Soranoha

小さな村

ちいさなむら

原 民喜

夕暮

青田の上の広い空が次第に光を喪つてゐた。村の入口らしいところで道は三つに岐れ、水の音がしてゐるやうであつた。私たちを乗せた荷馬車は軒とすれすれに一すぢの路へ這入つて行つた。アイスキヤンデーの看板が目についた。溝を走るたつぷりした水があつた。家並は杜切れてはまた続いていつた。国民学校の門が見え、それから村役場の小さな建物があつた。田のなかを貫いて一すぢ続いてゐるらしいこの道は、どこまでつづくのだらうかとおもはれた。荷馬車はのろのろと進んだ。家並が密になつてくると、時々、軒下から荷馬車の方を振返つて、驚愕してゐる顔があつた。路傍で遊んでゐる子供も声をあげて走り寄るのであつた。

微かにモーターの響のしてゐる或る軒さきに、その荷馬車が停められた時、あたりはもう薄暗かつた。みんなはひどく疲れてゐた。立つて歩けるのは、妹と私ぐらゐであつた。私はその製粉所に這入つて行くと、深井氏に声をかけた。表に出て来た深井氏は吃驚して、それから、すぐにまた奥に引込んだ。いま、荷馬車の上の負傷者をとり囲んで、村の女房たちがてんでに私たちに話しかけた。けれども私は、薄闇のなかに誰が何を云つてくれてゐるのやら、気忙しくてわからないのであつた。深井氏はせつせと世話を焼いてくれた。兼ねて、その製粉所から三軒目の家を、次兄が借りる約束にはなつてゐたのだが、かうして突然、罹災者の姿となつて越して来ようとは、誰も思ひがけぬことであつた。

やがて、私たちは、ともかく農家の離れの畳の上に、膝を伸した。次兄の一家族と、妹と私と、二昼夜の野宿のあげく、漸く辿りついた場所であつた。とつぷりと日は暮れて、縁側のすぐ向の田を、風が重苦しくうごいてゐた。

一老人

背の低いわりに顔は大きい、額は剥げあがつてゐるが、鬢の方には白髪と艶々した髪がまじつてゐる、それから、何より眼だが、そのくるりとした眼球は、とてもいま睡むたさうで、まだ昼寝の夢に浸つてゐるやうだし、ゆるんだ唇にはキセルがあつた。……一瞬、あたりの空気がずりさがつて、こちらまで何だか麻酔にかかりさうであつた。が、そのぼんやりした眼が漸くこちらに気づいたやうであつた。すると、その男の顔には何ともいへぬもの珍しげな表情がうかび、唇がニヤニヤと笑ひだした。

「どうしたのだ、黙つてつつ立つてゐたのでは分らないよ」

さきほどから、そこの窓口に紙片を差出して転入のことを依頼してゐる私は、ちよつと度胆を抜かれた。

「これお願ひしたいのですが、さうお願ひしてゐるのですが」

しばらくすると、その男は黙つて、その紙片を机上に展げた。それから、帳面に何か記入したり、判を押したりしだした。反古のやうな紙に禿びたペンで奇妙な文字を記入し、太い指さきで算盤を弾いては乱暴な数字を書込んでゐる。じつと窓口でそれを視入つてゐる私は、何だかあれで大丈夫なのかしらと、ひどく不安になるのであつた。だが、とにかく、かうして転入の手続は済んだ。受取つた米殻通帳その他は、その日から村で通用するやうになつた。

私をおどろかしたその老人は、村の入口の小川の曲り角とか、畑道で、ひよつくり出逢ふことがあつた。いつも鍬を肩にしてぶらぶらと歩いてゐる容子は――畑に釣をしに行くやうな風格があつた。

