Soranoha

悪夢

あくむ

原 民喜

僕は外食に出掛けて行くため裏通りを歩いている。ある角を曲って二三歩行ったかと思うと僕の視線は何気なく四五米先の二階の窓の方に漂う。反射的に立ちどまる。空間をたち切って突然、黒い一箇の塊りが墜落して行く。二階の窓際で遊んでいた子供なのだ。子供の体はどしんとアスフアルトに衝突する。ざくっという音響がきこえる。僕の体のなかにも、ずしんと何か音がひびく。僕はびっくりして立留まっている。しーんとしたなかに風のようなものが走る。跣足のまま飛出した中年の婦人が黒い塊に飛びついて横がかえにすると夢中で駆け出していく。医院の方へ行くのだ。その後姿が僕の眼にはっきり映る。横がかえにされてぐんなりと頭を垂れている子供、斜横に姿勢を張って突き進もうとする婦人。……惨劇のなかに置かれた人間の表情とリズムがずき〱と僕のなかで疼きだす。僕の眼には広島の惨劇の世界がすぐ見えてくるのだ。

僕は寝れない夜々、鶏の声に脅かされている。道路に面した僕の部屋は深夜の街の音響がつぎ〱に飛込み、僕の部屋の窓は僕の寝つけない鼓膜になってしまう。一つのもの音から次のもの音の間に横たわっている静謐もその次にはじまるもののために重苦しく身悶えしている。そういう身悶えが鶏のはばたきで破られると、あの声が始まりだす。一羽が終ったかと思うと、もうすぐ次の一羽が待ちかまえて啼きだす。その声々は睡れない僕を滅茶苦茶に掻きむしる。啼きやんで静謐が戻って来ても、僕はもうその次に用意されているあの羽撃きのために脅えつづける。……そういう時、僕にはあの広島の廃墟の姿がぼんやりと浮んでくるのだ。あそこも今ではかなり家が建並んで地上らしくなっているのを僕は知っているはずだ。だが、僕の眼に見えてくるのは、やはり原爆直後のあの何ともいいようない不思議な姿だ。

先日「日本敗れたれど」という映画を見て、僕はまた何ともいいようのないものを煽られた気持がした。廃墟はまだ人の心の隅々にも日常生活のいたるところにも存在しているはずだが、それがまだほとんど回復しないうちに、既に地上では次の荒廃が準備されているのではないか、この無気味な予感が僕を重く苦しめる。そして原子力の投げる最も陰鬱な影はそれを人類が統制する力をもっていないのではないかという一点にある。

近頃読んだ小説で阿部知二氏の「暗い影」と「おぼろ夜」の二編はまことに印象に残る作品だったが、あのような陰惨な題材に心惹かれて描くということに、この作者の心象風景を見るような気もしたが、それにもかかわらず、この暗い救いのない風景は今日殆どすべての人に共通するもののようにおもわれる。殊に「おぼろ夜」の方は戦争によって引裂かれた青年の心の一典型として心打たれるものがあったが、たま〱表現六月号の田中英光氏「ヒラザワ氏病」を読むと「おぼろ夜」の主人公とはまた異なるが、今日の引裂かれた心のもう一つの型を見せつけられたような気がした。恐らく今後も募っていくだろう現象の混乱とインフレの挟撃のなかにあって、分裂症にかからないで生きていくには、どうすればいいのか。それは僕にも殆ど解らないのである。やがて人類は原子力を統制する力を失って自滅するのではないかと思っただけでも、僕の方が既に心の統制を失いそうである。だが、僕はやはり祈らずにはいられない。暗い不安に駆りたてられるあまり心が凶暴に陥らないことを、つねにつねに、やさしい心と静かな理性を、人類のために、自分自身のためにも祈りつづけるばかりである。

底本 / Source edition

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
入力:ジェラスガイ
校正:大野晋
2002年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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原 民喜「悪夢」(新字旧仮名)、底本『日本の原爆文学1 原民喜』ほるぷ出版、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004779_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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