Soranoha

おとずれ

おとずれ

国木田 独歩

⦅上⦆

五月二日付の一通、同十日付一通、同二十五日付の一通、以上三通にてわれすでに厭あき足りぬと思いたもうや。もはやかかる手紙願わくは送りたまわざれとの御意ぎょい、確かに承りぬ。されど今は貴嬢きみがわれにかく願いたもう時は過ぎ去りてわれ貴嬢きみに願うの時となりしをいかにせん。昨年の春より今年の春まで一年ひととせと三月みつきの間、われは貴嬢きみが乞こわるるままにわが友宮本二郎が上を誌しるせし手紙十二通を送りたり、十二通に対する君が十五通の礼状を数えても一年と三月が間の貴嬢きみがよろこびのほどは知らる。今十二通の裏にみなぎる春の楽しみを変えて三通を貫く苦き消息おとずれとなしたもうは貴嬢きみならずや。貴嬢きみがいかに深き事情わけありと弁解いいひらきたもうとも、かいなし、宮本二郎が沈みゆく今のありさまに何の関かかわりあらん。かの三通はげに貴嬢きみが読むを好みたまわぬも理ことわりぞかし、これを認したためしわれ、心乱れて手もふるいければ。されどわれすでにこの三通にて厭あき足りぬと思いたまわば誤りなり。今はわれ貴嬢きみに願うべき時となりぬ。貴嬢きみはわが願いを入れ、忍びて事の成り行きを見ざるべからず、しかも貴嬢きみ、事の落着は遠くもあるまじ、次を見候そうらえ。――手荒く窓を開きぬ。地平線上は灰色の雲重なりて夕闇ゆうやみをこめたり。そよ吹く風に霧雨きりあめ舞い込みてわが面おもてを払えば何となく秋の心地ここちせらる、ただ萌もえ出いずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久とこしえに逝ゆきたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢きみもわれもこの悲しき、あさましき春の永久とこしえにゆきてまたかえり来たらぬを願うぞうたてき。

わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空の雲をながめ入りてしばしは夢心地せり。われには少しもこの夜の送別会に加わらん心あらず、深き事情こころも知らでただ壮さかんなる言葉放ち酒飲みかわして、宮本君がこの行こうを送ると叫ぶも何かせん。

げに春ちょう春は永久とこしえに逝ゆきぬ。宮本二郎は永久を契りし貴嬢きみ千葉富子ちばとみこに負そむかれ、われは十年の友宮本二郎と海陸、幾久しく別れてまたいつあうべきやを知らず、かくてこの二人ふたりが楽しき春は永久とこしえにゆきたり。わが心は鉛のごとく重く、暮れゆく空は墓のごとし。

この階下したの大時計六時を湿しめやかに打ち、泥を噛かむ轍わだちの音重々おもおもしく聞こえつ、車来たりぬ、起たつともなく起ち、外套がいとうを肩に掛けて階下したに下り、物をも言わで車上に身を投げたり。運び行かるる先は五番町なる青年倶楽部クラブなり。

倶楽部の人々は二郎が南洋航行の真意を知らず、たれ一人ひとり知らず、ただ倶楽部員の中うちにてこれを知る者はわれ一人のみ、人々はみな二郎が産業と二郎が猛気とを知るがゆえに、年若き夢想を波濤はとうに託してしばらく悠々ゆうゆうの月日をバナナ実る島に送ることぞと思えり、百トンの帆船は彼がための墓地たるを知らざるなり。知らぬも理ことわりならずや、これを知る者、この世にわれとわが母上と二郎が叔母おばとのみ。あらず、なお一人の乙女おとめ知れり、その美しき眼まなこはわが鈍き眼に映るよりもさらに深く二郎が氷こおれる胸に刻まれおれり。刻みつけしこの痕跡あとは深く、凍れる心は血に染みたり。ただかの美しき乙女よくこれを知るといえども、素知らぬ顔して弁解いいひらきの文ふみを二郎が友、われに送りぬ。げに偽りという鳥の巣くうべき枝ほど怪しきはあらず、美うるわしき花咲きてその実は塊つちくれなり。

二郎が家に立ち寄らばやと、靖国社やすくにしゃの前にて車と別れ、庭に入りぬ。車を下おりし時は霧雨やみて珍しくも西の空少しく雲ほころび蒼空あおぞらの一線ひとすじなお落日の余光をのこせり。この遠く幽かすかなる空色は夏のすでに近きを示すがごとく思われぬ。されど空気は重く湿しめり、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立こだちの夕闇ゆうやみは頭うなだれて影のごとく歩む人の類たぐいを心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息ためいきつきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度たびぞ。

水瀦みずたまりに映る雲の色は心失うせし人の顔の色のごとく、これに映るわが顔は亡友なきともの棺ひつぎを枯れ野に送る人のごとし。目をあげて心ともなく西の空をながむればかの遠き蒼空の一線は年若きわれらの心の秘密の謎語なぞのごとく、これを望みてわが心怪しゅう躍りぬ。ああ年少の夢よ、かの蒼空はこの夢の国ならずや、二郎も貴嬢きみもこのわれもみなかの国の民なるべきか、何ぞその色の遠くして幽かすかに、恋うるがごとく慕うがごとくはたまどろむごとくさむるがごときや。げにこの天をまなざしうとく望みて永久とこしえの希望語らいし少女と若者とは幸いなりき。

