Soranoha

博物館

はくぶつかん

浜田 青陵

〔図〕fig18371_01.png朝鮮慶州金冠塚發見の王冠横×縦

朝鮮慶州金冠塚發見の王冠

はしがき

私わたしは『博物館はくぶつかん』といふ題だいで書かくことになりましたが、何分なにぶん博物館はくぶつかんといつても、美術考古博物館びじゆつこうこはくぶつかんもあり、科學博物館かがくはくぶつかんもあり、そのほかいろ〱の博物館はくぶつかんがあるので、それを一々いち〱説明せつめいすれば百科ひやつかの學がくを講釋こうしやくすることになり、それは私わたしには出來できない藝當げいとうであるのみならず、一册いつさつの本ほんにはとうてい收をさめ切きれません。しかし幸さいはひ美術びじゆつや自然科學しぜんかがくのお話はなしは、別べつに諸先生しよせんせいが筆ふでを執とられてゐることゝ思おもひますから、私わたしは博物館はくぶつかんのうち考古學こうこがくの博物館はくぶつかんのことだけを書かくことにし、この一册いつさつの本ほんによつて若わかい人達ひとたちに考古學こうこがくの大體だいたいのお話はなしをすることにいたしました。たゞ何分なにぶん書物しよもつの標題ひようだいが『博物館はくぶつかん』となつてゐますので、始はじめに少すこしばかり博物館全體はくぶつかんぜんたいのことを述のべて置おきます。

考古學こうこがくのお話はなしをする爲ためには、どうしても實物じつぶつをお見みせするか、せめて寫眞しやしんや繪えをお目めにかけなくてはよくわかりかねます。それで、この本ほんにもわりあひにたくさん繪えを入いれて置おきました。そのうち霜島正一郎しもじましよういちろう「霜島正一郎しもじましよういちろう」はママ先生せんせいの手てになつたものもありますが、便宜上べんぎじよう私わたしの描かいた拙まづい素人畫しろうとがもたくさんあるのは、おゆるしを願ねがふほかはありません。またこの本ほんを書かくにあたつて、松本龍太郎まつもとりゆうたろうさんにいろ〱御厄介ごやつかいになつたことを、こゝで厚あつくお禮れいを申まをしあげて置おきます。

昭和四年七月

濱田青陵はまだせいりよう

博物館はくぶつかん

裝幀・恩地孝四郎

島田貞彦

口繪・霜島正三郎

揷繪・霜島正三郎

濱田青陵

第一、序の卷

一、博物館はくぶつかんとはどういふ所ところですか

(イ)博物館はくぶつかんの種類しゆるい

皆みなさんは、博物館はくぶつかんといふ所ところを見みたことがありますか。博物館はくぶつかんにはいろ〱の美うつくしいものや珍めづらしい品物しなものが竝ならべてあります。皆みなさんのなかには、博物館はくぶつかんに竝ならべてあるものは金錢きんせんで買かふことの出來できないといふことが、たゞ三越みつこしや大丸だいまるなどのでぱーとめんと・すとあーと違ちがつてゐるところだと思おもふ人ひとがあるかも知しれません。またそれらの店みせよりも面白おもしろいものや綺麗きれいな物ものが少すくないところだといふ人ひとがあるかも知しれません。しかし博物館はくぶつかんとでぱーとめんと・すとあーとの違ちがひは、けっしてそのような點てんばかりではないのです。でぱーとめんと・すとあーではお客きやくの眼めを惹ひくように、美うつくしいものや珍めづらしいものを、たいてい、なんの秩序ちつじよもなく竝ならべ立たてゝありますが、博物館はくぶつかんの陳列品ちんれつひんは皆みな、種類しゆるいをわけ順序じゆんじよをつけ、その品物しなものには一々いち〱わかるような説明せつめいをつけて、それを見みて廻まはるうちに自然しぜんに學問がくもんが出來できるようにしてあるのです。それで博物館はくぶつかんは品物しなものを買かひに行ゆくところでもなく、また遊あそびに行ゆくところでもありません。皆みなさんの學校がつこうと同おなじように勉強べんきようをしたり、學問がくもんをする場所ばしよなのです。もっとも學校がつこうと違ちがふところは、博物館はくぶつかんには先生せんせいがをられません。また時間じかんも一時間いちじかんづゝきまつて勉強べんきようするようには出來できてをりませんから、誰たれでも博物館はくぶつかんに行いつた人ひとは、自由じゆうに勉強べんきようが出來でき、時間じかんにしばられるといふ窮屈きゆうくつな思おもひはありません。けれども、先生せんせいのように親切しんせつに教をしへて下くださる人ひとはなく、休やすみの時間じかんにお友達ともだちと面白おもしろく遊あそぶことが出來できないから、時ときには退屈たいくつすることもありませう。

〔図〕fig18371_02.png第一圖 東京帝室博物館

第一圖 東京帝室博物館

博物館はくぶつかんには皆みなさんの知しつてゐるように、種々しゆ〲の品物しなものが竝ならべてありますが、たいていはある種類しゆるいのものばかりを選えらんで、陳列ちんれつしてあるのです。例たとへば東京とうきようの上野公園うへのこうえんや、奈良ならにある帝室博物館ていしつはくぶつかんとか、また京都きようとの恩賜京都博物館おんしきようとはくぶつかんなどには、古ふるい繪畫かいがや彫刻ちようこくや、陶器とうきなどのような美術品びじゆつひんばかりが陳列ちんれつしてあります。このように美術品びじゆつひんばかりを陳列ちんれつする博物館はくぶつかんを美術博物館びじゆつはくぶつかんあるひはこれを略りやくして美術館びじゆつかんとも呼よびます。それから歴史れきしに關係かんけいある品物しなものばかりを陳列ちんれつした博物館はくぶつかんは歴史博物館れきしはくぶつかんといひます。また鑛物こうぶつや動植物どうしよくぶつのような博物學はくぶつがくに關かんする標本類ひようほんるいばかりを陳列ちんれつしてある所ところは博物學博物館はくぶつがくはくぶつかんといふことが出來できます。その他ほか貝殼かひがらばかりを竝ならべた貝類博物館かひるいはくぶつかん、電氣でんきに關かんするものを竝ならべた電氣博物館でんきはくぶつかんといふように、陳列品ちんれつひんの種類しゆるいは大おほわけにも小こわけにも隨意ずいいに區別くべつすることが出來できます。

〔図〕fig18371_03.png第二圖 京都恩賜博物館横×縦

第二圖 京都恩賜博物館

私達わたしたちの知識ちしきを廣ひろめ學問がくもんの爲ためになる品物しなものは千差萬別せんさばんべつで、その種類しゆるいは實じつに無限むげんに多おほいのでありますから、これをみんな一ひとつの場所ばしよに集あつめて陳列ちんれつすることは容易よういでありませんし、またさうした博物館はくぶつかんをこしらへるには非常ひじように大おほきな建たて物ものが入いる、それを見みて廻まはるだけでも二日ふつかも三日みつかもかゝり、かへって不便ふべんになります。だから世界せかいのどの國くにでも、陳列物ちんれつぶつの種類しゆるいによつて博物館はくぶつかんをわけてをります。それで大おほきくわける場合ばあひはたいてい前まへに申まをした美術びじゆつや歴史れきしに關かんするものを一ひとまとめにしたものと、博物學はくぶつがくに關かんするものを一ひとまとめにしたものとの二種類にしゆるいに區別くべつするのでありまして、この二ふたつの博物館はくぶつかんがたいてい違ちがつた場所ばしよにつくられてをります。そのほか陳列品ちんれつひんを小ちひさく區別くべつした特別とくべつの博物館はくぶつかんがたくさんあることは申まをすまでもありません。もちろん大おほきな博物館はくぶつかんの建たて物ものは立派りつぱであつて、その國くにや町まちの飾かざり物ものとしては結構けつこうでありますが、これを見物けんぶつする人ひとや勉強べんきようする人達ひとたちには不便ふべんが多おほいのですから、それよりも小こじんまりとした博物館はくぶつかんで、内容ないようの整とゝのつたものゝ方ほうがよいといふことになるのであります。ちょうど皆みなさんの學校がつこうでも、あまり大おほきい學校がつこうはかへって勉強べんきように不便ふべんのことがあるのと同おなじです。

(ロ)博物館はくぶつかんの施設しせつ

〔図〕fig18371_04.png第三圖 奈良帝室博物館

第三圖 奈良帝室博物館

博物館はくぶつかんは、最初さいしよにも申まをしたとほり、たゞ珍めづらしいものや美うつくしいものをたくさんに竝ならべるといふところではなくて、それらがあるひは年代ねんだいの順じゆんに、あるひは地方ちほうの別べつにといふふうに、品物しなものを順序じゆんじよよく系統けいとうを立たてゝ竝ならべ、これを見みる人ひとが知識ちしきを廣ひろめ學問がくもんをするために作つくられたものでありますから、博物館はくぶつかんの良よい惡わるいといふことはその所ところに竝ならべてあるものが多おほいか、少すくないとかいふことよりも、また珍めづらしいものがあるとかないとかいふよりも、その竝ならべ方かたが良よく出來できてゐるかゐないかといふのできまるのであります。だからいくら珍めづらしい品しなが多おほく、また良よいものがたくさんに竝ならべてあつても、その竝ならべ方かたに秩序ちつじよがなくめちゃ〱であつたりしては、學問がくもんをするのにいっこう役やくに立たたないのであります。ほんとうに良よい博物館はくぶつかんは今いまいつたとほり、品物しなものの竝ならべ方かたが系統的けいとうてきに出來できてゐる上うへに、竝ならべてある品物しなものの目録もくろくが完全かんぜんに作つくられてゐなければなりません。さうでないとわれ〱は博物館はくぶつかんで知識ちしきを廣ひろめ勉強べんきようすることが工合ぐあひよくまゐりません。それで博物館はくぶつかんには、どうしても一ひとつ〱の品物しなものの名前なまへ、その他ほか必要ひつようの事柄ことがらを書かき記しるした目録もくろくが出版しゆつぱんせられなくてはならないのであつて、その目録もくろくの中なかには簡單かんたんな品物しなものの説明せつめいと、必要ひつように應おうじて圖畫ずがのようなものも挿さし入いれなければならぬのであります。世界せかいの各國かつこくにある大博物館だいはくぶつかんでは、皆みな、さうした立派りつぱな目録もくろくが出版しゆつぱんされてをりますから、博物館はくぶつかんに行ゆく人ひとは、それらの目録もくろくを安やすく買かふことが出來でき、その目録もくろくと竝ならべてある品物しなものとを照てらし合あはせて、容易たやすく研究けんきゆうすることが出來できるのであります。

〔図〕fig18371_05.png第四圖 京城總督府博物館横×縦

第四圖 京城總督府博物館

博物館はくぶつかんでは、また目録書もくろくしよのほかに、陳列品ちんれつひんについて手輕てがるに知しることが出來できるために、いろ〱の書物しよもつが出版しゆつぱんされてあつたり、繪葉書えはがきなども作つくられてあつて、見物人けんぶつにんが容易たやすくこれを買かひ受うけて記念きねんにもし、また後日こうじつの想おもひ出での緒いとぐちにもなるようになつてゐます。繪葉書えはがきより大おほきな寫眞しやしんの必要ひつような人ひとには、その希望きぼうにまかせてそれ〲の寫眞しやしんを賣うるようにもなつてゐるのです。更さらに博物館はくぶつかんでは外そとより來きた見物人けんぶつにんや學者達がくしやたちに研究けんきゆうさせるばかりでなく、博物館はくぶつかんにゐる人ひと自身じしんがその陳列品ちんれつひんを利用りようして研究けんきゆうを重かさね、それに關かんする立派りつぱな書物しよもつをどし〱出版しゆつぱんしてゐる例れいがたくさんにあります。かように目録もくろくやそれ以外いがいの書物しよもつが出版しゆつぱんせられて、研究けんきゆうの結果けつかが發表はつぴようされるようにならなければ、眞しんの博物館はくぶつかんの役目やくめは達たつせられないのであります。大おほきい博物館はくぶつかんをつくることは金かねさへあれば容易よういでありますが、良よい博物館はくぶつかんをつくることは金以外かねいがい更さらに知識ちしきが必要ひつようでありますから、餘程よほど困難こんなんなことになります。

〔図〕fig18371_06.png第五圖 旅順關東廳博物館

第五圖 旅順關東廳博物館

また博物館はくぶつかんが學問がくもんをするのにいくらつごうよく出來できてゐても、館内かんないの設備せつびがよく調とゝのはねばだめです。冬ふゆの寒さむい日ひに暖房だんぼうがなかつたりしたら寒氣かんきのために落おちついて勉強べんきようすることも出來できないのです。西洋せいようの大おほきな博物館はくぶつかんでは、良よい目録もくろくや良よい研究書物けんきゆうしよもつが出版しゆつぱんされてゐるばかりでなく、館内かんないの設備せつびも完全かんぜんに出來できてゐて、愉快ゆかいに見物けんぶつされるようになつてゐます。たいていの部屋へやには氣持きもちのよい長椅子ながいすが置おいてあつて、見物人けんぶつにんはゆっくりと腰こしを下おろして美うつくしい繪えを見みたり、彫刻ちようこくをたのしんで眺ながめたりすることが出來でき、また暖房だんぼうのあるために冬ふゆの日ひも館内かんないは春はるのように暖あたゝかく過すごすことが出來できます。そしてたいていの博物館はくぶつかんの地下室ちかしつには便利べんりな食堂しよくどう、かふぇーなどが設まうけられ、食事しよくじもできるし、お茶ちやも飮のめるしといふようになつてゐますから、戸外運動こがいうんどうをしない人々ひと〲は、日曜日にちようびには教會きようかいから博物館はくぶつかんへ來きて一日いちにちを愉快ゆかいに暮くらすのであります。日本につぽんにおいても將來しようらい設まうけられる博物館はくぶつかんは、かうした設備せつびを整とゝのへる必要ひつようがあると思おもひます。さうでないと樂たのしんで博物館はくぶつかんに行ゆく人ひともなく、博物館はくぶつかんは學校がつこうの教室きようしつよりも、一いつそう無趣味むしゆみのところになつてしまひませう。

二、世界各國せかいかつこくの大博物館だいはくぶつかん

(イ)イギリスの大博物館だいはくぶつかん

わが國くにでは、學校がつこうは大都會だいとかいはもとより田舍ゐなかの町まちや村むらにも立派りつぱなのがたくさんにあつて、日本につぽんほど學校がつこうのよく整とゝのつた國くには世界中せかいじゆうにも少すくないといはれてをりますが、これに反はんして學校がつこうの名なはなくても、學校がつこうと同おなじ役目やくめをする博物館はくぶつかんは實じつに貧弱ひんじやくであつて、わづかに東京とうきよう、京都きようと、奈良ならの三箇所さんがしよに美術博物館びじゆつはくぶつかんがある外ほか、これといふものもないのは甚はなはだ殘念ざんねんです。これは日本人につぽんじんがまだ學問がくもんをするには學校がつこうだけで十分じゆうぶんであるといふような、間違まちがつた考かんがへを持もつてゐることから來きたものでありませうが、今後こんごは學校以外がつこういがいに、圖書館としよかんや博物館はくぶつかんが學校がつこう同樣どうように日本國中につぽんこくじゆう到いたる處ところに出來できて、學校がつこうにおいて先生せんせいから學問がくもんを教をそはりながら、また學校がつこうを出でてから皆みなさんが自分じぶんで圖書館としよかんや博物館はくぶつかんへ行いつて、學問がくもんをやるようにならなければいけないと思おもひます。

〔図〕fig18371_07.png第六圖 ロンドン大英博物館

第六圖 ロンドン大英博物館

現在げんざいわが國くににある博物館はくぶつかんはその數すうが少すくないばかりでなく、殘念ざんねんながら世界せかいに押おし出だして優すぐれた博物館はくぶつかんとは申まをすことが出來できません。そこで世界せかいで指折ゆびをりの博物館はくぶつかんといへば、どうしても西洋せいようにあるのを擧あげなければならないのです。しかし、どの國くにの博物館はくぶつかんが最もつとも良よいかといふようなことは、容易よういに斷言だんげんするわけにはまゐりません。各々おの〱博物館はくぶつかんにはそれ〲の特色とくしよくがあり、建たて物ものがわりあひに粗末そまつでも、陳列品ちんれつひんに優すぐれたものが多おほいとか、陳列ちんれつの方法ほう〱が良よいとか、いろ〱の事情じじようがあつて、博物館はくぶつかんの優劣ゆうれつをきめることは餘程よほど困難こんなんですが、なんといつてもヨーロッパにおいて有名ゆうめいな博物館はくぶつかんは、まづ第一だいゝちにイギリスのロンドンにある大英博物館だいえいはくぶつかんを擧あげなければなりません。こゝは美術びじゆつと歴史れきしの方面ほうめんに關かんする品物しなものだけを集あつめた博物館はくぶつかんでありまして、今いまから四千年しせんねんも五千年ごせんねんも前まへに開ひらけたエヂプトやアッシリヤ、それからやゝ下くだつてギリシヤ、ローマ時代じだいの文化ぶんかを語かたる古美術品こびじゆつひんはもとより支那しな、日本につぽんのような東洋とうようのものを多數たすう、しかも優すぐれたものを集あつめてあります。この博物館はくぶつかんで一番いちばん珍めづらしいものは何なにかとたづねられると、ちょっと返答へんとうに惑まどひますが、エヂプト、ギリシヤ、アッシリアの古美術品こびじゆつひんは世界中せかいじゆうどこの博物館はくぶつかんにも、これに優まさるものは少すくないといはれてをります。あのエヂプトの繪文字えもんじを讀よみ始はじめる手てがゝりになつた『ロセッタ・ストーン』といふ石いし、ギリシヤの『パルテノン』といふ御堂おどうにあつた彫刻ちようこくもこゝにあります。それだけでも、いかに珍めづらしいものがあるかといふことは推察すいさつ出來できるでせう。そしてこの博物館はくぶつかんにはまた立派りつぱな圖書館としよかんが設まうけてありまして、勉強べんきようするにまことにつごうよく出來できてゐます。こゝを一應いちおう見物けんぶつするだけでも一日いちにちを要ようしますが、入場にゆうじようは無料むりようであり、傘かさや杖つゑを預あづかつてくれても賃錢ちんせんを取とりません。毎日まいにち見物けんぶつや勉強べんきようのために、入場にゆうじようする人々ひと〲は非常ひじようにたくさんあつて、ちようど博覽會はくらんかいへ行いつたほどの賑にぎはひです。この大英博物館だいえいはくぶつかんが專もつぱら古代こだいのものを蒐集しゆうしゆうしてゐますのに對たいして、今少いますこし新あたらしい時代じだいの美術品びじゆつひんや歴史れきしに關かんするものを陳列ちんれつしたものに、ビクトリア・アルバート博物館はくぶつかんといふのがロンドンにあります。その大おほきさも大英博物館だいえいはくぶつかんに肩かたを竝ならべるくらゐあつて立派りつぱな博物館はくぶつかんです。

〔図〕fig18371_08.png第七圖 ロンドン・サウス・ケンシントン博物館

第七圖 ロンドン・サウス・ケンシントン博物館

前まへの二ふたつの博物館はくぶつかんは美術びじゆつと歴史れきしの方面ほうめんに關かんしたものでありますが、ロンドンには博物學はくぶつがくの方面ほうめんの大おほきな博物館はくぶつかんもあります。それは、サウス・ケンシントン博物館はくぶつかんです。こゝには動植鑛物どうしよくこうぶつを始はじめ、理科りかに關かんする標本ひようほんが完備かんびしてゐます。そして子供こどもや素人しろうとのためにいろ〱興味きようみを惹ひくように竝ならべてありますので、年としの若わかい學校がつこうの生徒せいとなども大勢おほぜい見物けんぶつに出でかけます。たとへば昆蟲こんちゆうの標本室ひようほんしつにはひつて見みますと、珍めづらしい蝶々ちよう〱や甲蟲かぶとむしなどの變かはつた種類しゆるいのものが驚おどろく程ほどたくさんに集あつめてあります。またその室しつの兩側りようがはの壁かべ近ちかくには、幾百いくひやくといふ多おほくの引ひき出だしがあつて、種類別しゆるいべつに整理せいりした昆蟲標本こんちゆうひようほんでいっぱいになつてをり、誰たれでも勝手かつてに出だして見みることが出來できるので、自由じゆうに勉強べんきようが出來できる設備せつびになつてをります。そのほか大おほきな動物どうぶつの標本ひようほんには象ぞうや鯨くぢらもあり、鑛物こうぶつや植物しよくぶつの標本ひようほんもすっかり揃そろつてゐることは申まをすまでもありません。更さらにロンドンには古代こだいの繪畫かいがばかりを集あつめた博物館はくぶつかんだとか、肖像畫しようぞうがを專門せんもんに竝ならべた博物館はくぶつかんだとか、ロンドン市しに關かんする歴史れきしの材料ざいりようを集あつめた博物館はくぶつかんだとか、インドに關かんする資料しりようばかりを集あつめた博物館はくぶつかんだとか、昔むかしから今日こんにちまで戰爭せんそうに使つかつた武器ぶきばかりを陳列ちんれつした博物館はくぶつかんだとか、汽車きしや、汽船きせん、電車でんしや、飛行機ひこうきのような交通こうつうに關かんする機械類きかいるいを集あつめた博物館はくぶつかんだとかゞ、こゝかしこにたくさんにありますから、これ等らを一ひととほり見物けんぶつして歩あるくだけでも、ロンドンで一週間いつしゆうかんぐらゐは、大丈夫だいじようぶかゝるでせう。ロンドン以外いがいでは、スコットランドのエヂンバラを始はじめイギリスの大都市だいとし、地方ちほうの町まちや村むらにある博物館はくぶつかんを一ひとつ〱數かぞへ擧あぐるならば數百すうひやくにも達たつするくらゐであります。しかもロンドン以外いがいの町まちにもわが東京とうきようの帝室博物館ていしつはくぶつかんぐらゐのものが無數むすうにあるのは、なんと羨うらやましいことではありませんか。

(ロ)フランス、ドイツその他たの博物館はくぶつかん

フランスの都みやこパリにも、またロンドンに劣おとらないほどの大おほきな博物館はくぶつかんがあります。それはルーヴル博物館はくぶつかんです。こゝには古代こだいの美術びじゆつや歴史れきしに關かんする物ものが陳列ちんれつされてありますが、中なかでもギリシヤの彫刻ちようこくだとか、アッシリアやエヂプトなどの古ふるい品物しなものでは世界せかいに比類ひるいのない程ほどの立派りつぱなものが集あつめられ、陳列品ちんれつひんの價値かちある點てんから見みても、大英博物館だいえいはくぶつかんにけっして負まけないのであります。ルーヴルには圖書館としよかんが附設ふせつされてない代かはりに、古ふるい繪えの博物館はくぶつかんが含ふくまれてをります。殊ことにこの古ふるい繪えの方ほうでは、他ほかにこれと肩かたを竝ならべる程ほどのものはないといはれてをります。たゞこの博物館はくぶつかんは昔むかしの建たて物ものをそのまゝ使つかつてゐるので、光線こうせんの工合ぐあひが少すこしく惡わるいのが缺點けつてんともいへるでせう。ルーヴルの他ほかにパリで有名ゆうめいなのは、歴史れきしに關かんするものを竝ならべたクルニー博物館はくぶつかん、郊外こうがいに出でますと、サン・ジェルマンの博物館はくぶつかんといふ考古學こうこがくの博物館はくぶつかんがあります。

〔図〕fig18371_09.png第八圖 パリ・ルーヴル博物館

第八圖 パリ・ルーヴル博物館

つぎにドイツへ行ゆきますと、首府しゆふベルリンにはいふまでもなく多おほくの博物館はくぶつかんがあります。フリィドリッヒ帝てい博物館はくぶつかんなどには古ふるい美術品びじゆつひんばかりが集あつめてあり、ベルガモンといふ所ところから持もつて來きたギリシヤの彫刻ちようこくを容いれるため、すばらしい設備せつびがしてあります。また日本につぽん支那しなその他た東洋とうようの美術品びじゆつひんを集あつめた博物館はくぶつかんだとか、世界各國人種せかいかつこくじんしゆの土俗品どぞくひんを網羅もうらした博物館はくぶつかんだとかゞこの大都會だいとかいを飾かざつてをりますが、ロンドンやパリの大博物館だいはくぶつかんに比くらべては、新あたらしく出來できたゞけに少すこし見劣みおとりがするようであります。しかしドイツではベルリン以外いがいの都會とかいに、かへってベルリンよりも大おほきくて、しかも立派りつぱな博物館はくぶつかんが少すくなからずあります。その中うちでも名高なだかいものには、ドレスデンの繪畫博物館かいがはくぶつかん、ミュンヘンの繪畫館かいがかん、同彫刻館どうちようこくかんなどを擧あげなくてはなりますまい。ミュンヘンには、また自然科學しぜんかがく、(理科りか)に關かんする方面ほうめんの博物館はくぶつかんで、世界中せかいじゆうで一番いちばんよく整とゝのふたものが近頃ちかごろ建たてられました。ドイツ博物館はくぶつかんといふのがそれです。この博物館はくぶつかんには電車でんしやのことでも、汽車きしやのことでも、飛行機ひこうきのことでも、潜水艦せんすいかんのことでも、らぢおのことでも、また鑛山こうざんのこと、印刷いんさつのこと、その他ほかなんでも理科りかの學問がくもんを應用おうようした爲事しごとに關かんする品物しなものを、それ〲その發達はつたつの順序じゆんじよに應おうじて竝ならべてあります。そして、見物人けんぶつにんが自分じぶんで隨意ずいいにぼたんを押おすときは、電氣仕掛でんきじかけに通つうじて機械きかいが動うごき出だし、見物人自身けんぶつにんじしんで實驗じつけんが自由じゆうに出來できるようになつてをります。ですからもし博物館はくぶつかんを詳細しようさいに見みて行いつたならば、中學校ちゆうがつこうや大學だいがくなどに入學にゆうがくしなくとも、ひとりで學問がくもんが出來できるであらうと思おもはれるぐらゐに、すべてに完備かんびしてゐるのにはまったく驚嘆きようたんせられます。

〔図〕fig18371_10.png第九圖 ベルリン博物館ベルガモン彫刻室

第九圖 ベルリン博物館ベルガモン彫刻室

オーストリアのウインの町まちにも、ベルリンよりも一いつそう立派りつぱな博物館はくぶつかんが二ふたつもあります。イタリイに行ゆきますと、ローマにはバチカン博物館はくぶつかんを始はじめ、古美術品こびじゆつひんを陳列ちんれつした良よい博物館はくぶつかんが二ふたつ三みつありますし、ネープルスやフローレンス、ミランその他ほかにも大博物館だいはくぶつかんが無數むすうにあります。イタリイは古ふるい時代じだいに文化ぶんかの榮さかえた國くにでありますから、これ等らの博物館はくぶつかんに收をさめてあるものには秀すぐれた品しなが多おほく、とうてい他たの國々くに〲では見みられないものがたくさんあります。毎年まいねんイタリイを旅行りよこうする人ひとは非常ひじように多おほいのでありますが、イタリイ滯在たいざいの半なかばは、博物館はくぶつかんで過すごし、あとの半なかばはローマだとかポムペイだとかの舊蹟きゆうせきを巡遊じゆんゆうするといふあり樣さまであります。以上いじようの他ほか、ヨーロッパではスペインのマドリッド、デンマルクのコウペンハーゲン、スェーデンのストックホルムといふような都市としには、イギリスやドイツやフランス等とうにもあまり劣おとらない博物館はくぶつかんがあつて、よし國くには小ちひさくても博物館はくぶつかんや圖書館としよかんだけは、大國だいこくと肩かたを竝ならべることが出來できるくらゐのものがあります。軍艦ぐんかんや兵隊へいたいでは競爭きようそうは出來できなくとも、かうしたもので負まけないで行いかうといふのです。ロシヤにも昔むかしから大おほきい博物館はくぶつかんがありますが、モスコーやレニングラードにある博物館はくぶつかんは、ヨーロッパ第一流だいゝちりゆうのものに比くらべてけっして劣おとらないといはれてをります。トルコの都みやこにも立派りつぱな博物館はくぶつかんがあつて、なか〱有名ゆうめいであります。

また、これはヨーロッパではありませんが、アフリカのエヂプトのカイロには、古ふるいエヂプトの遺物いぶつばかりを竝ならべてある大おほきな博物館はくぶつかんがあります。ぴらみっとや古ふるい墓はかから出でたいろ〱の寶物ほうもつが一いつぱいありまして、今いまから四五千年前しごせんねんまへの王樣おうさまのみいらも、そのまゝ見みることが出來できます。また近頃ちかごろ發掘はつくつされたツタンカーメンといふ王樣おうさまのお墓はかから出でた黄金きんづくめのすてきな品物しなものが山やまのように陳列ちんれつせられて、見みる人ひとをびっくりさせてをります。

(ハ)アメリカの博物館はくぶつかん

〔図〕fig18371_11.png第十圖 メトロポリタン博物館ギリシヤ室中庭横×縦

第十圖 メトロポリタン博物館ギリシヤ室中庭

アメリカといふ國くには、皆みなさんも知しつてゐるとほり新あたらしい國くにでありますが、非常ひじようにお金持かねもちでありますから、ぜいたくをつくした立派りつぱな博物館はくぶつかんが近頃ちかごろたくさんに造つくられ、その建たて物ものや設備せつびにおいてはヨーロッパ諸國しよこくのとても及およばないものが少すくなからずあります。その中なかでも大おほきい美術博物館びじゆつはくぶつかんとしてロンドンの大英博物館だいえいはくぶつかん、パリのルーヴル博物館はくぶつかんに優まさるとも劣おとらないものは、ニューヨークのメトロポリタン博物館はくぶつかんでありませう。こゝにはエヂプト、ギリシヤその他ほか西洋せいようの古美術こびじゆつはもとより、日本につぽん支那しなを始はじめ東洋諸國とうようしよこくのものを非常ひじようにたくさん集あつめてあつて、とうてい一日いちにちや二日ふつかでは全部ぜんぶ見みて廻まはることは出來できないのであります。しかもこの博物館はくぶつかんで見物人けんぶつにんを驚おどろかすものは、そのギリシヤ、ローマの部屋へやの一部いちぶにイタリイのポムペイで發掘はつくつされた昔むかしの家いへの客間きやくまそのまゝを模造もぞうしてあることです。眞中まんなかには庭園ていえんがあり、噴水ふんすいが絶たえず水みづを噴ふき出だし、あたりには青々あを〱と繁しげつた庭木にはきも植うゑてあり、熱あつい夏なつの日ひでも涼すゞしい感かんじを與あたへ、さながら昔むかしの時代じだいの人ひととなつてポムペイにゐるような思おもひがいたします。これはアメリカばかりでなく、ヨーロッパの博物館はくぶつかんにもありますが、古ふるい彫刻ちようこくなどは皆みな臺だいの上うへに乘のせてあつて、ぼたんを押おせばそれが自由じゆうに廻轉かいてんするようになつてをりますので、見物人けんぶつにんは一ひとつ所ところに立たつてゐながら、前後左右ぜんごさゆうからその品物しなものを見みることの出來できるのは實じつに便利べんりな仕掛しかけではありませんか。またボストンには、メトロポリタンにも劣おとらない程ほどの美術館びじゆつかんがあります。その日本部につぽんぶには日本につぽんにおいてさへ見みられないような古ふるい美術品びじゆつひんもあり、日本につぽんの建築けんちくや床とこの間まのようなものを作つくつて、陳列ちんれつしてあるのには感心かんしんされます。これらの品しなは日本人につぽんじんが美術びじゆつの價値かちを知しらない時代じだいに海外かいがいへ賣うつてしまつたものであつて、今いまでは日本につぽんに買かひ戻もどすことも出來できないのです。またワシントンのフリヤー・ガレリーといふ美術館びじゆつかんは、支那しなの古畫こがをもつて特色とくしよくとしてゐます。それからフィラデルフィアの大學附屬博物館だいがくふぞくはくぶつかんにも、また支那しなの古ふるい時代じだいの彫刻ちようこくなどにすばらしい立派りつぱなのがあります。かようにアメリカの博物館はくぶつかんはなか〱侮あなどり難がたい勢いきほひをもつてゐるばかりでなく、近年きんねんは支那しななどから出でる古美術品こびじゆつひんは金錢きんせんを厭いとはず購入こうにゆうするといふ状態じようたいですから、ヨーロッパ諸國しよこくはこの點てんではとても勝かてないことになりました。

博物學はくぶつがく方面ほうめんの博物館はくぶつかんも立派りつぱなのが各地かくちに設まうけてありますが、ことにワシントン、シカゴ、ニューヨークなどにあるものはよく完備かんびしてをります。動物どうぶつの標本ひようほんは皆みな、ぱのらまの風景ふうけいの中なかに、それをあしらつて、自然しぜんの景色けしきの中なかにそれ〲動物どうぶつが棲すんでゐる所ところを見みせることに努つとめてをりますから、見物人けんぶつにんは大人おとなでも子供こどもでも興味きようみをもつてそれ〲動物どうぶつの生活状態せいかつじようたいを知しることが出來できるのです。かような博物館はくぶつかんは、アメリカの各州かくしゆうに一ひとつや二ふたつは必かならず設まうけられてあるのは實じつに羨うらやましいと思おもひます。せめて日本につぽんにこんなのが一ひとつでも設まうけられたらと思おもはずにはゐられません。またアメリカには大おほきな博物館はくぶつかんに附屬ふぞくし、また獨立どくりつに兒童博物館じどうはくぶつかんといふのがたくさんあります。これは理科りかその他たに關かんして、ごく簡單かんたんな知識ちしきを授さづけるために出來できたもので、學校がつこうで習ならふことを、一々いち〱實物じつぶつに照てらして復習ふくしゆうすることが出來できます。それですからいつも熱心ねつしんな男をとこの子こや女をんなの子こが一いつぱいです。これも西洋せいようで羨うらやましいものの一ひとつであります。

