Soranoha

世界怪談名作集

せかいかいだんめいさくしゅう

ディケンズ チャールズ

「おぅい、下にいる人!」

わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の嶮けわしい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。

その振り向いた様子が、どういう訳わけであるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところから烈はげしい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深い溝みぞに影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。

「おぅい、下にいる人!」

彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。

「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」

彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも執拗しつこく二度とは聞きもせずに見おろしていると、あたかもその時である。最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、急速力の列車があたかも私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。

ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねて訊きいてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。

「ありがとう」

私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい小径こみちがあったので、まずそこを降りて行った。断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に湿しめりがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水が滲しみ出して滑すべりそうになる。そんなわけで、わたしは彼の教えてくれた道をたどるのがまったく忌いやになってしまった。

私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの軌道レールの間に立ちどまって、私が出てくるのを待っているらしかった。

信号手は腕を組むような格好をして、左の手で顎あごを支え、その肱ひじを右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、また深く注意しているようなふうにみえたので、わたしも怪訝けげんに思ってちょっと立ちどまった。

わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒い髭ひげを生やして、睫毛まつげの深い陰鬱な青白い顔の男であった。その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、両側には峨峨ががたる湿しめっぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、わずかに大空を仰ぎ観るのである。一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない曲がりくねった岩道の延長があるのみで、他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。その重苦しいような畳み石は、なんとなく粗野そやで、しかも人を圧するような、堪たえられない感じがする上に、日光はほとんどここへ映さし込まず、土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。私はこの世にいるような気がしなくなった。

彼が身動きをする前に、私はそのからだに触ふれるほどに近づいたが、彼はやはり私を見つめている眼を離さないで、わずかにひと足あとずさりをして、挨拶の手を挙げたばかりであった。前にもいう通り、ここはまったく寂しい場所で、それが向こうから見たときにも私の注意をひいたのである。おそらくたずねて来る人は稀であるらしく、また稀に来る人をあまり歓迎もしないらしく見えた。

わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。

彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。

「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。

その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。

私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。

「君はなんだか私を怖こわそうに眺めていますね」と、私はしいて微笑ほほえみながら言った。

「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。

「どこで……」

彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。

「あすこで……?」と、わたしは訊いた。

彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。

「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」

「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」

彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、燈火あかりを照らすのも、転轍てんてつのハンドルをまわすのも、みな彼自身の頭脳の働きによらなければならない。

こんなことをして、彼はここに長い寂しい時間を送っているように見えるが、彼としては自分の生活の習慣が自然にそういう形式をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたように拙まずいものである。

いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の湿しめっぽい所にいつでも残っていなければならないのか。そうして、この高い石壁のあいだから日光を仰ぎに出ることは出来ないものか。それは時間と事情が許さないのである。ある場合には、線路の上にいるよりも他の場所にいることもないではなかったが、夜と昼とのうちで、ある時間だけはやはり働かなければならないのである。天気のいい日に、ある機会をみて少しく高い所へ登ろうと企てることもあるが、いつも電気ベルに呼ばれて、幾倍の心配をもってそれに耳を傾けなければならないことになる。そんなわけで、彼が救われる時間は私の想像以上に少ないのであった。

彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や指針盤ししんばんの付いている電信機や、それから彼がさきに話した小さい電気ベルがあった。わたしの観るところによれば、彼は相当の教育を受けた人であるらしい。少なくとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思われるが、彼は多数のなかにたまたま少しく悧口りこうな者がいても、そんな人間は必要でないと言った。そういうことは工場の中にも、警察官の中にも、軍人の中にもしばしば聞くことで、どこの鉄道局のなかにも多少は免まぬかれないことであると、彼はまた言った。

彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが自業自得じごうじとくで、これから方向を転換するには、時すでに遅しというわけであった。

かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに貴下サーという敬語を用いた。殊ことに自分の青年時代を語るときに多く用いていたのは、わたしが想像していた通り、彼が相当の教育を受けた男であることを思わせたのである。

こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。

ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。

彼に別れて起たち上がるときに、私は言った。

「君はすこぶる満足のように見うけられますね」

「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」

「なんで……。何を困っているのです」

「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」

「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」

「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」

「では十一時ごろに来ましょう」

「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。

「路みちのわかるまで私の白い燈火あかりを見せましょう。路がわかっても、声を出さないで下さい。上へ行き着いた時にも呼ばないで下さい」

その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。

「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」

「え。私がそんなようなことを言ったかな」

「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」

「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」

「ほかに理由はないのですな」

「ほかに理由があるものですか」

「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」

「いいえ」

彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。

私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。

約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時に訊きいた。

「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」

「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。

「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。

椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。

「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」

「それは思い違いですよ」

「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」

「それは誰です」

「知りません」

「わたしに似ているのですか」

「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」

わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を苛立いらだたせているような腕の働き方で、彼は「どうぞ退どいてくれ」と叫ぶように言った。そうして、また話し出した。

「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐに起たって、そのドアの口から見ると、トンネルの入り口の赤い灯のそばに立って、今お目にかけたように手を振っている者がある。その声は叫ぶような唸うなるような声で〈見ろ、見ろ〉という。つづいてまた〈おぅい、下にいる人! 見ろ、見ろ〉という。わたしは自分のランプを赤に直して、その者の呼ぶ方角へ駈けて行って〈どうかしましたか、何か出来しゅったいしましたか。いったいどこです〉とたずねると、その者はトンネルの暗やみのすぐ前に立っているのです。私はさらに近寄ってみると、不思議なことには、その者は袖を自分の眼の前にあてている。私はまっすぐに進んで行って、その袖を引きのけてやろうと手をのばすと、もうその形は見えなくなってしまったのです」

「トンネルの中へでもはいったかな」と、わたしは言った。

「そうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、わたしの頭の上にランプをさしあげると、前に見えたその者の影がまた同じ距離に見えるのです。そうして、トンネルの壁をぬらしている雫しずくが上からぽたぽたと落ちています。わたしは職務という観念があるので、初めよりも更に迅はやい速度でそこを駈け出して、自分の赤ランプでトンネルの入り口の赤い灯のまわりを見まわしたのち、その赤い灯の鉄梯子をつたって、頂上の展望台に登りました。それからまた降りて来て、そこまで駈けて戻りましたが、どうも気になるので、上り線と下り線とに電信を打って〈警戒の報知が来た。何か事故が起こったのか〉と問い合わせると、どちらからも同じ返事が来て〈故障なし〉……」

この話を聞かされて、なんだか背骨がぞっとするような心持ちになったが、私はそれを堪こらえながら、そんなあやしい人影などはなにかの視覚のあやまりである。あらぬものの影を見たりするのは神経作用から起こるもので、病人などにはしばしばその例を見ることがあると話して聞かせた。また、そんな人びとのうちには、そういう苦悩を自覚し、それを自分で実験している人さえあるということをも話した。

「その叫び声というのも……」と、わたしは言った。「まあ、すこしのあいだ聴いていてご覧なさい。こんな不自然な谷間のような場所では、われわれが小さい声で話している時に、電信線が風にうなるのを聞くと、まるで竪琴たてごとを乱暴に鳴らしているように響きますからね」

彼はそれに逆さからわなかった。二人はしばらく耳をかたむけていると、風と電線との音が実際怪しくきこえるのであった。彼も幾年のあいだ、ここに長い冬の夜を過ごして、ただひとりで寂しくそれを聴いていたのである。しかも彼は、自分の話はまだそれだけではないと言った。

わたしは中途で口をいれたのを謝して、更にそのあとを聴こうとすると、彼は私の腕に手をかけながら、またしずかに話し出した。

「その影があらわれてから六時間ののちに、この線路の上に怖ろしい事件が起こったのです。そうして十時間ののちには、死人と重症者がトンネルの中から運ばれて、ちょうどその影のあらわれた場所へ来たのです」

わたしは不気味な戦慄を感じたが、つとめてそれを押しこらえた。この出来事はさすがに譃うそであるとはいえない。まったく驚くべき暗合あんごうで、彼のこころに強い印象を残したのも無理はない。しかも、かくのごとき驚くべき暗合がつづいて起こるというのは、必ずしも疑うべきことではなく、こういう場合も往々おうおうにあり得るということを勘定のうちに入れておかなければならない。もちろん、世間多数の常識論者は、とかく人生の上に生ずる暗合を信じないものではあるが――