池のかなたより二人の小娘、十四と九つばかりなるが手を組みて唄うたいつつ来たるにあいぬ。一目にて貧しき家の児こなるを知りたり。唄うはこのごろ流行はやる歌と覚しく歌の意こころはわれに解げし難し。ただ二人が唄う節ふしの巧みなる、その声は湿しめりて重き空気にさびしき波紋をえがき、絶えてまた起こり、起こりてまた絶えつ、周囲あたりに人影見えず、二人はわれを見たれど意こころにとめざるごとく、一足歩みては唄い、かくて東屋あずまやの前に立ちぬ。姉妹はらから共に色蒼あおざめたれど楽しげなり。五月雨さみだれも夕暮れも暮れゆく春もこの二人にはとりわけて悲しからずとりわけてうれしからぬようなり、ただおのが唄う声の調べのまにまにおのが魂たまを漂わせつ、人の上も世の事も絶えて知らざるなり。人生まれて初めは母の唄いたもう調べに誘われて安けく眠り、その次は自ら歌いて自ら眠るこの姉妹のごときなり、人唄えばとて自ら歌えばとてついに安き眠りを結び得ざるは貴嬢きみのごとき二郎のごときまたわれのごとき年ごろの者なるべし、ただ二郎この度たびは万里ばんりの波上、限りなき自然の調べに触れて、誠なき人の歌に傷つきし心を安めばやと思い立ちぬ。げに真情まごころ浅き少女おとめの当座の曲にその魂を浮かべし若者ほど哀れなるはあらじ。

われしばしこの二人を見てありしに二人もまた今さらのように意こころづきしか歌を止とどめ、わが顔を見上げて笑いぬ、姉なるは羞はずかしげに妹なるはあきれしさまにて。われまたほほえみてこれに応こたえざるを得ざりき。君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ噛かむちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの唐突とうとつなるとにわれはあきれて微笑ほほえみぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。されど片目の十蔵がかく語りしものを痛きことかなと妹は眼まなこをみはり口とがらせ耳をおおいて叫びぬ。たちまち姉は優しく妹の耳に口寄せて何事かささやきしが、その手をとりて引き立つれば妹はわれを見て笑えみつ、さて二人は唄うこともとのごとくにしてかなたに去りぬ。

げに見すぼらしき後ろ影、蓬よもぎなす頭、色あせし衣、われはしばしこれを見送りてたたずみぬ。この哀れなる姿をめぐりて漂う調べの身にしみし時、霧雨きりあめのなごり冷ややかに顔をかすめし時、一陣の風木立ちを過ぎて夕闇嘯うそぶきし時、この切那せつなわれはこの姉妹はらからの行く末のいかに浅ましきやを鮮あざやかに見たる心地せり。たれかこの少女おとめらの行く末を守り導くものぞ、彼ら自ら唄いて自ら泣く時も遠くはあるまじ。

急ぎて裏門を出いでぬ、貴嬢きみはここの梅林を憶おぼえたもうや、今や貴嬢には苦しき紀念かたみなるべし、二郎には悲しき木陰となり、われには恐ろしき場処となれり。門かどを出いずれば角かどなる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て微かすかに礼いやなしぬ、貴嬢きみはこの娘を憶えいたもうや。賤いやしきこの娘を。

二郎はすでに家にあらざりき、叔母はわれを引き止めてまたもや数々かずかずの言葉もて貴嬢を恨み、この恨み永久とこしえにやまじと言い放ちて泣きぬ、されどいずこにかなお貴嬢を愛めずる心ありて恨めど怒り得ぬさまの苦しげなる、見るに忍びざりき。叔母恨むというとも貴嬢きみ怒るに及ばじ、恨む心は女の心にして、恨む女は愛めずる女なり、ただこの叔母を哀れとおぼさずや。

叔母のいいけるは昨夜夜ふけて二郎一束の手紙に油を注ぎ火を放ちて庭に投げいだしけるに、火は雨中に燃えていよいよ赤く、しばしは庭のすみずみを照らししばらくして次第に消えゆくをかれは静かにながめてありしが火消えて後もややしばらくは真闇まくらなる庭の面おもをながめいたりとぞ。火や煙や灰や闇黒あんこくや、二郎はその次に何者をか見たる。

わが車五味坂ごみざかを下れば茂み合う樫かしの葉陰かげより光影ひかげきらめきぬ。これ倶楽部クラブの窓より漏るるなり。雲の絶え間には遠き星一つ微かすかにもれたり。受付の十蔵、卓に臂ひじを置き煙草たばこ吹かしつつ外面そともをながめてありしがわが姿を見るやその片目をみはりて立ちぬ、その鼻よりは煙ゆるやかに出いでたり。軽く礼いやして、わが渡す外套がいとうを受け取り、太くしわがれし声にて、今宮本ぬしの演説ありと言いぬ。耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの美うるわしき声、沈める調ちょうなり。堂の闥たつを押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて事務室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女が狂犬のうわさせしといいし片目の十蔵を憶おもい起こしぬ。十蔵はわが振り向きしを見て急にランプの火を小さくせり。われその故ゆえを解げし得ず、ただ見る六尺ばかりの大男の影おぼろなるが静かに事務室の中うちに消え去りしを。この十蔵が事は貴嬢きみも知りたもうまじ、かれの片目は奸よこしまなる妻が投げ付けし火箸ひばしの傷にて盲つぶれ、間もなく妻は狂犬にかまれて亡うせぬ。このころよりかれが挙動ふるまいに怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく兄弟はらからもなし。