(ニ)世界せかいで珍めづらしい博物館はくぶつかん

〔図〕fig18371_12.png第十一圖 ストツクホルム北方博物館

第十一圖 ストツクホルム北方博物館

西洋各國せいようかつこくにあるいろ〱の博物館はくぶつかんの中うちで、一風いつぷう變かはつた特色とくしよくがあつて非常ひじように面白おもしろく感かんじたのは、ヨーロッパのスエーデン國こくのストックホルムにある民俗博物館みんぞくはくぶつかんであります。これはスエーデンの土地とちの風俗ふうぞくや習慣しゆうかんなどを示しめす博物館はくぶつかんであつて、ハゼリウスといふ一人ひとりの熱心ねつしんな人ひとが、古ふるい風俗ふうぞくや品物しなものがだん〱亡ほろびて行ゆくのを悲かなしんで、初はじめはわづかの品物しなものを集あつめ出だし、それがだん〱大おほきくなつて行いつて今日こんにちの國立こくりつの大博物館だいはくぶつかんとなり、北方博物館ほつぽうはくぶつかんといふ名稱めいしようがつけられたのであります。建たて物ものは三階建さんがいだての立派りつぱなもので、その一番下いちばんしたの部屋へやにはスエーデンの各地方かくちほうの農家のうかの状態じようたいをそのまゝこゝへ移うつしてあつて、寢臺しんだいだとか爐邊ろへんの模樣もようなどが地方々々ちほう〱別べつに區別くべつして竝ならべてあるのです。また二階にかいには家々いへ〱の道具類どうぐるいが、あるひは織おり物ものあるひは木器もくきあるひは陶器とうきといふように種類しゆるいをわけて見みられるようにしてあります。それから三階さんがいへ上のぼると、今度こんどは時代順じだいじゆんに竝ならべて、だん〱變かはつて來きてゐるところを現あらはしてゐます。かように三種さんしゆの竝ならべ方かたによつて、私共わたしども見物人けんぶつにんはスエーデンの風俗ふうぞくや習慣しゆうかんの特質とくしつを十分じゆうぶんにいろ〱の方面ほうめんから研究けんきゆうすることが出來できるようになつてをります。ところがまたこの博物館はくぶつかんのすぐ傍そばにスカンセンといふ丘陵きゆうりようがあつて、それが野外博物館やがいはくぶつかんになつてをります。その丘をかの上うへにはスエーデンの各地方かくちほうの植物しよくぶつを移植いしよくし、また特有とくゆうの動物どうぶつをも飼養しようしてゐるところは、ちょっと植物園しよくぶつえんか動物園どうぶつえんのようでもあります。そしてその間あひだに各地方かくちほうからそのまゝもつて來きた農民のうみんの小屋こやがあり、古ふるい式しきの教會堂きようかいどうが木この間まがくれに建たつてゐるかと思おもふと、面白おもしろい風車かざぐるまがあり、倉庫そうこのような古ふるい建たて物ものが昔むかしのまゝに設まうけてあるといふ風ふうであります。さてその農民小屋のうみんごやにはひつて見みると爐邊ろへんには薪まきが燃もやされてあつて、その地方ちほうの風俗ふうぞくをした爺ぢいさんがたばこを燻いぶらしてゐたり、娘むすめさんはまた絲いとを紡つむいで熱心ねつしんに働はたらいてゐるといふ實際生活じつさいせいかつを見みることが出來でき、また料理屋りようりやや茶店ちやみせも各地方かくちほうにあるそのまゝの建築けんちくで、料理りようりもまたその地方ちほうの名物めいぶつを食くはせ、給仕女きゆうじをんなは故郷こきようの風俗ふうぞくをしてお客きやくの給仕きゆうじに出でるといふふうになつてゐます。

〔図〕fig18371_13.png第十二圖 スカンセン野外博物館の一部横×縦

第十二圖 スカンセン野外博物館の一部

これは單たんに旅人たびゞとを面白おもしろく思おもはせるために設まうけられたものではなくて、だん〱文明ぶんめいに進すゝむに從したがひ、昔むかしの良よい風俗ふうぞくや面白おもしろい建築物けんちくぶつが次第しだいに滅ほろんで行ゆくのを保存ほぞんするために出來できたものであります。私わたしは日本につぽんにおいても、文化ぶんかの進すゝむに從したがつて、田舍ゐなかにある古ふるい風俗ふうぞくや道具類どうぐるいが、次第しだいに滅ほろび行ゆくことを殘念ざんねんに思おもふので、一日いちにちも早はやくかういふふうな民俗博物館みんぞくはくぶつかんが設まうけられることを希望きぼうするものであります。そして、このスエーデンの博物館はくぶつかんを造つくつた人ひとは、最初さいしよから多おほくの金錢きんせんを投とうじて着手ちやくしゆしたのではなく、少すこしづゝ集あつめて長ながい年月としつきの間あひだに一人ひとりの力ちからでもつて完成かんせいさせたことを思おもふときは、誰たれでも熱心ねつしんと時間じかんとをもつてやりだせば、成なしあげることが出來できることゝ信しんじます。このスエーデンの北方博物館ほつぽうはくぶつかんとまつたく同おなじような博物館はくぶつかんが更さらに北きたの國くに、ノールウエのオスロにもありますし、近頃ちかごろこの種しゆの博物館はくぶつかんは各國かつこくに設まうけられて來くる傾向けいこうになつてをります。

第二、考古博物館の卷(上)

一、考古學こうこがくとはどういふ學問がくもんですか

(イ)考古學こうこがくと考古博物館こうこはくぶつかん

博物館はくぶつかんを大別たいべつすると、美術びじゆつ、歴史れきし、考古こうこに關かんする品物しなものを陳列ちんれつした博物館はくぶつかんと、博物はくぶつ、理科りかの方面ほうめんの品物しなものを集あつめた科學博物館かがくはくぶつかんの二ふたつの種類しゆるいに區別くべつせられることは前まへにも述のべたとほりでありますが、これらの博物館はくぶつかんについて一々いち〱詳くはしくお話はなしをすることは、この本ほんの紙面しめんが許ゆるさないばかりでなく、科學博物館かがくはくぶつかんや、美術びじゆつ、歴史れきしの博物館はくぶつかんに關かんしては、各々おの〱その題目だいもくについて他ほかの先生方せんせいがたが話はなされることになつてをりますから、私わたしは第一だいゝちの美術びじゆつ、歴史れきし、考古こうこに關かんする博物館はくぶつかんの内うち、たゞ考古學こうこがくに關かんする博物館はくぶつかんのお話はなしをこれからいたしませう。

いつたい考古學こうこがくといふ學問がくもんは、人間にんげんが世界せかいに現あらはれて以來いらい今日こんにちに至いたるまでの長ながい年月としつきの間あひだにこの世界中せかいじゆうに遺のこした種々しゆ〲の品物しなもの、それは人間にんげんの作つくつた道具どうぐとか武器ぶきの類るい、また建築けんちく、彫刻ちようこく、繪畫かいがその他た一切いつさいの品物しなもの、これを私共わたしどもは遺物いぶつといつてをりますが、その遺物いぶつによつて人間にんげんの過去かこの時代じだいの生活せいかつの模樣もようだとか、文化ぶんかの状態じようたいだとかを研究けんきゆうする學問がくもんであります。しかし新あたらしい時代じだいになるほど種々しゆ〲の書かき物ものなどが遺のこつてをりますので、それによつて昔むかしのことがたいていわかりますから、遺物いぶつばかりで調しらべる必要ひつようはありませんが、ずっと時代じだいが古ふるくなり、書かき物ものがあまりなかつたり、またまったくない古ふるい時代じだいになりますと、どうしても遺物いぶつばかりで研究けんきゆうをするほか方法ほう〱はありません。それで考古學こうこがくでは、遺物いぶつばかりで研究けんきゆうしなければならぬごく古ふるい時代じだい、あるひは遺物いぶつを主おもに使つかつて研究けんきゆうしなければならぬ古ふるい時代じだいのことを專もつぱら調しらべて行ゆくのであります。ですから考古學こうこがくの博物館はくぶつかんといへば、遠とほい古ふるい時代じだいに人間にんげんの造つくつた品物しなものを竝ならべて置おくのでありますが、大おほきい家屋かおくだとか洞窟どうくつだとかいふものになりますと、博物館はくぶつかんの中なかへ持もつて來くることが困難こんなんですから、たいていは模型もけいや圖面ずめんを陳列ちんれつすることになつてをります。

私わたしは七八歳しちはつさいの少年時代しようねんじだいから、昔むかしの人ひとの作つくつた石いしの矢やの根ねなどを集あつめて喜よろこんだのでありましたが、その頃ころ私わたしは石いしの矢やの根ねは人間にんげんの作つくつたものではなくて、水晶すいしようや何なにかと同おなじように自然しぜんに出來できた石いしだとばかり信しんじてをりました。またある人ひとは石いしの矢やの根ねは天狗てんぐの作つくつたものだと話はなしてくれました。しかしそれは、今日こんにちから四十年程前しじゆうねんほどまへのことでありまして、その頃ころには日本につぽんのどこへ行いつても考古學こうこがくの博物館はくぶつかんといふものは一ひとつもなく、また石いしの矢やの根ねのようなものについても、説明せつめいした書物しよもつがなかつたのであります。もしその頃ころ考古學こうこがくの博物館はくぶつかんがあつたならば、石いしの矢やの根ねは自然しぜんに出來できたものでもなく、また天狗てんぐの作つくつたものでもなくて、古ふるい時代じだいに人間にんげんが作つくつたものであるといふことがわかつたことでありませう。しかし四十年後しじゆうねんごの今日こんにちでも、日本につぽんでは殘念ざんねんながら考古學博物館こうこがくはくぶつかんがどこにも設まうけられてゐませんから、皆みなさんはやはり先生せんせいに聽きくか、書物しよもつを見みるかしなければ、それらについて知しることの出來できないのは甚はなはだ遺憾いかんなことであります。

昨年さくねん私わたしがドイツを旅行りよこうして、ミュンヘンといふ町まちへまゐりました時とき、そこにある大おほきい美術博物館びじゆつはくぶつかんの附近ふきんに、小ちひさいけれども考古學博物館こうこがくはくぶつかんがありましたので見物けんぶつに出でかけました。そこはわづか二ふたつか三みつつしか部屋へやがなく、ほんとうに小ちひさいもので、爺ぢいさんがたゞ一人ひとり、つくねんとして番ばんをしてゐました。その中なかへ私わたしがはひつて行ゆくと、陳列棚ちんれつだなの陰かげの方ほうに一人ひとりの少年しようねんがゐて、手帳てちようを出だして一いつしょう懸命けんめいに見みたものについて筆記ひつきしてゐました。私わたしはこの少年しようねんの熱心ねつしんさに感心かんしんしたので、

「あなたはかういふ古ふるいものがすきですか」

とたづねました。

「はい、私わたしはこんなものを調しらべるのが一番いちばん好すきです」

と答こたへて、なほも鉛筆えんぴつを手帳てちようの上うへに走はしらせてゐるのです。それで私わたしは、

「あなたのような熱心ねつしんな少年しようねんは、將來しようらいきっと考古學こうこがくの立派りつぱな學者がくしやになりませう」

といつて別わかれたのでありました。日本につぽんにもよし小ちひさくとも、こゝかしこに考古學こうこがくの博物館はくぶつかんが建たてられてあつたら、このドイツの少年しようねんのように熱心ねつしんな子供こどもが出來できて來きて、それが將來しようらい考古學こうこがくの偉えらい學者がくしやになるであらうと感かんじたのでありました。

(ロ)人類じんるいの始はじめ

〔図〕fig18371_14.png第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋横×縦

第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋

さて人間にんげんは下等動物かとうどうぶつからだん〲進化しんかして來きたものであつて、われ〱は猿さると同おなじ祖先そせんから生うまれて來きたものであらうといふことは、ダアウヰンが進化論しんかろんを唱となへて以來いらい、餘程よほどの頑固がんこな人ひとを除のぞいてたいてい皆みな信しんずることになりました。しかし、その人間にんげんと猿さるとの共同祖先きようどうそせんはどういふものであつたでせうか。またその共同祖先きようどうそせんから今日こんにちの人間にんげんのようになつた最初さいしよの人間にんげんはどういふものであつたでせうか。このようなことを知しるには、地中ちちゆうに埋うづまつてゐるその古ふるい骨ほねの化石かせきを掘ほり出だし、それを材料ざいりようとして研究けんきゆうする外ほかはありませんが、さてさういふ猿さると人間にんげんとの中間ちゆうかんのものゝ骨ほねが今日こんにちまでにいかほど發見はつけんされたかといふに、殘念ざんねんながら中々なか〱思おもふように出でてまゐりません。しかしたゞ一ひとつ今いまから四十年前しじゆうねんぜん(一八九二年ねん)にオランダの軍醫ぐんいデヨボアといふ人ひとが、南洋なんようジャヷ島とうのトリニールといふ所ところで發見はつけんした骨ほねが、ちょうどこの人間にんげんと猿さるとの中間ちゆうかんにある動物どうぶつの骨ほねだといはれてをります。骨ほねといつても、たゞ頭蓋骨ずがいこつの頂いたゞき、いはゆる頭あたまの皿さらの部分ぶぶんと左ひだりの腿もゝの骨ほねの一部分いちぶぶんと臼齒きゆうしが出でたばかりでありますが、これを調しらべて見みると、どうしても今日こんにちの類人猿るいじんえんとは違ちがつて、餘程よほど人間的にんげんてきの性質せいしつをおびてゐたことがわかるのです。ことに直立ちよくりつして歩行ほこうしたものであることが、足あしの骨ほねの性質せいしつによつて十分じゆうぶんに想像そう〲せられます。それでその骨ほねの持もち主ぬしである動物どうぶつと、『ピテカントロプス・エレクツス』すなはち猿人えんじん、直立ちよくりつして歩行ほこうする猿人えんじんといふ名なをつけたのであります。この骨ほねを基礎きそとして顏かほや體からだを造つくつて見みると、第十四圖だいじゆうしずにあるような猿人えんじんとなるのです。これが猿さるの方ほうに近ちかいか、人間にんげんの方ほうに近ちかいかは、議論ぎろんがあるにしても、とにかく人間にんげんと猿さるとの中間ちゆうかんの動物どうぶつといつて差さし支つかへはありません。

〔図〕fig18371_15.png第十四圖 ピテカントロプス猿人横×縦

第十四圖 ピテカントロプス猿人

その後ご、本當ほんとうの人間にんげんと名なのつけられる一番いちばん古ふるい骨ほねは、ドイツのハイデルベルグの附近ふきんで發見はつけんされました。それはたゞ一ひとつの下顎骨かがくこつでありますが、この骨ほねは顎あごが内側うちがはに引込ひつこみ、今日こんにちの人間にんげんとはよほど違ちがつてゐますけれども、類人猿るいじんえんとは全まつたく別種べつしゆであり、もはや人間にんげんの仲間なかまであることは明あきらかであります。第十五圖だいじゆうごずをご覽らんなさい。たゞ一ひとつの下顎骨かがくこつから想像そう〲して見みると、こんな人間にんげんが出來上できあがるのです。これを『ハイデルベルグ人じん』といつてゐます。

〔図〕fig18371_16.png第十六図 ハイデルベルグ人下顎骨横×縦

第十六図 ハイデルベルグ人下顎骨

その次つぎに古ふるいものは、イギリスのピルツダウンで發見はつけんされたもの、それからドイツのネアンデルタール、ベルジュームのスピイなどで發見はつけんされたもので、これらのものは皆みなハイデルベルグ人じんよりも餘程よほど進歩しんぽしてをりますけれども、現代げんだいの人類じんるい、日本人につぽんじん、支那人しなじんのような黄色人種こうしよくじんしゆ、ヨーロッパやアメリカの白色人種はくしよくじんしゆ、それからアフリカあたりの黒人こくじんまで含ふくめた現代人類げんだいじんるいと比較ひかくして見みると、動物學上どうぶつがくじようこれら現代人げんだいじんと同おなじ一ひとつの人種じんしゆにいるべきものではなくて、それとは別べつな種しゆに屬ぞくするほどの違ちがひを示しめしてをりますので、われ〱はこれを『ホモ・プリミゲニウス』(原始人げんしじん)と呼よんでゐるのであります。第十八圖だいじゆうはちずはネアンデルタールから出でた骨ほねから想像そう〲して見みた、その時分じぶんの人間にんげんです。

〔図〕fig18371_17.png第十五圖 ハイデルベルグ人横×縦

第十五圖 ハイデルベルグ人

〔図〕fig18371_18.png第十七圖 ピルツダウン人横×縦

第十七圖 ピルツダウン人

その次つぎの時代じだいに出でて來きた人間にんげんは、フランスのドルドンヌ州しゆうその他たから發見はつけんされた骨ほねによつて代表だいひようされるものであつて、その中うちで主おもなるものはクロマニヨン人じんといはれるものです。この時代じだいの人間にんげんになると、今日こんにちの人間にんげんとまったく同おなじ種しゆに屬ぞくするものであり、またある點てんでは今いまの野蠻人やばんじんなどよりは餘程よほど進すゝんだ頭腦ずのうの持もち主ぬしであつたことは、その頭あたまの骨ほねを見みてもわかります。ですからクロマニヨン人じんは、われ〱と同樣どうよう、現代人げんだいじんといふ名なをつけなければなりません。しかしその現代人げんだいじんに屬ぞくするクロマニヨン人じんが棲すんでゐた時代じだいはいつ頃ごろだらうと申まをしますと、ずいぶん古ふるい時代じだいであつて明瞭めいりようにはわかりかねるのでありますが、まづ今日こんにちから七八千年しちはつせんねん乃至ないし一萬年いちまんねんに近ちかい以前いぜんであらうといふことです。從したがつてそれ以前いぜんの原始人げんしじんだとか、ハイデルベルグ人じんだとかに至いたつては何萬年前なんまんねんまへであるか、にはかに見當けんとうがつかないくらゐです。まして人ひとと猿さるの中間ちゆうかんとも見みられる猿人えんじんなどは五十萬年ごじゆうまんねん、あるひはそれ以上いじようの古ふるい昔むかしのものとしなければならぬのでありまして、かように考かんがへて來くると人間にんげんの始はじめはなんとずいぶん古ふるいものではありませんか。また人間にんげんの現あらはれる以前いぜんの下等動物かとうどうぶつばかり棲すんでゐた世界せかいはどれだけ古ふるいことでせう。數千萬年すうせんまんねんをもつてかぞへても數かぞへ切きれない昔むかしとは、實じつに驚おどろくべきことであります。われ〱が歴史れきしをもつてから今日こんにちまで、わづかに數千年すうせんねんといふ短時日たんじじつでありますが、人間にんげんの始はじめて出現しゆつげんしてから歴史れきしの始はじまるまでと、歴史以後れきしいご今日こんにちまでとの長ながさの比例ひれいは、歴史以前れきしいぜんの方ほうが歴史以後れきしいごの數十倍すうじゆうばいからあるといふことでわかるでせう。

(ハ)文化ぶんかの三時代さんじだい

〔図〕fig18371_19.png第十八圖 ネアンデルタール人想像圖横×縦

第十八圖 ネアンデルタール人想像圖

さて人類じんるいが始はじめてこの世界せかいに現あらはれてから非常ひじように長ながい間あひだ、歴史時代れきしじだいにはひるごく近ちかい時代じだいまでも、人間にんげんは今日こんにちわれ〱のように銅どうや鐵てつの金屬きんぞくを使用しようして種々しゆ〲の器物きぶつを作つくることをまったく知しらなかつたのであります。それで最初さいしよは今日こんにちの猿さるなどと同おなじく、たゞそのあたりにある木片きぎれだとか石塊いしころだとかをもつて、穴あなを掘ほつて蟲むしをとつたり、あるひは木きの實みをわつて食くふといふような生活せいかつをしてゐたのでありませう。ところがだん〱進歩しんぽするに從したがつて石塊いしころに多少たしようの細工さいくを加くはへ、手てに握にぎつて物ものを打うち壞こわすに便利べんりな形かたちにこしらへるようになりました。更さらにまたその石いしを磨みがいて美うつくしい形かたちの器物きぶつを造つくるようになり、あるひは自分じぶんの食くつた動物どうぶつの骨ほねに細工さいくを加くはへて、それを道具どうぐにしたりしたのでありますが、とにかく主しゆとして石いしで造つくつた器物きぶつを使用しようした時代じだいが長ながらくつゞいたのです。それをわれ〱は石いしの時代じだい、あるひは石器時代せつきじだいと呼よんでをります。

〔図〕fig18371_20.png第十九圖 クロマニヨン人想像圖横×縦

第十九圖 クロマニヨン人想像圖

ところが人類じんるいはまた偶然ぐうぜんに岩石がんせきの間あひだにある金きんだとか銅どうだとかのような金屬きんぞくを發見はつけんして、こんどはその金屬きんぞくをもつて器物きぶつを造つくるようになりましたが、これは石いしや骨ほねの器物きぶつに比くらべると、非常ひじようにつごうの良よいことを知しり、まづはじめにはたゞの銅どうを使つかふようになつたのであります。ところがたゞの銅どうでは柔やはらかすぎ、鑄造ちゆうぞうもむつかしいので、銅どうに錫すゞをまぜて青銅せいどうといふ金屬きんぞくを作つくり、これを器物きぶつの材料ざいりようとしてゐた時代じだいがありました。この時代じだいを青銅時代せいどうじだいあるひは青銅器時代せいどうきじだいと稱しようするのであります。そののち遂つひに鐵てつが廣ひろく器物きぶつに使用しようされる時代じだいとなつたのでありますが、その時代じだいを鐵てつの時代じだい、あるひは鐵器時代てつきじだいといふのです。今日こんにちにおいては鐵以外てついがいにあるみにゅーむその他ほかいろ〱の金屬きんぞくが發見はつけんされてまゐりましたが、やはり鐵てつが切きれものや、何なにかに一番いちばん多おほく使つかはれてゐるので、廣ひろい意味いみにおいては、今日こんにちも鐵器時代てつきじだいに屬ぞくするといふほかはありません。

〔図〕fig18371_21.png第二十圖 トムゼン氏横×縦

第二十圖 トムゼン氏

かように人類じんるいが石いしから銅どう、あるひは青銅せいどうをへて、次つぎに鐵てつをもつて刃物はものをつくる時代じだいとなりました。この三みつつの時代じだいを考古學者こうこがくしやは、文化ぶんかの三時代さんじだい、あるひは文化ぶんかの三みつつの階段かいだんと名なづけるのであります。しかしこの三みつつの階段かいだんは、あらゆる人類じんるいが必かならずこの順序じゆんじよでもつて通過つうかするものではありません。ある場合ばあひには、石いしの時代じだいから鐵てつの時代じだいになつた例れいもたくさんありますが、ヨーロッパを始はじめアジアの諸國しよこくにおいては、大體だいたいこの三みつつの時代じだいを通過つうかして、人類じんるいの文化ぶんかが進すゝんで來きたのです。また世界中せかいじゆうのあらゆる國くにの人類じんるいが、みな同おなじ時代じだいに石いしから銅どう、銅どうから鐵てつといふふうに進すゝんで來きたのではなく、ある國くにでは早はやく石いしから銅どうの時代じだいになり、更さらに鐵てつの時代じだいになつたものもあるし、また長ながい間あひだ石いしの時代じだいに殘のこされてゐたのもありますが、とにかくこの三みつつの時代じだいの動うごき方かたは、大體だいたい人類文化じんるいぶんかの順序じゆんじよを示しめすものといつてもよろしい。

かように人類じんるいの文化ぶんかの三階段さんかいだんがあるといふことを初はじめて唱となへた人ひとは、今日こんにちから百年ひやくねんばかり以前いぜんに生いきてゐた、デンマルクの學者がくしやトムゼンであります。またその弟子でしのワルセイが、先生せんせいの説せつを事實じじつによつてだん〱證明しようめいして行いつたのでありますが、どうしてこの北歐ほくおうの一小國いちしようこくの學者がくしやが、かような説せつを出だすに至いたつたかといふのに、北きたヨーロッパ諸國しよこくには石いしの時代じだい、青銅せいどうの時代じだいが、他たの地方ちほうより長ながくつゞいてゐたゝめに、その頃ころの遺物いぶつが多おほく存そんしてゐたといふのが、その理由りゆうの一ひとつであります。その後のちに至いたつて、この三時代さんじだいを更さらに細こまかくわける學者がくしやが出でて來きました。それはイギリスのラボックといふ人ひとで、石器時代せつきじだいをば舊石器時代きゆうせつきじだいと新石器時代しんせつきじだいの二ふたつにわけることになりました。今日こんにちわれ〱はラボックのわけ方かたによつて、石器時代せつきじだいを二ふたつとするのが普通ふつうであります。また石器時代せつきじだいから金屬使用時代きんぞくしようじだいにはひる中間時代ちゆうかんじだいを、金石併用期きんせきへいようきと名なづける學者がくしやもありますが、かようにわけて行ゆけば限かぎりなくわけられますけれども、それらの細こまかいことは改あらためてお話はなしする時ときがありませう。要ようするにこの石器せつき、青銅器せいどうき及および鐵器てつきの三みつつの時代じだいによつて考古博物館こうこはくぶつかんは、その陳列ちんれつする品物しなものを區別くべつし、時代別じだいべつによつて人類じんるいの遺物いぶつを竝ならべて行ゆくのが普通ふつうの方法ほう〱となつてをります。

それで私わたしは、これから皆みなさんに考古博物館こうこはくぶつかんを書物しよもつの上うへでつくり、そこへ案内あんないして説明せつめいして行ゆかうと思おもふのでありますが、たゞ今いま述のべた順序じゆんじよで進すゝんで行ゆくことにいたします。さあ皆みなさん、これから舊石器時代きゆうせつきじだいの陳列室ちんれつしつにまゐりませう。

二、舊石器時代室きゆうせつきじだいしつ

(イ)舊石器きゆうせつきの種類しゆるい

〔図〕fig18371_22.png第二十一圖 原器と舊石器横×縦

第二十一圖 原器と舊石器

この室しつにはひつて私共わたしどもは、まづ中央ちゆうおうの棚たなに竝ならべてある石器類せつきるいをだん〱見みて行ゆきませう。一番いちばん初はじめにあるのは、いはゆる『原石器げんせつき』と稱しようするものでありまして、これはちょっと見みたところでは、その邊へんに轉ころがつてゐる石いしの破片はへんと少すこしも變かはらない、たゞ角張かくばつて打うち缺かいた痕あとのあるように見みえるだけのものでせう。(第二十一圖だいにじゆういちず左上ひだりうへ)これは皆みなさんも、果はたして人間にんげんが造つくつたものであるか否いなかについて疑うたがふのはむりがありません。學者がくしやの間あひだにも種々しゆ〲意見いけんがありまして、ある學者がくしやは、人間にんげんが手てを加くはへて造つくつたものであるといひ、またある學者がくしやは、いや自然しぜんに石いしがぶつかったり、何なにかの機會きかいに出來できたにすぎないものだといふ。しかし、かような石いしの破片はへんを持もつて來きて、これが原石器げんせつきであるかどうかといふ確たしかなことは答こたへが出來できないにしても、人間にんげんが立派りつぱな石器せつきを造つくる以前いぜんに、それよりも簡單かんたんな、ちょうどこんな粗末そまつな石器せつきを造つくつたことがあつてもよいし、またこんな石片せつぺんの中うちにも、人間にんげんの手てを加くはへたものが混こんじてゐることだけは認みとめなければなりません。

よしこの原石器げんせつきに疑問ぎもんがあるにしても、その次つぎに竝ならべてある拳こぶしのような形かたちをした石いしになると、誰たれが見みても(第二十一圖だいにじゆういちず左下ひだりした)かう根元ねもとが太ふとつて先さきが尖とがつた石いしばかりが、偶然ぐうぜんにわれて出でて來くるとは思おもはれない。どうしてもこれは人間にんげんが造つくつたものとしなければなりません。これには人間にんげんの拳こぶしほどもある大形おほがたのものが非常ひじように多おほいのでありまして、一番いちばん古ふるい石器せつきといはれ、セイユ期きの石器せつきと呼よばれてゐるものであります。その次つぎに造つくられた石器せつきは、その隣となりにあるアシュウル期きの石器せつきです。(同上どうじよう右上中みぎうへなか)形かたちは大體だいたい前まへのものに似にてゐるけれども、製法せいほうが細こまかくなり、だいぶ美うつくしく出來できてをります。こんな石器せつきは一體いつたい何なにに使用しようしたものであるかといふに、全體ぜんたいが槌つちの役やくにもなり、尖とがつたところでは物ものを突つき、角かくばつたところでは軟やはらかいものを切きるといふように、あらゆることに用もちひられたのでせう。これが次第しだいに進すゝんで來きますと使用しようの途みちも別べつになり、それ〲適當てきとうの形かたちになつて石槍いしやりとか石劍いしつるぎとか、あるひは石庖丁いしほうちようとかにわかれて行ゆくのでありますが、この時代じだいにはまだ、それがわかれてゐなかつたのであります。

〔図〕fig18371_23.png第二十二圖 骨牙器と彫刻物横×縦

第二十二圖 骨牙器と彫刻物

その次つぎに竝ならべてあるのは、皆みなさんの見みられるとほりその造つくり方かたは、前まへのよりもかへって簡單かんたんであるようですが、しかも大おほきく打うちわつた表面ひようめんを巧たくみに使つかつて、必要ひつようの部分ぶぶんを細こまかく打うちわつてあるのが氣きにつくでせう。薄うすく平ひらたいもの、先さきが鋭利えいりに尖とがつたものなども出來できてきたのです。これをムスチェー期きのものといつてゐます。なほ次つぎ々々〱に陳列ちんれつしてあるように、石器せつきには非常ひじように精巧せいこうなソリュートレ期きのもの、また少すこし簡單かんたんで要領ようりようのよく出來できてあるマデレエン期きといふふうにだん〱變化へんかして來きてゐることがわかります。(第二十一圖だいにじゆういちず左中ひだりなか及および右下みぎした)ところがこのマデレエン期きになりますと、石器せつきはあまり進歩しんぽしたように見みえないけれども、この時代じだいにはひつて新あたらしく盛さかんに出でて來きたものは、動物どうぶつの骨ほねだとか、角つのだとかで造つくつた品物しなものであります。そこに竝ならべてあるような骨製こつせいの先さきの尖とがつたものや、種々しゆ〲のものがありまして、中なかには牙きばや骨ほねの上うへに動物どうぶつの形かたちや人間にんげんの形かたちを彫刻ちようこくしたものなどがあります。(第二十二圖だいにじゆうにず)これには前まへの時代じだいには見みられなかつた品物しなものです。そこに、大おほきな平ひらたい骨ほねのようなものゝ上うへに、象ぞうの形かたちが彫刻ちようこくしてあるのを見みるでせう。(第二十三圖だいにじゆうさんず)これは長ながい毛けの生はえた象ぞうであることはすぐ氣きづくのでありまして、今日こんにちの象ぞうとは違ちがつて、昔むかしシベリアなどに棲すんでゐたまんもすといふ大象たいぞうの形かたちを現あらはしたものであります。そのまんもすの形かたちをまんもすの牙きばの上うへに彫ほつたもので、これは珍めづらしい品しなであります。こゝにあるのはその模造品もぞうひんであつて、現物げんぶつはフランスのある博物館はくぶつかんに大切たいせつに保存ほぞんされてあります。この他ほかれんぢゃー(馴鹿となかい)の上うへにれんぢゃーの形かたちを彫刻ちようこくしたものや、人間にんげんの形かたちなどを彫ほつたものも少すくなくありません。

〔図〕fig18371_24.png第二十三圖 まんもす牙上彫刻まんもす圖横×縦

第二十三圖 まんもす牙上彫刻まんもす圖

(ロ)舊石器時代きゆうせつきじだいの繪畫かいがなど

〔図〕fig18371_25.png第二十四圖 スペイン・アルタミラ洞天井畫横×縦

第二十四圖 スペイン・アルタミラ洞天井畫

かように舊石器時代きゆうせつきじだいの中頃なかごろから、動物どうぶつなどの形かたちを彫刻ちようこくにして現あらはすことが大たいそう上手じようずになつて來きました。これらを見みてもこの時代じだいの人間にんげんを一概いちがいに野蠻人やばんじんだとはいへない、たゞ金屬きんぞくを使用しようすることを知しらなかつたといふにすぎないのです。この彫刻ちようこくを造つくつた人間にんげんは、前まへに説明せつめいした古ふるい人間にんげんの模型中もけいちゆうにあつた『クロマニヨン』人じんに屬ぞくするのであります。『クロマニヨン』人じんは、頭腦ずのうも大おほきく恰好かつこうも整とゝのうてをり、けっして野蠻人やばんじんといふことの出來できない體格たいかくの持もち主ぬしでありますからこそ、かようなものが造つくり得えられたのです。更さらに『クロマニヨン』人じんは、彫刻ちようこくをしたばかりでなく、大おほきな繪えも描かいたのです。その繪えは今日こんにちまで遺のこつてをりますが、あちらの壁かべを御覽ごらんなさい。(第二十四圖だいにじゆうしず)壁かべに懸かゝつてゐる牛うし、馬うま、鹿しかなどの繪えはかれ等らが洞穴ほらあなの中なかの石壁いしかべに彫ほりつけたり、また描かいたりした繪えの寫うつしであります。かの牛うしはびぞんといふ牛うしで、今日こんにちの牛うしとはその形かたちは異ことなつてゐますけれども、鹿しかや馬うまの形かたちはなんとよく似にて本物ほんもののようでありませんか。筆致ひつちの確たしかな點てん、全體ぜんたいが生いき〱してゐるところ、實じつにこれがそんな古ふるい一萬年前いちまんねんぜんにも近ちかい時代じだいに出來できたものであらうかと、誰たれも疑うたがふのもむりはありません。實際じつさいのところこれが今いまから五十年ごじゆうねんほど前まへに、初はじめてスペインの北きたの海岸かいがんアルタミラといふ田舍ゐなかの丘をかの上うへの洞穴ほらあなで發見はつけんされた時とき、たいていの學者がくしやは皆みな、これが一萬年いちまんねんもへた古ふるいものでなく、ずうっと新あたらしいものだといつて誰たれも信しんじなかつたほどです。しかしその洞穴ほらあなをよく調しらべると、けっして新あたらしい時代じだいに人ひとがはひつて作つくつたものではなく、びぞんといふ牛うしのような動物どうぶつは、一萬年いちまんねん近ちかくも前まへでなければ棲息せいそくしてゐなかつたものであり、それをこれほど寫生的しやせいてきに描かくには、實物じつぶつによつて寫生しやせいしたのでなければならぬといふことなどが、だん〱わかつて來きたのみでなく、やがてはフランスの中部ちゆうぶドルドーンヌのフオン・ド・ゴームといふ所ところの洞穴ほらあななどにまた、同おなじような繪えのあることが發見はつけんせられたのです。それで今日こんにちでは誰たれもこれを疑うたがふものはなくなつたのであります。

〔図〕fig18371_26.png第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖横×縦

第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖

私わたしもこの間あひだ、スペインのアルタミラの洞穴ほらあなへ行いつて親したしくその繪えを見みることが出來できたのでありますが、それはのろ〱とした丘をかの頂いたゞきに近ちかく小ちひさな口くちを開ひらいた穴あなであつて、中なかにはひると十數疊敷じゆうすうじようじきぐらゐの大おほきさの室しつがあつて、その奧おくへ進すゝむと二三十間にさんじつけんほどもはひつて行ゆかれます。今いまの動物どうぶつの繪えはその大おほきい室しつの天井てんじように描かいてあつたが、石いしの凹凸おうとつを巧たくみに利用りようして突出部とつしゆつぶを動物どうぶつの腹部ふくぶとし、黒くろと褐色かつしよくの彩色さいしきをもつて描かいてあつて、それがあり〱と殘のこつてをります。一萬年前いちまんねんぜんより今日こんにちまでこのようによく保存ほぞんされたとは思おもへないくらゐであります。また近年きんねんこの洞穴ほらあなを發掘はつくつして、昔むかし彩色さいしきに使つかつた繪具えのぐも發見はつけんせられたので、それらは洞穴ほらあなの傍そばにある番人小屋ばんにんごやにある小ちひさな陳列室ちんれつしつに竝ならべてありました。昔むかしの人ひとは暗くらい室しつの内なかでどうしてこんな繪えを描かいたのでせうか。おそらく燈火とうかを用もちひたとすれば動物どうぶつの脂肪あぶらをとぼしたことゝ思おもはれます。この洞穴ほらあなの繪えを發見はつけんしたのに面白おもしろい話はなしがあります。發見者はつけんしやは偉えらい學者がくしやでも大人おとなでもなく、一人ひとりの小ちひさい娘むすめさんであつたのです。今いまから五十年程前ごじゆうねんほどまへん「ん」はママ(一八七九年ねん)に、この附近ふきんにサウツオラといふ人ひとが住すんでゐました。その人ひとは古ふるい穴あなを調しらべることに興味きようみをもち、ある日ひ七八歳しちはつさいの女をんなの子こを伴つれてこの洞穴ほらあなの中なかへはひつたのです。穴あなの入いり口ぐちは、今いまより狹せまくやう〱四よつん這ばひになつて中なかにはひつて行ゆくと、女をんなの子こが、

