Soranoha

凩

こがらし

寺田 寅彦

またひとしきり強いのが西の方から鳴って来て、黒く枯れた紅葉を机の前のガラス障子になぐり付けて裏の藪を押し倒すようにして過ぎ去った。草も木も軒も障子も心から寒そうな身慄みぶるいをした。ちょうど哀れをしらぬ征服者が蹄ひづめのあとに残して行く戦者の最後の息であるかのような悲しい音を立てている。これを嘲る悪魔の声も聞えるような気がする。何処の深山から出て何処の幽谷に消え去るとも知れぬこの破壊の神は、あたかもその主宰者たる「時」の仕事をもどかしがっているかのように、あらゆるものを乾枯させ粉砕せんとあせっている。

火鉢には一塊の炭が燃え尽して、柔らかい白い灰は上の藁灰わらばいの圧力にたえかねて音もせずに落ち込んでしまった。この時再び家を動かして過ぎ去る風の行ゆくえをガラス越しに見送った時、何処とも知れず吹入った冷たい空気が膝頭から胸に浸み通るを覚えた。この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸ぼろは枯木のような臂ひじを包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が落ちて、頬冠りした手拭の破れから出た一束の白髪が凩こがらしに逆立さかだって見える。再びヨボヨボと歩き出すと、ひとしきりの風が驀地まっしぐらに道の砂を捲いて老翁を包んだ時余よは深き深き空想を呼起こした。しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯を夢みた時、あたかもこの人の今の境遇が余の未来を現わしていて、余自身がこの翁の前身であるような感じがした。

彼は必ず希望を抱いて生れ、希望の力によって生きて来たであろう。否いな今もなおこの凩に吹き散る雲の影のようななんらかの希望の影を追うているではあるまいか。そしてこの果敢はかない影を捕えんとしては幾度か墓の閫しきいに躓つまずいているのではあるまいか。凡およそ何がはかないと云っても、浮世の人の胸の奥底に潜んだまま長い長い年月を重ねて終ついにその人の冷たい亡骸なきがらと共に葬られてしまって、かつて光にふれずに消えてしまう希望程はかないものがあろうか。

浮世の人はいかなる眼で彼を見るであろうか。各自の望みを追うに暇いとまのない世人は、たまに彼の萎しなびた掌てのひらに一片の銅貨を落す人はあっても、おそらくはそれはただ自分の心の中の慈善箱に投げ入れるに過ぎぬであろう。そして今特別の同情を以て見ている余にさえも、この何処の何人とも知れぬ人の記憶が長く止まっていようとも思われぬ。

彼はたぶん恋した事もあろう。そして過ぎ去った青春の夢は今幾何いくばくの温まりを霜夜しもよの石の床にかすであろうか。

彼はたぶん志を立てた事もあろう。そして今幾何いくばくの効果を墓の下に齎もたらそうとしているのであろう。

このような取り止めのない妄想に耽っている間に、老人の淋しい影は何処ともなく消え去った。突然向うの曲り角から愉快な子供の笑い声が起って周囲の粛殺しゅくさつを破った。あたかも老翁の過去の歓喜の声が、ここに一時反響しているかのごとく。(明治三十四年十二月)

底本 / Source edition

底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1985(昭和60)年7月5日第3刷発行
※底本編集時に、亀甲括弧付きで以下の箇所に添えられた注は、削除しました。
「希望の影を追うている〔の〕ではあるまいか。」
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
2016年2月25日修正
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書誌 / Bibliography
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寺田 寅彦「凩」(新字新仮名)、底本『寺田寅彦全集 第一巻』岩波書店、1996年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 024420_000042, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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