Soranoha

千世子

ちよこ

宮本 百合子

(一)

一足門の外に出ればもう田があきるまで見渡たせるほど田舎めいた何の変化もない、極うすい水色の様な空気の山の中に千世子の一家はもう二十年近く住んで居る。子煩悩な父親、理性的な母親は二人ながら道徳の軌道を歩みはずすまいとして神経質になって居るほどで又、それをするほど非常識でも感情的でもない。両親ともに書も歌や詩や文も達者で、父親は彫刻まで上手に若いうちはし、人にも見せられるスケッチさえもって居た。ごく古典的なところと此の上もない新らしさの入りまじった生活を長い間つづけて来た千世子の家庭は人々の思想もとうていはたからは想像さえ出来ないほど複雑なものであった。

感情的な我ままな想像を思いもよらないところにする頭をもった千世子は、その二親と召使共にかこわれて贅沢な思い上った様な暮しをして居る。

八畳の部屋の三方を本箱の城壁を築いてダンテの像を机の上に、孔雀の羽根首人形歌麿の絵を飾ってそうした中にゆっくりした籐椅子に頭をもたせて千世子は暇さえあれば読んだり書いたり考えたりして居た。なりふりに一寸もかまわない様で居ながら、すききらいの多い、こみいった気持をもった千世子は時々どうしていいかわからなくなるほどすぎてしまった古い事をなつかしがったりどんなに努力しても千世子なんかには分らないにきまって居る哲学的の事を思いなやんだりして両親からは妙な子だと云われながら自分で自分の心を信じて深いたくらみのある様にうす笑をしたりして居た。千世子はどっちかと云えば、ずんぐりのわりに顔の太って居ない男の様な額と神経質な眼、爪のやたらに小さい手を持って居る。顔の変化のやたらに目立つのがくせだけれ共笑う時にはいつでも顔いっぱいに笑う女だった。気にしないと云うわけではなくっても髪なんかをそんなにかまわない、いつでもまん中から両わきに分けた髪に結って居る。あんまり仰山な着物より気のきいた柄の銘仙の上に縮緬の羽織をかけたのが一番気持がいいと口ぐせに云って、お召のあのしんなりした肌ざわりをすいて居た。

人ぎらいのしない千世子のまわりには沢山の人達がよったりはなれたりして居た。

丁度女王が沢山の朝臣を謁見するその時だけ一人一人の名前で思い出す様に千世子に一寸でも考えさせたり忘られない様にする人なんかはただの一人もなく千世子を中心に遠くに輪を描いて廻って居るばっかりであった。中でたった三人千世子のごくそばに輪を描いて居る人達で、飯田町の信夫、従兄の源さん、工学士のH、そんな人達がある。

信夫はまだほんとうに若い世間知らずなお坊ちゃんで、二親に死に別れて千世子の叔父にあたる家に世話になって居る。二十一寸前の、そういう年頃に有勝な癖で、やたらに恋を恋して居る人だと云うのを千世子は知っていた。

まだ臆病な世間馴れない若い男が一番手近だと云う事と、一寸並の女と変って居ると云う事ばかりで自分に対して恋の真似事の様な事をしかけて居ると云う事を千世子は読みすぎるほどよんで、「恋を恋して居るうちがいいんだ!」位に思いながらもふるえる様な瞳や下らない事に顔を赤らめたりするのを見ると、いかにもととのわないみっともない物の様に思えた。

真面目な常識に富んだ源さんは千世子の従兄でありながら変なほど千世子を大切に思ってて、

「体を大切にしろ、勉強しろ」

千世子がききあきてしかめっつらをするほど云うのもこの人であった。

源さんは自分の導いて行かなくっちゃあならない様なこの女に、心の奥の奥にひそんで居る感情は出来るだけはかくして居ながらも、いつの間にか千世子には知られて居た。工学士のHは苦労した事がその世なれた人をそらさない口つきでわかるほどの人であった。

おととし学校を出てすぐ外国に行って病気で帰って来て、今は保養がてら家でしなければならない事だけをして居る、三十きっちり位の神経質な体の弱い、白い立派な額と大変に濃い優しげな髪をもって居る。

Hに特別な同情と気持を千世子は持って居た。他人の話をきいて自分はだまって居る事の多い、話をする時にはいつでも丸いふくらみのある声でし、声楽のかなり出来るHは、千世子の一家から頭のすぐれた母親の気のおけない話し相手、千世子にはかなりいろんな事を教えて呉れる人として、大抵の人にはすきがられて居た。Hがこの家庭に出入し始めたのは二年前の夏頃から父親のいそがしい仕事を手伝ってもらう様になってからで、その年の冬になると、

「始めてお目にかかった時はお互にすまして居ましたネエ」

と云うほどまで独身で内外の事をさばいて居るHは母親にこまっかい経済の事まで相談して来るほどだった。

木枯が情ないほど吹きまくって青白い月の水の様にかがやく晩、明け近くなるまで話し合った事があった。

昼間のいそがしさにつかれて夜になるとじきに眠気がさす笑上戸の千世子の父親は、

「年をとると眠るのがたのしみですワイ、私はもう御免こうむります、いねむりをすれば奥様に叱られますから……」

おどけてわざと腰をまげ、年よりじみた風をして寝室にひっこんでしまった。三人はしめきった西洋間で赤くもえ上るストーブの焔を見ながら、特別に造られた国に住む人間の様なわだかまりのない気持で居た。

それからそれへとうつって行く話に、亢奮しやすい千世子はあたり前の事を話して居るのに一つ一つ言葉が心のそこにしみ込んだ様に涙ぐんで居た。Hや母親は自分達の若かった頃の事を話して、

「ほんとうにこの人なんか幸福なもんですねえ、一日よんだり書いたりばっかりして居たって『困ってしまうねえ』って云われる位のもので寒中の水のつめたさなんて一寸だって知らないんでしょうねえ」

母親はこんな事を云って、着ぶくれて富(ママ)らしい顔つきをして足をのんきらしくふって居る自分の娘を見た。

「ほんとうに千世子さんなんか幸福なんですよ、ねえ奥さん世の中に悲しい思い辛い思いをしない人がありましょうかねえ……」

Hは何か急に思い出された様な、又痛いところにさわられた様な目つきをして云った。

「そりゃあ貴方、ないにきまってますよ、どんな富だ人だって尊い人だってそういう事はありましょう。悲しい辛い事があればこそうれしい事、たのしみな事が出来て来るんですものねえ。そうじゃあありませんか?」

「ねえHさん、先私がつまらなくってしようがないと云った時に、今と同じ事貴方は教えて下さったじゃあありませんか、うれしい事でも悲しい事でもを強く感じて居られる間が幸福ですわ。阿母さんだってそうでしょう、私はほんとうにそう思いますワ。ミイラ見たいにひっからびた感情になって生きて居たって仕様がありませんもんねえ。うれしい事や、それの又反対の事の沢山あるだけ生甲斐がありますワ、どんなにか……」

「お前なんかほんとに苦労をした事がないから悲しい事や辛い事をたえるって事があくびをするのと同じにポカポカ出来ると思って居るのさ。いざとなってそれに向って見ればよっぽど意志の強い理性的な頭をもった人でなければたえられるものじゃあないよ、お前なんかそんな事に出会うとすぐに気でも違ってしまうのがせいぜいだ」

「ほんとうにその通りですネ、

私なんか随分子供の時から悲しい事なんかにはなれて居るけれ共やっぱり頭のねれて居ない証拠には下らない事でむしゃくしゃにされる事があるんですからねえ。

自分にあんまり苦労ばっかり多いからクリスチャンにもなったほどですもの――『世の中は苦労のかたまり――それがあるからいい事もある』と悟って居ながら、なまはんかな悟りはすぐ破れちまいます」

Hはわざとらしい笑をかたい口元にうかべた。

「云っていい事ならおっしゃいナ、かなり私達にはいろんな事をうちあけて下すったんだからネ」

母親はまだ年が若くって苦労の多いこの人をいたわる様に云う。

「そうですネエ、聞いていただきましょうか、でも奥さんなんかはあまり御すきじゃあないことなんですもの」

「かまいませんよおっしゃいナ、貴方より一寸は年上なんだしするから年寄らしい御同情も出来るかもしれませんもの」

「エエ有難う、じゃ聞いて下さい。アノーマアこうなんです、私に、自分で何だか変な様ですが五年もの間約束して居た女ヒトがあったんです。それがおととしでしたっけか私があの病気になって病院に入った間に今までの事を忘れた様に一言の云いわけどころか『どうだ』とも云わずによそに嫁ってしまったんです。それもネエ、そうじゃありませんか奥さん、どうにもならない事情でならだれがどう云うもんですか私はキット自分からすすめてやったに違いないんです、嫁っても幸福だと思ったら――。それだのに自分がはでに金ぴかにその一生を送りたいばっかりに親達のとめるのをきかず忠告をきかずに或る金持のところに行ったんです。嫁に行った嫁かないは別問題として五年もの間、かなり長い時でしょう、その間私が心から信じて居た女が、貴方そんなきたない浅っぽい考えをもって居たと思ったら……ほんとうに何ですよ――」

Hは、

「それで幸福だったら私はよろこんでましょう、けれ共そうじゃないんですの、――横がみやぶりであんたやって来たって事ですもの。会う人ごとに白い眼でばかり見られる、そんな事を今までされた事はない女でしたもの大した苦痛なんです。今になってよく母親なんかのところに不愉快な気持を書いてよこすそうですが――暗い穴の中に出られないほど落ちてしまってそこで涙をながしてもがいてる様にもうどうにもならない事になってしまったんですからねえ、……それに思いがけなく今日会ったんです。おが(ママ)った身なりをして居ながら死人の様な顔をしてネエ」

Hは低くはなしながら部屋の中をうなだれて歩いて居る。

千世子は涙をぼろぼろこぼしながら、

「マア何ていやな人なんでしょう、私が若し貴方だったらどんなにほんとに呪ってやるかわかりゃしない、どうしてそんな人が生きて居られるんでしょうねえ……」

と自分の事の様に云って真赤な顔になった。

「ほんとうにねえ、世の中にはよくある事だけれ共貴方にそんな事が有ろうとはほんとに思いがけませんでしたよ、それで貴方は今まで独りでいらっしゃるんでしょう? でも見かえす様な人を御もらいなさいよ……」

母親はそんなに大して驚いた様でもなく又とびぬけた同情もない様な様子であった。そうした様子はその年のさせる事でもあるし、そう云う事のあった人の心理なんかはそんな事をあまり見もしず、まして経験などのあろう筈のない母親にははっきりとは分らなかった。

千世子は「女」と一言云った時には情にもろい中にもつんとした力のある生涯の事を約束したりして若しそれが成功しなかったら死ぬまで独りで居る様な信じられる考えのある女ばかりであって欲しいといつでも思って居た。独りで死ぬまで居られないんなら――そいだけ強いところがないんなら、お七の様に何にも考えずに只自分と男だけの世の中にしてしまう事の出来るほど情だけの女の方がまだ好い千世子のすきな女であった。

金のまばゆさに目のくらんだ女。病気で死ぬか生きるかに苦しんで居る男をこの時こそと云う様にすてて行った女。

斯う思うと、憎しみ、怒りのかたまりになってそのまだ見た事もない女の顔はとてつもないきたないものになって目の先にちらついた。

「にくらしい人ですねえ、何てまあ……、私と同じ女と云うもんの中にそんな人のあるのを思うと私はどうしていいかわからないほどになっちゃいますワ、ほんとうに……」

「何にもお前に関係のある事じゃあないじゃないか」

「そうには違いないけど阿母さんそうお思いなさらない?」

「ほんとうにどんな血とどんな脳髄をもって居るんでしょう、犬だって猫だって食べない肉をもってるんでしょう」

「いけませんでしたネエ、貴方のいらっしゃるところでするべき話じゃあなかったんですけど、つい……」

「は、一寸感じるとこうすぐ変になっちまうんですから……」

あんまり亢奮した千世子は二人の話して居る事をぼんやりと遠くの方にきいて居た。

「あんた、ほんとうに可哀そうな方ねえ、どうしてそんななんでしょう、あなたがさっきおっしゃった事大変気に入っちゃったんです、きのうより倍もすきな方になってしまった」

千世子ははれぼったい顔をしながら云った。

「同情して下さるんですか。ほんとうにありがとう。でもどうぞあんまり亢奮しないで下さい、こな事はつまるところ私の馬鹿だったお坊っちゃんだった証拠なんですし又こんな目に会うほど私はしょうどなしでもありませんから……」

悲しいあきらめがさせる様にHは苦しい笑い方をした。

「ねえ奥さん、あたり前の男なら私位の年にもなって女なんかにすてられたりすればすぐ忘れられるし又それを再びするほどすれた人が多いでしょう? けれ共、どうしても私にはそれが出来ないんです、私は女と云うものを始めてのぞいた時に一番みっともない、めったにないほどのみっともなさを見せてくれたんですもの」

「その方が尊いんですよ。この女にすてられればこっちの女、こっちの女がだめならあっち――そんなにすさんでしまう人だってありますもの――男なんてまして女ほどそういう事に対しての刑罰は重くないんですものねえ。貴方がそれをすっかり忘れてしまって、皆の安心する様に結婚でもなさりゃあなおようござんさね。そんな事が一度位あるのもやたらに女にだまされない様になりますからねえ」

「私が若し一緒になる人なら、私がどうしても欲しいと思う様な人があった時のはなしです、それまで私は独りで書生の生活をして居る方がいいんです」

「でも若い人同志がお互にいいと思いあっても間違いがありやすうござんすものねえ、何にでも感情が先立つ頃なんだから……」

「それでも二人ともが真面目で、それこそ手なべさげてもと云うほどだったらその方がどんなにかお互に幸福でしょう」

千世子はフイと横槍を入れて二人の顔を見くらべた。

「でもサ、世の中が進むと何から何まで妙に進んでしまうんだネ。私達の娘の時代は母親と議論をする事なんかは思いもよらない事だったんだけど、どうもお前はあぶなっかしい人間だよ、たしかに」

「あぶなっかしいってどんな? ねえ貴方、そんなに私はあぶなっかしい猪武者なんでしょうか――」

「お阿母さんは案じていらっしゃるんですよ、貴方とお母さんの感情はまるであべこべですものだから時々お互にわからない事が出来る様になるんでしょう」

「そうでしょうかネエ」

千世子はだまって焔を見て居たがいきなり、

「マアきれいじゃありませんか、ほんとうに」

と叫んだ。

「何が?」

「焔が、――まあなんてきれいに燃えてるんでしょう、何かまっかな着物を着たものが出て来そうだ」

「貴方、マアこうなんですよ、そんな事を感じて居るのは無駄な事だ、只神経を費すばかりだといくら云ってもやめないんですから、それで又思ってもだまって居ればいいのに、ヒョイと顔を出すんですからほんとにサ」

「そんなに云わずといいじゃありませんか、今日にかぎって。だれでも私みたいに御金の事も着物の事も考えずに居れば斯う云う好い気持になれるんですよ、私の方が妙なんだか世の中の人が妙なんだかわけがわかりゃしない」

千世子はかんしゃくを起して大きな声で云った。

「そんな事を云うもんじゃありませんよ、案じていらっしゃるんだから……」

「エエそりゃあ分ってますの、けれども人よりもよけいに嬉しかったりきれいだったりするのに心配はいらない事でしょう……」

「そう云うもんじゃありませんよ。親と云うものは、自分の子供がうれしがって居れば嬉しがりすぎはしまいかと案じる――あんまり綺麗だと云えば綺麗がりすぎはしないかと案じるんですから。聞くだけでも感謝してきかなくっちゃいけますまい、私なんか親に心配された事なんか夢にも有りゃしない、不幸なんです」

Hは千世子の味方をしながら又母親の気もそこねまいとして斯う云った。千世子はその気のわからないほどふぬけでもないから、

「ええ……エ」

とあいまいな返事にごまかしてしまったけれ共Hのものなれた言葉つきや割合に自分の気持も解して呉れると云う事がさっきの事と一緒に千世子には大変に気持よくうれしく思う事であった。そして自分でそうと斯う思って居た。

「私はやっぱり若いんだ。Hがあんな事を云ったって三十位にもなって居ればただいいかげんに何か感じないんだろうけれ共、世間になれた様なふりをしてたってやっぱり世間知らずらしい」

千世子は母親のだまって居るのを一人でひきうけた様にいろいろHに質問をした。Hはひくいしまった声でさとす様に云った。

「そんな事はいいかげんに考えて置くがいいんです。世の中のそう云う事は皆いいかげんに考えて居る方がいいんです、いいかげんにかんがえた事がすこしうまく行けばほんとうに近い考えになるんで目に見えない事、考えても一寸わからない事はいいかげんになすくって置かなくっちゃあ人間みたいなものは生きて居られなくなってしまいますよ」

「いいかげんに考えるって云う事は私大きらいな事です。一生懸命に考えたり、人にきいたりすれば幾分か満足に近い考えが出来て来るんですもの、そんなうれしさは中々それこそほんとうに――」

「そうかもしれませんけどあんまり考えてわからない時は山の中に入ってしまいたかったり、華厳の滝から招待状が来たりネエ。そうじゃありませんか貴方ぐらいの年の人はもっとのんきらしくして居て好いんです、頭ばっかりの人間になってしまいますよ」

Hは千世子にそんな事を考えて居るのはあんまりこのましい事じゃあなかった。こんな神経質な感情的な女がそう云う哲学的の事を考え込む様になってはその末には好い事のないのを知って居た。其の晩にかぎって千世子の云う事がはっきりと頭にのこって行った。

「ネエHさん、貴方この頃の文学をどう御思いになります? 私なんかあんまり放縦なしだらのないもんだと思ってますけど。近世文学なんて私大嫌です。だから此娘コレにもかぶれたりなんかしてはいけないって云って居るんです」

「中々むずかしい事ですネエ」

「斯うなんです。こないだ私がネ、ダヌンチオの『死の勝利』をよんでたんです、かして御らんておかあさんがおっしゃるからかしてあげたら『こんなものがこの頃はもてはやされるのかネエこんな事を書いてさ、だからこの頃の文学はいけすかない、第一かいて居る事からしていや味でサ』って云ってらっしゃったんです、だからそれででしょう?」

千世子は話があんまり前とつづきのないどう云う事からそんな話が起ったんだかHにわかりそうにもなかったんで説明した。

「ああそれでなんですか。私になんかよく分りませんけど、生活状態が段々複雑になって行くにつれてすべて行われる日常の事が段々色で云えば濃い色になって行くらしいんです、犯罪と云う事もぜいたくさでもなんでもがたしかにそうだと思えます、そして人間の心理状態がこまっかい切子のガラスの様になって行くんです、だから感情は益々鋭敏になる筈で、感じる事書く事が皆色の濃い鋭いつっこんだものになって行くんです。従ってかなり古い時に生れた私達には想像する事の出来ない感情、事柄が文学の上にも現れて来るからあんまりあけっぱなしの様に思われたり刺撃がつよかったりするんでしょう……」

「そうでしょうかねえ、あの何とか云う人の『死の勝利』なんてまるで道徳を無視して居るじゃありませんか、それにサ、恋した女なら夢中で恋して居ればいいじゃありませんか、それだのにあんな自分の女をあっちこっちからのぞいてサ、一人でうれしがったり怒ったり、若い娘のよむはずの第一ものじゃないじゃありませんか」

「あの時もそう云ったんですけどネエ」

千世子はいくたび云っても甲斐のない事だと云った様な少しはなにかかった声で云った。

「文学なんて云うものは道徳の上から見てもどっから見ても欠点のない、どんな人にでも見せてさしつかえのないものならそれはほんとうにととのったものには違いありませんけど、人間にはそう(ママ)人はありにくいもんですものねえ、そいで又人には各々の特別な感情なり性質なりをもって居るもんですもの中々そう云う風には行きませんわ。孔子様の伝を書いても耶蘇の一代記を書いても、そりゃあ材料は欠点のないものですワ、どっから見てもネエ、けれ共、それを書いた結果が不成功だったら、ほんとうの純文学の価値はないでしょう。孔子の文を書いて出来の悪かったより、弁天小僧を書いた方が立派に出来て居たらその方が価値のあるものになるんです。泥棒をするんでもそのする時の感じがあります、他人の奥さんをよこどりする時にだってそれについて特別感情はあるにきまってますよねー、だからそう云うこまっかい感じをよくうがって字に書いてある感情が自分の心に入って来て自分の感情になってしまいそうになるほどに書いてあるんなら立派な創作として見る事が出来ます、そうでしょう、感じのよく出て居る文、考えさせられる深刻な文と云うのが純文学だと思ってます、そう云う事はほんとうにむずかしい事ですもんねえ、近松物を道徳の上から娘には見せられないものであっても純文学としては価値のあるもんですものねえ、私はどうしても純文学としての価値のあるものをよろこんでます、けど阿母さんは私の云う事は大不賛成なんです。けれ共私はそう思って居ます……」

「私はどっちをどっちと云いかねますねエ、近頃の小説は一寸もよんで居ずそれについて又深く考えた事もないしするんですから、ちょっくらちょいとは云いきれないものです、……」

Hは何か深く考えながら低い声で云った。千世子はそのはっきりしない答えが気に入らなかった。

「じゃあんたはどう思っておいでなさる? 私の様にか阿母さんの様にかそれとも又別の……」

「私はごく平凡な事を思ってます。あんまり常軌を逸して居なければそんなにああこう云いやしません、世の中の事ってのは或る程度まで人なみにやって行くことが心要なんですから……」

「そう云うお考えなら私と阿母さんの間に入って好いお考えなんですねエ」

千世子は頭のすみに今日一日中考えた事のかすがたまってでも居る様に重い片っ方にかたむきそうに思われて来た。時計はもう二時すぎをさして居た。阿母さんは自分で話の問題を出して置きながらすみの椅子によっかかって白いかおをかたむけて快さそうに居ねむりをして居た。

「ねえHさん、あんな事をしてる阿母さんを見るといかにものんきな考えのないものの様に見えますねえ」

母親のおだやかなかおを見ながら千世子は云った。

「あんたは、あんまり阿母さんや何かを批評的に見るからいけないんですよ、だから阿母さんのする事が妙に不愉快に思えたり馬鹿な事をして居ると思われたりするんです……」

「そうでしょうか……」

千世子は目の前に下った三本ばかりの髪をより合せながら気のない返事をした。フッとおそわれた様に指先がふるえるとわけのわからない丸いものが頭の中をころがり出した。

「今夜はHさん、貴方が大変すきですの、どうしてか知らないけれ共――でももうねましょう、これよりおきてると私はあした目がくぼんでしまいますもの……」

「それじゃねましょう、阿母さんを起してやさしくして御あげなさいよ、サ」

千世子はいい気持そうにして居る母親をおこして寝室につれて行った。そして又もどって、

「瓦斯を消して私達も寝ましょう、貴方のお部屋にはローソクがついてます、私これから髪を解きますからどうぞお先へ――」

「エ、今日は私があなたを興奮させたんでしょうネ、キット、かんべんして下さるでしょう、ネエ」

「エエそんな事おっしゃるまでもない事こってすわ、あなたあしたおひま? ここで又製図なさる?」

「ここでやります、エエ、もうそうひまもないんです――しますから――」

二人は燭台をともして、千世子はうす明るい灯のわきでまっしろく光る櫛で髪をといた。ときあげた髪をうしろにさげてふりかえった時Hはいつもするねしなのお祈りをして居た。お祈りのすむのをまって千世子は、

「おやすみなさい、おそくまでお気の毒さまでしたワ」

としずかな調子で云った。扉にかぎをかけた時Hは、

「考えずにおやすみなさい」といたわる様に云って一寸千世子の背に手をかけた。千世子はまっくらな室へ、Hはうす赤くローソクのガラス越に光って居る部屋へと、まるで違った気持で別れた。

(二)

寝間着を着て床に入りは入っても枕の羽根がかたまってごつごつして居たり、毛布がずったりして千世子は落ついた気持になる事が出来なかった。寝なくっちゃあならないと思って眼を閉じるとうすいまぶたをすかして五色の光りものが目先をとんで廻った。耳なりがするそうぞうしい音の中にヘッダの科白が浦路の声でひびいて来ると思えば鴈次郎の紙治のまつわる様なこえがひびいて来る。今日までよんだ本の中で良いと思って居たところがキレギレにうかんで来る。

千世子の頭中にたまって居る不平やら疑問やらがぬけ出して来てゾロリっとならんで一つ一つが、

「ヘッヘッいかさま……」

と云ってひっこんで行ったり、もうどうしていいかわからなくなって来た。ムックリと床の中に起き上って手をのばしてテーブルの上に置いてあるひやっこいお茶をのんだ。

「まるで年寄のする事を私はして居る」

千世子は自分で自分を笑うように云ってうす暗い電気の光線で豊からしくふくらんで居る胸やしまったうでを見て笑い声を思わず立てた。うす紫の光線の中に桃色の寝間着を着て白い床の中で髪をおもちゃにして居る自分がふだんの自分より可愛い美しいものの様に思われた。きれいな言葉のつながった歌ともつかず詩ともつかない断片的なものがスルスルスルと出て来た。となりの部屋にねて居る親達に気をかねて小声にそれをくり返しながら枕元の小さい光る時計を見た。不思議な事を思わせる音をたてて世の中の「時」のたつのをおどす様に人間共にしらせて居るのが役目の長針と短針とは短針は四時のところを長針はまんなかをずっーと越して居た。

