Soranoha

火の唇

ひのくちびる

原 民喜

いぶきが彼のなかを突抜けて行つた。一つの物語は終らうとしてゐた。世界は彼にとつてまだ終らうとしてゐなかつた。すべてが終るところからすべては新らしく始まる、すべてが終るところからすべては新らしく……と繰返しながら彼はいつもの時刻にいつもの路を歩いてゐた。女はもうゐなかつた、手袋を外して彼のために別れの握手をとりかはした女は……。あの手の感触は熱つかつたのだらうか、冷やりとしてゐたのだらうか……彼はオーバーのポケツトに突込んでゐる両手を内側に握り締めてみた。が何ものも把へることは出来なかつた。影のやうな女だつたのだが、彼もまた女にとつて影のやうな男にすぎなかつたのだ。影と影はひつそりとした足どりで濠端に添ふ舗道を歩いてゐた。そして、最後にたつた一度、別れの握手をとりかはした、たつたそれだけの交渉にすぎなかつた、淋しい淋しい物語だつた。

いぶきが彼のなかを突抜けて行く。淋しい淋しい物語の後を追ふやうに、彼は濠端に添ふ舗道を歩いて行く。枯れた柳の木の柔らかな影や、傍にある静かな水の姿が彼をうつとりと涙ぐまさうとする。すべてが終るところから、すべては新しく……彼はくるりと靴の踵をかへして、胸を張り眼を見ひらく。と、風景も彼にむかつて、胸を張り眼を見ひらいてくる。決然と分岐する舗装道路や高層ビルの一連が、その上に展がる茜色の水々しい空が、突然、彼に壮烈な世界を投げかける。世界はまだ終つてはゐないのだ。世界はあの時もまた新しく始まらうとしてゐた。あの時……原子爆弾で破滅した、あの街は、銀色に燻る破片と赤く爛れた死体で酸鼻を極めてゐた。傾いた夏の陽ざしで空は夢のやうに茫と明るかつた。橋梁は崩れ堕ちず不思議と川の上に残されてゐた。その橋の上を生存者の群がぞろぞろと通過した。その橋の上で颯爽と風に頭髪を飜へしながら自転車でやつて来る若い健康さうな女を視た。それは悲惨に抵抗しようとする生存者の奇妙なリズムを含んでゐた。だが、その瞬間から、彼の脳裏に何か焦点ははつきりとしないが、広漠たる空間を横切る新しい女の幻影が閃いた。

イブ

ニユー・イブ

イブは今も彼が見上げる空の一角を横切つてゆくやうだ。茜色の水々しい空には微かに横雲が浮んでゐて、それは広島の惨劇の跡の、あの日の空と似てくる。いぶきが彼のなかを突抜けてゆく。

彼がその女と知遇つたのは、ある会合の席上であつた。火の気のないビルの一室は煙草の煙で濛々と悲しさうだつた。女は赤いマフラをしてゐた。その眼はビルの窓ガラスのやうに冷たかつた。二度目に遇つたのも、やはりその侘しいビルの一室であつた。会合が終つたとき女がはじめて彼に口をきいた。それから駅まで一緒に歩いた。

「わたしと交際つてみて下さい。またいつかお会ひ致しませう」

みて下さい……といま言葉が彼の意識に絡まつた。が、彼はさり気なく冷やかに肯いた。冷やかに……だが、その頃、彼は身を置ける一つの部屋さへ持てず、転々と他人の部屋に割込んで暮してゐた。そんな部屋の片隅でノートに書いてゐた。

〈踏みはづすべき階段もなく、足は宙に浮いてゐる。もしかすると彼は堕落してゐるのだらうか。だが、僕の眼は真さかさまに上を向いてゐて、堕落してゆく体と反対に、ぐんぐん上の方へ釣上げられてゆく。絶叫もきこえない。歓喜も湧かない、すべては宙に浮んだまま。(無限階段)〉

