Soranoha

再び科学的精神について

ふたたびかがくてきせいしんについて

戸坂 潤

私はまえに「科学的精神とは何か」という文章を書いた。之は決して科学的精神全般について述べたものではなかったが、又決してその瑣末な一部分について述べたものでもなかった。そこに論じた事柄こそ、今日に於ける科学的精神の核心に触れる時局的要点であると信じたのである。そして文学主義と文献学主義との批判が之であった。

問題は主に社会科学乃至文化理論に連関する。自然科学に就いてはあまり触れなかった。だがこのことは、或る人達が考えるように、決して片手落ちでもなければ、又具体的でなかったのでもない。なぜ片手落ちでないかと云えば、今日科学的精神が話題として社会的に重大意義のあるのは、必ずしも自然科学的思考の世界に於てでもなく、まして自然科学者の専門世界に於てでもないからだ。そういう個処に於て科学的精神が問題になり得るのも、実はそれが社会科学・哲学・乃至文化理論と直接に連関するものとして、或いはそういう資格を取ることによって、初めて可能なことなのであるから、科学的精神は、正に社会的関心と結びついて初めて、重大な現実味のある問題となるのである。吾々が「科学精神」と云わずに、特に科学的精神と呼ぶ所以の一つもそこにあるのであって、この精神は決して科学だけの精神でもなく、まして自然科学だけの精神でもないのだ。之は今までも述べた。

従って自然科学や他の諸科学の専門家にして初めて科学的精神を正当に論じる資格がある、と云いたいような二、三の論者は、大きい誤謬を約束するものである。或る評論家は科学的精神を論じるに科学的体験を必要とするというような意味のことを説いたが、もしそのことが、文化上の無知な没分暁漢である日本の政治家や為政者に対する批判ではなくて、科学の素人に対する批難であるとしたら、これ又同じ誤謬を約束するものだ。科学的精神は文化自体についての精神でなければならぬのだが、処が文化については没分暁漢は極度に沢山いるにしても、文化の素人という言葉は意味をなさぬだろう。それは恰も、生活の素人や、人間の素人が変なのと同じだ。科学的精神については抑々素人が責任を取らねばならぬのである。

尤もそうだからと云って、文化の各種の職業的専門家(?)の役割について、過小評価することはまた、ナンセンスだろう。自然科学者の科学的研究と考察とに聴くのでなければ、自然科学に於ける科学的精神を明らかにすることは出来ぬ。社会科学についても文芸其の他についても、この点変りがない。だがそれにも拘らず、科学的精神は、専門の科学者だけに専門のものであってはならぬ。之は広く民衆の文化精神を指すのが事実であり、又そうなければならぬことが本当なのだ。

だから自然科学者の専門的研究のやり口や手続きばかりの内に、科学的精神の唯一の具体的な内容があると思うのも、又そこにこそ科学的精神の最も具体的な内容があると考えるのも、どっちも幾重にも誤っている。科学なるものが自然科学に於て最もよく現われるかのような想定と、そこに於ける科学的精神が科学専門家の専門技能としてのやり口や手続きに最もよく実現しているかのような想定と、少なくとも二重の誤りに立脚する。――こういう点は、前にもすでに述べた処から当然導かれる意見であるが、ここで殊更之を繰り返すのは、今云ったような誤った想定に立脚した科学的精神論が、論者の科学的精神への愛着にも拘らず、往々見受けられるからである。

尤も科学研究のやり口や手続きと云っても、更に専門家的な技能技術をしか意味しない場合と、更に之を通じて正に科学的精神の本質に直接する場合とを区別しなければならない。科学(今特に自然科学でいい)の教育を例にとって見れば、専門家教育と普通教育との区別を必要とするのが今日の世論であり、初等・中等・高等・の普通教育に於ける科学教育は、同じ科学の生きた方法=精神を教育するにしても、専門家に対する科学研究法其の他の教育とは、教育の原則を異にしなければならぬ。そしてこの際、科学の普通教育に於て教育されるものは、他ならぬ科学的精神そのものに他ならぬ。勿論夫々の科学の専門の限界内での科学的精神のことだが。こうした各領域の科学的精神の間には、それが根本的な文化の精神である限り、おのずから云わば転位の可能な形式淘汰さえが可能であろう。で科学的精神とは、科学に就いても、科学の専門家教育の問題ではなくて、科学の普通教育の問題であることを、銘記せねばならぬ。科学的精神が如何に民衆大衆の文化全般の精神であるかが理解される。