「お父とうさん、あそこに牛うしが描かいてあります」

と叫さけんだので、

「なに、そんなことがあるものか」

と打うち消けしながらよく見みると、牛うしや馬うまの繪えが續々ぞく〱と七八十程しちはちじゆうほども現あらはれて來きたので、サウツオラは驚おどろきました。そしてそれが原因げんいんで洞穴ほらあなの研究けんきゆうをして、これを學界がつかいに發表はつぴようしましたが、當時とうじ誰たれも信しんずる者ものがなく、サウツオラは失望しつぼう落膽らくたんし、殘念ざんねんに思おもひながら死しんだのです。死後しご幾年いくねんかをへて、それが始はじめて舊石器時代きゆうせつきじだいの繪えであることにきまり、今更いまさらサウツオラの手柄てがらを人々ひと〲が認みとめるようになりました。今いまもその洞穴ほらあなの人いりり口ぐちに建たつてゐる碑文ひぶんにそのことが記しるされてあります。また當時とうじの少女しようじよはまだ生いきてゐて、そこからあまり遠とほくない村むらに住すんでゐるといふことを番人ばんにんの女をんなから聞ききましたが、定さだめしもう年としよりのお婆ばあさんになつて當時とうじ自分じぶんくらゐの娘むすめの子この親おやとなつてゐることであらうと思おもひます。

アルタミラの洞穴ほらあなの繪えとごく似にてゐる繪えは、前まへにいつたフランスのフオン・ド・ゴームの繪えであります。この洞穴ほらあなは、アルタミラとは違ちがつて、丈たけの高たかい奧おくの深ふかい穴あなであつて、兩側りようがはの壁かべにやはり多數たすうの動物どうぶつの繪えを描かいてあります。こゝへも私わたしは行ゆきましたが、繪えの出來できは前まへのものより、少すこし劣おとるようでありますが、大體だいたいにおいて同おなじ調子ちようしであります。その他ほかフランスの洞穴ほらあなには、これとよく似にた繪えや、少すこし趣おもむきを異ことにする繪えが、無數むすうにありますが、一風いつぷう變かはつた描かき方かたで舊石器時代きゆうせつきじだいの繪えと認みとめられるものは、東ひがしスペインの洞穴ほらあななどに遺のこつてゐる繪えであります。みな妙みような恰好かつこうをした人間にんげんの繪えで、それは今日こんにち南みなみアフリカの土人どじんブッシュマンなどが描かく繪えと非常ひじように似にてゐるのです。

さて私わたしたちは次つぎの室しつにはひる前まへに、ちょっと見落みおとした石器類せつきるいを一應いちおう見みることにいたしませう。そこにあるのは舊石器時代きゆうせつきじだいの最後さいごの頃ころであるオリニヤック期きのもので、その次つぎに來くるのが、舊石器時代きゆうせつきじだいから新石器時代しんせつきじだいに移うつつて行ゆく中間ちゆうかんのアジール期きのものです。石器せつきの造つくり方かたなどは別べつに進歩しんぽしてゐませんけれども、それにもあるように文字もじのようなものを、石いしに朱しゆで書かいたものがあるのは珍めづらしいと思おもひます。(第二十二圖だいにじゆうにず左下ひだりした)

三、新石器時代室しんせつきじだいしつ

(イ)貝塚かひづかと湖上住居こじようじゆうきよ

舊石器時代きゆうせつきじだいと新石器時代しんせつきじだいとは、人種上じんしゆじようにも文化上ぶんかじようにも關係かんけいがなくて、かけ離はなれた別べつのものであるといふふうに、今いままでの人ひとは多おほく思おもつてゐましたが、近頃ちかごろは、この舊新兩石器時代きゆうしんりようせつきじだいの間あひだには聯絡れんらくがあつて、けっして無關係むかんけいのものとすることが出來できないといふふうに、だん〲考かんがへられて來きたのであります。そしてまた學者がくしやの中なかには、この二ふたつの時代じだいの間あひだに、中石器時代ちゆうせつきじだいといふ中間ちゆうかんのものを置おく人ひともあります。それはとにかく、新石器時代しんせつきじだいは舊石器時代きゆうせつきじだいと比くらべて、人種じんしゆの上うへにも文化ぶんかの上うへにも餘程よほど違ちがつたものがあり、この時代じだいになると、人種じんしゆはもちろん現在げんざいの世界せかいの人種じんしゆとまったく同おなじ種しゆに屬ぞくしてゐるし、その他ほか自然界しぜんかいの状態じようたいも非常ひじように今日こんにちと接近せつきんして來きました。それで石器せつきを使用しようしたといふ點てんにおいては舊石器時代きゆうせつきじだいと變かはりはありませんが、その人種上じんしゆじようからも、また一般文化いつぱんぶんかの上うへから見みますと、かへって後のちの青銅器時代せいどうきじだいと深ふかい關係かんけいがあるのであります。また新石器時代しんせつきじだいのつゞいた年代ねんだいは舊石器時代きゆうせつきじだいに比くらべて大たいへん短みじかく、舊石器時代きゆうせつきじだいの十分じゆうぶんの一いちにも足たりないくらゐです。

〔図〕fig18371_27.png第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖横×縦

第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖

新石器時代しんせつきじだいになると氣候きこうその他た、世界せかいの状態じようたいは今日こんにちと餘あまり變かはつたところなく、たゞ海岸線かいがんせんが今いまよりも陸地りくちに入いり込こんでゐたといふくらゐに過すぎないのです。その時代じだいに棲すんでゐた獸類じゆうるいも、今日こんにちわれ〱の見みるものと大たいした變かはりはなく、あのまんもすといふ大おほきな象ぞうや、馴鹿となかいがヨーロッパなどに棲すんでゐるといふようなことはもうなくなつてしまひました。一體いつたい新石器時代しんせつきじだいの人間にんげんは、どんな所ところに住すんでゐたかといひますと、もちろん洞穴ほらあなに棲すむものもあり、山間さんかんにゐるものもありましたが、海岸かいがん近ちかくに住居じゆうきよして、魚さかなや貝かひを捕とらへてその肉にくを食くつたものが多おほいようです。それで、その當時とうじの人ひとが住居じゆうきよした跡あとが海岸かいがん附近ふきんに遺のこつてゐて、かれ等らが食くつてすてた貝殼かひがらや、魚さかなや獸けだものの骨ほねなどがたまつてゐる所ところがあります。かういふ場所ばしよでは、白しろい貝殼かひがらが一番いちばんよく目立めだつので、われ〱はこれを貝塚かひづかと呼よんでをるのであります。貝塚かひづかの中なかからは貝殼かひがらや骨ほねのようなものゝ他ほかに、その時分じぶんの人間にんげんが使用しようしてゐた石器せつきだとか骨器こつきだとか、また土器どきだとかの破損はそんしてすてられたものや、あるひは遺失いしつしたものなどが發見はつけんせられます。この貝塚かひづかは前まへに申まをしましたように、元來がんらい海岸かいがんに棲すんだ人間にんげんの住居じゆうきよの傍そばに出來できた塵埃じんあいすて場ばであります。ですから何なにしろ海岸かいがんに近ちかい場所ばしよにあつたに相違そういありませんが、今日こんにちでは海岸かいがんから遠とほく、時ときには數里すうりも離はなれた所ところにあることがあります。これはその後ご陸地りくちが隆起りゆうきし、海うみがひいてしまつたのです。またその反對はんたいにデンマルクなどのように、海うみが陸地りくちををかして來きたので、今日こんにちでは海中かいちゆうに貝塚かひづかが浸ひたつてゐるところもあります。

この貝塚かひづかを始はじめて研究けんきゆうした人ひとは、デンマルクの學者がくしやでありました。最初さいしよは、たくさんの貝殼かひがらは、果はたして昔むかしの人ひとがその肉にくを食くつてすてたものか、どうかゞ疑問ぎもんとせられたのでありましたが、ある學者がくしやが綿密めんみつに調査ちようさした結果けつか、すてゝあるそれらの貝殼かひがらは、みな成熟せいじゆくした貝かひばかりで、未成熟みせいじゆくのものがなく、また二枚貝にまいがひの一方いつぽうだけのものが多おほいことなどがわかりました。もしも自然しぜんに貝殼かひがらがつもつたものとすれば、そのうちには、きっと食たべられない幼をさない貝かひも交まじつてゐなければならないはずだのに、大おほきい熟じゆくした貝かひばかりであり、また貝殼かひがらの一方いつぽうしかないといふことは、自然しぜんにたまつたものでなく、昔むかしの人ひとが食くつて殼からをすてたものであるといふほかはないのです。なほこの貝塚かひづかは、ヨーロッパの海岸地方かいがんちほうばかりでなく、アメリカその他た世界各國せかいかつこくにあります。日本につぽんにも多おほくありますが、日本につぽんの貝塚かひづかについては、後のちにお話はなしいたしませう。

〔図〕fig18371_28.png第二十七圖 現代水上住居横×縦

第二十七圖 現代水上住居

新石器時代しんせつきじだいの人間にんげんは、またあるところでは湖水こすいの中なかに棒杙ぼうぐひを打うつてその上うへに小屋こやを設まうけて棲すんでゐました。そしてその小屋こやが多おほく集あつまつて一ひとつの村落そんらくをつくつてゐました。これを湖上住居こじようじゆうきよ、あるひは杙上住居くひじようじゆうきよと申まをします。イタリイの北部ほくぶやスヰスあたりに多おほくこの遺跡いせきがあります。それはちょうど今日こんにちボルネオのパプア人じんやシンガポールあたりの海岸かいがんで見みかけるのと同樣どうよう、陸地りくちとの交通こうつうはたいてい小舟こぶねに乘のつたものです。(第二十七圖だいにじゆうしちず)なぜこんな所ところに住すむのでせうか。それには種々しゆ〲の理由りゆうがあるでせうが、その一ひとつは敵てきの襲撃しゆうげきを免のがれ、猛獸もうじゆうの害がいを避さけるためであつたでせう。また陸上りくじようの家いへに住すんで、穢きたない塵埃じんあいをあたりにすてると不潔ふけつなばかりでなく、いろ〱の病氣びようきに罹かゝることを實驗じつけんして、不潔物ふけつぶつを水みづにすて清潔せいけつな生活せいかつをするといふ意味いみもあつたかと思おもはれます。もちろんこの小屋こやは燒やけたり壞こわれたりして、今日こんにちまったく殘のこつてをりませんが、その土臺どだいの杙くひだけが水みづの中なかに遺のこつてゐるのです。今いまから數十年前すうじゆうねんぜんのある年とし、スヰスの國くにのチュウリッヒ湖この水みづが今いままでになく減へつて底そこが現あらはれました。その底そこに棒杙ぼうぐひが一萬本いちまんぼんもにょき〱と立たつてゐるのをケラーといふ學者がくしやが發見はつけんしまして、だん〲研究けんきゆうした結果けつか、これが昔むかしの人ひとの湖上住居こじようじゆうきよの跡あとであることがわかりました。その證據しようこにはその杙くひのある附近ふきんを掘ほつて見みますと、當時とうじの人間にんげんが落おとしたり捨すてたりした石器せつきや土器どきまでが發見はつけんされ、織おり物ものや木この實みの類るいまでが、よく殘のこつてをりました。湖上住居こじようじゆうきよは、しかし新石器時代しんせつきじだいばかりでなく、次つぎの青銅器時代せいどうきじだいまでも引ひきつゞいて行おこなはれてゐたことは、湖水こすいの一番いちばん深ふかい底そこからは石器せつきが發見はつけんされ、淺あさい上うへの方ほうからは青銅器せいどうきが發見はつけんされたことによつて知しることが出來できます。

〔図〕fig18371_29.png第二十八圖 ヨーロツパ古代湖上住居想像圖

第二十八圖 ヨーロツパ古代湖上住居想像圖

あすこの壁かべに懸かけてある繪えをご覽らんなさい。遺のこつてゐた土臺どだいの杙くひから想像そう〲して湖上住居こじようじゆうきよの小屋こやを描かいたものであります。(第二十八圖だいにじゆうはちず)その隣となりにある繪えは、現在げんざい南洋なんようにおいて實行じつこうしてゐる水上住居すいじようじゆうきよでありますが、いかにもよく似にてゐることがわかりませう。(第二十七圖だいにじゆうしちず)なほイタリイの北きたの方ほうなどでは、水みづはなくても低ひくい濕しめつぽい所ところに、湖上住居こじようじゆうきよと同おなじような杙くひをたて、その上うへに小屋こやを作つくつて住すんでゐた人間にんげんが、新石器時代しんせつきじだいから青銅時代せいどうじだいにかけてをりました。

(ロ)磨製石器ませいせつきと土器どき

さて新石器時代しんせつきじだいの人類じんるいはどういふふうな生活せいかつをしてゐたかといひますと、やはり舊石器時代きゆうせつきじだいの人間にんげんと同おなじように、石いしを割わつたり、叩たゝいたりして製作せいさくした極きはめて粗末そまつな器物きぶつをも使つかつてゐたのでありますが、それ以外いがいにこの時代じだいには石いしを磨みがいてすべ〱した美うつくしいものに造つくり上あげることをやり出だしたのです。また石器せつきの形かたちも大體だいたいは前まへの時代じだいよりは小形こがたのものが多おほく、しかも石器せつきの使つかひ途みちによつて種々しゆ〲異ことなつた形かたちのものがわかれて發達はつたつして來きました。例たとへば平ひらたく刃はが兩方りようほうから磨みがき出だしてゐる石斧せきふ、あるひは長ながい槍やり、あるひは庖丁ほうちようといつたふうに、使用しように便利べんりな種々しゆ〲の形かたちが出來できたのであります。そしてそれらが皆みな、その後ご發達はつたつして今日こんにちの金屬きんぞくの器物きぶつになつて行いつたのです。またこの時代じだいの一番いちばん大おほきな發明はつめいは、弓矢ゆみやが始はじめて用もちひられることであります。それは矢やの先さきにつける矢やの根ね石いしがあることでわかるのであります。投なげ槍やりといふようなものは、あるひはありましたかも知しれませんが、弓矢ゆみやのような飛とび道具どうぐは、舊石器時代きゆうせつきじだいには見みられないもので、實じつに新石器時代しんせつきじだいの新式武器しんしきぶきであります。この發見はつけんはちょうど近代きんだいにおける鐵砲てつぽうの發明はつめいと同樣どうよう、當時とうじの人間にんげんが狩獵しゆりようや戰爭せんそうの場合ばあひ、どれほど便利べんりで、またどれほど有效ゆうこうであつたかといふことは、今いまから想像そう〲されます。たゞ今いま述のべたところの石器せつきは、この棚たなに陳列ちんれつしてあるように、世界せかいの各國かつこくから出でてゐるのでありますが、その形かたちはたいてい皆みなよく似にたもので、大たいした相違そういはありません。(第二十九圖だいにじゆうくず)

〔図〕fig18371_30.png第二十九圖 ヨーロツパ新石器時代遺物横×縦

(1)石斧

(2)石奔

(3)石斧

(4)石斧

(5)石劍

(6)石鍬

(7)柄つき石斧

(スヰス)

(8)土器

(9)土器

また、この新石器時代しんせつきじだいになつてから、人類じんるいの發明はつめいした大切たいせつな品物しなものは土器どきであります。土器どきといひますと粘土ねんどで形かたちを造つくつて、それを火ひで燒やいたものであります。もっとも今日こんにちのように堅かたい燒やき物ものや、釉藥うはぐすりを用もちひた品しなは出來できなかつたので、いはゆる素燒すやきでありますが、とにかく土器どきが發明はつめいされてから、人間にんげんは生活上せいかつじように非常ひじような便利べんりを得えて來きました。今いままで水みづを汲くんだり、それを保存ほぞんするには椰子やしの實みの殼からのようなものとか、貝類かひるいの殼からとかを使つかふことの他ほかはなかつたのであります。これらのものは大おほきさも限かぎりがあり、形かたちも一定いつていしてをりますが、この土器どきになりますと、大おほきい容いれ物ものでも思おもふような形かたちのものでも自由じゆうに造つくることが出來できます。それで狩獵しゆりようでとつて來きた獸けだものの肉にくは、壺つぼの中なかに鹽漬しほづけとして保存ほぞんされるし、水みづやその他たの流動物りゆうどうぶつを瓶かめに入いれて、自由じゆうに運はこぶことも出來できるようになりました。また以前いぜん水みづを湯ゆに沸わかすことは非常ひじように困難こんなんであつて、僅わづかに石いしのくぼみへ水みづを入いれて、それに燒やき石いしを投なげ込こむとか、貝殼かひがらに入いれた水みづを火ひに近寄ちかよせて少すこしの湯ゆを得えたに過すぎなかつたのでありますが、土器どきの發明はつめいが出來できてから、多量たりようの湯ゆを沸わかすことも出來できるようになつたのであります。定さだめし舊石器時代きゆうせつきじだいの人類じんるいは、湯ゆで身體しんたいをふくといふことはしなかつたので、身體しんたいも穢よごれて不潔ふけつだつたでせうが、新石器時代しんせつきじだいに至いたつては、よし浴場よくじようはなかつたとしても、湯ゆでもつて身體しんたいを清潔せいけつにすることが出來できるようになつたと想像そう〲せられます。(第二十九圖だいにじゆうくず)

この土器どきの發明はつめいは更さらに大だいなる進歩しんぽを人間生活にんげんせいかつの上うへにもたらしました。それは、今いままでは食物しよくもつを煑にることを知しらなかつた人間にんげんが、土器どきによつて動物どうぶつの肉にくでも植物しよくぶつでも、自由じゆうに煑にることが出來できるようになつたので、今いままで食たべられなかつた品物しなものや食物しよくもつの部分ぶぶんも、煑にて食たべることになつたのであります。その結果けつか、從來じゆうらいたゞ食物しよくもつの材料ざいりようを集あつめるために、一日中いちにちじゆう骨ほねを折をつて働はたらいてゐた人間にんげんが、集あつめた食料しよくりようの貯藏ちよぞうが出來できるようになり、食料しよくりようが豐ゆたかになつたので働はたらく力ちからに餘裕よゆうが出來でき、それを他たの方面ほうめんに用もちふることを得うるようになり、從したがつて文明ぶんめいが一段いちだんと進歩しんぽすることになつたのでありますから、土器どきの發明はつめいといふことは、人類じんるいの文明ぶんめいの歴史れきしの上うへに一大事件いちだいじけんでありまして、ある學者がくしやのごときは、土器どきを知しらない人間生活にんげんせいかつを野蠻的生活やばんてきせいかつ、土器どきをもつ人間にんげんの生活せいかつを半開生活はんかいせいかつと稱しようして區別くべつするくらゐであります。私共わたしども今日こんにちの生活せいかつから茶碗ちやわんや壺つぼなどをなくしてしまつたならば、どれだけ不便ふべんなことであるかは、十分じゆうぶんに想像そう〲が出來できるのであります。

さて、かように大切たいせつな土器どきを誰たれがどこで發明はつめいしたかといふことは容易よういにわからぬのでありますが、最初さいしよは粘土ねんどが水みづに濕しめされると軟やはらかくなり、思おもふ形かたちに造つくられることが知しられ、また濕しめつた粘土ねんどが火ひの傍そばに置おかれると、固かたくなることを知しつたといふことなどが發見はつけんの緒いとぐちとなつたかと想像そう〲せられます。また籠かごの外側そとがはとか内側うちがはとかに粘土ねんどを塗ぬり込こめて、籠かごと共ともに火ひで燒やくといふ製法せいほうもあつたようであります。

(ハ)巨石記念物きよせききねんぶつ

新石器時代しんせつきじだいに人類じんるいが造つくつたものには、前まへに述のべました石器せつきや土器どきなどの他ほかに、なほ非常ひじように大おほきなすばらしい物ものがあります。それは人間にんげんの體からだの幾倍いくばいもある大おほきな石いしをもつて造つくられた墓はかとか、あるひは宗教しゆうきようの目的もくてきに使つかつた場所ばしよとかいふものでありまして、それに使用しようされた石いしが非常ひじように大おほきいので、われ〱はそれを巨石記念物きよせききねんぶつと名なづけてゐます。これにはいろ〱の種類しゆるいがありまして、その一ひとつに立たて石いし(めんひる)といふものがあります。(第三十一圖だいさんじゆういちず2)それはたいてい一本いつぽんの大おほきな長ながい石いしが突つき立たてゝあるもので、その石いしの高たかさは五六尺ごろくしやくのものもありますが、大おほきいものになると五六十尺ごろくじつしやくもあるものがあります。これはなんのために使つかつたのであるか、確たしかにはわかりませんが、この巨石きよせきを昔むかしの人ひとが神かみとして崇拜すうはいしたものであるか、または尊たつとい場所ばしよの目標もくひようとしたものであらうと想像そう〲するより外ほかはありません。私わたしは先頃さきごろフランスの西海岸にしかいがんにあるカルナックといふ所ところの大おほきい立たて石いしを見みに行いつたのでありますが、今いまは三みつつにをれて地上ちじように倒たふれてゐます。元もとは直立ちよくりつしてゐたもので、高たかさは七八十尺しちはちじつしやくもあつたものですが、二百年程前にひやくねんほどまへに雷かみなりが落おちたゝめに折をれたのだといふことでありました。カルナックの立たて石いしより小ちひさいものは、フランスに數限かずかぎりなくありますが、變かはつて面白おもしろいのは行列石ぎようれつせき(ありにゅまん)とでも稱しようするもので、六七尺ろくしちしやくから十二三尺じゆうにさんじやくくらゐの高たかさの石いしが幾百いくひやくとなく、一定いつていの間隔かんかくをもつて竝ならび立たつてゐるのであります。これもなんの目的もくてきのために出來できたものであるかはわかりませんが、やはり宗教的しゆうきようてきの意味いみをもつて造つくられたものであらうと思おもはれます。カルナックにある行列石ぎようれつせきには、千二百本せんにひやつぽんばかりの石いしが兵隊へいたいのように竝ならんでをるのがありました。(第三十一圖だいさんじゆういちず1)

〔図〕fig18371_31.png第三十圖 巨石記念物横×縦

第三十圖 巨石記念物

(1)行列石(フランス・カルナツク)

(2)どるめん(デンマーク)

(3)輪状列石(デンマーク)

また大おほきな石いしをもつて圓まるく輪わのように竝ならべ廻まはしてある環状列石かんじようれつせき(くろむろひ)といふのがあります。これには石いしの大小だいしようは種々しゆ〲ありますが、大おほきなものになると圓えんの直徑ちよつけいが一町いつちようくらゐもあり、石いしの高たかさは二三十尺にさんじつしやくに及およぶものもあります。今日こんにち世界せかいで一番いちばん名高なだかいものはイギリスのすとんへんじといふものでありまして、いま飛行場ひこうじようとなつてゐるソールスベリーの廣ひろい野原のはらに圓まるく巨石きよせきを廻まはした不思議ふしぎな姿すがたが立たつてをります。(第三十二圖だいさんじゆうにず23)大空おほぞら高たかく飛行機ひこうきが飛とんでゐる下したに、この大昔おほむかしの不思議ふしぎな遺物いぶつを見みるときは、一ひとつは二十世紀にじつせいきの現在げんざい、一ひとつは紀元前きげんぜん二十世紀にじつせいきにも溯さかのぼるべき古代こだいのものを、同時どうじに眼前がんぜんに眺ながめて一種いつしゆの感かんに打うたれるのであります。このすとんへんじの中央ちゆうおうに立たつて東方とうほうを眺ながめるときは、太陽たいようの出でるのを眞正面まつしようめんに見みられるから、太陽崇拜たいようすうはいに關係かんけいある宗教上しゆうきようじようの目的もくてきで造つくられたものであらうと説とく人ひともありますが、實際じつさいなんのためにこの野原のはらに、かようなものが設まうけられたか確たしかなことは知しることが出來できません。もっともこのすとんへんじは新石器時代しんせつきじだいの終をはりで、青銅せいどうが使用しようされ出だした時代じだいに造つくられたものであるといはれますが、それはとにかく以上いじようお話はなしした巨石記念物きよせききねんぶつは、いづれも新石器時代しんせつきじだいから作つくられたことには間違まちがひありません。

〔図〕fig18371_32.png第三十一圖 巨石記念物横×縦

第三十一圖 巨石記念物

(1)どるめん(イギリス)

(2)めんひる(フランス)

(3)高塚(デンマーク)

(4)高塚(イギリス)

今一いまひとつ大おほきい石いしで造つくつたものに石机いしづくゑ、すなはちどるめんといふのがあります。それは少すこしひらたい石いしを三方さんぽうに立たて、その上うへにやはりひらたい大石おほいしをのせた一見いつけんてーぶるの形かたちをしたものであります。どるめんといふ語ごも、石いしの机つくゑといふ意味いみの言葉ことばであります。このてーぶるの下したに人間にんげんを葬はうむつたので、これは疑うたがひもなく墓はかであります。(第三十一圖だいさんじゆういちず1)、(第三十二圖だいさんじゆうにず1)このどるめんは石器時代せつきじだいから、青銅器時代せいどうきじだいに亙わたつて行おこなはれたもので、後のちには、だん〱石いしで造つくつた長ながい廊下ろうかのような室しつが出來でき、その石いしの上うへに土つちをかぶせて圓まるい高塚たかつかとしたものが現あらはれました。この石室せきしつのある塚つかは、新石器時代しんせつきじだいから次つぎの青銅器時代以後せいどうきじだいいごにおいて、盛さかんに世界各國せかいかつこくに行おこなはれてゐたものでありまして、日本につぽんにもたくさんありますが、日本につぽんにはごく古ふるい石器時代せつきじだいのどるめんはありません。(第三十七圖だいさんじゆうしちず34)

〔図〕fig18371_33.png第三十二圖 巨石記念物

第三十二圖 巨石記念物

(1)どるめん(フランス)

(2)輪状列石(イギリス・すとんへんじの現状)

(3)その復舊圖

いま申まをしました種々しゆ〲の巨石きよせきで造つくつた記念物きねんぶつに用もちひられた石いしは、多おほくは山やまや谷たににある自然石しぜんせきの恰好かつこう良よいものを取とつて來きて、そのまゝ使用しようしたもので、餘あまり人工じんこうを加くはへてありません。しかし、かような大おほきい石いしを運搬うんぱんするには、餘程よほどの勞力ろうりよくが必要ひつようであります。今日こんにちのごとく機械きかいの力ちからがない時代じだいでありますから、たゞ多數たすうの人間にんげんが力ちからを合あはせて、時ときには牛馬ぎゆうばの力ちからを借かりたかもわかりませんが、多おほくは人力じんりよくをもつてなされたものに相違そういありません。ですから當時とうじにおいて既すでに協同一致きようどういつちして爲事しごとをする一ひとつの團體だんたい、社會しやかいといふものが出來できてをり、またそれを支配しはいして行ゆく頭かしら、すなはち酋長しゆうちようのようなものがなくては、とうていかような爲事しごとは出來できますまいから、この大工事だいこうじの遺物いぶつを見みたゞけでも、當時とうじの社會状態しやかいじようたいが察さつすることが出來できます。また二十尺にじつしやくも三十尺さんじつしやくも高たかい石いしを兩側りようがはに立たてゝ、その上うへに横よこに巨石きよせきを載のせてあるものなどは、たゞ人力じんりよくだけでもつてなされるものではなく、種々しゆ〲工夫くふうを凝こらしたものでせう。それには遠方えんぽうより土つちを次第しだいにつんで傾斜けいしやした坂道さかみちを築きづき上あげ、それへ石いしを押おし上あげてこれを縱たてに落おとし立たて、それからその上うへに横石よこいしを載のせたもので、坂道さかみちの土砂どしやはその後ご除のぞき去さつたものと想像そう〲されるのです。

かような大おほきな巨石記念物きよせききねんぶつは、博物館はくぶつかんに運搬うんぱんして來くることはとうてい出來できませんから、そこにある模型もけいと寫眞しやしんによつて、皆みなさんはその大體だいたいを知しる外ほかはありませんが、たゞ館かんの中庭なかにはにはあのどるめんの小ちひさいものを、原状げんじようのまゝ持もつて來きて据すゑてありますから、後程のちほど庭にはへ出でて御覽下ごらんください。そしてその石室せきしつにはひつて見みられたならば、一番いちばん小ちひさいどるめんでも、どれだけの大おほいさであるかゞわかり、從したがつて大おほきいものはどれほどあるかを想像そう〲することが出來できませう。

またどるめんといふ墓はかやめんひるといふ立たて石いしなどには、をり〱圓まるや三角さんかくだのゝ形かたちを石いしの上うへに彫ほりつけたのがあつたり、ぽつ〱と大おほきなくぼみを彫ほり竝ならべたものがあります。それは何なにか宗教上しゆうきようじようの意味いみの現あらはしであらうと思おもはれます。ヨーロッパの地中海ちちゆうかいにあるマルタ島とうの大おほきな石いしの墓はか、あれはどるめんがだん〱進歩しんぽして複雜ふくざつな型かたになつたもので、ずいぶん珍めづらしいものゝ一ひとつであります。石いしの上うへにぽつ〱のくぼみが多おほくつけてあるので有名ゆうめいであります。その他た巨石記念物きよせききねんぶつといふものゝ中うちの風變ふうがはりのものは、やはり地中海ちちゆうかいのサルジニヤ島とうにあるねるげといふもので、これは石いしを圓まるくつみ上あげ根元ねもとは太ふとく、先さきほど少すこしづつ細ほそくなつてゐる塔とうのようなもので、他ほかの地方ちほうには見みることが出來できないものです。

(ニ)金屬きんぞくの發見はつけんと使用しよう

人類じんるいは前まへに述のべましたとほり、長ながい年月としつき、石いしをもつて器物きぶつを造つくつて、金屬きんぞくを使用しようすることを知しらなかつたのでありますが、その間あひだに自おのづと天然てんねんに石いしの間あひだに混入こんにゆうしたり、あるひは砂すなの中なかに轉ころがつてゐる金屬きんぞくなどを知しり、遂つひにはそれを使用しようするようになつて來きました。そしてそれらの金屬きんぞくをもつて造つくつた器物きぶつの方ほうが、石いしで造つくつたものよりは工合ぐあひのよいことを知しつてからは、だん〱石いしの代かはりに金屬きんぞくで造つくるようになりました。さて金屬きんぞくの中うちで一番いちばん早はやく發見はつけんされたのはなんであるかと申まをしますと、金きんと銅どうと鐵てつの三種さんしゆであつたようであります。しかし金きんは綺麗きれいで裝飾そうしよくにはなりますが、質しつが軟やはらかくて刃物はものなどにしては實際じつさいの役やくに立たちません。それで銅どうと鐵てつの二ふたつの中うち、いづれかゞ使用しようされることになりましたが、果はたしてどちらが先さきに使用しようされたかについては今いまなほ議論ぎろんがあります。一方いつぽうには鐵てつの方ほうが地中ちちゆうから掘ほり出だすことが容易よういでありますから、早はやくから使つかはれたとの説せつがありますし、また一方いつぽうにはエヂプトのごく古ふるい時代じだいに、もう鐵てつが發見はつけんされてゐたといふこともありますが、實際じつさいのところ今日こんにち遺のこつてゐる種々しゆ〲な器物きぶつから考かんがへますと、銅どうと錫すゞとの合金ごうきんである青銅せいどうが、一番いちばん早はやく石いしに代かはつて廣ひろく使用しようされることになつたといふべきでありませう。

それならば、その銅どうは最初さいしよどこで發見はつけんされたかといふに、それはやはりはっきりわかりませんが、とにかくアジアの西方せいほうにおいてまづ盛さかんに使用しようされたし、それが南みなみヨーロッパに入いり、遂つひには中央ちゆうおうヨーロッパから北きたヨーロッパにだん〲廣ひろがつて行いつたといふことだけは確たしかにわかるのであります。この銅どう、あるひは青銅せいどうを使つかつた人間にんげんは、前まへに申まをした新石器時代しんせつきじだいの人類じんるいとやはり同おなじ人種じんしゆで、石いしで造つくつた斧をののような器物きぶつを、初はじめはそれと同おなじ形かたちに金屬きんぞくをもつて造つくつたのでありますが、それがだん〱使用しように便利べんりな形かたちにかへて行いつたのです。また銅どうに錫すゞをまぜると鑄ゐるのに容易よういで、しかも堅かたくつて丈夫じようぶであるといふことも、最初さいしよは偶然ぐうぜんに知しつたらしいのでありますが、幾度いくどかの經驗けいけんで銅どう九分くぶに錫すゞ一分いちぶをまぜあはすと、器物きぶつとしてはつごうが良よいことをも知しつたので、青銅器時代せいどうきじだいの終をはり頃ごろには、混合こんごうの歩合ぶあひがたいていこのわりあひになつてをります。かのエヂプトの進すゝんだ文明ぶんめいも使用しようした器物きぶつからいへば、青銅せいどうを一般いつぱんに多おほく用もちひてゐます。またギリシヤの文明ぶんめいの開ひらける前まへに、クリートの嶋しまやその附近ふきんにおいて發達はつたつした文明ぶんめいも、やはり青銅器せいどうきの時代じだいに屬ぞくするのでありました。ヨーロッパでは南みなみの方ほうには早はやく鐵てつがはひつて來きましたが、北方ほつぽうのデンマルクやスエーデンやノールウエなどでは、鐵てつのはひつて來くるのが大分だいぶ遲おそかつたがために、かへって青銅せいどうで器物きぶつを造つくることが發達はつたつして、すばらしい青銅器せいどうきが多おほく出來できてゐます。御覽ごらんなさい、この壁かべにかけてある青銅器せいどうきを見みて行ゆきますと、初はじめは石いしの斧をのから同おなじ形かたちの銅どうの斧をのになり、それがだん〲進歩しんぽして柄えを差さし込こむところが出來できたり、また短みじかい三角さんかくの劍つるぎが長ながく平ひらたい劍つるぎにと、進すゝんで行いつたところがよくわかるでありませう。(第三十三圖だいさんじゆうさんず)

〔図〕fig18371_34.png第三十三圖 ヨーロツパ青銅器横×縦

第三十三圖 ヨーロツパ青銅器

(1)斧

(2)斧

(3)短劍

(4)鉾

(5)長劍

(6)刀

(7)鏃

(8)腕輪

(9)留針

この青銅器せいどうきの時代じだいは、ヨーロッパばかりでなく、アジアにもありました。支那しなでは周しゆうから漢かんの時代頃じだいごろまでは、青銅せいどうが重おもに使用しようされたのでありますが、その青銅せいどうは支那人しなじん自分じぶんで發明はつめいしたものか、また西方せいほうの國くにから傳つたはつたのであるかどうかは、まだ十分じゆうぶんに研究けんきゆうされてをりません。

