天の<ruby><rb>灝気</rb><rt>こうき</rt></ruby>の<ruby><rb>薄明</rb><rt>うすあかり</rt></ruby>に<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をしようとして、

命の脈が<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>新しく<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>に打っている。

こら。下界。お前はゆうべも職を<ruby><rb>曠</rb><rt>むなしゅ</rt></ruby>うしなかった。

そしてけさ<ruby><rb>疲</rb><rt>つかれ</rt></ruby>が直って、<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の足の下で息をしている。

もう快楽を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て己を取り巻きはじめる。

<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>えず最高の存在へと志ざして、

力強い決心を働かせているなあ。

ファウスト第二部

  


## 序曲

六月十日　Ｋ…村にて

<ruby><rb>御無沙汰</rb><rt>ごぶさた</rt></ruby>をいたしました。今月の初めから<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>は当地に<ruby><rb>滞在</rb><rt>たいざい</rt></ruby>しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった<ruby><rb>訣</rb><rt>わけ</rt></ruby>です。まだ<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も来ていないので、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。

しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで<ruby><rb>違</rb><rt>ちが</rt></ruby>うように思えます。あのときは<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキにすがるようにして、宿屋の裏の<ruby><rb>山径</rb><rt>やまみち</rt></ruby>などへ散歩に行くと、一日<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、そこいらを<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めている落葉の量が増える一方で、それらの落葉の間からはときどき無気味な色をした<ruby><rb>茸</rb><rt>きのこ</rt></ruby>がちらりと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていたり、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>はその上を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">赤腹</span>（あのなんだか人を<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしたような小鳥です）なんぞがいかにも横着そうに飛びまわっているきりで、ほとんど<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>は無いのですが、それでいて何だかそこら中に、人々の立去った<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>にいつまでも<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っている一種のにおいのようなもの、――ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ、それだけその季節の過ぎてからの何とも言えぬ<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>びしさのようなものが、いわば<ruby><rb>凋落</rb><rt>ちょうらく</rt></ruby>の感じのようなものが、僕自身が病後だったせいか、一層ひしひしと感じられてならなかったのですが、（――もっとも西洋人はまだかなり残っていたようです。ごく<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にそんな山径で行き<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いますと、なんだか<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>み上がりの僕の方を<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>くさそうに見て通り過ぎましたが、それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえってへんな佗びしさをつのらせました……）――そんな侘びしさがこの六月の高原にはまるで無いことが何よりも僕は好きです。どんな人気のない山径を歩いていても、一草一木ことごとく生き生きとして、もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかりだと言った感じがみなぎっています。<ruby><rb>山鶯</rb><rt>やまうぐいす</rt></ruby>だの、<ruby><rb>閑古鳥</rb><rt>かんこどり</rt></ruby>だのの元気よく<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>ることといったら！　すこし僕は考えごとがあるんだから<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>っていてくれないかなあ、と<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起したくなる位です。

西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby><ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されています。その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の上の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>を下ろし、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>などをふかしながら、ぼんやり二三時間考えごとをしたりします。たとえば、木の<ruby><rb>皮葺</rb><rt>かわぶ</rt></ruby>きのバンガロオ、雑草の<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>った庭、<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>（その花がいま丁度見事に<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>いています）のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>や<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の林、その林の向うに見えるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一<ruby><rb>篇</rb><rt>ぺん</rt></ruby>の小説を構想したりなんかしているんです。なかなか好い気持です。ただ、すこしぼんやりしていると、まだ生れたての小さな<ruby><rb>蚋</rb><rt>ぶよ</rt></ruby>が僕の足を<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>ったり、毛虫が僕の<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>に落ちて来たりするので閉口です。しかし、そういうものも僕には自然の僕に対する敵意のようなものとしては考えられません。むしろ自然が僕に対してうるさいほどの好意を持っているような気さえします。僕の足もとになど、よく小さな葉っぱが<ruby><rb>海苔巻</rb><rt>のりまき</rt></ruby>のように巻かれたまま落ちていますが、そのなかには<ruby><rb>芋虫</rb><rt>いもむし</rt></ruby>の幼虫が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。けれども、こんな海苔巻のようなものが夏になると、あの<ruby><rb>透明</rb><rt>とうめい</rt></ruby>な<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>をした<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>になるのかと想像すると、なんだか<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>らしい気もしないことはありません。

どこへ行っても<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>がまだ小さな<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い白い<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>をつけています。それの咲くのが待ち遠しくてなりません。これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせて、それからそれが散るころ、やっと<ruby><rb>避暑客</rb><rt>ひしょきゃく</rt></ruby>たちが入り<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでくることでしょう。こういう夏場だけ人の集まってくる高原の、その季節に先立って花をさかせ、そしてその美しい花を誰にも見られずに散って行ってしまうさまざまな花（たとえばこれから咲こうとする野薔薇もそうだし、どこへ行っても今を<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>りに咲いている<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>もそうですが）――そういう<ruby><rb>人馴</rb><rt>ひとな</rt></ruby>れない、いかにも野生の花らしい花を、これから僕ひとりきりで思う存分に<ruby><rb>愛玩</rb><rt>あいがん</rt></ruby>しようという気持は（<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>なら村の人々はいま夏場の用意に<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しくて、そんな花なぞを見てはいられませんから）何ともいえずに<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかで幸福です。どうぞ、都会にいたたまれないでこんな<ruby><rb>田舎暮</rb><rt>いなかぐ</rt></ruby>らしをするようなことになっている僕を不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。

あなた方は<ruby><rb>何時頃</rb><rt>いつごろ</rt></ruby>こちらへいらっしゃいますか？　僕はほとんど毎日のようにあなたの別荘の前を通ります。通りすがりにちょっとお庭へはいってあちらこちらを歩きまわることもあります。<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>はあんなに草深かったのに、すっかり見ちがえる位、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>になってしまいましたね。それに白い<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>などをおつくりになったりして。……何んだかあなたの別荘のお庭へはいっても、まるで<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の別荘の庭へはいっているような気がします。人に見つけられはしないかと、心臓がどきどきして来てなりません。どうしてこんな風にお変えになってしまったのか、本当におうらめしく思います。ただ、あなたと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>でよくお話したことのあるヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……

ああ、また、僕はなんだか悲しそうな様子をしてしまった。しかし、僕は本当はそんなに悲しくはないんですよ。だって僕は、あなた方さえ知らないような生の<ruby><rb>愉悦</rb><rt>ゆえつ</rt></ruby>を、こんな山の中で人知れず<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>っているんですもの。でも一体、何時ごろあなた方はこちらへいらっしゃるのかしら？　あなた方とはじめて知り合いになったこの土地で、あなた方ともう見知らない人同志のように顔を合せたりするのは、大へんつらいから、僕はあなた方のいらっしゃる前に、この村を出発しようかと思います。どうぞその日の来るまで僕にも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にいることを、そしてときどき誰も見ていないとき、あなたの別荘のお庭をぶらつくことをお許し下さい。

またしても、何と悲しそうな様子をするんだ！　もう、<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>します。しかし、もうすこし書かせて下さい。でも、何を書いたものかしら？　僕のいま起居しているのはこの宿屋の<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>の<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>れです。<ruby><rb>御存知</rb><rt>ごぞんじ</rt></ruby>でしょう？　あそこを一人で<ruby><rb>占領</rb><rt>せんりょう</rt></ruby>しています。<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>から見上げると、丁度、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の藤棚が真向うに見えます。さっきもいったように、その花がいま咲き切っているんです。が、もう盛りもすぎたと見え、今日あたりは、風もないのにぽたぽたと散りこぼれています。その花に群がる<ruby><rb>蜜蜂</rb><rt>みつばち</rt></ruby>といったら大したものです。ぶんぶんぶんぶん<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っています。この手紙を書きながら、ちょっと筆を休めて、何を書こうかなと思って、その藤の花を見上げながらぼんやりしていると、なんだか自分の頭の中の混乱と、その蜜蜂のうなりとが、ごっちゃになって、そのぶんぶんいっているのが自分の頭の中ではないかしら、とそんな気がしてくる位です。僕の机の上には、マダム・ド・ラファイエットの「クレエヴ<ruby><rb>公爵</rb><rt>こうしゃく</rt></ruby>夫人」が読みかけのまんま<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>をひらいています。はじめてこのフランスの古い小説をしみじみ読んでいますが、そのお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>でだいぶ僕も今日このごろの自分の<ruby><rb>妙</rb><rt>みょう</rt></ruby>に<ruby><rb>切迫</rb><rt>せっぱく</rt></ruby>した気持から救われているような気がしています。この小説についてはあなたに一番その読後感をお書きしたいし、また黙ってもいたい。二三年前、あなたに無理矢理にお読ませした、ラジイゲの「<ruby><rb>舞踏会</rb><rt>ぶとうかい</rt></ruby>」は、この小説をお手本にしたと言われている位ですから、まあ、あれに大へん似ています。しかし「舞踏会」のときは、まだあんなにこだわらずに、その本をお貸しが出来たけれど、そしてそれをお読みになってもあなたは何もおっしゃらなかったし、僕もそれについては何もお<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きしなかったが、それでも<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る気持はお<ruby><rb>互</rb><rt>たが</rt></ruby>いに通じ合っていたようでしたけれど、いま僕は、あの時のようにこだわらずに、この小説の読後感をあなたにお書きできるかしら？

第一、この手紙にしたって、筆をとりながら、果してあなたに出せるものやら、出せそうもないものやら、心の中では<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>っているのです。<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく出さずにしまうかも知れません。……こんなことを考え出したら、もうこの手紙を書き続ける気がしなくなりました。もう筆を置きます。出すか出さないか分りませんけれど、ともかくも<ruby><rb>左様</rb><rt>さよう</rt></ruby>なら。

  


## 美しい村　　或は　小<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>フウグ</rt></ruby>

或る小高い<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>の頂きにあるお<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり<ruby><rb>地肌</rb><rt>じはだ</rt></ruby>の見えないほど埋まっているやや急な<ruby><rb>山径</rb><rt>やまみち</rt></ruby>をガサガサと音させながら上って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>った葉の<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>り<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>がその靴のなかまで<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、<ruby><rb>雑木林</rb><rt>ぞうきばやし</rt></ruby>の中からその<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。そうしてその窓がすっかり<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>づけになっていて、その庭なんぞもすっかり<ruby><rb>荒</rb><rt>あ</rt></ruby>れ果て、いまにも<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れそうな木戸が半ば開かれたままになっているのを認めると、私は子供らしい<ruby><rb>好奇心</rb><rt>こうきしん</rt></ruby>で一ぱいになりながらその庭の中へずかずかと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。

そうして一めんに生い茂った雑草を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み分けて行くうちに、この家のこうした光景は、数年前、最後にこれを見た時とそれが少しも変っていないような気がした。が、それが私の奇妙な<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>であることを、やがて私のうちに<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来たその頃の<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>が<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>にさせた。今はこんなにも雑草が生い茂って<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど周囲の雑木林と区別がつかない位にまでなってしまっているこの庭も、その頃は、もっと庭らしく小綺麗になっていたことを、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く私は思い出したのである。そうしてつい今しがたの私の奇妙な錯覚は、その時から<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に経過してしまった数年の間、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しそれがそのままに<ruby><rb>打棄</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>られてあったならば、恐らくはこんな<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>にもなっているであろうに……という私の感じの方が、その当時の記憶が私に蘇るよりも先きに、私に到着したからにちがいなかった。しかし、私のそういう<ruby><rb>性急</rb><rt>せっかち</rt></ruby>な印象が必ずしも<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>ではなかったことを、まるでそれ自身裏書きでもするかのように、私のまわりには、この庭を一面に<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うて草木が生い茂るがままに生い茂っているのであった。

そこのヴェランダにはじめて立った私は、錯雑した<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の枝を透して、すぐ自分の眼下に、高原全帯が大きな円を<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>きながら、そしてここかしこに赤い屋根だの草屋根だのを散らばらせながら、<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっているのを見下ろすことが出来た。そうしてその高原の<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きるあたりから、<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>、他のいくつもの丘が私に直面しながら<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>やかに<ruby><rb>起伏</rb><rt>きふく</rt></ruby>していた。それらの丘のさらに向うには、遠くの中央アルプスらしい山脈が青空に<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>でつけたような線を引いていた。そしてそれが私のきざきざな地平線をなしているのだった。

夏<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>にこの高原に来ていた数年前のこと、これと殆どそっくりな<ruby><rb>眺望</rb><rt>ちょうぼう</rt></ruby>を楽しむために、私は<ruby><rb>屡</rb><rt>しばしば</rt></ruby>、ここからもう少し上方にあるお天狗様まで登りに来たのだけれど、その<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>毎に、この最後の家の前を通り過ぎながら、そこに毎夏のようにいつも同じ二人の<ruby><rb>老嬢</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>が住まっているのを何んとなく気づかわしげに見やっては、その二人暮らしに私はひそかに心をそそられたものだった。――だが、あれはひょっとすると私自身の悲しみを通してばかり見ていたせいかも知れないぞ？（と私は考えるのだった。）何故って、私がこの丘へ登りに来た時は、いつも私に何か悲しいことがあって、それを肉体の<ruby><rb>疲労</rb><rt>ひろう</rt></ruby>と取り<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>えたいためだったからな。<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>な<ruby><rb>名札</rb><rt>なふだ</rt></ruby>が立って、それには <em>MISS</em> のついた<ruby><rb>苗字</rb><rt>みょうじ</rt></ruby>が二つ書いてあったっけ。……そう、その一方が確か <em>MISS SEYMORE</em> という名前だったのを私は今でも覚えている。が、もう一方のは忘れた。そうしてその老嬢たちそのものも、その一方だけは、あの銀色の<ruby><rb>毛髪</rb><rt>もうはつ</rt></ruby>をして、何となく子供子供した顔をしていた方だけは、今でも私の眼にはっきりと<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>んでくるけれど、もう一方のはどうしても思い出せない。昔から自分の気に入った<ruby><rb>型</rb><rt>タイプ</rt></ruby>の人物にしか関心しようとしない自分の<ruby><rb>習癖</rb><rt>しゅうへき</rt></ruby>が、（この頃ではどうもそれが自分の作家としての大きな才能の<ruby><rb>欠陥</rb><rt>けっかん</rt></ruby>のように思われてならないのだけれど、）この老嬢たちにも<ruby><rb>知</rb><rt>し</rt></ruby>らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に働いていたものと見える。

……この数年間というもの、この高原、この私の少年時の幸福な思い出と言えばその殆んど全部が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に結びつけられているような高原から、私を引き離していた私の<ruby><rb>孤独</rb><rt>こどく</rt></ruby>な病院生活、その間に起ったさまざまな出来事、忘れがたい人々との心にもない<ruby><rb>別離</rb><rt>べつり</rt></ruby>、その間の私の完全な<ruby><rb>無為</rb><rt>むい</rt></ruby>。……そして、その長い間<ruby><rb>放擲</rb><rt>ほうてき</rt></ruby>していた私の仕事を再び取り上げるために、一人きりにはなりたいし、そうかと言ってあんまり知らない<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へなぞ行ったら淋しくてしようがあるまいからと言った、例の私の不決断な<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>から、この土地ならそのすべてのものが私にさまざまな思い出を語ってくれるだろうし、そして今時分ならまだ誰にも知った人には会わないだろうしと思って、こんな季節はずれの六月の月を選んで、この高原へわざわざ私はやって来たのであった。が、数日前にこの土地へ到着してから私の見聞きする、あたかも私のそういう長い不在を<ruby><rb>具象</rb><rt>ぐしょう</rt></ruby>するような、この高原に<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>けるさまざまな思いがけない変化、それにつけても<ruby><rb>今更</rb><rt>いまさら</rt></ruby>のように蘇って来る、この土地ではじめて知り合いになった或る女友達との最近の悲しい別離。……

そんな物思いに<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>りながら、私はぼんやり<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吹かしたまま、ほとんど私の真正面の丘の上に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている、西洋人が「<ruby><rb>巨人</rb><rt>きょじん</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>」という<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>をつけているところの大きな岩、それだけがあらゆる風化作用から<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れて昔からそっくりそのままに残っているかに見える、どっしりと落着いた岩を、いつまでも見まもっていた。

私はやがて再び<ruby><rb>枯葉</rb><rt>かれは</rt></ruby>をガサガサと音させながら、山径を村の方へと下りて行った。その山径に沿うて、<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>などの間にちらほらと見える<ruby><rb>幾</rb><rt>いく</rt></ruby>つかのバンガロオも大概はまだ同じような<ruby><rb>紅殻板</rb><rt>べにがらいた</rt></ruby>を釘づけにされたままだった。ときおり人夫等がその庭の中で草むしりをしていた。<ruby><rb>彼等</rb><rt>かれら</rt></ruby>の中には<ruby><rb>熊手</rb><rt>くまで</rt></ruby>を動かしていた手を休めて私の方を<ruby><rb>胡散臭</rb><rt>うさんくさ</rt></ruby>そうに見送る者もあった。私はそういう気づまりな視線から逃れるために何度も道もないようなところへ<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み込んだ。しかしそれは昔私の大好きだった水車場のほとりを目ざして進んでいた私の方向をどうにかこうにか誤らせないでいた。しかし<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで出ることは出られたが、数年前まで其処にごとごとと音立てながら<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていた古い水車はもう<ruby><rb>跡方</rb><rt>あとかた</rt></ruby>もなくなっていた。それよりももっと悲しい気持になって私の<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>したのは、その水車場近くの落葉松を背にした一つのヴィラだった。私の屡しば<ruby><rb>訪</rb><rt>おとず</rt></ruby>れたところのそのヴィラは、数年前に最後に私の見た時とはすっかり打って変っていた。以前はただ小さな<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の茂みで<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>どられていたその庭園は、今は白い柵できちんと<ruby><rb>区限</rb><rt>くぎ</rt></ruby>られていた。私はふと<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だか分らずにその<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかそうな柵をいじくろうとして手をさし<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>べたが、それにはちょっと<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れただけであった。そのとき私の帽子の上になんだか雨滴のようなものがぽたりと落ちて来たから。そこでその宙に浮いた手を私はそのまま帽子の上に持って行った。それは小さな<ruby><rb>桜</rb><rt>さくら</rt></ruby>の実であった。私がひょいと頭を持ち上げた途端に、そこには、丁度私の頭上に<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>を大きく<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げながら、それがあんまり高いので<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って私に気づかれずにいた、それだけが私にとっては昔<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の桜の老樹が見上げられた。

やがて向うの灌木の中から背の高い若い外国婦人が<ruby><rb>乳母車</rb><rt>うばぐるま</rt></ruby>を押しながら私の方へ近づいて来るのを私は認めた。私はちっともその人に見覚えがないように思った。私がその道ばたの大きな桜の木に身を寄せて道をあけていると、乳母車の中から<ruby><rb>亜麻色</rb><rt>あまいろ</rt></ruby>の毛髪をした女の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>が私の顔を見てにっこりとした。私もつい<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>り込まれて、にっこりとした。が、乳母車を押していたその若い母は私の方へは見向きもしないで、私の前を通り過ぎて行った。それを見送っているうち、ふとその<ruby><rb>鋭</rb><rt>するど</rt></ruby>い横顔から何んだか自分も見たことがあるらしいその女の若い<ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>だった頃の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしのように浮んで来そうになった。

私はその白い柵のあるヴィラを離れた。私の帽子の上に不意に落ちて来た桜の実が私のうちに形づくり、拡げかけていた悲しい感情の<ruby><rb>波紋</rb><rt>はもん</rt></ruby>を、今しがたの気づまりな<ruby><rb>出会</rb><rt>であい</rt></ruby>がすっかり<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き乱してしまったのを好い機会にして。

私は村はずれの宿屋に帰って来た。私がその宿屋に<ruby><rb>滞在</rb><rt>たいざい</rt></ruby>する度にいつも私にあてがわれる離れの一室。同じように黒ずんだ<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>、同じような<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>、その古い<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>の中にはいって来る同じような庭、同じような植込み、……ただそれらの植込みに私の知っている花や私の知らない花が<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がり咲いているのが私には<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れなかった。それはそれでまた私を<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びしがらせた。<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>から、風の吹くごとに私のところまでその花の<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>がして来た。その藤棚の下では村の子供たちが輪になって遊んでいた。私はその子供たちの中に昔よく遊んでやったことのある宿屋の子供がいるのを認めた。そのうちに<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の子供たちは去った。そしてその子供だけがまだ地面に<ruby><rb>跼</rb><rt>こご</rt></ruby>んだまま一人で何かして遊んでいた。私はその子の名前を呼んだ。その子はしかし私の方を<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り向こうともしなかった。それほど自分の遊びに<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>になっているように見えた。私がもう一度その名前を呼ぶと、やっとその子はうす<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れた顔を上げながら私に言った。「太郎ちゃんは<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にいるか知らないよ」――私はその時初めてその小さな子供は私の呼んだ男の子の弟であるのに気がついたのだ。しかし何という同じような顔、同じような<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>、同じような声。……<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくしてから「次郎！　次郎！」と呼びながら、一人の、ずっと大きな、見知らない男の子が庭へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来るのを私は見た。ようやく私になついて私の方へ近づいて来そうになったその小さな弟は、それを聞くと急いでその方へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて行ってしまった。私の方では、その大きな見知らないような男の子が昔私と遊んだことのある子供であるのを<ruby><rb>漸</rb><rt>や</rt></ruby>っと認め出していた。しかし、その生意気ざかりの男の子は小さな弟を連れ去りながら、私の方をば振り向こうともしなかった。

⁂

私は毎日のように、そのどんな<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>までもよく知っている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だった村のさまざまな方へ散歩をしに行った。しかし何処へ行っても、何物かが<ruby><rb>附加</rb><rt>つけくわ</rt></ruby>えられ、何物かが欠けているように私には見えた。その<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>、どの道の上でも、私の見たことのない新しい別荘の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に、一むれの灌木が、私の忘れていた少年時の一部分のように、私を待ち<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>せていた。そうしてそれらの一むれの灌木そっくりにこんがらかったまま、それらの少年時の<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しい思い出も、悲しい思い出も私に蘇って来るのだった。私はそれらの思い出に、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は胸をしめつけられたり、或は胸をふくらませたりしながら歩いていた。私は<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>立ち止まる。自分があんまり村の遠くまで来すぎてしまっているのに気がついて。――そんなみちみち私の<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>うのは、ごく<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>には散歩中の西洋人たちもいたが、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>、枯枝を<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>ってくる老人だとか<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>とりの帰りらしい<ruby><rb>籃</rb><rt>かご</rt></ruby>を<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>にぶらさげた娘たちばかりだった。それ等のものはしかし、私にとってはその村の風景のなかに完全に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>り込んで見えるので、少しも私のそういう思い出を<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>しなかった。もっとも時たま、或る時は私があんまり子供らしい思い出し笑いをしているのを見て、すれちがいざまいきなり私に声をかけて私を<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かせたり、又或る時は向うから私に<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みかけようとして私の悲しげな顔を見てそれを途中で<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまうようなこともあるにはあったが……。

そんな風に思い出に導かれるままに、村をそんな遠くの方まで知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず歩いて来てしまった私は、今更のように自分も健康になったものだなあ、と思った。私はそういう長い散歩によって一層生き生きした呼吸をしている自分自身を見出した。それにこの土地に滞在してからまだ一週間かそこいらにしかならないけれど、この高原の初夏の気候が早くも私の肉体の上にも精神の上にも或る<ruby><rb>影響</rb><rt>えいきょう</rt></ruby>を<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>え出していることは<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>めなかった。夏はもう何処にでも見つけられるが、それでいてまだ何処という<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もないでいると言ったような自然の中を、こうしてさ迷いながら、あちこちの灌木の枝には注意さえすれば無数の<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>が認められ、それ等はやがて<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>き出すだろうが、しかしそれ等は真夏の<ruby><rb>季節</rb><rt>シイズン</rt></ruby>の来ない前に散ってしまうような種類の花ばかりなので、それ等の咲き<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>うのを楽しむのは私<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>だけであろうと言う想像なんかをしていると、それはこんな<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい<ruby><rb>田舎暮</rb><rt>いなかぐら</rt></ruby>しのような高価な<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>を<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>うだけの<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>は十分にあると言っていいほどな、人知れぬ<ruby><rb>悦楽</rb><rt>えつらく</rt></ruby>のように思われてくるのだった。そうして私はいつしか「<ruby><rb>田園交響曲</rb><rt>でんえんこうきょうきょく</rt></ruby>」の第一楽章が人々に与える<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い感動に似たもので心を一ぱいにさせていた。そうして都会にいた<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>の私はあんまり自分のぼんやりした不幸を<ruby><rb>誇張</rb><rt>こちょう</rt></ruby>し過ぎて考えていたのではないかと疑い出したほどだった。こんなことなら何もあんなにまで苦しまなくともよかったのだと私は思いもした。そうして最近私を苦しめていた<ruby><rb>恋愛</rb><rt>れんあい</rt></ruby>事件をそっくりそのままに書いてみたら、その苦しみそのものにも気に入るだろうし、私にはまだよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らずにいる相手の気持もいくらか<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しはしないかと思って、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってそういう私自身の不幸をあてにして仕事をしに来た私は、ために<ruby><rb>困惑</rb><rt>こんわく</rt></ruby>したほどであった。私はてんでもうそんなものを取り上げてみようという気持すらなくなってしまったのだ。で、私は仕事の方はそのまま<ruby><rb>打棄</rb><rt>うっちゃ</rt></ruby>らかして、毎日のように散歩ばかりしていた。そうして私は私の散歩区域を<ruby><rb>日毎</rb><rt>ひごと</rt></ruby>に拡げて行った。

或る日私がそんな散歩から帰って来ると、<ruby><rb>庭掃除</rb><rt>にわそうじ</rt></ruby>をしていた宿の<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>やに呼び止められた。

「細木さんはいつ頃こちらへお見えになります？」

「さあ、<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>、知らないけれど……」

それは私が何日頃この地を出発するかを聞いたのと同じことであるのに爺やは気づきようがなかったのだ。

「去年お帰りになるとき」と爺やは思い出したように言った。「庭へ<ruby><rb>羊歯</rb><rt>しだ</rt></ruby>を植えて置くようにと言われたんですが、何処へ植えろとおっしゃったんだか、すっかり忘れてしまいましたもんで……」

「羊歯をね」私は<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>がえしに言った。それから私は例の白い<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>に取り囲まれたヴィラを頭に浮べながら、「あの白い柵はいつ出来たの？」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「あれですか……あれは一昨年でした」

「一昨年ね……」

私はそれっきり<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>っていた。爺やのいじくっている植木の一つへ目をやりながら。それからやっとそれに白い花らしいものの咲いているのに気がつきながら訊いた。

「それは何の花だい？」

「これはシャクナゲです」

「シャクナゲ？　ふうん、そう言えば、じいやさん、このへんの<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>はいつごろ咲くの？」

「今月の末から、まあ、来月の初めにかけてでしょうな」

「そうかい、まだ大ぶあるんだね。――一体、どのへんが多いんだい？」

「さあ……あのレエノルズさんの病院の向うなんか……」

「ああ、じゃ、あそこかな、あの絵葉書にあった<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は。……」

その翌朝は、<ruby><rb>霧</rb><rt>きり</rt></ruby>がひどく巻いていた。私はレエンコートをひっかけて、まだ釘づけにされている教会の前を通り、その裏の<ruby><rb>橡</rb><rt>とち</rt></ruby>の林の中を横切って行った。その林を突き抜けると、道は大きく曲りながら一つの小さな流れに沿うて行った。しかしその朝はその流れは霧のためにちっとも見えなかった。そしてただ、せせらぎの音ばかりが絶えず聞えていた。私はやがて小さな木橋を渡った。それからその<ruby><rb>土手道</rb><rt>どてみち</rt></ruby>は、こんどは今までとは反対の側を、その流れに沿うて行くのであった。さて、その土手道へ差しかかろうとした途端、私はふと立ち止まった。私の行く手に何者かが異様な<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>でうずくまっているのが<ruby><rb>仄見</rb><rt>ほのみ</rt></ruby>えたので。その異様なものは、霧のなかで私自身から円光のように発しているかに見える、私を中心にして描いた円状の<ruby><rb>薄明</rb><rt>うすあか</rt></ruby>りの、丁度その円周の上にうずくまっているのだった。しかし霧は絶えず流れているので、<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る時は一層<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>いのが来てその<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>をほとんど見えなくさせるが、やがてそれが薄らいで行くにつれてその人影も次第にはっきりしてくる。漸っとそれが<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>の下で、或る小さな<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の上に気づかわしげに身を<ruby><rb>跼</rb><rt>こご</rt></ruby>めている、西洋人らしいことが私には分かり出した。もっと霧が薄らいだとき、私はその人の見まもっているのが私の見たいと思っていた野薔薇の木らしいことまで分かった。向うでは私のことに気づかないらしかった。そのため、<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>にも見られていないと信じながら何かに夢中になっている時、ややもすると、あとでそれを思い出そうとしても思い出せないような変にむつかしい姿勢をしていることがあるものだが、私の行く手を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいるその人も<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らくそんな時の姿勢をしているのにちがいなかった。……気がついて見ると私のすぐ<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らにもあった野薔薇の木を、それが私の見たいと思っている野薔薇の木のほんのデッサンでしかないように見やりながら、私はそのままじっと<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。――やっとその人影は身を起し、蝙蝠傘をちょっと持ちかえてから歩き出した。そうしてずんずん霧のなかに<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼや</rt></ruby>けて行った。

私も歩き出しながら、やっとその野薔薇の小さな<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みの前に達した。そうして今しがたその人のしていたような<ruby><rb>難</rb><rt>むつか</rt></ruby>しい姿勢を<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ながら、その上に身を<ruby><rb>跼</rb><rt>こご</rt></ruby>めてみた。そうすればその人の心の状態までが<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かされでもするかのように。その小さな茂みはまだ<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>い小さな<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を一ぱいにつけながら、何か私に<ruby><rb>訴</rb><rt>うった</rt></ruby>えでもしたいような眼つきで私を見上げた。私は知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にそれらの莟を根気よく数えたり、そっと持ち上げてみたりしている自分自身に気がついた。ふとさっきの人のしていた異様な手つきがまざまざと<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>った。そうしてその小さな茂みがマイ・ミクスチュアらしい<ruby><rb>香</rb><rt>かお</rt></ruby>りを<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>わせているのに気がついたのもそれと<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど同時だった。<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>った空気のために<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までもそのこんがらかった枝にからみついて消えずにいるその香りは、まるでその小さな茂みそのものから発せられているかのように思われた。――私はいつもパイプを口から<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。そう言えば、さっきから向うの方に霧のために見えたり<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>れたりしている赤茶けたものは、そのサナトリウムの建物らしかった。

私は再び霧のなかの道を、<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しいような薄光りに包まれながら、いくら歩いてもちっとも自分の体が進まないようなもどかしさを感じながら、あてもなく歩き続けていた。私の心はさっき霧の中から私を訴えるような眼つきで見上げた野薔薇のことで<ruby><rb>一杯</rb><rt>いっぱい</rt></ruby>になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽ見もしなかったけれど、今度こそ、私もそれらの花に対して私のありったけの誠実を示すことの出来る機会の来つつあることを心から喜んでいた。そしてそのための私の<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばしさと言ったら、<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>の詩人等が野薔薇のために歌った詩句を、口ずさむなんと言うのではなく、それを知っているだけ残らず大きな声で<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>り散らしたいような<ruby><rb>衝動</rb><rt>しょうどう</rt></ruby>にまで、私を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>り立てるのであった。

⁂

私の書こうとしていた小説の主題は、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くその日その日を楽しむことが出来るようになったこんな<ruby><rb>田舎暮</rb><rt>いなかぐら</rt></ruby>しの中では、いよいよ無意味なものに思われて来た。それに、そんなものを書くことは、自分で自分を一層どうしようもない<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>に<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>し入れるようなものであることにも気がついたのだ。「アドルフ」の例が考えられた。ああいうものにまで私は自分の小さな出来事を引き<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げたかったのだ。弱気でしかも<ruby><rb>自我</rb><rt>じが</rt></ruby>の強いために自分自身も不幸になり、他人をも不幸にさせたところのアドルフの運命は<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>、私の運命さながらに思えたからだ。しかし、「アドルフ」の作者ほど、そういう弱々しい性格（恐らくそれは彼自身のであろうけれど）に対するはげしい<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>も持っていない、むしろそういう自分自身を<ruby><rb>甘</rb><rt>あま</rt></ruby>やかすことしか出来そうもない私がそんな小説の真似なんかしようものなら、それによって<ruby><rb>更</rb><rt>さら</rt></ruby>にもう一層自分自身をも、又他人をも不幸にするばかりであることが、わかり過ぎるくらい私にはわかって来たのだ。……こういうような考え方は、私の暗い半身にはすこし気に入らないようだったけれども、この頃のこんな田舎暮しのお<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>で、そう言った私の暗い半身は、もう一方の私の明るい半身に<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>に打負かされて行きつつあったのだ。

そうして今の私がそれならば書いてもみたいと思うものは、たとえどんなに<ruby><rb>平凡</rb><rt>へいぼん</rt></ruby>なものでもいいから、これから私の暮らそうとしているようなこんな季節はずれの田舎の、人っ子ひとりいない、しかし花だらけの<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>の中へすっぽりと<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まり込むような、古い絵のような物語であった。私は何とかしてそんな言わば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">牧歌的なもの</span>が書きたかった。私はこれまでも他人の書いたそういう作品を<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>好きでもあり、そういう出来事に<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>ったということでその人を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましくも思って来たが、私自身でそう言うものを書いてみようとも、又、書けそうにも思えなかった。が、それだけ一層、今の私はそういう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">牧歌的なもの</span>を書いてみたいと思い立ったのである。――私はしかし、それを書くためには、いま自分の暮らしつつあるこの村を背景にするよりほかはなく、と言って<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>や二月ぐらいの滞在中にそういう出来事が果して私の身辺に起り<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>るものかどうか疑わしかった。<ruby><rb>莫迦莫迦</rb><rt>ばかばか</rt></ruby>しいことだが、私は何度も林の中の空地で<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>に待ち<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>せたものだった。男の子のように美しい田舎の娘がその林の中からひょっこり私の前に飛び出して来はしないかと。……そんな<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しい努力の後、やっと私の頭に<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>んだのは、あのお<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>様のいる<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>のほとんど頂近くにある、あの<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられた、古いヴィラであった。あのヴィラを背景にして、そこに毎夏を暮らしていた二人の<ruby><rb>老嬢</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>のいかにも心もとなげな存在を自分の空想で補いながら書いて行く――それなら何んだか自分にもちょっと書けそうな気がした。この間その家の<ruby><rb>荒廃</rb><rt>こうはい</rt></ruby>した庭のなかへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>り<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んで<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から一時間ばかり<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた高原の美しい<ruby><rb>鳥瞰図</rb><rt>ちょうかんず</rt></ruby>だの、一かどのニイチェアンだった学生の時分からうろおぼえに覚えていた <em>zweisam</em> という、いかにもその老嬢たちに似つかわしいドイツ語だのを、ひょっくりと思い浮べながら……。

或る夕方、私は再びそのヴィラまで<ruby><rb>枯葉</rb><rt>かれは</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まった<ruby><rb>山径</rb><rt>やまみち</rt></ruby>を上って行った。庭の木戸は私がそうして置いたままに半ば開かれていた。私の捨てた<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>吸殻</rb><rt>すいがら</rt></ruby>がヴェランダの<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>のように落ちていた。私は日の暮れるまで、其処から林だの、赤い屋根だの、丘だの、それから真正面に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている「<ruby><rb>巨人</rb><rt>きょじん</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>」だのを、一々暗記してしまうほど熱心に見つめていた。……ときどき、こんな夕暮れ時に、二人のうちの私のよく覚えている方の神々しいような<ruby><rb>白髪</rb><rt>はくはつ</rt></ruby>の老婦人が、このヴェランダの、そう、丁度私の<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っているこの場所に<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>を下ろしたまま、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのじょ</rt></ruby>のとうに死んでいる友人と話し合ってでもいると言ったような、<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしがまざまざと蘇ってくる……と思うと、一<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>それがきらきらと少女の眼ざしのようにかがやく……家の中からは<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしている、もう一方の婦人の立てる<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>の音が聞えて来る……彼女はふと十字を切ろうとするように手を動かしかけるが、それはほんの<ruby><rb>下描</rb><rt>したが</rt></ruby>きで終ってしまう……彼女にだけは一種の言語をもっていそうな気のする「巨人の椅子」……そんな一方の老嬢のさまざまな姿だけは、私が実際にそれらを見て、そして無意識の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にそれらを<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>していたのではないかと思えるくらい、まざまざと蘇って来るが、――もう一人の老嬢の方は、いつまでも皿の音ばかりさせていて、容易に私の物語の中には登場して来ようとはしない。私はどうしても彼女の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を蘇らすことが出来ないのである。……

そんな或る午後、私のあてもなくさまよっていた眼ざしが、急に注意深くなって、私の丁度<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>にある夕日のあたっている赤い屋根の上にとまった。何か黒い小さなものがその屋根の頂きからころころと転がって来ては、<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>のところから急に小石のように<ruby><rb>墜落</rb><rt>ついらく</rt></ruby>して行くのだった。しばらく間を置いては又それをやっている。私は何だろうと思って、眼を細くしながら見まもっていた。そうしてそれ等が二羽の小鳥であるのを認めた。それ等が<ruby><rb>交尾</rb><rt>こうび</rt></ruby>をしながら、庇のところまで<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に転がって来ては、そこから墜落すると同時に、さあと<ruby><rb>二叉</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>に飛びわかれているのだった。同じ小鳥たちなのか、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の小鳥たちなのか分らないが、それが何回となく<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り返されている。――これは私の物語の中にとり入れてもいいぞ、と思いながら私はそれを<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>かずに見まもっている。――こんな風にして、自分の見つつあるものが自分の構想しつつある物語の中へそのままエピソオドとして<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>け込んで来ながら、自分からともすると<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げて行ってしまいそうになる物語の主題を少しずつ発展させているように見える……。

アカシアの花が私の物語の中にはいって来たのもそんな風であった。それの咲き出す頃が丁度私の田舎暮しもそのクライマックスに達するのではないかというような予覚のする、例の<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>の<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>の大きさや数を調べながら、あのサナトリウムの裏の<ruby><rb>生墻</rb><rt>いけがき</rt></ruby>の前は<ruby><rb>何遍</rb><rt>なんべん</rt></ruby>も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>どりだしているアカシアの<ruby><rb>並木</rb><rt>なみき</rt></ruby>には、ついぞ注意をしたことがなかった。ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>がひどく<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もと変っているように見えた。私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に<ruby><rb>戸惑</rb><rt>とまど</rt></ruby>いした。私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。あのかよわそうな<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>ぶりや、<ruby><rb>繊細</rb><rt>せんさい</rt></ruby>な<ruby><rb>楕円形</rb><rt>だえんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>軟</rb><rt>やわら</rt></ruby>かな葉などからして私の無意識の裡に想像していた花と、それらが似てもつかない花だったからであったかも知れない。そしてそれらの花を見たばかりの時は、誰かが<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いらずら</rt></ruby>をして、その枝々に<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい小さな真っ白な<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>のようなものをぶらさげたのではないかと言うような、いかにも<ruby><rb>唐突</rb><rt>とうとつ</rt></ruby>な印象を受けたのだった。やっとそれらがアカシアの花であることを知った私は、その日はその小径をずっと先きの方まで行ってみることにした。アカシアの木立の多くは、どうかするとその花の<ruby><rb>穂先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>が私の<ruby><rb>帽子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>とすれすれになる位にまで低くそれらの花をぷんぷん<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>わせながら垂らしていたが、中にはまだその木立が私の背ぐらいしかなくって、それが殆ど折れそうなくらいに<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>いながら自分の花を持ち<ruby><rb>耐</rb><rt>た</rt></ruby>えている<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>などを通り過ぎる時は、私は何んだか切ないような気持にすらなった。アカシアの並木は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで行っても<ruby><rb>尽</rb><rt>つ</rt></ruby>きないように見えた。私はとうとう或る大きなアカシアを<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>んでその前に立ち止まった。私は何とかしてこれらのアカシアの花が私に与えたさっきの唐突な印象を私自身の言葉に<ruby><rb>翻訳</rb><rt>ほんやく</rt></ruby>して置きたいと思ったのだ。それらの花のまわりには無数の<ruby><rb>蜜蜂</rb><rt>みつばち</rt></ruby>がむらがり、ぶんぶん<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>り声を立てていた。しかしそれらの蜜蜂は空気のなかで何処で唸っているともつかなかったし、それに私はさっきから自分の印象をまとめようとしてそれにばかり<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>になっていたので、そんな唸り声にふと気づく<ruby><rb>度毎</rb><rt>たびごと</rt></ruby>に、何んだか私自身の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>ずのう</rt></ruby>がひどい混乱のあまりそんな<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に唸り出しているのではないかと言うような気もされた。……

⁂

その村の東北に一つの<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>があった。

その旧道には<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>や<ruby><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>などが暗いほど<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>と茂っていた。そうしてそれらの古い幹には<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>山葡萄</rb><rt>やまぶどう</rt></ruby>だの、<ruby><rb>通草</rb><rt>あけび</rt></ruby>だのの<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>が実にややこしい方法で<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まりながら<ruby><rb>蔓延</rb><rt>まんえん</rt></ruby>していた。私が最初そんな蔓草に注意し出したのは、藤の花が思いがけない樅の枝からぶらさがっているのにびっくりして、それからやっとその樅に絡みついている藤づるを認めてからであった。そう言えば、そんなような藤づるの多いことったら！　それらの藤づるに絡みつかれている樅の木が前よりも大きくなったので、その<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>な蔓がすっかり<ruby><rb>木肌</rb><rt>きはだ</rt></ruby>にめり込んで、いかにもそれを苦しそうに身もだえさせているのなどを見つめていると、私は無気味になって来てならない位だった。――或る朝、私は例の気まぐれから峠まで登った帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、その峠の上にある小さな部落の子供<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>二人と道づれになって降りて来たことがあった。その折のこと、その子供たちはいろいろな木に絡まっている、もっと他の山葡萄だの、通草だのをも私に教えてくれたのだった。子供たちは秋になるとそれ等の実を採りに来るので、それ等のある場所を殆んど暗記していた。それからまた小鳥の<ruby><rb>巣</rb><rt>す</rt></ruby>のある場所を私に教えてくれたりした。彼等は峠で<ruby><rb>力餅</rb><rt>ちからもち</rt></ruby>などを売っている家の子供たちであった。大きい方の子は十一二で、小さい方の子は七つぐらいだった。三人兄弟なのだが、その真ん中の子が村の小学校からまだ帰らぬので峠の下まで<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>えに行くのだと言っていた。

子供たちは何を見つけたのか急に私を離れて、林のなかへ、下生えを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き分けながら駈けこんでいった。そうして一本のやや大きな<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の下に立ち止まると、手を<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>ばしてその枝から赤い実を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>ぎとっては<ruby><rb>頬張</rb><rt>ほおば</rt></ruby>っていた。それは何の実だと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いたら、「<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>だ」と彼等は返事をした。そうして彼等はときどき私の方をふり向いて手招きをしたが、私が下生えに<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>をされてなかなか其処まで行くことが出来ずにいると、大きい方の子がその実を少しばかり私のために持って来てくれた。私は子供たちの<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしてそれを一つずつこわごわ口に入れてみた。なんだか<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱかった。私はしかしそれをみんな<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>をして<ruby><rb>嚥</rb><rt>の</rt></ruby>み込んだ。そうして子供たちが低い枝にあった実をすっかり食べつくしてしまうと、今度は高くて容易に手の届きそうもない枝をしきりに<ruby><rb>手</rb><rt>た</rt></ruby>ぐろうとしては失敗しているのを、私は根気よく、むしろ<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>いものでも見ているように見入っていた。

子供たちはまた林の中のいろいろな<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け道を私に教えてくれようとした。そうして急な草深い<ruby><rb>斜面</rb><rt>しゃめん</rt></ruby>をずんずん駈け下りて行った。私はそのあとから危かしそうな足つきでついて行った。ほとんど何処からも日の<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>し込んで来ないくらい、木立が密生して枝と枝との入りまじっているところもあった。かと思うと急に私たちの目の前が<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けて、ちょっとの間何も見えなくなるくらい明るい林のなかの空地があったりした。私たちがそういう林の中の空地の一つへ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いた時、<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>、一つの小石が<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からともなく飛んで来て私たちの<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>に落ちた。その飛んで来たらしい方を私たちがまぶしそうに<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り向いた<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>、数本の<ruby><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>を背にしながら、ほとんど垂直なほど急な<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の<ruby><rb>藁屋根</rb><rt>わらやね</rt></ruby>をもった、窓もなんにもないような異様な小屋の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>へ、小さな黒い<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>が隠れるのを私たちは認めた。それを知っても、しかし、私の小さな<ruby><rb>同伴者</rb><rt>どうはんしゃ</rt></ruby>たちは何も<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ろうとせず、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って私に向って何かその<ruby><rb>言訣</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>でもしたいような、そしてそれを私に言い出したものかどうかと<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>っているような、複雑な表情をして私の方を見上げているので、私は<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>そうに、

「あの子は<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>なのかい？」と訊いた。

子供たちは顔を見合わせていた。それから大きい方の子が<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で私に答えた。

「そうじゃないよ。――あれあ気ちがいの<ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>だ」

「ふん、それであんな変な家にいるんだね？」

「あれあ<ruby><rb>氷倉</rb><rt>こおりぐら</rt></ruby>だ。――あの向うの家だ」

しかしその氷倉だという異様な<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をした藁小屋に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえ</rt></ruby>ぎられて、その家らしいものの一部分すら見えないところを見ると、<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく小さな<ruby><rb>掘立</rb><rt>ほったて</rt></ruby>小屋かなんかに<ruby><rb>違</rb><rt>ちが</rt></ruby>いなかった。

「気ちがいっておとっつぁんがかい？」

「……」兄も弟も同時に頭を振った。

「じゃ、おっかさんの方だね？」

「うん……」そう答えてから、兄は弟の方を見い見い<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>に言うともなく言った。「ときどき川んなかで<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>っているなあ」

「おれも一度向うの川で見た」弟の返事である。

「向うって何処だ？」

「向うの方だ」弟は何んだか自信のなさそうな、いまにも泣き出しそうな顔をして、<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>と<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る方向を私に指して見せた。

「そうか」私はわかったような振りをした。「……おとっつあんは何をしているんだ？」

「<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこ</rt></ruby>りだなあ」とこんどはまた兄が弟の方を見い見い言った。

「変なとっつあんだ」弟は顔をしかめながらそれに答えた。

氷倉の蔭から、再びちらりと小娘らしい顔が出たようだったけれど、私たちの方からは丁度逆光線だったので、よくもそれを見分けないうちに、その顔はすぐ引っ込んでしまった。それっきりその小娘は顔を出さなかった。ただ私たちはそれから間もなく異様な<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>びを耳にした。それはその小娘が私たちを罵ったのか、それとも私たちには見えぬ小屋の中からその小娘に向ってそれが叫ばれたのか、それとも<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>、その裏の林のなかで<ruby><rb>山鳩</rb><rt>やまばと</rt></ruby>でも<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いたのだろうか？　ともかくも、その<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れぬアクセントだけが<ruby><rb>妙</rb><rt>みょう</rt></ruby>に私の耳にこびりついた。――が、私たちは無言のまま、ただちょっと足を早めながら、その空地を横切って行った。私たちはそれから再び林の中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った。その中へ這入ると急に<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>くなったようだけれど、私たちの眼底にはいまの空地の明るさがこびりついているせいか、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく私たちの周りには一種異様な薄明りが<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っているように見えた。そんな林の中をずんずん先きになって<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け下りて行く子供たちの<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>について行きながら、彼等がいまだに何となく<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>しているらしいのを、私は漠然と感じていた。そうして、こんな風に彼等と一緒に峠を下りて行く私は一体彼等にはどんな人間に見えているのだろう？　とそういう現在の私自身にも興味を持ったりした。

峠を下り切ったところに<ruby><rb>架</rb><rt>かか</rt></ruby>っている白い橋の上に、小さな男の子が一人、<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>ったまま、しょんぼりと立っていた。私の連れ立っている子供たちがその男の子に同時に声をかけた。彼等を見るとその男の子はにっこりと<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>した。が、私にも気がつくと、人見知りでもするかのように、橋の下の<ruby><rb>渓流</rb><rt>けいりゅう</rt></ruby>の方へその小さな顔をそむけた。私も私で、しばらくその渓流をぼんやり見下ろしていた。さっき林のなかの空地で子供の<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>が漠然と指したそのずっと上流にあたる方を心のうちに<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>きながら。それから私は三人の子供たちに<ruby><rb>小銭</rb><rt>こぜに</rt></ruby>をすこし<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>えて、彼等と別れた。

⁂

雨が降り出した。そうしてそれは降り続いた。とうとう<ruby><rb>梅雨期</rb><rt>ばいうき</rt></ruby>に入ったのだった。そんな雨がちょっと<ruby><rb>小止</rb><rt>おや</rt></ruby>みになり、峠の方が薄明るくなって、そのまま晴れ上るかと思うと、峠の向側からやっと<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い上って来たように見える<ruby><rb>濃霧</rb><rt>のうむ</rt></ruby>が、峠の上方一面にかぶさり、やがてその霧がさあと一気に駈け下りて来て、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち村全帯の上に<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がるのであった。どうかすると、そういう霧がずんずん薄らいで行って、雲の割れ目から<ruby><rb>菫色</rb><rt>すみれいろ</rt></ruby>の空がちらりと見えるようなこともあったが、それはほんの一瞬間きりで、霧はまた次第に<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>くなって、それが<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか<ruby><rb>小雨</rb><rt>こさめ</rt></ruby>に変ってしまっていた。

私はその暗い雲の割れ目からちらりと見える、何とも言えずに<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な、その菫色がたまらなく好きであった。そうしてそれは、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど日課のようにしていた長い散歩が雨のために出来なくなっている私にとっては、たとえ一瞬間にもしろそれが見られたら、それだけでもその日の<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>が<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>われたようにさえ思われた<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>であった。――「おまえの<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわ</rt></ruby>いい眼の菫、か……」そんなうろおぼえのハイネの詩の切れっぱしが私の口をふと<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出る。「ふん、あいつの眼が、こんな菫色じゃなくって仕合せというものだ。そうでなかった日にや、おれもハイネのようにこう<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やきながら<ruby><rb>嘆</rb><rt>なげ</rt></ruby>いてばかりいなきゃなるまい。――おまえの眼の菫はいつも綺麗に<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>くけれど、ああ、おまえの心ばかりは<ruby><rb>枯</rb><rt>か</rt></ruby>れ果てた……」

そんな<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しいような日々も、相変らず私の小説の主題は私からともすると逃げて行きそうになるが、私はそれをば<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>づよく追いまわしている。私が最初に計画していたところの私自身を主人公とした物語を書くことはとっくに断念していたけれど、私はそれの代りに、その物語の主人公には一体どんな人物を選んだらいいのか、それからしてもう迷っていた。……どうにか一方の<ruby><rb>老嬢</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>は私の物語の中に登場させることは出来ても、もう一方の方は台所で<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>の音ばかりさせているきりで、何時まで<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってもヴェランダに出て来ようとしない二人の老嬢たちの話、冬になるとすっかり雪に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まってしまうこんな寒村に一人の看護婦を相手に<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>らしている老医師とその美しい<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>の話、ときどき気が<ruby><rb>狂</rb><rt>くる</rt></ruby>って渓流のなかへ飛び<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでは<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りわめいているという<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこり</rt></ruby>の妻とその小娘の話、――そういうような人達のとりとめもない<ruby><rb>幻像</rb><rt>イマアジュ</rt></ruby>ばかりが私の心にふと<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>んではふと消えてゆく……

或る午後、雨のちょっとした晴れ間を見て、もうぽつぽつ外人たちの這入りだした<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>の<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んでいる水車の道のほとりを私が散歩をしていたら、チェッコスロヴァキア公使館の別荘の中から誰かがピアノを<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>しているらしい音が聞えて来た。私はその<ruby><rb>隣</rb><rt>とな</rt></ruby>りのまだ空いている別荘の庭へ這入りこんで、しばらくそれに耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けていた。バッハのト短調の<ruby><rb>遁走曲</rb><rt>フウグ</rt></ruby>らしかった。あの一つの<ruby><rb>旋律</rb><rt>メロディ</rt></ruby>が<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いているうちに、私はまるで<ruby><rb>魔</rb><rt>ま</rt></ruby>にでも<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたいがちな効果が、この<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>の私の小説を考え<ruby><rb>悩</rb><rt>なや</rt></ruby>んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持さながらであったからだ。

⁂

或る朝、「また雨らしいな……」と<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつきながら私が雨戸を繰ろうとした途端に、その<ruby><rb>節穴</rb><rt>ふしあな</rt></ruby>から明るい外光が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れて来ながら、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の上にくっきりした小さな<ruby><rb>楕円形</rb><rt>だえんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>をつくり、そのなかに数本の<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の<ruby><rb>微細画</rb><rt>ミニュアチュア</rt></ruby>を逆さまに描いているのを認めると、私は急に胸をはずませながら、出来るだけ早くと思って、そのため<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って手間どりながら雨戸を開けた。私が<ruby><rb>寝床</rb><rt>ねどこ</rt></ruby>のなかで雨音かと思っていたのは、それ等の落葉松の細かい葉に<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っていた雨滴が絶えず屋根の上に落ちる音だったのだ。私はさて、まぶしそうな眼つきで青空を見上げた。私は寝間着のまま一度庭のなかへ出てみたが、それから再び部屋に帰り、そしてフラノの散歩服に<ruby><rb>着換</rb><rt>きか</rt></ruby>えながら、早朝の戸外へと出て行った。私は教会の前を曲って、その裏手の<ruby><rb>橡</rb><rt>とち</rt></ruby>の林を<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>き抜けて行った。私はときどき青空を見上げた。いかにもまぶしそうに顔をしかめながら。

私が小さな美しい流れに沿うて歩き出すと、その<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>にずっと<ruby><rb>笹縁</rb><rt>ささべり</rt></ruby>をつけている<ruby><rb>野苺</rb><rt>のいちご</rt></ruby>にも、ちょっと人目につかないような花が一ぱい咲いていて、それが或る<ruby><rb>素晴</rb><rt>すば</rt></ruby>らしいもののほんの小さな<ruby><rb>前奏曲</rb><rt>プレリュウド</rt></ruby>だと言ったように、私を迎えた。私は例の木橋の上まで来かかると、どういう積りか自分でも分からずに二三度その上を行ったり来たりした。それから、<ruby><rb>漸</rb><rt>や</rt></ruby>っと、まるで足が地上につかないような歩調で、サナトリウムの裏手の<ruby><rb>生墻</rb><rt>いけがき</rt></ruby>に沿うて行った。私は最初のいくつかの野薔薇の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みを一種の<ruby><rb>困惑</rb><rt>こんわく</rt></ruby>の中にうっかりと見過してしまったことに気がついた。それに気がついた時は、<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>に私は彼等の発散している、そして雨上りの<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>った空気のために一ところに漂いながら散らばらないでいる異常な<ruby><rb>香</rb><rt>かお</rt></ruby>りの中に包まれてしまっていた。私は彼等の白い小さな花を見るよりも先に、彼等の発散する香りの方を最初に知ってしまったのだ。しかし私は立ち止ろうとはせずになおも歩き続けながら、私は今すれちがいつつある一つの野薔薇の上に私のおずおずした最初の視線を投げた。私は、私の胸のあたりから何かを<ruby><rb>訴</rb><rt>うった</rt></ruby>えでもしたいような眼つきで私をじっと見上げている、その小さな茂みの上に、最初二つ三つばかりの白い小さな花を認めたきりだった。が、その次の<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>には、私はその同じ茂みのうちに殆ど二三十ばかりの花と、それと殆ど同数の半ば開きかかった<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>とを数えることが出来た。それはごく<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの間だったが、そんな風に私が自分の視線のなかに自分自身を集中させてしまってからと言うもの、そんなにも<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がっているそれ等の花がもう<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>のように好い<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>がしなくなってしまっていることに私は<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた。そうして改めてそれを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ごうとすると、そうするだけ一層それは匂わなくなって行くように見えた。――私は注意深く歩き続けながら、順ぐりにいくつかの野薔薇の木とすれちがって行ったが、とうとう私はいつかレエノルズ博士がその上に身を<ruby><rb>跼</rb><rt>こご</rt></ruby>めていた一つの茂みの前まで来た。私は思わずそこに足を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めた。――

そうして私はその野薔薇の前に、ただ<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として、何を考えていたのか後で思い出そうとしても思い出せないようなことばかり考えていた。どれよりも最も多くの花を簇がらせているように見えるその野薔薇とそっくりそのままのものを<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで私は一度見たことがあるように思えて、それをしきりに思い出そうとしていたかのようでもあった。――それはすこし長い放心状態の後では、しばしば私にやってくるところの一種独特の<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>であった。放心のあまりに現在そのものの感じがなくなり、私は現在そのものをしきりに思い出そうとして<ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>っているのかも知れなかった。――それから私は再び我に返って歩き出した。私の沿うて行く生墻には、それらの野薔薇が、同じような高さの他の<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の間に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>りながら、いくらかずつの間を置いてはならんでいるのだった。あたかも彼等が或る秘密な法則に従ってそう配置されてでもいるかのように。そうしてその<ruby><rb>微妙</rb><rt>びみょう</rt></ruby>な<ruby><rb>間歇</rb><rt>かんけつ</rt></ruby>が、ほとんど足が地につかないような歩調で歩きつつある私の中に、いつのまにか、ほとんど音楽の与えるような一種のリズミカルな効果を生じさせていた。……そうしてそれに似た或る思い出をこんどはさっきと異って、<ruby><rb>鮮明</rb><rt>せんめい</rt></ruby>に私のうちに<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>らせるのであった。……十年ぐらい前の或る夏休みに、私が初めてこの村へ来た時のこと、宿屋の裏から水車場のある道の方へ抜けられるようになっている、やっと<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>だけ通れるか通れない位の、<ruby><rb>狭</rb><rt>せま</rt></ruby>い、小さな坂道を上って行こうとした<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>で、私はその坂の上の方から数人の少女たちが笑いさざめきながら<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け下りるようにして来るのに<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>った。私はそれを認めると、そういう少女たちとの<ruby><rb>出会</rb><rt>であい</rt></ruby>は私の始終<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>みていたものであったにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、私はよっぽど途中から引っ返してしまおうかと思った。私は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>していた。そういう私を見ると、少女たちは一層笑い声を高くしながら私の方へずんずん駈け下りて来た。そんなところで引っ返したりすると余計自分が彼女たちに<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>に見えはしまいかと私は考え出していた。そこで私は思い切って、がむしゃらにその坂を上って行った。するとこんどは少女たちの方で急に<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>ってしまった。そうしてやっと笑うのを<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>しているとでも言ったような意地悪そうな眼つきをして、道ばたの丁度彼女たちのせいぐらいある灌木の茂みの間に一人一人半身を入れながら、私の通り過ぎるのを待っていた。私は彼女たちの前を出来るだけ早く通ろうとして、そのため<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>って長い時間かかって、心臓をどきどきさせながら通り過ぎて行った。……その瞬間私は、自分のまわりにさっきから再び漂いだしている異常な香りに気がついて愕いた。私がそんな風に私の視線を自分自身の内側に向け出して、ひょいと<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>のことを忘れていたら、そういう気まぐれな私を責め訴えるかのように、その花々が私にさっきの香りを返してくれたのだった。そう、それ等の少女たちの形づくった<ruby><rb>生墻</rb><rt>いけがき</rt></ruby>はちょうどお前たちにそっくりだったのだ！　……

私はその朝はどうしたのかクレゾオルの匂のぷんぷんするサナトリウムの手前から引返した。その向うには、その思いがけない美しさでひととき私の心を<ruby><rb>奪</rb><rt>うば</rt></ruby>っていたアカシアの花が、一週間近い雨のためにすっかり散って、それが川べりの道の上にところどころ<ruby><rb>一塊</rb><rt>ひとかたま</rt></ruby>りになりながら落ちているのがずっと先きの先きの方まで<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>されていた。

それから数日間、こんどはお天気のいい日ばかりが続いていた。毎朝私は起きるとすぐその辺まで散歩に行った。しかし私はその花をつけた生墻の前にあんまり長いこと立ちもとおっていないで、それに沿うて<ruby><rb>素通</rb><rt>すどお</rt></ruby>りして来るきりの方が多かった。私は言わば、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、その生墻に<ruby><rb>間歇</rb><rt>かんけつ</rt></ruby>的に<ruby><rb>簇</rb><rt>むら</rt></ruby>がりながら花をつけている野薔薇の与える音楽的効果を楽しみさえすればよかったのであるから。だから或る時などは、それのみを楽しむために、私は<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>とよそっぽを見ながら歩いたりした。

或る朝、私はそんな風にサナトリウムの前まで行ってすぐそのまま引っ返して来ると、向うの小さな木橋を渡り、いまその生墻に差しかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の手でパイプを<ruby><rb>握</rb><rt>にぎ</rt></ruby>ったまま、少し<ruby><rb>猫背</rb><rt>ねこぜ</rt></ruby>になって生墻の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の<ruby><rb>焦点</rb><rt>しょうてん</rt></ruby>を失ったような<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざ</rt></ruby>しのうちに、彼の<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいほどな<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の<ruby><rb>不機嫌</rb><rt>ふきげん</rt></ruby>とを<ruby><rb>見抜</rb><rt>みぬ</rt></ruby>いた。

それから数日後の或る朝だった。だんだんに夏らしい色を帯び出して来た美しい空が、私にだけ、突然物悲しく<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されてしまったように見えた。毎朝のようにそれに沿うて歩きながら、しかし、よく注意して見ようとはしないでいた野薔薇の白い小さな花が、いつの間にやら殆ど全部<ruby><rb>蝕</rb><rt>むし</rt></ruby>ばまれて、それに<ruby><rb>黄褐色</rb><rt>おうかっしょく</rt></ruby>のきたならしい<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>がどっさり出来てしまっていることに、その朝、私は始めて気がついたのだった。

⁂

……数年前までは半分<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>れかかった水車がごとごと音を立てながら<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていた小さな流れのほとりには、その<ruby><rb>大抵</rb><rt>たいてい</rt></ruby>が三四十年前に外人の建てたと言われる古いバンガロオが<ruby><rb>雑木林</rb><rt>ぞうきばやし</rt></ruby>の間に立ちならんでいたが、そこいらの<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>はそれが行きづまりなのか、通り抜けられるのか、ちょっと区別のつかないほど、ややっこしかったので、この村へ最初にやって来たばかりの時分には、私はひとりで散歩をする時などは本当にまごまごしてしまうのだった。確かに抜け道らしいんだが、その小径は突然外人たちのお茶などを飲んでいるヴェランダのすぐ横を通ったりするのだった。そういう私道なのか、抜け道なのか分からないような或る小径に又しても<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでしまった私は、私の背ぐらいある灌木の茂みの間から不意に私の目の前が<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けて、そこの突きあたりにヴェランダがあり、<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>寝椅子</rb><rt>ねいす</rt></ruby>に一人の<ruby><rb>淡青色</rb><rt>たんせいしょく</rt></ruby>のハアフ・コオトを着て、ふっさりと<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>を<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>へ垂らした少女が<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>げに<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかっているのを認め、のみならず、その少女が私の足音を聞きつけてひょいと私の方を<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り向いたらしいのを認めるが早いか、私は顔を赤らめながら、その少女をよく見ずに<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から引っ返してしまった。――その時<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し私がその少女をもっとよく見たら、それが数日前に私が宿屋の裏の狭い坂道ですれちがった数人の少女たちの中の一人であることに気がついて、私の狼狽はもっと大きかっただろうに。……

この頃<ruby><rb>刈</rb><rt>か</rt></ruby>ったばかりらしい青々とした<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>が、その時にはその少女の<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていたヴェランダをこっちからは見えなくさせていた一面の灌木の茂みに代えられて、そうしていま私のぼんやり立っているこの<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>からその芝生を<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>い<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>が<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やかに<ruby><rb>区限</rb><rt>くぎ</rt></ruby>って。……そのように、すべてが変っていた。いま私にまざまざと蘇って来たところの、そう言うような、最初に私が<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのじょ</rt></ruby>に会った当時の彼女のういういしい<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>と、数カ月前、最後に会った時の、そしてその時から今だに私の眼先にちらついてならない彼女の冷やかな面影と、何と異って見えることか！　彼女の<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>そのものがそんなにも変ったのか、それとも私の中にその<ruby><rb>幻像</rb><rt>イマアジュ</rt></ruby>が変ったのか、私は知らない。しかし何もかも、<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく私自身も変ってしまったのだ。……

私はそのとき向うの方から何かを重そうに<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>いながら私の方に近づいてくる者があるのを認めた。それは<ruby><rb>羊歯</rb><rt>しだ</rt></ruby>を背負っている宿の<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>やであった。私はいつか彼の話していた羊歯のことを思い出した。

私は爺やの言うがままに、彼についてその庭の中へおずおずと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。そうして爺やが庭の一隅にその羊歯を植えつけている間、私は黙ってヴェランダの床板に<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけていた。爺やはときどき羊歯を植えつける場所について私に助言を求めた。その<ruby><rb>度毎</rb><rt>たびごと</rt></ruby>に、私の胸はしめつけられた。

一通りみんな植えつけてしまうと、爺やは私のそばに腰を下ろした。私の与えた<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>まきたばこ</rt></ruby>を彼は耳にはさんだきり、それを吸おうとはせずに、自分の腰から<ruby><rb>鉈豆</rb><rt>なたまめ</rt></ruby>の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いた。

私はふだんの無口な習慣から抜け出ようと努力しながら、これもまた機嫌買いらしい爺やを相手に世間話をし出した。

「爺やさん、<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>の途中に気ちがいの女がいるそうだけれど、それあ本当なのかい？」

「へえ、<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうにすこし気が変なんでございますよ、――<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>にはうちでもちょいちょい何かくれてやりましたもので、よく山からにこにこしながら、いろんな花を採って来てくれたりしましたっけが。……ただ、そいつの<ruby><rb>亭主</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>というのが大へんな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>でしてね、こっちからわざわざ何か持って行ってやったりしますと、いつも<ruby><rb>酔払</rb><rt>よっぱら</rt></ruby>っていちゃあ、『くれるというものなら<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>っといたらいいじゃねえか』と、<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>の気の毒がるのを<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りつけようてった調子なんですからね。……それで、こっちでもだんだん情が通わなくなって来て、この頃じゃ、もう、ちっとも構いませんです」

「何だってね、――その気ちがいって、ときどき川のなかへ飛び込むんだってね？」

「へえ、そんな<ruby><rb>人騒</rb><rt>ひとさわ</rt></ruby>がせなこともときどきやりますが、あれあどうも少し<ruby><rb>狂言</rb><rt>きょうげん</rt></ruby>らしいんで……」

「そうなのかい？　――どうしてまたそんな……」

私はふと口ごもりながら、あの林のなかの空地にあった異様な<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をした<ruby><rb>氷倉</rb><rt>こおりぐら</rt></ruby>だの、その裏の方でした<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れない<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>び声だのを思い浮べた。そうしてそれ<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>のものを今だにこんなにも異常に私に感じさせている、峠の子供たちの不思議な領分の上を思った。――子供たちよ、よし<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>たちにはそういう狂行が<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>ものに見えようとも、お前たちは、そんな大人たちには<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されている、お前たちだけのその領分の中で遊べるだけ遊んでいるがいい。

爺やとの話は、私の展開さすべく悩んでいた物語のもう一人の人物の上にも思いがけない光を投げた。それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>まれ通しであると言うことだった。<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。（<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>に<ruby><rb>尋</rb><rt>たず</rt></ruby>ねようとはしなかった。）――それ以来、老医師はその妻子だけを<ruby><rb>瑞西</rb><rt>スイス</rt></ruby>に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。……私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて彼自身もその老外人に一種の敵意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>かしさの<ruby><rb>印</rb><rt>しる</rt></ruby>しであろうか、それともその老外人の<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>な気質のためであろうか？　……そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>の<ruby><rb>生墻</rb><rt>いけがき</rt></ruby>のことを何か切ないような気持になって思い出していた。

私はヴェランダの<ruby><rb>床板</rb><rt>ゆかいた</rt></ruby>に腰かけたきり、爺やがまた<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からか羊歯を運んで来るまで、さまざまな物思いにふけりながら待っていた。それからまた爺やの羊歯を植えつけるのをしばらく見守っていた。しかし今度は黙ったままで。そうして私は老人の動かしている無気味に骨ばった手の<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>を目で追っているうちに、ふいと「<ruby><rb>巨人</rb><rt>きょじん</rt></ruby>の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>」のことを思い<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>べた。――私は爺やが羊歯をすっかり植えおえるのを待とうとしないで爺やと別れた。

それから数分後に、私はその<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな岩を<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見ることのできる、例の<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられたヴィラの庭のなかに自分自身を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>した。そのヴィラに<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>住んでいた二人の<ruby><rb>老嬢</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>のことについては爺やも私に何んにも知らせてくれなかった。「ああ、セエモオルさんですか」と言ったきりだった。何か知っていそうだったがもう忘れてしまったらしかった。そうしてただ不機嫌そうに黙っていた。「そうすると、それを知っているのはお前だけだがなあ……」と私は、いま私の下方に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっている高原一帯を<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てて、私と向い合っている、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の「巨人の椅子」を、あたかもそのあたりに見えない巨人の姿を探してでもいるかのような眼つきで、まじまじと見まもっていた。

だんだんに日が<ruby><rb>暮</rb><rt>く</rt></ruby>れだした。私のすぐ<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>の、いつかその赤い屋根に<ruby><rb>交尾</rb><rt>こうび</rt></ruby>している小鳥たちを見出したヴィラは、もう人が住まっているらしく、窓がすっかり開け放たれて、<ruby><rb>橙色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>のカアテンの<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>らいでいるのが見えた。ときおり御用聞きがその家のところまで自転車を重そうに<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>し上げてくるらしい音が私のところまで聞えて来た。もうそろそろ私もこれまでのようにこの空家の庭でぼんやりしていられそうもないなと思った。そんな気がしだすと、何んだかもうこれがその最後の時ででもあるかのように、私は、私のすべての注意を、半分はこの<ruby><rb>荒廃</rb><rt>こうはい</rt></ruby>したヴィラそのものに、半分はこの高みから見下ろせる一帯の美しい村、その森、その花<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>ける野、その<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>、それからもう<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>みながらよく見えなくなり出した<ruby><rb>丘々</rb><rt>おかおか</rt></ruby>の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>、それだけがまだ黒々と残っている「巨人の椅子」などに<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>け出していた。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず、私はときどきややもするとそれ<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>のものことごとくを見失い、そしてまるっきり放心状態になっている自分自身に気がついて、思わずどきっとするのだった。

<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>、ちょうど私の頭上にある、その周囲だけもうすっかり<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>くなっている大きな<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の、ほとんど水平に<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>びた<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>の一つに、ばたばたとびっくりするような羽音をさせながら、一羽の<ruby><rb>山鳩</rb><rt>やまばと</rt></ruby>が飛んできて止まった。そうしてそんなところに私のいることに向うでも<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたように、再びすぐその枝から、薄暗いために一層大きく見えながら、それは飛び去って行った。あたかも私自身の<ruby><rb>思惟</rb><rt>イデエ</rt></ruby>そのものであるかのごとく重々しく<ruby><rb>羽搏</rb><rt>はばた</rt></ruby>きながら、そしてその<ruby><rb>翼</rb><rt>つばさ</rt></ruby>を無気味に青く光らせながら……。

  


## 夏

突然、私の窓の面している中庭の、とっくにもう花を失っている<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みの向うの、<ruby><rb>別館</rb><rt>べっかん</rt></ruby>の窓ぎわに、一輪の<ruby><rb>向日葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>が咲きでもしたかのように、何んだか思いがけないようなものが、まぶしいほど、日にきらきらとかがやき出したように思えた。私はやっと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に、黄いろい<ruby><rb>麦藁帽子</rb><rt>むぎわらぼうし</rt></ruby>をかぶった、背の高い、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすな、一人の少女が立っているのだということを認めることが出来た。……誰かを待っているらしいその少女は、さっきから中庭のあちらこちらに注意深そうな視線をさまよわせていたが、最後にその視線を、離れの窓から彼女の方をぼんやり見つめていた私の上に置いた。そんな最初の<ruby><rb>出会</rb><rt>であい</rt></ruby>の時には、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>の少女たちは、自分が見つめられていると思う者からわざとそっぽを向いて、自分の方ではその者にまったく無関心であることを示したがるものだが、そんな<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>と高慢さとの入り混った視線とは異って、私の上に置かれているその少女の<ruby><rb>率直</rb><rt>そっちょく</rt></ruby>な、<ruby><rb>好奇心</rb><rt>こうきしん</rt></ruby>でいっぱいなような視線は、私にはまぶしくってそれから目をそらさずにはいられないほどに感じられたので、私はそのときの彼女――最初に私の目の前に現れたときの彼女に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いては、そのやや真深かにかぶった黄いろい帽子と、その<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>のかげにきらきらと光っていた<ruby><rb>特徴</rb><rt>とくちょう</rt></ruby>のある<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしとよりほかには、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど何も見覚えのない位であった。……やがて別館から彼女の父らしいものが姿を現した。そしてその二人づれは私の窓の前を<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>めに横切って行ったが、見ると、彼女はその父よりも背が高いくらいであった。そしてその父らしいものが彼女にしきりに話しかけるのに、彼女はいかにも気がなさそうに返事をしながら、いつまでも私の方へ<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>の茂みごしにその特徴のある眼ざしをそそぎつづけていた。……その二人が中庭を立ち去ってしまった<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>も、私はしばらく、今しがたまでその少女が<ruby><rb>向日葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>のように立っていた窓ぎわの方へ、すこし<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>になった眼ざしをやっていたが、ふと気づくと、そこいらへんの感じが、それまでとは何んだかすっかり変ってしまっているのだ。私の知らぬ間に、そこいら一面には、夏らしい<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いが<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>い出しているのだった。……

その日の夕方の、別館の方への私の<ruby><rb>引越</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>し、（今まで私の<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で暮らしていた、古い<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>れが<ruby><rb>修繕</rb><rt>しゅうぜん</rt></ruby>され始めるので――）その次ぎの日の、その少女の父の出発、それから<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にはまだ一人も<ruby><rb>滞在客</rb><rt>たいざいきゃく</rt></ruby>のないそんな別館での、その少女と二人っきりの、背中合わせの暮らし……。

しかし私は毎日のように、ほとんど部屋に閉じこもったきりで、自分の仕事に<ruby><rb>没頭</rb><rt>ぼっとう</rt></ruby>していた。その私の書きつつある「美しい村」という物語は、六月頃からこの村に滞在している私が、そんなまだ季節はずれの、すっからかんとした高原で出会ったことを、それからそれへと書いて行ったものだった。そうして私は丁度いま、私がそれまで昔の<ruby><rb>恋人</rb><rt>こいびと</rt></ruby>に対する一種の<ruby><rb>顧慮</rb><rt>こりょ</rt></ruby>から、その物語の裏側から、そして<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>、それによってその<ruby><rb>淡々</rb><rt>たんたん</rt></ruby>とした物語に或る物悲しい<ruby><rb>陰影</rb><rt>ニュアンス</rt></ruby>を<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>えるばかりで満足しようとしていた、この村での数年前の彼女たちとの花やかな交際の思い出、ことにこの村での彼女たちとの最初の<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばしい出会いを、とある日、道ばたに咲き<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っている<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>の花がまざまざと私のうちに<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>らせ、それが<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に思いがけぬ出口を見つけた地下水のように、その物語の静かな表面に<ruby><rb>滾々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>きあがってくるところを書き終えたばかりのところだった。そうしてそういう昔のさまざまな歓ばしい出会いの<ruby><rb>追憶</rb><rt>ついおく</rt></ruby>に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っている<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなく、すでに私から巣立っていったそれらの少女たち、ことにそのうちの一人との気まずい再会を恐れて、季節に先立ってこの村を立ち去ろうとする、そんな私の悲しい決心を、その物語の結尾として、私はこれから書こうとしているところだった。

私の新しい部屋は、別館の二階の<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>まったところで、南向きの窓があり、そしてその窓からは数本の大きな桜の幹ごしに向うの小高い水車の道に面しているいくつかのヴィラの裏側がちらちらと見えていた。そしてその窓のすぐ下を、私がそれらの少女たちと初めて出会ったところの、例の抜け道が、小さな坂になりながら、<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>のなかに細々と通っているのだった。……私は私のやりかけている仕事から気持をそらすまいとして、私とたった二人きりでその別館の中に暮らしだしているその未知の少女とは、わざと背中を向き合わせてばかりいた。その<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>、私は私の窓のすぐ下を通っているその坂道を、毎朝、一定の時刻に、絵具箱をぶらさげながら、その少女が水車の道の方へと<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってゆくのを<ruby><rb>見逃</rb><rt>みのが</rt></ruby>したことはなかった。丁度、午前中のその時刻の光線の<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>で、<ruby><rb>木洩</rb><rt>こも</rt></ruby>れ<ruby><rb>日</rb><rt>び</rt></ruby>がまるで<ruby><rb>地肌</rb><rt>じはだ</rt></ruby>を<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>の皮のように美しくしている、その小さな坂を、ややもすると<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>りそうな足つきで昇ってゆくその背の高い、痩せぎすな後姿を見送りながら、その上の水車の道に出て、さて、それから彼女はどの<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>をどう通って、どんな場所へ絵を描きに行くのだろうかと、そこいらの林のなかの小径が実にややこしく、私自身も初めてこの村へ来た当時は、何度も道に迷ってしまった位ではあったし、それにまたそんなことからして一人の少女と私との<ruby><rb>奇妙</rb><rt>きみょう</rt></ruby>な近づきが始まったりしたので、私は、絵を描く場所を<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>しながらそんな見知らぬ小径をさまよっているらしい彼女のことを、何となく気づかわしく思っていた。

⁂

しかし私は最初のうちはその少女を、唯、そんな風に私の窓からだの、<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>いは<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>などでひょっくり<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れちがいざま、目と目とを合わせないようにして、そっと<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み見ていたきりであった。そんな具合で、私は彼女の顔を、まだ一度も、まともに<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めたことがなく、それに私の見たときは、いつも静止していないで、しかもそれぞれに異った角度から光線を受けていたせいか、見る<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby><ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、その顔は変化していた。或る時は、そのやや真深かにかぶった黄いろい<ruby><rb>麦藁帽子</rb><rt>むぎわらぼうし</rt></ruby>の下から、その<ruby><rb>半陰影</rb><rt>はんいんえい</rt></ruby>のなかにそれだけが顔の他の部分と一しょに<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>け<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>もうとしないで、大きく見ひらかれた眼が、きらきらと<ruby><rb>輝</rb><rt>かがや</rt></ruby>いていた。またそんな帽子をかぶらずに、庭園の中などで顔いっぱいに強い光線を浴びながら、まぶしそうにその眼を半分<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>ざしているおかげで、平生の特徴を半分失いながら、そしてその代りにその<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>までちっとも目立たないでいた<ruby><rb>脣</rb><rt>くちびる</rt></ruby>だけが<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>のように<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かに光りながら、ほとんど前のとは別の顔に変ってしまうこともあった。

そのうちに私たちがやっと短い会話を取り<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わすようになり、それと共に、<ruby><rb>屡</rb><rt>しば</rt></ruby>しば、私は彼女の顔をまともから眺めるようになったのにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、彼女の顔がなおも絶えず変化しているのに<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いた。或る時は、その顔はあんまり血色がよく、すべすべしているので、私のためらいがちな視線はいくどもその上で<ruby><rb>空滑</rb><rt>からすべ</rt></ruby>りをしそうになった。また他の時はすこし<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れを帯びたように<ruby><rb>沈</rb><rt>しず</rt></ruby>んで、<ruby><rb>不透明</rb><rt>ふとうめい</rt></ruby>で、その<ruby><rb>皮膚</rb><rt>ひふ</rt></ruby>の底の方にはなんだか<ruby><rb>菫色</rb><rt>すみれいろ</rt></ruby>のようなものが漂っているように見えた。そうかと思うと、その皮膚がすっかり透明になり、ぽうっと内側から<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>を帯びているようなこともあった。ときどき以前に見たのと<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か似たような顔をしていることもあった。が、その顔は決して二度と同じものであることはなかった。

或る日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>半分に<ruby><rb>色鉛筆</rb><rt>いろえんぴつ</rt></ruby>でもって<ruby><rb>丹念</rb><rt>たんねん</rt></ruby>に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げながら、その地図の上に万年筆で、まるで<ruby><rb>瑞西</rb><rt>スイス</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の林だのを<ruby><rb>印</rb><rt>しる</rt></ruby>しつけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。その時、私のそんな<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しげな地図の上に熱心に<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んでいる彼女の横顔をしげしげと見ながら、私は一つの<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>がその耳のつけ根のあたりに浮んでいるのを認めた。その時までちっともそれに気がつかないでいた私には、何んだかそれはいま知らぬ間に私の万年筆からはねたインクの<ruby><rb>汚点</rb><rt>しみ</rt></ruby>かなんかで、<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いたらすぐとれてしまいそうに思えたほどだった。

翌日、私は彼女が私の貸した地図を手にして、<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>私の教えたさまざまな村の道を一とおり見歩いて来たらしいことを知った。それほど私の助言を<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に受入れてくれたことは、私に何んとも言いようのない喜びを与えた。

⁂

そんな村の地図を手にして、<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのじょ</rt></ruby>がひとりで散歩がてら見つけて来た、或るささやかな<ruby><rb>渓流</rb><rt>けいりゅう</rt></ruby>のほとりの、<ruby><rb>蝙蝠傘</rb><rt>こうもりがさ</rt></ruby>のように枝を拡げた、一本の<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の木の下に、彼女が<ruby><rb>画架</rb><rt>がか</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えている間、私はその画架の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から、数本のアカシアの枝を透しながらくっきりと見えている、<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>遠くの、真っ白な、小さな橋をはじめて見でもするように見入っていた。それは六月の半ば<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>、私が<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>から<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に下りてきた二人の子供たちと別れた、あの印象の深い小さな橋であった。――私は、彼女がしゃがみながら、パレットへ絵具をなすりつけ出すのを見ると、彼女の仕事を<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げることを<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に彼女をひとり残したまま、その渓流に沿うた小径をぶらぶら上流の方へと歩いて行った。しかし私は絶えず私の背後に残してきた彼女にばかり気をとられていたので、私の行く手の小径の曲り角の向うに、一つの小さな灌木が、まるで私を待ち<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>せてでもいたように<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>れていたのに少しも気づかずに、その曲り角を<ruby><rb>無雑作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に曲ろうとした瞬間、私はその灌木の枝に私のジャケツを引っかけて、思わずそこに足を止めた。見ると、それは一本の花を失った野薔薇だった。私はやっとのことで、その<ruby><rb>鋭</rb><rt>するど</rt></ruby>い<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>から私のジャケツをはずしながら、私はあらためてその花のない野薔薇を眺めだした。それが白い小さな花を一ぱいつけていた頃には、あんなにも私がそれで楽しんでいた癖に、それらの花がひとつ残らず何処かに立ち去ってしまった今は、そんな灌木のあることにすら全然気づこうとしなかった私に対して、それが<ruby><rb>精一杯</rb><rt>せいいっぱい</rt></ruby>の<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>をしようとして、そんな風に私のジャケツを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み破ったかのようにさえ私には思えた。……そういう花のすっかり無くなった野薔薇をしばらく前にしながら、私はいつか知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずに、それらの白い小さな花のように何処へともなく私から去っていった少女たちのことを思い出していた。……この頃、ともすると、一人の新しい少女のために、そんな<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>の少女たちのことを忘れがちであったが、そう言えば、彼女たちがこの村においおいとやって来る時期ももう間ぢかに<ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>っているのだ。彼女たちが来ないうちに私はこの村をさっと立ち去ってしまった方がいい。そうしなくっちゃいけない。――そう自分で自分に言って聞かせるようにしながら、その一方ではまた、この頃やっと自分の手に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>りかけている新しい幸福を、そうあっさりと<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てて行けるだろうかどうかと疑っていた。そうして私は自分の気持をそのどちらにも片づけることが出来ずに、自分で自分を持て余しながら、かれこれ一時間近くもその<ruby><rb>山径</rb><rt>やまみち</rt></ruby>をさまよっていた。そうしてその<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、私がやっと気がついた時には、そんな風に歩きながら自分でも知らずに何度も指で引張っていたものと見えて、私の<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>のジャケツの<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>のところに出来たその小さな<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びは、もう目立つくらいに大きくなっていた。――私はとうとう<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を返して、再び渓流づたいにその山径を下りてきた。そうして私は自分の行く手に、真っ白な、小さな橋と、一本の大きな蝙蝠傘のような樅の木を認めだすと、私はすこし歩みを<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めながら、わざと目をつぶった。その<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>になって見えずにいるものを、私のすぐ近くに、不意に、思いがけぬもののように<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>したかったのだ。……とうとう私は<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>し切れずに私の目を開けてみた。しかし彼女は私からまだ十数歩先きのところにいた。そうしてその木蔭にしゃがみながらそれまでパレットを<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>っていたらしい彼女が、その時つと立ち上って、私にはすこしも気がつかないように、描きかけのカンバスを画架からとりはずすと、それを道ばたの草の上へいかにも投げやりに、乱暴なくらいにほうり出したところだった。ほうり出された大きなカンバスは、しかしひとりでにふんわりとなりながら、草の上へ<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れて行った。それを見ると、私は彼女のそばへ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けつけた。

「僕が持っていて上げよう」

「いいわ……いつもひとりでするんですから」

「意地わる！」

「意地わるでしょう」

私は彼女とそんな風に子供らしく言い合いながら、無理にカンバスを引ったくると、それを自分の肩にあてがいながら、彼女と<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んで村の<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>を宿屋の方へと歩いて行った。ときおり私たちは散歩をしている西洋人や村の子供たちとすれちがった。<ruby><rb>彼等</rb><rt>かれら</rt></ruby>のもの<ruby><rb>珍</rb><rt>めず</rt></ruby>らしそうな視線は私たちを――<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にまだこの村に慣れない彼女を気づまりにさせているらしかった。私は私で、そういう彼女をつとめて気軽にさせようと思って、私の空いている方の手を自分の肩の上へやりながら、

「ほら、こんな穴が出来ちゃった……さっき一人で散歩しているとき<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>にひっかかったのさ」

そう言って、その肩の穴がもっと大きくなるのも構わずに、それをよく彼女に見せようとして、自分のジャケツを引張って見せたりした。そうして私はこんなにまで私と打ち解け合いだしているこの少女を<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて、自分ひとりこの村を立ち去るなんぞということは、到底出来そうもないと考え出していた。

⁂

私の「美しい村」は予定よりだいぶ<ruby><rb>遅</rb><rt>おく</rt></ruby>れて、或る日のこと、<ruby><rb>漸</rb><rt>や</rt></ruby>っと<ruby><rb>脱稿</rb><rt>だっこう</rt></ruby>した。すでに七月も半ばを過ぎていた。そうして私はそれを書き上げ次第、この村から出発するつもりであったのに、私はなおも、そういう一人の少女のために、一日一日と私の出発を延ばしながら、私がその物語の背景に使った、季節前の、気味悪いくらいにひっそりした高原の村が、次第次第に夏の<ruby><rb>季節</rb><rt>シイズン</rt></ruby>にはいり、それと同時にこの村にもぽつぽつと<ruby><rb>避暑客</rb><rt>ひしょきゃく</rt></ruby>たちが這入り込んでくるのを、私は何んだか胸をしめつけられるような気持で、<ruby><rb>目</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>えていた。

私はしばしばその少女と連れ立って、夕食後など、宿の裏の、西洋人の<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>の多い水車の道のあたりを散歩するようになっていた。そんな散歩中、ときおり、<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>前までは私と一しょに遊び<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れたりしたことさえある村の子供たちと<ruby><rb>出会</rb><rt>であ</rt></ruby>うようなこともあったが、彼等は私たちの傍を素知らぬ顔をして通り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けていった。もう私を覚えていないのだろうか、それとも私がそんな見知らない少女と二人づれなのを異様に思ってそうするのだろうか？　……しかしそれらの子供たちも、そのうちだんだんに、そんな林の中で最初のうちは私たちのよく見かけたものだった、さまざまな小鳥などと共に、その姿をほとんど見せないようになった。そしてその代り、私たちとすれちがいながら、私たちに好奇的な<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしを投げてゆく、散歩中の人々や、自転車に乗った人々などがだんだんに増えて来た。それらの中には私と顔見知りの人たちなども<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていた。私はいつかこんなところをひょっくり昔の女友達にでも出会いはしないかと一人で気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいたが、ときどき、そんな散歩の<ruby><rb>途中</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>に、ふと向うからやってくる人々のうちに遠見がどこかそれらに似たような人があったりすると、私は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、その人たちを<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けるために、道もないような草の<ruby><rb>茂</rb><rt>しげ</rt></ruby>みのなかへ彼女を引っ張りこんで、何んにも知らない彼女を<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かせるようなこともあった。

そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた<ruby><rb>瑞西</rb><rt>スイス</rt></ruby>式のバンガロオだの、美しい<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>だの、<ruby><rb>羊歯</rb><rt>しだ</rt></ruby>だのを、彼女に指して見せながら、私はなんだか不思議な気がした。それ等のものが今ではもう私には<ruby><rb>魅力</rb><rt>みりょく</rt></ruby>もなんにも無くなってしまっていたからだ。そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力をさえしなければならなかった。それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。……そうしてそんな<ruby><rb>薄</rb><rt>うす</rt></ruby>ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>みはしないだろうと思った。そして私は<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けかけた。私の心臓は急にどきどきしだした。が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が<ruby><rb>鼓動</rb><rt>こどう</rt></ruby>しているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが私に、そういう<ruby><rb>愛撫</rb><rt>あいぶ</rt></ruby>を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。……私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>わないような<ruby><rb>特異</rb><rt>ユニイク</rt></ruby>な快さを、そのデッサンだけでもう<ruby><rb>充分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>ったように思いながら。

⁂

一体、「水車の道」というのは、郵便局やいろんな食料品店などのある本通りの南側を、それと<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど平行しながら通っているのだが、それらの二つの平行線を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいに切っている、いくつかの<ruby><rb>狭</rb><rt>せま</rt></ruby>い横町があった。そんな横町の一つに、その村で有名な二<ruby><rb>軒</rb><rt>けん</rt></ruby>の花屋があった。二軒とも<ruby><rb>藁屋根</rb><rt>わらやね</rt></ruby>の小さな家だったが、共に、その家の五六倍ぐらいはあるような、大きな立派な花畑に取り囲まれていた。そしてその二つの花畑を区切って、いつも気持のよいせせらぎの音を立てながら流れているのは、数年前まで、そのずっと上流のところでごとごとと古い水車を<ruby><rb>廻転</rb><rt>かいてん</rt></ruby>させていたところの、あの小さな流れであった。そしてその一方の花畑などは、水車の道を<ruby><rb>越</rb><rt>こ</rt></ruby>して、<ruby><rb>更</rb><rt>さ</rt></ruby>らにその道の向うまで<ruby><rb>氾濫</rb><rt>はんらん</rt></ruby>していた。……つい先頃までは、あんなに<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>もかしこも花だらけであったこの村では、この二軒の花屋は、ほとんどその存在さえ人々から忘れられていた位であったが、やがてその季節が過ぎ、それらの野生の花がすっかり散って、それと入れ代りに今度は、これらの畑で人工的に育て上げられた、さまざまな珍らしい花が、一どにどっと<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>き出したものだから、その横町を通り抜ける者は<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>しもその美しい花畑に<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をみはらないものは無いくらいであった。だが、その二軒並んだ花屋の前を通りすがりに、注意をしてそれらの店の<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている花屋の主人たちに目を止めた者は、一層の<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きのためにその眸をもっと大きくせずにはいられなかったであろう。と言うのは、その一方の店の奥にきょとんと坐っている白い<ruby><rb>碁盤縞</rb><rt>ごばんじま</rt></ruby>のシャツを着た<ruby><rb>小柄</rb><rt>こがら</rt></ruby>な老人を認めたのち、次の花屋の前にさしかかると、何んとその奥にも、つい今しがたもう一方の奥に見かけたばかりのと寸分も<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>わない、小柄な老人が、やはり同じような白い碁盤縞のシャツを着て、きょとんと<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をかけ、往来の方を眺めているのに気づくだろうからだ。ただ異うのは、そんな二人のそばに坐っているのが、一方はいつも<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>の毛をくしゃくしゃにさせた、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っちょの<ruby><rb>女房</rb><rt>にょうぼう</rt></ruby>であったし、もう一方はそれと好対照をしている位に<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せっぽちの、すこし<ruby><rb>藪睨</rb><rt>やぶにら</rt></ruby>みらしい女房であることだ。つまり、その二軒の花屋の老いたる主人たちは、ほとんど<ruby><rb>瓜</rb><rt>うり</rt></ruby>二つと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>っていいほどの、兄弟なのであった。その上、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいことには、この花屋の兄弟はとても仲が悪くて、夏場だけはお<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に<ruby><rb>仲好</rb><rt>なかよ</rt></ruby>さそうに口を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き合いながら商売をしているが、さて夏場が過ぎてしまうと、すぐに<ruby><rb>性懲</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>りもなく<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>をし始め、冬の間などは、お互に一言も口を利かずに過ごすようなことさえあると言うことだった。――そんな風変りな二軒の花屋のある横町には、道ばたに数本の小さな<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>と<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>とが植えられてあったが、その一番手前の小さな楓の木に、ついこの間のこと、「売物モミ二本、カエデ三本」という真新しい<ruby><rb>木札</rb><rt>きふだ</rt></ruby>がぶらさげられた。そしていまや、その横町の両側の花畑には、<ruby><rb>向日葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>だの、ダリヤだの、その他さまざまの珍らしい花が真っさかりであった。……

私はそんな二軒の花屋の物語を彼女に聞かせながら、その私の大好きな横町へ、彼女の注意を向けさせた。

水車の道の上へ大きな枝を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げている、一本の古い<ruby><rb>桜</rb><rt>さくら</rt></ruby>の木の根元から、その道から一段低くなっている花畑の向うに、店の名前を<ruby><rb>羅馬字</rb><rt>ロオマじ</rt></ruby>で真白にくり抜いた、空色の看板が、さまざまな紅だの黄だのの花とすれすれの高さに、しかしそれだけくっきりと<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>いて見えている。――そんな角度から見た一<ruby><rb>軒</rb><rt>けん</rt></ruby>の花屋の屋根とその花畑を、彼女は或る日から五十号のカンバスに<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>き出した……。

しかしその水車の道はそのへんの別荘の人たちが割合に<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き来するので、彼女のまわりにはすぐ人だかりがして困るらしかったが、私は一<ruby><rb>遍</rb><rt>ぺん</rt></ruby>もその絵を描いている場所へ近づこうとはしないでいた。そんな人目につき<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い場所で私が彼女と親しそうにしているのを、私の顔見知りの人々に見られたくなかったからだ。で、私は自分の部屋に<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じこもったきりで、この頃やっと書き上げたばかりの原稿へ最後の手入れをし続けていた。（しかし、その間一番余計に私の考えていたのは、やっぱり彼女のことであった。）――が、私はその花屋を描いているところを遠くからなりと、一度見て置きたいと思って、或る朝、宿屋の裏の坂を上りながら水車の道まで出ていって見た。そうして私は、その道の向うの、大きな桜の木の下に立って、パレットを動かしている彼女と、それから彼女の横からその画布を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>みながら、一人のベレ<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>をかぶった若い男が、何やら彼女に話しかけているのを認めた。私はそんな男が早く彼女のそばを立ち去ってくれればいいにと、すこしやきもきしながら、待っていた。――

「誰れ？　いまの人……」やっとその男が立ち去ったのを見ると、私は急いで彼女の方へ近づいて行きながら、いかにも<ruby><rb>何気</rb><rt>なにげ</rt></ruby>なさそうに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>画家</rb><rt>えかき</rt></ruby>さんなんですって……何んだか、あんまり<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも見ていらっしゃるんで、私、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になっちゃった……」

彼女はわざとらしく顔をしかめて見せた。それからすこし<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いような眼つきをして花畑の一部を見つめだした。熱心に絵を描こうとしているときの彼女が、こんな男のような、きびしい眼つきになるのを私はよく知っていたものだから、私はそれっきり<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>っていた……。

そんな風に、私がちょっとでも彼女から<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>れている間に、私なしに、彼女がこの村で一人きりで知り出しているすべてのものが、私に<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>として不安を<ruby><rb>与</rb><rt>あた</rt></ruby>えるのだった。或る日、彼女は、昔は<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に水車場があったと私の教えた場所のほとりで、<ruby><rb>屡</rb><rt>しば</rt></ruby>しば、背中から<ruby><rb>花籠</rb><rt>はなかご</rt></ruby>を下ろして、<ruby><rb>松葉杖</rb><rt>まつばづえ</rt></ruby>に<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れたまま<ruby><rb>汗</rb><rt>あせ</rt></ruby>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いている、<ruby><rb>跛</rb><rt>ちんば</rt></ruby>の花売りを見かけることを私に話した。彼女の話すようなものをついぞ見かけたことのない私には、そんな跛の花売りのようなものと彼女が屡しば出会うことすら、自分でも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいくらい、気になってならなかった。

⁂

或る朝、私は私の窓から彼女が絵具箱をぶらさげて、裏の坂を<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってゆくのを見送った後、そのまんまぼんやり窓にもたれていると、しばらくしてからその同じ坂を、花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねるような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をして昇ってゆくのが認められた。よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは！　……そういう後姿だけではよくわからなかったが、その男は、この村の花売り共が<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>よぼよぼの老人ばかりなのに、まだうら若い男らしかった。それが一層片輪の故にそんな花売りなんかしていることを<ruby><rb>物哀</rb><rt>ものあわ</rt></ruby>れに感じさせた。――そうして、その悲しげな跛の花売りを、私は自分自身の眼で見知るや<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>や、彼女がその姿を絵に描いてみたいと言っていただけでもって、その跛の花売りに私の<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いていた、軽い<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>のようなものは、<ruby><rb>跡方</rb><rt>あとかた</rt></ruby>もなく消え去った。……

しかし、数日前水車の道で彼女に親しげに話しかけていたところを私の<ruby><rb>目撃</rb><rt>もくげき</rt></ruby>した、あの画家だという、ベレ帽をかぶっていた青年は、その顔なんか<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>には覚えていなかったが、それだけ一層、その男の漠とした存在は、何かしら私を不安にさせずにはおかなかった。彼女はその画家のことはそれっきり何んにも私に話さなかったが、ひょっとしたら彼女はそれまでに何遍もその画家に出会っており、そして私の知らない間に互に親しくなりだしているのではないかと云うような<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>さえ私は持ちはじめていた。そうして或る日のこと、そういう私の懸念を一そう増させずにはおかないような出会いを私たちはその画家としたのだった。――やっと彼女が花屋の絵を描き上げたので、次の絵を描く場所を<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>すために、或る晴れた朝、私は彼女と<ruby><rb>一緒</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>に、すこし遠いけれど、サナトリウムの方へひさしぶりで出かけてみることにした。私たちが、小さな集りのあるらしい、少人数の西洋人の姿が窓ごしにちらちら見える、教会の前を通りぬけて、その裏の、いつも<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない<ruby><rb>橡</rb><rt>とち</rt></ruby>の林の中へはいろうとした<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>、私たちの行く手の、その林のなかの<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>をば、<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の男が、帽子もかぶらずに、スケッチ・ブックらしいものを手にしながら、ぶらぶらしているのを私たちは認めた。「いつかの画家さんよ……<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>、お会いしたわ」――<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのじょ</rt></ruby>にそう注意をされるまでは、私はその男が、この<ruby><rb>頃</rb><rt>ごろ</rt></ruby>何の理由もなく私を苦しめ出している、そのベレ帽の画家と同じ男であることには気づかなかった位であった。それほど私はその画家については何んにも見覚えがなかったのだ。私は、私たちの方へぶらぶら歩いてくるその男からは、つとめて私の視線をはずしながら、急に早口にとりとめもないことを彼女に話し出した。私は彼女が私の話に気をとられてその男の方へはあんまり注意しないようにと<ruby><rb>仕掛</rb><rt>しか</rt></ruby>けたのだ。しかし彼女は私の言うことには何んだか気がなさそうに<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えるだけであった。そして彼女は、私がそばにいるのでひどく<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>にされたような好意に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちた眼ざしで、その男の方を見つめていた。少くとも私にはそんな気がした。すると、その男の方でも、私の知らないこの前の出会いの際に、彼女と<ruby><rb>交換</rb><rt>こうかん</rt></ruby>した親しげな視線の続きとでも言ったような意味ありげな視線を彼女の方へ投げかけながら、そして思い出し笑いのようなものをふいと浮べながら、軽く<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をして、私たちのそばを通り抜けて行った。

私はなんだか急に考えごとでもし出したかのように黙り込んだ。私たちはその<ruby><rb>橡</rb><rt>とち</rt></ruby>の林を通り抜けて、いつか小さな美しい流れに沿い出していた。しかし私はいま自分の感じていることが<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで真実であるのか、そんなことはみんな根も葉もないことなんじゃないかと疑ったりしながら、気むずかしそうに<ruby><rb>沈黙</rb><rt>ちんもく</rt></ruby>したまま、自分の<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>ばかり見て歩いていた。そうして私は、そんな自分の疑いに対するはっきりした答えを<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるかのように、いつまでも彼女の方を見ようとはしないでいた。が、とうとう私は<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>し切れなくなってそんな沈黙の中からそっと彼女の横顔を見上げた。そして私は思ったよりももっと彼女がその沈黙に苦しんでいるらしいのを見抜いた。そういう彼女の打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れたような様子は私にはたまらないほどいじらしく見えた。<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>、<ruby><rb>後悔</rb><rt>こうかい</rt></ruby>のようなもので私の胸は一ぱいになった。……私がほとんど<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>で彼女の<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>をつかまえたのは、そんなこんがらがった気持の中でだった。彼女はちょっと私に<ruby><rb>抵抗</rb><rt>ていこう</rt></ruby>しかけたが、とうとうその腕を私の腕のなかに切なそうに任せた。……それから数分<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってから初めて、私はやっと自分の腕の中に彼女がいることに気がついたように、何んともかんとも言えない<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばしさを感じ出した。

私たちは、少しぎごちなさそうに腕を組んだまま、例の小さな木橋を渡った。それからその流れの反対の側に沿って、サナトリウムへの道に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った。その途中にずっと続いている<ruby><rb>野薔薇</rb><rt>のばら</rt></ruby>の<ruby><rb>生墻</rb><rt>いけがき</rt></ruby>は、<ruby><rb>既</rb><rt>すで</rt></ruby>にその白い小さな花をことごとく失った跡だった。そんな葉ばかりになってしまっている野薔薇の茂みは、それらが花を一ぱいつけていた頃のことを、殆んど強制的に私に思い出させはしたけれど、私はそれがどんなになっていようとも、もうそれには少しも感動できなくなっていた。それほどあの頃からすべてが変っていた。そしてそれが何もかも自分の責任のような気がされて、私はふっと気が<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いだ。……が、それらの生墻の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス<ruby><rb>菊</rb><rt>ぎく</rt></ruby>がいまを<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その<ruby><rb>日光室</rb><rt>サン・ルウム</rt></ruby>を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には<ruby><rb>快癒期</rb><rt>かいゆき</rt></ruby>の<ruby><rb>患者</rb><rt>かんじゃ</rt></ruby>らしい外国人が一人、<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>に<ruby><rb>靠</rb><rt>もた</rt></ruby>れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>げな<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしで眺め出した。――それから私たちは、なおもその流れに沿って、そこいらへんから次第にアカシアの木立に<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>どられだす川沿いの道を、何処までも真直に進んで行った。それらのアカシアの花ざかりだった頃は、その道はあんなにも<ruby><rb>足触</rb><rt>あしざわ</rt></ruby>りが<ruby><rb>軟</rb><rt>やわら</rt></ruby>かで、<ruby><rb>新鮮</rb><rt>しんせん</rt></ruby>な感じがしていたのに、今はもう、あちこちに<ruby><rb>凸凹</rb><rt>でこぼこ</rt></ruby>ができ、<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>らしくなり、何んだかいやな<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いさえしていた。その上、それらのアカシアの木立は、まだみんな小さいので、はげしい日光から私たちを<ruby><rb>充分</rb><rt>じゅうぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>うことが出来ないので、その川沿いの道はそれまでの道よりも一層暑いように思えた。私たちは途中からそれらのアカシアの間をくぐり抜けて、丁度サナトリウムの裏手にあたる、一面に<ruby><rb>葦</rb><rt>よし</rt></ruby>の這っている、いくぶん<ruby><rb>荒涼</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>とした感じのする大きな空地へ出た。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>からは、村の<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>が、そのまわりの<ruby><rb>数箇</rb><rt>すうこ</rt></ruby>の小山に<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>されながら、私たちの殆んど真向うに<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。――<ruby><rb>梅雨期</rb><rt>ばいうき</rt></ruby>には、その頃の私自身の心の状態のせいだったかも知れないが、その奥には何かしら神秘的なものがあるように思えてならなかった。その峠も、いまは何物をも燃やさずにはおかないような夏の光線を全身に浴びながら、何んだか<ruby><rb>炎</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のようにゆらめいているような感じで、私たちに<ruby><rb>迫</rb><rt>せま</rt></ruby>っていた。……

彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウムの赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。そしてそれを適当な角度から描くために、そんなはげしい光線の直射するのにも<ruby><rb>無頓著</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>のように、その空地のやや小高いところを選ぶと、<ruby><rb>三脚台</rb><rt>さんきゃくだい</rt></ruby>を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えて、その上へ腰かけ、<ruby><rb>斜</rb><rt>なな</rt></ruby>めにかぶった運動帽の下からときどきまぶしそうな顔を持ち上げながら、その下図をとりだした。……私は彼女の仕事の<ruby><rb>邪魔</rb><rt>じゃま</rt></ruby>にならないように、いつものように彼女を其処に一人きり残しながら、再びさっきの土手に出て、やや大きなアカシアの<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>を選んで、そこに腰を下ろしていた。そうして私の前の小さな流れの縁を一羽の<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>が<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しそうにあっちこっち飛び歩いているのにぼんやり見入っていると、突然、私の背後のサナトリウムの方からその土手をうんうん言いながら重たそうに荷車を引いてくる者があるので、私は道をあけようとして立ち上った。見ると、それは一台の<ruby><rb>塵芥車</rb><rt>ごみぐるま</rt></ruby>だった。私は、とんでもないものがこんなところを通るんだなあと思いながら、道ばたの<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の中へすっぽりと<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を入れながら、よそっぽを向いていた。が、その塵芥車がやっと私の背後を通り過ぎたらしいので<ruby><rb>何気</rb><rt>なにげ</rt></ruby>なくちらりとそれへ目をやると、その箱車のなかには、<ruby><rb>鑵詰</rb><rt>かんづめ</rt></ruby>の鑵やら、<ruby><rb>唐</rb><rt>とう</rt></ruby>もろこしの皮やら、英字新聞の黄ばんだのやら、草花の<ruby><rb>枯</rb><rt>か</rt></ruby>れたのやらが、一種汚らしい美しさで、ぎっしりと<ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>まっていた。そしてその車の通った跡には、いつまでも<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>った果物に似た<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いが<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っていた。……私はこんな塵芥車のようなものにも、いかにもこの外国人の多い村らしい独得な美しさのあるのを<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>がって、それをちょっと見送った後、再びさっきのアカシアの木蔭へぼんやり腰を下ろしていると、ものの数分と経たないうちに、私はまたしても私の背後へ近づいてくる車の音でもって、立ち上らなければならなかった。それもまた、前のとそっくり同じような、塵芥車だった。そしてそれから小一時間ばかりの間に、私はこの土手を通りすぎる同じような塵芥車を、ほとんど十台ぐらい数えることが出来た。――何処かこの先きの方にでも、きっとこの村の<ruby><rb>芥棄</rb><rt>ごみす</rt></ruby>て場があるんだなと、それにはじめて気がつくや<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>や、私は<ruby><rb>漸</rb><rt>や</rt></ruby>っとのことで、このサナトリウムの土手がこんなに凸凹になり、汚らしくなっている原因にも気がつきだした。そうしてそれとほとんど一緒に、もうこんなにこの村には<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の外国人がはいり込んでいるのかなあと思いながら、私はすこし<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられたように、いましがた私の背後を通り過ぎて行ったばかりの、その最後の<ruby><rb>塵芥車</rb><rt>ごみぐるま</rt></ruby>をいつまでも見送っていた。……

  


## 暗い道

「どっちへ向いて行くんだか、私にはちっとも分らないわ」彼女はいくらか<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ずったような声で言った。

「実は僕にも分らなくなっちゃったのさ……」私はそう返事をしながら、彼女の方を見やったが、その白い顔の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>がもうほとんど見分けられないくらいの暗さになりだしていた。実際私自身にもこんな風に私たちの歩いている<ruby><rb>山径</rb><rt>やまみち</rt></ruby>の見当がちょっと付きかねていたのだけれど、私はわざとそれを<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>のように言い<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らわせていたのだった。

――その日、私が私の「美しい村」の物語の中に<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いた、二人の<ruby><rb>老嬢</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>たちのもと住まっていた、あの<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられた、古いヴィラの話を彼女にして聞かせると、それをしきりに見たがったので、私自身はもうそんなものは見たくもなかったのだけれど、その<ruby><rb>荒</rb><rt>あ</rt></ruby>れ果てたヴェランダから<ruby><rb>夕暮</rb><rt>ゆうぐ</rt></ruby>れの眺めがいかにも美しかったのを思い出して、夕食後、ともかくもそのヴィラまで登って行ってみることにした。恐らくあの家はまだあのまんまになっているだろうと予想しながら。……が、だんだんそのヴィラが近づいてくるにつれ、私は何んだか急にそんな自分の<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>の<ruby><rb>残骸</rb><rt>ざんがい</rt></ruby>のようなものを見に行くのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な気がし出したので、そろそろ日が暮れかけて来たのをいい口実に、まだ山径がこれからなかなか大へんだからと言って、私たちはその途中から引っ返すことにした。――その帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、私はその代りに、まだ彼女が知らないというベルヴェデエルの<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>の方へ彼女を案内するため、いましがた登ってきたのとは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った山径を選んでいるうちに、どう道を<ruby><rb>間違</rb><rt>まちが</rt></ruby>えたのか、そのへんからもう下り道になってもよさそうな時分だのに、いつまでもそれが<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさ</rt></ruby>き上りになっていて、私たちはその村の中心からはますます反対の方へ向いつつあるような気がしてきた。まだこの村にこんな私の知らない部分があることを心のうちでは<ruby><rb>驚</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きながら、しかし私はそのへんをいかにも知り<ruby><rb>抜</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いているように<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いながら、さっさと彼女を導いて行った。が、私たちはともすると無言になるのだった。……いつのまにやらもうすっかり日が暮れていた。私たちの歩いている道の両側の<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>などが<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>び切って、すこし立て<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでいたりすると、私はほとんど彼女の着ているワンピイスの<ruby><rb>薔薇色</rb><rt>ばらいろ</rt></ruby>さえ見さだめがたい位であった。ただときどき彼女の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>が私の肩にぶつかるので、自分の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に彼女を近ぢかと感じながら歩いていた。そうかと思うと、木立の間からだしぬけにその<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>にあるヴィラの<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りが<ruby><rb>下枝</rb><rt>したえ</rt></ruby>ごしに私たちの肩に落ちて来て、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずに身をすり寄せていた私たちを思わず離れさせた。――そんなヴィラの数がだんだん増え出して来たらしいことが、いくらか私たちをほっとさせていた。……

突然、私は心臓をしめつけられたように立ち止まった。私はそれらのヴィラに見覚えがあり出すのと同時に、これをこのまま行けば、私がこの日頃そこに近寄るのを努めて<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けるようにしていた、私の<ruby><rb>昔</rb><rt>むかし</rt></ruby>の女友達の<ruby><rb>別荘</rb><rt>べっそう</rt></ruby>の前を通らなければならないことを認めたのだ。そして私は、その一家のものが二三日前からこの村に来ていることを宿の<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>やから聞いて知っていたのだ。しかしもうさんざん彼女を引っ張りまわした<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>だったし、私もかなり歩き<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れていたので、この上<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>り道をする気にはなれずに、私は心ならずもその別荘の前を通り抜けて行くことにした。……だんだんその別荘が近づいて来るにつれ、私はますます心臓をしめつけられるような息苦しさを覚えたが、さて、いよいよその別荘の<ruby><rb>真白</rb><rt>まっしろ</rt></ruby>な<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>が私たちの前に現われた<ruby><rb>瞬間</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>には、その柵の中の灯りの一ぱいに落ちている<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>の向うに、すっかり開け放した<ruby><rb>窓枠</rb><rt>まどわく</rt></ruby>の中から、私の見覚えのある古い<ruby><rb>円卓子</rb><rt>まるテエブル</rt></ruby>の一部が見え、その上には、人々が食事から立ち去ってからまだ間もないと言ったように、丸められたナプキンだの、果物の皮の残っている<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>だの、<ruby><rb>珈琲茶碗</rb><rt>コオヒイぢゃわん</rt></ruby>だのが、まだ片づけられずに散らかったまま、まぶしいくらい<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の光りを浴びてきらきらと光っているのを、私は自分でも意外なくらいな冷静さをもって認めることが出来た。いい<ruby><rb>具合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も居合わさなかったせいか、それともまたそれは、その瞬間までに、私のなかの不安が、既にその絶頂を通り<ruby><rb>越</rb><rt>こ</rt></ruby>してしまっていたせいであったろうか？　ともかくも、私はかなり平静に近い気持で、ただちょっと足を早めたきりで、その白い柵の前を通り過ぎることが出来た。……そんな私の心のなかの<ruby><rb>動揺</rb><rt>どうよう</rt></ruby>には気づこう<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>がなく、彼女は急に早足になった私のあとから、何んだか<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうについて来ながら、

「まだ、なかなか？」とすこし不安らしく私に声をかけた。

「うん……ますます見当がつかないんだ」

「そんなことばかし言って……」彼女はそんな私の本気とも冗談ともつかないような態度にとうとう腹を立てたように見える。そうしてそんな私を非難するような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>で、

「早く帰らない？」と言った。

「じゃ、一人でお帰りなさい」と私はいまはもう<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>らしいものさえ<ruby><rb>浮</rb><rt>うか</rt></ruby>べながら返事をした。

「意地わる！」

「だって、ほら、其処知っているでしょう？」と私は、私たちの行く手の暗がりの中に小さなせせらぎが音立てているのを指しながら、「水車の道じゃないの？」と快活そうに言った。「まあ、本当に……」と彼女はまだ何んだかそれが信じられないと言った風に自分の周囲を見廻わしていた。私たちはすでに、林のなかを抜け出して、昔、水車場のあった跡に<ruby><rb>佇</rb><rt>たた</rt></ruby>ずんでいたのだった。――そこで道が<ruby><rb>二股</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>に分かれて、一方は「水車の道」、もう一方は「本通り」へと通じていた。どっちからでも、もうすぐ其処の宿屋へは帰れるのだが、水車の道の方からだと例のかなり<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい坂道を下りなければならなかったので、私たちは本通りの方から帰ることにした。で、その後者の道をとって、その<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>きあたりから本通りの方へ曲ろうとした<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、私は、その本通りの入口の、ちょうど宿屋の前あたりから、ぽうっと<ruby><rb>薄明</rb><rt>うすあか</rt></ruby>るくなりだしている<ruby><rb>圏</rb><rt>わ</rt></ruby>の中に、五六人、一かたまりになった<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>がこちらを向いて歩いてくるのを認めた。私はどきっとして立ち止まった。どうやらそれが私の昔の女友達どもらしく見えたからだ。……私は急に、私のそばにいる彼女の腕をとって、向うから苦手の人が来るらしいので<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まると<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんどう</rt></ruby>くさいからと早口に<ruby><rb>言訣</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>しながら、いま来たばかりの水車場の方へ引っ返していった。そうして再びさっきの小川の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>に<ruby><rb>並</rb><rt>なら</rt></ruby>んで立ちながら、その人達がそのまま本通りの方から来るか、それとも宿屋の裏の坂を抜けてくるか、どっちから来るだろうと、両方の道へ注意を配っていた。……そしてそっちにばかり注意を<ruby><rb>奪</rb><rt>うば</rt></ruby>われていたので、私たちは、私たちの背後の、いましがた其処から私たちの出てきたばかりの林の中から、数人のものが<ruby><rb>懐中電気</rb><rt>かいちゅうでんき</rt></ruby>を照らしながら、出てくるのには全然気がつかずにいた。<ruby><rb>突然</rb><rt>とつぜん</rt></ruby>私たちはその懐中電気のまぶしい光りを浴びせられた。私たちはびっくりしてその小川の縁を<ruby><rb>離</rb><rt>はな</rt></ruby>れた。……しかし懐中電気を手にしていた男の方でも、そんなところに思いがけず私たちが突っ立っていたのに、<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>ったらしかったが、その一人が私だと気がつくと、

「××君じゃない？」と私の名前をためらいがちに言った。そう言われて、私が一層驚いて、まぶしそうに顔をしかめながら<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り向いて見ると、それは私の学生時代からの友人であった。それと同時に、私はその友人の背後に、若い女たちが二三人、まだ<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>そうに<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしながらこちらを見つめているのに気がついた。それはその友人の若い妻君や妹たちであった。私は彼女たちにちょいと<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をして、それから気まり悪そうに微笑しながら、

「なあんだ、君たちか！　――<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>、こっちへ来たの？」

「昨日来た。さっき君んところへ寄ったら留守だと言うんで、それから細木さんのところへ行って見たんだ。あそこの家もみんな<ruby><rb>出払</rb><rt>ではら</rt></ruby>っているんだ……」

私はその友人の言葉を聞き終えるか終えないうちに、本通りの方の曲り角から一かたまりの人影がこっちへ曲って来だしたのを認めた。

「じゃあ、構わないから、<ruby><rb>僕</rb><rt>ぼく</rt></ruby>んところへ寄って行けよ」

そう言い棄てて、私はさっさと一人で水車の道の方へ歩き出した。そうして私は二三のヴィラの前を通り過ぎてから、その先きの、真っ暗だけれど、私には勝手の知れた、草ぶかい坂道をずんずん一人先きに降りていった。やがて<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の連中も、そんな私の後から<ruby><rb>一塊</rb><rt>ひとかたま</rt></ruby>りになって、一<ruby><rb>箇</rb><rt>こ</rt></ruby>の懐中電気を<ruby><rb>頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りにしながら、きゃっきゃっと言って降りて来た。……

「まあ、こんな道あるの、私、ちっとも知らなかったわ」

坂の中途で、友人の若い妻君がそんなことを誰にともなく言ったらしいのが、もうその時はその小さな坂を降り切ってしまっていた私のところまで、手にとるように聞えて来た。私は丁度、その友人の妻君も確か数年前にその坂道で私の出会った少女たちの中に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>っていたことを思い出すともなく思い出していたところだった。――その出会いは私にはあんなにも印象深いのに、<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つてのその少女たちの一人であった<ruby><rb>彼女</rb><rt>かのじょ</rt></ruby>の方では、（<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>らく他の少女たちも同様に）そんな私との出会いのことなどは少しも気に留めていないで、すっかり忘れてしまっているのかなあと思った。が、一方ではまた何んだか、そんなことを言って彼女が私をからかっているのじゃないかしら、とそんな気もされた。ひょいと彼女の口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出たらしいそんな言葉を私はひとりで気にしながら、いつまでもそっぽを向いて皆の降りてくるのを待っていると、突然、そのうちの誰かが足を<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>らして、「あっ！」と小さく<ruby><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby>んで、坂の中途にどさりと<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れたらしい気配がした。見上げると、その坂の中途にまだ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がっているらしいものがまるで花ざかりの<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>のように見えた。そして他のものがみんな立ち止まって、その一番最後に降りてきた少女の方をふり返っているのを、私はただぽかんとして<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めながら、その場を一歩も動こうとしないで突っ立っていた。そうして私は毎朝のようにこの坂を<ruby><rb>昇</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り降りしているあの<ruby><rb>跛</rb><rt>ちんば</rt></ruby>の花売りのことをひょっくり思い浮べ、あいつはまた何だってこんなあぶなっかしい坂道をわざわざ選んで通るのだろうかしらと、全然いまの場合とは何んの関係もないようなことを考え出していた。……