「もう一寸立ったら起きてやろう」

千世子は独り言を云ってフカフカの羽根枕の中に頬をうずめた。寝間着の胴をくくって居る太いうちひものさきについて居る房を掌の上でさばきながらとほうもない空想にふけった。「まわりはしずかで思う事はたれはばからず思えてふとんは柔にあったかいし」こんな事を千世子は大変にうれしく思って押えきれない笑いがついつい頬にさしこんで来る。

うれしい時千世子がいつもする様にかるいため息を吐いて胸をそうっと抱えた。時には世間を知りぬいた女の様なさばけた様子をしたり、女王の様におごった心持となりをして見たり、又今の様にいかにも若い女らしいしなやかなこまっかい曲線をつくる身ぶりをする事等は千世子のくせの一つであった。

「あの人はあしたはあの部屋で製図をすると云うし、私はあのつづきを書けば好い。阿母さんは縫物と謡と本をよめば事がすむし、父様は事務所に行って……。お茶時には牛乳のお菓子を作ってあついコーヒーと一緒にHにあげよう」

千世子は子供らしいつみのないうきうきした気持で明日あした自分のする事、Hのする事、母親のする事等を考えて、Hが製図台の上の白い紙に快い音をたてて線をひく、その傍に大理石のテーブルの上にバラの生けてあるわきで自分の心からしみ出して来るしまった感情を字にして行く、その時のかおつきからさしこむ光線の色までを空に描いた。夜いっぱりでとびぬけて朝ねぼうの千世子は今夜にかぎって早くうす明るくなって来れば好い、こんなうれしい気持で迎えるあしたと云うものが早くその目を見開いてほしいと思ってはでな模様のあるカーテンを引いた。

目さめかけた小供のまぶたの様にぼんやりとあかるんで居る外の景色は、寝坊な千世子の今までにあんまり経験した事のない優しさと考えぶかさと気高さをもって居るものだった。霊気にふれた様に、偉大なものを頭の中につきこまれて居る様に千世子は外の景色を見入って居た。今までめったに見た事のない壮厳な背景の前に千世子の頭にたえず描かれて居るニムフやサチルズがかるい足どりで木の葉かげから出て来ては舞うのが見られた。アポローの銀の絃の澄んだ響に、ふかさの知れない谷底になる沈鐘の鐘がまじって美くしい音楽となり、山の*さん郎らの金の櫛で梳りながらの歌声、そうした、いかにも想像で出来あがった美くしいおだやかな幻影の絵巻物が千世子の前にひろがった。

涙をポロポロこぼしながら千世子はひざまずいた、嬉しさは潮の様に波立っておしよせて来る。

神秘的な暁の色の中に体をひたしてつっぷして目に見えないものを感謝し讚美した。ジいと上を見ながら千世子は立ち上った。

よろこびと云いしれぬ胸のときめきにかすかにふるえる体をうす桃色の房の長い寝間着とまっしろにシックリした毛足袋につつんで長くとかした髪をくびに巻いて青磁の燭台に灯をつけた、部屋の出口を銀に光る鍵であけることも廊下に木のかげのさして居るのもこの上なくいい感じのする事だった。途中まで来て千世子は巻いて居たかみをほぐしてその半分で顔をかくし灯をさきに出してすり足をして歩いた。

斯う云う時に斯う云うなりをして斯う云う心持でこんなところをあるいて居るのは、長くつづいた舞台面の一節をくぎったものの様だと思われた。

ふさわしい、いかにもつり合った言葉を一こと云って見たかった。けれども人間ぐさいろくでもない言葉を云ってぶちこわしてしまうよりはと千世子はだまっておどり上る胸をかかえて西洋間の前に立った。

うす赤い灯がチラチラとガラスの中にもえて居る、黒い人影がうごかずに居る、かるい歌ごえが戸のすき間からもれて来る。

「マア……」

今の心持にあんまりよくそぐった事をして居てくれると、今がまだ人のねて居る時であろうとか、何をうたって居るとかと云う事を云う余地考える余地のないほど千世子はうれしかった。

オパアルのように光るハンドルをもってそうっとあけた。うす青い暁の光線の流れ込む中に桃色のかさをかぶったスタンドがともって新らしい色をした薪からは御あいそうをする様にまっかな焔がチラチラと出て居る。厚いカアペットの上に紫のクッションを敷いてHはなげずわりに座って火を見ながら歌って居た。胸の貝のボタンが大きくまたたいて紺と茶の縞の千世子と同じ形の寝間着の背中はポッカリとふくれて居た。

ローソクを消すのも忘れた様に千世子は立ったまんまで居た。フッとふりかえったHはおどろいた様なかおをして云った。

「どうなすった? 今頃――」

「ねられなかったんですワ」

「ねられない? 私も、だからこうやってさっきっからここに来てたんです」

「そう、だけどいいあけ方です事ネエ、部屋でさっきっからいろんな事を思ってよろこんで居たんですワ」

千世子は夜はねなくっちゃあならないもんだって云う事を忘れてしまった様にうきうきした声で云った。そして火のそばにラシアの足台をもって来てそれに腰をかけて白い毛につつまれた足を二つ小さくそろえた。桃色の着物はスーッとゆるやかに流れて房のボッチがHの茶と紺の縞の房とならんで美術的な色や形をして居た。二人はややしばらくだまって薪のはぜる音をきいた。

「あしたつかれましょう?」

Hがいかにも大切らしい口調できいた。

「そんな事あるもんですか、ネエ、さっきも私そう思ってたんです、今までにないほど今日のあけ方をうれしく思わせて下さったからお茶時にはおいしいものを御馳走してあげようとネエ。随分馬鹿らしい事だけれ共さっきは真面目で考えたんです」

「有難う、でもほんとうに、あんまり興奮させちゃって、ネエ」

「私今うれしいんだからそんな事云うの御やめなすってネどうぞ、ほんとうにうれしいんです、もうどうして良いかと思うほどなんですの」

「ようござんすネエ、まわりの幸福な人は少し位いやな事に出会っても嬉しく思っちまうんですからネエ。一寸変な事云う様だけれ共私のきく事をあんた返事して下さる?」

「してかまわない事なら……」

「じゃネエ、貴方は私をどんな男だと思う?」

「どんなって――私はそう思ってます、かなり感情のつよい神経家なんだけれ共つとめて平気になんでもない様にしていらっしゃる方。それから世の中には自分が征服してしまうかそれでなければそれに心を奪われてしまう事ってあるでしょう。それを大抵の事は征服して――少しぐらい無理でも又心をうばわれそうになっても征服しなくっちゃあ気のすまない方、生をつよく愛する方、それで居てかなり悲しみやすい方、違いましたら――」

「そう見えますか、それで貴方は私をすき? それともきらい?」

「私はすきな人でも時によると、――その時の気持によって見向もしたくないほどになる事がありますもんはっきりは云えませんけど――好きはすきですわ」

「すき?」

「エエたしかに――だけどあんまりすきかすきかなんておっしゃるときらいになっちゃうかもしれない――」

千世子はこんな事を云って笑った。

「どうしてそんな事おききになる?」

まだ笑の残って居る口元で云った。

「何故ってことはないけど只きいただけ」

「そう……」

薪は前にもまして益々盛に燃え始めた。Hのかおも千世子のかおも赤くはえて、世の中の事にまださわらない目と手と顔なんかはひるま――ごみっぽい昼間よりはよっぽどきれいに白く二人ともに見えて居た。

「手が少しつめとうござんすねえ」

千世子は白いまるっこい手を長い袖から一寸出して云った。

「どれ? ほんとうにねえ神さまににくまれたんだ。『おやさしい天の神様、どうぞ私の御願を御きき下さい、これから必ず夜更しや、よみすぎはいたしませんからこのつめたい手をあったかくして下さいませ』」

Hは気がるなおどけた身ぶりをして自分の手の中に入って居る千世子の手の甲に一寸キッスをした。

「お祈りがききましょうか、随分あやしい!」

千世子はなんでもない事の様に思って云った。朝起きると先ず父親に額にキッスされてそれから母親にして、一日の仕事にとりかかるのが常になって居る千世子には、Hのしたキッスもやっぱり年上の人がじょうだんにした事とほか思って居やしなかった。

うす青かった暁の光線は段々赤味をおびて来て、窓がらすがキラキラする様になった。

太陽の暖味と薪の赤さでのぼせる位部屋の中はあつくなった。千世子はこんなにうれしくこんなに神秘的だった暁がさわがしい昼間にかわる事がいかにもつらかった。

「Hさんもお嬢さまも御湯がわきましてす」

束髪を額にずるっこかせた女中がまどから牛みたいに首を出して云ったのを始めに千世子の囲りをかこんで居た人間ばなれのした美くしい想いがぶちこわされはじめた。

「ハイ」

気のない返事をしてからいかにもおしそうに、

「又昼間になりましたねエ、自分の心にお面をかぶせる時が来ましたワ」

と云って寝間着の裾をけった。

千世子は湯殿で一寸もねなかったのに顔や手を洗う事なんかはいかにもとっつけた様な馬鹿馬鹿しい事に思われた。虹の様な光りをもってこのうでまでついて居るシャボンのあぶくにさっきの気持が洗いさらされてしまった様になって、まっぴるまに見る瓦屋根の様なすきだらけなはげっちょろなものになってしまった。

午前中はとりとめのない事に時をつぶしてしまい、午後からはHもいそがしく、千世子も興にのって夕飯まで書きつづけたんでいつもの様に話もでず平凡な一日を送った。

夕飯の時父親が会でおそくなるのでいつも父の座るところに母親が座って食べながら、

「ねえHさん、主人うちでそう云ってましたけどいそがしくもなるし、夜更けて行ったり来たりするのもなんだからどうせ一ヵ月か二ヵ月の事だからとまったっきりでいらっしゃる方がいいって云ってましたっけが、私もそれが好いって云ったんですよ。――それでいいでしょう?」

「そうですか、でも御世話さんでしょう、私まで……」

「そんな事があるもんですか、ネ? そうなさいもうそうきめてしまいますよ」

「そんならそうしていただきましょう、御気の毒ですけれ共……」

「エエ、エエ、かまいませんとも」

千世子の知らない内に父親がそんな事を云って居たと見えてその日っからHはとまりっきりになる事になった。

千世子は何となくくすぐったい様な気持がしながらその話をきいて居た。

(三)

次の日も次の日もHと千世子はその日と同じ様な事をして暮した。議論で一日つぶしよみつぶしかきつぶしたりして十二月一ぱいをくらしてしまった。

暮に近くなっての日Hは千世子にこんな事を云った。

「ネエ独りものは可哀そうじゃありませんか、お正月の着物の心配も御自分様がなさらなけりゃあして呉れる人がないんだもの」

眼尻にしわをよせながら聞いて居た千世子は原稿紙の上にまっかなペン軸をころがしながら云った。

「ほんとうに御気の毒、今年はうちの阿母さんに見てもらえばいいじゃありませんか、それに又わざわざ男だもの作らずともすむでしょう?」

「だって仕立上ったばっかりの着物のしつけをとるのもいかにも新らしい気持がするこってすもの――私みたいな男でもかなり細っかい感情をもってましょう?」

「わりにね、でも興津に帰れば阿母さんがいらっしゃるんだもの……」

「これが一かたついたら一寸行ってきましょう、樗牛のお墓に行ってきますよキット、葉書あげましょうネ!」

「なぜ葉書っておかぎりになったんだか下らない事に気がねしていらっしゃる。どうせ私になんか御かまいなしで阿母さんがあけて見るんだから手紙だって葉書だって同じじゃありませんか」

「ほんとうにねエ、よその母親より厳格で神経質ですネ」

「エエ、エエ、そりゃあもうまるで定規とコンパスで一辺の長さって云った様な感情をもって居る人ですもの、それで又手紙とか電話とかにやたらにおそれて居る人なんですもの……」

「とにかくだれが見てもあなたとあべこべな感情だと云う事はたしかですネ。貴方が好いとも阿母さんが悪いとも云えないサ、そう云う性分なんだから……」

「感情のぶつかりなんて母親と娘の間にあんまりない筈のものなんですけれ共ネ、私がつい気ままなんで時にはじまる事さえあるんですものネエ」

「でもマア、一つのつとめとして貴方は阿母さんにおとなしくして居なくっちゃあいけませんよ……女としちゃあかなりの学問もあり常識も発達して居なさるんだから」

「エエそれは知ってますけれ共……人の前で自分の感情に仮面をかぶせてちぢこまって居る事は出来ないんですもの人のために生れた感情じゃないんですもの私のものですもん」

「何にも感情を押しつつんでどうのこうのって云うんじゃあないんですけれ共、子供の一挙一動によろこんだり悲しんだりして居る親を安心させるためにしなくっちゃあならない事と思ってたらいいじゃありませんか……」

「私自分にもそう思ってつとめる事があります。でもフイとした感情につつかれて『マア阿母さんの耳たぶがきれいだ、そりゃあよくすき通った色で』なんて云う事があるとしましょう、そうするとすぐ『ろくでもない事を云うのは御やめ気違いみたいじゃないか』って云われるんですもの、フックリした気持になって居る時そう云う事を云われると、美くしく化粧した舞台がおのきれいなかぶりものをかぶって居るとんだりはねたりが一寸松やにから竹がはなれるともんどりうってかぶりもののとれた下から白っぱげた役者の素がおが出ると同じ事にネ。自分でどうしようもなくなってしまうんですワ、そうなってしまうと……」

千世子はあきらめた様な口調に云って白い紙の上に線を引く事をやめないHを見て又ペンをにぎった。

しばらくすると母親が、

「御精が出る事、一寸しゃべりませんかもうじきお茶が出ますよ」

と云って入って来た。千世子は一寸ふりかえって笑って居るはぐきの色のわるいのと前髪のしんののぞいて居るのを見てたまらなくきたないものを見せられた様な気になって一寸まゆをひそめて又紙に目を落した。

うしろの方で新しい女の事を論じて居る母親の声がいやに耳ざわりになってたまらなくって「おやめ」と云われるのにはきまって居るのにピアノに向ってベートーベンのソナタを弾き出した。

時々出て来る「あのこ」と云う声のきこえる時には規則はずれになるのもなんにもかまわずにペタールをふんだ。乱調子にそむいた心で自分がピアノを弾いて居るのにわけもなくヘッダの最後の舞台面を思い出した。

自分とは何の関係もない事でありながら斯の音に似たなげやりな調子のととのわない音についで起ったあのピストルの音を想って身ぶるいをして手をやめた、何だか悪い事でも起って来る前の様に千世子は重い気持になった。字ばかりならべたてても一日中何となく落つかないイライラした気持に送ってしまった。

寝しなにHは千世子に、

「一週間ほど立ったら一寸行って来ようと思ってます、葉書――」

と云ってHはなげつけた様に笑った。

千世子はそれには返事をしずに「フフフ」と笑って立ち入られた様な気持になった。ざっと一月はなれずに居た千世子はHの性質や癖をかなりよく見つけてしまった。しんねり強い神経質な前までの経験の悪い悲しい経験でも善い経験に思いなして居る人、生活にとらわれて居ながら時々まるではなれたものの様に生活し自分等を見ることの出来る人、自信の強い人、女と云うものを二色の目で見て居る、矛盾の多い自分の心の輝きに自分でまばゆがる人、千世子には性質としてこんな事が知(ママ)った。

羽織のひもをおもちゃにする事、

ひじかけ椅子によった時にはきっと両うでをそれにかけて胸のあたりで指をくむ、

お飯茶碗でお茶をのむ事のきらいな

しつけ糸のやたらに気になる

笑う時に多くまばたきをする事

どの部屋にでも入るときっと上を見る

指の先をひっぱる事

等がそんなに目立たないながらもくせであった。これ丈のくせを知りながら千世子はきらいな人だとは思われなかった。いつもすんだ晴れた声で丸く話をすることや、どこのこまっかい皮膚にでも男に有りがちのあぶらっこい光りをもって居ない事等が千世子が特別にうれしく思う事だった。

Hがとまる様になってから母親の一層注意深くなったのは千世子も知ったけれ共、別に気にもせず自分は自分でする丈の事をすると云った様な調子に暮した。

暮に近くなってから千世子の書いて居るものも半分ほどになったけれ共どうしても言葉つきや、みなぎって居る気分やらが千世子を満足させることは出来なかった。

見れば見るほどあらが出てもう見向くのもいやになってしまってからは毎日毎日わだかまりのある様な、笑いながらもフッと思い込む様な様子をして居た。

「貴方がいらっしゃるんで思う様にかけないんですよ」

とか、

「私もうほんとうに涙がこぼれそうですわ、貴方が居らっしゃるから出来ないなんていくじなしじゃないはずなんだけれ共……」

なんかと沢山な書きくずしの中に頬杖をついていらいらしたとんがり声で云ったりした。

「今日は夜になるまで御会いしますまいねえ、そいで一生懸命書くんです」

うすら寒い茶室にとじこもって経机の上で書いて居たりするのもその頃だった。

我ままな千世子は折にふれて年上の人にするらしくない様子もしない事はなかったけれ共Hは自分の心のどこかがそれでも満足し又、それにみせられて居るのを頭ばっかりそだった様な千世子に対しての興味と云う感情のかげにごくさわやかに育って行く感情があるのをHも知り千世子もすかし見て居た。

正月になってすぐHは興津にかえって行った。

千世子は、お正月だお正月だと云ってやたらにさわぎたてる人達や、只口の先だけで「あけまして御目でとう」と云い合って安心して居る人達を嘲った目で見ながら自分では仕度(ママ)たばっかりのお召のかさねを着て足袋の細いつまさきにはでな裾の華なやかな音に陽気に乱れるのをうれしくないとは思わなかった。

七草頃になってから千世子はすきのない――たるみのない気持になる事が出来た。始めて自分の原稿を灰にした千世子は十枚二十枚となげこまれる紙から立つ焔の焔心の無色のところその次にまだもえきらない赤い焔、そのそとに――一番そとに酸素も思う様にうけてありったけまざりっけなくもえて居るうす青紫の色のかすかな――それで居て熱もあり思いもある焔ばかりが自分の心のそこに集って不純物のない一色の心に焔の上るごとになって行く様に思えた。いつもならば形のある、しかも字の書かれたものの灰になって行くのを見ると悲しくなる千世子は、そのかなしみよりつよいうれしさ力強さにうす笑いして形のままのこった灰のため息をつきながらくずれて行くのを見て居る事が出来た。はでなお召の着物の上に袂や袖口にインクがついて居る銘仙の羽織をひっかけて火の気のわざとない部屋でまじめな気持で一字一字をたどって行った。一句の書きなおしもしずに一日に三十枚四十枚と書ける事は夢中になりやすい千世子を一日中居るか居ないかわからないほどしずかにうす笑いやため息ばかりつかせて居た。

くせを知って居る母親はかるたのまねきや新年の会なども体の良い様に千世子には云わずにことわって呉れた。

健全な目つきと顔色をして毎日毎日勉強して居た。三四度よこしたHの手紙にはあっちのおだやかな生活の状態ときたえられた様にハッキリした自分の頭の事や結婚しろとすすめられるうるっささなんかが書いてあった。特別にいい手紙でもなければ又役に立つ事でもなかったけれ共千世子は雑誌の間にはさんで置いた。

大してHに千世子が刺げきされたと云うわけではなくっても幾分か今までと違った色が生活の上に加えられたと云う事を信じないわけには行かなかった。

「妙なもんだ」

とびはじめの蛙の様に腰がすわらない気持でふいと口に出す事もあった。かなり風をきまぐれに午後から本屋に行った千世子はかえって三四冊のかなり重い包みを卓子の上に置くとすぐいつもする様に部屋の中じゅう見廻してからフイとHの手紙のはさんである雑誌をわけもなく手にさわったと云うばかりでとり上げた。

前とちがったところに手紙ははさんで有って巻方も一寸ゆるんで居た。

「阿母さんが見たんだ!」

千世子は斯う思ってうす笑いをした、そしてそれを手にもったまんまその時の母の様子を想像した。

私が電車に行った頃、母さんがここに来た、せかせかした眉つきをして机の引出しなんかを大まかに見る何にもない本棚の押し込みを見るここもからっぽ、少し気ぬけのした様な溜息を一つしてから本だらけの部屋の様子を籐椅子に腰かけてながめ廻すそれから何の気なしに手近にあるこの雑誌をとりあげる、妙にふくらんで居る、阿母さんは一寸まゆをひそめる、それからこわいものを見る様にあけると手紙が入って居る、瞳子(ママ)の中に神経的のひらめきが上る、始っから一句も見のがすまいと読んで行く、中には生活の状態だの千世子に体を大切にしろだの阿母さんを思ってあげろのと書いてある、ほんのちょっぴり安心して又始めっからくりかえす、それですっかり安心して巻きながら「あれが知ったら何か云うだろうが……何云ったってかまわないサ、親の権利で監督のために見たんだと云えばすむ事だ」と思う。

三枚ほど紙のまくれたのを知らないでそこにはさんでもとのところに置いて一寸指で表紙を叩いてそそくさと出て箪笥の前に座って「もうじきにかえるだろうが……」と思って時計を見る。

こんな事がはっきりと目の前にうかんだ。

手袋のフックをはずしながら、

「阿母さん只今、私居ない間に何か変った事がありましたか?」

母親の前にぴったり座って千世子は人の悪い笑い様をした。

「寒かったろうネ、変った事って何もないにきまってるじゃないか? 一寸の間だもの――」

母さんは一寸ゆるめた口元をたてなおして、

「知ってるナ」

と思った。

「あのネエ阿母さんフフフ」

千世子の心には母親の思って居る事感じて居る事が鏡にうつすよりもはっきり種々イロイロな色や光りをもってうつって居た。身動きもしないでピクピク動く眉や笑いそこねた様な唇を見て居た、すまない事だけれ共千世子の心の中にはかるいくすぐったい様な気持と又、自分をこれほど案じて居て呉れるのを知った感謝の心等がまぜこぜになってわき上って居た。

「阿母さん安心してらっしゃい大丈夫ですよ、そんな事は!」

千世子は笑いながら云った。

「アアまあとにかく着物御きかえよ炬燵にかけて置く様に云ったからしてあるだろう?」

「エエ、じゃきかえましょう。もう今日はどっからも電話なんかかけてよこさないでしょうネ、来たってことわるんだからかまわないけど……」

千世子が独りごと云う間に母親はせっせと裏衿をつけて居た。フックリとあったかい着物を着て部屋にとじこもってかって来た本を赤い線を引き引き読んで行った。

夕方飯田町の叔母のところから電話で、今夜病院の人達をよぶから手伝うつもりで来てくれと云ってよこした。気のすすまない千世子に無理やりに髪を結わせて一番似合う紺の縞のお召をきせて車にのせて母は出してやった。

(四)

三十分も車にゆられて向うへついた時上り口には男下駄がいっぱいならんで居た。広間の方からはかっちまりのない男特有の笑声がくずれる様に起って来る中に、叔母のビードロ玉の様にすき通る声がきわだってきこえた。茶の間から足音をきいて出てきたばあやは「マアようこそ」と云って顔を見た眼で一文字にうら袖の色までねめまわして、「皆さまお待ちかねでございますよ早くあちらへ、サア」と云う時には敷石にそろえた草履の縫模様を見て居た。千世子がまだ手袋をぬいで居るのにせきたてて広間につれて行った。障子を細くあけて叔母に何か云ってだまって千世子の背中を押してやりながら後からしめてソソクサとかわききった足音をたてて出て行った。うす紫の様な煙草のけむの中にいくつもいくつも瞳がこっちを見て居たけれ共、別に赤くなるほどのはずかしさも、うつむくほどの余裕のない態度もしなかった。

「めいでございます、林町の、どうぞよろしく」

チラッと千世子の方を見ながら叔母は皆に紹介した。叔母にしたよりも一寸ほど低く二ひざほどいざりでて笑いながらこんな時につりあったおじぎのし様をした。

「そうですか、これは……」

「よく御噂をうけたまわって居ります」

「新花町の友人ともあれだそうですナ」

いくつもの声がこんな事を云った、そんなかで一つでも千世子が返事し様と思ったほどととのった言葉を云った人はなかった。千世子はまるで三十を越した人の様なゆとりのある様子で又心持で二十人ほど並んだ男を観察しはじめた。

どの人もどの人もそれほかしらない五つほどの下すなしゃれをくり返しくり返して「オーヤオヤ」と思わせる人達ばかりの様に見えた。中ぶらりんのお医者様特有なフニャフニャな様子をどの人もどの人ももって、長いひげをピョンとはりがねの様にしたのと、短かくこの頃のはやりにきったのとあるかなしかの影の様なおもわせぶりなひげを一本ずつ並べてある人達などだった。わりに目はしがきいて居そうなかおをして居るくせに半間な人、やたらに通がる男、たえずあごをさすっては、「エヘヘヘ」と思い出し笑いをして居る人、着物の衿を人さし指と中指でしごいてキューキューと音をたてて下前を一寸ひっぱって袴のひもの結び目をポンと叩く事を目ざましい手ばやさでする男、どれもどれもこんな人のところへわざわざお嫁に行く人があるんだろうか? と思われる人達ばっかりだった。口元では笑いながらはぐきで「つン」とせせって叔母の横がおを見た。

杯が廻ってからの男達の様子はよけいしだらのない愚かしいものに見えるばっかりだった。あっちこっちで「お嬢さん」とへべれけな声を出してよんだりした。中には「奥さんの御めいごさん」なんかとおどろいて頓死しそうな間ぬけな呼び方をする男さえあった。酔って手をふるわせながらまだあふれそうな杯をにぎって袴からひざにダラダラと斬りかけられた様に酒をこぼしてあわててふこうとする拍子にたもとの先をお碗の中に入れたりする男の様子を千世子は手伝ってふいてやろうともしないで眉をひそめて奥歯をがチがチ云わせてにらんで居た。(こんな人達の女房なんか年中おはしょりをずるっかずるっかして袖口の光った着物を着て、ひまさえあれば塩豌豆をかじりながら火鉢の灰にへのへのもへじをかく事ほかしらない方がいいんだ)こんな事を思って居た。畳にお酒のしみを三つも作って御飯がすんだ。

「次の間で歌留多をしましょう」

叔母の発言で男達はヒョロヒョロした足どりでとなりの部屋に入った。千世子は柱によっかかって男の大きな毛むくじゃらな手が札をさぐるぶざまな形を見て居ると、叔母にすすめられて千世子も仲間入りする事になった。

「しっかりやってくれ給え」

傍に座った生っ白い男は云ってしょうばいに似合わないきたない爪のある手で千世子の丸い肩を打とうとした、フッと躰をそらしたので他愛もない形に男はひじをついてしまった。

千世子はかんしゃくを起した様に白い爪のやたらに小さい指さきを動かしてそこいら中をなぎたてた。赫色の毛むくじゃらの手が只わけもなくさわぎまわる中をルビーとダンラをうきぼりにした指輪のある手でスイスイと札をぬいて行く、おまけに手は白し爪は桜色になって居る。千世子は愚な民をその白い手で征服して居る女王の様な又いくじない動物達の群の中を胸をはって進む女獅子か女豹の様なかがやかしいおごった気持になった。

男達が自分をふざけさせて見たくってしようがないで居ると云う事を千世子は知って居る。一人の男は千世子をくすぐろうとしてつねられ、一人はわざと自分からつきあたって行ったくせにしりもちをついた。何故男なんて云うものはこんな時にうんざりするほどふざけたがるもんなんだろう。

千世子は男と云うものの一番みっともないところをさらけ出された様な不快な気持になった。そして思うともなくHのあの高く澄んだ額やしっかりしたくびの筋肉と丸い声を思った。

十時一寸過ぎ頃千世子はたまらなくなって帰ると云い出した。叔母がとめてもきかなかったものをあんな男達が何と云ったってもとよりとまると云うはずもなく、白い毛のボーアを富(ママ)げに巻いて黒い手袋をはめて千世子は敷石の上に一っぱいにかがやいて居る草履をはいた。男達はお互によりかかりあいながら見送りに出た。車にのってから、

「皆さんさようなら」

お義理に声だけを笑った様に千世子は云った。

「御かげで大変愉快でした」

「又いつかお目にかかりましょう」

「素敵ですよ」

なんかと胴間声をはりあげた男も有った。まだそう年をとらない千世子の車夫は提灯をかじ棒にさげながら、

「へへへ」

と笑ったのが千世子には又とないほど馬鹿にされた様に感じた。さわぎからのがれたおどろくほどの静かさとかるい動揺にすんだ水の様な心になった。くらい宙に時々青白い火花の散るのや、青や赤の町の灯がはにかんだ様にまたたいて居るのはその中に人間が住んで居ると思わせないほど詩的な神秘的な輝きをもって居た。雪駄を踏(ママ)いてこんな路を歩きたいと千世子は思った。ふっくりとふくれた様な道を車ははずんで行って、銀の輪に時々小礫がぶつかって響くリリーンと云う音、かるい足袋の地面を馳る音。

眠気をさそう様なそれ等の音は一つの音楽となって鼓幕(ママ)をなぜて行った。フッと耳たぼをくすぐられた様な気持で瞳メをあげた時居眠りをしそうになって居たのだと気がついた。只もうやたらにかるいはしゃいだ気持になって千世子は家につくとすぐ母親にあまったれて、

「お前はよっぽど妙な女だねエ」

と云われながら罪のないかおをしてねてしまった。

「アアそうだっけ、さっき興津から葉書が来てあした夜かえって来るってサ、Hが。オヤ、もうねたのかい」

母親の低い声で云うのは夢心地できいて居た。

(五)

興津から帰ったHは見違えるほど血色がよくなって快活な眼色をして居た。高山先生の御墓の絵葉書と名所カアドを千世子に呉れた。

「沢山勉強が出来ましたろう」

Hは笑いながら云った。「マアそんな事云うもんじゃありませんわ」なんかとこんな時云う事はだれでも――どの女でもする事だ、瞬間に千世子はそう思って、

「エエ、エエ、そりゃあ勉強が出来ましたとも」

と云ったあとから、こんな言葉をつかっても「そんな事あるもんですか」と云うのと大した違いはないと思って苦笑いをした。

「貴方私の大好きな額を少し黒くしていらっしゃった」

千世子は気にかかる様に云った。

「馬鹿な――そんな事云うもんじゃないよ、人から何とか思われる――」

母親はさえぎって云った事を消してしまうと云う様に手をはげしく横にふって大業にしかめっ面をした。

かなり更けるまで景色の好い事や妹の大きくなった事を話した。話を聞きながら千世子の目の前には人気のない冬の海辺の舟が腹を出してほされあみの細々とひかって居る所を強い波のとどろきに気をひかれながら、遠い事を考えて歩いて居るHの様子が目の前にうかんで居た。高山先生のお墓には自分も埋めて欲しいほど気持よさそうに思えた。Hは帰りしなに上り口の敷石のところでこんな事を云った。

「私はどっちが自分の家だか分らないようになってネエ」

だれもまってないまっくらな家にかえって行って一言口もきかずにだんまりで下女のしいた床に寝てしまわなければならないHの様子を思って千世子はさしぐまれる様になった。

「それでもマア好いサ」

わけの分らないこんな事を云って、

「お嬢様はHさんのところに嫁いらっしゃれば丁度好い」

といつだったか女中がにやつきながら云ったのを思い出した。その晩千世子はとんだりはねたりが千も万も千世子の体をつつんではねくりかえった夢を見て朝早く目覚めてしまった。

翌日Hが来て製図をしながら話したのは千世子に手紙で云ってよこした様な婚礼の話だった。

「あんな女をすきになれったってなれませんねえ。お金が世の中のすべてだと思って居る御仲間ですもの、いざとなれば御亭主と金仏をとりかえまいもんでもない……下手なおしゃれがすきでねえ、いやんなるほど妙に大胆なとこのある女ですもの」

そんな事を云ってHは他人の話をうけうりして居る様に平気に笑いながら話した。

三四日前から千世子にはねられない晩がつづいた。悪い夢にうなされたり、興奮したり考え込んでしまったりしてウトウトとすると夜の明けてしまう事が多かった。やたらに囲りのものに刺げきされたりあんまり感情が動きすぎたり、頭の重いのや食事の進まないのはただじゃあないと千世子は自分でも思って居た。

毎日毎日追われる様に書かなくっちゃあならない事が沢山ある様で居て何からして好いかわからずあんまり感じすぎて手が動かなくなったり一度書いた事を又くり返して書いて見たり、只さえ神経的な千世子の頭はよっぽど変調子になって来た、かお色も青く目もくぼんでいた。

「あんまり夢中になるからだよ、学校になんか行くのやめてお前、なおさなくちゃあいけないじゃないか」

母親は不安心らしい眼色をして当人よりも気をもんでさわぎたてた。千世子の体をよく知って居る医者は見ないで臭剥を調合してよこした。そうして電話に出た代診はクスクス云いながら「毎日これを召上って九時におやすみになれば十日でなおるそうでございます」と云った。

「何だろう、人を馬鹿にして居る、私がもしもっと重い病気になって急に死んだらどうするんだろう」

と、Hになだめられても、母親が何て云ってもきかないほど腹を立てた。

「それも病気のせいなんだよ」

すかす様に母親は云って額をさわったりした。

翌日朝、強い目まいがしてたおれてからジッと床についてしまった。昼間ねて居るのにきたなくして居るのはいやだと云ってシイツも西洋洗濯から来たばっかりのをしかせて枕も羽根を干した方のを出させて紫のビロードの夜着の衿にローズの香水を少しまいた。そしてその中に自分は袖の思い切って長いメリンスの友禅の着物に伊達巻をしめて髪をすっかりのばして横になった。枕元にはすきな本を並べてはりまぜの枕屏風を置いた。

夢中になってすきがって居る人の詩集を抱えたまんま眠った様なさめた様な気持で目を細くあいたりつぶったりして居た。何も考えず、何もしないで居るくせに一週間位てつ夜をつづけた様に頭はつかれきって一人で枕から上げるのはむずかしいほどで、目のそこに絶えず五色の渦が巻いて居た。夜になってから九度ほど熱が出た。頭の中でお湯がにえくり返る様な気がして、目を開いたまんま千世子はポーッとなって居た。小声にブツブツ口小言を云いながら何も彼も忘れはてた様なかおをして寝入ってしまった。そして翌朝目が覚めるまでは夢さえも見なかった。

起るとすぐ、

「ゆうべはよくねたのに頭が重くってしようがない」

不平らしい声で千世子は云った。

「寝る間にのんだ薬の中にかるいモルヒネが入って居たせいかもしれないし又、ゆうべあんなだった今日そんなに急によくなる筈もなしさネ」

母親は丁寧に説明してやった。だまって首をふった千世子の頬にはかるい笑がうかんだ。連想しやすい頭の中にはモルヒネが強すぎて寝たまんま死んで行った人の話、ポーの早すぎた埋葬の事、ジュリエットの事なんかがすぐうかんだ。

「かりに私がモルヒネがつよすぎてすっかり死んだ様になってしまったとする。私の知ってる人達は泣きながら前から私の云って置いた通り髪を長くとかして一番好い似合う着物を着せて体のまわりにはいっぱい花をつめてガラスの四方を銀色に光る金具でかざってある中にもって居るすきな指輪だの一つ二つ書いたものや、本と一緒に入れて呉れる。そうして土の中に入れられる、十日ほど立ってフッと生きかえる、私の体は前よりも一層力がこもってきれいになって居る、土の外に出ると、先ず自分の色の白くなったのに驚く。それから家に行く。家のものは幽霊が出る事を信じて居るあの一部の人達の様につっぷしてしまうに違いない、足元をよく見てから、

『マア、お前ほんとうの千世かい』

ふるえながら阿母さんが云って手を握って見たりかおをなぜて見たりする。そしてほんとうの私だと信じられた時のよろこび様はマア、どんなだろう?――」

千世子はこんな事を想像した。その日はなぜだかガラスの棺をこわす時の努力、その時の見っともない様子、又、土の間をのがれようとするひきしまった何とも云われない様な顔つき、顔色、手で土をかく恐ろしげな形を思う事はそうっとかくして置く様にして置いて居た。

それから三日ほど千世子はねて居た。その間Hはいつもと同じ様に西洋間で製図をして居たけれ共お茶時に紅茶とお菓子を銀の盆にのせてわざと目八分にささげて入って来るおどけた姿、子供の様に他愛もない事に大声で笑う事、むずかしいかおをして真面目な話をしだす見つめる目つきや、うす笑いする口元なんかが自分の生活からはなして置かれないものの様に見ないで居ると云う事がものたりないすきがある様に感じた。鉛筆の先を削りながらフッと千世子の思い切った様に弾き出すヒラリッとおどった手つきを思い出す事もあった。そんな時にはいつでもHは「フフン」と人事の様に鼻の先にしわをよせてこの頃漸く育って来た感情を自分で信じる事はこのまなかった。

(六)

それは随分温い上気しそうな日だった。

Hは光線をよく入れようと南に面して沢山ある出まどをすっかりあけはなした、白い紙は光線のさすところだけうす桃色ににおって居た。

白い額に落ちかかって来る濃い髪を上げあげしながらHは軽い気持になって自分のすきな子守唄をうたった。Slumber Slumber ゆるいなだらかな諧調の声を胸のそこからゆすり出す様に張って歌った。

不意に庭の木のしげみからかるい若い女の声が伴奏の節に同じうたをつけて合わせて居る、Hはフイと歌をやめた、それと一緒にパッタリとその声もやんだ、うす笑いしながら又うたうとその声もつづく。

Hはうたいながら斯う思った。

「妙にいつもより好い声を出して居る、つやっぽい、いかにも甘ったるい声を出して居る、どうしたんだろう、キット様子もいつもよりきれいになってるかも知れない、ほんとうにくすぐる様な声だ……」

歌を一つうたいおわるとすぐまどから首を出してそとを見た。木蓮の木の下に小形の籐椅子をおいてひざの上に本をひらいて千世子は座って居た。

「千世子さあーん」

Hはパッと開いた花の色の様な声でよんだ。フッとこっちを見て千世子は白い歯を光らせながら自分の身丈よりよっぽど高いまどの下に立った。

「どうして? もう好い」

「エエ、好いことは好いけど貴方は一つ家に住んで居ながらろくに顔も出さないで……女王はおこっておいでになります」

「どうーぞお許しあそばして女王! それはそうと今日は好い日じゃあありませんか、暖くってしずかで、そう思いましょう?」

「好い日ですワ、ほんとうに、でもこんな日には只はずんだ様な気持になるばっかりで、考えるなんて事は一つも出来ないお天気です……」

「ようやっと今日起きた人がそんなに考える必要もないでしょう……それに又考えたって」

「もうその先はわかってますから――」「貴方は考える事のすきでない口ばっかりの女が御すきだと見える」

人の悪い笑い方をしながら千世子は云った。手をのばして千世子はまどのふちに指をひっかけ、Hはのり出して上から見下して話して居る自分達の様子に千世子は芝居のある場面を思い出して居た。

「めったに庭に出ない人が今日はどうしたの?」

「何故って一々そんな事に説明をつけてる人なんかめったにありゃあしませんわ」

千世子はすぐそれにつづけて、

「でも気になるんなら云ってあげましょうか?――少し妙だ!」

と笑うかん高な声が遠くの方にひびいて行った。

「そんなに云わずといいじゃありませんか、何心なく云った事を――」

「そいじゃもう云いません。今日どっかへ行らっしゃらない? 歩るくに丁度好い暖さで気もかるいし!」

「まだかるはずみですよあんまり、今日とあした位はしずかにして居なくっちゃいけません、臭剥はまだのんでましょう」

「イイエ、悪い時だけなんです、あんまりつづけるとくせになってきかなくなっちゃいますもの。じゃ、今日はおとなしくしてましょう、でも何だか出て見とうござんすわね」

「いい気持ですネエ、ほんとうに、背中からコー羽根が生えて来そうな気持じゃありませんか、飛行器にのったらいいでしょうネエどんなにか」

「いい気持ですけど斯うやって見上げてるのはもういやですワ、貴方の声でも何でもが頭の上におっこって来る様な気がするから……」

「又くせが出ましたネエ、でもまあそいじゃあっちから御入んなさい、そしても少しはなしましょう、母さんもさそって御あげなさいね」

千世子は合点を一つして縁側から上った。

「阿母さん、Hさんのところに行って話しましょうよ、貴方にもいらっしゃいって」

「そうかい、でも私はこれをしなくっちゃあならないからネエ、後で行きますってそお云い」

阿母さんは手にもった小布をふって見せた。何をして居るんだかわからなかったけれ共、

「じゃネ、あとで……」

と云って西洋間に行った。あったかい日をうけてかおをポーッとさせながら、長椅子にHはよっかかったまんま目をつぶって居た。いきなり大声ではなしかけ様とした千世子は一寸どまついて口をもぐつかせてそのそばに腰をかけた。

「綺麗なかお色をしてる」

千世子はすぐそう思うと一緒に自分もより以上きれいに違いないと思って悪がしこい笑い方をすばしっこくして一寸羽織の行をひっぱった。

Hの目を覚まして居るのをさとって居る千世子は、つんとすましたゆるみのない顔をして細っかいでこぼこのある紙の面が複雑な美くしさにてって居るのを見ながらしずかな自分の耳なりに気をとられて居た。

「何故こんな事を始めた?」

ときかれたら返事の自分でも出来ない様なつっつかれた気持でHはほんとうに眠った様にまつげを一本もゆるがせないで今につり合わない事を思って居た。

「何故私は千世子の笑って居る時にはいつでも笑って居るんだろう。千世子が気むずかしくて居る時は私までいつの間にか重い気持になって居る――どんな時にでも思い出してもふるえる様に腹立たしさと悲しさをあたえたのも女だと云う事を忘れずに居なくっちゃあならない。

私はただ一人のあたり前の娘として千世子を見て居なくっちゃあならないけれ共一日一日と立つにつれて千世子を私からはなして置きたくないものになって来た。今は斯うやって自分の心をいい悪い又そうでなくっても考える事が出来るけれ共――千世子を私は――

でも私自分ではそんなに若い心持は持って居ない様に思って居た

〔以下、原稿用紙一枚分欠〕

「神様が一寸手いたずらに私と云うものを作ったんじゃああるまいか? それが私の頭の中にこんなやたらに発達した感情や一寸も割合に進まない事なんかがあるんじゃあないんだろうか?

何にかになれそうに見せかけて置いてポッカリしょいなげを喰わせた様に何でもないものにほかなれない様にして仕舞うんじゃあるまいか?」

こんな事をかなり真面目に考えたりした。二人は「吾が袖の記」について話し合って居た。母親のこの頃の文学の批評はあんまりうれしがらない事だったんでHの鉛筆の芸をやって居る白い指の先を見ながら考える事はやめなかった。

「そりゃあ少時しばらくの間は羽ばたきもしようし、羽根もためそうさ、さて飛ぶ段になっては――」と云う言葉は「その前夜」のベルセネフの云った事だけれ共、自分を偽って自分を思うまんまにおもちゃにしてたのしむ何かが云って居る事に違いない様にも思われる。

「何どんな事があっても勝手になんかされるもんか」

と云う反向(ママ)の心がパッともえるすぐあとから小っぽけな人間のはかない反向(ママ)、はかない努力、死にかかった虫を針の先でつついてはそれに刺撃させられてかすかに身をもがいたり鳴いたりするのを見てよろこぶ様にその通りな事を人間にしてよろこんで居るものが目に見える様だった。

「こんな日にMでも来て呉れなくっちゃどうしようもなくなってしまう」目をつぶって組んだ手の上に頭をのっけて、

「阿母さん」

つっぷしたまんま千世子はよんだ。二人は千世子の居るのなんか忘れた様に気込んで話して居た。

「阿母さんてば」

小娘の云う様にじれて千世子は呼んだ。

「どうしたんだエ、又かい」

Hと一緒に立ち上って千世子のそばによった。

「又? どうしたの? あんまり生暖かいからでしょう」

千世子は身ぶるいが出た。あんまりしなやかな世間知らずの若様の様な口調で云ったHの言葉や態度がかたくなった千世子の心の中にスーッととけ込んで行った。ねむくなる様な気持になって、

「少し……でも何でもありゃあしないの、二人とも私の居るのを忘れた様にしていらっしゃるからのけものにされて居た様で……」

つっぷしたまんま右の眼のすみでHをみながら千世子は云った。

「何だろう、まるで赤坊の様な事を云ってるネ。さっき、『吾袖の記』を話していたらつい、貞操と云う事になっちゃってねエ、ほんとうにお前なんか忘れたんだよ」

「そう、でも今日はそんな話するより何か美味しいお菓子でもたべた方がいい」

千世子はケロンとしたかおで云った。三人のまだ笑いのとまらないうち、

「山田の源さまがいらっしゃいました」

女中がとりついで来るとすぐそのあとから千世子がいつでも「育ちすぎたんだ」と云うほど大きな商科に入ってる従兄が入って来た。

「ヤア」

二人は男のだれでもがする様にかけ声をかけあってわけのわからない笑いがおをしあった。Hはしばらくはなしてから又製図台に向った。

「随分御不沙汰ですネエ、学校がいそがしかったんですか」

母がきく。

「エエ論文の材料を集めてたんで今年になってから始めてですネエ」

源さんはいつもの君子の様なおっとりした調子で云った。

「何の論文?」

千世子は少し馬鹿にしたらしく唇をぴりぴりふるわせながら云った。

「何って、貴方には云ったって分りませんよまるで何にもしらないんだから」

小さな小供に云ってきかす様な口振りがかんしゃく虫をつっついた。

「そんなに見下さずとようござんすわ、どうせ源さんの書く論文じゃたいていねえ……」

と云って小鼻をぴョんとひょこつかせた。

「女らしくないよ!」

号令をかける様に母親は注意した。

「Hさんも、そんなになさらずといいでしょう、少し御仲間入りなさいよ!」

「そうですワ、皆がかおを見合わせて居るのに一人背中を向けた人が居るって云うのは、白粉のむらについたのよりいやなもんですわ」

千世子は合槌をうった。

「大変きどった云い様をしましたネエ、そいじゃあそっちを向きましょう」

Hはつま先で椅子を廻してこっちを向いて、源さんの顔とHさんのかおが並んだ。

だまってHのかるく動く口元を見て居た瞳を源さんの五分がり頭にうつそうとした時源さんがさっきっから自分を見つめて居たのを知った。すきをねらわれた様な馬鹿にされた様な気になって奥歯のすみに息をためた。そして見すかした凝視を源さんの瞳の中になげつけた。

源さんはすぐ横を向いた。勝ちほこった心になりながら大切なものを守る様にソーッとHの白い額を見て居た。

「いつもになくだんまり虫だネエ」

ひやかす様に云う母親のかおを一寸見て、千世子はかたをゆすぶって「フフフ」と笑った。

「ネエ、千世ちゃん、お正月早々病気だったんだってネエ、まだ学校には出ない? もういいの?」

話す折がなくって居た源さんは「ネエ」にやたらに力を入れて話しかけた。

「そうなの、ついこないだから起きてるんです、もう一二日したら出ましょう」

「大切にしなくっちゃあネ……この次の日曜には目黒あたりに行って見よう、いいでしょう?」

源さんは無闇とうれしい事でもある様に例にないはずんだ声で云った。

「でも又あの人達も行くんでしょう?」

一緒に連れて行かなくっちゃならない弟達のめんどうくささを思って眉をひそめながら千世子は云った。

「又始まった、いやなら行かなけりゃいいさ、いつでもあれだ我ままものだネエ」

母親はひったくる様に斯う云ってHと源さんに賛成をもとめる様に目をやったけれ共、二人ともよそを見てたもんでしまつのわるくなった目を籐椅子の編目をくぐらせてカーペットの花模様の上におっことした。

「どれ――御馳走の指図でもしようか」

母親はものぐさそうにウンとこしょっと云って台所の近い西の戸から出て行った。

千世子はやたらにつかれた頭になって来た。一番深い椅子を選んでクッションを頭にあてながら二人の話をきいて居るうち、いつの間にかうたたねをしたものと見えて、目を覚した時体には赤い繻子の羽根ブトンが巻いてあった。

源さんは裏で弟達とテニスをして居るらしくおもみのあるボールの音がきこえて居た。

Hさんは懸命に線を引いて居たが身じろぎする音に気がついてふりかえってやさしい笑がおをしながら、

「寝ましたネエ、まだ頭がすっかりよくないんですよ、さっきつかれたらしい様子をしてらっしゃると思ってたら……」

製図台に後手をついてそり身になりながら目をこすってる千世子のかおを見て云った。

「どの位たったでしょう?」

「せいぜい一時間位なもんでしょう。そのふとんはあんた源さんが阿母さんにたのんで出してもらって来たんですよ、そいで貴方にきせてあげたんですよ」

「ヘエ……」

気分のはっきりしない千世子は気のない返事をして居た。だまって羽根ぶとんの影の多い赤い色を見て居るうちにやたらにすきだらけの様なかたい淋しい心持になって涙がにじみ出して来た。

Hはまだ千世子を見つめて居る。その眼からさける様にそっぽを向きながら、頭の髄からしみ出る様な涙のこぼれるひやっこさを感じて居た。男の前で涙を見せるなんかって云う事は千世子のきらいな事である。けれ共身動きも出来ないほどわけのわからない感情がたかぶって来た。頭をたおしてクッションの中にうずめた。柔かい中で、頭はガンガンに鉄の玉の様になってた。

「どうしたの?」

低いしずんだ声でHはきく。眼の中に涙の光って居るのを千世子は見つけた。それをどうのこうのと云うだけの余裕は千世子にはなかった。

Hは足の先を見て部屋の中を歩き始めた。幾度も幾度も廻ってから暗い方を向いてHは祈り始めた。うつむいて胸に手を組んで祈って居る様子を千世子は涙にぬれた眼で見つめた。Hが祈りをやめた時には千世子は涙をとめて居たけれ共Hの眼の中にはこぼれそうに涙があった。二人は、何のわけで涙をこぼしたんだかお互に知らない、それでもどっかでお互の心がそれを知りあって居るらしい気持がして居た。

「歌でもうたいましょう」

ふだんと同じ声でHは云った。

二人の好きな曲をひきながら千世子は目をねむって居た。一つ一つの音が胸の中にしみ込む様で段々かおがあつくなり体がふるえて来て涙が又こぼれた。

こらえて千世子はHに涙を見せまいとして弾きつづけたけれ共とうとう象牙の鍵板の上に頭を下してしまった。ゆるやかに歌をやめたHはそっと見て居たけれ共、ソーッと千世子の頭を抱えてから庭に出る戸をあけて出て行った。つかれた様にふるえて声をたてないばっかりにして千世子は泣いて居た。

Mが来ないから悲しいんでもない、何がなくってかなしいんでもない、若い女によくある、只わけもない悲しみなんだろうか? そんな事ならあんまり下らない見っともない事だ。

千世子は若い娘のやたらに淋しいとか悲しいとか云う様な事をすきがって居ない。

感情的なのを、いやだと云うんじゃあない、それをむやみと表白して「私淋しゅうござんすわ」とか何とか云ったりするのがきらいだった。それだもので何のために泣いて居るのか? と思ったらいつの間にか涙はとまって居た。そのかわり恐ろしいほどの陰気さと疑が雲の様に湧き上って来た。「妙だ!」引っからびた様な目つきで千世子は思った。おや指の腹でうなる様な音を出してそれにききほれながら年よりの様なかたまったかおをして居た。Hと源さんは庭の方から高く笑いながら入って来た。

「どう? もういい?」

源さんの口元にはさっきっからのつづきらしいわけの分らない笑がのぼって居た。

「この人達は自分の笑いたい事をさんざん笑ってその笑のおのこりをもって来て『どう?』なんかって云ってる」

千世子はカーッとしてでくの様の頭をふった。

「少し気分がよくないらしいんですねえ!」

Hは千世子の気むずかしい眉つきを見ながら云って長椅子に源さんと並んで腰をかけ、源さんは時々千世子の方を見ては体をゆすって居た。おしにされた小鳥の様にだまったまんま二人は椅子によって居たが、

「きりだけやってしまいますから……」

Hは云って立ち上ると源さんは千世子を見つめて居た目をあわててHの手に注ぎながら、

「どうぞ。私も何かしましょうから」

とばつを合せたつもりで下手な返事をした。

「千世ちゃん単純生活をかりて来ますよ、ネ? いいでしょう、そいからこないだのは本箱の中にしまって置いたから……」

「そう、そんならそうなさいあれの原書もあるワ、正面の棚の上から二番目のはじの方に……キット」

「僕はこの頃フレンチを独りでやってるんだけど……貴方もやって御覧な……そんなに骨も折れないから……楽しみに好い……」

「でも今のところは出来ない、毎日こんな風をして居るんだからこの次の日曜に目黒に行って気分がわるくならなけりゃあ少し位つめてもいいけれ共……」

「ほんとうにそうだっけ、でも見たとこでは何ともないもんだから……」

こんなまとまりのない知れきった様な事を御丁寧に話し合って居るのがつまらなくってしようがなかった。椅子の後に頭をぶっつけながら、

「何か面白い話はない? 一寸も張り合いがないじゃあないの、こんな事話し合って居たって……」

「そうさネ……」

「それはそうと今日一体何曜?」

「今日? どうして忘れたの? 木曜ですよ!」

「じゃこの次の日曜まではじきネ」

「そうらしゅうござんすネエ、あしたは金曜でその次は土曜で……」

Hが向うを向いたまんま笑いながら云う。

「貴方のは十八番ですわネエ、ろくでもない」

「口下手な方が尊いんですよ」

「でもはなしかが女にはありませんわ」

「ほんとうにそう云えばそうだが……ちっと妙だナア……」

あんまりおどけて居たんで笑をつまみ出された様に「ハッハッ、ハッハッ」と調子をつけて笑った。

衿を合わせながら入って来た母親は二人をつかまえて北海道の話をし始めた。いくどもいくどもお祈りの文句の様にくり返してきかされて居る千世子は自分の部屋に入ってK子のところに手紙を書き始めた。まとまりがつかないで始まり一字が思う様に出て来なかった。

「どうせ一日か二日すれば会うんだから……」

こんな事を思ってうす青のライティングペーパアを原稿紙ばっかりのかみくずかごの中に点を打った様にコロッと一つなげ込んだ。

一番おしまいの紙くずをなげ込んだ時、

「千世子さあーん」

Hが呼んだ。インクにふたをして居ると、

「うたいたいんですよ」

と又どなる。

「行きますからまって……」

手の甲をせわしくシュシュとこすりながら、

「あれひくんです、あれ」

Hがこう云っただけで千世子は Adieu を弾いた。Hの声がいつもより倍も倍もきれいにきこえた。「お天気のせいだ」千世子は斯う思って丸味のあるその声に頬ずりしてやりたいほどに思えた。

ひき終えて二人はかおを見合わせてわけもなくかるく笑った。

「いつも弾いてもいいうただ」

Hはため息をつく様な声で云ったのも気持につり合って居た。

「御仲間に入れて下さい」

源さんが入って来た。

「源さんは私達が二人で居るので不安心に思ってるんだ、そいで又二人で居るのがきらいなんだ、何てんだか……」

源さんが笑いながらかたごしに譜をのぞくのに千世子は斯う思って「眼の囲りの筋を一本だってゆるめやしない」と云った様にとりすまして居た。

夕飯の手伝いを云いつけられていやなかおをした働きぎらいの千世子は八時頃になって、

「お先きへ――私気分が悪いからもう寝ますわ、あしたは学校に多分行きましょう」

こんな事を云ってじきにねてしまった。

翌朝夜が早かったんで五時頃に起きた。又例の寝間着のまんま西洋間に行って火にあたりながら歌を読んで居た。

七時頃っから千世子は本をしまって学校に行くつもりで仕度しはじめた。着物を着かえて時間割を見ると数学。いかめしい字で千世子にかみつきそうにがん張って居る。

「いやんなっちまう、せっかく行こうと思えば」

うらめしそうにその字をにらみながら千世子は迷った様な様子をして立って居た。

「止めよう、こんな気持で行ったって何が出来るんだ」

なげつけた様に云って又西洋間にもどった。歩きながら、

「阿母さんが、『お前はいくじなしだよ、ほんとうに一寸も我まんがない』っておっしゃるだろう」

こんな事を思って妙な笑い方をした。

Hのわきに腰をかけて何のわだかまりもない様にスースーと引けて行く線を一日中見て居た。出がけに父親が、

「人間は頭だって……しっかりせんけりゃあいけない、体を大切にするんだよ」

と云いながら千世子の頭をかかえた事がいつもの事でありながら千世子にはやたらに思い出された。

何となく気弱な様な自分の心を引きたたせ様引きたたせ様と千世子は骨を折った。

その日は話のたねのつきた様に目黒行の事ばっかり云って居た。

「又いかないんかい、いけないじゃあないか」

と云おうとした母親は千世子の眼が感情のおだやかでない時に起る一種わけもわからないするどい光りをもって居るのを見て、早くねろ早くねろと暮れ方からすすめて居た。

(七)

日曜日はかなりの天気で千世子は健康らしいかお色をして居た。

千世子は何をするんでも三人と云うかずはすきでなかった。二人がはなしをすれば一人がぽかんとして居なければならないキットすきが出来る。そんな事を思って居る千世子は今日三人で行くと云う事もあんまりこのましくなかった。

「誰かも一人行く人はないだろうか、若し場所をかえてならという人があれば少し位のところならかえても好いから四人になりたい」

とまで云った居た。それだけ千世子は大好きなものずくめななりをして出かけた。田端の停車場に行く間幾度も幾度も空を見上げてHは、

「いい日ですネエ、歩くのにつり合ってますネエ」

といかにも気に入ったらしい口つきで云って居た。

千世子はいつもほどしゃべらないで白い足袋のつまさきで小石をけとばしたり、Hのかるそうな洋服すがたと源さんのマントを着た大きな影をちょいちょい見くらべたりなんかして歩いた。

割合に山の手はすいて居たけれども真向いに居る一人は二十五六の、も一人は二十位の女が悪ずれした目つきをして二人の間にはさまれてツンとして居る千世子の風の変った髪やじみはでな着物の着こなし方なんかをわざわざきこえる様に批評するのが気にさわってたまらなかった。千世子は「何がたか……」と思い上った様な目つきをしていかにも矢場女らしい鼻ぴくなかっちまりのない顔をジーッと見つめた。

向うの女も始めは、

「何だ! 生意気な世間知らずのくせに!」

と云った様に見返して居たけれ共、千世子の神経的な目を見つめて居られなくなってフッとわきを向いてつれと顔を見合わせた。千世子は勝ちほこった様にうす笑いをして肩をゆすった。

「どうしたの? かんしゃくを起した様な」

Hは源さんとして居た話をやめて千世子にきいた。

「かんしゃくを起した? ――なんでもありゃしない、こんな好い日なんですもの」

千世子はうれしそうな笑い方をしてHのかおをしげしげと始めて会った人の様にして見た。袖を内ショ話をする時の様にHがひっぱった。その時の気分で千世子は濃い甘ったるい様な、うそにしてもそうした言葉をHの丸い声で云って貰いたかった。内気な小娘のする様に千世子は首をかしげた。

「一寸! 前に立って居る男を!」

すばしっこい目つきをして前に立ちはだかって居る男を見上げた。

荒い縞の背広を着てあくどい色のネクタイをいかにもとっつけた調子に結んで居た。

ニキビの一っぱい出た油ぎってニチャニチャする様な二十五六の男だった。

上から三つ目の貝ボタンの根にきりきりといたいたしく女の髪が巻きついて居た。

そのわきに話して居るまだ十七八の小僧にさえ千世子は眉をぴりッと動かして、落ちついた眼色でいかにも下等らしく見える男をにらんだ。いつまで立っても二人の男は何か意味のありそうな下びた笑いをやめなかった。

「何て見っともないんだろう」

つきとばした様に叫んだ千世子は男の様な味もそっけもない口元をしてHを見た。Hは苦笑をして源さんと話して居た。

家を出る時っから源さんは、重い進まない気持になって今日こんなところに来ると云い出さなけりゃあよかったとさえ思って居た。

電車の中でも自分の隣りには座らないでHのわきに座った。話をするにもHとする、笑うのにもHの方を見る、いかにもおさなげな事ではありながらたまらないねたましさが湧いて居た。

「彼アれは己れよりもHを愛して居るんだキット」

こんな事もフイと思って、

「デモHより己の方が若い!」

力ない笑いを瞳の中にうかべた。おっぱらい様のないねたましさに、

「何だ! 馬鹿らしい、どうだっていいじゃないか……」

と思いながら千世子の目の動き方から、体の動かし方、手の有り場所まで無しょうに過敏な神経を眼の底にあつめて見守った。

「ほんとうに己はなぜこんなところに行こうと云い出したんだろう自分で自分の気がしれやしない、千世子はたしかにHを思ってるんだ、そいで己はだしにつかわれてるんだ!」

観念した様に目をつぶった。いつもとやたらに違ったかおつきや様子に、二人はそんな事とは知らないながらも何となくおだやかでないぞと思った。

「源さんどうしたの? 気分が悪い?」

あやす様な口つきで千世子はHの肩ごしに下を見つめて居る源さんに声をかけた。

「ウウン、なんともないけど、あんまり好い気分じゃない」

源さんは千世子にいままで用ったことのないほどとげとげした言葉つきだった。

千世子はHとかおを見合せてたまらない様な不愉快なかおっつきをした。

「何かかんたぐってるんだ、かえったら説明してやれ、馬鹿馬鹿しい、男らしくない感情をもってるんだ!」

斯う思うとすぐ、今日一日は源さんを思いっきりいじめてやれとむごい心持になった。

「何が可哀そうなもんか、私を一寸の間でも不愉快にさせたんじゃないか!」

目黒につくと千世子は一番先に降りたHに外国の貴女レディーの様にたすけられて気取った様子をして下りてHをまんなかにして歩き出した。三人はだれでもが行く不動さんの方に向いて居た。少しの間歩くと源さんは一寸後をすりぬけて千世子の傍にぴったりとついて歩いた。青っぱなをたらした子供やひねっこびれた小守達は千世子が油気のない髪を耳の両わきでとめてダアリアの様にリボンを結んで居るのや、うす色の絹糸をあんだ長いショールを長くひざの下まで合わせもしないで流した様子や男達と足をそろえて大股にシュッシュッと歩くのを妙な目をして見送って行きすぎると低い声でねたみ半分の悪口を云った。

三人は話をしないで歩いた。けれ共千世子の目の中には絶えず笑がさしこんで居た。不動さんへのまがりっかどに来た時Hは向うから来た夫婦づれを見て、

「いい気で居らあ、ちっとのろいナ」

と云った。

まだ若い旦那さんが奥さんの洋傘をうでにひっかけて笑いながら歩いて来る。奥さんは鼻の先ばっかり白い、髪を不器用につかねた、草履でほこりをあげあげする、白っぽい縫の半衿が馬鹿に形につり合って居ない、頭のなさそうな女だった。これだけをすぐ見た千世子は鼻声でこんな事を云った。

「そんな事は必(ママ)して云うもんじゃあありませんわ、いかにも独身者ひとりものらしい言葉じゃありませんの」

あの高い段々を登る時はいつものくせで(千世子は小供の時から父や何かと歩いてもきっと相手のうでに自分のうでをからみつけるくせがあった)Hと源さんのうでに両うでをひっかけてひきずりあげられる様にしてらくに上った。うすっくらい拝殿の中にまだ若い僧のねそべって居たのが千世子の大きな笑い声にとび起きて赤いかおをしたのが気の毒の様にも又馬鹿馬鹿しい様にも思えた。

一廻りして下に下りた。千世子は何にもわだかまりのない様なカラッとしたかおっつきをして四方のものをすばしっこくながめ廻した。ほんとうを云えば斯うやって歩いて居ると云うよりもあんなひがんだ心持で自分の心を一寸の間でも不愉快にさせた源さんにかたきうちをしてやるのがうれしかった。三人は広っぱを小さく一っかたまりになって歩きながら、

「随分俗っぽいところですネエ」

「あの家並の茶屋に黄色い声でほざいてる女達がよけいに気に入らないじゃあありませんか」

「あの声につられるマットン・チョップ(間抜もの)もあるんですかネエ」

「案外なものですよ、十人十色世間は広いんですから」

「又時間をつぶして来ようとは思えないところですわネエ、そうじゃあない?」

「すきずきですよ、すきな人もないではありますまい、キット、君は?」

「サア、すきませんネ、こんなところ、二度と来るもんですか」

「いまいましそうですネどうしたの? 私知ってますわ!」

「そんな事を云って居るもんじゃあないんですよ、――」

Hはこんな事を云って一寸いかつい目つきをしてわきにひっかけて居る千世子のうでを押した。

下をむいてクスクス笑いながら、

「ハイハイ」

と何もかにもをまるめてうのみにする様な返事をした。

「ここの栗めしや竹の子めしって随分下らないもんですネエ、そりゃあおどろくほどですよ、不美味まずくって……」

「そう、いずれ何々めしなんてこんな家並にする様になっちゃあ素人が作ったのより不美味いものになっちまうんですよ、デモ若し御給仕に来た女が自分の気に入ったら我慢するかも知れませんワ」

千世子は遊びぬいた男が云う様な事を云った。源さんはそっぽを向きHは千世子のえりっ首を見ながら笑って居た。

「私もうこんなところに居ずとようござんすワ、妙華園に行きましょうネ、近いから、いや?」

一番奥の茶屋の赤い毛布の上に腰を下すとすぐ我ままらしく云い出した。渋いお茶をのんで居たHは、

「もういやになった? 行ってもいいけど、源さん君は?

いいでしょうつき合っても……」

羊かんをたべて居るのにかずけて源さんは合点したっきりだった。

「じゃそうしましょう、でも千世子さん歩ける?」

「歩けまいと思えば誰が云い出しなんかするもんですか、キット歩きます、どんな事になっても……」

「自分は歩くつもりだって足が云う事をきかなくなったら困るじゃありませんか」

「歩かして見てから云って良い事ってすワ、早すぎます、今っから」

千世子はおせんべを掌の中でこまっかくかきながら云った。

「オヤ、何故私は大きいまんまかじろうとしないんだろう、気取るつもりでこんな事をしたんだろうか……」

クスリと歯ぐきの間で笑って向うに岡持を下げて居る男と懸命にしゃべって居る娘の黒い横がおを望(ママ)めた。二人の話して居る事もととのわない下手な馬鹿げた事の様になって千世子の頭の中に想像された。

「姐さん」

Hがわるさをする様なかおっつきをして呼んだ。

話に身を入れて居る娘はきこえないと見えてふり向こうともしない。

「一寸来てちょうだい」

千世子が持ち前のかんだかい声で云うと娘はあわてて下駄を横ばきにしてかけて来た。

Hはからになったきゅうすを出しながら、

「大分もててたネ」

と云って人の悪い笑い方をした。娘はパッと顔を赤くして、見っともないかおに落ちかかる毛をあげあげして茶がまの方に行った。

「ぶきりょうなあの年頃の娘がかおを赤くするなんて妙ないやな感じを起させるもんですわねえ」

千世子はさとった様に小声でHに囁いてはばせまの帯を貝の口にした割合に太った後姿を見た。

「同性じゃあありませんか、味方をする筈のもんですよ、年だってそんなに違ってもしないのに……」

Hは何でもないと云った様に云って濃い髪を撫でた。女で云えばヒステリー性の人の持って居る青白いしまったたるみのない手、それと同じ形の手が黒いかみの林の間を白鳩の様にとび廻るのを美しいと思って千世子は、片方の目ではHの美しい手を片方の目では気まずいかおをして居る源さんを見た。茶屋を出てからも妙にそそのかされた気持で、並木の歩くに気持の好い、何となく斯う、画にある様な綺麗な小石の光る道をふところでをしながら筈(ママ)とゆらゆらあるいて楽しさと苦痛の時間を長くしようとして居た。

両肩を張って二人にぶつかりながら歩いた。甘ったれる様な意味のある様な様子をして居るのが源さんに気に入らなかった。

「何故そんな風にして歩くのみっともないじゃないの?」

源さんはいまいましいと云う様に云った。

「こうやって歩きたいから……ただそれ丈よ、――たまにこんな所に来た時は自由なあけっぱなしの気持で居るんが好いんですワ」

源さんに返事をしながらHを見て心は囲りの景色にうばわれて居た。一足早めて源さんは二人の先に立った。

そして二人のする話をもれなく聞こう聞こうとしながら又今日ばかり馬鹿に意地の悪い千世子にそのけぶりをさぐられまいさぐられまいとあせるととのわない身ぶりに却って心持を見すかされて居た。

「ネエHさん、人間なんて妙な感情をもつ動物じゃありませんか。その人達の思ってもしない事を自分一人で思ってる様に考えたり、それであくせくしたり気をもんだりネ、でもそんな事は女が多いでしょうネエ、男でもありましょうか」

千世子は斯う云いながらHのせなかについて居た葉を小指でつっつきおとした。

「そりゃあ人間なら男にだって女にだって有る事でさあネ、それに又、世の中が段々複雑になって行くとある程度までそれも必要になって来るんだからしようがありませんネ」

「いやな事ですわネエ、私なんか自分ではキットそんな心をもってないと思ってます、だから私はやきもちやきじゃあありませんわ」

千世子は源さんに見せつけてやりたい様なHが何とか思わせぶりな事でも云えばいいになんかとさえ思って居た。丸木橋の杉の森の遠くに見える川の上に立った時千世子は夢を見る様な目つきをして、「マア……」と云ったっきり今にもそこに座りそうな様子をした。何とも云えない快活な自然の景色は見て居ると段々体がとけ込みそうになるほど広く広く遠く遠く少し水蒸気のあるうす青い空には美くしいまぼろしと自然の音律を作ってする呼吸とがみちて居た。遠くに見える杉森は頭の下るほどに尊げに足元の水はかすかな白い泡沫と小さい木の葉をのせて岸の小石にささやきながらその面には一ぱいの微笑をたたえて歩いて行く。

あまり美くしい景色に会うとほんの二三秒は気が遠くなる様に目にも心にも何にもうつらないまっしろになって息づまる様な事が千世子にはよくある様に今日もなって、川の上に居ると云う事もせまい橋に立って居ると云う事も忘れてさそわれる様に一二足のりだした。Hは袂の先をにぎって居た。千世子は自分の体が段々と空に上って行く様に思われるほど愉快だった。

自然と云うものを千世子が抱けるものだったら、しっかりと抱えて、千世子が自分で可愛がって居るまっしろなフックリした胸にあとのつくほどだきしめてそのまんま感謝しながら窒息してしまいそうに、又そうして見たくさえ思われた。

Hは千世子の肩をかるく押して歩き出した。

「別れともないナアこちの人」

千世子は甘ったるい声で云って橋の方をふりっかえって手をのばした。Hは別に意味もなくそのひらいた手に枯葉をにぎらせた。

夢を見る様にウットリと心がうき出して居る様な目をして居た千世子は、急にさめた様に目を輝かせて立ちどまった。涙がこぼれそうにまでにじんで来た。

「あんまりひどいじゃありませんか、あんな気持になって居るのにこんな見っともないものをにぎらせなくったっていいじゃあありませんか、すぐわきにソレこんな白い花だってあるじゃあありませんか、ほんとうにひどい方だ、こんなに私をいじめないだってようござんすワ」

だまって居られなくなって千世子は大きな声で云った。「この見っともない葉ののこぎりの様な線が私のあんなきれいな香り高い絵巻を破いてしまったんだ! 早く土になってしまって居ればこんな事にはならないんじゃあないか」

千世子はその葉をやけにやぶいて下駄で土の中にのめりこむまでふみにじった。

だまって見て居たHはようやく千世子の怒ったわけがわかった。

源さんはHのわきに立って我ままな女王がおつきをいじめちらす様な澄んだ青いかおをして足元をみつめて居る千世子の様子をきづかわしそうに眺めた。三人とも一言も口をきかなかった。そのだんまりの中に神経ばかりが魔物の様にすばやくお互の間を走り廻って居た。

だれが歩き出すともなく三人は歩き出した。

源さんはHをようやっとつかまえたと云う様につづけざまに何かしゃべり出した。

千世子の腹立たしさは中々とけなかったけれ共二人の話には気をとられて居た。

Hは、千世子の先にきかされた事のある落し話でない様な落しばなしをして居た。千世子の口元はついついゆるみそうになって来た。さっきあんなに怒っておいてすぐ仲間入りさせてもらうと云う事は何となく権威をそこねる様でけぎらいの千世子は自分が先に頭を下げる事は出来なかった。笑いそこねた妙にはばったい口元をしてはなれて歩いた。

Hも又「さっきは私がわるかったからサ、もう仲なおりネ」

とは云いにくかった。二人はどっちか早く「もう」と云い出して呉れればとまち合って居た。

千世子は歩きながらHの様子を見た。ふっくりと柔味のある光線をうけてしおらしげに耳朶やくびすじはうす赤にすき通って居た。時々気にしたらしくまっくろな髪を上げる小指の先が紅をさした様に色づいて居るのや、まぼしいほど白い歯がひかる事なんかを千世子は見つけて思わずうす笑いした。

「私はあの人のあの娘みたいなきれいなところどころに免じて私から仲なおりをしよう」

わだかまりない気持でこんな事を思った。人が違った様に顔中笑を一っぱいにして二人のそばにかけよった。

三人はかおを見合わせて何とも云えないほどいろんな感情の入りまじった笑い方をした。そしてお互にさっきの事には小指の先でもさわらない様にいくえいくえにもおしつつんで心のすみの方につくねて居た。

千世子がさっき不きげんな様子をしてから源さんの様子はよっぽどうちとけて来たのを知った千世子は何だか源さんのためにわざわざ自分が怒った様な、又その時をうまく利用された様なだしぬかれた気持になった。間もなく千世子は今源さんがどんな事を思って居るかと云う事まで知った。

「自分でたくらんだ事を自分でぶちこわして居る」

千世子は自分を鼻の先でせせら笑った。

「マいいさ、成ったことだどうせ」

こんな事も思った。

三人は他愛もない事を話合いあたり前の人の笑う事を笑って妙華園に行った。三人は小さい束を作ってもらおうとあっちをさがしたりこっちをさがしたりして居た。

世間知らずの様ななりをして居るくせにすれた眼と心をもつ男達は千世子の事をいろんな風にとった。千世子は、白い服(うわっぱり)をきて自分のたのんだ花を作って居る十九位の男の手の甲にある黒子を見ながら男の姉の云って居る事をきいて居た。

「いくつ位だろう?」

と三つも四つも上の年を大抵の男は云って居た。

「らいてうさんの御けらいだヨキット」

「違うよ、先にあの雑誌に出てた写真にあんなかっこうした人は居なかったよ」

「だってあんな頭してるよ、その年にしちゃあ着物の模様が大きいネエ、何だか分らないナ」

「いずれ女にゃあ違いなかろう」

その人達は千世子にきこえないつもりでそんな事を云い合って崩れる様に笑った。水ごけをつけて居た人は一寸かおを上げて千世子の頭越しに群れの人達と笑い合って居た。西洋紙を上にかぶせて千世子に渡した。