女は彼と反対側の電車で帰つた。淋しさうな女だが、とにかくああして帰つて行く場所はあるのかと、何となしに彼は吻とした。人間が地上にはつきりした巣をもつていること(それは妻が生きてゐた頃なら別に不思議でもなかつたが)今では彼にとつて殆ど驚異に近かつた。あの時……、彼の頭上に真暗なものが崩れ落ちると、その時から、彼には空間が殆ど絶え間なく波のやうに揺れ迫つた。その時から、彼は地上の巣を喪ひ、空間はひつきりなしに揺れ返つたのだ。……火焔のなかを突切つて、河原まで逃げて来ると、そこには異形の裸体の重傷者がずらりと並んでゐる。彼はそのなかから変りはてた少女を見つける。それは兄の家の女中なのだ。彼はその時から、苦しがる少女に附添つて面倒をみる。ふくふくに腫れ上つた四肢を支へてやると、少女の躯ともおもへぬほど無気味だが、水を欲しがる唇は嬰児のやうに哀れだ。やがて、二晩の野宿の揚句、彼は傷いた兄の家族と一緒に寒村の農家に避難する。だが、この少女だけは家に収容しきれず村の収容所に移される。ある日、彼はその女中のために蒲団を持つて収容所を訪れる。板の間の筵の上にごろごろしてゐる重傷者のなかに黒く腫れ上つた少女の顔がある。その眼が、彼の姿を認めると、眼だけが少女らしくパツと甦る。

「連れて帰つて下さい、連れて帰つて、みんなのところへ」

その眼は、眼だけで彼にとり縋らうとしてゐた。

「それはさうしてあげたいのだが……」

彼はかすかに泣くやうに呟くと、持つて来た蒲団をおくと、まるで逃げるやうにして立去る。その後、少女は死亡したのだ。だが、あの悲しげな少女の眼つきは、いつまでも彼のなかに突立つてゐた。

わたしと交際つてみて下さいと約束して、反対の方向に駅で別れた女の眼つきを彼は思ひ出さうとしてゐた。その眼は祈りを含んだ眼だらうか、彼のなかに突立つてくるだらうか、……何か揺れ返る空間の波間にみた幻のやうにおもへた。

轟音もろとも船は転覆する。巨濤が人間を攫い、閃光が闇を截切る。あたり一めん人間の叫喚……。叫ぶやうに波を掻き分け、喚くやうに波に押されながら、恐しい渦のなかに彼はゐる。しぶきが頬桁を撲り、水が手足を捩ぎとらうとする。刻々に苦しくなつてゆく眼に、ふと仄明りに漾つてゐるボートが映る。と、その方向へ、ひたすら、そこへ、一インチ、一インチとすべてが蠕動してゆく。が、漸く近づいたボートは既に遭難者で一杯なのだ。彼は無我夢中でボートの端に手を掛ける。と、忽ち頭上で鋭い怒声がする。

「離せ! この野郎!」

だが、彼は必死で船の方へ匐ひ上らうとする。

「こん畜生! その手をぶつた切るぞ!」

いま相手はほんとに鉈を振上げて彼の手を覘つてゐるのだ。彼は縋りつくやうに、その男の眼を波間から見上げる。眼だけで、縋りつくやうに、波間から……波間から……波間から……。

宿なしの彼は同宿者に対する気兼ねから、饉じい体を鞭打ちながら、いつも用ありげに巷の雑沓のなかを歩いてゐた。金はなく、彼の関係してゐる雑誌も久しく休刊したままだつた。知人のKが所有するビルの一室が、もしかすると貸してもらへるかもしれないといふ微かな望みがあつたが、いつも波間に漾つてゐるやうな気持で雑沓のなかを歩いてゐた。……彼の歩いてゆく前面から冬の斜陽がたつぷり降り灑ぎ、人通りは密になつてゐた。省線駅の広場の方まで来てゐたのだ。その時、恰度電車から吐き出された群衆が、改札口から広場へ散つて行くのだつた。彼は何気なく一塊りの動く群に眼を振向けてみた。と、何か動く群のなかにピカツと一直線に閃くものがあつた。赤いマフラをした女の眼だ。あの女……かもしれないと思つた瞬間、彼はもう視線を他へ外らしてゐた。が、ものの三十秒とたたないうちに、彼は後から呼び留められてゐた。

