引き取って来たのです。あの婆さんは子供の時にわたしの家族のある者と知り合いであったと言いますし、またその以前は都合がよくって、わたしの叔父からあの家を借りて住んでいたこともあるというので、それらの関係からわたしが引き取って番人に雇っておいたのですが、可哀そうに三週間前に死んでしまいました。あの婆さんは高等の教育もあり、気性もしっかりした女で、わたしが今まで連れて来た番人のうちで無事にあの家に踏みとどまっていたのは、あの女ばかりでした。それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、検視が来るなどという騒ぎになって、近所でもいろいろの<ruby><rb>忌</rb><rt>いや</rt></ruby>な噂を立てます。したがって、そのかわりの番人を見つけるのも困難ですし、もちろん借り手もあるまいと思いますから、今後一年間はその人がすべての税金さえ納めてくれればいいという約束で、<ruby><rb>無代</rb><rt>ただ</rt></ruby>で誰にでも貸そうと考えているのです」

「いったい、いつごろからそんな評判が立つようになったのです」

「それは確かには申されませんが、もうよほど以前からのことです。<ruby><rb>唯今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>お話し申した婆さんが借りていた時、すなわち三十年前から四十年前のあいだだそうですが、すでにそのころから怪しいことがあったといいます。わたしが覚えてからでも、あの家に三日とつづけて住んでいた人はありません。その怪談はいろいろですから、いちいちにそのお話をすることは出来ませんし、また、そのお話をしてあなたに何かの予覚をあたえるよりも、あなた自身があの家へ入り込んで直接にご判断なさるほうがよろしかろうと思います。ただ、なにかしら見えるかもしれない、聞こえるかもしれないというお覚悟で、あなたがご随意に警戒をなさればよろしいのです」

「あなたはあの家に、一夜を明かそうというような好奇心をお持ちになったことはありませんか」

「一夜を明かしたことはありませんが、真っ昼間に三時間ほど、たった一人であの家のなかにいたことがあります。わたしの好奇心は満足されませんでしたが、その好奇心も消滅して、ふたたび経験を新たにする気も出なくなりました。と申したら、なぜ十分に探究しないかとおっしゃるかもしれませんが、それにはまた<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるのです。そこで、あなたもこの一件について非常に興味を持ち、また、あなたの神経が非常に強いというのであれば格別、さもなければあの家で一夜を明かすということは、まあ、お考えになったほうがよろしくはないかと思います」

「いや、わたしは非常の興味を持っているのです」と、私は言った。「臆病者はともかくも、わたしの神経はいかなる危険にも馴れています。化け物屋敷でも驚きません」

Ｊ氏も深くは言わないで、<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>から鍵をとり出して私に渡してくれた。その<ruby><rb>腹蔵</rb><rt>ふくぞう</rt></ruby>のない態度にわたしは<ruby><rb>衷心</rb><rt>ちゅうしん</rt></ruby>から感謝し、また、わたしの希望に対して紳士的の許可をあたえてくれたことをも感謝して、わたしは自分の望むものを手に入れることになった。そうなると気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くので、わたしはひとまず我が家へ戻るやいなや、日ごろ自分が信用しているＦという雇い人を呼んだ。彼は年も若いし、快活で、物を恐れぬ性質で、わたしの知っている中では最も迷信的の<ruby><rb>偏見</rb><rt>へんけん</rt></ruby>などを持っていない人間であった。

「おい、おまえも覚えているだろう」と、わたしは言った。「ドイツにいるときに、古い城のなかへ首のない化け物が出るというので、その幽霊を見つけに行ったところが、何事もないので失望したことがある。ところが、今度はお望み通り、ロンドンの市中で確かに化け物の出る家のあることを聞いたのだ。おれは今夜そこへ泊まりに行くつもりだ。おれの聞いたところによると、そこの家には確かに何かが見えるか聞こえるかするのだ。その何かがすこぶる怖ろしい物らしい。そこで、おまえが一緒に行ってくれれば、何事が起こっても非常に気丈夫だと思うのだが、どうだろう」

「よろしい、旦那。わたくしをお連れください」と、彼は歯をむき出して愉快そうに笑った。

「では、ここにその<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>の鍵がある。これがその所在地だ。これを持ってすぐに行って、おまえのいいと思う部屋へおれの寝床を用意しておいてくれ。それから幾週間も<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>になっていたのだから、ストーブの火をよくおこしてくれ。寝床へも空気を入れるようにしてくれ。もちろん、そこに<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>や<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き物があるかどうだか見てくれ。おれの<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>と<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>も持って行ってくれ。おれの武器はそれでたくさんだ。おまえも同じように武装して行け。たとい一ダースの幽霊が出て来たからといって、それと勝負をすることが出来ないようでは、英国人のつらよごしだぞ」

しかし、私は非常に差し迫った仕事をかかえているので、その日の残りの時間は<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らその仕事についやさなければならなかった。わたしは自分の名誉を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けたる今夜の冒険について、あまり多く考える<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>を持たないほどに<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しく働いた。わたしは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ遅くなってから、ただひとりで夕飯を食った。食うあいだに何か読むのが私の習慣であるので、わたしはマコーレーの論文の一冊を取り出した。そうして、今夜はこの書物をたずさえて行こうと思った。マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も実生活に触れているので、今夜のような場合には、迷信的空想に対する一種の<ruby><rb>解毒剤</rb><rt>げどくざい</rt></ruby>の役を勤めるであろうと考えたからである。

午後九時半頃に、かの書物をポケットへ押し込んで、わたしは化け物屋敷の方へぶらぶらと歩いて行った。わたしはほかに一匹の犬を連れていた。それは敏捷で、大胆で、勇猛なるブルテリア種の犬で、鼠をさがすために薄気味のわるい路の隅や、暗い<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>などを夜歩きするのが大好きであった。かれは幽霊狩りなどには最も適当の犬であった。

時は夏であったが、身にしむように冷えびえする夜で、空はやや暗く曇っていた。それでも月は出ているのである。たといその光りが弱く曇っていても、やはり月には相違ないのであるから、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>を過ぎて雲が散れぱ、明かるくなるであろうと思われた。

かの家にゆき着いて戸をたたくと、わたしの雇い人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎えた。

「支度は万事できています。すこぶる上等です」

それを聞いて、わたしはむしろ失望した。

「何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか」

「なんだか変な音を聞きましたよ」

「どんなことだ、どんなことだ」

「わたくしのうしろをぱたぱた通るような<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」

「<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなかったか」

「ちっとも……」

こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。

わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をして<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>ったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とＦのあとについて来たが、いつもは<ruby><rb>見識</rb><rt>みし</rt></ruby>らない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>にこすりついて来るのであった。

私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒の<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>がころがっているのを見つけた。その罎には<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと<ruby><rb>煤煙</rb><rt>ばいえん</rt></ruby>とのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。

わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。

わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってＦに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>の跡であるということは私たちにも認められた。

この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、Ｆは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。

「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。

そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいて<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えた。

Ｆはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白い<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>のようなものが現われた。その<ruby><rb>輪郭</rb><rt>りんかく</rt></ruby>は人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。

「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。

Ｆはその通りにしたが、急に振りむいて言った。

「あなたですか。そんなことをしたのは……」

「わたしが……。何をしたというのだ」

「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」

「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その<ruby><rb>手妻</rb><rt>てづま</rt></ruby>はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」

しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>も<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアに<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>をおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。

Ｆがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからＦの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。

次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段の<ruby><rb>昇</rb><rt>あが</rt></ruby>り場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。

寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶい<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。

これでまず家じゅうの<ruby><rb>見分</rb><rt>けんぶん</rt></ruby>を終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたＦは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。

「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」

その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Ｆもつづいた。

そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱と<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>のたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の<ruby><rb>鎧戸</rb><rt>よろいど</rt></ruby>はとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。

私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。

二

私はここに初めて一種の言い知れない恐怖のきざして来るのを覚えたが、Ｆはそうではなかった。

「われわれを<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に掛けようなどとは<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>なことです。こんな薄っぺらなドアなどは、わたしの足で一度蹴ればすぐにこわれます」

「おまえの手であくかどうだか、まず<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>してみろ」と、わたしも勇気を振るい起こして言った。「その間におれは鎧戸をあけて、外に何があるか見とどけるから」

わたしは鎧戸の<ruby><rb>貫木</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>をはずすと、窓は前にいった裏庭にむかっているが、そこには張り出しも何もないので、切っ立てになっている壁を降りる<ruby><rb>便宜</rb><rt>よすが</rt></ruby>もなく、庭の敷石の上へ落ちるまでのあいだに足がかりとするような物は見あたらなかった。

Ｆはしばらくドアをあけようと試みていたが、それがどうにもならないので、わたしの方へ振りむいて、もうこの上は暴力を用いてもいいかと聞いた。

彼が迷信的の恐怖に打ち<ruby><rb>克</rb><rt>か</rt></ruby>って、こういう非常の場合にも沈着で快活であることは、実にあっぱれとも言うべきで、わたしはいろいろの意味において、いい味方を連れて来たことを祝さなければならなかった。そこで、わたしは喜んで彼の申しいでを許可したが、いかに彼が勇者であってもその力は弱いものと見えて、どんなに蹴ってもドアはびくともしなかった。

彼はしまいには息が切れて、蹴ることをあきらめたので、わたしが立ち代ってむかったが、やはりなんの効もなかった。それをやめると、ふたたび一種の恐怖がわたしの胸にきざして来たが、今度はそれが以前よりもぞっとするような、根強いものであった。

そのとき私は、ささくれ立った<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の裂け目から何だか奇怪な物凄いような煙りが立ち昇って来て、人間には有害でありそうな毒気が次第に充満するのを見たかと思うと、ドアはさながら我が意思をもって働くように、またもやしずかにあいたので、監禁を<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>された二人は<ruby><rb>早</rb><rt>そう</rt></ruby>そうに階段のあがり場へ逃げ出した。

一つの大きい青ざめた光り――人間の形ぐらいの大きさであるが、形もなくて、ただふわふわしているのである。それが私たちの方へ動いて来て、あがり場から屋根裏の部屋へつづいている階段を昇ってゆくので、私はその光りを追って行った。Ｆもつづいた。

光りは階段の右にある小さい部屋にはいったが、その入り口のドアはあいていたので、私もすぐ<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>からはいると、その光りはうず巻いて、小さい玉になって、非常に明かるく、あたかも生けるがごとくに輝いて、部屋の隅にある寝台の上にとどまっていたが、やがて<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるように消えてしまったので、私たちはすぐにその寝台をあらためると、それは奉公人などの住む屋根裏の部屋には珍らしくない<ruby><rb>半天蓋</rb><rt>はんてんがい</rt></ruby>の寝台であった。

寝台のそばに立っている<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>戸棚の上には絹の古いハンカチーフがあって、その<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びを縫いかけの針が残っていた。ハンカチーフはほこりだらけになっていたが、それは恐らく先日ここで死んだという婆さんの物で、婆さんはここを自分の寝床にしていたのであろう。

わたしは多大の好奇心をもって抽斗をいちいちあけてみると、そのなかには女の着物の切れっぱしと二通の手紙があって、手紙には色のさめた細い黄いろいリボンをまきつけて結んであった。わたしは勝手にその手紙を取りあげて自分の物にしたが、ほかには何も注意をひくような物は発見されなかった。

かの光りは再び現われなかったが、二人が引っ返してここを出るときに、ちょうどわたしたちの前にあたって、床をぱたぱたと踏んでゆくような<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がきこえた。私たちはそれから都合<ruby><rb>四間</rb><rt>よま</rt></ruby>の部屋を通りぬけてみたが、かの跫音はいつも二人のさきに立って行く。しかもその形はなんにも見えないで、ただその跫音が聞こえるばかりであった。

わたしはかの二通の手紙を手に持っていたが、あたかも階段を降りようとする時に、何ものかが私の<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をとらえたのを明らかに感じた。そうして、わたしの手から手紙を取ろうとするらしいのを軽く感じたが、私はしっかりとつかんで放さなかったので、それはそのままになってしまった。

二人は私のために設けられている以前の寝室に戻ったが、ここで私は自分の犬が私たちのあとについて来なかったことに気がついた。犬は火のそばに<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り付いてふるえているのであった。

私はすぐにかの手紙をよみ始めると、Ｆはわたしが命令した通りの武器を入れて来た小さい箱をあけて、<ruby><rb>短銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>と<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を取り出して、わたしの寝台の頭のほうに近いテーブルの上に置いた。そうして、かの犬をいたわるように<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でていたが、犬は一向にその相手にならないようであった。

手紙は短いもので、その日付けによると、あたかも三十五年前のものであった。それは明らかに情人がその情婦に送ったものか、あるいは夫が若い妻に宛てたものと見られた。文章の調子ばかりでなく、以前の旅行のことなどが書いてあるのを<ruby><rb>参酌</rb><rt>さんしゃく</rt></ruby>してみると、この手紙の書き手は船乗りであって、その文字の綴り方や書き方をみると、彼はあまり教育のある人物とは思われなかったが、しかも言葉そのものには力がこもっていて、あらっぽい強烈な愛情が満ちていた。しかし、そのうちのそこここに何らかの暗い不可解の点があって、それは愛情の問題ではなく、ある犯罪の秘密を暗示しているように思われた。すなわち、その一節にこんなことが書いてあったのを、私は記憶していた。