「源さんもHさんも、いらっしゃい」

白いのどをふくらませる様に向うの水草を見て居る二人をよんだ。

千世子は、中から三本こまっかい花をぬいた。Hさんは衿に、千世子はリボンの間に、源さんはもてあました様に人さし指と拇指でクルクル廻して居るのを、

「あんたはさすとこがないからここへしまっときなさいネ」

せまい袖口からたもとの中におっことしてやった。三人はあかるい顔をしてあっちこっちと歩き廻ったけれ共、時候のせいでどこに行ってもすきだらけだった。

「もう五時に近いぐらいですよ。行きましょう、貴方は又かぜを引くんだ、そいでなけりゃあ今夜ねられないかどっちかになってしまう」

Hさんは千世子のずったショールをなおしてやりながら云った。

「ほんとサ、ネ、千世ちゃん帰ろう」

源さんはいかにももっともらしく千世子をいたわる様に云うのが千世子には何とか云ってやりたいほどおかしくきこえた。けれ共せっかく丸くなった気分を下らない事でぶちこわすでもないと思って奥の臼歯でかみくだいてそのまんまのんでしまった。

三人は山の手電車にのった。

(八)

源さんはやたらにはしゃいでいやがるHさんをつかまえて指角力なんかして居る中に、千世子は瞳を定めて段々とくらくなって行く外を見ながら、

「ほんとうに男って云うものは簡単な事で安心したり気をもんだりする事が出来るんだ。女は若し自分が片思いにしても思って居る男が外の女と好きそうな様子をして、たった一度位にらみ合いをしたったって、必(ママ)してそんな事に安心させられるほどのんきな気持をもって居るものじゃあありゃしない。よけいにいろんなこまっかい観察をするんだけれ共」

思うはずじゃあなかったんだけれ共いつの間にか思って居た。

源さんは何だかやたらにうれしかった、すっかり安心したと云うのではなくっても心が軽くなった様に大きい声で話しがして見たい様な気持で居た。

「四国から九州を御へん路して歩きとうござんすねえ」

電車がすいて居たんで千世子ははばからない声で云った。

「随分思いきった……つれてってあげましょうか、私じゃあいや?」

Hさんは斯んな事を源さんとぶつかりっこしながら云った。

「いやじゃあありませんけど……この上なしというほどじゃあありませんわ、貴方今までそんな事思った事ない?」

「思わない事もありゃあしませんサ、でもたった一人ぽつねんと行くのもいかがなもんですからネ」

その時Hの瞳が小供の様に澄んでかがやいて居た、人なつっこい様な輝きに千世子の心の一片方はまぶしそうにパチパチとまばたきをした。

そしてHに向う自分の心の眼がくもって居る様な、又何かをおっかぶされて居るんじゃああるまいかと思われた。

田端に下りるとすぐ千世子は、「何だかうすら寒いようですわネエ」と云ってショールを一つ余計に巻きつけた。Hと源さんとの間にはさまって両うでにつかまりながらくらい陰気くさい道を恐ろしい事に出合う前の様なおじた気持ですかし見ながらたどって行った。

「こんな道でもいざとなりゃなんともないんでしょうねエ、キット」

切りわりの道に声をひびかせて千世子は云った。

「いざっていうっていうのは?」

「マア例えばおっかけられた時とかかけおちの時」

「オヤオヤ偉い事を云い出したもんだ、それじゃあ今もかけ落ちしてると思ってたらこわくはないでしょう?」

「三人のかけ落ちってどこにありますの、それで又自分の家へかけ落ちするなんて……とうていそんな気持になれるもんじゃあありませんわ」

まじめくさったおどけた返事に三人は大きな響をたてて笑った。

かたまりになって大声にはなして行くんで客待ちの車夫なんかは千世子のかおをすかし見たっきり、

「いかがでございます御易くまいります、ヘエ団子坂まで……」

いやにピョロピョロする千世子の大きらいな様子を見せられないですんだ。

「よっぱらってるとでも思ってるんだ、奴っ!」

源さんはこんな事を云って石をけりつけた。

足音がするとすぐ、

「寒かなかったかい案じてたんだよ」

母親はいかにもしんみりした親しみのある声で云った。

「有難う、今日は随分面白うござんしたワ、すこしつかれたけれ共――」

「そりゃあよかったネ、も一枚着物を持たせてやりゃあよかったのにってねえ、あとで云ってたんだよ」

「そう、――そんなじゃあありませんでしたワ、とっとっと歩いて来たんですもの。でも裾をうすくしたかもしれませんねえ、この着物そりゃあ歩きいいんですのネ」

千世子は頬を赤くしながら母親のかおを見て云った。

御飯後三人は母親を中央に据えて今日のいろんな事を話してきかせた。話の中途にHは用のあるようなかおをして西洋間に行ってしまった。

西洋間の皮張りの長椅子によっかかって、目の下にくらいかげをつくってHはうたたねをして居た。

フカフカするカアペッツの上をしのび足して千世子はすぐわきの椅子に腰かけて、ほんとうにつかれたらしくHの目をつぶって居る様子を見た。

「まつげがきれいだ事」

こんな事を千世子は思って居た。

千世子は瓦斯を消してスタンドのうす赤い光線をHのかおをよける様にして置いた。すぐその下で本をよんで居たけれ共フット、

「こんな事をして何だか私がHをまるで恋して居る様だ! そいでも何かまうもんか、他人のために善くしてあげる事だもの」

そのまんまそうっと室を出て茶の間の二人の仲間に入ってしゃべった。

時々、

「目が覚めただろうか?」

なんかと思って自分で自分を笑った。

二時間ほど立ってからHはまぼしそうな目つきをして出て来た。

「失敬しましたついねちゃったんで……」

笑いながらそんな事を云って手の甲で目をこすった様子が子供めいて居ると母親は、

「ハイ、御目覚、――音なしくめえめをちゃました御褒美にこれをあげまちょう」

こんな事を云ってガラスの切子のつぼの中に西洋がしのこまっかいのを一っぱいつめたのを出して来た。

「キャラメルがありましょうか」

Hさんはあまったれる様に云って桃色のと茶色のとをとってもらって、

「今夜は私も奥さんの子供にして下さるでしょうネエ」

と云った。

「うすっきみのわるいほどでかっ子だ、母さんと四つほか年の違わない子だなんて――あんまりずうずうしい……」

千世子は軽口を云ってHの手から桃色のキャラメルをさらって行ってしまった。

夜おそくなるまで千世子は母さんと三人で話して居た。まっかなこの上もない花をまんかなに据えてうす青な光線の中でHと二人きりでその顔を見つめたっきりで居て見たいなんかと思って居た。

「私はHさんを何とか思ってるんだろうか、私は、ただすきだと云うだけで後ずさりもすすみもしないことをのぞんで居る、どっちに行ってもあんまりよくない結果になるにきまって居る」

ねしなに千世子はこんな事を考えた。

久しぶりで学校に出た千世子は皆からちやほやされて帰るまで妹か子供の様に思ってる友達にとりまかれて居た。

「こんな事はだれでもがして呉れる事だ、珍らしい内ちやほやされるなんかは有がたくもない」

こんな事を思っていろんな御あいそを云う友達に小さなものをあやす様に、ばつを合わせて居た。うけもちの教師は、

「まだ少し青うござんすよ」

なんかと云って千世子のかおをわざとらしく見たりして居た。千世子はたまらなくうれしい様な事は一つもなかった、こんな事を思って居た。

「私が行く、皆がだまったまんま私のかおを見つめながら一人一人平手でソーッと丁寧に頭をなぜて行ってくれる。だまったまんま、かおを見、だまったまんま考え、だまったまんまお互の心がわかって笑う時に一所に声をあげて笑ったらさぞマアうれしい事だろう」

帰りには仲の良いK子と一緒にかえった。少しつかれて居た千世子は電車の中でかるい目まいがしてK子によろけかかった。

「どうして?」

K子はいつものふくみ声で内気らしくきいた。

「何ともないの、一寸」

小さな言葉つきで云ってかおを見合せて二人は一緒に笑った、意味もなく無意識に出た笑い――それが千世子には今までになかった――家にかえってもわすられないほどの快さだった。

それから毎日毎日千世子は考える事のない様なかおをして学校に出て四時頃かえっては本をよんだり書いたり、Hとうたをうたったりして暮して居た。

(九)

三月の末Hの仕事がすんで蓬莱町の家にかえる様になった。その頃千世子は又頭の工合が一寸変になって居たせいか、やくにも立たない書きぬきに夢中になって毎日毎日かんしゃくをおこしながらあくせくあくせくして居た。机にとりとめもなく本を並べたててキョロキョロして居たり、いそがしくもないのにいそがしがって夜更けまで鉛筆をけずったりして居た。

「一週に二三度はきっと上ります近いんですものネエ」

Hはあしたかえると云う日にこんな事を云った。

「そんな御約束はしない方がいいんですワ、もしそれが出来なかったら下らない気持にならなくっちゃあならず、御つとめで来る様になっちゃあ御しまいですワ」

楽譜をうつして居た千世子はピアノの上にペンをなげ出して、うんざりした様にHの顔を斜に見て居た。

「何にも悲しむほどの事じゃあない」と思いながら気が重かった。Hはかわいた目をしてかたよせられた製図台と自分の買って来た花の鉢を等分に見て居た。

「つまらなくなったら一日中に二度なり三度なりかまわないでいらっしゃいな、キットネ、その内また近いところに行って見ましょうネ」

何もかももうきまったんだと云った様な調子に千世子は云った。

ねてから目がさえた千世子は暮から今日までざっと四月の間の事をいろいろ考えて見た。大変に遠い事の様でもあり近い事の様でもあり、Hはすきな人でありながらきらいな人の様に思ったり「どうしたんだろう」と思うほどいろんな事が考えられた。「Hが私のそばに居る居ないは私の生活に一寸した変化を与えただけの事で何にもそれ以上に私に関係のある事じゃあない――」

「Hは私がすきだと云う事より以上に進んでもしりぞいてもわるい人なんだキット。そう云う気がする。夢中になる恋なんてものは今の世の中にやたらにあるもんじゃなし、又そうでない恋をしたところでつまりゃあしない。顔一つ赤くしず考え深い目でお互の心を見合ってしずかな心で自然に接し詩を思い歌を思いして満足して居られるほどとびぬけてすんだ思想の恋仲かそれでなければお七の様にまじりっけのない夢中な恋ほかするものじゃあない、なまはんかのついちょっとの出来心なんかで必(ママ)して恋をしたりするもんじゃあない、そんな恋のあとにはきっとにがい見むくのもいやなほど見っともないしがいをおきざりにしてあかんベエをしてにげて行ってしまうにきまってる」

「私はどんな事があってもHを恋はしない、若しそうなったら二人は不幸になるにきまってる――私の心の眼もにぶり目っくされの様になってしまうだろうから……」

「あの人と私とはお互にたすけ合って幸福な様にして行けばそれが一番好い道なんだ。私は夢中な恋は出来ない――さりとても一つの様な恋も私のまだこんな貧乏な頭では及ばない事だからキット神様だってこの様に思ってらっしゃるんだろう……」

千世子はさえにさえにさえぬいた頭で斯んなに考えた、考え終るとかるく頭をふってまぶたをすこしすかしたまんままっしろなクッションの中に頭をうずめて聖徒の様なおだやかな清い眠に入ってしまった。

翌朝目をさました時千世子は何とも云われないかるい歌をきいた様な気がして居た。

学校に出がけにHはわざわざ寝間から出て来て、

「もう行くんですか? 早いんですネエ、寝坊したんで今朝は一寸も話せませんでしたネエ、少しかおが青うござんすよ、何か清心丹か何かもつかのむかしていらっしゃい、ネ、一寸、お嬢さんに何かかるいものをもって来てあげて――」

わきに立って居た女中に云いつけて、

「額を出して御らんなさい?」

といかにも案じて居る様に云った。千世子は男の様に広い額を出しながら、

「何ともありませんわ、熱なんかありませんわ」せかせかする様に云った。

女中のもって来た銀丸をはの間につぶしながら、

「あの御気の毒だけどまってるから御弁当をサンドウィッチにしてネ、少し気分がわるいから御はんをたべたくないから……」

女中は少し迷惑そうなかおをしながら茶碗をもって台所の方に走って行ってしまった。

千世子は柱によっかかってHを見ながら、

「ネエHさん、今日みたいな日にあんまりあなた私の事に気をつけて下さるもんじゃありませんのよ。わけはなくっても思い出されるもんですし、それに――いかにももう御別れだと云う様でいやですわ、」

こんな事を云って淋しい様な笑い方をした。

「女ってものはかなり年をとっても一日でも家に居た人と別れるなんて云う事は大変きらいな何となく涙ぐむ様な気持になるもんですものネエ」

又すぐつづけて千世子は云った、目の中に何かがこみあげて来た様な気持がした。

Hは一つ一つうなずいて居た、言葉に出しては一言も云わずに一番おしまいに大きくうなずくとかるいため息をついて笑った。

「何故あの人はあんな引つれた様な笑い方をするんだろう」

Hの口元を見て千世子はチラリッと思った。

千世子の感情の上に重いものがのしかかりのしかかりする様になって来た。敷石を靴のつまさきであるいた千世子は、Hの見つめる眼の中に自分が段々小さくなって行く様に思われた。

にげる様に門の外に出てホッとした様にたいらに白く光って居る広い道をうつむきがちにあるいた。

友達は皆、

「貴方青いかおをしてらっしゃる」

「ゆうべよくねなかったとかおに書いてある」

なんかと半分ひやかしの様な調子に云った。不愉快な気持をこらえこらえして家にかえると茶の間ではHの笑い声がして居た。思いがけない事の様に千世子は母親にあいさつをしてからHのかおを見た。

「奥さんもとめて下さる――晩までとおっしゃるからどうせ今日はひまなんだからそうする事にきめたんです」

「だれでもがよろこぶ事ってすワ」

千世子はあんまり芝居めいた言葉だと自分でおかしくなってうす笑をした。

「一寸マア、この頃やたらに露国の脚本によみふけって居るんでまるで科白みたいな事を云う事があるんですヨ、面白うござんす家で芝居のただみが出来るんですもの……」

千世子は小さな子供のする様に一寸くびをまげてHを見て笑った。

「マア、ようござんすヨ、毎日を芝居にして暮していつまでも居られやしないんですものネエ」

Hはこんな事を云いながら遠いところに去ってしまったものをおっかける様な目つきをした。

「夕飯にはお父さまもめずらしくお家だから御馳走しましょうネエ」

母親はこんな事を云って行くまもなく台所の方から、

「八百屋に電話をかけてネエ、アアそうだよ、三枝はまだかえ? じゃあついでにさいそくしとくといいね、ジャガイモは二十位でいいんだよ」

と云って居るのがきこえた。

「奥さまっていやなもんですわネエ、毎日毎日ろくに本もよめないでしごとをしたり女中に命じたり小供達のけんかの仲裁をしたりしてばかり暮してしまうんですものネエ」

母親のこえをじっとききながら独りごとの様に云った。

「もっと年をとれば気が変りますよ!」

Hは雑誌を見ながら、

「いくらいやでも女は独立しにくいもんですからネエ」

こんな事も云った。

「私は男と一緒に居なくったって生活は出来ると思いますワ。男が我ままでかんしゃくを起すのをジッときいて居なくっちゃあならなかったり、大きなみっともない御腹になって利口でもない子供をうじゃ生んで見たり……オオいやな事」

「そいじゃあ若し貴方がこんな人なら一生いっしょに居てもいいと云う様な人が出来たらどうします?」

「そうしたら私はキットその人と約束して死ぬまで別に生活して居るでしょうよ、そいで、会いたい時に会い話したい時にはなしてお互に金銭の事なんか云わないで居た方が私はいいと思います。子供なんか生まないでネエ、馬鹿な子供なんか生んで心配したりするより一代こっきりの方がようござんすよ!」

「それもそうかもしれないけど……貴方みたいに男の兄弟のある人はいいけれ共そうでない人はこまるじゃあありませんか……」

「そんな事大丈夫ですわ、世の中の沢山の女の百人中九十九人半まではお嫁に行きたい行きたいで居るんですもの」

「九十九人半とは? 妙な」

「半分はお嫁に行きたいし半分はお嫁に行っても下らないと思う人があるだろうから……」

こんな事を云って二人は何だか自分達のまぢかにさしせまって来て居る事の様なかおをして居た。

「貴方はそいじゃあ良人にかしずく事の出来ない人間だと自分できめて居るんですか?」

「そうじゃあありませんわ、割合に女よりは入りこんで居ない感情をもった男なんかそんなに私がやきもきしなくったってプリプリさせる様な事はしやしませんワ、でも私はお嫁に行った翌日からきのうまでのかおとはまるで別なかおをして何にも思う事のない様に旦那のきげんとりにばっかりアくせくしてるんなんかって私にゃあ出来ない事ってすワ、旦那が我ままを云って怒りゃあツンとしたかおをしてとりあってもやらないでしょうキット、馬鹿な人だと思ってネエ」

千世子はどんな長い時間が立っても今云った事は変りゃあしないと云う様にハキハキした口調に云った。

「そう云う気持をもって居るんですかネエ」

Hはしんみりと云って何か考える様な目つきをしてジっと千世子の眉のあたりを見て居た。

「私は男にははなれて生活する事が出来るけれ共本とペンとはなれる事は出来ない女なんですもん。やたらに御嫁に行きたがる女の中に私みたいな女も神さまがなぐさみに御造りになったんです、人並はずれの我ままものなんですわねえきっと……」

「…………」

Hはだまって障子の棧のかげを見て居た。

「何考えていらっしゃる? 私が御嫁に行く行かないは何にも貴方に関係のある事じゃあないじゃあありませんか、こんな事をそう考えるもんじゃあありませんワ」

千世子はHの心の上にドッカリと座ってしまった様に笑った。

「千世ちゃん一寸台所に御いでナ、いい事教えてあげる」

廻し戸のそとから母親がこえをかけた。

「何? 今行きます」

紅い緒にたすきをかけられた様に見える足を自分ながらきれいに思いながら、紫色の煙のこめて居る台所に行った。

「ここにおいで、そうして私のするのを見て御いで」

母親は小器用な手をして海老のあげものをして居た。

「何? それが私に教える事?」

「オヤマア」と云う様に云った。

「お前知らないだろう? こんなもののあげ方なんか?」

「知ってますわ、その位の事、母さんは又お嫁のしたくにこんな事教えるなんて云っていらっしゃる」

キイキイ千世子は笑いながら茶の間にかけもどった、Hは西洋間に行ったと見えてそこには見えなかった。

小声にうたをうたいながら廊下をすべって西洋間に行った、長椅子の上にHはつっぷして居た。

「どうなすったの? 頭がいたい?」

Hの頭の弱いのを知って居る千世子はやさしく云った。

「いいえそんなじゃあない――ちょっとばかり」

Hは泣いたあとの様なこえで云った。千世子はHの思って居た事が大抵はわかったけれ共それをさける様に、

「いけない事――少し葡萄酒をあげましょう、そして頭を押してあげましょうねえ」

戸だなから千世子は小形のグラッスに白いブドウ酒をもって来た。

Hはそれを娘がする様におちょぼ口をしてのんだ。酒に弱いHの目のふちや頬はポーッと赤らんで来た。千世子はHの頭を両手にはさんで一寸の間押してやった。

「有難う、もうよくなりました」

低い声でHが云った。千世子は何でもに合点が行ったと云う風に首をふって、

「こうして居る方が幸福だ!」

千世子は斯う心の中で云って居た。

台所の器具のぶつかる音や母親の女中に何か云いつけて居るこえを遠くの方にききながら二人はひっぱりあげる事の出来ない様な、深い深い冥想にしずんで居た。

千世子は自分の頭に血がドックドックとのぼって行くのが分るほど考える事がこみ入って来た、目をつぶって手を組んでひざをかかえて身動きもしないで居た。

Hは細い目をあけてととのった調子で考え込んで居る千世子の白いくびにフックリもり上って居る胸に気を引かれた、Hのまだ若い血のみなぎって居る身の中からは一種異様の誘惑が起って来た。

Hは椅子から立ち上ってカーペッツに足をうずめる様に歩き廻った。

千世子はしずかに目をあけると一緒に顔がまっかになった、何の意味だか千世子自身にも分らなかった。千世子は衿をかきあわせると一緒に立ち上って少し足元をふらつかせる様にして一番そばの戸から自分の部屋に入った。波うつ様な心地になって原稿紙に向ってふるえながらペンをにぎってジッと紙の肌を見て居た。感情の走った千世子の心の中に木の肌、草の葉、花の蕊なんかにこもって居る目に見えない物が心をなぜる様にくすぐる様に快いものになって入って来た。

千世子の目から涙がこぼれた、紙の上に丸あるいしおらしげなしみを作った。心の中に「今の心ほどしまった純な創作をどうせ私に作る事は出来ない、この紙はその涙のあとで、下らない字が書かれるよりよろこんで居る――私も又この方に満足して居る」

と思って居た。

千世子が感じて涙をこぼす時は、たった一しずくやけそうにあついのをこぼすかそれでなければ夕立の様に心まで心のそこまでひたりそうにこぼすかどっちかであった。

その時は一しずくほかこぼさない涙であった。千世子の心の中には限りないよろこびと感謝と目に見えないものを祝福する心でみちみちて居た。

「アアア私は何て幸福なんだろう、私はどうしてこううれしくなれる心をもって居るんだろう」

ほほ笑みながらくびをふってはね上る様な心になって居た。

「Hさん、まだ悲しいかおをしていらっしゃる?」

戸の外からこえをかけた。

「いいえ、いらしゃい笑ってますよ」

Hはまるで異った心持になったらしい声で立(ママ)く云った。

戸をあけた時Hは千世子の心を見て何も彼もしった様に笑った。

二人はピアノの前に座ってソナタを弾いたり、ゴンデサードを弾いたりしてかるい気持になって居た。

夕はん一寸前に父親がかえって来た。元気のみちて居る目をしてHのかおを見るなり、

「ヤア、御いででしたね、けっこうです」

と大きいこえでいかにもうれしそうに云ってかるく腰をまげた。

「とうとう又一日御厄かいになりました」

さっきの事なんかなかった様にHさんは笑って居た。Hが、

「私はいけないんですから」

と云うのを無理にのましてうすい葡萄酒によわされてねむがって居るのをつかまえて、父親はうたをうたうやらしゃべるやらして大さわぎをしてた。

千世子は、三人の興じて居るのをわきで見ながら自分の領分にふみこまれた様ないやあな心地で皆の笑う時も大方は唇をかんで居た。

父親のした話の大半はHにお嫁さんを御もらいなさいと云う事だった。

「貴方もう三十にもなりゃあ早い方じゃあありませんよ」

母親までこんな事を云った。

「そうでしょうかネエ、でも私はまだまだもらいませんよ。死んででもと云う人にぶつかるまではネエ」

Hは少しやけになったような口調で云って居た。

「他人の結婚の事なんか何故あんなにせわを大人の人ってのはやくんだろう」

千世子は世間をのぞいた事のない娘と同じ心持で思って居た。

新しく買って来た古物を見せたり、今して居る事の相談をしたり、そうかと思うと、

「どうですHさん一緒に踊りませんか、うちの奥さまはふとって居てとってもの事だ!」

こんな事まで云ってはしゃいだ。

「早いもんですネエ、あれからもうざっと四月たって居るんですから……」

「ほんとうにネエ、もう貴方じき夏の仕度ですよ」

こんな事を二親は云って居た。Hは時々千世子の方を見ては、

「云いたい事があるんだけれ共」

と云う様な口元をして居た。

十一時頃Hはあんまりおそくなると風を引くと云ってかえって行った。

段々遠くなる下駄の音がパッタリと、飾井戸のあたりでやんだ。

「オヤ」

千世子は小さく云ってのり出して暗の中をのぞいた。白いHのかおがまっくらの暗の中にういて居た。

何かの霊の様にスーッと心を掠めて通りすぎられた様に感じながら、

「さようなら、風ぜを引いたりなさらない様に」

千世子は云うとすぐ涙がにじみ出して来た。「たった一人ぼっちで……」こんな事もつづいて思われた。「アーア」ため息をつきながら重い気持で長い曲りの多い廊下をうつむいて歩かなければならなかった。

(十)

幾日も幾日も気分のわるい日ばかりが千世子を呪う様につきまとった。朝は大抵にしてミルクをのんだり果物をたべたりして居た。

夜一夜うなされどうしでまっさおな顔をして居る事も珍らしくなかった。

「又何だか様子が悪い、どうしたんだろう」

千世子はこの頃やたらに変調な自分の頭をにらみつけながらしたい用事があっても我まんして早眠する様にして居た。気をつけていたわりがいもなく段々悪い方にばっかりなって行った。

物覚えは悪くなる、かんしゃくは起す、やたらに悲しくなる、いりまじった感情ばかりもつ様になってじっとしてものをして居る事が出来ない様になった。弟の飲んで居るじあ燐をのんで居た。目の上が十日ばかりですっかりくぼんでしまった。

「いやだネエ、又なんかい?」

母親はげんなりした様子をして学校からかえって来る千世子のかおを見ちゃあたって居た。

あたり前ならもうとっくに寝入って居るはずの夜中の二時頃千世子は自分の体の上に大きなものがのしかかって来る様に感じる。にげようとしてもにげられずもがいて居るうちにつかれてね入ってしまう。