予は闥たつを排して内に入りぬ。

三十余りの人々長方形の卓を囲みて居並びしがみな眼まなこを二郎の方にのみ注げば、わが入り来たれるに心づきしは少なかりき。一座粛然たる中うちに二郎が声のみぞ響きたる。かれが蒼白あおしろき顔は電燈の光を受けていよいよ蒼白く貴嬢きみがかつて仰ぎ見て星とも愛めでし眼まなこよりは怪しき光を放てり。ただいずこともなく誇れる鷹たかの俤おもかげ、眉宇びうの間に動き、一搏いっぱくして南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて聴きけど、暗き穴より飛び来たりし一矢深くかれが心を貫けるを知るものなし、まして暗き穴に潜める貴嬢きみが白き手をや、一座の光景ありさまわが目にはげに不思議なりき。

二郎は病やまいを養うためにまた多少の経画けいかくあるがためにと述べたり、されどその経画なるものの委細は語らざりき。人々もまたこれを怪しまざるようなり。かれが支店の南洋にあるを知れる友らはかれ自らその所有の船に乗りて南洋に赴おもむくを怪しまぬも理ことわりならずや。ただひたすらその決行を壮さかんなりと思えるがごとし。

女の解し難きものの一をわが青年倶楽部の壁内ならでは醸かもさざる一種の灝気こうきなりといわまほし。今の時代の年若き男子一度この裡うちに入りて胸を開かばかれはその時よりして自由と人情との友なるべし。さてさらに貴嬢きみの解し難きものの一を言わんか、この灝気こうきを呼吸するかの二郎なり。何ゆえぞと問いたまいそ、貴嬢もしよくこれを解し得うる少女ならんにはいかで暗き穴よりかの無残なる箭やを放たんや。二郎述べおわりて座につくや拍手勇ましく起こり、かれが周囲には早くも十余人のもの集まりたり。廊下に出いずるものあり、煙草に火を点ずるものあり、また二人ふたり三人みたりは思い思いに椅子いすを集め太き声にて物語り笑い興ぜり。かかる間あいだに卓上の按排あんばい備わりて人々またその席につくや、童子ボーイが注つぎめぐる麦酒ビールの泡あわいまだ消えざるを一斉に挙あげて二郎が前途を祝しぬ。儀式はこれにて終わり倶楽部の血はこれより沸かんとす。この時いずこともなく遠雷のとどろくごとき音す、人々顔と顔見合わす隙ひまもなく俄然がぜんとして家振るい、童子部屋ボーイべやの方にて積み重ねし皿さらの類の床に落ちし響きすさまじく聞こえぬ。

地震ぞと叫ぶ声室の一隅いちぐうより起こるや江川と呼ぶ少年真っ先に闥たつを排して駆かけいでぬ。壁の落つる音ものすごく玉突き場の方にて起これり。ためらいいし人々一斉に駆けいでたり。室しつに残りしは二郎とわれと岡村のみ、岡村はわが手を堅く握りて立ち二郎は卓のかなたに静かに椅子に倚よれり。この時十蔵室の入り口に立ちて、君らは早く逃げたまわずやというその声、その挙動ふるまい、その顔色、自己みずからは少しも恐れぬようなり。この時振動の力さらに加わりてこの室の壁眼前に崩くずれ落つる勢いすさまじく岡村と余とは宮本宮本と呼び立てつつ戸外に駆けいでたり。十蔵も続いて駆けいでしが独ひとり二郎のみは室に残りぬ、われいかでためろうべき、二郎を連れ出さばやと再び内に入らんとするを岡村堅くわが手を握りて放たず、われら口々に宮本宮本と呼び立てぬ。この時十蔵卒然独り内に入りたり。われらみな十蔵二郎を救うことぞと思い、十蔵早くせよと叫び、戸口をきっと見て二人の姿の飛び出いずるをまちぬ。瓦かわら降り壁落つ。われらみな樫かしの老木おいきを楯たてにしてその陰にうずくまりぬ。四辺あたりの家々より起こる叫び声、泣き声、遠おちかたに響く騒然たる物音、げにまれなる強震なり。

待てど二郎十蔵ともに出いで来たらず、口々に宮本宮本、十蔵早く出いでよと叫べども答えすらなし、人々は顔と顔と見合して愕おどろき怪しみ、わが手を握りし岡村の手は振るいぬ。

この時わが胸を衝つきて起こりし恐ろしき想おもいはとても貴嬢きみの解げしたまわぬ境なり、またいかでわが筆よくこれを貴嬢きみに伝え得んや。試みに想い候そうらえ、十蔵とは奸よこしまなる妻のために片目を失いし十蔵なり、妻なく子なく兄弟なく言葉少なく気重く心怪しき十蔵なり。二郎とはすなわち貴嬢きみこそよく知りたもう二郎なり。あわれこの二人は始めよりその運命を等しゅうすべきところありて黙々のうちその消息おとずれを互いに会しいたるならざるか。柱鳴り瓦飛び壁落つる危急の場にのぞみて二人一室に安座せんとは。われこれを思いし時、心の冷え渡るごとき恐ろしきある者を感じぬ、貴嬢きみはただこの二人ただ自殺を謀はかりしとのみのたもうか、げに二郎と十蔵とは自殺を謀はかりしなるべきか。あらず、いかで自殺なる二字をもってこの二人の怪しき挙動ふるまいの秘密を解き得うべきぞ、貴嬢きみがいわゆる人とは自ら生きんことを計り自ら死なんことを謀る動物なるべし、この二つの一つを出いでざる動物なるべし。

間もなく振動は全くやみぬ。われら急に内に入りて二人を求めしに、二郎は元の席にあり、十蔵はそのそばの椅子に座し、二郎が眼まなこは鋭く光りて顔色がんしょくは死人かと思わるるばかり蒼白あおしろく、十蔵は怪しげなる微笑を口元に帯びてわれらを迎えぬ。あまりの事に人々出す言葉を知らざりき。倶楽部員は二郎の安全を祝してみな散じゆき、事務室に居残りしは幹事後藤ごとうのみとなりぬ。十蔵は受付の卓に倚よりて煙草を吹かし、そのさまわがこの夜倶楽部に来し時と変わらず見えたり、ただ口元なる怪しき微笑のみ消えざるぞあやしき。

余は二郎とともに倶楽部を出いでぬ。

一天晴れ渡りて黒澄みたる大空の星の数も算よまるるばかりなりき。天上はかく静かなれど地上の騒ぎは未いまだやまず、五味坂なる派出所の前は人山を築けり。余は家のこと母のこと心にかかれば、二郎とは明朝を期して別れぬ。

家には事なかりき。しばし母上と二郎が幸さちなき事ども語り合いしが母上、恋ほどはかなきものはあらじと顔そむけたもうをわれ、あらず女ほど頼み難きはなしと真顔にて言いかえしぬ。こは世にありがちの押し問答なれどわれら母子おやこの間にてかかる類たぐいの事の言葉にのぼりしは例なきことなりける。されど母上はなお貴嬢が情けの変わりゆきし順序をわれに問いたまいたれど、われいかでこの深き秘密を語りつくし得ん、ただ浅き知恵、弱き意志、順なるようにてかえって主我の念強きは女の性なるがごとしとのみ答えぬ。げにわれは思う、女もし恋の光をその顔に受けて微笑ほほえむ時は花のごとく輝く天津乙女あまつおとめとも見ゆれど、かの恋の光をその背にして逃げ惑うさまは世にこれほど醜きものあらじと、貴嬢はいかが思いたもうや。

母上との物語をおえて二階なるわが室しつにかえり、そのまま身を椅子に投げ、両手もてわが顔をおおいぬ。この時こころの疲れ、身の疲れを一時に覚えて底なき穴に落ちゆく心地ここちし、しばしは何事をも忘れたり。夢現ゆめうつつの境を漂うて夜のふくるをも知らざりしが、ふと心づきて急に床に入りたれど今は心さえてたやすくは眠るあたわず、明けがた近くなりてしばしまどろみぬと思うや、目さめし時は東の窓に映る日影珍しく麗うららかなり、階下したにては母上の声す、続いて聞こゆる声はまさしく二郎が叔母なり、朝とく来たりて何事の相談ぞと耳そばだつれど叔母の日ごろの快活なるに似ず今朝けさは母もろともしめやかに物語して笑い声さえ雑まじえざるは、いぶかしさに堪たえず、身を起こして衣着かえんとする時階段を上り来る音してやがて頭さしいだせしはわが妹なり、宮本の叔母様来たりたまいぬ早く下おりたまえと言い捨ててそのまま階下にゆけり。

朝の事をおわるや急ぎて母上の室を入れば、母上と叔母とは火鉢ひばちを中にして対したまい、叔母はわが顔を見て物をものたまい得ず、ハンケチにて眼まなこふきふき一通の手紙を渡したまえり。これ二郎が手紙なり。

文は短けれど読みおわりて繰り返す時わが手振るい涙たばしり落ちぬ、今貴嬢きみにこの文ふみを写して送らん要あらず、ただ二郎は今朝夜明けぬ先に品川しながわなる船に乗り込みて直ちに出帆せりといわば足りなん。この身にはもはや要なき品なれば君がもとに届けぬ、君いかようにもなしたまえと書き添えて貴嬢きみの写真一枚はさみあり、こは貴嬢きみがこの正月五日御地より送りたまいし物の由。さてわれにも要なき品なれば貴嬢きみに送り返すべきなれど思う節あればしばしわが手もとに秘め置く事といたしぬ。無益とは知りつつも、車を駆りて品川にゆき二郎が船をもとめたれど見当たらぬも理ことわりなり、問屋といやの者に聞けば第二号南洋丸は今朝四時に出帆せりとの事なれば。