――すべてのことが発覚して、すべての人がわれわれを<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り憎んでも、たがいの心は変わらないはずだ――

――けっして他人をおまえと同じ部屋に寝かしてはならないぞ。夜なかにおまえがどんな寝言を言わないとも限らない――

――どんなことがあっても、われわれの破滅にはならない。死ぬ時が来れば格別、それまではなんにも恐れることはない――

それらの文句の下に、それよりも上手な女文字で「その通りに」と書き入れてあった。そうして、最後の日付けの手紙の終わりには、やはり同じ女文字で「六月四日、海に死す。その同じ日に――」と書き入れてあった。わたしは二通の手紙を下に置いて、それらの内容について考え始めた。

そういうことを考えるのは、神経を不安定にするものだとは思いながら、わたしは今夜これからいかなる不思議に出逢おうとも、それに対抗するだけの決心は十分に固めていた。

わたしは<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがって、かの手紙をテーブルの上に置いて、まだ<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んに輝いている火をかきおこして、それにむかってマコーレーの論文集をひらいて、十一時半頃まで読んだ。それから着物のままで寝台へのぼって、Ｆにも自分の部屋へさがってもよいと言い聞かせた。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、今夜は起きていろ、そうして私の部屋との間のドアをあけておけと命じた。

それから私は一人になって、寝台の枕もとのテーブルに二本の蝋燭をともした。二つの武器のそばに懐中時計を置いて、ふたたびマコーレーを読み始めると、わたしの前の火は明かるく燃えて、犬は<ruby><rb>爐</rb><rt>ろ</rt></ruby>の前の敷物の上に眠っているらしく寝ころんでいた。二十分ほど過ぎたころに、<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もる風が不意に吹き込んで来たように、ひどく冷たい空気がわたしの頬を撫でたので、もしやあがり場に通じている右手のドアがあいているのではないかと見返ると、ドアはちゃんとしまっていた。さらに左手をみかえると、蝋燭の火は風に吹かれたように揺れていた。それと同時に、テーブルの上にある時計がしずかに、眼にみえない手につかみ去られるように消え失せてしまった。

わたしは片手に短銃、かた手に匕首を持って<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び起きた。時計とおなじように、この二つの武器をも奪われてはならないと思ったからである。こう用心して床の上を見まわしたが、どこにも時計は見えなかった。このとき枕もとでしずかに、しかも大きく叩く音が三つ聞こえた。

「旦那。あなたですか」と、次の部屋でＦが呼びかけた。

「いや、おれではない。おまえも用心しろ」

犬は今起きあがって、からだを立てて坐った。その耳を左右に早く動かしながら、不思議な眼をして私を見つめているのが、わたしの注意をひいた。犬はやがてしずかに身を起こしたが、なおまっすぐに立ったままで、<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>の毛を<ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>たせながら、やはりあらあらしい眼をして私をじっと見つめていた。しかも、私は犬のほうなどを詳しく検査している<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>はなかった。Ｆがたちまちに自分の部屋からころげ出して来たのである。

人間の顔にあらわれた恐怖の色というものを、私はこのときに見た。もし往来で突然出逢ったならば、おそらく自分の雇い人とは認められないであろうと思われるほどに、Ｆの<ruby><rb>相好</rb><rt>そうごう</rt></ruby>はまったく変わっていた。彼はわたしのそばを足早に通り過ぎながら、あるかないかの低い声で言った。

「早くお逃げなさい、お逃げなさい。わたしのあとからついて来ます」

彼はあがり場のドアを押しあけて、むやみに外へ駈け出すので、わたしは待て待てと呼び戻しながら続いて出ると、Ｆはわたしを見返りもせずに、階段を<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね降りて、手摺りに取りついて、一度に幾足もばたばたさせながら、あわてて逃げ去った。わたしは立ちどまって耳を澄ましていると、表の入り口のドアがあいたかと思うと、またしまる音がきこえた。頼みのＦは逃げてしまって、私はひとりでこの化け物屋敷に取り残されたのである。

ここに踏みとどまろうか、Ｆのあとを追って出ようかと、わたしもちょっと考えたが、わたしの自尊心と好奇心とが卑怯に逃げるなと命じたので、わたしは再び自分の部屋へ引っ返して、寝台の方へ警戒しながら近づいた。なにぶんにも不意撃ちを食ったので、Ｆがいったい何を恐れたのか、私にはよく分からなかったのである。もしやそこに隠し戸でもあるかと思って、わたしは再び壁を調べてみたが、もちろんそんな形跡もないばかりか、にぶい褐色の紙には継ぎ目さえも見いだされなかった。してみると、Ｆをおびやかしたものは、それが何物であろうとも、わたしの寝室を通って進入したのであろうか。わたしは内部の部屋のドアに錠をおろして、何か来るかと待ち構えながら、爐の前に立っていた。

このとき私は壁の隅に犬の<ruby><rb>滑</rb><rt>のめ</rt></ruby>り込んでいるのを見た。犬は無理にそこから逃げ路を見つけようとするように、からだを壁に押しつけているので、わたしは近寄って呼んだ。

哀れなる動物はひどい恐怖に襲われているらしく、歯をむき出して、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>からよだれを垂らして、わたしが<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>にさわったらばすぐに<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>みつきそうな様子で、主人のわたしをも知らないように見えた。動物園で<ruby><rb>大蛇</rb><rt>だいじゃ</rt></ruby>に呑まれようとする兎のふるえてすくんだ様子を見たことのある人には、誰でも想像ができるに相違ない。わたしの犬の姿はあたかもそれと同様であった。いろいろに<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めても<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>しても無駄であるばかりか、恐水病にでも<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>っているようなこの犬に咬みつかれて、なにかの毒にでも感じてはならないと思ったので、わたしはかれを打ち捨てて、爐のそばのテーブルの上に武器を置いて、椅子に腰をおろして再びマコーレーを読み始めた。

やがて読んでいる書物のページと<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>とのあいだへ何か邪魔にはいって来たものがあるらしく、紙の上が薄暗くなったので、わたしは仰いで見まわすと、それはなんとも説明し難いものであった。それは、はなはだ朦朧たる黒い影で、明らかに人間の形であるともいえないが、それに似た物を探せばやはり人間の形か影かというのほかはないのであった。それが周囲の空気や燈火から離れて立っているのを見ると、その面積はすこぶる大きいもので、頭は天井にとどいていた。それをじっと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいると、わたしは身にしみるような寒さを感じたのである。その寒さというものがまた格別で、たとい氷山がわたしの前にあってもこうではあるまい。氷山の寒さのほうがもっと物理的であろうと思われた。しかも、それが恐怖のための寒さでないことは私にも分かっていた。

