みづからはあるかなきかのあさがほと

言ひなす人の忘られぬかな　（晶子）

斎院は父宮の喪のために職をお辞しになった。源氏は例のように古い恋も忘れることのできぬ癖で、始終手紙を送っているのであったが、斎院御在職時代に迷惑をされた<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>の相手である人に、<ruby><rb>女王</rb><rt>にょおう</rt></ruby>は打ち解けた返事をお書きになることもなかった。九月になって旧邸の桃園の宮へお移りになったのを聞いて、そこには御<ruby><rb>叔母</rb><rt>おば</rt></ruby>の<ruby><rb>女五</rb><rt>にょご</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>が同居しておいでになったから、そのお見舞いに託して源氏は訪問して行った。故院がこの御<ruby><rb>同胞</rb><rt>はらから</rt></ruby>がたを懇切にお扱いになったことによって、今もそうした方々と源氏には親しい交際が残っているのである。同じ御殿の西と東に分かれて、老内親王と若い前斎院とは住んでおいでになった。<ruby><rb>式部卿</rb><rt>しきぶきょう</rt></ruby>の宮がお<ruby><rb>薨</rb><rt>かく</rt></ruby>れになって何ほどの時がたっているのでもないが、もう宮のうちには荒れた色が漂っていて、しんみりとした空気があった。女五の宮が御対面あそばして源氏にいろいろなお話があった。老女らしい御様子で<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>が多くお言葉に混じるのである。姉君ではあるが太政大臣の未亡人の宮はもっと若く、美しいところを今もお持ちになるが、これはまったく老人らしくて、女性に遠い気のするほどこちこちしたものごしでおありになるのも不思議である。

「院の陛下がお<ruby><rb>崩</rb><rt>かく</rt></ruby>れになってからは、心細いものに私はなって、年のせいからも泣かれる日が多いところへ、またこの宮が私を置いて行っておしまいになったので、もうあるかないかに生きているにすぎない私を<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてくだすったことで、私は不幸だと思ったことももう忘れてしまいそうですよ」

と宮はお言いになった。ずいぶん<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>めいておしまいになったと思いながらも源氏は<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まって申し上げた。

「院がお<ruby><rb>崩</rb><rt>かく</rt></ruby>れになりまして以来、すべてのことが同じこの世のことと思われませんような変わり方で、思いがけぬ所罰も受けまして、遠国に<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすら</rt></ruby>えておりましたが、たまたま帰京が許されることになりますと、また雑務に追われてばかりおりますようなことで、長い前からお伺いいたして故院のお話を承りもし、お聞きもいただきたいと存じながら果たしえませんことで<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>としておりました」

「あなたの不幸だったころの世の中はまあどうだったろう。昔の御代もそうした時代も同じようにながめていねばならぬことで私は長生きがいやでしたが、またあなたがお栄えになる日を見ることができたために、私の考えはまた違ってきましたよ。あの中途で死んでいたらと思うのでね、長生きがよくなったのですよ」

ぶるぶるとお声が震う。また続けて、

「ますますきれいですね。子供でいらっしった時にはじめてあなたを見て、こんな人も生まれてくるものだろうかとびっくりしましたね。それからもお目にかかるたびにあなたのきれいなのに驚いてばかりいましたよ。今の陛下があなたによく似ていらっしゃるという話ですが、そのとおりには行かないでしょう、やはりいくぶん劣っていらっしゃるだろうと私は想像申し上げますよ」

長々と宮は語られるのであるが、面と向かって<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>をほめる人もないものであると源氏はおかしく思った。

「さすらい人になっておりましたころから非常に私も衰えてしまいました。陛下の御美貌は古今無比とお見上げ申しております。あなた様の御想像は誤っておりますよ」

と源氏は言った。

「では時々陛下を拝んでおればいっそう長生きをする私になりますね。私は今日でもう人生のいやなことも皆忘れてしまいましたよ」

こんなお話のあとでも五の宮はお泣きになるのである。

「お姉様の三の宮がおうらやましい。あなたのお子さんを孫にしておられる御縁で始終あなたにお逢いしておられるのだからね。ここのお<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなりになった宮様もその思召しだけがあって、実現できなかったことで<ruby><rb>歎息</rb><rt>たんそく</rt></ruby>をあそばしたことがよくあるのです」