ところが、人間にんげんが青銅せいどうを使つかつてゐる間あひだに、鐵てつの方ほうが銅どうよりも堅かたくて刃物はものなどにはつごうの好よいことを知しつて來きたので、遂つひに青銅せいどうに代かはつて鐵てつが用もちひられるようになりました。これから後のちを鐵器時代てつきじだいといふのでありますが、ヨーロッパでは鐵器時代てつきじだいの最もつとも古ふるい時代じだいをハルスタット時代じだいと稱しようします。それはオウストリヤのハルスタットといふ所ところの古墳こふんから掘ほり出だされた鐵器てつきが、よくその特徴とくちようを現あらはしてゐたので、さういふ名なをつけたのであります。それから少すこし後のちのヨーロッパの鐵器時代てつきじだいを、私共わたしどもはラテーヌ時代じだいと呼よんでゐますが、これはスヰスのある土地とちの名なでありまして、そこから掘ほり出だされたものが代表的だいひようてきのものとせられてゐるからであります。かのギリシアの文明ぶんめいも、鐵器時代てつきじだいのものでありまして、今いまから三千年程前さんぜんねんほどまへに鐵てつがギリシアにはひつて來きて、前まへの青銅器時代せいどうきじだいの文明ぶんめいに代かはつて新あたらしく立派りつぱな文明ぶんめいをつくり出だしたのであります。しかし鐵てつが初はじめて用もちひられた頃ころは、銅どうばかり使つかつてゐた前まへの時代じだいよりは必かならずしも文明ぶんめいが進すゝんでゐたといふことは出來できません。前まへに申まをしましたとほり、かの立派りつぱなエヂプトの文明ぶんめいも、クリート嶋とうにあつたギリシア以前いぜんの非常ひじように進すゝんだ文明ぶんめいも、皆みな青銅せいどうの時代じだいに屬ぞくしてゐることを忘わすれてはなりません。そしてこの青銅器せいどうきから鐵器てつきの時代じだいにおける文明ぶんめいの話はなしになりますと、皆みなその國々くに〲によつて皆みな異ことなつた形かたちで現あらはれてをりまして、もう歴史以後れきしいごの時代じだいに入いりますので、それらの時代じだいに出來できた品々しな〲を悉こと〲くこの博物館はくぶつかんに竝ならべることはとうてい出來できません。それはまた別べつの博物館はくぶつかんに陳列ちんれつしてありますから、皆みなさんはそこに行いつて見みて下ください。

それで、私共わたしどもは、これから西洋せいようやその他た外國がいこくのものはこれだけにして、日本につぽんで出でた石器時代せつきじだいからの古ふるい品物しなものを見みに行ゆくことにいたしませう。しかしちょっとお庭にはへ出でて、私わたしはたばこを一いつぷくのみ、皆みなさんも一休ひとやすみといたしませう。

第三、考古博物館の卷(下)

一、日本先史時代室につぽんせんしじだいしつ

(イ)日本につぽんの石器時代せつきじだい

さぁこれからは西洋せいようの品物しなものでなく、私わたしどもの生うまれた日本につぽんの國くにの古ふるい時代じだいの品物しなものを見み、そのお話はなしをするのです。ところが今いままで述のべましたような石器時代せつきじだいからだん〲金屬器きんぞくきの時代じだいに、人類じんるいの進歩しんぽして行いつた順序じゆんじよは、日本につぽんにおいても西洋せいようと同おなじようになつてゐるのです。けれども、初はじめに話はなしました一いちばん古ふるい舊石器時代きゆうせつきじだいといふ時代じだいは、日本につぽんにもあつたかも知しれないが、今日こんにちまでその遺物いぶつが少すこしも見みつかつてをりません。それゆゑ今いままでのところでは、日本につぽんで一番いちばん古ふるいのは、新石器時代しんせつきじだいのものでありまして、それから金屬器きんぞくきの時代じだいにつゞいてゐるのであります。

さて日本につぽんはいつ頃ごろまで石器時代せつきじだいであつたかと申まをしますに、よくはわかりませんが、少すくなくとも今いまから二千年程前にせんねんほどまへまで石器せつきの使用しようが殘のこつてゐたようであります。そして、その前まへの千年間せんねんかんぐらゐも石器時代せつきじだいであつたかと思おもはれますけれども、そのへんのことになると、殘念ざんねんながら年數ねんすうを明あきらかにすることが出來できません。

日本につぽんでも昔むかしから百姓ひやくしようが土地とちを耕たがやしたり、山やまが崩くづれたりした時とき、ひょっこり石器せつきの發見はつけんされたことが屡々しば〱ありましたが、昔むかしはそれらの石器せつきを人間にんげんが造つくつたものとは思おもはないで、石いしの斧をのを見みて雷神らいじんが落おとしたものであるとか、あるひは石いしの矢やの根ねを見みては神樣かみさまが戰爭せんそうした時ときの矢やであると考かんがへたり、あるひは自然しぜんに出來できたものであると信しんじたりしてゐました。

〔図〕fig18371_35.png第三十四圖 木内石亭翁横×縦

第三十四圖 木内石亭翁

もっともかように考かんがへたのは日本につぽんばかりでなく、西洋せいようでも支那しなでも昔むかしはみな同おなじように思おもつてゐたのでありました。またこの不思議ふしぎな石いしをよせ集あつめる物好ものずきな人ひとがあつて、中なかにずいぶんたくさん集あつめた人ひともありました。中なかにも有名ゆうめいなのは、今いまから百年ひやくねんばかり前まへに、近江あふみに木内石亭きのうちせきていといふ人ひとで、これらの人達ひとたちも多おほく集あつめてゐる間あひだに、これは天狗てんぐの使つかつたものだとか神樣かみさまのものとかではなくて、人間にんげんが昔むかし使用しようしたものであらうと考かんがへ出だして來きました。また新井白石あらゐはくせきのような偉えらい學者がくしやは、これは昔むかし北海道ほつかいどうから樺太からふとに棲すんでゐた肅愼しゆくしんといふ民族みんぞくが使用しようしたものであらうと考かんがへ、百年ひやくねんほど前まへに日本につぽんへ來きたシーボルドといふ西洋人せいようじんは、これは昔むかしのアイヌ人じんが使つかつたものだらうといつてをりました。

〔図〕fig18371_36.png第三十五圖 モールス先生横×縦

第三十五圖 モールス先生

しかし、この石器せつきが人間にんげんの使つかつたものであり、また、かような石器せつきを使つかつた人間にんげんが日本につぽんのこゝかしこにも棲すんでゐたといふことを、現場げんじようを掘ほつて研究けんきゆうし、本當ほんとうによくわかつて來きたのは新あたらしいことであります。それは今いまから五十年程前ごじゆうねんほどまへに、アメリカから日本につぽんの大學だいがくの教授きようじゆになつて來きたモールスといふ先生せんせいが、初はじめてわれ〱に教をしへてくれたのであります。この先生せんせいは動物學者どうぶつがくしやでありまして、日本につぽんへ來くる前まへに、アメリカのフロリダといふ所ところで石器時代せつきじだいの貝塚かひづかを掘ほつた經驗けいけんがあり、その方面ほうめんの學問がくもんにも詳くはしい人ひとでありました。明治十二年めいじじゆうにねんに船ふねで横濱よこはまに着つきまして、その頃ころ出來できてゐました汽車きしやで東京とうきようへ行ゆく途中とちゆう、汽車きしやの窓まどからそこら邊へんの風景ふうけいを眺ながめてをりました。ところが大森驛おほもりえきの附近ふきんにおいて線路せんろの上うへに白しろい貝殼かひがらが多おほく散亂さんらんしてゐるのを見みつけまして、これはきっと石器時代せつきじだいの貝塚かひづかがあるのに違ちがいないと思おもひ、それから間まもなくこの大森おほもりへ發掘はつくつに出でかけました。果はたしてそれは貝塚かひづかでありまして、石器せつきや土器どきが多數たすうに出でて來きたのです。これが日本につぽんにおいて貝塚かひづかを研究けんきゆうするために發掘はつくつした最初さいしよであります。モールス先生せんせいは、三四年前さんよねんぜんアメリカで亡なくなられましたが、近頃ちかごろこの大森おほもりに先生せんせいの記念碑きねんひが建たてられました。このモールス先生せんせいの弟子達でしたちや、またその後ごに出でて來きた學者達がくしやたちが、熱心ねつしんに東京附近とうきようふきんの貝塚かひづかを調査ちようさいたしまして、石器時代せつきじだいの事柄ことがらを研究けんきゆうしたのでありますが、中なかでも今いまから十數年前じゆうすうねんまへに歿ぼつせられました、東京帝國大學とうきようていこくだいがくの教授きようじゆであつた坪井正五郎博士つぼゐしようごろうはかせは、最もつとも熱心ねつしんに研究けんきゆうされたのであります。私わたしなども中學生ちゆうがくせいの時分じぶんから、坪井先生つぼゐせんせいの教をしへを受うけ、それから一いつそうこの學問がくもんが好すきになつたのであります。

〔図〕fig18371_37.png第三十六圖 坪井正五郎先生横×縦

第三十六圖 坪井正五郎先生

今日こんにちでは日本全國につぽんぜんこくの到いたる處ところ、北きたは樺太からふと北海道ほつかいどうから本州全體ほんしゆうぜんたい四國しこく九州きゆうしゆう、西にしは朝鮮ちようせん、南みなみは臺灣たいわんまで、どこでも石器時代せつきじだいの遺蹟いせきの發見はつけんされぬところはありません。そして三千年さんぜんねん五千年ごせんねんの前まへから日本につぽんの島々しま〲には人間にんげんが棲すんでゐて、石器時代せつきじだいの文明ぶんめいを長ながくつゞけてゐたといふことがわかつて來きたのであります。われ〱の祖先そせんは、支那しなから進すゝんだ文明ぶんめいを傳つたへて今日こんにちの日本につぽんを建設けんせつして來きたのでありますけれども、その元もとはやはり石器せつきを使用しようした文明ぶんめいの上うへに築きづきあげられたものにほかならぬのであります。それでは日本につぽんにおいて石器せつきを使つかつてゐた人間にんげんは、われ〱の祖先そせんであるか、または別べつな人種じんしゆであるかといふことになりますと、これはなか〱むつかしい問題もんだいでありますが、この石器時代せつきじだいの墓はかから出でた人骨じんこつを調しらべますと、今日こんにち北海道ほつかいどうに遺のこつてゐるアイヌに似にた性質せいしつの骨ほねもありますが、またむしろ今日こんにちの日本人につぽんじんに近ちかく、アイヌとは大分だいぶ違ちがつた骨ほねもありますので、その時代じだいから日本につぽんの各地かくちには少すこしづゝ變かはつた體からだの人間にんげんが棲すんでゐたことがわかります。それで一方いつぽうは、大體だいたい現在げんざいのアイヌに近ちかい體質たいしつをもつてゐた人間にんげんが石器せつきを使つかつてゐたと同時どうじに、またわれ〱の祖先そせんもまた石器せつきを使つかつてゐたといふことも疑うたがふ餘地よちがありません。もっとも朝鮮ちようせんと臺灣たいわんの石器時代せつきじだいは、日本内地につぽんないちの方ほうとはまったく異ことなつた、別べつの種族しゆぞくが棲すんでゐたことは注意ちゆういを要ようします。

(ロ)貝塚かひづか、墓地ぼちなどの遺跡いせき

日本につぽんの各地かくちで石器せつきが多數たすうに發見はつけんされるといふことは、たゞ今いま述のべたとほりでありますが、それは一體いつたいどういふところから出でるかと申まをしますと、種々しゆ〲ありますが、その中うち一いちばん多おほいのは、ヨーロッパのデンマルクなどにあるのと同おなじ貝塚かひづかからであります。貝塚かひづかといふのは、前まへにも申まをしたとほり、昔むかしの人ひとが海岸かいがんだとか、あるひは湖邊こへんだとかに棲すんでゐて、平常へいじよう食くつてゐた貝殼かひがらやその他たの不用物ふようぶつをすてた掃はき溜だめの跡あとであります。貝塚かひづかは今日こんにち、海うみから遠とほく離はなれてゐるものが多おほいのですが、昔むかしは海岸かいがんに近ちかくあつたのです。これらの貝塚かひづかの廣ひろさは、大おほきなのになると一町歩以上いつちようぶいじようのものもあつて、貝殼かひがらのつもつた厚あつさは數尺以上すうしやくいじように達たつしてをります。ことに臺地だいちの端はしだとか、斷崖だんがいの場所ばしよは十數尺じゆうすうしやくの厚あつさに及およんでゐるものさへあります。また貝塚かひづかは東京附近とうきようふきんから東海道とうかいどう、山陽道さんようどう、九州きゆうしゆうその他た海うみに近ちかい地方ちほうには、日本國中につぽんこくじゆう到いたる處ところに發見はつけんせられます。そしてまた海岸かいがんばかりでなく、湖水こすいの傍そばなどにも淡水産たんすいさんの貝殼かひがらで出來できてゐる貝塚かひづかがあるのであります。遠江とほたふみの蜆塚しゞみづかなどはその一例いちれいで、蜆しゞみの貝殼かひがらなどがあるので、こんな名ながつけられたのです。一體いつたい貝類かひるいは動物中どうぶつちゆうで比較的ひかくてき早はやく形かたちを變かへやすいものでして、蜆しゞみでも昔むかしのものは今日こんにちよりは形かたちも大おほきかつたのです。螺ばいでも昔むかしと今いまは角度かくどが幾分いくぶん相違そういしてゐるようですし、赤貝あかゞひでも線せんの數かずが少すこし變かはつてゐるといふようなことが、貝塚かひづかの貝殼かひがらを調しらべて見みればわかります。また貝塚かひづかから發見はつけんされた貝かひで、今日こんにちもはやその近海きんかいにゐなくなつたものもありますが、これらの研究けんきゆうは考古學こうこがくの範圍はんいではなく、動物學者どうぶつがくしやまたは貝類學者かひるいがくしやの研究けんきゆうに屬ぞくするのでありますが、皆みなさんが貝塚かひづかに出でかけたならば、種々しゆ〲異ことなつた種類しゆるいの貝殼かひがらを採集さいしゆうして來くる必要ひつようのあることを忘わすれてはなりません。

それから貝塚かひづかの次つぎには、貝殼かひがらは見當みあたらぬけれどもやはり人間にんげんの住居じゆうきよした跡あとと見みえて石器せつきやその他たの遺物いぶつが土中どちゆうに挾はさまつてゐる所ところがありまするし、またそれをその後ご百姓ひやくしようが掘ほり返かへし、田畑たはたの表面ひようめんに石器せつきや土器どきの散亂さんらんしてゐる所ところがあります。皆みなさんが、もしさういふ所ところへ行いつたならば、石いしの斧をのや石いしの矢やの根ねなどの落おちてゐるのを拾ひろふことが出來できるのでありますが、昔むかしはたくさんにありましたけれど、近頃ちかごろは百姓達ひやくしようたちも石器せつきであることを知しるようになり、自分じぶんで拾ひろひ取とつてしまひますし、またそれを集あつめに行ゆく人ひとも多おほくなつたので、容易よういに拾ひろふことが出來できなくなりました。この貝塚かひづかの附近ふきんだとか、石器時代せつきじだいの人ひとが棲すんでゐた跡あとを發掘はつくつする時ときは、をり〱石いしでもつて取とり圍かこんだ爐ろの跡あとだとか、または小屋こやを建たてた時ときの柱はしらを植うゑ込こんだ跡あとだとかゞ圓まるく竝ならんでゐることがあります。しかしその小屋こやの柱はしらだとか屋根やねなどは朽くちやすいもので造つくつてあつたから、今日こんにちではまったく遺のこつてゐません。それらは今日こんにちでも田舍ゐなかにおいて見みかけます物置ものおきとか、肥料入ひりよういれの納家なやのような簡單かんたんな小屋こやがありますが、まあ、それと大たいした相違そういのない程度ていどのものと思おもはれます。

ヨーロッパでは舊石器時代きゆうせつきじだいに氣候きこうが非常ひじように寒さむかつたので、洞穴ほらあなの中なかに人間にんげんが棲すんでゐたことがありました。日本につぽんでも新石器時代しんせつきじだいに棲すむのに適當てきとうな洞穴ほらあなのあるところでは、やはりその中なかに住居じゆうきよしたことがないではありません。例たとへば越中えつちゆう氷見ひみの大洞穴だいどうけつの中なかには、今いまは小ちひさい社やしろが祀まつられてありますが、その穴あなの中なかから石器時代せつきじだいの遺物いぶつがたくさんに出でて來きました。その他ほかにも各地かくちでかような洞穴ほらあなは發見はつけんされましたが、山腹さんぷくに當あたつて二三尺にさんじやくぐらゐの穴あなが竝ならんで設まうけられてゐるいはゆる横穴よこあなといふもの、これは石器時代せつきじだいのものでなく、もっと後のちの時代じだいの墓はかでありますから、これは後のちにお話はなしをすることにいたします。

しかし石器時代せつきじだいの人間にんげんもお墓はかを造つくりました。たゞそれは今いま申まをしました横穴よこあなでもなく、また高たかい塚山つかやまを築きづくのでもなく、普通ふつうは貝塚かひづかのある所ところ、あるひは人間にんげんの住居じゆうきよの附近ふきんに、土地とちを二三尺にさんじやく掘ほつてそこに死體したいを埋うづめて置おいたのです。そして墓標ぼひようのようなものを造つくつたかも知しれませんが、それも現在げんざいでは何なにも遺のこつてゐませんからわかりません。それゆゑ私共わたしどもが貝塚かひづかを掘ほつたり石器せつきの散ちらばつてゐる所ところを掘ほつてゐますと、その下したから石器時代せつきじだいの人間にんげんの骨ほねが出でて來くるので、初はじめてそこが墓地ぼちであつたことが知しられるのであります。このような墓場はかばも今いまから十年前じゆうねんぜんまではよくわからなかつたのでありますが、だん〲わかつて來きて各地かくちにおいて續々ぞく〱發見はつけんされてまゐりました。陸前りくぜん松島まつしまの宮戸島みやとじまだとか、三河みかはの吉胡よしこだとか、河内かはちの國府こふだとか、備中びつちゆうの津雲つぐもだとか、肥後ひごの阿高あこうなどでは、ずいぶんたくさん人間にんげんの骨ほねが出でて、ある一ひとつの場所ばしよからは百體ひやくたい三百體以上さんびやくたいいじようの骨ほねが、一間いつけんほどの距離きよりを置おいて竝ならんでゐるといふようなあり樣さまであります。石器時代せつきじだいの墓場はかばがあり〱とこの世よの中なかに現あらはれたわけで、發掘はつくつに行いつた私共わたしどもも實じつに驚おどろいたものでした。そして、それらの人間にんげんの骨ほねはほとんど完全かんぜんに、指先ゆびさきの骨ほねまで遺のこつてゐる場合ばあひがすくなくないのであります。かへって後のちの時代じだいの大おほきな古墳こふんで、石棺せきかんの中なかに入いれた人間にんげんは骨ほねまで腐くさつてゐるのが普通ふつうでありますのに、この棺桶かんをけもなく土中どちゆうに埋うづめた人間にんげんの骨ほねが、よく遺のこつてゐるのは一見いつけん不思議ふしぎに感かんぜられますが、それは棺かんの中なかは空氣くうきが侵入しんにゆうして腐くさり易やすいが、直接ちよくせつに土中どちゆうに埋うづめる時ときは空氣くうきが入いり難にくいので、かへってよく保存ほぞんされるのであります。

〔図〕fig18371_38.png第三十七圖 日本石器時代遺跡横×縦

第三十七圖 日本石器時代遺跡

(1)貝塚(肥後轟)

(2)墓地(備中津雲)

この石器時代せつきじだいの人間にんげんは、どういふふうにして葬はうむつたかといふに、足あしをまげて膝ひざを體からだに着つけ、跪ひざまづいたような形かたちをして埋うづめたのが普通ふつうでありまして、體からだを伸のばして埋うづめたのは至いたつて稀まれです。中なかには胸むねのあたりに大おほきい石いしを置おいたものもあります。この體からだをまげて葬はうむるのは日本につぽんばかりでなく、ヨーロッパでも石器時代せつきじだいに行おこなはれてをりますし、今日こんにちの野蠻人やばんじんの中なかにもまたそれが見出みいだされますが、それは多分たぶん死しんだ者ものが再ふたゝび生いき返かへつて來きて、その靈魂れいこんが生いきてゐる人間にんげんに惡わるいことをしないために、足部そくぶをまげて縛しばるといふことがあつたものと考かんがへられるのであります。また石器時代せつきじだいのごときまだ開ひらけない時代じだいでも、親子おやこの情愛じようあいといふものは今日こんにちと變かはりはなかつたのですから、幼兒ようじの死體したいでもけっして捨すてゝはありません。赤子あかごや兒童じどうの死體したいは、大おほきい土器どきの壺つぼに入いれて特別とくべつに葬はうむつてある場合ばあひが多おほいのです。また松島まつしまでは、老母ろうぼと少女しようじよとが抱だき合あはせて葬はうむつてありましたが、これは定さだめし祖母そぼと孫娘まごむすめとが同時どうじに病死びようししたものを葬はうむつたものと思おもはれます。そしてその少女しようじよの頸くびには小ちひさい石いしの玉たまを珠數じゆずにして飾かざつてありました。なんといぢらしいことではありませんか。

私共わたしどもは、かような墓地ぼちを發掘はつくつして、その時分じぶんの人々ひと〲がどんな宗教上しゆうきようじようの考かんがへをもつてゐたかといふこともわかり、またその體からだにつけてゐた種々しゆ〲の裝飾そうしよくで、當時とうじの風俗ふうぞくを知しるばかりでなく、その骨ほねを調しらべて、どんな人種じんしゆに屬ぞくしてゐたかといふことが考かんがへられるのでありまして、それが今いまお話はなしした石器時代せつきじだいの人種じんしゆがなんであるかといふことの第一だいゝちの材料ざいりようとなるのでありますから、この墓地ぼちの研究けんきゆうは、貝塚かひづかなどよりも一いつそう大切たいせつなものになつて來くるのであります。

(ハ)石器せつきと骨角器こつかくき

日本につぽんの貝塚かひづかやその他たの石器時代せつきじだいの遺蹟いせきから發見はつけんされる石器せつきは非常ひじような數すうであつて、よくもこんなにたくさん石器せつきがあるものかと驚おどろくくらゐあります。なぜそんなに多おほくの石器せつきが遺のこつてゐるかといふに、その後ごの時代じだいに使用しようされた金屬きんぞくの器物きぶつになりますと、土つちの中なかで腐くさつてしまつてなくなつたり、あるひは腐くさつてゐないものは拾ひろつて他ほかの器物きぶつに造つくり直なほしたりするといふことがある上うへに、昔むかしの人ひとがはじめから石器せつきのように惜をし氣げもなく捨すてることをしなかつたのです。しかるに石器せつきは土つちの中なかにあつても腐くさることはなく、また他ほかの器物きぶつに改造かいぞうすることもほとんど出來できないのでありますから、昔むかしから石器せつきには餘あまり注意ちゆういする者ものがなかつたのであります。また石器時代せつきじだいの人ひとも一度いちど石器せつきが破損はそんした場合ばあひには、たいてい捨すてゝしまひ、これを改造かいぞうするようなことはなかつた。これが今日こんにち多おほくの石器せつきが發見はつけんされる理由りゆうの一ひとつでありまして、お蔭かげで私共わたしどもが皆みなさんと共ともに石器せつきを探さがしに行いつても、獲物えものがあるわけです。

石器せつきには種々しゆ〲の種類しゆるいがありますが、その棚たなに一ひとつ一ひとつ品物しなものの種類しゆるいによつて分類ぶんるいして竝ならべてありますから、これからだん〱それを見みて行ゆきませう。まづ第一だいゝちは斧をのの形かたちをしたものであります。これを石斧せきふと呼よんでゐますが、長ながさはたいてい五六寸ごろくすんあるひは二三寸にさんずんぐらゐのもので、形かたちは御覽ごらんのとほり長方形ちようほうけいであつて一方いつぽうの端はしを削けづつて鋭するどくしてありますが、たいていは兩面りようめんから磨みがいて、ちょうど蛤はまぐりの口くちのようになつてをります。ですから物ものを打うち切きるためには餘あまり良よく切きれるものとは思おもはれません。また刃先はさきが少すこし廣ひろがつて三味線さみせんの撥ばちのようになつてゐるのもあり、刃やいばを一方いつぽうからつけた鑿のみのような形かたちをしてゐるのもあります。それらの斧をのには横側よこがはに刳ゑぐりを入いれたものが多おほいのであります。これらの石斧せきふは皆みなよく磨みがいて滑なめらかに光ひかるように出來できて、非常ひじように精巧せいこうな造つくり方かたであります。中なかには長ながさが一寸いつすんぐらゐもない、小ちひさい美うつくしい石いしで造つくつた斧をのがありますが、それは實際じつさいの役やくに立たつものとは思おもはれません。多分たぶん大切たいせつな寶物ほうもつの類るいであつたのでせう。またこれとは反對はんたいに、一尺いつしやくにも近ちかい斧をのがありますが、これもまだどうも實用じつようには不適當ふてきとうです。おそらく寶物ほうもつか、あるひは石斧せきふを造つくる家いへの看板かんばんであつたかも知しれません。鑿のみのような刃やいばのついてゐる一寸いつすんぐらゐの小ちひさい石斧せきふもありますが、これは石斧せきふといふよりも、石鑿いしのみといつた方ほうが適てきしてゐるように思おもはれます。今いま申まをしたような石いしを磨みがいて造つくつた石斧せきふを私共わたしどもは磨製石斧ませいせきふといつてゐます。(第三十九圖だいさんじゆうくず)

〔図〕fig18371_39.png第三十八圖 石器製作の圖横×縦

第三十八圖 石器製作の圖

それからまた石斧せきふの中うちに、磨みがいて造つくらずして、たゞ石いしを打うちわつて造つくつたごく荒あらい粗末そまつな斧をのがあります。それには細長ほそながい短册型たんざくがたのものもありますが、時ときには分銅型ふんどうがたのものもあります。これを打製石斧だせいせきふといつてゐます。しかし打製石斧だせいせきふには實際じつさい物ものを切きるために役立やくだつ刃やいばがありません。それならば物ものを叩たゝく槌つちに使つかふものかといふに、それには餘あまり細工さいくが過すぎてゐるようにも思おもはれるので、果はたして何なにに使つかはれたものか頗すこぶる疑うたがはしいくらゐです。この打製石斧だせいせきふは、ある場所ばしよではずいぶんたくさんに出でます。今いまから二十年程前にじゆうねんほどまへに私共わたしどもが東京とうきようの西にし、武藏むさしの深大寺じんだいじといふ村むらの附近ふきんを歩あるくと、一時間いちじかんに何十本なんじつぽんとなく拾ひろひ得えられました。その村むらの小學校しようがつこうには、生徒達せいとたちが拾ひろつて來きた石斧せきふを、教室内きようしつないに竝ならべてある五六十ごろくじゆうの机つくゑの上うへに一いつぱい山やまのように竝ならべてあるのを見みました。その數かずは二千以上にせんいじようもあつて實じつに驚おどろいた次第しだいでありました。こんなにたくさん打製石斧だせいせきふのあるのは、あるひはこゝで石斧せきふの半製品はんせいひんを造つくつて、各地かくちへ輸送ゆそうしたものかも知しれないと思おもはれるのであります。かうした石斧せきふなどを探さがすのには、畑はたけに轉ころがつてゐる石いしを片端かたはしから調しらべて見みるとか、畑はたけの傍そばの小溝こみぞの中なかの石塊いしころとか、畦あぜに積つまれた捨すて石いしの中なかを熱心ねつしんに探さがすに限かぎります。しかし蛇へびだとか、蜥蜴とかげだとかゞ、石いしの間あひだから飛とび出だして驚おどろかされることがありますから、注意ちゆういしなければなりません。私わたしは九州きゆうしゆうへ旅行りよこうしました時とき、田圃たんぼの溝みぞの中なかに七寸しちすんぐらゐもある大おほきな磨製石斧ませいせきふが潜航艇せんこうていのように沈しづんでゐるのを發見はつけんして拾ひろひ取とつたことがありますが、こんなやつを探さがし當あてたときは非常ひじように愉快ゆかいです。一體いつたいこれらの石斧せきふを使用しようするときはどうしたかといひますのに、石いしのまゝ握にぎつて使つかつたものもありますが、木きの柄えを着つけた場合ばあひもありまして、稀まれには腐くさつた木きの柄えが附着ふちやくした石斧せきふを發見はつけんすることがあります。(第三十九圖だいさんじゆうくず5)

〔図〕fig18371_40.png第三十九圖 日本發見石器横×縦

第三十九圖 日本發見石器

(1)(2)打製石斧 (3)(4)磨製石斧 (5)石斧に柄をつけたもの (6)環状石斧 (7)有孔石斧

(8)ゑぐり入り石斧 (9)石庖丁 (10)石槍 (11)石匙 (12)石鏃 (13)磨製石鏃 (14)石錐

石斧せきふについでたくさんにあるのは、石いしの矢やの根ね(石鏃せきぞく)であります。石鏃せきぞくは磨製ませいもありますが、これは至いたつて數かずが少すくなく、出でる所ところも限かぎられてゐまして、たいていは打製だせいであります。燧石ひうちいしや黒曜石こくようせきや、安山岩あんざんがんの類るいで造つくつたものが多おほいのでありますが、時ときには水晶すいしようや瑪瑙めのうのような綺麗きれいな石いしで造つくつたものもあります。とにかく石鏃せきぞくは形かたちも小ちひさく可愛かわいらしいので、これを採集さいしゆうするのが一番いちばん愉快ゆかいであります。その形かたちにも種々しゆ〲變かはつたのがあつて、長ながい木この葉は形がたち、柳やなぎの葉はの形かたちのようなものや、三角形さんかくけいのものや、また二ふたつの脚あしのついたもの、その脚あしが長ながくなつてゐるもの、その他た兩股りようまたの間あひだに矢柄やつかを差さし込こむ脚あしのついたものといつたふうに、いろ〱の種類しゆるいがありますが、このうち兩脚りようあしの出でてゐるものは、一いつたんさゝると中々なか〱拔ぬきにくゝ、敵てきを殺ころすにつごうがよいので、主おもに戰爭せんそうに使つかはれたといふことです。アメリカなどから出でるような形かたちの非常ひじように異ことなるものや大型おほがたのものは日本につぽんでは餘あまり發見はつけんされませんが、たいてい一寸前後いつすんぜんごの大おほきさのものが普通ふつうであります。またこの棚たなに竝ならべてある柳やなぎの葉はの形かたちをした長ながさ三寸以上さんずんいじようもある石鏃せきぞくに似にた大形おほがたのものは、普通ふつう石槍いしやりといつてゐます。それから小形こがたで一方いつぽうが膨ふくれ、他たの一方いつぽうが尖とがつてゐるものがあります。それは石いしの錐きり(石錐せきすい)といふものです。また、石匙いしさじといふものがありますが、昔むかしの人ひとの天狗てんぐの飯匙めしさじといつてゐたものです。長ながい形かたちと横よこにひらたいものとがありますが、双方共そうほうともに一方いつぽうにつまみがあり、他側たがはは切きれるほど鋭するどくはありませんが、鈍にぶい刃はになつてゐます。現在げんざいの野蠻人やばんじんなどが、これと同おなじような器物きぶつを使つかつてゐるところから考かんがへますと、この石匙いしさじは獸けだものの皮かはを剥はぐために使用しようしたものに相違そういありません。獸けだものの皮かはと肉にくとの間あひだにある脂肪あぶらをごし〱とかき取とつて、皮かはを剥はいで行ゆくのです。(第四十圖だいしじゆうず)

〔図〕fig18371_41.png第四十圖 日本發見石器及び骨角器横×縦

第四十圖 日本發見石器及び骨角器

(1)(2)石棒 (3)石冠 (4)錘り石 (5)獨鈷石 (6)石皿 (7)雨だれ石 (8)骨針

(9)(10)骨鈷 (11)(12)(13)骨鏃 (14)(15)(16)骨製鈎針 (17)骨製浮孔口 (18)骨製弓筈

今いままで申まをしました石器せつきは、刃物はものか、それに類似るいじのものでありますが、なほ他ほかに刃物以外はものいがいのものもあります。その中なかでも面白おもしろいのは、石棒せきぼうです。これは五六寸ごろくすんから一尺いつしやくぐらゐの長ながさのものでありまして、圓まるい棒ぼうの頭あたまの所ところが膨ふくれてゐます。その膨ふくれたところに、種々しゆ〲模樣もようの彫ほつてあるものもあります。この棒ぼうの大おほきくないものは、手てに持もつた棍棒こんぼうかと思おもはれますが、太ふとくて大おほきなものには、とうてい持もつて振ふりまはすことの出來できないものがありますから、それは何なにか宗教上しゆうきようじようの目的もくてきに使用しようされたものだらうと思おもはれます。(第四十圖だいしじゆうず)

また錘石おもりいしといふのがあります。それは平ひらたい石塊いしころの上下じようげを少すこし打うち缺かいて紐絲ひもいとを懸かけるのに便利べんりにしてあるもので、網あみの錘おもりとか、機織はたおりに使用しようしたものかといはれてゐます。それから石皿いしざらといふものや、砥石といしのようなものもあります。(第四十圖だいしじゆうず)また石いしで造つくつた裝飾品そうしよくひんもありますが、その中なかには後程のちほど述のべようと思おもふ日本につぽんの私共わたしどもの祖先そせんが使つかつた勾玉まがたまの形かたちに似にた飾かざり物ものがあり、日本につぽんに出でない美うつくしい緑色みどりいろの石いし(硬玉こうぎよく)で造つくつたものが少すくなくありません。それらは當時とうじ支那しなから渡わたつた石材せきざいを取とり寄よせて、つくつたものと思おもはれます。またこの美うつくしい楕圓形だえんけいの石いしの眞中まんなかに、穴あなのあるものなどもあります。これらはみな裝飾品そうしよくひんと思おもはれますが、果はたしてどうして使つかつたものか、はっきりわかりません。かように、野蠻やばんな時代じだいでも美うつくしい石材せきざいを他たの地方ちほうから輸入ゆにゆうして使用しようしたことがあるばかりでなく、燧石ひうちいしだとか、黒曜石こくようせきのようなものでも、その地方ちほうに産さんしない場合ばあひは、他たの地方ちほうからこれを輸入ゆにゆうして使つかつたのであります。私共わたしどもは、この石いしの石質せきしつを調しらべることによつて、當時とうじの交通こうつうとか貿易ぼうえきの跡あととかをたどることが出來できるのでありますから、皆みなさんも石器時代せつきじだいの石いしの性質せいしつを調査ちようさすることが必要ひつようであります。(第四十一圖だいしじゆういちず)