ああ哀れなる二郎、われらまたいつ再びあうべきぞ。貴嬢きみはわれもはやこの一通にて厭あき足りぬと思いたもうや。あらず、あらず、時は必ず来たるべし――

大空隈くまなく晴れ都の空は煤煙ばいえんたなびき、沖には真帆まほ片帆かたほ白く、房総の陸地くがじ鮮あざやかに見ゆ、射さす日影、そよぐ潮風、げに春ゆきて夏来たりぬ、楽しかるべき夏来たりぬ、ただわれらの春の永久とこしなえに逝ゆきしをいかにせん――

⦅下⦆

時は果たして来たりぬ、ただ貴嬢もわれも二郎もかかる時かかるところにて三人相あうべしとは想おもいもよらず。

時は果たして来たりぬ、一年ひととせと二月は仇あだに過ぎざりき、ただ貴嬢きみにはあまり早く来たり、われには遅おそく来たれり、貴嬢きみは永久とこしえに来たらざるを希こいねがい、われは一日も早かれとまちぬ、いずれにもせよ余がこの手紙認したたむべき時はついに来たれり。

夏の玉章たまずさ一通、年の暮れの玉章一通、確かに届きぬ。われこれに答えざりしは今の時のついに来たりて、われ進みて文ふみまいらすべきことあるをかねて期ごしいたればにて深き故ゆえあるにあらず。今こそ答えまいらすべし、ただ一言ごん。弁解の言葉連ねたもうな、二郎とてもわれとても貴嬢きみが弁解の言葉ききて何の用にかせん。二郎が深き悲しみは貴嬢きみがしきりに言い立てたもう理由ことわりのいかんによらで、貴嬢が心にたたえたまいし愛の泉の涸かれし事実の故のみ。この事実は人知れず天あめが下にて行なわれし厳おごそかなる事実なり。

いかなる言葉もてもこれを言い消すことあたわず、大空の星の隕おちたるがごとし、二郎はその理由ことわりのいかんを見ず、ただ光の失うせぬるを悲しむ。げにこの悲しみや深し。

友の交わりを続けてよとの御意ぎょい、承りぬ。これより後なお真の友義というものわれらが中に絶えずば交わりは勉つとめずとも深かるべし、ただわが言うべきを言わしめたまえ、貴嬢のなすべきことは弁解を力つとむることにはあらで、諸手もろてを胸に加え厳かに省みたもうことなり、静かにおのが心を吟味したもう事なり、今われ実にかの人を愛するや否やと。おのれの心の変わりゆきし跡を見たもうてあきれたもうとも笑いたもうとも泣きたもうとも、そは貴嬢が自由なり、されどあきるるも笑うも泣くもみな貴嬢が品性ひとがらによりてのことなれば、あながち貴嬢が自由ともいい難がたし。

さて時はついに来たりぬ、いざわが文に入らん。

午後四時五十五分発横浜行きの列車にわれら二人が駆け込みし時は車長のパイプすでに響きし後のちなることは貴嬢の知りたもうところのごとし。二郎まず入りてわれこれに続きぬ、貴嬢の姿わが目に入りし時はすでに遅かりき、われら乗りかうるひまもなく汽車は進行を始めたり。

貴嬢の目と二郎が目と空にあいし時のさまをわれいつまでか忘るべき、貴嬢は微かすかにアと呼びたもうや真蒼まさおになりたまいぬ、弾力ばね強き心の二郎はずかずかと進みて貴嬢が正面の座に身を投げたれど、まさしく貴嬢を見るあたわず両の掌たなごころもて顔をおおいたるを貴嬢が同伴者つれの年若き君はいかに見たまいつらん。ただ静かに貴嬢を顧みたまいて貴嬢きみの顔色の変われるに心づき、いかにしたまいし心地ここち悪あしくやおわすると甘ゆるように問いたまいたる、その時もしわが顔にあざけりの色の浮かびたりせば恕ゆるしたまえ、二郎が耳にはこの声いかに響きつらん、ただかれがその掌たなごころを静かに膝ひざの上に置きて貴嬢が伴つれの方をきっと見たる、その時のかれが眼まなこより怪しき光の閃ひらめきしを貴嬢はよくも得え見たまわざりしと覚ゆ。

貴嬢きみがわずかに頭をあげて、いなとかの君の問いに答えたまいたる、その声は墓のかなたより亡者や吹き込みし。

よき物まいらせんとてかの君手さげの内を探りたまいしが、こはいかに宝丹ほうたんを入れ置きぬと覚えしにと当惑のさまを、貴嬢は見たまいて、いなさまでに候わずとしいて取り繕わんとなしたもうがおかしく、その時もしわが顔に卑下いやしみの色の動きたりせば恕ゆるしたまえ。

われ二郎に向かいて、御身は宝丹持ちたもうならずやと問えば、二郎、打ち惑いたるさまにてわずかに、しかりと答う。かの君の肝きも太きことよ、直ちに二郎に向かって、少し賜わずやと求めたもう。貴嬢がこの時の狼狽ろうばいのさまこそおかしけれ、君よさまでには候わず宝丹には及ばずと訴うるようにのたまいし声はしわがれて呼吸いきするも苦しげにおわしぬ。

二郎やむを得ず宝丹取りだして、われに渡しければわれ直ちに薬を掬すくいて貴嬢が前に差しいだしぬ、この時貴嬢きみが眼まなこうるみてわが顔を打ち守りたまいたる、ああ刻むごき君かなとのたまいしようにわれは覚えぬ。

たやすく貴嬢が掌たなごころいだしたまわぬを見てかの君、早く受けたまわずやと諭さとすように物言いたもうは貴嬢きみが親しき親族みうちの君にてもおわすかと二郎かの時は思いしなるべし、ただわれ、宇都宮時雄の君とはこの人のことよと一目にて看み破りたれば、貴嬢きみに向かってかかる物の言いざましたもうを少しも怪しまざりき。貴嬢きみが掌に宝丹移せし時、貴嬢きみは再びわが顔を打ち守りたまいぬ、うるみたる貴嬢の目の中には、むしろ一匙さじの毒薬たまえ刻むごき君とのたもう心鮮あざやかに読まれぬ。二郎はかの方かたに顔を負そむけ、何も知りたまわぬかの君は、ただ一口に飲みたまえと命ずるように言いたもう、そのさまは、何をかの君かく誇りたもうぞと問わまほしゅうわが思いしほどなりき。貴嬢きみが眼まなこを閉じて掌を口に当て、わずかに仰ぎたまいし宝丹はげに魂たまに沁しみ髄に透とおりて毒薬の力よりも深く貴嬢の命を刺しつらん。されどかの君は大口開きて笑いたまい、宝丹飲むがさまでつらきかと宣のたまいつつわれらを見てまた大口に笑いたもう。げに平壌へいじょう攻落せし将軍もかくまでには傲おごりたる色を見せざりし。

二郎が苦笑いしてこの将軍の大笑たいしょうに応こたえ奉りしさまぞおかしかりける。将軍の御齢おんとしは三十を一つも越えたもうか、二郎に比ぶれば四つばかりの兄上と見奉りぬ。神戸こうべなる某商館の立者とはかねてひそかに聞き込みいたれど、かくまでにドル臭き方とは思わざりし。ドル臭しとは黄金こがねの力何事をもなし得るものぞと堅く信じ、みやびたる心は少しもなくて、学者、宗教家、文学者、政治家の類たぐいを一笑し倒さんと意気込む人の息気いきをいう、ドルの文字はまたアメリカ帰りの紳士ちょう意をも含めり。詳しき説明は宇都宮時雄の君に請いたもうぞ手近なる。

いずこまで越したもうやとのわが問いは貴嬢きみを苦しめしだけまたかの君の笑壺えつぼに入りたるがごとし。かの君、大磯おおいそに一泊して明日は鎌倉かまくらまで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど――。われ、そは御おん楽しみの事なるべし、大磯鎌倉は始めてのお越しにや。かの君さりげなく、妹いもとには始めての遊びになん。ああこの時、わが目と二郎の目とは電いなずまのごとく貴嬢が目を射たり、蒼あおざめし貴嬢が顔はたちまち火のごとく赤く変わり、いそぎハンケチもておおいたまいし後はしばしわれらの言葉も絶えつ。

貴嬢がかかる気高けだかき兄君をもちたもうことはわれらまことに知らざりき、まして貴嬢が鎌倉の辺に遊びたもうは始めての由を聞き、われらあきれてしばしは物も得え言わず眼をみはりて貴嬢を打ち守りたる、こは理ことわりあることと貴嬢もうなずきたまわん、かくにわかに顔色を変えたもうは限りなき恥を感じたまいしこととわれらは見たり。貴嬢きみはよも鎌倉にて初めて宮本二郎にあいたまいたる、そのころの本末もとすえを忘れたまわざるべければ。

鎌倉ちょう二字は二郎が旧歓の夢を呼び起こしけん、夢みるごときまなざし遠く窓外の白雲はくうんをながめてありしが静かに眼を閉じて手を組み、膝ひざを重ねたり。

げに横浜までの五十分は貴嬢きみがためにも二郎がためにもこの上なき苦悩なりき、二郎には旧歓の哀かなしみ、貴嬢には現場の苦しみ、しかして二人等しく限りなきの恥に打たれたり。ただ貴嬢きみの恥は二郎に対する恥、二郎の恥は自己おのれに対する恥、これぞ男と女の相違ならめ。

汽車横浜に着きてわれら立ちあがりし時、かの君も立ちあがりて厚く礼のべたもう、その時貴嬢きみもまたわずかに顔なるハンケチを外はずして口ごもりたもうや直ちにまた身を座に投げハンケチを顔に当てたまいぬ。その手のいたくふるえるさまわが目にも知れければ、かの君顧みたまいて始めて怪しと思う色を眼まなこの中に示したまえり。

乗る客、下りる客の雑踏の間をわれら大股おおまたに歩みて立ち去り、停車場より波止場まで、波止場より南洋丸まで二人一言ひとことも交えざりき。

船に上のぼりしころは日ようやく暮れて東の空には月いで、わが影淡く甲板に落ちたり。卓あり、粗末なる椅子いす二個を備え、主と客とをまてり、玻璃はり製の水瓶びんとコップとは雪白なる被布カバーの上に置かる。二郎は手早くコップに水を注つぎて一口に飲み干し、身を椅子に投ぐるや、貞二と叫びぬ。

声高く応いらえしてここに駆け来る男は、色黒く骨たくましき若者なり、二郎は微笑ほほえみつ、早く早くと優しく促せり。若者はただいまと答え身を回めぐらしてかなたに去りぬ。二郎、空腹ならずや。われ、物言うも苦し。二人は相見て笑いぬ、二郎が煙草シガーには火うつされたり。

今宵こよいは月の光を杯さかずきに酌くみて快く飲まん、思うことを語り尽くして声高く笑いたし、と二郎は心地ここちよげに東の空を仰ぎぬ。われ、こしかた行く末を語らば二夜ふたよを重ぬとも尽きざらん、行く末は神知りたもう、ただ昨日きのうを今日きょうの物語となすべし、泣くも笑うもたれをはばからんや。

二郎、早く早く貞二、と叫びてまた快く笑い、こしかたは夢のみ、夢を語るに泣くは愚かなり。われ、ともかくも早く飲み早く食わずば泣くのほかあらず。

間もなく貞二が運ぶ酒肴しゅこう整いければ、われまず二郎がために杯さかずきを挙あげてその健康を祝し、二郎次にわがために杯を挙げかくて二人ひとしく高く杯を月光にかざしてわが倶楽部クラブの万歳を祝しぬ。

二郎はげに泣かざるなり、貴嬢が上を語りいで、こし方かたの事に及べど、かれはただ夢みるごときまなざしにて杯の底をながめ、哀れなる少女よとかこつのみ。ああ時よ!。時の力は不思議なるかな、一年余りの月日は二郎が燃ゆるごとき恋を変えて一片の憐あわれみとなしぬ。かれが沸騰せし心の海、今は春の霞かすめる波平らかに貴嬢はただ愛らしき、あわれなる少女おとめ富子の姿となりてこれに映れるのみ。されどかれも年若き男なり、時にはわが語る言葉の端々はしはしに喚よびさまされて旧歓の哀情かなしみに堪たえやらず、貴嬢がこの姿をかき消すこともあれど、要するに哀れの少女おとめよとかこつ言葉は地震の夜の二郎にはあらず、燃ゆる恋はいつしか静かなる憐みと変われり。されど貴嬢きみ、こはわが期ごしいたる変化なるのみ。

今日汽車の内なる彼女かれの苦悩くるしみは見るに忍びざりき、かく言いて二郎は眉まゆをひそめ、杯をわれにすすめぬ。泡立あわたつ杯は月の光に凝りて琥珀こはくの珠たまのようなり。二郎もわれもすでに耳熱し気昂あがれり。月はさやかに照りて海も陸くがもおぼろにかすみ、ここかしこの舷燈げんとうは星にも似たり。

げに見るに忍びざりき、されど彼女自ら招く報酬むくいなるをいかにせん、わがこの言葉は二郎のよろこぶところにあらず。

二郎、君は報酬むくいと言うや、何の報酬ぞ。

われ、人の愛を盗みし報酬なり。

二郎はしばし黙して月を仰ぎつ、前なる杯さかずきを挙げ光にかざせば珠のごとき色かれが額に落ちぬ。しからば愛を盗まれし者の報酬むくいは何ぞと言いつつ飲み干せり。われ、哀かなしき心にその美酒うまざけの浸しみ渡る心地ならめ。二郎は歓然として笑いまた月を仰ぎぬ。

この時檣ほばしらのかなたに立つ人あり、月を背にして立てばその顔は知り難し。突然こなたに向きて、しからば問いまいらせん、愛の盗人もし何の苦悩くるしみをも自ら覚えで浮世を歌い暮らさばいかに、これも何かの報酬あるべきか。

二郎は高く笑いてわが顔をながめ、わが答えをまつらんごとし。問いの主あるじはわれ聞き覚えある声とは知れど思いいでず。檣ほばしらの方に身を突きいだして、御おん問いに答えまいらすはやすし、こなたに進みてまず杯を受けたまえといえば、二郎は、来たれ来たれと手招きせり。

檣の陰より現われしは一個ひとりの大男なり。

見忘れたもうなと言いもおわらず卓の横に立つは片目の十蔵ならんとは。二郎は椅子を離れ手を拍うって笑いぬ。

いかで忘るべきと杯を十蔵の前に置き、飲み干してわれに与えよ再会を祝せん。

十蔵はわれを寿ことぶきて杯を飲み干しつ、片目一人、この船に加わりいることをかねて知りたまいしやと問う。われ、なんじの影地震の夜よの間に消え失うせぬと聞き、かの時の挙動など思い合わして大方は推すいしいたれどかく相見ては今さらのようにうれし。

かつて酒量少なく言葉少なかりし十蔵は海と空との世界に呼吸する一年余りにてよく飲みよく語り高く笑い拳こぶしもて卓をたたき鼻歌うたいつつ足尖つまさきもて拍子取る漢子おとこと変わりぬ。かれが貴嬢をば盗み去ってこの船に連れ来たらばやと叫びし時は二郎もわれも耳をふさぎぬ。かれの説によれば、貴嬢はもと心順なる少女おとめなれば境によりてその情を動かすがゆえに南洋丸に乗せて一年が間、浮世の風より救い出さば必ず御おん顔にふさわしき天津乙女となりたもうとの事なり、われはたやすくこれを信ずるあたわざるのみ。

十蔵はその片目を細くして小歌うたいつ、たちまち卓を打ちて、君よかの問いの答えはいかにしたまいしとその片目をみはりぬ。二郎はいたく酔えい、椅子の背うしろに腕を掛けて夢現ゆめうつつの境にありしが、急に頭をあげて、さなりさなりと言い、再び眼まなこを閉じ頭を垂たれたり。

もし君が言わるるごとくば世には報酬むくいなくして人の愛を盗みおおせし男女はなはだ多しと、十蔵はいきまきぬ。

われ、なんじの妻のごときをいえるにや。

あらず、あらず、彼女かれは犬にかまれて亡うせぬ、恐ろしき報酬むくいを得たりと答えて十蔵は哄然こうぜんと笑うその笑声は街ちまた多き陸くがのものにあらず。

二郎は頭こうべあげて、しからばかのふびんなる少女おとめもついには犬にかまるべきか。

犬や犬や浮世の街ちまたにさすろうもの犬ならざるいくばくぞ、かみつかまれつその日と夜よを送り、そのほゆる声騒がしく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがために耳傾くるは大空の星のみ――月さゆる夜は風清し、はてなき海に帆を揚げて――ああ君はこの歌を知りたもうや――月さゆる夜は風清し――右を見るも左を見るも島影一つ見えぬ大海原おおうなばらに帆を揚げ風斜めに吹けば船軽く傾き月さえにさえて波は黄金を砕く、この時舷ふなばたに立ちてこの歌をうたうわが情こころを君知りたもうや、げに陸りくを卑しみ海を懼おそれぬものならではいかでこのこころを知らんや、ああされど君は知りたもう――

十蔵はその杯さかずきを干してわが前に置き、――されど君は知りたもうと繰り返せり。

この時二郎は静かに頭をあげて月を仰ぎしが急に身を起こしてかなたこなたと歩みつつ、ああ心地よき夜やと言い、皿よりパインアップルの太き一片を取りて口に入れつ、われを顧みて、なんじその杯を干してわれに与えずや。かれはわが杯を受けて心地よげに飲み干し、大空を仰ぎて、愛盗まれし者の受くべき報酬むくいはげに幸いなりき、十蔵なんじもその一人ならずやと杯を十蔵が前に置きぬ。十蔵は半ば眠りて応こたえなし。片目を微かすかに開きしもまた閉じたり。

夜はいよいよふけ月はますますさえ、市街の物音もやや静まりぬ。二郎は欄に倚よりわれは帆綱に腰かけしまま深き思いに沈みしばしは言葉なかりき。なんじはまことに幸いなる報酬むくいを得たりと思うや二郎、とわれは二郎の顔を仰ぎて問いぬ。

二郎は目を細くして月を仰ぎつ、うれしき報酬とは思わず、されどかの少女をふびんなりと想えば限りなき哀れを覚え、われに負そむきし挙動など忘れはて、ただ懐なつかしさに堪たえず、げにふびんなるはかの少女なり。

二郎しからばなんじにまいらすべき一品しなありと、かねて用意せる貴嬢きみが写真のポッケットより取り出して二郎が手に渡しぬ。何心なく受け取りてかれはしばし言葉なくながめ入りぬ、月の光は冷ややかに貴嬢きみが姿を照らせり。

そはなんじが叔母に託して昨年の夏の初め、品川出帆の朝、わがもとに送りたる品なり、今再びこれをなんじに還かえさん、なんじはなお手もとに置き難しと言うや、かく言いしわが言葉は短けれどその意こころは長し。

二郎はなお言葉なくながめ入りぬ。

げにかたじけなしと軽く戴いただき内衣兜うちかくしに入れて目を閉じたり。

二郎がこの言葉はきわめて短くこの挙動ふるまいははなはだ単純なれど、その深き意こころはたやすく貴嬢きみの知り得ざるところなり。

なんじはげにわが友なりと二郎はわが手を堅く握りて言えり、その声はふるいぬ。われこの時二郎に向かって、よししからばわが言うをきけ、人は到底陸の動物なり、かつなんじはわれらと共になすべき業わざを有すと言い放つを願わざりしにはあらねど、されど二郎ほどの男、わが言葉によりて感憤するほどの不覚をなさじ、かれ必ずかれの志あり、海を懼おそれず陸を懼れずなさんと欲するところをなすはこの若者なるをわれ知れば、ただしばしそのなすところに任さんのみと思いてやみぬ。

二郎はわれを導きてその船室ケビンに至り、貴嬢きみの写真取り出して写真掛けなるわが写真の下にはさみ、われを顧みてほほえみつ、彼女かれまたわれらの中に帰り来たりぬといえり。この言葉は短けれどその意こころは長し――

この書状は例によりてかの人に託すべけれど、貴嬢きみが手に届くは必ず数日の後なるべし、貴嬢きみもしかの君に示さんとならば、そは貴嬢きみの自由なり、われには何の関かかわりもなし。

(明治三十年十一月作)

底本 / Source edition

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
1897(明治30)年11月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月1日作成
2012年9月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/042199_000038/

国木田 独歩「おとずれ」(新字新仮名)、底本『武蔵野』岩波文庫、岩波書店、1939年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042199_000038, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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