「平井さん かしらと思ひました」

女はさう云つたまま笑はうとしなかつた。彼も無表情に立つてゐた。

「今日はこれから訪ねて行くところがあるので失礼致しますが、またそのうちにお逢ひできるでせう」

ふと女は忙しさうに立去つて行つた。彼も呼び留めようとはしなかつた。

そのビルの一室が開けてもらへるかどうかはつきりしなかつたが、彼の全家財を積んだ一台のリヤカーはもうその建物の前に停まつてゐた。彼は運送屋と一緒にそのビルの扉を押して、事務室らしい奥の方へ声をかけた。濛々と煙るその煙のなかに人間の顔がぐらぐら揺いだ。彼の前に出て来た小柄の老人は冷然と彼を見下ろして云つた。

「部屋なんか開ける約束になつてゐない」

彼はドキリとした。とにかくKに逢つてみれば解ることだが、荷物だけでもここへ置かしてもらはねば、差当つて他へ持つて行ける所もなかつた。

「それなら土間のところへ勝手にお置きなさい」

夜具と行李とトランクが土間に放り出されると、彼はとにかく往来へ出て行つた。忽ち揺れ返る空間が大きくなつてゐた。鉈を振るつて彼の手首を断ち切らうとするのが、先刻の老人のやうにおもへたりする。ふらふらと歩いて行くうち、ふと彼は知人のKが弁護士らしい男と連れだつてゐるのに出喰はした。Kはその所有してゐるビルを他に貸してゐたが、その半分を自分の側に開け渡さすため前々から交渉に交渉を重ねてゐた。約束の日は今日だつた。日が暮れかかる頃、漸く二階の一室が譲渡された。その時から、彼はその二階の一室を貸してもらつたのだが。……揺れ返るものは絶えずその部屋を包囲してゐた。襖と廊下を隔てて向側にある事務室は電話の叫喚と足音に入り乱れ、人間が人間を捻ぢ伏せたり、人間が人間を撫でまくる、さまざまのアクセントを放つ。男も女も男もそれは一塊りの声であり、バラバラの音響なのだ。彼と何のかかはりもない、それらの一群が夕方退去すると、今度は灯の消えた廊下を鼠の一群が跳梁する。それから、彼が外食に出掛けたり、近所にある雑誌社に立寄ると、街が、活字が、音楽が、何かが何かを煽り、何かが何かと交錯して来た。

そのビルの一室に移つてから、彼はあの淋しげな女とよく出逢ふやうになつてゐた。女の勤先があまり遠くない所にあるのも彼には分つた。電車通りから少し外れると、人通りの少い静かな道路がある。時々、そんな路を女はふらりと歩いてゐることがあつた。路でぱつたりと彼に出逢ふと、女はすぐ人懐さうに彼に従いて歩いた。彼は殆ど黙つて歩いた。

「お忙しいでせう、失礼します」

女は曲角ですらりと離れる。それからお辞儀をして、小刻に歩いて行く。忙しさうなものに掻き立てられてゆく後姿だけが彼の眼に残つた。何度、行逢つても、あつけない遭遇にすぎなかつたが、女は人混みのなかでも彼の姿をすぐ見わけた。女が雑踏のなかに消え去ると、……揺れ返る空間の波が忽ち大きくなる。ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ? そして今ここで何なのだと僕が思考してゐること、それは一たい僕にとつて何なのだ? と急にパセチツクな波が昂まつて、この世に苦しむものの、最後の最後の一番最後のものの姿がパツと閃光を放つ。

……火の唇  ……火の唇

ふと彼はその頃、書きたいと思つてゐる一つの小説の囁をきいたようにおもつた。

………………………………………

燃え狂ふ真紅の焔が鎮まつたかとおもふと、やがて、あの冷たい透き徹つた不思議な焔がやつて来た。飢餓の焔だ。兄の一家族や寡婦の妹と一緒に農家に避難した僕は、それから後、絶えずこのしぶとい悲しい焔に包囲されてゐた。それは台所の汚れかへつた畳の上でも、煤けた穴だらけの障子の蔭でもめらめらと燃えた。それから青田の上でも、向に見える山の上でもめらめらと透き徹る焔はゆらいだ。空間が小刻みに顫へて、頭の芯が茫として来る。このやうな時――人間は何を考へるのか――このやうな時、人間は人間の……人間の白い牙がさつと現れた。妹と嫂は絶えず何ごとか云つて争つてゐた。

「口惜しくて、口惜しくて、あの嫁を喰ひちぎつてやりたい」

飢ゑてはゐない隣家の農婦が庭さきで歯ぎしりしてゐた。その言葉は、しかし、ぴしりと僕を打つた。喰ひちぎつてやりたい……人間が人間を喰ひちぎる……一瞬にして変貌する女の顔がパツと僕のなかで破裂したやうだつた。

悲しげな無数の焔に包囲されて、僕が身動きもできないでゐる時、しかし、人々は軽ろやかに動いてゐた。爆心地で罹災して毛髪がすつかり脱けた親戚の男は、田舎の奥で奇蹟的に健康をとり戻し、惨劇の年がまだ明けないうちに、田舎から新しい細君を娶つた。無数の変り果てた顔の渦巻いてゐた廃墟を、無数の生存者が歩き廻つた。廃墟の泥濘の上の闇市は祭日のやうであつた。人々はよろめきながら祭日をとり戻したのだらうか。僕もよろめきながら見て歩いた。今にもぶつ倒れさうな痩男がひらひらと紙幣を屋台に差出し、手で把んだものをもう口に入れてゐた。めらめらとゆらぐ焔は到る処にあつた。復員者はそこここに戻つて来て、崩壊した駅は雑踏して賑はつた。その妻子を閃光で攫はれた男は晴着を飾る新妻を伴つて歩いてゐた。速やかに、軽ろやかに、何気なく、そこここに新しい巣が営まれた。

「もう決して何も信じません。自分自身も……」

罹災を免れ家も壊されなかつた中年女は誇らかに嘯くのだが。……寡婦の妹は絶えず飢餓からの脱出を企ててゐた。リユツクを背負ふ面窶れした顔は、若々しい力を潜め、それが生きてゆくための最後の抗議、堕ちて来る火の粉を払はうとする表情となつてゐた。だが、どうかすると、それは血まみれの亡者の面影に見入つて、キヤツと叫ぶ最後の眼の色になつてゐる。悶え苦しむ眼つきで、この妹が僕に同情してくれると僕はぞつとした。たしかその眼は、もうあの白骨の姿を僕のうちに予想する眼だつた。

だが、その年が明けると、その妹にも急に再縁の話が持ち上つてゐた。その話をはじめてきいた日、僕は村の入口の橋のところで、リユツクを背負つてやつて来る妹とぱつたり出逢つた。立話をしてゐるうちに、僕はふと涙が滲んで来た。(涙が? それは後で考へてみると、人間一人餓死を免れたのを悦ぶ涙らしかつた。)だが、その僕はまだ助かつてはゐなかつた。焔は追つて来た。滅茶苦茶にあがき廻つた揚句、僕は東京の昔の友人のところへ逃げ込んだ。

だが、僕を迎へてくれた友人の家も忽ち不思議な焔に包囲された。飢餓の火はじりじりと燻んで、人間の白い牙はさつと現れた。一瞬にして、人間の顔は変貌する。人間は一瞬の閃光で変貌する。長い長い不幸が人間を変貌させたところで、何の不思議や嘆きがあらう。――日夜、その家の細君のいかつい顔つきに脅えながら、僕はひとり心に囁いてゐた。

紅の衣服にて育てられし者も今は塵堆を抱く――乞食のやうな足どりで、僕は雑踏のなかや、焼跡の路を歩いた。焼跡の塵堆に僕の眼はくらくらし、ひだるい膝は前にずんのめりさうだつた。と頭上にある青空が、さつと透き徹つて光を放つ。(この心の疼き、この幻想のくるめき)僕は眼も眩むばかりの美しい世界に視入らうとした。

それから、僕を置いてくれてゐたその家の主人は、ある日旅に出かけると、それきり帰つて来なかつた。暫くして、その友人は旅先で愛人を得てゐて、もう東京へは戻つて来ないことが判つた。それから僕はその家を立退かねばならなかつた。それから僕は宿なしの身になつてゐたのだが、それから……。苦悩が苦悩を追つて行く。――つみかさなる苦悩にむかつて跪き祈る女がゐた。

「一度わたしは鏡でわたしの顔を見せてもらつた。あれはもうわたしではなかつた。わたしではない顔のわたしがそんなにもう怕くはなかつた。怕いといふことまでもうわたしからは無くなつてゐるやうだ。わたしが滅びてゆく。わたしの靡爛した乳房や右の肘が、この連続する痛みが、痛みばかりが、今はわたしなのだらうか。

あのときサツと光が突然わたしの顔を斬りつけた。あつと声をあげたとき、たしかわたしの右手はわたしの顔を庇はうとしてゐた。顔と手を同時に一つの速度が滑り抜けた。あつと思ひながらわたしはよろめいた。倒れてはゐなかつた。倒れてはゐないのがわかつた。なにかが走り抜けたあとの速さだけがわたしの耳もとで唸る。わたしの眼は、わたしが眼をあけたとき、濛々としてゐるものが静まつて、崩れ落ちたものが、しーんとしてゐた。どこかで無数の小さな喚きが伝はつてくる。風のやうなものは通りすぎてゐたのに、風のやうなものの唸りがまだ迫つてくる。あのとき、すべてはもう終つてゐるのだ。だのに、これから何か始まりさうで、そわそわしたものがわたしのなかで揺れうごいた。……」

「火の唇」の書きだしを彼はノートに誌してゐたが、惨劇のなかに死んでゆくこの女性は一たい誰なのか、はつきりしなかつた。が、独白の囁は絶えず聞えた。永遠の相に視入りながら、死の近づくにつれて、心の内側に澄み亘つてくる無限の展望……。突如、生の歓喜が、それは電撃の如くこの女を襲ひ、疾風よりも烈しくこの女を揺さぶる。まさに、その音楽はこの女を打砕かうとする。ああ、一人の女の胸に、これほどの喜びが、これほどの喜びが許されてゐていいので御座いませうか、と、その女は感動してゐる自分に感涙しながら跪く。と、時は永遠に停止し、それからまたゆるやかに流れだす。

こんな情景を追ひながらも、彼は絶えず生活に追詰められてゐた。それから長く休刊だつた雑誌が運転しだすと急に気忙しさが加はつた。雑誌社は何時出かけて行つても、来訪者が詰めかけてゐたし、原稿は机上に山積してゐた。いろんな人間に面会したり、雑多な仕事を片づけてゆくことに何か興奮の波があつた。その波が高まると、よく彼は「人間が人間を揉み苦茶にする」と悲鳴をあげた。

(人間が人間を……)。昔、僕は人間全体に対して、まるで処女のやうに戦いてゐた。人間の顔つき、人間の言葉・身振・声、それらが直接僕の心臓を収縮させ、僕の視野を歪めてふるへさせた。一人でも人間が僕の眼の前にゐたとする、と忽ち何万ボルトの電流が僕のなかに流れ、神経の火花は顔面に散つた。僕は人間が滅茶苦茶に怕かつたのだ。いつでもすぐに逃げだしたくなるのだつた。しかも、そんなに戦き脅えながら、僕はどのやうに熱烈に人間を恋し理解したく思つてゐたことか。

ところが今では、今でも僕が人生に於てぎこちないことは以前とかはりないが、それでも、人間と会ふとき前とは違ふ型が出来上つてしまつた。僕が誰かと面談しようとする。僕は僕のなかにスヰツチを入れる。すると、さつと軽い電流が僕に流れ、するとあとはもう会話も態度も殆どオートマチツクに流れだすのだ。これはどうしたことなのだ? 僕は相手を理解し、相手は今僕を知つてゐてくれるのだらうか――さういふ反省をする暇もなく、僕の前にゐる相手は入替り時間は流れ去る。そして深夜、僕にはいろんな人間のばらばらの顔や声や身振がごつちやになつて朧な暈のやうに僕のなかで揺れ返る。僕はその暈のなかにぼんやり睡り込んでしまひさうだ。と突然、戦慄が僕の背筋を突走る。

「いけない、いけない、あの向うを射抜け」

何万ボルトの電流が叫びとなつて僕のなかを疾駆するのだ。

(人間が人間を……。その少女にとつて、まるで人間一個の生存は恐怖の連続と苦悶の持続に他ならなかつた。すべてが奇異に縺もつれ、すべてが極限まで彼女を追詰めてくる。食事を摂ることも、睡ることも、息をすることまで、何もかも困難になる。この幼ない切ない魂は徒らに反転しながら泣号する。「生きてゐること、生きてゐることが、こんなに、こんなに辛い」と……。ところが、ある時、この少女の額に何か爽やかなものが訪れる。それから向側にぽつかりと新しい空間が見えてくる。)

「火の唇」のイメージは揺らぎながら彼のなかに見え隠れしてゐた。そのうち仕事の関係で彼は盛場裏の酒場や露路奥の喫茶店に足を踏入れることが急に増えて来た。すると、アルコールが、それは彼にとつて戦後はじめてと云つていいのだつたが、彼の眼や脳髄に泌みてゆき、夜の狭い裏通には膨れ上つてゆらぐ空間が流れた……。彼の腰掛けてゐる椅子のすぐ後を奇妙な身なりの少年や青年がざわざわと揺れてゆく。屋台では若い女が一つのアクセントのやうに絶えず身動きしながら、揺れてゐるものに取まかれてゐる。眼はニスを塗つたやうにピカピカし、ルージユで濡れた唇は血のやうだ。あれが女の眼であり、唇かと僕はおもふ。揺れてゐるガス体は今にも何かパツと発火しさうだ。だが、僕の靴底を奇妙に冷たいものが流れる。どうにもならぬ冷たいものが……。あの女も恐らく炎々と燃える焔に頬を射られ、跣で地べたを走り廻つたのか。今も何かを避けようとしたり、何かに喰らひつかうとするリズムが、それも揺れてゐる。めらめらと揺れてゐる。それにしても、彼の靴底を流れてゆく冷たいものは……。ふと、彼の腰掛のすぐ後に、ふらふらの学生が近寄つてくる。自分の上衣のポケツトからコツプを取出し、それに酒を注いでもらつてゐる。「いいなあ、いいなあ、人間が信じられたならなあ」とその学生は甘つたれの表情でよろよろしてゐる。冷たいものはざわざわと揺れる。火が、火が、火が、だが、火はもうここにはなささうだ。火事場の跡のここは水溜りなのか。

水溜りを踏越えたかと思ふと、彼の友人が四つ角のもの蔭で「夜の女」と立話してゐる。それからその女は黙つて二人の後をついて来る。薄暗い喫茶店の隅に入る。(どうして、そんな「夜の女」などになつたのです)親切な友人は女に話しかけてみる。(家があんまり……家では暮らせないので飛出しました)小さないぢけた鼻頭が、ひつぱたけ、何なりとひつぱたけと、そのやうに、そのやうに、歪んだやうに彼の目にうつる。それからテーブルの下にある女の足が、その足に穿いてゐる侘しい下駄が、ふと彼の眼に触れる。あ、下駄、下駄、下駄……冷たいものの流れが……(ぢやあお茶だけで失敬するよ)親切な友人は喫茶店の外で女と別れる。おとなしい女だ。そのまま女は頷いて別れる。

それからまた、ある日は、この親切な友人が彼を露地の奥の喫茶店へ連れて行く。と、テーブルといふテーブルが人間と人間の声で沸騰してゐる。濛々と渦巻く煙草の煙のなかから、声が、顔が、わざとらしいものが、ねちこいものが、どうにもならないものが、聞え、見え、閃くなかを、腫れつぽい頬のギラギラした眼の少女がお茶を運んでゐる。(ここでも、人間が人間を……。だが、人間が人間と理解し合ふには、ここでは二十種類位の符牒でこと足りる。たとへば、

清潔 立派 抵抗 ひねる 支へる 崩れる ハツタリ ずれ カバア フイクシヨン etc.