翌朝寝間着をたたんだ女中が云ったと見えて学校からかえるとすぐ母親は、

「お前マア、この頃は寝あせをかくんだってネエ、気をつけなくっちゃあいけないじゃあないか」

なんかと云った事もある位わけも分らず千世子の頭はいくらねてもねてもつかれて居た。

御のぼりの立った日は千世子は縁側で高い竿のてんぺんにまわって居る矢車を見て居る間に変になって土間にころがり落ちてからズーッと本とうにとこにつく様になった。

寝はじめてからはもう一月も二月も病んで居る人の様に、救けられないじゃあはばかりにさえフラフラして行かれなくなった。千世子は病気の時いつもする様にきれいな様子をして居たけれ共先よりは重いと見えてじょうだん口もきかずにぶい目で天井の木目を見て居たり人の立ち働くのを見たりして居るのが多かった。

ちょくちょく来るHは、いつでも千世子の床のわきに一寸の間でも来て何か千世子の気に入る様ななぐさめの言葉をのこして行った。

時には長い間だまってまくら元に座って、ひくい声でうたをうたってきかせたりして居た。

千世子がきのうより悪くなって気のぬけた人の様に唇を少しあけて胸をはだけて夜着からのり出してあてどもないところを見つめて居た時、忍び足をして来たHはわきに座って居る母親に小ごえで云って居た。

「おそく失礼ですけど、きのうあんまりよくないってでしたから今夜はよそに出かけたんですけど気になって御よりして見たんです。やっぱりいけないんですねエ、どうしたんでしょう、こんどよくなったら転地でもさせてあげなくっちゃあいけませんネ、今が一番大切な年だのに……」

「どうしたんでしょうかネエ、父様なんかそりゃあもう大変なんですよ、案じて。今馬鹿にするのはあんまり惜しいと云ってネエ」

「馬鹿になるなんて――そんな事は有りませんけど頭(ママ)まく炎でも起すと悪うござんすネエ、頭ひやしてあげては?」

「それまでにしないでもいいでしょうがネエ」

フッと打たれた様にハッキリした千世子は背骨の一番頭に近いところがきりでもまれる様に痛むのを知った、脳膜炎の徴の一つだといつかだれかにきいたのを思い出しては身ぶるいをした。

目の前には、すっかり馬鹿になった自分が元の完全な頭だった時苦労して書いたもの、あつめたものを笑いながらやぶいて居る様子だの、夜着の衿をかみかみうめきながら死んで行く自分の心持を想像してどうしてもそれからのがれられないきまった時の様にボロボロ涙をこぼした。

「どうしたんだい?」

「どうしたの?」

二人はしずかに柔かくきいた。

「イイエねエ、私このまんま死んだり馬鹿になったりしちゃったらほんとうに可哀そうだと思ってネエ」

千世子は泣きじゃくって居た。母親はとりあわない様にわきを向いて袂の先を見て居た。

「そんな心配をするのは御やめなさい、私の心ででもなおしてあげるから、朝の御祈りの時をのばして貴方のために祈って居るんですよ私は――、こんな若い人をだれがだまって死なせるもんですか」

Hはいかにも心からの様に真のある声で云って千世子の額に落ちかかった髪をあげてやった。千世子はすかされる小供の様にだまってそれをきいて居たがおわるとかるく合点をして眠入る様にソーッと目をつぶった。

それから十日ほど立って寝はじめてからざっと二十日足らずで起きて歩いてもフラフラしない様になった。頬のあたりはかなりやせてふだんより涙もろくなって居た。

母や父はもう四五日したら小田原に行ったらいいだろうと云って居ながら、

「お前がもっと二十でも越してでもいれば幾分かは安心だけれ共今の年の女を一人で出すことも出来ないしネエ」

こんな事を云ってのばして居るうちHや父にすすめられて小さい弟をつれて女中一人と母親も行く事にきまった。きまった日っから母は急にそわそわし出して弟の着物をそろえたり、自分の羽織をぬったりして毎日毎日供について行く女中と一緒にあくせくあくせくして居た。

皆の働く中でポッツンと千世子はもって行く本や原稿紙なんかをひねくりひねくりして居るばっかりで何をどうしていいんだか分らない様な気持で居た。

「まだすっかりなおって居ないんだネエ、どうしていいかわからない様になるなんて――」

「何をしていいか分りゃあしない」と云ってかんしゃくを起すのを見て母親は斯う云った。

「どうだね、この分じゃああしたもかなりあったかそうだから行っちゃあ、送って行ってもあげられるし」

父親がこんな事を云い出した。

二人は何かしきりに話し合って居る内に行く事にまとまったと見えて女中にドレッスケエスを出させるやら、小田原に電話をかけるやらして父親は時間表を見て居た。

「ちいちゃんもう御ねかえ、あした行くんだってサ、そのつもりで御いで……」

とまっしろい中にうずまって居る千世子に声をかけた。千世子はひよっこの様に目をパチッとしたっきり返事もしないでザワザワする空気の中にひたって居た。

Hと一寸も会わずにたとえ十日か二十日の事でも行くと云う事は何だかそれっきり長い間会われないものになってしまいそうな不安がおそって来た。

「今夜でも来ればいいのに――それでなければあしたの朝早くでも――」

こんな事も思って居た。

青い海とがけの多い箱根を見て単調に暮す海辺の生活を想って見たり、海の面には陽炎が立って居るだろうの朝起きるとすぐむれた足をひやっこい水にひたす時の気持なんかをたのしい気持で思って居た。若い女がだれでも感じる様に旅に出る前夜のわけもわからないワクワクした感じにとらわれて居た。

その晩は安眠する事が出来ないで早く眼をさました時、母親や女中達はもうコトコトと何かして居た。寝間着のまんま千世子は自分でかたをつけなければならないものに手をつけ始めた。

すき見されるのを案じる様に千世子は書いたものの入って居る文庫に鍵をかけ、出て居るのを皆本箱にしまって妙にガランとした部屋の中をひっこしをする時の様な目つきをして見て居た。

「千世ちゃん入れるものはもって来るんだよ、もうすっかり私達の方は出来たんだから……」

千世子は斯う云われるともう一週間もかかってきめて置いたものでありながら何となし不安心な気持がしてあっちこっちとせせったあげく、入りもしない書きぬきなんかをつまみぬいてヨチヨチした神経質な目つきをして母親にケースの中につめてもらった。大急ぎで部屋にかけもどっても、何にもする事のない千世子はポカンとあてのない目つきをして庭の何となしほんがりした空気の中に段々と青くなりまさって居る葉の輝きなんかを見ながら、こんないい気候になっても青っしょびれて居る自分の体を周りから段々おしつけられる様に感じて居た。

「Hが来ればいいのに、――私があっちに行ったまんま死んだらどうするんだろう」

千世子は訳もなくこんな事を独言した。

「私もしあの人の恋人だったら一寸の間でも走って行って会って行くんだろう」

こんな事も思った。

思ってる様な思わない様なとりとめもない様子をして居るといきなり人の足音がしたんであわててふりっかえると後にHが目つめたかおをして立って居た。

「マア」

千世子はもう少しでHにとびつきそうにした。こんな事を思って居た時こんなかおをして居た時Hに来られたと云う事はたまらなく嬉しい事だった。

「マア、一寸も知らなかった、いつ? ほんとうにマア」

こんな事を云って千世子は嬉しい時によくするくせの両手で頬を押えながらHの衿の合せ目を見て居た。

「そんなにおどろいたんですか? 何の気なしによったら午後からお立ちだってネエ、今日は気分が少しようござんすか?」

「エエ好いにゃあいいんですけど、きのうっから何とはなしに興奮して居るんでかるい目まいが一寸する事がある位、――それに一寸気にして居る事があったんで……」

「何、気にしてる事? まさか日が悪いなんてんじゃあありますまい」

「なんぼなんだって――マアこうなんですの。私がネ、貴方に御目にかからずに今日たってあっちに行っちまいましょう、そうして急に悪くなったっきりになっちゃったり大浪にさらわれてしまったりするときっとどんなにか悲しいだろうと、それに私若しかすると死ぬ時に、

『Hさーん』

て云いやしないかって……」

千世子はそう云って笑った。

「マア、そんな――でもマアようござんしたネエ、私が手紙あげたらあんたも下さる? ネ」

「そんな事分るもんですか、それにかくれてなんかかいてもしようがありませんし御義理に書くのも私はすきでないんですもの……」

「そんならなるたけ、ね? これからの海辺はようござんすネエ、静かで……あんまりいろんなものを書いたりよんだりしちゃあ、いけませんよ、勉強するんじゃあないんですよ、馬鹿げた様な気持になって遊んで居ればいいんですもの……土曜から日曜にかけてお父さんが行らっしゃるんだろうから私も都合がよかったら上りましょうネ」

「ほんとうにいらっしゃる? でもあてには出来ないこってすワ、二十日ほど貴方の顔に合わせる人がないかも知れませんわネ」

「エエほんとうにネ、今日よりも見違えるほど好いかおの色で二十日立ったら帰っていらっしゃい。キットネ」

二人は立ったまんまこんな事を話し合った。

「Hさんも千世ちゃんも西洋間にいらっしゃいナ? お茶を入れましたから……」

母親が大きいこえで云ったんで千世子はHを後から押して西洋間に入った。

「千世ちゃんお前のハンカチーフが二枚ほか入って居ないから、名の縫いつけてあるのを五六枚出して御出」

と云われて銀の錠をカチャカチャ云わせて納戸の西洋箪笥の二番目の引き出しをあけた。沢山入って居るハンカチを一つ一つよって居る間に茶色のインクでこまっかく何か書いた青い紙があるのが目についた、それは母親のもつ麻の小さいハンカチの間にはさまって居た。うす笑をしながら好奇心にふるえながら人さし指と拇指との間にはさんでぬき出した。それは四つにたたんで両面に書いてあった。その書かれた字一字を見て自分の所にあててよこした飯田町の信夫からの手紙だと云う事もその書いてある内容も想像する事が出来た。

「どうしてこんな手紙を書く気になったんだろう?」

千世子はこんな事を思って顔色一つ動かせず落ついたおだやかな心でそれを見始めた。

「いかにも恋文らしい恋文」千世子は自分より三つも年上の男がよこしたものでありながら年下の男に思いをかけられる女の様な目つきをしてその文の批評をした。

「こんな恋文で顔を赤くしたり、涙をこぼしたりするほど私の感情は世間知らずなシムプルなもんじゃあない。私が何にもあてのないものに今恋文を書くとしてもこれよりは感情の表れたものが書かれるけれ共――私が若しあの人の恋人にでもなろうものならきっと失望する結果を起すにきまってる――彼の人の恋人になるには私の頭が荷に勝ちすぎて居る」

そう思いながら千世子は「恋を恋して居る時が一番悲しさも嬉しさもすきのないまじりっけのないものになって感じられる」と信夫をさとす様に思った。

手紙をもとどおりたたんで、先のところにはさんで引き出しをしめるとかるく頭をふって笑いながら西洋間に行った、何にも知らない母が「随分かかったんだネエ」と云ったのにも只笑ったばっかりであった。

深い椅子によりながら立つ三時間ほど前のおちつかない時間に自分の心をこめてとにかく書いた文を女からこんな気持でよまれると信夫は想像さえすることが出来ないに違いないと、Hの森の様な髪を見ながら思って茶化した笑いさえもらした。

「私位の年ならこんな文なんかよこされるとまっかになってしまう筈なんだが……」

こんな事を思うとフイと道化た気持になってしまった。すっきりした棒縞のお召を着た上に縮緬の羽織を着て、千世子はHと父親と弟とで白山から電車にのった。

(十一)

電車にゆられながら千世子は何となくHとはなれてしまいたくない様な、一所に一日でも行って見たい様な気持になって居た。車で来る筈の母親を待ち合せて、父親の切符を買うのをジッと見て居た千世子はわけもなくさしぐむ様な気持になった。千世子の一っかたまりはプラットフォームを早足にあるきながら赤帽のとって置いてくれたまんなか頃の二等車に入った。

からっぽで、千世子等の五人丈ほか乗る人はないらしい様子だった。一番はじっこに座をとった千世子はHが棚の上に手荷物を置いたり、千世子の薬を入れた袋がたおれない様になんかと父親と二人で動いて居るのをしずかに見ながら「Hなんか動かないでジーッと私のかおを見つめて居ればいいのに……」

なんかと思って居た。

車掌がもう発車に間もございませんと注意して行くと、母達は今更らしく送ってくれた礼やらひまがあったら来る様になどと云って居るのを返事しながら下りて下に立ったHは今まで一寸も気のつかなかった袂から、今までよく「古い方がいいからさがして買いましょうネ」って千世子の云って居た樗牛の五巻を出して、

「これをおよみになる様に――いいでしょう」

って千世子の手にもたした。

「マアどうもありがとう、――ほんとうに何よりですワ、先から云ってたんですものネエ、これ貴方の?」

「エエ、去年だか買ったんでした、一通りよめば専門にして居るんじゃあないんだからどうでもと思ってつくねて置いたものだから……線や点がうってあるかもしれませんけどマアかんべんしっこですよ」

Hがこんな事を云って居る時列車は動き出した。

「ジャさようなら、御大切に――」

Hはこう云って帽子をとった。

「わざわざおそれ入りましたなア」

「ほんとうにネエ、どうも」

両親はこんな事を云ってまだ速力のにぶい列車について歩いて居るHに礼を云って居る間、千世子はHの目ばかりを忘れまいとする様に見て居た。

一寸速力が速くなった時千世子はズーッと体をのり出して、

「ありがとう――さようなら」

と大きなこえで云って立って帽子をふって居るHを見えるだけ見て頭をひっこめた時いかにも旅に出る様な気持になった。

すみっこに体をおしつけてHからもらった本をわけもなくくって見た。まんなか頃にHが満州を旅行した時に蒙古の羊の群が川の家鴨をおって居るのをとった写真が入って居た。いつだったか病気で居た頃見せてくれた時、「いい事、いかにもお互のものの感じが出てますネエ」って云ったのを覚えて居てだろうかと思って見たりした。五つ六つステーションを通りすぎてから母親がこんな事を千世子に云った。

「お前は何となくつかれたらしいネエ、少し景色を見るか眠るかするといいだろう」

「そうした方がいいよ、青いよ」

父親までこんな事を云って居るのが千世子は自分の心のそこまでみとおされた様なつまらない気持になった。千世子はお義理の様に目をつぶって母親のかたにもたれかかった。

フカフカの肩にもたれかかって単純な様で意味のある様なカタカタと云う音を耳のそこできいて居る内に少し眠のたらなかった千世子は包まれる様になっていつの間にかフンワリと夢の中にとけ込んでしまった。

一人手にまたいい気持になって目をさました時もう四つばかりで国府津につくところまできて居た。

「よくねて居たネエ、サッパリしたろう顔色がよくなった」

母親は父親と顔を見合せて笑いながら千世子の髪のへこんだのをふくらしてやったり、袂のはなればなれになったのをそろえてやったりして居た。

女中は小さい弟に干アンズをパンの間にはさんでこまっかく一口にたべられる様にきっては口に運んで居た。それをあどけない目差しで千世子は見て居た。母親達はこないだっから問題になって居る玉川の地所の事や、持主のあこぎな事やら仲に立って居る男の半間な事やらを笑い合って居た。

その話をきき本と景色も弟のパンをたべるのをも見してまとまらない散り散りの気持で千世子は停車場に下りるまで居た。

停車場から連絡して居る湯本行の電車にのった時千世子達より前にのって居た小田原の土っくさいお話にもならない様な芸者が三人ほど居た。そういうものにむかうといつもする通りに千世子は又女王の様なきどり方をした。一足はこぶにでもいかにも都にそだった娘らしく又つき合になれた女の様に様子をととのえた。

三人の女達は愚かしいみっともない目で千世子のツンとした着物の着方だの髪の結い方だのを見た。そうしたあげく、千世子のもうとっくに知って居る事でありながら知って居ないつもりで手の形で千世子の批評をして居た。

母親は、

「随分何だネエ、私でももっといきだよ」

こんな事をささやいて、十も若い娘がする様に千世子を小突いた。千世子は目で笑って母親の横がおを見てから三人の商売人を見た。頬の丸味も目のきれいさも母の方が倍も倍も立ちまさった考え深さと美くしさをもって居た。着物でも持ちものでもどっからどこまでが母の方が美くしかった。

千世子はわけもなくうれしくなって肩をゆすって母親の肩に自分の肩をぶっつけた。三人の女は千世子を千世子は三人の女をお互に女にあり勝な批評的な目で見合って居た。

千世子の一隊は養生館前で車を下りて迎に出て居た男が沢山なトランクやドレッスケースを荷車にのっけて波の音のきこえる方に砂道をサクサク云わせながら引いて行った。その男はお世辞よく主人夫婦が大変まって居る事小供達が東京の話がきかれるとたのしみにして居る事なんかをかるい調子に話しては高く笑って居た。

(十二)

千世子達の姿が店のガラス戸にうつった時台所でたすきがけで居た主婦は、

「マアようこそ――ほんとうにお待ちして居たんでございますよ」

と遠くの方から子供達をつれながら云って出て来た。

「エエ又御やっかいになります、これが少し頭を悪くしましたんで……」

母親はこんな事を答えてお互に若い時から知って居る二人ははてしのない様におじきのしっくらをして居た。千世子は遠く青くひろがって居る海の面にすいよせられる様にその方ばかりを見て居た。

「ほんとうにネエ、御可哀そうな、少し御やつれなさいましたネエ」

と主婦が云って自分の顔を見て居るのを千世子は知って居てもそっちを向こうとはしなかった。

先に来た時と同じ二階に座った千世子は気が遠くなるほど青い空と青い海の境が紫にかすんで居る事や、くだけるまっ白な波の様子、遠くひびいて来る船歌の声なんかがうれしかった。

らんかんによっかかって千世子はいつまでもいつまでもその景色を見とれて居た。

「着物をきかえて浜へ行くんだ、早くおし」

父親はこんな事を云って千世子の羽織を後からぬがせた。紫矢絣の着物に赤味がかかった錦の帯を小さな横矢の字にして赤い緒の草履をはいて千世子は深い砂を一足ぬきにして歩いた。

若がえった様に父親は小石をひろってなげたり、小さい弟と一緒に波頭とおにごっこをしたりして居た。それをよそ事の様にして千世子は大きな自然の前にうなだれて居た。病み上りのふだんにもましてセンチメンタルになって居る千世子の心の底にドドーッドッドッという波音は厳とした威厳をもってしみ込んで行った。

波のよせるごと引く毎に洗われる小石は、ささやかな丸い輝をお互に放して、輝きと輝きとのぶつかるところに知る事の出来ない思いと音律がふくまれて波の引く毎にはささやかな石がお互の体をこすり合わせうなずき合って無窮の自然を讚美する歌を誦して居た。

千世子はこの微妙な意味深い音にききほれてしばらくの間は夢中に、それからさめた時にはこの音にききほれる自分が人間だと云う事は情ない事に思われた。

暗闇の中に物をさぐる様に千世子はどこかにとけ込んでその姿をかくした自分の今まで持って居たほこりをたずね廻った。つかまるものもつかまるものも皆自然に対する感謝と云うものばかりであった。心の中、体の中を感謝のかたまりにして入日の赤くなった空と、満潮に青さのました水面を見まもって、尊い、ととのった芸術的な顔つきをして千世子は時の立つのを知らずに座って居た。

海のひろい胸は刻々にその鼓動が高かまって行った。さっきまで修道女の様なその胸の様な鼓動を打って居た胸は、その一息ごとに世の中のすべての悲しみと嬉しさと幸と不幸をすい、又はく様にたしかにトキーントキーンと打ち始めた。青さはその鼓動の高まると共にまして行った。

若い処女が若い男の息の下に抱きすくめられたその瞬間の様な海のはげしい乱調子な鼓動はそのトキーントキーンと云う音を空の末地球全体にひびかせて千世子の前にせまって来た。

それに答える様に、千世子のうす赤いふくらんだ胸の鼓動も乱調子にやがては狂いそうにまで打った。けれ共千世子は動こうとはしなかった。水はすぐ前によせたり引いたりして白い歯を出しては千世子の心をほほ笑んで又遠い青さの中に混って行った。

「こんなにまで苦しいほど私は自然に感じて居る事が出来る」と思った。千世子は身をおどらして青さの中に身をしずめて見たいほどうれしかった。

「アーアア」

堪えられないほどみちた心になった千世子の躰はキラキラとやさしげにまたたいて居る砂の中にうずまった。砂は四方からサラサラ、……サラサラと響きながら千世子の身体をうずめて行った。

「アアアア」

かざりのないいつわりのない千世子の心の声はしずかな空気に小器用な音波になってドッかに消えてしまった。

迎に来た女中にひっぱられて気ぬけの様な顔をして千世子は宿にかえった。

海辺に来たらしい気持のする食卓についてからもまねく様な潮なりに心をとられてまっかな箸の先にまっしろな御飯を一つぶずつひっかけてたべたりして居るほどであった。

夜はかなり暗いあかりの下でほこりっくさい都になぐさめる人もない様にして一日の仕事につとめて居なければならないHのところに絵葉書に短かいたよりをしてやった。

白い被いをすみから隅までかけて気持の好い夜着にくるまって潮の笑声を子守唄にききなして眠った千世子は六時に起きるまでにHの夢ばかり見て居た。

寝床から出るとすぐ浜に出てひやい水に足をつけた。眠りからさめた許りのムシムシした足はやわらかくくすぐられる様に感じて居た。

そうして居る間に気持もはっきりと迷わない心でものを見る事が出来る様に思えた。

まだ何にもさわらない白いふっくりした手の掌にひかって居る水をすくって一寸唇につけて合わせて居た指をかるくゆるめると、糸の様に水は細く五つ色にまたたきながら落ちて行った。

こうして一日を始めた千世子の日はその日中嬉しい事ばっかりであった。

その翌日も翌日も海を見、海に話して日を送った。そうして顔の色も日の立つごとによく貧亡に(ママ)なった頭も目に見えない少しずつとまされて行った。

囲りの旅客を観察するとか批評するとか云う余裕のないほど千世子は海にきをとられて居た。

おきるとからねるまで浜に座って暮して居るのが何よりうれしいほど千世子の心は子供げなものになって居た。読むつもりでもって来た本等は床の間のケースの上につまれたまんま時々に吹く海風に軽い表紙の本なんかはハタハタとひるがえったりして居るばっかりだったし、又原稿紙も一字もうずめられて居なかったのを母親なんかは却って、

「何よりの事だよ」と云って居た。

夕方近くなった頃、千世子は芸者の多い小田原の町を歩く事をしたがった。

それはもうよっぽどここに居なれた頃になっての事だったけれ共、ろくでもない、時によると目をつぶりたいほどの顔やなりをした芸者をつかまえて、紫のハンケチなんかをくびに巻きつけた磯くさい男達ややたらに黄金色にピカツイて居る男達が多(ママ)愛もない無智な顔をしてたわけて居るのや、箱根の山の夕方の紫のもやの中にういてあかりのチョビチョビともって居る路を駒下駄をカラコロと「今晩は――」と云って行く女の姿を見るのなんかは山の手に東京に居ては住んで居る千世子にはかなりめずらしい事でもあり又いろいろな複雑した生活の状態を教えられる様であった。

小雨のする日に千世子は紺の蛇の目に赤い足駄をはいて大きな模様の着物を着て電車の車庫のわきに本を買いに行った。

雨にひまな芸者達はまどから千世子の様子をのぞいては大股にシュッシュッと歩くのを見て、

「色気がないネエ」

と云ったり、

「あれが東京の歩きっぷりなんさ」

と云ったりして居た。

そんな事にはもうなれて居る様にうつむきもしないで正面を見て歩いてどこまでも行った。すれ違う男達が一足か二足ぐらいひろくよけて通る事も千世子には、

「フフフフ」と笑いたい様な事だった。

ひろい店にずっと入るとすぐ大胆な目つきをして棚の上から台の上までの本を一通りズーと見廻す様子を、帳場に座って居た番頭は目を大きくしながら、

「入らっしゃいませ、どうぞ御ゆっくりと……」

とちった様な口っぷりをして居た。

その日は「その前夜」と「お絹」を買って帰った。

「東京より本が高い、ろくなものもないくせに」こんな事を道々考えて居た。

晩はまっくろい海が目の下に見えるベランダに出てあかるい電気の下で買って来た本をよみ始めた。

けれ共何となく囲りの気分とよんで居る本とがつり合わない様に思われてしかたがなかった千世子はわざわざサロメをとりかえてもって来た。

そうして電気を消した暗い中に自分の鼓動と海の鼓動とくだける波の白さと自分の顔の白さばかりがある中で、低い厳かな声で暗く強い鼓動を打って居る海の面に千世子は、Roll on, thou deep and dark blue Ocean―roll! と尊い詩の一節をなげてはてしもしれない様な冥想にふけって居た。

綺麗な夢の様な気持がさわがしい管絃の音に破られて現実にかえった時、そのごく早い気持の別れ目の時に千世子はHの事が青い光りものになって目の前をよぎって行ったのを知った。

さわがしい音の中に自分のしずかな心だけをソーッとかこって置く様にして働く事も嬉しがる事も一人でして居なければならないHを一人の人間として考えて居た。いろいろと思って居るうちにいつだか、

「私は形式は沢山の人達の中にかこまれて生活して居るけれ共それは皆私からはなれると生きて居られない人間達が死にもの狂いでかじりついて居るのにすぎないですもの――精神的に私は嬉しい時でもかなしい時でも All alone で居なくっちゃあならない……」

と云った時に、

「不愉快な気の合わない二つの精神がいやでも応でもに集って居るよりは、わだかまりなく思いたい事を思える一人の方がいいじゃあありませんか」

って自分の云った事を思い出した。

「どう云う点から云っても彼の人の年になっては奥さんがなくっちゃあ可哀そうだけれ共――」

「あの人はまだごくの若い心で居た時に思いがけない苦い悲しさを味わったから結婚なんて事を只感情的に考える事が人並より出来にくくなって居るんだ!」

「でも私はあの人の生活に手をさわってはいけないんだ、そうすれば悪い事が大抵は起るにきまって居る」

こんな事を思って居た。

千世子はたった一人の男のために自分の生活の状態が変調子になって来たり、こびりついてはなれない感じをうけるなんて事はこのましくないいやな事だった。

いくら何と云ってもHがすきだと云う事ばかりは千世子のどんな心ででも打ちけして、

「いやそうじゃあない」

と思わせる事は出来ないものであった。今まで思いつづけて居た事を拭ってしまおうとする様に空に覚えて居るサロメの科白をうたの様な声で云った。

「ヨカアンナや、あたしはお前の体にほれてよ! お前の体はまだ鎌の入った事のない野原の百合の様に真白だ。

お前の体は山の上のゆきの様に――」

目をつぶっていつの間に身ぶりまでして居た千世子は後の方から来る足音のまだ若い男だと云うのをさとるとすぐにスウィッチをぱッともちあげて、あっけにとられて居る油じみた顔の男の前を斜によぎって部屋に入ってしまった。

母親は千世子のかおを見るとすぐに、

「あした若しかすると小供達と源さんとHさんが来るってさ、四時にここにつくって……」

いかにも嬉しそうな声で云った。

「そう――いい事ねえ、迎に行ってやりましょう」そんなでもないと云った調子に千世子は云った。

よみかけの雑誌をもった母の顔を見て千世子は時と云うものを考えなければ居られない様な気がして居た。

その晩は随分おそくなるまで母親は千世子に自分の若かった時の事、姑が辛かった事などを話して居た。姑の辛さなどは自分の生涯うけずといい苦しみだと千世子は信じて居た。

翌日四時までの時間がかなり長く感じられた。

「Hが来るかもしれない」と云う事が千世子の好奇心をそそった。

割合にまち、割合によろこんだけれ共、電車から下りたのは小供達と源さんきりであった。

子供達は母と小さい自分の弟をとり巻いて、こないだのひなのかえった事からバラの一輪さいた事から私の部屋に鼠の出る様になったとやら障子の破けのふえた事まで話してきかせた。

母親は笑ってその報告をききながら一人一人の手をひっぱって見たり頭をこすって見たりして居た。

今までにないにぎやかさではんぱな時候で客は沢山居ながらもしずかなこの家に高い笑声をひびかせて居た。四方をガラスではった娯楽室に皆丸くなってトランプをする、歌をうたう、千世子は少し調子の変なオーガンさえ弾いたほどであった。

ここの家の小供は千世子の女なのに気をかねて居たのが、いかにもうれしそうに三人の弟の間に二人の子がはさまってほっぺたを赤くして居た。

十二時頃までも皆で笑いどよめいて居たけれ共源さんが一番先に寝たのをしおに今日だけお客の小供達は下のひろい座敷に寝に行った。

母は日記をつけ、千世子は短かい感想をかきつけたりして物足りないすきだらけの気持で床についた。

次の日いっぱい砂の中をころげ廻った小供達は又源さんにつれられて東京に行った。行くまで源さんは千世子と二人っきりになりたい様なかおをして居るのを知ってわざと千世子はよけよけして居た。

急に嵐のないだあとの様になった部屋の中に居られない様にはだしのまんま千世子は裏から砂をすべって浜に出てなめらかにひんやりする砂に座った。何と云う事もない悲しみは千世子の心の中いっぱいになって居た。

こんなうすねずみの色の中にこんなこい色の自分の身体をひたして、こんな気持で泣いて居ると思う事はいかにもうつくしげななよなよしげなものであった。

しみじみとホロホロ――ホロホロ――と散って行く涙の一粒ごとに思いをはらんで居る様に感じて居た。まるで幼子の様にわけもわからない事に泣きじゃくって居た。泣きながら千世子の心は悲しみながらこの上ない歓喜に小おどりして居た。

夜つゆにしっとりと長い袂や肩のしんみりしたつめたさになった時千世子は顔いっぱいに笑いながら部屋にかえった。そうしてじきにねてしまった。

三日たったのぼせる様な日に、千世子は十四になる男の子に誘われて一寸ある小峯の原に蓮花をつみに行った。その男の子は大抵の時は少しこごみ勝に下を見て神経質らしい額の大きな高い唇の馬鹿げてあかい子だった。細い白いくびすじに小さく渦まいて髪のかかって居るのは千世子にたまらないほどうれしい事だった。まだ六つ位の児の様なすんだ声とサラッとした皮膚をもって居た。

二人は手をひかれ合ってせまっこい一方は沼のまわりを森でかこんで居るところ、一方は丘の様になった畑の道を通って行った。二人の草履の音はこの頃の時候につり合った音を立てて居た。

だまりあったまんまかなりの道をあるいた。

「まだなかなか、私少しつかれた」

千世子がいかにもこの小っぽけなお友達をたよりにする様に云った時、その男の子はポッと赤くなりながら、

「もうほんの一寸……」

といい声で云ってふりかえった。

「あんた達っちゃんて云うんでしょう? 私の名を知ってて?」

千世子は笑いながらそのかおをのぞき込んで云った。

「ええ!」

「私の名も?」

「ええ」

「何ての? いってごらんなさい」

「だって……千世子ちゃんてんだって……」

「マア、ほんとうにそうなの、……可愛い名でしょう?」

こんな事を云って笑い合って小峯についた。青い草の中にまじって白いのや紫のはまぼしいほど咲いて居た。

達っちゃんはすぐかがんできれいなの、きれいなのとつみ始めた。千世子はたんねんにさがして少しずつとって行って時々高い声で、

「達っちゃんて云う方」

とよんで見たりうたをうたったりして居た。

「あのねエ、気をつけないと蛇の穴があるんです、落ちるとあぶないから……」

千世子と一寸はなれて居た達ちゃんは千世子は自分で守って居てやらなくっちゃあならないものと思って居る様な口調で云って居た。

「そう、そんならもし落ちそうになったらあんたが援けて下さる? 蛇が出て来たら貴方に『追って下さーい』って云いますよ、そいでもにげないで来たら貴方が先にかまれなくっちゃあ、いけませんよ」

「ええ」

達ちゃんは真面目な決心した様な返事をして居るのが千世子はもったいない様になってしまった。

「今だからこんなにしても居るんだけれども、もう四五年も立つとまた私のきらいな声や形になって私にいやがられる様な子になっちまうんだろう」

こんな事も思って居た。

達ちゃんは大した目的がある様に一本ずつ花を摘んで行った。両手にあまるっくらいつみためた時達ちゃんははにかみ笑いをしながら、

「これみんなあげましょう、――随分沢山になった……」

と云って千世子の腕の中にうす紫の雲の様な花束を抱えこませた。

千世子は手がつかれた様に感じるほどの花をかかえて達ちゃんと並んで先に来た道から又もどった。

丘の所にせまくつくられた豌豆の畑の、白い蝶の様な赤いリボンを結んだ様な花のどっさりついた一つるを根からとって千世子のも一つ別な方のうでにかけてやった。達ちゃんがいろいろと千世子に親切にしてやりながらも、

「この人は私はどんな人だと思って居るんだろう、いつまでも覚えて居て可愛がって呉れる人かしら、私をあんまり子供あつかいにして居すぎる」

とこんな事を思ってまるで若い女の様に何事か思い出してポーッと顔を赤くした。

どことなく神経質らしく見えるこの子の、時々赤くなったりうす笑いもしたりするのが、千世子には無暗に可愛らしく思われた。

そのしまった白い額を見ながら、もうじきにここまでも油ぎって色も黒くなるんだろうと思うとどんなに美くしくどんなに尊げに見えて居てもその後にせまって来て居る身ぶるいの出るほど千世子にいやな事を目の前にうかべて、それをなでたり又さわる事なんかは出来なかった。

花でもって飾られて千世子は家に帰った。大きいコップに入るだけの花を入れて豌豆のつるは床の間の花かけにさした。小さなコップに丸るく盛花にして千世子はしのび足をする様にして達ちゃんのマドンナの絵のはってある机に置いて、格子のかげでのぞきながら笑って居る主婦にかるく頭をさげて部屋に入ってしまった。

母親は、

「まあこんなによく摘んだネエ、いいところだったかえ」

とはればれしたこえできいた。

「ええかなり、でも行く道が阿母さんなんか通れないほどせまいところがあるから二宮さんの方から参らなくっちゃあ行かれますまい、きっと。つれてってあげましょうか?」

返事をしながら千世子はまだ美くしいこの花を入れてHのところに便りしてやろうと思って居た。

その日も又考え深くない何の思い出す事も思う事もしないで暮してしまった。

その晩は暗で星ばっかりが出て居た。

漁があったと見えて磯はかがりと人いきれとでポッポッと燃えて赤いかがやきは波にゆられて向うの陸に住んで居る人にしらせに行く様に動いて居た。ほらの貝をふく音は千世子の心をどっかにひっぱって行きそうだった。

母親と並んでその上気する様な光りを見て居た千世子は、何だか限りない悲しさを抱いて一人で都をにげてこんなところに来て居る様にそのほらの声で思わされてしまった。

「よっぽど漁があると見えるネエ」

と云って居る母親の横顔を珍らしいものの様に見ながらHの声の丸さが心の中に湧き上って居た。

いかにもこんなところの筆らしいガチガチになった筆の先をかんでふだんよりぎこっちない字でHのところへ手紙を書き始めた。書き出しが気に入らないとよくっても悪くってもそのかみを破らないじゃあ気のすまないくせのある千世子は幾度も幾度も紙反古を作ってはあてもない方へなげつけて居た。

そうしてようやっと書きあげてよみ返したときにはそんなに気に入った手紙じゃあなかったけれ共母親が来てこのわきに何かそえ書きをするかさもなくば千世子の名のわきに自分の名をかくまでまって居た。下で主婦とここいらの地価の話をして居た母親は笑いながら下から上って来た。

「おや何を書いたんだえ」

「Hさんのところへ――阿母さんよんで見て何か御書きんならなくっちゃあならないんなら書いて下さいナ花のしぼまない内に出したいんだから……」

「Hさんとこへなんか手紙なんか出さずともいいじゃあないかわけもないのに――それに先達ってこっちに来るとすぐ葉書を出したのにうんともすんとも云って来やしないじゃあないか、だものそんなにしずとも……」

「何にも返事が欲しくて書くんじゃあありませんわ、書きたくなったから書いたまでの事なんですもの」

「一体男なんかに手紙をやるなんて事は不賛成なのさ」

「ちゃんと書いたものはお見せするしそうして出すんなら何にもわるい事じゃないじゃあありませんか、御まけに阿母さんの名まで自筆で書くんじゃあありませんか……」

「そりゃあそうでもネとかく……」

「何ぼなんだってあぶり出しの手紙なんか書きません」

千世子はこんな事を云いながら何故私達はこんな一本の手紙なんかでこんなにさわいで居なくっちゃあならないんだろうと思った。

「下らない事だ!」

フッと頭の中をそういう閃きの通って行ったあとすぐ「阿母さんは私が出すのをいいと云おうか悪いと云おうか迷っていらっしゃるんでしょう、もしいいんならここに名をかくんなりウンと云うなりなさってちょうだい」

何でも早くくくりをつけちまう方がいいんだと云う様にまっしかくな目つきをして云った。

「ほんとサ、そんな事は考え物だよ」

にえきらない返事をしたっきり母親は前に長々とうねって居る手紙の字をあっちこっちひろって居た。二人はだまったまんまてんでな事を考えて波の音にまじってひびいて来る小さい子供と女中の笑声をきいて居た。

「阿母さんこんな事しててもあんまり下らないじゃあありませんか、理性の人だって云ってらっしゃるのに迷っていらっしゃる?」

母親はだまったまんま何となく落つきのない目をしてあっちこっちをながめて居た。

「アア、そんならもう面倒くさいから出すのはやめましょう」

云うとすぐ長い手紙をかきあつめて片っぱしから裂き始めた。

厚いまっしろい紙のこまっかくなって行く音はシュッシュッと云う悲しそうなものであった。

「何でもかまうもんか」と思いきった様な目つきをして居ながらうすらさむい様な気持になって居た。

「何にも反古にして惜しいほどの文でもなければそれほどの字でも又やる人でもありゃあしない」

わざとらしい様に千世子は低いこえでこんな事を云った。母親はだまってする事を見て居たが、

「そうさ、そん(ママ)がいいんだよ、そんな事ってのは誤解しやすいもんだから……」

間に合わせの様にこんな事を云ってこまっかいかたまりになった手紙を見て居た。まるめた間から一番いいのをよった蓮花がのぞいて居るのが、千世子にはさしぐまれる様な気がした。

二人の間にわだかまった事をときたいと云う様にそれからは出来るだけ陽気に天狗俳諧をしたりしてさわいだ。千世子のそんなに深く思って居ないらしい様子を見て母親は快く他愛もない事を書きつけて笑い合って居るのが、千世子には只自分のつとめた事が成功したと云う事のほかにうれしい事はなかった。

そうしてねられなかった長い間千世子は母親と小供と小さな鼻をした女中の顔を見て涙ぐんで居た。そうして居る間パチパチと目をあいたりつぶったりしながら、妙に親しくなったHと自分の事を考えないでは居られなかった。

「何にも私はHに恋をして居るんじゃあない、そうしてして居ないと断言する事が出来る。けれ共私はあの人に同情して居る、或る程度まであの人を信じて居る、こうやってはなれて居ても思い出す事もあるだけ彼の人は私の頭の一部分を領して居るに違いない。私達は不幸だと知りながらもはなれて居られないものになるかも知れない」

こんなに思いつづけて居る内にあんまり先の先の事まで又そんな事のない様にと思って居る事まで思ったのを恐れる様に耳をふさいで夜着の中にもぐりこんだ。

「何! 不安心な事があるもんか自分さえしっかりして居ればチャンチャンと事はすんで行くにきまって居る、それに又若し二人が夢中になってしまったら私の望んで居る恋のどっちかが満足する様に出来上ったらそれでいいんだ。けれ共なまはんかな様子は必(ママ)してしてはいけない、私はどんな時にもそう思って居ればいいんだ。そうすりゃあ生きて居る中に恋なんかは大抵は出来そうもないけれどそれも又いい」

考えまいと思って居ながらそんな事を考えて居た。

「アアア」

うす笑をして千世子はそのまんま寝入ってしまった。Hと二人で目に見えないものに深い深い谷に落とされた夢にうなされて起きた時夜があけはなれて居た。自分の先の事、又あってはならない先の事を見せつけられた様ないやな気持がして、ゆっくりとうねって居る海面と白い帆の思いなげにふくれて居るのを見て居た。

その次の日もその次の日も千世子にはものうい心が二つに分れた様な気持になって暮した。つかれたらしい海にあきたらしいあくびをするたんびに、

「私の顔も赤くなったしもう二十日より長くも居たんですもの帰ってもいい頃でしょう、あんまりこうやって居ると馬鹿になってしまいますもん」

と自分と同じ様に他人ばかりの中に自分の二人の子供と又それ以外のいろいろの事を守って居なくっちゃあならない努力につかれた様な顔をして居る母親をつかまえては云って居た。

「それもいいネエ、私ももう居るのにあきて来た、もう四五日にもなったら帰ろう」

何にも思ってなそうな女中までそれをきいた時うれしそうに、

「お嬢さま、私ももうほんとうに……」

と云った位であった。

嫁いで来てから随分長い間世間を苦労して渡って来た母親も宿屋生活をしなれないんで、又気ぐらいの高い事や高くとまった心をもって居る事やで人に知れない苦しみがこの旅行にともなって居た。

自分の若い娘をなるたけよく、きれいにととのったものに見せたいと思いながら又男達にふり向かれたり、何か云われたりするといかにも不安心な抱えて置きたいとまで思われるのであった。

小さい子供は海には入りはすまいか、ころんで額にきずを作りはしまいかと云うとりこし苦労までたった一人で、御まけに少しは神経衰弱になって居る頭であれこれと気をくばる事はつらい又努めなければならない事であった。

ほんとうを云えば千世子より前に母親は海にあきて居たけれ共本人が、つれて来た本人がいやだとも云わないのに又それほどよくも見えないのに帰ろうと云う事はあんまり不真面目な様に思って居た。

「もうかえりましょう」

と云うのを心まちにまって居た。

東京に電話をかけすぐ一日置いた日に立つ事にきめてしまった。

千世子はこっちに来る時よりよけいにうれしそうにして居た。目をまっくろに光らせて健康らしい気まぐれな顔色をして母の女中相手のはかどらない荷造りまで手伝った。その前の晩は目があいたまんまで一晩中すごしたほどはずんだ心で居た。

丁寧な主人夫婦の礼言葉や子供達の御名残の言葉なんかは夢中にきいて電車に国府津までそれから汽車にのってしまった。

ゆられながら千世子はあんまりあわただしい立ち様をふり返っていろいろと思い出した。あの日に宿の女中が私の髪を結うのを見て居て手のものをおっことした事もあったっけ、あの時には――この日には――もうとっくに過ぎ去った事の様に千世子はくり返して、一番おしまいに小峯に行った事、手紙の事、それからさっき達っちゃんが、

「さようなら、又ね」

と云った言葉が思い出された。

「せかせかして居た自分は一寸かるく達っちゃんの頭を抱えたっきりだったけれ共――」

千世子はまだたりない忘れて居るもののある様な気がして居た。

気軽に小供や母親に言葉をかけながら段々に都めいて来る町の様子を千世子は晴ればれした輝く顔をして見て居た。

「阿母さんうれしい事ネエ、私も丈夫になったし東京にも帰れる――」

時々こんな事を云っては肩をゆすったり眉をあげたりして居た。

同じ室のすみに座って居たまだそんなに年をとらないイギリス婦人が千世子の方を時々見ては何か云いたそうに笑ったり手を動かしたりするのを、目の合うたんびに笑いかえして居るのもうれしい心がさせる事だと千世子は思って居た。

新橋についてドアに手をかけた時、迎えに出た人の中にHさんと源さんの首から上を一番先に見つけそのわきに父親の立って居るの車夫が二人のび上って居るのも見つけた。

手をのばして高いところで二三度ふるとその人達は皆見つけて千世子の居る車の前に立った。

母親は父親に小供は車夫に千世子は源さんとHにたすけられて降りた時胸いっぱいにうたをうたいたいほど嬉しさがこみ上げて居た。

「マアほんとうに私はかえってきたんですワネエ、ほんとうに――」

一人一人の顔を笑って見ながら溜息をつく様にひびく声で云った。

母と小供は車にのって帰るから千世子にも車で行けと云われた時、

「ざっと一月ですもの電車にのって見とうござんすワ」

とあまったれて父親をひっぱったのも千世子には珍らしい様子であった。

こんだ電車の中につめこまれてゆれるたんびにHと体のぶつかるのや、父親のところによろけるのや、夕刊うりのこえや、そんなものは皆千世子にはうれしく思われたり見えたりする事柄だった。

電車からの十五六丁の道も歩いて初めて自分の生れた家の柱を見た時とびついて頬ずりしたいほどなつかしい光をもって居た。

さぞ汚れて居るだろうと思ってあけた自分の部屋には額がかけかえてあって机の上には新らしい雑誌が二冊ちゃんとならんで、赤茶色の素焼の鉢にはうす赤のふるえる様な花が千世子の方にその面をむけて笑いながら首をかたむけて居た。

ピアノのキイを小指でつっついて見たり、本をパラパラとくって見たり皆とじょうだん口をきいたり、外のすっかりくらくなってしまうまで千世子はジッと座って居る事さえ出来ないほどだった。

留守をして居た弟達はうれしがって居る自分達の姉の体を胴上げにしないばっかりにその小さい子供と一緒にかこんで鬨をあげる様に笑いながら一っかたまりになって家の中をめぐって歩いた。

「ほんとうにいい時御かえりでしたネエ、あしたは日曜で今夜は更かすことも出来るし……」

一緒に来たHさんと源さんは皆の愉快らしいかおを見てほほ笑みながらこんな事を云った。

御飯がすんでから皆丸く座った時千世子は立ち上って一人一人に、

「貴方は色がくろくなった」

「貴方は手が大きくなった様だ」

なんかと云いながらその顔や体をつくづくとながめてまわった。

「アア、お父様御はげがちょんびり育った」

「オヤ、正ちゃん貴方は――」

云われる人もうれしそうにして居た。Hさんの前に来た時、

「先の中と一寸も御変りにならないんでしょう」と云ったきりとなりの源さんの前では、

「勉強がすぎて私の二代目になりかかってらっしゃる様だ!」

なんかと云って自分の事等はすっかり忘れてしまった様な気持で居た。

父親は風呂に母親は小供の世話に三人きりになった千世子は小さなふくみ声でこんな事を云った。

「この頃の海辺って神経質な人が長く居たら気違いになってしまいそうにまでしずかで、こい光った色と香いをもっているもんです事ねえ」

「マアほんとうにかえりたくなった事が有ります、心が二つに分れた様になってネエ」

「今になると家の中にジッとして居た方がよかった様にも思われます。同じ宿にとまって居る人達を観察するでもなし、割合に無駄な時間を多く費したんですものネエ」

「それがいいんですよ。だからごらんなさい、顔だって赤くなって居るし目だって丈夫そうになって居ますよ」

Hさんは熱心に千世子の顔を見つめながら云った。千世子はHさんと源さんの手を自分の両手にもって肩位までの高さにあげたり下げたりして居た。意味もなくこんな事をしてはしゃぐほど千世子はゆとりのある心になって居た。

その翌々日から千世子は学校に行った。どの教師も又どの友達も、

「マア、貴方いらしったの」

とか、

「マア久しぶりですネエよく来ました」

とか云われた。

そうしてその日っから毎日毎日元気らしく、時には寝不足な青い顔もしながら学校に通って居た。

Hは一日おき位にはキッと来た。六時すぎ頃から来て更けるまで話すと云う事はここの家の習慣の様になってしまった。

Hの来た時はいつも十一時半にかえって行くのがきまりだった、その十一時半を家の人達は定刻と云って居た。千世子が小田原から帰ってから五ヵ月の時はかなり早く大した変った事も生まないで立って行った。

その間にHと千世子の一家は一緒に江の島に遊びに行ったり、たまには芝居を見に行ったり音楽をききに行ったりした。そのたんびにHと千世子と又その囲りの人達はうちとけて行った。いろいろなこみ入った経済の事までHは母親に相談するほどになった。

Hがたびたび来る毎に二人っきりで居る事も多くなった。けれ共千世子はそんな事を別によろこびもしなければ又いやにも思わなかった。ただあたり前の事と思って居た。

菊の花が盛りになったホカホカな日に母親は千世子にそれとなしこんな事を云った。

「女って云うものはネエ、ほんとうに下らない事にまで気をつかわなくっちゃあならないんだから……、それに又御前位の年頃の人は余計にいろいろ人から云われなくっちゃあならないんだからほんとうに何から何までつつしまなくっちゃあいけないよ、口さがない女中や何かからあれこれと云われたりなんか必(ママ)してしない様にネエ。

だからHさんが来た時でも何でもあんまりしゃべったりふざけたりなんかしない様にするんだよ、あんなものは下らない廻気なんかして云いふらすもんだからネ」

千世子はだまってきいて居たけれどもその云うわけもこんな事を云い出す動機も知って居た。こんな事を云われてから千世子が自分とHとをどれだけ母親が案じて居るか、又どの位の事まで想像して居るかって云う事を知った。

「阿母さんは私とHさんがどうにかなってるんだと思ってるのかも知れない、若しそう思ってたって何も私がつとめて証明してそうでないと思わせなくっちゃあならない事でもなし又自然に分ってしまう事なんだから……」

こんな事を思ったっきりであった。そうしてその頃から書きかけて居た事をまとまらないながらも書いて居た。

千世子の仲良くして居るK子が、千世子が海辺に行って居た内一度も便りをよこさなかったと怒ったのももっともなほど段々よそよそしくそうして又段々、千世子には関係のうすいものになりかかって来て居た。

「ネエ、K子さん、あんたこの頃段々変って来る様じゃあありませんか、そいで又……」

前髪を高々と出したK子の小さい額を見てそう云う事も一度や二度ではなかった。そうした事のつづく毎に二人の心は段々と遠い所に向って進んで行った。

K子は御嫁の仕度に今までそんなに身を入れて居なかった家庭向の事に懸命になって今まで加なりに知って居た事考えて居た事はすっかり忘れた様になって、知って居る事と云えば先に覚えて来た事をそのままに守って文学と云うものにはうとくなって来るばっかりでそれに対する慾も一頃よりはよっぽど下火なあるかないか位にほか過ぎなかった。

千世子はその人達を悲しい目で見ながら自分の進むべき事を張のある心で進めて行った。

「女の友達なんて――まして私達の年頃の友達なんて下らないもんですネエ、仲がよくなるとなるとすぐなるしはなれるとなるとすぐはなれて一寸だって未練なんてものはもたないんですものネエ。そして御嫁に行く事ばっかり考えて馬鹿になるのを知らないで居るんですもの。

もう一二年したら私は一人ぼっちになって仕舞うかもしれない」

こんな事を小学校時代からの自分の親友の話をして自分の事の様に嬉しがって居るHにする事もあった。物にはまってみやすい千世子はこの頃のK子の様子が気になって絶えず頭の中を行往(ママ)して居た。一方には又真面目に自分を思ってて呉れるM子の事なんかもしきりと考えられて居た。

黄な日差しのむずかゆい様な日に午後から来たHは、両親とも留守だったんで千世子と二人で洋館に居た。他愛もない事に笑ったり考えた目つきをして御互の顔を見合ったまんまだまって居たり、ピアノを弾いたり歌をうたったりして居た。

「子供達もしずかだしいい日ですネエ、落ついて……」

「おだやかですワ、ほんとうにネエ」

「千世子さんあんたにいい事きかせてあげ様……」

「どうぞ」

「こないだの夜貴方が外へ出て居なかった事があったでしょう? ほら、中西屋に行った時ネ、阿母さんが云って御いででしたよ。

『何か貴方御心あたりがありませんか、千世子のなんに――もうこないだも主アルジに云って居たんですがもう約束位して置いたっていいってネエ、忠太さんに会った時もそ云ったんですけど……なるたけ工科の人で少しは文学嗜味のある人ですけどどうでしょう』って。

私まだそんな事しないだっていいでしょうって云ったら『そうじゃあありませんよっ』てネエ、千世子さん……」

千世子は顔を赤くもしず身うごきもしないであけっぱなしの様に笑いながらきいて居た。Hは話しながら時々声をほそめたり顔を赤くしたりして居るのが千世子には可愛そうな様に思えた。

「マア、そんな事を云ったんですか、早手廻しな事だ」

「そんな事云ったって一生ミスでも居られますまい」

「サア、居るとも居ないとも云えませんワ、死ぬほど行きたい人があったら行きましょうし……」

「そう? キット?」

「エエきっとそう」

「そいじゃあもし死ぬほどもらいたいと云う人があったら?」

「おやめなさいよ、そんな、昔から幾人の人がつかった言葉だかわかりゃあしないし、又そんな事を云ってると田舎者の厚化粧みたいだから……」

「オヤ貴方そう思ってる?」

「エエ、私そう思ってますわ。

この頃の人間は自分の恋してる女が、

『命にかけて……』

と云った時に、

『お前は幾度そんな事を云った?』

とつきはなす様になりましたもの……」

「…………」

Hはだまって大きなマドンナの額を見て居た。千世子も知らばっくれた様にそっぽを見て足拍子をとってわけもない短い歌をくり返して居た。

二人の間に短い時が長く沈黙の間に立って行った。

「貴方怒った?」

Hはふり向いて唇のあたりにうす笑をたたえて調子をとって居る千世子を見た。

「いいえなんいも――」

「そんならもっとこっちにいらっしゃいな、そうして何か話して下さいナ」

Hの声はまるですがりつく様に千世子の耳の中を伝わって行った。

「何話しましょうネエ」

「何でも貴方の話したい事」

「一寸わかりませんワ私の今さしあたって話したい事なんて――」

「そいじゃあ私に云わして下さいネいいでしょう」

Hは身体をゆすって深い息をついてそうして話し出した。

「私はネエ千世子さん、こないだ沼津に行った時にもかえってからもそこいら中から嫁を世話して呉れる人があります、でも私は一つ一つ思いきりよくことわって一度でも残念だったとか情ないとか思った事がないんです。それは、――エエ私は天の神様が特別に私の愛して好い人として作って下さった女が私の前に現われるまで私はまって居るんです。私はその人の現われるって云うのを信じて居ますもの、そうしてその人が出来るだけ早く私の目の前に立って呉れる様に願って居るんです……」

前よりも一層い(ママ)そうして真面目な溜息をついた。

「そう貴方はまっていらっしゃる?

エエほんとうにそうですワ、神様はキットそう云う人を作って下さるでしょう。

でもそう云う尊いものは中々、ぞうさもなく現われる筈はありませんでしょう?

でももし現われた時には嬉しいでしょうネエ、この頃の世の中はその換りにサタンが特別に男のために作った様な女やそれと同じ男も居ますもんネエ」

「そうですか……」

「ネエ、Hさん、そう御思いにならない? 私が貴方に始めて御目にかかった時から今までもう一年ですワ、そいでその間に随分変った事もありましたワネエ。私の身丈の育った事、一寸ちょんびり利口になった事、いろんなものを書いたり読んだりした事なんか、私の頭だけ年に二つ位ずつ年をとって行ってしまいます、じょうだんじゃあなく」

「ほんとうにネエ、もう一年ですネ、今年の一年は今までの一年と随分内容が違ってます私にとっては。

第一、ここの御家にこんなに段々親しくしていただく事、阿母さんと貴方とが私の相談相手にもなぐさめて下さる人にもなっていただける、ほんとうにどんなに何だか斯う嬉しいかわかりませんよ。私みたいに独りぼっちで苦労して居なくっちゃあならないものには斯うした御家のあるのがこの上もない事なんですもの……」

「親しくして呉れる人のふえるのってのは誰だってよろこぶもんですワ」

「でも貴方みたいに皆から可愛がられて居る人はそうひどくは感じないでしょう?」

「どっちかと云えばねえ――親しくして呉れる人の三人ふえた時のうれしさより中位にして居た人でもはなれる事はつらさがひどうござんすものねえ。だれでも私のそばに居た人がはなれて行くと云うのは大きらいですワ、ほんとうに……」

「でも貴方はほんとうに幸福な方だ!」

「一寸Hさん、あんた私をもう一年も前っから知ってらっしゃるくせに千世子さんなんて御呼びんなるんですねえ、なぜ?」

「なぜって――貴方私が千世ちゃんなんて呼んだら御怒りになるでしょうキット……」

「始めて会った人なら無論怒るどころかそっちを見てもやりませんワ、でももうようござんすワ、ねえ、千世ちゃんて呼んで御覧なさい、もし変だったら前通り、そいでよかったらそのまんま」

「千世ちゃん――」

「変じゃあありませんわ、却ってその方がようござんすワこれからそうよんで下さる? ねえ」

「エエ千世ちゃん――」

Hは千世子の名をよんではジーッと耳をかたむけて居た、千世子も他人の名の様にききすまして居た。

「ねえ、私達は割合に仲よくなりましたねえ」

「そうですか、私はそんなに貴方打ちとけて下さらないと思ってます」

「私はそう云う人なんですよ、大変すきな人でありながら大変きらいな人だったりするんですもの、打ちとけてたって貴方にわからない事だってあるかも知れませんワ」

「私達はこれよりもっと仲よしになれましょうか? 私はたしかになれます」

「私はわかりません、若し私があしたかあさってかに死んでしまったらどうなさる? 仲良しになるもならないもありゃしませんワ。でもじいさんばあさんでさっぱりした御茶のみ友達で居るのも悪かありませんワネエ」

「仲の悪くなる事はありますまいネエ」

「それもわかりませんワ、大抵はありますまい、そんな事はあんまり約束しちゃわない方がいいんですワ」

「私はそいじゃあ一人で約束しましょう、きっと貴方と仲が悪くなりませんどんな事があっても……」

Hは斯う云って小さな十字を額のところに切った。

「私貴方がすきですワ、だから若し貴方が健すこやかでいらっしゃる時に私が死ぬ様だったら呼んであげましょう、貴方の死ぬ時も行ってあげましょう。でもいざとなった時貴方は御ふるえになるでしょうネエ、キット」

「エエ、私は死ぬ事を恐れてるんです、神様から下さる人が目の前に現れるまでは……」

「現れると一緒に頓死して御しまいなさる?」

「そんなに茶化すもんじゃあありませんよ、私の真面目で云って居る事はネエ」

「じゃあ私は貴方の、貴方は私の運命をお互に見合ってるんですの? いやな事ってすねエ」

「…………」

千世子はHの考えて居る事がよくわかって居るのに知らないふりをして居るのや、いやに高くとまった自分の心を心の十分の一にもならない言葉で云うって云う事がいやになって来た。頭がごっじゃごじゃになってしまって椅子のせなかによっかかった。頭がぽっぽっとして来て体が宙にういて行く様になった。

「今日は悪い時候なんでしょうか、私頭の工合が大変妙になって来ました」

「私のした話の皮肉を云っていらっしゃるんでしょう」

「そんな気じゃあないんです。頭を押えて御らんなさい、熱くなってましょう、ほんとうの事なんですもの」

「そうですか、どうしたんでしょう」

Hはしずかに部屋の中を歩き廻った。

時にかるい小さなせきばらいをしたり、とまって見ては千世子のなやましそうに又我ままそうな様子をして居るのを見た。

「貴方って方は何でもあけっぱなしに云わない方ですネエ、娘の様に――」

千世子は胸のところにこみあげて来るかたまりをおし下しおし下しして云った。

「エエそう云う風にしなくっちゃあならないから……」

千世子の前に立ったHは千世子が涙をこぼして居るのを見た、Hの自分の目からもわけもなく涙がこぼれそうになった。

「大変ヒステリックになっていらっしゃる――」

こう云っただけであった。そうして千世子の前の椅子に腰を下して千世子の赤い輝いた瞳を見つめた。

「私今ネ、フッとやたらに貴方が可哀そうになったんですの、そしたらすぐ涙が出ちゃったんですの、ただそれだけ……」

千世子は三つ子の様に声に出して泣きたいほどやたらむしょうにHが可哀そうになって来た。

「ほんとうに貴方って方は可哀そうな方だ、だけど今にいい事のある時が来るでしょうネエ」

まるで年をとったクリスチャンの様な声で千世子は云った。

「可哀そうに思って下さる? ほんとうに……そんならもうあけっぱなしに私にして下さいナ」

「いいえ私達はネエ、この位の仲のよさで居るのが一番いいんだと私は思ってるんですもの。私達が仲がわるくなっても悲しゅうござんすし、あんまり仲がよくなりすぎてもそのおしまいに悪い事がありそうですもの……悲しい事があった時はお互になぐさめ合って年取るまで御友達で居る方がいいんです。あんまり仲がよくなるときっと二人ともいやいやながらしなくっちゃあならない事や、しなくっちゃあならない気持をもたなくっちゃあなりませんもん……」

「貴方、思ってる事と云ってる事が矛盾して居るじゃあありませんか、貴方はきっと私と同じ様に出来るだけ仲よしになっちまおうと思って居ながら――」

「そりゃあそう思ってるかも知れませんワ、でも私は自分のすきな人自分の仲よしを自分のために悲しい思いやつらい思いをさせるのはいやなんです」

「きっと悪い事が起るときまってますまい」

「大抵はきまってます、私はジーッとして居る事の出来ない我ままなその時々の気持を可愛がる女ですもん、一緒にならなくっちゃあならないために自分の感情を押えつけたりつくろったりする事は出来ない人なんですもん……」

「貴方死ぬまで一人で居ますか?」

「今だって私一人じゃあありませんワ、私の家の囲り体の囲りにはいっぱい目に見えない。そいで力強いものが集って居ますもの、私はそれを信じてそれと話し合いながら六十年なり五十年なりの一生を終る事が出来ます、そいでそれが一番私の幸福な事ですもの。

それで私は満足して居ますワ」

「ネエ、千世ちゃん私はもうさらけ出して云います、どうぞねえ怒らずにきいて下さい。私はねえ貴方が大変すきなんです、そいで又私のすきがる事を皆貴方はもってらっしゃる、そう思ってるんですよ、私は一生はなれないで居られる様になりたいと……

それを御願いしようたって貴方はいやがっていらっしゃる」

Hは赤い顔になって云った。

だまってきいて居た千世子は又新しい涙が湧いて来る様になった。

「何故貴方そう思っていらっしゃる、私をまだすっかり知らないからそう思えていらっしゃるんでしょう、貴方もっと私の悪いところも知らなくっちゃあいけませんワ。

私はきっと御断りするにきまってます、でも私は貴方がすきですワ、私は貴方がすきだからそう云うんです」

「じゃあ私達はどうしても死ぬまで御友達で居なくっちゃあならないんですか、私は……」

「私は貴方の御友達としてならいい女かも知れないけれ共それ以上のものになる様には生れついて居ませんもの――その方が幸福です――」

「でも私達ははなれちゃう事は出来ませんねえ」

「ええそれはきっと出来ません、そうしたら私は悲しがるでしょう……」

「そんなら私は今のまんまに満足して居なくっちゃあいけないんですか」

「お互にその方がようござんすワ」

そう云った時Hも千世子も涙ぐんで居た。

「どうしてこの人は私をこんなによくばかり見て居るんだろう。

私とあんまり仲よしになれば自分が不幸になるって云う事も忘れて居るんだもの――信夫も源さんも――ああ、ああ、私はもういやになってしまう」

千世子はそう思って居る。

「この千世ちゃんて人はどうしてこんななんだろう、若い女の様じゃあなく何か考えて居る様に――感情的な女でありながら――私はだまってこの人のもしかひょっとして心のかわって呉れるのを待って居るほかない」

Hは落ちそうになって来る涙をのみこんで考え沈んだ様な又ジーッと自分の心を押えつける様にして居る千世子の上目をして居る顔を見た。Hは頭がクラクラして来た。

「千世子さん、あんたは――」

Hは机の上につっぷしてしまった。千世子は上を見て居た瞳を下してHを見た。白い指は顔を被ってまっくろいしなやかな髪はやさしくふるえて居た。

Hの髪のふるえと同じ様に千世子の心もふるえて居た。

「Hさん、そんなになさらないでネ、男の人がそんなにまでする事じゃあないでしょう、ネ私は変な気持になってしまいますワ……」

千世子はそうっとHの頭をかかえて居た。ジッとして居る千世子の頭の中には源さんの様子、信夫の手紙、そうしたものが並んで横ぎって行った。

「アアいやだいやだ、私はそんな事に一々顔を赤めたり、涙ぐんだりするほど初心な気持はもってもしないのに――どっかへ行っちまえば一番いいんだ、私の知らない人の居るところに行けば、行ったところで世の中のうちならやっぱり同じ浮世なりけりなんだ――アアア私はほんとうに――」

千世子は皆をつきとばしてどっかへ行ってしまいたくなった。

声をあげて泣きたいほど、千世子は何とも云われない気持になって居た。

「何故Hさんはこのまんま動きもしない食べもねもしない美術品になって居なかったんだろう。

若しそうなって居て呉れたら私は夢中になって恋をする事が出来たかもしれないのに、――」

フッと千世子はそんな事さえ思った。

夜の十時すぎまで居て、

「左様なら――いい夢を御らんなさい」

と云ってかえって行ったHはいかにも悲しい事のある様にうつむいて暗い道をたどって行くのが千世子をにわかに弱い気持にさせてしまった。

「私達はどうしていいんだかわからなくなって来る」

千世子は小さくつぶやいてその晩はろくにねないでしまった。

それからあとも、Hと二人きりで居る時母親がガラス戸に耳をつけて話をきいて居る事の度々あるのを千世子は知って居た。Hも知って居た。そうした時に二人はかるく淋しい様な口元をして笑い合った。

「取りこし苦労をしていらっしゃるんだ!」

こんな事を話の間にはさんだ事もあった。

千世子は何にもする事のない時ジッと考えに沈んだ時なんかに、

「私をとりまいて居る三人の人の中で私は、一番Hをすきがって居るそいで一番私のすきな事を沢山具えて居る人だ!」

「Hさんはああやって毎日毎日悲しそうな目つきをしてこれからあともひとりぼっちで暮すんかしら……」

こんな事をフイと思ったりした。

「私はHを恋してるんだろうか、若しそうだったら?」

こうも思った。

そうして千世子はHの来るたんびに千世子自身の心をうたがい始めた。

「ネエ、母さん、母さんはHさんをどう思ってらっしゃる?」

母親の沢山人を見た眼にうつるHはどうかと千世子はきいても、

「酒も煙草ものまず気のねれた人だし苦労もしたし少しとりすました人だけれども人としてはいい人だねえ」

と云った。

「体が弱いのが可哀そうだねえ、どうしてあんなだろう、苦労ばっかりしたり、悲しい思いばっかりして居るうちに死んででもしまいそうな人だよほんとうに――」

こんな事ばかり云うので千世子の疑いはますます深くなり、Hを可愛そうだと思う心も育って行った。

「私は不幸な事が起ると知って居ながらやっぱりその方に向いて居るのかしらん、私は運命の神のおもちゃにならなくっちゃあならないのかしらん。

でもかまわない出来るだけ戦ってまけたらその時の事だ。

何! 私なんかHを恋して居るもんか。

それが一番いいんだ!」

口惜しそうな顔をしてこんな事も思った。千世子はHのあらを出来るだけすくいあげて考えた。

「彼の人はあんな癖をもって居る。

心に余裕のない人だ。

文学とか美術とか云う事に私ほどの興味をもって居ない人だ」

と思うすぐそのあとから、

「それと云うのも若い内の悲しかった事、辛かった事がそう云う人にしてしまったんだ」

そう思った時にはもう同情に変って居た。

「ねえ、私達は仲のいい御友達で居るのが一番いいんですワネエ」

Hに会った時にそう云った事もあった。

「母さん、Hさんに良い女ヒトを世話して御あげなさいよ、そいでなくっちゃあ」

「そう思ってこないだも云って見たんだけれ共いやだと云ってききゃあしないんだもの、思ってる人でもあるんだよきっと……」

千世子はそれをきいてしかめっつらをして首をふった。

「ねえ、御前信夫さんねえ、あの人のところから又先みたいな手紙をよこしたんだよ。どうしたんだろうねえ、あんまりあとさきを考えない仕様だねえ……」

「そんな手紙を書く時にあとさきを考えるんなら始めっからそんな事も思わないんだろうけれ共――ほんとうに私はいやになっちゃう、尼寺へでも行っちまいましょうか」

「そうするといいよほんとうに……」

母親は笑ってとり合わなかった。

「信夫さんなんかってあんな世間知らずなくせに――あんな手紙書く事ばかり知ってる――」

千世子は自分が行くたんびにふるえる様な目つきをしてつっかかった様に、

「千世ちゃん」

と呼んで見たり赤くなったりするのが思い出されて胸の悪いほどに思われた。

「貴方が恋をするなんて生意気すぎますよ」

と今度あったら云ってやろうかと思って人の悪い馬鹿にしきった笑い方をする事もあった。

「思い切って散切りになって男のなりをしてしまおうかしら」

「アアアア早く年取っちまえばいいとも思うけれ共――」

「若い人でなければうけられない特別な恩沢をうけすぎて私はもうあきあきしてしまった、しずかなところに独りで考えたい事を考えて居たい」

千世子の頭の中には時々どっか山の中に逃げて行ってしまいたいほどに思われる事があった。そうして山の中のほったて小屋にしずかに本を読んだり書いたり、木の間を歩いたりする時のうれしさを想う事もあった。

Hは時の来るのを待つ様に必(ママ)して千世子に先に一度云った様な事は云わないのが千世子には却って考えさせられる様に感じて居た。

「Hさん、私達は段々はなれられない御友達になって行きますわねえ。

でも御友達には違いない。

私達はお互に不幸にならない様にしなくっちゃあいけませんワねえ、そうでしょう」

千世子は考える事のやたらに沢山な生活をして居た、そうして考えあまった様にこんな事も云った。

「私は夢中な恋が出来ないから必(ママ)して恋はしない、私の進んで行く道は一つで沢山だ」

「Hさんが一人で居様と二人で居ようと私に関係はないんだ。

私は私をやたらに思って男の人達の心を犠牲にしてもっと尊いもっと光のあるものを作って行かなくっちゃあならない様に神様が作って御置きなったんだ!」

「Hさんをむごくしずともいいんだ、あの人が私をそんなに思ってて呉れるって事は真面目に感謝しなくっちゃあならない事に違いない。私はHさんがすきだ、だから私達は恋をするなんて事よりもっとお互に救け合って尊い物を作っていった方がいい」

千世子は広い大きな男の様な額でそんな事を考えた。そうして毎日毎日書けるだけ書きよめるだけ読んだ。

寒い晩であった、Hが来た時千世子はいかにも愉快そうな顔をしてHに云った。

「Hさん、私はもうこの頃すっかり迷う様な事もいやな思いをしなくっちゃあならない事もなくなっちまったんです……」

「どうして? 貴方に迷う様な事があったんですか?」

「ええ、あったんです、私が斯う云えば貴方には御わかりんなるんですワ。

ネ、私はこの頃そう思ってるんです。

私はあたり前の女の様に――又、娘の様に夢中で恋なんかする事は出来ないんです。

けーども人間同志の恋よりももっと高いところにもっと輝いて私の来るのを手をひろげてまってるものがあるのを見つけたんですワ、私は、――

その方がもっと生甲斐のある私につり合った生涯を送る事が出来ると云いはる事も出来れば、もっと私の心を満ち満ちた輝きのあるものにして呉れると云えます――恋をする事はどんな女でもしますワ、けれどもどの女でもが高いところにその人の来るのを待って居るものはもってませんワネ、私はそれを信じて又自分を信じて居ます」

千世子は少し下を見ながら手を組んで神を見る事の出来たクリスチャンの様なしずかなおだやかな目つきをして云った。

「――そいで私はどうしたんでしょう、――私は何を見つけたんでしょう――」

「近いうちにきっと御目つけになれましょう、そうに違いありませんワ、自分のすべき事を真面目にして行く時に一人手に自分を待って居るものが見つかりますもの。

これから私達は救け合ってお互に幸福にだれにも似せる事の出来ない生活をして行かなくっちゃあねえ」

千世子はいつもとは人の変った様な調子でこんな事を云った。自分の頭の上が光って居る様に感じながら千世子はジーッとHのかおを見た。

「アア――神様……」

Hは目をつぶってうつむいていつまでも頭をあげなかった。

「貴方が私を忘れさえしないで下さればほんとうにその方が幸福かも知れません、私達は仲よくそうして考え深く――」

しばらく立って顔をあげたHはその白い千世子のすきな額と濃い髪を尊い様に見せながら口の辺に笑いをうかべながら云った。

二人は新らしい生命をうけた様にその日っきり今までお互に迷って居た事は忘れる事にした。

千世子はしんから迷わなくなった。

あけてもくれても真面目に輝いた目をしながら書いたりよんだりして居た。

Hには、忘られる様で忘られない千世子の顔を見ると、先に云った事をくり返したい様な気持になった。

女のとりすました、考えてばかり居る様な顔や目を見ては、

「もう忘れましょう」

と云った言葉に対しても又女の様子に対してもそれを再び云い出す事は出来なかった。

「時が来たら……」

Hはそればっかりをたのみにする様に思いながら前よりも繁く千世子の家へ出入りした。来るたんびに悲しい気持になりながら、

「でもまだ私をすきがっては居る、顔が青いとか頭が痛そうな目つきだと云って居た。

今はそれで満足して居なくっちゃあならない。時が来たら――」

とくり返して居た。

「時が来たら――」

心にくり返しながら、Hは源さんと云う人が居る――と思った事もあった。

「横どりされたんじゃああるまいか……」

源さんと一緒になれる様にねがいながら度々千世子の家に行った。

「今日は源さんも来てますワ」

と迎に出た千世子が云った日にHは目の辺りの筋をつめながら、

「そう、……」

と云って自分の体の囲りを見廻した。千世子は源さんよりもHによけい口をきき、

「この頃はほんとに変な気分な日ですワ、貴方頭何ともなくってらっしゃる?」

こんな事もきいた。

Hには自分も親切に案じながら同情しながら恋をしない様にとつとめ、そうすればきっと不幸になると云う女の心気持が分らなかった。

「やっぱりどっか母親の気持に似て居る、――」

Hはそう思うほか感情的な女でありながら先の事まで考えて居る女を解する事は出来なかった。

父親や母親が、

「一度ほかない一生だものネエ、出来るだけの事はするのがいいんだ、躰も心も健康になって行けば留学だってさせないとは云わないんだもの――」

と云う事も、千世子はただそれだけの意味にはきいて居なかった。

「恋にあくせくするほど平凡な女ではない。

もっと尊いものが私には出来る。

又きっと出来して見せる!」

千世子は手を一つ動かすんでもそう思って居た。

底本 / Source edition

底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
初出:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
※縦中横の章見出し中の漢数字が二文字になる箇所(「十一」以上)では、漢数字のみは縦に組まれています。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2008年5月16日作成
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TEI
/works/015945_000311/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/015945_000311/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/015945_000311/

宮本 百合子「千世子」(新字新仮名)、底本『宮本百合子全集 第二十八巻(習作一)』新日本出版社、1981年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 015945_000311, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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