Soranoha

飢ゑ

うえ

原 民喜

僕はこの部屋にゐると、まるで囚人のやうな気持にされる。四方の壁も天井もまつ白だし、すりガラスの回転式の小窓の隙間から見える外界も、何か脅威を含んでゐる。絶え間ない飢餓が感覚を鋭くさせるのか、ガラス一重と薄い板壁からなる、この部屋の構造が、外界の湿気や狂気を直接皮膚のやうに吸集するのか、――じつと坐つて考へ込むことは、大概こんなことだ。それにしても、何といふ低い天井で狭い小さな部屋なのだらう。僕の坐つてゐる板敷は、それがそのまま薄い一枚の天井となつてゐるので、ちよつと身動きしても階下の部屋に響く。そして、階下ではちよつとした気配にも耳を澄ませてゐるこの家の細君がゐるのだ。たとへば、僕が厠へ行くため、ドアをあけて細い階段の方へ出たとする。すると、この家の細君は素速く姿を消して次の間に隠れる。僕と顔を逢はすことを避けてゐるのだ。……僕はこの家の細君と口をきくことはまるで無いし、細君の弟が一人ゐるのだが、それとももう言葉を交はさなくなつていた。この家の主人は一月前に社用で何処か遠方へ行つてしまつた。僕はその主人が旅に出かける前、一度一緒に散歩したことがある。そのとき彼は、

「女房の奴、よほど恐つてゐる。俺ともう一ケ月も口をきかない」とぽつんと云つた。

「あ」といふやうな曖昧な頷き方を僕はした。この家にわだかまつてゐる幽暗なものに、それ以上触れるのは何だがおそろしかつたのだ。

僕はいつもそつとしてゐるのだ。ことりといふ物音一つからでも、このガラスの家は崩壊しさうな気がする。実際ここでは薄い壁とすりガラスの窓と木造の細い窓枠のほか、この家を支へてゐる柱らしいものは無いのだ。地面と同一の高さにある階下の床は歩くたびに釘のとれた床板が跳ね返る。その、だだつ広く天井の高い一階は、壁がはりに張られたガラス全体の枠が物凄く歪んでゐるが、一階から細い階段に眼を向けて二階の方を見上げると、壁の亀裂の線に沿ふやうに二階の部屋が少しずり下つてゐる。僕のゐるあの部屋が墜落する瞬間のことが、どうしても描かれてならないのだ。それは僕があの部屋にゐるとき生じるのだらうか、それとも僕が外に出てゐる留守のときに起るのか……僕にはあの広島の家が崩壊した瞬間のことが、まだどうしても脳裏から離れないのだ。

壊れものの上にゐるやうに、僕はおづおづとしてゐなければならない。僕はこの家の主人と階下で顔を逢はすことがあつても、お互に罪人同志が話しあふやうな慎重さで、さりげなくお天気のことなど二こと三こととりかはす。僕にはこの家の主人が、やはりいつも壊れものの側にゐるやうに、じつと何かを抑制してゐるやうにおもへてならない。この蓬髪の大男の体全体から放射されるパセチツクな調子は、根限り忍耐を続けてゐるものの情感だ。それは僕の方に流れてくる。……だが、ここでは、少くともこの家の細君の前では、彼と話をすることも遠慮しなければならなかつたので、僕は自分の部屋にじつと引込んでゐるのだ。

ある日、(さうだ、こんなある日もあるのだ。)……僕がその部屋――それはこの家の入口の脇にある小さな一区切だが――の扉の前を通りかかると、ふとその扉がぽつと開く。大きなノート・ブツクがぬつと差出される。

「読んでみてくれ、詩だ」彼の調子はどこかいつもとは変つてゐる。で、僕は、あ、今日はマダムが出かけてゐて留守なのだな、と気がつく。僕は二階の部屋にそのノート・ブツクを持つて入る。石油箱の上にそのノートを置いて読みはじめる。榎といふ詩が眼に入る。烈風に揉み苦茶にされながら、よぢれ、よぢくれて、天を目指し伸びゆく海岸の榎だ……。あ、これだな、と僕はこの家の主人の自画像を見せつけられたおもひがする。暗いまなざしの彼方に、鬱蒼と繁つた榎の若葉が……若葉は陽の光を求めてそよいでゐる。

「お茶のまないか」ふと階下で彼の呼ぶ声がする。僕は立上つて、階段を降りて行く。だだつ広いガラスの壁を背景に、この家の主人公は椅子にかけてゐる。

「この頃睡れるかい」と彼はさりげない調子で訊ねる。

「うん」僕も憂鬱さうに応へるのだが、脇腹のあたりに何か涙つぽいものが横ぎる。僕たちは了解し合つてゐるのだらうか?……何を?……どんな風に?……とにかく、今は異常な時刻なのだ。突然、僕はあの榎の向うに稲妻型に裂けた雲を見る。人類の渦の混濁のかなたに輝かしい幻像が浮上る。僕は何かぺらぺらと熱つぽいことを口走りたくなる。

「お茶ばつかしでは飢ゑは紛れないな」

彼は重さうに頭を揺すぶる。急に僕も疲労感が戻つてくる。僕は重たい関節をひきつるやうにして、まつ白な壁とガラス窓で囲まれた小さな部屋に戻る。板敷の上にごろりと横たはる。軽いめまひのなかに僕は細つそりと眼を閉ぢる。窓から射し込む暮近い明りが、僕の内臓を透きとほつて過ぎる。軽い。軽い。僕にはもう殆ど体重がないのだ。窓の外にある樹木や空やアスフアルトの坂は、みんな痺れてゐる、それが僕のなかに崩れかからうとして痙攣する、……僕は惨劇の中に死にかかつてゐる男だらうか。違う、……。僕は結晶を夢みるのだ。軽い、軽い、空白のなかに浮び上る。透明。……突然、僕は鞭の唸りを耳許で聴いたやうにおもふ。階下の入口が開いて、この家の細君の声がしてゐる。僕ははつとする。忽ち僕は囚人の意識をとり戻すのだ。僕は身を屈め眼を伏せて、無抵抗の窒息状態に還つてゐる。僕は四方の壁と天井と、二・五メートル立方の空間の中に存在してゐる。存在してゐる、僕がここに存在してゐるといふことが、ここでは一番いけないことなのだ。

いつから僕はこんな風にされてしまつたのだらうか……。とにかく、最初この家に僕がやつて来た当座は、今とはまるで容子が違つてゐた。恰度、四月はじめで、ガラス張の階下には明るい光線がふんだんに溢れ、僕はそのアトリエ式の部屋で、この家の主人と細君とその弟と、同じ食卓でくつろいで箸をとつた。いろんな話をした。何しろ久振りに打とけて話し合へる旧友なのだ。広島での遭難、それにつづく飢ゑと屈辱の暮し、……僕は喋りすぎる位喋つたかもしれない。さうだ、僕は少し浮々してゐたやうだ。だが、僕はあの時、焼出されの文無しを置いてくれるといふ、この家に対する感謝で心は甘く弾んでゐた。僕は職を求めてうろうろしたが、漸くありついた夜学の教師の口では自分一人を養うことも出来なかつたが、それとても、あまり気を滅入らせはしなかつた。着古しの国民服が乞食のやうに見窄しいのも、靴の底が抜けかかつてゐるのも殆ど僕は気にならなかつた。この靴で、僕はとにかく逃げ廻つて生きのびたのだし、飢ゑでぶつ斃れさうな体を支へてくれた自分の脚をなつかしんだ。だから、通勤が始まると、混雑する電車の中では、いつも抵抗するやうに僕はその二つの脚をつつ張つてゐたのだ。それから、……それは、このガラスの家の前の空地に、急に夏を想はすやうな眩しい光が溢れた午後だつたが、僕は切株の上に腰を下して、高い高い梢を見上げた。家のまはりの樹木は青空に接するあたり鬱蒼と風に若葉が揺れてゐたが、その方を眺めてゐると、何か遙かに優しいものに誘はれて、(あ、時は流れた)といふ感嘆が湧いた。ほんとに、そこから梢を見上げてゐると、自分のゐる場所がだんだん谷底のやうにおもへる。多分いま僕はこの世の谷底にゐるに違ひなかつた。だが、いつかは、いつかは谷間を攀ぢのぼつて、さうして、もう一度、あ、時は流れたと感嘆したいものだ。とかく僕は戦災乞食の己れを見離してはゐなかつた。

もつとも、こんなことはあつた。何かの話の中途で、この家の細君はいきなり僕に変な罵倒を投げつけた。

「へえツ、あなたはいつまで生きてゐられると思ふのです、あなたの生命なんか、あともう二三年もない癖に」

僕はこの断定に吃驚して、僕のどこかに死神が取憑いてゐるのかと、自分の背後を振返つた。が、細君は確信に満ちたやうな、ひどく冷酷な表情だつた。……もしかすると、僕には、この肉眼に灼きつけられた、あの大災禍の絵巻が、死狂ふ裸体の群像が、まだどこかで僕に作用してゐるのではないか。それで、細君の眼には、僕が最後の審判からのがれて来た不吉な人間のやうに見えるのかもしれない。罹災以来、絶えず飢ゑと屈辱をくぐり抜けて来た、この僕に、死の臭がまつはりついてゐたとしても致し方のないことであつた。だが、僕はあまりかうした念想に耽けりたくなかつたし、寧ろ何事もなかつた人間のやうな顔つきでゐたかつた。

このガラス張の家は――これは十年前建てられたのだが――今はいたる処が破損しかかつてゐたので、扉の開け立てや、階段の昇り降りにも注意を要した。家の外にある井戸のポンプも調子が狂つてゐて取扱因難だつた。が、僕は最初ここへ来たとき一とほりその心得をきかされた。「もう他に注意してもらふことはなかつたと思ふが……」と、細君はちよつと満足げにあたりを見廻した。だが、まだ心得ておくべき、いろんな細かな不文律があつたのだ。「なにしろ彼女の生活様式や信条をみんなに押しつけようとするのでね」と、ある時この家の主人は僕にそつと解説してくれた。「彼女の精神形成史は非常に複雑で不幸なのさ」と、彼は自らの不幸を嘆くやうに呟くのであつた。隣組の人とは絶対に無駄口をきいてはならないこと、家の内だけでなく、その周辺数米に亘つて、さまざまの神経的な禁制が存在してゐること、そんなことの次第も僕はだんだん覚らされて行つた。

この家の外は木立の多いアスフアルトの坂路であつて、大きな邸の塀から、その頃繁りだした青葉が一せいに覗いてゐたが、駅の方へ出掛けて行く坂路を行くたびに、僕は雨に濡れた青葉の陰鬱で染められてゆくやうな気持がした。ガラス張の家でもこの惨めな雨の季節がぢかに滲み込んでゐた。主食の配給がぱつたり無くなると、僕はだんだん四肢がだるくなつて来た。神経が小刻みに慄へて、みんなの顔つきが重苦しくなる。とくに、この家の細君はその頃になると、何かいつも嚇怒を抑へつけてゐるやうな貌だつた。

だが、何といつても僕は自分自身のひだるさに気を配らねばならなかつた。たとへば銭湯へ行くにしても、僕は一番疲労しさうにない時刻と天候を選ぶ。洗面器を持つて細い石段の坂を上り溝に添ふ大通りまで出ると、疾走するトラツクの後にパツと舞ひ上る焼跡の砂塵や、ひよろひよろ畑の青い色が、忽ち僕を疲らせる。僕が頭をあげて青空を視つめるなら、そのまま僕は吸ひとられてしまふだらう。僕は今にも切れさうな糸を繰るやうな気持で、自分自身と外界とを絶えず調節しなければならなかつた。……久しく澱粉類を絶たれて、蒟蒻とか菜つぱとかで紛らされてゐる肉体は、ひどく敏感になつて、たとへば朝のお茶を飲んだだけでも、それは足の裏まで沁み亘つてゆくのがわかる。それから、路を歩いてゐても、何か郷愁に似たとてもいい匂ひがするので、あれは何だつたかしらと、暫く戸迷ひながら、さうだ、パンを焼いてゐる匂ひだな、世の中にはパンを焼いて食べる幸福な家庭だつてあるのかと、吃驚さされる。

毎日、僕は夕方には滅茶苦茶に混乱する電車に揉まれて、夜学の勤めに出なければならなかつた。僕は疲れないために、時間をゆつくり費して駅まで辿りつく。ホームの雑沓の中に立つてゐると、もう少しで今にもパタンと倒れさうな気がする。さういふ時、僕のすぐ前に、やはり青白い、ひだるさうな顔が見つかると、おや同じやうな仲間もゐたのかと、少し吻とするのだが、相手は僕の視線にかすかに怒つた表情で応へる。(どちらがさきに斃れるかなんて! 畜生!)まるでさう云ふ無言の抗議が聞こえてくるやうである。それから、僕をいつも電車の中で迫害する荷物だらけの人間と来たら、あれは人間が歩いてゐるのか、食糧が歩いてゐるのか。僕にはあんな重荷を背負へる体力も無いし、もとよりそんなものを購へる金もないのだ。どうかすると僕は腹の底から絶体絶命の怒りがこみ上げて来さうになる。……だが、僕はできるだけ気を鎮めるために、毎日きめて英文法の本を読んだ。すると、体系とか秩序とかいふものが妙に慕はしかつた。小さな板敷の部屋にコチンと坐つて朝の光線のなかで書物を展げてゐると、窓の外の若葉や朝空は、とにかく、まだ生活に潤ひのあつた頃のつづきのやうにおもへた。僕は漠然とバランスのことを夢みる、……青葉の蔭に据ゑられてゐる透明な大きな秤を。……だが、さういふ一寸した悦ばしい観念が自分のなかに湧いて来ると、あ、お前のせゐだな、と僕はすぐ気がついた。お前はまだ何処かからこちらを覗き込んでゐたし、僕は母親に見守られてゐる幸な子供のやうな気持にされた。

佗しい朝の食事の後では忽ち猛烈な空腹感が襲ひかかつて来る。ふらつく僕の頭はするすると過ぎ去つた遠い昔の朝のことを考へた。子供のとき食べた表面を桃色の砂糖で固めたビスケツト、あんなお菓子や子供の味覚が今では何か幸福の象徴のやうにおもへだす。それから僕は銀の匙や珈琲セツトを夢みる。すると、一瞬満ちたりた食後の幻想が僕を掠めるのだつた。

しかし、この家におしかかつて来る飢ゑのくるめきは、次第にもうどうにもならなくなつてゐた。生暖かい白つぽい細雨が毒々しい樹木の緑を濡らし、湿気は飢ゑとともに到る処に匐い廻つた。そして、煙が、家の中で薪や紙を焚くので、煙はいつまでも亡霊のやうにあちこちに籠つてゐた。……僕の頭も感じてゐることもすべてもう夕暮のやうに仄暗かつた。どこかで必死に歯を喰ひしばつてゐる人間の顔がぼんやり泛かぶ。と、つぎつぎに死んでゆく人の群や、呻きながら、静かに救ひを求めながら路上に倒れたまま誰からも顧られない重傷者の顔が……あの日の惨劇がまだその儘つづいてゐるやうであつた。

ふと見ると、この家の細君がびしよ濡れの姿で外から帰つて来た。その土色の顔には殺気のひいた無気味さが漲つてゐる。彼女はぺたんと椅子に腰を下すと、

「撲られた」と、乾ききつた声で云つた。それから、隣組の女同志の争ひについて、いきまいて喋りだした。が、僕には少し耳が遠いやうな感じで、何が何だかはつきり分らなかつた。配給ものの量についての説明を彼女が追求してゐると、いきなり隣にゐた大女が撲りつけたといふ、それだけしか事情は呑みこめなかつた。……再び僕は薄暗い雨の思惟に鎖されてゐた。泥べたの上でずぶ濡れになり争ひあつてゐる女の姿が雨の中のスパアクのやうにおもへた。

それから二三日後のことであつた。

「もう起きてごそごそ動かないことです。義夫さん、寝てゐなさい、寝てゐなさい、食糧の配給があるまでは寝てゐなさい」

この家の細君のひきつつた声に、その弟はのつそりと階段を昇つて行つた。それは恰度、僕がみじめな朝食を済ませた時であつたが、やがて僕も何かに脅かされたやうな気分で自分の部屋に引込んで行つた。ドアをあけて自分の部屋に入らうとしたとたん、僕は細目に開いてゐる窓から隣家の庭さきが見えた。青いひつそりとした葉蔭に紫陽花の花が咲いてゐて、縁側の障子はとざされてゐた。(紫陽花の花が咲いてゐるのか)僕はふと幸福をおもひださうとしてゐた。

その翌朝だつた。雨雲の切れ目から、陽の光とねばつこい風が吹きつけて、妙に人をいらいらさせる朝だつた。たまたま僕は煙草を持つてゐたが、マツチがなかつた。佗しい食後の空腹状態で、無性に僕は煙草が吸つてみたくなつた。僕はじりじりしながら、ポケツトの隅々を探した。それから、ふとレンズを思ひついた。太陽の光線で点火することは罹災後寒村にゐた頃からやつてゐたことなのだ。僕は表へ出ると、その家の空地の陽のよくあたりさうな処を選んだ。薄雲が流れてゐて、なかなか火は点かなかつた。空地のすぐ向は他所の畑になつてゐたが、その境に暫く僕は佇んでゐた。家のすぐ前では配給ものの菜つぱを囲んで隣組の女たちが集まつてゐた。漸く煙草に点火すると、僕は吻として疲れながら屋内に戻つた。それから僕はそのことを細君から云はれる瞬間までは、自分のしたことを忘れてゐたのだが……。昼の食事に僕は階下に下りて椅子に腰かけた。すると、この家の細君がすぐ僕の側の椅子に腰をおろし、前屈みの姿勢でにじり寄つて来た。

「あんた、部屋移つたらどう」

ぽつんと放たれた言葉で、僕はまだ何のことかよく分らなかつた。見ると、相手はもつと何か切出さうとして、いらいらしてゐる表情だつた。

「どこの部屋に移るのです」

「他所へ越してもらひたいのよ」

僕は全く混乱してしまつた。殆ど息も塞がりさうになり、僕の心臓が急にぐつと搾縮されてゐることがわかつた。ふと見ると、細君の額には、じりじりと汗の玉が浮んでゐた。あ、今日は少し蒸暑いから気持がいらいらするのだな、瞬間、僕はそんな物凄い顔つきをしてゐる相手を気の毒におもつた。

「私はね、一度命令したことに背く奴は徹底的に憎悪してやります」

「どんな間違を僕が犯したのですか」僕は青ざめて聞きかへした。

「今朝あなたは畑のところで何をしてゐたのです」

漸く僕には少し意味がわかつて来た。いつだつたか、理由は分らなかつたが、あまり家のまはりを出歩いてはいけないと言ひ渡されたことが、たしかにあつたやうだ。僕は煙草のことを説明しようと思つたが、言葉にはならなかつた。

「あなたが普通の人間でないことを知つてゐる人ならかまひませんが、何も知らない人はみんな吃驚しますよ。子供があきれて、あなたを見てゐました。この近所の子供は私がたつた一言、『あれはキチガヒだ』とそそのかせば、今後あなたを見るたびに石を投げます」

「………………」

「それに、あの畑の持主は、いつでも物蔭から見張りしてゐて、少しでも怪しげな奴が立つてゐれば、いきなり鍬で撲りつけます。つまりあなたは撲り殺されたいのですか」

僕はもう平謝りに謝るより他はなかつた。黙つたまま細君は漸く椅子を離れた。

僕の心臓はゆさぶられ、打ちのめされてしまつた。自分の部屋に戻ると、暫くごろんと寝転んでゐたが、何かに急きたてられ、さうだ、かうしてはゐられない、と立上つた。かうしてはゐられない、……とにかく、なんとかしなければ、と僕は何か的があるやうに外出の用意をした。といつて、何処にも行く場所はなかつたし、出勤の時間はまだ早かつたが、僕はいつものやうに電車に揉みくちやにされてゐた。……僕は思考力を失つてゐた。心臓ばかりがゆさぶられ、脅え上つて一睡もしようとしない神経があつた。昼間の衝撃が緩い緩い速度で回転してゐる。と思ふと、突然、路上に放り出されて喘いでゐる自分を見出すのだ。炎天の焔の中で死狂ふ人や、放り出されてこときれてゐる死骸が……。あの死骸は僕なのか。……あの時以来、僕は死ぬるならやはり何処かの軒の下で穏かに呼吸をひきとりたいと思つてゐた。ところが、ふと気がついたのだが、僕を容れてくれる屋根は今はもう何処にもないのだ。これははじめから分つてゐたはずだつた。僕の迂闊さがいけなかつたのだ。

悪いことに、僕はその頃から、ときどき変な咳をするやうになつてゐた。

「一度医者に診てもらつたらどうだ」この家の主人は僕を憐むやうな調子で云つてくれる。「今病気したら大変だからね、早いうちに養生した方がいい」僕はただ泣きたい気持でそれを聞いてゐた。……僕の怪しげな咳は暫くしておさまつてゐたが、いつの間にか僕は屋内の洗面所で口を漱ぐことを禁止されてゐた。僕は雨の朝の屋外の井戸の処で顔を洗ふことになつた。ところが暫くすると井戸端で顔を洗ふのも禁止されてしまつた。僕は一旦井戸で汲んだ洗面器を抱えて、今は塵捨場になつてゐる防空壕のところで顔を洗つた。……食事も既に大分前から僕のだけ分離されてゐた。いつも食事の時刻を見計つて僕が階段を降りて行くと、誰もゐない広い部屋の片隅に僕の食事がぽつんと置いてあつた。どうかすると膳の脇に、「タバコ、五円三十銭」と書いた紙片と配給ののぞみが置いてあつた。

僕はもうこの家の細君と口をきくのが怕かつた。どうしても何かを口頭で依頼しなければならぬ時、僕はまるで犯人のやうにへどもどしてゐた。細君の顔は石のやうに平静だつたが、僕のおろおろ声がその耳に入つた時、一瞬相手の顔にさつと漲る怒気はまるで鋭利な刃もののやうにおもへた。……僕は自分の部屋にゐる時でも、絶えずこの家の神経に監視されてゐた。僕はじりじりと脅やかされ絶えず悶えた。それでも僕は卑屈にはなりたくなかつた。しかし、どうしてもこれでは卑屈にしかなれない。このまま、かうした生活をつづけて行くなら僕は結局、陰惨無類の人間にされてしまひさうだ。僕はそれが腹立たしく、時に何かヒステリツクな気持に駆られさうだつた。

どんなに僕が打ちのめされてゐるかは、外へ出てみるとよくわかつた。たまに以前の友人を訪ねて行つたりすると、罹災してゐない家では、畳があつて、何もかも落着いてゐる。それだけでも僕には慰めのやうな気がしたが、その家では食事まで出してくれる。それも、僕一人がぽつんと餌食を与へられるのではなく、みんなが僕を忌避しないで食卓を囲む。こんなことがあり得るのだらうかと、僕は何だか眼の前に霧のやうなものがふるへだすのだつた。……霧のやうなものは、あまり親しくない人を訪ねて行つても、僕のなかでふるへてゐた。さういふ人と逢ふとき、僕はひどく感情が脅え、言葉が閊へたりするのだが、相手は僕を喫茶店へ誘つて珈琲を奢つてくれたりする。僕のやうな人間でも、あたりまへに扱つてくれる人がゐるのかと思ふと、急に泣きだしたくなる。いけない、いけない、これはまるでヒステリーの劣等感だ、と僕は自分にむかつて叫ぶ。だが、飢ゑと一緒に存在する涙もろいものは、僕の顔のすぐ下にあつて、どうにも出来なかつた。

ある日も僕は昔の知人とめぐりあつて、その家で酒を御馳走になつた。はじめはやはり冷んやりと脅えがちのものが僕のなかに蟠つてゐたが、そのうちに酒の酔と旧知の情が僕をだんだんいい気持にさせた。すると、僕はお前が生きてゐた頃の昔の自分とまだちよつとも変つてゐないやうな気がした。帰つて行けば、ちやんと居心地のいい家が待つてゐてくれる、さういふ風な錯覚が僕の足どりを軽くした。だが、一歩そこの門を出ると、外は真の暗闇だつた。廃墟の死骸や狂犬やあらゆる不安と溶けあつてゐる茫々とした夜路をふらふらと僕は駅の方へ歩いて行つた。駅に来て僕は電車を三十分あまり待つた。それから乗替の駅ではもつともつと長く待たねばならなかつた。さうして夜の時刻が更けて行くのが切実な恐怖をかきたてながら、一方ではまだ昔の夢が疼くやうに僕のなかにあつた。いつもの駅で降りた時、既に人足は杜絶えてゐた。僕はその家の戸口に立つまではやはり何か満ちたりたやうな気分だつた。……灯を消したガラスの家はしーんとして深夜のなかに突立つてゐた。僕はその扉にまだ鍵が掛つてゐないのを知つて、まづ吻とした。それから内側に入つて、何気なく鍵を掛けようとした。ところが、どうしても鍵はうまく掛らなかつた。僕は扉を持上げては、鍵と鍵穴の位置を合はさうとした。すると、そのたびに扉はガタガタと音たて、鍵は反抗するのだつた。ゴトゴトといふもの音が僕を苛責と恐怖に突陥してゐた。僕はその時、奥の方の寝室でこの家の細君が何か歯ぎしりに似た呻き声を発したやうにおもふ。つづいて鈍い足音が近づき、暗闇の向から主人の声がした。

「おう、いいよ、僕が掛ける」声の調子で僕は相手が怒つてゐないのを感じた。

「あ……」と曖昧な返答を残し僕はそのまま階段を昇つて行つた。

僕が何十回試みても出来なかつた鍵を、彼は一回で完了した。あたりは再びしーんとなつた。

僕が自分の部屋に入り、洋服掛に服を吊るさうとする、服掛がガタンと床に落ちた。木製の服掛は薄い板敷に(それはそのまま天井板になつてゐて、その下ではこの家の細君が寝てゐるのだ)あまりにも大きな音響をたてた。たちまち僕の耳は歯ぎしりに似た神経の脅威を聞いたやうな気がする。だが、それはこの家屋の不幸な呻吟のやうにもおもへた。……それから僕は部屋の片隅に積重ねてある夜具を敷かうとした。すると、机がはりに使用してゐる石油箱の上の灰皿がガタンと落ちた。重ね重ねの失策に僕はもう茫然としてしまつた。

その翌朝はねばつこい烈風が日の光を掻き廻してゐて、恰度あの引越を言渡された厭な日とそつくりの天気だつた。僕はおそるおそる階段を降りて行つた。部屋の隅の椅子に腰掛けてゐたその家の主人と細君と弟の話は急に杜切れ、細君は石のやうな表情でつんと立上ると奧の部屋に消えてしまつた。それから、思ひきり力一杯ドアを閉める音がした。

「風あたりがひどいよ」

主人が僕のぼんやり立つてゐるのを見て呟くと、細君の弟はちよつと薄ら笑ひをした。僕は何事かを了解した。瞬間、僕にはこのガラスの家がバラバラになつて頭上に崩れ墜ちたやうに思つた。それでゐて、僕の足もとを流れてゐるのは生温かい、そして妙に冷たいところのある気体だつた。僕はぼんやりした儘おづおづとしてゐた。何事かを弁解しようとすれば、唇のあたりが徒らに痙攣しさうになるのだつた。……かうして、僕はこの家の主人にも細君にも謝罪する機会を逸してしまつた。この家の主人が社用で遠方に出かけてから、僕にはまだ一通のたよりも来なかつた。

僕は部屋に寝そべつて、出勤までの時間をぼんやりとしてゐる。かうして僕がここにゐるといふことは、一刻ごとに苛責の針を感じながら、つい僕の頭にはとてつもない夢想ばかりがはびこり勝ちなのだ。ふと、細目にひらいた窓の方を眺めると、向の畑の枝に残つた糸瓜が一つ、ふらふらと揺れてゐる。……時は流れた。ほんとに時は流れ去つてしまつた。僕はもつと恍惚した気分で、以前こんな時刻にめぐり合はなかつただらうか。お前と死にわかれる年の秋まで、何度僕はこんな風な小さな眺めのなかに時の流れを嘆じただらう。家の窓のすぐ外に糸瓜はみのり、それがさわさわと風に揺れてゐた。あれは、まだその儘、いたるところに残つてゐるではないか。

――と、何かひつそりとした影が、僕の見てゐる窓の下を横切る。殆ど何の音もたてず、黙々と今、畑のところを通りすぎて行くのは、長い鍬を肩にになつて前屈みの姿勢で重苦しく、ゆつくりと歩いて行く老人だつた。人間とも思へない位、これは不思議な調子の存在だ。だが、忽ち僕はあの鍬で脳天を叩き割られてゐる自分に脅える。谷間に似たこの附近一帯には陰々として怨霊の気が立罩めてゐるのだらうか。……耳を澄してゐると、階下にゐる家の細君の足音がわかる。ドアが開いて、今どうやら奧の間へ引込んだらしい。今のうちに、僕が外へ出かけて行くなら顔を逢はせなくて済む。さうだ、今のうちに……。

底本 / Source edition

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
※連作「原爆以後」の3作目。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/004751_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004751_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004751_000293/

原 民喜「飢ゑ」(新字旧仮名)、底本『日本の原爆文学1 原民喜』ほるぷ出版、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004751_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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