そんな言葉の仕組だけで、お互がお互を刺戟し、お互に感激し、そして人間は人間の観念を確かめ合ひ、人間は人間の観念を生産してゆく。だが、僕の靴底を流れるこの冷たい流れ、これは一たい何なのだ。)……ふと、気がつくと、向のテーブルでさつきまで議論に熱狂してゐた連中の姿も今はない。夜更が急に籐椅子の上に滑り堕ちてゐる。隣の椅子で親切な友人はギラギラした眼の少女と話しあつてゐる。(お腹がすいたな、何か食べに行かないか)友人は少女を誘ふ。(ええ、わたしとても貧乏なのよ)少女は二人の後について夜更の街を歩く。冷たい雨がぽちぽち降つてくる。彼の靴底はすぐ雨が泌みて、靴下まで濡れてゆく。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもなささうだ。(君もそんな靴はいてゐて、雨が泌みるだらう)彼はふと少女に訊ねてみる。(ええ 泌みるわ とても)少女はまるでうれしげに肯く。灯をつけた食べもの屋はもう何処にもない。(わたし帰るわ)少女は冷たい水溜のなかに靴を突込んで立留まる。

「火の唇」はいつまでたつても容易に捗らなかつた。そして彼がそれをまだ書き上げないうちに、その淋しげな女とも別れなければならぬ日がやつて来たのだ。その後もその女とは裏通りなどでパツたり行逢つてゐた。一緒に歩く時間も長くなつたし、一緒に喫茶店に入ることもあつた。人生のこと、恋愛のこと、お天気のこと、文学のこと、女は何でもとり混ぜて喋り、それから凝と遠方を眺める顔つきをする。絶えず何かに気を配つてゐるところと、底抜けの夢みがちなところがあつて、それが彼にとつては一つの謎のやうだつた。お天気のこと、人生のこと、恋愛のこと、文学のこと、彼は女の喋る言葉に聴き惚れることもあつたが、何かがパツたり滑り堕ちるやうな気もした。

ああして、女がこの世に一人存在してゐること、それは一たい何なのだ……その謎が次第に彼を圧迫し強迫するやうになつてゐた。それから、ある日、何故か分らないが、女の顔がこの世のなかで苦しむものの最後のもののやうに、ひどく疼いてゐるやうに彼にはおもへた。「あなたのほんとうの気持を、それを少しきかせて下さい」彼は突然口走つた。

「もう少し歩いて行きませう」と女は濠端に添ふ道の方へ彼を誘つた。水の面や、夕暮の靄や、枯木の姿が、何かパセチツクな予感のやうにおもへた。女は黙つて慍つたやうな顔つきで歩いてゐる。何かを払ひのけようとする、その表情が何に堪へきれないのかと、彼はぼんやりと従いて歩いた。突然、女はビリビリと声を震はせた。

「別れなければならない日が参りました。明日、明日もう一度ここでこの時刻にお逢ひ到しませう」

さう云ひ捨てて、向側の舗道へ走り去つた。突然、それは彼にとつて、あまりに突然だつたのだが……。

女は翌日、約束の時刻に、その場所に姿を現してゐた。昨日と変つて、女は静かに落着いた顔つきだつた。がその顔には何か滑り堕ちるやうな冷やかなものと、底ぬけの夢のやうなものが絡みあつてゐる。

「遠いところから、遠いところから、わたしの愛人が戻つて参りました」

遠いところから、遠いところから、といふ声が彼には夢のなかの歌声のやうにおもへた。

「さうか、あなたは愛人があつたのか」

「いいえ、いいえ、愛人があつたところで、生きてゐることの切なさ、淋しさ、堪へきれなさは同じことで御座います」

生きていることの切なさ、淋しさ、堪へきれなさ、それも彼には遠いところから聴く歌声のやうにおもへた。

「それではあなたはどうして僕に興味を持つたんです」

「それはあなたが淋しさうだつたから、とてもとても堪へきれない位、淋しさうな方だつたから」

さう云ひながら、女は手袋を外して、手を彼の方へ差出した。

「生きてゐて下さい、生きて行つて下さい」

彼が右の手を軽く握つたとき、女は祈るやうに囁いてゐた。

底本 / Source edition

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「個性」
1949(昭和24)年5、6月合併号
※連作「原爆以後」の6作目。
※底本の本文中に使われている《》の記号は、ルビを表す記号と重複しているため、〈〉に置き換えました。
入力:ジェラスガイ
校正:大野晋
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/004754_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004754_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004754_000293/

原 民喜「火の唇」(新字旧仮名)、底本『日本の原爆文学1 原民喜』ほるぷ出版、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004754_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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