Soranoha

死について

しについて

原 民喜

お前が凍てついた手で

最後のマツチを擦つたとき

焔はパツと透明な球体をつくり

清らかな優しい死の床が浮び上つた

誰かが死にかかつてゐる

誰かが死にかかつてゐる と、

お前の頬の薔薇は呟いた。

小さなかなしい アンデルゼンの娘よ。

僕が死の淵にかがやく星にみいつてゐるとき、

いつも浮んでくるのはその幻だ

広島の惨劇は最後の審判の絵か何かのやうにおもはれたが、そこから避れ出た私は死神の眼光から見のがされたのではなかつた。死は衰弱した私のまはりに紙一重のところにあつた。私は飢ゑと寒さに戦きながら農家の二階でアンデルゼンの童話を読んだ。人の世に見捨てられて死んでゆく少女のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。蟋蟀のやうに瘠せ衰へてゐる私は、これからさきどうして生きのびてゆけるのかと訝りながら、真暗な長い田舎路をよく一人とぼとぼ歩いた。私も既に殆ど地上から見離されてゐたのかもしれないが、その暗い地球にかぶさる夜空には、ピタゴラスを恍惚とさせた星の宇宙が鳴り響いてゐた。

その後、私は東京に出て暮すやうになつたが、死の脅威は更にゆるめられなかつた。滔々として押寄せてくる悪い条件が、私から乏しい衣類を剥ぎ、書籍を奪ひ、最後には居住する場所まで拒んだ。

だが、死の嵐はひとり私の身の上に吹き募つてゐるのでもなささうだ。この嵐は戦前から戦後へかけて、まつしぐらに人間の存在を薙ぎ倒してゆく。嘗て私は暗黒と絶望の戦時下に、幼年時代の青空の美しさだけでも精魂こめて描きたいと願つたが、今日ではどうかすると自分の生涯とそれを育てたものが、全て瓦礫に等しいのではないかといふ虚無感に突落されることもある。悲惨と愚劣なものがあまりに強烈に執拗にのしかかつてくるからだ。もともと私のやうに貧しい才能と力で、作家生活を営もうとすることが無謀であつたのかもしれない。もし冷酷が私から生を拒み息の根を塞ぐなら塞ぐで、仕方のないことである。だが、私は生あるかぎりやはりこの一すぢにつながりたい。

それから「死」も陰惨きはまりない地獄絵としてではなく、できれば静かに調和のとれたものとして迎へたい。現在の悲惨に溺れ盲ひてしまふことなく、やはり眼ざしは水平線の彼方にふりむけたい。死の季節を生き抜いて来た若い世代の真面目な作品がこの頃読めることも私にとつては大きな慰藉である。人間の不安と混乱と動揺はいつまで続いて行くかわからないが、それに抵抗するためには、内側にしつかりとした世界を築いてゆくより外はないのであらう。

まことに今日は不思議で稀れなる季節である。殆どその生存を壁際まで押しやられて、飢ゑながら焼跡を歩いてゐるとき、突然、眼も眩むばかりの美しい幻想や清澄な雰囲気が微笑みかけてくるのは、私だけのことであらうか。

底本 / Source edition

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「日本評論」
1951(昭和26)年5月号
遺稿
※「人の世に見捨てられて死んでゆく少女のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。」の文は他の本では次のようになっている。
「定本原民喜全集II」(青土社 1978年9月20日発行)では「人の世に見捨てられて死んでゆく少女の最後のイメージの美しさが狂ほしいほど眼に沁みた。」とされており、「最後の」という言葉が入っている。
「原民喜全集第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)でも同様に、「最後の」という言葉が入っている。
※冒頭の「お前が凍てついた手で」は、底本第1刷では2字下げになっていますが、第2刷と第3刷、及び「定本 原民喜全集II」(青土社 1978年9月20日発行)、「原民喜全集 第二巻」(芳賀書店 初版発行 昭和40年8月15日)では1字下げになっていますので本ファイルでも1字下げにしました。
入力:ジェラスガイ
校正:砂場清隆
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/004787_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004787_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004787_000293/

原 民喜「死について」(新字旧仮名)、底本『日本の原爆文学1 原民喜』ほるぷ出版、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004787_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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