彼の話は、まだそれだけではないというのである。私はその談話をさまたげたことを再び詫びた。

「これは一年前のことですが……」と、彼は私の腕に手をかけて、うつろな眼で自分の肩を見おろしながら言った。「それから六、七カ月を過ぎて、私はもう以前の驚きや怖ろしさを忘れた時分でした。ある朝……夜の明けかかるころに、わたしがドアの口に立って、赤い灯の方をなに心なく眺めると、またあの怪しい物が見えたのです」

ここまで話すと、彼は句を切って、私をじっと見つめた。

「それがなんとか呼びましたか」

「いえ、黙っていました」

「手を振りませんでしたか」

「振りません。燈火あかりの柱に倚よりかかって、こんなふうに両手を顔に当てているのです」

わたしは重ねて彼の仕科しぐさを見たが、それは私がかつて墓場で見た石像の姿をそのままであった。

「そこへ行って見ましたか」

「いえ、私は内へはいって、腰をおろして、自分の気を落ちつけようと思いました。それがために私はいくらか弱ってしまったからです。それから再び外へ出てみると、もう日光が映さしていて、幽霊はどこへか消え失せてしまいました」

「それから何事も起こりませんでしたか」

彼は指のさきで私の腕を二、三度押した。その都度つどに、彼は怖ろしそうにうなずいたのである。

「その日に、列車がトンネルから出て来たとき、私の立っている側の列車の窓で、人の頭や手がごっちゃに出て、何かしきりに、振っているように見えたので、わたしは早速さっそくに機関手にむかって、停止ストップの信号をしました。機関手は運転を停とめてブレーキをかけました。列車は五百ヤードほども行き過ぎたのです。私がすぐに駈けてゆくと、そのあいだに怖ろしい叫び声を聞きました。美しい若い女が列車の貸切室のなかで突然に死んだのです。その女はこの小屋へ運び込まれて、ちょうどあなたと私とが向かい合っている、ここの処ところへ寝かしました」

彼がそう言って指さした場所を見おろしたとき、わたしは思わず自分の椅子をうしろへ押しやった。

「ほんとうです。まったくです。私が今お話をした通りです」

私はなんとも言えなくなった。私の口は乾き切ってしまった。外ではこの物語に誘われて、風や電線が長い悲しい唸り声を立てていた。

「まあ、聴いてください」と、彼はつづけた。「そうして、私がどんなに困っているか、お察しください。その幽霊が一週間前にまた出て来ました。それからつづいて、気まぐれのように時どきに現われるのです」

「あの灯のところに……?」

「あの危険信号燈のところにです」

「どうしているように見えますか」

彼は激しい恐怖と戦慄を増したような風情で「どうか退どいてくれ!」と言うらしい仕科しぐさをして見せた。そうして、さらに話しつづけた。

「私はもうそれがために平和も安息も得られないのです。あの幽霊はなんだか苦しそうなふうをして、何分間もつづけて私を呼ぶのです。……〈下にいる人! 見ろ、見ろ〉……そうして、私を差し招くのです。そうして、その小さいベルを鳴らすのです」

私はそれを引き取って言った。

「では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか」

「そうです。二度も鳴ったのです」

「どうもおかしいな」と、私は言った。「その想像は間違っているようですね。あのとき私の眼はベルの方を見ていて、私の耳はベルの方に向いていたのだから、私のからだに異状がない限りは、あのときにベルは一度も鳴らないと思いますよ。あのとき以外にも鳴りませんでした。もっとも、君が停車場と通信をしていたときは別だが……」

彼はかしらをふった。

「わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです」

「では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか」

「あすこにいました」

「二度ながら……?」

「二度ながら……」と、彼ははっきりと言い切った。

「では、これから一緒に出て行って見ようじゃありませんか」

彼は下くちびるを噛みしめて、あまり行きたくない様子であったが、それでも故障なしに起ちあがった。私はドアをあけて階段に立つと、彼は入り口に立った。そこには危険信号燈が見える。暗いトンネルの入り口がみえる。ぬれた岩の高い断崖がみえる。その上にはいくつかの星がかがやいていた。