というお話だけには源氏も耳のとまる気がした。

「そうなっておりましたら私はすばらしい幸福な人間だったでしょう。宮様がたは私に御愛情が足りなかったとより思われません」

と源氏は恨めしいふうに、しかも言外に意を響かせても言った。

<ruby><rb>女王</rb><rt>にょおう</rt></ruby>のお住まいになっているほうの庭を遠く見ると、枯れ枯れになった花草もなお魅力を持つもののように思われて、それを静かな気分でながめていられる麗人が直ちに想像され、源氏は恋しかった。逢いたい心のおさえられないままに、

「こちらへ伺いましたついでにお<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねいたさないことは、志のないもののように、誤解を受けましょうから、あちらへも参りましょう」

と源氏は言って、縁側伝いに行った。もう暗くなったころであったが、<ruby><rb>鈍</rb><rt>にび</rt></ruby>色の縁の<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>に黒い<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の添えて立てられてある<ruby><rb>透影</rb><rt>すきかげ</rt></ruby>は身にしむものに思われた。<ruby><rb>薫物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>の香が風について吹き通う<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>なお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>である。外は失礼だと思って、女房たちの計らいで南の端の座敷の席が設けられた。女房の<ruby><rb>宣旨</rb><rt>せんじ</rt></ruby>が応接に出て取り次ぐ言葉を待っていた。

「今になりまして、お居間の御簾の前などにお席をいただくことかと私はちょっと戸惑いがされます。どんなに長い年月にわたって私は志を申し続けてきたことでしょう。その労に<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられて、お居間へ伺うくらいのことは許されていいかと信じてきましたが」

と言って、源氏は不満足な顔をしていた。

「昔というものは皆夢でございまして、それがさめたのちのはかない世かと、それもまだよく決めて思われません境地にただ今はおります私ですから、あなた様の労などは静かに考えさせていただいたのちに<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めなければと存じます」

女王の言葉の伝えられたのはこれだった。だからこの世は定めがたい、頼みにしがたいのだと、こんな言葉の端からも源氏は悲しまれた。

「人知れず神の許しを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな

ただ今はもう神に託しておのがれになることもできないはずです。一方で私が不幸な目にあっていました時以来の苦しみの記録の片端でもお聞きくださいませんか」

源氏は女王と直接に会見することをこう言って強要するのである。そうした様子なども昔の源氏に比べて、より優美なところが多く添ったように思われた。その時代に比べると年はずっと行ってしまった源氏ではあるが、位の高さにはつりあわぬ若々しさは保存されていた。

なべて世の哀ればかりを問ふからに誓ひしことを神やいさめん

と斎院のお歌が伝えられる。

「そんなことをおとがめになるのですか。その時代の罪は皆<ruby><rb>科戸</rb><rt>しなど</rt></ruby>の風に追ってもらったはずです」

源氏の<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>はこぼれるようであった。

「この<ruby><rb>御禊</rb><rt>みそぎ</rt></ruby>を神は（恋せじとみたらし川にせし<ruby><rb>御禊</rb><rt>みそぎ</rt></ruby>神は受けずもなりにけるかな）お受けになりませんそうですね」

宣旨は軽く<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>にしては言っているが、心の中では非常に気の毒だと源氏に同情していた。<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>深い女王は次第に奥へ身を引いておしまいになって、もう宣旨にも言葉をお与えにならない。

「あまりに哀れに自分が見えすぎますから」

と深い<ruby><rb>歎息</rb><rt>たんそく</rt></ruby>をしながら源氏は立ち上がった。

「年が行ってしまうと恥ずかしい目にあうものです。こんな恋の<ruby><rb>憔悴</rb><rt>しょうすい</rt></ruby>者にせめて話を聞いてやろうという寛大な気持ちをお見せになりましたか。そうじゃない」

こんな言葉を女房に残して源氏の帰ったあとで、女房らはどこの女房も言うように源氏をたたえた。空の色も身にしむ夜で、木の葉の鳴る音にも昔が思われて、女房らは古いころからの源氏との交渉のあったある場面場面のおもしろかったこと、身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>んだことも心に浮かんでくると言って斎院にお話し申していた。

不満足な気持ちで帰って行った源氏はましてその夜が眠れなかった。早く<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>を上げさせて源氏は庭の朝霧をながめていた。枯れた花の中に朝顔が左右の草にまつわりながらあるかないかに咲いて、しかも香さえも放つ花を折らせた源氏は、前斎院へそれを贈るのであった。

あまりに他人らしくお扱いになりましたから、きまりも悪くなって帰りましたが、哀れな私の後ろ姿をどうお笑いになったことかと<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しい気もしますが、しかし、

見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん

どんなに長い年月の間あなたをお思いしているかということだけは知っていてくださるはずだと思いまして、私は<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>きながらも希望を持っております。

という手紙を源氏は書いたのである。真正面から恋ばかりを言われているのでもない中年の源氏のおとなしい手紙に対して、返事をせぬことも感情の乏しい女と思われることであろうと女王もお思いになり、女房たちもそう思って<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>の用意などしたのでお書きになった。

秋はてて霧の<ruby><rb>籬</rb><rt>まがき</rt></ruby>にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔

秋にふさわしい花をお送りくださいましたことででももの哀れな気持ちになっております。

とだけ書かれた手紙はたいしておもしろいものでもないはずであるが、源氏はそれを手から放すのも惜しいようにじっとながめていた。<ruby><rb>青鈍</rb><rt>あおにび</rt></ruby>色の柔らかい紙に書かれた字は美しいようであった。書いた人の身分、書き方などが補ってその時はよい文章、よい歌のように思われたことも、改めて本の中へ書き載せると<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>い点の現われてくるものであるから、手紙の文章や歌というようなものは、この話の控え帳に筆者は大部分省くことにしていたので、採録したものにも書き誤りがあるであろうと思われる。

今になってまた若々しい恋の手紙を人に送るようなことも似合わしくないことであると源氏は思いながらも、昔から好意も友情もその人に持たれながら、恋の成り立つまでにはならなかったのを思うと、もうあとへは<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けない気になっていて、再び情火を胸に燃やしながら心をこめた手紙を続いて送っていた。東の対のほうに離れていて、前斎院の宣旨を源氏は呼び寄せて相談をしていた。

女房たちのだれの誘惑にもなびいて行きそうな人々は狂気にもなるほど源氏をほめて夢中になっているこんな家の中で、朝顔の女王だけは冷静でおありになった。お若い時すらも友情以上のものをこの人にお持ちにならなかったのであるから、今はまして自分もその人も恋愛などをする年ではなくなっていて、花や草木のことの言われる手紙にもすぐに返事を出すようなことは人の批評することがうるさいと、それも遠慮をされるようになっていつまでたってもお心の動く様子はなかった。

初めの態度はどこまでもお続けになる朝顔の女王の普通の型でない点が、珍重すべきおもしろいことにも思われてならない源氏であった。世間はもうその<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をして、

「源氏の大臣は前斎院に御熱心でいられるから、女五の宮へ御親切もお尽くしになるのだろう、結婚されて似合いの縁というものであろう」

とも言うのが、紫夫人の耳にも伝わって来た。当座はそんなことがあっても自分へ源氏は話して聞かせるはずであると思っていたが、それ以来気をつけて見ると、源氏の様子はそわそわとして、何かに心の奪われていることがよくわかるのであった。こんなにまじめに打ち込んで結婚までを思う恋を、自分にはただ気紛れですることのように<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>は言っていた。同じ女王ではあっても世間から重んぜられていることは自分と比較にならない人である。その人に良人の愛が移ってしまったなら自分はみじめであろう、と夫人は<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>かれた。さすがに第一の夫人として源氏の愛をほとんど一身に集めてきた人であったから、今になって心の満たされない取り扱いを受けることは、外へ対しても堪えがたいことであると夫人は思うのである。顧みられないというようなことはなくても、源氏が重んじる妻は他の人で、自分は少女時代から養ってきた、どんな薄遇をしても甘んじているはずの妻にすぎないことになるのであろうと、こんなことを思って夫人は<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>しているが、たいしたことでないことはあまり感情を害しない程度の夫人の恨み言にもなって、それで源氏の恋愛行為が<ruby><rb>牽制</rb><rt>けんせい</rt></ruby>されることにもなるのであったが、今度は夫人の心の底から恨めしく思うことであったから、何ともその問題に触れようとしない。外をながめて物思いを絶えずするのが源氏であって、御所の<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>の夜が多くなり、役のようにして自宅ですることは手紙を書くことであった。噂に誤りがないらしいと夫人は思って、少しくらいは打ち明けて話してもよさそうなものであると、飽き足りなくばかり思った。

冬の初めになって今年は神事がいっさい停止されていて寂しい。つれづれな源氏はまた五の宮を訪ねに行こうとした。雪もちらちらと降って<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>な夕方に、少し着て柔らかになった<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>になお<ruby><rb>薫物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>を多くしたり、化粧に時間を費やしたりして恋人を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>おうとしている源氏であるから、それを見ていて気の弱い女性はどんな心持ちがするであろうと<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>ぶまれた。さすがに出かけの声をかけに源氏は夫人の所へ来た。

「女五の宮様が御病気でいらっしゃるからお見舞いに行って来ます」

ちょっとすわってこう言う源氏のほうを、夫人は見ようともせずに姫君の相手をしていたが、不快な気持ちはよく見えた。

「始終このごろは<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>が悪いではありませんか、無理でないかもしれない。長くいっしょにいてはあなたに飽かれると思って、私は時々御所で<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>をしたりしてみるのが、それでまたあなたは不愉快になるのですね」

「ほんとうに長く同じであるものは悲しい目を見ます」

とだけ言って向こうを向いて寝てしまった女王を置いて出て行くことはつらいことに源氏は思いながらも、もう御訪問の<ruby><rb>報</rb><rt>しら</rt></ruby>せを宮に申し上げたのちであったから、やむをえず二条の院を出た。こんな日も自分の上にめぐってくるのを知らずに、源氏を信頼して暮らしてきたと寂しい気持ちに夫人はなっていた。喪服の<ruby><rb>鈍</rb><rt>にび</rt></ruby>色ではあるが濃淡の重なりの<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>な源氏の姿が雪の<ruby><rb>光</rb><rt>あかり</rt></ruby>でよく見えるのを、寝ながらのぞいていた夫人はこの姿を見ることも<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>な日になったらと思うと悲しかった。前駆も親しい者ばかりを選んであったが、

「参内する以外の外出はおっくうになった。桃園の<ruby><rb>女五</rb><rt>にょご</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>様は寂しいお一人ぼっちなのだからね、<ruby><rb>式部卿</rb><rt>しきぶきょう</rt></ruby>の宮がおいでになった間は私もお任せしてしまっていたが、今では私がたよりだとおっしゃるのでね、それもごもっともでお気の毒だから」

などと、前駆を勤める人たちにも言いわけらしく源氏は言っていたが、

「りっぱな方だけれど、恋愛をおやめにならない点が傷だね。御家庭がそれで済むまいと心配だ」

とそうした人たちも言っていた。

桃園のお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>は北側にある普通の人の出入りする門をはいるのは自重の足りないことに見られると思って、西の大門から人をやって案内を申し入れた。こんな天気になったから、先触れはあっても源氏は出かけて来ないであろうと宮は思っておいでになったのであるから、驚いて大門をおあけさせになるのであった。出て来た門番の侍が寒そうな姿で、背中がぞっとするというふうをして、門の扉をかたかたといわせているが、これ以外の侍はいないらしい。

「ひどく錠が<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びていてあきません」

とこぼすのを、源氏は身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>んで聞いていた。宮のお若いころ、自身の生まれたころを源氏が考えてみるとそれはもう三十年の昔になる、物の錆びたことによって人間の古くなったことも思われる。それを知りながら仮の世の執着が離れず、人に心の<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれることのやむ時がない自分であると源氏は恥じた。

いつのまに<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>がもとと結ぼほれ雪ふる里と荒れし<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>ぞ

源氏はこんなことを口ずさんでいた。やや長くかかって古い門の抵抗がやっと征服された。

源氏はまず宮のお居間のほうで例のように話していたが、昔話の取りとめもないようなのが長く続いて源氏は眠くなるばかりであった。宮もあくびをあそばして、

「私は<ruby><rb>宵惑</rb><rt>よいまど</rt></ruby>いなものですから、お話がもうできないのですよ」

とお言いになったかと思うと、<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>という源氏に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の少ない音が聞こえだしてきた。源氏は内心に喜びながら宮のお居間を辞して出ようとすると、また一人の老人らしい<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をしながら<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>ぎわに寄って来る人があった。

「もったいないことですが、ご存じのはずと思っておりますものの私の存在をとっくにお忘れになっていらっしゃるようでございますから、私のほうから、出てまいりました。院の陛下がお<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんとお言いになりました者でございますよ」

と言うので源氏は思い出した。<ruby><rb>源典侍</rb><rt>げんてんじ</rt></ruby>といわれていた人は尼になって女五の宮のお<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>分でお仕えしていると以前聞いたこともあるが、今まで生きていたとは思いがけないことであるとあきれてしまった。

「あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>せる旅人』と思ってください」

と言いながら、御簾のほうへからだを寄せる源氏に、<ruby><rb>典侍</rb><rt>ないしのすけ</rt></ruby>はいっそう昔が帰って来た気がして、今も好色女らしく、歯の少なくなった曲がった口もとも想像される声で、甘えかかろうとしていた。

「とうとうこんなになってしまったじゃありませんか」

などとおくめんなしに言う。今はじめて老衰にあったような口ぶりであるとおかしく源氏は思いながらも、一面では哀れなことに予期もせず触れた気もした。この女が若盛りのころの<ruby><rb>後宮</rb><rt>こうきゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>女御</rb><rt>にょご</rt></ruby>、<ruby><rb>更衣</rb><rt>こうい</rt></ruby>はどうなったかというと、みじめなふうになって生き長らえている人もあるであろうが大部分は故人である。入道の宮などのお年はどうであろう、この人の半分にも足らないでお<ruby><rb>崩</rb><rt>かく</rt></ruby>れになったではないか、はかないのが姿である人生であるからと源氏は思いながらも、人格がいいともいえない、ふしだらな女が長生きをして気楽に仏勤めをして暮らすようなことも<ruby><rb>不定</rb><rt>ふじょう</rt></ruby>と仏のお教えになったこの世の相であると、こんなふうに感じて、気分がしんみりとしてきたのを、典侍は自身の魅力の反映が源氏に現われてきたものと解して、若々しく言う。

年<ruby><rb>経</rb><rt>ふ</rt></ruby>れどこの契りこそ忘られね親の親とか言ひし一こと

源氏は<ruby><rb>悪感</rb><rt>おかん</rt></ruby>を覚えて、

「身を変へて<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>も待ち見よこの世にて親を忘るるためしありやと

頼もしい縁ですよ。そのうちにまた」

と言って立ってしまった。

西のほうはもう格子が<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>ろしてあったが、迷惑がるように思われてはと<ruby><rb>斟酌</rb><rt>しんしゃく</rt></ruby>して一間二間はそのままにしてあった。月が出て淡い雪の光といっしょになった夜の色が美しかった。今夜は真剣なふうに恋を訴える源氏であった。

「ただ一言、それは私を憎むということでも御自身のお口から聞かせてください。私はそれだけをしていただいただけで満足してあきらめようと思います」

熱情を見せてこう言うが、<ruby><rb>女王</rb><rt>にょおう</rt></ruby>は、自分も源氏もまだ若かった日、源氏が今日のような複雑な係累もなくて、どんなことも若さの<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>で済む時代にも、父宮などの希望された源氏との結婚問題を、自分はその気になれずに<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>んでしまった。ましてこんなに年が行って衰えた今になっては、一言でも直接にものを言ったりすることは恥ずかしくてできないとお思いになって、だれが勧めてもそうしようとされないのを、源氏は非常に恨めしく思った。さすがに冷淡にはお取り扱いにはならないで、人づてのお返辞はくださるというのであったから、源氏は<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>とするばかりであった。次第に夜がふけて、風の音もはげしくなる。心細さに落ちる涙をぬぐいながら源氏は言う。

「つれなさを昔に懲りぬ心こそ人のつらさに添へてつらけれ

『心づから』（恋しさも心づからのものなれば置き所なくもてぞ煩ふ）苦しみます」

「あまりにお気の毒でございますから」

と言って、女房らが女王に返歌をされるように勧めた。

「改めて何かは見えん人の上にかかりと聞きし心変はりを

私はそうしたふうに変わっていきません」

と女房が斎院のお言葉を伝えた。力の抜けた気がしながらも、言うべきことは言い残して帰って行く源氏は、自身がみじめに思われてならなかった。

「こんなことは愚かな男の例として<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>にもなりそうなことですから人には言わないでください。『いさや川』（<ruby><rb>犬上</rb><rt>いぬがみ</rt></ruby>のとこの山なるいさや川いさとこたへてわが名もらすな）などというのも恋の成り立った場合の歌で、ここへは引けませんね」

と言って源氏はなお女房たちに何事かを頼んで行った。

「もったいない気がしました。なぜああまで気強くなさるのでしょう。少し近くへお出ましになっても、まじめに求婚をしていらっしゃるだけですから、失礼なことなどの起こってくる気づかいはないでしょうのに、お気の毒な」

とあとで言う者もあった。斎院は源氏の価値をよく知っておいでになって愛をお感じにならないのではないが、好意を見せても源氏の<ruby><rb>外貌</rb><rt>がいぼう</rt></ruby>だけを愛している一般の女と同じに思われることはいやであると思っておいでになった。接近させて下にかくしたこの恋を源氏に看破されるのもつらく女王はお思いになるのである。友情で書かれた手紙には友情で<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いることにして、源氏が来れば人づてで話す程度のことにしたいとお思いになって、御自身は神に奉仕していた間怠っていた仏勤めを、取り返しうるほど十分にできる尼になりたいとも願っておいでになるのであるが、この際にわかにそうしたことをするのも源氏へ済まない、反抗的の行為であるとも必ず言われるであろうと、世間が作る<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>というものの苦しさを経験されたお心からお思いになった。女房たちが源氏に買収されてどんな行為をするかもしれぬという懸念から女王はその人たちに対してもお気をお許しにならなかった。そして追い追い宗教的な生活へ進んでお行きになるのであった。女王は男の兄弟も幾人か持っておいでになるのであるが同腹でなかったから親しんで来る者もない。宮家の財政も心細くなった際に、源氏が熱心な求婚者として出て来たのであるから、女たちは一人残らず結婚の成り立つことばかりを祈っていた。

源氏はあながちにあせって結婚がしたいのではなかったが、恋人の冷淡なのに負けてしまうのが残念でならなかった。今日の源氏は最上の運に恵まれてはいるが、昔よりはいろいろなことに経験を積んできていて、今さら恋愛に没頭することの不可なことも、世間から受ける批難も知っていながらしていることで、これが成功しなければいよいよ不名誉であると信じて、二条の院に寝ない夜も多くなったのを夫人は恨めしがっていた。悲しみをおさえる力も尽きることがあるわけである。源氏の前で涙のこぼれることもあった。

「なぜ<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>を悪くしているのですか、<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がわからない」

と言いながら、<ruby><rb>額髪</rb><rt>ひたいがみ</rt></ruby>を手で払ってやり、<ruby><rb>憐</rb><rt>あわれ</rt></ruby>んだ表情で夫人の顔を源氏がながめている様子などは、絵に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>きたいほど美しい夫婦と見えた。

「女院がお<ruby><rb>崩</rb><rt>かく</rt></ruby>れになってから、陛下が寂しそうにばかりしておいでになるのが心苦しいことだし、太政大臣が現在では欠けているのだから、政務は皆私が見なければならなくて、多忙なために<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰らない時の多いのを、あなたから言えば例のなかったことで、寂しく思うのももっともだけれど、ほんとうはもうあなたの不安がることは何もありませんよ。安心しておいでなさい。大人になったけれどまだ少女のように思いやりもできず、私を信じることもできない、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>なばかりのあなたなのだろう」

などと言いながら、優しく妻の髪を直したりして源氏はいるのであったが、夫人はいよいよ顔を向こうへやってしまって何も言わない。

「若々しい<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>をあなたがするのも私のつけた癖なのだ」

<ruby><rb>歎息</rb><rt>たんそく</rt></ruby>をして、短い人生に愛する人からこんなにまで恨まれているのも苦しいことであると源氏は思った。

「斎院との交際で何かあなたは疑っているのではないのですか。それはまったく恋愛などではないのですよ。自然わかってくるでしょうがね。昔からあの人はそんな気のないいっぷう変わった女性なのですよ。私の寂しい時などに手紙を書いてあげると、あちらはひまな方だから時々は返事をくださるのです。忠実に相手になってもくださらないと、そんなことをあなたにこぼすほどのことでもないから、いちいち話さないだけです。気がかりなことではないと思い直してください」

などと言って、源氏は終日夫人をなだめ暮らした。

雪のたくさん積もった上になお雪が降っていて、松と竹がおもしろく変わった個性を見せている夕暮れ時で、人の<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>もことさら光るように思われた。

「春がよくなったり、秋がよくなったり、始終人の好みの変わる中で、私は冬の澄んだ月が雪の上にさした無色の風景が身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>んで好きに思われる。そんな時にはこの世界のほかの大世界までが想像されてこれが人間の感じる極致の境だという気もするのに、すさまじいものに冬の月を言ったりする人の<ruby><rb>浅薄</rb><rt>あさはか</rt></ruby>さが思われる」

源氏はこんなことを言いながら<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>を巻き上げさせた。月光が明るく地に落ちてすべての世界が白く見える中に、植え込みの<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>類の押しつけられた形だけが哀れに見え、流れの音も<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び声になっている。池の氷のきらきら光るのもすごかった。源氏は童女を庭へおろして雪まろげをさせた。美しい姿、頭つきなどが月の光にいっそうよく見えて、やや大きな童女たちが、いろいろな<ruby><rb>袙</rb><rt>あこめ</rt></ruby>を着て、上着は脱いだ結び帯の略装で、もうずっと長くなっていて、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がった髪は雪の上で鮮明にきれいに見られるのであった。小さい童女は子供らしく喜んで走りまわるうちには扇を落としてしまったりしている。ますます大きくしようとしても、もう童女たちの力では雪の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>が動かされなくなっている。童女の半分は東の妻戸の外に集まって、自身たちの出て行けないのを残念がりながら、庭の連中のすることを見て笑っていた。

「昔<ruby><rb>中宮</rb><rt>ちゅうぐう</rt></ruby>がお庭に雪の山をお作らせになったことがある。だれもすることだけれど、その場合に非常にしっくりと合ったことをなさる方だった。どんな時にもあの方がおいでになったらと、残念に思われることが多い。私などに対して<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>を越えた御待遇はなさらなかったから、細かなことは拝見する機会もなかったが、さすがに尊敬している私を信用はしていてくだすった。私は何かのことがあると歌などを差し上げたが、文学的に見て優秀なお返事でないが、見識があるというよさはおありになって、お言いになることが皆深みのあるものだった。あれほど完全な<ruby><rb>貴女</rb><rt>きじょ</rt></ruby>がほかにもあるとは思われない。柔らかに弱々しくいらっしゃって、<ruby><rb>気高</rb><rt>けだか</rt></ruby>い品のよさがあの方のものだったのですからね。しかしあなただけは血縁の近い女性だけあってあの方によく似ている。少しあなたは<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>をする点だけが悪いかもしれないね。前斎院の性格はまたまったく変わっておいでになる。私の寂しい時に手紙などを書く交際相手で敬意の払われる、晴れがましい友人としてはあの方だけがまだ残っておいでになると言っていいでしょう」

と源氏が言った。

「<ruby><rb>尚侍</rb><rt>ないしのかみ</rt></ruby>は貴婦人の資格を十分に備えておいでになる、<ruby><rb>軽佻</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>な気などは少しもお見えにならないような方だのに、あんなことのあったのが、私は不思議でならない」

「そうですよ。<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>な美しい女の例には、今でもむろん引かねばならない人ですよ。そんなことを思うと自分のしたことで人をそこなった後悔が起こってきてならない。まして多情な生活をしては年が行ったあとでどんなに後悔することが多いだろう。人ほど軽率なことはしないでいる男だと思っていた私でさえこうだから」

源氏は尚侍の話をする時にも涙を少しこぼした。

「あなたが眼中にも置かないように<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>している山荘の女は、身分以上に貴婦人の資格というものを皆そろえて持った人ですがね、思い上がってますますよく見えるのも人によることですから、私はその点をその人によけいなもののようにも見ておりますがね。私はまだずっと下の階級に属する女性たちを知らないが、私の見た範囲でもすぐれた人はなかなかないものですよ。東の院に置いてある人の善良さは、若い時から今まで一貫しています。愛すべき人ですよ。ああはいかないものですよ。私たちは青春時代から信じ合った、そしてつつましい恋を続けてきたものです。今になって別れ別れになることなどはできませんよ。私は深く愛しています」

こんな話に夜はふけていった。月はいよいよ澄んで美しい。夫人が、

氷とぢ岩間の水は行き悩み空澄む月の影ぞ流るる

と言いながら、外を見るために少し傾けた顔が美しかった。髪の<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>、顔だちが恋しい故人の宮にそっくりな気がして、源氏はうれしかった。少し外に分けられていた心も取り返されるものと思われた。<ruby><rb>鴛鴦</rb><rt>おしどり</rt></ruby>の鳴いているのを聞いて、源氏は、

かきつめて昔恋しき雪もよに哀れを添ふる<ruby><rb>鴛鴦</rb><rt>をし</rt></ruby>のうきねか

と言っていた。

寝室にはいってからも源氏は中宮の御事を恋しく思いながら眠りについたのであったが、夢のようにでもなくほのかに宮の面影が見えた。非常にお恨めしいふうで、

「あんなに秘密を守るとお言いになりましたけれど、私たちのした<ruby><rb>過失</rb><rt>あやまち</rt></ruby>はもう知れてしまって、私は恥ずかしい思いと苦しい思いとをしています。あなたが恨めしく思われます」

とお言いになった。返辞を申し上げるつもりでたてた声が、夢に襲われた声であったから、夫人が、

「まあ、どうなさいました、そんなに」

と言ったので源氏は目がさめた。非常に残り惜しい気がして、張り裂けるほどの鼓動を感じる胸をおさえていると、涙も流れてきた。夢のまったく<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたのちでも源氏は泣くことをやめないのであった。夫人はどんな夢であったのであろうと思うと、自分だけが別物にされた寂しさを覚えて、じっとみじろぎもせずに寝ていた。

とけて寝ぬ寝<ruby><rb>覚</rb><rt>ざ</rt></ruby>めさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢のみじかさ

源氏の歌である。夢に死んだ恋人を見たことに心は慰まないで、かえって恋しさ悲しさのまさる気のする源氏は、早く起きてしまって、何とは表面に出さずに、<ruby><rb>誦経</rb><rt>ずきょう</rt></ruby>を寺へ頼んだ。苦しい目を見せるとお恨みになったのもきっとそういう気のあそばすことであろうと源氏に悟れるところがあった。仏勤めをなされたほかに民衆のためにも功徳を多くお行ないになった宮が、あの一つの過失のためにこの世での罪障が消滅し尽くさずにいるかと、深く考えてみればみるほど源氏は悲しくなった。自分はどんな苦行をしても寂しい世界に<ruby><rb>贖罪</rb><rt>しょくざい</rt></ruby>の苦しみをしておいでになる中宮の所へ行って、罪に代わっておあげすることがしたいと、こんなことをつくづくと思い暮らしていた。中宮のために仏事を自分の行なうことはどんな簡単なことであっても世間の疑いを受けることに違いない、<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby>の<ruby><rb>御心</rb><rt>みこころ</rt></ruby>の鬼に<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>し合わすことになってもよろしくないと源氏ははばかられて、ただ一人心で<ruby><rb>阿弥陀仏</rb><rt>あみだぶつ</rt></ruby>を念じ続けた。同じ<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>の上に生まれしめたまえと祈ったことであろう。

なき人を慕ふ心にまかせてもかげ見ぬ水の瀬にやまどはん

と思うと悲しかったそうである。

（訳注）　源氏の君三十二歳。