Soranoha

平民の娘

へいみんのむすめ

三島 霜川

一

此この日ひも周三しうざうは、畫架ぐわかに向むかツて、何どうやらボンヤリ考込かんがへこむでゐた。モデルに使つかツてゐる彼かれの所謂いわゆる『平民へいみんの娘むすめ』は、小こ一時間じかんも前まへに歸かへツて行いツたといふに、周三は尚まだ畫架の前を動うごかずに考へてゐる。何なにを考へてゐたかといふと、甚はなはだ漠然バウとしたことで、彼自身じしんにも具體的ぐたいてきに説明せつめいすることは出來できない。難然けれども「難然」はママ考へてゐることは眞面目まじめだ、少すこし大袈裟おほげさに謂いツたら、彼の運命うんめいの消長せうちやうに關くわんすることである。

『平民の娘』お房ふさは、單たんにモデルとして彼の眼めに映うつツてゐるのでは無ない。お房は彼の眼よりも心こゝろに能よく映ツた。

お房が周三のモデルになつて、彼の畫室ぐわしつのモデル臺だいに立つやうになツてから、もう五週間しうかんばかりになる。面しかも「面も」はママ製作せいさくは遲々ちゝとして一向かうに捗取はかどらぬ。辛面やツと影かげとひなたが出來た位くらゐのところである。兀もつとも周三は近頃ちかごろ恐おそろしい藝術的げいじゆつてき頬悶ほんもんに「頬悶に」はママ陥おちいツて、何うかすると、折角せつかく築上つきあげて來た藝術上の信仰しんかうが根底こんていからぐらつくのであツた、此のぐらつきは、藝術家に取とりて、最もつとも恐るべき現象げんしやうで、都すべての悦よろこびも満足まんぞくも自負じふも自信じゝんも、悉こと〲く自分を去さツて了しまツて、代かはりに恐怖きようふが來る。其所そこで臆病おくびようとなる。そして馬鹿ばかにえらいと思おもツてゐた自分が、馬鹿にけちなつまらない者ものになツて了ツて、何にも爲する氣きが無くなツて了ふ………爲る氣が無いのでは無い、自分の力ちからでは手ても足あしも出でないやうに思はれるのだ。でも此様こんな筈はずでは無かツたがと、躍起やつきとなツて、行やる點とこまで行やツて見みる、我慢がまんで行ツて見る。仍且やツぱり駄目だめだ。頭てんで調子てうしが出て來ない。揚句あげくに草臥くたびれて了ツて、悲観ひくわんの嘆息ためいきだ。此の時とき位ぐらゐ藝術家の意久地いくぢの無いことはあるまい、幾いくらギリ〱齒はを噛かむだと謂いツて、また幾ら努力したと謂ツて、何のことはない、破やぶけたゴム鞠まりを地ちべたに叩付たゝきつけるやうなもので何の張合はりあひもない。たゞ心細こゝろほそくなツて、莎薀むちやくちやしてゐるばかりだ。周三には此の恐怖時代が來た。

自體じたい周三が、此の繪ゑを描かき始めた時の意氣込いきごみと謂ツたら、それはすばらしい勢いきほひで、何でもすツかり在來ざいらいの藝術を放擲うつちやツて、新あたらしい藝術に入るのだと誇稱こしようして、其その計畫けいくわくも抱負ほうふも期待きたいも大たいしたものであツた。で其の準備じゆんびからして頗すこぶる大仰おほげうで、モデルの詮索せんさくにも何の位くらい苦心くしんしたか知れぬ。そうしてモデル屋やの持もツて來るモデルもモデルも片かたツ端はしから刎付はねつけて、或ある手蔓てづるを得えてやツとこさ自分で目付めつけ出したモデルといふのが即すなはちお房であツた。お房は顔立かほだちなら體格からだつきなら、殆ほとんど理想的りそうてきのモデルだ。一體たい日本にほんの婦をんなの足と來くたら、周三等らの所謂いはゆる大根だいこんで、不恰好ぶかつかうに短みぢかいけれども、お房の足はすツと長い、從したがツて背せいも高たかかツたが、と謂ツて不態ぶざまな大柄おほがらではなかツた。足の形かたちでも腰こしの肉付にくつきでも、または胴どうなら乳ちゝなら胸なら肩なら、總すべて何處どこでもむツちりとして、骨格こつかくでも筋肉きんにくでも姿勢しせいでも好よく整とゝのツて發育はついくしてゐた。加之それに肌はだが眞まツ白しろで滑々すべ〲してゐる。そして一體にふくよかに柔やはらかに出で來てゐる、而しかも形に緊しまツたところがあツたから、誰たれが見ても艶麗えんれいな美うつくしい體からだであツた。着物きものを着きてゐる姿すがたも好よかツたが、裸はだかになると一段だんと光ひかりを増ました。それから顔かほだ。顔は體程周三の心を動うごかさなかツたが、それでも普通ふつうのモデルを見るやうなことは無かツた。第一血色けつしよくの好よいのと理合きめの濃こまやかなのとが、目に付いた。次つぎに綺麗きれいな首筋くびすじ、形の好い鼻はな、ふツくりした頬ほゝ、丸味まるみのある顎あご、それから生際はえぎはの好いのと頭髪かみのけに艶つやのあるのと何うかすると口元くちもとに笑靨ゑくぼが出來るのに目が付いた。そして一目見ると直すぐに、少すこしあけツ放はなしの點てんのある代かはりには、こせつかぬ、おツとりとした、古風こふうな顔立かほだてであることを見て取ツた。併しかし一番ばんに氣に適いツたのは、眉まゆと眼で、眉は單たゝ温順すなほにのんびりしてゐるといふだけのことであツたが、眼には一種しゆ他ひとを魅チヤームする強い力があツた………とは謂へ他の胸を射すやうな烈はげしい光ひかりの閃ひらめくのでも何でもない。何方どちちかと謂へば、落着おちつついた「落着おちつついた」はママ、始終しじう 柔やはらかな「始終 柔な」はママ波なみの漂たゝよツてゐる内氣うちきらしい眼だ。何か見詰つめてでもゐると、黒瞳くろめが凝如じつと据すわツてとろけて了ひそうになツてゐる………然さうかと思ふと、伏ふし目に物など見詰めてゐて、ふと頭あたまを擡げた時などに、甚ひどく狼狽うろたえたやうな、鋭敏えいびんな作用はたらきをすることがある………例たとへば何か待焦まちこがれてゐて、つい齒痒はがゆくなツて、ヂリ〲してならぬと謂ツた風に騒さわぎ出す。其様な場合ばあひには、瞼まぶたのはれぼツたい故せいか、層波目ふたかわめが屹度きつと深ふかく刻きざみ込まれて、長い晴毛まつげの「晴毛の」はママ下したに濕うるみを持もつ。そして裡うちに燃もえてゐる熱ねつが眼に現はれて來るのでは無いかと思はせる。一體皆きれの長い、パツチリした眼で、表情へうじやうにも富とむでゐた。雖然智識ちしきのある者と智識のない者とは眼で區別することが出來る。お房のは確たしかに智識の無い側かはの眼で、明あきらかに感情かんじやうの放縱ほうじうなことを現はしてゐた。眼も然さうだが、顏にも姿にも下町したまちの匂にほいがあツて、語調ことばつきにしろ取廻とりまはしにしろ身ごなしにしろ表情にしろ、氣は利いてゐるが下卑げびでゐる。姿にしても其通そのとほりだ、奈何いかにもキチンと締しまツて、福袢じゆはんの「福袢の」はママ襟えりでも帯おびでも、または着物きものの裾すそでもひツたり體にくツついてゐるけれども、些ちつとだツて氣品きひんがない。別の言ことばでいふと、奥床おくゆかしい點が無いのだ。加之それに顏にも弛たるむだ點がある、何うしても平民の娘だ。これが周三に取ツて何となく物足ものたりぬやうに思はれて、何だか紅あかい匂にほひの無い花を見るやうな心地がするのであツた。併し其様なことはモデルに使つかふに何んの故障こしやうも差支さしつかへも無い。

周三は、此のモデルを得えて、製作熱を倍加ばいかした。屹度きつと藝術界を驚かすやうな一大傑作だいけつさくを描いて見せると謂ツて、恰まるで熱にでも罹かゝツたやうになツて製作に取懸とりかゝツた。そして寢床ねどこに入ツても、誰かと話してゐるうちにも、また散歩さんぽしてゐる時、色を此うして出さうとか、人物の表情は此うとか、斷たえず其の製作に就ついてのみ考えてゐた。時には出來上あがツた繪を幻のやうに眼前めつきに泛うかべて見て、獨ひとりでにツこりすることもあツた。何しろ腕うで一杯ぱいのところを見せて、少すくなくとも日本の洋畫界やうぐわかいに一生面せいめんを開ひらかうといふ野心やしんであツたから、其の用意、其の苦心くしん、實に慘さん憺たるものであツた。而も其の覗うかゝツたところは、彼かれ自みづから神來しんらいの響ひゝきと信じてゐたので、描かぬ前の彼の元氣と内心の誇と愉快ゆくわいと謂ツたら無かツた。彼の頭に描かれた作品は確に立派りつぱなものであツたのだ。

ところが去來いざ取懸とりかかツて見ると、些ちつとも豫期よきした調子てうしが出て來ない。頭の中に描かれた作品と、眼前がんぜんに描出される作品とは鉛なまりと鋼鉄かうてつほどの相違さうゐがある。周三は自分ながら自分の腕の鈍なまくらなのに呆返あきれかへツた。で取り懸かゝりからもう熱が冷さめる、興きようが無くなる、心しんから嫌氣いやけが浸さして了ツた。然うなると、幾ら努力したと謂ツて、踠あがいたと謂ツて、何の役やくにも立ちはしない。で、たゞ狼狽する、要えうするに意氣鎖沈せうちんだ「鎖沈だ」はママ。自分ながら自分の藝術の貧まづしいのが他になる、憐あわれに對たいしてまた自分に對して妄なやみルビの「なやみ」はママと不平ふへいが起る。氣が惓うンずる、悶々もだ〱する、何を聞いても見ても味氣あじきない。謂はゞ精神的せいしんてき監禁かんきんを喰くツたやうなもので、日光ひのめを仰あふぐことさへ出來なくなツて了ふ。此うなツては、幾らえらい藝術家も、柳やなぎに飛付とびつかうとする蛙かはづにも劣おとる………幾ら飛付かうとして躍起やツきになツたからと謂ツて取付くことが出來ない。それでも思切おもひきツて其の作を放擲ツて了うことが出來ぬから、何時いつまでも根氣こんき好よく無駄骨むだほねを折をツてゐる、そして結局情なさけなくなるばかりだ。情なくなツても執着しふちやくが強いから、何うにかしてでツち上げやうと思ふ。それで周三は、毎日まいにち畫架ぐわかに向ツて歎息ばかりしてゐながら、定期ていきの時間だけ丁ちやんと畫室に入ツて、バレツトにテレビン油ゆに繪具ゑのぐを捏返ねりかへしてゐた。お蔭かげで繪は一日々々に繪になツて來る、繪に成なるに從ツて其れが平凡となる、時には殆んど調子さへ出て居をらぬ劣惡れつあくな作のやうに思はれることもあツた。畫題ぐわだいは『自然しぜんの心こゝろ』と謂ツて、ちらし髪がみの素裸すつぱだかの若わかい婦をんなが、新緑しんりよくの雑木林ざふきばやしに圍かこはれた泉いづみの傍かたはらに立ツて、自分の影かげの水面すゐめんに映ツてゐるのを瞶みまもツてゐるところだ。其の着想ちやくそうが既すでに舊ふるいロマンチツクの芳にほいを帶びてゐる、何も新しいといふほどの物でもない。加之色いろなら圖柄づがらなら、ただ暖あつたかく見せる側の繪といふことが解わかるだけで、何處に新機軸しんきじゆくを出したといふ點が無い。周三の覗ツた的まとはすツかり外はづれた。外が外れたばかりでない、自分の技能ぎのうが自分の思ツてゐた半分はんふんも出來て居をらぬことを證據しようこ立てられた。此の場合に於おける藝術家は、敗殘困憊はいざんこんぱひの將軍しやうぐんである。失望しつはうと煩悶はんもんとがごツちやになツて耐たへず胸頭むなさきに押掛おしかける………其の苦惱くなう、其の怨うらみ、誰に訴うつたへやうと思ツても訴へる對手あひてがない。喧嘩けんくわは、獨ひとりだ。悪腕わるあがきを「悪腕を」はママ」]すれば、狂人きちがひだと謂はれる。爲方しかたがないから、ギリ〱齒噛をしながらも、強つよい心でおツ耐こらへてゐる。其れがまた辛つらい。其の辛いのを耐へて、無理に製作を續つゞける。軈やがて眼が血走ちはしツて來、心が惑亂わくらんする。其の惑亂した心が繪に映るから何うしたツて思ふ壺つぼに嵌はまツて來ない。加之單に此の藝術上の煩悶ばかりではない。周三には、他たにも種々いろ〱の煩悶があつて、彼を惱ましている。これがまた彼の心を他へ誘そゝのかして、幾分いくぶん其の製作を妨さまたげてゐる。無論むろん藝術家が製作に熱中してゐる場合に、些としたひつかゝり氣懸きがゝりがあつても他から想像さう〲されぬ位の打撃だげきとなる。況まして周三のは、些としたひつかゝりや輕かるい意味のそれでは無い。彼に取ツては熟慮じゆくりよ深考しんかうせなければならぬ大問題だいもんだいがある。

ひつかゝりの一ひとつは、現に彼の眼前めのまへに裸体になつてモデル臺に立つているお房だ。お房は、幾らかの賃銭ちんせんで肉體の全すべてを示みせてゐるやうな賤いやしい女をんなだ。周三とても其れをすら職業は神聖しんせいと謂ふほどの理想家ではなかつた。賤しい女であるといふことは知り拔ぬいてゐる………だから蔭では平民の娘と謂つてゐる。雖然けれども顏の寄麗きれいなのと「寄麗なのと」はママ、體格の完全くわんぜんしてゐるのと、おつとりした姿と、美うつくしい肌はだとに心を魅チヤームせられて、賤しいといふ考を忘わすれて了ふ。そしてモデルとして周三の氣に適つたお房は、肉體美びの最も完全なものとして周三の心の空乏くうぼうを充みたすやうになつた。所詮つまり周三がお房を懌よろこぶ意味が違つて、一個この物ぶつ體が一人にんの婦となり、單純たんじゆんは、併し價値かちある製作の資料れうが、意味の深い心の糧かてとなつて了つた。そして冷靜れいせいな藝術的鑑賞かんしやうは、熱烈ねつれつな生理せいり的憧憬どうけいとなつて、人形にんぎやうには魂たましいが入つた。何も不思議はないことだらう。周三だつて人間にんげんである。決けつして超凡の人では無い………としたら、北側きたがわのスリガラスの天井てんじやうから射込さしこむ柔かな光線………何方かと謂へばノンドリした薄柔うすぐらい光ひかりで、若い女の裸體を見てゐて、それで何等の衝動しようどうが無いといふことはあるまい。成程美術家には若い女を裸體にして熟視じゆくしするといふ特權とくけんがあるから、何も其の裸體が珍めづらしいといふので無い。雖然お房は、周三が是迄これまで使つたモデルのうちで優すぐれて美しい………全て肉體美の整とゝのつてゐる女である。それで魔ものあつて誘かすやうに、其の柔な肉付に、艶つやのある頭髪かみに、むつちりした乳ちゝに、形の好い手足に心を引ひき付けられた。そして其の肌の色==と謂つても、ホンノリ血の色が透すいて處女しよぢよの生氣せいきが微動びどうしてゐるかと思はれる、また其の微動している生氣を柔にひツくるめて生々うい〱しく清きよらかな肌の色==花で謂つたら、丁度ちやうど淡紅色の櫻草さくらさうの花に髣髴さもにてゐる、其の朋の「朋の」はママ色が眼に付いてならぬ。加之女の匂……しつこい油の匂とごツちやになツたやうな一種動物性の匂が、何かの機はづみに輕く鼻を刺戟しげきする。其にもまた心が動く。何しろ畫室は、約束やくそく通りに出來てあるから、四方はう密閉みつぺいしたやうになつてゐる。暖爐ストーブを焚たく頃ころならば、其の熱で嚇々くわつ〱とする、春になれば春の暖氣だんきで蒸むすやうにむつとする。加之空氣も沈靜ちんせいなら光もしんめりしてゐて、自分の鼓動こどう、自分の呼吸こきふさへ微かすかに耳みゝに響く………だから、眼前に据すゑて置く生暖なまあたたかい女の氣もヤンワリ周三の胸に通ふ。そして氣になる位心悸しんきが亢進かうしんして、腕のあたりに汗あせがジメ〱することもあツた。然うなると周三は遉さすがに内うちを顧かへりみて心に慚はづる、何だか藝術の神聖を穢けがすやうにも思はれ、またお房に藝術的良心りやうしんを腐蝕ふしよくさせられるやうにも感ずる。同時に「自我じが」といふものが少しづゝ侵略しんりやくされて行ゆくやうに思はれた。これは最初の間あひだで、少時しばらく經たつとまた別べつに他の煩悶が起つた。始はじめ何の爲に悶々するのか解らなかツたが、軈がて其の因わけがハツキリ頭に映ツて來る。周三は、お房の其の美しい肌が處女の清淨せいじやうを保たもツてゐるか何うかといふこと、設よしまた其の肌が清淨を保ツてゐるにしても、其の心は何者かに汚けがされてゐはせぬかといふことが氣に懸かゝつて來たのであつた。そして此の氣懸が際限さいげんも無く彼を惱す。で何うかすると呆返あきれかへつたやうに、

『何だつて其様なことを氣にする………清淨であつたツて無いたツて、何でもありやしない。モデルにするに些とも差支はありやしない!』と打消して見る。雖然駄目だ。仍且やはり氣に懸ツてならぬ。そして惱む。幾ら美術家でも、女の心まで裸體にして見る權能けんのうがないから爲方が無い。

併し其の氣懸は、少時すると打消されて了ツた。打消されたのではない、忘れたのだ。段々だん〲と馴なれて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を仕掛しかけるやうになツた。而ると其の聲こゑがまた、周三の心に淡い靄もやをかけた。少し甘あまツたるいやうな點はあツたけれども、調子に響があツて、好く徹とほる、そして優やさしい聲であツた「恰まるで小鳥が囀さへづツてゐるやうだ。」と思ツて、周三は、お房の饒舌しやべツてゐるのを聞いてゐると、何時いつも惚々ほれ〲として了ふ。處へもツて來て、一日々々に嬌態しなを見せられるやうになツて行くのだから耐らぬ。周三がお房を詮議せんぎする眼は一日々々に寛ゆるくなツた。そして放心うつかり其の事を忘れて了ツた。

而るとまた次の氣懸が起ツて來た。其は假かりにお房に手を握にぎる資格のあるものとして、果してお房が手を握らせて呉れるかどうかといふ氣懸だ。無論むろん臆病おくびやうな氣懸である。雖然彼は永ながい間此の氣懸に惱まされてゐた。で、何のことは無い、ガラス越ごしに花を見るやうな心地で、毎日お房を眼前に据すえて置きながら悶々してゐた。彼は此の齒痒いやうな惱のために何程惱まされたか知れぬ。併し案じるよりも生うむが易い。其の後お房は些とした機會きくわいに雑作ざふさなく手を握らせて呉れた。雖然、其の製作は相あひ変らず捗取はかどらぬ。そして少し逆上のぼせ氣味となツた彼は、今度は「手を握りたお房を何うする?」といふことに就ついて考へた。固もとより一時の出來心や、不圖ふとした氣紛きまぐれでは無かツたのであるから、さて是れが容易よういに解決される問題で無い。第一妻つまとして迎むかへ取るには餘りに身分の懸隔けんかくがある。家庭かていは斷じて此の結婚けつこんを峻拒しゆんきよする。假かりに家庭の事情を打破ツて、結婚したとしてからが、お房が美術家の妻として、また子爵ししやく家の夫人ふじんとして品位ひんゐを保ツて行かれるかどうかといふことが疑問ぎもんである。いや、恐らく其は不可能のことゝ謂はなければならぬ。と謂つて周三は、人權を蹂躪じうりんして、お房を日蔭者ひかげものにして圍ツて置くだけの勇ゆう氣も無かツた。これがまた新あたらしい煩悶となツて、彼を惱ませる。

「一體俺おれはお房を何うする積つもりなんだ。」

解らない。何うしても解決が付かぬ。

處ところで周三が家庭に於ける立場である。自體じたい彼は子爵ししやく勝見家かつみけに生まれたのでは無い。成程父ちゝ子爵ししやくは、彼の父ちちには違ないが、母はは夫人ふじんは違ツた間なかだ。彼は父子爵の妄めかけの「妄の」はママ]腹はらに出來た子で、所謂庶子しよしである。別な言ことばでいふと零こぼれ種たねだ。だから母夫人の腹に、腹の違ツた兄あにか弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用むようの長物ちやうぶつであツたのだ。また父子爵にしても彼を引上げて、子爵家の繼嗣よつぎとする必要が無かツたのであツた。雖然子爵夫人に子の無いといふ一ツの事件じけんが、偶々たま〱周三を子爵家の相續人そうぞくにんとすることにした。此の相續人になツた資格の裏うらには、種馬たねうまといふ義務ぎむが擔になはせられてゐた。それで彼が甘三四と「甘三四と」はママ]なると、もう其の候補者こうほじやまで作こしらへて、結婚を迫せまられた。無論周三は、此の要求を峻拒した。そこで父と衝突しようとつだ。父はもう期限きげんが來たからと謂ツて嚴やかましく義務の實行を督促とくそくする、周三は其様な義務を擔はせられた覺は無いと頭かぶりを振通ふりとほす。一方で家の爲といふのを楯たてにすれば、一方では個人主義しゆぎを振廻ふりまはす。軈がては親は子に對つて、不孝ふかうなるやくざ者と罵のゝしる、子は親に對つて、無慈悲じひな驅かたりだと「驅だと」はママ毒どく吐く。而も争論そうろんは何時も要領を得えずに終をはつて、何時までも底止とめどなく同じことを繰返くりかへされてゐるのであツた。そしてグヅグヅの間に一年ねん二年と經過けいくわして今日こんにちとなツた。今日となツては、父子爵は最早もはや猶豫ゆうよして居られぬと謂ツて、猛烈もうれつな勢いきほひで最後の決心けつしんを促うながしてゐる。で是等の事情がごツちやになツて、彼の頭にひツかゝり、絡からまツて激はげしい腦神經衰弱なうしんけいすゐじやくを惹起ひきおこした。それで唯ただ氣が悶々して、何等の踏切ふみきりが付かぬ。そして斷えず何か不安に襲おそはれて、自分でも苦しみ、他からは凋しぼむだ花のやうに見られてゐるのであツた。

二

丁ちやうど此の日の前夜ぜんやも、周三は、父から結婚問題に就いて嚴重げんぢうな談判だんぱんを吃くツたのであツた。

「さ、何うする?もう體に火が付いてゐるんだぞ。」

幾ら考へても、何時も纒まとまりの付いた例ためしは無いが、それでも頭の底そこの方に何か名案めいあんが潜ひそむでゐるやうに思はれるので、何うにかして其の考へを引ツ張り出さうとする………雖然出ない。出さうでゐて、出ない。氣がジリ〱する。すると何か傍わきから小突こづくやうに、

「ほら、解ツてゐるじやないか。此うさ、それ、此う―――」と神經中樞ちゆうすうを刺戟して、少しづつ考を押おし出して呉れるやうに思はれる。

「しめたぞ!」と大悦おほよろこびで、ぐツと氣を落着おちつけ、眼を瞑つぶり、片手かたてで後頭部こうとうぶを押へて息を凝こらして考へて見る………頭の中が何か泡立ツてゐるやうにフス〱鳴なツてゐるのが微かすかに顳顬こめかみに響く。

「は、はア、頭腦が惡いな。」と今更いまさらのやうに氣が付くと、折角出掛かツた考が烟けむのやうにすうと消えて了ふ。慌あはてゝ眼を啓あけて「や!」と魂氣たまけた顏をして、恰で手に持ツてゐた大事な玉たまを井戸ゐどの底へ滑すべらし落したやうにポカンとなる。また數分間前すうふんかんまへの状態に復かへツて、一生懸命しやうけんめいに名案を搾しぼり出さうとして見る。名案とは、父子爵の頑固ぐわんこな頭から結婚問題を徹回てつくわい「徹回」はママさせて、而も自分は無事に當邸たうやしきに居付いてゐることだ。

眞個まつたく難むづかしい問題である。周三が腦味噌のうみその壓搾あつさくするのも無理は無い。幾ら壓搾したと謂ツて、決して彼の期待するやうな名案めいあんは出て來はしない。自體彼の頭腦の中には腐くさツたガスのやうな氣が充滿いつぱいになツてゐて、頭が甚はなはだ不透明ふとうめいになツてゐる、彼は能よく其れを知ツてゐるから、何うかして其の全ての考を引ツ括くるむでゐる毒どくガスさへ消えて了ツたならば、自ら立派な名案が出て來るやうに思ふ。

空そらは、ドンヨリ曇くもツて、南風みなみかぜが灰はひの都みやこを吹ふき廻まはり、そしてポカ〱する、嫌いやに其所そこらのざわつく日であツた、此様な日には、頭に故障こしやうのない者すら氣が重い。況して少しでも腦症なうしやうのあるものは、妙めうに氣が倦うむで、耳みゝが鳴る、眼が眊かすむ、頭腦が惡く岑々ぎん〲して、他ひとの頭腦か自分の頭か解らぬやうに知覺ちかくが鈍にぶる。周三も其の通りだ。何か考へてはゐるけれども、其それがもや〱として、何うしてもハツキリと映ツて來ない。そして考へる事も考へる事も、直すぐに傍へ外それて了ツて、斷々きれぎれになり、紛糾こぐらかり、揚句あげくに何を考へる筈はずだツたのか其すらも解らなくなツて了ふ。

凝如じつとしていても爲方しかたが無いので、バレツトも平筆ふでも、臺の上に放ほうツたらかしたまゝ、ふいと起たツて室へやの内を歩あるき廻ツて見る。それでも氣は變らない。眼に入るものといへば何時も眼に馴れたものばかりだ………北側きたがはのスリガラスの天井、其所そこから射込さしこむ弱い光線、薄うすい小豆色あづきいろの壁かべの色と同じやうな色の絨繵じうたん、今は休息きうそくしてゐる煖爐だんろ、バツクの巾きれ、モデル臺、石膏せきかうの胸像きようぞう、それから佛蘭西ふらんすの象徴派しやうちやうはの名畫が一枚まいと、伊太利いたりーのローマンス派の古畫こぐわを摸寫もしやしたのが三枚、それが何いづれも金縁きんぶちの額がくになつて南側の壁間かべに光彩くわいさいを放つてゐる。何れも大作たいさくだ。雖然何を見たからと謂つて、些とも興きようが乘のらぬばかりか、其の名畫が眼に映つると、寧むしろ忌々いま〱しいといふ氣が亢じて來る。室が寂然ひつそりしてゐるので、時計とけいの時を刻きざむ音おとが自分の脈膊みやくはくと巧うまく拍子ひやうしを取つてハツキリ胸に通ふ。

ぐるり一ひと廻して、さて自分の繪の前に立つた。眼を半眼はんがんにして、虚心きよしん平氣へいきの積で熟視する。

「いや、拙まづい!何といふ劣惡れつあくなもんだえ。何んだツて此様な作を描き上げやうとして踠あがいてゐるんだ………骨折損ほねをりぞんじやないか。俺は馬鹿だ、確たしかに頭が痺しびれてゐる。何處に一ツ好いい點とこがありやしない。此様な作に執着しうちやくがあるやうじや、俺も憫あはれな人間だ………」と思ふ。そして、「あゝ。」と萎頽がツかりしたやうな歎息ためいきする。見てゐるうちに、倩々つく〲嫌になつて、一と思に引ひツ裂さいて了はうかとも思つて見る………氣が燥いらついて、拳こぶしまで握にぎつた。

而すると頭が輕かるくグラ〱として、氣に茫ぼうツとする。其所らが急きふにもや〱と淡うすい靄もやでもかゝつたやうになツて畫架諸共もろとも「自然の力」は、すーツと其の中へ捲まき込まれるかと思はれた………代かはつて眼に映ツたのが裸體になツたお房だ。そこでまた棒立ぼうだちになつたまま少時しばらくお房のことを考へる。

「お房か、ありや天眞爛熳てんしんらんまんだ。心は確に處女だ!………體だツて………」とまた頭に閃きらめく。と、激しく頭を振つて、「何だつて此様なことを考へる。」

ふざけた奴やつだと自分を叱しかり付ける。

叱ツても駄目だ。此うなるとお房の方でも剛情がうじやうで、恰で眼底めのそこへ粘付ねばりついたやうになつて、何うかすると、莞爾につこり笑わらつて見せる。いや、ひつこいことだ。

それでも其の影に映つてゐる間だけ、周三の頭から、黴かびて、陰濕じめ〲したガスが拔けて、そして其の底に灰はひの氣に籠こめられながら紅い花の揺ゆらいでゐるのを見るやうな心地になつてゐた。胸には何か氣も心も甘あまつたるくなるやうな匂にほひが通つて來る。而ると鉛なまりのやうに重く欝結うつけつした頭が幾分輕く滑になつて、體中がぞく〱するやうに擽くすぐツたくなる………何か引ひツ攫つかむでもしやくしやにして見たい。壓おし付けられ、沈しづみきツた反動はんどうで、恰で鳥の柔毛にこげが風に飛ぶやうに氣が浮々うき〱する。喚さけび出だしたくなる。倘もしも此様な場合に、誰たれかジヨンマーチでも謠うたつて呉れる者があつたら、彼は獨で舞踏ダンスをおツ始めたかも知れぬ。眞ほンの少時しばらくではあつたけれども、周三の頭は全ての壓迫から脱まぬがれて、暗澹あんたんたる空に薄ツすりと日光につくわうが射したやうになつてゐた。眼にも心にも、たゞ紅い花が見えるだけだ。何しろ彼の心は柔やわらいでゐた。

「肉は決して胃いの腑ふの要求ばかりじやない。」周三は不圖ふと此様なことを考へた。其をきツかけに、彼はまた何時もの思索家しさくかとなつた。頭は直に曇つて来る。

丁ど颶風ぐふうでも來るやうな具合に、種々な考が種々の象かたちになつて、ごた〱と一時にどツと押寄おしよせて來る………周三は面喰めんくらつて嚇くわツとなつてしまふ。こりや耐たまらぬと、くるり體をブン廻して、また室の中を歩き廻つて見る。そして氣を押鎭おしゝづめやうとするのであるが、何か後から追おツ立てゝ來るやうに思はれて、何うにも落着かぬ。

「こりや何うしたもんだ………何うも頭が變へんてこりんだぞ。何をびくついてゐるんだ。まア、落着け!………そして篤とくと考へて見るんだ。」

そこで體を突ツ張つて、腕を組くみ足拍子あしひやうしを取つて、出來るだけえらさうに寛々ゆる〱と歩いて見る。駄目だ。些ともえらくなれない。何か妄むやみと氣に懸かゝツて、不安は槍襖やりぶすまを作ツて襲おそツて來る。現に自分が呼吸してゐる空氣の中にも毒惡どくあくな分子ぶんしが籠こもつてゐて、次第しだいに内臓ないぞうへ侵入するのでは無いかと思ふ。すると室の光線の弱いのも氣に懸つて來る。

寧そ室を逃出にげださうかと思ツて、「一體俺は、何だつて、此様な薄暗うすぐらい、息の塞つまるやうな室に閉ぢ籠つて、此様な眞似をしてゐるんだ。恰で囚人しうじんだ!………痩やせツこけた藝術に體を縛しばられて、日の光も見ずにもぐ〱してゐるんだ。充つまらんな、無意義むいぎだ………もう何も彼かも放擲つて了はうかしら!穴籠あなごもりしてゐると謂や、蟹かにだつてもう少し氣の利きいた穴籠をしてゐるぜ。天氣てんきでも好くつて見ろ、蟹め、泡あわを噴ふきながら、世界せかいを廣ひろくして走り廻つてゐるからな。俺は何うだ、繪具とテレビン油ゆとに氣を腐らして、年中ねんぢゆう齷齪あくせくしてゐる………それも立派な作品でも出來ればだが、ま、覺束おぼつかない。そりや孑孑ぼうふらは溝どぶの中でうよ〱してゐるのよ、だが、俺は人間だ。人間?………ふゝゝゝ。」と無意味に笑わらひ出して、「人間だから女に取捕とつつかまつて、馬鹿にされても見たいんだ。何しろもう些とのんきな人間にならう。」

彼は、畫室を出ることを定めて了つて、入口の扉ドーアに手まで掛けたが、さて其の手を引つ込めて躊躇ためらつた。

「待まてよ。出るは可いいが、出たら敵あたきの中へ飛び込むやうなもんだぞ。これでも此處だけは、俺の城だ、世界だ。そして俺の大權の下もとにある………だから女を裸に引ひん剥むいて置く權能もあるんだ。早い話が阿父おやぢのやうな壓制君主あつせいくんしゆまでも、此處だけは治外法權ぢぐわいはふけんとして、何等の侵略しんりやくを加くはへ得ない奴さ。痛快つうくわいだ。いや、出まい。蟹も穴籠をしてゐた方が安全だからな。」

周三は、畫室を出ると、また父に取捕まつて、首根くびねつこを押へ付けて置いて極きめ付けられるのが怖こはいのだ。で、辛しん氣臭いのをおつ耐こちルビの「こち」はママへて、穴籠と定めて了ふ。

「何方どつちにしても、俺の體は縛られてゐるんだ………縛られてゐるばかりじやない。窮窟きうくつに押籠おしこめられてゐるんだ。何うしたら此の繩なわが解けるんだ、誰か、俺を此穴このあなから引つ張り出して呉れるものが無いかな。」と思ふと、泣き出したいやうに情なさけなくなる。

何方を向いても壓迫だ。城に籠つてゐたら、他からの侵略は無いが、てもなく兵粮攻ひやうらうぜめと謂つたもので、自分で自分を窘くるしめなければならぬ。自體周三等の籠つてゐる城は、兵粮に欠乏けつぼふがちだ。兵粮は嫌でも他から仰がなければならぬのであるから、大概たいがいの者は頭と腕だけが膨大ぼうだいになつて、胃の腑が萎縮ゐしゆくする。從つて顏の色が燻くすむ。周三は幸さひはいに、頑冥ぐわんめいな空氣を吸つて、温順おんじゆんに壓制君主あつせいくんしゆの干渉かんしように服從ふくじうしてゐたら、兵粮の心配は微塵みじんもない。雖然彼の城は其の根底がぐらついてゐる。で、もう穴籠に耐へなければ、他からの壓迫にも耐へぬ。

「恰で包圍攻撃ほういこうげきを喰つてゐるんだ!」と嗟嘆さたんして、此うしてゐては、遂つひに自滅じめつを免まぬかれぬと思ふ。

「尤もつとも俺は此の家うちの寄生蟲きせいちうだからな。」と自分を貶けなしつけても見て、「此の家から謂つたら、俺は確に謀叛人むほんにんだが、俺から謂つたら、此の家の空氣は俺に適しない、何うも適しない!自體此の家の空氣には不思議な力があつて俺を壓追する「壓追する」はママ………何か解らんけれども恐ろしい力で俺を壓迫する。いや、重たい、首くびの骨が折れて了ひさうだ。ところで是こればかりじやない、其處ら中に眼に見えぬ針はりがあつて、始終俺をつついて、燥いらつかせたり、憤いきどほらせたり、悶々させたり、欝ふさがせたりする。成程外には俺を張出さうとする力もあるのよ。だが裡うちから押出さうとする力も強い、これじや耐らん、惱亂なうらんする。無理に耐へたら遂に悶死もだえじにだ!………でなけア發狂はつきやうだ。

而ると何といふことは無く其所らが怖ろしくなつて、微かすかな惡寒をかんが身裡みうちに戰そよいで來る。

「や!」ときよろ〱して、「氣が變になるんじやないか。しつかりしろ、何でも圧おし潰つぶせ!此様なことでへたばつて耐るか。こら。」

自分で自分を喚付わめきつけて、妄と地鞴踏ぢたゝらふむ。頭が嚇くわつとして眼が眩くらむやうになつた。

其處で少時體を引緊め、石のやうに固くなつてゐて、軈て胸の鼓動の鎭まるのを待つて、「此様なこつちや爲様しやうが無い。兎とに角かく俺おれの此の壓迫を脱けるとしやう。俺だつて一個の人間であつて見れば、何時まで自己じこを没却ぼつきやくして、此様に苦しむでゐる、ことあ有りやしない。一つ羽はねを伸して、此のあやふやな境遇きやうぐうを脱けて見やうじやないか。これでも藝能があるんだ、幾ら社會しやくわいがせゝこましくなつてゐると謂つても、俺の生活する領分りやうぶんくらゐ殘してあるだらう、然うよ、そして世間せけんを廣くして、自曲じいうの「自曲の」はママ空氣を吸ふことにしやう。隷属れいぞくは、決して光榮くわうえいある生存せいぞんじやないからな。身分や家柄………其様なものは、俺といふ個人に取つて、何等の必要がある。第一體には變かへられん!」

良々意氣を揚げ來きたつて、彼は熟じつと考へ込む。是れ、久しい間、彼が頭の中に籠つた大問題である。

抑そもそも周三が生母せいぼの手を離はなれて、父子爵の手許てもとへ迎へられたのは、彼が十四の春であつた。それから日蔭ひかげに生まれた平民の子が急に日向ひなたに出て金箔きんはくを付けられたのが嬉うれしくて、幾らか虚榮きよえい心に眼を眩まされた形で、虚々うか〱と日を暮くらしてゐた。何時の間にか中學校ちうがくかうも卒業そつげふして了つた。此の間、彼の頭に殘るやうな出來事と謂へば、誰ただ「誰」はママ生母せいぼに亡なくなられた位のことであつた。それすら青春せいしゆんの血の燃もゆる彼に取つては、些と輕い悲哀を感じた位のことで、決して左程さほどの打撃では無かつた。ところが甘前後はたちぜんごと「甘前後と」はママいふ頃には、誰でも頭に多少たせうの變動へんどうがある。周三の頭にも變動があつた。

周三は或時あるとき偶然ぐうぜんに、「人は何のために生まれたのだらう、そして何のために活いき、何うして死んで了ふのだらう。」といふことに就いて考へた。無論何の動機があつたといふのでは無い。ひよつくら其様なことを考へたのだ。彼は平坦の路を歩いてゐて、不意に小石に躓けつまづいたやうに吃驚びつくりした。少しきよろつき氣味で、「成程こりや考へて見なければならん問題だ。俺等おれたちはたゞ生まれて來たのじやあるまいからな。然うさ、何か意味がなくつちやならん譯わけだ。」と考へて見る。雖然解らない。解らないながらも、何うかすると解るやうにも思はれることもある、で根氣よく其の考を繰返して見る。其の間に解らぬは別問題として、考へることに趣味を持つやうになつた。何といふことは無く考へるのが面白い。此の考は、始めふはりと輕く頭に來た。恰で空明透徹くうめいとうてつな大氣の中へ淡あはい水蒸氣すいじようきが流れ出したやうな有様ありさまであツた。それが日を經る、月を越すに從つて段々と重く濃こまやかになつて、頭の中を攪亂かきみだし引つ括めやうとする。軈がて周三は、此の考に取ツ付いてゐるのが苦しくなつて來た。で何うかして忘れて了はうとする、追ツ拂ぱらはうとする。雖然駄目だ、幾ら踠いたからと謂つて、其の考は蛭ひるのやうに頭の底に粘付すいついて了つた。そして斷たえず其の考に小突こづかかれるので「小突こづかかれるので」はママあるから、神經は次第にひ弱よわとなツて、頬ほゝの肉は剡こける、顏の色は蒼白あをじろくなる、誰が見てもカラ元氣のない不活發ふくわつぱつな青年となツて、體よりも心に疾とく年を老とらせて了ツた。其所で彼は家庭に於ける思索家となツて、何時も何か思索に耽ふけツてゐる、そして何時とは無く實際を疎うとんずるといふ風ふうが出來て來て、都すべての規則きそくを無視むしする、何を爲すのも億劫おつくうになる、嫌になる。そして斷えず「何を爲る?」ということに就いて頭を惱ましながら、實際何一つ爲出來しでかすことも無く、他から見ると唯ブラ〱と日を暮してゐた。從ツて飯めしを食くふ、寢る、起きる、総すべて生活が自堕落じだらくとなツて、朝寢通すやうなこともある、此かくして彼は立派な怠なまけ者となツて、其の居室きよしつまでもやりツぱなしに亂雜らんざつにして置くやうになツた。相と謂つても周三は、女の匂を嗅かぎ廻して頭髪かみに香水かうすゐの匂をさせてゐるやうな浮ついた眞似をするのでもなければ、麦酒ビールウイスキーの味を覺えて、紅い顏をして街頭まちをうろついて歩くやうな不躰裁ふていさいな眞似をするでも無い。たゞ勢の無い、蒼い顏をブラ下げて、何も爲せずに室に燻ぶり込むでゐるだけであツた。要えうするに彼は、宇宙うちうの本體を探さぐらうとしたり人生じんせいの意義を究きはめやうとして、種々な思想を生噛なまがみにしてゐるうちに、何時かデカタン派の影響えいきやうを受うけて、そして其の空氣が弱い併しながらねばツこい力で、次第に其の頭に浸潤しんじゆんして行くのであつた。

自體國家こくかとは動く人間に依よつて組織そしきされるのであるから、國家は些いさゝかも此の種しゆの不生産的ふせいさんてきの人間を要しない。國家の要しないやうな人間は、何所の家庭にだツて餘り歡迎くわんげいされる筈はずが無い。そこで彼は、勝見の家に對しても、また父子爵に對してもむほん人となツた。父子爵といふ人は、維新ゐしんのどさくさ紛まぎれに、何か仕事しごとをして、實際の力以上に所謂いはゆる國家に功勞こうらうある一人にんとなつた人である。明治政府めいぢせいふになツてからも、久ひさしくお役人やくにんの大頭おほあたまに加へられてゐて、頭は古いが馬鹿でなかツたので、一度は歐羅巴えうろツぱ駐剳ちうさつの公使こうしになツたこともある。それで華族令くわぞくれいが發布はつぷされると直に華族に列れつせられて、勲章くんしやうも大きなのを幾個いくつか持ツてゐるやうになる、馬車にも乘ツて歩けるやうになる、何處へ押出しても立派に「御前ごぜん」で通れるほどの身分となツて、腰は曲ツても頭は何時も空を向いてゐる人であツた。今では閑職かんしよくに就いてゐるが、それでも大官たいくわんは大官だ。精力せいりよくはある、覇氣はきはある、酒は飮いける、女には眼が無い、平ひらツたく謂ツたら頑固な利かぬ氣の爺じいさんで、別の言で謂つたら身分の高い野蠻人やばんじんである。其の癖くせ馬鹿に體面たいめんと血統けつとうを重んじて。そこで妾の腹に出來ても、自分の種たねは種であるといふところから、周三を連れて來て嗣子しゝとしたのであつた。從ツて目的がある。父は、周三を自分の想通かんがへどほりに動く木偶でくになツて貰もらひたかツた。して、官吏くわんりまたは軍人ぐんじんにして、身分の體面を維持いじし、家の基礎きそを動かさぬだけの人間に仕上げやうと期してゐたのであツた。

然るに周三は何時も此様なことを考へてゐた。「然うさ、阿父おやじの想は解かツてゐる、俺を家の番人ばんにんにしやうといふんだ………魂のある道具どうぐにして置かうといふんだ。一體家の阿父なんぞは、慈愛じあいだとか、人權を重んずるとかいふ考があツて耐るものじやない、とすりや、俺が此の家の嗣子となツたといふのも、俺自身に子爵家の嫡ちやく子となツてのさばる資格があるのじやなくツて、事件が作ツた資格さ。俺に取ツちや眞箇まつたく偶然ぐうぜんに得られた資格で、阿父からいふと必要に迫まられて與あたへた資格なんだ。此様な資格が俺に取ツて何程の價値がある………假りに子爵が平民よりはえらいといふ特權があるとして見てからが、俺が子爵家の相續人となつたのに何の有難味ありがたみがあるんだ。人として何所にえらい點がある?俺は自己を發揮しなけりやならん、自己の存在を明にしなければならん………此様な家なんか、俺に取ツちや何でもありやしない。阿父は俺を生むで呉れた、併し其れが何も負おふところはありやしない………俺は阿父に對して何等の義務も約束も持ツて生まれて來なかつた。要するに何等の意味も目的も無く生まれて來たのだ。」

周三は奈何いかなる場合にも「自己」を忘れなかツた。そして何處までも自己の權利を主張しゆちやうして、家または家族かぞくに就いて少しも考へなかツた。無論家の興廢こうはいなどゝいふことは頭てんで眼中がんちゆうに置いてゐなかた「置いてゐなかた」はママ。勢、父子爵と衝突せざるを得ない。父の彼に對する期待は甚はなはだ不安となつた。雖然父子爵とても人の親であるから、子に對する慈愛が無いでは無い。で思切つて此の一家内かないのむほん人を家から放逐ほうちくするだけの蠻勇ばんゆうも無かツた。雖然家は周三よりも大事である。結局周三を壓伏あつぷくして自分の考に服從ふくじゆうさせやうとした。併し周三は、實に厄介やくかい極きはまる伜せがれであツた。奈何なる威壓ゐあつを加へても頑ぐわんとして動かなかツた。威壓を加へれば加へるほど反抗はんかうの度を昂たかめて來た。そして軈ては、藝術家が最も自己を發揮するに適するからといふ理由りいうで、生涯しやうがいを繪畫くわいぐわ研究けんきうに委ゆだねるからと切込まれた。勝見子爵はがツかりした。恐らく子爵の生涯のうちに是程氣落のしないことはあるまい。

そこで父子おやこ久しい間あひだ反目はんもくの形勢けいせいとなツた。母夫人はまた、父子の間を調停てうていして、冷ひやツこい家庭を暖あたゝめやうとするだけ家庭主義の人では無かツた。何方かと謂へば、父子の反目に就いて些とも頓着とんちやくしなかツたといふ方が適當てきたうだ。好く謂ツたら嚴正げんせいな中立態度ちうりつないどルビの「ちうりつないど」はママで、敢あへて子爵の味方をするのでも無ければ、また周三に同情を寄せるでも無かツた。さればと謂つて、審判官アンパイアーとなツて、一家の爲に何れとも話を纒まとめるといふことも無く、のんきに高處たかみの見物と出掛でかけた。勿論もちろん母夫人は、華族でもなければ、藝術家でも無い。加之それに自分の分としては財産ざいさんも幾分別になツて、生活の安全も保證ほしようされてあるから、夫人に取ツては、何方が勝かツても敗まけてもカラ平氣だ。そこで要いらざるおせツかいをせぬ事として澄すまし返ツてゐた。

父は憤おこツてゐる、母夫人は冷淡れいたんだ。周三は何處にも取ツて付端つきはが無いので、眞個まつたく家庭を離れて了ツて、獨其の室しつに立籠ツて頑張ツた。同時に彼は、子爵といふ冠かんむりのある勝見家の門内もんないに住すまツて、華族といふ名に依ツて存在し、其の自由を束縛そくばくされてゐることを甚だ窮窟にも思ひ、また意久地いくぢなく無意味に思ふやうになツた。そして何時とは無く病的びやうてきに華族嫌となツて了ツた。此の反動として、彼は獨斷どくだんで、父の所思おもはくに頓着なくドシ〱繪畫の研究に取懸とりかゝつた。

此の根氣くらべは、遂に父子爵の敗北はいぼくとなツた。一つは多少たせう慈愛に引かれた結果けつくつルビの「けつくつ」はママもあツたが、更さらに其の奥おくを探ツたら、周三を遂おツて了ツては血統けつとう斷絶だんぜつの打撃となるから、出來ぬ我慢をして左とに右かく周三の意志いしを尊重そんちようすることにした。子爵は諦あきらめたのだ。また周三に對する考も變かはツた。

「伜は阿呆あほうだが、好い孫まごを生ませる爲に家に置く。」

これが子爵の心の奥に潜ひそめた響であツた。要するに周三は、子爵の爲に、また勝見家の爲に種馬たねうまの資格となツたのだ。好い馬うまを生ませる爲に、種馬の持主もちぬしは誰にしても種馬を大事にする。此の意味で周三は、一家内から相應さうおうに手厚てあつい保護ほごを受けることになツた。繪を研究する爲には、邸てい内に、立派な獨立どくりつの畫室も建たてゝ貰ツた。そして他から見ると、言分いひぶんの無い幸な若様わかさまになツてゐた。雖然種馬は遂に種馬である。父は飼主かひぬしの權威として、彼を壓迫しても其の義務を果させやうとした。然るに周三は、何處までも厄介極まる伜となツて此の壓迫に反抗した。

「何うかして、此の壓制あつせいの空氣を脱れたい。」

周三は絶たえず此の事に就いて考えてゐた。雖然周三とても遉さすがに世の中の波なみの荒あらいことを知つてゐた。で熱する頭を押へて、愼重しんちように詮議せんぎする積で、今日けふまで躊躇ぐづ〲してゐたのであつた。

併しながら今や絶體絶命ぜつたいぜつめいの場合となつて、何方とも身の振方を付けなければならぬ破目はめに押付けられてゐる。で、

「斷行だんかうさ。もう何も考へてゐることあ有りやしない。此の上愚圖ぐづついてゐたら、俺は臆病者おくびやうものよ、加之お房のことを考へたつて………」と思はず莞爾につこりして、「然うよ、こりや一番お房に相談して見るんだな。」

其處で燥いらだつ心を押付けて、沈思默想しんしもくそうの體ていとなる。と謂ツても彼は、何時まで此の問題にのみ取つ付いて、屈詫くつたくの「屈詫の」はママ多おほい頭腦を苦しめてゐる程の正直者しやうぢきものでは無かツた。

空想くうさうは、彼の病やまひである。で此の場合にも彼は何時か、自分が飛出さうと思ふ社會に就いて考へた。社會の組織、社會の制度、社會の状態、社會の缺陥けつかん==何故人間社會には、法律はふりつの條文でうぶんと巡じゆん査の長劍ちやうけんが必要なのであらうか。何故世の中には情死しんぢうや殺人ひとごろしや強盗がうとうや姦通かんつうや自殺じさつや放火はうくわや詐欺さぎや喧嘩けんくわや脅迫けふはくや謀殺ぼうさつの騒が斷えぬのであらうか、何故また狂人きちがひや行倒ゆきだふれや乞食こじきや貧乏人びんぼうにんが出來るのであらうか。それからまた、我々われ〱の住むでゐる、社會には、何故人間を作こさへる學校と人間を押籠おしこめて置く監獄とが存在してゐるのであろう。また何が故に別莊そうを有もつてゐる人と養育院やういくゐんに入る人と。俥くるまに乘る人と曳ひく人と教會ミツシヨンに行く人と賭場とばに行く人とが出來るのであらうか――際限も無く此様なことを考へ出して、何んとか解決を得やうと踠あがいて見た。雖然解らなかった「解らなかった」はママ。

其の間うちに不圖ふとまた考が外それた。今度は砂漠さばくに就いて考へた。

「時々キヤラバンが通るばかりで、さぞ淋さびしいことだろう。だが其處にだツて人生があるんだ。」と思ふ。

「ところで俺は其の沙漠の中に抛出ほうりだされたやうなものなんだ。時々オーシスに出會でつくわするやうなことも無いぢやないか、淋しい旅だ!何方を向いたツて、支さゝへて呉れるやうな者が見當みあたらない。たゞ沙漠の砂すなの燩やけてゐるやうに、頭が熱ほてツてゐるばかりだ。そして何時颶風はやてが起ツて、此の體も魂も埋うづめられて了しまうか知れないんだ。」

考へると、自分が極きはめて危險きけんな立場にゐるやうに思はれる。

「そりや其の筈よ、俺は何等の目的も無く妾めかけの腹に胚やどツた子なんだからな。」

此様な具合に、頭の底に籠つてゐた考が、段々とハツキリ胸に閃いて來る。

「よし、俺は何うしても、自分のことは自分で始末を付けるとしやう。自分の頭にたかツた蠅はひは、自分で逐ふさ。躓つまづいたツて、倒れたツて、人は何でも自分の力で、自分の行く道を拓ひらいて行ツた方が、一番安心だ。それがまた生存せいぞんの意義にも適してゐるといふもんだ。馬じやあるまいし、種を取る爲に保護を受けてゐて耐るものか。」

此の間、何うかすると、ゴト〱、ゴト〱と、輕い、併しながら不愉快ふゆくわいな響が耳に入ツて、惡く神經を小突く。氣が付いて見ると、其は風が中窓ちゆうまどや風拔の戸に衝突ぶつかツて鳴なるのであツた。

「此の風では、街頭まちの砂すなツ埃ほこりは大變たいへんなものだらうな。いや、東京とうきやうの空氣は混濁こんだくしてゐる。空氣が濁にごツてゐるばかりなら可いいが、其の空氣を吸ツて活いきてゐる人間は皆みな濁にごツてゐる………何しろ二百萬まんからの人間が、狭せまい天地てんちに、パンに有付ありつかうと思ツて盰々きよと〱してゐるんだ。皆みんな血走ちはしツてゐるか、困憊つかれきツた連中れんぢうばかりで、忍諸まご〲してゐたら腮あごが干ひ上がらうといふもんだから、各自てん〲に油斷ゆだんも何もありやしない。お互に生存の安全を得やうといふんで、惡狡わるごすく、すばしこく立廻たちまわツて、そりや惨忍ざんにんなもんだ。少し間の延のびた顏をしてゐる者があツたら、突倒つきたふす、踏踣ふみのめす、噛付かみつく、かツ拂ぱらふ、唸うなる、喚わめく、慘憺たんたる惡戰あくせんだ。だから汗あせと垢あかとが到處いたるところに充滿いつぱいになツてゐて、東京には塵埃ごみが多い。然ういふ俺も、其毒惡どくあくな空氣の中へ飛込んで奮闘ふんとうしやうといふんだが、武裝ぶそうは充分じうぶんかな?」

去事いざとなると、何だか氣怯おくれがする。何處かで、「心細い。」と囁さゝやくやうな聲こゑもする。而ると、黄塵くわうぢん濛々そう〱々として「濛々々として」はママ、日光さへ黄きばむで見える大都たいとの空に、是が二百萬まんの人間を活動させる原動げんどう力かと思はれる煤煙はいえんが毒々しく眞まツ黒に噴出し、すさまじい勢でぼやけた大氣の中を縦横じうおうに渦巻うづまいてゐるのがハツキリ眼に映ツて來る。同時に風の音と共に、都會の複雑な音と響とがごツちやになツて、微に耳に響く。周三は、何と云ふ譯もなく此の音と響とを聞き分けて見やうと思ツて、熟じつと耳を澄ましてゐると、其の遠い音と響とを消圧けをして、近く、邸内の馬車廻ばしやまはしの砂利じやりに軋きしむ馬車の轍わだちの音がする。周三は耳を聳そばだてゝ、「ほ、御前ごぜん、何處へかおなりとお出でなツたな。」

とニヤリとする。「先づしめたもんだ、鰐わにの口の方でお逃げなすツたといふ奴よ。これで、俺様の天下さ。どれ、穴を出て、久しぶりで喉のどに痞つかえぬ飯を喰ふとしやうか。」

馬鹿に氣が伸々のび〱として來る。そこで、ぐいと落着拂ツて、平筆を洗ツて、片付けるものを片付けにかかる。片付けながら、彼は、ふと此んなことを考へた。「那あの壓制君主さへゐなかツたら、子爵家の主人あるじになツてゐられるのだ。」

氣が付くと、頭の底に籠ツてゐる考は、何時か固い決心となつてゐたのであツた。それから二時間ばかり經ツて、周三は髭ひげを剃そり、頭髪を梳とき、薄色のサツクコートで、彼としては研みがき上げた男振をとこぶりとなツて、そゝくさ嚴いかめしい勝見家の門を出て行ツた。無論お房の家へ出掛けたので。

*     *     *     *     *

二週間ばかりすると、周三の生活状態は、からり一變して了ツた。彼は勝見の家の壓制な空氣を脱て、お房の家に同居した。所詮永ながい間の空想を實現させたので、無論父にも義母はゝにも無斷だ。彼は此の突飛とつぴ極きはまる行動に、勝見の一家けをまごつかせて、年來ねんらい耐へに耐へた小欝憤せうゝぷんの幾分を漏もらしたのである。一片ぺんの宣言書せんげんしよ==其は頭から尻尾しつぽまで、爆發ばくはつした感情の表彰へうしやうで、激越げきえつを極きはめ、所謂阿父の横よこツ頬つらへ叩たゝき付けた意味のものであツた。先ず自己を尊重するといふ理由に依ツて、子爵といふ金箔を塗ぬツて社會に立たうと思はぬといふのを冒頭のつけにして、彼の如き事情の下に生まれた子は、親の命令に服從する義務が無いと喝破かつぱし、假に義務があるとしても思想を異ことにしてゐるのであるから、壓制の俘とりことなツてゐることは出來ない。成程舊い道徳どうとくの繩なわでは、親は子供の體を縛ツて家の番人にして置くことが出來るかも知れぬが、藝術の權威を遵奉じゆんぽうする自分の思想は其の繩をぶち斬きる。例へば貴方の方には、自分をお叩頭じぎさせたり押籠おしこめたり裸にしたり踏踣したり、また場合に依ツたら殺ころしもすることの出來る力があるかも知れぬが、たゞ一ツ、自分の頭に籠ツてゐる「或物サムシング」だけは何うしても剔出へきしゆつすることは出來ない。としたら、貴方あなたが、力ちからを似て「似て」はママ自分を壓しやうといふことは、殆ど無用むようの惡踠わるあがきと云はんければならぬ。尤も眼を剥むいて見せたら子供は怖こはがる、拳こぶしを振廻したら猫ねこに逃げる、雖然魂のある大人おとなに向ツては何等の利目きめが無い。自分は王侯わうこうの寵愛ちようあいに依ツて馬車に乗ツてゐる狆ちんよりも、寧むしろ自由に野をのさばツて歩くむく犬いぬになりたい。自分は自分の力によツて自分の存立を保證する。自體自分には親が無い。また何等の目的を持ツて生まれなかツた。徒いたづらに出來た子は、何處までも徒らに出來た子になツてゐたからと謂ツて、誰からも不足ふそくを聞く譯は無い筈だ。貴方の都合に依ツて、假に與あたへられた目的、目的に附隨ふずゐする資格、其は改あらためて唯今ただいま返上へんじやうする。

種馬として名馬めいばの仲間なかまに加はるのは甚だ光榮を感ずべきことかも知れぬ。併し自分は親の光を取受うけとツて「取受ツて」はママ、自分を光らせやうとも思はなければ、また華族なる特別の階級クラスに立ツて自己を沒却ぼつきやくするのも嫌だ。自分はたゞの人として自己を發揮すれば足たりる。と云ふに筆ふでを止めて置いた。そして散歩さんぽにでも出るやうに、ぶらりと勝見家の門を出て了ツた。畫室などはそツくり其の儘まゝにして置いて、何一つ持出さなかツた。殆ど身一つで子爵家の空氣を脱れたといふ有様で、「自然の心」をすら放ツたらかして出て了ツた。此の意味からいふと、彼は子爵家から逃げたばかりで無い、其の生命とする藝術をすら見捨てたと謂はなければならぬ。何しろ周三は、其の際さい氣きがせきゝてゐて、失敗の製作までも回護かはふだけ心に餘裕よゆうがなかツた。雖然奈何なる道を行くにしても盲者めくらは杖つえを持ツことを忘れない。また何様な醉ゑひどれでも財布さいふの始末だけはするものだ。周三も其の通りであツた。幾ら空想に醉はされてゐたと謂ツて、彼は喰はなければ活きて居られぬといふことを知ツてゐた。また自分の藝能では、此の喰ツて行くといふことが甚だ不安であることも知ツてゐた。そこで幾ら自由の空氣を吸う爲に氣が慌あはて燥ツてゐたとは謂へ、また奈何にお房の匂を慕ツて心が混沌こんとんとしてゐたからと謂へ、彼は此の生活の不安に對する用意だけは忘れなかツた。彼は勝見の家を出ると定めてから、二三日間といふものは殆ど是が爲に奔走ほんそうして暮した。そして父の信用に依ツて多少の金も借入かりいれる、また自分の持ツてゐた一切の貴重きちやう品を賣拂うりはらツて、節約せつやくしてゐたら、お房母子おやこ諸共もろとも一年間位は何うか支へて行かれるだけの用意をした。彼としては非常な大骨折おほゞねをりで、僅わづか二三日の間に、げツソリ頬の肉が剡こけたと思はれるばかり體も疲つかれ心も勞つかれた。

此の疲勞つかれが出たのか、周三は、お房の許へ引越ひツこして來た晩ばんは實に好く眠ツた。

三

不圖眼が覺めた。其處らが寂しんとして薄暗うすぐらい。體が快く懶ものうく、そして頭が馬鹿に輕くなツてゐて、近頃ちかごろになく爽快さうくわいだ………恰で頭の中に籠ツてゐた腐ツたガスがスツカリ拔けて了ツたやうな心地である。氣が付いて見ると、何だか寢心ねごゝろが違ふ、何時も寢馴ねなれた寢臺ねだいに寐てゐるのでは無い。

「酒にでも醉ツぱらツて、此様な所に寐かされたのかな。」と思ツて見る。彼は幻心うつつごゝろで、尚だ邸に眠ツてゐるものと思ツてゐたのであツた。

足がけツ倦たるいので、づいと伸ばして、寐返がへりを打つ、體の下がミシリと鳴ツて、新しい木綿もめんの芬かほりが微に鼻を撲うツた。眼が辛而やつと覺めかかツて來た。

而すると階下したの方で、

「お房や、些と先生せんせいをお起し申し上げたら可いいじやないか。だツて、もうお午だよ。」と甘ツたるいやうな、それでゐて疳高かんだかい聲がする。お房の母親の聲だ。

「でも、熟よくお眠よツてゐらツしやるんだもの、惡いわ。」と今度は圓まるい柔な聲がする。基れはお房で。周三は何といふことは無く熟じつと耳を澄ました。眼はパツチリ覺めて了つた。でも尚だ床とこの中にもぐもぐしてゐると、

「だツてさ、お前、其様なにお眠よツちや、瞳くろめが溶とろけてお了ひなさるよ。じようだんじやないわね。」

「溶けたツて、此方こつちの眼じアあるまいし、餘計よけいなおせつかいだわ。」と輕く投出すやうに謂ツた。かと思ふと海酸漿うみほゝづきを鳴らす音がする。後はまた寂然ひつそりする。

「成程俺はもう自由の空氣を吸ツてゐるんだ。今日からは、俺は俺の天下だ、誰にも頭を押へられはせんぞ。自立、自立………一つ大に行らう。」

考へると、氣が伸々とする。何だか新しい潮うしほの滿ちて來るやうな、旺さかんな、爽快たうかいな感想が胸に湧わく。頭の上を見ると、雨戸あまどの節ふし穴や乾破ひわれた隙間すきまから日光が射込むで、其の白い光が明かに障子しやうじに映ツてゐる。彼は確にお房の家の二階に寐てゐたことが解ツた。

「好い氣味だ、阿父め、遉に吃驚してゐるだらう。いや、果断さね。俺としちや確に大出來だ。ふゝゝゝ。」と笑出して、「阿父め、確に俺に是れだけ行る度胸どきようが無いものと見くびツてゐたんだからな。那あの手紙を見て、何様顏をしてゐるか………おツと、其様なことは何うでも可いとして、これから小時暗中あんちうの飛躍ひやくと出掛けるんだ。誰にも默だまツて、此處に引込むでゐて、何か出來た時分に、ポカリ現はれて呉れる………屹度きつと大向おほむかふやンやと來る。そこで大手を振ツて阿父の許とこへ出掛けて、俺の腕を見ろいさ。」

蒲団ふとんをば刎はねて、勢好いきほいよく飛起きた。寢衣ねまきを着更きかへて、雨戸を啓あけると、眞晝まひるの日光がパツと射込むで、眼映まぶしくツて眼が啓けぬ。で子供が眼を覺ました時のやうに、眼をひツ擦こすツてゐると、誰かギシ〱音をさせて、狭せまい楷梯はしごを登のぼつて來る。

「お房かな。」と思ツて、所故わざと振向ふりむきもせずにゐる。果してお房だ。

お房は上口あがりくちのところへ顏を出すと直ぐに、「ま、先生、能くお寐ツてね。」と他を輕く見たやうな、うはついた調子でいふ。

周三は輕い不快を感じて、些と苦にがい顏をしたが、「草臥くたびれてゐたからさ。」

「ま、弱蟲よわむしね。先生、そんなにお働はたらきなすツて。」と馴々しい。

「いや、格別働いたといふのじやないが、その、頭を使ツたからさ。」

「頭を使ふと、體まで疲れるもんですかね。」とお房は馬鹿にしたやうな薄笑うすわらひで。

頭てんでお話にならぬので、周三は默ツて了ツた。

お房は、其には頓着なく楷梯を上りきると、先づがたびしする雨戸を三枚啓けて、次に手ばしこく蒲團を畳たたんで押入へ押籠む……夜の温籠ぬくもりは、二十日鼠はつかねづみのやうに動くお房の煽まほりルビの「まほり」はママと、中窓から入ツて來る大氣とに冷さまされて、其處らが廓然からりとなる。お房は、更に其處らを片付け始めた。周三は此の間、お房の邪魔じやまにならぬようにと氣を遣つかツて、彼方此方あつちこつちと位置を移しながら、ポンとして突ツ立ツていた。が、不愉快だ。此處の空氣にも何だか自分を壓迫する要素えうそが籠ツてゐるやうに思ツた。

併しお房は氣が利いてゐる女だ。何時の間にか新しいタオルと石鹸しやぼんと齒磨はみがきと楊子やうじとを取揃そろへて突き出しながら、

「むゝ。」と膨ふくれ氣味の坊ぼツちやまといふ見みえで、不承不精ふしやうぶしやう突出つきだされた品しなを受取ツて、楊子やうじをふくみながら中窓の閾しきゐに腰を掛ける。此の指圖さしづめいたことをされたのが、また氣に觸かかツて、甚だ自分の尊嚴を傷つけられたやうに思ふ。でも直に思ひ復へして、

「教養けうやうの無い女だから爲方がないさ、我慢しろ。其も是も承知で惚ほれたんじやないか。」と怜悧りかうに諦あきらめた。そして、「何だツて俺の感情は、此かう鋭敏えいびんなんだ、恰で蝟はりねずみのやうさな。些とでも觸ツたらプリツとする………だから誰とも融和ゆうわすることが出來ないのよ。何故もそツとおツとりしない。」

風は軟やわらかに吹いてゐた。五月さつきの空は少し濁ツて、眞ツ白な雲は、時々宛然さながら大きな鳥のやうに悠ゆるやかに飛んで行く。日光は薄らいだり輝いたり、都ての陰影いんえいは絶えず變化する。待乳山まつちやまの若葉は何うかすると眼映しいやうに煌きらめいて、其の鮮麗せんれいな淺緑あさみどりの影が薄ツすりと此の室まで流れ込む。不圖カン〱鰐口わにぐちの鳴る音が耳に入る。古風な響だ。

「何だね、ありや?………」と周三はお房の方へ振向いた。

「あれ………」とお房は些と首を傾げ、箒を持つ手を止めて、

「鰐口の音ですわ。誰か聖天樣しやうてんさまへお参詣まいりしてゐるんですよ。」

「お参詣すると何様な功徳があるんだね。」とちやかすやうに謂ふ。

「何様功徳があるか知らないけど、衆みんながお参詣なさるんですの。」

「衆みんなツて何様人さ。」

「ま、藝人が多いのね。そりや素人しろうとだツて、隨分お参詣なさいますけども。」

「素人衆ツて、何だえ。」

「貴方のやうな方なんですもの。」と澄ましていふ。

「じや、房ふうちやんもお参詣するのか。」

「え。つい此間こなひだまでお百度を踏むでゐたんですもの………少しお願があツたもんですから。」と首を縮めて莞爾する。

「お願ねがひ?………」と周三は眼を睜みはツて、「お願とア、何様なお願なんだえ。」

「そりや秘密ないしよなんですとさ。」と輕く謂ツて、「聞きたきア、聖天様に伺ツてゐらツしやい。」

「何だえ、隱さなくツても可いじやないか。」と少し突ツかかり氣味になツた。

「隱すツて譯じやないんですけれど………」と些と思はせぶりを行ツて、「ま、止よしませう。私にだつて、御信心ごしんじんがあるんですとさ。ね、解ツたでせう。」と邪氣つみの無い笑顔ゑがほを見せる。

「解らんね、些とも………」と周三は苦りきつて、「謂ツたツて可いだらう。謂はれない?………」

「だツて極きまりが惡いんですもの………」と嘘うそでない證據しようこといふやうに顏を赧あからめ、「男をとこの方かたツてものは、他の事を其様に根堀ねほり葉堀はほりなさるもんじやないわ。」

「生意氣なまいき謂ツてゐら………」と投出なげだすやうに謂ツて、「して、何かえ。其の、お百度の御利益ごりやくがあツたのかえ。」

「は、有ツたから、貴方が私ツ許とこへ來て下すツたんでせう。」と低い聲で、眞面目に謂ツて、クスリ〱笑い出した。

「何だ。」と周三は傍を向いて苦笑した。彼は確におひやられたのであツた。雖然何と思ツたのか格別腹も立てなかツた。

二階かいと謂ツても、眞ほンの六畳でふ一ひと室まで、一間けんの押入おしいれは付いてゐるが、床とこの間まもなければ椽えんも無い。何のことはない箱はこのやうな室へやで、たゞ南の方だけが中窓になツてゐる。天井は思切ツて煤すゝけてゐて、而も低い。壁かべは、古い粘土色へなつちいろの紙を張りつめてあツたが、處々ところ〱破やぶれて壁土かべが露はみ出て、鼠の穴も出來ている。加之柱はしらも眞つ黒なら、畳も古い、「確に舊幕時代の遺物だ。」と思ツて周三は、づらり室を見廻して、「幕府ばくふ時代の遺物の裡うちに、幕府時代の遺民が舊い夢を見ながら、辛うじて外界の壓迫に耐へて活きてゐるんだ。ま、敗はい殘の人さな。俺の阿母おふくろも然うだツたが、當こ家の母娘おやこだツて然うよ。昔は何うの此うのと蟲の好い熱を吹いてゐるうちに、文明の皮を被てゐる田舎者に征服せいふくされて、體も心も腐らして了ふんだ。早い話が、此の家にしても然うじやないか、三軒の棟割むねわり長屋を二軒まで田舎者に占領せんりやうされてゐる。そして都會は日に日に膨脹ぼうちやうする………膨脹とはガスが風船を膨らませる意味なんだから、膨ふくらむだけ膨ふくらむだら何時か破裂だ。何しろ米の出來る郷くににゐる田舎者ゐなかものが、米こめの出來ない東京へ來て美味うまい飯めしに有あり付かうとするんだから耐たまらん………だから東京には塵芥ごみが多い。要するに東京は人間の掃溜はきだめよ。俺も掃溜の中にもぐ〱してゐる一人だ。田舎者の眞似じやないが、米の無い土地で米を稼かせがうとするんだ。自體人間の生存税は滅切めつきり高價かうかになツて來た、殊ことに吾々われ〱藝術家は激戰げきせんの最さい中で平和演説へいわえんぜつを行やツてゐるやうなもんだから、存立そんりつが危あやふい!………これからは誰が俺の腑ふを充みたして呉れるんだ。豈夫まさかパレツトを看板かんばんにしてフリ賣もして歩けないじやないか!」

考へると心細こゝろぼそくなる。何處に取ツて付端つきはが無いやうにも思はれる。

「俺も愈々渦の中をまひ〱してゐる塵芥になツてアツたんだ「アツたんだ」はママ。」眼をそらして、づツと街頭まちの方を見る。何も見えない、窓と屋根やねばかりだ。中には活々いき〱と青草あをくさの生はえている古い頽くづれかけた屋根を見える。屋根は恰で波濤なみのやうに高くなツたり低くなツたりして際限さいげんも無く續いてゐた。日光の具合で、處々光ツて、そして黯くろくなツてゐる。此の屋根の波濤なみは、大きな東京の蓋ふただ。

「蓋!大きいが、脆もろい蓋だ!何うかすると、ぶツ壊こはされたり、燒やけたりする。併し直に繕つくろはれて、町の形を損せぬ。ただ瓦かはらが新しくなツたり古くなツたりするだけだ。」

古來こらい幾多いくたの人間は、其の下で生まれ、そして死んだ。時が移る、人が變る、或者は破壊はくわいした。併し或者は繕ツた。そして永劫えいがふの或期間だけ蓋の形を保續して來た、要するに集あつまツた人の力が歳月さいげつと闘たゝかツて來たのだ。雖然戰ツた痕跡こんせきは、都て埃の爲に消されて了ツた。

「埃の力は偉大ゐだいだ!」と周三は、吻ほツと歎息ためいきして、少時埃に就いて考へた。

大おほいなる都會を埋うづめ盡つくさうとする埃!………其の埃は今日も東京の空に漲みなぎツて、目路めじの涯はてはぼやけて、ヂリ〲照てり付ける天日てんぴに焦こがされたやうになツてゐた。其の鈍色にぶいろを破ツて、處々に煤煙はいえんが上騰のぼツてゐる。眞直まつすぐに衝騰つきのぼる勢が、何か壓力に支へられて、横にも靡なびかず、ムツクラ〱、恰で沸騰ふつとうでもするやうに、濃黒まつくろになツてゐた。此の烟けむりと埃ほこりとで、新しい東京は年毎としごとに煤すゝけて行く。そして人も濁にごる。つい眼前めのまへにも湯屋ゆやの煤突えんとつがノロ〱と黄色い煙を噴出してゐた。其處らは人を蒸むすやうな温氣うんきを籠めたガスに、薄うツすりぼかされてゐた。其のガスの中から、斷えずカタ〱、コト〱と、車の音やら機械の音やら何やら何うしてゐても聞き定さだめることの出來ぬ鈍にぶい響が洩もれて來る………都會の音==活動の響だ。時々豆腐屋とうふやの鈴すゞの音、汽笛きてきの音、人の聲などがハツキリと聞える。また待乳山まつちやまで鰐口が鳴ツた。

周三は、吃驚したやうに頭を擡もたげると、お房は何時の間にか掃除そうじを濟すまして脇わきに來て突立ツてゐた。

「何を考へてゐらツしやるの。」

「何も考へてゐやしない。」と無愛想ぶあいそうに謂ツて、墨々まじ〱とお房の顏を見ると、

「あら、其様に見詰めちや嫌ですよ。何か、くツついてゐて」と平手ひらてでツルリと顏を撫なでる。

「何が、くツついてゐるもんか。白粉おしろいを拔りこくツた顏に、紅い唇と黒い眼と眉毛まゆけとがくツついてゐるだけよ。」

「じや、おばけ見たやうね。かあいさうに、これでも鼻がありまさアね。」

「誰も無いとあ謂やしない。確に眞ん中にある。而も好い鼻さ。」とふざける。

「え、何うせ然うなんですよ。憎にくらしい!………」と眼に險を見せ、些と顎をしやくツて、づいと顏を突出す。其の拍子ひやうしに、何か眼に入ツたのか、お房は急に肝々きよと〱して、甚ひどく面喰めんくツた髓ていとなる「髓となる」はママ。

「何うしたんだ。」と周三も怪訝けげんな顏をする。

「あれ、御覧ごらんなさいよ。誰か此方を見てゐますよ。」と囁くやうにいふ。

振向いて見ると、成程誰か、待乳山の観望臺ものみだいに立ツて熟じつと此方を見下してゐた。

周三は眼色を變へて、衝つと立起たちあがツたかと思ふと、突如いきなりピツシヤリ障子を閉めきツた。

「まあ。」とお房は、其の猛烈もうれつな勢に呆あきれて、瓢輕へうきんな顏をする。

「可かんな。那處あすこから此の室を見下されちや、恰で高土間たかどまで芝居見物しばゐけんぶつといふ格だ。」と嫌な顏をする。

「可いじやありませんか。見られたツて、何でも無いんですもの。」

「いや、可かんよ。これじや來る奴にも見られるんだからな。俺は當分たうぶん隱れてゐなけアならん體なんだ。」

「解るもんですか。」

「いや。」と剛情がうじやうに頭を振ツて、「解らなくツても、見世物ではあるまいし、他から見られるといふのが面白くない。可かんよ、何とか工夫をしなけア………」と考込む。

「じや、障子を閉めきツて置いたら可いでせう。」

「ま、然うでもするんだが………然うすると、體に好くない。それでなくとも………」と室の隅から隅へ眼を配ツて、「空気の流通りうつうが惡いんだからな。」

「其様な勝手なことを有仰おつしやツたツて可けないわ。そりや何うせお邸やしきにゐらツしやるやうなことは無いんですからね。」と何でもづけ〱いふのがお房の癖である。

「むゝ。」と默ツて了ツて、「何しろ氣の塞つまる室だ。これじや畫室の裡に押込められてゐた方が氣が利きいてゐるかも知れん。」と思ふ。

間も無く兩人ふたりが階下したに下りた。階下はまた非常に薄暗い。二階から下りて來ると、恰で穴の中へでも入ツたやうな心地がする。それでも六畳でふと三畳と二室ふたまあツて、格子かうしを啓けると直ぐに六畳になツてゐた。此處でお房の母は、近所の小娘や若い者を集めてお師匠ししやうさんを爲てゐる。と謂ツて、自分でも出来るといふ程出來はしないと謂ツてゐる位だから、大した腕は無い、長唄の地に、歌澤うたさはも少し彈ひけて、先づモグリをしてゐるには差支さしつかへのない分のことだ。

隅の方には古いながらも前桐まへぎりの箪笥たんすも一本置いてあツて、其の上に鏡臺きようだいだの針箱だのが載のせてある。何れも性しやうの知れたものだが、手入が可いので見榮みはえがする。正面には家に較べて立派な神棚かみだながあツて、傍の方に小さな佛壇ぶつだんもあツた。神棚には福助ふくすけが乗ツかゝツてゐて、箪笥の上には大きな招猫まねきねこと、色が褪さめて凋しぼんだやうになつて見える造花つくりはなの花籠はなかごとが乗りかツてゐた。壁には三味線さみせんも三棹みさほかゝツてゐる、其の下には桐きりの本箱ほんばこも二つと並べてある。何しろ此の家の財産の目星めぼしい物といふ物が殘らずさらけ出してあるのだが、其れが始末好く取片付とりかたつけられてゐるから、其處そこらがキチンと締ツて清潔せいけつだ。そして此の陰氣いんきなじめ〱した室にも、何處となく、小意氣こいきな瀟洒さつぱりした江戸的氣風が現はれてゐた。三畳の方は茶の間になツてゐて、此處には長火鉢ながひばちも据すゑてあれば、小さなねずみいらずと安物やすものの茶棚ちやだなも並べてある。柱はしらには種々なお札がベタ〱粘付はりつけてあツた。次が臺所だいどころで、水瓶みづがめでも手桶てをけでも金盥かなだらいでも何でも好く使込むであツて、板の間にしろ竈かまどにしろ釜かまにしろお飯櫃はちにしろ、都て拭ふきつやが出てテラ〱光ツてゐた。雖然外は汚きたない。市井の底そこに住む人等ひとたちの脂あふらと汗とが浸潤しんじゆんしてか、地は、陰濕じめ〲してどす黒い………其のどす黒い地べたに、ぽツつり〱、白く洒しやれた貝殼かひがらが恰で研出とぎだされたやうになツてゐる。下水げすゐからは下水の水が溢あふれてゐる、芥箱には芥が充滿いつぱいになつている。其處らには赤く銹さびたブリキの鑵くわんのひしやげたのやら貧乏びんぼう徳とく利の底の拔けたのやら、またはボール箱の破れた切ツ端やら、ガラスの破片かけらやら、是れと目に付くほどの物はないが、要するに廢すたれて放擲られた都會の生活の糟かすと殘骸ざんがい………雨と風とに腐蝕ふしよくした屑くづと切ツぱしとが、尚なほしも淋さびしい小汚こぎたない影かげとなツて散亂ちらばツてゐる。臺所から十歩ばかりで井戸がある。井戸は舊きう時代の遺物ゐぶつと謂ツても可い車井戸で、流しの板も半腐はんぐさりになツて、水垢みづあかと苔こけとで此方から見ると薄ツすり青光あをひかりを放ツてゐた。車も歳月の力と人の力とに磨すり減へらされて、繩が辛而やつと篏はまツてゐる位だ。井戸の傍に大株おほかぶの無花果いちゞくがコンモリとしてゐる。馬鹿に好く葉が繁しげツてゐるので、其の鮮麗せんれいな緑色みどりいろが、寧むしろ暗然あんぜんとして毒々どく〱しい。これが、此の廢殘はいざんの境さかひにのさばつて尤もつとも人の目を刺戟しげきする物象ぶつしやうだ………何うしたのか、此の樹の梢こずえに赤あかい絲いとが一筋ひとすじ絡からむで、スーツと大地だいちに落ちかゝツて、フラ〱軟やはらかい風に揺ゆらいでゐた。

何故なぜか此の有るか無きかの影が、ハツキリと眼に付いた。

「誰が、彼處あすこへ彼様あんな糸いとをかけたのだらう。」と周三は考へた。途端とたんに日はパツと輝かゞやいて、無花果の葉は緑の雫しづくが滴こぼるかと思はれるばかり、鮮麗に煌きらめく。

何しろ幾百年來ねんらい、腐敗ふはいしたあらゆる有機體いうきたいの素を吸込すひこむで、土地はしツけてゐる。ところへ物ものを蒸むし、そして發酵はつこうさせるやうな日光が照付てりつけるのであるから、地はむれて、むツと息の塞つまるやうな温氣うんきと惡臭あくしうとを放散ほうさんする。

「生活の饐すえる臭にほひだ!」

其の時、周三の頭に、幻まぼろしの如ごとく映ツたのは、都會生活の慘憺さんたんたる状態じやうたいだ。「何も驚くことはありやしない。此の臭を嗅かぎ馴なれて平氣へいきになツて了はなけア、自分で自分の存在そんざいを保證ほようルビの「ほよう」はママすることが出來ないんだ。」

雪隱せちいんの傍わきには、紫陽花あじさゐの花が痩やせひよろけて淋さびしく咲さいてゐた。花の色はもう褪あせかゝツてゐた。

其れから少し離れて、隣家となりで挘もぎツて捨てた鰯いわしの頭が六ツ七ツ、尚だ生々なま〱しくギラ〱光つてゐた。其に銀ぎん蠅がたかツて、何うかするとフイと飛んでは、またたかツてゐた。

「那あれも造物者ざうぶつしやが作ツた一個の生物せいぶつだ………だから立派に存在している………とすりや俺だツて、何卑下ひげすることあ有りやしない。然うよ、此うしてゐるのが既もう立派に存在の資格があるんだ。何の目的も無く生まれたからツて………何さ、生うむで貰もらツたからと謂ツて、其れが必かならずしも俺の尊嚴そんげんに泥どろを塗るといふ譯わけではあるまい。」と周三は、ふと頭の底から苦しい考を引ツ張り出した。

「早い話が、何家どこの大事な公達きんだちだツて、要するに、親の淫行の收穫よ。ふゝゝゝ」と危あやふく快げに笑出さうとして、「ま、安心だ………是だけア確に安心が出來やうといふもんだ。そりや生むのは親だらうが、生まれるのは自然だからな。自體親から必要を感じて生んで貰ツた人間が幾らあるんだ?………と氣が付かずに、やきもき氣を揉もんでゐたのア馬鹿だ。成程此の事じや、其様に阿父を憎むことは出來ないて!………俺だつて親になるかも知れんのだからな。だが人間と云ふ奴やつは、親になると、何うして其處そんな勝手な根性こんじやうになるんだ。何等の目的も無く生むで置きながら、伜せがれがやくざだと大概たいがい仲違なかたがひだ!其處が人間のえらい點かも知れんが、俺は寧ろ犬ツころの淡泊たんぱくな方を取るな。彼奴きやつ子供を育てたからつて決して恩おんを賣りはしない。」

周三は、臺所に立ツて顏を洗ツてゐる間、種々な物を観みて、そして種々な事を考へた。彼の頭は自由の空氣に呼吸こきふするやうになツても、依然として忙せわしく働いて、そして針はりのやうに鋭するどい。

周三は、此の朝、久しぶりで下町したまちの水で顏を洗つて、久しぶりで下町の臭を嗅いだ。そして眼に映ツた物は、都て不快な衝動しようどうを與あたへたに抱かゝはらず「抱はらず」はママ、而しかも心には何んといふことは無く爽快そうくわいな氣が通ツて、例へば重い石か何んぞに壓おツ伏ぷせられてゐた草の芽めが、不圖ふと石いしを除かれて、伸々のび〱と春の光に温ぬくめられるやうな心地になツてゐた。で、腕の血色けつしよくを見ても、濁にごりが除とれて、若い血が溌溂はつらつとして躍をどツてゐるかと思はれる。

頭の中に籠ツてゐた夜の温籠ぬくもりを、すツかり清水せいすいで冷さまして了ツた、さて長火鉢ながひばちの前に坐すはると、恰で生まれ變ツたやうな心地だ。

お房の母は愛想あいそ宜よく、「窮屈な、嫌な箇所とこでせう。」

と謂ひながら茶を汲くむで呉れる。

「何有なあに、僕は些と此様こんなな箇所が性しやうに適かなつてゐるんでね。」

と負惜まけおしみをいふと、

「ま、とんだ御愛嬌ごあいけうですこと………」と若々わか〱しく笑ふ。

それしやの果てか、何しろほツそりした意氣なおふくろだ。薄い頭髪、然うとは見えぬやうにきように櫛卷くしまきにして、兩方りやうほうの顳顬こめかみに即効紙そくかうしを張ツてゐた。白粉燒おしろいやけで何方どつちかといふと色は淺黒あさぐろい方だが、鼻でも口でも尋常じんじやうにきりツと締ツてゐる。肉は薄い方だ、と謂ツて尖とがツた顏といふでは無い。輪郭りんくわくを取つたら三角かくに近い方で、割わりに額ひたひが廣ひろく、加之拔上ぬけあがツて、小鼻まわりに些と目に付く位に雀斑そばかすがある。それでも爭あらそはれぬ證擔しようこは「證擔は」はママ、眼と眉がお房にそつくりで、若い時分はお房よりも仇あだツぽい女であツたらうと思はれる。幾度水に潜くゞツたかと思はれる銘仙めいせんの袷あはせに、新しい毛襦子けじゆすの襟えりをかけて、しやツきりした姿致やうすで長火鉢ながひばちの傍に座ツてゐるところは、是れが娘をモデルに出す人柄ひとがらとは思はれぬ。年は四十五六、繊細きしやな手にすら欺もう小皺こしわが見えてゐた、「見えてゐた、」はママ

お房は、チヤブ臺を持出もちだしたり、まめ〱しく立働たちはたらいて、お膳ぜんの支度したくをしてゐる。周三は物珍ものめづらしげに那あれを見たり是れを見たりして、きよろついてゐると、軈てお膳に向ふ段取だんどりとなる。見れば、自分の爲に新しい茶碗ちやわんと角かくの箸はしまでが用意されてあツた。周三は一種しゆ暖あつたかい情趣じやうしゆを感じて、何といふ意味も無く悦うれしかつた。併しおかづは手輕てがるだ、葡萄豆ぶだうまめと紫蘇卷しそまきと燒海苔やきのりと鹿菜ひじきと蜊貝あさりのお汁つゆ………品は多いが、一ツとして胃ゐの腑ふの充みたすに足たりるやうな物はない。加之味も薄い。雖然周三は、其れにすら何等の不滿を感ぜず、舌したと胃の腑の欲望よくぼうを充すよりも、寧ろ胸に饒ゆたかな興趣きやうしゆの湧わくのを以つて滿足した。要するに彼は、設よし此時だけにもしろ、味が薄いが、簡かんにして要を得た市民的生活が氣に適ツたのであつた。

「何有なあに、これで可いいさ、澤山たくさんだ。何うにか辛抱しんぼうの出来んこともあるまい。人間は、肉は喰はなくつても活きてゐられる動物よ。」

此くて飯めしが濟すむと、三人して、一ツきり雑談に時を移した。

雜談ざつだんの間に周三は、何かひツかゝりを作へては、お房の素性すじやうと經歴けいれきとを探つた。そして約ほぼ想像そう〱して見ることが出來るまでに手たぐり出した。

要するにお房は平凡な娘だ。周三が思つてゐたよりも無邪氣むじやきで、また思ツたよりも淺い女らしい。たゞ些と輕い熱情のあるのが取得と謂えば取得だが、それとても所謂いわゆる鼻はなツ張ぱりが強いといふ意味に過ぎぬ。さればと謂ツて、ナンセンスといふ方では無い。相鷹おうに「相鷹に」はママ苦勞もあれば、また女性の免まぬがれぬ苦勞性の點とこもある。無垢むくか何うか、其れは假りに疑ぎ問として置くとして、左程さほど濁つた女で無いのは確だ。一體見得坊で、少し片意地な點もあつて、加之に負嫌まけぎらい。經歴といへば、母と一緒に生活の苦勞を爲したゞけのことで。

雖然其の運命は悲慘な幕に蔽おほわれる。父は、お房が十二の年に世間からはくたばツたと謂はれて首を縊くゝツて死んだ。其の動機は事業の失敗しつぱいで、奈何いかに辛辣しんらつな手腕しゆわんも、一度逆運ぎやくうんに向ツては、それこそ鉈なたの力を苧売おがらで「苧売で」はママ防ぐ有様ありさまであつた。で踠あがけば躓つまづき、躓いては踠き、揚句あげくに首も廻らぬ破目はめに押付けられて、一夜あるよ頭拔づぬけて大きな血袋ちぶくろを麻繩あさなわにブラ下げて、脆もろくも冷ひやツこい體となツて了ツた。そして其の屍體したいが地の底に納おさまるか納まらぬに、お房の家は破産の宣告せんこくを受けて一家か離散りさんとなツた。

父といふ人は、強慾がうよくで、そして我執がしふの念の強い、飽迄あくまでも物質慾よくの旺さかんな人物であツたらしい。始のほどは高利かうりの金を貸し付けて暴利ぼうりを貪むさぼり、作事こしらへごとを構かまへて他を陥おとしいれ、出ては訴訟沙汰そしようさた、入いツては俗事談判ぞくじだんはんの絶たゆる間も無き中に立ツて、頑ぐわんとして、たゞ其の懐中くわいちうを肥こやすことのみ汲々きふ〱としてゐた。因より正當せいたうの腕を探ふるつて儲まうけるのでは無い、惡い智惠ちえを搾しぼツてフン奪だくるのだ………だから他の怨うらみを購かひもする。併し金は溜たまつた。お房の母は、また、其れが苦になツて、機をりさへあれば其の非行ひかうを数へ立てて、所天をツテを罵倒こきおろした。雖然馬の耳に念佛ねんぶつだ。一體父は、余り物事に頓着とんちやくせぬ、おつとりした、大まかな質でありながら、金といふ一段になると、體中の神經がピリ〱響を立てて働くかと思はれるばかり、遣口やりくちが猛烈まうれつとなる。從ツて慘忍ざんにんを極め辛辣を極めて、殆んど何物なにものも眼がん中に置かず、眞箇まツたくシヤイロツク的人物となツて了ふ。されば夫婦の間は、何時か不和ふわになツて、父は虐ぎやく待する、母は反抗する、一家けの粉統ごだ〱は事としと共に募つのるばかりであツた。併しお房は、父が無類むるゐの強慾がうよくにも似ぬ華美奴はでごのみであツたお蔭かげに、平常ふだんにも友禪いうせんづくめで育ツてゐた。

然るに父の慾望は一年々々に膨大ぼうだいとなツて、其の後不圖ふと事業熱じげふねつに取ツ付かれた。そして怪あやしい鑛山くわうざんやら物にならぬ會社やら、さては株や米にまで手を出したが、何れも失敗で、折角の集あつめ銭ぜにをパツ〱と吐はき出すやうな結果となつた。才さいの無いのに加へて、運が後足で砂と來てゐる………何うして其の計畫の當あたらう筈はずが無い。名譽めいよよりも地位よりも妻よりも娘よりも、また自分の命よりも大事な財産は、何か事業を起す度毎たびごとに幾らかづつ減つた。減る度に大きな歎息ためいきだ。それでも事業熱は冷めなかつた。設よしや事業熱は冷さめても、失敗を取返へさう、損害を償つくのはうといふ妄念まうねんが熾さかんで、頭は熱ほてる、血眼ちまなこになる。それでも逆上氣味のぼせぎみになツて、危い橋でも何んでも妄やたらと渡ツて見る………矢張やはり失敗だ。踠けば踠くほど痍きずを深くして、結局自滅だ。

「いやはや、も、阿父の亡くなツた時のまごつき方と謂ツたらありませんでしたね。今考てもぞツとしますわ。」と謂ツて、おふくろは、話の一段を付けた。そして些と娘の方を見て、「ですから私等も、一ひとつ頃は可成かなりに暮してゐたものなんですが、此う落魄おちぶれちや糞くそですね。」

周三は垂頭うつむき加減で、默ツて、神妙しんめうに聞いてゐたが、突如だしぬけに、「だが、其の贅澤ぜいたくを行ツてゐた時分と、今と、何方が氣樂だと思ひます。」とぶしつけに訊たづねる。

「然うですね………」とおふくろは、些とまごついた躰で、輕かるく首を振る。そして不思議さうに周三の顏を眠みつめた。

周三は勢せいのないやうな薄笑うすわらひをして、右の肩をむツくら聳そびやかし、「自分といふものゝ沒却ぼツきやく………ま、其の何だ。一口ひとくちにいふと、すツかり我を無くしてゐても、大きな家に入ツて、美味うまい物を喰ツて、しやなら〱と暮らしてゐた方が可よいと思ふんですか。」

おふくろは、何の事だか頓とんと解らないといふ風で、

「え、そりや………」とあやふやなことを謂ツて、お房の顏を見る。

お房は、所故わざとケロリとした顏をして、酸漿ほゝづきを鳴ならしてゐた。

周三は、燥いらつき氣味で、「じや、何うです。狆ちんころになツて馬車に乗るのと、人間になツて車力しやりきを挽ひくのと何方が可いと思います。」

「ふゝゝゝ。」とおふくろは、擽くすぐツたいやうに笑出して、「何だか、謎なぞをかけられてゐるやうですね。」と事もなげにいふ。

「解らない?………然うですかね。」と周三は、解らぬことは無い筈だといふやうにおふくろの顏を見る。

お房は傍から口を出して、「だけど、阿母おつかさん、そりや阿父おとつさんが生きてお在いでだツたら、此様に世帶せたいの苦勞をしないでゐられるかも知れないけれども、其の代かわりまた何様な苦勞かあるか知れたもんじやないのね。」

「そりや然うだとも!………世の苦勞があるから、偶時たまにア亡くなツた人のことも思はないじやないけども正直しやうじき家作かさくでも少しあツたら、此うしてゐた方が幾ら氣樂らくだか知れやしない。」

「だけど、貧乏びんぼうも嫌いやだわ。」とお房は、臆病おくびやうらしく投出なげだすやうにいふ。

「そりや嫌さ。貧ひんすれば鈍どんするツていふからね。」

「眞箇まつたくね。」

「でも私ア、池いけの端はたにゐる時よか、いツそ此うしてゐた方が、まだ〱のんきな位なもんだよ。」

「そりや阿母さんはもう、御酒おみきでも少しきこしめしてゐらツしやりや、太平樂たいへいらくさ。」

「馬鹿なことをお謂ひでないよ。お前は何かてえと、お酒みきお酒ツてお謂ひだけれども、私が幾ら飮のむもんじやない。二合がふも飮いけア大概たいげエ醉まゐツて了ふんだかや、月に積ツたツて幾らがものでもありやしないよ。お前………其れも毎晩まいばん飮むといふんじやなしさ。」

「フン、女の癖くせに二合も飮いけりや豪儀がうぎだゼ。」とお房は冷ひやゝかに謂ツて、些と傍を向き、「だツて、一月ひとつき儉約けんやくして御覧ごらんなさいな、チヤンと反物たんものが一反たん購かへますとさ。」

「でもお前、幾ら着物を作えたツて、苦勞は忘れられないよ。阿母さんのやうになツちや、是れツてえ樂しみがあるんじやなし、お酒でも飮まなけア遣切やりきれないやね。」

「阿母さん酒さけを飮むのですか。」と周三は、呆きれたような顏で横鎗よこやりだ。

「え、眞ほんの少しばかしね。何者なあに、飮まなけア飮まないでも濟むんですけども、氣が欝うつした時なんか一ツ猪口ちよこ戴いただくてえと、馬鹿に好いい氣持になツて了ふもんですから、つい戴く氣になツて了ふのですの。貴方あなたは?」

「飮いけません。」と妙めうに堅かた苦しくいふ。

「飮あがらないの………」とがツかりしたやうに謂ツて、「何方かツてえと、飮あがらない方が可いんですよ。そりやもう其れが可いんですけれども」………と氣怯きおくれがするのか、少しとちり氣味で、私なんか、飮み習ならツて了ツたもんですから、些と癈やめるてえ譯には参まいらないんですよ。酒の味が、もうすツかり骨身ほねみに沁渡しみわたツて了ツたんですね。其がてえと、貴方、尚だ所天やどがゐた時分じぶんに、ほら、氣が莎蘊むしやくしやすることばかりなんでせう、所天はもうお金に目が眩むでゐるんですから、私が何と謂ツたツて我を押張おしはツて、沒義道もぎだうな事を爲す、世間からは私までが夜叉やしやのやうに謂はれる、私がまた其れが死ぬよりも辛つらかツたんですけれども、房これがゐてゝ見りや、貴方、豈夫まさかに別れることも出來ないじやありませんか。私はもう何の因果で此様な人と夫婦いつしよになツたんだらうと思いながら、種々義理の絡まツてゐることもあツたんですし、嫌でも勤つとめるだけのことは勤めなければならない。さア、面白くないから膨ふくれもしますさ。ぬ「ぬ」はママ、家は始終しよつちう紛糾ごた〱するツてツた譯なんでせう。爲方しかたがないから、御酒ごしゆで蟲むしを耐へてゐたのが、何時か眞ほんとののむべいになつて了ツたんですけれども、そりや誰だつて好んでのむべいになる者アありやしませんよ。」

「嫌だよ、阿母さんは!………何んとか巧うまく理屈りくつを何ける「何ける」はママんだもの。」とお房は、飜弄まぜつかへすやうにいふ。

「嫌きらひな子だよ、お前は何時でもちやかしてお了ひだけれども、眞箇なんだよ。」とおふくろは躍起やくきとなツて、「そりやお前には私の苦勞が解らないんだから………」

「ですから、澤山たんとお飮あがんなさいましよ。」とまたちやかす。

おふくろは眼でもつて、些と忌々いま〱しさうにして見せたが、それでも慍おこりもしないで、「お前は眞ンとに思遣おもひやりが無いんだよ。」と愚痴ぐちるやうにいふ。

お房は思切ツていけぞんざいな語調てうしで、「へツ、其様な人に思遣があツて耐るかえ。此の上うへ飮まれたんじや、無けなし身上しんじやう飮のみつぶしだア!」と言尻を引く。

周三は眼を圓まるくした。そして熟じツとお房の顏を見詰めた。

「豈天まさか「豈天」はママ、お前………」とおふくろは何處までも氣の好い挨拶あいさつだ。

周三は笑止きのどくに思ツた。で、幾らかおふくろに同情した積で、「然うですかナ、酒を飮むと、實際氣が晴れるものでせうか。」と合槌あひづちを打つ。

「そりや晴れますよ。ま、飮むでゐる間うちア、眞箇何も彼も忘れて了ひますね。」

「然うですかナ。じや僕も飮むかな。」

「些とお飮あがりになツた方が可うございますよ。」

「ま、耐らない、のむべゑが兩人ふたりになられたんじや、私が遣切やりきれないよ。」とお房は無遠慮ぶえんりよにかツ貶けなす。

「可いじやないか、房ふうちやんものむべゑの仲間入するのさ。三人して朝からへゞツてゐることにすりや、好いいぜ。」と周三はふざける。

「何が好いもんですか。他ひとに狂人きちがひだツて謂はれてよ。」

「管かまはんさ。のんきで可いじやないか。」

「好いね、のんきが可いね。」とおふくろは、上づツた聲で、無法むはふに悦うれしがり、「一日でも可いから何うかして其様なことにしたいもんだ………何と謂われても管はない、私はのんきになりたいね。」

「生活に疲つかれた悲音ひおんだ!」と周三は呟つぶやく。

「嫌なこツた!のんきになりや世間の笑草わらひぐさだわ。」

とお房は、おふくろに打付ぶツつけるやうにいふ。それからまたおふくろの身上みのうへ話が始まツて、其の前身は藝者げいしやであツたことが解ツた。身上話が濟むと貧乏話と來る。おふくろは色消いろけしに包つつむで置くべきボロまで管はずぶちまけと、お房は遉さすがに顏を赧あからめて注意を加へた。それで周三は、お房の家が見掛よりも、また自分の想像してゐたよりも苦しがりであることを知ツた。同時にまたおふくろという人は、些とぐうだらな點とこはあるが、氣のさくい、毒どくのない人といふことも解ツた。

「私が意久地いくじが無いからなんですよ。阿父が亡くなつたからツて、此様に窮こまらなくツても可い譯なんですがね。」とおふくろは、話の間に幾度か氣の引けるやうに謂ツた。

周三はまた、「何點どこか俺の生母せいぼに似た點とこがある。」と思ツた。で何となく懐慕なつかしいやうにも思はれ、また其の淋さびしい末路まつろが哀あはれになツて、

「俺の生母はゝのやうに早死わかじにしても憫然かあいさうだが、また比の「比の」はママおふくろのやうになツても氣の毒だ。」とムラムラと同情の念が湧いた。そこで「ま、可いさ、其様に懊々くよ〱しても爲方が無い。僕は何うかなりや決して放擲ツちや置かん。」と熱心に氣やすめばかりでないところを謂ツて、「何うせ、人生じんせいツてものは淋しいものさ。不幸なことを謂や僕なんか随分ずいぶん………」と謂ひかゝツて、ふと口を噤つくむでお房は氣の無い顏で外の方を眺ながめてゐる。

周三は、針でつゝかれたやうに不快を感じて、フイと氣が變る。顏が苦にがりきツた。途端とたんにチヤキ〱木鋏きばさみの音がする。

「おや、花屋はなやさんが來たやうだね。」とおふくろも外を覗のぞくやうにする。

お房は衝つと立起ツて、あたふた 「あたふた 」はママ格子の方へ行くかと思ふと、と、振返ツて、「お花ばかりで可いの。」

「然うね、何か挿さし花でも少しお取りな。」

お房は、點首うなづいたまま、土間を下りるか下りぬに、ガラリ格子戸を啓あけ、顏だけ突出つきだして大きな聲で花屋を呼ぶ。

「ま、何てえ大きな聲をするんだろう。」とおふくろは、些と眉をひそめ、「柄からは大きくツても、尚だカラ赤子ねんねなんですから。」と周三の顏を見て薄笑をする。

周三は傍を向いて無言だ。彼の眼に映ツた豊艶ほうえんな花は少しづつ滲染しみが出て來るやうに思はれるのであツた。おふくろは迂散うさんらしい顏で、しげ〲周三の顏を瞶みつめてゐた。間も無くお房は銭の音をちやらつかせる。周三は何といふことは無く振向いて見た。而るとお房は、紅を吸上げさせた色の褪さめたやうに淡紅い菖蒲あやめの花と白の杜若かきつばたとを五六本手に持つて、花屋と何か謂ツてゲラ〱笑出す。周三は耐らず嫌な氣持がしたので、ぷいと立起ツて二階へ歸らうとする………と格子の外に据すゑてある花屋の籠に、花といふ花が温い眞晝の日光を浴びて、凋むだやうになツて見えるのが瞥さらと眼に映ツた。

それを見たまま、周三はさツ〱と二階へ上ツて了ツた。

周三が梯子はしごを上りきる時分に、お房は花を箪笥たんすの上に置いて三疊でふへ入ツた。

「何うしたの?」と低聲ここえにいふ。

おふくろは、默ツて輕く首を振ツて見せた。お房は、くの字なりにべツたり坐ツて、

「お天氣な人ね。」とへいちやんだ。

「でも、何かお氣に觸さはツたのかも知れないよ。」

「フン、何も此方が惡いことを爲たんじやあるまいし、勝手に慍ツてゐるが可いわ。」

と投出すやうに謂ツて湯呑ゆのみを取上げ、冷めた澁茶しぶちやをグイと飮む。途端とたんに稽古けいこに來る小娘こむすめが二三人連立つれだツて格子を啓けて入ツて來た。

*      *      *      *      *

周三は、一ヶ月つきばかり虚々うか〱と暮して了ツた。格別面白いといふ程の事は無かツたが、また何時まで頭に殘ツてゐる程の不快も感じなかツた。芝居しばゐには二度行ツた。寄席よせにも三晩ばんばかり行ツた。併し何方にも何等の興味きようみを感ぜず、單に一所いつしよに行ツたお房とおふくろを悦ばせたといふに過ぎなかツた。それから繻珍しゆちんの夏帶なつおびとお召めしの單衣ひとえと綾絹あやぎぬの蝙蝠傘かふもりがさとを強請ねだられて購かはせられたが、これは彼の消極的經濟せうきよくてきけいざいに取ツて、預算よさん以外の大支出だいししゆつで、確に一大だい打撃だげきであツた。雖然お房の意いを充みたす爲に敢あへて此の苦痛くつうを忍しのんだ。然しかるにお房は、彼の財布さいふには底そこが無いものと思ツて、追續おツつぎ々〱々〱預算以外の支出を要求して、米屋八百屋の借を拂はらはせたり、家賃やちんの滯を埋うめさせたり、纒まとまツて幾らといふ烏金からすがねの口くちまで拂はせた。それで周三の財布は一日々々に萎縮いしゆくした。

「耐たまらんな、此かう取付けられちや!」と周三は、其その貧弱ひんじやく極きわまる經濟けいざいの前途ぜんとに向むかツて、少からぬ杞憂きいうを抱いだいた。彼は必しも金を惜をしむといふのではないが、自分の腕に依よツて自己の存立そんりつを保證されるまで、其金に依ツて自己を支ささへて行かなければならぬかと思むと、勢きりつめ主義にもなるのであツた。きりつめ主義を實行しやうとすると、お房の頬ほゝが膨れる。そこで謂ふがままに支出した。實際大苦痛である。雖然其苦痛を償つぐなふだけの滿足もあツたのだから、何うにか此うにかおツ怺こらへては經てゝ來た。滿足とはガラスを透すかして見てゐた花を手に取ツて頬ずりしたことであツた。此の滿足に依ツて、燃えてゐた血は幾か鎭靜ちんせいになツたが、氣は相變あひかはらず悶々する。何を悶々するのか自分にも能くは解らなかツたが、始終悶々する。成程なるほど邸やしきにゐた時分、頭の中に籠ツてゐたガラスはすツかり脱けて了ツた。併しお房の家には、彼の鋭敏な感情をつツつく針があツて、斷えず彼を惱ますのであツた。そして自ら生命としてゐた藝術も忘れて了ツて、何時とはなく味あじの薄い喰物にも馴れて行くのであツた==平民の娘は次第に彼の頭を腐蝕ふしよくさせた。

底本 / Source edition

底本:「三島霜川選集(中巻)」三島霜川選集刊行会
1979(昭和54)年11月20日発行
初出:「文芸倶楽部」
1907(明治40)年8月1日
※「パレツト」と「バレツト」、「顔」と「顏」、「雑」と「雜」、「悪」と「惡」と「変」と「變」、「出来」と「出來」、「争」と「爭」、「来る」と「來る」、「圧」と「壓」、「総《す》べて」と「總《す》べて」、「欠」と「缺」、「惨」と「慘」、「縦」と「縱」、「巻」と「卷」、「乗」と「乘」、「断」と「斷」、「蒲団」と「蒲團」、「畳」と「疊」、「聖天様」と「聖天樣」、「空気」と「空氣」、「数」と「數」、「随分」と「隨分」、「裸体」と「裸體」、「歿」と「沒」の混在は、底本通りです。
※「/″\」の誤用と思われる箇所もありますが、底本通りとしました。
※誤植を疑った箇所は、「原文そのものにも何箇所か誤ったルビが打たれており、加えて適宜な宛字もあるので、校正に当たった人々のシンクは大変であった。とはいえ、できる限り原文に忠実に、原作を損ねないよう配慮したことはいうまでもない。」と底本に記述されていることを鑑みママ注記としました。
入力:小林 徹
校正:富田晶子
2016年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/042254_000022/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/042254_000022/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/042254_000022/

三島 霜川「平民の娘」(旧字旧仮名)、底本『三島霜川選集(中巻)』三島霜川選集刊行会、1979年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042254_000022, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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