〔図〕fig18371_42.png第四十一圖 日本石器時代裝飾品横×縦

第四十一圖 日本石器時代裝飾品

(1)(2)骨製腰飾り (3)骨製首飾り (4)(5)石製耳飾り (6)骨製飾り (7)骨製笄 (8)獣牙飾り (9)石製勾玉形 (10)土製飾り (11)貝輪

また石器時代せつきじだいといひましても、當時とうじの人間にんげんが用もちひてゐたものは、石器せつきばかりではなく、他たの材料ざいりようをもつて作つくつたものもないではありません。その主おもなるものは、かれ等らが食物しよくもつの材料ざいりようとして捕とらへた獸類じゆうるいの骨ほねや角つので作つくつた物ものであります。まづ石器せつきと同おなじような刃物はものの類るいをやはり骨ほねや角つので作つくるのでありますが、もっともこれを作つくるには石器せつきを用もちひたのでありませう。この骨ほねや角つのは石いしよりも軟やはらかいのでありますけれども、また一方いつぽうには石いしよりも強つよくてをれ易やすくないといふことがその特長とくちようであります。それがために物ものを突つき刺さしたり孔あなをあける錐きりの類るい、ことに毛皮けがはだとか織おり物ものだとかを、縫ぬつたり綴つゞり合あはせたりするためには、石いしの錐きりは堅かたくてもをれ易やすくてだめですから、それにはどうしても、骨ほねや角つのでつくつた錐きりに限かぎると思おもはれます。また魚さかなを釣つる時ときの釣つり針ばりだとか、魚さかなを突つき刺さす時ときの銛もりにも、骨ほねや角つので作つくつたものでなければ役やくに立たたないのでありまして、常陸ひたちの椎塚すいつかといふ貝塚かひづかからは、鯛たひの頭あたまの骨ほねに、骨ほねで作つくつた銛もりがさゝつたまゝ發見はつけんせられたのがありました。これで骨製こつせいの器物きぶつが漁業ぎよぎように用もちひられたことを證據立しようこだてゝをります。(第四十圖だいしじゆうず)

しかしこの骨角器こつかくきは、當時とうじにおいてはその數すうがたくさんあつたことでせうが、腐くさり易やすいために石器せつきのように今日こんにち多おほく遺のこつてをりません。それから、これら骨角器こつかくきによつて獸けだものの種類しゆるいを調しらべて見みますと、たいてい猪ゐのしゝと鹿しかのものであることがわかり、また貝塚かひづかから出でて來くる骨ほねや角つのの類るいを見みても、やはり猪ゐのしゝや鹿しかが主おもなるものであります。それから推おして石器時代せつきじだいの人間にんげんは貝かひや魚さかなの他ほかに、主おもに猪ゐのしゝだとか鹿しかだとかを狩かりして食料しよくりようにしてゐたことが知しられます。

また骨角器以外こつかくきいがいに貝殼かひがらで造つくつた器物きぶつもないではありませんが、それは主おもに裝飾そうしよくに用もちひられたもので、中なかでも一番いちばん多おほいものは貝かひの腕輪うでわであります。これはたいてい赤貝あかがひの類るいの貝殼かひがらを刳ゑぐり拔ぬき、その周圍しゆういばかりを殘のこして前腕まへうでにはめ込こむでので「はめ込むでので」はママありまして、石器時代せつきじだいの墓場はかばから出でる人骨じんこつに、この貝輪かひわがそのまゝ腕骨わんこつにはまつてゐるのをたび〱發見はつけんされました。中なかには一方いつぽうの腕うでに七なゝつ八やつつも貝輪かひわをはめてゐるのもありました。この貝輪かひわを腕うでにはめる風俗ふうぞくは、今日こんにちでも南洋なんようあたりの野蠻人やばんじんの間あひだに多おほく見受みうけられますが、たゞその貝輪かひわはその刳ゑぐり孔あながわりあひに小ちひさいので、掌てのひらを通とほして前腕まへうでにはめることは餘程よほど困難こんなんであつたことゝ思おもはれます。今日こんにち私共わたしどもが、その貝輪かひわをとつて前腕まへうでにはめようとすると容易よういにはまりませんが、これは今日こんにちでも南洋なんようあたりにあるように、うまく氣合きあひでもつて手てにはめ込こむ專門家せんもんかがあつたかと思おもはれます。このついでに他ほかの裝飾品そうしよくひんについて述のべますが、この時分じぶんの人ひとは耳みゝにも石いしや土つちで作つくつた大おほきな耳飾みゝかざりをつけたのでした。それは石いしの環かんの一方いつぽうが缺かけたような形かたちのものや、鼓つゞみの形かたちをした土製品どせいひんで、前まへに申まをした石器時代せつきじだいの墓場はかばから、よく人骨じんこつの耳みゝのあたりで發見はつけんされるのであります。(第四十一圖だいしじゆういちず)

(ニ)土器どきと土偶どぐう

日本につぽんの石器時代せつきじだいには土器どきが餘程よほど盛さかんに使用しようされてゐましたと見みえ、どの遺跡いせきにも多おほくの土器どきが發見はつけんされます。私共わたしどもが石器時代せつきじだいの遺蹟いせきを探さがすには、石器せつきに眼めをつけるよりも、田圃たんぼの中なかに散ちらばつてゐる土器どきの破片はへんを見みつけることが一番いちばんの早道はやみちだと思おもはれるくらゐであります。この土器どきも石器せつきと同おなじように、あるひは石器せつきよりもより以上いじように、一度いちど破損はそんした場合ばあひはとうてい修繕しゆうぜんが出來できない。もっとも時ときには大形おほがたの土器どきに罅ひゞがはひつたり破われたりした時とき、兩側りようがはに孔あなをあけて紐ひもで縛しばりつけたものがないではありませんが、多おほくは捨すてゝしまつたものと見みえ、遺のこつてゐる土器どきはたいてい破われ物ものであります。もっとも墓場はかばだとか、その他ほかの場所ばしよに完全かんぜんな土器どきが埋うづもれてゐることもありますが、私共わたしどもの發見はつけんするのは多おほくは破片はへんです。それは發掘はつくつする時とき、壞こはれるのでなくて、たいてい元もとから壞こはれてゐるのであります。

この當時とうじの土器どきは、まだ完全かんぜんな轆轤ろくろを使用しようしなかつたのでありますが、そのわりあひに形かたちもよく整とゝのつて、歪ゆがんだものなどは甚はなはだ稀まれであり、かなり巧たくみに造つくられてゐるように思おもはれます。それはおそらく平ひらたい籠かごのようなものゝ上うへで、まはしながら作つくつたのでせう。その頃ころにはすでに土器どきを造つくる專門せんもんの技術者ぎじゆつしやもゐたのでせうけれども、後のちの時代じだいのようにたくさんの土器どきを一時いちじに製造せいぞうするようなことは少すくなかつたらしく、粗末そまつな仕入しいれものと見みられるものは甚はなはだ稀まれであります。それで形かたちや模樣もようなども同おなじものが少すくなく、一ひとつ〱違ちがつてゐるのが普通ふつうでありますが、この時分じぶんには、まだ土器どきを燒やく窯かまどが知しられてゐなかつたと見みえ、後のちの時代じだいのように綺麗きれいな色いろに出來できてをりません。素燒すやきでありますけれども、黒くろずんだ茶色ちやいろで爐ろに燻いぶされたのが多おほいのです。そしてその土つちの質しつも細こまかい砂すなや、時ときには大粒おほつぶの砂すながまじつてゐるために平均へいきんしてをりません。これら土器どきの形かたちは、その棚たなに竝ならべてあるように、非常ひじように種類しゆるいが多おほいのでありまして、後のちの時代じだいや今日こんにちのものと比くらべて、かへって變化へんかが多樣たようを極きはめてゐるのには寧むしろ驚おどろかされます。たゞ皿さらの類るいは餘あまり見當みあたりませんが、鉢はち、壺つぼ、土瓶どびん、急須きゆうすのたぐひから香爐型こうろがたのものなどがあつて、それに複雜ふくざつな形かたちの取手とつてや、耳みゝなどがついてをり、模樣もようはたいてい繩なはや莚むしろの型かたを押おしつけその上うへに曲線きよくせんで渦卷うづまきだとか、それに類似るいじの模樣もようがつけてありますが、時ときには突出とつしゆつした帶おびのような裝飾そうしよくをつけたものもあります。ごく珍めづらしい例れいではありますが、赤あかい繪えの具ぐで塗ぬつたものさへ見みかけられるのであります。しかし燒やき方かたはどれも軟やはらかい質しつですから、水みづを入いれるとたいていは浸しみ出だします。それには當時とうじの人ひとも定さだめし困こまつたこともあらうと思おもはれますが、今日こんにちのように美うつくしい座敷ざしきがあつて疊たゝみの上うへにゐるわけではなく、少すこしぐらゐは水みづがしみ出だして濡ぬれたとて、さう困こまるようなことはなかつたでせう。ところが、この土器どきを長ながく使用しようしてゐるうちに水垢みづあかがついたり、魚さかなや獸けだものの脂あぶらがしみ込こんだりして、そのために水氣すいきもしみ出ださないようになりますので、當時とうじはおそらく新あたらしい土器どきよりも使つかひ古ふるされた土器どきの方ほうが大切たいせつがられたかも知しれません。(第四十二圖だいしじゆうにず)

當時とうじの土器どきの模樣もようは、地方ちほうによつて多少たしようの違ちがひがありますし、また時代じだいによつても變かはつて來きたようですから、それらを調しらべて見みることは面白おもしろいのであります。同おなじ日本につぽんの石器時代せつきじだいの人々ひと〲のお互たがひの交通こうつうとか、文化ぶんかの關係かんけいなどを知しるには、土器どきの模樣もようや形かたちなどを研究けんきゆうすることが必要ひつようであります。石器せつきは作つくり方かたやその形かたちもお互たがひに似にてゐて、ほとんど世界中せかいじゆう、その變かはりは少すくないのでありますから、文化ぶんかの關係かんけいその他たの研究けんきゆうには土器どきほどに役立やくだちません。ですから私共わたしどもは石器時代せつきじだいの遺蹟いせきに行いつても、土器どきを熱心ねつしんに採集さいしゆうし、小ちひさい破片はへんでも見遁みのがさぬように注意ちゆういしてをります。

〔図〕fig18371_43.png第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)横×縦

第四十二圖 日本石器時代土器(繩紋式)

それから、土器どきと同おなじく粘土ねんどで作つくつたものに土偶どぐうといふものがあります。すなはち土つちの人形にんぎようです。それはたいてい二三寸にさんずんから四五寸しごすんぐらゐの大おほきさのものが多おほく、時ときには一尺以上いつしやくいじようもあるのを見みかけますが、いづれも人間にんげんの形かたちそのまゝの寫生的しやせいてきのものでなくて、模樣風もようふうに一種いつしゆの型かたにはまつたものばかりであります。顏かほでも眼め鼻はな口くちと明あきらかに區別くべつされてゐないのが普通ふつうであります。男をとこと女をんなの別べつは現あらはされてゐますが、ことに女をんなの土偶どぐうがたくさんにありますのは、この時分じぶんには女をんなの神かみさまを崇拜すうはいしたゝめに造つくつたものだといふ學者がくしやもあります。とにかく、何なにか宗教上しゆうきようじようのために造つくつたもので、玩具がんぐではなかつたようです。もし玩具がんぐだつたら、人間にんげんの形かたちをそのまゝ寫うつしたものにしなければならないと思おもひます。土偶どぐうの他ほかに熊くまだとか猿さるだとかの獸類じゆうるいをつくつたものも稀まれには出でることがありますが、これは玩具がんぐと見みえて、よくその形かたちがそれらの動物どうぶつに似にてをります。とにかく日本につぽんの石器時代せつきじだいの土器どきは、外國がいこくの石器時代せつきじだいの土器どきに比くらべて、餘程よほど進歩しんぽし巧妙こうみように造つくられてをり、日本につぽんの石器時代せつきじだいの人間にんげんは、土器どきを造つくることが上手じようずでもあり、好すきでもあつたと思おもはれます。(第四十三圖だいしじゆうさんず)

〔図〕fig18371_44.png第四十三圖 日本石器時代土偶横×縦

第四十三圖 日本石器時代土偶

(1)(2)(3)土偶 (4)土假面 (5)熊形 (6)猿形 (7)(8)(9)土版

今いままで述のべた土器どきの話はなしは、主しゆとして關東かんとうから奧羽地方おううちほうにおいて出でる土器どきについて申まをしたのでありますが、關西地方かんさいちほう、あるひはその他たの地方ちほうから、少すこしくこれと違ちがつた種類しゆるいの土器どきが石器せつきと共ともに發見はつけんせられます。その石器せつきには餘あまり變かはりはありませんが、たゞ石庖丁いしほうちようだとか刳ゑぐりのある石斧せきふなどが、どちらかといふと多おほく出でて來きます。これは、前まへの黒くろずんだ色いろの土器どきとは異ことなつて、たゞの茶色ちやいろの土器どきです。(第四十四圖だいしじゆうしず)それは作つくる時ときの窯かまどが、前まへのものより進歩しんぽして、燒やく時ときに燻いぶされなかつたからでありまして、土器どきの製作法せいさくほうが一段いちだん進すゝんだものと見みられますが、その土器どきの形かたちからいひますと、前まへのものほど多おほくの種類しゆるいがありません。壺つぼとか鉢はちとかきまつた形かたちのものばかりでありまして、ことに壺つぼには尻しりの方ほうが、つぼんだ無花果いちじゆくのような形かたちをしたものが多おほいのです。また模樣もようはたいていありません。よしありましても、直線ちよくせんなどを細ほそく切きり込こんだもので、前まへに述のべた土器どきのように、曲線きよくせんだとか繩なはだとか莚むしろだとかの形かたちを押おしたものは見當みあたりません。一般いつぱんに形かたちや模樣もようは單純たんじゆんであつて、前まへのものほど複雜ふくざつでないといふことが出來できます。しかも同おなじ形かたちをした土器どきが同時どうじに多おほく出でて來きますところを見みますと、これらの土器どきは、今日こんにちのように工業的こうぎようてきに製造せいぞうせられたものと想像そう〲することが出來できます。私共わたしどもはこの種しゆの土器どきを彌生式土器やよひしきどきと呼よんでをりますが、それは最初さいしよ東京とうきよう本郷ほんごうの帝國大學ていこくだいがくの裏うらの所ところに當あたる彌生町やよひちようにあつた貝塚かひづかから出でた土器どきから名なを取とつたのです。これに對たいし前まへの形かたちの土器どきを繩文式土器じようもんしきどきと稱しようしてをります。かように二ふたつの土器どきの種類しゆるいがあつて、互たがひに違ちがつてゐるのは、これを作つくつた民族みんぞくの人種じんしゆが同おなじでないためでありまして、すなはち彌生式やよひしきの土器どきは、われ〱日本人につぽんじんの祖先そせんの石器時代せつきじだいのもので、繩紋式じようもんしきの土器どきは、アイヌの祖先そせんの石器時代せつきじだいのものであらうといふ人ひとがありますが、あるひはさうであるかも知しれません。また人種じんしゆは同おなじでも、新あたらしい文化ぶんかがはひつて來きたゝめに、土器どきに相違そういが出來できて來きたのかも知しれないのです。だん〱調しらべて行ゆきますと、この二ふたつの中なかほどのものも時々とき〲發見はつけんされるので、これを作つくつた人間にんげんに關かんする議論ぎろんはなか〱むつかしくなりますから、こゝではそれは止よしにいたします。

〔図〕fig18371_45.png第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)横×縦

第四十四圖 日本石器時代及び金石併用期土器(彌生式)

(ホ)朝鮮ちようせんと支那しなの石器せつき

さて今いままで、日本につぽんの石器時代せつきじだいの遺跡いせきと、そこから出でる品物しなものについて述のべて來きましたが、次つぎに日本につぽんに近ちかい支那しなや朝鮮ちようせんなどの石器時代せつきじだいは、どういふふうであるかといふことをこれから、少すこしくお話はなしいたしませう。また支那しな朝鮮ちようせんの石器時代せつきじだいの遺物いぶつを參考さんこうのためにこゝに竝ならべて置おきましたから、皆みなさん御覽下ごらんください。

朝鮮ちようせんでは、南方なんぽうからも北方ほつぽうからも石器時代せつきじだいの遺物いぶつが出でます。そしてこの國くにも、また古ふるい石器時代せつきじだいから開ひらけてゐたことがわかるのでありますが、日本につぽんに近ちかい南朝鮮みなみちようせんの邊へんには、日本につぽんの繩紋式土器じようもんしきどきに似にたような土器どきはほとんど發見はつけんせられません。どちらかといひますと、彌生式土器やよひしきどきに近ちかいものが出でまして、石器せつきも磨製ませいのもので、石斧以外せきふいがいに日本につぽんではめったに見みることの出來できない綺麗きれいに磨みがいた鋭するどい矢やの根ねや、また石いしの劍つるぎが出でて來きます。この土器どきも石器せつきも、日本につぽんのものは餘程よほど違ちがつたところがありまして、石器時代せつきじだいの末すゑ、金屬きんぞくが使用しようされるようになつた時代じだいのものかも知しれません。たゞ石斧せきふの中うちには、日本につぽんの各地かくちから出でるのと同おなじように、刳ゑぐりのはひつたものゝ出でることは注意ちゆういすべきでありませう。北朝鮮きたちようせんからは石器せつきも土器どきも出でますが、その土器どきは南朝鮮みなみちようせんのものとは少すこし違ちがつて、どちらかといふと日本につぽんの繩紋式土器じようもんしきどきに多少たしよう似にた、あらい線せんの模樣もようのあるのが出でるのであります。この南朝鮮みなみちようせんと北朝鮮きたちようせんとは、果はたして同一人種どういちじんしゆが遺のこしたものであるかどうかは、考かんがへなければならぬことでありまして、私共わたしどもはむしろ別べつの民族みんぞくが遺のこしたものかと思おもふくらゐであります。(第四十五圖だいしじゆうごず)

〔図〕fig18371_46.png第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器横×縦

第四十五圖 支那朝鮮新石器時代石器

(1)―(11)支那滿洲 (12)―(15)朝鮮 (16)支那(殷墟) (17)―(18)同上骨器

さて、支那しなにはひりますと、朝鮮ちようせんに近ちかい滿洲まんしゆうにも、旅順りよじゆんや大連だいれんあたりからも石器せつきが非常ひじように多おほく出でるのでありますが、石斧せきふの中なかには平ひらたくて孔あながあり、角かくばつた鑿のみのようなものがありまして、支那しなの内地ないちから出でるものと非常ひじようによく似にてゐるので、どうしてもこれは支那人しなじんの祖先そせんが使用しようしたものらしく思おもはれるのであります。土器どきはやはり日本につぽんの彌生式やよひしきに近ちかい種類しゆるいのものが普通ふつうでありまして、時ときには珍めづらしく、だんだら模樣もように彩色さいしきした美うつくしいものが出でることもあります。支那しなでは、また太ふとい三本脚さんぼんあしのついたれき(鬲)という形かたちの土器どきが出でますが、これは支那しなや支那しなの文化ぶんかの影響えいきようを受うけた地方ちほうに限かぎつて出でるのであつて、やはり滿洲まんしゆうからも出でます。支那内地しなないちの石器時代せつきじだいのことはまだよく調しらべがついてゐませんが、山東省さんとうしようや陝西省せんせいしようその他たからも石器せつきが出でて來きます。いまお話はなしした滿洲まんしゆうより出でるのと同おなじように、孔あなのあいた石斧せきふなどであります。土器どきでは三本脚さんぼんあしのれきなどでありますが、近頃ちかごろにいたつて河南省かなんしようや甘肅省かんしゆくしようあたりでは、墨色すみいろの繪えの具ぐで模樣もようを描かいた美うつくしい土器どきが、石器せつきと一いつしょにたくさんに發見はつけんされますが、これは石器時代せつきじだいの末期まつきにあつたものと思おもはれます。この土器どきは、滿洲まんしゆうから出でる彩色さいしきの土器どきとは違ちがつてゐて、餘程よほど西にしの方ほうの國くにから出でるものに似にてゐるところがありますから、古ふるく西方諸國せいほうしよこくの文明ぶんめいが支那しなへ入いりこんだものといふことが想像そう〲されて面白おもしろいものであります。(第四十六圖だいしじゆうろくず)

〔図〕fig18371_47.png第四十六圖 支那新石器時代土器横×縦

第四十六圖 支那新石器時代土器

(1)滿洲彩色土器 (2)鬲形土器 (3)甘肅彩色土器

支那しなでは、たゞ今いま申まをしたように新石器時代しんせつきじだいのものが出でるばかりではなく、その北方ほつぽう黄河こうがの流ながれが北きたへ曲まがつて、また南みなみへをれて來くるあたりでは、近年きんねん舊石器時代きゆうせつきじだいの古ふるい遺物いぶつが發見はつけんされるといふことでありますし、なほ北方ほつぽうのシベリヤの南部なんぶにおいても、舊石器時代きゆうせつきじだいのものが現あらはれて來きたところから見みますと、支那しなにも古ふるく舊石器時代きゆうせつきじだいから人間にんげんが棲すんでゐたことがわかるのであります。しかし、何分なにぶん支那しなは廣ひろい國くにでありますし、またその東部とうぶは大河たいがの流ながした泥どろだとか、風かぜが吹ふき送おくつてきた小ちひさい砂すなだとかゞつもつて、非常ひじようにそれが深ふかいために、その下したに石器時代せつきじだいのものがあるのですから容易よういに調しらべがつかず、今日こんにちまでよく知しられてをりません。それで、將來しようらいわれ〱が一いつしょう懸命けんめいに調しらべて行いつたら、きっと面白おもしろいことが發見はつけんされることゝ信しんじます。

それからもと支那しなの領地りようちであつて、今いまは日本につぽんの一部いちぶになつた臺灣たいわんにも石器時代せつきじだいの遺物いぶつが出でますが、支那しなから出でるものとよく似にてをります。しかし琉球りゆうきゆうのものになりますと、臺灣たいわんとは似にないで、日本内地につぽんないちの繩紋式土器じようもんしきどきと同おなじ性質せいしつの土器どきと一いつしょに出でるのであります。

以上いじよう述のべましたように、支那しなや朝鮮ちようせんの石器時代せつきじだいのものは、その土器どきの上うへから見みて、日本につぽんのものとは關係かんけいを有ゆうしてゐないようでありますが、たゞ彌生式土器やよひしきどきのようなものになつて始はじめて少すこし似にて來くるといふのでありますから、まづ石器時代せつきじだいには、日本につぽんは朝鮮ちようせんや支那しなとは獨立どくりつの發達はつたつをしてをつた民族みんぞくが住すんでゐたものと見みなければなりません。それが石器時代せつきじだいの終をはり頃ごろになつて、支那しな朝鮮ちようせんを經へて金屬きんぞくの器物きぶつを使つかふことが日本につぽんに傳つたへられまして、初はじめて日本につぽんと支那しなあたりの間あひだに深ふかい關係かんけいが生しようずるようになるのであります。それらを證據立しようこだてる品物しなものは、次つぎの室しつに竝ならべてありますから、そこへ行ゆくことにいたしませう。

(ヘ)青銅器せいどうきと銅鐸どうたく

今いままで申まをした日本につぽんの石器時代せつきじだいは、幾年いくねんほどつゞいたかといふことは、確たしかにはわかりませんが、けっして二百年にひやくねんや三百年さんびやくねんの短みじかい期間きかんではなくて、あるひは千年せんねんにも近ちかい長ながい間あひだのことゝ思おもはれます。そして石器時代せつきじだいの文明ぶんめいもだん〱進すゝんで來きましたが、ちょうど今いまから三千年さんぜんねんほど前まへに、お隣となりの支那しなでは周しゆうの末すゑから漢かんの初はじめにかけて、支那人しなじんの勢力せいりよくが非常ひじように盛さかんになつて、どし〱各地かくちへ植民しよくみんをしだしたと共ともに、今いままですでに用もちひてゐたところの金屬きんぞく、銅どうや青銅せいどうで造つくつた器物きぶつの使用しようが東亞とうあの諸國しよこくへ擴ひろめられることになりました。その結果けつか滿洲まんしゆうから朝鮮ちようせん日本につぽんに及および、それで日本につぽんも初はじめて支那しなの金屬きんぞくを傳つたへて、石器時代せつきじだいの文化ぶんかから金屬器時代きんぞくきじだいの文化ぶんかに進すゝむことになりました。それでは支那しなから日本につぽんへ金屬きんぞくが傳來でんらいしたことが、なぜわかるかといひますと、それはちょうどその頃ころ支那しなに出來できた古ふるい錢ぜにが、一いつしょに發見はつけんされるからであります。その古錢こせんは小刀こがたなの形かたちをした刀錢とうせんや鍬くはの形かたちをした布泉ふぜんといふものでありまして、それが周しゆうの終をはり頃ごろに出來できた錢ぜにであるといふので、年代ねんだいが確たしかにきめられるのであります。日本につぽんには滿洲まんしゆうや北朝鮮きたちようせんよりも少すこし後おくれて金屬きんぞくがはひつて來きたらしく思おもはれますが、それは今いまから二千年にせんねんほど前まへ支那しなの王莽おうもうの頃ころ出來できた貨泉かせんといふ錢ぜにが時々とき〲出でるのでわかります。しかし金屬きんぞくがはひつて來きたからとてすぐに今いままでの石器せつきを悉こと〲く捨すてゝ全部ぜんぶ金屬器きんぞくきを使つかふようになつたのではありません。金屬きんぞくも最初さいしよは分量ぶんりようが僅わづかで、貴重品きちようひんとせられてをつたのが、年としを經へてだん〱石器せつきに代かはつて行いつたのであり、初はじめは石器せつきと同時どうじに使用しようせられてゐたものに相違そういありません。かういふ時代じだいを私共わたしどもは金石併用期きんせきへいようきと呼よんでをります。

〔図〕第五十圖 支那古錢fig18371_48png横×縦

(1)明刀

(2)布泉

(3)五銖

(4)貨泉

(5)一刀錢

いま申まをしたように、日本につぽんへ青銅器せいどうきがはひつて來きたのは支那しなからでありまして、それは多分たぶん滿洲朝鮮まんしゆうちようせんの海岸かいがんを經へてはひつて來きたものと思おもはれますから、從したがつて日本につぽんでは一番いちばん西にしの九州きゆうしゆうに初はじめて傳つたはつたものと考かんがへられます。それがだん〱に東ひがしへ東ひがしへと進すゝんで行ゆきまして、五畿内地方ごきないちほうからその附近ふきんが金屬きんぞくを用もちひる時代じだいになりましたが、東北地方とうほくちほうにはその後ご長ながく、石器時代せつきじだいの文化ぶんかが殘のこつてゐたものと思おもはれます。

さて日本につぽんに、青銅せいどうが傳つたはつて、どういふものがまづ造つくられたかと申まをしますに、初はじめはむろん支那しなあたりで造つくられた品物しなものがそのまゝ持もつて來こられたものと見みえ、細ほそい形かたちの銅劍どうけんなどは支那しなのものとまったく同おなじものが日本につぽんからも出でて來きます。だん〱月日つきひの經へるに從したがつて日本につぽんでも青銅器せいどうきを造つくるようになつたのでありますが、材料ざいりようはやはり多おほくは支那しなから持もつて來きたものでありまして、時ときには支那しなから輸入ゆにゆうした古錢こせんを鑄ゐつぶして、他ほかの品物しなものを造つくつたかも知しれません。今いまでは銅貨どうかは補助貨幣ほじよかへいでありまして、本當ほんとうの價値かちだけ重分量じゆうぶんりようをもつてをりませんけれども、昔むかしは支那しななどでは、銅貨どうかが主おもな貨幣かへいでありましたから、地金じがねと同おなじだけの價値かちがあつたのです。ですからそれを地金じがねとして鑄ゐつぶしたのはむりではないと思おもはれます。日本につぽんで最初さいしよ造つくられた銅器どうきは前まへよりは幅はゞの廣ひろい銅どうの劍つるぎや鉾ほこの類るいでありまして、その一ひとつはくりす型がたといふ劍つるぎで、この劍つるぎはつばに當あたるところが斜なゝめにまがつてゐます。これは支那しなの『戈か』といふ武器ぶきと同おなじように、劍つるぎの頭かしらを柄つかに直角ちよつかくに横よこにくっつけて使つかつたものと思おもはれるのであります。その次つぎは銅鉾どうほこといふもので、幅はゞの廣ひろい大型おほがたのものでありまして、實用じつように使つかつたものでなく、何なにか儀式ぎしきにでも用もちひたものと見みえ、刃やいばのところも鋭するどくはなく、實際じつさいに使用しようするものとしてはあまり大おほきすぎるのです。(第四十七圖だいしじゆうしちず)これらの物ものが、日本につぽんで造つくられたといふ證據しようこには、それを造つくる時ときに用もちひた石いしの型かたが發見はつけんされるのでわかるのであります。この劍つるぎや鉾ほこの類るいは九州きゆうしゆうが最もつとも多おほく發見はつけんされます。その他たでは中國ちゆうごくや四國しこくなどで出でるばかりで、東ひがしの方ほう東北地方とうほくちほうには今日こんにちまでまだ一ひとつも發見はつけんされてをりません。とにかく支那しなのものと深ふかい關係かんけいのあることはたしかです。また石いしでもつてこの銅劍どうけんなどの形かたちを作つくつたものが時々とき〲發見はつけんせられますが、やはりこの時代じだいのものと思おもはれます。(第四十九圖だいしじゆうくず)

〔図〕fig18371_49.png第四十七圖 日本青銅器横×縦

第四十七圖 日本青銅器

次つぎに、大體だいたいこの頃ころのものと思おもはれる銅器どうきに、銅鐸どうたくといふものがあります。これは少すこし平ひらたい釣つり鐘がねのような形かたちをしたもので、小ちひさいものは四五寸しごすん、大おほきいものになると四五尺しごしやくもあり、すてきに大おほきなものであります。その表面ひようめんには袈裟襷けさだすきといつて、坊ぼうさんの袈裟けさのように格子型かうしがたに區畫くかくした模樣もようをつけたものや、また流水紋りゆうすいもんといつて長ながい渦卷うづまきの模樣もようをつけたものもあり、時ときには人間にんげんや動物どうぶつの形かたちを簡單かんたんに現あらはしたものがついてをります。この銅鐸どうたくは今いままで古墳こふんから出でたことはなく、岩いわの間あひだや、山やまかげなどからひょこっと出でるのが普通ふつうであり、そしてたくさんの數かずが一度いちどに出でることも時々とき〲あります。また九州地方きゆうしゆうちほうからは一ひとつも出でたことはなく、主おもに畿内きないから東海道方面とうかいどうほうめんにかけて多おほく發見はつけんされるのであります。銅鐸どうたくはその形かたちが、釣つり鐘がねのようでありますから、やはり樂器がつきではあるまいかといふ人ひともありますが、さて樂器がつきに使つかつた跡あとも見みられませんので、何なにか寶物ほうもつとして持もつてゐたものだらうと考かんがへるより仕方しかたがありません。劍つるぎや鉾ほこのように、これを鑄ゐた型かたが日本につぽんでは發見はつけんされないので、あるひは支那しなの方ほうから輸入ゆにゆうしたものだらうといはれますが、支那しなには、これと同おなじ品物しなものがありませんので、やはり日本につぽんで造つくつたとするより外ほかはないのであります。(第四十八圖だいしじゆうはちず)

〔図〕fig18371_50.png第四十八圖 日本銅鐸横×縦

第四十八圖 日本銅鐸

(1)流水紋 (2)けさたすき紋 (3)側面 (4)下面

まづ今いまお話はなししたように、劍つるぎと鉾ほこと、それから銅鐸どうたくなどが、青銅せいどうが初はじめて日本につぽんへはひつた時分じぶんの遺物いぶつでありますが、支那しなではすでに漢かんの時代じだいから盛さかんに鐵てつが使用しようされるようになつてゐたので、日本につぽんへも間まもなく鐵てつがはひつて來きて、刀かたなその他たの武器ぶきに鐵てつを用もちひることゝなりました。それでヨーロッパの諸國しよこくや支那しなのように青銅器せいどうきの時代じだいといふものを區別くべつするほどの間あひだもなく、すぐに鐵器てつきの時代じだいに移うつつてしまつたのです。そして日本につぽんは歴史れきしのある時代じだいにはひつて、われ〱の祖先そせんの遺のこした品物しなものが、だん〱と現あらはれて來くるのであります。皆みなさん、こゝにある銅劍どうけんや銅鉾どうほこや銅鐸どうたくなどを一巡いちじゆん御覽ごらんになつたら、次つぎの室しつに行ゆくことにいたしませう。

〔図〕fig18371_51.png第四十九圖 日本及び朝鮮石劍横×縦

第四十九圖 日本及び朝鮮石劍

(1)―(5)日本發見 (6)―(11)朝鮮

二、日本原史時代室につぽんげんしじだいしつ

(イ)日本につぽんの古墳こふん

石いしの器物きぶつばかりを使つかつてゐた石器時代せつきじだいから、次つぎには少すこしづゝ金屬きんぞくの器物きぶつを用もちひた時期じきを過すぎて、日本につぽんも遂つひに金屬きんぞくの利器りきを主おもに使用しようするいはゆる金屬時代きんぞくじだいにはひりました。そしてその金屬きんぞくは前まへにも申まをしたとほり、青銅せいどうだけを使用しようした時代じだいは極きはめて短みじかく、あるひはほとんどないくらゐで、すぐに鐵てつを使つかふ時代じだいになつたのであります。これと同時どうじに、日本につぽんは歴史れきしのない時代じだいから、少すこしづゝ歴史れきしがわかる時代じだいになつて來きたのであります。かようにまだ歴史れきしが十分じゆうぶんに明あきらかではないが、ぼんやりわかつて來きた時代じだいを、われ〱は原史時代げんしじだいといふのであります。

日本につぽんの石器時代せつきじだいの遺物いぶつを殘のこした人間にんげんは、どういふ人種じんしゆであつたかといふことについてはいろ〱議論ぎろんがありますが、この原史時代げんしじだいにはひつて金屬きんぞくの器物きぶつを使つかつてゐた人間にんげんになりますと、今日こんにちのわれ〱と同おなじ日本人につぽんじんであつたことが疑うたがひないのであります。さてこの時代じだいの日本人につぽんじんの殘のこした遺跡いせきには、どんなものがあるかと申まをしますと、古ふるくから石いしや煉瓦れんがで家屋かおくを造つくつた外國がいこくなどでは、家屋かおくを始はじめ他ほかの建築物けんちくぶつの遺蹟いせきが多數たすうに殘のこつてゐるのでありますが、日本につぽんでは今日こんにちと同おなじように、多おほく木材もくざいで家いへを建たてたので、その跡あとはまったくなくなつて殘のこつてをりません。たゞ、今少いますこし後のちの時代じだいのお寺てらや宮殿きゆうでんなどから、柱はしらの礎いしずゑや瓦かはらがたくさんみつかるだけであります。また日本につぽんは島國しまぐにであつて、外國人がいこくじんから攻せめられるといふ心配しんぱいもありませんでしたから、城しろを築きづく必要ひつようも少すくなくなかつたので、さうした種類しゆるいの遺蹟いせきもたくさんはありません。たゞ遺のこつてゐるのは、その時分じぶんの人ひとの造つくつたお墓はかであります。この墓はかは形かたちも大おほきく大たいさう岩乘がんじように造つくられてありますから、千年せんねん二千年後にせんねんごの今日こんにちまで、幸さいはひ元もとのまゝで遺のこつてゐるものがたくさんあり、古ふるく日本人につぽんじんが住すんでゐたところは、南みなみは九州きゆうしゆうから北きたは東北地方とうほくちほうに至いたるまで、どこでも必かならずこの古ふるい墓はかを見みることが出來できます。しかし墓はかの他ほかには、僅わづかに陶器とうきを造つくつた窯跡かまあとのようなものがあるくらゐで、ほとんどいふに足たるものはありません。それで私わたしも、これから皆みなさんと一いつしょに私共わたしどもの祖先そせんの造つくつた古ふるいお墓はかがどういふものであつたか、またそのお墓はかの中なかからどういふものが發見はつけんされるかを見みて行ゆきたいと思おもひます。そしてこれをよく調しらべると、その時分じぶんの人ひとがいかなる文化ぶんかをもつてゐたかとか、どういふ技術ぎじゆつの所有者しよゆうしやであつたかといふことがわかりますので、お墓はかを研究けんきゆうすることは歴史れきしの書物しよもつを讀よむのと少すこしも變かはらないのであります。

〔図〕fig18371_52.png第五十一圖 日本古墳の外形横×縦

第五十一圖 日本古墳の外形

さて日本人につぽんじんの古ふるい墓はかは今日こんにちのように石碑せきひや石塔せきとうを立たてたのではなく、たいてい土饅頭つちまんじゆうのように高たかくなつてゐるので、私共わたしどもはこれを高塚たかつかとか、古墳こふんと申まをしてをります。そのうち一番いちばん古ふるい形かたちで、また一番後いちばんのちまで遺のこつてゐたのは圓形まるがたの塚つかであります。一いつたい圓まるい塚つかは、どこの國くにでも昔むかしからあるのでありまして、人間にんげんの死體したいをまづ地上ちじように置おいた上うへに土つちを盛もりかけると、自然しぜんに圓まるい塚つかの形かたちが出來できるのでありますから、どこの國くにの人間にんげんでも、自然しぜんにかうした塚つかを造つくることになるのであります。ところがこの圓まるい塚つかを、土つちで死體したいの上うへをおほふばかりでなく、次第しだいに立派りつぱに造つくるようになりまして、高たかさも高たかくなり、周圍しゆういもだん〱大おほきくなつて行ゆきまして、あるひは鏡餅かゞみもちを重かさねたように、圓まるい塚つかに段々だん〱をつけたような形かたちも出來できてまゐりました。しかし、世界中せかいじゆうどこにもあるこの圓まるい塚つかの他ほかに、日本につぽんでは他國たこくに見みることの出來できない一種いつしゆの型かたの塚つかが作つくられたのです。それは圓まるい塚つかの前まへの方ほうが延のびて四角しかくになつた形かたちで、ちょっと昔むかしの口くちの廣ひろい壺つぼを伏ふせて、横よこから見みたような形かたちをしてゐるものであります。あるひはお茶ちやをひく茶臼ちやうすの形かたちにも似にてゐるところがあり、また車くるまの形かたちにも似にてゐますので、罐子塚かんすづかだとか、茶臼塚ちやうすづかとか、車塚くるまづかだとか、いろ〱の名ながついてをりますが、私共わたしどもは前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかと呼よんでをります。それは前まへが四角しかくで後うしろが圓まるいといふ意味いみであります。この塚つかの模型もけいは特とくに置おいてありますから、それを御覽ごらんになるとよくわかります。またその後うしろの圓まるいところと、前まへの四角しかくなところとのつなぎめのところの兩側りようがはに、小ちひさい圓まるい丘をかがついてゐることがあります。それがいかにも車くるまの兩輪りようりんに似にてゐますから、昔むかしの人ひとが車塚くるまづかといつたのは面白おもしろい見みかただと思おもひます。もっともこの形かたちの古墳こふんは、昔むかしでも偉えらい人ひとを葬はうむるために造つくつたものでありまして、天皇樣てんのうさまだとか、皇族こうぞくの方々かた〲の御墓おはかに多おほく用もちひたのでありまして、下々しも〲のものはやはり、圓まるい塚つかを用もちひたのであります。その大おほきいものになりますと、周圍しゆういが十町以上じつちよういじようのものもあり、外側そとがはに、たいてい堀ほりをめぐらしてあります。この形かたちの塚つかは日本にほんに近ちかい朝鮮ちようせんや支那しなにおいても、けっして見みることの出來できない、實じつに日本獨特につぽんどくとくのものといつてよろしい。しかし、どうしてかような形かたちの塚つかが出來できたかといふことについては、種々しゆ〲議論ぎろんもありますが、どうもはつきりはわかりません。(第五十一圖だいごじゆういちず下した)

また一方いつぽうには古ふるくからある圓まるい塚つかから、だん〱變化へんかして四角しかくな形かたちの古墳こふんも出來できて來きましたが、この四角しかくの形かたちの塚つかは、支那しなでは古ふるく秦しんや漢かんの時代じだいから天子てんしの墓はかなどにあつたもので、それを日本につぽんが支那しなと交通こうつうを始はじめてから後のちにまねたものが多おほいようであります。そして天皇てんのうの御陵ごりようなどにこの四角しかくの形かたちのお墓はかが造つくられるようになりました。それですから日本につぽんの古ふるい墓はかの形かたちは、まづ圓まるいのと四角しかくなのと、前方後圓ぜんぽうこうえんなのとの三通みとほりといふことが出來できます。その中うち最もつとも古ふるくからあつたのは圓塚まるづか、その次つぎに出來できたのが前方後圓ぜんぽうこうえん、それから最後さいごに流行りゆうこうして來きたのは四角塚しかくづかでありますが、この前方後圓ぜんぽうこうえんと四角しかくな形かたちはやがて廢すたれてしまつて、奈良朝時代ならちようじだいからは、普通ふつうの圓塚まるづかが專もつぱら行おこなはれるようになりました。

さて今いま申まをしたいろ〱の形かたちの古墳こふんは、今日こんにち遺のこつてゐるものには、たいてい松まつの木きや他たの樹木じゆもくが生はえ繁しげつて、遠方えんぽうから眺ながめると、こんもりした森もりのように見みえるのですが、昔むかしはそんなに樹木じゆもくが生はえてゐたわけでなく、たいていそれらの塚つかの上うへには、圓まるい磧石かはらいしを載のせて、全體ぜんたいを蔽おほうてをつたものでありました。ちょうど今日こんにち、明治天皇めいじてんのうや大正天皇たいしようてんのうの御陵ごりようにおいて拜をがめるように、樹木じゆもくが生はえないようにしてあつたのです。それが年月としつきを經へるに從したがつて石いしが崩くづれたり、その中なかに木きの種たねが落おちて芽めを出だしたりして、塚つかの上うへに樹木じゆもくが茂しげつて來きたのであります。もっとも墓はかの周圍しゆういなどには、昔むかしはおまゐりする時ときに、お供そなへ物ものをしたり、おまつりをするために、いろ〱のものが置おいてあつたに違ちがひありませんが、それらの器物きぶつは今日こんにちではたいてい土つちに埋うづもれて見みえなくなつたり、壞こはれてなくなつてしまつて、遺のこつてゐるものは甚はなはだ少すくないのであります。たゞ埴輪はにわといつて、人ひとの像ぞうや動物どうぶつの形かたちや壺つぼの形かたちを土つちで造つくつたものが竝ならべてあつたことは、その殘のこり物ものがあるのでわかります。またこれらの墓はかの中なかには、死骸しがいをぢかに入いれたのではなく、石いしで造つくつた石棺せきかんだとか、石いしで造つくつた大おほきい石いしの部屋へやが設まうけられて、その中なかに石棺せきかんあるひは木棺もくかんに、死骸しがいを納をさめて葬はうむられたのであります。私わたしはこれからまづ、墓はかの外そとにめぐらしてあつた、埴輪はにわについてお話はなしをいたしまして、それから墓はかの中なかの石棺せきかんや、石いしの部屋へやのことに話はなしを進すゝめませう。

(ロ)埴輪はにわと石人せきじん

さてお隣となりの支那しなでは、漢かんの時代頃じだいころから後のち、墓はかの中なかに土つちで作つくつた人形にんぎようや動物どうぶつの像ぞう、その他ほかいろ〱の品物しなものの形かたちを入いれ、また陵墓りようぼの前まへに石いしで造つくつた人間にんげんや動物どうぶつの像ぞうを竝ならべて飾かざりとすることが流行はやりだしましたが、日本につぽんでもまた古ふるく前方後圓ぜんぽうこうえんの古墳こふんが造つくられた時分じぶんには墓はかの前まへなどに、土つちで造つくつた人間にんげんや動物どうぶつの像ぞうを竝ならべる習慣しゆうかんがありました。この土つちで造つくつた像ぞうを埴輪はにわ樹たて物ものと申まをします。昔むかしからの傳つたへによりますと、垂仁天皇すいにんてんのうの時ときに、天皇てんのうの御弟倭彦命おんおとうとやまとひこのみことが薨去こうきよになつた際さい、その頃ころ貴人きじんが死しぬと、家臣かしんなどが殉死じゆんしといつて、お伴ともに死しぬ習慣しゆうかんがありましたので、多おほくの家臣かしんが命みことのお伴ともをして生いきながら墓場はかばに埋うづめられました。ところがなか〱死しに切きれないので、その悲かなしい泣なき聲ごゑが、天皇てんのうの御殿ごてんにまで聞きこえて來きました。それで、天皇てんのうは殉死じゆんしの風俗ふうぞくは甚はなはだ人情にんじようにそむいた殘酷ざんこくなことであるから、これはどうしてもやめなければならぬとお考かんがへになりました。その後ご數年すうねんを經へて、皇后日葉酢媛命こうごうひはすひめのみことが御崩御ごほうぎよになりました時ときに、野見宿禰のみのすくねといふ者ものがありまして、天皇てんのうに今後こんごは土つちでもつて人間にんげんの像ぞうを作つくり、それを人間にんげんの代かはりに埋うづめましたならば、古ふるくから傳つたはつてゐる風俗ふうぞくをも保存ほぞんし、また人間にんげんを生いき埋うづめにするような、可愛かわいそうなことをなくすることが出來できると思おもひますと申まをし上あげましたので、天皇てんのうは、それは眞まことによい思おもひつきであると御賞おほめになつて、それからは土つちで作つくつた人間にんげんなどの像ぞうを墓はかの側そばに埋うづめることになつたのだといふことです。元來がんらい墓はかの周圍しゆういに、一ひとつは土つちが崩くづれないように、もう一ひとつは飾かざりのために、土つちで作つくつた筒形つゝがたの陶器とうきを竝ならべて埋うづめるといふことは、その以前いぜんからもあつたように思おもはれますから、この野見宿禰のみのすくねのような人ひとは、支那しなで行おこなはれた石いしで造つくつた人間像にんげんぞうや動物どうぶつの像ぞうを墓側はかそばに立たてる風俗ふうぞくを聞きいて、それを土つちで作つくることに考かんがへついたのかも知しれません。この野見宿禰のみのすくねといふ人ひとは、あの相撲すまふをはじめたといはれてゐる同おなじ人ひとであります。とにかく埴輪はにわといふものが垂仁天皇すいにんてんのうの御代前後みよぜんごから始はじまつて、四五百年しごひやくねんぐらゐもつゞいたことは確たしからしいのであります。この埴輪はにわといふ言葉ことばの埴はにといふのは粘土ねんどといふことで、輪わといふのは輪わの形かたちに竝ならべることから出でた名前なまへだといふことであります。それで私共わたしどもが古墳こふんへ行いつても、埴輪はにわの人形にんぎようや、筒形つゝがたのものゝ破片はへんなどが發見はつけんされた時ときには、その塚つかがごく古ふるいこの時代じだいのものであることを、推定すいていすることが出來できるのであります。

〔図〕fig18371_53.png第五十二圖 日本古墳埴輪人物横×縦

第五十二圖 日本古墳埴輪人物

さて埴輪はにわの筒形つゝがたのものは、墓はかの丘をかのまはり、時ときには堀ほりの外側そとがはの土手どてにも、一重ひとへ二重ふたへあるひは三重みへにも、取とり繞めぐらされたのであり、また塚つかの頂上ちようじようには家形いへがたや、それに似にた大おほきな埴輪はにわを置おいたものであることは、今いままでもわかつてをりましたが、人間にんげんや動物どうぶつの埴輪はにわなどはどこへ立たてたものか、はっきりしたことが、わからなかつたのであります。ところが、最近さいきんに上野かうづけの國くにのある前方後圓ぜんぽうこうえんの古墳こふんでは、周圍しゆういの堀ほりの外側そとがは、ちょうど墓はかの前まへのところに、筒形つゝがたのものを長ながい間あひだ二重ふたへに竝ならべ、その一部分いちぶぶんに人間にんげんや馬うまや鳥とりの埴輪はにわを集あつめて立たてたのが發見はつけんされました。また、ある圓形えんけいの墓はかでは塚つかのまはりに筒形つゝがたを竝ならべ、その前まへのところに人形にんぎようを立たてゝあるのが掘ほり出だされました。それでだいぶよくわかつて來きましたが、つまり墓はかの前まへとか、墓はかの周まはりの要所々々ようしよ〱と思おもはれるところに、人間にんげんや馬うまや鳥とりなどの像ぞうを竝ならべたものに相違そういありません。

〔図〕fig18371_54.png第五十三圖 日本古墳埴輪動物横×縦

第五十三圖 日本古墳埴輪動物

〔図〕fig18371_55.png第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他横×縦

第五十四圖 日本古墳家形埴輪その他

さてこの埴輪はにわはどういふ燒やき物ものかといひますと、細ほそい刷毛目はけめの線せんのはひつた赤色あかいろの素燒すやきでありまして、人間にんげんの像ぞうはたいてい二三尺にさんじやくくらゐの高たかさで、男子だんしもあり婦人ふじんもあります。そして男子だんしのものには、身みに甲胄かつちゆうをつけ劍つるぎを佩はいてゐる勇いさましい形かたちをしたのがあり、婦人ふじんの像ぞうには、髮かみを結むすびたすきをかけ、何なにか品物しなものを捧さゝげてゐるようなのもあります。そして顏かほには赤あかい紅べにを塗ぬつたのだとか、少すこし口元くちもとを歪ゆがめて悲かなしそうな表情ひようじようをしたものもあります。いづれも至いたつて粗末そまつな簡單かんたんな人形にんぎようで、脚あしの方ほうはたいてい一本いつぽんの筒形つゝがたになり、足あしの先さきまで現あらはしてあるのは稀まれであります。しかし、そのうちに、なんともいへない無邪氣むじやきな顏かほつきや樣子ようすをしてゐるところなど、いかにも昔むかしの人ひとの飾かざり氣けのない心こゝろが窺うかゞはれるばかりでなく、當時とうじの人ひとの風俗ふうぞくだとか服裝ふくそうなども、これによつて知しることが出來できますから、なか〱大切たいせつなものであります。次つぎに動物どうぶつの像ぞうには馬うまが一等いつとう多おほく、それには轡くつわだとか鞍くらだとかの馬具ばぐをつけてゐるところが見みられます。また脚あしの方ほうは、やはりたいてい筒形つゝがたになつて實際じつさいの馬うまの脚あしのようには作つくられてをりませんが、そこにかへって面白味おもしろみがあります。馬うまの他ほか動物どうぶつの像ぞうには、牛うしだとか猿さるだとか猪ゐのしゝだとか、また鴨かもや鷄にはとりなどもあり、なか〱面白おもしろいです。その他たのものには家いへの形かたちもあり、その屋根やねには、今日こんにち私共わたしどもが伊勢大神宮いせだいじんぐうの建築けんちくで見みるような、ちぎやかつをぎを載のせてゐるのもありますが、また劍つるぎや靫ゆきや巴ともゑといふようなものを模もしてあるのも發見はつけんされます。とにかくこの埴輪はにわといふものは、なか〱面白おもしろいもので、日本人につぽんじんの作つくつた一番いちばん古ふるい彫刻物ちようこくぶつといふことが出來でき、昔むかしの人ひとの生活せいかつや風俗ふうぞくを知しる上うへに最もつともよい材料ざいりようの一ひとつであります。また埴輪はにわのあることによつて、その塚つかのごく古ふるいこともわかるのでありますから、考古學こうこがくの研究上けんきゆうじよう非常ひじように大切たいせつなものとせられてをりますが、何分なにぶんお墓はかの外そとに立たてゝあつたので、長ながい年月としつきの間あひだに雨風あめかぜにさらされて壞こはれてしまひ、完全かんぜんに殘のこつてゐるものが極きはめて少すくないのは殘念ざんねんなことであります。この部屋へやには、たゞ今いまお話はなしした人間にんげんや馬うまの埴輪はにわの實物じつぶつを始はじめ、今いままでに發見はつけんされた面白おもしろい埴輪はにわの模型もけいなどが陳列ちんれつしてありますから、よく御覽ごらんになつて、今後こんご古墳こふんを調しらべる時ときに、こんなものゝ破片はへんなどが落おちてゐるかどうかを注意ちゆういされるように望のぞみます。(第五十二だいごじゆうに、三さん、四圖しず)

〔図〕fig18371_56.png第五十五圖 石人横×縦

第五十五圖 石人

また埴輪はにわの人形にんぎようや馬うまと同おなじ形かたちのものを、石いしで作つくつてお墓はかに立たてたこともありました。これを石人せきじん、石馬せきばなどゝ申まをしてをります。しかしこれは日本につぽんのごく一部いちぶに行おこなはれたゞけで、九州きゆうしゆうの筑後ちくごや肥後ひごなどに時々とき〲見みることが出來できます。筑後ちくごには昔むかし繼體天皇けいたいてんのうの御時おんとき、磐井いはゐといふ強つよい人ひとがをつて、朝鮮ちようせんの新羅しらぎの國くにと同盟どうめいして、天皇てんのうの命めいに背そむいたので、とう〱征伐せいばつされてしまひましたが、この人ひとは生いきてゐる時分じぶんから、石いしでお墓はかを作つくり、石いしの人形にんぎようなどを立たてゝ、豪勢ごうせいを示しめしてゐたといふことが、古ふるい書物しよもつにでてをります。ちょうどこの磐井いはゐのをつた地方ちほうに、今いまも石人せきじん石馬せきばが多おほく殘のこつてゐるのは面白おもしろいことです。(第五十五圖だいごじゆうごず)

(ハ)石棺せきかんと石室せきしつ

古墳こふんの形かたちと、それから外側そとがはに立たつてゐた埴輪はにわについて、たゞいま一通ひととほりお話はなししたのでありますが、これからは、古墳こふんの内部ないぶにある石棺せきかんと石室せきしつのお話はなしをいたしませう。日本につぽんの古墳こふんは元來がんらい小高こだかい丘をかの上うへなぞに少すこしく手てを加くはへた圓まるい塚つかだとか、前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかを築きづいたのでありまして、その頂上ちようじようには石いしの棺かんを收をさめるといふのが普通ふつうのやり方かたでありました。また中なかには粘土ねんどで固かためた棺かんのようなものもありました。そしてこの石棺せきかんといふものは、一番いちばんはじめは、自然しぜんの薄うすい板石いたいしを組くみ合あはせて作つくつた、小ちひさな箱はこのようなものにすぎませんでしたが、それがだん〱大おほきな石いしを用もちひることになり、遂つひには長ながさ一間以上いつけんいじようもある、大おほきな長持ながもちのような形かたちをしたものが造つくられるようになりました。こんな大おほきい石棺せきかんになりますと、その石いしを運搬うんぱんするのに不便ふべんでありますから、石いしのまはりに疣いぼのような突起とつきを數箇所すうかしよに附つけて、運はこぶのにつごうよくしてをりますが、後のちにはその突起とつきがまた飾かざりの意味いみにも役立やくだつことになつたのであります。またその次つぎには石いしを組くみ合あはせて棺かんを造つくることをしないで、蓋ふたと身みとは別々べつ〱として、石いしをくり拔ぬいて、大おほきな棺かんを造つくるように進歩しんぽして來きました。この類るいの石棺せきかんの蓋ふたは、家いへの屋根やねに似にた形かたちに出來できてゐるのもあり、また竹たけを二ふたつに割わつた形かたちをしてゐるのもあります。もっとも、この蓋ふたにはやはり今いまお話はなしした突起とつきが四隅よすみに附ついてゐるのが普通ふつうであります。(第五十六圖だいごじゆうろくず)このような石棺せきかんはなか〱大おほきく、立派りつぱなものでありまして、その中なかには、死者ししやのふだん所持しよじしてゐた大切たいせつな品物しなものをも、一いつしょに收をさめたのでありますが、何分なにぶん空氣くうきが棺かんの中なかへ侵入しんにゆうするので、今日こんにちこれを開あけて見みても骨ほねの遺のこつてゐるのはごく稀まれであつて、わづかに齒はが殘のこつてゐるくらゐであります。しかし死者ししやと共ともに葬はうむつた品物しなものはたいてい遺のこつてをります。それらの品物しなものについては後のちに述のべることにいたします。この石棺せきかんの他ほかに、陶棺とうかんといつて赤あかい埴輪はにわのような燒やき物ものの棺かんがあります。それはごく古ふるい時代じだいにもあつて、その時分じぶんはたゞ大おほきな甕かめや壺つぼを合あはせて使つかつたのですが、後のちには石棺せきかんをまねて、やはり家形いへがたに似にた大おほきな棺かんが出來できました。(第五十七圖だいごじゆうしちず)

〔図〕fig18371_57.png第五十六圖 日本古墳石棺横×縦

第五十六圖 日本古墳石棺

〔図〕fig18371_58.png第五十七圖 日本古墳陶棺横×縦

第五十七圖 日本古墳陶棺

いまお話はなししたような石棺せきかんを塚つかに藏をさめるときには、ぢかに土つちの中なかに埋うづめたものもありますが、たいていは石棺せきかんの周まはりに當あたる場所ばしよに、まづ石圍いしかこひをして、その中なかに石棺せきかんを納いれ、上うへに蓋ふたをしたのであります。これを竪穴式石室たてあなしきせきしつと呼よんでゐる人ひとがありますが、實じつは石いしの部屋へやといふほどのものではなく、たゞ簡單かんたんな石いしの圍かこひにすぎないのであります。ところが、その後ご多分たぶん朝鮮ちようせん支那しなの風ふうが傳つたはつたのでありませうが、横よこからはひる長ながい石いしの部屋へやが塚つかの中なかに造つくられることになりました。この石いしの室しつは、圓塚まるづかではたいていその前まへの方ほう(南みなみに向むいたものが多おほいのですが)に口くちを開ひらいてをり、前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかでは、後うしろの方ほうの圓まるい丘をかの横よこに入いり口ぐちを開ひらいてゐるのが普通ふつうであります。この石室せきしつの大おほきさや形かたちは、いろ〱種類しゆるいがありますが、なかには綺麗きれいな切きり石いしで造つくつたものもありますし、また、さう手てを加くはへない重おもさ何噸なんとんといふほどの大おほきな石いしを用もちひて、造つくつたのも少すくなくはありません。この石室せきしつの入いり口ぐちは一體いつたいに低ひくく狹せまくて、大人おとなが體からだをかゞめてはひらねばならぬくらゐですが、内部ないぶは廣ひろくて天井てんじようは人間にんげんの身長しんちようよりも高たかいのが普通ふつうで、中なかには身長しんちようの二倍にばいぐらゐのものもあります。この石室せきしつの作つくり方かたは西洋せいようの『どるめん』あるひは『石いしの廊下ろうか』といふものに非常ひじように似にてゐますけれども、日本につぽんのは西洋せいようのものゝように古ふるいものではなく、また本當ほんとうの『どるめん』といふほど簡單かんたんなものは、日本につぽんではほとんど見當みあたりません。(第五十八だいごじゆうはち、九圖くず)

〔図〕fig18371_59.png第五十八圖 日本古墳石室横×縦

第五十八圖 日本古墳石室

〔図〕fig18371_60.png第五十九圖 日本古墳石室横×縦

第五十九圖 日本古墳石室

石室せきしつの中なかには、たいてい石棺せきかんを一ひとつ入いれてありますが、また二ふたつ以上いじようの石棺せきかんを入いれたのもあります。例たとへば河内かはちにある聖徳太子しようとくたいしの御墓おはかには、太子たいしの母后ぼこうと、太子たいしの妃きさきと三人さんにんの御棺おかんを容いれてあるとのことです。また中なかには死者ししやを石棺せきかんでなく木棺もくかんにいれて葬はうむつた石室せきしつも多おほくあります。これは木棺もくかんはくさつてしまつても、それに使つかつた鐵てつの釘くぎなどが殘のこつてゐるのでわかります。元來がんらい以前いぜんは一ひとつの塚つかには一人ひとりしか葬はうむらなかつたのが、この石室せきしつを造つくる時代じだいになつてからは、一人ひとりだけを葬はうむる場合ばあひもありましたが、家族かぞくの者ものをも一ひとつの石室せきしつに葬はうむる風ふうが出來できたかと思おもはれます。皆みなさんは、かような石いしの室むろにはひつたことがありますか。大おほきい石室せきしつは奧行おくゆきが十間近じつけんちかくもあり、室内しつないは眞暗まつくらですから大たいそう氣味きみの惡わるいものでありますが、蝋燭ろうそくを點ともしたり、懷中電燈かいちゆうでんとうを携たづさへて行ゆきますと、内部ないぶの模樣もようがよくわかります。内部ないぶは案外あんがい綺麗きれいでありますから、ちょっとこゝで住居じゆうきよしてもよいと思おもふほどであります。道理どうりで時ときには乞食こじきなどが、この石室せきしつに住すんだりしてをります。冬ふゆは暖あたゝかくて夏なつは涼すゞしいので、住居じゆうきよには申まをし分ぶんがないといふことです。

〔図〕fig18371_61.png第六十圖 吉見百穴横×縦

第六十圖 吉見百穴

また古墳こふんの中なかには横穴よこあなといつて、山やまの崖がけのようなところに、横よこに穴あなをあけたのがあります。つまり塚つかをこしらへるのを儉約けんやくして、自然しぜんの崖がけを利用りようし、たゞ部屋へやだけを作つくつたものといふことが出來できます。これはたいてい一ひとつところに多おほくの穴あなが群集ぐんしゆうして、なかには蜂はちの巣すのようにたくさんの横穴よこあなが遺のこつてゐるのもあります。その名高なだかいものには埼玉縣さいたまけんの吉見よしみの百穴ひやくあなといふのがあります。以前いぜんはこの横穴よこあなをば、人間にんげんが穴住居あなずまゐをしてゐた跡あとだと考かんがへてをりましたが、やはり昔むかしの人ひとの墓場はかばなのです。それですからこの横穴よこあなは古墳こふんの石室せきしつと同おなじ意味いみのものでありまして、その作つくり方かたと大體だいたいにおいてよく似にてをります。しかしたいていはそれほど大おほきくはなく、四角しかくあるひは圓まるい部屋へやが一ひとつあるくらゐですが、時ときに珍めづらしいのになりますと、横穴よこあなの中なかに石棺せきかんが造つくつてあつたり、石いしの床とこが三方さんぽうに設まうけて死體したいを置おくようになつてあつたり、天井てんじように家屋かおくの屋根やねをまねてあるのもあつたり、内部ないぶに刀劍とうけんの形かたちを彫ほつたものなどがあります。しかしまづそんなのは例外れいがいであつて、普通ふつうはなんの裝飾そうしよくもなく簡單かんたんな小ちひさな穴あなに過すぎません。(第六十一圖だいろくじゆういちず)

〔図〕fig18371_62.png第六十一圖 日本古墳横穴横×縦

第六十一圖 日本古墳横穴

(1)入口(肥後) (2)内部(加賀)

(ニ)上古じようこの帝陵ていりよう

今いままで私わたしはわが國くにの古墳こふんの形かたちと構造こうぞうについて述のべてまゐり、次つぎには古墳こふんから發見はつけんせられる、いろ〱の品物しなものについてお話はなしをするつもりでありますが、その前まへにごく古ふるい時代じだいの天皇樣てんのうさまの御陵ごりよう、すなはち『みさゝぎ』について、少すこし申まをし上あげたいと思おもひます。

〔図〕fig18371_63.png第六十二圖 蒲生君平横×縦

第六十二圖 蒲生君平

元來がんらい日本につぽんの古墳こふんの研究けんきゆうは、かの高山彦九郎たかやまひこくろう、林子平はやししへいなどゝ共ともに寛政かんせいの三奇士さんきしといはれた蒲生君平がまうくんぺいが、御歴代ごれきだいの御陵ごりようの壞こはれたり、わからなくなつてゐるのを歎なげいて、自分じぶんで各地かくちの御陵ごりようを探索たんさくし、遂つひに『山陵志さんりようし』といふ本ほんを著あらはしたりした頃ころから、御陵ごりようの研究けんきゆうにつれて起おこつたのでありました。そして明治めいじの時代じだいになつて、いろ〱日本につぽんの學者がくしやが研究けんきゆうをはじめ、また大阪おほさかの造幣局ぞうへいきよくへ來きてをつた英國人えいこくじんのゴーランドといふ人ひとなどが、やり出だしたのでありました。ところが古ふるい時代じだいの天皇てんのうの御陵ごりようは、日本につぽんの古墳こふんのうちで最もつとも大おほきく、また最もつとも立派りつぱな代表的だいひようてきなものでありますから、古墳こふんを研究けんきゆうするには、ぜひこれらの御陵ごりようを拜をがんで、それをよく調しらべなければならず、殊ことに古墳こふんの時代じだいを知しるには、御陵ごりようが何なによりの標準ひようじゆんとなるのであります。私わたしなども少年しようねんのころ、御陵ごりようを巡拜じゆんぱいするといふようなことから、つい〱考古學こうこがくに興味きようみを覺おぼえるようになつた次第しだいであります。

さて日本につぽんの上古じようこから奈良朝ならちようごろまでの御陵ごりようが、どういふ形かたちの塚つかから出來できてゐるかといふことをお話はなしいたしませう。かの神代かみよの三神さんしん、瓊瓊杵尊にゝぎのみこと、彦火火出見尊ひこほほでみのみことそれから鸕鷀草茅葺不合尊うがやふきあへずのみことの御陵ごりようは、今日こんにち九州きゆうしゆうの南みなみの日向ひうが、大隅おほすみ、薩摩さつまの方ほうに定さだめられてありますが、それは神代しんだいの御陵ごりようでありますから今いまは申まをしません。次つぎに第一代だいゝちだいの神武天皇じんむてんのうの御陵ごりようは、大和やまとの畝傍山うねびやまの麓ふもとにあることは皆みなさんも知しつてをられるとほりであります。しかし、この神武天皇じんむてんのうの御陵ごりようは久ひさしく荒あれはてゝをつて、實じつはその形かたちもよくわかりませんし、場所ばしよについてもいろ〱の説せつがありますが、とにかくあまり大おほきくない圓まるい塚つかであつたと思おもはれます。それから六七代ろくしちだいばかりの天皇てんのうの御陵ごりようも大和やまとの南みなみの方ほうにありますが、やはり圓まるい塚つかであつたらしいのです。第十代だいじゆうだい崇神天皇すじんてんのうと、次つぎの垂仁天皇すいにんてんのうの頃ころから、前まへが角かくで後うしろの圓まるい前方後圓ぜんぽうこうえんの立派りつぱな車塚くるまづかが、築きづかれるようになつたことは疑うたがひありません。その垂仁天皇すいにんてんのうの時ときに、あの野見宿禰のみのすくねが埴輪はにわを造つくつたと傳つたへられてゐることは前まへに申まをしました。それから降くだつて景行天皇けいこうてんのう、成務天皇せいむてんのうまた神功皇后じんぐうこう〲の御陵ごりようなどは、皆みな奈良ならの南みなみあるひは西にしの方ほうにありまして、やはり大おほきな前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかでありますが、仲哀天皇ちゆうあいてんのう、應神天皇おうじんてんのうに至いたつて、始はじめて河内かはちの南方なんぽうに御陵ごりようがつくられ、次つぎの仁徳天皇にんとくてんのうから三代さんだいばかりは、昔むかしは河内かはちの國くにであつたが今いまの和泉いづみの國くにの北方ほつぽう、堺さかひの附近ふきんに御陵ごりようが設まうけられることになりました。ところがこの應神おうじん、仁徳兩天皇にんとくりようてんのうの御陵ごりようは、日本につぽんの御陵中ごりようちゆうでも一番いちばん大おほきい立派りつぱな前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかと申まをすべきで、なかにも仁徳天皇にんとくてんのうの御陵ごりようの周圍しゆういは約半里やくはんりくらゐもあり、世界中せかいじゆうにかような大おほきな古墳こふんは、エヂプトのぴらみっとを除のぞいてはあまりないかと思おもはれます。そしてこの御陵ごりようのごときは、二重ふたへに堀ほりをめぐらし、その周圍しゆういには陪塚ばいちようといつて臣下しんかの人ひとだちの墓はかがたくさん竝ならんでをります。遠とほくから見みますと小山こやまのようであり、近ちかくに行ゆきますと大おほきな松まつの木きが御陵ごりようのまはりに生はえ茂しげつて實じつに神々かう〲しく、參拜者さんぱいしやは誰たれでもその威嚴いげんに打うたれるのであります。(第六十三圖だいろくじゆうさんず)

〔図〕fig18371_64.png第六十三圖 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵

第六十三圖 仁徳天皇百舌鳥耳原中陵

大阪府堺市東郊

(1)遠望 (2)御拜所

仁徳天皇にんとくてんのうの御陵ごりようと、應神天皇おうじんてんのうの御陵ごりようとは、その大おほきさが優すぐれてゐるばかりでなく、歴史上れきしじようから見みても最もつともたしかなもので、これが標準ひようじゆんになつてわれ〱は、その頃ころ日本につぽんに前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかが盛さかんに行おこなはれ、そして埴輪はにわが飾かざられてをつたことなどを知しることが出來できるのであります。それゆゑ考古學こうこがくの上うへからも最もつとも貴重きちような御陵ごりようと申まをさなければなりません。

それから六七代ろくしちだいの間あひだ、かの佛教ぶつきようが日本につぽんにはひつて來きた時分じぶん、敏達天皇頃びだつてんのうころまでは、少すこし形かたちは小ちひさくなりましたけれども、やはり御陵ごりようはみな前方後圓ぜんぽうこうえんの塚つかでありました。ところが用明天皇ようめいてんのう、推古天皇すいこてんのう、すなはち聖徳太子しようとくたいしの頃ころの天皇てんのうから天智天皇頃てんちてんのうころまでは、支那しなの影響えいきようを受うけた四角しかくな塚つかが御陵ごりように行おこなはれて、まったく樣子ようすが變かはつて來きました。いま申まをした天皇樣てんのうさまの御陵ごりようはたいてい大和やまとから河内かはちなどにありますが、天智天皇御陵てんちてんのうごりようは山城やましろの國くに京都きようとの東ひがしの方ほうにありまして、四角しかくの塚つかで上部じようぶが圓まるくなつてゐるといふことであります。この天智天皇御陵てんちてんのうごりようにかたどつて、明治天皇めいじてんのう、昭憲皇太后しようけんこうたいごう、大正天皇たいしようてんのうの御陵ごりようなどもつくられたといふことであります。あなた方がたはこの御陵ごりようへは參拜さんぱいしたことがありませうが、あゝいふ風ふうに出來できてをつたのです。