わたしはその奇怪な物を睨みつづけていると、自分にも確かにはいえないが、二つの眼が高いところから私を見おろしているように思われた。ある一瞬間には、それがはっきりと見えるようで、次の瞬間にはまた消えてしまうのであるが、ともかくも青いような、青白いような二つの光りが暗い中からしばしばあらわれて、半信半疑のわたしを照らしていた。わたしは口をきこうと思っても、声が出ない。ただ、これが怖いか、いや怖くはないと考えるだけであった。つとめて<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがろうとしても、支え難い力におしすくめられているようで起つことが出来ない。わたしは私の意思に反抗し、人間の力を圧倒するこの大いなる力を認めないわけにはいかなかった。物理的にいえば、海上で暴風雨に出逢ったとか、あるいは大火災に出逢ったとかいうたぐいである。精神的にいえば、何か怖ろしい野獣と闘っているか、あるいは大洋中で<ruby><rb>鱶</rb><rt>ふか</rt></ruby>に出逢ったとでもいうべきである。すなわち、わたしの意思に反抗する他の意思があって、その強い程度においては<ruby><rb>風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>のごとく、火のごとく、その実力においてはかの鱶のごときものであった。

こういう感想がだんだんにたかまると、なんともいえない恐怖が湧いて来た。それでも私は自尊心――勇気ではなくとも――をたもっていて、それは外部から自然に襲って来る怖ろしさであって、わたし自身が怖れているのではないと、心のうちで言っていた。わたしに直接危害を加えないものを恐れるはずはない。わたしの理性は妖怪などを承認しないのである。いま見るものは一種の幻影に過ぎないと思っていた。

一生懸命の力を振るい起こして、わたしはついに自分の手を伸ばすことが出来た。そうして、テーブルの上の武器をとろうとする時、突然わたしの肩と腕に不思議の攻撃を受けて、わたしの手は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐたり</span>となってしまった。そればかりでなく、蝋燭の火が消えたというのでもないが、その光りは次第に衰えて来た。爐の火も同様で、焚き物のひかりは吸い取られるように薄れて来て、部屋の中はまったく暗くなった。この暗いなかで、かの「黒い物」に威力を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>われてはたまらない。わたしの恐怖は絶頂に達して、もうこうなったら気を失うか、<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>るかのほかはなかった。わたしは呶鳴った。一種の悲鳴に近いものではあったが、ともかくも呶鳴った。

「恐れはしないぞ。おれの魂は恐れないぞ」と、こんなことを呶鳴ったように記憶している。

それと同時に私は<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがった。真っ暗のなかを窓の方へ突進して、カーテンを引きめくって、<ruby><rb>鎧戸</rb><rt>よろいど</rt></ruby>をはねあけた。まず第一に外部の光線を入れようと思ったのである。外には月が高く明かるく懸かっているのを見て、わたしは今までの恐怖を忘れたように嬉しく感じた。空には月がある。眠った街にはガス燈の光りがある。わたしは部屋の方を振り返ってみると、月の影はそこへもさし込んで、その光りははなはだ青白く、かつ一部分ではあったが、ともかくもそこらが明かるくなっていた。かの黒い物はなんであったか知らないが、形はもう消えてしまって、正面の壁にその幽霊かとも見えるような薄い影をとどめているのみであった。

わたしは今、テーブルの上に眼を配ると、テーブル――それにはクロスもカヴァーもない、マホガニーの木で作られた円い古いテーブルであった――の下から一本の手が<ruby><rb>臂</rb><rt>ひじ</rt></ruby>のあたりまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬう</span>と出て来た。その手は私たちの手のように血や肉の多くない、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけの、小さい手で、おそらく老人、ことに女の手であるらしく思われたが、そろりそろりと伸びて来て、テーブルの上にある二通の手紙に近づいたかと見るうちに、その手も手紙も共に消えうせた。

この時さっき聴いたと同じような、物を撃つ音が大きく三度ひびいた。その音がしずかにやむと、この一室が震動するように感じられて、床の上のそこからもここからも、光りの泡のような火花と火の玉があらわれた。それは緑や黄や、火のごとく<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>いのや、空のごとく薄青いのや、いろいろの色をなしているのであった。椅子は誰が動かすともなしに壁ぎわを離れて、寝台の正面に直されたかと思うと、女の形がそこにあらわれた。それは死人のように物凄いものではあったが、生きている者の形であるらしく明らかに認められた。

それは悲しみを含んだ若い美人の顔であった。身には雲のように白いローブ（長いゆるやかな着物）をまとって、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から肩のあたりは<ruby><rb>露出</rb><rt>あらわ</rt></ruby>になっていた。女は肩に垂れかかる長い黄いろい髪を<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>きはじめたが、私のほうへは眼もくれずに、耳を傾けるような、注意するような、待つような態度で、ドアの方を見つめていると、うしろの壁に残っている「黒い物」の影はまた次第に濃くなって、その頭にある二つの眼のようなものが女の姿を窺っているらしくも思われた。

ドアはしまっているのであるが、あたかもそこからはいって来たように、他の形があらわれた。それも女とおなじくはっきりしていて、同じく物凄く見えるような、若い男の顔であった。男は前世紀か、またはそれに似たような服を着ていたが、その<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の付いた襟や、レースや、帯どめの<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>をこらした旧式の美しい服装が、それを着ている死人のような男と不思議の対照をなして、いかにも奇怪に、むしろ怖ろしいようにも見られた。

男の形が女に近づくと、壁の黒い影も動き出して来て、この三つがたちまちに暗いなかに包まれてしまったが、やがて青白い光りが再び照らされると、男と女の二つの幽霊は、かれらのあいだに突っ立っている大きい黒い影につかまれているように見えた。女の胸には血のあとがにじんでいた。男は剣を杖にして、これもその胸のあたりから血がしたたっていた。黒い影はかれらを<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで、いずれも皆そのままに消えてしまうと、以前の火の玉がまたあらわれて、走ったり<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がったりしているうちに、だんだんにそれが濃くなって、さらに激しく入り乱れて動いた。

三

<ruby><rb>爐</rb><rt>ろ</rt></ruby>の右手にある化粧室のドアがあいて、その口からさらに老婆の形があらわれた。老婆はその手に二通の手紙を持っていた。また、そのうしろに<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が聞こえるようであった。老婆は耳を傾けるように振り返ったが、やがてかの手紙をひらいて読みはじめると、その肩越しに<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた顔がみえた。それは水中に長く沈んでいた男の顔で、<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れて、白ちゃけて、その濡れしおれた髪には<ruby><rb>海藻</rb><rt>かいそう</rt></ruby>がからみついていた。そのほかにも、老婆の足もとには死骸のような物が一つ横たわっていて、その死骸のそばには、またひとりの子供がうずくまっていた。子供はみじめな<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>い姿で、その頬には<ruby><rb>饑餓</rb><rt>きが</rt></ruby>の色がただよい、その眼には恐怖の色が浮かんでいた。