その後、この村から私が転出する際も、私はまたその老人の手を煩はした。老人は滅多に役場に姿を現さず主に畑を耕してゐるのだつたが、その日、村道の中ほどを悠然と歩いてゐる老人の姿を見つけると、私はやにはに追ひ縋つて、転出のことを頼んだ。村役場の机で、老人は転出証明を書いてくれた。「東京への転出はどうもむつかしいといふことだがな……」と老人は首を捻りながら、とにかくそれを書いてくれたのである。

火葬

「何とも御愁傷のことと存じます」そこの座敷へ上り誰に対して云ふともなしに発した、この紋切型の言葉が、ぐいと私の胸にはねかへつて来て、私は悲しみのなかに滅り込んで行きさうになつた。これはいけない、と私はすぐに傍観者の気持に立還らうとした。広島で遭難してから五日目に、その男は死んでしまつた。この村へ移つて四日目に、私はその葬式に加はつてゐるのだつた。

今あたりを見廻すと、村の人々は、それほどこの不幸に心打たれてゐるやうにはおもへなかつた。みんながいま頻りに気にしてゐることは、空襲警報中なので出発の時刻が遅れることであつた。榊や御幣のやうなものが、既にだいぶ前からそこの縁側に置いてあつた。しばらくすると、警報が解かれた。すると、人々は吻としたやうに早速それらを手に手に取つて、男たちは路ばたに並んだ。棺は太い竹竿に通されて、二人の年寄に担がれた。それが先頭を揺れながら進んだ。村道を突切り、田の小径を渡り、山路にさしかかると、棺を担ふ竹がギシギシと音をたてた。火葬場は山の中腹にあつた。いま、ここまで従いて来る男たちに私が気づくと、それはみんな年寄ばかりなのだつた。

なかの二三人が棺を焼場の中に据ゑ、その下に丸太を並べ、藁を敷いて点火した。火は鉄の扉の向で燃えて行つた。

「それではあとはよろしくお願ひします」と、棺を担いで来た老人と若い未亡人がさきに帰つて行つた。人々は松の木蔭の涼しいところに腰を下ろして、暫く火の燃え具合を眺めてゐるのであつた。鉄の扉からは今も熾んに煙が洩れた。

「ほら、まるで鯔ぼらを焼くのと同じことだ。脂がプスプスいつてゐる」と誰かが気軽な調子で云つた。すると、一人が扉のところへ近づいて更に薪を継ぎ足した。暫くみんなは莨を喫ひながら、てんでに勝手なことを喋り合つてゐた。

「よく燃えてゐる。この調子なら、夜はお骨拾ひに行けるでせう」と一人の年寄は満足さうに呟いた。「では、そろそろ引あげませうか」と誰かがいふと、みんなは早速腰を上げた。淡々として、人々は事を運び、いくぶん浮々した調子すら混つてゐる。広島の惨劇がまだ目さきにちらつく私には、これは多少意外な光景であつた。だが、かうした不幸を扱ふに、今はかうした軽い調子によるよりほかないのかもしれない。すたすたと、坂路を降つて行く年寄たちは、頻りにふり仰いでは頭上を指さす。見ると、松の枝のあちこちに小さな竹筒が括り附けてあるのであつた。一人の年寄は態と立留まつて、まるでそれをはじめて眺めるやうに、

「ははあ、なるほど、松根油か。松根油が出るから日本は勝つさうな」と、からからとわらひだした。この村の人々が松根油でさんざ苦しめられてゐるらしいことを、ふと私はさとるのであつた。

農会

はじめて米殻通帳を持つて、その農会へ行つた時、そこの土間の棚にレモンシロツプや麦藁帽子、釦などが並べてあるのを私はじろじろと眺めた。「あれは売つてもらへるのですか」と女事務員に訊ねると頷く。そこで、私は水浸しになつてカチカチに乾きついた財布からパサパサになつてゐる紙幣をとり出し、毛筆とシロツプを求めた。「あそこではこんなもの売つてくれるよ」と私はめづらしさのあまり妹に告げると、妹も早速出掛け、シロツプや釦を買つてもどる。「ほんとうに、お金を出せばものが買へるなんて、まるで夢のやうだ」と妹も妙に興奮してくるのであつた。

だが、その後、お金を出してものが買へるのは既に珍しくない世の中がやつて来た。その頃になると、この村にも、復員青年の姿がぽつぽつ現れた。農会の女事務員は、村の老婆にしつこく年齢を訊ねられてゐた。

「気だてさへよければ伜の嫁にしたいのだが」老婆はむきつけてそんなことを娘に打明けるのだつた。Agricultural Society いつのまにか農会の入口にはこんな木札が掲げられてゐた。

玩具の配給

爺さんは牛を牽いて夜遅く家に帰る途中だつた。後からやつて来た朝鮮人が頻りに頼むので、その荷物を牛の背に乗せてやつたかとおもふと、すぐ側の叢で「万歳! 万歳!」と叫ぶ声がした。見ると薄らあかりのなかに軍刀を閃めかしながら人影が立上つた。「万歳! 万歳!」と猶も連呼しながら、影はよろよろとこちらへ近づいてくる。その時、朝鮮人は荷を持つて素速く逃げ去つたが、牛を連れてゐる爺さんは戸惑ふばかりであつた。「こらへて下さいや。なんにもわしはわるいことしたおぼえはないのです」爺さんは哀願した。だが、朦朧とした眼つきの男は、振りあげた軍刀で牛の尻にぴたと敲きつけると、つづいて爺さんの肘のところを払つた。そして、それきり相手の将校は黙々と立去つたのである。――八月十五日の晩の出来事で、軍刀の裏側でやられた肘の疵を撫でながら、爺さんは翌朝おそろしさうにこの話をした。

そんなことがあつてから五六日目のことだが、爺さんは牛を牽いて、朝早くから玩具を取りに出掛けて行つた。牛の背に積んで戻る程、たんと玩具がやつて来るのかしら、と私は少しをかしくおもつた。すると、お餉ごろ爺さんは村へ帰つて来た。それから暫くして、玩具の配給があるから取りに来いといふのだつた。よろこんで出掛けて行つた甥はすぐにひきかへして来た。

「風呂敷がいる、風呂敷がいるんだよ」

甥はひどく浮々してまた出掛けて行つた。やがて持つて戻つた風呂敷包は、すぐ畳の上にひろげられた。笛がある。カチカチと鳴る奇妙な木片がある。竹のシヤベル。女優のプロマイド。紙の将棋。木の車。どれも、これも、おそろしく粗末なものだが、宣撫用として、久しく軍の倉庫に匿されてゐたものなのだらう。こんなもの呉れるより、米の一升でもくれたらいいのに、と大人たちはあまり喜ばないのであつたが、子供らはてんでに畳の上のものに気を奪はれた。

日が暮れて、私は二階に昇つて行つた。すると、田の方で笛の音がするのだ。それも、一つばかりではない。短かい、単調な、笛の音は、あつちの家からも、こちらの小屋からも、今しきりにもの珍しげに鳴りひびくのであつた。さういへば、堤の方にも、山の麓にも、灯がキラキラと懐しげに瞬いてゐる。私の心も少し潤ふやうであつた。罹災以来ひどく兇暴な眼ざしになつてゐた、小さな姪の眼の色が、漸くやはらぎを帯びて来たのは、それから二三日後のことである。

罹災者

軍から引渡された品が隣組長の処で配給されることになつた。受取りに行つた私は、そこの閾で、二三時間待たされた。蚊取線香、靴篦、歯ブラシ、征露丸、梅肉エキス、蚤とり粉、毛筆、紙挟み、殆ど使用に堪へさうもない安全剃刀、パイプなど畳一杯に展げられてゐたが、ゲートル、帽子、雑嚢などになると、一層奇妙なものが多かつた。

その、腹巻とも、鉢巻ともつかぬ、紐の附いた白い布をとりあげて、「これは、犢鼻褌にしたらいいわな」と側にゐる親爺が私に話しかけた。私が曖昧に頷くと、それからは相手は得意になつて、頻りに愚にもつかぬことを喋りだすのであつた。が、どうも、その弛んだ貌つきと捨鉢な口調とは不可解なものを含んでゐた。

その後、私はその親爺とは時折路上で出喰はすやうになつた。いつも狎れ狎れしく話しかけるし、ひどく出鱈目な身なりや、阿房めいた調子は――こちらまで魯鈍の伴侶にされさうであつた。「芋を供出せえといふお触れが出たが、わしんところには畑はない。それだから他所で買ふて芋をおかみへ供出せねやならんことになるわい」さういつて、ハハと力なく笑ふのであつた。私は彼が罹災者で、大阪から流れ込んで来たことをもう知つてゐた。

隣の家で誰か祈祷師がやつて来て、頻りに怕いやうな声をあげてゐた。その家の娘を揉み療法で祈り治すらしいのだが、ふと、その文句に耳を傾けてみると、ギヤテイ ギヤテイ ハラギヤテイとか、テウネンクワンゼオン、ボネンクワンゼオンとか、いろんな文句が綴り合はされてゐるのであつた。しかし、文句より声の方が凄さまじかつた。――ところが、その祈祷師が、あの大阪の罹災親爺だとは、私は久しく気づかなかつた。

祈祷師、田口の親爺さんは、縁側に腰を下ろして、私の次兄に話しかけてゐた。「箪笥を売らうといふ人があるんだが、あんた買ふ気はないかね。何でも買ふなら今のうちだよ。黒柿の素敵な箪笥ぢや。うんにや、楓の木ぢやつたかな」と、彼は相変らず阿房めいた調子を混じへながら、巧みに話をもちかけてゆくのであつた。

脅迫

私はひどい下痢に悩まされながら、二階でひとり寝転んでゐた。すると、階下の縁側のところに誰だか近寄つて来る足音がした。

「今晩は、今晩は、森さんはここですかいの」その声ははじめから何か怨みを含んでゐるらしい調子であつたが、どうしたわけか、嫂が返事をするのが、少し暇どつてゐた。「森さん、森さん」と、相手の声はもう棘々してゐたが、やがて嫂が応対に出たらしい気配がすると、

「なして、あんたのところは当番に出なかつたのですか」と、いきなり嚇と浴せかけるのであつた。

国民学校の校舎が重傷者の収容所に充てられ、部落から毎日二名宛看護に出ることになつてゐた。が、嫂はいま、死にさうになつてゐる息子の看病に附ききりだつたし、次兄も火傷でまだ動けない躰だし、妹はその頃、広島へ行つてゐた。……何か弁解してゐる嫂の声はききとれなかつたが、激昂してゐる相手の声は、あたり一杯に響き亘つた。

「ええツ! 義務をはたさない家には配給ものもあげやせんからの」

と、とうとう今はそんなことまで呶鳴り散らしてゐる。その声から想像するに、相手はかなりの年配の男らしかつたが、おのれの声に逆上しながら、ものに脅えてゐるやうな、パセチツクなところもあつた。それは、抑制を失つた子供の調子であつた。やがて、その声もだんだん低くなり、まだ何か呟いてゐるらしかつたが、それもぴつたり歇んでしまつた。遠ざかつてゆく足音をききながら、私はその人柄を頭に描き、何となくをかしかつた。

だが、この事件は、決して笑ひごとではすまなかつた。それでなくても、罹災者の弱味をもつ私たちは、その後は戦々兢々として、村人の顔色を窺はねばならなかつた。

嫂は路傍で、村人の会話の断片を洩れ聴きして戻つて来た。

「さうすると、広島の奴等はやがてみんな飢ゑ死にか」

「飢ゑ死にするだらうてえ」

その調子は、街の人間どもが、更に悲惨な目に陥ることを密かに願つてゐるやうだつた、と嫂は脅えるのであつた。

「上着のお礼に芋をやると約束しておきながら、とるものばかりさきにとつておいて、くれた品はたつたこれだけ」と、妹もこの辺の百姓のやりかたに驚くのであつた。

私も、その村の人々をそれとなく観察し、できるだけ理解しようとはした。だが、私がその村に居たのは半歳あまりだつたし、農民との接触も殆どなかつたので、街で育つた私には、何一つ掴むところがなかつた。もともと、この村は、海岸の町へ出るに一里半、広島から隔たること五里あまり、言語も、習慣も、私たちとさう懸隔れてゐる訳ではなかつたが、それでゐてこの村の魂を読みとることは、トルストイの描いた農民を理解することよりも困難ではないかと思はれた。

厠の窓から覗くと、鶏小屋の脇の壁のところに陣どつて、せつせと藁をしごいてゐる男がゐた。雨の日でも同じ場所で同じ手仕事をつづけてゐたが、その俯き加減の面長な顔には、黒い立派な口鬚もあり、ちよつと、トーマスマンに似てゐた。概して、この村の男たちの顔は悧巧さうであつた。それは労働によつて引緊まり、己れの狭い領域を護りとほしてゆく顔だつた。若い女たちのなかには、ちよつと、人を恍惚とさすやうな顔があつた。その澄んだ瞳やふつくらした頬ぺたは、殆どこの世の汚れを知らぬもののやうにおもはれた。よく発育した腕で、彼女たちはらくらくと猫車を押して行くのであつた。だが、年寄つた女は、唇が出張つて、ズキズキした顔が多かつた。

ある日、役場の空地で、油の配給が行はれてゐた。どこに埋めてあつたのか、軍のドラム罐が今いくつもここに姿を現してゐたが、役場の若い男が二人、せつせと秤で測つては壜に注いだ。各班から壜を持つて集つて来る女たちは、つぎつぎに入替つたが、私のところの班だけは組長の手違ひのため一番最後まで残された。

その秤で測つては壜に注ぐ単調な動作をぼんやり眺めてゐると、私はいい加減疲れてしまつた。だが、女たちはよほど嬉しいのだらう、「肩が凝るでせうね、揉んであげよう」と、おかみさんは油を注いでくれる青年の肩に手をかけたりした。

ふと、役場の窓のところに、村長の顔が現れた。すると、みんなは一寸お辞儀するのであつたが、その温厚さうな、開襟シヤツの村長は、煙草を燻らしながら、悠然と一同を瞰下ろしてゐた。

「油をあげるのだから、この次には働いてもらはねばいかんよ。もらふものの時だけ元気よく出て来て、働くときには知らん顔では困るからね」と、ねつとりした、しかし、軽い口調で話しかけるのであつた。

舌切雀

ある朝、私は二階の障子を繕つてゐた。ひつそりと雨が降りつづいて、山の上の空は真白だつたが、稲の穂はふさふさと揺れてゐた。たつた四五枚の障子を修繕しただけで、私はもう精魂尽きるほど、ぐつたりした。朝たべた二杯の淡いお粥は、既に胃の腑になかつたし、餉までにはまだ二三時間あつた。ふと、私の眼は、鍋に残つてゐる糊に注がれてゐた。(これはメリケン粉だな。それなら食べられる)はじめ指先で少し摘んで試みると、次にはもう瞬くうちにそれを平らげてゐるのだつた。(舌切雀、舌切雀)と私は口の糊を拭ひながら、ひとり苦笑した。

秋雨があがると暑い日がもり返して来た。村では、道路を修繕するため、戸毎に勤労奉仕が課せられた。私がふらふらの足どりで、国民学校の校庭に出掛けて行くと、帳面を手にした男がすぐ名前をそれに控へ、「あんたは車の方をやつてくれ」と云ふ。「病気あがりなのですから、なるべく楽な方へ廻して下さい」と私は嘆願した。漸く土砂掘りの方へ私は廻された。校庭の後に屹立してゐる崖を、シヤベルで切り崩して行くのであつたが、飢ゑてゐる私には、嚇と明るい陽光だけでも滅入るおもひだつた。土砂はいくらでも出て来るし、村人は根気よく働いた。その土砂を車に積んで外へ運んで行く連中も、みんな、いきいきしてゐたし、涼しさうな眼なざしをした頬かむりの女もゐた。

「お粥腹では力が出んなあ」

いつの間にか私の側には、大阪の罹災親爺が立つてゐるのだつた。

巨人

台風が去つた朝は、稲の穂が風の去つた方角に頭を傾むけ、向の低い山の空には、青い重さうな雲がたたずんでゐた。

二階からほぼ眼の位置と同じところに眺められる、その山は、時によつていろんな表情を湛へた。その山の麓から展がる稲田と、すぐ手まへに見える村社と、稲田の左側を区切つてゐる堤と、私の眼にうつる景色は凡そ限られてゐた。堤の向は川でその辺まで行くと、この渓流のながめは、ちよつと山の温泉へでも行つたやうな気持をいだかせるのだつたが、ひだるい私は滅多に出歩かなかつた。

ぼんやりと私はその低い山を眺めてゐた。真中が少し窪んでゐるところから覗いてゐる空は、それが、真青な時でも、白く曇つてゐる時でも、何か巨人の口に似てゐるやうにおもへだした。その巨きな口も、飢ゑてゐるのだらうか。いつのまにか、飢ゑてゐる私は、その山の上の口について、愚かな童話を描いてゐた。……あの巨人の口はなかなか御馳走をたべるのだ。朝は大きな太陽があそこから昇るし、夕方は夕方で、まるい月がやはりあそこから現れて来る。雲や星も、あの美食家の巨人の口に捧げられる。……だが、さうおもつても、やはり巨人の口も、何となく饑じさうだつた。

朽木橋

小春日の静かな流れには、水車も廻つてゐた。この辺まで来るのは、今日がはじめてであつたが、嫂は私より先にとつとと歩いた。薪を頒けてくれるといふ家は、まだ、もつとさきの方らしかつた。先日、雨のなかの畑路で、嫂が木片を拾ひ歩いてゐると、通りがかりの男が、薪なら少し位わけてやるよ、と言葉をかけてくれたのである。で、嫂は私を連れて、その家に薪を貰ひに行くのであつた。

崖の下に水が流れてゐて、一本の朽木が懸つてゐる、その向に農家があつた。嫂はその橋を渡つて、農家の庭さきに廻り声をかけた。色の黒い男が早速、薪を四五把とり出してくれた。

「背負つて行くといい。負ひこを貸してやらうか」と、負ひこを納屋から持つて来てくれる。さういふものを担ふのは私は今日がはじめてであつた。

「三把負へるのだが、あんたには無理かな」

「ええ、それに、あの橋のところが、どうも馴れないので、……あそこの橋のところだけ、一つ負つて行つてもらへませんか」

さきほどから、私はそれがひどく心配でならなかつたのだが、その男はこくりと頷き、二把の薪を背負ふと、とつとと朽木橋を渡つて行つた。

路

私はあの一里半の路を罹災以来、何度ゆききしたことだらう。あの路の景色は、いまもまざまざと眼の前に浮かび、あそこを歩いた時のひだるい気持も、まだ消え失せてはゐない。忍耐といふものがあるとすれば、それが強ひられるものでなく、自然に形づくられるものであるとすれば、ああした経験はたしかに役立つだらう。村から一里半ばかり小川に添つて行くと、海岸に出たところにH町がある。そこには、長兄の仮寓があつた。その家に行けば、ともかく何か喰べさせてもらへるのであつた。