科学に於ける科学的精神の教育について、一貫した主張を旧くから持っているのは、小倉金之助博士の如き人である。氏は『数学教育の根本問題』を、数学専門家のための数学教育には求めずに、数学に於ける、又数学による、科学的精神の教育(実証的精神と歴史的認識の精神とされる)に求めた。『数学教育の根本問題』を初めとして、『数学教育史』、『数学史研究』、又最近の評論集である『科学的精神と数学教育』が、首尾一貫してこのことを主張している。科学的精神に対して専門家的矮小化に陥る危険を、警告することに終始しているとさえ云ってよい。――之は数学に於ける科学的精神だが、自然科学・更に社会科学・哲学・文化理論・に於ける科学的精神についても、同じに考えないわけには行かぬ。この精神は民衆の常識と良識との問題なのだ。だから社会的常識と良識とを往々にして欠かないではない科学的番頭達には、却って理解出来ないものでさえある。そのことを特に記憶しておかなければなるまい。

さて、今日最も科学的精神を欠きがちであるのは、社会・文化・に関する学者と俗人とである。或いは、自然科学者も決して科学的精神に於て一人前であるとは保証出来ないのだから、もっと正確に云うと、科学的精神の欠乏が最も害悪を流しつつあるのは社会・文化・の世界に於てであると云った方がいいかも知れぬ。之が今日の文化の時局的状況なのだ。そこで、この方面に於ける科学的精神の強調と、それに対する反対物の克服とが、文学主義と文献学主義とに対する認識論的批判となる、と私は考えた。之は今日に於ける唯物論的な科学論の時局的な中心課題だと信じたからだ。

私は併し今、この観点をもう一歩進めて見たいと考える。文学主義・文献学主義・に対する批判を、もう一つ具体的な形に於ける或る現象にまで追跡して、認識論的な拠点を新しく築くことを試みたいと思う。科学的精神に対する教学的精神の問題が、夫だ。

思うに知ると知らぬに拘らず認識論的な一つの立場を意味する文学主義なるものは、最も一般的な包括的な錯誤の体系であろう。之は一切の文化領域について、又殆んど一切の社会の封建的・ブルジョア的・文化について、見出される共通の公式である。文士的文学に於ても、資本主義国の支配哲学に於ても、哲人的思想に於ても、資本制的支配者の道徳意識や世界観に於ても、洋の東西、時の古今を論ぜず、見出される一つの文化的態度なのだ。就中これは常識の形をとって発現することに自由を有っている。文芸がある意味に於て常識と密接しているだけに、この主義は文芸の世界に最も露骨に強力に現われやすい。文学主義と呼ぶ所以であるが、処が文献学主義の方はもっと限定された形態をもつのである。

文献学主義は文学主義のもっとアカデミックな形をとったものである。そこではとに角、歴史的認識と云うものの標榜を媒介としている。無論実際の歴史的認識ではなくても、各種の変態を遂げた限りの歴史主義を媒介としているのである。解釈学的精神や博言学的態度や文学的審美的評論がそれだ。だから之は、事物の歴史的な認識、乃至歴史理論に連関すべき事物の認識、に於てしか発動しない。例えば文学主義に於ては刹那的・印象的・放言というようなものとなる処を、文献学主義に於ては歴史的コジつけというようなものとなる。万葉精神はギリシア精神である、などと云うのは前者であり、之に反して、日本はギリシアであるというような木村鷹太郎主義は後者である。牽強付会は、出鱈目が歴史的認識などをかりて学究的になったものに他ならないだろう。博言的・文献学的・「知識」がそこに介在して来る。だから之はより組織された文学主義であり、より根拠の明らかな錯誤の体系であり、より衒学的でもあり得る言論機構だ。

私は文献学主義という公式を用いて、現下の日本に於ける各種の日本主義的哲学や社会理論を最もよく分解出来ると信じる。だが云うまでもなく之は、日本主義だけの言論機構をなすものではなくて、今日の日本や外国の各種自由主義哲学の言論機構ともなっている。特にそれは解釈哲学や文化的形而上学と云うべき半ば世界的に流行しているブルジョア観念論の現代的基本形態に、特によくあて嵌まる。旧くキリスト教神学にも通用すれば近代観念論にも通用する。だからなおまだ、之を文化時局的に限定出来る余地を充分に残していると見るべきだろう。――そこで文献学主義の更に或る特殊な限定された形として、教学主義を指摘しなければならぬと私は考える。

或る論者は科学的精神と日本精神とが相反するものだということを世間に納得させようとする。云わば日本精神は審美的な表現を宗とするから、科学的精神の支配下に立つものではない、というような意見である。日本精神を審美的表現性を有つと考えることは併し、要するに之を以て知性的合理的表現に相応しからぬものとすることであるから、知識よりも人格、頭よりも肚、知育よりも徳育、云々という一切の実用主義的非合理主義と同じ目標を有つものである。だがいずれにしても、所謂日本精神と呼ばれるものを、往々にして科学的精神の反対物であるかのように考えるのが、日本主義者の通常であるようだ。今日の日本の民衆は「科学的精神」を旱天の慈雨のように欲しているのだが、日本主義者によると、それは民衆の伝統上、許すことの出来ないもので、日本の民衆は科学的精神を欲するものでないと垂訓するのであるから有難い迷惑である。

そこで科学的精神に対立するものとして、日本では何か或る日本特有な日本的なものを有つだろうという結論になる。科学的精神に反対する分子の少なくないことは、別に日本には限らぬ。併し日本には日本特有な反対の仕方があり、又特異な意味に於て反対する特別な必要があるらしい、ということが判る。そういうものがあるものだから、科学的精神に対する対抗は執拗であり、込み入っており、且つゲリラ戦術的でさえあるのである。日本的なあるもの、という名に於て、科学的精神に反対出来るかのような逆宣伝も、初めて一応可能となる。科学的精神は西欧の精神であるとか、欧米精神であるとか、と云い出す無教養漢も之に応じて輩出するわけだ。――そこで日本に於ける特殊な反科学的精神として、取り出されねばならぬものが教学的精神なのである。

尤も教学的精神=教学主義は、実は決して日本に固有なものではない。或いは寧ろ之を一種の外来思想であると云わねばならぬかも知れない。そういう血統の純不純のようなことなどは論外としても、少なくとも日本は支那にその先駆を有っている。特に漢代以後支那哲学の正統となった儒教は教学の尤なるものだ(経学・礼教)。又仏教殊に日本仏教は、今日常識的に教学と呼ばれているものの代表者であるが、仏教自身は勿論日本的なのではない。それだけではなく、ヨーロッパに於けるキリスト教神学も亦、教学というカテゴリーに飜訳出来る本質を持っている。勿論日本には日本古来のものと考えられる教学も存する。神道・皇道・惟神道・其の他と呼ばれるものがそれだが、併し之が三教の一つとして教学の本質を自覚するようになったのは、早くとも鎌倉時代、恐らくは室町時代からであろう(教学は教学としての自覚が大切なのだ)。真に教学としての神道に基礎をおいたものは江戸時代初期の儒学者である林羅山だと云われるのは興味のあることだ(本教・徳教・神教・大道・古道・帝道・という言葉はいつも古いが、この命名法は必ずしも日本的用語によるのではない。江戸時代に這入ってからは神学という用語もある事はキリスト教神学やギリシアの神学と並べて見て面白いことだ)。

教学は如何なる意味に於ても決して日本独特のものではなく、又東洋(支那と印度とを含む)に特有なものでさえもない。護神論時代・教父時代・以来のカトリック的精神に於てもなくはないものだ。だが、それが特に永く支配者の勢力を伝承し、且つそれだけではなく、生産技術乃至自然科学的(実用的自然哲学でもいい)と原則上無縁な発達をば永く遂げ得たものは、ヨーロッパではなくて東洋であり、そして夫が殆んど圧倒的に文化を支配すると共に、その文化そのものを高度にし高度の文化として之を伝承させ得たものは東洋に於ても印度ではなくて支那であり(支那仏教と儒教)、そして最後に、それが現代の資本主義的撞着の真只中に於て有力な社会の文化的支柱となって愈々高められようとしているのは、他ならぬわが日本だけなのである。まことにそういう意味に於て、日本は「東洋文化」の盟主でなければならぬように思える。

で一切の教学は恐らく日本古来のものではあるまい。だが今日の日本にとっては、と云うことは今日の日本の支配的文化、即ち今日の日本の支配者的文化、にとっては、教学こそが伝統的な文化の根柢でなければならぬのである。今日の日本そのものの文化が教学に基いていると云うのではない。日本の支配者文化からすれば、日本文化は教学に基かなければいけない、というのである。なぜと云うに、今日科学的精神は日本の支配者文化にとって最も都合の悪いものなのであるが、これに対抗するためには教学なるものが最後の奥行きの深そうな保塁と思われるからである。国民精神・日本文化・国民道徳・其の他は、もはやたのむべき武器とはならぬ。一切は教学という根本精神によって最後の編隊をせねばならぬ。かくて思想局も教学局にまで昇格拡大されることになる。「教学刷新」刮目して待つべしであろう。この根本文化政策に較べれば、日本文化中央連盟による「日本的諸学」の観念などは、空疎で不純でスッキリしないことこの上もない似而非日本主義の観を免れない。凡そ、西洋の真似をした嬌羞める日本主義の媚態位い清々しからぬものはないのである。

さて教学の精神を最もよく説いたものは、広島の徳育専門家である西晋一郎博士である。氏の『東洋倫理』という特色ある著書は思うに教学論の模範だろう。私は今『東洋倫理』という著書そのものを批判しようとも思わなければ、その体系を検討しようとするのでもない。氏によって教学なるものが如何に説明を与えられているかを、資料として見たいだけだ。従って例えば次のような道徳的俗物の臭味に対しては一々気を配っていることが出来ない。例えば曰く「性来個人意識の強い民俗の中には同等主義・民主主義の社会組織が発達し、商工の生起に適する処には社会的生活大に発達し、そこには自由競争が盛んとなり、自由競争の盛んなる処には妥協協定の術の長ずる利益社会が栄える。性来親子の情の濃厚なる民族にあっては家族が生活の単位となり、そこには親子の道徳が大に興り、尊卑長幼の序という如きものが重んぜられる。而してかかる処には農業が最も適し、道徳と経済とは互に因をなすのである」云々。

ところで教学とは何か。氏は明らかに教学を科学に対立させている。と云うのは氏に云わせると「学」には二種類あると云う。一つは「真理ほど美しいものはないとして、美を求むる『エロス』から出発する真理愛たる所の学」であって、之は「自己表現を期する」学である。「かかる学は実に概念思想を以て結構せられる所の芸術というも可である。」之が恐らく科学のことである。之に反して第二のものは、「敬愛信奉を以て其の始めとし、立志の如何を眼目とし、志を尚ぶことを其の精神とする所の学」であって、之は「行為を期するもの」で「自己表現は志す所でない」という。之が教学なのだ。「敬愛といい、尚志という、すでに自己供捧を意味する。」かくの如く「一般に東洋の学は己を修め人を治めることを目的とする」というのである。――学問とか学とか云われる時、すぐ様之を科学と同一視しない心掛けが吾々にも必要であるが、実に科学の意義には二義ないが、学という言葉がこうして抑々老獪な二義性を有っていることを忘れてはならぬ。

「学は学のためにという自己表現的なる西洋風の考えを我々の学者がそのまま受け容れて、これこそ唯一真正の学の考え方であるとするは、ただ一を知って二を知らずというだけのことでなく、自己の性情に副わず、我が歴史的文化との融和を欠き、竹に木を接いだような趣があって、国の教学上軽々に看過することの出来ぬ輸入思想である。」「学のための学と国に忠ならんがための学との間には芸術と道徳との間の相違があり、表現と行為との段階があり、人生統一上深浅の相違がある」のだと云う。――だから教学の観念にまで行くことを知らずに、日本的なるものを論じたり、科学的精神を難じたりする者などは、正に慚死すべきであろう。

教学と科学とを対比させる以上、教学と真理との関係に触れないわけに行かぬ。そこで云う、「水流そのものに本も正も横もない、ただ水流の真理あるのみである。それ故にただ真理を以て正邪善悪を定めることは出来ないので、往くも復えるも、歩むも躓くも真理ならぬはない。教は即ち人生の建築であり、人生の耕作であり人生の治水である。その建築・耕作・治水の形相如何によって、かくするが正しくかくするが正しからず、かくするが善くかくするが悪いということが定まる」云々。つまり教学の真理は、ただの真理ではなくて「無数の真理の中に就いて、宜しく選択して人生を建立する」ことであり、「教の立て方によって正邪の異なるは当然である」、「教が立って始めて正邪善悪がある」のだから、というのだ。

ではどういう風に人生を建立するのか。「国民生活の根本的規範たる教は其の国の立て方の全貌そのものである。」そして国の立て方というのは「歴史」のことである。「教無くして歴史は無く、歴史無くして教もない、教と歴史とは相依って立つもので、其の端を知ることは出来ぬ」のだそうである。つまり「教、国家、歴史」は一つづきのものとされる。この「歴史」が何を意味するかは最も興味のある処だが、しばらく先をつづけよう。

国家や歴史と一つになるこの教・教学は、当然なことながら、極めて倫理学的なのであることを免れない。すでに真理の上に正邪善悪という教学的真理の選択がなり立つというからには、この正邪善悪は科学的真理に左右されない何等かの人工的・人倫的・なものとなる。「東洋の学(教学のこと)の性質から、宗教・道徳・芸術・政治・経済が一以て貫かれ居ることを知る。」「我々にとっては元来学は一あるのみで、倫理道徳の学は政治経済を余所にしては学たる所を成さず、また宗教芸術のことも其の中に具備せなければ真に人間道徳の学と云われぬ。」「教の構成は道徳的天才自身の正善的創造であって、哲学的結論ではない。」――かくして倫理道徳的性癖を有つ東洋の学・教学は、「政教一致」、「経済道徳一致」、から「祭政一致」の説にまで、進むことが出来るのである。今日教学に非ずんば日本の学に非ざる所以ではないか。

蓋し教学は教えであって、科学ではない、今日学問乃至学と呼ばれるものでさえない。今日科学と呼ばれるものは、実証的実験的技術的精神と歴史的発達法則の認識とを目標とするものであり(「学のための学」などというのは単にその出来損いの一例に過ぎないのだ)、人を教えることではないのである。学と云っても、科学に於ては研究批判検討を支配することであって、教学に於てのように何か「学ぶ」というようなことではないのだ。科学は一つの教育方法を想定するが(そこに科学的精神の教育と専門技術的教育との区別があった)、教育ということが科学自身の内容を規定するのではなくて、逆に、最もよく科学をマスターし得るように教育しようとするに過ぎない。処が教学に於ける教えと学びとは、それ自身教育・育成を以て内容とする。教学的な教育が即ちそれ自身の内容をなすという構造は、教学特に東洋教学の嶄然たる固有特色なのである。

だが之を以て学と実践との統一とか相即とかと思ってはならぬ。実は単に教えの伝承と伝習とが学びであるというにすぎない。而もこの教えの「学び」は権威あるものなのであるから、批判的検討の自由は原則として許されないし、まして実証的な研究に訴えることは許されないか無意味である。批判的検討の自由に基いた思索は、異端か自由思想家の列に這入るほかなく、実証的研究に訴えようとすれば多くの場合宗教批判の形さえ取らねばならぬ。勿論教学の著しい発展期には多少の批判と実証的研究が必ず行なわれる。始皇焚書後の漢代に於ける今文学に対する古文学の功績の如きがそうだが、併しヨーロッパの文芸復興となれば、それ自身すでに「宗教批判」(ドイツ的に云えば「宗教改革」)のカテゴリーに這入って来るのだ。

教学は孔子教乃至儒教で云うように、礼教とも考えられる。つまり既成社会秩序に於ける民衆習俗の設定と保守との道に他ならぬ。ここでは反動的な復古(周公の道への復帰の類)はあっても、進歩的な社会批判は許されなくなる。教学的精神の社会的意義の一端をここに知ることが出来るだろう。

処がこうした権威と習俗との伝承伝習によって、教学は初めて歴史的だと考えられているのである。竟り伝承的であるが故に歴史的だというのだ。歴史的発展(「進歩」というフランス大革命前後からの近代人の世界的表象)の故に歴史的だと考えられるのではない。だから之は歴史的精神でも何でもなくて、単に祖宗の伝習の精神であり、従って容易に保守とも復古ともなる処の精神でもあり得るわけなのだ。だからもし民衆の伝統という文化の重大要素が、この教学主義的な操作で操られるとしたら、民衆の不幸はこの上もないことになるだろう。

教学の精神が実は歴史的精神の反対物であることは忘れられてならぬが、云うまでもなく之は又実証的・実験的・技術的・精神の正反対物でもある。ここに教学の例の倫理道徳主義があったのである。教学という東洋文化乃至日本文化に特に著しい名目的伝統が、何等か一応の文化的権威と生活上の真実を持つかのように、ボロを出さずに済むのは、他のことを抜きにすれば、全く技術的な実証的な問題を始めから回避してかかっているからである。処がこの秘密を一等露骨にブチまけているのは、東大の教育学教授入沢宗寿博士の著書『日本教育の伝統と建設』の類だろう。之は教学(日本の国民的宗教感情に基く文化)こそが日本文化の本質であり、教学精神に立った教育こそが、日本の教育伝統であり又今日の教育の建設的な理想でもなければならぬと主張するのである。この率直な意見は大いに傾聴に値いするのだが、では科学教育や技術教育になるとどうかと云えば、自然を通じて神を見ることを教えるのが理科教育の精神であるとか、偉大な自然科学者は又偉大な宗教家であるとか云って、ゴマ化して了うのであって、教学的教育のやや堂々(?)たる主張にも似ず、意外に貧弱な言葉をしか吐くことが出来ぬ。今日の日本では各方面に技術教育の重大性が良い意味に於ても悪い意味に於ても認識され、この問題が教育界の中心問題の一つになっているが、その時、こうした教学主義的教育観がこの問題について暴露する本質的な無能力は、教学なるものそのものが時代的に救い難い代物となって来たことを告げるに余りあるではないだろうか。教学が科学ではなくして、教えと学びとをそれ自身内容とするという教育的自己感応の本性のものであるだけに、教育に於ける教学のイデーの行きづまりは、皮肉と云う他ない。

かくて教学的精神は発達史的認識の要点を故意に逸するものであり、且つ実証的技術的認識を見事に回避するものだ。そして相手の関心を専ら道徳という框に追い込むものなのだ。もし歴史的認識と実証的精神という或る意味での合理的精神の二面が科学的精神の二つの契機であるなら、教学的精神は科学的精神の、今日の文化時局に於ける正反対物であることが、結論されていいだろう。

教学的精神の反技術的精神・道徳倫理主義的本性・徳育的本質の弱点は、さきに触れた。その発達史的認識の欠如そのものを、却って教学の歴史観的本性だとして誇称せしめるものは、他ならぬ教学に於ける文献学主義だったのである。教え学ぶのは専ら各種の経典についてであり、経典によってである。この際経典は科学的研究資料としての文献ではなくて、信仰の・学を修するための・教えを垂れるための・権威であるということは、一切の教学家が口を揃えて唱える処だ。即ち経典とは文献学のものではなくて文献学主義のものなのである。経典が文献学的資料の価値を越えて、教学の権威ある拠典となる時、それが教学に於ける文献学主義というものなのだ。そして文献学主義となれば、夫は解釈の哲学であって現実処理の哲学ではないと云う事を、私は之まで繰り返し繰り返し述べて来たが、そうすれば、文献学主義としてのこの教学が反技術的精神のものであることは、亦必然である。教学に於ては、道徳的・徳育的・な本質が最も大きな支配的契機だが、之を抜きにして、その文献学的伝習主義だけから云っても、之は到底現実の社会的なまして自然的な事物を真面目に処理し得るものではあり得ない。――ただそれを社会的に支えるものは、社会支配者層の観念上の必要だけであって、教学という観念が「国家」という観念を離れては一刻も生存出来ないらしいことは、意味深長なことだ。以て又、この精神の文化時局的な用途の無理からぬ点を理解し得よう。

教学的精神が最も旺盛なのは、勿論のこと現代の日本に於てである。日本を今日あらしめたものが併し必ずしもこの教学的精神でなかったということは、教学の先輩である支那の後れた事情を見れば明らかだ。して見るとこの精神は決して日本の発達にとって根本的な効能のあったものでないことが判る。而も今日、夫が何か大いに役に立ちそうに益々祭り上げられつつあるとすれば、恐らく刹那的で末梢的な効能をねらってのことであると断ぜざるを得ない。だから今日の教学的精神が如何にクルしいものであるかを思わねばならぬ。――だがかつて教学的精神の栄えた土地は概して東洋であり、古代印度と古代以来近世までに至る支那大陸である。之は何かの意味に於けるアジア的イデオロギーであろう。で今日、東洋的精神乃至日本的精神の伝統に於ける反科学的精神に基く残滓は、終局に於てこの教学の精神にまで追いつめられて行くだろう。いや今日の支配者的文化の指導者達は、みずからそこまで引き上げ、そしてそこに立て籠もるようになるに相違ない。

教学は時に宗教の形をとり、時に宗教から区別された道徳や形而上学の形をとる。宗教が神学的な形をとる時、必ず教学というカテゴリーを採用するのである。そして教学としてもっとも著しい嶄然たる特色を有つものは、東洋乃至日本の教学であったのである。そこにキリスト教神学による教学と、東洋的教学との間の、多少の相違を吾々は見出すことが出来るだろう。東洋的教学は必ずしも反宗運動や無神論運動の網にそのまま引っかかるとは思われない。東洋的教学(キリスト教教学は勿論のこと)は云うまでもなく宗教的な本質のものであり、従って反宗・無神論の批判対象となるべき本質のものであるが、その現象形態は、よく云われるように必ずしも宗教ではなくて、儒教となったり、又単なる民族的習癖としてさえも現われる。仏教が無神論であるなどという説は今採るに足りないが、併し日本仏教の大きな文化的役割は単なる信仰としてではなくて、正に教学として遂行されたものであったことを忘れてはならぬ。印度哲学や仏教に於て知識と信仰とが一つであるとか云われるのも、単に教義の上の問題ではなくて、夫の歴史的変遷に於ける教学としての社会的文化的役割の問題であったことを思わねばならぬ。儒教が哲学であると同時に、実際的道徳教であるという類も、その東洋教学的な特徴によるのである。

由来宗教批判は唯物論の一貫した課題である。だが私は現下の唯物論による宗教批判という課題をば、教学の批判にまで拡大し又変容することが、適切ではないかと思う。現代の反進歩的な文化動向は今に必ずここに陥ち込むと信じられるからだ。そしてここにこそ、科学的精神という問題の、生きた文化時局的な意義の中枢があるのだ。蓋し科学的精神とは、現下に於ける唯物論の文化時局的形態のことだ。

(一九三七・八)

底本 / Source edition

底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「唯物論研究 第五九号」
入力:矢野正人
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
2013年10月28日修正
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書誌 / Bibliography
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戸坂 潤「再び科学的精神について──(「最近日本の科学論」続編)――教学に対して――」(新字新仮名)、底本『戸坂潤全集 第一巻』勁草書房、1966年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 042187_000281, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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