老婆は手紙を読んでいるうちに、顔の皺が次第に消えて、若い女の顔になった。けわしい眼をした<ruby><rb>残忍</rb><rt>ざんにん</rt></ruby>の<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>ではあるが、ともかくも若い顔になったのである。するとまたここへ、かの黒い影がおおって来て、前のごとくにかれらを暗いなかへ包み去った。

今はかの黒い影のほかには、この室内になんにも怪しい物はないので、わたしは眼を据えて、じっとそれを見つめていると、その影の頭にある二つの眼は、毒どくしい<ruby><rb>蟒蛇</rb><rt>うわばみ</rt></ruby>の眼のように大きく飛び出して来た。火の玉は不規則に混乱して、あるいは舞いあがり、あるいは舞いさがり、その光りは窓から流れ込む淡い月の光りにまじりながら狂い騒いでいた。

そのうちに<ruby><rb>鶏卵</rb><rt>たまご</rt></ruby>の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>から出るように、火の玉の一つ一つから驚くべき物が爆発して、空中に充満した。それは血のない醜悪な幼虫のたぐいで、わたしには<ruby><rb>到底</rb><rt>とうてい</rt></ruby>なんとも説明のしようがない。一滴の水を顕微鏡でのぞくと、無数の透明な、柔軟な、敏捷な物がたがいに追いまわし、たがいに喰い合っているのが見える。今ここにあらわれた物もまずそんな種類で、肉眼ではほとんど見分け難いものであると思ってもらいたい。その形になんの<ruby><rb>均一</rb><rt>きんいつ</rt></ruby>があるわけでもなく、その行動になんの規律があるわけでもなく、居どころも定めずに飛びまわって、私のまわりをくるくると舞いはじめた。

その集団はだんだんに濃密になって、その廻転はだんだんに急激になって、わたしの頭の上にもむらがって来た。何かの用心に突き出している私の右手の上にも這いあがって来た。時どきに何かさわるように感じたが、それはかれらの<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>でなく、眼にみえない手が私にさわるのであった。またある時には、冷たい柔らかい手がわたしの<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をなでるように感じたこともあった。

ここで恐れをいだいて降参すると、わたしのからだに危険があると思ったので、私はかれらに対抗するという一点にわたしの心力を集中して、かの<ruby><rb>蟒蛇</rb><rt>うわばみ</rt></ruby>のような眼――それはだんだんにはっきりと見えて来た――から私の眼をそむけた。わたしの周囲にはもう何物もいないのであるが、ここになお一つの「意志」がある。それは力強く、創造的で、かつ活動力に富むところの「悪」の意志であって、その力はよく私を<ruby><rb>圧伏</rb><rt>あっぷく</rt></ruby>し得るのであった。

部屋のなかの青白い空気は、今や近火でもあるように<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くなって、かの幼虫の群れは火のなかに<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む物のようにきらきらと光って来た。月のひかりはふるえて動いた。物を撃つような音がまたもや三度きこえたかと思うと、すべての物がかの黒い影に呑まれて、さらにまた大いなる<ruby><rb>暗黒</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>のうちに隠れてしまったが、やがてその暗黒が<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>くと共に、黒い影もまったく消え失せて、今まで光りを奪われていたテーブルの上の蝋燭の火は再びしずかに明かるくなった。爐の火も再び燃えはじめた。この室内は再びもとの平穏の姿に立ちかえった。

二つのドアはなおしまったままで、Ｆの部屋へ通ずるドアにも錠をおろしてあった。壁の隅には、かの犬が追い込まれて、<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>したように横たわっているので、わたしは試みに呼んでみたが、犬はなんの答えもなかった。さらに近寄ってよく観ると、眼の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>は飛び出して、口からは舌を吐いて、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>からは泡をふいて、犬はもう死んでいるのであった。

わたしはかれを抱きあげて火のそばへ連れて来たが、哀れなる愛犬の死について、強い悲哀と強い自責とを感ぜずにはいられなかった。私がかれを死地へ連れ込んだのである。最初は恐怖のために死んだのであろうと想像していたが、その<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>の骨が実際に<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれているのを発見して、わたしはまた驚いた。それが暗中になされたとすれば、それは私のような人間の手によってなされなければなるまい。して見ると、最初から終わりまでこの室内に人間が働いていたのであろうか。それについて何か疑わしい形跡があるであろうか。私はこの以上に何事をも詳しく語ることが出来ないのであるから、よろしく読者の推断に任せるのほかはない。

もう一つ驚くべきは、さっき不思議に紛失した私の懐中時計がテーブルの上に戻っていた。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、あたかもそれが紛失した時刻のところで、時計の針は止まっているのである。その後、上手な時計屋へ持って行って幾度も修繕してもらったが、いつも数時間の後には針の廻転が妙に不規則になって、結局は止まってしまうことになるので、その時計はとうとう廃物になった。

その後はもう変わったことはなかった。わたしは夜のあけるまで待っていたが、何事もなかった。日が出て、世間が昼になって、わたしがこの家を立ち去るまで、もう何事もなかったのである。

いよいよここを立ち去る前に、わたしとＦとが監禁された部屋、窓のない部屋へ再びはいってみた。奇異なる事件の機械的作用――もしこんな言葉があるならば――を作り出したこの部屋へ今や白昼に踏み込んで、ゆうべの怖ろしさを再び思い出すと、わたしは一刻もここに立っているに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えられないので、早そうに階段を降りかかると、またもやわたしのさきに立ってゆく<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がきこえた。そうして、表の入り口のドアをあけた時に、うしろでかすかな笑い声がきこえたようにも思われた。

わたしは自分の家へ帰った。ゆうべ逃亡した雇い人は定めて顔を見せるだろうと思いのほか、Ｆはどこへ行ってしまったか、一向にその消息が分からないのであった。三日の後にリヴァプールからの手紙が来た。

先夜はご覧の通りの始末で、なんとも申しわけがございません。わたくしが本当に回復するにはこれから一年以上もかかるだろうと存じますから、もちろん今後のご奉公は出来ません。わたくしはこれからメルボルンにいる義兄弟のところへ尋ねて行くつもりで、その船は明日出帆いたします。長い航海をつづけているうちには、わたくしも気がしっかりして来るであろうと存じます。なにしろ<ruby><rb>唯今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>のところでは恐怖と戦慄があるばかりで、怖ろしい物が常に自分のうしろに付きまとっているように思われてなりません。それからはなはだ恐れ入りますが、わたくしの衣類や荷物のたぐいは、ウォルウォースにいるわたくしの母のところへお届けを願います。母の住所はジョンが知っております。――

手紙の終わりには、なおいろいろの弁解が付け加えてあって、やや<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>の合わない点もあるが、筆者はすこぶる注意して書いたらしく、くどくどと<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べ立ててあった。本人はかねて<ruby><rb>濠州</rb><rt>ごうしゅう</rt></ruby>へ行きたい希望があったので、それをゆうべの事件に結び付けて、こんな<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え事をしたのではないかとも疑われるが、私はそれについてなんにも言わない。むしろ世間には信ずべからざることを信ずる人がたくさんあって、彼もその一人であろうと思った。いずれにしても、この事件に対するわたしの信念と推理は動かないのである。

夕方になって、わたしは貸馬車を雇って再びかの化け物屋敷へ行った。そこへ置いて来たわたしの物と、死んだ犬の<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>とを引き取るためであったが、今度は別になんの邪魔もなかった。ただその階段を昇り降りするときに、例の跫音を聞いたほかには、わたしの注意にあたいするような出来事もなかった。

そこを出て、さらに家主のＪ氏をたずねると、彼はあたかも在宅であった。わたしは鍵を返した上で、わたしの好奇心は十分に満足したことを話した。そうして、ゆうべの出来事を口早に話しかけると、Ｊ氏はそれをさえぎって、しょせん誰にも解決のつかないような怪談について、自分は<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>興味を持たないと丁寧にことわった。しかし、かの二通の手紙の事と、またそれが不思議に消え失せたことだけは報告しておかなければならないと思ったので、わたしはＪ氏にむかって、かの手紙は、かの家で死んだ老婆に宛てたものであると考えられるが、かの老婆が過去の経歴のうちには手紙にあらわれているような暗い秘密をかくしていると思われる節があるかと質問すると、Ｊ氏は驚いたように見えた。彼はしばらく考えたのちに、こう答えた。

「さきにお話し申した通り、あの婆さんがわたしのほうの知り合いであるという以外、その若いときの経歴などについては、あまりよく知らないのです。しかしあなたのお話を伺って、おぼろげな追憶を呼び起こすようにもなりましたから、わたしは更に聞き合わせて、その結果をご報告しましょう。それにしても、ここに一人の犯罪者または犯罪の犠牲者があって、その霊魂が犯罪の行なわれた場所へ再び立ち戻って来るという、世間一般の迷信を承認するとしても、あの婆さんの死ぬ前からあの家に不思議の物が見えたり、不思議な音が聞こえたりしたのはどういうわけでしょうか。……あなたは笑っていられるが、それにはどういうご意見がありますか」

「もし、われわれがこの秘密の底深くまで進んで行ったら、生きている人間の働いていることを発見するだろうと思われます」

「え、なんとおっしゃる。では、あなたはすべてのことが<ruby><rb>詐欺</rb><rt>いかさま</rt></ruby>だと言われるのですか。どうしてそんなことが分かりました」

「いや、詐欺というのとは違います。たとえば、わたしが突然に深い睡眠状態におちいって――それはあなたが揺り起こすことの出来ないような深い睡眠状態におちいったとして、その時わたしは眼ざめた後に訴えることの出来ないほど正確に、あなたの問いに答えることが出来ます。すなわちあなたのポケットにはいくらの金を持っているとか、あなたは何を考えているとか……そういうたぐいのことは詐欺というべきではなく、むしろ無理にしいられた一種の超自然的の作用ともいうべきものです。わたしは自分の知らないあいだに、遠方からある人間に催眠術をほどこされて、その交感関係に支配されていたのだと思うのです」

「かりに催眠術師が生きた人間に対してそういう<ruby><rb>感応</rb><rt>かんのう</rt></ruby>をあたえ得るとしても、生きていないもの……すなわち椅子やドアのような物に対して、それを動かしたり、あけたりしめたりすることが出来るでしょうか」

「実際はそうでなくして、そういうふうに思わせるのかもしれません。普通に催眠術と称せられるものでは、もちろん、そんなことは出来ませんが、催眠術師のうちにも、一種の血統があるか、あるいはその術の特に優れた者か、それらのうちには昔でいう魔術に似たような不思議の力を持っている者がないとは限りません。その力が果たして<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>なき物にまで働き得るかどうかは知りませんが、もしそんなことがあったとしても、あえて不自然とは言われまいかと思われます。もちろん、それはこの世の中にはなはだ少ないことで、その人は特殊の体質を持って生まれ、特殊の実験を積んで、その術の最高極度に到達したものと見なければなりません。その力が死んだ者の上に……詳しくいえば、死んだ者にもまだ残っているある思想とか、ある記憶とかいうものの上に働くのです。そうして、正しくは霊魂というべきものではなく、最も地上に近い一種の霊気がわれわれの感覚にあらわれて来るようになるのです。しかし私はそれをもって、真の超自然的の力とは認めません。それを説明するために、パラセルサス（スイスの医師、博物学者、十六世紀初年の人）の著作『文学上の奇観』の一節を申し上げましょう。

ここに一つの花があって、人がそれを焼けば枯れて焼けうせる。その花の元素が何であろうとも、どこかへ消散してしまって、それを見受けることも出来ず、ふたたび集めることも出来ない。しかし化学的に研究すれば、その花の焼けた灰や<ruby><rb>埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>の中からは、生きているときと同様のスペクトル（分光）を発見することが出来るのである。人間も同じことで、霊魂は花の本体または元素のごとくに離れ去っても、それにスペクトルが残っている。普通の人はそれを霊魂と信じているけれども、それをまことの霊魂と混同してはならない。それは死人の幻影ともいうべきものである。それであるから、古来の怪談に伝えられるところのものには、まことの霊魂が宿っているのではなく、よく分離したる知識のみだと思えばよい。これらの幽霊ともいうべきものは、多少の目的があって出現することもあり、またはなんの目的もなくして現われることもある。かれらは稀に口をきくこともあるが、別になんの思想を発表するわけでもない。したがって、たといその幻影がいかに驚くべきものであっても、哲学の本分としては、超自然的の不思議な物でもないとして拒否すべきである。かれらは人間の死にぎわにその頭脳から他へ運ばれたところの思想に過ぎない。

――まずこんな議論であろうとして、ゆうべの出来事を考えると、テーブルが自然にあるき出したのも、怪物のような形が壁に映ったのも、人間の手ばかりが出て来て、そこにある物を持ち去ったのも、または黒い物があらわれたのも、たといそれがわれわれの血を凍らせるほどの怖ろしい出来事であったとしても、そこにはある種の仲介者があって、あたかも電気の線のごとくに、他の頭脳からわたしの頭脳へ流通させたものであると信じられるのです。

人間は体質によって自然に化学的に出来ている者がある、そうした人間は化学的の驚異を現ずることが出来ます。また、液体的（普通に電気という）の人間は発電の不思議を見せることも出来るのです。

そこで、ゆうべ私が見たり聞いたりしたすべてのことは、人間……私とおなじように生きている人間が、遠方から何かの仕事をしているのであって、本人自身も知らないほどにいい効果を生じたのであろうと思われます。要するに、その人間がある死人の頭脳を利用しているのであって、頭脳それ自身は単に夢を見ているに過ぎないのです。しかしその力は非常に強大なもので、その物質的の力はわたしの犬を殺したほどです。わたしも恐怖のために屈伏したらば、犬とおなじように殺されたでしょう」

「あなたの犬を殺しましたか。それは怖ろしいことです」と、Ｊ氏は言った。「なるほどそう言えばあの家に動物は棲んでいません。猫一匹も見えません。鼠も見たことはありません」

「強烈なる獣性の創造力がそれらの動物を殺すほどの影響をあたえるのですが、人間は他の動物よりも更に強い抵抗力を持っているのです。まずそれはそれとして、あなたは私の理論をご<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>になりましたか」

「まず大抵は……。失礼ながらお蔭さまで、多少の手がかりを得ました。われわれが子供部屋にいるときから沁みこんでいる幽霊や化け物に対する概念を、ただそのままに受け入れるよりも、むしろあなたのお説に従うべきでしょう。しかし議論は議論として、わたしの貸家に悪いことのあるのはどうにもなりません。そこで<ruby><rb>一体</rb><rt>いったい</rt></ruby>あの家をどうしたらいいでしょうか」

「こうしたらどうです。わたしの泊まった寝室のドアと直角になっている、家具のない小さい部屋が怪しいように思われます。あの部屋があの家に<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りをなす一種の感動力の出発点か、または置き所だと認められますから、私はぜひあなたにお勧め申して、あすこの壁を取りのけ、あすこの床をはずしたいのです。そうでなければ、あの部屋をみな取り<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>してしまうのです。あの部屋は建物の総体から離れて、小さい裏庭の上に作られているのですから、あれを動かしたところで、建物の他の部分にはなんにも<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えはありますまい」

「そこで、わたしがその通りにしましたらば……」

「まず電信線を切りはずすのです。それをやってご覧なさい。もしその作業の指揮をわたしに任せて下さるなら、わたしがその工事費の半額を支払います」

「いや、それは私がみな負担します。その余のことは、書面で申し上げましょう」

四

それから十日ほどの後に、わたしはＪ氏からの手紙をうけとった。

その報告によると、彼はわたしが帰ったあとで、かの家へ見廻りに行った。そうして、かの二通の手紙が再びもとの<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>に戻っているのを発見したので、彼もわたしと同じような疑いをもって読んだ。それからまた、わたしが推測した通りに、かの手紙の受け取り人であるらしい老婆の身の上を念入りに調べはじめると、手紙の日付けの一年前、すなわち今から三十六年前に彼女は親族の意志にさからって結婚した。男はアメリカ生まれのすこぶる怪しい人物で、世間からは海賊であると認められていた。彼女は信用の厚い商人の娘で、結婚するまでは乳母に育てられていたほどの身分であった。また、彼女には男やもめの兄があって、それはおそらく金持であったらしく、その当時六歳ぐらいの子供を持っていたのである。彼女が結婚してから一カ月の後、その兄の死骸がテームス河のロンドン橋に近いところで発見されて、死骸の咽喉部には暴力を加えたらしい形跡が見えたが、特に検視を求めるというほどの有力の証拠にもならず、結局は溺死ということで終わった。

アメリカ人とその妻は死んだ兄の遺言状によって、その一人の孤児の後見人となった。そうして、その子供が死んだために、妻がその財産を相続した。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、その子供はわずかに六カ月の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に死んだので、おそらく後見人夫婦のために冷遇と虐待を受けたせいであろうと想像された。近所の者は夜なかに子供の泣き叫ぶ声を聞いたことがあると証明した。またその死体を検査した医師は、営養欠乏のために死亡したのだといい、しかもその全身にはなまなましい<ruby><rb>紫斑</rb><rt>しはん</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が残っていたと言った。なんでもある冬の夜に、子供はそこを逃げ去ろうとして、裏庭まで<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い出して、塀を登ろうとして、疲れて倒れて、あくる朝になって石の上に死んでいるのを発見されたものであるらしい。しかし、そこに虐待の証拠はいくらか認められても、その子供を殺したという証拠はなんにも認められないのである。

彼の叔母とその夫はその残酷の行為に対して、子供が非常に強情であるのを矯正するがためであったと弁解した。そうして、彼は半気ちがいのような片意地者であったと説明した。いずれにしても、この孤児の死によって、叔母は自分の兄の財産を相続したのであった。

結婚の第一年が過ぎないうちに、かのアメリカ人はにわかに英国を立ち去って、それぎり再び帰って来なかった。彼はそれから二年の後、大西洋で難破した船に乗り合わせていたのである。

こうして未亡人とはなったが、彼女は豊かに暮らしていた。しかもいろいろの災厄が彼女の上に落ちかかって来て、預金の銀行は倒れる、投資の事業は失敗するという始末で、とうとう無産者となってしまった。それからいろいろの勤めに出たが、まただんだんに零落して、貸家の監督から更に下女奉公にまで出るようになった。彼女の性質を別に悪いという者もないのであるが、どこへ行ってもその奉公が長くつづかなかった。彼女は沈着で、正直で、ことにその行儀がいいのを認められていながら、どうも彼女を推薦する者がなかった。そうして、ついに養育院に落ち込んだのを、Ｊ氏が引き取って来て貸家の番人に雇い入れたのである。その貸家は彼女が結婚生活の第一年に、一家の主婦として借り受けた家であった。

Ｊ氏はそのあとへ、こういうことを付け加えて来た。

わたしが打ち毀せと勧めたかの部屋に、Ｊ氏はただひとりで一時間を過ごしたが、別になんにも見えるでもなく、聞こえるでもないにもかかわらず、彼は非常の恐怖を感じたので、断然わたしの注意にしたがって、その壁をめくり、床を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がすことに決心して、すでにその職人とも約束しておいたから、わたしの指定の日から工事に着手するというのであった。

そこで時間をとりきめて、わたしはかの化け物屋敷へ行った。私たちは窓のないがらんどうの部屋へはいって、建物の<ruby><rb>幅木</rb><rt>はばき</rt></ruby>を取りのけ、それから<ruby><rb>床板</rb><rt>ゆかいた</rt></ruby>をめくると、<ruby><rb>垂木</rb><rt>たるき</rt></ruby>の下に屑をもっておおわれた<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げの戸が発見された。そのかくし<ruby><rb>鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>は人間が楽にはいられるくらいの大きさで、鉄の<ruby><rb>締金</rb><rt>しめがね</rt></ruby>と<ruby><rb>鋲</rb><rt>びょう</rt></ruby>とで厳重に釘付けにされていた。それらをはずして、下の部屋へ降りてみると、その構造には別に怪しいところもなく、そこには窓も<ruby><rb>烟出</rb><rt>けむだ</rt></ruby>しもあったが、それらは煉瓦で塗り固められて、すでに多年を経たものであることが明らかに見られた。

蝋燭の火をたよりにそこらを検査すると、おなじ型の家具――三脚の椅子、一脚の<ruby><rb>槲</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の木の長椅子、一脚のテーブル、それらはほとんど八十年前の形式の物であった。壁にむかって<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>つきの箱があって、その箱から八十年前または百年前に、相当の地位を占めていた紳士が着用したのであろうと思われる、男の衣服の附属品の半ば腐朽しているのを発見した。

高価な鋼鉄のボタンや帯留めや、それらは宮中服の附属品であるらしく、ほかに立派な宮中用らしい帯剣とチョッキ、そのチョッキは金の編み絲で華麗に飾られていたらしいが、今はもう黒くなって<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っていた。それから五ギニアの金と少しばかりの銀貨と、象牙の入場券――これはおそらく遠い昔の宴会か何かのときの物であろう――などが現われたが、私たちの主要なる発見は壁に取り付けてある鉄の金庫のようなもので、その錠をあけるのはなかなか困難であった。

この金庫には三つの棚と二つの抽斗があって、棚の上には密封したガラス罎がたくさんにならんでいた。その罎には無色の揮発性の物を貯わえてあって、それはなんだかわからない。そのうちに燐とアンモニアの幾分を含んでいるが、別に有毒性の物ではなかったと言い得るだけのことである。そこにはまた、すこぶる珍らしいガラスの<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>と、結晶石の大きい<ruby><rb>凝塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>と、小さい点のある鉄の綱と、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>と、非常に有力な天然磁石とが発見された。

一つの抽斗からは、金ぶちの肖像画があらわれた。密画に描いたもので、おそらく多年ここにあったと思われるにもかかわらず、その色彩は眼に立つほどの新しさを保っていた。肖像はやや中年にすすんだ、四十七、八歳ぐらいの男であった。

その男は特徴のある顔――はなはだ強い印象をあたえる顔で、それをくどくどと説明するよりも、ある大きい<ruby><rb>蟒蛇</rb><rt>うわばみ</rt></ruby>が人間に化けた時、すなわちその外形は人間にして蟒蛇のタイプであるといったらば、諸君にも大かた想像がつくであろう。前頭の広さと平ったさ、怖ろしい口の力をかくしているような細さと優しさ、<ruby><rb>翠玉</rb><rt>エメラルド</rt></ruby>のごとくに青く輝いている長く大きい物凄い眼――更にまた、自己の大なる力を信ずるような、一種の無慈悲な落ちつきかた――。

わたしはその裏をあらためてみようと思って、機械的にその肖像画を裏がえすと、そこにはペンタクル（五芒星形）が彫刻してあった。ペンタクルの中央には<ruby><rb>階子</rb><rt>はしご</rt></ruby>の形があって、その三段目には一七六五年と記されていた。さらに精密に検査しているうちに、わたしは<ruby><rb>弾機</rb><rt>ばね</rt></ruby>を発見した。その弾機を押すと、<ruby><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>のうしろは<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>のように開いた。その蓋の裏には「マリアナが<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>に命ず。生くる時も死せる時も――に忠実なれ」と彫刻してあった。

誰に忠実なれというのか、その人の名はここにしるさないが、それは私にも心当たりがないではなかった。わたしは子供のときに老人から聞かされたことがある。かれは人の眼をくらます<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>学者で、自分の家のなかで自分の妻とその恋がたきとを殺して逃走したために、約一年間もロンドン市中を騒がしたのであった。しかし、わたしはそれをＪ氏に語るのを<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うて、そのまま額の裏をとじてしまった。

金庫のうちの第一の抽斗をあけるのは、別にむずかしくもなかったが、第二の抽斗をあけるには非常に困った。錠をおろしてあるのではないが、どうしてもあかないので、結局その<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>へ<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>の刃を<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>し込んで、ようようにこじあけると、抽斗のなかには、はなはだ簡単な化学機械が順序正しくならんでいた。

小さな薄い書物――むしろ<ruby><rb>書板</rb><rt>タブレット</rt></ruby>というべき物の上に、ガラスの皿を置いてあって、その皿には清らかな液体がみたされていた。液体の上には磁石のような物が浮かんでいて、その磁石の針は急速に廻転するのであった。しかし普通の磁石が示す方向とはちがって、天文学者が惑星を指示するものとあまり異っていない七つの奇妙な文字がしるされていた。抽斗は木でしきられていて、それが<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木のたぐいであることを後に知ったが、その抽斗の中から一種特別な、しかも強烈でもなく、また不愉快でもないような匂いが発して来た。

その匂いの原因はなんであるか知らないが、とにかくにそれが人間の神経に感じるもので、Ｊ氏と私ばかりでなく、この部屋に居あわせた二人の職人も、指のさきから髪の毛の根までがうずくように感じたのであった。

タブレットの詮議を急ぐので、わたしはその皿を取りのけると、磁石の針は非常の急速力をもって廻転をはじめて、私は思わずその皿を床の上に取り落としてしまうほどに、全身に一種の<ruby><rb>衝動</rb><rt>ショック</rt></ruby>を感じた。皿が<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>れると、液体も流れ出して、磁石は部屋の隅にころがった。――と思うと、その瞬間に、あたかも巨人の手をもって揺すぶるように、四方の壁があちらこちらへと揺れ出した。

職人たちはおどろいて、初めにこの部屋へ降りて来たところの<ruby><rb>階子</rb><rt>はしご</rt></ruby>へ逃げあがったが、それぎりで何事も起こらないのを見て、安心して再び降りて来た。

やがて私がタブレットをひらくと、それは銀の止め金の付いた普通の赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なめし</span>皮に巻かれていて、そのなかにはただ一枚の厚い皮紙を入れてあった。皮には二重のペンタクルが書いてあって、そのなかに昔の僧侶が書いたらしい語がしるしてあった。それを翻訳すると、こうである。

――この壁に近づく者は、有情と非情と、生けると死せるとを問わず、この針の動くが如くにわが意思は働く。この家に呪いあれ。ここに住む者は不安なれ――

そのほかにはなんにもなかった。Ｊ氏はそのタブレットと呪文を焼き捨て、さらにその秘密の部屋とその上の寝室とをあわせて、土台下からすべて切り取ってしまった。そこでＪ氏も勇気が出て、彼自身がこの家に一カ月ほども平気で住んだ。

そうなると、こんな閑静な、居ごこちのいい<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>はロンドンじゅうにもめったにないというので、彼は相当に儲けて貸すことになったが、借家人はけっして苦情を言わなかった。