内臓が互に噛みあふぐらゐ飢ゑてゐた私は、ひよろひよろの足どりで村の端まで出て来る。すると、路は三つに岐れ、すぐ向に橋が見える。この辺まで来ると、私の足も漸く馴れ、視野も展がつて来るのだが、そこから川に添つて海の方まで出てゆく路が、実はほんとうに長かつた。

恥かしいことながら、空腹のあまり私はとかく長兄の許へよく出掛けて行くのであつた。だが、そこで腹を拵へたとしても、帰りにはまた一里半の路が控へてゐた。ことに夜など、川に沿つて戻る路が、――それは人生のやうに佗しかつた。橋のところに見える灯を目あてに、いくら歩いて行つても、行つても、灯は彼方に遠ざかつてゆくやうにおもへることがあつた。その橋のところまで辿りつくと、とにかく半分戻つたといふ気持がする。私はH町まで行つて戻るたびに、膝の関節が棒のやうになり、まともに坐ることが出来ないのであつた。

雲

刈入れの済んだ後の田は黒々と横はつてゐたが、夜など遅くまで、その一角で火が燃やされてゐることもあつたし、そこでは、絶えず忙しげに働いてゐる人の姿を見かけるのであつた。

私は二階の縁側に出て、レンズをたよりに太陽の光線で刻みタバコに火を点けようとしてゐた。雲の移動が頻りで、太陽は滅多に顔をあらはさない。いま、濃い雲の底から、太陽の輪郭が見えだしたかとおもふと、向の山の中腹に金色の日向がぽつと浮上つてくるのだが、こちらの縁さきの方はまだぼんやりと曇つてゐる。やがて雲に洗はれた太陽が、くつきりとこちらに光を放ちだしたと思ふのも束の間で、すぐに後からひろがつて来る雲で覆はれてしまふ。私は茫然として、レンズを持てあますのであつた。が、さうした折、よく、ひよつくりと、H町の長兄はここへ姿を現すのであつた。彼は縁側に私と並んで腰を下ろすと、

「一体、どうするつもりなのか」と切りだす。

罹災以来、私と一緒に次兄の許で厄介になつてゐた妹は、既にその頃、他所へ立退いてしまつたが、それと入れ替つて、次兄の息子たちが、学童疎開から戻つて来た。いつまでも私が、ここでぶらぶらしてゐることは、もう許されないのであつた。だが、一たいどうしたらいいのか、私にはまるで雲を掴むやうな気持であつた。

路

降りしきる雪が、山のかなたの空を黒く鎖ざしてゐたが、海の方の空はほの明るかつた。私はその雪に誘はれてか、その雪に追ひまくられてか、とにかく、またいつもの路まで来てゐた。

年が明けても、飢ゑと寒さに変りはなく、たまたま読んだアンデルセンの童話も、凍死しかかる昆虫の話であつた。どこかへ、私も脱出しなければ、もう死の足音が近づいて来るやうな気がした。広島の廃墟をうろつく餓死直前の乞食も眼に泌みついてゐたが、先日この村をとぼとぼと夏シヤツのまま歩いてゐた若い男の姿――その汚れた襯衣や黝ずんだ皮膚は、まだ原子爆弾直後の異臭が泌み着いてゐるかのやうにおもへた。――も忘れられなかつた。新聞に載つた大臣の談話によると、この冬は一千万人の人間が餓死するといふではないか。その一千万人のなかには、私もたしか這入つてゐるに違ひない。

私は降りしきる雪のなかを何か叫びながら歩いてゆくやうな気持だつた。早くこの村を脱出しなければ……。だが、汽車はまだ制限されてゐるし、東京都への転入は既に禁止となつた。それに、この附近の駅では、夜毎、集団強盗が現れて貨物を攫つて行くといふ、――いづこを向いても路は暗くとざされてゐるのであつた。

深井氏

深井氏はよく私に再婚をすすめてゐたが、いよいよ私が村を立去ることに決まると、「切角いい心あたりがあつたのに」と残念がつた。村を出発する日、私は深井氏のところで御馳走になつた。

「去年の二月でしたかしら」

「一月です。ここへ移つて来たのが三月で、恰度もう一年になります」

深井氏はゆつくりと盃をおいた。去年の一月、彼は京城の店を畳んで、広島へ引上げたのだつた。だが広島へ移つてみても、形勢あやふしと観てとつた彼は、更にこの村へ引越したのである。これだけでも、千里眼のやうな的中率であつたが、その上、ここで選んだ家業が製粉業であつた。

「何といつても人の咽喉首を締めつけていらつしやるのですから……」(厭な言葉だが)と、人はよく深井氏のことを評した。

「ええ、暢気な商売でしてね、機械の調子さへ聴いてをれば、後は機械がやつてくれます。それに村のおかみさん連中が、内証で持つて来る小麦がありますし」と、深井氏はたのしさうに笑ふのだつた。だが、深井氏は決してのらくらしてゐるのではなく、裏の畑をせつせと耕してゐる姿がよく見受けられた。係累の多い彼は、いつもそのために奮闘してゐるらしかつた。

私もこの村では深井氏を唯一のたよりとし、何彼と御世話にばかりなつてゐた。どうやらかうやら命が繋げてゆけたのも、一つには深井氏のおかげであつた。

路

うららかな陽光が一杯ふり灑いでゐた。私はその村はづれまで来ると、これでいよいよ、お別れだとおもひながらも、後を振返つては見なかつた。向には橋が見え、H町へ出る小川がつづいてゐる。私はその路を、その時とつとと歩いて行つたのだつた。

東京へ移つて来た私は、その後、たちまち多くの幻滅を味つた。上京さへすれば、と一図に思ひ込んでゐたわけでもないが、私を待伏せてゐた都会は、やはり、飢ゑと業苦の修羅でしかなかつた。

どうかすると、私は、まだあの路を歩いてゐる時の気持が甦つてくる。春さきの峰にほんのりと雲がうつろひ、若草の萌えてゐる丘や畑や清流は、田園交響楽の序章を連想さすのだつた。ここでゆつくり腰を下ろし、こまかに眼を停めて景色を眺めることができたらどんなにいいだらう。だが、私の眼は飢ゑによつて荒んでゐたし、心は脱出のことにのみ奪はれてゐた。それに、あの惨劇の灼きつく想ひが、すぐに風物のなかにも混つて来る。

それから、あの川口へ近づくあたり、松が黒々と茂つてゐて、鉄道の踏切がある。そこへ来かかると、よく列車がやつて来るのに出遭ふ。それは映画のなかに出て来る列車のやうにダイナミツクに感じられることがあつた。いつの日にか、あの汽車に乗つて、ここを立去ることができるのだらう――私は少年のやうにわくわくしたものだ。

広島ゆきの電車は、その汽車の踏切から少し離れたR駅に停る。その駅では、切符切のにやけ男が、いつも「君の気持はよくわかる」と歌つてゐた。それが、私にはやりきれない気持を伝へた。足首のところを絞るやうになつてゐる軍のズボンを穿いてゐる男たちの恰好も、無性に厭だつたが、急に濃厚な化粧をして無知の衣裳をひけらかしてゐる女も私をぞつとさすのだつた。

見捨ててしまへ! こんな郷土は……

私はいつも私に叫んでゐたものだ。

日々の糧に脅かされながら、今も私はほとほとあの田舎の路を憶ひ出すのだ。ひだるい足どりで歩いて歩いて行つた路は、まだはるか私の行手にある。

底本 / Source edition

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「文壇」
1947(昭和22)年8月号
※連作「原爆以後」の1作目。
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/004749_000293/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004749_000293/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004749_000293/

原 民喜「小さな村」(新字旧仮名)、底本『日本の原爆文学1 原民喜』ほるぷ出版、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004749_000293, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite