ずっと前からＭ君にゴルフの仲間入りをすすめられ、多少の誘惑は感じているが、今日までのところでは頑強に抵抗して云う事を聞かないでいる。しかしとにかく一度ゴルフ場へお伴をして見学だけさせてもらおうということになって、今年の六月末のある水曜日の午前に二人で<ruby><rb>駒込</rb><rt>こまごめ</rt></ruby>から円タクを拾って<ruby><rb>赤羽</rb><rt>あかばね</rt></ruby>のリンクへ出かけた。<ruby><rb>空梅雨</rb><rt>からつゆ</rt></ruby>に代表的な天気で、今にも降り出しそうな空が不得要領に晴れ、太陽が照りつけるというよりはむしろ空気自身が白っぽく光り輝いているような天候であった。

震災前と比べて<ruby><rb>王子</rb><rt>おうじ</rt></ruby>赤羽<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の変り方のはげしいのに驚いた。近頃の東京近郊の面目を一新させた因子のうちで最も有効なものと云えば、コンクリートの鋪装道路であろうと思われる。道路に土が顔を出している処には近代都市は存在しないということになるらしい。

荒川放水路の水量を調節する近代科学的<ruby><rb>閘門</rb><rt>こうもん</rt></ruby>の上を通って土手を数町川下へさがると右にクラブハウスがあり左にリンクが展開している。

クラブの建物はいつか<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみた<ruby><rb>朝霞</rb><rt>あさか</rt></ruby>村のなどに比べるとかなり謙遜な木造平家で、どこかの田舎の学校の運動場にでもありそうなインテリ気分のものである。休憩室の土間の壁面にメンバーの名札がずらりと並んでいる。ハンディキャップの数で等級別に並べてあるそうだが、やはり上手な人の数が少なくて、上手でない人の数が多いから不思議である。黒板に競技の得点表のようなものが書いてある。一等から十等まで賞が出ている。これなら楽しみが多いことであろう。賞品は次の日曜日に渡しますとある。人間いくら年をとっても時には子供時代の喜びを復活させる希望を捨てなくてもいいのである。

Ｍ夫人が到着したのでそろそろ出掛ける。

一体の地面よりは一段高い芝生の上に小さな<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょこ</rt></ruby>の底を抜いて<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>せにしたような円錐形の台を置いて、その上にあの白い綺麗なボールを載せておいて、それをあのクラブの頭でひっぱたくと一種独特の愉快な音がする。飛んで行った球がもう下り始めるかと思う頃に<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってのし上がって行ってそれから落ちることがある。夫人の球が時々途中から右の方へカーヴを描く。球がそれて土手の斜面に落ちると罰金だそうである。

河畔の<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の中でしきりに<ruby><rb>葭切</rb><rt>よしきり</rt></ruby>が鳴いている。草原には<ruby><rb>矮小</rb><rt>わいしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>夾竹桃</rb><rt>きょうちくとう</rt></ruby>がただ一輪真赤に咲いている。綺麗に刈りならした芝生の中に立って正に打出されようとする白い球を凝視していると芝生全体が自分をのせて空中に<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>んでいるような気がしてくる。日射病の兆候でもないらしい。全く何も比較の尺度のない一様な緑の視界はわれわれの空間に対する感官を無能にするらしい。

途中から文科のＮ君が一緒になった。三人のプレイが<ruby><rb>素人目</rb><rt>しろうとめ</rt></ruby>に見てもそれぞれちゃんとはっきりした特徴があって面白い。クラブと球との衝撃によって生ずる音の音色まで人々で違うような気がするのである。科学者のＭ君は<ruby><rb>積分的効果</rb><rt>インテグラルエフェクト</rt></ruby>を狙って着実なる戦法をとっているらしく、フランス文学のＮ君はエスプリとエランの恍惚境を望んでドライブしているらしく、Ｍ夫人の球はその近代的闊達と明朗をもってしてもやはりどこか女性らしいやさしさたおやかさをもっているように見えた。口の悪いＮ君がＭ夫人の球を「どうも右傾だな」と云ったが間もなくＮ君自身の球が右傾して荒川の水にその姿を没した。夫人の胸中も自ずから平らかなるを得たようである。

キャディが<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>の巣を見付けた。草原の真唯中に、何一つ<ruby><rb>被蔽物</rb><rt>ひへいぶつ</rt></ruby>もなく全く無限の大空に向って開放された巣の中には可愛い卵子が五つ、その卵形の大きい方の頂点を上向けて頭を並べている。その上端の方が著しく濃い褐色に染まっている。その色が濃くなるとじきに<ruby><rb>孵化</rb><rt>ふか</rt></ruby>するのだとキャディがいう。早くかえらないと、万一誰かの右傾した球が落ちかかって来れば、この可愛い五つ生命の卵子は同時につぶされそうである。巣は小さな<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>のような形をしていて、思いの外に精巧な細工である。これこそ本能的母性愛の生み出した天然の芸術であろう。

荒川が急に<ruby><rb>逆様</rb><rt>さかさま</rt></ruby>に流れ出したと思ったら、コースがいつの間にか百八十度廻転して帰り路になっていた。

キャディが三人、一人はスマートで一人はほがらかな顔をしているがいずれも<ruby><rb>襟頸</rb><rt>えりくび</rt></ruby>の皮膚が渋紙色に見事に染めあげられている。もう一人はなんだか元気がなくて襟頸もあまり焼けていない。どうした訳かと聞いてみるとまだ<ruby><rb>新米</rb><rt>しんまい</rt></ruby>だそうである。まだ新米にさえもならない自分の顔がその日どんなであったかは自分には分らない。疲れはしないかと三人から度々聞かれた。

このキャディのような環境におかれた少年は例えば昔の本郷青木堂の小店員のごとく大概妙に悪ずれがしてくるものであるが、ここの子供達はそんな風が目に立たない。このリンクの御客が概して地味で真面目で威張らない人の多いせいかもしれない。

いつか、このキャディのうちの一人がリンクの池で<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>を一匹つかまえて、ボールを洗う四角な水桶の中に入れておいて、一廻りした後に取りに来たらもう見えなかったそうである。こんなのんびりした世界でさえも、自分の手でしっかり握っていない限り私有物の所有権は確定しないものと見える。してみるとやっぱり自分の腕以外にたよりになる財産はないかもしれない。

ゴルフもだんだん見ているとなかなか六かしい複雑な技術だということが少しは分って来る。少なくも、単に棒の頭で球をなぐって飛ばせると云うだけではないことがわずかに一時間半ばかりの見学でよく分ったような気がした。この日Ｍ君Ｎ君の解説を聞いたことだけから考えても、すべての芸道に共通な要領がゴルフの術にも要求されていることが分る。一番大事なものはやはり心の自由風流であるらしい。

人間が球を飛ばせたり転がしたりする遊戯の種類が一体どのくらいあるか数え切れないほどあるらしい。近代的のものでもゴルフの外に庭球野球<ruby><rb>蹴球</rb><rt>しゅうきゅう</rt></ruby><ruby><rb>籠球</rb><rt>ろうきゅう</rt></ruby>排球などがあり、今は<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らぬクリケット、クロケーから、室内用にはピンポン、ビリアードそれから例のコリントゲームまである。日本の昔でも<ruby><rb>手鞠</rb><rt>てまり</rt></ruby>や<ruby><rb>打毬</rb><rt>だきゅう</rt></ruby>や<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>はかなり古いものらしい。

人間ばかりかと思うと、猫などが喜んで紙を丸めたボールをころがすのが、なんら直接功利的な目的があってするとは思われないから、やはりスポーツの一種らしく思われる。尤もこれは結果から見ると鼠を捕えたりするときに必要な運動の敏活さを修練するに有効かもしれない。家畜の糞を丸めてボールを作り転がし歩く<ruby><rb>黄金虫</rb><rt>こがねむし</rt></ruby>がある。あれは生活の資料を運搬する労働ではあろうがとにかく人間から見ると一種の球技である。

オットセイは鼻の頭で<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>をつく芸当に堪能である。あれはこの動物にとっては全く飼主の曲馬師から褒美の鮮魚一尾を貰うための労役に過ぎないであろうが、娯楽のために入場券を買ってはいった観客の眼には立派な一つの球技として観賞されるであろう。不思議なのはこの動物にそういう芸を仕込まれ得る素質がどうして備わっているかということである。彼等の自然の生活に何かしらこれに似た所行がありはしないかという疑問が起る。

動物の場合にはこれらの球技は直接間接に食うための労役である。人間の場合においては、球技を職業とする人は格別、普通にはとにかく不生産的の遊戯であり、日常生活の営みからの<ruby><rb>臨時転向</rb><rt>アヴオケーション</rt></ruby>である。こう思ってしまえば誠に簡単であるが、自分にはどうもそうばかりとは思われない。人間が色々な球を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶことに興味を感じるのには、もっと深い本能的な起源があるのではないかという気がする。例えば人間の文化の曙光時代にわれわれの祖先のまた祖先が生きて行くために必要であったある技術と因果の連鎖でこっそりつながれているのではないかという空想も起されないことはない。

もしか、そうであったと仮定すると、昔は腹を張らせるために使用された球が今では腹をへらすために使われている勘定になる。

赤羽のリンク半日の清遊の帰り途に、円タクに揺られているうちにこんな空想が白日の夢のように頭の中をかすめて通ったのであった。

ついでながら、人間のする大概の所業は動物界にもその原型を見出すことが出来るが、ただ「煙」をこしらえてそれを吸うという芸当だけは全く人間だけに限るようである。それでこの最も人間的な人間固有の享楽と慰安に資料を供給する専売局の仕事はこの点で最も独自なものであると云われるかもしれない。それでこの機会を利用して専売局に敬意を表すると同時に、当事者がますます煙草に関する科学的芸術的ないし経済的研究を進められて、今よりも一層優良な煙草を一層<ruby><rb>廉価</rb><rt>れんか</rt></ruby>で供給されんことを希望する次第である。（昭和九年八月『専売協会誌』）