その後ご奈良朝ならちようから平安朝へいあんちようの始はじめの御陵ごりようになりますと、また昔むかしにかへって圓まるい形かたちの塚つかになりました。そして佛教ぶつきようが盛さかんになつて來きてからは御陵ごりようは一いつそう簡單かんたんになり、また後のちには火葬かそうが行おこなはれまして、小ちひさな御堂おどうや石いしの塔とうを御陵ごりように建たてることになり、ことに武家ぶけが勢力せいりよくを占しめるに至いたつた時代じだいからは、皇室こうしつの御陵ごりようは甚はなはだ小ちひさなものになつてしまつたのです。それに引ひきかへて日光につこうにある徳川氏とくがはしの廟びようがあのとほり立派りつぱなのを見みて、蒲生君平がまうくんぺいなどが憤慨ふんがいして尊王そんのうの念ねんを起おこしたので、まことにむりのないことであります。それはとにかく、われ〱は日本につぽんの古ふるい時代じだいの御陵ごりようを巡拜じゆんぱいすれば、一方いつぽう日本につぽんの古墳こふんの造つくり方かたの變遷へんせんをも知しることが出來でき、歴史れきしの研究けんきゆうにも非常ひじように役やくに立たつわけでありますから、私わたしは皆みなさんがたゞ高たかい山やまなどに登のぼるばかりでなく、遠足えんそくのときにはかういふ方面ほうめんへも出でかけることをおすゝめいたします。

(ホ)勾玉まがたまなどの玉類たまるい

さて話はなしは前まへに戻もどり古墳こふんの中なかには、どういふものが埋うづめられてゐるかと申まをしますと、石棺せきかんあるひは石室せきしつの中なか、死體したいを收をさめてあつた所ところ、しかももっともその體からだに近ちかいところにあるものはその人ひとの身みにつけてあつた著物きものと飾かざり物ものとであります。しかし著物きものはみな腐くさつてしまつて殘のこつてをりませんが、飾かざり物ものの中うちで一番いちばん眼めに立たつのは、まづ勾玉まがたまその他たの玉類たまるいであります。これはたいてい堅かたい石いしかがらすで造つくつてあるので、その色いろもかはらず完全かんぜんに保存ほぞんせられてをり、それで發掘はつくつされたとき、誰たれにでもすぐに目めにつき發見はつけんされやすいのであります。

これらの玉類たまるいは、もとは結むすびつらねて、頸くびから胸むねあるひは手頸てくび、脚頸あしくびなどにめぐらしたものであることは、埴輪人形はにわにんぎように現あらはされてゐるのを見みてもわかります。

さて玉類たまるいの中なかでも一番いちばん大切たいせつなものは勾玉まがたまであります。勾玉まがたまが、八坂瓊やさかにの勾玉まがたまと申まをして、三種さんしゆの神器じんぎの一ひとつにも數かぞへられてゐることは、皆みなさんもよく知しつてをられるでせうが、この玉たまの形かたちは頭あたまが圓まるくて尻尾しりをが曲まがり、ちょっと英語えいごの『,《こんま》』のような形かたちをしてゐます。大おほきなものになりますと、長ながさが三寸さんずんにも達たつするものもありますが、普通ふつうは一寸いつすんから一寸五分前後いつすんごぶぜんごのものであります。そしてその石いしは、ごく古ふるい時分じぶんには、日本につぽんに産出さんしゆつしない支那傳來しなでんらいの硬玉こうぎよく(翡翠ひすい、青瑯玕せいろうかん)といふ半透明はんとうめいの美うつくしい緑色みどりいろの石いしで作つくられてあつて、なか〱綺麗きれいなものでしたが、やゝ後のちの時代じだいになると、出雲いづもの國くにあたりから出でる碧玉へきぎよくといふ青黒あをぐろい石いしが用もちひられ、さらに後のちになると、赤あかい瑪瑙めのうが普通ふつうに使つかはれるようになりました。またこの一番後いちばんのちの時代じだい、奈良朝ならちようごろになると、勾玉まがたまの形かたちがコといふ字じの形かたちのように、角かくばつて美うつくしくありませんが、古ふるい時代じだいの勾玉まがたまはなか〱優美ゆうびな形かたちをして、その頭あたまの孔あなのところに、三みつつ四よつつの切きり目めがつけてあるのが普通ふつうです。この切きり目めを丁字頭ちようじがしらと申まをします。ですから皆みなさんは勾玉まがたまを見みても、どういふのが古ふるいか、またどういふのが新あたらしいかを、それで知しることが出來できるのであります。また近頃ちかごろ作つくつた新あたらしい勾玉まがたまの模造品もぞうひんは、その孔あなが眞まつすぐに筒形つゝがたにあいてゐますが、古ふるい勾玉まがたまはたいてい一方いつぽうあるひは兩方りようほうから圓錘形えんすいけいに近ちかい孔あなが開ひらいてをり、この孔あなのあけ工合ぐあひでも、ほんとうに古ふるいものか、僞物にせものであるかゞわかるのであります。

勾玉まがたまは、昔むかしも非常ひじように貴重きちようにされたものと見みえて、日本につぽんでは一ひとつの古墳こふんから餘あまりたくさん發見はつけんせられません。これに反はんして、わりあひにたくさん出でてくるのは管玉くだたまといふ玉たまです。これは管くだの形かたちをした筒形つゝがたの玉たまでありまして、その長ながさは一寸前後いつすんぜんごのものが普通ふつうです。石いしはみな出雲いづもから出でる碧玉へきぎよくで造つくつてあります。昔むかしは管玉くだたまのことをたか玉だまといつたのですが、それは竹玉たけだまといふ意味いみであつて、この青あをい碧玉へきぎよくを用もちひたのは、ちょうど青竹あをだけを切きつて使つかつたのをまねたからだといはれてをります。なほ管玉くだたまの中うちでごく古ふるいものには、非常ひじように細ほそくて、直徑ちよくけいが一分前後いちぶぜんごのものが多おほいのでありますが、時代じだいがやゝ降くだりますと、だん〱太ふとくなつてまゐります。

管玉くだたまの次つぎにたくさん出でるものに、切きり子こ玉だまといふのがあります。これはほとんどみな水晶すいしようで造つくつてありまして、六角ろつかくあるひは八角はつかくの方錘形ほうすいけいを、底そこの方ほうで二ふたつつないだ恰好かつこうになつてをります。その他ほかの玉類たまるいには棗玉なつめだま、丸玉まるだま、平玉ひらだま、小玉こだまなど、いろ〱の種類しゆるいがありますが、これらの小ちひさい玉たまは多おほく紺色こんいろ、あるひは緑色みどりいろのがらすで造つくつてあるのが普通ふつうであります。これによつても、この時分じぶんからすでに色いろがらすがつくられたことがよくわかりますが、無色透明むしよくとうめいの板いたがらすはまだ世界中せかいじゆうどこにもありませんでした。かような玉たまは古墳こふんが發掘はつくつせられたとき、たいてい土つちの中なかに混まじつてゐますから、すぐに見みつからないことがあります。それで土つちを篩ふるひにかけてよく探さがさなければなりません。(第六十四だいろくじゆうし、五圖ごず)

〔図〕fig18371_65.png第六十四圖 日本古墳發見勾玉横×縦

第六十四圖 日本古墳發見勾玉

〔図〕fig18371_66.png第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り横×縦

第六十五圖 日本古墳發見玉類及び金裝耳飾り

いま申まをした、いろ〱の種類しゆるいの玉たまの中なかで、勾玉まがたまは日本以外につぽんいがいでは、たゞ朝鮮ちようせんの南方なんぽうから出でるだけで、他たの國くにではほとんど發見はつけんせられませんから、まづ日本獨特につぽんどくとくの玉たまといふことが出來できます。ところがこの面白おもしろい勾玉まがたまの形かたちが、どうして出來できたのであるかといひますと、昔むかしの人ひとが狩かりをして獸けだものをとり、その牙きばや齒はに孔あなをあけて飾かざりにした風習ふうしゆうが傳つたはつて、その牙きばや齒はの形かたちの曲まがつたのをまねて、次第しだいに勾玉まがたまの美うつくしい形かたちになつたのだと、多おほくの學者がくしやはいつてをります。かういふ孔あなをあけた獸類じゆうるいの牙きばや齒はは、日本につぽんの石器時代せつきじだいの遺跡いせきや、また外國がいこくの遺跡いせきからもずいぶんたくさん發見はつけんせられますが、勾玉まがたまのように美うつくしい形かたちの玉たまは、外國がいこくではまったく見みられません。また玉たまを體からだにつけて飾かざる風習ふうしゆうは、世界せかいいづれの國くににもありますが、日本につぽんは支那しななどに比くらべて、よけいに玉たまを愛あいしたと見みえて、支那しなの墓はかからはそれほどたくさんの玉たまが發見はつけんせられることはありません。なほ玉類たまるいのほかに體からだへつけた裝飾品そうしよくひんには、金鐶きんかんといふ銅どうにめっきをした環かんがありまして、これはたいてい一對いつゝひづゝ出でるので、多分たぶん耳飾みゝかざりなどに使つかつたものと思おもはれます。またこの鐶かんにはーと型がたなどの細こまかい飾かざりがぶら下さがつてゐる、立派りつぱな耳飾みゝかざりが時々とき〲出でることがありますが、これは南朝鮮みなみちようせんの古墳こふんからたくさん發見はつけんせられるもので、朝鮮風ちようせんふうのものといふことが出來できます。(第六十五圖だいろくじゆうごず)

(ヘ)古ふるい鏡かゞみ

古墳こふんから銅どうで作つくつた鏡かゞみがたくさん出でますが、ことに古ふるい時代じだいの古墳こふんには多數たすうの鏡かゞみを棺かんの中なかに入いれてあるのでありまして、時ときには一ひとつの古墳こふんに十枚じゆうまい二十枚にじゆうまい或あるひはそれ以上いじようあることもあります。そして、その鏡かゞみはたいてい支那しなで出來できたものであり、時ときにはまた日本につぽんで作つくつた鏡かゞみもありますが、それもまったく支那しなの鏡かゞみをまねて作つくつたものであります。ところが支那製しなせいの鏡かゞみは皆みな、その頃ころ大陸たいりくから輸入ゆにゆうされたものでなくてはなりませんが、不思議ふしぎなことには朝鮮ちようせんの南みなみ、昔むかしの新羅しらぎの國くにの古墳こふんは日本につぽんの古墳こふんとよく似にてゐて、その中なかから勾玉まがたまのような日本特有につぽんとくゆうのものも出でるにかゝはらず、鏡かゞみに至いたつてはほとんどまったく發見はつけんせられないのです。王樣おうさまの墓はかと思おもはれる立派りつぱな墓はかでも、鏡かゞみは一枚いちまいも掘ほり出だされないのは、實じつに奇妙きみように思おもはれますが、まさか新羅しらぎの人ひとでも鏡かゞみを使つかはず、お化粧けしようをしなかつたとは思おもはれませんので、鏡かゞみは用もちひてゐたけれども、死人しにんの棺かんの中なかに、何なにかの理由りゆうで入いれなかつたものと考かんがへられます。しかし次つぎの高麗かうらいといふ時代じだいの墓はかからは鏡かゞみがたくさん出でます。とにかく鏡かゞみは昔むかし支那しなでも顏かほを寫うつすばかりのものではなく、これを持もつてゐると、惡魔あくまを除よけるといふような考かんがへがあつたので、墓はかに收をさめたのもさういふ意味いみがあつたかも知しれないのです。かように新羅しらぎの人ひとは鏡かゞみを使つかつたにしても、墓はかに埋うづめないから、支那しなからたくさんの鏡かゞみがはひつて來きたとは思おもはれません。それゆゑ日本につぽんへ來きた支那しなの鏡かゞみは、朝鮮ちようせんを經へないで恐おそらく南支那邊みなみしなへんから、直接ちよくせつに來きたものと思おもはれます。

さて支那しなでは周しゆうのすゑ秦しんの時代頃じだいころから、鏡かゞみが作つくられてゐたらしいのでありますが、漢かんの時代じだいになつてから非常ひじようにたくさんに作つくられ、六朝時代りくちようじだいを經へて唐とうの時代じだいまで、盛さかんに立派りつぱな鏡かゞみが現あらはれましたが、その後ご宋そうの時代じだいからは、だん〱拙まづい粗末そまつなものになつてしまひました。また鏡かゞみの形かたちは唐とうの時代頃じだいころまでは多おほく圓まるい鏡かゞみでありまして、あの花瓣かべんのように周圍しゆういが切きれてゐる八稜鏡はちりようきようとか八花鏡はつかきようといふ形かたちの鏡かゞみは、まったく唐とうの時代じだいになつて初はじめて出來できたものであり、また柄えのついた鏡かゞみや四角しかくな鏡かゞみも、唐とうや宋そう以後いごのものであります。それに世間せけんでは三種さんしゆの神器じんぎの中なかにある御鏡みかゞみを、八稜鏡はちりようきようのような恰好かつこうのものと思おもふ人ひとがあるのは間違まちがひで、もちろん、たれもこれを拜はいした人ひとはないのでありますが、古ふるい時代じだいの鏡かゞみでありますれば、必かならず圓まるい鏡かゞみでなければなりません。(第六十七圖だいろくじゆうしちず)

〔図〕fig18371_67.png第六十六圖 日本支那古鏡横×縦

第六十六圖 日本支那古鏡

〔図〕fig18371_68.png第六十七圖 日本支那古鏡横×縦

第六十七圖 日本支那古鏡

さて古墳こふんの中なかから出でる鏡かゞみは、ちょうど漢かんから六朝時代りくちようじだいの鏡かゞみでありまして、その裏面りめん、顏かほを寫うつす面めんの反對面はんたいめんには、たいてい圓まるい鈕じゆうがあつて、その周圍しゆういにはいろ〱の模樣もようが刻きざまれてゐます。時代じだいが變かはるに從したがつてこの紋樣もんようもだん〱變かはつて行ゆくのでありますが、漢かんの時代じだいの鏡かゞみには、曲線きよくせんや直線ちよくせんをあつめた模樣もようや、寫生的しやせいてきでない動物どうぶつの形かたちなどが現あらはれてをります。そこに竝ならべてある鏡かゞみを御覽ごらんになればよくわかりますが、かような模樣もようをつけた支那しなの鏡かゞみは非常ひじようによく出來できてゐますのに、その頃ころ日本につぽんで出來できた鏡かゞみはまだ作つくり方かたが拙まづいので、大たいへん見劣みおとりがいたします。例たとへば模樣もようの中なかにある支那文字しなもじでも、日本製につぽんせいの鏡かゞみにはなんだかわからない字じの形かたちになつたり、模樣もようもはつきりいたしません。それでこれをよく見みますと日本製につぽんせいか支那製しなせいかの區別くべつはわかるのであります。またそれらの鏡かゞみをお墓はかに入いれるときには、はじめは袋ふくろのようなものに納をさめて入いれたに相違そういなく、いま發見はつけんされる鏡かゞみの端はしに腐くさつた布ぬののはしが着ついてゐるのを見みても、それを知しることが出來できます。(第六十六圖だいろくじゆうろくず)

古墳こふんからは、漢かんから六朝頃りくちようころまでの鏡かゞみと、それを摸造もぞうした日本製につぽんせいの鏡かゞみとが出でるだけで、唐以後とういごの鏡かゞみはほとんど發見はつけんされないといつてもよろしい。しかし鏡かゞみは、もちろんその頃ころでも用もちひられてゐたので、たゞ墓はかへ餘あまり入いれなかつたものと思おもはれます。しかし日本につぽんでは平安朝以後へいあんちよういごになりますと、唐とうの鏡かゞみの模樣もようをだん〱變化へんかさせて、遂つひにはまったく日本的につぽんてきのごく優美ゆうびな模樣もようをつけた鏡かゞみを作つくるようになりました。さういふ鏡かゞみは古墳こふんからは出でませんけれども、經塚きようづかといつて、お經きようなどを埋うづめた後のちの時代じだいの塚つかからよく發見はつけんされます。前まへには日本製につぽんせいの鏡かゞみは支那製しなせいに比くらべて非常ひじように拙まづかつたのが、この平安朝へいあんちようから足利時代あしかゞじだいになつて、支那しなの同時代どうじだいの鏡かゞみと比くらべて、かへって巧うまく出來でき、なか〱優すぐれたところがあるのであります。この日本製につぽんせいの鏡かゞみを和鏡わきようと申まをしてをります。つまりそれは日本につぽんがその時代じだいになつて、だん〲文化ぶんかが進すゝんで技術ぎじゆつも秀すぐれて行いつたことを示しめす、何なによりもよい證據しようこであります。

(ト)刀劒とうけんと甲冑かつちゆう

いまお話はなしした古墳こふんから出でる鏡かゞみは青銅せいどうで作つくつてあるので、青色あをいろの錆さびが出でてをつても、腐くさつたものは少すくなく、たいてい壞こはれないで土つちの中なかから出でて來きます。ところが古墳こふんに入いれてあつた刀かたなや劍つるぎの類るいになりますと、その數かずは非常ひじようにたくさんありますが、中身なかみがみな鐵てつですから赤錆あかさびになつて、ぼろ〱に腐くさつてしまひ、完全かんぜんに取とり出だすことはよほど難むつかしいのであります。たゞ鞘さやの上うへに飾かざつてあつた、金きんめっきをした銅どうなどの部分ぶぶんだけが、わりあひによく殘のこつてゐるだけであります。さてこの時分じぶんの刀劍とうけんの身みは、みな眞まつすぐで、後のちの時代じだいの刀かたなのように反そりがありません。また源頼朝みなもとのよりともや義經よしつねなどの時代じだいから後のちになりますと、皆みなさんも知しつてゐるとほり、日本刀につぽんとうといふものが盛さかんに作つくられて、支那しなへも輸出ゆしゆつされたくらゐでありましたが、この古ふるい時代じだいではかへって支那しなや朝鮮ちようせんからよい刀劍とうけんが輸入ゆにゆうされたであります。

刀劍とうけんの身みの形かたちは、たいてい大たいした違ちがひはありませんが、柄つかの形かたちにはいろ〱異ことなつたものがありまして、そのうち珍めづらしいものには、『くぶつち』の劍つるぎといふのがあります。これは柄つかの頭あたまが槌つちの頭あたま、あるひは拳こぶしを曲まげたような形かたちをしてゐるもので、多おほくは金きんめっきをした銅どうで出來できて、非常ひじようにきれいなものであります。かういふふうな作つくりの劍つるぎは、支那しなにも朝鮮ちようせんにも見みつかりませんので、まづ日本につぽんで初はじめて出來できたものだらうと思おもはれます。その次つぎに環頭かんとうの劍つるぎといふのがあります。これは柄つかの頭あたまのところが環かんの形かたちをして、その中なかに鳥とりや獸けだものや、あるひは花はなの形かたちがついてゐるものであります。この種類しゆるいのものは朝鮮ちようせんや支那しなからも出でますので、多おほくはかの地ちから日本につぽんへ輸入ゆにゆうして來きたものか、またそれを摸造もぞうしたものであると思おもはれます。それからまた、日本につぽんで作つくられたと思おもはれるものに、蕨手わらびての劍つるぎといふのがありますが、これは大おほきな劍つるぎにはなくて、小ちひさい刀かたなにたくさんありまして、柄つかの頭あたまが蕨わらびのように曲まがつてゐるものであります。(第六十八圖だいろくじゆうはちず)

〔図〕fig18371_69.png第六十八圖 日本古墳發見刀劔横×縦

第六十八圖 日本古墳發見刀劔

以上いじよう述のべた、いろ〱の刀劍とうけんの拵こしらへは、たいてい金きんめっきをした銅どうで作つくつたものであつて、その中なかには『くぶつち』のように日本獨特につぽんどくとくの拵こしらへもありますが、多おほくは支那しな朝鮮ちようせんのもの、もしくはそれをまねたもので、かような外國風がいこくふうのものを、その時分じぶんの人ひとが喜よろこんで用もちひたのはむりもありません。しかしまた一方いつぽうには、日本につぽんに古ふるくから行おこなはれてゐた作つくりの刀劍とうけんもやはり用もちひられてゐたものであります。例たとへば劍つるぎの柄つかのところを鹿しかの角つので裝飾そうしよくし、その上うへに外國がいこくでは見みられない直線ちよくせんや弧線こせんの組くみ合あはせた模樣もようをつけた日本風につぽんふうな刀劍とうけんが、外國的がいこくてきな刀劍とうけんと同時どうじに用もちひられてゐたのであります。これはそれらの刀劍とうけんが同おなじ墓はかから、一いつしょに發見はつけんされることでよくわかります。

昔むかしの人ひとは、今日こんにち田舍ゐなかの樵きこりや農夫のうふが山やまへ行ゆく時ときに、鎌かまや斧をのを腰こしに着つけてゐるように、きっと何なにか刃物はものを持もつてゐたものと思おもひます。また皆みなさんが學校がつこうへ行ゆく時とき、鉛筆えんぴつをけづつたりする場合ばあひにないふが必要ひつようであるように、昔むかしの人ひとも常つねに小刀こがたなを持もつてをりました。その小刀こがたなを刀子とうすと申まをしますが、それが墓場はかばからたくさん發見はつけんされます。この刀子とうすは男をとこばかりでなく、女をんなの人ひともお守まもりに持もつてゐたと思おもはれますが、その鞘さやは木きでつくつたものゝほかに、毛けのついた皮かはを縫ぬひ合あはせてつくつたものが、一般いつぱんに行おこなはれてゐたようです。そしてお墓はかの中なかにほんとうの刀子とうすを納をさめたばかりでなく、石いしでつくつた刀子とうすで、ちょっと見みるとなんの形かたちだかわからぬ形かたちをしたものをも、たくさん埋うづめたのでありました。それがやはり古墳こふんから出でて來くるのであります。(第七十三圖だいしちじゆうさんず)

さて刀劍とうけんが出でるくらゐでありますから、甲胄かつちゆうもまた墓はかの中なかからたくさん出でて來くるのです。これはたいてい鐵てつで作つくつたものでありまして、後のちの時代じだいの鎧よろひや劍道けんどうのお胴どうに似にたようなものであります。なにぶん薄うすい鐵てつの板いたでつくり、これを革かはの紐ひもで結むすび合あはせたものでありますから、今いまではぼろ〱に壞こはれて、完全かんぜんに遺のこつてゐるものは稀まれであります。もちろんこの鐵てつの甲胄かつちゆうの他ほかに、革製かはせいのものもあつたと思おもはれますが、これはとっくに腐くさつてしまひ、今いまは殘のこつてをりません。しかし、これらの甲胄かつちゆうをどういふふうに着つけてゐたかといふことは、あの埴輪人形はにわにんぎように甲胄かつちゆうを裝よそほふたのが遺のこつてをりますので、それを見みて大體だいたいの恰好かつこうを想像そうぞうすることが出來できます。(第六十九圖だいろくじゆうくず)

〔図〕fig18371_70.png第六十九圖 日本古墳發見甲胄横×縦

第六十九圖 日本古墳發見甲胄

(チ)馬具ばぐ、土器どきその他た

たゞ今いままでお話はなしをしました玉たまや鏡かゞみや劍つるぎなどは、たいてい古墳こふんの中なかにある石棺せきかんの内うちか、石室せきしつの中なかの死體したいのごく側そばに、收をさめてあつたものでありますが、なほ石棺せきかんの外そとや石室せきしつの中なかには、その時代じだいの人ひとたちの用もちひてゐたいろ〱の品物しなものが收をさめてあります。その中なかでもまづ眼めにつくのは、馬うまに使つかつた馬具ばぐの類るいであります。これには鐵てつで造つくつた轡くつわだとか鞍くらだとか、その他ほかのものがありますが、轡くつわには兩側りようがはの鏡板かゞみいたといふ部分ぶぶんにいろんな飾かざりがついてをります。また鞍くらにも金きんめっきした透すかし彫ぼりの美うつくしい飾かざりがあります。それから鞍くらから馬うまの胸むねのところや尻しりの方ほうに廻まはつて行ゆく革かはの帶おびには、杏葉きようようといふ飾かざりがつけてありまして、その飾かざりはたいてい鐵てつの上うへに金きんめっきをした銅どうを張はりつけ、美うつくしい唐草からくさなどの模樣もようが透すかしてあります。またこれに鈴すゞがついてゐるのもあつて、餘程よほどうまく出來できてをります。そのほか、馬鐸ばたくといつて杏葉きようようと一いつしょに、ぶら下さげる鈴すゞのようなものもあり、鈴すゞが三みつつ聯つらなつた珍めづらしい形かたちのものもあります。(第七十圖だいしちじゆうず)

〔図〕fig18371_71.png第七十圖 日本古墳發見馬具横×縦

第七十圖 日本古墳發見馬具

元來がんらい馬うまは日本につぽんの石器時代せつきじだいの貝塚かひづかからその骨ほねが掘ほり出だされるので、古ふるくから日本につぽんにゐたことがわかりますが、しかし本當ほんとうに乘馬じようばに使つかふ良よい馬うまは、やはりその後ご朝鮮ちようせんあたりから輸入ゆにゆうされたものでありませう。それで馬具ばぐも馬うまと一いつしょに、朝鮮ちようせん支那しななどで用もちひてゐたものをそのまゝ日本につぽんで使つかつたらしいのです。これらの馬具ばぐをどういふ風ふうに着つけたかといふことは、あの埴輪はにわの馬うまを見みればよくわかります。日本書紀につぽんしよきといふ古ふるい歴史れきしの本ほんに、次つぎのような話はなしが書かいてあります。むかし、雄略天皇ゆうりやくてんのうの御時おんとき、河内かはちの安宿郡あすかべぐんの人ひとに田邊伯孫たなべはくそんといふ人ひとがありまして、その娘むすめが古市郡ふるいちぐんの人ひとへかたづいてゐましたが、ちょうど赤あかちゃんを産うんだので、伯孫はくそんはお祝いはひにその家いへへ行ゆきました。その歸かへりがけ、それは月夜つきよの晩ばんのことでありましたが、あの應神天皇おうじんてんのう(伯孫はくそんの時ときから百年ひやくねんほど前まへに當あたる)の御陵ごりようの前まへを通とほりかゝると、非常ひじように立派りつぱな赤あかい馬うまに乘のつてゐる人ひとに出會であひました。自分じぶんの馬うまはのろくてとても叶かなひませんので、その馬うまをほしく思おもひ、いろ〱話はなしをして馬うまを取とりかへてもらひ、喜よろこんで家いへへかへりました。ところが翌日よくじつ厩うまやへ行いつてその赤馬あかうまを見みますと、驚おどろいたことには、それは土つちの馬うまでありました。これはへんなことだと、伯孫はくそんはゆうべの應神天皇おうじんてんのうの御陵ごりようの所ところへ行いつて見みましたら、自分じぶんの乘のつてゐた馬うまは、御陵ごりようの前まへにある埴輪はにわの土馬つちうまの間あひだにをつて、主人しゆじんをまつてゐたので、またびっくりしましたが、やうやくその馬うまと土馬つちうまと取とりかへて家いへへつれて歸かへつたといふ面白おもしろいうそのような話はなしであります。これはその時分じぶん河内かはちの役人やくにんから朝廷ちようていへ報告ほうこくした事實じじつでありまして、とにかく當時とうじ馬うまに乘のることが行おこなはれてをり、また埴輪はにわの馬うまが御陵ごりように立たつてゐたことを、われ〱に教をしへてくれる話はなしであります。

〔図〕fig18371_72.png第七十一圖 田邊伯孫譽田陵に馬を求む

第七十一圖 田邊伯孫譽田陵に馬を求む

馬具ばぐのほかに、古墳こふんからたくさん出でるものは土器どきであります。しかし、この土器どきはごく古ふるい古墳こふんからは餘あまり發見はつけんせられず、石室せきしつの出來できた頃ころからの古墳こふんにたくさん收をさめられてをり、一ひとつの墓はかから時ときには五六十ごろくじゆうも一度いちどに土器どきの出でて來くることがあります。それらの土器どきの燒やき方かたは、前まへに申まをした彌生式土器やよひしきどきに似にたところの赭あかい色いろの軟やはらかい素燒すやきのものもありますが、たいていは鼠色ねずみいろをした、ごく硬かたい陶器とうきとでもいへる燒やき物ものであつて、私わたしどもはこれをいはひべ(祝部いはひべ)土器どきと呼よんでをります。この燒やき方かたは朝鮮ちようせんからはひつて來きて、日本につぽんにだん〱行おこなはれるようになつたのでありまして、その形かたちはいろ〱あります。例たとへば坏つきといふ平ひらたいお椀わんのようなもの、それに蓋ふたのついたもの、またその坏つきに高たかい臺だいのついた高坏たかつきといふようなものなどたくさんありますが、それらはふだん食事しよくじのときに御馳走ごちそうを盛もつた道具どうぐだと思おもはれます。そのほか、壺つぼにも頸くびの長ながいのや短みじかいのや、いろ〱あります。また酒さけや水みづが五六升ごろくしようもはひるような大瓶おほかめがあり、珍めづらしい恰好かつこうのものには、丈たけの高たかい透すかし入いりの壺つぼをのせる臺だいだとか、壺つぼと臺だいとくっついてゐるものだとか、口くちの周まはりに人間にんげんや馬うまの小ちひさい形かたちをつけた、飾かざりつきの壺つぼだとか、また口くちのついたしびんのような形かたちをしたものもありますが、なかにも不思議ふしぎなのははさふといふ器物きぶつです。それは小ちひさい壺つぼの上うへに、朝顏形あさがほがたちに開ひらいた長ながい口くちがあり、壺つぼの横よこに小ちひさい孔あながついてゐるものです。何なにに使つかつたのかよくわかりませんが、ある人ひとはその孔あなに小ちひさい竹たけの管くだを差さし込こんで、中なかにある水みづとか酒さけとかを吸すつたものだらうといひます。あるひはさうかも知しれません。また横よこに長ながい俵たはらのような恰好かつこうをして、そのまん中なかに口くちをつけた横瓮よこべといふ壺つぼがありますし、ひらべったい壺つぼで紐ひもをつける耳みゝと口くちのついた提さげ瓶つぼといふのがありまして、これはちょうど今日こんにちあるみにゅーむ製せいの水筒すいとうと同おなじように水みづを入いれて提さげたものに違ちがひはありません。ちょうど皆みなさんが遠足えんそくに行ゆくときに用もちひる水筒すいとうと同おなじものでありますが、これは初はじめは獸けだものの皮かはで作つくつた水袋みづぶくろからその形かたちが出でて來きたのです。それで皮かはの縫ぬひめなどをちゃんと現あらはした、皮袋形かはぶくろがたの土器どきが時々とき〲發見はつけんせられます。そのほか今日こんにちでは使つかひ方かたのわからないような品物しなものもたくさん出でるのでありますが、これを前まへに皆みなさんと一いつしょに見みました石器時代せつきじだいの土器どきに比くらべますと、大體だいたいがあっさりとし、その飾かざりにしても、ごて〱した曲線模樣きよくせんもようなどはなく、その形かたちもたいてい一定いつていしてをります。かういふ點てんから見みますと、これらの土器どきは恐おそらく專門せんもんの土器製造人どきせいぞうにんが、その工場こうばで作つくつたのを各地かくちに賣うり出だしたものにちがひありません。それで美術的びじゆつてきな目的もくてきよりも、まったく實用的じつようてきになつたものが多おほいことがわかります。(第七十二圖だいしちじゆうにず)

〔図〕fig18371_73.png第七十二圖 日本古墳發見祝部土器横×縦

第七十二圖 日本古墳發見祝部土器

古墳こふんから普通ふつう發見はつけんせられるものは、今いままで述のべたようなものでありますが、その他ほかに、時々とき〲發見はつけんせられるものには、銅どうに金きんめっきをした冠かんむりや、また同おなじく銅製どうせいめっきの靴くつがあります。これは後のちほどお話はなしをする朝鮮ちようせんの古墳こふんからも出でるもので、かような靴くつや冠かんむりは、もちろん平生へいぜい使つかつたものでなく、儀式ぎしきのときなどに用もちひたものでありませう。また今日こんにちの下駄げたによく似にて鼻緒はなをの前まへの孔あなが右足みぎあしは左ひだりに、左足ひだりあしは右みぎにかたよつて出來できた石いしの下駄げたが出でて來くることがあります。これも平生へいぜいは木きの下駄げたをはいたものでありませうが、この時分じぶんの人ひとは多おほくは草履ぞうりや草鞋わらぢのほかに皮かはで作つくつた靴くつを履はき、またこんな形かたちの下駄げたを雨あめふりなどには履はいてゐたことがわかります。さうすると私共わたしどもの下駄げたはずいぶん古ふるくからあることがわかつて、なんと面白おもしろいではありませんか。また同おなじような石いしで作つくつた品物しなものに鍬くはの形かたちをしたものや、腕輪うでわの形かたちをしたものなどが出でて來きますが、この中なかには果はたして何なにに使つかはれたものか、よくわからないものも多おほくあるのです。(第七十三圖だいしちじゆうさんず)

〔図〕fig18371_74.png第七十三圖 日本古墳冠靴その他横×縦

第七十三圖 日本古墳冠靴その他

(リ)建築けんちく、彫刻ちようこく、繪畫かいがなど

私達わたしたちは今いままで日本につぽんの古墳こふんと、その中なかから發見はつけんせられる樣々さま〲の遺物いぶつを見みてまゐりましたが、これ等らの品物しなものは、みなこの古ふるい時代じだいの人ひとの作つくつた美術品びじゆつひん工藝品こうげいひんであつて、このほかに別べつに美術びじゆつも工藝こうげいもないわけでありますが、いま改あらためてそれ等らのものから、特とくにこの時代じだいの建築けんちくはどんなものであつたか、彫刻ちようこく、繪畫かいがはどんなものであつたかを、述のべて見みることにいたしませう。

第一だいゝちに建築けんちくは、古墳こふんの石室せきしつなども一種いつしゆの建築けんちくではありますが、人間にんげんの住すみ家かなどの類るいはどういふふうなものであつたかといふと、前まへにも申まをしたとほり、屋根やねは草葺くさぶき、茅葺かやぶきあるひはまた板葺いたぶき、柱はしらは圓まるい材木もくざいをそのまゝ、あるひは皮かはをむいて用もちひ、柱はしらの下したには礎いしずゑもない、掘立ほつたて小屋ごやといふふうなものであつたので、今日こんにちその跡あとはなにも殘のこつてをりません。それゆゑ、これはたゞあの埴輪はにわの家いへや、そのほかの品物しなものに現あらはれてゐる家いへの形かたちと、歴史れきしや歌うたの書物しよもつに書かいてあるところで想像そう〲するほかには、今いまなほ神社じんじやや民家みんかに殘のこつてゐる古ふるい作つくり方かたを參考さんこうにするほかはありません。また倉くらのような建たて物ものは、多おほくは今日こんにちも奈良ならの正倉院しようそういんの御倉おくらなどに見みるような、木きを組くみあはせた校倉あぜくらといふものであつたと思おもはれます。

その次つぎに彫刻ちようこくといふものはなんであるかといふに、これは埴輪はにわの人形にんぎようや動物どうぶつの像ぞうまたは石人せきじん石馬せきばなどがそれであります。もちろんあの埴輪はにわは、お葬式そうしきの時ときに作つくつて墓場はかばに立たてたもので、非常ひじように骨ほねををつて作つくつたものではありませんが、その粗末そまつな下手へたな作つくり方かたのうちにも、この時代じだいの人ひとの無邪氣むじやきな素直すなほな心持こゝろもちがよく現あらはれてをります。かういふ埴輪はにわの人形にんぎようを作つくつてゐる時ときに、朝鮮ちようせんから佛教ぶつきようが傳つたはり、お釋迦しやかさま、彌勒みろくさま、觀音かんのんさまのような佛樣ほとけさまの像ぞうが持もちこまれたのですから、驚おどろいたのはむりもないのです。これは立派りつぱなお姿すがただと感心かんしんして、佛教ぶつきようを信しんずるものも多おほく出來できたのですが、そのうち日本につぽんでも佛像ぶつぞうを作つくるようになり、それから百年ひやくねんもたゝない奈良朝ならちようごろになつては、その本家ほんけである支那しな朝鮮ちようせんの佛像ぶつぞうにも優まさるとも劣おとらない、立派りつぱな彫刻ちようこくが出來できたのであります。