「見えますか」と、私は彼の顔に特別の注意を払いながら訊いた。

彼の眼は大きく――それはおそらくそこを見渡したときの私の眼ほどではなかったかもしれないが――緊張したように輝いていた。

「いえ、いません」

「わたしにも見えない」

二人は再びうちにはいって、ドアをしめて椅子にかかった。私はいまこの機会をいかによく利用しようかということを考えていたのである。たとい何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど真面目に論議するにも足らないような事実を楯たてにとって、彼がそれを当然のことのように主張する場合には、なんと言ってそれを説き導いてよかろうか。そうなると、わたしははなはだ困難な立場にあると思ったからである。

「これで、私がどんなに困っているかということが、あなたにもよくお分かりになったろうと思いますが、いったいなんであの幽霊が出るのでしょうか」

私は彼に対して、自分はまだ十分に理解したとは言いかねると答えると、彼はその眼を爐の火に落として、時どきに私の方をみかえりながら、沈みがちに言った。

「なんの知らせでしょうか。どんな変事が起こるのでしょうか。その変事はどこに起こるのでしょうか。線路の上のどこかに危険がひそんでいて、おそるべき禍わざわいが起こるのでしょう。いままでのことを考えると、今度は三度目です。しかし、これはたしかに私を残酷に苦しめるというものです。どうしたらいいでしょうか」

彼はハンカチーフを取り出して、その熱いひたいからしたたる汗を拭いた。そうして、さらに手のひらを拭きながら言った。

「わたしが上下線の一方か、または両方へ危険信号を発するとしても、さてその理由をいうことが出来ないのです。私はいよいよ困るばかりで、碌ろくなことにはなりません。みんなは私が気でも狂ったと思うでしょう。まずこんなことになります。……私が〈危険、警戒ヲ要ス〉という信号をすると、〈イカナル危険ナリヤ、場所ハイズコナリヤ〉という返事が来ます。それにたいして、私が〈ソレハ不明、ゼヒトモ警戒ヲ要ス〉と答えるとしたら、どうなるでしょう。結局わたしは免職になるのほかはありますまい」

彼の悩みは見るにたえないほどであった。こんな不可解の責任のために、その生活をもくつがえすということは、実直な人間にとって精神的苦痛に相違なかった。彼は黒い髪をうしろへ押しやって、極度の苦悩にこめかみをこすりながら言いつづけた。

「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの寂寥せきりょうたるステーションにある一個の哀れなる信号手に過ぎないのです。彼はなぜ私以上に信用もあり実力もある人のところへ行かないのでしょうか」

このありさまを見た時に、私はこの気の毒な男のために、また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、つとめて彼の心を取り鎮めるように仕向けなければならないと思った。そこで私は、それが事実であるかないかというような問題を別にして、誰でもその義務をまっとうするほどの人は、せいぜいその仕事をよくしなければならないということを説きすすめると、彼は怪しい影の出現について依然その疑いを解かないまでも、自己の職責をまっとうするということについて一種の慰藉いしゃを感じたらしく、この努力は彼が信じている怪談を理屈で説明してやるよりも遙かに好結果を奏したのであった。

彼は落ちついてきた。夜の更ふけるにしたがって、彼は自分の持ち場に偶然おこるべき事故に対して、いっそうの注意を払うようになった。私は午前二時ごろに彼に別れて帰った。朝まで一緒にとどまっていようと言ったのであるが、彼はそれには及ばないと断わったのである。

わたしは坂路を登るときに、いくたびか、あの赤い灯をふり返って見た。その灯はどうも心持ちがよくなかった。もしあの下にわたしの寝床があったとしたら、私はおそらく眠られないであろう。まったくそうである。私はまた、鉄道事故と死んだ女との二つの事件についても、いい心持ちがしない。どちらもまったくそうである。しかもそれらのことよりも最も私の気にかかるのは、この打ち明け話を聴いた私の立ち場として、これをどうしたらいいかということであった。

かの信号手は相当に教育のある、注意ぶかい、丹念な確かな人間であるには相違ないが、ああいう心持ちでいた日には、それがいつまで続くやら分からない。彼の地位は低いけれども、最も重要な仕事を受け持っているのである。私もまた彼があくまでも、かの事件の探究を続けるという場合に、いつまでも一緒になって自分の暇をつぶしてはいられないのである。

