明治三十二年に東京へ出て来たときに夏目先生の紹介ではじめて正岡<ruby><rb>子規</rb><rt>しき</rt></ruby>の家へ遊びに行った。それとほとんど同時に『ホトトギス』という雑誌の予約購読者になったのであったが、あの頃の『ホトトギス』はあの頃の自分にとっては実にこの上もなく面白い雑誌であった。先ず第一に表紙の図案が綺麗で目新しく、俳味があってしかも古臭くないものであった。<ruby><rb>不折</rb><rt>ふせつ</rt></ruby>、<ruby><rb>黙語</rb><rt>もくご</rt></ruby>、<ruby><rb>外面</rb><rt>とのも</rt></ruby>諸画伯の挿画や裏絵がまたそれぞれに顕著な個性のある新鮮な活気のあるものであった。現在のようなジャーナリズム全盛時代ではおそらく大多数のこうした種類の挿画や裏絵は執筆画家の日常の職業意識の下に制作されたものであろうと思うが、あの頃の『ホトトギス』の上記の画家のものはいかにも自分で楽しみながら描いたものだろうという気のするものばかりである。どうしてそんな気がするか分らない。一つにはこれらの画家が子規と特別な親交があって、そうしてこの病友を慰めてやりたいという友情が籠っていたであろうし、また一つには当時他に類のなかったオリジナルでフレッシな雑誌の体裁を創成するということに対する純粋な芸術的な興味も多分に加わっていたために、おのずから実際に新鮮な活気が溢れていたのではないかとも思われる。こうした活気はすべてのものの勃興時代にのみ見らるるものであって、一度隆盛期を通り越すと消えてしまう。これはどうにも仕様のないものである。

たしか浅井和田両画伯の合作であったかと思うがフランスのグレーの田舎へ絵をかきに行った日記のようなものなども実に清新な薫りの高い読物であった。その内容はすっかり忘れてしまったが、それを読んだときに身に沁みた平和で美しいフランスの田舎の雰囲気だけが今でもそっくり心に残っているようである。

「<ruby><rb>闇汁会</rb><rt>やみじるかい</rt></ruby>」や「<ruby><rb>柚味噌会</rb><rt>ゆみそかい</rt></ruby>」の奇抜な記事などもなかなか面白いものであった。これなども具体的内容は覚えていないが、この記事で窺われた当時の根岸子規庵の気分と云ったようなものだけははっきり思い出すことが出来る。

その頃すでに読者から日記や短文の募集をしていた。自分も時に応募していたが、自分の書いた文章が活字になったのは多分それが最初であったと思う。理科大学の二年生で<ruby><rb>西片町</rb><rt>にしかたまち</rt></ruby>に家を持っていたその頃の日記の一節を「牛頓日記」と名づけて出したことがある。牛頓はニュートンと読むのであるが実に妙な名前をつけたものだと思う。もっとも二年生のとき牛頓祭という理科大学学生年中行事の幹事をさせられたので、それが頭にあったためかもしれない。また、短文の方は例えば「赤」とか「旅」とかいう題を出して、それにちなんだ十行か二十行くらいの文章を書かせるのであった。何という題であったか忘れたが、自分が九歳の頃東海道を人力車で西下したときに、自分の乗っていた車の車夫が<ruby><rb>檜笠</rb><rt>ひのきがさ</rt></ruby>を冠っていて、その影が地上に印しながら走って行くのを<ruby><rb>椎茸</rb><rt>しいたけ</rt></ruby>のようだと感じたと見えてその車夫を椎茸と命名したという話を書いた。子規がその後時々自分に「あの椎茸のようなのはもっとないかね」と云ったことを思い出す。あの頃の短文のようなものなども、後に『ホトトギス』の専売になった「写生文」と称するものの<ruby><rb>胚芽</rb><rt>はいが</rt></ruby>の一つとして見ることも出来はしないかという気がする。少なくも自分だけの場合について考えると、ずっと後に『ホトトギス』に書いた小品文などは、この頃の日記や短文の延長に過ぎないと思われる。

裏絵や図案の募集もあって数回応募した。最初に軒端の<ruby><rb>廻燈籠</rb><rt>まわりどうろう</rt></ruby>と<ruby><rb>梧桐</rb><rt>あおぎり</rt></ruby>に天の河を配した裏絵を出したら幸運にそれが当選した。その次に<ruby><rb>七夕棚</rb><rt>たなばただな</rt></ruby>かなんかを出したら今度は見事に落選した。その後子規に会ったとき「あれはまずい、前のと別人のようだと不折が云っていた」と云われた。その後に冬木立の<ruby><rb>逆様</rb><rt>さかさま</rt></ruby>に映った水面の絵を出したらそれは入選したが「あれはあまり<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り過ぎてると<ruby><rb>碧梧桐</rb><rt>へきごどう</rt></ruby>が云ったよ」という注意を受けた。

やはりその頃であったと思うが、子規が熟柿を写生した絵を<ruby><rb>虚子</rb><rt>きょし</rt></ruby>が見て「馬の肛門かと思った」と云った。それを子規がひどく面白がって「しかし本当にそう思ったんだから」ということを繰返し繰返し言い訳のように云うのであった。

募集した絵をゆっくり一枚一枚点検しながら、不折や虚子や碧梧桐を相手に色々批評したり、また同時に自分の描いておいた絵を見せたりして閑談に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>るのがあの頃の子規の一つの楽しみであったろうということも想像される。

ともかくもあの頃の『ホトトギス』には何となしに<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>とした創成の喜びと云ったようなものが溢れこぼれていたような気がするのであるが、それは半分は読者の自分がまだ若かったためかもしれない。しかしそうばかりでもないかもしれない。食物に<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えれば栄養価は乏しくても豊富なるビタミンを含有していた。そうして他にはこれに代わるべき御馳走はほとんどなかった。それが、大正昭和と俳句隆盛時代の経過するうちに、栄養に富んだ食物も増し料理法も進歩したことはたしかであるが同時にビタミンの含有比率が減って来て、缶詰料理やいかもの喰いの趣味も発達し、その結果<ruby><rb>敗血症</rb><rt>はいけつしょう</rt></ruby>の流行を来したと云ったような傾向がないとも限らない。

こうした<ruby><rb>輪廻</rb><rt>サイクル</rt></ruby>の道程がもう一歩進んで堕落と廃頽の極に達し俳句が再び「宗匠」と「床屋」の占有物となる時代が来ると、そこではじめて次の輪廻の第一歩が始まるのではないかという気もする。その前にはどうしても一度行きつくところまで行く必要があるであろう。

事によると明治維新後の俳句の真の黄金時代はかえって明治三十年代にあったのではないかという気もするのである。もちろんこれは自分等の年輩のものの自分勝手な見方ではあろうが、こうした見方もあるいは現代の俳人に多少の参考にはなるかもしれないと思ったので思い出話のついでに拙ない<ruby><rb>世迷言</rb><rt>よまいごと</rt></ruby>を並べてみた次第である。（昭和九年九月『俳句研究』）