明けまして子年となると、皆様一斉に鼠を連想する。子の年は鼠、丑の年は牛と、十二支に十二禽を割り当る事、古く支那に起って、日本・朝鮮・安南等の隣国に及ぼし、インドやメキシコにも多少似寄った十二物を暦日に配当した事あれど、支那のように方位に配当したと聞かぬ（拙文「四神と十二獣について」）。清の<ruby><rb>趙翼</rb><rt>ちょうよく</rt></ruby>の『陔余叢考』三四にいわく、『春風楼随筆』に、『唐書』にキルギス国では十二物で年を紀して寅年を虎年という。『宋史』に<ruby><rb>吐蕃</rb><rt>とばん</rt></ruby>では兎の年に俺が生まれた、馬の年に隣りの七兵衛が妻を娶ったなどいう。邱処機が元の太祖に奏した<ruby><rb>疏</rb><rt>そ</rt></ruby>に竜児の年三月日奏すとあり、元の時泰山に立てた碑に泰定鼠児の年、また至正猴児の年とあり、北方諸国には以前子丑寅卯の十二支なく専ら鼠牛虎兎の十二禽で年を紀した。それが支那に伝わり十二支と合併したのじゃと見える。しかし周達観の『<ruby><rb>真臘風土記</rb><rt>しんろうふどき</rt></ruby>』にカンボジアでも鼠牛虎兎で年を紀す事全く支那同様、ただ馬をモミー、鶏をロカなどその国語で呼ぶだけ異なりとあれば北方に始まったのでないとある（一八八三年板、ムーラの『<ruby><rb>柬埔￼</rb><rt>カンボジア</rt></ruby>誌』一巻一五七頁参照）。十分断言しておらぬがまずは十二禽で歳時を紀す風は支那に起って南北諸隣国へ弘まったというのだ。それから『叢考』に十二禽を十二支に当てるは後漢に始まったと論じた。しかし『古今要覧稿』五三一に、前漢の書『<ruby><rb>淮南子</rb><rt>えなんじ</rt></ruby>』に山中で未の日の主人と称うるは羊なりといい、戦国の頃『荘子』が〈いまだかつて牧を為さずして<ruby><rb>牂</rb><rt>そう</rt></ruby>奥に生ず〉といえるを『釈文』に西南隅未地といえれば羊を未に配当したは後漢に始まったでないといい、故竹添進一郎氏の『左氏会箋』一四に引かれた銭錡の説に今の牛宿の星群は子宮にあって丑宮にあらず、周の時<ruby><rb>元枵</rb><rt>げんきょう</rt></ruby>という星が虚宿二星の一たり、枵は<ruby><rb>耗</rb><rt>こう</rt></ruby>で鼠は物を<ruby><rb>耗</rb><rt>へら</rt></ruby>し<ruby><rb>虚</rb><rt>むな</rt></ruby>しくする、当時この星群が子宮にありたればこそこんな名を付けた、しかるに今は子宮にあらずして亥宮にある。また<ruby><rb>豕韋</rb><rt>しい</rt></ruby>という星は周の時亥宮にあり、亥は猪、すなわち豕に当るからかく名づけた。しかるに今は戌宮に居る、かく一宮ずつ星宿の位置が<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れて来たのを勘定すると、周時代に正しく星宿の位置に拠って十二辰を定めたのだとある。すなわち十二禽は周の時十二支に当てられたのだ。予は天文の事はあんまりな方だが、幼年の頃<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて学んだ鳥山啓先生、この人は後に東京へ出て華族女学校に教務を操り八、九年前歿せられたが、和漢蘭の学に通じ田中芳男男も<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に推称された博識だった。この先生予<ruby><rb>輩</rb><rt>ら</rt></ruby>に『論語』に北辰のその処に居りて衆星これに向うがごとしとあるを講ずるついでに、孔子の時は北辰が天の真中にあったからこう言われた、只今は北辰の位置がすべって句陳という星が天の真中に坐り居ると説かれた。漢の石申の『星経』上に句陳は大帝の王妃なりとあれば新しい女どもが<ruby><rb>跋扈</rb><rt>ばっこ</rt></ruby>するももっとも、天さえ女主に支配さるる当世だと見える。かく星宿の名と古今星宿の位置の変移から推した銭氏の説は誠に正説で、クラーク女史が「支那で日の<ruby><rb>黄道</rb><rt>こうどう</rt></ruby>を十二分し、十二禽の名を付け、順次日の進行に逆ろうて行くとしたは珍無類のやり方で支那に起りしや疑いなし」といったごとく（『大英百科全書』十一板、二八巻九九五頁）十二禽なる具体的の名から離れて十二支なる抽象的の象徴を周の支那人が大成したのだ。かくて日本、カンボジア、蒙古人等が鼠牛虎兎というと異なり、子丑寅卯と形而上の物の名で数える事となってより十二支と十二禽を離して念ずる事が出来た。これは日本人がネの日ウシの時といわば多少鼠と牛を想い出せど、字音で子午線と読んではたちまち鼠と馬を連想せず、午前午後と言ったって決して馬の陽物と尻の穴を憶い出せぬで判る。かく十二禽から切り離して十二支の名目を作ったは支那人の大出来で、暦占編史を初めその文化を進むるに非常の力を添えた事と<ruby><rb>惟</rb><rt>おも</rt></ruby>う。しかるに蒙古、チベット、日本等の諸国また支那でも十二禽と十二支を同じ名で呼び、もしくは別々に考え能わざる人間はややもすれば十二支を十二禽の精霊ごとく心得るより、鼠の年の男は虎年の女に負けるというて妻を離別したり、兎は馬に踏み<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さるといいて卯年生まれの者が午の方すなわち南へ家を移さなんだりする事多い。さて本元の支那人が十二禽から十二支を別に立てたのはよいが、十干の本たる木火土金水の<ruby><rb>五行</rb><rt>ごぎょう</rt></ruby>をそのまま木火土金水と有形物の名で押し通したから、火は木を焼いて水に消さるなどと<ruby><rb>相生</rb><rt>そうしょう</rt></ruby><ruby><rb>相尅</rb><rt>そうこく</rt></ruby>の説盛んに、後世雑多の迷信を生じた。こんなに考えると子年だから鼠の話を書くなど誠に気の利かぬ<ruby><rb>咄</rb><rt>はな</rt></ruby>しだが、毎歳やって来たこと故書き続ける。大正十一年出板、永尾竜造君の『支那民俗誌』上に一月七日支那人が鼠の嫁入りを祝う事を載す。直隷の呉県では鼠娶婦。山東の臨邑県では鼠忌という。江南の懐寧県では、豆、粟、粳米等を<ruby><rb>炒</rb><rt>い</rt></ruby>って室隅に<ruby><rb>擲</rb><rt>なげう</rt></ruby>って鼠に食わしめ、炒雑虫（虫焼き）といい、この晩は鼠の事を一切口外せず、直隷永平府地方では、この夜鼠が集って宴会するから燈火を付けて邪魔しては年中祟らるといい、直隷の元氏県より陜西の高州辺へ掛けては、婦女鼠の妨げをせぬよう皆家を空しゅうして門の方に出づ。家にいて邪魔をすると仇討ちに衣類を<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>られると恐れる。嫁入りの日取りは所に依って同じからず。山西の<ruby><rb>平遥</rb><rt>へいよう</rt></ruby>県では十日に<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>入れあり。その晩は麺で作った餅を垣根に置いてお祝いをする。陜西の岐山県では三十日の夜、燈火言語を禁じて鼠を自在ならしむという事だ。日本には鼠の嫁入りの咄しはあれどこのような新年行事ありと聞かぬ。『嬉遊笑覧』一二上に「また鼠の嫁入りという事、『薬師通夜物語』（寛永二十年）、古えは鼠の嫁入りとて果報の物と世にいわれ云々、『狂歌咄』、古き歌に「嫁の子のこねらはいかになりぬらん、あな美はしとおもほゆるかな」、『物類称呼』に、鼠、関西にてヨメ、また嫁が君、<ruby><rb>上野</rb><rt>こうずけ</rt></ruby>にて夜の物、またヨメまたムスメなどいう、東国にもヨメと呼ぶ所多し、<ruby><rb>遠江</rb><rt>とおとうみ</rt></ruby>国には年始にばかりヨメと呼ぶ。其角が句に「明くる夜もほのかに<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>し嫁が君」。<ruby><rb>去来</rb><rt>きょらい</rt></ruby>がいわく、除夜より元朝掛けて鼠の事を嫁が君というにや、本説は知れずとぞ、今按ずるに年の始めには万事祝詞を述べ<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>る物にしあれば、寝起きといえる<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を忌み<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りてイネツム、イネアクルなど<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>うる類あまたあり。鼠も寝のひびき侍れば、嫁が君と呼ぶにてやあらんといえり。この名あるより鼠の嫁入りという諺は出で来しなるべし。また鼠を夜の物、狐を夜の殿という、似たる名なり。思うに狐の嫁入りは鼠の後なるべし」と記す。『<ruby><rb>抱朴子</rb><rt>ほうぼくし</rt></ruby>』内篇四に、山中<ruby><rb>寅日</rb><rt>とらのひ</rt></ruby>、自ら虞吏と称するは虎、当路者と称するは狼、<ruby><rb>卯日</rb><rt>うのひ</rt></ruby>丈人と称するは兎、西王母と称するは鹿、子の日社君と称するは鼠、神人と称するは<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>など多く例を挙げ、いずれもその物の名を知った人を害し能わずとある。これは十二支の異なる日ごとに、当日の十二禽の属たる三十六禽が化けに化けて自ら種々の名を称え行く偽号だ。これに反しスウェーデンで牧女どもの言い伝えに、昔畜生皆言語した時、狼が「吾輩を狼と呼ぶな仇するぞ、汝の宝と呼べば仇せじ」と説いたとかで、今にその実名を呼ばず、黙った者、鼠色の足、金歯など唱え、熊を老人、祖父、十二人力、金足などと称う。また受苦週（<ruby><rb>耶蘇</rb><rt>ヤソ</rt></ruby>復活祭の前週）の間、鼠、蛇等有害動物の名を言わず、これを言わば年中その家にそんな物が群集すると伝う（一八七〇年板ロイドの『<ruby><rb>瑞典</rb><rt>スエーデン</rt></ruby>小農生活』二三〇頁、二五一頁）。古エジプト人は箇人は魂、副魂、名、影、体の五つから成り、神も自分の名を呼んで初めて現われ得、鬼神各その名を秘し、人これを知らば神をしてその所願を成就せしめ得と信じ、章安と<ruby><rb>湛然</rb><rt>たんねん</rt></ruby>の『<ruby><rb>大般涅槃経疏</rb><rt>だいはつねはんぎょうそ</rt></ruby>』二には、呪というはその実鬼神の名に過ぎず、その名を唱えらるると鬼神が害をなし得ぬとある。ちょうど<ruby><rb>夜這</rb><rt>よば</rt></ruby>いに往って熊公じゃねえかと呼ばるると褌を捨てて敗亡するごとく、南無阿弥陀仏の大聖不動明王のと名号を唱えらるると、いかな悪人をも往生せしめ、難を救わにゃならぬ理窟だ。さればわが国史にも田道将軍の妻、形名君の妻と、夫の名のみ記して妻の名を欠き、中世、清少納言、<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>、<ruby><rb>右近</rb><rt>うこん</rt></ruby>と父や夫や自分の官位で通って実名知れぬ才媛多い。仏領コンゴに姉妹の名を言い<ruby><rb>中</rb><rt>あ</rt></ruby>てて両人とも娶り得た<ruby><rb>噺</rb><rt>はなし</rt></ruby>あるごとく（一八九八年板デンネットの『フィオート民俗記』四章）、女の実名を知ったら、その女を<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>け得という旧信から起ったので、親の付けた名をうっかり夫と<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>む人のほかに知らさなんだからだ。『扶桑列女伝』に、名妓八千代、<ruby><rb>諱</rb><rt>いみな</rt></ruby>は尊子、勝山、諱は張子など記しあるも、遊女の本名を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らすと、彼はわが妻になる約束ある者など言い掛くる者が出るから、尊者の忌名と等しく隠した故、諱と書いたのだ。西洋でも人の妻を呼ぶにその夫の氏名に夫人号を添え用い、よほど親しい中でなければ本名を問うを無礼とする。支那では天子の諱を隠す余り、どう読むか判らぬ新字を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたさえある（一八九五年板、コックスの『民俗学入門』五章。『郷土研究』一巻四二三頁拙文「呼名の霊」参照）。動物が自分の名や人の言動を人同様に解すると信ずるは何処の俗間にも普通で、サラワクやマレイ半島には動物が面白い事をするを見ても笑うてはならぬ、笑えば天気荒れ出し大災禍到ると信ずる者あり（一九一三年板デ・ウィントの『サラワク住記』二七四頁、一九二三年板エヴァンスの『英領北<ruby><rb>婆能</rb><rt>ボルネオ</rt></ruby>および<ruby><rb>巫来</rb><rt>マレー</rt></ruby>半島宗教俚俗および風習の研究』二七一頁）。わが国でも鼠落しを掛くるに小声でその事を話し、鼠に聞えたと思えば今日はやめだなど大音で言う（『郷土研究』一巻六六八頁）。

さて一年の計は新年にありで、鼠害を減ずるため、支那で七日とか十日とかの夜、鼠の名を呼ばず馳走し、日本でも貴族の奥向きで三ヶ日間ネズミと呼ばずヨメと替え名したのだ。明暦二年板<ruby><rb>貞室</rb><rt>ていしつ</rt></ruby>の『<ruby><rb>玉海</rb><rt>ぎょっかい</rt></ruby>集』に「ヨメをとりたる宿の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>ひ」「小鼠をくはへた小猫ほめ立てゝ　貞徳」、加藤雀庵はヨメは其角の句に見えたヨメが君の略で、『定頼卿家集』に、尼上の蓮の<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を鼠の食いたりけるを見て「よめのこの蓮の玉を食ひけるは、罪失はむとや思ふらむ」、このヨメノコからヨメガ君が出ただろう、ヨメは夜目なるべしと言った（『<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>り草』虫の夢の巻）。まあそんな事であろう。かく当夜謹慎して鼠を饗するは年中の鼠害をなるべく差し控えてもらう心から出たのを、鼠はその頃交わるもの故、鼠の婚儀を祝うものと心得るに及び、和漢ともに鼠の嫁入りと称うるに至ったのだ。

今村鞆君の『朝鮮風俗集』に、正月の一番初めの子の日、農民争うて田野に出で、野原を燃す。これを鼠火戯という。かくすればこの歳野草繁茂すという。鼠が牧畜に必要な草や人間大事の穀物を損ずるは夥しいものあり。欧州の尾の短い鼠ハムスターというは、秋になると穀豆を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて両頬に含み両手で堅く押し付けてはまた含み込み、巣に返って吐き出し積んで<ruby><rb>冬蟄</rb><rt>とうちつ</rt></ruby>する間の備えとす。一匹で穀六十ポンド、またハンドレッド・ウェートの豆を備えたもあるという（ウッドの『動物図譜』一）。ピンカートンの『海陸紀行全集』一に収めたマーチンの『<ruby><rb>蘇格蘭</rb><rt>スコットランド</rt></ruby>西島記』に、ロナ島へどこからとも知れず鼠群れ来って島中の穀を食い尽した上、泣き面に蜂とか、水夫が上陸してただ一疋あった牛を掠め去ったから、全く食物なくなったのに一年間糧船来らず、全島の民が死に尽した。またロージル村に夥しく鼠生じて、穀物、牛乳、<ruby><rb>牛酪</rb><rt>バター</rt></ruby>、<ruby><rb>乾酪</rb><rt>チーズ</rt></ruby>口当り次第平らげたので、住民途方に暮れ猫を多く育てたが、猫一疋に鼠二十疋という多数の敵を持ちあぐんで気絶せんばかりに弱り込んだ。ある人奇策を考え付いて、猫が一疋の鼠と闘うごとに牛乳を暖めて飲ました。すると猫大いに力附いてついに一疋余さず平らげてしまったと記す。日本にも永正元年武州に鼠多く出て、昼、孕み女を食い殺し、その処の時の食物を食い猫を鼠皆々食い殺す（『甲斐国妙法寺記』）。『猫の草紙』に「その中に分別顔する鼠云々、きっと案じ出したる事あり、このほど聞き及びしは近江国御検地ありしかば<ruby><rb>免合</rb><rt>めんあい</rt></ruby>に付きて百姓稲を刈らぬ由。たしかに聞き届くるなり、まずまず冬中は<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り越し稲の下に女子どもを<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>ませ云々」、これだけでは野鼠冬中刈り残しの稲ばかり害するようだが、『郷土研究』二巻八号矢野宗幹氏の説を読むになかなかそんな事で止まらず、伊豆国など毎度これがために草山は禿げになって春夏も冬に同じく、村々では<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>で屋根をふく事ならず、牛の飼草もなく、草を食い尽して後は材木を荒らし、人民をして造林は不安心な物てふ念を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>かせ、その害いうべからず。近頃毛皮のために<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>を盛んに買い入れ殺すより野鼠かくまで殖えただろうと言われた。二巻九号また三宅島に多く犬を飼い出したため山猫減じ、野鼠の害多くなったと記す。朝鮮でも野鼠殖えて草を荒らす予防に、正月上子の日その蟄伏した処を焼いて野草の繁茂を謀ったので、支那で一月七日に家鼠を饗するを虫焼きと呼ぶも、<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>この日野鼠を焼き立てる行事があった遺風だろう。蝙蝠は獣だが<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>ある故古人が虫また鳥と思うたように、欧州の古書（エールスの旧伝『マビノギヨン』など）に鼠を爬虫と呼んだが多い。脚低く尾を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>きて潜み走る<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>が犬猫牛馬よりもトカゲ、ヤモリなどに近いからの事で、支那には古く『爾雅』に毛を被った点から獣としてあれど、歴代の<ruby><rb>本草</rb><rt>ほんぞう</rt></ruby>多くこれを虫魚の部に入れた。それを『本草綱目』始めて獣部に収めた。本邦でも足利氏の中世の編『下学集』には鼠は虫の総名と書いた。されば支那の虫焼きてふ虫は冬蟄する一切の虫やその卵を焼いたからの名だろうが、朝鮮同然鼠をも焼くつもりだったのだ。

貝原好古の『日本歳時記』一に「本朝古えの俗に、正月上子の日に出でて小松を引きて帰る事あり、忠見が歌に「子の日する野べに小松のなかりせば千代の<ruby><rb>例</rb><rt>ため</rt></ruby>しに何を引かまし」、<ruby><rb>俊成</rb><rt>しゅんぜい</rt></ruby>「君が代を野べに出でてぞ祝ひける、<ruby><rb>初子</rb><rt>はつね</rt></ruby>の松の末を遥かに」、げに松は霜雪にも<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>まず、千年をふる樹なれば春の初め祝事に野べに出でて取り帰りけるならし、按ずるに<ruby><rb>薫勛</rb><rt>とうくん</rt></ruby>『答問』に歳首松枝を折り、男は七、女は二、以て薬と<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>してこれを飲むと侍れば、唐土にもかゝる事の侍るにや」。昔は子の日の御宴あり、『万葉集』に天平宝字二年春正月三日侍従、<ruby><rb>竪子</rb><rt>じゅし</rt></ruby>、王臣等を召し<ruby><rb>玉帚</rb><rt>たまばはき</rt></ruby>を賜い<ruby><rb>肆宴</rb><rt>しえん</rt></ruby>せしむ、その時<ruby><rb>大伴宿弥家持</rb><rt>おおとものすくねやかもち</rt></ruby>が詠んだは「初春の<ruby><rb>初子</rb><rt>はつね</rt></ruby>のけふの玉帚、手に取るからに<ruby><rb>動</rb><rt>ゆら</rt></ruby>ぐ玉の緒」。『<ruby><rb>八雲御抄</rb><rt>やくもみしょう</rt></ruby>』に曰く、初春の初子にかくすれば命ものぶるなり、『袖中抄』に曰く、この玉帚とは<ruby><rb>蓍</rb><rt>めどき</rt></ruby>という草に子の日の小松を引き具して帚に作りて、田舎の家に正月初子に蚕飼する屋を帚初むる事云々。『朗詠』註に子の日の遊びとは正月初子に野に出でて遊ぶなり、子の日を賞するに仔細あり、子は北方なり、北洲の千年を<ruby><rb>象</rb><rt>かたど</rt></ruby>る松によれば、人も千年の<ruby><rb>齢</rb><rt>よわい</rt></ruby>を保つべきなり。『<ruby><rb>公事</rb><rt>くじ</rt></ruby>根源』を見るに中朝この遊び盛んに、円融帝寛和元年二月十三日に行われたのは殊に<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>った物だったらしく、<ruby><rb>幄</rb><rt>とばり</rt></ruby>の屋を設け<ruby><rb>幔</rb><rt>まく</rt></ruby>を引き廻らし、小庭と<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>て小松をひしと植えられたりとある。『華実年浪草』一上に引いた『髄脳抄』には才媛<ruby><rb>伊勢</rb><rt>いせ</rt></ruby>が子の日の松を引き来ってその家に植えたのが大木となり存した、能因法師その<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を見るなり車より飛び下り、その松の見ゆる限り乗らずに歩んで故人に敬意を表したとあるより考うると、子の日の遊び必ずしも正月に限らず二月に行うた事もあり、専ら小松を引き来って植えその千年を祝う意で一盃と出掛けたのだ。前述支那朝鮮に上子の日また初春の某日に田畑を焼いて年中の鼠害を防いだごとく、日本でも蓍に小松を添えて帚と<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し、初子の日に蚕室を掃除し初むる行事が宮廷に及ぼして子の日の御宴に玉帚を賜うて一盃やらかしたもうに至ったので、酒を<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>いを掃う玉帚というも立派に訳が立つ。およそ蚕に鼠が付くと何とも手に終えぬもので、家人夜も寝ずにこれを防ぎ、あるいは<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつおぶし</rt></ruby>を惜しまず他家の猫を誘い<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>って放たず、ために比隣反目して<ruby><rb>白井権八</rb><rt>しらいごんぱち</rt></ruby>は犬の<ruby><rb>捫択</rb><rt>もんじゃく</rt></ruby>から人を殺して逐電したが、これは猫の手も間に合せたい多忙中に猫から大喧嘩を起し、やがて事治まって一盃となると異議に及ばず、お前のおかげで大分飲めた、持つべき物は猫なりけりと猫の額を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でて悦ぶ者多し。『嬉遊笑覧』七にいわく、元日より三日は家をはく事をせぬわざあり、今はさまでにはあらねど元日は民家すべて掃除をせず、『五雑俎』<ruby><rb>閩</rb><rt>びん</rt></ruby>中の俗、年始に糞土を除かず、初五日に至りて<ruby><rb>輦</rb><rt>れん</rt></ruby>して野地に至り石を取って返ると。その通り蚕室は初子の日初めて掃除したので、子の日を用ゆるは専ら鼠害を<ruby><rb>厭</rb><rt>よう</rt></ruby>する意と見える。

今村君の『朝鮮風俗集』にまたいわく、上子の日子の刻臼をつけば鼠の種尽くると称し、深夜空臼の音を聞く、昔宮中で小官吏が<ruby><rb>炬</rb><rt>かがり</rt></ruby>に火を付けて大声に鼠<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>し鼠燻しと呼んで庭内を曳きずり廻した後、王様から穀物の<ruby><rb>煎</rb><rt>い</rt></ruby>ったのを入れた袋を賜わった事が民間に伝わったものであると。これも恐らくは虫焼きと同じく支那の古俗が移ったであろう。日本でもこの風を移してこの日小松を引いて<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を作り鼠を<ruby><rb>燻</rb><rt>ふす</rt></ruby>べて年内の鼠害を禁じたのが子の日に小松を引いた起りで、後には鼠燻しは抜きとなり、専ら小松を<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えて眺め飲み遊ぶに至ったので、その遺風として『袖中抄』の成った平安朝の末頃まで田舎で蚕室の掃き<ruby><rb>初</rb><rt>ぞ</rt></ruby>め式の帚に小松を添えて鼠どもグズグズいわば燻ぶるぞと脅かしたのだ。

フレザーの『金椏篇』初板三章に、農家が恩威並び示して田畑の害物を<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>する諸例を挙げていわく、古ギリシアの農書『ゲオポニカ』に百姓がその耕地より鼠を除かんと欲せば、一紙に次のごとく書くべし、ここな鼠にきっと申し渡す、貴様も他の鼠もわれを害してはならぬ、あの畑を汝に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るから速く引っ越せ、今後わが地面で二度と貴様を捕えたら、諸大神の母かけて汝を七つ裂きするぞと、かく書いた紙の字面を上にして自分の畑にある少しも切れていない石に貼り付くるがよいと。注にいわく、ここに言えるあの畑とは隣り持ちの畑だと、つまり自分の畑さえ害せずば隣人はどんなに困っても構わぬという書式だ。不心得千万なようだが、都市は知らずこの鼠駆りに少しも違わぬ遣り方が日本で現に地方に行われおり、たとえば警察で手におえぬ<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>が田辺町へ滞在すると警官がその者を捉えて町から定規の里程外へ送り出す。するとその者はまたそこで悪事をなし、そこからまた警官がよい加減に次へ次へと送り出す。それ故寒村僻里を流浪さえすれば悪事のやり次第という風で、その所の者は毎度迷惑絶えず、実に昭代の<ruby><rb>瑕瑾</rb><rt>かきん</rt></ruby>じゃ。フレザーまたいわく、あるいは害物の一、二に恩を施し他は一切手厳しく扱う事もある。東インド諸島の一なるバリ島では、田を害する鼠を多く捕えて焼き殺し、ただ二疋を宥命して白布の袋に餌を入れて与え、百姓一同神のごとく拝んだ後放ち去る。ボヘミヤの某所では、百姓が通常の鼠を<ruby><rb>釈</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さず殺せど白鼠を見付くれば殺さず、窓に巣を作ってこれを<ruby><rb>畜</rb><rt>か</rt></ruby>う。それが死ねばその家の福尽き常の鼠が殖えるそうだ。シリア人の畑が毛虫に犯さるれば、素女を<ruby><rb>聚</rb><rt>あつ</rt></ruby>めてその内の一人を毛虫の母と定め、毛虫多い処へ伴れ行きて毛虫がここを去るから御気の毒ですと悔みを述ぶ。露国では、九月一日に<ruby><rb>蕪</rb><rt>かぶら</rt></ruby>等諸菜で小さい<ruby><rb>棺</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を製し、蠅などの悪虫を入れ悲歎の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>して埋めると。紀州などで稲の害虫ウンカを<ruby><rb>実盛</rb><rt>さねもり</rt></ruby>と呼ぶ。<ruby><rb>稲虫</rb><rt>いなむし</rt></ruby>の一名<ruby><rb>稲別当</rb><rt>いなべっとう</rt></ruby>、それを斎藤別当に因んで<ruby><rb>実盛</rb><rt>さねもり</rt></ruby>というに及んだ由（『用捨箱』下）。この虫盛んな年は大勢<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>行列して実盛様の御弔いと唱え送り出す。まず擬葬式をして虫を死絶すべき<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>だ。上に引いた支那で上子日に家鼠を饗して炒雑虫というを考うるに、最初この日野を焼いて野鼠蟄虫を<ruby><rb>鏖殺</rb><rt>おうさつ</rt></ruby>し、その夜家鼠を饗して、汝ら野鼠ごとく焼き殺さるるを好まずば年中音なしくせよ、さすればこの通り饗応しやると、恩威並び行いしより変って鼠の嫁入り祝いとも、子の日の遊びともなったと<ruby><rb>惟</rb><rt>おも</rt></ruby>う。上子の子の<ruby><rb>剋</rb><rt>こく</rt></ruby>、臼を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>けば鼠種尽きるというも実は本末顛倒で、鼠が殺し尽されて今年の収穫は早この通りと、臼をつく多忙を示し祝う意に出たと考う。マレイ人は野を焼かば鼠を殺すからその祟りで小児が病むと信ず（一八九六年板、英訳ラツェルの『人類史』一巻四七二頁）、クルックの『北印度俗教および民俗』二四二頁にはインド人鼠を殺すを大罪とし、鼠騒げば家婦日を期して餅をやるから静まれといわば静まる、が、長からぬ内にまた始めると載す。

露国でフィリップ尊者忌の夜珍な行事あり。油虫を駆除するためにその一疋を糸で<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り、家内一同だんまりで戸より引き出す内、家中の一婦髪を乱して窓に立ち、その虫が<ruby><rb>閾</rb><rt>しきみ</rt></ruby>近くなった時、今夜断食の前に何をたべると問うと、一人牛肉と答え、油虫は何をたべると問うと油虫は油虫をたべると答う。まじめにこの式を行えば油虫また生ぜずという。旧信者はこんな式で虫を駆除するは<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しからず、かかる虫も天から福を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>すから家に留むるがよいと考える（一八七二年板ラルストンの『露国民謡』一五五頁）。支那人は大きな牡鼠一疋を捉え小刀でそのキン玉を切り去って放てば、鼠家に満つるも殺し尽す事猫どころでないという（『増補万宝全書』巻六十）。露人もかくのごとく油虫を同士打ちで死に尽さしめ、さてその全滅を歎き悲しむ表意に、親族が死んだ時のごとく髪を乱してかの式を行うのだ。油虫ごとき害虫も家に留むれば福を齎すというはよく考えると一理あり。世界にまるで不用の物なし。多くの菌類や<ruby><rb>黴菌</rb><rt>ばいきん</rt></ruby>は、まことに折角人の骨折って拵えた物を腐らせ<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>むべきの甚だしきだが、これらが全くないと物が腐らず、世界が死んだ物で<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がってニッチも<ruby><rb>三進</rb><rt>さっち</rt></ruby>もならず。そこを醗酵変化分解融通せしめて、一方に多く新たに発生する物に養分を供給するから実際一日もなくてならぬ物だ。鼠も昔より国に盗賊家に鼠と嫌われ、清少納言も、<ruby><rb>穢</rb><rt>きた</rt></ruby>なげなる物、鼠の<ruby><rb>住家</rb><rt>すみか</rt></ruby>、つとめて手<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>く洗う人、『<ruby><rb>尤</rb><rt>もっとも</rt></ruby>の<ruby><rb>草子</rb><rt>そうし</rt></ruby>』に<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>き者、物をかじる鼠、花を散らす鳥と言った。西アジアのオッセテ人が物を盗まれると<ruby><rb>巫</rb><rt>みこ</rt></ruby>に告げる。すると巫は猫を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて平素見込みの悪い奴を訪い、盗んだ物を返さぬと汝の先祖の霊魂をこの猫が苦しめるぞと言うと必ず返す（一八五四年英訳ハクストハウセン著『トランス・カウカシア』三九九頁）。朝鮮でも盗難の被害者は嫌疑者の家の隣宅に往き、某の品を盗まれたから<ruby><rb>不日</rb><rt>ふじつ</rt></ruby>猫を蒸し殺すと<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>すると、盗人怖れて盗品を<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに還付す（『人類学雑誌』三十巻一号二四頁）。いずれも猫は恨み深く邪気<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>った獣故、盗人のために殺され<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んで祟るからという。無論欧亜とも多く猫を魔物とするからかかる訳もあるが、盗品発見に特にこれを使うは、<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>盗人と鼠と一視したに由るらしく、天主教の弁護士の守本尊イーヴ尊者像に猫像を添うるもそんな事に起ると惟う（一五六六年板アンリ・エチアンヌの『エロドト解嘲』一）、これほど嫌わるる鼠でも弁護のしようはあるもので、ウッドの『動物図譜』一に、鼠というものなくば大都市は困るであろう、地下の<ruby><rb>溝涜</rb><rt>こうとく</rt></ruby>に日々捨て流す無量の残食を鼠が絶えず食うからどうやらこうやら流行病も起らぬ、それ故適宜にその過殖を制したら鼠は最も有用な動物だ。また鼠は甚だ清潔を好み、食い終るごとに身を洗い熱心に身を粧う、かつ食物の<ruby><rb>嗜</rb><rt>この</rt></ruby>み甚だ<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れ、食物十分な時はむやみに食わず、ただし餓ゆる時は随分汚物をも食う、肉店に鼠群が入る時牛の頸や脛を顧みず、最上の肉ばかり撰み食うとあって、ちと鼠から分け前でも貰ったらしいほど<ruby><rb>讃</rb><rt>ほ</rt></ruby>めて居る。この書は鼠からペストなどが蔓延する事の知れない内に筆せられた物で、かかる気散じな事を書いたのだ。しかしペストを伝うるはどの鼠でも皆<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>りでなくて、伝えぬ種類もあるというから、病を伝うる奴を殺し尽して、伝えない奴を大いに繁殖させ、下水の掃除を一手受け持ちと任じたらよいようだが、帝都復興以上の難件だろう。ついでに述ぶるは、予往年『ネーチュール』と『東洋学芸雑誌』へ出した通り、西洋は知らず、東洋で鼠とペストの関係についての古い記録は、まず清の<ruby><rb>洪亮吉</rb><rt>こうりょうきつ</rt></ruby>の『北江詩話』が一番だ。その巻四に趙州の師道南は今望江の令たる師範の子で生まれて異才あり、三十歳ならずに死す、遺詩を『天愚集』と名づけ、すこぶる新意あり云々、時に趙州に怪鼠ありて白日人家に入り、すなわち地に伏し血を<ruby><rb>嘔</rb><rt>は</rt></ruby>いて死す。その気に染まる人また<ruby><rb>立所</rb><rt>たちどころ</rt></ruby>に命を<ruby><rb>殞</rb><rt>おと</rt></ruby>さざるなし、道南鼠死行一篇を賦し、奇険怪偉、集中の冠たり、数日ならざるに道南またすなわち怪鼠病で死んだも奇だとある。確かに鼠がペストを伝えたのだ。洪亮吉は今大正十三年より百十五年前に七十三で死んだ人だから、この一件は大略今から百五十年ほど昔の事であろう。またついでに述ぶ、西アジアにイエジジ宗あり、その徒キリストを神の子で天使が人と生まれた者とし、アブラム、マホメットなどを予言者と尊ぶが、キリストを特に<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>めず。キリスト教徒がもっとも嫌う魔王サタンを専ら尊び、上帝初め魔王に全権を委ねて世界を作らせ宇宙を治めしめたが、後自分を上帝同等に心得違い、驕慢の極みついに上帝の機嫌を損じて御前より追放された。しかしついには魔王の前功を<ruby><rb>懐</rb><rt>おも</rt></ruby>うて復職され、この世はその掌握に帰すべしといいて、ひたすら魔王を拝み<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>む。復活祭にキリストを祭るにただ一羊を牲するに、魔王の祭祀には三十羊を牲す。珍な事には、その徒皆両手で盃を持つ事日本人と異ならず、また魔王の名を言わず<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>王といい、孔雀をその象徴とす。欧州で孔雀の尾を不祥とするは、キリスト教で嫌う魔王の印しだからと考える（上に引いたハクストハウセンの書二六〇頁。一八四〇年ニューヨーク板サウスゲイトの『アルメニア等旅行記』一巻二二八頁。一九二一年刊『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯八巻拙文「孔雀の尾」）。

予かつて故土宜法竜師の依頼でこのイエジジ宗の事を種々調べたが十分判らなんだ。一通り聞いたところを考察すると、その宗旨はざっと、上帝は至聖至善だから別段拝まないでも悪くは感ずまい、恐るべきは魔王で、こやつに立腹されると何を仕出かすか知れやしないから、十分<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に拝むがよいという心懸けらしく、かつ上に述べたごとく、こんな極悪の者でも何か往く往く間に合う見込みがあればこそ世にあるのだという想像で、これを拝むと時々<ruby><rb>吉</rb><rt>よ</rt></ruby>い事にも遇うので、魔王宗に凝り固まったと見える。パーシー宗徒は猫も鼠も魔物としながら猫ほどに鼠を忌まず（一六七六年パリ板タヴェルニエーの『<ruby><rb>波斯</rb><rt>ペルシア</rt></ruby>紀行』四四二頁）。猫を特に嫌うよりの反動だ。それから上述露国の旧信者が油虫も天より福を持ち下ると言い、『日次紀事』に初寅の日鞍馬寺で福授けの<ruby><rb>蜈蚣</rb><rt>むかで</rt></ruby>を売ったとあるなど、魔王でも悪虫でも拝めば無害で役に立ちくれると信じての事で、世に近隣の小言を顧みず、ペスト流行にもかかわらず、鼠を多く活かし供養して大黒天に幸いを求むる者の心また同じ。故<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>伯の父伊達自得翁この田辺に久しく囚われたうち筆した『余身帰り』に「鼠の夜ごとに出でくるを、これならで訪う物もなき宿なりと思うも哀れにて、果子など投げやるにようよう<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ顔にて経など読み居る机の前につい居るもおかし。ともすれば油を吸い燈をけすほどに、人々<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>みて打ち殺してんなどいわば、これに向いてわれは許すとも人は赦さず、今はな来そ、よくあらじといい聞かすを心得たりけん、その後はいつしかこずなりぬ。かくてほどへてある夜枕<ruby><rb>辺</rb><rt>べ</rt></ruby>の畳を咬み鳴らす音す。驚きて見れば鼠なり。ししと追わば逃げ入りぬ。再び眠るほどにまた来りて咬み鳴らす事<ruby><rb>糸</rb><rt>いと</rt></ruby>騒がし。枕を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>ぐればまた逃げ入る。何を求むるにか、食物のある所にもあらず。枕近く来りて眠りを驚かすはいかなる心ならんと思うほどに、『五雑俎』に、占書に狼恭し鼠拱すれば主の大吉といえりという条に、近時の一名公早朝靴を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>たんとするに、すでに一足を陥れて鼠あり、人のごとく立ちて拱す、再三叱れども退かず、公怒り一靴を取りてこれに投ぐるに、中に巨<ruby><rb>虺</rb><rt>き</rt></ruby>尺余なるありて<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたり、鼠すなわち見えず、憎むべきの物を以てまた能く人のために患を防ぐは怪しむべしとあるを思い出で、もしさる事もやと<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を<ruby><rb>褰</rb><rt>かか</rt></ruby>げ見れば<ruby><rb>糸</rb><rt>いと</rt></ruby>大いなる<ruby><rb>蜈蚣</rb><rt>むかで</rt></ruby>の<ruby><rb>傴</rb><rt>くぐ</rt></ruby>まりいたりければすなわち取りて捨てつ。糸<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくもくるやと思いいるにさて後は音なくなりぬ。偶然の事なめれども、もしまた前の報いしたるならば下劣の鼠すらなお恩は知るものと哀れなり」。

ジスレリの『文海奇観』に、禁獄された人が絃を鼓する事数日にして鼠と<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>が夥しく出で来り、その人を囲んで聴きおりさて弾じやむと<ruby><rb>各</rb><rt>おのおの</rt></ruby>退いた。さて毎度弾ずるごとに大入り故、獄吏に請いて猫を隠し置き、音楽で鼠を集めて夢中になって感心しいる処を<ruby><rb>掩殺</rb><rt>えんさつ</rt></ruby>させたとある。鼠や蜘蛛がそれほど音楽を好むかは知らぬが、列子やダーウィンが言い、米国のトローが実試した通り、もと諸動物は害心なき人を<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れず、追い追い慣れて近づき遊ぶ。その内に物が心なくしてする事も、目が動けば酒食を得るとて呪し、燈に<ruby><rb>丁字頭</rb><rt>ちょうじがしら</rt></ruby>が立つと銭を儲けるとて拝し、<ruby><rb>鵲</rb><rt>かささぎ</rt></ruby>が<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>げば行人至るとて餌をやり、蜘蛛が集まれば百事<ruby><rb>嘉</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶとてこれを放つ、<ruby><rb>瑞</rb><rt>ずい</rt></ruby>は宝なり、信なり。天宝を以て信となし、人の徳に応ず。故に瑞応という。天命なければ宝信なし、力を以て取るべからざるなりと、<ruby><rb>陸賈</rb><rt>りくか</rt></ruby>が<ruby><rb>樊噲</rb><rt>はんかい</rt></ruby>に語った通り（『西京雑記』三）、己れの力を量らずひたすら僥倖を<ruby><rb>冀</rb><rt>こいねが</rt></ruby>うが人情だ。漢の魏豹、唐の李錡、いずれもその妻妾は天子に幸せられて天子を生み皇太后となった（『陔余叢考』四一）。文化十一年春、大阪北の新地の茶屋振舞へ、さる蔵屋敷の留守居が往った。その従僕茶屋の台所にいると、有名な妓女が来て二階へ上らんとして<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を落した。従僕拾うて渡すと芸子<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>と言いざまその僕の手とともに握って戴き取った。田舎育ちの者かかる美女に手を握られた嬉しさ心魂に徹し、屋敷へ帰っても片時も忘れず。女郎と違い小金で芸子を受け出し得ず、人の花と<ruby><rb>詠</rb><rt>なが</rt></ruby>めさせんよりはと無分別を起し、曾根崎の途中でその女を一刀に斬り殺し麦飯屋の<ruby><rb>簀</rb><rt>す</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>下に隠れたが、翌夕腹へって這い出で食を乞う所を召し捕られた（『伝奇作書』初篇上）。行き合いバッタリ、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の誰とも知らぬ者が笄を拾いくれた嬉しさに手を握ったのを、心あっての事と<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れて大事を仕出かしたは、馬鹿気の骨頂たるようだが、妻妾が貴相ありと聞いて謀反したり、鼠が恩を報いるの、鼠を供養すれば大黒様が礼を授くるのと信ずるのも皆同様の己惚れで、力を以て取るべからざる物を取ろうとする愚かな事じゃ。

大黒天の事は石橋臥波君の『宝船と七福神』てふ小冊に詳述されたから、今なるべく鼠に関する事どもとかの小冊に見えぬ事どもを述べよう。皆人の知るごとくこの神が始めて著われたのは、唐の義浄法師の『南海寄帰内法伝』に由る。義浄は今（大正十三年）より千二百五十三年前、咸享二年三十七歳でインドに往き在留二十五年で帰った時、奉仏兼大婬で高名な則天武后<ruby><rb>親</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら上東門外に迎えたほどの傑僧で、『寄帰内法伝』は法師がかの地で目撃した所を記した、<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>抜きの真実譚だ。石橋君の著にはその大黒様の所を抄出したままで誤字も多少あれば、今は本書から引こう。いわく、また西方諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて二、三尺の形を表わし神王となす。その状坐して金嚢を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>り、かえって<ruby><rb>小牀</rb><rt>しょうしょう</rt></ruby>に<ruby><rb>踞</rb><rt>きょ</rt></ruby>し、一脚地に<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>る。<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に油を以て<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>い、黒色形を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し、莫訶歌羅（マハーカーラ、大神王の義）という。すなわち大黒神なり。古代相承していわく、これ大天（ヒンズー教のシワ大神）の部属で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情に<ruby><rb>称</rb><rt>かな</rt></ruby>う。ただ食時に至り厨家ごとに香火を<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>むれば、あらゆる<ruby><rb>飲食</rb><rt>おんじき</rt></ruby>随って前に列すと。すなわち大黒神は今もインドで大陽相を以て表わして盛んに崇拝するシワの眷属ながら、仏法を敬し、僧衆を護り、祈れば好いたものを授ける、台所で香火を供えて願えば、たちまち飲食を下さるというのだ。さてこの辺から義浄はただ聞いたままを記すという断わり書きがあって、かつて釈尊<ruby><rb>大涅槃</rb><rt>だいねはん</rt></ruby>処へ建てた大寺はいつも百余人の僧を食わせいたところ、不意に五百人押し掛けたので大いに困った。ところが寺男の老母がこんな事はいつもある、心配するなというたまま多く香火を燃し、盛んに祭食を陳列して大黒神に向い、仏涅槃の霊蹟を拝みに多勢の僧がやって参った、<ruby><rb>何卒</rb><rt>なにとぞ</rt></ruby>十分に飲食させて不足のないようにと祈り、さて一同を坐せしめ、寺の常食を与うると食物が殖えて皆々食い足ったので、<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>うて大黒天神の力を称讃したとある。すこぶる怪しい話だが、今の坊主連と異なり、その頃の出家はいずれも信心厚く、行儀も良かったから、事に慣れた老婆の言を信じ切って、百人前の食物が五倍六倍に殖えた事と思い定めて、食って不足を感じなかったものだろう。寺の住職の妻を大黒というも専ら台所を<ruby><rb>司</rb><rt>つかさど</rt></ruby>って大黒神同様僧どもに腹を減らさせないからで、<ruby><rb>頃日</rb><rt>けいじつ</rt></ruby>『大毎』紙へ出た大正老人の「史家の茶話」に『梅花無尽蔵』三上を引いて、足利義尚将軍の時、既に僧の妻を大黒と呼んだと証した。いわく、長享二年十一月二十八日、宿房の大黒を招き、晨盤を<ruby><rb>侑</rb><rt>すす</rt></ruby>む。その<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>蛮のごとし、戯れに詩を作りていわく、〈宿房の大黒晨炊を侑む、<ruby><rb>合</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>若耶渓</rb><rt>じゃくやけい</rt></ruby>の女の眉を掃くべきに、<ruby><rb>好在</rb><rt>こうざい</rt></ruby>忘心一点もなし、服はただ<ruby><rb>繒布</rb><rt>そうふ</rt></ruby>にして語は蛮夷なり〉。意味はよく判らないがその頃はや<ruby><rb>夷子</rb><rt>えびす</rt></ruby>、<ruby><rb>大黒</rb><rt>だいこく</rt></ruby>を対称しただけは判る。高田<ruby><rb>与清</rb><rt>ともきよ</rt></ruby>は『<ruby><rb>松屋筆記</rb><rt>まつのやひっき</rt></ruby>』七五に大黒の槌袋に関し『無尽蔵』巻四を引きながら、巻三の僧の妻を大黒という事は気付かなんだものか。

永禄二年公家藤原某作てふ『<ruby><rb>塵塚</rb><rt>ちりづか</rt></ruby>物語』巻三に<ruby><rb>卜部兼倶</rb><rt>うらべかねとも</rt></ruby>説として、大黒というはもと<ruby><rb>大国主</rb><rt>おおくにぬし</rt></ruby>の<ruby><rb>命</rb><rt>みこと</rt></ruby>なり、<ruby><rb>大己貴</rb><rt>おおなむち</rt></ruby>と連族にて昔天下を経営したもう神なり。大己貴と同じく天下を<ruby><rb>運</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りたもう時、かの大国主袋のようなる物を身に随えてその中へ旅産を入れて廻国せらるるに、その入れ物の中の糧を用い尽しぬればまた自然に満てり。それに<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って後世に福神といいて尊むはこの<ruby><rb>謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>れなりと云々。しかしてその<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>弘法大師かの大国の文字を改めて大黒と書きたまいけるとなりと記す。大黒天は大国主命を仏化したという説は足利氏の代に既にあったので、『古事記』に大国主の兄弟八十神各<ruby><rb>稲羽</rb><rt>いなば</rt></ruby>の<ruby><rb>八上</rb><rt>やかみ</rt></ruby>姫を婚せんと出で立つに、大国主に袋を負わせて従者として往った話あり。本居宣長その賤役たるを言い、事功の人に<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>るる者を今も袋持ちというと述べた。海外にもマオリ人は背に食物を負うを賤民とす（一八七二年パリ板、ワイツとゲルランドの『未開民人類学』六巻三四五頁）。大国主も糧袋を負うたと見え、大黒神も飲食不尽の金嚢を持った所が似ているから、大国主の袋をも不尽の袋と見て二神を合一したのだ。

次は槌だ。『譚海』一二に、日光山には走り大黒というあり、信受の者<ruby><rb>懈怠</rb><rt>けたい</rt></ruby>の心あらば走り<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せてその家に座さず、殊に霊験ある事多し、これは往古中禅寺に大なる鼠出て諸経を食い敗り害をなせし事ありしに、その鼠を追いたりしかば<ruby><rb>下野</rb><rt>しもつけ</rt></ruby>の<ruby><rb>足緒</rb><rt>あしお</rt></ruby>まで逃げたり。鼠の足に緒を付けて捕えて死にたるよりそこを足緒というとぞ、足緒は足尾なり。さて死にたる鼠の骸に墨を塗りて押す時はそのまま大黒天の像になりたり。それより日光山にこの鼠の死にたる骸を重宝して納め置き、今に走り大黒とて押し出す御影なりと記す。一昨年某大臣、孟子がいわゆる大王色を好んで百姓とともにせんとの仁心より頼まれた惚れ薬の原料を採りに中禅寺湖へ往った時、<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>とこの大黒を拝もうと心掛けて滞在して米屋旅館に、岩田梅とて芳紀二十三歳の丸ぼちゃクルクル<ruby><rb>猫目</rb><rt>ねこめ</rt></ruby>の仲居頭あり。<ruby><rb>嬋娟</rb><rt>せんけん</rt></ruby>たる花の<ruby><rb>顔</rb><rt>かん</rt></ruby>ばせ、耳の穴をくじりて一笑すれば天井から鼠が落ち、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のほつれを掻き立てて<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>のとがを<ruby><rb>憾</rb><rt>うら</rt></ruby>めば二階から人が落ちる。南方先生その何やらのふちから<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>るるばかりの大<ruby><rb>愛敬</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>に鼠色の<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>を垂らして、生処を尋ねると、足尾の的尾の料理屋の娘というから十分素養もあるだろう、どうか一緒に走り大黒、身は<ruby><rb>桑門</rb><rt>そうもん</rt></ruby>となるまでも<ruby><rb>生身</rb><rt>なまみ</rt></ruby>の大黒天と崇め奉らんと企つる内、<ruby><rb>唐穴</rb><rt>からっけつ</rt></ruby>になって下山しとうとう走り大黒を拝まなんだ。全く惚れ薬取りが惚れ薬に中毒したのだ。その節集古会員上松蓊君も同行したから彼女の<ruby><rb>尤物</rb><rt>ゆうぶつ</rt></ruby>たる事は同君が保証する、あの辺へ往ったら尋ねやってくれたまえ。

右の『譚海』の文に拠れば鼠が神になって大黒天と現じたようだが、『滑稽雑談』二一には、大黒天神は厨家豊穣の神なるが故に、世人鼠の来って家厨の飲食倉庫の器用を損ずるをこの神に祈る時、十月の亥の日を例として<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の月なる十一月の<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の日を（祭りに）用ゆるなるべしと記す。『梅津長者物語』には鼠三郎、野らねの藤太等の賊が長者の宅を襲うと、大黒真先に打って出で打ち出の<ruby><rb>小槌</rb><rt>こづち</rt></ruby>で<ruby><rb>賊魁</rb><rt>ぞくかい</rt></ruby>を打ち殺す事あり。これでは大黒時に鼠や賊を制止<ruby><rb>誅戮</rb><rt>ちゅうりく</rt></ruby>し、槌は殺伐の具となって居る。

槌はいかにも大黒の附き物で、繁昌をこの神に祈って鼠屋また槌屋と家号したのがある。京で名高い<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>を売る鼠屋に紛らわして<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>屋と名乗る店が出た事あり（宝永六年板『子孫大黒柱』四）。伊勢の御笥作り<ruby><rb>内人</rb><rt>うちんど</rt></ruby>土屋氏は昔槌屋と称え、豪富なりしを<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>み数十人囲み<ruby><rb>壊</rb><rt>やぶ</rt></ruby>りに掛かりかえって敗北した時、<ruby><rb>荒木田守武</rb><rt>あらきだもりたけ</rt></ruby>の狂歌に「宇治武者は千人ありとも<ruby><rb>炮烙</rb><rt>ほうろく</rt></ruby>の槌一つにはかなはざりけり」、<ruby><rb>蛆虫</rb><rt>うじむし</rt></ruby>を宇治武者にいい<ruby><rb>做</rb><rt>な</rt></ruby>したのだ（石崎文雅『郷談』）。それから娼家には殊に槌屋の家号多く、例せば宝永七年板『<ruby><rb>御入部伽羅女</rb><rt>ごにゅうぶきゃらおんな</rt></ruby>』四に、大阪新町太夫の品評が、槌屋理兵衛方に及んで「したるい目付き掃部さま、これが槌屋の大黒なり」と、この娼を家の大黒柱に比べおる。四壁庵の『忘れ残り』上巻に、吉原江戸町三丁目佐野槌屋の<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え遊女<ruby><rb>黛</rb><rt>まゆずみ</rt></ruby>、美貌無双孝心篤く、父母の年忌に廓中そのほか出入りの者まで<ruby><rb>行平鍋</rb><rt>ゆきひらなべ</rt></ruby>を一つずつ施したり、「わがかづく多くの鍋を施して、万治この方にる者ぞなき」とほめある。これらよりもずっと著われたは安永二年<ruby><rb>菅専助</rb><rt>すがせんすけ</rt></ruby>作『<ruby><rb>傾城恋飛脚</rb><rt>けいせいこいのたより</rt></ruby>』で全国に知れ渡り、「<ruby><rb>忠兵衛</rb><rt>ちゅうべえ</rt></ruby>は<ruby><rb>上方者</rb><rt>かみがたもの</rt></ruby>で二分残し」とよまれた亀屋の亭主をしくじらせた北の新地槌屋の抱え<ruby><rb>梅川</rb><rt>うめがわ</rt></ruby>じゃ。

槌は只今藁を打ったり土を砕いたり専ら農工の具で、大高源吾が<ruby><rb>吉良</rb><rt>きら</rt></ruby>邸の門を破ったり、弁慶が七つ道具に備えたりくらいは芝居で見及ぶが、専用の武器とは見えず。

だが昔大分地方の鼠の岩屋等の強賊、皇命に従わざりしを景行天皇ツバキの槌を猛卒に持たせ誅殺した事あり（『書紀』七）、この木は今も犬殺しも用い身に極めて痛く当る。『史記』には槌を以て<ruby><rb>朱亥</rb><rt>しゅがい</rt></ruby>が晋鄙を殺し、劉長が<ruby><rb>審食其</rb><rt>しんいき</rt></ruby>を殺した事あり。北欧の雷神トール百戦百勝するに三の兵宝あり。まず山を撃たば火が出る大槌、名はムジョルニルで、トールこれを以て山と霜の大鬼を殺し、また無数の鬼属を誅した。次は身に巻けば神勇二倍する帯で、第三には大槌を執る時の手袋だ（マレーの『北欧考古編』ボーンス文庫本四一七頁）。わが邦でも時代の変遷に伴うて兵器に興廃あり。砲術盛んならぬ世には槍を貴び、何人槍付けたら<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>柄の槍を許すとか、本多平八の<ruby><rb>蜻蜒</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>切りなど名器も多く出で、『昭代記』に加藤忠広封を奪われた時、清正伝来の槍を堂の礎にあて折って武威の<ruby><rb>竭</rb><rt>つ</rt></ruby>きたるを示したとある。槍より先は刀剣で剣の巻など名刀の威徳を述べて、これさえあれば天下治まるように言いおり、また弓矢を武威の表徴のごとく言った。支那でも兵器の神威を説いたもので、越王泰阿の剣を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>えば敵の三軍破れて流血千里といい、湛盧の剣は呉王の無道を悪んで去って楚に往ったといい、漢高祖が白蛇を斬った剣は晋の時自ら庫の屋を穿って火災を<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ飛び去った由（『淵鑑類函』二二三）。漢より晋までこの剣を皇帝の象徴と尊んだらしい。カンボジアでも伝来の金剣を盗まば王となり、これなくば太子も王たるを得ず（『<ruby><rb>真臘</rb><rt>しんろう</rt></ruby>風土記』）。支那で将軍出征に<ruby><rb>斧鉞</rb><rt>ふえつ</rt></ruby>を賜うとあるは三代の時これを以て人を斬ったからで、『詩経』に武王鉞（マサカリ）を執ればその軍に抗する者なかったとある。上古の人が遺した石製の斧や槌は雷斧、雷槌など欧亜通称して、神が用いた武器と心得、神の表徴とした。博物館でしばしば見る通り、中には斧とも槌とも判らぬ<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の子的の物も多い。王充の『論衡』に、漢代に雷神を画くに槌で連鼓を撃つものとしたとあれば、その頃既に雷槌という名はあったのだ。古ギリシアローマともにかかる石器を神物とし、今日西アフリカにおけるごとく、石斧に誓うた言をローマ人は決して<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>えず。契約に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いた者あれば祝官石斧を牲豕に投げ付けて、弁財天また槌を持つらしい。『<ruby><rb>大方等大集経</rb><rt>だいほうどうだいじっきょう</rt></ruby>』二二には、過去九十一劫<ruby><rb>毘婆尸仏</rb><rt>びばしぶつ</rt></ruby>の時、曠野菩薩誓願して鬼神を受けて悪鬼を治す。金剛槌の呪の力を以て一切悪鬼をして四姓に悪を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>す能わざらしむ。『一切如来大秘密王<ruby><rb>微妙大曼拏羅経</rb><rt>みみょうだいまんだらきょう</rt></ruby>』一には、一切悪および驚怖障難を除くに普光印と槌印を用ゆべしとある。槌を勇猛の象徴としたほど見るべし。仏教外にはエトルリアの地獄王キャルンは槌を持つ。本邦にも<ruby><rb>善相公</rb><rt>ぜんしょうこう</rt></ruby>と同臥した侍童の頭を疫鬼に槌で打たれ病み出し、<ruby><rb>染殿后</rb><rt>そめどののきさき</rt></ruby>を犯した鬼が赤褌に槌をさしいたといい、支那の<ruby><rb>区純</rb><rt>おうじゅん</rt></ruby>ちゅう人は槌で鼠を打ったという（一八六九年板、トザーの『<ruby><rb>土耳其</rb><rt>トルコ</rt></ruby>高地探究記』二巻三三〇頁。『政事要略』七〇。『今昔物語』二〇の七。『捜神後記』下）。いずれも槌がもと凶器たり、今も凶器たり得るを証する。（大正十五年九月八日記。<ruby><rb>蒙昧</rb><rt>もうまい</rt></ruby>の民がいかに斧を重宝な物とし、これを羨んだかは、一八七六年板ギルの『南太平洋の神誌および歌謡』二七三頁註をみて知るべし。）ジュピテル大神、この通り違約者を雷で打てと唱えた。北欧では誓約に雷神トールの大槌ムジョルニルの名を<ruby><rb>援</rb><rt>ひ</rt></ruby>いてした。それが今日競売の約束固めに槌で<ruby><rb>案</rb><rt>つくえ</rt></ruby>を打つ訳である（一九一一年板ブリンケンベルグの『雷の兵器』六一頁）。

刀鎗弓矢の盛んに用いられた世に刀鎗を神威ありとしたごとく、石器時代には斧や槌が武威を示す第一の物だった遺風で、神威を斧や槌で表わす事となり、厨神大黒天もなかなか武備も抜かっておらぬという<ruby><rb>標</rb><rt>しる</rt></ruby>しに槌を持たせたのが、後には財宝を打ち出す槌とのみ心得らるるに及んだと見える。『仏像図彙』に見る通り観音二十八部衆の満善車王も槌を持ち、日本でも叡山の鼠禿倉の<ruby><rb>本地毘沙門</rb><rt>ほんじびしゃもん</rt></ruby>といい（『<ruby><rb>耀天記</rb><rt>ようてんき</rt></ruby>』）、横尾明神は本地毘沙門で盗を<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>わすために<ruby><rb>祝</rb><rt>いつ</rt></ruby>き奉るという（『醍醐寺雑事記』）などその痕跡を留むる。

石橋君は大黒天に鼠はもとクベラ神像と混じたので、その像は金嚢その他の宝で飾った頭巾を戴き玉座に踞し傍に金嚢から財宝をまく侍者あり。後には侍者の代りに鼠鼬となった。日本の大黒が嚢を負い鼠を随えるはこれに因るという人ありと言われた。クベラすなわち毘沙門で、ヒンズー教の説に梵天王の子プラスチアの子たり、父を見棄て梵天王に帰した。梵天王これを賞して不死を与え福神とした。『ラマヤナ』にしばしばクベラを金と富の神と称えあれど、後世インドで一向<ruby><rb>持囃</rb><rt>もてはや</rt></ruby>されず、その画も像も見及ばぬ（一九一三年板ウィルキンスの『印度鬼神誌』四〇一頁。アイテルの『梵漢語彙』一九三頁）。これに反しインド以北では大いに持囃して福神毘沙門と敬仰さる。ヒンズー教仏教ともにこの神を北方の守護神とし、支那には古く<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>は北方でその獣は鼠としたるに融合して、インド以北の国で始めて鼠をクベラすなわち毘沙門の使い物としたのだ。山岡俊明等このインド以北の支那学説とインド本土の経説の<ruby><rb>混淆</rb><rt>こんこう</rt></ruby>地で作られた大乗諸経に見ゆるからとて、支那の十二支はインドから伝うなどいうも、インドに<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>五行の十二支のという事も、鼠を北方の獣とする事も、毘沙門の使とする事もない（『人類学雑誌』三四巻八号、拙文「四神と十二獣について」参看）。されば石橋君が聞き及んだクベラ像はインドの物でなくて、多少支那文化が及びいた中央アジア辺の物だろう。中央アジアに多少これを証すべき伝説なきにあらず。十二年前「猫一疋から大富となった話」に書いた通り、『西域記』十二にクサタナ国（今のコーテン）王は毘沙門天の<ruby><rb>後胤</rb><rt>こういん</rt></ruby>という。昔<ruby><rb>匈奴</rb><rt>きょうど</rt></ruby>この国に<ruby><rb>寇</rb><rt>こう</rt></ruby>した時、王、金銀異色の大鼠を祭ると、敵兵の鞍から甲冑から<ruby><rb>弓絃</rb><rt>ゆづる</rt></ruby>まで、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>や糸をことごとく鼠群が噛み断ったので、匈奴軍<ruby><rb>詮術</rb><rt>せんすべ</rt></ruby>を知らず大敗した、王、鼠の恩を感じこれを祭り多く福利を獲、もし祭らないと災変に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>うと<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>づ。日本にも『東鑑』に、俣野景久、橘遠茂の軍勢を相具し甲斐源氏を<ruby><rb>伐</rb><rt>う</rt></ruby>たんと富士<ruby><rb>北麓</rb><rt>ほくろく</rt></ruby>に宿った夜、その兵の弓絃を鼠に噛み尽くされついに敗軍したとあり。ヘロドトスの『史書』にもエジプト王がこの通り鼠の加勢で敵に勝った話を出す。『宋高僧伝』一には天宝中西蕃、大石、康の三国の兵が<ruby><rb>西涼府</rb><rt>せいりょうふ</rt></ruby>を囲む、玄宗、不空三蔵をして祈らしむると、毘沙門の王子、兵を率いて府を<ruby><rb>援</rb><rt>すく</rt></ruby>い、敵営中に金色の鼠ありて弓絃を皆断ったので大勝利となり、それより城楼<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に天王像を置かしめたと記す。天主閣の初めという人もある。右の諸文で唐時既に鼠を毘沙門の使者としたと知れる。

今日インドでは鼠をガネサの乗り物とす。大黒はシワ大神の部属というが、ガネサはシワの長男だ。シワの妻<ruby><rb>烏摩后</rb><rt>うまこう</rt></ruby>、子なきを憂え、千人の梵士を供養してヴィシュヌに祈り、美妙の男子を生み諸神来賀した。中に土星ありて土ばかり眺めて更にその子を見ず。烏摩后その故を問うと、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>ヴィシュヌを念ずるに一心にして妻がいかにかの一儀を勤むるも顧みず「川霧に宇治の橋姫朝な〱浮きてや空に物思ふ頃」ほかにいいのがあるんだろうと、九月一日の東京<ruby><rb>然</rb><rt>ぜん</rt></ruby>と大焼けに焼けた妻が拙者を<ruby><rb>詛</rb><rt>のろ</rt></ruby>うて、<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>でも醜婦でも、一切の物、わが夫に見られたらたちまち破れおわれと詛うた。因って新産の御子に見参せぬと、聞きもおわらず、烏摩后、子自慢の余りそんな事があるものか、新産を祝いに来てその子を見ないは一儀に懸りながらキッスをしないようなものと怨むから、土星しからば御後悔ないようにと念を押してちょっと眺むると新産のガネサの頸たちまち切れて飛び失せた。わが邦にも男の持戒をいやに疑うて災を招いた例が『野史』一二六に見ゆ。永禄十二年十月武田信玄三増山の備えを小田原勢が撃って大敗した時、北条美濃守<ruby><rb>氏輝</rb><rt>うじてる</rt></ruby>、既に危うきに臨み心中に<ruby><rb>飯綱権現</rb><rt>いいづなごんげん</rt></ruby>を頼み、只今助けくれたら十年間婦女を遠ざけますと誓うた。そこへ師岡某来り馬を譲り、<ruby><rb>禦</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ぎ戦う間に氏輝は<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>れた。帰宅後妻君がいかに思いの色を見せても構い付けずこの夫人は幾歳だったか書いていないが、その時氏輝の同母兄<ruby><rb>氏政</rb><rt>うじまさ</rt></ruby>が三十三だから氏輝は三十歳ばかり、したがって夫人も二十七、八、縮れ髪たっぷりの年増盛りだったでしょう。〈婦女の身三種大過、何ら三と為す、いわゆる婦女の戸門寛大なる、両乳汁流るる、これ三種と名づく〉（『正法念処経』四五）、されば「<ruby><rb>都伝摸</rb><rt>とても</rt></ruby>年増<ruby><rb>東</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>夷辺伐</rb><rt>いえば</rt></ruby>広<ruby><rb>夷</rb><rt>い</rt></ruby>様」その<ruby><rb>広夷</rb><rt>ひろい</rt></ruby><ruby><rb>野</rb><rt>の</rt></ruby>に飽き果て<ruby><rb>散播都天門</rb><rt>さわっても</rt></ruby><ruby><rb>呉弩</rb><rt>くれぬ</rt></ruby>と<ruby><rb>嘆</rb><rt>かこ</rt></ruby>ちて自害した。氏輝は遺書を見て不便がり、一生女と交わらなんだとあるが、後年秀吉の命で自裁した時、愛童山角定吉十六歳、今打ち落した氏輝の首を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>いて走った志を家康感じて罰せず、<ruby><rb>麾下</rb><rt>きか</rt></ruby>に列したとある（『野史』一二六）は自分の家から火を出しながら大睾丸の老爺を負って逃げたので<ruby><rb>褒美</rb><rt>ほうび</rt></ruby>されたような咄し。けだし氏輝は女は遠ざけたが、「若衆<ruby><rb>遠</rb><rt>を</rt></ruby><ruby><rb>春留</rb><rt>する</rt></ruby><ruby><rb>波</rb><rt>は</rt></ruby><ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>はぬ<ruby><rb>庚</rb><rt>かのえ</rt></ruby>さる」小姓を愛し通したのだ。さて烏摩后首なき子の骸を抱いて泣き出し、諸神<ruby><rb>倣</rb><rt>なろ</rt></ruby>うてまた泣く時、ヴィシュヌ大神<ruby><rb>金翅鳥</rb><rt>こんじちょう</rt></ruby>に乗りてブシュパブハドラ河へ飛びゆき、睡り象の頭を切り、持ち来り、ガネサの頭に継いでよりこの神今に象頭だ。これ本邦慾張り連が子孫七代いかに落ちぶれても<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんじゃく</rt></ruby>せず、わが一代儲けさせたまえと祈って油餅を配り廻り、これを食った奴の身代皆自分方へ飛んでくるように願う<ruby><rb>歓喜天</rb><rt>かんぎてん</rt></ruby>また<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうてん</rt></ruby>これなり。今もインド人この神を奉ずる事盛んで、学問や事始めや<ruby><rb>障碍</rb><rt>しょうげ</rt></ruby>よけの神とし、婚式にも<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>る。<ruby><rb>障碍神</rb><rt>しょうげじん</rt></ruby><ruby><rb>毘那怛迦</rb><rt>びなたか</rt></ruby>も象鼻あり。象よく道を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎまた道を開く故、障碍除障碍神ともに象に形どったのだ。日本でも聖天に縁祖また夫婦和合を祈り、二股大根を供う（一八九六年板クルックの『北印度俗教および民俗』一巻一一一頁。アイテル『梵漢語彙』二〇二頁。『増補江戸咄』五）。その名を商家の帳簿に題し、家を立つる時祀り、油を像にかけ、餅や大根を供うるなどよく大黒祭に似る。また乳脂で<ruby><rb>煠</rb><rt>あ</rt></ruby>げた餅を奉るは本邦の聖天<ruby><rb>供</rb><rt>ぐ</rt></ruby>の油煠げ餅に酷似す。その<ruby><rb>像</rb><rt>かたち</rt></ruby>象首一牙で、四手に瓢と餅と斧と数珠をもち、大腹黄衣で鼠にのる（ジャクソンの『グジャラット民俗記』一九一四年ボンベイ板、七一頁）。仏典にも宋の法賢訳『<ruby><rb>頻那夜迦天</rb><rt>びなやかてん</rt></ruby>成就儀軌経』にこの神の像を種々に造り、種々の法で祭り、種々の願を掛くる次第を説きある。<ruby><rb>聚落</rb><rt>しゅうらく</rt></ruby>人をみな戦わせ、人の酒を腐らせ、美しい童女をして別人に嫁ぐを好まざらしめ、夢中に童女と通じ、市中の人をことごとく裸で躍らせ、女をして裸で水を負うて躍らせ、貨財を求め、後家に惚れられ、商店をはやらなくし、夫婦を<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じくし、自分の身を人に見せず、一切人民を狂わせ、敵軍を全滅せしめ、童女を己れ一人に<ruby><rb>倶移等来</rb><rt>ぐいとこ</rt></ruby>させ、帝釈天に打ち勝ち、人を馬鹿にしてその妻女男女を取り、人家を焼き、大水を起し、その他種々雑多の悪事濫行を歓喜天のおかげで成就する方を述べある。ダガ余り大きな声で数え立てると叱られるからやめる。

斧と槌がもと同器だった事は上に述べた。晋の<ruby><rb>区純</rb><rt>おうじゅん</rt></ruby>は鼠が門を出かかると<ruby><rb>木偶</rb><rt>でく</rt></ruby>が槌で打ち殺す<ruby><rb>機関</rb><rt>からくり</rt></ruby>を作った（『類函』四三二）。北欧のトール神の槌は専ら<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>って鬼を殺した。そのごとく大黒の槌はガネサの斧の変作で、<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>を荒らす鼠を平らぐるが本意とみえる。また現今ヴィシュヌ宗徒の追善用の厨器にガネサを画くなどより、大黒が全然ガネサの変形でないまでもその形相は多くガネサより因襲したと<ruby><rb>惟</rb><rt>おも</rt></ruby>わる。唐の不空が詔を奉じて訳した『金剛恐怖集会方広軌儀観自在菩薩三世最勝心明王経』という法成寺からツリを取るほど長い題目の仏典に、<ruby><rb>摩訶迦羅天</rb><rt>まかからてん</rt></ruby>は大黒天なり、象皮を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>き横に一槍を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>る云々。石橋君がその著八六頁に『一切経<ruby><rb>音義</rb><rt>おんぎ</rt></ruby>』より文、『諸尊図像鈔』より図を出したのをみるに、日本化しない大黒天の本像は八<ruby><rb>臂</rb><rt>ぴ</rt></ruby>で、前の二手に一剣を横たえた状が、現今インドのガネサが一牙を<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>に横たえたるに似、後ろの二手で肩上に一枚の白象皮を張り、<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して画にはないが文には足下に一の地神女あり、双手でその足を受くとある。象皮を張ったは大黒もと象頭のガネサより転成せしを示す。ボンベイの俗伝にガネサその乗る所の鼠の背より落ち、月これを笑うて罰せられたという事あり（クルック、一巻一三頁）。大黒像もガネサより因襲して鼠に乗りもしくは踏みおったが、梵徒は鼠を忌む故（一九一五年ボンベイ板、ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁）、追い追い鼠を廃し女神を代用したと見える。

明治二十四、五年の間予西インド諸島にあり<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>して象芸師につき廻った。その時象が些細な蟹や鼠を見て<ruby><rb>太</rb><rt>いた</rt></ruby>く不安を感ずるを<ruby><rb>睹</rb><rt>み</rt></ruby>た。その<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>『五雑俎』に象は鼠を<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>るとあるを読んだ。また『閑窓自語』を見るに、享保十四年広南国より象を渡しし術を聞きしに「この獣極めて鼠をいむ故に、舟の内に<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>を測り、箱のごとき物を拵え鼠をいれ、上に綱をはりおくに、象これをみて鼠を外へ出さじと、四足にてかの箱の上をふたぐ、これに心を入るる故に数日船中に立つとぞ。しからざれば、この獣水をもえたる故に、たちまち海を渡りて還るとなん」とあり。この事和漢書のほかまたありやと疑問を大正十三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一四六巻三八〇頁に出したを答えが出ず、かれこれするうち自分で見出したから十四年七月の同誌へ出し英書にこの事記しあるを英人に教えやった。すなわち一九〇五年ロンドン出板ハズリットの『諸信および俚伝』一の二〇七頁に「観察に基づいた信念に、象は野猪の呻き声のみならずトカゲなどの小さい物に逢っても自ら防ぐ事むつかしと感じ<ruby><rb>駭</rb><rt>おどろ</rt></ruby>くという事あり、欧州へ将来する象を見るに藁の中に潜むハツカ鼠を見て<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>するが常なり」と載す。かく象が<ruby><rb>甚</rb><rt>いた</rt></ruby>く鼠を嫌う故、大黒が鼠を制伏した体を表わして神威を掲げた事、今日インドで象頭神ガネサが鼠にのる処を画き、昔ギリシアのアポロ神がクリノスより献じた<ruby><rb>年供</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>を盗んだ鼠を射殺したので、その神官が鼠に乗る体を画いたと同意と考う。と書きおわってグベルナチス伯の『動物譚原』二の六八頁を見るに、ガネサは足で鼠を踏み潰すとある故、ますます自見の当れるを知った。古ローマの地獄王后ブロセルビナの面帽は多くの鼠を散らし縫った（一八四五年パリ板、コラン・ド・ブランシーの『妖怪辞彙』三九三頁）。鼠は冬蟄し、この女神も冬は地府に帰るを表わしたのだ。それから推して大黒足下の女神は鼠の精と知れる。されば、増長、<ruby><rb>広目</rb><rt>こうもく</rt></ruby>二天が悪鬼毒竜をふみ、<ruby><rb>小栗</rb><rt>おぐり</rt></ruby><ruby><rb>判官</rb><rt>はんがん</rt></ruby>、<ruby><rb>和藤内</rb><rt>わとうない</rt></ruby>が<ruby><rb>悍馬</rb><rt>かんば</rt></ruby>猛虎に<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>るごとく、ガネサに模し作られた大黒天は初め鼠を踏み、次に乗る所を像に作られたが、厨神として台所荒しの鼠を制伏するの義は、上述中禅寺の走り大黒くらいに痕跡を留め、後には専らこれを愛し使うよう思わるるに及んだのだ。『<ruby><rb>淇園</rb><rt>きえん</rt></ruby>一筆』に、<ruby><rb>大内</rb><rt>おおうち</rt></ruby>で<ruby><rb>甲子祭</rb><rt>きのえねまつり</rt></ruby>の夜<ruby><rb>紫宸殿</rb><rt>ししんでん</rt></ruby>の大黒柱に供物を祭り、<ruby><rb>箏</rb><rt>こと</rt></ruby>一張で四辻殿林歌の曲を奏す。これ本より大極殿の楽なり、この曲を舞う時、舞人甲に鼠の形をつけ、上の装束も色糸で幾つも鼠を縫い付くるとある。これも大黒に縁ある甲子の祭りにその使い物の鼠を愛し<ruby><rb>翫</rb><rt>あそ</rt></ruby>ぶようだが、本は鼠が大黒柱を始め建築諸部を損ぜぬよう、鼠を捉うるまねしてこれを<ruby><rb>厭勝</rb><rt>ようしょう</rt></ruby>したのであろう。

今日ボンベイ辺の下等民は鼠を鼠叔父と呼び、鼠と呼ぶを不吉とす。これは本邦で鼠を正月三ヶ日はヨメとのみ言った同然<ruby><rb>忌詞</rb><rt>いみことば</rt></ruby>だが、真に叔父死して鼠となると思う者もあるらしい（クルック、二四二頁）。ドイツの俗信に死人の魂は鼠となる、家の主人死すれば家内の鼠までも出で去るという。サルマチア王ポペルス二世その伯叔父を暗殺し、屍骸を川に投げ込むと鼠となって王夫婦を殺した（グベルナチス、二巻六七頁）。ポーランド王ポピエル悪虐<ruby><rb>度</rb><rt>ど</rt></ruby>に過ぎしを<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めた者あり。王病と<ruby><rb>詐</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りその輩を召して毒殺し、その屍を湖に<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げ入れて安心し酒宴する席へ、夥しい鼠が死体から出て襲来した。王<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて火で身を囲うと鼠ども火を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って付け入る。妻子同伴で海中の城に<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れると鼠また来って食い殺した（ベーリング・グールドの『中世志怪』四五三頁）。チュリンギアで下女一人眠り、朋輩は<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎいた。見ると眠った者の口から魂が鼠となって這い出し窓外に往った。起せど起きぬから他室へ移した、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くして戻った鼠が下女の体を求めど見えぬ故消え失せた。同時に下女は睡ったまま死んだという（コックスの『民俗学入門』四三頁）。本邦でも『太平記』に見えた<ruby><rb>頼豪</rb><rt>らいごう</rt></ruby><ruby><rb>阿闍梨</rb><rt>あじゃり</rt></ruby>、『四谷怪談』のお岩など冤魂が鼠に化けたとした。西暦六世紀にバーガンジー王たりしゴンドランが狩りに疲れて小流の側に睡る。侍臣が見て居る内、王の口より小さい獣一疋出て河を渡らんとして能わず。侍臣剣を抜きて流れに架すとそれを歩んで<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の小山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の穴に入り少時の後出て剣を踏んで王の口に還り入った。その時王<ruby><rb>寤</rb><rt>さ</rt></ruby>めて、われ稀代の夢を見た、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば磨いた<ruby><rb>鋼</rb><rt>はがね</rt></ruby>作りの橋を渡り、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>ひまつ</rt></ruby>四散する急流を渡り、金宝で満ちた地下の宮殿に入ったと見て寤めたと。因って衆を<ruby><rb>聚</rb><rt>あつ</rt></ruby>め自身の夢と侍臣が見た所を語り、一同これはきっとその穴に財宝が<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>されおり王がこれを得るに定まりいると決した。王すなわちその穴を掘って多く財宝を得、信神慈善の業に施したという。その時侍臣が流れに架した剣の図というを見るにいわゆる小獣を鼠鼬様の物に画きある。これまた当時のバーガンジー人が人の魂は鼠鼬の状を現ずと信じた証拠だ（チャムバースの『日次書』一巻二七六頁）。これは人の魂が鼠になって、夢に伏蔵すなわち古人が財蔵を埋め隠したのを見付けたのだが、伏蔵を鼠が守った話も多い。けだし「蛇に関する民俗と伝説」に書いた通り、インド、欧州また日本でも財を<ruby><rb>吝</rb><rt>おし</rt></ruby>む者死して蛇となり、その番をすると信ずると等しく、鼠もまた財宝を埋めた穴に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む事あるより、時に伏蔵を守ると信ぜられたのだ。

『類聚名物考』三三七に『<ruby><rb>輟耕録</rb><rt>てっこうろく</rt></ruby>』から引いて、趙生なる者貧しく暮す、一日木を伐りに行って大きな白蛇が<ruby><rb>噬</rb><rt>の</rt></ruby>まんとするを見、逃げ帰って妻に語ると白鼠、白蛇は宝物の<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>だろうと思い、夫を勧めて共に往きその蛇に随って巌穴に入り、昔唐の賊黄巣が埋めた無数の金銀を得て大いに富んだという。今按ずるに、世俗に白鼠は大黒天の使令とし白蛇は弁財天の使令として福神の下属という、これ西土の書にも世々いう事と見ゆと記す。『葆光録』に曰く、陳太なる貧人好んで施す、かつて夜一の白鼠を見るに色雪のごとし、樹に<ruby><rb>縁</rb><rt>よ</rt></ruby>って上下し、追えども去らず、陳その妻子に言いしは、衆人言う、白鼠ある処には伏蔵ありと、これを掘って白金五十錠を獲たと（『淵鑑類函』四三二）。宝永六年板『子孫大黒柱』四に『博物志』に『白沢図』という書を引いて黄金の精を石糖といえり、その状豚のごとし、これは人家にあって白鼠を妻とす云々。『宋高僧伝』二に、弘法大師の師匠の師匠の師匠のまた師匠<ruby><rb>善無畏</rb><rt>ぜんむい</rt></ruby>が<ruby><rb>烏萇国</rb><rt>うじょうこく</rt></ruby>に至った時、白鼠あり馴れ<ruby><rb>遶</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りて日々金銭を献ず。予未見の書『異苑』に西域に鼠王国あり、鼠大なるは狗のごとく、中なるは兎、小なるは常の鼠のごとし、頭ことごとく白く、帯しむるに<ruby><rb>金枷</rb><rt>きんか</rt></ruby>を以てす、<ruby><rb>商賈</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>その国を経過するありて、まず祀らざれば人の衣裳を噛む、沙門の呪願を得れば他なきを獲、晋の釈道安、昔西方に至り親しくかくのごときを見たという（『類函』四三二）。もと鼠は物を損じ汚す事夥しく、かつ窮する時は人や獣をも食うので、鼠のために全滅した聚落や、村を立て得なんだ土地さえあり（プリニウスの『博物志』巻八、章四三。ピンカントン『海陸紀行全集』の記事は上に引いた）、因って多くの国でこれを凶物としその鳴くを聞くを不吉とす（ジャクソンの『コンカン民俗記』八四頁、コラン・ド・プランシーの『妖怪事彙』四二六頁、アボットの『マセドニア民俗記』一〇八頁）、英国の南ノルサンプトンでは今まで無事だった家へ急に鼠が侵入すれば家人が遠からぬ内に死に、鼠が人の上を走ればその人必ず死し、<ruby><rb>病蓐</rb><rt>びょうじょく</rt></ruby>辺で鼠鳴けば病人助からずという（一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁）。支那でも『論衡』に鼠一<ruby><rb>筐</rb><rt>きょう</rt></ruby>を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>れば飯<ruby><rb>捐</rb><rt>す</rt></ruby>てて食われず、古アングロ・サキソン時代に英国で犬や鼠の食い残しを知って食ったら神頌を百遍、知らずに食ったら五十遍唄わせた（一八四六年板、ライトの『中世英国文学迷信歴史論文集』巻一、頁二四一）。小アジアのユールーク人が熊や羚羊の飲んだ跡の水を文明人が飲むと自分らごとき蛮民になると信ずるごとく（一八九一年板、ガーネットの『<ruby><rb>土耳其</rb><rt>トルコ</rt></ruby>女および風俗』二巻二一三頁）、鼠の残食を参れば鼠の性を受くると信じたのだ。

かく忌み嫌わるるもの故諸獣を神とし尊ぶ例多きも鼠を拝む例は少ない。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条にも挙げていない。吾輩知る所を以てすれば、西半球にシュー人は鼠の近類たる<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>鼠を創世神の一とす（一九一六年板、スペンスの『北米<ruby><rb>印甸人</rb><rt>インディアン</rt></ruby>の鬼神誌』二七一頁）。東半球には何でも中央アジアのトルキスタン辺にシュー人と等しく鼠を利害に関せず祖霊とした崇拝が大いに行われ、上述ごとく祖神がその子たる人間を護り、祈れば福利を与え、祈らずば損害を加うと信じ、支那で鼠を<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>年、<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の方位の獣と立つる風と、インドで毘沙門を北方の守護とする経説を融通して、ついに毘沙門の後胤と称する国王も出で来れば、鼠の助力で匈奴に<ruby><rb>大捷</rb><rt>たいしょう</rt></ruby>した話も出で来たと見える。而してわが邦に行わるる大黒と鼠を合せた崇拝も、実はこの毘沙門から移ったもの多く、初め厨神だったものが軍神として武士に祈らるるに及んだは、その親元たる毘沙門が富の神たると同時に軍神たるに基づく。

さて、中央アジアで毘沙門並びに鼠の崇拝盛んだった時は、金色の大鼠を鼠の王とし、頭の白い鼠をその眷属として専ら祀ったようだ。『嬉遊笑覧』十二上にいわく、番頭の白鼠とは大黒は黒を以て北方の色とし、北方子の位なれば鼠の使者とす。番頭利に賢ければ主人富む。主人は大黒、番頭は鼠のごとしと。しかし上に引いた『異苑』の文を見ると、鼠崇拝の根本地では特に頭の白い鼠を祭ったのだから、その風が支那経由で日本に伝わり、日本でも初めは大黒の使者たる鼠を白頭に画いたであろう。先年スヴェン・ヘジン氏の『<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>貫通紀行』一八九八年板を出した時、この鼠崇拝の事あるべしと思い読むに見えず、大いに失望したが、その後スタイン氏がその辺を発掘して確かに鼠神の像を獲たと知らせくれた人あり。詳細は今に聞かぬ。金色の鼠は鼠類に金色に光るもの数種あり、それを祀ったであろうと、十二年前の『太陽』に書いて置いたが、あるいは鼠王を<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>付くるため祠僧が<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに金色に作り立てたかも知れぬ。『譚海』一一に徳川将軍の世にオランダ人が持ち渡った奇物の内、五色鼠は白鼠を染めたる物なりといい、『香祖筆記』七に、鳥獣毛羽の奇なる物とて黄鳥、花馬、朱毛虎、山水豹とともに朱沙鼠を挙げ、タヴェルニエーの『印度紀行』一巻八章（ホール英訳）の注に、インドで<ruby><rb>犀</rb><rt>さい</rt></ruby>を闘わすにその毛を諸色で彩った、今も象をさようにするとあり。惟うに麒麟や鳳凰、それから獅子を五采<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たるように和漢とも<ruby><rb>絵</rb><rt>えが</rt></ruby>くは、最初外国から似寄った動物を染め飾り持ち来ったのに欺かれ、瑞兆として高く買ったでなかろうか。日本でも上杉家の勇将<ruby><rb>新発田</rb><rt>しばた</rt></ruby>因幡守治長は、染月毛てふ名馬の、尾至って白きを、<ruby><rb>茜</rb><rt>あかね</rt></ruby>の汁で年来染むると、真紅の糸を乱し掛けたごとし。景勝の代に<ruby><rb>叛</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて三年籠城して討ち死にの時もこの馬に乗ったという（『常山紀談』）。昨年予の方へ紺紫色の雀極めておとなしきを持ち来った人あり。いかにも瑞鳥でわが徳を感じて天が祥瑞を下したと悦び、餌を与うるも食わず、吐息ついて死んだから吟味すると、何か<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>を吹き損わせて笑いやらんと巧んで、白髪染剤で常の雀を染めその毒に<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>っておとなしく沈みいたと判った。

元禄五年板、洛下俳林子作『新百物語』二に金沢辺の甚三郎という商人、貧しくなり、大黒天を<ruby><rb>勧請</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>して、甲子の日ごとに<ruby><rb>懇</rb><rt>ねんごろ</rt></ruby>にこれを祀る。ある時また、甲子に当りて例のごとく燈掲げて一心に祈念するに、<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>ともなく大きな白鼠<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と出でて供物を食う。亭主これを見て大いに悦び、翌日友人を招きこの事を語り酒宴する。友達その白鼠は名のみ聞いて見た事なし、かつは物語の種なれば今宵祈って一目見せたまえというに、亭主<ruby><rb>諾</rb><rt>うべな</rt></ruby>い、その夜また燈を掲げ、各集り居るに案のごとく白鼠出で来る。人々見るよりアッといいて立ち騒ぐに驚き、この鼠逃げ帰るを見れば常の黒鼠となって去る。人々怪しみその跡を見るにうどんの粉多し。その<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>うた壁の穴を求むると、隣りに<ruby><rb>饂飩</rb><rt>うどん</rt></ruby>を商う家あり、その饂飩の粉の中に鼠棲んでこの家へ来る故白鼠と見えたと判り、皆々大笑いして帰った。亭主物うき事に思い歎くと、大黒天その夢に現じて、宵の鼠のうどん粉に<ruby><rb>塗</rb><rt>まみ</rt></ruby>れ出でたるも、汝に富貴の道を教ゆべき方便であった。その鼠の通った跡を見るべしと教えられ、夜明けて見れば饂飩粉の上に鼠の足跡文字を顕わす、これを読むに「祈ればぞかかる例しに大麦の、身を粉に成して<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>げ世の中」。亭主これより遊興をやめ、一向商業を励んで富貴の家となった。人は神の徳に依って運を添うといいしは誠なるかなとある。怪しい話ながら動物崇拝など大抵こんな事で、金色の鼠王なども当時の中央アジア人に取っては、わが国王こそ毘沙門の正統で、現にその使物が生身でわれわれの供物を納受しましますという信念を堅め、中央アジアの文化を高むるに大いに力あった事と<ruby><rb>惟</rb><rt>おも</rt></ruby>う。

一九〇四年ロンドン発行、『人』雑誌一二二頁に、ギリシアのシクラデス諸島では、黒い諸動物は吉兆、白いのは不祥と信ずと記す。一八五九年板『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一二頁に、英国の南ノーサンプトンで病室を白鼠が過ぐると見れば、患者必ず死すと信ずと載す。これらは<ruby><rb>流変</rb><rt>りゅうがわ</rt></ruby>りで例外に近く、大抵の国民は白鼠を吉祥とする。『嬉遊笑覧』に、『太平広記』にいわく、白鼠身<ruby><rb>皎玉</rb><rt>こうぎょく</rt></ruby>のごとく白し。耳足紅色、<ruby><rb>眼眶</rb><rt>まぶた</rt></ruby>また赤きもの、すなわち金玉の精なり。その出づる所を伺い掘れば金玉を<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>べし、鼠五百歳なればすなわち白し。耳足紅からざるものは常鼠なり。『抱朴子』に曰く、鼠寿三百歳なり、百歳に満つる時は色白く、善く人に<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>みて下る、名を仲という。一年中の吉凶および千里外の事を知る云々。白色に瑞物多ければなり、世に珍かなるものを貴むは習いなり。古ローマ人や今のボヘミヤ人それからビーナン等に住むマレー人いずれも白鼠を吉兆とし（プリニウス八巻八二章。フレザー『金椏篇』初板三章。一八五六年シンガポール刊行『印度群島および東亜細亜雑誌』二輯二巻一六五頁）、本朝には『治部式』所載祥瑞百四十四種中に鼠全く見えねど、〈大同四年三月<ruby><rb>辛酉</rb><rt>かのととり</rt></ruby>山城国白鼠を献ず〉（『日本<ruby><rb>後紀</rb><rt>こうき</rt></ruby>』一七）などあれば、白鼠は瑞とされざるまでも珍とされたに相違なし。これを大黒天の使い物とする事、『源平盛衰記』一に清盛<ruby><rb>内裏</rb><rt>だいり</rt></ruby>で怪鼠を捕うる記事中、鼠は大黒天神の仕者なり、これ人の栄華の先表なりとある。特に白鼠と書いていないが、多分その頃既に白鼠を尊んだものと察する。

インドのガネサ、中央アジアの毘沙門、日本の大黒天の使い物としてほど盛大にないが、多少鼠を神物と信ずる風習はこの三国のほかにもある。またこの三神に関係なしにも存した。古エジプト人は上述クサタナ国の鼠王同様ヒミズを神とし祈って大敵を破った（ローリンソンの『ヘロドトス』二巻一八九章）。これは英国でシュリウ・マウスと称え、俗に鼠と心得、支那で地鼠、本邦でノラネまたジネズミ、日光を見れば死すとてヒミズと呼び、鼠に似た物だがその実全く鼠と別類だ。コンゴ国には鼠を神林の王とし、バガンダ人は、ムカサ神がキャバグ王のその祠堂を滅せしを怒り、群鼠をして王の諸妃を噛み殺させた話を伝う（一九〇六年板、デンネットの『黒人の心裏』一五三頁。一九一一年板ロスコーの『バガンダ人』二二四頁）。日本にも<ruby><rb>三善為康</rb><rt>みよしのためやす</rt></ruby>の『拾遺往生伝』中に、浄蔵大法師を<ruby><rb>謗</rb><rt>そし</rt></ruby>った者その日より一切の物を鼠に食わる。本尊夢の告げに<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>てより薬師の十二神将が浄蔵を護る、その日の宿直が子の神だったから鼠害を受くるのだと。子の日の神将名は<ruby><rb>毘羯羅</rb><rt>びから</rt></ruby>、これは毘沙門や大黒と別口の神で、中央アジアで支那の十二支をインド出の十二神に配して拵えたものと見える。

かく鼠が神の使となって人を苦しむるよりこれを静めんとて<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>を行うたり、甚だしきは神と<ruby><rb>斎</rb><rt>いつ</rt></ruby>き祈った例もある。クルックの『北印度の俗教』一巻七三頁に、アーマドナガールで四、五月の<ruby><rb>交</rb><rt>こう</rt></ruby>二村の童子石を打って闘う。この行事を廃すれば雨ふらず、もし雨ふれば鼠大いに生じて田を荒すと。わが邦に昔行われた<ruby><rb>印地打</rb><rt>いんじう</rt></ruby>ちだ。『<ruby><rb>日吉</rb><rt>ひえ</rt></ruby>社神道秘密記』に鼠の祠は子の神なり、御神体鼠の面、俗形<ruby><rb>烏帽子</rb><rt>えぼし</rt></ruby><ruby><rb>狩衣</rb><rt>かりぎぬ</rt></ruby>、伝説に昔皇子誕生あるべきよう三井寺の<ruby><rb>頼豪</rb><rt>らいごう</rt></ruby><ruby><rb>阿闍梨</rb><rt>あじゃり</rt></ruby>に<ruby><rb>勅定</rb><rt>ちょくじょう</rt></ruby>あり、百社祈って御誕生あり、頼豪に何でも望みをかなえやろうと仰せられ、すなわち請うて三井寺に戒壇を立つ、叡山から極力これを<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>んで事ついにやんだので、豪、面目を失い、死して四歳の皇子を取り殺し、自ら三千の鼠となって叡山を襲い、経典を食い破ったので、神に<ruby><rb>斎</rb><rt>いつ</rt></ruby>き祀ってこれを<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めたのだと。『さへづり草』むしの夢の巻にいわく、寛文二年印本『江戸名所記』に<ruby><rb>根津</rb><rt>ねず</rt></ruby><ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>社は大黒神を祭るなり、根津とは鼠の<ruby><rb>謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>れにて、鼠は大黒神の使者なれば絵馬などにも多く鼠を<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>きたりとあって、<ruby><rb>不寝</rb><rt>ねず</rt></ruby>権現と書せり、また貞享四年印本『江戸鹿子』に不寝権現、<ruby><rb>千駄木</rb><rt>せんだぎ</rt></ruby>村、ねずとは大黒天神を勧請しけるにや、ねずとは鼠の社の心にやとあり云々。按ずるに古くは<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の権現といえりしを、子はすなわち鼠なるにより下略して子ず権現と<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えしより、寛文の頃に至っては不寝と書きしより、なお元禄の末までも不寝権現とは書き来りしならん云々、さるを宝永三年根津左衛門が霊を合せ祭りて、根津の文字に改められしものなるべしと。またいわく都城必ず四神を祀り以て四方を鎮す、子はすなわち北方玄武神、世俗これを<ruby><rb>子聖</rb><rt>ねひじり</rt></ruby>あるいは鼠のほこらというと、これは拠って按ずるに、太田道灌江戸造立の時祀りし社なる事疑いなし、その方角すなわち北に当れり云々。またいわく伊豆国下田の近郷、中の瀬村の鎮守を子の聖権現といえり、この神、餅を忌み嫌いたもうとて、中の瀬一郷、年の終りに餅を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>かず、焼飯に青菜を交えて<ruby><rb>羮</rb><rt>あつもの</rt></ruby>となし、三ヶ日の雑煮に<ruby><rb>易</rb><rt>か</rt></ruby>えるとぞ、これも珍しと。これについて何か一勘弁付きそうな物と藤沢君の『伝説』伊豆の巻を穴ぐり調べたが一向載っていない。とにかく根津社はもと大黒天に関係なく、鼠害を静むるため鼠を祝い込めた社で、子の聖権現は馬鹿に鼠を嫌う神と見える。

多い神仏の内には豪気な奴もありて、『<ruby><rb>雍州府志</rb><rt>ようしゅうふし</rt></ruby>』に京の勝仙院住僧玄秀の時、不動尊の像の左の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を鼠が咬んだ、秀、戯れに明王諸魔<ruby><rb>降伏</rb><rt>ごうぶく</rt></ruby>の徳あって今一鼠を伏する能わずといった、さて翌朝見れば鼠が一疋像の手に持った利剣に貫かれたので感服したと出づ。似た話があるもので、モニエル・ウィリヤムスの『仏教講義』に、インドの聖人若い時神像に供えた物を遠慮なく鼠が<ruby><rb>著腹</rb><rt>ちゃくふく</rt></ruby>するを見て、万能といわるる神が鼠を制し得ざるに疑いを<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>き、ついに一派の宗旨を立てたとあった。<ruby><rb>羽後</rb><rt>うご</rt></ruby>の七座山には勤鼠大明神の祠あり。これは昔七座の神に命ぜられて堤に穴を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ち、湖を<ruby><rb>疏水</rb><rt>そすい</rt></ruby>した鼠で、猫を惧れて出なんだので七座の神が鼠を捕らねば<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>を除きやろうと約して猫を控えさせ、さて鼠族一夜の働きで成功した。因ってその辺の猫は今に蚤付かず。さてこの鼠神の祭日に出す鼠<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けの守り札を貼れば鼠害なしという（『郷土研究』三巻四二八頁）。守り札で銭をせしめる代りに買った者を煩わさない、ちょうど博徒様の仕方だ。大黒に関係なしと見える。欧州でも、ゲルトルード尊者、ウルリク尊者、またスコットランドのストラス・レヴェン洞に住し、上人いずれも鼠を退治すといい、その旧住地と墓に鼠近付かず、その土および供物のパン能く鼠を殺すと信ず（一九〇五年板、ハズリットの『諸信念および民俗』二巻五〇七頁、一八二一年板コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』。ピンケルトンの『陸海紀行全集』三巻一五頁）。日本で正月に餅を鼠に祝う代りにこのパンを取り寄せて与えるがよかろう。

昔四国遍路した老人に聞いたは、土佐の山内家が幕府より受けた墨付百二十四万石とあった。百の字を鼠が食い去ったので百万石は坊主丸儲けとなった。故に鼠を福と称え殺すを禁じたと。『山州名勝志』二に、山城霊山辺の鼠戸長者、鼠の隠れ里より宝を獲て富んだ話あり。これは伏蔵を掘り当てたのだろう。プリニウスの『博物志』に、鼠、盗を好む余り、金山で金を食う。故に鼠の腹を<ruby><rb>剖</rb><rt>さ</rt></ruby>いて金を<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>とある。昔インドの王子、朝夕ごとにわれに打たるる女を<ruby><rb>妻</rb><rt>めと</rt></ruby>らんというに応ずる者なし。ようやく一人承知した女ありてこれに<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐ。二、三日して夫新妻を打たんとす。妻曰く、王子の尊きは父王の力だ。自分で金儲けて後始めて妾を打てと。道理に詰って王子象馬車乗と従者多く伴れて貿易のためルチャ国に往く。その妃親臣を呼び、<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに従い行かしめ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でもわが夫浴するを見ばその腰巻を取り帰ってわれに渡せと命じた。ルチャ王その宮殿の屋根より太子の一行来るを見、使をして汝は不断繁昌するの術を知るか、一日繁昌するの法を知るかと問わしめると、不断繁昌する術を知ると答う。王すなわち太子の商品を没収し、従者象馬に乗って去り、太子一人無銭で置き去られ、やむをえず最下民同然、腰巻一つで富家に奉公す。その時までも妃が付け置いた親臣のみ太子に附き添い、<ruby><rb>一日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>太子浴するとて脱ぎ捨てた腰巻を拾うて帰国を急ぎ、妃に奉ると、妃これを<ruby><rb>蔵</rb><rt>おさ</rt></ruby>めた。妃その者より太子の成行を聴き取り、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>一つと鼠一疋携えてかの国へ往った。国王使して前度のごとく<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>さしむると、妃、われは一日繁昌すべき術を知ると答えた。王すなわち妃を請じ、また太子の従者<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れて近所にあった者を招集し、太子より取り上げた一切財宝を誰に遣るべきかを決すべしとて猫一疋を出し、この猫が飛び掛かった人に遣るべしといい、一同王を囲んで坐した。太子の妃は持参した手拭で隠し置いた鼠をしばしば現わし示すと、猫これを見付け、王が<ruby><rb>縦</rb><rt>はな</rt></ruby>つや鼠欲しさに妃に飛び掛かったから、王一切の物件を妃に渡し、妃これを象馬に積んで夫の従者を領して帰国した。太子はいつまで働いても<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>が明かず、<ruby><rb>阿房</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしくなって妃に<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>るる数日、これまた帰国し、サア妃を打とうと取り掛かる。妃は従者一同の前で古腰巻を取り出し、これは誰の物と夫に問うと、王子一見して自分の窮状を知られたと<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>り、金儲けして帰ったと<ruby><rb>詐</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りもいえず、大いに恥じ入った。妃全体<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>が持って出た財宝は今誰の物になり居るか、従者に聴いた上妾を打たれよと言ったので王子返答も出ず。妻を打つのを全廃したという（一九〇九年板、ボムパスの『サンタル・パルガナス俚伝』一一三頁）。『閑田耕筆』三に、人は眼馴れた物を貴ばず、鶏や猫が世に少なかったら、その美麗で大用あるを賞し争うて高価で求むるだろうと言ったはもっともで、ロンドン市長が<ruby><rb>素寒</rb><rt>すかん</rt></ruby>な少年時代に猫ない土地へ猫を持ち渡り、インドの鼠金商主が、死鼠一疋から大富となった話も実際ありそうな事だ。さればボーモントおよびフレッチャーの『金無い智者』にも不思議に好景気な人を指して、精魂が鼠か妖婆の加護を受くるでないかという<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>がある。

鼠は好んで人の物を盗み<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>す。西鶴の『<ruby><rb>胸算用</rb><rt>むねさんよう</rt></ruby>』一に、<ruby><rb>吝嗇</rb><rt>りんしょく</rt></ruby>な隠居婆が、妹に貰いし年玉金を失い歎くに、家内の者ども疑わるる事の迷惑と諸神に祈誓する。<ruby><rb>折節</rb><rt>おりふし</rt></ruby>年末の<ruby><rb>煤払</rb><rt>すすはら</rt></ruby>いして屋根裏を改めると、<ruby><rb>棟木</rb><rt>むなぎ</rt></ruby>の間より<ruby><rb>杉原紙</rb><rt>すぎはらがみ</rt></ruby>の一包みを捜し出し、見るにかの年玉金なり。全く鼠が盗み隠したと分ったとあり。幼少の頃読んだ物の名は忘れたが、浪人が家主方へ招かれ談して帰った跡で、その席に置いた金が見えず、浪人に質すと、われ貧に苦しみて盗めりとて謝罪し、早速一人娘を遊女に売って償却した。そののち大掃除をすると鼠の巣から見出した、浪人は償却しおわると直ぐ転住して<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>知れず、家主一生悔恨したとあった。支那にも『輟耕録』十一に、西域人木八剌、妻と対し食事す、妻金の肉<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>しで肉を突いて、口に入れ掛けた処へ客が来た。妻肉さしをそのまま器中に置き、茶を拵えて客に出し回って求むるに肉さしなし。今まで傍に<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>た小婢を疑うて拷問厳しくしたが、盗んだと白状せずに死んだ。一年余りして職人に屋根を修理せしむると、失うた金の肉刺しが石に落ちて鳴った。全く誰もいない内に来た猫が肉とともに盗み去ったものと分った。世事かくのごとくなるもの多し、書して後人の<ruby><rb>鑑</rb><rt>かがみ</rt></ruby>となすとあり。『<ruby><rb>竜図公案</rb><rt>りょうとこうあん</rt></ruby>』四にも似た話を出し居るが、鼠の代りに人が盗み取ったとし居る。山東唐州の房瑞鸞てふ女、十六で周大受に嫁し、男可立を生んで一年めに夫が死んだ、二十二歳で若後家となり、守節十七年、可立も名のごとく立つべき年齢になったので、妻を迎えやらんと思えど、結納金乏しくて誰も嫁に来らず。時に衛思賢という富氏五十歳で妻に死に別れ、房氏の賢徳を聞いて後妻に欲しいと望む。孔子は賢を賢として色に換うというたが、この人はその名のごとく賢をも女をも思うたらしい。房氏銀三十両を結納金に貰うて衛氏に改嫁し、更にその金を結納として<ruby><rb>悴</rb><rt>せがれ</rt></ruby>可立のために呂月娥てふ十八歳の<ruby><rb>婦</rb><rt>よめ</rt></ruby>を迎えた。しかるに可立は一向夫婦の語らいをせずに歳を過す様子、月娥怪しんで問うと、汝を迎うる結納金は母が改嫁して得たもの故、われ<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでこの金を母に還した上、始めて雲雨合歓を催そうと。月娥父の方へ帰ってその由を話すと、伯父が感心して三十両を工面して月娥に渡し、月娥夫の家に帰って房中でその銀を数え、厨内に収め、さて飯を<ruby><rb>炊</rb><rt>かし</rt></ruby>ぎに掛った。隣家の焦黒てふ者壁間より<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知って、門より入り来りその銀を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むを、月娥はその夫帰ってわが房に入ったと思いいた。<ruby><rb>頃刻</rb><rt>しばらく</rt></ruby>して夫帰り、午飯を<ruby><rb>吃</rb><rt>きっ</rt></ruby>した後、妻が夫を悦ばしょうと自室に入り見るに銀なし。どこへ持って行ったかと問うに夫は何の事か分らず、銀を取った覚えなしという。妻は夫がわが伯父が調達しくれた金でほかの女を妻に取る支度と心得、怒って<ruby><rb>縊死</rb><rt>いし</rt></ruby>するところを近所の人々に救わる。その後焦黒雷に打たれて死し、腰に盗んだ銀包みがあったので事実が判った。衛思賢、可立夫婦の孝貞に感じ、三百金を可立に与え、自分が<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>ませた子を成長後自分亡妻の子として引き取る約束で、可立の母房氏を可立方へ帰したとは、よく義理の分った人だ。

かく鼠はよく物を盗む故、その巣から人に必要な物件を見出す事少なからず。前にもちょっと述べた通りハムステルてふ鼠は頬に大きな嚢ありて食物を<ruby><rb>猴</rb><rt>さる</rt></ruby>の頬のように詰め込み得、常の鼠と異なり尾短し。北欧州やアジアのヒマラヤ以北に住み北欧のものは<ruby><rb>長</rb><rt>たけ</rt></ruby>十五インチ尾三インチ、常の鼠より大きい。地中に込み入った巣を穿ち特に穀倉を造り、秋末に穀豆をその頬に押し込んで多量に貯え、その中に眠って極寒時を過し、二、三月になると<ruby><rb>寤</rb><rt>さ</rt></ruby>めて居食いする。一疋で穀六十ポンド、また豆ハンドレッド・エートを蓄うるものありとは<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>な。しかしこの事を心得た百姓は、その巣を掘って穀を過分に得、またその肉を常翫するから<ruby><rb>満更</rb><rt>まんざら</rt></ruby><ruby><rb>丸損</rb><rt>まるそん</rt></ruby>にならぬ。これと別属ながら、同じ暮し方の鼠がアフリカにも西半球にもある。諸方で鼠が神や人に食物を与えた譚あるはこれに基づくか。支那にも一種全身鼠色で、尾やや長く欧州産の腹黒く尾短きに異なるハムステルあり。豆を好み穴倉に貯えるから豆鼠児、倉鼠児、倉官児、弁倉児など呼ばる（『皇立<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>協会北支那部雑誌』二輯十一巻五九頁）、天復中隴右の米作大豊年で、刈ろうと思う内、稲穂が大半なくなり大饑饉<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>した。その時田畔の鼠穴を掘ると夥しく稲を<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>しあった。そこで人々鼠穴を窮め、五、七<ruby><rb>斛</rb><rt>ごく</rt></ruby>を獲る者あり、相伝えてこれを劫鼠倉といい、飢民皆出て鼠穴に食を求め済活甚だ多し（『類函』四三二）。『古事記』に、大国主神、<ruby><rb>須勢理毘売</rb><rt>すせりひめ</rt></ruby>と婚するに臨み、今も蛮民間に行わるるごとく、姫の父<ruby><rb>須佐之男命</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>が、種々と大黒主神を苦しめてその勇怯を試みる中に、<ruby><rb>鳴鏑</rb><rt>かぶらや</rt></ruby>を大野の中に射てその矢を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>らしめ、神がその野に入った時火で囲み焼く、神出る所を知らず火に困る所へ鼠来って、内はホラホラ外はスブスブといったからそこを踏むと落ち入りて地下に隠る、その間に火は燃え行き過ぎた。その時鼠が鳴鏑を持ち来りて奉ったとある。カフィル人の説に、昔創世の神イムラ金の馬に乗り、魔王ユシュ鉄の馬に乗り、競走するに勝負決せず、創世神無数の鼠を作り出し、鼠が地を穿ち穴だらけにしたので鉄の馬踏み込んで足立たず、ついに金の馬の勝ちとなったというも似た話だ（ロバートソンの『クルジスタンのカフィル』三八四頁）。リヴィングストーンの『南阿行記』七章に、マシュエ附近に鼠多く、その穴地下に充満して人歩むごとに足を<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>るとある。神代日本にもそのような地があったので、大国主を鼠が救うた譚も出たのだ。支那には人が鼠の穴を掘って鼠を取り食い、また鼠の貯えを盗み食うた例多く、『法苑珠林』九一に、『薩婆多論』に一切鳥獣の残食を盗めば小罪を得とあるを註して、今時<ruby><rb>世智辛</rb><rt>せちがら</rt></ruby>くなり、多く俗人あり、鼠穴を<ruby><rb>毀壊</rb><rt>きかい</rt></ruby>してその貯えた粟、<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>、雑果子等を盗むはこの犯罪に準ずと記す。ついでにいう、奥州の和淵神社は<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>に鰹と鮭の子を塩して供え、正月十八日に氏子が社家に集り鰹と鮮魚を下げて食い、二十八日に鮭の子を卸して食う。それまで神前にある間は鼠が食わず、鼠を神が封じたからという。また大内で甲子の祭の夜、紫宸殿の大黒柱に供物を祭り、<ruby><rb>箏</rb><rt>こと</rt></ruby>一張で四辻殿林歌の曲を奏す。これもと大極殿の楽なり。この曲を舞う時、舞人甲に鼠の形を付け、上の装束も鳶色の紗に色糸で鼠を幾つもあまた縫い付くるなり（『奥羽観跡聞老志』九。『淇園一筆』）。これは昔大極殿で舞った舞いを大黒天の好む舞いとし、大黒柱を祭って宮中を鼠が荒さぬようまじのうたと見える。一昨々年冬高野の金堂に<ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>で見ると、人の踏まぬ畳表が非常に損じ居る。同行の老僧からこれことごとく鼠の所為だと聞いた。人気少ない宮殿などは殊に鼠害が甚だしかっただろう。

鼠が人を助けた話は仏経にもある。『<ruby><rb>大宝積経</rb><rt>だいほうしゃくきょう</rt></ruby>』七八に、王舎城の<ruby><rb>迦蘭陀竹園</rb><rt>からんだちくおん</rt></ruby>は無双の勝地で、一切の毒虫なく、もし毒虫がこの園に入らば毒心がなくなる。衆生この園に入らば、貪慾、瞋恚、愚痴を発せず、昔<ruby><rb>瓶沙王</rb><rt>びょうしゃおう</rt></ruby><ruby><rb>登極</rb><rt>とうきょく</rt></ruby>の初め、諸<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>とこの園に入り楽しまんとせしに、一同自ら<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>りて婬欲なく戯楽を<ruby><rb>娯</rb><rt>たの</rt></ruby>しまず、その時王もし仏が我国に出たら我れこの勝地を仏に献ずべしと<ruby><rb>発願</rb><rt>ほつがん</rt></ruby>し、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>釈尊に遇って献じたという。甚だ面白からぬ勝地だ。この竹園の名、迦蘭陀は動物の名でホトトギスの一種、学名ククルス・メラノレウクスという鳥に基づくとも、一種の鼠の名に拠るともいう（『翻訳名義集』六。アイテルの『梵漢語彙』七一頁）。『<ruby><rb>善見毘婆沙律</rb><rt>ぜんけんびばしゃりつ</rt></ruby>』六に迦蘭陀は山鼠の名なり。瓶沙王諸妓女と山に入りて遊び<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>んで樹下に眠る。妓女四散遊戯して側にあらず、樹下の穴より毒蛇出て王を<ruby><rb>螫</rb><rt>さ</rt></ruby>さんとすると、樹上より鼠下り来りて鳴くごとに蛇が穴に退き入った。王ついに鼠の声に<ruby><rb>寤</rb><rt>さ</rt></ruby>まされ、さては鼠の助けで蛇害を免れたと知り、山下の村の年貢でかの鼠を養わしめ、その村を迦蘭陀すなわち鼠村と付けたとある。また仏<ruby><rb>成道</rb><rt>じょうどう</rt></ruby>していまだ久しからず。六師の異端なお盛んに行われた時、<ruby><rb>栴遮摩那耆</rb><rt>せんしゃまなき</rt></ruby>てふ女がその師に<ruby><rb>使嗾</rb><rt>しそう</rt></ruby>されて、日々まじめ顔で仏の説法を聴きに通う内、腹に草を包み日々膨脹せしめ、後には木鉢を腹に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで臨月の体を示した。時にその師、仏の説法場に至り高声に、仏は大詐欺者だ。わがこの娘を私愛してかくボテレンに仕上げたと<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き散らした。その時帝釈一の黄鼠と化して女の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>にあり、鉢に繋いだ緒を<ruby><rb>咬</rb><rt>く</rt></ruby>い切り鉢を地に落して仏の無罪を明らかにした（『菩薩処胎経』五）。南米のカリブ人最初天より地に降った時、カッサヴァや芭蕉など有用な植物は集って一大木に生じいた。<ruby><rb>獏</rb><rt>ばく</rt></ruby>一番にこれを見付け、樹下に落る果実を飽くまで食って肥え太る。カリブ人ら何卒獏がどこで果実を拾うかを知らんと勉むれど知り得ず。まず<ruby><rb>啄木鳥</rb><rt>きつつき</rt></ruby>に命じ探偵せしめた。しかるにこの鳥獏を<ruby><rb>蹤跡</rb><rt>しょうせき</rt></ruby>する途中ちょっと立ち留って樹をつつくと虫が出る、それを食うと素敵に<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>い。人間は餓えようとままよ、自分さえ旨ければよいと気が変ってつつき続けの食い続けをやり続けた。さては誰か予を尋ぬる者ありと悟って獏は跡を<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>した。一向<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>明かずとあってカリブ人、また鼠を遣わすとこやつ<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しく立ち廻ってたちまち獏の居所を見付けたが、獏もさる者、鼠に向いわれと同類の汝がわが食物を得る場を<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>の他人の人間に告げたって、人間ほど薄情な者なければ、トドの詰まりは<ruby><rb>狡兎</rb><rt>こうと</rt></ruby>死して<ruby><rb>良狗</rb><rt>りょうく</rt></ruby>煮らるだ。獏の所在は漠然分りませぬと人を誤魔化し置いて毎日ここへ来てシコ玉食う方が<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいと言うと、鼠たちまちその意に同じカリブ人を欺いて毎日食いに出懸けた。ところが一日鼠が食い余しの穀を口辺に付けたまま眠り居る処へカリブ人が行き遇わせ、揺り<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましてかの樹の下へ案内させ、石の斧で数月掛かってその樹を伐り分け、毎人その一片を自分の畑へ<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えてから銘々専食すべきカッサヴァ<ruby><rb>圃</rb><rt>ほ</rt></ruby>が出来た（一八八三年板、イム・ターンの『ギアナ<ruby><rb>印甸人</rb><rt>インディアン</rt></ruby>中生活記』三七九頁）。この鼠のやり方筒井順慶流儀で余り面白くないが、とにかく人に必要な食物の<ruby><rb>在処</rb><rt>ありか</rt></ruby>を教えた功はある。

濠州土人の婦女は食物袋に必ず鼠三疋は入れる。ニウカレドニア、ニュージーランドの土人、東アフリカのマンダンダ人、インドのワッダル人など鼠を常食する者が多い（スペンセルの『記載社会学』。ラッセルの『人類史』英訳二。バルフォールの『印度事彙』三板三巻）。一九〇六年板ワーナーの『英領中<ruby><rb>阿非利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>土人』には好んで鼠を食うが婦女や奉牲者に食うを禁ずとあり。而してムベワてふ小鼠殊に旨いそうで、小児ら掘り捉え<ruby><rb>炙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>り食う四葉の写真を掲げ居る。リヴィングストーンの『南阿行記』十八章には、ムグラモチと小鼠のほか食うべき肉ない地を記す。ボスマンの『ギニア記』には、その地に猫より大きな野鼠ありて穀を損ずる事夥し、その肉すこぶる旨いが、鼠と知っては欧人が嫌うから、首足と尾を去って膳に上すと載す。一六七六年マドリット板、ナワレッテ師の『支那記』六四頁にこの宣教師支那で鼠を食う<ruby><rb>御相伴</rb><rt>おしょうばん</rt></ruby>をして甚だ美味と評しある。本朝には別所長治の三木籠城や滝川益氏の高松籠城に牛馬鶏犬を食い、後には人まで食うたと聞くが、鼠を食うたと見えぬ（『播州御征伐之事』。『祖父物語』）。支那では漢の蔵洪や晋の王載の妻李氏が城を守り、蘇武が胡地に節を守った時鼠を食うたという。しかし『<ruby><rb>尹文子</rb><rt>いんぶんし</rt></ruby>』に周人鼠のいまだ<ruby><rb>腊</rb><rt>せき</rt></ruby>（乾肉）とされないものを<ruby><rb>璞</rb><rt>はく</rt></ruby>というとあるそうだから考えると、『徒然草』に名高い鰹同前、最初食用され、中頃排斥され、その後また食わるるに及んだものか。唐の<ruby><rb>張鷟</rb><rt>ちょうさく</rt></ruby>の『<ruby><rb>朝野僉載</rb><rt>ちょうやせんさい</rt></ruby>』に、嶺南の獠民、鼠の児目明かず、全身赤く<ruby><rb>蠕</rb><rt>うご</rt></ruby>めくものに、蜜を飼い、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>で<ruby><rb>夾</rb><rt>はさ</rt></ruby>み、取って咬むと<ruby><rb>喞々</rb><rt>しつじつ</rt></ruby>の声をなす、これを<ruby><rb>蜜喞</rb><rt>みつしつ</rt></ruby>といいて賞翫するとあり。『類函』に引いた『雲南志』に、広南の儂人、飲食美味なし、常に<ruby><rb>鼷鼠</rb><rt>けいそ</rt></ruby>の塩漬けを食うとあり。明の李時珍が、嶺南の人は、鼠を食えどその名を忌んで家鹿と謂うと言った。して見ると鼠は支那で立派な<ruby><rb>上饌</rb><rt>じょうせん</rt></ruby>でない。一七七一年パリ板ターパンの『<ruby><rb>暹羅</rb><rt>シャム</rt></ruby>史』にいわく、竹鼠は上饌なり、常鼠に似て尾赤く、毛なく、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>のごとし。猫ほど大きく、竹を食い、殊に<ruby><rb>筍</rb><rt>たけのこ</rt></ruby>を好む。家ごとに飼うに、人に馴れて、常鼠を殺せど、その害は常鼠に過ぎたりと。これは支那で<ruby><rb>竹䶉</rb><rt>ちくりゅう</rt></ruby>一名<ruby><rb>竹㹠</rb><rt>ちくとん</rt></ruby>、㹠は豚と同じく豕の子だ、肥えて豚に似る故名づく。<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の根をも食う故、菅豚ともいう。竹の根を食う鼠で土穴中におり、大きさ兎のごとし、人多くこれを食う。味鴨肉のごとし、<ruby><rb>竹刺</rb><rt>ちくし</rt></ruby>、人の肉に入りて出ざる時これを食えば<ruby><rb>立所</rb><rt>たちどころ</rt></ruby>に消ゆる。福建の桃花嶺に竹多くこの鼠実に多し（『本草綱目』五一下。大阪板『<ruby><rb>閩書</rb><rt>びんしょ</rt></ruby>南産志』下）。これはリゾムス属の鼠で、この属に数種あり、支那、チベット、インド、マレー諸島に住む。日本にも文化の末、箱根山に鼠出で竹の根を食い竹ことごとく枯れた。その歯強くてややもすれば二重網を咬み破ったとさ（『即事考』四）。安政二年、出羽の代官からかようの鼠に関し差し出した届けの朱書に、その鼠、色赤く、常鼠より小さく、腹白く、尾短しとある由（『郷土研究』二巻、白井博士「野鼠と竹実」）。リゾムス属の物と見えぬが食い試みたら存外珍味かも知れぬ。アフリカの蘆原に穴居する蘆鼠は、アウラコズス属の鼠で肉味豚に似るから土豚の称あり。焼き食うて珍重さる（シュワインフルトの『<ruby><rb>阿非利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>の心』十六章）。

それから東西洋とも鼠を医療に用いた事多く、プリニウスは鼠を引き<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて蛇に咬まれた<ruby><rb>創</rb><rt>きず</rt></ruby>へ当てたらよいと言った。また鼠の肝を<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>に包んで豚に食わすとどこまでも付いて来ると言った。豚を盗む法だ。この法は人にもきくとあるから、イモリの黒焼きを買うに及ばぬ。ただしその人油一盃呑んだらきかぬとある。英国の民間療法に鼠を用ゆる事多い中について、鼠を三疋炙って食わばどんな寝小便でもやまるという（『ノーツ・エンド・キーリス抄記』一六四一頁）。これは日本でもいう事だ。漢方には牝鼠を一切用いず。和方もさようと見えて、指の痛みを治するに雄鼠糞と<ruby><rb>梅仁</rb><rt>ばいにん</rt></ruby>を粉にし飯粒でまぜ紙に付けて<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>るべし、雄鼠の糞は角立てあり、雌鼠の糞は丸しとある（『譚海』一五）。貝原篤信先生は、ちと鼠から咬まされた物か、猫を至って不仁な獣と<ruby><rb>貶</rb><rt>けな</rt></ruby>し、鼠は肉、肝、胆、外腎、脂、脳、頭、目、脊骨、足、尾、皮、糞皆能あり用うべし。およそ一物の内、その形体処々功能多き事鼠に<ruby><rb>逾</rb><rt>こ</rt></ruby>えたる物なしと賞賛した（『大和本草』一六）。

およそ鼠ほど嫌い<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>まるる物は少ないが、段々説いた所を綜合すると、世界の広き、鼠を食って活き居る人も多く、迷信ながらもこれを神物として種々の伝説物語を生じた民もあり。鼠も全く無益な物でないと判る。