わたしは彼が所属の会社の上役に書面をおくって、彼から聴いた顛末てんまつを通告しようかと思ったが、彼になんらの相談もしないで仲介の位地いちに立つことは、なんだか彼を裏切るような感じが強かったので、私は最後に決心して、この方面で知名の熟練の医師のところへ彼を同伴して、一応いちおうその医師の意見を聴くことにした。彼の話によると、信号手の交代時間は次の日の夜に廻って来るので、彼は日の出後一、二時間で帰ってしまって、日没後から再び職務に就くことになっているというので、私もひとまず帰ることにした。

次の夜は心持ちのいい晩で、わたしは遊びながらに早く出た。例の断崖の頂上に近い畑路を横ぎるころには、夕日がまだまったく沈んでいなかったので、もう一時間ばかり散歩しようと私は思った。半時間行って、半時間戻れば、信号手の小屋へ行くにはちょうどいい刻限になるのであった。

そこで、このそぞろ歩きをつづける前に、わたしは崖のふちへ行って、先夜初めて信号手を見た地点から何ごころなく見おろすと、私はなんとも言いようがないようにぞっとした。トンネルの入り口に近いところで、ひとりの男が左の袖そでを眼にあてながら、熱狂的にその右の手を振っているのである。

わたしを圧迫したその言い知れない恐怖は、一瞬間にして消え失せた。次の瞬間には、その男がほんとうの人間であることが分かったのである。それから少し離れたところには、いくらかの人がむらがっていて、かの男はその群れにむかって何かの手真似をしているのであった。危険信号燈にはまだ灯がはいっていなかった。私はこのとき初めて見たのであるが、信号燈の柱のむこうに小さい低い小屋があった。それは木材と脂布あぶらぬのとで作られて、やっと寝台を入れるくらいの大きさであった。

何か変事が出来しゅったいしたのではないか。私が信号手ひとりをそこに残して帰ったがために、何か致命的ちめいてきの災厄が起こったのではあるまいか。だれも彼のすることを見ている者もなく、またそれを注意する者もなかったがために、何かの変事が出来したのではあるまいか。

――こういう自責の念に駆かられながら、私は出来るだけ急いで坂路を降りて行った。

「何事が起こったのです」と、私はそこらにいる人たちに訊いた。

「信号手が、けさ殺されたのです」

「この信号所の人ですか」

「そうです」

「では、わたしの知っている人ではないかしら」

「ご存じならば、お分かりになりましょう」と、一人の男が他に代って、丁寧に脱帽して答えた。そうして、脂布のはしをあげて、「まだ顔はちっとも変わっていません」

「おお。どうしたのです、どうしてこんなことになったのです」

小屋が再びしめられると、私は人びとを交るがわるに見まわしながら訊いた。

「機関車に轢ひかれたのです。英国じゅうでもこの男ほど自分の仕事をよく知っている者はなかったのですが、あるいは外線のことについていくらか暗いところがあったと見えます。時は真っ昼間で、この男は信号燈をおろして、手にランプをさげていたのです。機関車がトンネルから出て来たときに、この男は機関車の方へ背中をむけていたものですから、たちまちに轢かれてしまいました。あの男が機関手で、今そのときの話をしているところです。おい、トム。このかたに話してあげるがいい」

粗末な黒い服を着ている男が、さきに立っていたトンネルの入り口に戻って来て話した。

「トンネルの曲線カーブまで来たときに、そのはずれの方にあの男が立っている姿が遠眼鏡をのぞくように見えたのですが、もう速力をとめる暇ひまがありません。また、あの男もよく気がついていることだろうと思っていたのです。ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、精いっぱいの大きい声で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒しているのです」

「なんと言って呼んだのです」

「下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ退どいてくれ。……と、言いました」

私はぎょっとした。

「実にどうも忌いやでしたよ。私はつづけて呼びました。もう見ているのがたまらないので、私は自分の片腕を眼にあてて、片手を最後まで振っていたのですが、やっぱり駄目だめでした」

この物語の不思議な事情を詳細に説明するのはさておいて、終わりに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信号手が自分をおびやかすものとして、私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、わたし自身が「下にいる人!」と彼を呼んだ言葉や、彼が真似てみせた手振りや、それらがすべて、かの機関手の警告の言葉と動作とに暗合しているということである。

底本 / Source edition

底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/042302_000914/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/042302_000914/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/042302_000914/

ディケンズ チャールズ「世界怪談名作集──06 信号手」(新字新仮名)、底本『世界怪談名作集 上』河出書房新社、1987年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042302_000914, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite