Soranoha

旧聞日本橋

きゅうぶんにほんばし

長谷川 時雨

一

お星さまの出ていた晩か、それとも雨のふる夜だったか、あとで聞いても誰も覚えていないというから、まあ、あたりまえの、暗い晩だったのであろう。とにかく、あたしというものが生まれた。

戸籍は十月の一日になっているが、九月廿八日だとか廿九日だとか、それもはっきりしない。次々と妹弟きょうだいが生まれたので、忘れられてしまったのか、とにかく、露の夜ごろ、虫の音のよいころではあるが、あいにく、武蔵野生まれでも、草の中でも、木の下でも生まれず、いたって平凡に、市中の、ある家の蔵座敷で生をうけた。明治十二年、日本橋区通油町壱番地。ちっぽけな、いやな赤ん坊だったので、何処からか帰って来て見た父は、片っぽの手にとって見てすぐ突きかえしたと、よく母が言っていた。

父には三人目の子、母には初児ういごだが、あたしが生まれたときには、姉も兄も、みな幼死していなかった。清潔きれいずきで、身綺麗だった祖母に愛されたとはいえ、祖母はもう七十三歳にもなっていたので、抱きかかえての愛ではなく、そしてまた、祖母の昔気質から、もろもろのことを岨はばまれもしたり、そのかわりに軽薄に育たなかったという賜ものをも得た。

次へ、次へ、次へと、妹が三人、その次へ弟が二人、また妹が一人と、妹弟が増えて、七人となったが、丁度、二人ばかり妹が出来た時分のこと、コンデンスミルクを次の妹に解いてやったり、その次の子が、母親の膝の上で、大きな乳房を独りで占領して、あいている方の乳房まで、小さな掌てで押えているのを見ると、あたしは涎を流して羨ましそうに眺めていたという。

二歳ぐらいの時だったのであろう、釣洋燈つりランプがどうしたことでか蚊帳の上に落ちて、燃えあがったなかに、あたしは眠っていたので、てっきり焼け死んだか、でなければ大火傷おおやけどをしたであろうと、誰も咄嗟に思ったそうだが、気転のきいたものが、燃えている蚊帳の裾から、ふとんごと引出すと、そんな騒ぎはすこしも知らずに、そのまま眠りつづけていたので、運の好い子だといわれたときいた。

あたしの眼に、居廻りの家並などが、はっきり印象されるようになった時分の、小伝馬町、大伝馬町、人形町通り、大門おおもん通りといった町は、黒い蔵ばかり、田舎とちがって白壁の土蔵は、荷蔵くらいなもので、それも腰の方は黒くぬってあって、店蔵も住居の蔵も、黒くぴかぴか光った壁であった。それに、暖簾も紺、長暖簾もおなじく、屋号と、印を白く染めぬいた紺のれんで、鉄や厚い木の天水桶が店のはずれに備えつけてあって、中にはなかなか立派な、金魚や緋鯉が住んでいた。ちらちらと町に青いものが見えれば、それは大概大きな柳の木だ。奥庭には、松や榧かやや木檞もっこくや、柏も柚ゆずの木も、梅も山吹も海棠もあって、風に桜の花片は飛んで来ることはあっても、外通りは堅気一色な、花の木などない大問屋町であった。

問屋が多いので、積問屋――運送店――の大きいのも、すぐ近くに二軒もあったし、荷馬車がどこかしらに繋いであるので、泣けば、お馬さんを見ましょうというか、夕方ならば、お月さんが出たと門かどにつれだされる位、蝉の声もあんまりきかない四辺あたりで、そのくせ、大問屋町というのは妙に奥や裏の方は森閑としていたもので、真夏でも、妙に冷たい風のくる路のあるような、家居であった。

あたしの家も、祖父のころは呉服を大名の奥に納める家業、近所にあった祖母の兄の店が大きかったというが、その兄が死んでから、後妻が、御殿女中あがりだったので、子供に甘くて、店をつぶしてしまったし、時も丁度御維新ごいっしんの、得意筋の幕府大奥や、諸大名の奥向きというところがなくなったので、祖父も店をやめてしまって、あたしが生まれたころには、もはや祖父卯兵衛は物故し、父は代言人を職としていた。

しかし、どうも、祖父の家業は、呉服御用という特種なので、もとより、問屋でもなし、店売りでもなく、注文品を、念入りにしつらえて納めるものであったようだ。反物を畳む、がっしりした小机とか、定木じょうぎとか、模様ものの下絵を描いた、西の内紙で張って、絹さなだ紐をつけた、お召物たとう紙などが残っていたり、将軍さま御用の残り裂れで、人形の帯や巾着きんちゃくが出来ていたが――もっとも、明治十二年の大火に蔵だけ残して丸焼けになって、本所の回向院えこういん境内まで、両国橋を渡って逃げたということであるから、住居の具合は変りもしたであろうが、とにかく、五軒間口の塀は、杉の洗い出しであったし、門は檜の節無しを拭き込んで、くぐり戸になっていたし、玄関前までは御影石みかげいしが敷きつめてあって、いつも水あとの青々して、庭は茶庭風で、石の井筒も古びていた。奥蔵の三階の棟木には、安政三年癸戌建之、長谷川卯兵衛安備やすともと墨色鮮やかに大書してあった。

祖父は能書であって、神社の祭礼や、稲荷の登旗のぼりに、大書を頼まれることが度々あって、父は幼年から亀田鵬斎や、その他の書家たちから可愛がられ、六、七歳の時分から、絵のたちがよいというので師匠の国年や芳幾よしいくに、養子にくれと懇望されたということであった。そんな風なので、父は書や画などを好み、剣術は北辰一刀流の、お玉が池千葉の弟子になって、かなりな使い手になっていたので、彼は江戸ッ児でも、江戸城本丸明け渡しのあとを、守護する役などに用いられたりして、刑部省へ出頭するようになった。

そんなことから法律を学び、増島博士をはじめ十二人の代言人が――後弁護士と改称――出来た最初の、その一人になった。彼は早くから自由党に属していた。

あたしが生まれた年の元旦試筆には、忘れてしまったが大物を書き、お酒が好き、撃剣が好き、磊落であったが、やや、痩せがまんの江戸ッ児肌で、豪傑でもなければ、学者でもなく、正直な、どっちかといえば法律などは柄にもなく、芸術家タイプの、時によると心にもない毒舌を弄してよろこぶ性質たちだった。母は、父の浅黒く長身なのとちがって、真っ白な、健康そのもののように艶々した、毛の黒い、そのかわりあまり美人ではなく、学問はないが働くことでは、徳川家の瓦解の時、お供をして静岡へ行った一家で育ち、無禄の士族たちが、遠州御前崎おまえさきの浜で、塩田をつくった折りに、十四歳の少女で抜群の働きをして、親孝行の褒状をもらったという女しとで、父とは十六ばかり年がちがっている。あたしはこの母が、人出入りの多い家で、厳しい祖母によくつかえ、よく教えられて、子供がふえても女中の数をまさずに、終日クリクリと、実によく忠実に尽して、しかも祖母の諭いましめによって、いかなる折りも髪かたちをくずさず、しじゅう身ぎれいに、家の内外も磨きあげたようにして、終日、ザブザブと、水を豊かに汲みあげているような日常を見て、人は働くものだ、働くことは美しいとの観念をたいそう植えつけられている。そして、また、その当時の、知的階級に属した家に生まれながら、奥さまぶった容体を学ばずに過し得たことは、母を徳としている。それもこれも、祖母の睨みがきいたからだと、後日母は言っていたが――

そこで、あたしは六歳の年に入学した。学齢ではないのだが、私立尋常代用小学校という札の出たのは後のことで、秋山源泉学校という、別室には、習字と裁縫と、素読だけに通ってくる大家おおどこの娘たちもあるので、六歳でも通えるのだった。

引出しを二ツもった、廉品そまつな茶塗りの手習い机と、硯箱が調えられた。白紙を一帳綴じたお草紙、字が一字も書いてない真っ白な折手本、椎の実筆と、水入れと、〔「◯」の中に「八」、屋号を示す記号〕の柏墨が用意され、春のある日、祖母に連れられ、女中と書生と俥夫が机をかついで、二丁足らずの、まっすぐな新道を通って、源泉学校へ入学した。児童たちへのおみやげの菓子の大袋は、幾つかさきに届けられているので、白砂糖の腰高折と目録包みが校長の前へ出された。白い四角な顔の、お習字を教える校長のお母さん、黒い細い顔で菊石あばたのある校長、丸い色白の御新造ごしんぞさんたちが、苦いお茶を出し、羊羹を出してもてなした。先生に連れられてお座(席のこと)につくと、幾人かの生徒が、お盆に盛りあげた、瓦せんべだの、巻きせんべだの、おこしだの、落雁だのを、全校の生徒にくばるのに、二個三個と加えてゆくのだった。後に、あたしも貰うようになった折り、一日に、二人も三人も新入生があると、冬は蜜柑などがまざって、子供たちをよろこばせた。

幼年生のときの思い出は、赤い裏の、海軍士官の着るような黒いマントを着てかよった。小さい前髪と、両鬢に奴やっこさんを結んだおかっぱの童女が、しきりに手習い草紙を墨でくろくしていたことだ。それから、机の引出しや硯箱の中へ千代紙を敷いて、白紙かみを丸めた坊主つくりや、細くたたんで、兎の耳のように、ちょいと結んだ、仮定の人形の首に、色紙の着ものを着せて飾り、おばさんごっこをすることを覚えた。二年すると妹があがって来た。利口ものの妹は、両親の寵児だったが、強情なので学校ではよくお残りをさせられて、あたしの方がかなしくなって日暮れまで、ガランとした教場でオロオロしていたが、祖母は一層きびしく仕付けてくれるようにと、そんな時は礼を述べさせに人をよこしたりした。勿論、先生に御母堂や御新造がとりなして帰してくれようとしても、家の者は、お連れ申しますと叱られますと、あたしたちを残して行った。

教場の――それは、先生の住居を廻った、かぎの手なりの平屋建ての、だだっ広い一棟で一室だけだったが、畳があげられて板を張りわたし、各自めいめいの机や、五、六人並べる、学校で備えつけの板だけの長い机が何処にか取りかたづけられて、二人ずつ並ぶ、腰かけつきの、高脚の机になった時、代用小学校という木札にかわって、高等科はないが温習科というのが二年出来た。唱歌の教師が通って来て、英語もその教師が望むものだけへ教えることになった。すべて、六歳が、ものの手ほどきによい年齢というので、長唄なども習わせかたはきびしい方だった。踊りは、すぐ近くの師匠が、ちいさい時分から眼をつけて、連れに来ては舞台へあげて遊ばせていたが、踊りの師匠の母親が、あまりツベコベ追従するので、祖母がいやがって行かせないようにしてしまった。どうも、このことは、何か家庭に関係することがあって、あたしに芸を一ツ覚えさせなかったことになったようだ。

堅田という囃子方したかたの師匠の妹が父の世話になっていて、あたしを可愛がるのが、母におもしろくないのが原因だったようだが、それよりも、あたしにとって、大変な不運だったのは、母方の祖母が何かの便次つてがあって、あたしを下田歌子女史の関係する塾とかに――それが、何処であったのか知らないが、入れたらと言って来たときには、こんどはどういう意味で祖母が反対したのか、小軋轢があったふうで、沙汰止みになってしまった。「小学生徒心得」という読本が、楷書入りの本を読み習った最初なので、下田歌子の名は幼少な耳にも止めていた名だった。そんなことで、あたしに対する家庭教育は、世の中や、家の業とは大層異った、後あとびっしゃりなものであった。

ともかく泣いて願って、英語は習うことになったが、あいにく、ぶるさげていった赤インクの大きな壜を、白地のゆかたの出来たての膝へ、前の席のものが立ったはずみにひっくりかえされて、血をあびたようにこぼしてしまってから、それが長唄杵屋のお揃いで、学校の帰途かえりに行く月浚いに、間にあうように新しく縫われた浴衣であるにしろ、それだけの過失で、英語は下げられてしまった。

しかし、子供というものは、不思議なところで自分を生かすものである。読みと、算術――珠算たまざんを主にして、手習いと、作文だけの学校でも楽しかった。遊び時間はかなりあるから、あたしはみんなの石版をならべて、即興のでたらめのお話――児童作品長編小説を、算用数字の2の字へ二本足をつけて、毎日つづけて話すのだった。これはたいした人気で、あたしのお座は、十重とえにも取りまかれ、頭の上からも押っかぶさるほどに愛された。

このことを、ある時、校長秋山先生が自慢で、家へ来て話されると、どうも、いけない結果があらわれて来た。

折りもおり、幼少から可愛がって、自慢の弟子にしてくれていた長唄六三郎派の老女としより師匠から、義理で盲目めくらの女師匠に替えられたりして、面白味をなくしていたせいか、九歳ここのつの時からはじめていた、二絃琴の師匠の方へばかりゆくのが、とかく小言をいわれるたねになっていたところ、この二絃琴のお師匠さんがまた、褒めるつもりで、宅うちへお出でなすっていても、いつも本箱の虫のように、草双紙ばかり見てお出でなのに、いつ耳に入れているか、他人しとのお稽古で覚えてしまって、世話のないお子ですと、お世辞を言ったのだった。

あたしは、草双紙に実みが入って、日が暮れてから、迎えをよこされて帰って来て叱られると、大勢のお稽古を待っていたというのが逃げ口上だったのが、すっかり分かってしまった具合のわるい時だったので、俄然取りしまりが厳しくなって、よからぬ習慣は、寸にして摘まずばといったふうに、ともするとあたしは、奥蔵の縁の下に押込まれたり、蔵の三階に縛りつけられたりして、本を――文字のあるものを見ることを厳禁されてしまった。

それもまた、親の情であったかもしれない。あたしは、アンポンタンと呼ばれ、総領の甚六とよばれ、妹の色の白さに対して烏とよばれ、腺病質ででもあったのか、左の胸がシクシクして何時もそっと揉んでいたが、十二三には、祖母を揉みに毎日くる小あんまに、叩いてもらうほど苦しかったので、母は、机にギッシリと胸を押しつけてばかりいるからだと怒ってもいた。だが、おそろしく幼時は臆病だったので、蔵へは独りでものも取りにゆけないし、我が家でありながら、ぼんぼりをつけなければ、厠へもゆかないというふうであったから、十一やそこらで、床の高い、石でかこった、土蔵の縁の下に、梯子をとりあげられ、薦むしろ一枚の上におかれることは、上の格子から光のくるのを遮ぎられてしまうと、冷汗を流して、こおろぎに脅えたり、夏であると風窓が明いていると、そこへ顔を押しつけていたものだった。そんな時、まだちいさかった三人目の妹や四人目の妹が、外から覗きに来て、そのまま土に坐り込んで、黙っていつまでも風窓の内外から顔をおしつけっくらしているのだった。はしごをはずされて三階に縛いましめられていても、彼女たちは、いろいろな知恵をふるって鼠のように登って来て、縛めを解いてくれて、そこでお話をせびったり、石版をもって来て絵を描かせたりするのだった。

十三歳になると学校をさげられて、あらたに生花と、茶の湯とに入門させたが、午前九時から午後五時までは裁縫をしこまれた。

我が家の家憲としては、十一二歳を越すと、朝の清掃を大人同様、女中も書生もわかちなく一様にさせることで、妹弟きょうだいの世話、床のあげさげが、次の妹へと順送りになると、煙草盆掃除から、客座敷の道具類の清ぶきになる間までに、庭掃除から、玄関掃除、門口に箒目を立てて往来の道路まで掃くこと、打ち水をすること、塀や門をあらったり拭いたりすること、敷石を水で洗いあげることを、手早く丁寧に助けあって励んでやらなければならない。それは夏冬をきらわず、足袋などはいていてするような、なまやさしいやりかたではゆるされなかった。働かないのは、一番目上で老齢である祖母と、幼いものたちだけだった。父も自分の床をあげてキチンとしまい、書斎の掃除まですることもあった。裁判所へ行く前に、多くの客が、二階へも階下したへも、離れへも、それぞれ他人に聴かせたくない用をもって来るので、母は一時二時に寝ても、朝は五時かおそくも六時前には起きていた。

夏など、みんなが目ざめる前に、三味線の朝稽古をすまして来ようと、夜の白々しらしらあけに、縁の戸を一枚はずして庭へ出ると、青蚊帳のなかに、読みかけた本を、顔の上に半分伏せたまま眠っている母を見ると、母も本は読みたいのだなあと、たいへん気の毒な気がして、早く行って帰って来て、掃除やなにか手つだおうと思った。

二

朝夕に、腰を撫で、肩をもんであげた祖母は、八十八歳であたしの十五の春に死んだ。あたしを一番愛していたが、厳しいしつけでもあった。一ツ身を縫うにも、二度三度といて、縫い直しをさせるのだった。そういうことを恥かしがらないアンポンタンでも少々気まりの悪いこともあるし、教える人の方が、まだ小娘さんなのに、あんまりひどいと怒ることもあった。

ともかく、あたしの教育は、本を読ませないことというに、何時かきまってしまっていたが、まだしも祖母のいるうちは、あたしも小さくなっていたし、母たちも幾分祖母へ遠慮をしていたが、段々とあたしは知恵を出して来た。読み書きをするのに、母が労れて眠る時分をはかり、妹と二人寝る部屋の障子の方へは、屏風やら何やらで灯影をさえぎり、これでよしと夜中の時間を我がものがおに占領しだした。

ところが、洋燈ランプの石油はへって、ホヤは油煙で真っ黒くなる上に、朝寝坊になって、父が怒って、冷水みずをあいている口へつぎ込むことなど、仕置きされることが重なってしまった。ある夜中には、寝たと思った母が部屋へはいって来て、大いに怒って父を呼び、父が優しくて見逃しているのだというので、父から楊弓をもって激しく折檻された。祖母のいるころでも、母が強く怒ると、姐あねさまのはいっている手箱も、書きものの手箱も、折角、かくして、ぽつぽつと溜めた本類も、みんな焚もしてしまわれたりしたが、そんなにしても、妹たちも好きだったので、いろいろな工夫をしてくれた。家にも何かしら読みものは多くあった。母が、浴衣ならば、家内が多いので、一度に十反くらいを積んで、縫えと出すと、もう家にいて縫うようになっていたので、静かな、なるべく母の目から遠い二階の部屋にあがって、それこそ朝の仕事も早くすませ、身じんまくも早くしてしまって坐る。そうなると、頭をよく働かして、たいへん手早く巧者に裁断たってしまって、早縫いの競争なのだが、母が見廻りにくると、実に丁寧な縫いかたをしている。で、一日に一枚はこの分ではどうかと思ってもらっておいて、次の妹と二人がかりで、二枚も三枚も拵らえあげてしまって、それからの残りの時間を、雑読、乱読、熟読の幾日かをものにしていた。

そこで、おかしいのは、母は、なんでそんなに厳しくしたかといえば、出来もしないことにふけって、なま半可な女ものになるのを、ばかに怖れたのではないかと思う。だから、あたしが、書いたり、読んだりするのは気に入らないが、ほかのことで、皆とひとしなみに、楽しみとして見聞きすることは許さないではないから、あたしがずっと小さいころ、書生が幻燈会をして近所のものに見せたりするのを、共に楽しんで見ていたように、友達たちで、三味線などひいて芝居ごっこなどしても、それは遊びとして大目に見ていた。そして、あたしどもが、幾分、新知識を得ようとするとき、玄関の大火鉢の廻りや、紫檀の大机のもとに集まって、高等学校から来る大おお先生に、西洋ものの小説や劇の話をきくのも、それも許した。

大先生といっても、一高の生徒だった鵜沢総明氏が、まだ惣一といった昔のことで、はじめあたしたちは、千葉の田舎から来たほやほや中学生の書生さんの頭に、白髪しらがが多くあるので、黒い毛の方を抜いてしまう方が汚なくないなんぞと、頭の毛を引っつかんだりした、いけない幼女だったが、独逸人の教師の家へ寄宿して、やがて一高の生徒になると、忽ちあたしたちの大先生にあがめ、新しい話――つまり文学を聴くのに貪慾になって、それからそれからとせがんだものだった。次の妹は、趣味の共通から、共同の陣を張りはするが、もともと母の秘蔵娘であるところから、ちょろりと裁縫の時間の内幕を洩らしてしまったりする。そこで、いよいよ懲らしめのため、も一つには行儀見習い、他人の御飯を頂かないものは我儘で、将来人しとが使えないという、立派な条件を言いたてに、母が大好きで、自分が、旧幕時代の大名奉公というもの、御殿女中というものにあこがれていた夢を、時代の違った時になって、娘によって実現して見ることにきめてしまった。父が、旧岡山の藩主であった池田侯の相談役であったのと、そのすこし以前にお家騒動が起りかけたりしたを処理したので、そんな縁故から頼み込んで、旧藩臣の身分のある者の娘でなければつかわなかったという、老侯夫妻のお小姓――平ったくいえば、小間使いみたいな役につけてもらうことになった。十六歳だった。

若いものなどは皆目かいもくいない広い邸だった。鼻の頭の赤い老臣が、フーフーと息を吹きながら、袴の裾で長い廊下を拭くように歩いていった。それが有名な国文の学者だといった。表門の坂を俥なり馬車なりが下ってくると、飛び出して、主人の時などは土に手をつく人品の好い門番が、以前は一番上席の家老だったというふうで、小使いも下の女中もみんなお婆さんかお爺さん。たまたま二、三人、上かみ女中でないものに若い女がいたが、年寄りもおんなしことで、ただ年が若いというだけ、新時代に対してなんにも知らない人たちばかりだった。

鍾愛しょうあいの、美しい孫姫さんが、御方おかた(姫の住居―離れたお部屋)に乳母たちにかしずかれていた。侯爵夫人になられた細川博子さんがそのお姫ひいさまであったが、あたしが奉公してから間もなく、ウエスト夫人という西洋人のところへ、英語を学ばれに通うことになったとき、そのお乳母さんが附いてゆくのが、およそあたしが、生涯に羨ましいと、人のことを羨んだ、たった一つのことで、お今さん、あなたは傍にいらっしゃるのときいたら、はい、すぐお傍にいますが、なんにも覚えてませんと言った。何とやらん無念のおもいが、胸にグンと来るのを、どうしようもなかったのは、志望してそのお伴のまたお伴に、ついてゆけることなど、およそ出来るわけのものでもなかったからだ。次の部屋にいようとも、あたしの耳は発音をきくだろう、耳で覚えたものを寝てからブックに照し合わせても解る筈だとは――とは、とはと、思いもするが、あたしは読ませないようにという意味が、御奉公の眼目におかれているので、お下がりの新聞さえ読ませられないのだ。御家令というのが、もとの上席家老格で、その人があたしの父の親友、そしてその人が母からよく頼まれて、どうも変な子だということを、年寄りたちに伝えてあるし、母がまた一々、他の人にも、あたしの病いの虫のように話したのであるから、あるいは、老侯爵は面白がって許してくれるかもしれないが、傍のうるささが思いやられて、お孫姫さま英語御教授をおうけになるお供を、お願いする機会はなかった。

だが、それは、その場合大望すぎたのだ。あたしはこれでなかなか自由の時間を持っていたのだ。家にいる時とちがって、夜中の時間は絶対に自由にできる。といって、もとより人に知れないようにではあるが、そこにはまた何やらん、やりよさがあった。お上かみ女中の部屋は二、三人ずつの共同部屋で、八畳、六畳、四畳半、三畳の四室に屋根裏二階が物置きになっていた。あたしが置かれた部屋は格の好い方で、老侯の愛妾の部屋に隣り、殿様付きの老女格の人と、御前様づきのお側女中との二人が一人の下しも女中を雇っている世帯へ、食事は御番ごばん――主人の食事係が賄うことにして、部屋だけ居候だった。

老女中さんたちは自分賄いの共同台所をもっていたのだから、いきおい物資の消費を節約する。御殿は電燈であったが、おひけになると御寝所や次の間は燭台になって、西洋蝋燭がともされる。それを朝ごとに掃除するのもあたしの役目の一ツだ。あたしは、涙を垂らしたともしかけの蝋燭を、折角きれいにした燭台へさすのは景気がよくないので、日ごとに新しくした。夜が長いと、ともしかえるように新しいのを一本添えておくことも忘れなかった。それで、知らず知らずにともしかけが大きな箱へ溜ってくる。それを一本もって来て、ごく短いのを机の角に立てて、ふとんの上にニヤニヤしていたものだが、今度は、そのうちの長いのを選って、部屋用にさせた。ともしかけは、それまでは取り捨ててしまわれたそうなのだが、老女たちは感心だとよろこんだ。

それによい事は、隣りの部屋ぬしも夜中は不在、わが部屋もお詰め処へ寝る番が二人とも一緒の日が多い。そうなると居候が大威張りで、自室の女中も、となり部屋の女中も、若いものがお引けすぎに寄って来て、芝居の噂話をよろこんでして、お菓子を食べて帰ってからが我が世なのだった。権威のあった御愛妾さんも、御酒が飲めるほうで、毎晩部屋で晩酌のあとは、部屋女中から、あたしからきいた芝居の話をきくのを珍らしがって、夜中の仕事も聞かぬではないが、そんなに好きなら仕方がないと、大目に見てくれたりした。あたしは六円の月給をはじめて得て、三円を食費の足しに差引かれても、残るお金で毎朝小使いさんが下町へ買いものに出るのに頼んで、書籍を購うことが出来た。その時分『女鑑』だとか『大日本女学講義録』などが出て、学びたい餓えを、すこしばかりは満たしてくれた。

しかし、間もなく、あたしの胸は本痛みになり、隠していたが、ある日の正午ごろ、おくれた朝の仕事をおわって、身じまいにかかろうと、倒れそうな身を湯殿へはこび、風呂にはいるとだめになった。ここで倒れては大変と、拭うひまもなく衣服に身をくるんで、部屋までどうして帰ったか、壁ぎわに横になったまま、半ば意識を失って、死生の間を彷徨する日が十日もつづいた。幸いと、赤十字社の難波博士が主侯の診察に来られる定日じょうびだったので、あたしは肋膜炎の手当がほどこされた。冬のはじめのことだった。

赤十字病院へ入れるにしても、暖かい日の真昼、釣台でといわれたのを、母は家へ連れて帰りたいと願った。彼女も死ぬと思ったのであろう。あたしは夢中で、暫らく帰らない家も見たいとも思っていた。送るものは、早く癒って、また帰って来なさいと、主侯夫妻まで部屋に来て見送ってくださったが、命冥加にもどうやら命はとりとめた。二月の末に、病みあがりの、あと養生もしないで邸へ帰った。その時は息切れが甚しどいくらいでわからなかったが、喘息がその次の冬になってあたしを苦しめ、心臓も悪かった。でも、どうにか押し隠して、自分の自由のある夜の世界を楽しんでいたが、息切れと、膝関節炎になって、日本館の長い廊下や、西洋館の階段を終日歩き廻る役は、だんだんつらくなって、人の見ていない時は這ったりしだした。

足かけ三年目の初夏、奉公をさげられた。あたしは家にいて、また裁縫や解きものの時間を利用しだした。

おかしな事に、肋膜で病らったあの大病のあとの、短い日数ひかずのうちに、あたしは竹柏園ちくはくえんへ入門していることだ。ほんとは、もっと早く奉公に出されぬ前、祖母が死ぬと直きに、弟をねんねでおんぶした仲働きが、人形町までといって出た、あたしの買いものの供に付けて出されたが、この女中は二十歳はたちを越していて、何かよくわかったから、却って道案内をしてくれて、神田小川町の竹柏園の門に立ったことがあったのだ。まだお若かった佐佐木信綱先生と、新婚早々の雪子夫人は、その時、花簪を揷した、ちりめんの前かけをしめていた、あたしの姿を今でも時々おっしゃる。

さて、入門したといっても、こっちがしたつもりだけで、実のところ、束脩そくしゅうもおさめたやら、どうやら、福島の人で、あたしたち姉妹を可愛がってくれた、あまり裕福でない、出入りの夫婦にたのんで、榛原はいばらで買った短冊に、しのぶ摺りを摺ってもらいにやって、それが出来て来たのを、十枚ばかりおみやげに持っていったのが、ありったけの心持ちだったのだ。ずっと帰って来てからは、大胆になって、かまわずに稽古日には朝から出かけた。もとより本はないから、先生のうちの玄関の、欄間までギッシリ積んである本箱の上から出して頂くのだった。夏の朝、早くから行くので、昌綱さん(先生の弟御)が大急ぎで座敷を掃いて、踏みつぎをして、上の方の本箱から、納めてある和綴わとじ本の大判のを出して貸してくだされた。源氏や万葉のお講義、その他の物語のこともあった。先生の奥様が、母の妹の連合いの上官で、官舎であったのかどうか、おなじ猿楽町の、大きな門のある構内に、お住居があったのと、藤島さんの一粒だねの令嬢をおかたづけになったほどなのだからと、先生については、よほどの信用があったから、母も、国文学を学びに通うことは見て見ぬふりをしてくれるようになりはしたが、許可されたのではないから、足りても足りなくってもお小遣いのうちから小額の月謝をもって行ったのだが、気まりわるくも思わなかった。朝の仕事をすますと御飯を食べている暇がなかった。神田小川町までではあるが、歩いて通わなければならない。大雨が降ると、帰りには足駄をぬいで跣足はだしで歩いてくるので、漸く、近所の眼がうるさくなりだした。そんな日には、大問屋の店の者は、欠伸あくびをしているのもあるから、あたしの育ちを、赤ん坊の時から知っている、旦那たちまでが気にしだした。

「先生ンとこのお嬢さん、どちらへおやりになっているのかと、申す者もございます」

と、父に耳打ちをする者もあるので、母が気にしだした。縁談なども、選りにもよって近所の鉄成金の家で、家じゅうで芸妓遊びをするといった派手な家からの所望を、昔を知っているから大事にするだろうとか――厳しく躾しつけたのは、そんなところへやる為ではなかったであろうに、若き娘は、暮しむきの賑わしさに眩惑されて、生来の気質をあらためるかとでも思ったあやまりであったでもあろう、もとから知りあっていた両家は頻繁に往来し、道楽で勘当されていたという次男に分家支店をもたせ、あたしを貰うことにきめてしまった。

――いやだ、いやだ、いやだ。

訴えるすべもないので、あたしは枕もとの行燈を、ひと晩中に真っ黒におなじ字で書きつぶしてしまった。父に見られたら、どうにかなるという思いで一ぱいだったが、なんのこと、翌日は真っ白に張りかえられてある。どうしてよいか分からぬ憂欝に、病わずらいついた。長く寝てしまったが、漸く床の上に起きあがれる日、びっくらしたのは、立派な結納の品々が、運びこまれ、紋付きの人たちが、病気全快のあいさつと一緒に、祝着申しますとあたしに悦びを述べた。

だが、決心はついた。自由を得る門出かどでに、と、あたしは寒い戦慄のもとに、親のもとを離れる第一歩を覚悟した。昔の人が厄年だという十九歳の十二月の末に、親の家から他家へ嫁入りとなって家を出た。嫁にやられるには違いはないが、あたしは円満に親の手を離れる決心であった。だから、途中からでも逃げたい気持ちだったが、父の恥を思うと躊躇させられた。それにまた、華々しいほどの出入りの者にかこまれて、身動きも出来ない羽目となっていた。母は、さすがに、子の心は察しがつくと見えて、紙入れをもたせなかった。一銭の小遣いもわたさなかった。

以上が、明治十二年末から、二十年の末までの、東京下町の、ある家庭の、親に従順な一人の娘の、表面に現われない内面的生活争闘史である。以下は、彼女が、彼女自身で、茨を苅りながら、自分の道へと、どうにかこうにか歩き出して来た道程であるが、はじめから本道を歩きださぬ者には、よけいな道草ばかり食って、いくらも所念の道は歩いていない。振りかえって見るのも嫌なくらいである。あたしはまっしぐらに、おもてもふらず行こうとすると、きっと障碍が出来てくる宿命に生まれついてでも居るようだが、いって見れば畢竟は努力が足りないのだ。断わっておきたいのは、日に日に進歩した女子教育とは、およそ反対の歩きかたであったので、これが明治女学勃興期の少女の道と思ってもらいたくない。きわめて歪んだかたちなのだ。女流小説家として有名な、故一葉女史は、その前年明治廿八年末に物故されている。

三

そこで、生活は一変したが、婚家では困ったお嫁さんをもらったのだった。陽気な家のものたちは、あからさまに言った、水に油が交ったようだ、面白くない、みんながこんなに楽しく団欒して食事をするのに、この娘こは先刻さっきから見ていると、一碗の飯を一粒ずつ口へはこんで、考え込みながら噛んでいる――貧乏公卿の娘でもないに、みそひともじか――お姑さんはあられげもなく、そっと書いたものを見つけると、はばかりへ持っていって捨ててしまう。

病気がちなあたしは、芝居のお供、盛り場での宴席、温泉場行きもみんな断わって留守番を望んだ。出入りの貸本屋にお金を出して新本をかわせ、内密ないしょで読んで、直きにやってしまうので、彼は注文次第で、どんなむずかしい書籍ほんも買って来てくれた。あたしはまた、解ろうがわかるまいがむずかしいものに噛りついて、餓えきった渇きを癒した。だが、道楽息子が直きにまた勘当されたとき、この時こそ自分だけで自分を生かす時機ときがきたと、離婚のことを言い出すと、先方の親たちは妙なことを言い出した。悴の嫁にもらったのではない、家の娘にもらったのだ。だから、何処へいっても嫁とはいわなかった、娘だといってきていた、実子の娘だと言っていたではないか、帰さないと。

あたしは世間知らずだった。自己のことにばかり目がくらんでしまって、明瞭はっきりした眼をもたなかった。真の愛情がないものが、なんでそんなことを言うのか――変だとは思わないで、ただ厭だとばかり思った。だから、厭さが昂じて死にそうな病気ばかりした。生まれた土地に名声のある我が家を、古鉄屋から紳商になりかけた家が、利用するのを察知しなかった。父の身辺にすこしの危惧も警戒もしなかった。

父は、前にも言った通り、自由党の最初に籍をおいたが、脱党して以来口ぐせのように、法律も身にあった職業ではない、六十になったら円満にこの家業もやめると、子供であったあたしなどにさえ、時折り洩らしていたほどで、あたしを相手に茶をたてたり、剣を磨いたり、下手な俳句をひねったりして、よく母に、あなたが発句ほっくをつくるので考え込むから、おやすが真似をして溜息をつくと、間違った抗議をしたものだった。父は幼少のあたしを連れて、撃剣の会へいったり、釣堀にいったり、政談演説会へいったりした。種々な名誉職をもって来られても、迷惑だと断わるのがつねだった。よんどころなく弁護士会長とか、市の学務委員とか、市参事会員とかにはなっていたが、恬淡な性質で、あばたがあるので菊石きくせきと号したりしたのを、小室信夫しのぶ氏が、あまりおかしいから溪石けいせきにしろと言ったというふうな人柄だった。

しかし、父の酒飲みなのを知って舅たちが毎夜酒宴を張って、料亭に招じるのを、あたしは見まい聞くまいとばかりしていた。いつであったか、父は米国から帰って来た星亨氏に内見を申し込まれ、星氏が総理大臣になることがあったら、父に市長になってくれと言われたが、嫌だと言ったということは、あたしに話したが――どうも、あたしの婚家のいやな気風が、生家の、あのものがたい家憲の一角を、ぶちこわしている気がして、不安に思いながら、あたしは父と母にも遠くなっていた。

父は、不名誉な鉄管事件というものに連座した。父は手紙でもって言ってよこした。

長く考えていた良いことを、ちょっとした短いみじかい分時にぶちこわしてしまった。間違った思慮は一分時で、悔いは終生だ、子供に済まない――

あたしは、それを読んでやっぱり父だったと嬉しく思った。誰のことも、そのよってきた道程もいわない、すべてをみんな自分で背負おうとしているのに、あたしは父を見た。よし、あたしは、この後自分のゆるさぬ曲がったことを一分もすまい、潔癖すぎて困るほど清廉に生きて、父のあやまちは性分ではなく、弱さから負った過失だ。自己の罪として受けた心根を知るあたしだけが、銭を愛さず、事志とちがった父の汚名を、心だけで濯すすごうと思いをかためた。

で、読み、書くために自立しようとして来たそれまでの志望こころざしを曲げて、まず、人間修業から出直しすることにした。独立するまで、二度は帰るまいと立ち出た実家へ帰って、病をやしない、すこし快くなると釜石鉱山へ行った。そこで三年もすごせば勘当息子の帰参が叶うという約束のもとに行ったのだ。そのあとであたしはあたしの道へ出ようと思った。鉱山所長の横山氏夫妻が、その息子一人では預かれぬと言ったから、行ってもらいたいというのが、先方の両親の願いだった。

事件の最中で、心弱くなっていた父は、病みやつれたあたしを上野駅まで見送ってくれて、二度とやりたくないのだがと呟いていた。しかし、この山住みの丸三年は、あたしに真の青春を教えてくれた。肝心の預けられた息子は居たたまれなくて、何かにつけて東京へ帰って長くいるので、あたしは独居の勉強が出来た。県道からグッと下におりて、大きな岩石にかこまれた瀬川の岸に、岩を机とし床として朝から夕方まで水を眺めくらして、ぼんやりと思索していた。ある時は、水の流れに、書いても書いても書きつくされないような小説を心で書き流していた。「一元論」を読み、「即興詩人」を読み、馴れない積雪に両眼を病んで、獣医も外科医も、内科も歯科もかねる医者に、眼の手術をしてもらって、それでも東京へは出ず、頑固に囲爐裏のはたや炬燵のなかで、繃帯をした眼で、大きな字を書いて日を送っていた。

横山所長は、釜石鉱山をものにするまでに、座敷牢へ入れて止められたほどの苦労をして来て、くされ半纒に縄帯ひとつで、鉱夫と一緒になって働いた人であるし、夫人は夫を信頼して、狐狸の住家だった廃鉱の山へ来たという、東京生まれの女性であっただけに、大変あたしを愛いとしんでくれた。

――はじめ聞いていたことと、あんまり違うので――と夫人は言われた。他の者なら、辛抱なさいと言うのだが、あなたにはそうは言わない。すこしも早く、あなたは自分だけになる方が好い。もう山になんぞいないで、十分に自分の道へ出た方が好い。

そう言われて、はじめて道が開けた気がしだした。あたしはこの山住みで、小さな作ものを投書して特賞を得たりしたが、これは実力がどの位な辺かという試しにしたことで、これならなぞというたかぶった気持ちではすこしもなかった。

東京へ帰ると、舅が亡くなったりして、離婚のことを言い出せなかった。だが、ぽつぽつと書くものは通るようになって来て、今度は離婚に、婚家の方で意地悪をはじめ、かなり苛酷な目にも逢ったが、その為あたしの健康がおとろえ、もはや生きまいと思われたほどだったので、肺病ではしかたがないと、漸く事がきまった。

その前にあたしは家を出て、実家の世話になっていた。それは一つは、勘当息子にも以前の家をあてがわれ、多少の資本もとでをもわけられるようになったから、あたしの心に定めた通りになったから、やましきところがなかったのと、も一つは、あたしの山に居ることを聞いて、作品から慕ってくれていた少年があったから、あたしは、心にもなき家に止まって、その少年の愛を告げる心を掴んでいるのは、両方に対して心苦しく感じたからでもあった。

あたしは、漸くものを書き出しうるようになりつつあった。遅まきながら築地にあった女子語学校の初等科に、十二三の少女たちと一緒になって英語をまなび出した。そのころ父は、一切の公職から隠退して、いくら勧められても出ず、まことに世捨て人のごとく、佃島の閑居に隠遁していたので、あたしは父の傍にいて、父を慰めながら、住吉の渡船わたしをわたって通い、日本橋植木店だなの藤間の家元に踊りをならいなどして、劇作を心がけ、坪内先生によって新舞踊劇にこころざしていた。

四

そのころ、母も、まだ巣立たぬ弟妹たちのために、父にかわって、生活の保障をしようとして彼女の性分にあった働きをしていた。以前もとすこしばかり、其処を手に入れる時に、お金を用立てた人が死んで、その後家たちは、新橋で旅館をもとからの商業しょうばいにしているので、丁度引受け手を探していた、箱根塔の沢の温泉をゆずってもらって、経営しはじめた。

馴れないことではあったが、母は働きずきであったし、客あしらいも知っているのに、父のまがつみを同情する知己の贔屓もあって、温泉亭家業は思いがけないほど繁昌した。それだけに、母も漸く、女も何か知らなければ、こんなことしか出来ないと悟った。かような家業でなければ子供を教育しながらでも出来るのにと、それは、ひしひしと彼女に後悔に似たものを思わせて、あたしを、今度は以前とはあべこべに大事にしてくれ、もはや、家を出てくれるなと言い出した。

あたしの自立は、また此処で一頓挫しなければならないことになった。しかし、書いたものは、歌舞伎座や新富座などで、一流中の一流俳優によって上演されるのがつづくようになった。女流劇作家も他にいなかったし、女流の作が劇場外からとられるのも最初だったが、どうしたことか、絵ハガキなぞも上方屋かみがたやから売り出されたりしたので、母はいよいよ悦ばされ、袴をはいてくれれば、頸からかける金鎖と時計を買ってあげるなどと、とぼけたことを言ったりするほどであった。そして彼女も、一層活動しようとした。

そのころ、芝公園内の、紅葉館こうようかんという、今でこそ、大がかりな料亭も珍しくないが、明治十四年ごろの創立で、華族や紳商が株主になって、いわゆる鹿鳴館時代の、一方の裏面史を彩どる役目をもっていたうちが、創立者の野辺知翁が死んでから萎微していたのを、当時の社長におされた中沢銀行の中沢彦吉氏が、母を見込んで引き受けてくれないかと、再々足を運ばれた。

中沢氏の後妻には遠縁の女もいっているので、母はたいへん気乗りがして、繁昌な箱根の店を投げ出してまで紅葉館をやろうとした。あたしは反対したが負けた。ともあれこれは、我が家の第二の招いた災難になったのだった。母は精神をすりへらして挽回し、積累の情弊を退ぞけたが、根本の利益を目的の株式組織ということをよくのみこまないでいた。意志の疎通せぬために、中沢氏が歿しられると、母は憤死しはせぬかと思うばかりの目にあって、結局やめた。眼の届かなかった箱根の方もやめなければならなかった。

あたしはその間に、舞踊研究会をまとめて、歌舞伎座で大会を二回、紅葉館で例会を六回催した。新舞踊劇と、古く、忘れられがちな踊りの復活を旨とした。幸いに、菊五郎も三津五郎も猿之助も、米吉、男寅の、踊れる俳優たちと、藤間は勘十郎、勘右衛門の両家、花柳からも、あらそって出演し、新橋芸妓では踊り手の七人組をはじめ大勢が出てくれた。

自作の新舞踊劇「空華」は奈良朝時代の衣装背景で、坪内先生の「妹背山」の試演がその式で紅葉館で催されたことはあるが、そうした服装での舞踊ははじめてであった。衣装は松岡映丘氏、後景は組みものだけが大道具の手でつくられ、画幕は氏のほかに美術学校から大勢来られて描かれた立派なものだった。作曲は鈴木鼓村氏の箏を主楽にしたもので、三味線楽もあしらったが、箏曲をもとにしたのは、やはり最初でもあった。

また、劇場には出演しない葺屋町の吉住一門に歌舞伎の舞台に出てもらい、小三郎氏の作曲になる「江島生島」を初演したのもその会であった。もとより、井上八千代流の京舞をも出した。小山内薫氏がロシアやフランスからもって来た、洋行みやげの舞踊談も、幻燈で示されたりしたのもこの会の収穫だったのだ。

これが動機となって菊五郎一門の、新しい劇研究の「狂言座」を結成した。帝国劇場での第一回公演には坪内逍遙先生の新舞踊劇「浦島」をさせて頂くおゆるしをうけた。森鴎外先生には「曽我」を新しく書いて頂いた。第二回には、木下杢太郎氏の「南蛮寺門前」を中沢弘光氏の後景、山田耕筰氏の作曲でやった。吉井勇氏の「句楽の死」は平岡権八郎氏に後を描いて頂いたりした。

あたしはまっしぐらに、所信のあるところへ、火のような熱情をもって突きすすんでいった。

だが、母の打撃は見てすごされなかった。それに実家では、弟の若い嫁が、赤ん坊を残して死んだ。あたしの手にそれは受けなければ、残された子は死にそうなほど弱かった。それに、も一つ、三上は恋愛を申入れてきかない。それに自分の方へ引っぱってしまおうとする。あたしは、家庭婦として、あっちこっちに入用になって、引きちぎれるように用をおわされた。

それを振りちぎったらば、今日、もすこしましな作を残しているであろうが、父のことに対して、心に植えた自分自身との誓いは頭を持上もたげて、まず、人の為になにかする「。」の脱落はママ

そうして、すべてを捨ててかえり見ぬこと幾年? 昭和三年に「女人芸術」に甦えってからの爾来は、あまり生々なまなましいから略すことにする。(昭和十六年十一月~十七年一月「新女苑」)

底本 / Source edition

底本:「旧聞日本橋」青蛙房
1971(昭和46)年5月15日初版発行
※「先生ンとこ」の「ン」は底本では小書きになっています。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年7月4日作成
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書誌 / Bibliography
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長谷川 時雨「旧聞日本橋──25 渡りきらぬ橋」(新字新仮名)、底本『旧聞日本橋』青蛙房、1971年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 024432_000726, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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