一

人一代の伝を<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく残そうとすれば<ruby><rb>誰人</rb><rt>だれ</rt></ruby>を伝しても一部の小冊は得られよう。ましてその閲歴は<ruby><rb>波瀾万丈</rb><rt>はらんばんじょう</rt></ruby>、我国新女優の先駆者であり、<ruby><rb>泰西</rb><rt>たいせい</rt></ruby>の劇団にもその名を輝かして来た、マダム<ruby><rb>貞奴</rb><rt>さだやっこ</rt></ruby>を、細かに書いたらばどれほど<ruby><rb>大部</rb><rt>たいぶ</rt></ruby>の人間生活の縮図が見られるであろう。あたしは暇にあかしてそうして見たかった。彼女の日常起居、生れてからの一切を<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>いて、それを忠実な自叙伝ふうな書き方にしてゆきたいと願った。

けれどもそれはまた一方には至難な事でもあった。芸術の徒とはいえ、彼女は人気を一番大切にと心がけている女優であり、またあまり過去の一切をあからさまにしたくない現在であるかも知れない。彼女の過去は亡夫<ruby><rb>川上音二郎</rb><rt>かわかみおとじろう</rt></ruby>と共に<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた辛酸であった。決して恥ずかしいことでも、打明けるに<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>するにもおよばぬものと思うが、女の身として、もうすでに帝都隠退興行までしてしまったあととて、何分世話になっている福沢氏への遠慮なども考慮したかも知れないが、その前にも二、三度<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったおり言ってみたが、微笑と軽いうなずきだけで、さて<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>になっても日を定めて語ろうとした事のなかったのは、全くあの人にとっても遺憾なことであった。私は貞奴の女優隠退を表面だけ華やかなものにしないで、内容のあるものとして残しておく記念を求めたかった。そして自分勝手ではあるがわたしの一生の仕事の一つと思っている美人伝のためにも、またあの人のためにも集の一つを提供して、新女優の祖のために、特別に一冊を作りたいと思っていたが、その希望は実現されなかった。参考にしたいと思う種々の切抜き記事について、間違いはないかと<ruby><rb>聞直</rb><rt>ききなお</rt></ruby>したのにも<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>した返事は与えられなかったから、わたしは記憶を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って書くよりほか仕方がなくなってしまった。それがため、女優第一人者を、誠意をもって<ruby><rb>誤謬</rb><rt>ごびゅう</rt></ruby>なく書残しておこうとしたことが<ruby><rb>画餅</rb><rt>がべい</rt></ruby>になってしまったのを、大変残りおしく思う。

わたしの知人の一人はこういう事をいってくれた。

「花柳界には<ruby><rb>止名</rb><rt>とめな</rt></ruby>というものがあって、<ruby><rb>名妓</rb><rt>めいぎ</rt></ruby>の名をやたらに後のものに許さない。それだけの見識をそなえたものならば知らず、あまりよい名は――つまり名妓をだしたのを誇りにして、取っておきにする例がある。たとえば新橋でぽんた、<ruby><rb>芳町</rb><rt>よしちょう</rt></ruby>で<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>というように……」

その芳町の名妓<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>が貞奴であることは知らぬものもあるまい。

奴の名は二代とも名妓がつづいた。そして二代とも芳町の「奴」で通る有名な女だった。先代の奴は、美人のほまれだけ高くて早く亡びてしまった。重い肺病であったが<ruby><rb>福地桜痴居士</rb><rt>ふくちおうちこじ</rt></ruby>が死ぬまで愛して、その身も不治の病の根を受けたという事であった。後の奴が川上貞奴なのである。

貞奴に逢ったのは芝居の楽屋でだった。<ruby><rb>市村座</rb><rt>いちむらざ</rt></ruby>で菊五郎、<ruby><rb>吉右衛門</rb><rt>きちえもん</rt></ruby>の青年俳優の一座を向うへ廻して、<ruby><rb>松居松葉</rb><rt>まついしょうよう</rt></ruby>氏訳の「軍神」の一幕を出した、もう引退まえの女優生活晩年の活動時機であった。小さな花束を贈ったわたしは楽屋へ招かれていった。入口の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>には<ruby><rb>桑</rb><rt>くわ</rt></ruby>の鏡台をおいて、<ruby><rb>束髪</rb><rt>そくはつ</rt></ruby>の<ruby><rb>芳子</rb><rt>よしこ</rt></ruby>（その当時の養女、もと新橋芸者の<ruby><rb>寿福</rb><rt>じゅふく</rt></ruby>――後に<ruby><rb>蒲田</rb><rt>かまた</rt></ruby>の映画女優となった川田芳子）が<ruby><rb>女番頭</rb><rt>おんなばんとう</rt></ruby>に帯をしめてもらって、帰り仕度をしているところであった。八畳の部屋が狭いほど、花束や花輪や、贈りものが飾ってあって、腰の低い、四条派ふうの<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびょうぶ</rt></ruby>を<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした中に、鏡台、化粧品<ruby><rb>置台</rb><rt>おきだい</rt></ruby>、<ruby><rb>丸火鉢</rb><rt>まるひばち</rt></ruby>などを、後や左右にして、くるりとこっちへ<ruby><rb>向直</rb><rt>むきなお</rt></ruby>った貞奴は、あの一流の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つん</span>と前髪を突上げた束髪で、キチンと着物を着て、金の光る丸帯を幅広く結んだ姿であった。顔は<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>がこけて<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>のやや角ばっているのが目に立ったが、眼は美しかった。

とはいえ当年の面影はなく、つい<ruby><rb>少時前</rb><rt>すこしまえ</rt></ruby>舞台で見た艶麗優雅さは、衣装や<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>とともに取片附けられてしまって、やや<ruby><rb>権高</rb><rt>けんだか</rt></ruby>い令夫人ぶりであった。この女にはこういう一面があるのだなと、わたしはちょっと気持ちがハグらかされた。

わたしはそのほかに貞奴の外出姿を幾度も見かけた。多くは黒紋附きの羽織をきているが、彼女はやっぱり<ruby><rb>異国的</rb><rt>エキゾチック</rt></ruby>のおつくりの方が<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに美しかった。ある時<ruby><rb>国府津</rb><rt>こうず</rt></ruby>行の一等車に乗ったおりは純白なショールを深々と豊かにかけていたのが顔を<ruby><rb>引立</rb><rt>ひきたて</rt></ruby>て見せた。<ruby><rb>内幸町</rb><rt>うちさいわいちょう</rt></ruby>で見かけた時は<ruby><rb>腕車</rb><rt>くるま</rt></ruby>の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>かけの上まで、長い緑色のを<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>らしてかけていたが、それも大層落附いていた。

二度目に<ruby><rb>新富座</rb><rt>しんとみざ</rt></ruby>へ招かれていった時に、俳優としてあけっぱなしの彼女に、はじめて逢ったのであった。そのおりは、新派の<ruby><rb>喜多村</rb><rt>きたむら</rt></ruby>と一座をしていた。喜多村は泉鏡花氏作「<ruby><rb>滝</rb><rt>たき</rt></ruby>の<ruby><rb>白糸</rb><rt>しらいと</rt></ruby>」の、白糸という<ruby><rb>水芸</rb><rt>みずげい</rt></ruby>の<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>になっていた。貞奴はその妹分の優しい、<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい<ruby><rb>大丸髷</rb><rt>おおまるまげ</rt></ruby>の若いお嫁さんの役で、<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な、本当に<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>の貞奴の、<ruby><rb>廿代</rb><rt>はたちだい</rt></ruby>を思わせる<ruby><rb>面差</rb><rt>おもざ</rt></ruby>しをしていた。そのおりの<ruby><rb>中幕</rb><rt>なかまく</rt></ruby>に、喜多村が新しい演出ぶりを試みた、たしか『<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>』掲載の、<ruby><rb>武者小路実篤</rb><rt>むしゃのこうじさねあつ</rt></ruby>氏の一幕ものであったかと思う。殿様が<ruby><rb>恋慕</rb><rt>れんぼ</rt></ruby>していた<ruby><rb>腰元</rb><rt>こしもと</rt></ruby>が不義をして、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の若侍と並んで刑に処せられようとする三角恋愛に、悪びれずにお手打ちになろうとする女と、助かりたさと恐怖に、目の<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んでいる若侍と、一種独特な人世観を持った殿様とが登場する狂言で、殿様が喜多村<ruby><rb>緑郎</rb><rt>ろくろう</rt></ruby>、若侍が<ruby><rb>花柳章太郎</rb><rt>はなやぎしょうたろう</rt></ruby>、貞奴が腰元であった。腰元は<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>の<ruby><rb>白無垢</rb><rt>しろむく</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をひいて、<ruby><rb>水浅黄</rb><rt>みずあさぎ</rt></ruby>ちりめんの<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>を前にたらして、縄にかかって、島田の<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>を重そうに首を垂れていた。しかしその腰元の歩みぶりや、すべての挙止が、あまりにきかぬ気の貞奴まるだしであったのが物足りなかった。何故オフィリヤやデスデモナやトスカや、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>と敵将の前へ身を<ruby><rb>投</rb><rt>なげ</rt></ruby>出すヴァンナの、あの幽雅なものごしと可憐さを、自分の生れた国の女性に現せないのだろう、異国の女性に扮するときはあれほど自信のある演出するのにと思った。その幕がおわってから楽屋へ訪れたのであった。

卓にお<ruby><rb>膳立</rb><rt>ぜんだて</rt></ruby>が出来ていて、空席になっているところがわたしのために設けられた場所であった。貞奴は鏡台をうしろにして中央にいた。すぐそのとなりに福沢さんがいた。<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>の充分なのに<ruby><rb>干魚</rb><rt>ひもの</rt></ruby>がなければ食べられないといって次の間で焼かせたりした。わたしは（ああこれだな、時折舞台が御殿のような場で楽屋の方から<ruby><rb>干魚</rb><rt>ひもの</rt></ruby>の<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いがして来て、現実暴露というほどでもないが興味をさまさせるのは――）などと思っていた。福沢さんがお茶づけが食べたいというと、<ruby><rb>女茶碗</rb><rt>おんなぢゃわん</rt></ruby>のかわいいのへ盛って、<ruby><rb>象牙</rb><rt>ぞうげ</rt></ruby>の<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>をそえてもたせた。新富座の楽屋うらは<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>の方へかけて意気な<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>が多いので物売りの声がよくきこえた。すると貞奴は、

「早くあの<ruby><rb>豌豆</rb><rt>えんどう</rt></ruby>を買って<ruby><rb>頂</rb><rt>ちょう</rt></ruby>だい、塩<ruby><rb>煎</rb><rt>いり</rt></ruby>よ。」

と注文した。福沢さんがあんなものをといったが、あたしは大好きなのだからと買わせて食べながら「これは柔らかいからおいしくない」といって笑った。

そうした様子がから<ruby><rb>駄々</rb><rt>だだ</rt></ruby>っ子で、あの西洋にまで貞奴の名を<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>かして来た人とは思われないまで<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>あいがなかった。<ruby><rb>飯事</rb><rt>ままごと</rt></ruby>のように暮している新夫婦か、まだ夢のような恋をたのしんでいる情人同士のようであった。貞奴の声は柔かくあまく響いていた。

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>はね、<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>っぽちって怒鳴られたのですよ。この間はね、<ruby><rb>福桃</rb><rt>ふくもも</rt></ruby>さん、あんなに痩せたよ――ですって……」

彼女は<ruby><rb>煙草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>をくゆらしながらおかしそうに笑った。そう言われないでも気がついていたが、彼女の体はほんとに痛々しいほど<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>つれていた。肩の骨もあらわならば、手足なぞはほんとに細かった。その割に顔は痩せが目にたたない、ふくみ綿をするとすっかり昔の面影になる。

（ああ、あの眼が千両なのだ）

あの眼が光彩をはなつうちは<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>たる佳人になって永久に彼女は若いと眺められた。福沢粋士にせよこの人にもせよ、見えすいた、そんな遊戯気分を繰返すのは、<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めた心には随分さびしいであろうが、それを<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうにしている貞奴をわたしは貞淑なものだと思った。彼女は荒い柄のお<ruby><rb>召</rb><rt>めし</rt></ruby>のドテラに<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を重ね、<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>の男帯をくるくると巻きつけ、髪は楽屋<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>にひっつめていた。そうしたおりの顔は夫人姿の時よりもずっと趣があって懐しみがあった。喜多村が<ruby><rb>旅行</rb><rt>たびゆ</rt></ruby>きの<ruby><rb>役</rb><rt>やく</rt></ruby>のことで、白糸の後の幕の扮装のままでくると、手軽に飲みこみよく話をはこんでいた。

「とても僕たちにはあれだけは分らない。意味の通じないことを二言三言いって、そのままで別れて幾日か立つと舞台で逢うのだ。それがちゃんと具合よくいってるのだから分らない。」

福沢さんが、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の人とそんなことを話合っているのを聴き残して、わたしはまた<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>の見物席の方へかえって来た。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くするとドカドカと二、三人の人が、入りのすくない<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>の、私のすぐ後へ来た様子だったが、その折は貞奴の<ruby><rb>出場</rb><rt>でば</rt></ruby>になっていた。

「ねえ、僕が川上の世話を焼きすぎるといって心配したり、かれこれいうものがあるけれど、男は女に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れているに限ると思うのです。」

そういう<ruby><rb>特種</rb><rt>とくしゅ</rt></ruby>の社会哲学を、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>が誰に語っているのかと思えば、<ruby><rb>聴手</rb><rt>ききて</rt></ruby>には<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に耳のないわたしへで、語りかけるのは福沢氏だった。わたしは<ruby><rb>微笑</rb><rt>わらい</rt></ruby>を<ruby><rb>含</rb><rt>か</rt></ruby>みながら<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になって、そのくせ後へはむきもせずに耳をすましていた。

「これが男に惚れこんでごらんなさい。なかなか大変なことになる。<ruby><rb>印形</rb><rt>いんぎょう</rt></ruby>も<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る。名誉もかけなければならない。万が一のときは、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>は見そこなったのだなんていう事は<ruby><rb>逃口上</rb><rt>にげこうじょう</rt></ruby>にしかならない。一たん惚れたら全部でなければならないから――<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>へゆくと女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらいなものだから。」

わたしはなるほどと思った。事業家の恋愛は妙な原則があるものだと感じた。しかし私はまるであべこべなことを感じたのであった。男同士が人物を見込んでの関係は――単に商才や手腕に惚れ込んだのは、どん底にぶつかったところが――<ruby><rb>自今</rb><rt>いま</rt></ruby>の世相から見て、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をかけたいわゆる男の、武士道的な誓約のある事を、<ruby><rb>寡聞</rb><rt>かぶん</rt></ruby>にして知らないから――物質と社会上の位置とを失えば、あるいは低めれば<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>むのである。男女の愛情はそうはゆかない。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>い表面は何事もなかったおりは、あるいはダイヤモンド、おつきあい、着物、家ぐらいですむかも知れないが、それは悲しい真に<ruby><rb>貧乏</rb><rt>プーア</rt></ruby>な恋愛で、そんな<ruby><rb>水準</rb><rt>レベル</rt></ruby>におかれた恋愛で満足している男女がありとすれば、実にお気の毒なものといわなければならない。わたしは言う、感情、感覚、全精神を打込んだ男女恋愛のどん底は魂の交感であり、命の<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みあいである。死と生が<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にあるばかりで何物をもまじえることの出来ない絶対のものであらねばならぬ。

（けれどこの人は、愛するものにとはいわなかった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">惚れた</span>という普通軽く言いはなされる言葉をつかった。そこに用意があるのかも知れない。）

と思うとまた貞奴の、先刻の<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めきっていて陶酔しているようなとりなしが目に浮んだ。

では白熱時代の貞奴は？

わたしは急がずに書いてゆこう。四、五年前に京都から来て内幸町の貞奴の家へ<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をぬいだ、<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>のある老妓はこう言ったことがある。

「芝居から帰ると二階へあがって、寝る前に白<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>をあがるのえ、わたしもお<ruby><rb>相伴</rb><rt>しょうばん</rt></ruby>するわ。それから寝るまで話をします。けれど、川上さんのお<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>には私が毎日拝んでおいてあげます。お貞さん<ruby><rb>香華</rb><rt>こうげ</rt></ruby>もあげやせん。あの人は強い人で、しまいには川上さんとも仲がようのうて、あっちの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>とこっちの室とに別れて、財産も別だったような――」

この老妓の談話は<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しかった。香華を<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けないゆえ不貞だというようにもきこえたが、あれほど立派に川上の意志をついでいれば、それをこそ川上は悦んでよいのである。仲がよくなくなったといわれた亡夫の意志を、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>までも<ruby><rb>続</rb><rt>つ</rt></ruby>いで名声を持してゆこうとするのには、どれ位人知れぬ苦労があったか知れはしない。あの勝気な松井須磨子が、人気のある盛りの身で、一人になれば、<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>自由でありそうなものに思われてさえ、先生<ruby><rb>抱月</rb><rt>ほうげつ</rt></ruby>氏に別れては、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>なしでは突進も出来なかったではないか。それをもう衰運であり、他に彼女を引立てて、一座の<ruby><rb>明星</rb><rt>プリマドンナ</rt></ruby>と輝かせ得るほどの<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>かたをもっていなかった彼女が、貞奴の名を忘れないものにさせるのにどんな気苦労をしたか――老妓は金銭問題のことを言ったが、多年、川上のためには、彼女は全身を<ruby><rb>投</rb><rt>なげ</rt></ruby>出して来た人である。<ruby><rb>僅少</rb><rt>わずか</rt></ruby>の<ruby><rb>貯蓄</rb><rt>たくわえ</rt></ruby>で夫妻が冷たくなろうとは思われる理由がない。老妓の推測は自分だけの心にしかわからなかったのであろう。老妓の目に夫妻の金銭問題と見えたのは、事業と一家の経済との区別をたてたのを悪くとったのではあるまいか？　彼女も女である。ことに気は剛でも<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は<ruby><rb>繊弱</rb><rt>かよわ</rt></ruby>い。心の<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れに<ruby><rb>撓</rb><rt>う</rt></ruby>むこともあったであろう。そういうおり夫の果しもない事業慾に――それもありふれた事をきらう<ruby><rb>大懸</rb><rt>おおがか</rt></ruby>りの仕事に、何もかも投じてしまう<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>のあるのを知って、せめて<ruby><rb>後顧</rb><rt>こうこ</rt></ruby>の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いのないようにと考えたのではなかろうか。それはあの勝気な女性にも、長い間の辛労を、<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>困苦を思出すと、もう欠乏には堪えられそうもないと思うような、彼女の年が用意をさせたのでもあろうか――

川上が<ruby><rb>亡</rb><rt>なく</rt></ruby>なるすこし前の事であった。貞奴夫婦を箱根で見かけた時は、貞奴は浴衣がけで宮の下から塔の沢まで来た。その折など決して彼女が、自分の<ruby><rb>財袋</rb><rt>たくわえ</rt></ruby>だけ重くしている人とは見られなかった。彼女は夫のためにはいかにも<ruby><rb>真率</rb><rt>しんそつ</rt></ruby>で、赤裸々でつくしていたと、わたしは思っている。<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>で自我のつよい芸術家同士は、ときに反感の眼をむいて<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みあったことがあったかも知れない、あるいは川上の晩年には互いの心に<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りが出て、そういう日が多かったかも知れない。けれどもわたしは貞奴を貞婦だと思う。

気性もの、意地で突っ張ってゆく、何処までも弱い涙を見せまいとする女――そういう人に貞奴も生れついているようだ。そうした生れだちのものは損なのは知れている。女性は気弱く見える方が<ruby><rb>強靭</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>だ。しっかりと自分だけを保護して、そして比較的安全に他人の影にかくれて根強く<ruby><rb>棲息</rb><rt>せいそく</rt></ruby>する。強気のものは我に頼んで、力の折れやすいのを<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>らずに一気に事を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し遂げようとする。ことに義侠心と同情心の強いものがより多く一本気で向う見ずである。

わたしは自分の気質からおして、何でもかでもそうだと貞奴をこの<ruby><rb>鋳型</rb><rt>いがた</rt></ruby>に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めようとするのではないが、彼女も正直な負けずぎらいであったろうと思っている。そしてそういう気質のものが胸算用をしいしい川上を助けたとはどうしても思われない。彼女は強い、それこそ、身を炎にしてしまいそうな自分自身の信仰を傾け尽して、そこに幾分かの好奇心を交えて、夫川上の事業を助けたのであろう。そこにはまた、彼女の生れた血が、伝統的義侠と<ruby><rb>物好</rb><rt>ものずき</rt></ruby>な江戸人の特色を多く含んでいた事や、気負い<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>の養母に育てられた事や、芝居と小説の架空人物に自らをよそえた、偽りの生活を享楽している中に住んで、不安もなく、むしろ面白おかしく日を送っていた若き日のことであるゆえ、彼女は自分というものの力が、夫にとって、そのまた新らしい事業にとって、どれほど有力なものであるかと知ったときに、全く献身的な、多少冷静に考えるものには、無鉄砲な遊戯と見えるほどな冒険も<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てしたのであろう。そうした人が金銭のことから他人がましくなろうはずはない。もしなったとすれば、それは夫妻の内部から<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>が、表面にまで及ぼしてきて、物質関係まで他人がましくなったのだと思わなければならない。その折はすでに愛情は冷却して、そのくせ女の方は、あまり高価な、かけがえのない犠牲を払って来た若き日の、あの<ruby><rb>尊</rb><rt>とう</rt></ruby>とかりし我熱情の、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに消耗された事を思い嘆くあまりの、焦燥から来た我執とみなければなるまい。

けれど、もし仮にそうであったとすれば貞奴の思違いであった。彼女は夫を助けたのであろう。夫のために犠牲として、夫の事業の<ruby><rb>傀儡</rb><rt>かいらい</rt></ruby>となったのであろう。けれどそれは最初のことで、運命は転換した。演劇に新派を建立し、飜訳劇に彼地の風俗人情、思想をいちはやく紹介した川上の事業はとにかく成功した。かげでこそオッペケペなぞと旗上げ当時を回想して<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>するものもあったが、演劇界に新たな一線を<ruby><rb>劃</rb><rt>かく</rt></ruby>すだけのことを川上はやり通した。そして、それと同時に、川上の成功に比して劣らぬ地歩を貞奴もしめたのである。<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>に堪え得た彼女の体が生みだした成功と名誉である。けれど、けれど、けれど、其処に川上という具眼者がなくて彼女の今日があったであろうか。

いえ、それは誰れよりもよく、当の貞奴が知っている。彼女は一も川上、二も川上と、夫を立てていた。負けぬ気の彼女も川上には心服していた。それはどのような英雄、豪傑にも裏はある。美点も弱点も、妻と夫ほど知り尽すものがあろうか。<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>を<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>とおもう愚者でないかぎり、他人には<ruby><rb>傑</rb><rt>えら</rt></ruby>い夫も、妻は物足らぬ<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>を知るものだ。貞奴と川上との間だけがそれらの外とはいえない。それですら貞奴は夫を傑いと思っていた。一面には<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りながら、一面には敬していたに相違ない。

罵るとは？　心中に<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>していたことである。彼女にはともすれば<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>われがたい汚辱を感じることがあるであろう。夫が<ruby><rb>無暴</rb><rt>むぼう</rt></ruby>な渡航を思立って、見も知らぬ外国へ渡り窮乏したおりのことである。また一座十九人に、食物も与えられなかったおりのことである。雪のモスクワで――さまよいあかした<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>で――彼女が身を投捨て人々の急を救ったといわれている。それは彼女にも苦痛な思出であったであろう。それかあらぬか<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>には、折々川上が貞奴に<ruby><rb>辱</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめられていたこともあるといわれた。

敬さなければならない第一は、いうまでもなく彼女が女優として舞台生活をする第一歩を与え導かれたことである。彼女の夫が彼女を舞台にたたせたのは、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の必要から来た――あるいは人気取り策であったかも知れなかった。けれど、その当否はともかくとして、我国の、新女優の先駆者としては、<ruby><rb>此後</rb><rt>こんご</rt></ruby>どれほどの名女優が出ようとも、川上貞奴に先覚者の栄冠はさずけなければなるまい。技芸はどうでも、顔のよしあしは<ruby><rb>如何</rb><rt>どう</rt></ruby>でも、ただそれだけでも残り<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まる名であるのに、何という運のよいことか、貞奴は<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>であり、舞台も<ruby><rb>忽</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かでない。彼女は第二の<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>のお国であって、お国より世界的の女優となった。

人はあるいは時勢がそうさせたのだというかも知れない。なるほど彼女は幸運な時に出たのである。とはいえ世人の要求よりはずっと早く彼女は生れ、そして思いがけぬ地歩を占めている。松井須磨子の名は先輩の彼女より名高く人気があるように思われたが、とても貞奴の盛時の素晴しかったのには及ばない。悲しくも年を取るという事が何よりも争われない人気の消長であるのと、よい指導者を持ったと、持たないとの<ruby><rb>懸隔</rb><rt>かけへだて</rt></ruby>が、あの粗野な、とても優雅な感情の持主にはなれない、<ruby><rb>女酋長</rb><rt>おんなしゅうちょう</rt></ruby>のような須磨子を劇界の女王、<ruby><rb>明星</rb><rt>プリマドンナ</rt></ruby>とした。貞奴に学問はなくとも、もすこし時代の潮流を見るの<ruby><rb>明</rb><rt>めい</rt></ruby>があったならば、何処までも彼女は中央劇壇の<ruby><rb>主星</rb><rt>スター</rt></ruby>であったであろう。創作力のない彼女は、川上<ruby><rb>歿後</rb><rt>ぼつご</rt></ruby>も彼れによって<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めてもらった俳優の資格を保守するに過ぎなかったが、時流はグングンと急激に変っていった。彼女は端の方へ押流され片寄せられてしまって、早くも引退を名にした興行で地方を廻らなければならないようにされてしまった。時代の要求は女優を必要とし、多くの急造女優は消えたり出たりしている。帝劇が十年の月日のうちに候補者を絶えず補充しながらも、律子、嘉久子、浪子の第一期生のうちの幾人かを収穫したにすぎず、あとはまだ未知数になっている。その他の劇団では何もかもたった一人の須磨子を死なせてしまっては、もうあとは語るにも足りぬ有様となってしまった。

そんなであるに、もう貞奴は忘れられたものになっている。彼女はもうお婆さんであるから人気をひかないというような、当事者の思いあまりからばかり、彼女が圏外に<ruby><rb>跳退</rb><rt>はねの</rt></ruby>けられたのではなく、若いおり<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>であった彼女の頭が、すこし<ruby><rb>頑迷</rb><rt>がんめい</rt></ruby>になったためではあるまいか、若いうちは皮相な芸でも突きこんでゆこうとする勇気があった。後にはただ繰返しにすぎないものとなって、すこしの進境もなく、理解のともなわぬ、ただお芝居をするだけになった芸道の堕落のためだと思う。そうした真価の暴露されたのは、川上を失ったためであるといって好いであろう。

川上とて、いまも生きて舞台に立っていたならば、新派創造時代の<ruby><rb>雑駁</rb><rt>ざっぱく</rt></ruby>な面影をとどめていて、むしろ恥多き晩年であったかもしれない。しかし彼れが動かずに、いつまでも自分に固定していようとは思われない。一層彼れは黒幕になって画策したことであろう。彼れはきっと女優全盛期に向っている機運をはずさず、貞奴をもっと高める工夫をこらしたに違いない。

それとても、彼女が願うように――いま福沢さんが後援しているように――表面だけ<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かしの興行政策をとったかも知れない、貞奴自身の望みとあれば……

貞奴に惜しむのは功なり名遂げてという念をおこさずに、何処までも芸術と<ruby><rb>討死</rb><rt>うちじに</rt></ruby>の覚悟のなかった事である。努力が足りなかったと思う。わたしのいう努力とは、勢力運動のことではない。教養の事である。新時代に適するように頭を作る必要であった。そしたらいま彼女はどんな位置にいられたろう。芸術に<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>のあるはずはない。

二

貞奴は導かれて行きさえすればきっと進んでゆく人である。あるいは、もうあれだけで充分ではないか、随分花も咲かせて来た、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことは後のものにまかせて、ちっとは残しておいてやった方がよいと言うものがあるかも知れない。それは貞奴の生涯の、前半生の<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>だけを繰ってそれで足れりとする人のいう事である。何にも完全はのぞまれないとしても、わたしという慾張りは、おなじ時代に生れた女性の、一方の代表者を、よりよく、より輝かしい光彩をそえて、終りまでの頁を、立派なものにして残したいと望んだからであった。小さな断片でも永久に亡びない芸術品はあるが、貞奴のそれは大きく、広く、波動に包まれた響きの結晶である。それが末になって崩れていたならば、折角築きあげられたものの形を<ruby><rb>完全</rb><rt>なさ</rt></ruby>ないではないか、わたしの理想からいえば、貞奴の身体が晩年にだけせめて楽をしようとするのに同情しながらも、それを許したくなく思った。芸術に生き、芸術に滅びてもらいたかった。<ruby><rb>雄々</rb><rt>おお</rt></ruby>しく戦って、<ruby><rb>痩枯</rb><rt>やせが</rt></ruby>れた<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を舞台に横たえたとき、わたしたちはどんなに、どんなに彼女のために涙をおしまないだろう。讃美するだろう。美しい女優たちは、自分たちの前にたって<ruby><rb>荊棘</rb><rt>いばら</rt></ruby>の道を死ぬまで切りひらいた<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>の足<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>平伏</rb><rt>ひれふ</rt></ruby>して、感謝の涙に死体の<ruby><rb>裳裾</rb><rt>もすそ</rt></ruby>をぬらし、額に接吻し、<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>ぐる花に彼女を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めつくすであろう。詩人の群はいみじき<ruby><rb>挽歌</rb><rt>ばんか</rt></ruby>を<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>って<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の前を練りあるくであろう。楽人は<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>みの曲を奏し、市人は感嘆の声をおしまず、文章家は彼女が生れたおりから死までが、かくなくてはならぬ人に生れたことを、<ruby><rb>端厳</rb><rt>たんごん</rt></ruby>な筆に<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>りあわせたであろう。わたしはそうした終りを最初の女優のこの人に望んだ。そう望むのが不当であろうとは思っていない。

引退のおりの配りものである茶碗には自筆で、

<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>ものがれ住むべく野菊かな

の詠がある。自選であるか、自詠であるかどうかは知らないが、それにしても最初の句の「ともかくも」とは<ruby><rb>拠</rb><rt>よん</rt></ruby>どころなくという意味も含んでいる。仕方がないからとの<ruby><rb>捨鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>もある。まあこんな事にしておいてという<ruby><rb>糊塗</rb><rt>こと</rt></ruby>した気味もある。どこやらに押付けたものを<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めていて不平がある句といってもよい。「とりあえず」「どうやらこうやら」という意にも訳せないことはないが、それでは嘘になる。何故ならば、彼女の引退は突然の思立ちかも知れないが、そうした動機が読みこまれているようにはとれないほど準備した興行ぶりであった。住む家もこれからの生活も安定なものである事は誰れも知ったことで、無常を感じたり、禅機などから一転して急に世からのがれたくなったのではない事はあんまり知れすぎていた。それゆえに、草の中へでもかくれてしまおうというような「とりあえず」には思いおよぶことが出来ない。もしもまた、亡夫川上の墓石もたてたから、これをよい時機として役者を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めようとしたのであったならば、貞奴の光彩のなくなったのも<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もだと、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かなければならないのは、あれほどの人でも役者をただ商売としていたかと思うそれである。

思わずも憎まれ口になりかかった。わたしがそう言うのも、その実は、この女優の引退をおくるに世間があんまり物忘れが早くて、案外同情を寄せなかったことに憤慨したゆえでもあった。わたしはせめてこの<ruby><rb>優</rb><rt>ひと</rt></ruby>に<ruby><rb>培養</rb><rt>つちかわ</rt></ruby>れた帝劇の女優たちだけでも、もすこし微意を表して、所属劇場で許さなくとも、女優たちの運動があって、かの女の最終の舞台を飾り、淋しい心であろう先輩を悦ばせてもよかったであろうにと思った。

彼女は日本の代表的名女優として海外にまでその名を知られている。かえって日本においてより外国での方が名声は<ruby><rb>嘖々</rb><rt>さくさく</rt></ruby>としている。進取<ruby><rb>邁進</rb><rt>まいしん</rt></ruby>した彼女のあとにつづいたものは一人もない。もうその<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>は十幾年になるが、一人として彼女の<ruby><rb>塁</rb><rt>るい</rt></ruby>を<ruby><rb>摩</rb><rt>ま</rt></ruby>したものはないではないか。それは誰れでも自信はあるであろう。貞奴に負けるものかとの自負はあっても、他から見るとそうは許されぬ。それは彼女の技芸そのものよりは度胸が、容姿が、どんな大都会へ出ても、大劇場へ行っても悪びれさせないだけの資格をそなえている。貞奴のあの魅惑のある<ruby><rb>艶冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>な<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みとあの<ruby><rb>嫋々</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>たる悩ましさと、あの<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>たる<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な風姿とは、いまのところ他の女優の、誰れ一人が及びもつかない<ruby><rb>魅力</rb><rt>チャーム</rt></ruby>と風趣とをもっている。彼の地の劇界で、この極東の、たった一人しかなかった最初の女優に、<ruby><rb>梨花</rb><rt>りか</rt></ruby>の雨に悩んだような<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を見<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>して、どんなに驚異の眼を見張ったであろう。彼女のその<ruby><rb>手嫋</rb><rt>たおや</rt></ruby>かな、いかにも<ruby><rb>手嫋女</rb><rt>たおやめ</rt></ruby>といった風情が、すっかり彼地の人の心を<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えてしまった。あの強い意志の人の舞台が、こうまで可憐であろうとは、ほんとに見ぬ人には信じられないほどである。それはわたしの<ruby><rb>贔屓目</rb><rt>ひいきめ</rt></ruby>がそう言わせるのではない。彼地の最高の劇評家にも認められた。アーサー・シモンズも著書の頁のいく部分を彼女のために<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いた。

それは彼女の過去の辛苦が咲かせた花であろう。外国へ彼女が残して来た日本女の印象が、決してはずかしくないものであったことだけでも、後から出たものは感謝しなければならない。<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のものは時代の要求によって生れて来たとはいえ、彼女の成功を見せた事が<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>になっている事はいうまでもない。彼女が海の外へ出ていてした仕事も、<ruby><rb>帰朝</rb><rt>かえ</rt></ruby>って来て当時の人に目新しい扮装ぶりを見せたのも、現今の女優のまだ赤ん坊であったころのことである。策士川上が貞奴の名を揚げるために<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>と、世人の好奇心をひくような<ruby><rb>物語</rb><rt>ローマンス</rt></ruby>を案出するのであろうとはいわれたが、彼女の技芸に、<ruby><rb>姿色</rb><rt>ししょく</rt></ruby>に、魅惑されたものは多かった。それは全く、彼女によって示された、「祖国」のヒロインや「オセロ」のデスデモナなぞは、今日の日本劇壇にもちょっと発見することが困難であろうと思うほど立派なもので、ありふれた貧弱なものではなかった。最初の女優を迎えた物珍らしさと、<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>する泰西の劇をその美貌の女優を通して見るという事が、どれほど若い者の心を動かしたか知れなかった。京都で大学生が血書をして<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ない思いのあまりを言い入れたとかいうような事は、貞奴の全盛期にはすこしも珍らしい出来ごとではない。そんな事に耳をかしていたならば、おそらくはも一人<ruby><rb>別</rb><rt>べつ</rt></ruby>に彼女というものがあって、専念それらの手紙や会見の申込みに一々気の毒そうな顔をして断りをいったり書いたり、<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>ったり、悦んだりしていなければならないであろう。文壇の人では<ruby><rb>秋田雨雀</rb><rt>あきたうじゃく</rt></ruby>氏が貞奴心酔党の一人で、その当時<ruby><rb>早稲田</rb><rt>わせだ</rt></ruby>の学生であった紅顔の美少年秋田は、それはそれは、熱烈至純な、貞奴讃美党であった。いまでもその話が出れば秋田氏はごまかさずに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く、

「まったく病気のように心酔していたのですね、どんな事をしても見ないではいられなかったのだから」

はっきりとそう言って、古き思出もまた楽しからずやといったさまに、追憶の<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>をふくまれる。わたしの眼にも美しかった貞奴のまぼろしが浮みあがって、共に微笑しつつ、秋田さんの眼にもまだこの幻は消えぬのであろうと思うと、美の力の永遠なのと、芸術の力の支配とに驚かされる。

その話は今から十五、六年前、明治卅五、六年のことかと思う。第二回目の渡航をして西欧諸国を廻って素晴らしい人気を得た背景をもって、はじめて日本の劇壇へ貞奴が現われたころのことであった。<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>では有名な学者ウィルヒョウ博士が、最高の敬意を表して貞奴の手に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>をしたとか「トスカ」や「パトリ」の作者であるサルドーが親しく訪れたという事や、<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>の皇帝からは、ダイヤモンド入りの時計を<ruby><rb>下賜</rb><rt>かし</rt></ruby>されたという事や、いたる<ruby><rb>土地</rb><rt>ところ</rt></ruby>の大歓迎のはなしや、ホテルの階段に<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を敷き、貞奴の足が触れたといって、狂気して<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて帰ったものがあったことや、貞奴の旅情をなぐさめるためにと、旅宿の近所で花火をあげさせてばかりいた男の事や、彼女の通る<ruby><rb>街筋</rb><rt>まちすじ</rt></ruby>の群集が、「<ruby><rb>奴</rb><rt>ヤッコ</rt></ruby>、<ruby><rb>奴</rb><rt>ヤッコ</rt></ruby>」と熱狂して馬車を幾層にも<ruby><rb>取廻</rb><rt>とりま</rt></ruby>いてしまったという事や、いたるところでの成功の噂が伝わって、人気を<ruby><rb>湧</rb><rt>わき</rt></ruby>立たせた。正直な文学青年の秋田氏が、<ruby><rb>美神</rb><rt>みゅうず</rt></ruby>が急に<ruby><rb>天下</rb><rt>あまくだ</rt></ruby>ったように感激したのは当り前だった。そしてまた出現した貞奴も観衆の期待を裏切らなかったのであったから、人気はいやがうえに沸騰し、熱狂の渦をまかせた。そのおり可哀そうな青森の片田舎から出て来ていた貧乏な書生さん秋田は、何から何までも芝居の<ruby><rb>場代</rb><rt>ばだい</rt></ruby>のために売らなければならなかったのだ。場代といっても、<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>や土間の一等観覧席ではない、ほんの三階の片隅に身をやっと立たせるにすぎなかったが、それでも毎日となれば書生の身には大変なことであった。すっかり貞奴熱に<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>してしまった少年秋田は、机と書籍の幾冊かと、身につけていた着物だけは残したがあとはみんな<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しくしてしまった。しまいには部屋の畳の表までむしりとって売払い、そして毎日感激をつづけていたとさえ言われる。

こんな<ruby><rb>清教徒</rb><rt>ピュリタン</rt></ruby>の<ruby><rb>渇仰</rb><rt>かつごう</rt></ruby>を、もろもろの<ruby><rb>讃詞</rb><rt>さんじ</rt></ruby>と共に踏んで立った貞奴の得意さはどれほどであったろう。それにしても彼女におしむのは、彼女が芸を我生命として目覚め、ふるいたたなかった遺憾さである。それは余儀ない<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>から女優になったとはいえ、こうまでに成功してゆけば、どれからはいって歩んだとしても、道はひとつではないか、けれど、立脚地が違うゆえ、全生命を没頭しきれないで、ただ人気があったというだけにしてその後の研鑽<ruby><rb>琢磨</rb><rt>たくま</rt></ruby>を投げすててしまい、川上の借財をかえしたのと、立派な葬式を出したのと、石碑を建てたからよい引きしおであるというだけが、引退の理由なのが惜しい。最初から女優として立つ心はちっともなかったが、海外へ出て困窮のあまりになったのが動機であり、その後、断然<ruby><rb>廃</rb><rt>や</rt></ruby>めるつもりであったのを、夫や知己に説かれて日本の舞台へも立つようになったとはいえ、それではあまりこの女優の生涯が<ruby><rb>御他力</rb><rt>おたりき</rt></ruby>で、独創の見地がなく、女優生活の長い間に自分の使命のどんなものかを、思いあたったおりがなかったのかと、全く惜まれる。ほんとにおしい事には、芸術最高説の幾分でも力説してきかせるような人が彼女の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>近くにいなかった事である。彼女には意地が何よりの命で、<ruby><rb>意気地</rb><rt>いきじ</rt></ruby>を貫くという事がどれほど至難であり、どれほど快感であり、どれほど誇らしいものであるか知れないと思っているのであろう。功なり<ruby><rb>名</rb><rt>な</rt></ruby><ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げ、<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby><ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>くという東洋風の先例にならい、女子としては有終の美をなしたと思ったであろう。貞奴という日本新劇壇の最初にもった女優には、何処までも劇に没頭してもらいたかった。あの人の<ruby><rb>塁</rb><rt>るい</rt></ruby>を<ruby><rb>摩</rb><rt>ま</rt></ruby>そうと目標にされるような、大女優にして残したかった。こういうのも貞奴の舞台の美を愛惜するからである。

貞奴は<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>持ちだという。その癇癪が薬にもなり毒にもなったであろう。勝気で癇癪持ちに皮肉もののあるはずがない。それを<ruby><rb>亡</rb><rt>なき</rt></ruby>川上の直系の門人たちが妙な感情にとらわれて、貞奴の引退興行の相談をうけても引受けなかったり、建碑のことでも<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>を突きあっているのはあまり狭量ではあるまいか。かつて女優養生所に入所した、作家田村俊子さんは、貞奴を評して、子供っぽい可愛らしい、殊勝らしいところのある、<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しくも見えることのある地方の人の<ruby><rb>粘</rb><rt>ね</rt></ruby>ばりづよい意地でなく、江戸っ子<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>の勝気な意地でもつ人で、だから弱々と見えるときと、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へも寄りつけぬほど強い時とがあって、

「愚痴をいうのは嫌いだからだまっているけれども、何につけて人というものは深い察しのないものね」

などいってる時は、ただ普通の、美しい<ruby><rb>繊弱</rb><rt>かよわ</rt></ruby>い女性とより見えないが、ペパアミントを飲んで、<ruby><rb>気焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>を吐いている時なぞは、女でいて活社会に奮闘している勇気のほども<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれると言った。それでも芝居の<ruby><rb>楽</rb><rt>らく</rt></ruby>の日に、興行中に贈られた花の仕分けなどして、片づいて<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった部屋に、帰ろうともせず<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と、何かに<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れている姿などを見ると、ただなんとなく<ruby><rb>涙含</rb><rt>なみだぐ</rt></ruby>まれるときがある。マダム自身もそんなときは、一種の<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>を感じているのであろうともいった。

寂寞――一種の寂寞――気に<ruby><rb>驕</rb><rt>おご</rt></ruby>るもののみが味わう、一種の寂寞である。それは俊子さんも味わった。その人なればこそ、盛りの人貞奴の<ruby><rb>心裡</rb><rt>しんり</rt></ruby>の、何と名もつけようのない<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>を<ruby><rb>見逃</rb><rt>みの</rt></ruby>がさなかったのであろう。

貞奴は、故<ruby><rb>市川九女八</rb><rt>いちかわくめはち</rt></ruby>を評して、

「あの人も配偶者が<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>かったら、もすこし立派に世の中に出ていられたろうに、おしい事だ」

といったそうである。これもまた貞奴なればこそ、そうしみじみ感じたのだ。自分の幸福なのと、九女八の不幸なのとをくらべて見て、つくづくそう思ったのであろう。それから推しても貞奴が、どれほど夫を信じ、豪いと思っていたかが分る。川上にしても貞奴に対してつねに一歩譲っていた。貞奴もまた負けていなかったが、自分が思いもかけぬような名をなしたのも川上があっての事だ、夫が豪かったからである、みんなそのおかげだと敬していたと思える。そうした<ruby><rb>敬虔</rb><rt>けいけん</rt></ruby>な心持ちは、彼女の胸にいつまでも<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りへらされずに保たれていたゆえ、彼女がつくらずして可憐であり初々しいのだ。彼女の胸には<ruby><rb>恒</rb><rt>つね</rt></ruby>に、<ruby><rb>少女心</rb><rt>おとめごころ</rt></ruby>を失わずにいたに違いない。

わたしはいつであったか歌舞伎座の廊下で、ふと耳にした<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きをわすれない。それは<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な身なりをしている新橋と<ruby><rb>築地</rb><rt>つきじ</rt></ruby>辺の女人らしかったが、話はその頃<ruby><rb>噂立</rb><rt>うわさだ</rt></ruby>った、貞奴対福沢さんの問題らしかった。その一人の<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>が答えるところが耳にはいった。

「それは違うわ、<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>の<ruby><rb>妾</rb><rt>ひと</rt></ruby>はああした<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>でしょう。貞奴さんはそうじゃない、あの人のことだから、お宝のことだって、<ruby><rb>忍耐</rb><rt>がまん</rt></ruby>が出来るまでは口にする人じゃなし、それに、ああすればこうと、ポンといえば灰吹きどころじゃなく心持ちを読んで、<ruby><rb>痒</rb><rt>か</rt></ruby>ゆいところへ手の届くように、相手に口をきらせやしないから、そりゃまるで段違いだわ、人間がさ」

それだけの言葉のうちに以前の<ruby><rb>寵妓</rb><rt>ちょうぎ</rt></ruby>であって、かえり見られなくなった女と、貞奴との優劣がはっきりと分るような気がした。ほんの通り過ぎたにすぎないので、そのあとでも聴きたい話題があったかも知れない。

順序として貞奴の早いころの生活についてすこし書かなければならない。わたしがまだ<ruby><rb>稽古本</rb><rt>けいこぼん</rt></ruby>のはいったつばくろぐちを抱えて、<ruby><rb>大門通</rb><rt>おおもんどおり</rt></ruby>を<ruby><rb>住吉町</rb><rt>すみよしちょう</rt></ruby>まで歩いて<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っていたころ、芳町には<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え<ruby><rb>車</rb><rt>ぐるま</rt></ruby>のある芸妓があるといってみんなが驚いているのを聞いた。わたしの家でも抱え車は父の裁判所行きの<ruby><rb>定用</rb><rt>じょうよう</rt></ruby>のほかは乗らなかったので、何でも偉い事は父親が<ruby><rb>定木</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>であった心には、なるほど偉い芸妓だと思った。一人は<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>屋の小照といい、一人は浜田屋の<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>だと聞いていた。小照は後に<ruby><rb>伊井蓉峰</rb><rt>いいようほう</rt></ruby>の細君となったお<ruby><rb>貞</rb><rt>てい</rt></ruby>さんで、奴は川上のお<ruby><rb>貞</rb><rt>さだ</rt></ruby>さんであった。浜田屋には強いおっかさんがいるのだという事もきいたが、わたしが気をつけて見るようになってからは、これもよい<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>だった小奴という人の御神灯がさがっていて奴の名はなかった。そのうちにおなじ住吉町の、人形町通りに近い方へ、写真屋のような入口へ、黒塗の<ruby><rb>看板</rb><rt>サインプレート</rt></ruby>がかかって、それには金文字で川上音二郎としるされてあった。そして其処が奴のいるうちだと知った。またその後、大森の、汽車の線路から見えるところへ小さな洋館が立って、<ruby><rb>白堊</rb><rt>はくあ</rt></ruby>造りが<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>とは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>っているので目にたった。それも川上の新らしい<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>である事を知った。それは<ruby><rb>鳥越</rb><rt>とりこえ</rt></ruby>の中村座で川上の旗上げから洋行までの間のことである。

三

歴代の封建制度を破って、今日の新日本が生れ、改造された明治前後には、俊豪、逸才が多く生れ、<ruby><rb>育</rb><rt>はぐ</rt></ruby>くまれ<ruby><rb>培</rb><rt>つちか</rt></ruby>われつつあった時代である。貞奴は遅ればせに、またやや早めに生れて来たのである。生れたのは明治四年であった。そして後年、貞奴に盛名を与えるに、柱となり、土台となった人々が、みな適当な位置に配置されて、彼女の生れてくるのを待つ運命になっていた。

もし彼女の生家が昔のままに連綿としていたならば、マダム貞奴の名は今日なかったであろう。新女優の<ruby><rb>祖</rb><rt>はは</rt></ruby>川上貞奴とならずに<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>な家の細君であって、時折の芝居見物に<ruby><rb>鬱散</rb><rt>うっさん</rt></ruby>する身となっていたかも知れない。

明治維新のことを老人たちは「<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>」という言葉をもって話合っている。「瓦解」とは、破壊と建設とをかねた、改造までの恐しい<ruby><rb>途程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>を<ruby><rb>言表</rb><rt>いいあら</rt></ruby>わした言葉であろう。すべての旧慣制度が破壊された世の渦は、ことに江戸が甚しかった。武家に次いでは名ある大町人がバタバタと倒産した。お城に近い日本橋<ruby><rb>両替町</rb><rt>りょうがえちょう</rt></ruby>（現今の日本銀行附近）にかなりの<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>であった、書籍と両替屋をかねて、町役人も勤めていた小熊という家もその数には<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなかった。<ruby><rb>家附</rb><rt>いえつき</rt></ruby>の娘おたかは御殿勤めの美人のきこえたかく、<ruby><rb>入婿</rb><rt>いりむこ</rt></ruby>の久次郎は仏さまと呼ばれるほどの好人物であった。そうした円満な家庭にも、吹きすさぶ荒い世風は用捨もなく吹込んで、十二人目にお貞と呼ぶ美しい娘が生れたころは、芝<ruby><rb>神明</rb><rt>しんめい</rt></ruby>のほとりに居を移して、書籍、薬、質屋などを営んでいた。しかも夫婦は<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を贅沢としらずに過して来た人たちであったので、娘たちを育てるにもかなり華美な生活をつづけていた。次第々々に家産が傾くと知りつつもそれを<ruby><rb>喰止</rb><rt>くいと</rt></ruby>めるだけの力がなかった。<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>に窮乏がせまって来て十二人目の娘を手離すようになった。そしてお貞という娘が、他家で育てられるようになったのは彼女の七歳のときからで、養家は芳町の浜田屋という芸妓屋であった。

浜田屋の亀吉は強情と<ruby><rb>一国</rb><rt>いっこく</rt></ruby>と、<ruby><rb>侠</rb><rt>きゃん</rt></ruby>で通った女であった。<ruby><rb>豪奢</rb><rt>ごうしゃ</rt></ruby>の名に彼女は気負っていた。その女を養母とした七歳のお貞は、子供に似合わぬピンとした気性だったので、<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>のくるいもないように、養母と娘の心はぴったりと合ってしまった。その点はお貞の貞奴が、<ruby><rb>生</rb><rt>うみ</rt></ruby>の親よりもよく養母の気性と共通の点があったといえる。

とはいえ、そうした侠妓に養われ、天賦の素質を磨いたとはいえ、貞奴の持つ美質は、みんな<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>き父母の授けたものである。優雅、貞淑――そういう社会に育ったには似合わぬ無邪気さ、それは<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の箱入り娘と、好人物の父との賜物である。一本気な<ruby><rb>持前</rb><rt>もちまえ</rt></ruby>も、江戸生れの下町のお嬢さんの所有でなければならない。其処へ養母によって<ruby><rb>仁侠</rb><rt>にんきょう</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たんか</span>と、歯切れのよい<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>を吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の<ruby><rb>後立</rb><rt>うしろだ</rt></ruby>てで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。

廿九歳で<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>になってから<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>パリパリしていた養母の亀吉は、よき芸妓としての守らねばならぬしきたりを可愛い<ruby><rb>養娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>であるゆえに、小奴に<ruby><rb>服膺</rb><rt>ふくよう</rt></ruby>させねばならないと思っていた、その<ruby><rb>標語</rb><rt>モットー</rt></ruby>――<ruby><rb>芸妓貞鑑</rb><rt>げいしゃていかん</rt></ruby>は、みな彼女が実地にあって感じたことであり、また古来の名妓について悟った<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めなのであった。彼女は言う。

「好い芸妓になるなら世話をして下さる方を一人と<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めて守らなけりゃいけない。それが芸妓の<ruby><rb>節操</rb><rt>みさお</rt></ruby>というものだ。金に目がくれて心を売ってはいけない。けれども<ruby><rb>不粋</rb><rt>ぶすい</rt></ruby>なことはいけない。芸妓は世間を広く知っていなければいけない。そして華やかな<ruby><rb>空気</rb><rt>なか</rt></ruby>にいなければならない。地味な世界は<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に沢山ある。遊ばせるという要は窮屈ではいけない。だからお客よりも馬鹿で浮気な方がよい。理につんだ事が好きならば芸妓にはしゃがしてもらいにきはしない。そこで、浮気なのはよいが、慾に迷えば芸妓の<ruby><rb>估券</rb><rt>こけん</rt></ruby>は下ってしまう。大事な客は一人と<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めてその人の顔をどこまでも立てなければならないかわりに、腕でやる遊びなら、威勢よくぱっとやって、自分の手から金を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かなければいけない。堅気ではないのだからむずかしい意見はしない。だがよく覚えてお置き、遊びだということを……」

それは彼女が十六のおり、初代奴の名を継いで、嬌名いや高くうたわれるようになったおりの訓戒だ。賢なる彼女は、養母の教えを<ruby><rb>強</rb><rt>しか</rt></ruby>と心に秘めていたが、間もなく時の総理大臣伊藤博文侯が奴の後立てであることが公然にされた。彼女はもう全く<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いものはなしの天下になったのである。総理大臣の勢力は、<ruby><rb>現今</rb><rt>いま</rt></ruby>よりも無学文盲であった社会には、あらゆる権勢の最上級に見なされて、活殺与奪の力までも自由に所持してでもいるように思いなされていた。そして伊藤公は――かなりな<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>をする人だというので憎み<ruby><rb>罵</rb><rt>のの</rt></ruby>しるものもあればあるほど、<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>されたり、<ruby><rb>愛敬</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>があるとて<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>も強かったり、ともかくも明治朝臣のなかで<ruby><rb>巍然</rb><rt>ぎぜん</rt></ruby>とした大人物、至るところに艶材を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらしたが、それだけ花柳界においても勢力と人気とを集中していた。奴は客としては当代第一たる人を見立てたのである。家には<ruby><rb>利者</rb><rt>きけもの</rt></ruby>の亀吉という養母が<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいる。そして何よりも――眠れる<ruby><rb>獅子王</rb><rt>ししおう</rt></ruby>の傍に咲く<ruby><rb>牡丹花</rb><rt>ぼたんか</rt></ruby>のような容顔、春風になぶられてうごく雄獅子の<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>に戯むれ遊ぶ、<ruby><rb>翩翻</rb><rt>へんぽん</rt></ruby>たる<ruby><rb>胡蝶</rb><rt>こちょう</rt></ruby>のような<ruby><rb>風姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>、彼女たちの世界の、最大な誇りをもって、<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と嬌坊第一にいた。

彼女も、そうした社会の<ruby><rb>女人</rb><rt>にょにん</rt></ruby>ゆえ、早熟だった。彼女は遊びとしては、若手の人気ある俳優たちと<ruby><rb>交際</rb><rt>まじわ</rt></ruby>っていた。そして彼女がもっとも好んだものは<ruby><rb>弄花</rb><rt>ろうか</rt></ruby>――四季の花合せの争いであった。<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>びらのきれるのと、亀吉仕込みの<ruby><rb>鉄火</rb><rt>てっか</rt></ruby>とが、姿に似合ぬしたたかものと、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん株にまで舌を巻かした。

奴の芸妓としての盛時は十七、八歳から廿一歳ごろまでであろう。

奴は芸妓時代から変りものであった。その時分ハイカラという<ruby><rb>新熟語</rb><rt>ことば</rt></ruby>はなかったが、それに当てはめられる、<ruby><rb>生粋</rb><rt>きっすい</rt></ruby>なハイカラであった。廿二、三年ごろには馬に乗り、玉突きをしたりしていた。髪もありあまるほどの濃い沢山なのを、洗髪の<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>りっぱなしの束髪にして、白い小さな、四角な肩掛けを三角にかけていた。大磯の海水浴の<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く盛りになった最中、奴の海水着の姿はいつでも其処に見られ、彼女の有名な<ruby><rb>水練</rb><rt>すいれん</rt></ruby>は、この海でおぼえたのであった。

「奴が来ておりましたよ、大磯の<ruby><rb>濤竜館</rb><rt>とうりゅうかん</rt></ruby>に……男見たような女ですね、お<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>で、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>にかまわないで、真白に<ruby><rb>石鹸</rb><rt>せっけん</rt></ruby>をぬって、そこら中あぶくだらけにして……」

そんなことを、あるおり、某華族の愛妾が言っていたことがあった。その<ruby><rb>語</rb><rt>ことば</rt></ruby>のなかには、すこし反感をふくんだ調子があったが、

「沢山な<ruby><rb>毛髪</rb><rt>かみのけ</rt></ruby>のなんのって、お風呂の中でといて、ぐるぐると巻いているのを見ると、ほんとにその立派なことって……」

彼女の傍若無人であったことには、好い心持ちではなかったらしいが、その容姿については感嘆していた。それはたしか彼女が十九位のことであった。

その後わたしが、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く芝居のことなどもすこしばかり分りかけて来た時分に、芳町の奴が川上音二郎のおかみさんになるのだってというのをきいて、みんなが驚ろいている通りに、大層な大事件のようにきいていたことがあった。それは明治廿五年、奴が廿二歳のおりだと後で知った。なんでわたしが大事件のように耳にとめていたかというのに、前にも言った通り、芳町は近い土地であり、<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>に浜田屋の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>も通ったり、自然と奴の名も聞き知っていたからであった。それに、<ruby><rb>浅草</rb><rt>あさくさ</rt></ruby><ruby><rb>鳥越</rb><rt>とりこえ</rt></ruby>の中村座に旗上げをした、川上音二郎の壮士芝居の人気は素晴らしかったので――彼れが俳優として非凡な腕があるからというのではなく――書生が（自由党の壮士が）演説と芝居とを交ぜてするという事が、世間の好奇心を誘って評判されていた。わたしはその頃ぽつぽつと新聞紙や、『歌舞伎新報』などをそっと読みふけっていたので、耳から聞く噂ばかりでなく、目からもそれらの知識がすこしはあった。それに父は自由党員に知己も多かったので、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>話をしているときもあった。川上の他に、<ruby><rb>藤沢浅二郎</rb><rt>ふじさわあさじろう</rt></ruby>は新聞記者だとか、福井は『東西新聞』にいたがとか、壮士芝居の人物を<ruby><rb>月旦</rb><rt>げったん</rt></ruby>していることもあった。見物をたのまれて母なども行ったらしかった。とはいえ、興味をもっても<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に忘れがちな子供のおりのことで、川上音二郎が<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>ガスリの着物に<ruby><rb>棒縞</rb><rt>ぼうじま</rt></ruby>の<ruby><rb>小倉袴</rb><rt>こくらばかま</rt></ruby>で、赤い陣羽織を着て日の丸の扇を持ち、白鉢巻をして、オッペケ節を唄わなかったならば、さほど<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と覚えていなかったかも知れない。

しかし子供ごころに、オッペケペッポの川上はさほど<ruby><rb>傑</rb><rt>えら</rt></ruby>い人だと思っていなかった。それよりも芳町の奴の方が<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに――芸妓でも<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え<ruby><rb>車</rb><rt>ぐるま</rt></ruby>のある――傑い女だと思っていた。なんで、川上のおかみさんになぞなるのだろうと、<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>とそんなふうに思ったこともあった。その後、川上座の建築が<ruby><rb>三崎町</rb><rt>みさきちょう</rt></ruby>へ出来るまで、奴の名には遠ざかっていた。

けれどもそれはわたしが彼女の名に接しなかっただけで、彼女には新らしい生活の日の頁が、日ごとに繰りひらかれていった。そしてその五、六年の間に、川上の単身洋行が遂行された。それは生涯をあらたに<ruby><rb>蒔直</rb><rt>まきなお</rt></ruby>そうとする目的をもった渡航であった。そのおり川上は、壮士俳優を止めてしまおうと思っていたとかいうことだったが、米国に渡ってから再考して見なければならないと思い、充分に考慮してのち、やっぱり最初自分の思立ったことは間違っていなかったと気がついた。それから直に帰朝した彼れは、もうすぐに演劇革進論者であった。時流より一足さきに踏出すものの困難を、つぶさに<ruby><rb>甞</rb><rt>な</rt></ruby>めなければならない運命を彼れは<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>ってかえってきたのだった。そして、当然、夫の、重い人生の負担に対して、奴のお貞も片荷を背負わなければならない運命であった。漸く平静であろうとした彼女の人生の行路が、その時から一段<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しくなり、多岐多様になっていった分岐点が、その時であった。

川上音二郎の細君の名が、わたしたちの耳へまた伝わって来たころには、彼女は<ruby><rb>奔命</rb><rt>ほんめい</rt></ruby>に<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れきっていたのだ。彼女は（最近引退興行のおりに、『演芸新聞』に自己の談話として載せたように）芸妓から足を洗って<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>になるにしても、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>と呼ばれるのがいやで、どうか巡査でもよいから同情の厚い人の正妻になり、<ruby><rb>共稼</rb><rt>ともかせ</rt></ruby>ぎがして見たいと思っていたので、川上との相談もととのい結婚はしたが、勝気の彼女としては夫とした川上をいつまでもオッペケペッポではおきたくなかったのだ。

在米一年半ばかりで、野村子爵に伴われて帰って来た川上は、洋行戻りを<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に、かつて自分がひきいていた一団のために芝居を打たなければならなくなり、浅草区<ruby><rb>駒形</rb><rt>こまかた</rt></ruby>の浅草座を根拠地にして、「又意外」で<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をあけた。その折の見物の絶叫は、<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじいほどで、新派劇の前途は此処に洋々とした<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>の色を認めたのであった。それに次いで起った問題は、劇道革進の第一程として、欧米風の劇場を建設することで、川上は万難を排してその事業に<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>した。それとても奴の力がどれほどの援助であったか知れなかった。

浜田屋亀吉の娘で芳町の奴である細君の名は、貧乏な書生俳優、ともすれば山師と見あやまられがちな川上よりも、信用が百倍もあった。細君の<ruby><rb>印形</rb><rt>いんぎょう</rt></ruby>は五万円の基本金を借入れて夫の手に渡し、川上座の基礎はその金を<ruby><rb>根柢</rb><rt>こんてい</rt></ruby>として築きあげられていった。

様々の<ruby><rb>毀誉褒貶</rb><rt>きよほうへん</rt></ruby>のうちに、夫妻の苦心の愛子――川上座は出来あがっていった。もうやがて落成しようとした折に、不意に夫妻の仲に気まずい争いが出来た。しかもそれが世間にありがちな、ほっとした一時の安心のために物質的な関係からおこった問題ではなかった。奴は、一も夫のため、二も男のためと、そうした社会にあっては珍らしい貞節のかぎりを尽し、川上を世に<ruby><rb>稀</rb><rt>ま</rt></ruby>れな男らしい男、真に快男子であると、全盛がもたらす彼女の誇りを捨て、わが<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>として尽していたのである。それが、ある女に子まで産ましているという事がわかった。その女はある顕官の<ruby><rb>外妾</rb><rt>がいしょう</rt></ruby>で、川上はその女を、上野<ruby><rb>鶯渓</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>の塩原温泉に忍ばせてあるという事までが知れた。奴は<ruby><rb>養母</rb><rt>かめきち</rt></ruby>の前へも自分の顔が出されないように思った。けれど<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>み<ruby><rb>死</rb><rt>じに</rt></ruby>に死んでしまうほど気が小さくもない彼女は、<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>の思いを誰れに<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>すよりは、やっぱり養母に向って述べたかった。それがまた、川上との縁は自分の方から<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ込んだのでもあり、養母も川上の男らしいところを<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしていただけに、言うのも<ruby><rb>愁</rb><rt>つら</rt></ruby>かったが、聴く方の腹立ちは火の手が強かった。何分にも奴にむかって芸人の浮気<ruby><rb>沙汰</rb><rt>ざた</rt></ruby>として許すが、不義の<ruby><rb>快楽</rb><rt>けらく</rt></ruby>は厳しくいましめたほどの亀吉、そうした話を聴くと汚ないものに触れたように怒った。川上の産ませた子を<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>して、秘密に里子にやってしまったということをきくと、そんな夫とは縁を断ってしまえと言出した。

川上は浜田屋へ呼びよせられて来てみると、養母と奴とは<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かな<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い目の色で迎えた。三人が三つ<ruby><rb>鼎</rb><rt>がなえ</rt></ruby>になると奴は不意に、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>の根から黒髪をふっつと断って、

「おっかさんに面目なくって、合す顔がありませんから」

と、ぷいと立って去ってしまった。それにはさすがの策士川上も施す<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もなくて、気を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まれ、<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>としているばかりであったが、訳を聞くまでもない自分におぼえのあること、うなだれているより<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>はなかった。<ruby><rb>養母</rb><rt>かめきち</rt></ruby>にとりなしを頼もうにも、妻よりも<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>なので、なまじな事は言出せなかったのであろう。も一度海外へ出て、苦学をしてのち<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びにくるから、奴は<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>へあずかっておいてくれと詫を入れた。けれど亀吉はいっかな<ruby><rb>聴</rb><rt>きき</rt></ruby>入れはしない。

「もとの通りにして返したならば受取ろう。」

それが養母の答えであった。川上は是非なく、同郷の<ruby><rb>誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>のある金子堅太郎男爵の許に泣付いていった。何故ならば、金子男が、伊藤総理大臣の秘書官のおり、ある宴席で川上の芝居を見物するように奴にすすめて、口をきわめて川上の快男子であることを説いた。そうした予備知識を持って、はじめて川上を見た奴は、上流貴顕の婦人に招かれても、決して川上が応じてゆかないということなども聴いて、その折は面白半分の興味も手伝ったのであったが、友達芸妓の小照と一緒に川上を招いて<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>したことがある。それが縁で浜田屋へも<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>するようになり、伊藤公にも公然許されて相愛の仲となり、金子男の肝入りで夫妻となるように<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った仲である。それ故、そうことがもつれてむずかしくなっては、金子氏にすがるよりほか、養母も奴も聴入れまいと、堅い決心をもって門をたたいたのであった。その代りには断然不始末のあとを残すまいという条件で持込んだ。そして、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くその件は落着した。

ひとつ過ぎればまたひとつ、内憂に外患はつづいて起った。夫妻が<ruby><rb>漸</rb><rt>よう</rt></ruby>やっと<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>を見せるようになると、またしても胸に<ruby><rb>閊</rb><rt>つか</rt></ruby>える悩みの種、川上座の落成に伴う新築披露、開場式の饗宴などに是非なくてならない一万円の費用の出どころであった。けれども奴の手許からは出せるだけ出し尽している上に、五万円の方もそのままになっている。開場式さえあげれば入金の道がつくので、それを目当にして高利貸の手から短かい期限で、涙の<ruby><rb>滾</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れるような利子の一万円を借入れ、新築披露の宴を張り、開場式を華々しく挙行した。

川上座――この夫婦が記念としてばかりでなく、劇壇新機運の第一着手の、記念建物としても残しておきたかった川上座は、三崎町の原に、洋風建築の小ぢんまりとした姿を見せた。いまは<ruby><rb>冷氷庫</rb><rt>こおりぐら</rt></ruby>になってしまったあの膨大な東京座も、その頃新築され、後の方には旧女役者の<ruby><rb>常小屋</rb><rt>じょうごや</rt></ruby>の、三崎座という小芝居があった。夏などは東京座や川上座へゆくには、道が暑くてたまらないほど小蔭ひとつない草いきれのしている土地であった。そのくせ、座へはいってしまうと――ことに東京座などはだだっ広いのと入りがなかったので、涼しい風が遠慮がなさすぎるほど吹入って、納涼気分に満ちた芝居小屋であった。川上座は帝劇と有楽座をまぜた造り方であったので、その時分の人たちにはひどく勝手違いのものであったが、開場式に呼ばれたものは川上の手腕に誰れも敬服しあっていた。一千にあまる来賓はすべての階級を<ruby><rb>網羅</rb><rt>もうら</rt></ruby>し、その視線の<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くそそがれている舞台中央には、劇場主川上音二郎が立って、我国新派劇の沿革から、欧米諸国の劇史を論じ、満場の<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>をあびながら<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>を終った。その<ruby><rb>側</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に立つ奴の悦びはどれほどであったろう。共に労苦を分けた事業の一部は完成し、夫はこれほどの<ruby><rb>志望</rb><rt>こころざし</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>うに、<ruby><rb>毫</rb><rt>すこし</rt></ruby>も不足のない器量人であると、日頃の苦悩も忘れ果て、夫の挨拶の<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>の終りに共に<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく頭をさげると、あまりの嬉しさに夢中になっていたために、先日のいきさつから<ruby><rb>附髷</rb><rt>つけまげ</rt></ruby>を用いている事なぞは忘れてしまい、音がして頭から落ちたもののあるのに気がつかなかった。<ruby><rb>湧上</rb><rt>わきあが</rt></ruby>った笑い声に気がついて見ると、あにはからんやの有様、舞台監督は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわて</rt></ruby>て<ruby><rb>緞帳</rb><rt>どんちょう</rt></ruby>をおろしてしまったが――

赤面と心痛――開場式に頭が飛ぶとは――彼女は人知れずそれを心に病んだ。それが<ruby><rb>箴</rb><rt>しん</rt></ruby>をなしてというのではないが、もとより無理算段でやった仕事だけに、たった一万円のために川上座は高利貸の手に<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られなければならなかった。川上は同志を集めて歌舞伎座で手興行をした。わが<ruby><rb>持座</rb><rt>もちざ</rt></ruby>を奪われぬために、他座で開演した<ruby><rb>心事</rb><rt>こころ</rt></ruby>に同情のあった結果は八千円の利益を見、それだけは償却したが、残る四千円のために彼らは苦しみぬいた。

そのころの住居が大森にある洋館の<ruby><rb>小屋</rb><rt>しょうおく</rt></ruby>であった。金貸に苦しめられた川上が憤然として代議士の候補に立ったのは、<ruby><rb>高利貸</rb><rt>アイス</rt></ruby>退治と新派劇の保護を<ruby><rb>標榜</rb><rt>ひょうぼう</rt></ruby>したのであったが、東京市の有力な新聞紙――たしか『<ruby><rb>万朝報</rb><rt>よろずちょうほう</rt></ruby>』であった――の大反対にあって非なる形勢となってしまった。

それらが動機となって川上夫婦の<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>旅行は思立たれた。厭世観と<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>の念、そうした夫の心裏を読みつくして、死なば共にとの意気を示し、死ぬ覚悟で新しい生活の領土を開拓し、生命の泉を見出そうではないかと、勧めはげましたのは奴であった。妻の言葉に暗示を与えられてふるい立った川上は、失敗の記念となった大森の家を忍び出る用意をした。無謀といえば限りない無謀であるが、そのころはまだ<ruby><rb>郡司</rb><rt>ぐんじ</rt></ruby>大尉が大川から乗出し、北千島の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>までも<ruby><rb>漕附</rb><rt>こぎつ</rt></ruby>けた<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>探検熱はまだ忘れられていなかったから、川上の機智はそれに学んだのか、それともそうするよりほか逃出す考えがなかったのか、ともあれ、人生の<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい行路に、行き悩んだ人は、陰惨たる二百十日の海に捨身の<ruby><rb>短艇</rb><rt>ボート</rt></ruby>を漕出した。

短艇日本丸は、暗の海にむかって、大森海岸から漕ぎだされた。ものずきな夫婦が、ついそこいらまで漕いでいってかえってくるのであろうと、気がついたものも思っていたであろうが、短艇の中には、必要品だけは入れてあった。寝具のかわりに毛布が運ばれてあった。とはいえ、幾日航海をつづけようとするのか、夫婦にも目あてはなかった。夫は漕ぐ、妻は万一のおりにはと覚悟をしていたが、夢中で、小山のような島があると見て漕ぎつけた場所は、横須賀軍港の軍艦富士の横っぱらであった。

鎮守府に呼ばれて<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>にあったが、全く何処とも知らず流されて来て、島かげを見付けてほっとした時に夜はほのぼのと明け、それが軍艦であった事を述べて許された。その上、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められたのが好都合になって様々の<ruby><rb>好誼</rb><rt>こうぎ</rt></ruby>をうけ、行手の海の難処なども懇篤に教え<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>され、<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>なる見送りをうけて<ruby><rb>外洋</rb><rt>そとうみ</rt></ruby>へと漕出した。

四

それからの、貞奴となるまでの記憶の頁は、涙の<ruby><rb>聯珠</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>として、彼女の肉体が亡びてしまっても、輝く物語であろう。遠州<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>の荒海――それはどうやらこうやら乗切ったが、<ruby><rb>掛川</rb><rt>かけがわ</rt></ruby>近くになると疲労しつくした川上は<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなばた</rt></ruby>で<ruby><rb>脇腹</rb><rt>わきばら</rt></ruby>をうって、海の中へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げおちてしまった。船は<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>ってしまった。奴は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、<ruby><rb>波濤</rb><rt>はとう</rt></ruby>をきって<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>かぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが、それがもとで川上は<ruby><rb>淡路</rb><rt>あわじ</rt></ruby><ruby><rb>洲本</rb><rt>すもと</rt></ruby>の<ruby><rb>旗亭</rb><rt>きてい</rt></ruby>に<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>する身となってしまった。その報をきいて<ruby><rb>駈</rb><rt>かけ</rt></ruby>付けた門弟たちは、師の<ruby><rb>病体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を神戸にうつすと同時に「<ruby><rb>楠公</rb><rt>なんこう</rt></ruby>父子桜井の<ruby><rb>訣別</rb><rt>けつべつ</rt></ruby>」という、川上一門の<ruby><rb>手馴</rb><rt>てな</rt></ruby>れた史劇を土地の大黒座で開演した。それが土地の気受けに<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>い、神戸における楠公様の<ruby><rb>劇</rb><rt>しばい</rt></ruby>である上に、川上の事件は当時の新聞が詳細に記述したので、人気は<ruby><rb>弥</rb><rt>いや</rt></ruby>がうえにと添い、入院費用はあまるほど得られた。川上の<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>も<ruby><rb>速</rb><rt>すみや</rt></ruby>かであった。とはいえ、川上は健康を恢復すれば、またも<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>定めぬ波にまかせて、海の旅に出ると言ってきかなかった。その折、近くに開かれる<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>の博覧会へ日本劇を持込んではとの相談が来た。

それこそ、新生活を開拓しよう、無人島へでもよいから行きつこうと思っていた夫婦には、渡りに船の相談なので、一も二もなく渡航と定め、川上一座一行廿一人は結束して立った。婦人はその中にたった二人、いうまでもなく一人は奴で、一人は川上の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>の鶴子（在米活動俳優として名ある青木鶴子、後に早川<ruby><rb>雪洲</rb><rt>せっしゅう</rt></ruby>の妻）で、奴は単に見物がてらの随行、鶴子は彼地で修業するのが目的であった。

<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>のサンフランシスコに一行は上陸した。仲に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った人の言葉ばかりを<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けて、上陸後四日間ばかりを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うやむや</span>に過してしまうと、<ruby><rb>仲人</rb><rt>ちゅうにん</rt></ruby>は逃亡してしまった。知らぬ間に川上の名義で借入れられた<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な借金が残っているばかり、約束になっているといった劇場へいって見れば<ruby><rb>釘附</rb><rt>くぎづ</rt></ruby>けになって<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>されている。開演しさえすればとの<ruby><rb>儚</rb><rt>はか</rt></ruby>ないたのみに無理算段を重ねていた一行は、直に<ruby><rb>糊口</rb><rt>ここう</rt></ruby>にも差支えるようになり、ホテルからも追出されるみじめさ、行きどころない身は公園のベンチに眠り、さまよい、<ruby><rb>病犬</rb><rt>やみいぬ</rt></ruby>のように<ruby><rb>蹌々踉々</rb><rt>そうそうろうろう</rt></ruby>として、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの<ruby><rb>買喰</rb><rt>かいぐ</rt></ruby>いに<ruby><rb>餓</rb><rt>うえ</rt></ruby>をしのぐよりせんすべなく、血を絞る苦しみを忍んで、漸くボストンのカリホルニア座に開演して見たものの、<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>の群れも同様に<ruby><rb>零落</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れた<ruby><rb>俳優</rb><rt>やくしゃ</rt></ruby>たち、それがなんで人気を呼ぼう、<ruby><rb>当</rb><rt>あた</rt></ruby>ろうはずがなかった。窮乏はいやが上にせまる、何処の劇場でも<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にはしてくれない。ことに貧弱きわまる男優が<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>であるときいては、まるで茶番のように笑殺され、見返られもしなかった。

一行は十月の異国の寒空に、幾日かの<ruby><rb>断食</rb><rt>だんじき</rt></ruby>を修行し、野宿し、まるで聖徒の苦行のような辛酸を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めた。

シカゴ、ワシントンストリートの、ライリリック座の座主の令嬢こそ、この哀れな、餓死に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>した一行の救い主であった。ポットン令嬢は日本劇に趣味をもっていたので、父親を納得させて川上一行を招くことにした。座主はお嬢さんの酔興を許しはしたが、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をとっての本興行は打てぬので、広告などは一切しないという約束のもとに、とにかく救いあげられた。

座主の方で広告はしないとはいえ、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けるからには一人にでも多く見物してもらいたいのが人情である。そこでどんなに窮した場合にも残しておいた、舞台で着る衣服<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>に身を装い、おりから降りしきる雪の辻々、<ruby><rb>街々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>を練り歩いて、俳優たちが自ら広告した。絶食しつづけた彼れらが、重い<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>を着て、勇気<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>たる顔附きをして、雪の大路を<ruby><rb>濶歩</rb><rt>かっぽ</rt></ruby>するその悲惨なる心根――それは実際の困窮を知らぬものには想像もつきかねるいたましさである。舞台に立って、<ruby><rb>児島高徳</rb><rt>こじまたかのり</rt></ruby>に投げられた<ruby><rb>雑兵</rb><rt>ぞうひょう</rt></ruby>が、再び起上って打向ってくるはずなのが、投げられたなりになってしまったほど、彼らは疲労<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>の極に達していた。百<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>の報酬を得てホテルに<ruby><rb>駈込</rb><rt>かけこ</rt></ruby>んだ時には、食卓にむかった誰れもかれも、嬉し泣に、<ruby><rb>潸々</rb><rt>さめざめ</rt></ruby>としないものはなかったという。

一座はその折、女優がなかったために苦い経験をしたので、奴は見兼ねてその難儀を救った。義理から、人情から、それまで一度も舞台を踏んだことのなかった身が一足飛びに、<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた多くの女優が、明星と輝く外国において、貧乏な旅廻りの一座のとはいえ、一躍して<ruby><rb>星女優</rb><rt>プリマドンナ</rt></ruby>となったのである。しかし、暫くの間はほんの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>廻りにしか過ぎなかったが、かえってそれは、マダム貞奴としての要素をつくる準備となったといってもよいが、一行の難渋は実に甚だしかった。ボストンへ廻って来たおりには、心労の結果川上が病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>り、座員のうち二人まで異郷の鬼となってしまった。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>が全快するまでは<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>なことをするな。」

川上は病いの床でそう言続けていたが、生活のためには言附けも<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>かなければならなかった。それに<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すこともなく日を過しているのでは、悲境に、魂を食われてしまったような座員の団結も頼まれず、座員の元気を鼓舞するには劇場へ出演するに限ると、川上にかくれて貞奴が一座を引連れて出た。多分そのおりのことであろう。二人の座員の死んだのをどうする事も出来ぬので、土地の葬儀会社へ万端のことを頼んでおいた。劇場から帰ってきて見ると死者の<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>は綺麗に<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>られ、顔も美しく化粧され、髪も香水がつけて<ruby><rb>梳</rb><rt>くしけ</rt></ruby>ずられてあり、新しい礼装をさせられて花輪を胸に載せ、<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の中に横たわらせられてあった。昨日まで食を共にし、生死もひとつにと堅い団結を組んできた一行のものは、その死者の姿を見ると、いかにも<ruby><rb>安易</rb><rt>やすやす</rt></ruby>として清げなさまで、昨日までの<ruby><rb>陋苦</rb><rt>むさくる</rt></ruby>しい有様とはあまり違って、<ruby><rb>立勝</rb><rt>たちまさ</rt></ruby>って見ゆる紳士ぶりに、生きている方がよいか、死んだ者の方がよいかと妙な風な考えになって、頭をさげるばかりだったという話を聴いた。ことに死者の胸に組合せた手の指の<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>まで綺麗に磨かれてあったという事が、舞台で化粧をこそすれ、何事にも追われがちの不如意の連中には、指の爪のことまで<ruby><rb>繊細</rb><rt>デリケート</rt></ruby>な気持ちを持っていられなかった人々が、感銘深くながめたという有様だった。

病床で川上が言続けていた、フランス・パリーの博覧会――そここそ、マダム貞奴の名声を<ruby><rb>赫々</rb><rt>かくかく</rt></ruby>と<ruby><rb>昂</rb><rt>あ</rt></ruby>げさせたものである。海外にあって最も輝かしかった三ツの歓喜、そのひとつは<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>ワシントンで、故小村公使の尽力で、公使館夜会に招かれ、はじめて上流社会に名声を博し得たこと。またひとつは<ruby><rb>英吉利</rb><rt>イギリス</rt></ruby>で上村大将に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>い、その力にてバッキンガム・パレスで、日本劇を御覧に入れたこと――たしかそのおり貞奴は<ruby><rb>道成寺</rb><rt>どうじょうじ</rt></ruby>の踊の衣裳のままで御座席まで出たとおぼえている。――もひとつは、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>のパリーで栗野公使の尽力により、一行が熱望しきっていた博覧会の迎えをうけたことである。この事こそ、ほんとに彼れらのためにも、日本劇のためにも前代未聞の出来ごとだったのだ。あらゆる天下の粋を集めた、芸術の源泉地仏蘭西パリーで、しかも、そのもろもろの美術、工芸、芸術品に<ruby><rb>篩</rb><rt>ふる</rt></ruby>いをかけた博覧会々場でである。見る人もまた一国一都の人ばかりでなく、世界各地の人を網羅し尽している。その折に、その中で、耳目を<ruby><rb>聳</rb><rt>そば</rt></ruby>だたして開演する事が出来ようとは、いかに熱望していたとはいえ、昨日までの田舎廻り、乞食芝居の座員には、万に一の希望も絶望であろうとされていたものが――加うるに日本劇川上一座の人気は、空前絶後とされ、夢想にも思いも浮べぬ、彼地の劇界を震撼させたものであった。なおその渡仏の前、ボストンで英吉利の名優ヘンリー・アーヴィングの「マーチャント・オブ・ベニス」が当ったのにかぶせて日本風に改作し「シャイロック」として上演したが、その入場券一<ruby><rb>弗</rb><rt>ドル</rt></ruby>が三弗五弗というふうに<ruby><rb>競上</rb><rt>せりあ</rt></ruby>げられたというのは、もの珍らしさが手伝ったとはいえ大成功といわなければならない。かくして帰還した川上夫妻の胸には、仏蘭西の芸術家が重く見るオフシェ・ダカジメ三等勲章が<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>としていた。

貞奴、貞奴、その名は日本でより海外に高く<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>まった。<ruby><rb>名実</rb><rt>めいじつ</rt></ruby>は川上一座でも、彼の一座でなく彼女の一座として歓迎された。一度帰朝した彼女らは陣容を改め、今度こそ目的のない漫然とした旅役者ではなく、光彩ある日本劇壇として明治三十四年に再び渡欧した。座長はいうまでもなく川上音二郎、<ruby><rb>星女優</rb><rt>スター</rt></ruby>は貞奴、一座の上置きには故藤沢浅二郎、松本正夫、故土肥庸元（春曙）の諸氏のほかに、中村仲吉という女優（この<ruby><rb>優</rb><rt>ひと</rt></ruby>は大柄の美人で旅廻りの女役者としてはほんとに芸も立派な旧派出の女であった）を加えて一行は廿六、七人であった。仏、英、露、独、西、伊、墺、匈の諸国を巡業し到る処で大歓迎をうけた。この興行から帰って来ると故国日本でも貞奴を歓迎して、化粧品には争ってマダム貞奴の仏蘭西土産であることを<ruby><rb>標榜</rb><rt>ひょうぼう</rt></ruby>した新製品が盛んに売出され、広告にはそのチャーミングな顔が印刷されたりした。そして、川上の懇望によって、故郷の<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>舞台に、諸外国の劇壇から裏書きされてきた、名誉ある<ruby><rb>演伎</rb><rt>えんぎ</rt></ruby>を見せたのは、彼女が三十三歳の明治卅五年、<ruby><rb>沙翁</rb><rt>セクスピアー</rt></ruby>の「オセロ」のデスデモナを、<ruby><rb>靹音</rb><rt>ともね</rt></ruby>夫人という名にして勤めたのが、初舞台である。そして亡夫の七回忌にあたる大正六年十月、日本橋区久松町の明治座で女優生活十五年間の引退興行を催し、松井松葉氏によって戯曲となった、<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリア</rt></ruby>の歌劇「アイーダ」を上場した。川上の旧門弟とは、貞奴がたてた川上の銅像や、郷里の墓所のことなどから、心持ちの解けあわない事があって出演しなかったが（彼らは川上の望んでいた芝<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>泉岳寺の四十七士の墓所の下へ別に師の墓を建て、東京における新派劇団からの葬式を営んだ）幸いに伊井、河合、喜多村の新派の<ruby><rb>頭立</rb><rt>かしらだ</rt></ruby>った人が応援して、諸方からの花輪、飾りもの、造りもの、<ruby><rb>積</rb><rt>つみ</rt></ruby>ものなどによって<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしく、貞奴の部屋や、芝居の廊下はお<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>い気分、<ruby><rb>祭礼</rb><rt>おまつり</rt></ruby>気分のように盛んな飾りつけであった。福沢氏の催した連中は興行中を通して五千人の申込みで、その多くは招待であった事なども素晴らしい事として語りあわされた。

本名のお貞と、芳町時代の奴の名とあわせて、貞奴と名乗った女優の祖を讃するに、わたしは女優の元祖<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>のお国と同位に置く。世にはその境遇を問わず、道徳保安者の、死んだもののような冷静、無智、隷属、卑屈、因循をもって<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>とし、その条件にすこしでも抵触すれば、婦徳を<ruby><rb>紛紜</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>する。しかし、人は生きている。女性にも激しい血は流れている。人の魂を汚すようなことは、その人自身の反省にまかせておけばよいではないか？　わたしは道学者でない故に、人生に悩みながら<ruby><rb>繊</rb><rt>ほそ</rt></ruby>い腕に悪戦苦闘して、切抜け切抜けしてゆく殊勝さを見ると、涙ぐましいほどにその勇気を<ruby><rb>讃</rb><rt>たた</rt></ruby>え<ruby><rb>嘉</rb><rt>よみ</rt></ruby>したく思う。

ああ！　貞奴。引退の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の晩年は<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>であろう。功<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>り名遂げて身退くとは、<ruby><rb>古</rb><rt>いにし</rt></ruby>えの聖人の言葉である。忘れられるものの寂しさ――それも<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>わねばなるまい。しかし貴女は幸福であったと思う。何故なら貴女は、愛されもし愛しもし、泣いたのも、笑ったのも、苦しんだのも、悦んだのも、楽しんだのも、慰められたのも、慰めたのもみんな真剣であった。それゆえ貴女ほど信実の貴い味を、ほんとに味わったものは少ないであろう。その点で貴女は、真に<ruby><rb>生甲斐</rb><rt>いきがい</rt></ruby>ある生活をして来たといわれる。わたしは此処に<ruby><rb>謹</rb><rt>つつし</rt></ruby>んで御身の光輝ある過去に別れを告げよう、さようならマダム貞奴！

――大正九年三月――