Soranoha

旋風

せんぷう

薄田 泣菫

秋篠寺を出て、南へとぼとぼと西大寺村へ下つて來ると、午過ぎの太陽が、容赦もなく照りつけるので、急にくらくらと眩暈めまひがしさうになつて來た。それに朝夙くから午過ぎの今時分まで何一つ口へ入れるではなし、矢鱈に歩き通しに歩いたので、腹が空いて力が無くなるし、足は貼りつけられたやうに重くるしい。

御陵山は白髮染の媼さんのやうに、赤ちやけた山の素肌に、黒ずんだ松の樹がばらばらに散らばつて見える。一體ここらあたりの松の色は、地味のせゐでもあるか、どうやら餘所のに比べて少し黒味が勝つたやうに思はれる。直ぐ前方の西大寺村の森にしてからがさうで、つい先がた發つて來た秋篠の樹立にしても――振り返つて見ると、どうも黒味がかつて見える。

いつの秋であつたか、びしよびしよ雨の降り頻る夕暮に、唯一人この道を奈良へ歸つて行つた事があつた。その折は、秋篠寺で拜んだ伎藝天女のふつくりとした面ざしを幻に描いて酒にでも醉つたやうな心持であつたが、今日は――何よりも今日は腹がすいたのが身にこたへる。

かうして空腹を抱へて歩いてゐるうち、何日ぞや讀んだゴルキイの『荒野』といつた短篇がつい記憶に浮んで來た。雜色の補布つぎぎれで縫ひ綴くつた灰色の股引を、痩せかじけた空脛に引纒ひ、途中で拾ひ取つた破靴を、上衣の裏を引解した絲で踵に結びつけて、ばたばたと砂煙を立てて行く書生だの、赤シヤツを著て、剥げちよろけの軍帽を横つ倒しにかぶり、袋のやうな洋服をだぶだぶに、素足のままですたすたと歩く兵隊上りだのと一緒に、地焦ぢいきれのひどい夏の荒野を、腹はぺこペこになつて、せかせかと急いで行く姿を思ひ浮べると、今一人の道連れがどうやら自分のやうに想はれて、をかしくも、氣の毒にも、また腹立たしくもなつて來る。

はつきりとは覺えて居らぬが、なんでもその物語の中程に、素足の兵隊上りであつたか、雲を見て覆盆子汁いちごじるに乳を振り掛けたやうな色合だといつたのを聞いて、急に食氣がさしてひもじさがいつそまた堪へ難くなつたといふ一節があつた。――覆盆子といへば、今が丁度出盛りの、ついそこらの草の間にもこつそりと稔つてゐまいものでもあるまいと、私は鵜の目鷹の目で草を掻き分けて見たが、一粒も見當らなかつた。

私はすつかり諦めてしまつて、唯もう言ひつけられたやうに、すたすたと歩き通しに歩いて行つた。豆は爆はぜ割れるほど實が肥つたし、麥もそろそろ熟れかかつて來たので、野良仕事も一先づ片付いたかして、見渡した處人つ子一人そこらに働いて居ない。程近い秋篠川の川縁に、家鴨飼の子供であらう、長い竹竿を擔いだのが、小高い岡の上にひよいとのぞいたかと思ふと、直ぐまた段々降りに見えなくなつてしまつた。夏初めの氣力に充ちた附近の自然が、言ひ合はしたやうに虐げと重みをもつて、私一人に押被さるやうで、疲勞と不安とにそろそろ辛抱が出來なくなつて來た。

すぐ手前に刈り込んだやうに、行儀よく立竝んだ麥の穗並が、さつと一搖れ白く搖れて、快活な風が子供のやうに、地べたに轉がり落ちて來た。この頃の照りつづきで乾ききつた路の砂埃が、ぱつとまくし起つて、一煽り煽り立つたと思ふと、先細さきぼそにすぢりもぢつてころころと轉がつて來る。するとそこらにだらしなく寐轉んでゐた木つ葉や、稈心の片々になつたのが、目に見えぬものの手に引きつけられたやうに、つと摩り寄つて一緒になつてくるくると舞ひ揚つたと見ると、今度はひよいと立直して、するすると爪立つまだちに伸のし上つたが早いか、さつと横倒しに倒れかかつて、つつつと小走りに右へ、麥畠の畔になぐれ込んでしまつた――旋風つむじかぜが卷いたのだ。

私はいつの間にかそこに突立つてゐた。氣難しい顰しかめつ面の大自然の重くるしい沈思の底にも、どうかすると蟲が喰つたやうにこんな空洞が出來て、周圍のすべての力が慌てたやうにそこに流れ込む。してまた偶には思ひも掛けぬほど大きな渦卷を仕出かす事さへもある。自分達の内生活の氣象もどうかするとこんな事だらけで、何もこんな旋風がたいして一日の氣象に影響したり、一生の生存に關係するといつた程の事は無いにしても、それでも猶こんな小さな現象の底に、盲探しに動いてゐる宇宙の極祕の或る閃きを見出す事が出來る。

日が少し曇り掛つて來たので、蒸暑さがまた堪へられなくなつた。俄かに渇きが湧いて、咽喉が痙攣ひきつるやうになつた。西大寺村はついそこに見える。私は痺れるやうな足を引摺つてとぼとぼと歩いて行つた。

底本 / Source edition

底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「薄田泣菫全集 第八巻」創元社
1939(昭和14)年刊行
初出:「新小説」
1908(明治41)年10月
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2003年3月24日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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薄田 泣菫「旋風」(旧字旧仮名)、底本『現代日本紀行文学全集 西日本編』ほるぷ出版、1976年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 016039_000150, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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