それではこの時代じだいの繪畫かいがといふものは殘のこつてゐるかといひますと、もちろん襖ふすまや唐紙からかみに描かき、掛かけ軸じくにした繪えなどは、この時代じだいにはないばかりでなく、またあつたからとて今日こんにちまで殘のこつてゐるはずはありません。またあのヨーロッパの舊石器時代きゆうせつきじだいの大昔おほむかしのように、洞穴ほらあなに描かいたすばらしい動物どうぶつの畫えなどはまったくなく、たゞ銅鐸どうたくの上うへに現あらはしてある簡單かんたんな子供こどもが描かいたような、しかし非常ひじように面白おもしろい人物じんぶつ動物どうぶつ家屋かおくの圖ずなどの他ほかには、祝部土器いはひべどきやその他たの品物しなもの、または古墳こふんの石室せきしつ横穴よこあなの中なかの壁かべなどに彫ほりつけた、まことに粗末そまつな人物じんぶつや盾たて、矢筒やつゝなどの品物しなものの圖ずが少すこし殘のこつてゐるだけでありまして、ごく昔むかしの日本人につぽんじんはけっして繪えが上手じようずであつたとか、好すきであつたとはいふことが出來できないのです。しかし、それは生うまれつき下手へたであつたといふわけではない證據しようこには、後のちに支那しな朝鮮ちようせんから繪畫かいがが傳つたはつて來くると、すぐにそれを習ならつて、非常ひじように立派りつぱなものを作つくり出だすことになつたのであります。

次つぎに裝飾そうしよく模樣もようの類るいも、石器時代せつきじだいの土器どきにあるような、曲線きよくせんのごて〱した模樣もようのまったくないことは、前まへに申まをしたとほりで、たゞ簡單かんたんな圓えんや三角さんかくの圖ずの他ほかには、刀劍とうけんの柄つかの飾かざりにあつたような、直線ちよくせんと弧線こせんとを組くみ合あはせた、不思議ふしぎな模樣もようが目めにつくだけです。この模樣もようはまづ日本につぽんにしか見みられないもので、古墳こふんの内部ないぶやその他たの品物しなものにもよくつけてあるのですが、餘あまり珍めづらしいので近頃ちかごろ西洋せいようあたりで流行りゆうこうする模樣もようかと思おもふ人ひとがあるくらゐです。(この本ほんの表紙畫ひようしえを御覽ごらんなさい)この他ほか馬具ばぐや何なにかに支那しな朝鮮ちようせんから傳つたはり、あるひはそれをまねた品物しなものに、支那朝鮮風しなちようせんふうの模樣もようがついてゐるものもありますが、それはこの時代じだいには、まだほんの借かりものに過すぎなかつたのでした。

かういふふうに古墳こふんから出でる品物しなものを見みて、われ〱はその時分じぶんの人々ひと〲が、どういふ心持こゝろもちでをつたか、どういふ趣味しゆみを持もつてをつたかといふことがわかり、また支那しなあたりからはひつて來きた文化ぶんかのほかに、昔むかしから日本人につぽんじんが持もつてをつた固有こゆうの文化ぶんかや趣味しゆみが、やはり殘のこつてゐたことが知しられるのです。これは近頃ちかごろ西洋せいようの文明ぶんめいがはひつて來きても同おなじことで、いかに西洋風せいようふうを習ならつても、ある點てんには日本人につぽんじんには日本人につぽんじんらしい趣味しゆみと特質とくしつが、消きえないのであります。またそれがなくなつては、日本人につぽんじんでなくなるのですから大たいへんです。

またこれらの古墳こふんから出でた品物しなものを調しらべて知しられることは幾いくらもあります。例たとへば昔むかしの人ひとはどういふ生活せいかつをし、どういふ風俗ふうぞくをしてをつたかといふことも、書物しよもつだけでははっきりわからぬことを、よく知しることが出來できるのですから、古墳こふんをやたらに掘ほつたりすることは惡わるいことでありますが、何なにかの拍子ひようしに壞こはれたりして、中なかから物ものが出でた時ときには大切たいせつにこれを保存ほぞんし、丁寧ていねいにこれを調しらべなくてはなりません。そしてかういふことを調しらべる人ひとが考古學こうこがくをやる學者がくしやなのです。なほ昔むかしの風俗ふうぞくや生活せいかつのあり樣さまについては、詳くはしいことをこゝでお話はなしする時間じかんもなく、皆みなさんが歴史れきしの本ほんや他ほかの先生せんせいから教をそはることゝ思おもひますから、今日けふはこれだけでよして置おきます。

〔図〕fig18371_75.png第七十四圖 銅鐸の模樣畫横×縦

第七十四圖 銅鐸の模樣畫

〔図〕fig18371_76.png第七十五圖 日本古墳裝飾模樣圖横×縦

第七十五圖 日本古墳裝飾模樣圖

(ヌ)古瓦ふるがはらと古建築こけんちく

日本につぽんの古墳こふんから發見はつけんされてゐるいろ〱の品物しなものは、皆みなさんと一いつしょに見みてまゐりましたが、この日本につぽんの古墳こふんと非常ひじようによく似にてゐる朝鮮ちようせんなどの古墳こふんについても、この博物館はくぶつかんに參考さんこうとして少すこしばかり品物しなものや摸型もけいを竝ならべてありますから、それらを見みなければなりませんが、その前まへに、こゝにあります日本につぽんから出でる古ふるい瓦かはらを、ちょっと見みることにいたしませう。

日本につぽんの古墳こふんが造つくられた時代じだいの終をはりの頃ころには、もはや朝鮮ちようせんをへて日本につぽんへ佛教ぶつきようがはひり、それと一いつしょにお寺てらの建築けんちくが、だん〱出來できかけてをりました。あの大和やまとの法隆寺ほうりゆうじなどの大おほきい伽藍がらんが出來できた時分じぶんに、今いままで私共わたしどもの見みて來きた古墳こふんがなほつくられてをつたのであります。ところが支那しなのごく古ふるい古墳こふんには、墓はかの前まへにお靈屋たまやのような建築けんちくがあつたものもあり、それに使つかつた古ふるい瓦かはらなどが發見はつけんせられるのでありますが、日本につぽんではそんなものは一いつこうありません。しかし、この日本につぽんのお寺てらの瓦かはらは、前まへに申まをした祝部土器いはひべどきとほとんど同おなじ作つくり方かたの、堅かたい鼠色ねずみいろの燒やき物ものであつて、それは前まへに申まをしたとほり、朝鮮ちようせんからその製法せいほうが傳つたへられたのでありました。この古ふるい瓦かはらが古ふるいお寺てらの境内けいだいや、古ふるいお寺てらのあつた場所ばしよで今いまは畑はたけとなつてゐるところから、よく掘ほり出だされるのであります。それで皆みなさんも古墳こふんを見みに行いつたり、石器せつきを採集さいしゆうに出でかけたりするときには、さういふ古ふるい瓦かはらを拾ひろふこともありませうから、瓦かはらの話はなしを少すこし知しつて置おくのも、まったく無用むようではありますまい。

あの支那しなでは漢かんの時代じだいごろには、圓瓦まるがはらの先さきに模樣もようや文字もじがつけてありました。瓦かはらのこの部分ぶぶんを瓦當がとうと呼よんでゐます。中なかにはまたまんまるでなく半圓形はんえんけいのものもあります。しかし平瓦ひらがはら、後のちには唐草からくさなどが飾かざりにつけてあるところでありますから、これを唐草瓦からくさがはらといひますが、その端はしにはたいてい模樣もようがつけてありませんでした。日本につぽんの瓦かはらはちょうど支那しなの隋ずいといふ時代じだいに、朝鮮ちようせんから輸入ゆにゆうせられたものでありまして、圓瓦まるがわらの端はしには蓮華れんげの模樣もようを飾かざりにつけてあり、唐草瓦からくさがはらにも蔓草つるくさの模樣もようなどがつけてあります。その蓮華れんげの模樣もようも中央ちゆうおうの實みの方ほうが非常ひじように大おほきい形かたちのものもあり、花瓣かべんの恰好かつこうも大たいそう美うつくしく、蔓草つるくさの形かたちも非常ひじようによく出來でき、その彫ほりかたも強つよく立派りつぱであります。また瓦かはらは一體いつたいに大たいへん大おほきく、今日こんにちの瓦かはらの二倍にばいくらゐもあります。またその竝ならべ方かたも今日こんにちとは少すこし違ちがつてをりました。聖徳太子しようとくたいしの時代じだい(飛鳥時代あすかじだいといひます)に用もちひられた、かういふ立派りつぱな瓦かはらも、だん〱時代じだいをふるに從したがつて粗末そまつとなり、聖武天皇しようむてんのうの頃ころ(奈良時代ならじだいあるひは天平時代てんぴようじだいといふ)を過すぎては、模樣もようは拙まづく意匠いしようのまづいものになつてしまつたのは、不思議ふしぎなことであります。それは、かような大おほきい瓦かはらは屋根やねを葺ふくには重おもすぎるので、後のちには輕かるい瓦かはらを作つくるようになつたことゝ、瓦師かはらしもなるだけ安やすいものをたくさんに造つくらうとしたので、惡わるいものが出來できて來きたものでいたしかたがありません。私共わたしどもはこの瓦かはらの形かたちと模樣もようが、時代々々じだい〱に異ことなつてゐるのを見みて、その建築けんちくが、いつの時代じだいのものであるかといふことがわかるので、美術びじゆつや歴史れきしの上うへから見みて非常ひじようにためになることでありますが、そのお話はなしをするとあまり長ながくなりますから、今いまはやめて置おきます。また別べつの先生方せんせいがたからお聞ききになる場合ばあひがありませう。なほ古ふるいお寺てらのあつたところには、瓦かはらのほかに大おほきな柱はしらの礎石そせきが殘のこつてゐることもあります。この礎いしずゑの竝ならべ方かたを見みて、そこにはどういふ形かたちの御堂おどうが建たつてゐたかゞ知しられます。もちろんこの時分じぶんのお寺てらの建築けんちくで、今日こんにちもなほ昔むかしの礎いしづゑの上うへに立たつてゐるものも、たまには珍めづらしく殘のこつてゐます。あの法隆寺ほうりゆうじの金堂こんどう、五重ごじゆうの塔とう中門ちゆうもんなどが一番いちばん古ふるいもので、千何百年せんなんびやくねんも長ながいあひだ木造もくぞうの建築けんちくがそのまゝ傳つたはつてゐるといふことは、世界せかいにも餘あまり例れいのないことです。その次つぎに古ふるいのは奈良ならの西にしにある藥師寺やくしじの塔とう、それから聖武天皇頃しようむてんのうころの建たて物ものが奈良ならにちょい〱殘のこつてをります。これ等らのお寺てらをよく見みると、皆みなさんはいろ〱造つくり方かたの違ちがつてゐる點てんがわかり、また昔むかしの建築けんちくがいかにも良よく出來できてゐることに氣きがつくのですが、この建築けんちくのお話はなしもまた別べつの時ときにすることにいたします。

しかしこゝでちょっと申まをして置おくことは、かういふお寺てらの建築けんちくが支那しな朝鮮ちようせんから傳つたはり、天皇てんのうの御殿ごてんや貴族きぞくの家屋かおくもさういふふうに作つくられるようになりましたが、人民じんみんの家いへなどはたいていやはり昔むかしのまゝの形かたちに造つくられたと思おもはれますし、ことに伊勢大神宮いせだいじんぐうや出雲いづもの大社たいしやのような神社じんじやは、ごく古ふるい〱時代じだいの日本につぽんの家いへの形かたちをそのまゝに作つくることゝなつてをつたのです。そして今日こんにちなほ大神宮だいじんぐうはなんべん建たてかへても形かたちだけは昔むかしのまゝに、屋根やねは茅葺かやぶき、柱はしらは掘立ほつたて、そして白木しらきのまゝで、高たかくちぎとかつをぎが屋根やねの上うへについてゐて、いかにも埴輪はにわの家いへの形かたちを思おもひ出ださせるのは、なんと神々かう〲しいことではありませんか。

〔図〕fig18371_77.png第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦横×縦

第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦

三、朝鮮ちようせん滿洲まんしゆうの古墳室こふんしつ

(イ)南朝鮮みなみちようせんの古墳こふん

朝鮮ちようせんにも石器時代せつきじだいの遺物いぶつが出でることは、前まへにお話はなししたのでありますが、その後ご今いまから二千年程前にせんねんほどまへ支那しなの周しゆうの末すゑから漢かんの始はじめにかけて、支那しなから金屬きんぞくの使用しようが傳つたはつて來きて、青銅器せいどうき鐵器てつきの時代じだいとなりましたのは、日本につぽんと大方おほかた同おなじ頃ころであります。ところがちょうどこの石器せつきから金屬器きんぞくきにはひる頃ころに、朝鮮ちようせんには大おほきな石いしで造つくつた西洋せいようの巨石記念物きよせききねんぶつのどるめんとよく似にた古墳こふんが、北きたから南みなみの方ほうへかけて、造つくられました。それは日本につぽんにもちょっと見みられないすばらしい形かたちのもので、下部かぶを長方形ちようほうけいの箱はこのように造つくり、その大おほきいものになると、上うへに載のせてある一枚いちまいの天井石てんじよういしの長ながさが、三間以上さんげんいじようにも及およんでゐるものがあります。もっとも、かように大おほきいものは、さうたくさんはありませんが、そのうちもっとも見事みごとなのは、北朝鮮きたちようせんの平安南道へいあんなんどうにあるものです。南朝鮮みなみちようせんの方ほうにも、やはりこれと大體だいたい同おなじようなものが、あちこちに見受みうけられます。(第七十七圖だいしちじゆうしちず)

〔図〕fig18371_78.png第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳横×縦

第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳

その後ご、南朝鮮みなみちようせんには三韓さんかんといふ小ちひさい國くにが分立ぶんりつしまして、その内うち辰韓しんかんといふのが、新羅しらぎの國くにになり、弁韓べんかんは日本につぽんの植民地しよくみんちの任那みまなになり、また馬韓ばかんといふのが百濟くだらになつたのであります。ところが、これらの國くにの文化ぶんかは、わが國くにの西南地方せいなんちほうである九州邊きゆうしゆうへんの文化ぶんかと大たいそうよく似にてをりまして、その時代じだいの古ふるい墓はかから出でる品物しなものは、日本につぽんのものと大たいした變かはりはありません。中なかにも日本につぽんの植民地しよくみんちだつた任那みまなや、新羅しらぎの古墳こふんではことにさうでありまして、どうしても南朝鮮みなみちようせんにゐた人間にんげんは、日本につぽんの九州邊きゆうしゆうへんの人間にんげんと、民族みんぞくの上うへから見みても大たいした變かはりはないように思おもはれます。しかし朝鮮ちようせんには日本につぽんの古墳こふんで皆みなさんが見みたような、前方後圓ぜんぽうこうえんの形かたちをした塚つかはなく、たゞ圓まるい塚つかが二ふたつくっついた瓢箪形ひようたんがたちのものがあるだけです。また南朝鮮みなみちようせんのある所ところでは、埴輪圓筒はにわえんとうのようなものが發見はつけんせられ、また勾玉まがたまもたくさん出でるので餘程よほど日本風につぽんふうであるかと思おもふと、また日本につぽんの古墳こふんからは支那しなの鏡かゞみがたくさん出でるのにかゝはらず、朝鮮ちようせんの古墳こふんにはこの鏡かゞみの姿すがたをまったく見みせないといふようなこともありまして、その間あひだに多少たしよう異ことなつたところがあり、民族みんぞくは同おなじでも、すでに違ちがつた國くにをつくつてゐたと考かんがへられます。

〔図〕fig18371_79.png第七十八圖 朝鮮慶州古墳群

第七十八圖 朝鮮慶州古墳群

左端の高い塚は鳳凰臺といひ、その下から左の方に慶州の町があります。

金冠塚と瑞鳳塚とは、鳳凰臺の右方の塚との間にありました。

さて、南朝鮮みなみちようせんには、あちらこちらに多數たすうの古墳こふんがありますが、中なかでも一番いちばんたくさん遺のこつてゐるのは、元もとの新羅しらぎの都みやこ慶州けいしゆうです。こゝは釜山ふざんから京城けいじようへ行ゆく汽車きしやに乘のつて、一時間いちじかんばかりで大邱たいきゆうに着つき、そこで下車げしやして自動車じどうしやで東ひがしの方ほうへ三四時間さんよじかんも走はしるとすぐ行ゆかれる所ところです。慶州けいしゆうには周圍しゆういに低ひくい山やまがあつて、一方いつぽうだけ少すこし開ひらけてゐる地勢ちせいは、ちょうど内地ないちの奈良ならに似にて、まことに景色けしきのよいところであります。この町まちに着つきますと、その低ひくい朝鮮ちようせんの家いへが立たち竝ならんでゐる間あひだに、非常ひじように大おほきい土饅頭つちまんじゆうがにょき〱と聳そびえてゐる景色けしきに誰たれもが驚おどろかされますが、これは皆みな、昔むかしの新羅しらぎの王樣おうさまや偉えらい人ひとの古墳こふんなのです。その中なかでも一番いちばん立派りつぱなのは、慶州けいしゆうの町まちの中なかにある鳳凰臺ほうおうだいといふので、これは高たかさ七十尺以上しちじつしやくいじようもある大おほきな圓塚まるづかです。この慶州けいしゆうの古墳こふんからは、今日こんにちまでいろ〱のものが發見はつけんせられましたが、私共わたしどもをびっくりさせたのは、ちょうど今いまから十年じゆうねんばかり前まへに、その鳳凰臺ほうおうだいの西手にしてにある半崩はんくづれの塚つかから出でた品物しなものであります。私共わたしどもは、その塚つかを金冠塚きんかんづかと名なづけましたが、そのわけは、この塚つかの中なかから、それは〱立派りつぱな金きんの冠かんむりが出でたからであります。(この本ほんの口繪くちえを御覽ごらんなさい)この冠かんむりはまったく純金作じゆんきんづくりでありまして、その五本ごほんの前立まへたてには小ちひさな圓まるいぴら〱や、美うつくしい緑色みどりいろの翡翆ひすいの小ちひさい勾玉まがたまが七十しちじゆうばかりもぶら下さがつてをりまして、これを頭あたまの上うへに載のせてみると、それらがゆら〱と搖ゆれて、なんともいへぬ美うつくしさを見みせます。そればかりではなく、冠かんむりの眞中まんなかからは鳥とりの羽根はねに似にた長ながい金きんの飾かざりが後うしろの方ほうに立たち、また冠かんむりの兩側りようがはからも金きんの飾かざりがぶら下さがつて、その端はしに勾玉まがたまがついてゐるといふ、すばらしい立派りつぱな金きんの冠かんむりなのです。またこの冠かんむりを着つけてゐた人ひとの腰こしのあたりには、金飾きんかざりの美うつくしい帶おびがありまして、その帶おびから腰こしのまはりには、十七本じゆうしちほんの金きんで作つくつた下さげ物ものをぶら下さげてをり、その下さげ物ものの先さきには、香入こういれや魚さかなの形かたちの勾玉まがたまや毛拔けぬきのような小道具こどうぐがついてをります。そして、また腕うでには腕環うでわ、指ゆびには指環ゆびわをつけ、足あしには金きんめっきした美うつくしい銅どうの靴くつが添そへてあるばかりでなく、この墓はかからは支那しなから渡わたつた銅器どうき、がらす器きの類るいをはじめ、馬具ばぐ、刀劍とうけん、土器どきなどが無數むすうに出でたので、實じつに見みる人ひとの眼めを驚おどろかしたのでありました。私わたしもちょうどそれらが發見はつけんされた時ときに、そこへ來合きあはせてゐてその立派りつぱさに驚おどろいた次第しだいであります。しかし私わたしは一度いちどこの金きんの冠かんむりを頭あたまへのせて見みたことがありましたが、こんな冠かんむりやいろ〱の飾かざりをつけてはその頃ころの人ひとはさぞ重おもくて、きゅうくつなことであつたらうと思おもひました。これは定さだめし新羅しらぎの古ふるい王樣おうさまのお墓はかでありませうが、その王樣おうさまの名ながわかりませんのは殘念ざんねんです。しかし大體だいたい日本につぽんの欽明天皇前後きんめいてんのうぜんご(今いまから千四百年せんしひやくねんほど前まへ)の古墳こふんと思おもはれます。(第七十九圖だいしちじゆうくず)

〔図〕第七十九圖 慶州金冠塚發見品fig18371_80png横×縦

(1)銅柄香爐 (2)がらす杯 (3)角形銅器

(4)金耳飾り (5)勾玉 (6)金腰飾り (7)金帶飾り

かような塚つかは、こればかりでなく、その後ごおひ〱と同おなじような金きんの冠かんむりを納をさめられたのがたくさん現あらはれました。あの鳳凰臺ほうおうだいの南みなみの方ほうの小ちひさい塚つかからも金冠きんかんが出でたのです。それは形かたちが小ちひさく、また腰こしに下さげた飾かざり物ものも小ちひさく可愛かわいらしいので、多分たぶん王樣おうさまの子供こどものお墓はかだらうと想像そう〲されます。また金冠塚きんかんづかのすぐ西にしの塚つかを、今いまから二三年前にさんねんぜん、スヱーデンの皇太子殿下こうたいしでんかが御出おいでになつたとき掘ほつてみました。これもまた金冠塚きんかんづかと同おなじような勾玉まがたまのついた金冠きんかんや金きんの飾かざり物ものが出でましたので、その品物しなものをそのまゝ土つちの中なかに竝ならべて、殿下でんかに御覽ごらんに入いれましたが、朝日あさひの光ひかりを受うけて金きんぴかの品物しなものが輝かゞやいてゐるありさまは、なんともいへぬ見物みものでありました。『日本書紀につぽんしよき』の中なかにも、新羅しらぎの國くには金銀きんぎんのたくさんにある國くにであると書かゐてありますがそれは確たしかにほんとうです。そしてこれほど金きんで作つくつた品物しなものが墓はかにはひつてゐて出でた例れいは、日本につぽんにはまだ一ひとつもありません。しかし、それらのものは金きんで造つくつてありますけれども、その作つくり方かたはあまり精巧せいこうでなく美術的びじゆつてきといふよりも、たゞ無闇むやみに金きんを使つかつた趣味しゆみの低ひくい品物しなものといふ外ほかはないのです。この慶州以外けいしゆういがいの古墳こふんから、これほど立派りつぱな金きんづくめの品物しなものは、今いままで出でたことはありませんが、耳飾みゝかざりだけはいつも金きんで作つくつてあります。冠かんむりや帶飾おびかざりなどは同おなじ形かたちでも、銅どうに金きんめっきをしたものや、銀ぎんで作つくつたものが出でただけです。餘あまりたくさんではありませんが、日本につぽんの古墳こふんからもこれと同おなじ類るいの冠かんむりや帶飾おびかざりが、やはり出でるのであり、ことに土器どきはまったく祝部土器いはひべどきと同おなじ燒やき方かたのもので、これらはみな朝鮮ちようせんから日本につぽんへ傳つたへられたものでありますが、勾玉まがたまは果はたしてどちらからどちらへ傳つたはつたものかわかりません。

〔図〕fig18371_81.png第八十圖 古代新羅人服飾想像圖横×縦

第八十圖 古代新羅人服飾想像圖

いま申まをした古墳こふんは皆みな圓塚まるづかでありまして、その中なかに漆うるしで塗ぬつた棺かんを埋うづめ、その上うへを大おほきな石塊いしころで包つゝんだものであります。これを積つみ石いし塚づかといひます。新羅しらぎの古ふるい墓はかは、かういふふうの造つくり方かたであつたのですが、その後ご石室せきしつをつくることになり、ちょうど日本につぽんにあるのと同おなじような古墳こふんが朝鮮ちようせんにも出來できたのであります。とにかく南朝鮮みなみちようせんの古墳こふんが日本につぽんの古墳こふんと非常ひじようによく似にてゐることは、以上いじよう申まをしたゞけでもおわかりでありませう。

(ロ)北朝鮮きたちようせん及および滿洲まんしゆうの古墳こふん

朝鮮ちようせんの北きたの方ほうは、今いまから千九百年せんくひやくねんほど前まへ滿洲まんしゆうの方ほうからかけて、漢かんの武帝ぶていといふ強つよい天子てんしが攻せめて來きてそこを占領せんりようし、樂浪郡らくろうぐんなどゝいふ支那しなの郡ぐんを四よつつも設まうけたところであります。ことに樂浪郡らくろうぐんの役所やくしよのあつたところは、今日こんにちの平壤へいじようの南みなみ、大同江だいどうこうの向むかう岸ぎしにあつて、古ふるい城壁じようへきのあともありますが、支那しなから派遣はけんせられた役人やくにんがこゝに留とゞまつて朝鮮ちようせんを治をさめてゐたのであります。それですからその附近ふきんには、その頃ころの支那人しなじんの古墳こふんがたくさんあるのであります。これはみな小ちひさい圓塚まるづかであつて、中なかには木きの棺かんを入いれたものやあるひは大おほきな煉瓦れんが(甎せんといひます)で室しつをつくつたものもありまして、その煉瓦れんがにはいろ〱模樣もようがあります。これらの墓はかを掘ほりますと立派りつぱな品物しなものがたくさん出でますが、それには前まへに新羅しらぎの墓はかで見みたような金きんぴかものはありません。もっとじみな銅どうや玉ぎよくでつくつた品物しなもので、かへって美術的びじゆつてきにはなか〱優すぐれたものが大たいそう多おほいのです。新羅しらぎの人ひととこゝにゐた漢かんの人ひととの、趣味しゆみの相違そういがよくわかつて面白おもしろいと思おもはれます。

ある墓はかの中なかからは、木棺内もくかんないの死體したいの胸むねのあたりに、圓まるい玉ぎよくで作つくつた璧へきといふものや、口くちの邊へんからは蝉せみの形かたちをした玉ぎよくの飾かざりなどが出でて來きました。また玉ぎよくの飾かざりをした劍つるぎや鏡かゞみ、それから銅どうの壺つぼなども出でましたが、なかにも立派りつぱなのは金きんの帶止おびどめです。この帶止おびどめは細ほそい毛けのような金絲きんしと金きんの粒つぶでもつて獅子しゝの形かたちをつくり、それに寶石ほうせきをちりばめた細こまかい細工さいくは、今日こんにちでもたやすく出來できないと思おもはれるほど優すぐれたものであります。またこれらの墓はかからたくさん漆器しつきの杯さかづきや盆ぼん、箱はこなどが出でましたが、その漆器しつきには、これを作つくつた時ときの年號ねんごうや作つくつた人達ひとたちの名なが細こまかく彫ほりつけてあります。それによりますと、漢かんの初はじめ頃ごろ支那しなの南方なんぽう蜀しよくといふ遠とほい地方ちほうで、作つくつたものであることがわかるのであります。また漆器しつきの上うへに美うつくしい繪えを描かいたものや、面白おもしろい人物じんぶつを描かいた鼈甲べつこうの小箱こばこなどがあり、支那しなの漢時代かんじだいには美術びじゆつが進すゝんでをつたことが、歴史れきしの本ほんに出でてをつても、まさか、これ程ほどまで發達はつたつしてをつたとは、今いままで誰たれも想像そう〲が出來できなかつたくらゐであります。なほ、ある墓はかからは漆器しつきでつくつた化粧箱けしようばこが出でて、その箱はこの中なかには紅べにと白粉おしろいを入いれた小ちひさな蓋物ふたものが入いれてありましたが、その頃ころの人ひとも、かういふ道具どうぐでお化粧けしようをしたことがわかります。(第八十一圖だいはちじゆういちず)

〔図〕fig18371_82.png第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品横×縦

第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品

(1)―(6)銅器 (7)(8)漆器 (9)璧 (10)(11)玉器 (12)金帶留め (13)刀劔

さてその後ご、北朝鮮きたちようせんには高句麗こうくりといふ朝鮮人ちようせんじんの國くにが建たてられて、支那人しなじんの勢力せいりよくがだん〱なくなつてしまひました。この高句麗時代こうくりじだいの古墳こふんは平壤へいじよう附近ふきんのほか朝鮮ちようせんの北きた、支那しなとの國境こつきようにもありまして、そこには將軍塚しようぐんづかなどといふ名なのついてゐる、石いしで造つくつたエヂプトの階段かいだんぴらみっとのような大おほきな墓はかがあります。これは高句麗こうくりの古ふるい頃ころの好太王こうたいおうといふ王樣おうさまのお墓はかであるといふことであります。この墓はかの内部ないぶには石いしで作つくつた部屋へやがありますが、古ふるくその中なかを荒あらしたものがあつて今いまは何なにも殘のこつてをりません。またこの墓はかから遠とほくない所ところにその王樣おうさまのことを記しるした自然石しぜんせきの大おほきな碑ひが立たつてをります。それを讀よむと、日本人につぽんじんが朝鮮ちようせんへ攻せめて行いつたことが記しるされてありますが、多分たぶん神功皇后じんぐうこう〲の三韓征伐さんかんせいばつのときのことなどが書かいてあるように思おもはれます。この將軍塚しようぐんづかや碑ひのあるところは鴨緑江おうりよつこうの北きたで、今日こんにちでは支那しなの領地りようちとなつてゐます。高句麗こうくりは、その後ごこの北きたの方ほうから都みやこを平壤へいじように移うつしましたので、その後ごの古墳こふんは平壤へいじようの西にしの方ほうにたくさんあります。それらの墓はかの中なかには大おほきな石室せきしつがありまして、室内しつないには實じつに驚おどろくほど立派りつぱな繪えが描かいてあります。その繪えは優すぐれた支那風しなふうの繪えでありまして、ちょうど支那しなの六朝頃りくちようごろの畫風がふうを示しめしてをります。これは實じつに日本につぽんの法隆寺ほうりゆうじの金堂こんどうの繪畫かいがにも比くらぶべき、立派りつぱな古ふるい繪えの遺のこりものであります。(第八十二圖だいはちじゆうにず)

〔図〕fig18371_83.png第八十二圖 朝鮮高句麗横×縦

第八十二圖 朝鮮高句麗

さて鴨緑江おうりよつこうをわたり北きたの方ほうへ行ゆきますと、支那しなの領地りようちの南滿洲みなみまんしゆうでありますが、こゝは日清戰爭につしんせんそう、日露戰爭にちろせんそうなどがあつて以來いらい、日本につぽんと縁えんの深ふかい土地とちであります。南滿洲みなみまんしゆうには、やはり石器時代頃せつきじだいころからすでに人間にんげんが住すんでをりましたが、周しゆうの末すゑから漢かんの初はじめに支那人しなじんが盛さかんに植民しよくみんしてゐたのです。そしてその頃ころの古墳こふんがあちらこちらに遺のこつてゐますが、あの旅順りよじゆんの西にしにある老鐵山ろうてつざんの麓ふもとなどには古ふるい城壁じようへきがありまして、そのあたりには古ふるい墓はかがたくさん散在さんざいしてをります。その中なかには、煉瓦れんがで造つくつた五いつつの室しつのある漢時代かんじだいの墓はかがありました。それを今いまから二十年にじゆうねんほど前まへに、私わたしが掘ほりにまゐりましたが、鏡かゞみだとか土つちで作つくつた家いへの形かたちだとかゞ出でて來きました。この墓はかは、その後ご壞こはしてしまつて、今いまでは跡方あとかたも殘のこつてをりません。また旅順りよじゆんの東ひがし、營城子えいじようしといふところにも、漢時代かんじだいの墓はかがありまして、平壤へいじよう附近ふきんの墓はかから出でるのと同おなじような漆器しつきなどが出でました。また北きたの方ほう遼陽りようようの北きたには石いしで大おほきな室しつをつくつた古墳こふんがあつて、その石室せきしつに繪えを描かいたのがありましたが、今いまは旅順りよじゆんの博物館はくぶつかんに持もつて來きてありますから、容易よういに見みることが出來できます。そのほか南滿洲みなみまんしゆうの各地かくちには、小ちひさな煉瓦造れんがづくりの墓はかや石棺せきかんがありますが、ことに珍めづらしいのは、貝殼かひがらでもつて四角しかくに取とり圍かこみ、その中なかに死體したいを收をさめた墓はかであります。それを貝墓かひはかと呼よんでをりますが、これは石器時代せつきじだいの貝塚かひづかとはまったく異ことなつたもので、中なかからは漢時代かんじだいの品物しなものや、その頃ころの古錢こせんが出でて來きます。これらの古墳こふんやまたあちこちから出でる周しゆうの終をはり頃ごろの品物しなものや古錢こせんによつて、南滿洲みなみまんしゆうにも古ふるく周しゆうの終をはりから漢かんの頃ころに支那しなの文明ぶんめいが傳つたはつてゐたことを知しることが出來できるばかりでなく、その頃ころの人ひとは小ちひさい舟ふねに乘のつて海岸傳かいがんづたひにこの南滿洲みなみまんしゆうから北朝鮮きたちようせんの樂浪らくろうを經へて、南朝鮮みなみちようせんにも支那しなの文明ぶんめいを傳つたへ、更さらに日本につぽんの西南せいなんへも來きたのでありまして、その結果けつかつひに朝鮮ちようせんも日本につぽんも、長ながい石器時代せつきじだいの夢ゆめからさめて、金屬きんぞくを使用しようする新あたらしい開ひらけた時代じだいへ、だん〱進すゝんで行いつたものと思おもはれます。とにかく、この滿洲まんしゆうや朝鮮ちようせんにある支那人しなじんの古墳こふんは、餘あまり偉えらい人ひとのお墓はかではありませんが、今日こんにちまだ支那しなの内地ないちの古墳こふんをよく調しらべることが出來できないので、支那しなのことを知しる上うへからも非常ひじように大切たいせつなものであります。

博物館はくぶつかんの見物けんぶつも、だいぶ長ながくなつて皆みなさんも疲つかれたでせうが、私わたしも話はなしくたびれました。まづこれで見物けんぶつをやめて、お茶ちやでも飮のむことにいたしませう。しかし皆みなさんはこん後ごも暇ひまがあれば博物館はくぶつかんへ來きて、今いままで見みた品物しなものを更さらに詳くはしく見みて、わからぬことがあれば先生せんせいや博物館はくぶつかんの人ひとにお尋たづねになることを希望きぼういたします。それではさようなら。(をはり)

底本 / Source edition

底本:「博物館」日本兒童文庫、アルス
1929(昭和4)年9月5日発行
※「つ」と「っ」、「よ」と「ょ」、「エ」と「ェ」と「ヱ」、挿と※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]、アッシリアとアッシリヤ、甲冑と甲胄の混用は底本の通りです。
※霜島正三郎と浜田青陵による挿絵の内、「青陵」もしくは「K.H.」(浜田の本名である、耕作に由来すると推定)とあるもの十三点を、著作権保護期間満了とみて収録しました。
入力:網迫、鈴木厚司
校正:しだひろし
2009年5月11日作成
2014年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/018371_001054/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/018371_001054/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/018371_001054/

浜田 青陵「博物館」(旧字旧仮名)、底本『博物館』日本兒童文庫、アルス、1928年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 018371_001054, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite