この話を残して行つた男は、今どこにゐるか<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくへ</rt></ruby>もしれない。しる必要もない。彼は正直な職人であつたが、成績の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い上等兵として兵営生活から解放されて後、町の料理屋から、或は遊廓から時に<ruby><rb>附馬</rb><rt>つけうま</rt></ruby>を引いて来たりした。これは早朝、そんな場合の金を少しばかり持つて行つた或日の晩、縁日の植木などをもつて来て、勝手の方で東京の職人らしい感傷的な気分で話した一売笑婦の身の上である。

その頃その女は、すつかり年期を勤めあげて、どこへ行かうと自由の体であつたが、田舎の家は母がちがふのに、父がもうゐなくなつてゐたし、多くの客の中でどこへ落着かうといふ当もなかつたので……勿論西の方の産れで、<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby>な締りやであつたから、倉敷を出して質屋へあづけてある衣類なども少くなかつたし、今少し稼ぎためようと云ふ気もあつたので、楼主と特別の約束で、いつも二三枚目どころで相変らず気に向いたやうな客を取つてゐた。

その客のなかに、或私立大学の学生が一人あつた。彼は<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みあげを短く刈つて、女の<ruby><rb>羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しがるほどの、癖のない、たつぷりした長い髪を、いつも油で後ろへ撫であげ、いかに<ruby><rb>田舎</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>の家がゆつたりした財産家で、また<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に母親が深い慈愛を彼にもつてゐるかと云ふことを語つてゐるやうな、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>でも華美でもないが、どこか奥ゆかしい風をしてゐた。勿論年は彼女より一つ二つ少いと云ふに過ぎなかつたが、各階級の数限りない男に接して来た彼女の目から見れば、それはいかにも乳くさい、坊つちやん〱した幼ない青年に過ぎなかつた。

初めて来たのは、花時分であつた。どこか花見の帰りにでも<ruby><rb>気粉</rb><rt>きまぐ</rt></ruby>れに舞込んだものらしく、二人ばかりの友達と一緒に上つて来たのであつたが、三人とも浅草で飲んで来たとかいつて、いくらか酒の気を帯びてゐた。彼等は彼女の朋輩の一人の部屋へ入れられて、そこで<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>たちを相手に酒を飲んでゐたが、彼女自身はちよつと<ruby><rb>袿</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着て姿を見せただけで……勿論どんな客だかといふことは、長いあひだ場数を踏んで来た彼女にも、淡い不安な興味で、別にこてこて<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を塗るやうなこともする必要がなかつたし、その時は少し病気をしたあとで、<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまゝ</rt></ruby>の利く古くからの<ruby><rb>馴染客</rb><rt>なじみきやく</rt></ruby>のほかはしばらく客も取らなかつたし、<ruby><rb>初会</rb><rt>しよくわい</rt></ruby>の客に出るのはちよつと面倒くさいといふ気もしてゐたので、気心を<ruby><rb>呑込</rb><rt>のみこ</rt></ruby>んでゐる新造にさう言はれて、気のおけないやうなお客なら出てもいゝと思つて、袖口の切れたやうな<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゆばん</rt></ruby>に古いお召の部屋着をきてゐたその上に<ruby><rb>袿</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に引つかけて、その部屋へ顔を出して行つたのであつたが、鳩のやうな其の目はよくその男のうへに働いた。

「ちよい〱こんな処へ来るの。」

「いや、僕は初めてだ。」

「お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。」

彼女はその男が部屋へ<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けてから、自分で勘定を払はせられて、素直に紙入から金を出してやるのを、新造に取次いだあとで、そんなことを言つて笑つてゐたが、男は女に触れるのをひどく極り悪さうにしてゐた。

「今度来るなら一人で来るといゝわ。あんな<ruby><rb>取捲</rb><rt>とりまき</rt></ruby>なんかつれて来ちや可けませんよ。」彼女はまたそんな事を言つて、これも其の男に触れるのを遠慮するやうにしてゐた。

「それあ<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたつて、こんな処にゐるものには、悪い病気がありますからね、<ruby><rb>不見転</rb><rt>みずてん</rt></ruby>なんか買ふよりか安心は安心だけれど……。」彼女は幾分<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かし気味で、そんな事を話したが、男が彼女のこゝへ<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて来た径路などを聞かうとして、色々話しかけると、若い癖にそんなことは聞かなくともいゝと言つた風で、笑つてゐた。

しかし何のこともなかつた。朝帰るときに、いつも初めての客にするやうに肩をたゝくやうなことも、わざとらしくて<ruby><rb>為</rb><rt>す</rt></ruby>る気がしなかつたので、たゞ、「思出したら又おいでなさい」と、<ruby><rb>笑談</rb><rt>ぜうだん</rt></ruby>らしく言つたきりであつた。

それから其の男は正直に二三度独りでやつて来た。そして<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>むにつれて、お互に身の上話などするやうになつた。女は別にその男の来るのに、特別の期待をもつた訳ではなかつたが、部屋のあいてゐる時などには、ふと思出すこともあつた。むかし娘時代に、田舎の町で裁縫のお師匠さんに通つてゐる頃、きつと通らなければならない、通りの時計屋の<ruby><rb>子息</rb><rt>むすこ</rt></ruby>に心を<ruby><rb>惹着</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>けられて、淡い恋の悩みをおぼえはじめ、その前を通るとき、又は思ひがけなく往来で、行合つたりした時に、顔が<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くなつたり心臓が波うつたりして、<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>枕に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いてからも角刈の其の丸い顔が目についたり、昼間針をもつてゐても、自然に顔が熱したりした。勿論言葉を交す機会もなかつたし、そんな機会を作らうとも思はなかつたから、単純に美しい幻として目に映つただけで、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かなその恋の芽も土の下で其のまゝ枯れ<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んでしまつた。彼女の生家は、町でもちよつと名の売れた料理屋であつたが、その頃から<ruby><rb>遽</rb><rt>には</rt></ruby>かに異性といふものに目がさめはじめると同時に、同じやうな恋の対象がそれから<ruby><rb>夫</rb><rt>それ</rt></ruby>へと心に映じて来たが、だらしのない父の<ruby><rb>放蕩</rb><rt>はうたう</rt></ruby>の<ruby><rb>報</rb><rt>むく</rt></ruby>いで、店を人手に渡したのは其から間もなくであつた。で、家名相当の縁組をすることもできなくて、今のやうな<ruby><rb>境涯</rb><rt>きやうがい</rt></ruby>に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちることになつたのであつたが、ちやうど其の時分の淡い追憶のやうなものが<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の大学生によつて、ぼんやり<ruby><rb>喚覚</rb><rt>よびさ</rt></ruby>まされるやうな<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>ない懐かしさを<ruby><rb>唆</rb><rt>そゝ</rt></ruby>られた。

彼は飲むといふほどには酒も飲まないし、どこか女に<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>するやうな様子で、町に明りのつく時分<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで上つて来たが、<ruby><rb>忙</rb><rt>せは</rt></ruby>しいときなどは、朝客を帰してから部屋へいれて、一緒に飯を食べることもあつた。晩春の頃で、<ruby><rb>独活</rb><rt>うど</rt></ruby>と半ぺんの<ruby><rb>甘煮</rb><rt>うまに</rt></ruby>なども、<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>は二人のために見つくろつて、酒を<ruby><rb>白銚</rb><rt>はくてう</rt></ruby>から少しばかり銚子に移して、<ruby><rb>銅壺</rb><rt>どうこ</rt></ruby>でお<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をしたりした。<ruby><rb>水桶</rb><rt>みづをけ</rt></ruby>だのお鉢だの、こま〱した世帯道具が一切そこにあつた。女は立膝をしながら、割箸で飯を盛つてくれたり、<ruby><rb>海苔</rb><rt>のり</rt></ruby>をやいてくれたりした。彼はこの世界の生活を不思議さうに眺めてゐた。女はとろりとした疲れた目をしてゐたが、やがて又窓を暗くして<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の夜具のなかへ入つて行つた。

「一体君たちは、こんなことをしてゐて、<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ひに何うなるんだね。」彼は<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>ひになつて、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をふかしながら、そんな事を<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねた。

「ふゝ」と、女は<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>つてゐたが、「まあ余り好いことはありませんね。親元へ帰つて行く人もあるし、東京でお客と一緒になる人もあるしさ。」

「君なんか何うするんだね。」

「何うしようと思つて、今思案中なのよ。」女も起きあがつて莨をふかしながら、「今のところ二人ばかり当があるんだけれど……。」

「商人かね。」

「さうね。一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時々東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代り上さんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のお守なんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がないでせう。だから<ruby><rb>孰</rb><rt>どつち</rt></ruby>も駄目さ。」

「君のところへは、何うしてさう年寄ばかり来るんだ。」彼は痛ましいやうな表情をして<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。「君はまだ若くて美しいぢやないか。」

「ふゝ」と、女は袖口のまくれた白い<ruby><rb>肱</rb><rt>ひぢ</rt></ruby>をあげて、島田の<ruby><rb>髷</rb><rt>ま</rt></ruby>をなでながら、うつとりした目をして天井を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。

「ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。」

「まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。」

「でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。」

「それあ、そんな人は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にも<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>にはあるのさ。それあ<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しいのよ。<ruby><rb>七</rb><rt>しち</rt></ruby>おき八おきして、<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ひにその男のために年期を増すなんて<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお<ruby><rb>店者</rb><rt>たなもの</rt></ruby>か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のやうなお母さんの秘蔵息子を<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>せば<ruby><rb>尚</rb><rt>なほ</rt></ruby>罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。」

「だけれど、先きで熱情を以つてくれば<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がないぢやないか。」

「熱情ですつて。それあ<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>ういふ人もあるわね。少し親切にすると、すぐ<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんにならないかなんて言ふ人があるわ。だけれど其もこゝにゐるからこそ然うなんだよ。出てしまつちや、やつぱり駄目さ。」彼女は<ruby><rb>慵</rb><rt>ものう</rt></ruby>げな声で言つて、空で指環を<ruby><rb>抜差</rb><rt>ぬきさし</rt></ruby>してゐた。

「それはかうした背景に情趣を感ずるとでも言ふんだらうけれど、そんなのは駄目さ。ほんとうにその人を愛してゐるんでなくちや。」

女はまた「ふゝ」と笑つた。

「<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>すつて一体どんな事なんだい。」

「まあ<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れさうに見せかけるのさ。」女は<ruby><rb>吭</rb><rt>のど</rt></ruby>で笑ひながら、「だけれど私には何うしてもそれが出来ないの。たゞお客を大事にするだけなの。それに私なんか<ruby><rb>恁</rb><rt>か</rt></ruby>う見えても<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいんだから、<ruby><rb>鉄火</rb><rt>てつか</rt></ruby>な真似なんか<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も柄にないの。ほんとうに温順しい<ruby><rb>花魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>だつて、みんなが<ruby><rb>然</rb><rt>さ</rt></ruby>う言ふわよ。」

「あゝ」と、男は悩ましげに溜息をついたが、暫くすると、「僕は君のやうな人は、一日も早くこゝを出してあげたいと思ふね。」

「ふゝ」と、女は又持前の笑顔を<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>した。「そして、何うするの。お上さんにしてくれて？」

「いや、そんなことは何うでも可いんだ。たゞ金のためにこんな処に縛られてゐて、貴重な青春をむざ〱色慾の<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>のために浪費されてしまふのが堪らないんだよ。恋もなしにそんな老人と一生<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しく暮すことにでもなれば、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なほさ</rt></ruby>ら悲しいぢやないか。君だつてそれは悲しいに違ひないんだからね。」男は熱情的に言つた。

「まつたくだわ。」女も感激したといふよりも、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ驚いた風で、「さう言つてくれるのは貴方ばかりよ。」

そして彼女はまた<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>ひになつて、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸ひつけて彼の口へ運んで行つた。

「わたし<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>も借金がないのよ。」

「幾許あるの。」

「さうね、<ruby><rb>御内所</rb><rt>ごないしよ</rt></ruby>の方は勘定したら<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>のくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。」

そして彼女は胸算で、五百円ばかりを計上した。勿論彼女としては、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>になれば買ひたいものも少くはなかつたが、単に足を洗ふにはそれだけの額は余りに多過ぎた。

「僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。」

「それでも女郎と一緒になるといへば、きつと<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びつくり</rt></ruby>するわ。」

新造が入つて来た。

一週間ほどたつと、男はそれだけの金を耳をそろへて持つて来たが、女は其のうち幾分を取つただけで、意見をして<ruby><rb>幾</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど全部を返した。

夏になつてから、その学生は<ruby><rb>田舎</rb><rt>ゐなか</rt></ruby>へ帰省してしまつた。勿論その前にも一二度来たが、女は何だか悪いやうな気がして、わざと遠ざかるやうに仕向けることを怠らなかつた。勿論彼女は、飲んだくれの父のために、不運な自分や弟たちが離れ〲になつて世のなかの酸苦をなめさせられたことを、身に<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みてひどく悲しんでゐた。彼女の唯一の骨肉であり親愛者である弟も、人づかひの<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい大阪の方で、<ruby><rb>尫弱</rb><rt>よわ</rt></ruby>い体で自転車などに乗つて<ruby><rb>苦使</rb><rt>こきつか</rt></ruby>はれてゐた。彼女は時々彼に小遣などを送つてゐた。病気をして、病院へ入つたと云ふ<ruby><rb>報知</rb><rt>しらせ</rt></ruby>の来たときも、退院してしばらく田舎へ帰つたときにも、彼女は出来るだけ都合して金を送つてゐた。最近彼の運も少しは好くなつてゐたが、客として<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>つてくる若いお<ruby><rb>店者</rb><rt>たなもの</rt></ruby>などを見ると、つい厭な気がして、弟の<ruby><rb>境涯</rb><rt>きやうがい</rt></ruby>を思ひやつた。そんな事が妙に心に喰入つてゐたので、自分の境涯に酔ふと云ふやうな事は困難であつた。彼女は所在のない心寂しいをりなどには、針仕事を持出して、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゆばん</rt></ruby>や何かを縫つたり又は<ruby><rb>引釈</rb><rt>ひきと</rt></ruby>きものなどをして単調な重苦しい時間を消すのであつたが、然うしてゐると牢獄のやうな<ruby><rb>檻</rb><rt>をり</rt></ruby>のなかにゐる<ruby><rb>遣瀬</rb><rt>やるせ</rt></ruby>なさを忘れて、むかし多勢の友達と<ruby><rb>裁盤</rb><rt>たちばん</rt></ruby>に坐つてゐたときのやうなしをらしい自分の姿に還つて、涙ぐましい<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>かしさを感ずるのであつた。しかし客によつては、色気ぬきに女を面白く遊ばせて、陽気に飲んで騒いで引揚げて行く遊び上手もあつて、そんな座敷では彼女も自然に心が<ruby><rb>燥</rb><rt>はしや</rt></ruby>いで、<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えた気分が生き生きして来た。しかし体の自由になる時が近づいて来ると、うか〱過した五六年の月日が今更に懐かしいやうで、世のなかへ放たれて行かなければならぬのが、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて不安でならなかつた。どこを見ても、<ruby><rb>耀</rb><rt>かゞや</rt></ruby>かしい幸運が自分を待つてゐてくれさうには見えなかつた。

大学生と別れてから、彼から一度手紙をもらつたきりで、こつちからは遠慮して……<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ相手になるのが<ruby><rb>大人気</rb><rt>おとなげ</rt></ruby>ないやうな気もして、また別に書くやうな用事もなかつたので、いくらか気にかゝりながら返事を怠つてゐた。しかし其と同時に、余り自分を卑下しすぎたり、彼の心の確実さを疑ひすぎるやうな気がして、<ruby><rb>折角</rb><rt>せつかく</rt></ruby><ruby><rb>嚮</rb><rt>む</rt></ruby>いて来た幸運を、取逃してしまつたやうな寂しさを感じた。取止めのない男の気持や<ruby><rb>言草</rb><rt>いひぐさ</rt></ruby>が何だかふは〱してゐて、<ruby><rb>手頼</rb><rt>たより</rt></ruby>ないやうにも思はれたが、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に自分を愛してくれてゐるのは、あの男より外にはないやうに思はれた。彼の好意を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けたのが、生涯の失策だと云ふ気がした。そして其の考へが段々彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>に希望と力を与へてくると同時に、彼の周囲や生活を<ruby><rb>分明</rb><rt>はつきり</rt></ruby>見定めたいと云ふ望みが湧いて来た。慈愛の深い彼の老いた母親や、愛らしい彼の弟が世にも懐かしいもののやうにさへ思はれた。

或日の午後、彼女は<ruby><rb>私</rb><rt>そつ</rt></ruby>と<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>に其事を話して、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>を脱け出ると土産物を少し<ruby><rb>調</rb><rt>とゝの</rt></ruby>へて、両国から汽車に乗つた。近頃彼女は、内所の上さんや新造と一緒に――時としては一人で、時々<ruby><rb>外出</rb><rt>そとで</rt></ruby>してゐて、東京の地理もほゞ知つてゐたし、千葉や成田がどの方面にあるかくらゐの智識はもつてゐた。彼の妹は今年十九だとかいふので、何か<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びさうなものをもつて行きたいと思ふと、ふら〱と<ruby><rb>遽</rb><rt>には</rt></ruby>かに思ひついたことなので、考へてゐる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなかつたところから、客から貰つたきり箪笥のけんどんや<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の底に仕舞つておいた、半玉でも持ちさうな懐中化粧函だの<ruby><rb>半衿</rb><rt>はんえり</rt></ruby>だのを、無造作に紙にくるんで持つて来た。それに浅草で買つた<ruby><rb>切山椒</rb><rt>きりざんせう</rt></ruby>などがあつた。

避暑客の込合ふ季節なので、停車場は<ruby><rb>可也</rb><rt>かなり</rt></ruby><ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざつたふ</rt></ruby>してゐたが、さうして独りで旅をする気持は可也心細かつた。十九から<ruby><rb>中間</rb><rt>ちゆうかん</rt></ruby>の六年間と云ふものを、不思議な世界の空気に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>つて、何か特殊な<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>はしい<ruby><rb>痕迹</rb><rt>こんせき</rt></ruby>が顔や挙動に<ruby><rb>染込</rb><rt>しみこ</rt></ruby>んででもゐるやうに、自分では気がさすのであつたが、周囲の人と自分とを<ruby><rb>齅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎわけ得るやうな人もなささうに見えた。実際また不断からそれを心がけてもゐた。

海岸にちかい或町の停車場へおりたのは、暑い七月の日も既に沈んで、<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>つぽい海風がそよ〱と吹き流れてゐる時分であつた。町には電気がついて、避暑客の<ruby><rb>浴衣姿</rb><rt>ゆかたすがた</rt></ruby>が涼しげに見えた。

男の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は、この海岸から一里ほど奥の里の方にあつた。彼女は三時間ばかりの汽車で疲れてもゐたし、町で宿を取つて、朝早く彼を<ruby><rb>訪</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねようと思つたが、宿はどこも一杯で、それに一人旅だと聞いて素気なく断わられたので、<ruby><rb>為方</rb><rt>しかた</rt></ruby>なしいきなり訪ねることにした。

<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>はやがて<ruby><rb>町端</rb><rt>まちはづれ</rt></ruby>を離れて、暗い田舎道へ<ruby><rb>差懸</rb><rt>さしかゝ</rt></ruby>つた。<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>い山の姿が月夜の空にそゝり立つて、海のやうに煙つた青田から、蛙が物凄く<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>きしきつてゐた。太鼓や三味の音色ばかり聞きなれてゐた彼女の耳には、人間以外の声がひどく恐しいもののやうに、神経を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かした。高い垣根を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆは</rt></ruby>へた農家がしばらく続いた。<ruby><rb>行水</rb><rt>ぎようずゐ</rt></ruby>や<ruby><rb>蚊遣</rb><rt>かやり</rt></ruby>の火をたいてゐるのが見えたり、牛の<ruby><rb>啼声</rb><rt>なきごゑ</rt></ruby>が不意に垣根のなかに起つたりした。

道が段々山里の方へ入つて行くと、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が一層<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひつそり</rt></ruby>して来て、<ruby><rb>石高</rb><rt>いしだか</rt></ruby>な道を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き悩んでゐる人間さへが<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んな心をもつてゐるか判らないやうに<ruby><rb>怕</rb><rt>おそ</rt></ruby>れられた。灯の影もみえない藪影や、夜風にそよいでゐる<ruby><rb>崖際</rb><rt>がけぎは</rt></ruby>の<ruby><rb>白百合</rb><rt>しらゆり</rt></ruby>の花などが、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にも彼女の心を<ruby><rb>悸</rb><rt>おび</rt></ruby>えさせた。でも、彼の家を車夫までが知つてゐるのでいくらか心強かつた。

彼の屋敷は山寺のやうな大きな門構や黒い<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>やに取囲まれて、白壁の土蔵と並んで、都会風に建てられた二階家であつたが、門の扉がぴつたり<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されて、内は<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>もないやうに<ruby><rb>闃寂</rb><rt>ひつそり</rt></ruby>してゐた。それに石段の上にある門と<ruby><rb>住居</rb><rt>すまひ</rt></ruby>との距離も可也遠かつたし、前には山川の流れが不断の音をたゝへて、門内の松の梢にも、夜風が汐の遠鳴のやうに<ruby><rb>騒</rb><rt>ざわ</rt></ruby>めいてゐた。しかし<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>の豊かな此辺は<ruby><rb>人気</rb><rt>にんき</rt></ruby>が好いとみえて、<ruby><rb>耳門</rb><rt>くゞり</rt></ruby>を<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>すと直ぐ中へ入ることができた。女はちよいと気が<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>せて、其のまゝ其<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で引返へさうかと思案したが、四里も五里もの山奥へ来たやうな気がしてゐたので、引返す気にもなれなかつた。で、玄関の土間へ立つて、思ひ切つて案内を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うてみたが、誰も応じなかつた。遠い奥の方から<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>がさして人声が<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにしてゐるやうであつた。古びた広い<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ががらんとしてゐた。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からか胸のわるい牛部屋の臭気が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>つて来た。

彼女は失望と不安とを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>ひて<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>へるやうにして、門の内を仕切つてある<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>についてゐる小い門の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてゐたのを幸ひに、そつと其処から庭へ入つて見た。庭は木の繁みで<ruby><rb>微暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>く、池の水や植木の鉢などが月明りに光つてゐた。<ruby><rb>開放</rb><rt>あけはな</rt></ruby>した座敷は暗かつたが、<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>が取出されてあつたり、火の消えた<ruby><rb>盆燈籠</rb><rt>ぼんどうろう</rt></ruby>が軒に下つてゐたりした。ふと池の向ひの木立の蔭に<ruby><rb>淡赤</rb><rt>うすあか</rt></ruby>い電燈の影が、<ruby><rb>月暈</rb><rt>つきのかさ</rt></ruby>のやうな円を描いて、庭木や草の上に<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あをじろ</rt></ruby>く反映してゐるのが目についたが、それは隠居所のやうな一<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>の<ruby><rb>離房</rb><rt>はなれ</rt></ruby>で、<ruby><rb>瓦葺</rb><rt>かはらぶき</rt></ruby>の高い二階建であつた。そして其処に若い男が<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけで、机に坐つて読書に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>つてゐた。顔は<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>けてゐたが、それは疑ひもなく彼であつた。

ふと窓さきへ立つた彼女の白い姿を見たとき、彼はぎよつとしたやうに驚いた。

「私よ。私来たのよ。」彼女は<ruby><rb>嫣然</rb><rt>につこり</rt></ruby>して見せた。

「誰かと思つたら君だつたのか。僕はほんとうに<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かされてしまつた。」さう言つて彼は彼女を今一応<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「わたし何だか急に来て見たくなつて、<ruby><rb>私</rb><rt>そつ</rt></ruby>と<ruby><rb>脱出</rb><rt>ぬけだ</rt></ruby>して来たの。まさかこんなに遠い処とは思はないでせう、来てみて驚いてしまつたわ。」

「ほう、そんな好きな真似ができるのか。」彼は蒼白くなつた顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くして、急いで彼女を内へ入れた。

「上つても可いんですか。」彼女はちよつと気がひけたやうに入口で<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちうちよ</rt></ruby>してゐた。

家は上り口と、奥の八畳との<ruby><rb>二室</rb><rt>ふたま</rt></ruby>であつたが、八畳から二階へ<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>が<ruby><rb>懸</rb><rt>かけ</rt></ruby>わたされて、倉を直したものらしく、木組や壁は厳重に出来てゐたが、何となく重苦しい感じを与へた。で、上つて行つて、蒲団などを<ruby><rb>侑</rb><rt>すゝ</rt></ruby>められると、彼女は里離れのした態度で、<ruby><rb>更</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて両手をついて<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>にお辞儀をした。彼は<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>つたやうな困惑を感じた。裏の畑にでもできたらしい<ruby><rb>紅色</rb><rt>べにいろ</rt></ruby>した新鮮な<ruby><rb>水蜜桃</rb><rt>すゐみつたう</rt></ruby>が、盆の上に転つてゐた。

「しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>が映つたのかと思つて、<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞつ</rt></ruby>としたよ。」

「さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。」

「夜だから<ruby><rb>然</rb><rt>そ</rt></ruby>う云ふ気がしたのだよ。」

「貴方はこんな処にゐて、寂しかないの。」女はさう言つて<ruby><rb>四下</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見まはした。

「こゝが一番涼しいから。」彼はさう言ふうちも、どこかおど〱した調子で、時々<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へ目をやつた。

「私こゝにゐても可いのでせうか。貴方の御母さんや御妹さんに御挨拶もしなければならないでせう。」女も不安さうに言つた。

「いや、いづれ<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。」

「さうね、御内所の方は幾日ゐたつて<ruby><rb>介意</rb><rt>かま</rt></ruby>やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。」

「それあ可いんだけれど、何なら町の方で宿を取つてもいいと思ふね。」彼は女に安心を与へるやうに言つたが、何処においていゝかと<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>つてゐる風であつた。

話が途切れたところで、彼女は持つて来た土産物を出して、「急に思ひついて来たんですから、何にももつて来なかつたのよ」とさう言つて、彼の前においた。

彼はたゞ<ruby><rb>大様</rb><rt>おほやう</rt></ruby>に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いたきりであつたが、やがて女の傍を離れて、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へ行つた。

彼の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は農家ではあつたが、千葉の方から養子に来た父は、元が商人出であつたから、ちよい〱<ruby><rb>色々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことに手を出してゐた。東京へも<ruby><rb>用達</rb><rt>ようた</rt></ruby>しに始終往復してゐて、さう云ふ時の足溜りに、これまで女を下町の方に囲つておいたこともあつた。

大分たつてから、一人の女中がお茶や菓子を運んで来たが、間もなく彼も飛石づたひに<ruby><rb>此方</rb><rt>こつち</rt></ruby>へやつて来た。

「母に話したら、是非お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>にしたら可いだらうと言つておいたよ。」

「さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。」

「妹は東京へ行つてゐて、今家にはゐないんだ。」彼は気の毒さうに言つて、「僕は母には、友人の姉さんで、海水浴へ来たついでにわざ〱訪ねてくれたんだと、さう言つて話したら、すつかり<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けられて極りが悪かつた。」

「さう」と、女は<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しい微笑を浮べたが、やつぱり<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>にならないことを頼りにして来たのだと云ふ、淡い悔いを感じた。

その晩は<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶだうしゆ</rt></ruby>などを飲んで、遅くまで話したが、それも取留めのない彼の感激から出る<ruby><rb>辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>ばかりで、期待したやうな<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>のある話は少しもなかつた。

<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>海岸の町の方へ出て行つたのは、お昼頃であつた。勿論<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へつれて行かれて、二階の座敷も見せられたし、五十ばかりの母親にも紹介された。母は東京で世話になる人だといつて、彼が誇張して話したとみえて、素朴ではあるが、ひどく<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてな</rt></ruby>してくれるので、彼女は挨拶に困つて、<ruby><rb>可成</rb><rt>なるべく</rt></ruby>口を利かないことにしてゐるより外なかつた。

裏の果樹園へつれ出されて、彼女は初めて<ruby><rb>吻</rb><rt>ほつ</rt></ruby>とした。水蜜桃の<ruby><rb>実</rb><rt>な</rt></ruby>るところを、彼女は初めて見た。野菜畑なども町で育つた彼女には不思議なものの一つであつた。<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>や<ruby><rb>胡瓜</rb><rt>きうり</rt></ruby>に水をやつてゐる男が、彼女の姿を見て叮嚀にお辞儀をした。ダリヤが一杯咲いてゐた。藪蔭には<ruby><rb>南瓜</rb><rt>かぼちや</rt></ruby>が<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>をはびこらせてゐた。朝霧が<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>なく吸取られて、太陽がかつかつと照してゐたが、風は涼しかつた。一夏<ruby><rb>脚気</rb><rt>かつけ</rt></ruby>の出たとき、朝早く外へ出て、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>でしつとりした土を踏んだことなどあつたが、いくら体が丈夫になつても、こんな処には<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も一生暮せさうもなかつた。彼は東京で暮すのだと言つてゐたが、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の男の子がないところから見ると、つまりは此処に落着くのぢやないかと云ふ気がした。

彼はそんな事については、少しも語らなかつた。

やがて支度をして、二人は家を出たが、山路とはいつても、海岸に近いので、何処を見ても<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>あれほどにも心ををのゝかせたやうな深い山は何処にも見えなかつた。<ruby><rb>蒼々</rb><rt>あを〱</rt></ruby>した山松や、白百合の花の咲乱れた丘や、畑地ばかりであつた。そして思つたより早く、いつか町の<ruby><rb>垠</rb><rt>さかひ</rt></ruby>へ出て来てゐるのに気がついた。

海岸の松原蔭にある新しい宿屋の二階の<ruby><rb>一室</rb><rt>ひとま</rt></ruby>に、やがて彼女は落着くことができた。そこからはそよ〱と風に<ruby><rb>漣</rb><rt>さゞなみ</rt></ruby>をうつてゐる広い青田が一と目に見わたされ、松原の<ruby><rb>藁屋</rb><rt>わらや</rt></ruby>の上から、<ruby><rb>紺碧</rb><rt>こんぺき</rt></ruby>の色をたゝへた静かな海が、地平線を<ruby><rb>淡青黄色</rb><rt>うすあをぎいろ</rt></ruby>の空との限界として、盛りあがつたやうに眺められた。真夏の日がきら〱と光り<ruby><rb>耀</rb><rt>かゞや</rt></ruby>いてゐた。人間と人間との特殊な交渉より外には何物もない<ruby><rb>隘</rb><rt>せま</rt></ruby>くて窮屈な小い部屋のなかに住みなれて来た彼女に取つては、<ruby><rb>際限</rb><rt>はてし</rt></ruby>もない青空を仰ぐことすらが、限りない驚異でもあり喜悦でもあつたが、心ゆくまで胸を開いて、其等の自然に親しむことは<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も出来なかつた。

海風に吹かれながら、昼飯を食べてから、二人はしばらく横になつて話してゐたが、するうちに疲れた<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>も体も<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けるやうな<ruby><rb>懈</rb><rt>だる</rt></ruby>さをおぼえて、うと〱と快い眠に誘はれた。下の部屋で学生がやつてゐるハモニカの音などが、彼等の夢心地をすやした。

四時頃に、二人は一緒に海岸へ出て見た。日は大分傾いてゐたが、風が出たので、海には波が少し荒れてゐた。<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げつくやうな砂を踏んで彼女は<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎは</rt></ruby>に立つて、ぼんやり波の戯れを見てゐたが、長く立つてゐられなかつた。目がくらくらして波と一緒に引込まれて行きさうであつた。海水衣に海水帽をかぶつた、女学生らしい女の群が、波に軽く体を浮かせながら、愉快さうに<ruby><rb>毬投</rb><rt>まりなげ</rt></ruby>をやつてゐるのが彼女には不思議にも<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましくも思はれた。印度人のやうな黒い裸体が、そこにもこゝにも彼女の目を驚かした。

二人はやがて着物の脱ぎ場へ入つて、足を休めながら海気に吹かれてゐた。彼は彼女をかうした自由な自然の前へつれて来たことに、この上ない幸福を感じてゐるらしかつたが、彼女の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>は其の感じを<ruby><rb>受容</rb><rt>うけい</rt></ruby>れるには、余りに自分を失ひすぎてゐた。

するとその時、ぽうと云ふ<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な<ruby><rb>汽笛</rb><rt>きてき</rt></ruby>の音が響いて、いつの間にか汽船が一艘黒い煙を吐きながら、近くの沖へ来て<ruby><rb>碇泊</rb><rt>ていはく</rt></ruby>してゐるのに気がついたが、間もなく漕ぎ寄つた一艘の<ruby><rb>端艇</rb><rt>はしけ</rt></ruby>に、荷物や人を受取つて、<ruby><rb>陸</rb><rt>をか</rt></ruby>の方へやつて来た。

端艇が浜へついたとき、<ruby><rb>懸</rb><rt>かけ</rt></ruby>わたされた船板から、四五人の男女が上陸して来たが、その中に旧式なパナマを冠つて、小さい<ruby><rb>手提鞄</rb><rt>てさげかばん</rt></ruby>と<ruby><rb>細捲</rb><rt>ほそまき</rt></ruby>とをもつて、肥満した老人が一人こつちへ遣つて来た。近づくに従つて、其の姿は段々はつきりして来て、白地の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>や<ruby><rb>絣</rb><rt>かすり</rt></ruby>や、羽織の茶色地までがきらきらする光線に見分けられた。帯の金鎖や眼鏡がちか〱光つてゐた。

彼女はじつと其の姿を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めてゐたが、それは何うやら能く自分のところに通つてくる、千葉在だと云ふお<ruby><rb>爺</rb><rt>やぢ</rt></ruby>らしく思はれて来た。

と、それと同時に彼の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にも暗い困惑の色が浮んで来て、やがて其処を立つて、そろ〱<ruby><rb>葦簾張</rb><rt>よしずばり</rt></ruby>の外へ出て行つた。間もなく彼女もそこを離れた。

それが彼の父親だといふことは、後で彼が言つて聞かせたが、彼女は何にも語らなかつた。

其の晩も二人は町や海岸を散歩して、帰つてからも遅くまで月光の<ruby><rb>漾</rb><rt>たゞよ</rt></ruby>ひ流れてゐる<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>を眺めながら話してゐた。彼は彼女の<ruby><rb>憂欝</rb><rt>いううつ</rt></ruby>な気分を悲しく思つたが、女は自分を如何にして幸福にしようかと悩んでゐる彼を哀んだ。

三日目に、彼はちよつと<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰つてくると言つて立つて行つたが、その夕方彼女は宿へも無断でそこを立つてしまつた。

（大正九年四月）