拝啓

お前――別れて了ったから、もう私がお前と呼び掛ける権利は無い。それのみならず、風の<ruby><rb>音信</rb><rt>たより</rt></ruby>に聞けば、お前はもう<ruby><rb>疾</rb><rt>とっく</rt></ruby>に<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いているらしくもある。もしそうだとすれば、お前はもう取返しの付かぬ人の妻だ。その人にこんな手紙を上げるのは、<ruby><rb>道理</rb><rt>すじみち</rt></ruby>から言っても私が間違っている。けれど、私は、まだお前と呼ばずにはいられない。どうぞ此の手紙だけではお前と呼ばしてくれ。また<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な手紙を送ったと知れたなら大変だ。私はもう<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うでも<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いが、お前が、さぞ迷惑するであろうから申すまでもないが、読んで了ったら、直ぐ焼くなり、何うなりしてくれ。――お前が、私とは、つい眼と鼻との間の同じ小石川区内にいるとは知っているけれど、丁度今頃は何処に何うしているやら少しも分らない。けれども私は斯うして其の後のことをお前に知らせたい。いや聞いて貰いたい。お前の顔を見なくなってから、やがて<ruby><rb>七月</rb><rt>ななつき</rt></ruby>になる。その間には、私には<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことがあった。

一緒にいる時分は、ほんの<ruby><rb>些</rb><rt>ちょい</rt></ruby>とした<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いことでも、<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>しいことでも即座に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちまけて何とか<ruby><rb>彼</rb><rt>かん</rt></ruby>とか言って貰わねば気が済まなかったものだ。またその頃はお前の知っている通り、別段に変ったことさえなければ、国の母や兄とは、近年ほんの<ruby><rb>一月</rb><rt>ひとつき</rt></ruby>に一度か、二月に三度ぐらいしか手紙の<ruby><rb>往復</rb><rt>やりとり</rt></ruby>をしなかったものだが、去年の秋私一人になった当座は殆ど二日置きくらいに母と兄とに交る〲手紙を遣った。

けれども今、此処に打明けようと思うようなことは、母や兄には話されない。誰れにも話すことが出来ない。唯せめてお前にだけは聞いて貰いたい。――私は最後の半歳ほどは正直お前を恨んでいる。けれどもそれまでの私の仕打に就いては随分自分が好くなかった、ということを、十分に自身でも承知している。だから今話すことを聞いてくれたなら、お前の胸も<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>か晴れよう。また私は、お前にそれを心のありったけ話し尽したならば、私の此の胸も<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>くだろうと思う、そうでもしなければ私は本当に気でも<ruby><rb>狂</rb><rt>ふ</rt></ruby>れるかも知れない。出来るならば、手紙でなく、お前に<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に会って話したい。けれどもそれは出来ないことだ。それゆえ斯うして手紙を書いて送る。

お前は大方忘れたろうが、私はよく覚えている。あれは去年の八月の末――二百十日の朝であった。お前は、

「もう話の着いているのに、あなたが、そう何時までも、のんべんぐらりと、ずる〱にしていては、<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>に、私が<ruby><rb>矢張</rb><rt>やっぱ</rt></ruby>しあなたに未練があって、一緒にずる〱になっているように思われるのが辛い。少しは、あなただって人の迷惑ということも考えて下さい。いよいよ別れて了えば私は明日の日から自分で食うことを考えねばならぬ。……それを思えば、あなたは<ruby><rb>独身</rb><rt>ひとりみ</rt></ruby>になれば、何うしようと、足纏いがなくなって結句気楽じゃありませんか。そうしている内にあなたはまた好きな奥さんなり、女なりありますよ。兎に角今日中に何処か下宿へ行って下さい。そうでなければ私が柳町の人達に何とも言いようがないから。」

と言って催促するから、私は探しに行った。

二百十日の蒸暑い風が口の中までジャリ〱するように砂<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ぼこり</rt></ruby>を吹き捲って夏<ruby><rb>劣</rb><rt>ま</rt></ruby>けのした<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>は、唯歩くのさえ怠儀であった。矢来に<ruby><rb>一処</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>あったが、私は、<ruby><rb>主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>を案内に空間を見たけれど、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby><ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な暮しをしようとも、これまで六年も七年も下宿屋の飯は食べないで来ているのに、これからまた<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>の下宿生活に戻るのかと思ったら、私は、其の座敷の、<ruby><rb>夏季</rb><rt>なつ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に裏返したらしい畳のモジャ〱を見て今更に自分の身が浅間しくなった。それで、

「多分<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>から来るかも知れぬから。」

と言って帰りは帰ったが、どう思うても急に<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>へは行きたくなかった。というのは<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ちお前のお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんの住んでいる家――お前の傍を去りたくなかったというのではない。それよりも斯うしていて自然に、心が変って行く日が来るまでは身体を動かすのが怠儀であったのだ。<ruby><rb>加之</rb><rt>それに</rt></ruby><ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>だって差当り入るだけ無いじゃないか。帰って来て、

「どうも可い<ruby><rb>宿</rb><rt>うち</rt></ruby>はない。」というと、

「急にそう思うような宿は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うせ見付からない。松林館に行ったら<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>あるかも知れぬ。<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>ならば知った宿だから可い。今晩一緒に行って見ましょう。」

と言って、二人で聞きに行った。けれども其処には<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>もなかった。其の途中で歩きながら私は最後に本気になって<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>と言って見たけれど、お前は、

「そりゃ、あの時分はあの時分のことだ。……私は先の時分にも四年も貧乏の苦労して、またあなたで七年も貧乏の苦労をした。私も<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>貧乏には本当に飽き〱した。……<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>月給の仕事があったって私は、文学者は嫌い。文学者なんて偉い人は私風情にはもったいない。私も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よもや</span>に<ruby><rb>引</rb><rt>ひか</rt></ruby>されて、今にあなたが良くなるだろう、今に良くなるだろうと思っていても、何時まで経ってもよくならないのだもの。それにあなたぐらい猫の眼のように心の変る人は無い。一生当てにならない……。」

斯う言った。そりゃ私も自分でも、そう偉い人間だとは思っていないけれども、お前に斯う言われて見れば、丁度色の黒い女が、お前は色が黒い、と言って一口にへこまされたような気がした。<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>く以前、

「あなたは<ruby><rb>何彼</rb><rt>なにか</rt></ruby>に就けて私をへこます。」と言い〱した。私は「あゝ済まぬ。」と思いながらも随分言いにくいことを屡〻言ってお前を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こき</span><ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>した。それを能く覚えている私には、あの時お前にそう言われても、何と言い返す言葉もなかった。それのみならず全く私はお前に満六年間、

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>は。」

という想いを唯の一日だってさせなかった。それゆえそうなくってさえ何につけ自信の無い私は、その時から一層自分ほど詰らない人間は無いと思われた。何を考えても、何を見ても、何をしても<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>を飲むような気持もしなかった。……けれども、斯様なことを言うと、お前に何だか<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>を言うように当る。私は此の手紙でお前に愚痴をいうつもりではなかった。愚痴は、もう止そう。

兎に角、あの一緒に私の下宿を探しに行った晩、

「あなたがどうでも家にいれば、今日から私の方で、あなたのいる間、親類へでも何処へでも行っている。……奉公にでも行く。……好い<ruby><rb>縁</rb><rt>くち</rt></ruby>があれば、明日でも<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>かねばならぬ。……同じ歳だって、女の三十四では今の内早く何うかせねば拾ってくれ手が無くなる。」と言うから、

「じゃ今夜だけは家にいて明日からいよ〱そうしたら好いじゃないか。そうしてくれ。」と私が頼むように言うと、

「そうすると、またあなたが因縁を付けるから……厭だ。」

「だって今夜だけ好いじゃないか。」

「じゃあなた、一足<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に帰っていらっしゃい。私柳町に一寸寄って後から行くから。」

私は言うがまゝに、独り<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に戻って、遅くまで待っていたけれど、お前は遂に帰って来なかった。あれッきりお前は私の眼から姿を隠して了ったのだ。

それから九月、十月、十一月と、三月の間、繰返さなくっても、後で聞いて知ってもいるだろうが、私は、お前のお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんに御飯を炊いて貰った。お前も私の癖は好く知っている。お前の洗ってくれた茶碗でなければ、私は立って、わざ〱自分で洗い直しに行ったものだ。分けてもお前のお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんと来たら不精で汚らしい、そのお母さんの炊いた御飯を、私は三月――三月といえば百日だ、私は百日の間辛抱して食っていた。

お前達の方では、これまでの私の性分を好く知り抜いているから、あゝして置けば遂に堪らなくなって出て行くであろう、という<ruby><rb>量見</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>もあったのだろう。が私はまた、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>にも言ったように、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に心が移って行くまで待たなければ、何うする気にもなれなかったのだ。

それは<ruby><rb>老母</rb><rt>としより</rt></ruby>の身体で、朝起きて見れば、遠い井戸から、雨が降ろうが何うしょうが、水も手桶に一杯は汲んで、ちゃんと縁側に置いてあった。顔を洗って座敷に戻れば、机の前に膳も据えてくれ、火鉢に火も入れて貰った。

段々寒くなってからは、お前がした通りに、朝の焚き落しを<ruby><rb>安火</rb><rt>あんか</rt></ruby>に入れて、寝ている裾から<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>と入れてくれた。――私にはお前の居先きは判らぬ。またお母さんに聞いたって金輪際それを明す訳はないと思っているから、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>からも聞こうともしなかったけれど、お母さんがお前の処に<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいちょい</rt></ruby>会いに行っているくらいは分っていた。それゆえ安火を入れるのだけは、「あの人は寒がり性だから、朝寝起きに安火を入れてあげておくれ。」とでもお前から言ったのだろうと思った。

それでも何うも夜も<ruby><rb>落々</rb><rt>おちおち</rt></ruby>眠られないし、朝だって<ruby><rb>習慣</rb><rt>くせ</rt></ruby>になっていることが、がらりと様子が変って来たから寝覚めが好くない。以前<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>くお前に話し〱したことだが、朝<ruby><rb>熟</rb><rt>よ</rt></ruby>く寝入っていて知らぬ間に<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>と音の立たぬように新聞を胸の上に載せて貰って、その何とも言えない朝らしい新らしい匂いで、何時とはなく眼の覚めた日ほど心持の好いことはない。まだ幼い時分に、母が目覚しを<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に置いていて、「これッこれッ。」と呼び覚していたと同じような気がしていた。それが<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>、まさか新聞まで寝入っている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に持って来て下さい、とは言われないし、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>そうして貰ったからとて、お前にして貰ったように、<ruby><rb>甘</rb><rt>うま</rt></ruby>くしっくりと行かないと思ったから頼みもしなかった。が、時々<ruby><rb>斯様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを思って一つそうして貰って見ようかなどと寝床の中で考えては、ハッと私は何という馬鹿だろうと思って独りでに可笑くなって笑ったこともあったよ。

で、新聞だけは自分で起きて取って来て、また寝ながら見たが、そうしたのでは唯字が眼に入るだけで、もう面白くも何ともありゃしない。……本当に新聞さえ沢山取っているばかりで碌々読む気はしなかった。

それに、あの不愛想な人のことだから、何一つ私と世間話をしようじゃなし。――尤も新聞も面白くないくらいだから、そんなら誰れと世間話をしようという興も湧かなかったが――米だって悪い米だ。私はその、朝無闇に早く炊いて、私の起きる頃には、もう可い加減冷めてポロ〱になった御飯に茶をかけて流し込むようにして<ruby><rb>朝飯</rb><rt>あさめし</rt></ruby>を済ました。――間食をしない私が、<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なに三度の食事を楽みにしていたか、お前がよく知っている。そうして独りでつくねんとして御飯を食べているのだと思って来るとむら〱と<ruby><rb>逆上</rb><rt>こみあ</rt></ruby>げて来て果ては、膳も茶碗も霞んで了う。

寝床だって<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>は起きたまゝで放って置く。床を畳む元気もないじゃないか。枕当の汚れたのだって、私が一々口を利いて何とかせねばならぬ。

秋になってから<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>雨が降り続いた。あの古い家のことだから<ruby><rb>二所</rb><rt>ふたところ</rt></ruby>も三所も雨が漏って、其処ら中にバケツや<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>を並べる。家賃はそれでも、十日ぐらい遅れることがあっても払ったが、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>直してくれと言って催促してもなか〱職人を寄越さない。寒いから障子を入れようと思えば、どれも破れている。それでも入れようと思って<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>にして見たが、建て付けが悪くなって<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>れ一つ満足なのが無い。

私はもう「えゝ何うなりとなれ！」と、パタリ〱<ruby><rb>雨滴</rb><rt>あまだれ</rt></ruby>の落ちる音を聞きながら、障子もしめない座敷に<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>として、何を為ようでもなく、何を考えようでもなく、四時間も五時間も唯<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>となって坐ったなり日を暮すことがあった。

<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>であったか寝床を出て鉢前の処の雨戸を繰ると、あの<ruby><rb>真正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に北を受けた縁側に落葉交りの雨が顔をも出されないほど吹付けている。それでも私は寝巻の濡れるのをも忘れて、其処に立ったまゝ<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>の方を眺めると、雨の中に遠くに久世山の高台が見える。そこらは私には何時までも忘れることの出来ぬ処だ。それから左の方に<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の樹が高く見える。それがつい<ruby><rb>四五日</rb><rt>しごんち</rt></ruby>気の付かなかった間に黄色い葉が見違えるばかりにまばらに痩せている。私達はその下にも住んでいたことがあったのだ。

そんなことを思っては、私は方々、<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく歩き廻った。天気が好ければよくって<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>に出るし、雨が降れば降って<ruby><rb>家内</rb><rt>うち</rt></ruby>にじっとしていられないで出て歩いた。破れた傘を<ruby><rb>翳</rb><rt>さ</rt></ruby>して出歩いた。

そうしてお前と一緒に借りていた家は、古いのから古いのから見て廻った。けれども<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の家の前に立って見たって、<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な知らぬ人が住んでいる。中には取払われて、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の跡形もない家もあった。

でも九月中ぐらいは、若しかお前のいる気配はせぬかと雨が降っていれば、傘で姿が隠せるから、雨の降る日を待って、柳町の家の前を行ったり来たりして見た。

<ruby><rb>家内</rb><rt>うち</rt></ruby>にいる時は、もう<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>なんか読む気にはなれない。大抵猫と遊んでいた。あの猫が面白い猫で、あれと<ruby><rb>追駈</rb><rt>おっかけ</rt></ruby>ッこをして見たり、樹に逐い登らして、それを竿でつゝいたり、弱った<ruby><rb>秋蝉</rb><rt>ひぐらし</rt></ruby>を捕ってやったり、ほうせん花の<ruby><rb>実</rb><rt>みの</rt></ruby>って<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>けるのを自分でも面白くって、むしって見たり、それを<ruby><rb>打</rb><rt>ぶっ</rt></ruby>つけて<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させて見たり、そんなことばかりしていた。処がその猫も、一度二日も続いて土砂降りのした前の晩、<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>との<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に何処へ行ったか、いなくなって了った。お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんと二人で<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>探して見たが遂に分らなかった。

そんな寂しい思いをしているからって、これが他の事と違って<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に話の出来ることじゃなし、また誰れにも話したくなかった。唯独りの心に閉じ籠って思い耽っていた。けれどもあの矢来の婆さんの家へは<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>行っていた。後には「また想い遣りですか。……あなたが、あんまりお雪さんを<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>めたから。……またあなたもみっちりお<ruby><rb>働</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎなさい。そうしたらお雪さんが、此度は向から頭を下げて<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>って来るから。……」などと言って笑いながら話すこともあったが、あの<ruby><rb>婆</rb><rt>ひと</rt></ruby>は、丁度お前のお母さんと違って口の上手な人でもあるし、また若い時から随分種々な目にも会っている女だから、

「本当にお雪さんの気の強いのにも呆れる。……私だって、あゝして四十年連れ添うた<ruby><rb>老爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さまと別れは別れたが、あゝ今頃は何うしているだろうかと思って時々呼び寄せては、私が状袋を張ったお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>で好きな酒の一口も飲まして、小遣いを遣って帰すんです。……私には<ruby><rb>到底</rb><rt>とても</rt></ruby>お雪さんの真似は出来ない。……思い切りの好い<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>だ。それを思うと雪岡さん、私はあなたがお気の毒になりますよ……」

と言って、襦袢の袖口で眼を拭いてくれるから、私のことと婆さんのこととは<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>が<ruby><rb>全然</rb><rt>すっかり</rt></ruby>違っているとは知っていながら、

「ナニお雪の奴、そんな人間であるもんですか。……それに<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うも<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いているらしい。屹度それに違いない。」と言うと、婆さんは此度は思わせ振りに笑いながら、

「へ……奴なんて、まあ大層お雪さんが憎いと思われますね。まさか<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことはないでしょう。……私には分らないが、……お雪さんだって、あれであなたの事は色々と思っているんですよ……。あの<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>の押入れに預かってある茶碗なんか御覧なさいな。壊れないように丹念に一つ一つ紙で包んで仕舞ってある。矢張しまたあなたと所帯を持つ下心があるからだ。……あんなに細かいことまでしゃん〱とよく気の利く人はありませんよ。」と、斯う言い〱した。

私は、私とお前との間は、私とお前とが誰れよりもよく知っていると知っていたから婆さんがそんなことを言ったって決して本当にはしやしない。随分度々、お前には引越の手数を掛けたものだが、その度毎に、茶碗だって何だって丁寧に始末をしたのは、私も知っている――尤も<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になっては、段々お前も、「もう茶碗なんか、丁寧に包まない。」と言い出した。それも私はよく知っている。また其れがいよ〱別れねばならぬことになって、一層丁寧に、私の<ruby><rb>所帯道具</rb><rt>もちもの</rt></ruby>の始末をしてくれたのも知っている。

それでいて、私は柳町の人達よりも一層深い<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>を知らぬ婆さんが、そう言ってくれるのを自分でも気安めだ、と承知しながら、聞いているのが何よりも楽みであった。私は<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>にでも行くようなつもりで、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>か買って<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に入れては婆さんの六十何年の人情の節を付けた調子で「お雪さんだって、あれであなたのことは思っているんですよ。」を聞きに行った。

そうしながら心は<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>に迷うた。何うせ他へ行かねばならぬのだから家を持とうかと思って探しにも行った。出歩きながら眼に着く<ruby><rb>貸家</rb><rt>うち</rt></ruby>には入っても見た。が、婆さんを置くにしても、<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>を置くにしても私の性分として矢張し自分の心を使わねばならぬ。それに敷金なんかは出来ようがない。少し纏まった<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>の取れる書き物なんかする気には何うしてもなれない。それなら何うしようというのではないが、唯何にでも<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こころ</rt></ruby>が<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られ易くなっているから、道を歩きながら、フト眼に留った見知らぬ女があると、<ruby><rb>浮々</rb><rt>うかうか</rt></ruby>と何処までも其の後を追うても見た。

長く男一人でいれば、<ruby><rb>女性</rb><rt>おんな</rt></ruby>も欲しくなるから、矢張し遊びにも行った。そうかと言って銭が無いのだから、好くって面白い処には行けない。それゆえ銭の入らない珍らしい処を珍らしい処をと漁って歩いた。なろうならば、<ruby><rb>何</rb><rt>なんに</rt></ruby>もしたくないのだから、家賃とか米代とか、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんに<ruby><rb>酷</rb><rt>きび</rt></ruby>しく言われるものは、<ruby><rb>拠</rb><rt>よんどころ</rt></ruby>なく書き物をして五円、八円取って来たが、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な処へ遊びに行く銭は、「あゝ行きたい。」と思えば段々段々と大切にしている<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>を<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見たり、<ruby><rb>捻</rb><rt>ひねく</rt></ruby>って見たりして、「あゝこれを売ろうか遊びに行こうか。」と思案をし尽して、<ruby><rb>最後</rb><rt>しまい</rt></ruby>にはさて何うしても売って遊びに行った。矢来の婆さんの処にも度々古本屋を連れ込んだ。そうすれば、でも二三日は少しは心が落着いた。

その時分のことだろう。居先きは明さないが、一度お前が後始末の用ながらに婆さんの処へ寄って、私の本箱を明けて見たり、<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を引出して見たりして、

「まあ本当に本も大方売って了っている。あの人は<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで、あゝなんだろう。」と言って、それから私の夜具を戸棚から取出して、<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>を払って、縁側の日の当る処に乾して、婆さんに晩に取入れてくれるように頼んで行ったことをも聞いた。

まあそういうようにして、ちょび〱書籍を売っては、<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>を拵えて遊びにも行った。けれども、それでも矢張し物足りなくって、私の足は<ruby><rb>一処</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>にとまらなかった。唯女を買っただけでは気の済む訳がないのだ。私には一人楽みが出来なければ寂しいのも<ruby><rb>間切</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れない。

処がそうしている内に、<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>一人の女に<ruby><rb>出会</rb><rt>でっくわ</rt></ruby>した。

それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といえばお前には判断出来よう。一口に芸者でないと言ったって――笑っては可けない。――そう馬鹿には出来ないよ。遊びようによっては随分銭も掛かる。<ruby><rb>加之</rb><rt>それに</rt></ruby>女だって銘々<ruby><rb>性格</rb><rt>たち</rt></ruby>があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。

その時は、<ruby><rb>多少</rb><rt>いくらか</rt></ruby>纏まった銭が骨折れずに入った時であったから、何時もちょび〱本を売っては<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>な処ばかしを<ruby><rb>彷徨</rb><rt>うろつ</rt></ruby>いていたが、今日は少し気楽な贅沢が為て見たくなって、一度<ruby><rb>長田</rb><rt>おさだ</rt></ruby>の友達というので行った待合に行って、その時知った<ruby><rb>女</rb><rt>の</rt></ruby>を呼んだ。そうするとそれがいなくって、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>な<ruby><rb>女</rb><rt>の</rt></ruby>が来た。それが初め入って来て挨拶をした時にちらと見たのでは、それほどとも思わなかったが、別の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に入ってからよく見ると<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>と男好きのする女だ。――お前が知っている通り私はよく<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>なことに気が付いて困るんだが、――脱いだ着物を、一寸触って見ると、着物も、羽織も、ゴリ〱するような好いお召の新らしいのを着ている。此の社会のことには私も大抵目が利いているから、それを見て直ぐ「<ruby><rb>此女</rb><rt>これ</rt></ruby>は、なか〱売れる女だな。」と思った。

よく似合った極くハイカラな束髪に結って小肥な、色の白い、<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>の細かい、それでいて<ruby><rb>血気</rb><rt>ちのけ</rt></ruby>のある女で、――これは段々<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になって分ったことだが、――気分もよく変ったが、顔が<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>変る女だった。――心もち<ruby><rb>平面</rb><rt>ひらおもて</rt></ruby>の、鼻が少し低いが私の好きな口の小さい――尤も笑うと少し崩れるが、――眼も<ruby><rb>平常</rb><rt>いつも</rt></ruby>はそう好くなかった。でもそう馬鹿に濃くなくって、柔か味のある眉毛の恰好から額にかけて、何処か気高いような処があって、泣くか何うかして憂いに沈んだ時に<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいちょい</rt></ruby>品の好い顔をして見せた。そんな時には顔が小く見えて、眼もしおらしい眼になった。後には<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことから自暴酒を飲んだらしかったが、酒を飲むと溜らない大きな顔になって、三つ四つも<ruby><rb>古</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて見えた。私も「どうして斯様な女が、そう好いのだろう？」と少し自分でも不思議になって、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>には浅間しく思うことさえもあった。<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も、厚味のある、幅の狭い、そう大きくなくって、私とはつりあいが取れていた。

で、その女をよく見ると、「あゝ斯ういう女がいたか。」と思った。それが、その女が私の気に染み付いたそも〱だった。そうすると、私の心は<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>今までと違って何となく、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>あしくなった。

<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と女の指――その指がまた可愛い指であった、指輪も好いのをはめていた――を握ったり、もんだりしながら、

「君は大変綺麗な手をしているねえ。そうして斯う見た処、こんな社会に身を落すような人柄でもなさそうだ。それには何れ<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>もあるのだろうが出来ることなら、少しも早く斯様な商売は止して堅気になった方が好いよ。君は何となしまだ此の社会の<ruby><rb>灰汁</rb><rt>あく</rt></ruby>が骨まで浸込んでいないようだ。惜しいものだ。」

人間というものは勝手なものだ。斯様な境涯に身を置く人に同情があるならば、私は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の女に向っても、同じことを言う<ruby><rb>理由</rb><rt>はず</rt></ruby>だが、私は其の女にだけそれを言った。そう言うと、女は指を私に任せながら、黙って聞いていた。

「名は何というの？」

「宮。」

「それが本当の名？」

「えゝ本当は下田しまというんですけれど、此処では宮と言っているんです。」

「宮とは可愛い名だね、え。……お宮さん。」

「えッ。」

「私はお前が気に入ったよ。」

「そうオ……あなたは何をなさる方？」

「さあ何をする人間のように思われるかね。言い当てゝ御覧。」

そういうと、女は、しお〱した眼で、まじ〱と私の顔を見ながら、

「そう……学生じゃなし、商人じゃなし、会社員じゃなし、……判りませんわ。」

「そう……判らないだろう。まあ何かする人だろう。」

「でも気になるわ。」

「そう気にしなくっても心配ない。これでも悪いことをする人間じゃないから。」

「そうじゃないけれど……本当言って御覧なさい。」

「これでも学者見たようなものだ。」

「学者！　……何学者？　……私、学者は好き。」

本当に学者が好きらしゅう聞くから、

「そうか。お宮さん学者が好きか。此の土地にゃ、お客の好みに叶うように、頭だけ束髪の<ruby><rb>外見</rb><rt>みかけ</rt></ruby>だけのハイカラが多いんだが、お宮さんは、じゃ何処か学校にでも行っていたことでもあるの？」

学生とか、ハイカラ女を好む客などに対しては、その客の気風を察した上で、女学生上りを看板にするのが多い。――それも商売をしていれば無理の無いことだ。――その女も果して女学校に行って居ったか、何うかは遂には分らなかったが所謂学者が好きということは、後になるに従って本当になって来た。

斯う言って<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>の意に投ずるように聞くと、

「本郷の××女学校に二年まで行っていましたけれど、都合があって<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>したんです。」と言うから、じゃ何うして<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処に来ている……と訊いたら、斯うしてお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんを養っていると言う。お母さんは何処にいるんだ？　と聞くと、下谷にいて、<ruby><rb>他家</rb><rt>よそ</rt></ruby>の間を借りて、<ruby><rb>裁縫</rb><rt>しごと</rt></ruby>をしているんです、と言う。

私は、<ruby><rb>全然</rb><rt>まるまる</rt></ruby>直ぐそれを本当とは思わなかったけれど、女の口に乗って、紙屋治兵衛の小春の「私一人を頼みの<ruby><rb>母様</rb><rt>ははさま</rt></ruby>。<ruby><rb>南辺</rb><rt>みなみへん</rt></ruby>の賃仕事して裏家住み……」という文句を思い起して、お宮の母親のことを本当と思いたかった。……<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>、或は本当と思込んだのかも知れぬ。

お前が斯様なことをしてお母さんを養わなくってもほかに養う人はないのか？　と訊くと、姉が一人あるんですけれど、それは深川のある会社に勤める人に<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いていて<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>に人数が多いから、お母さんは私が養わなければならぬ、としおらしく言う。

「そうか。……じゃ宮という名は、小説で名高い名だが、宮ちゃん、君は小説のお宮を知っているかね？」

「えゝ、あの貫一のお宮でしょう？　知っています。」

「そうか。まあ<ruby><rb>彼様</rb><rt>あん</rt></ruby>なものを読む学者だ。私は。」

「じゃあなたは文学者？　小説家？」

「まあ其処等あたりと思っていれば可い。」

「私もそうかと思っていましたわ。……私、文学者とか法学者だとか、そんな人が好き。あなたの名は何というんです？」

「雪岡というんだ。」

「雪岡さん。」と、独り飲込むように言っていた。

「宮ちゃん、年は<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>？」

「十九。」

十九にしては、まだ二つ三つも若く見えるような、派手な薄<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>色の、シッポウ形の友禅縮緬と水色繻子の狭い腹合せ帯を其処に解き棄てていたのが、未だに、私は眼に残っている。

<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>そんな話をしていた。

それから抱占めた手を、長いこと緩めなかった。痙攣が驚くばかりに何時までも続いていた。私はその時は、本当に嬉しくって、腹の中で笑い〱<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>として、先方に自分の全身を任していた。<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と私を許してから三四分間経って此度は俯伏しになって、<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>と<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の枕の上に、顔を以て来て載せて、半ば夢中のようになって、苦しい<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をしていた。私は、そうしている束髪の何とも言えない、<ruby><rb>後部</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の、少し潰れたような黒々とした形を引入れられるように見入っていた。

そうして長襦袢と肌襦袢との襟が小さい頸の形に円く二つ重なっている処が堪らなくなて、そっと指先で突く真似をして、

「おい何うかしたの？　……何処か悪いの？」と言って、掌で<ruby><rb>背</rb><rt>せなか</rt></ruby>をサアッ〱と撫でてやった。

すると、女は、

「いえ。」と、軽く<ruby><rb>頭振</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>って、口を圧されたような疲れた声を出して、「極りが悪いから……」と潰したように言い足した。そうして二分間ほどして<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こころ</rt></ruby>の脱けたものゝように、小震いをさせながら、<ruby><rb>揺々</rb><rt>ゆらゆら</rt></ruby>と、半分眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>った顔を上げて、それを此方に向けて、頬を擦り付けるようにして、<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の口の近くまで自分の口を、自然に寄せて来た。そうして<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た枕に顔を斜に伏せた。

私は、<ruby><rb>最初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>から斯様な嬉しい目に逢ったのは、生れて初めてであった。

水の中を泳いでいる魚ではあるが、私は急に、そのまゝにして置くのが惜しいような気がして来て、

「宮ちゃん。君には、もう好い<ruby><rb>情人</rb><rt>ひと</rt></ruby>が<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくたり</rt></ruby>もあるんだろう。」と言って見た。

すると、お宮は、眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>った顔を口元だけ<ruby><rb>微笑</rb><rt>え</rt></ruby>みながら、

「そんなに<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の性格なんか直ぐ分るもんですか。」甘えるように言った。私は性格という言葉を使ったのに、また少し興を催して、

「性格！　……性格なんて、君は面白い言葉を知っているねえ。」と世辞を言った。――兎に角漢語をよく用いる女だった。

そうして私は、唯柔かい可愛らしい<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>になって、蒲団を畳む手伝いまでしてやった。

他の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に戻ってから、

「また来るよ。君の家は何という家？」

「家は沢村といえば分ります。……あゝ、それから電話もあります。電話は浪花のね三四の十二でしょう。それに五つ多くなって、三四十七、三千四百十七番と覚えていれば好いんです。」と立ちながら言って疲れて、<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>辺</rb><rt>ところ</rt></ruby>を蒼くして帰って行った。

私は、何だか俄かに枯木に芽が吹いて来たような心持がし出して、――忘れもせぬ十一月の七日の雨のバラ〱と降っていた晩であったが、私も一足後から<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>を出て番傘を下げながら――不思議なものだ、その時ふと傘の破れているのが、気になったよ。<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な屋台店の<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>も並んでいる人形町の通りに出た。<ruby><rb>湿</rb><rt>しっ</rt></ruby>とりとした小春らしい夜であったが、私は<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>にふい〱口浄瑠璃を唸りたいような気になって、すしを摘もうか、やきとりにしようか、と考えながら頭で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を分けて露店の前に立った。

その<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>が入ったら――例の箱根から<ruby><rb>酷</rb><rt>きび</rt></ruby>しくも言って来るし、自分でも是非そのまゝにしている荷物を取って来たり、勘定の仕残りだのして二三日遊んで来ようと思っていたのだが、私はもう箱根に行くのは厭になった。で、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>考えて見て箱根へは為替で銭を送ることにして、明日の晩早くからまた行った。そうして此度は泊った。――斯ういう処へ来て泊るなんということは、お前がよく知っている、私には殆ど無いと言って可い。

続けて行ったものだから、お宮は、入って来て私と見ると、「さては……」とでも思ったか「いらッしゃい。」と離れた処で尋常に挨拶をして、此度上げた顔を見ると嬉しさを、キュッと<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>をさした脣で小さく食い締めて、誰れが来ているのか、といったような風に空とぼけて、眼を遠くの壁に遣りながら、少し、頸を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>にして、黙っていた。その顔は今に忘れることが出来ない。好い色に白い、意地の強そうな顔であった。<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>頃の女の意地の強そうな顔だから、私には唯美しいと見えた。

私は可笑くなって<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>も暫く黙っていた。けれども、私はそんなにして黙っているのが嫌いだから、

「そんな風をしないでもっと<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>においで。」と言った。

待っている間、机の上に置いてあった硯箱を明けて、巻紙に<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>ら書きをしていた処であったから机の<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>に来ると、

「宮ちゃん、之れに字を書いて御覧。」

「えゝ書きます。何を？」

「何とでも可いから。」

「何かあなたそう言って下さい。」

「私が言わないったって、君が考えて何か書いたら可いだろう。」

「でもあなた言って下さい。」

「じゃ宮とでも何とでも。」

「……私書けない。」

「書けないことはなかろう、書いてごらん。」

「あなた神経質ねえ。私そんな神経質の人嫌い！」

「…………。」

「分っているから、……あなたのお考えは。あなた私に字を書かして見て何うするつもりか、ちゃんと分っているわ。ですから、後で手紙を上げますよ。あゝ私あなたに済まないことをしたの。名刺を貰ったのを、つい無くして了った。けれど<ruby><rb>住所</rb><rt>ところ</rt></ruby>はちゃんと憶えています。……××区××町××番地雪岡京太郎というんでしょう。」

<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>なことを言った。私に字を書かして見て何うするつもりかあなたの心は分っています、なんて<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼれ</rt></ruby>も強い女だった。

その晩、<ruby><rb>待合</rb><rt>うち</rt></ruby>の湯に入った。「お前、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>入っておいで。」と言って置いて可い加減な時分に後から行った。緋縮緬の長い蹴出しであった。

尚お他の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に行ってから、

「宮ちゃん、お前斯ういう処へ来る前に何処か<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いていたことでもあるの？」

と、具合よく聞いて見た。

「えゝ、一度行っていたことがあるの。」と問いに応ずるように返事をした。

日毎、夜毎に<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な男に会う女と知りながら、また何れ前世のあることとは察していながら、私は自分で勝手に尋ねて置いて、それに就いてした返事を聞いて少し<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましくなって来た。

「何ういう人の処へ行っていたの？」

「大学生の処へ行っていたの。……卒業前の法科大学生の処へ行っていたんです。」

私は腹の中で、「へッ！　<ruby><rb>甘</rb><rt>うま</rt></ruby>いことを言っている。成程本郷の女学校に行っていた、というから、もしそうだとすれば、何うせ<ruby><rb>野合者</rb><rt>くっつきもの</rt></ruby>だ。そうでなければ<ruby><rb>生計</rb><rt>くら</rt></ruby>しかねて、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>相談での内職か。」と思ったが、何処かそう思わせない品の高い処もある。

「へえ。大学生！　大学生とは好い人の処へ行っていたものだねえ。どういうような<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>から、それがまた斯様な処へ来るようになったの？」

「行って見たら他に細君があったの。」

「他に細君があった！　それはまた<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い処へ行ったものだねえ。欺されたの？」大学生には、なか〱女たらしがいる、また女の方で随分たらされもするから、私は、或は本当かとも思った。

「えゝ。」と問うように返事をした。

「だって、<ruby><rb>公然</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>、仲に立って世話でもする人はなかったの？　お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんが付いて居ながら、大事な娘の身で、そんな、もう細君のある男の処へ行くなんて。」

「そりゃ、その時は口を利く人はあったの。ですけれど<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>がお母さんと二人きりだったから甘く<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>なに欺されたの。」

私は、女が口から出任せに譃八百を言っていると思いながら、聞いていれば、聞いているほど、段々<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>の言うことが<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>のようにも思われて来た。そうして憐れな女、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の為に、話の大学生が憎いような、また羨ましいような気がした。

「ひどい大学生だねえ。お母さんが――さぞ腹を立てたろう。」

「そりゃ怒りましたさ。」

「無理もない、ねえ。……が一体<ruby><rb>如何</rb><rt>どん</rt></ruby>な人間だった？　本当の名を言って御覧。」

女は枕に顔を伏せながら、それには答えず、「はあ……」と、さも術なそうな深い<ruby><rb>太息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をして、「だから、私、男はもう厭！」<ruby><rb>傍</rb><rt>あたり</rt></ruby>を構わず思い入ったように言った。「私もその人は好きであったし、その人も私が好きであったんですけれど、細君があるから、何うすることも出来ないの。……<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい、それは深切な人なんですけれど、男というものは、ああ見えても皆な道楽をするものですかねえ。……下宿屋の娘か何かと<ruby><rb>夫婦</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>になって、それにもう児があるんですもの。」

「フム。……じゃ別れる時には二人とも泣いたろう。」

「えゝ、そりゃ泣いたわ。」女は悲しい甘い涙を憶い起したような少し浮いた声を出した。

「自分でも私はお前の方が好いんだけれど、一時の無分別から、もう児まで出来ているから、何うすることも出来ない、と言って男泣きに泣いて、私の手を取って散々あやまるんですもの。――その女の方で何処までも付いていて離れないんでしょう――私の方だって、ですから怒ろうたって怒られやしない。気の毒で可哀そうになったわ。――でも細君があると知れてから、随分<ruby><rb>捫</rb><rt>も</rt></ruby>んで<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めてやった。」

人を傍に置いていて、そう言って独りで忘れられない、楽しい<ruby><rb>追憶</rb><rt>おもいで</rt></ruby>に耽っているようであった。私は<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と聞いていて、馬鹿にされているような気がしたが、自分もその大学生のように想われて、そうして苛められるだけ、苛められて見たくなった。

その男は高等官になって、名古屋に行っていると言った。江馬と言って段々遠慮がなくなるにつれて、何につけ「江馬さん〱。」と言っていた。

それのみならず、大学生に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>があるとか、あったとかいうのが此の女の誇で、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になっても<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>く「角帽姿はまた好いんだもの。」と口に水の溜まるような調子で言い〱した。

すると、お宮は<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>して、フッと顔を<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>に向けて、

「あなた、本当に<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>は無いの？」

「あゝ」

「本当に無いの？」

「本当に無いんだよ。」

「男というものは<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に可笑いよ。細君があれば、あると言って了ったら好さそうなものに此方で、『あなた、奥様があって？』と聞くと、大抵の人があっても無いというよ。」

「じゃ私も有っても無いと言っているように思われるかい？」

「何うだか分らない。」人の顔を探るように見て言った。

「僕、本当はねえ、あったんだけれど、今は無いの。」

「そうら……本当に？」女はにや〱笑いながら、油断なく私の顔を<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>った。

「本当だとも。有ったんだけれど、別れたのさ。……薄情に別れられたのさ。……一人で気楽だよ。……同情してくれ給え！　<ruby><rb>衣類</rb><rt>きもの</rt></ruby>だって、あれ、あの通り綻びだらけじゃないか。」

「それで今、その<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>は何うしているの？」お宮の<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>が冴えて、<ruby><rb>両頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>に少し熱を<ruby><rb>潮</rb><rt>さ</rt></ruby>して来た。

「さあ、別れたッきり、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいるか何うしているか、行先なんか知らないさ。」

「本当に？　……何時別れたんです？　……ちゃんと分るように仰しゃい！　法学者の処にいたから、曖昧な事を言うと、すぐ弱点を抑えるから。……何うして別れたんです？」気味悪そうに聞いた。

「<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>一緒にいられない<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があって別れたんだが、<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>半歳も前の事さ。」

「へッ、今だってあなたその<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>に会っているんでしょう。」<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>るように疑って言った。

「馬鹿な。別れた細君に何処に会う奴があるものかね。」

「そう……でも其の女のことは矢張し思っているでしょう。」

「そりゃ、何年か連添うた女房だもの、少しは思いもするさ。斯うしていても忘れられないこともある。けれども最早いくら思ったって仕様がないじゃないか。宮ちゃんの、その人のことだって<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じことだ。」

「……私、あなたの<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>に遊びに行くわ。」

本当に遊びに来て貰いたかった。けれども今来られては都合が悪い。

「あゝ、遊びにお出で。……けれども今は一寸家の都合が悪いから、その内私家を変ろうと思っているから、そうしたら是非来ておくれ。」

私は、その時初めて、お前のお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんの家を出ようという気が起った。<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に心の移る日を待っていたらお宮を遊びに来さす為には早く他へ行きたくもなった。

そう言うと、お宮はまた少し<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>そうに、

「都合が悪い！　……へッ、矢張し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あるん</span>だ。」と<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>んだ。

「ある<ruby><rb>処</rb><rt>どころ</rt></ruby>かね。あれば仕合せなんだが。」

「じゃ遊びに行く。」

「…………」

「奥様がなくって、じゃあなた<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な処にいるの？」

「年取った婆さんに御飯を炊いて貰って二人でいるんだから面白くもないじゃないか。宮ちゃんに遊びに来て貰いたいのは山々だけれど、その婆さんは私が細君と別れた時分のことから、知っているんだから、少しは私も年寄りの手前を慎まなければならぬのに、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>半歳経つと言ったって、宮ちゃんのような綺麗な若い女に訪ねて来られると、一寸具合が悪いからねえ。屹度変るから変ったらお出で。」

すると、「宮ちゃん〱」と、女中の<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>がして、階段の方で<ruby><rb>急</rb><rt>いそが</rt></ruby>しそうに呼んでいる。

二人は少しはっとなった。

「何うしたんだろう？」

「何うしたんだろう？　……」二三秒して、「えッ？」と女中に聞えるように言った。「<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>行って見て来る。」

お宮は、そのまゝ出て行った。

四五分間して戻って来た。「此の頃、警察がやかましいんですって。<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>に変な者が、ウロ〱しているようだから何時遣って来るかも知れないから、若し来たら階下から『宮ちゃん〱。』ッて声をかけるから、そうしたら<ruby><rb>脱衣</rb><rt>きもの</rt></ruby>を抱えて直ぐ降りてお出でッて。……ちゃんと隠れる処が出来ているの。……今<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を点して見せて貰ったら、ずうっと奥の方の<ruby><rb>物置室</rb><rt>ものおき</rt></ruby>の座板の下に畳を敷いて座敷があるの……」

そう言って大して驚いてる<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えぬ。また私も驚きもしなかった。

やがて廊下を隔てた隣の間でも、ドシ〱と男の足音がしたり、静かな話声がしたり、<ruby><rb>衣擦</rb><rt>きぬず</rt></ruby>れの音がしたりして段々客があるらしい。

<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に帰れば猫の子もいない座敷を、<ruby><rb>手索</rb><rt>てさぐ</rt></ruby>りにマッチを擦って、汚れ放題汚れた煎餅蒲団に一人柏葉餅のようになって寝ねばならぬのに斯うして電灯のついた<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に、湯上りに差向いで何か食って、しかも、女を相手にして寝るのだから、私はもう一生<ruby><rb>待合</rb><rt>ここ</rt></ruby>で斯うして暮したくなった。

「…………。」私は何か言った。

廊下の足音が<ruby><rb>偶</rb><rt>たま</rt></ruby>に枕に響いた。

「……誰れか来やしないか。……<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>お待ちなさい。……そら誰れか其処にいるよ……」手真似で制した。警察のやかましいぐらい平気でいるかと思ったら、また存外神経質で<ruby><rb>処女</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>のように臆病な<ruby><rb>性質</rb><rt>ところ</rt></ruby>もあった。

夜が更ければ、更けるほど、朝になればなっても不思議に寝顔の美しい女であった。

きぬ〲の別れ、という言葉は、想い出されないほど前から聞いて知ってはいたが元来<ruby><rb>堅仁</rb><rt>かたじん</rt></ruby>の私は恥ずべきことか、それとも恥とすべからざることか、それが果して、何ういう心持のするものか、此歳になるまで、自分ではついぞ覚えがなかったが、その朝は生れて初めて成程これが「朝の別れ」というものかと懐かしいような残り惜しいような想いがした。

女が「じゃ切りがないから、もう帰りますよ。」と言って帰って行った後で、女中の持って来た桜湯に<ruby><rb>涸</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた咽喉を<ruby><rb>湿</rb><rt>うるお</rt></ruby>して、十時を過ぎて、<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>を出た。

<ruby><rb>午前</rb><rt>ひるまえ</rt></ruby>の<ruby><rb>市街</rb><rt>まち</rt></ruby>は騒々しい電車や忙がしそうな<ruby><rb>人力車</rb><rt>くるま</rt></ruby>や大勢の人間や、眼の廻るように動いていた。

十一月<ruby><rb>初旬</rb><rt>はじめ</rt></ruby>の日は、好く晴れていても、弱く、静かに暖かであったが、私には、それでもまだ光線が稍強過ぎるようで、脊筋に何とも言いようのない好い心地の<ruby><rb>怠</rb><rt>だる</rt></ruby>さを覚えて、少しは<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>の処々に冷たい感じをしながら、何という<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく、唯、も少し永く此の心持を続けていたいような気がして<ruby><rb>浮々</rb><rt>うかうか</rt></ruby>と来合せた電車に乗って遊びに行きつけた新聞社に行って見た。

<ruby><rb>長田</rb><rt>おさだ</rt></ruby>は<ruby><rb>旅行</rb><rt>たび</rt></ruby>に出ていなかったが、上田や村田と一しきり話をして、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に戻った。お宮が<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>あなたの処へ遊びに行くと言った。それには自家を変らねばならぬ。変るには<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>が入る。何うして銭を拵えようかと、そんなことを考えながら戻った。

それから二三日して長田の<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>に遊びに行くと、長田が――よく子供が歯を出してイーということをする、丁度そのイーをしたような心持のする険しい顔を一寸して、

「此間桜木に行ったら、『此の頃<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>くいらっしゃいます。泊ったりしていらっしゃいます。』……お宮というのを呼んだと言っていた。……僕は泊ったりすることはないが、……お宮というのは<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な<ruby><rb>女</rb><rt>の</rt></ruby>か、僕は知らないが、……」

その言葉が、私の胸には自分が泊らないのに、何うして泊った？　自分がまだ知らない女を何うして呼んだ？　と言っているように響いた。私は苦笑しながら黙っていた。長田は言葉を統けて、

「<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>社に来て、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>耽溺をして来た、と言っていたと聞いたから、はあ<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>は屹度桜木に行ったなと思ったから、直ぐ行って聞いて見てやった。」笑いながら嘲弄するように言った。

私は、返事の仕様がないような気がして、

「うむ……お宮というんだが、君は知らないのか……。」と<ruby><rb>下手</rb><rt>したで</rt></ruby>に出た。

他の女ならば何でもないが、此のお宮とのことだけは誰れにも知られたくなかった。尤も<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>から聞いて知っている長田の遊び振りでは或は<ruby><rb>夙</rb><rt>とっく</rt></ruby>にお宮という女のいることは知っているんだが、長田のこととてつい何でもなく通り過ぎて了ったのかとも思っていた。……初めてお宮に会った時にもう<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことが胸に浮んでいた。それが今、長田の言うのを聞けば、長田は知っていなかった。知っていなかったとすれば尚おのこと、知られたくなかったのだが、<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う斯う突き止められた上に、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>で<ruby><rb>岡妬</rb><rt>おかや</rt></ruby>きの強い人間と来ているから、此の形勢では<ruby><rb>早晩</rb><rt>いずれ</rt></ruby>何とか<ruby><rb>為</rb><rt>せ</rt></ruby>ずにはいまい。もしそうされたって「売り物、買い物」それを差止める権利は毛頭無い。また多寡がああいう商売の女を長田と張合ったとあっては、自分でも野暮臭くって厭だ。もし<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に聞かれでもすると一層<ruby><rb>外聞</rb><rt>ざま</rt></ruby>が悪い。此処は一つ観念の眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>ねむ</rt></ruby>って、長田の心で、なろうようにならして置くより他はないと思った。

が、そうは思ったものの、自分の今の場合、折角探しあてた宝をむざ〱他人に遊ばれるのは身を斬られるように<ruby><rb>痛</rb><rt>つら</rt></ruby>い。と言って、「後生だ。何うもしないで置いてくれ。」と口に出して頼まれもしないし、頼めば、長田のことだから、一層悪く出て悪戯をしながら、黙っているくらいのことだ。

と、私はお宮ゆえに<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>心を砕きながら、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に戻った。此の心をお宮に知らす<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>はないかと思った。

取留めもなく、唯自家で沈み込んでいた時分には、何うかして心の<ruby><rb>間切</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れるように好きな女でも見付かったならば、意気も揚るであろう。そうしたら自然に読み書きをする気にもなるだろう。読み書きをするのが、何うでも自分の職業とあれば、それを勉強せねば身が立たぬ、と思っていた。すると女は兎も角も見付かった。けれども見付かると同時に、此度はまた新らしい不安心が湧いて来た。しばらく寂しく沈んでいた心が一方に向って強く動き出したと思ったら、それが楽しいながらも苦しくなって来た。

女からは初めて、心を惹くような、悲しんで訴えるような、気取った手紙を寄越した。私の心は何も彼も忘れて了って、唯<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>の方に迷うていた。

銭がなければ女の顔を見ることが出来ない。が、その銭を拵える心の<ruby><rb>努力</rb><rt>はげみ</rt></ruby>は決して容易ではなかった。――辛抱して銭を拵える間が待たれなかったのだ。

そうする内に箱根から荷物が届いた。長く<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>にいるつもりであったから、その中には、私に取って何よりも大切な<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>もあった。之ばかりは<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なことがあっても売るまいと思っていたが、お宮の顔を見る為に、それも売って惜しくないようになった。

厭味のない<ruby><rb>紺青</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>の、サンタヤナのライフ・オブ・リーゾンは五冊揃っていた。此の夏それを丸善から買って抱えて帰る時には、電車の中でも<ruby><rb>紙包</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見た、オリーブ表紙のサイモンヅの「<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>紀行」の三冊は、十幾年来憧れていて、それも此の春漸く手に入ったものであった。座右に放さなかった「アミイルの日記」と、サイモンヅの訳したベンベニュトオ・チェリニーの自叙伝とは<ruby><rb>西洋</rb><rt>むこう</rt></ruby>に誂えて取ったものであった。アーサア・シモンズの「七芸術論」、サント・ブーブの「名士と賢婦の画像」などもあった。

私は其等をきちんと前に並べて、独り<ruby><rb>熟〻</rb><rt>つくづく</rt></ruby>と見惚れていた。そうしていると、その中に哲人文士の精神が籠っていて、何とか言っているようにも思われる。或はまた今まで其等が私に譃を吐いていたようにも思われる。

私がそんな書籍を買っている間、お前はお勝手口で、<ruby><rb>三十日</rb><rt>みそか</rt></ruby>に借金取の断りばかりしていた。私もまさかそんな書籍を買って来て、<ruby><rb>書箱</rb><rt>ほんばこ</rt></ruby>の中に並べ立てゝ、それを<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と眺めてさえいれば、それでお前が、私に言って責めるように、「今に良くなるだろう。」と安心しているほどの分らず屋ではなかったが、けれども唯お前と差向ってばかりいたのでは何を<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>に生きているのか、というような気がして、心が寂しい。けれどもそうして書箱に、そんな<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な書籍があって、それを時々出して見ていれば、其処に生き<ruby><rb>効</rb><rt>がい</rt></ruby>もあれば、また<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もあるように思えた。私だとても米代を払う<ruby><rb>胸算</rb><rt>あて</rt></ruby>もなしに、書籍を買うのでもないが、でもそれを読んで、何か書いていれば、「今に良くなるのだろう。」くらいには思わないこともなかった。

これはお宮の<ruby><rb>髪容姿</rb><rt>かみかたち</rt></ruby>と、その厭味のない、知識らしい気高い「ライフ・オブ・リーゾン」や「アミイルの日記」などと比べて見て初めて気の付いたことでもない。

いや、お前に「私もよもやに引かされて、今にあなたが良くなるだろう、今に良くなるだろうと思っていても、何時まで経ってもよくならないのだもの。」と口に出して言われる以前から自分にも分っていた。「良くなる。」というのは、何が良くなるのだろう？　私には「良くなる。」ということが、よく分っているようで、考えて見れば見るほど分らなくなって来た。

私は一度は手を振上げて其の本に「何だ、馬鹿野郎！」と、拳固を入れた。けれども果して<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>に入れたのやら、それとも私自身に入れたのやら、分らなくなった。

私は、ハッとなって、振返って、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。けれども幸い誰れもいなかった。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より誰れもいよう筈はない。

身体は自家にいながら、<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こころ</rt></ruby>は宙に迷うていた。お宮を遊びに来さす為には家を変りたいと思ったが、お前のこと、<ruby><rb>過去</rb><rt>これまで</rt></ruby>のことを思えば、<ruby><rb>無惨</rb><rt>むざ</rt></ruby>と、此処を<ruby><rb>余処</rb><rt>わき</rt></ruby>へ行く事も出来ない。お母さんの顔には日の経つごとに「何時までいるつもりだ。さッ〱と出て行け！」という色が、一日一日と濃く読めた。またそれを口に出して言いもした。私も無理はないと知っていた。そうでなくてさえ<ruby><rb>況</rb><rt>ま</rt></ruby>して年を取った親心には、可愛い<ruby><rb>生</rb><rt>うみ</rt></ruby>の娘に長い間、苦労をさした男は、訳もなく唯、<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>よりも憎い。お母さんで見れば、私と別れたからと言って、そんならお前を何うしようというのではない。唯<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>でも傍へ置いときさえすれば好い。それが仇敵がそうしている為に、娘を傍に置くことが出来ないばかりではない、自分で仇敵に朝晩の世話までしてやらなければならぬ。<ruby><rb>老母</rb><rt>としより</rt></ruby>に取っては、それほど<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さまなことはない。

けれども、私の腹では、仮令お前はいなくっても、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>に斯うしていれば、まだ何処か縁が繋がっているようにも思われる。出て了えば、此度こそ<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>それきりの縁だ。それゆえイザとなっては、思い切って出ることも出来ない。そうしていて、たゞ<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>逃れにお宮の処に行っていたかった。

四度目であったか――<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>の暗い座敷に、独り机によっていたら、引入れられるように自分のこと、お前のこと、またお宮のことが思われて、<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えられなくなった。お宮には、<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>さえあれば直ぐにも逢える。逢っている間は他の事は何も彼も忘れている。私は何うしようかと思って、立上った。立上って考えていると、もうそのまま坐るのも怠儀になる。私は少し遅れてから出掛けた。

桜木に行くと、女中が<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>の通り愛想よく出迎えたが、上ると、気の毒そうな顔をして、「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、沢村から、電話でねえ。あなたがいらっしゃるという電話でしたけれど、他の者の知らない間に<ruby><rb>主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>さんが、もう<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>から断られないお客様にお約束を受けていて、つい今、お<ruby><rb>酉</rb><rt>とり</rt></ruby>さまに連れられて行ったから、今晩は遅くなりましょうッて。あなたがいらしったら、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>電話口まで出て戴きたいって、そう言って来ているんですが。……」

私は、そうかと言って電話に出たが、<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より「えゝ〱。」と言うより仕方がなかった。

女中は、商売柄、「まことにお気の毒さまねえ、今晩だけ<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>な<ruby><rb>女</rb><rt>の</rt></ruby>をお遊びになっては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>です。他にまだ好いのもありますよ。」と言ってくれたが、私はお宮を見付けてから、もう他の女は<ruby><rb>扭</rb><rt>ね</rt></ruby>じ向いて見る気にもならなかった。

まだ浅い馴染とはいいながら、それまでは行く度に<ruby><rb>機会</rb><rt>おり</rt></ruby>好く思うように呼べたが、逢いたいと思う女が、そうして他の客に連れられてお酉さまに行った、と聞いては、固より有りうちのことと承知していながらも、流石に好い気持はしなかった。そういう女を思う自分の心を哀れと思うた。

「いや！　また来ましょう。」と<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>を出て、そのまゝ戻ったが、私は女中達に心を見透かされたようで、独りで恥かしかった。さぞ<ruby><rb>稍然</rb><rt>すごすご</rt></ruby>として見えたことであろう。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は寒い風が、<ruby><rb>道路</rb><rt>みち</rt></ruby>に、時々軽い<ruby><rb>砂塵埃</rb><rt>すなぼこり</rt></ruby>を捲いていた。その晩は分けて電車の音も冴えて響いた。ましてお<ruby><rb>酉</rb><rt>とり</rt></ruby>さまと、女中などの言うのを聞けば、何となく冬も急がれる心地がする。

「あゝ詰らない〱。斯うして、<ruby><rb>浮々</rb><rt>うかうか</rt></ruby>としていて、自分の行末は何うなるというのであろう？」と、そんなことを取留めもなく考え込んで、もちっとで電車の乗換え場を行き過ぎる処であった。心柄とはいいながら、夜風に吹き<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されて、私は眼頭に涙を<ruby><rb>潤</rb><rt>にじ</rt></ruby>ませて帰った。

それでも少しは、何かせねばならぬこともあって、二三日<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を置いてまた行った。私は電車に乗っている間が<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も待遠しかった。そういう時には時間の経つのを忘れているように面白い雑誌か何か持って乗った。

その時は三四時間も待たされた。――<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>の晩もあるのに、あんまり来ようが遅いから、来たら<ruby><rb>些</rb><rt>ちょい</rt></ruby>と<ruby><rb>口説</rb><rt>くぜつ</rt></ruby>を言ってやろう、それでも最う来るだろうから、一つ寝入った風をしていてやれ、と夜着の襟に顔を隠して自分から寝た気になっても見る。するとそれも、ものの十分間とは我慢しきれないで、またしても顔を出して何度見直したか知れない雑誌を繰披いて見たり、好きもせぬ煙草を無闇に吹かしたり、独りで焦れたり、嬉しがったり、浮かれたりしていた。

火鉢の佐倉炭が、段々真赤に円くなって、冬の夜ながらも、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中は<ruby><rb>湿</rb><rt>しっ</rt></ruby>とりとしている。煙草の烟で上の方はぼんやりと淡青くなって、黒の勝った新らしい模様の友禅メリンスの小さい幕を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せた電灯が朧ろに霞んで見える。

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>では女中の声も更けた。もう大分前に表の木戸を降したらしい。時々低く電話を鳴してお宮を催促しているようであった。

やがてすうっと襖が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、衣擦れの音がして、<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の火鉢の傍に黙って坐った。私は独で擽られるような気持になって<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と堪えて蒲団を被ったまゝでいた。

女は矢張し黙って軽い<ruby><rb>太息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を洩らしている。

私は<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>負けて襟から顔を出した。

女は雲のような<ruby><rb>束髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>をしている。何時か西洋の演劇雑誌で見たことのある、<ruby><rb>西洋</rb><rt>あちら</rt></ruby>の<ruby><rb>女俳優</rb><rt>おんなやくしゃ</rt></ruby>のような<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>をしている、と思って私は<ruby><rb>仰</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに寝ながら顔だけ少し横にして、凝乎と<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>い〱女の<ruby><rb>姿態</rb><rt>ようす</rt></ruby>に見惚れていた。

壁鼠とでもいうのか、くすんだ地に薄く<ruby><rb>茶糸</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>で七宝繋ぎを織り出した<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>のお召の羽織に矢張り之れもお召の沈んだ<ruby><rb>小豆色</rb><rt>あずきいろ</rt></ruby>の派手な矢絣の薄綿を着ていた。

<ruby><rb>深夜</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の、朧に霞んだ電灯の<ruby><rb>微光</rb><rt>うすあかり</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、私は、それを、何も彼も美しいと見た。

女は、矢張り黙っている。

「おい！　どうしたの？」私は矢張り負けて静かに斯う口を切った。

「どうも遅くなって済みませんでした。」優しく口を利いて、軽く<ruby><rb>嬌態</rb><rt>しな</rt></ruby>をした。

そう言ったまゝ、後は<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>あって此度は一層強い<ruby><rb>太息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を洩らしながら、それまでは火鉢の縁に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>していた両手を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に入れて、傍の一閑張りの机にぐッたりと身を凭せかけた。そうして右の掌だけ半分ほど胸の処から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞか</rt></ruby>して、襦袢の襟を抑えた。その指に指輪が光っていた。崩れた膝の間から派手な長襦袢が<ruby><rb>溢</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れている。

女と逢いそめてから、これでまだ<ruby><rb>四度</rb><rt>よたび</rt></ruby>にしかならぬ。それが、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な悩んだ風情を見せられるのが初めてなので、それをも、私は嬉しく美しいと自分も黙あって飽かず眺めていた。

けれども遂々辛抱しきれないで、復た、

「どうしたの？」と重ねて柔しく問うた。すると、女は、

「はあッ」と絶え入るように更に強い太息を吐いて片袖に顔を隠して机の上に俯伏して了った。<ruby><rb>束髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>は袖に緩く乱れた。

私は哀れに嬉しく心元なくなって来た。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>を更けた新内の流しが通って行った。

「おい！　本当に何うかしたの？」私は<ruby><rb>三度</rb><rt>みたび</rt></ruby>問うた。

すると尚お<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>経って、女は、

「ほうッ」と、一つ深あい<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をして、疲れたようにそうッと顔を上げて、此度はさも思い余ったように<ruby><rb>胸元</rb><rt>むね</rt></ruby>をがっくりと落して、頸を肩の上に投げたまゝ味気なさそうに、<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく畳の方を見詰めて居た。矢張り両手を懐中にして。

私は何処までも凝乎とそれを見ていた。

<ruby><rb>平常</rb><rt>いつも</rt></ruby>はあまり眼に立たぬほどの切れの浅い二重瞼が少し<ruby><rb>逆上</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>となって赤く際だってしおれて見えた。睫毛が長く<ruby><rb>眸</rb><rt>め</rt></ruby>を霞めている。

「何うしたい！」<ruby><rb>四度目</rb><rt>よたびめ</rt></ruby>には気軽く訊ねた。「散々<ruby><rb>私</rb><rt>ひと</rt></ruby>を待たして置いて来る早々沈んで了って。何で其様な気の揉めることがあるの？　好い<ruby><rb>情人</rb><rt>ひと</rt></ruby>でも何うかしたの？」

「遅くなったって私が故意に遅くしたのじゃないし。ですから、済みませんでした、と謝っているじゃありませんか。早く来ないと言ったって、方々都合が好いように行きゃしない。……はあッ、私もう<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な商売するのが厭になった。……」うるさそうに言った。

それまでは、<ruby><rb>機会</rb><rt>おり</rt></ruby>に依っては、何処かつんと思い揚って、取澄ましているかと思えば、また<ruby><rb>甚</rb><rt>ひど</rt></ruby>く<ruby><rb>慎</rb><rt>つつまし</rt></ruby>やかで、愛想もそう悪くはなかったが、今夜は余程思い余ったことがあるらしく、心が悩めば悩むほど、<ruby><rb>放埒</rb><rt>わがまま</rt></ruby>な感情がぴり〱と苛立って、人を人臭いとも思わぬような、<ruby><rb>自暴自棄</rb><rt>すてばち</rt></ruby>な気性を見せて来た。

その時私はます〱「こりゃ好い女を見付けた。此の先きどうか自分の持物にして、モデルにもしたい。」と腹で考えた。そう思うと尚お女が<ruby><rb>愛</rb><rt>お</rt></ruby>しくなって、一層声を和げて<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>すように、

「……何を言ってる？　君が早く来ないと言ってそれを何とも言ってやしないじゃないか。見給え！　斯うして<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく<ruby><rb>書籍</rb><rt>ほん</rt></ruby>を読んで待っていたじゃないか。……戸外はさぞ寒かったろう。さッ、入ってお寝！」

「本当に済みませんでしたねえ、随分待ったでしょう。」<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>に顔を見せて<ruby><rb>微笑</rb><rt>え</rt></ruby>んだ。

「さあ〱そんなことは何うでも好いわ……。」けれどもそれは女の耳に入らぬようであった。

「はあッ……私、困ったことが出来たの。」声も絶え〲に言った。

「困った。……何うしよう？　……言って了おうか。」と<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>小首を傾けたが、「言おうかなあ……言わないで置こうかッ。」と一つ舌打ちをして、「言ったら、さぞあなたが愛想を尽かすだろうなあ！」と独りで思案にくれて、とつおいつしている。私は、やゝ心元なくなって来た。

「何うしたの？　……私が愛想を尽かすようなことッて。何か知らぬが、差支えなければ言って見たら好いじゃないか。」私はその時<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>と胸に浮んだので、「はあ！　じゃ分った！　私の知った人でも遊びに来たの？」と続けて訊いた。

「<ruby><rb>否</rb><rt>う</rt></ruby>む！」と<ruby><rb>頭振</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を掉った。私も<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>何でもまさか其様なことは無いであろうと思っていたが、あんまり心配そうに言うので、もし其様なことででもあるのかと思ったがそうでなくって、先ずそれは安心した。

「じゃ何だね？　待たして焦らしてさ！　尚おその上に唯困ったことがある、困ったことがある。……と言っていたのでは私も斯うしていれば気に掛かるじゃないか。役に立つようだったら、私も一緒に心配しようじゃないか。……<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なこと？」

「はあッ」と、まだ<ruby><rb>太息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を吐いている。「じゃ思い切って言って了おうかなあ！　……あなたが屹度愛想を尽かすよ。……尽かさない？」うるさく訊く。

「<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なことか知らぬが尽かしゃしないよ、僕は君というものが好いんだから仮令これまでに<ruby><rb>如何</rb><rt>どん</rt></ruby>なことをしていようとも何様な素姓であろうとも差支えないじゃないか。それより早く言って聞かしてくれ。宵からそう何や<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>に焦らされていては私の身も耐らない。」と言いは言ったが、腹では本当に<ruby><rb>拠</rb><rt>たよ</rt></ruby>りない心持がして来た。

「じゃ屹度愛想尽かさない？」

「大丈夫！」

「じゃ言う！　……私には<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>があるの！」

「へえッ……今？」

「今……」

「何時から？」

「<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>から！」

「以前から？　じゃ法科大学の<ruby><rb>学生</rb><rt>ひと</rt></ruby>の処に行っていたというのはあれは譃？」私もまさかとは思っていたが、それでも少しは本当もあると思っていた。

「それもそうなの。けれどまだ其の前からあったの。」

「その前からあった！　それは何様な人？」

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から一人で浮かれていた私は、真面目に心細くなって来た。そうして腹の中で、斯ういう境涯の女にはよくあり勝ちな、<ruby><rb>悪足</rb><rt>わるあし</rt></ruby>でもあることと直ぐ察したから、

「遊人か何か？」続けさまに訊いた。

「いや、そうじゃないの。……それも矢張り学生は学生なの。……それもなか〱出来ることは出来る人なの……」低い声で独り<ruby><rb>恥辱</rb><rt>はじ</rt></ruby>を弁解するように言った。<ruby><rb>其男</rb><rt>それ</rt></ruby>を悪く言うのは、自分の古傷に触られる心地がするので、成るたけ<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>として置きたいようである。

「ふむ。矢張し学生で……大学生の前から……。」私は<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように言って考えた。

女も、それは耳にも入らぬらしく、再び机に体を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>して考え込んでいる。

「それでその人とは今<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>ういう関係なの？　――じゃ大学生の処に、欺されてお嫁に行ったというのも譃だったね。……そうか……。」私は軽く復た独語のように言った。そうして自分から、美しゅう信じていた女の箔が急に剥げて安ッぽく思われた。<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいと思った女が、悪擦れのようにも思われて唯聞いただけでは少し<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>くもなって来た。

「えゝ譃なの。……私にはその前から男があるの。……はあッ！」とまた一つ深い、太息をして、更に言葉を続けた。「私は、その男に去年の十二月から、つい此間まで隠れていたの。……もう分らないだろうと思って、一と月ほど前から<ruby><rb>此地</rb><rt>ここ</rt></ruby>に来ていると、<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>また、それが、私のいる処を探り当てゝ出て来たの。……私、<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>までにまた何処かへ姿を隠さねばならぬ。……ですから<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>今晩きりあなたにも逢えないの。……あなたにこれを上げますから、これを記念に持って行って下さい。」と言葉は落着いて温順しいが、仕舞をてきぱきと言いつゝ腰に締めた、茶と小豆の弁慶格子の、もう可い加減古くなった、短い縮緬の下じめを解いて前に出した。

「へえッ！」と、ばかり、私は寝心よく夢みていた楽しい夢を、無理に揺り起されたようで、暫く呆れた口が塞がらなかった。けれども、しごきをやるから、これを記念に持って行ってくれ、というのは、子供らしいが、嬉しい。何という懐かしい想いをさする女だろう！　悪い男があればあっても面白い！　と、吾れ識らず棄て難い心持がして、私は、

「だって、何うかならないものかねえ？　そう急に隠れなくたって、……私は君と今これッきりになりたくないよ。も少し私を棄てないで置いてくれないか。……<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>かも話した通り、此の土地で初めてお<ruby><rb>蓮</rb><rt>れん</rt></ruby>を呼んで、あまり好くもなかったから、二十日ばかりも足踏みしなかったが、また、ひょッと来て見たくなって、お蓮でも可いから呼べと思って、呼ぶと、蓮ちゃんがいなくって、宮ちゃんが来た。それから後は君の知っている通りだ。宮ちゃんのような<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>は、また容易に目付からないもの。」

そう言って、私は、仰けになっていた身体を跳ね起きて、女の方に向いて、蒲団の上に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。

お宮は、沈んだ頭振を掉って、

「いけない！　何うしても隠れなくッちゃならない！」堅く自分に決心したように底力のある声で言って、後は「ですからあなたにはお気の毒なの……。私の代りにまたお蓮さんを呼んであげて下さい。」と言葉尻を優しく愛想を言った。そうしてまた独りで思案に暮れているらしい。

私は、<ruby><rb>喪然</rb><rt>がっかり</rt></ruby>して了った。

「何うでも隠れなくってはならない！　……君には、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な逃げ隠れをせねばならぬような人があったのか。……それには何れ一と通りならぬ<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>のあることだろうが、何うしてまあ其様なことになったの？　……そんなこととは知らず、僕は<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に君を想っていた。――尤も君を想っている人は、まだ他にも沢山あるのだろうが――けれども、そういう男があると知れては、幾許思ったって仕方がない。……ねえ！　宮ちゃん！　……じゃ、せめてお前と、その人との身の上でも話して聞かしてくれないか。……もう大分遅いようだが、今晩寝ないでも聞くよ。私には<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>なんかよりもその方が好いよ。……私もそういうことのまんざら分らないこともない。同情するよ。……それを聞かして貰おうじゃないか。……えッ？　宮ちゃん！　……お前の国は本当何処なの？」私は、わざと陽気になって言った。

何処かで、ボーン〱と、高く二時が鳴った。

すると、お宮は沈み込んでいた顔を、ついと興奮したように上げて、私の問いに応じて口数少くその来歴を語った。

一体お宮は、一口に言って見れば、<ruby><rb>単</rb><rt>ひと</rt></ruby>えに譃を商売にしているからばかりではない、その言っていることでも、その所作にも、何処までが<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>で何処までが譃なのか譃と真個との<ruby><rb>見界</rb><rt>みさかい</rt></ruby>の付かないような気持をさする<ruby><rb>女性</rb><rt>おんな</rt></ruby>だった。年も初め十九と言ったが、二十一か二にはなっていたろう。心の恐ろしく<ruby><rb>複雑</rb><rt>いりく</rt></ruby>んで、人の口裏を察したり、眼顔を読むことの驚くほどはしこい、それでいてあどけないような、何処までも情け深そうな、たより<ruby><rb>無気</rb><rt>なげ</rt></ruby>で人に憐れを催さすような、譃を言っているかと思うと、また思い詰めれば、至って正直な処もあった。それ故その身の上ばなしも、<ruby><rb>前後</rb><rt>あとさき</rt></ruby>辻褄の合わぬことも多くって、私には何処までが真個なのか分らない。

お宮という名前も、また初めての時、下田しまと言った本当の名も、皆その他にまだ幾通かある<ruby><rb>変名</rb><rt>かえな</rt></ruby>の中の一つであった。

「だから<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>は栃木と言ってるじゃないか。」お宮はうるさそうに言った。

「そうかい。……だって僕はそう聞かなかった。何時か、熊本と言ったのは譃か、福岡と言っていたこともあったよ。……それらは皆知った男の故郷だろう。」

「そんなことは一々覚えていない。……宇都宮が本当さ！」

「何時東京に出て来たの？」

「丁度、あれは日比谷で焼討のあった時であったから、私は十五の時だ。下谷に親類があって、其処に来ている頃、その直ぐ近くの家に<ruby><rb>其男</rb><rt>それ</rt></ruby>もいて、遊びに行ったり来たりしている間に次第にそういう関係になったの。」

「その人も学校に行っていたんだろうが、その時分何処の学校に行っていたんだ？」

「さあ、よく知らないけれど、師範学校とか言っていたよ。」

「師範学校？　師範学校とは少し変だな。」私は、女がまた出鱈目を云っているのか、それとも、そう思っているのか、と、<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に教育の<ruby><rb>有無</rb><rt>あるなし</rt></ruby>をも考えて見た。

「でも師範学枚の免状を見せたよ。」

「免状を見せた。じゃ高等であったか尋常であったか。」

「さあ、そんなことは<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>であったか、知らない。」

「その人は国は何処なんだ。年は幾つ？　何と言うの？」

「熊本。……今二十九になるかな。名は吉村定太郎というの。……それはなか〱才子なの。」

「ふむ。江馬という人と何うだ？」

「そうだなあ、才子という点から言えば、そりゃ吉村の方が才子だ。」

「男振は？」

「男は何方も好いの。」と、<ruby><rb>普通</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>に言った。私は、それを開いて、腹では一寸<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>けた。

「何うも御馳走さま！　……宮ちゃん男を拵えるのが上手と思われるナ。……そりゃまあ、学生と娘と関係するなんか、ザラに世間にあることだから、悪くばかしは言えない。が、其の吉村という人とそんな仲になって、それから何ういう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>で、その男を逃げ隠れをするようになったり、またお前が<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処に来るような<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>になったんだ？」私は、何処までも優しく尋ねた。

「<ruby><rb>吉村</rb><rt>それ</rt></ruby>も道楽者なの。」と、言いにくそうに言った。「あなたさぞ私に愛想が尽きたでしょう。」

「ふむ……江馬さんも<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい、深切な人であったが、下宿屋の娘と食付いたし、吉村さんも道楽者。……成程お前が、何時か『男はもう厭！』と言ったのに無理はないかも知れぬ。……私にしたって、斯うして斯様な処に来るのだから矢張り道楽者に違いない。……が、併しその人は何ういう道楽者か知らないが、道楽者なら道楽者として置いて、君が斯様な処に来た理由が分らないな。私には、私だって、つき合って見れば、此の土地にいる<ruby><rb>女達</rb><rt>ひとたち</rt></ruby>も<ruby><rb>大凡</rb><rt>おおよそ</rt></ruby><ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>な人柄のくらいは見当が付く。先達て私の処に初めて寄越した手紙だって『……、多くの人は、妾等の悲境をも知らで、侮蔑を以って能事とする<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、流石は、同情を以って、その天職とせる文学者に初めて接したる、その刹那の感想は……』――ねえ、ちゃんと斯う私は君の手紙を諳記しているよ。――その刹那の感想はなんて、あんな手紙を書くのを見ると、何うしても女学生あがりという処だ。何うも君の<ruby><rb>実家</rb><rt>うち</rt></ruby>だって、そう悪い家だとは思われない、<ruby><rb>加之</rb><rt>それに</rt></ruby>宮ちゃんは非常に気位が高い。随分大勢女もいるが、皆な平気で商売しているのに君は自分が悲境にいることをよく知っていて、それほど侮蔑を苦痛に感じるほど高慢な人が、何うして斯様な処に来たの？　……<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いじゃないか。えッ宮ちゃん？」

けれどもお宮は、それに就いては、唯、人に<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>らして置くばかりで、黙っていた。そうして此度は其の男を弁護するかのように、

「そりゃ初めはその人の世話にも随分なるにはなったの。……あなたの処に遣った、その手紙に書いているようなことも、私がよく漢語を使うのも皆其の人が先生のように教育してくれたの。……けれど、学資が来ている間はよかったけれど、その内学校を卒業するでしょう。卒業してから学資がぴったり来なくなってから困って了って、それから何することも出来なくなったの。」

「だって可笑いなあ。君がいうように、本当に師範学校に行っていて卒業したのなら、高等の方だとすると、立派なものだ。そんな人が、何故自分の手を付けた若い娘を<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処に来なければならぬようにするか。……十五で出て来て間もなくというんだから、男を知ったのもその人が屹度初めだろう？」

「えゝ、そりゃ其の人に処女膜を破られたの。」と、それを取返しの付かぬことに思っているらしい。

「はゝゝゝ。面白いことを言うねえ。もし尋常師範ならば、成程国で卒業して、東京に出てから、ぐれるということもあるかも知れぬが、今二十九で、五年も前からだというから、年を積っても可笑しい。師範学校じゃなかろう。……お前の言うことは何うも分らない。……けれど、まあ<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な根掘り葉掘り聞く必要はないわねえ。……で、<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>は何うして此処に来ていることが分ったの？」

「下谷に知った家があって、其処から一昨日は電話が掛かって、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>私に来てくれと言うから、何かと思って行くと、其処に吉村が、ちゃんと来ているの。それを見ると、私ははあッと思って本当にぞっとして了った。」

「ふむ。それで何うした？」

「私は黙あッていてやった。そうすると、『何うして黙っている？　お前は<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>い奴だ。俺を一体何と思っている？　殺して了うぞ。』と、恐ろしい権幕で言うから、『何と思っているッて、あなたこそ私を何と思っている？』と私も強く言ってやった。<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>でそう言うと、此度は向から優しく出るの。そうして<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうぞ</rt></ruby>これまでのようになっていてくれというの。……私は、『厭だ！』と言ってやった。其様なことを言うんなら、私は今此処で本当に殺してくれと言ってやった。……悪い奴なの。」と、さも〱悪者のように言う。

「そういうと、何う言った？」

「けれども、何うもすることは出来ないの、……元は<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>く私を撲ったもんだが、それでも、此度は余程弱っていると思われて、何うもしなかった。」お宮は<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>を<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように言った。

「何うして分ったろうねえ？　お前が此処にいるのが。」

「其処が才子なの。私本当に恐ろしくなるわ。方々探しても、何うしても分らなかったから、<ruby><rb>口髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>なんか剃って了って、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>見たくらいでは見違えるようにして、私の<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>に行ったの。そうすると、家の者が、皆口じゃ何処にいるか知らない、と<ruby><rb>甘</rb><rt>うま</rt></ruby>く言ったけれど、田舎者のことだから間が抜けているでしょう。すると、誰れも一寸居ない間に、吉村が状差しを探して見て、その中に私が此処から遣った手紙が見付かったの。よくそう言ってあるのに、本当に田舎者は仕様がない。」

「ふむ。お前の故郷まで行って探した！　じゃ<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>深い仲だなあ。……そうして其の人、今何処にいるんだ？　何をしているの？」

「さあ、何処にいるか。其様なこと聞きゃしないさ。……それでも私、後で可哀そうになったから、持っていたお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>を二三円あったのを、銀貨入れのまゝそっくり遣ったよ。煙草なんかだって、悪い煙草を吸っているんだもの。……くれて遣ったよ。私。」と、ホッと息を吐いて、後は萎れて、しばらく黙っている。

「<ruby><rb>身装</rb><rt>なり</rt></ruby>なんか、何様な風をしている？」

「そりゃ汚い身装をしているさ」

「どうも私には、まだ十分解らない処があるが、余程深い<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるらしい。宮ちゃんも少し何うかして上げれば好い。」

「何うかしてあげれば好いって、何うすることも出来やしない。<ruby><rb>際限</rb><rt>きり</rt></ruby>がないんだもの。」と、お宮は、怒るように言ったが、「私もその人の為にはこれまで尽せるだけは尽しているの。初め<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>が世話になったのは、<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う<ruby><rb>夙</rb><rt>とっく</rt></ruby>に恩は返している。何倍此方が尽しているか知れやしない。……つまり自分でも此の頃漸く、私くらいな女は、何処を探しても無いということが分って来たんでしょうと思うんだ。斯う見えても、私は、本当の心は好いんですから、そりゃ私くらい尽す女は滅多にありゃしないもの。……ですから其の人の心も、他の者には知れなくっても、私にだけは分ることは、よく分っているの。」と、しんみりとなった。

「うむ〱。そうだ。お前の言うことも、私にはよく分っている。……じゃ二人で<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>苦労もしたんだろう。」

「そりゃ苦労も随分した。米の一升買いもするし……私、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>には月給取って働きに出たよ。」

「へえ、そりゃえらい。何処に？」

「上野に博覧会のあった時に、あの日本橋に山本という葉茶屋があるでしょう。<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>の出店に会計係になっても出るし、それから神保町の東京堂の店員になって出ていたこともある。……博覧会に出ていた時なんか、暑うい時分に、私は朝早くから起きて、自分で御飯を炊いて、私が<ruby><rb>一日</rb><rt>いちんち</rt></ruby>居なくっても好いようにして出て行く。その後で、晩に遅くなって帰って見ると、家では、朝から酒ばッかり飲んで、何にもしないでいるんですもの。……」

「酒飲みじゃ仕様がない。……酒乱だな。」

「えゝ酒乱なの、だから私、<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処にいても、酒を飲む人は嫌い。……湯島天神に家を持っていたんですが、私、一と頃生傷が絶えたことがなかった。……そんな風だから、私の方でも、終には、『あゝもう厭だ。』と思って、何か気に入らぬことがあると此方でも負けずに言うでしょう。そうすると『貴様俺に向って何言うんだ。』と言って、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>で撲つ、ビールの空瓶で<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つ、煙草盆を投げ付ける。……その煙草盆を投げ付けた時であった。その時の傷がまだ残っているんです。此処に<ruby><rb>小</rb><rt>ちさ</rt></ruby>い<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>が出来ているでしょう。痣なんか、私にゃありゃしなかった。」と、言って、白い顔の柔和な眉毛の下を<ruby><rb>遺恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>のあるように、軽く指尖で抑えて見せた。それは、あるか、無いかの淡青い痣の痕であった。

私は黙ってお宮の言うのを聞きながら、<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>と其の<ruby><rb>姿態</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見<ruby><rb>戍</rb><rt>まも</rt></ruby>って、成程段々聞いていれば、何うも賢い女だ。<ruby><rb>標致</rb><rt>きりょう</rt></ruby>だって、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>には何うだか、自分にはまず気に入った。これが、まだそんな十七や八の若い身で元は皆心がらとはいいながら、男の為に、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>にそういう所帯の苦労をしたかと思えば、唯いじらしくもある。自分で気にするほどでもないが、痣の痕を見れば、<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そ其れがしおらしくも見える。私は、「おゝ」と言って抱いてやりたい気になって、

「ふむ……それは感心なことだが、併しそれほど心掛の好い人が何うして、とゞの詰り斯ういう処へ来るようになったんだろうねえ？」

と、またころりと横になりながら、心からそう思って、余りうるさく訊くのも、却って女の<ruby><rb>痛心</rb><rt>こころ</rt></ruby>に対して察しの無いことだから、さも<ruby><rb>余処</rb><rt>よそ</rt></ruby>の女のことのように言ってまたしても斯う尋ねて見た。そうして、つい身につまされて、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からお宮の話を聞きながらも、私は自分とお前とのことに、また<ruby><rb>熟〻</rb><rt>つくづく</rt></ruby>と思入っていた。「お雪の奴、いま頃は何処に何うしているだろう？　本当に<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いているか。嫁いていなければ好いが、嫁いて居ると思えば心元なくてならぬ。<ruby><rb>最後</rb><rt>のち</rt></ruby>には自分から<ruby><rb>私</rb><rt>ひと</rt></ruby>を振切って行って了ったのだ。それを思えば憎い。が、元を思えば、<ruby><rb>皆</rb><rt>みん</rt></ruby>な<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>が苦労をさしたからだ。あゝ、悪いことをした。<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>も行末は何うなる身の上だろう？　浅間しくなって果てるのではなかろうか？」としみ〲と哀れになって、斯うして<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>としてはいられないような気がして来て、しばらくは、私達が丁度お宮等二人のように思われていたが、「いや〱お雪が、お宮と同じであろう道理が無い。自分がまた吉村であろう筈もない。私に、何うして斯ういう女を、終に斯様な処に来なければならぬようにするような、そんな無惨なことが出来よう！」と、私は少しく我れに返って、

「けれども其の人間も随分<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>いねえ。そんなにして何処までも、今まで通りに<ruby><rb>夫婦</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>になっていてくれというほどならば、何故、宮ちゃんが其様なにして尽している間に、少しはお前を可愛いとは思わなかったろうねえ？　お前が可愛ければ、自分でも<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>せねばならぬ筈だ。<ruby><rb>況</rb><rt>ま</rt></ruby>して自分が初めて手を付けた若い女じゃないか！」と、人の事を<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>自分を責めるように、そう言った。

お宮はお宮で、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から黙って、独りで自分の事を考え沈んでいたようであったが、

「ですから私、何度逃げ出したか知れやしない。……その度毎に追掛けて来て<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて放さないんだもの……はあッ！　<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>からまた其の事で、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby><ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>していた。」と、またしても<ruby><rb>太息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>ばかり<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、屈託し切っている。私には其大学生の江馬と吉村と女との顛末などに就いても、屹度面白い筋があるに違いない、と、それを探るのを一つは楽しくも思いながら、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>と腹の中で考えて見たが、お宮に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>ってはその上強いては聞こうともしなかった。唯、「で、一昨日は何と言って別れたの？」と訊ねると、

「まあ<ruby><rb>二三日</rb><rt>にさんち</rt></ruby>考えさしてくれと、可い加減なことを言って帰って来た。……ですから、何うしたら好いか、あなたに智慧を借りれば好いの。……」と、其の事に種々心を砕いている<ruby><rb>所為</rb><rt>せい</rt></ruby>かそれとも、唯私に対してそう言って見ただけなのか、腹から出たとも<ruby><rb>口前</rb><rt>くちさき</rt></ruby>から出たとも分らないような調子で言うから、

「……智慧を借りるッたって、別に好い智慧もないが、じゃ私が何処かへ隠して上げようか。」

と、女の思惑を察して私も唯一口そう言って見たが、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>からそう言うと、女は、

「<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>！　何うしても駄目！」と<ruby><rb>頭振</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>った。

「じゃ仕様がない。よく自分で考えるさ。……あゝ遅くなった。もう寝よう。君も寝たまえ。」と、言いながら、私は<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を噛み殺した。

「えゝ。」と、お宮は気の抜けたような返事をして、それから五分間ばかりして、

「あなたねえ、済みませんが、今晩私を此のまゝ<ruby><rb>静</rb><rt>そう</rt></ruby>ッと寝かして下さい。一昨日から何処の座敷に行っても、私身体の<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>が悪いからッて、皆な、そう言って断っているの……明日の朝ねえ……はあッ神経衰弱になって了う。」と<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えたように言って、横になったかと、思うと、此方に背を向けて、襟に顔を隠して了った。そうして夜具の中から「あゝ、あなた本当に済みませんが、電灯を<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>捻って下さい。」

「あゝ〱。よくお寝！」

と、私は立って電灯を消したが、頭の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>が冴えて了って眠られない。

また立って明るくして見た。お宮は眠った眼を眩しそうに細く可愛く<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて見て、口の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で何かむにゃ〱言いながら、一旦上に向けた顔を、またくるりと枕に伏せた。私は此度は幕で<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>を包んで置いて、それから腹這いになって、煙草を一本摘んだ。それが尽きると、また立ち上って暗くした。お宮は<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>てぐっすり寝入ったらしい。……私は夜明けまで<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>熟睡しなかった。<ruby><rb>翌朝</rb><rt>あくるあさ</rt></ruby>、お宮は、

「精神的に接するわ。」と、一つは神経の疲れていた<ruby><rb>所為</rb><rt>せい</rt></ruby>もあったろうが、ひどく身体を使った。

「じゃ、これッ切り<ruby><rb>最</rb><rt>も</rt></ruby>う会えないねえ。何だか残り惜しいなあ。お別れに飯でも食べよう。……何が好いか？　……かしわにしようか。」と、私は手を鳴して<ruby><rb>朝飯</rb><rt>めし</rt></ruby>を誂えた。

お宮は所在なさそうに、

「あなた、私に詩を教えて下さい。私詩が好きよッ。」と、言って自分で頼山陽の「<ruby><rb>雲乎</rb><rt>くもか</rt></ruby><ruby><rb>山乎</rb><rt>やまか</rt></ruby>」を<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で興の無さそうに口ずさんでいる。

その顔を、<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見ると、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な苦労をするか、今朝はひどく<ruby><rb>面窶</rb><rt>おもやつ</rt></ruby>れがして、先刻洗って来た、<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の白粉の痕が青く<ruby><rb>斑点</rb><rt>ぶち</rt></ruby>になって見える。「……<ruby><rb>万里泊舟天草灘</rb><rt>ばんりふねをはくすあまくさのなだ</rt></ruby>……」と唯口の<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>だけ声を出して、大きく動かしている<ruby><rb>下腮</rb><rt>したあご</rt></ruby>の骨が厭に角張って突き出ている。斯うして見れば年も三つ四つ老けて案外、そう<ruby><rb>標致</rb><rt>きりょう</rt></ruby>も好くないなあ！　と思った。

「ねえ！　教えて下さい。」

と、いうから、「じゃ好いのを教えよう。」と気は進まないながら、自分の好きな張若虚の「<ruby><rb>春江花月夜</rb><rt>しゅんこうかげつのよ</rt></ruby>」を教えて遣った。「これに書いて意味を教えて下さい。」というから巻紙に記して、講釈をして聞かせて遣った。「……<ruby><rb>昨夜間潭夢落花</rb><rt>さくやかんたんらっかをゆめむ</rt></ruby>。<ruby><rb>可憐春半不還家</rb><rt>あわれむべししゅんぱんいえにかえらず</rt></ruby>。<ruby><rb>江水流春去欲尽</rb><rt>こうすいりゅうしゅんさってつきんとほっす</rt></ruby>……」という<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は私だけには大いに心遣りのつもりがあった。

飯は済んだが、私はまだ女を帰したくなかった。

お宮は、心は何処を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>うろつ</rt></ruby>いているのか分らないように、懐手をして、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>窓の処に立って、つま先きで足拍子を取りながら、何かフイ〱口の中で言って、<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>を眺めなどしている。

「あなた、<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいとちょいと</rt></ruby>。」

と、いうから、「えッ何？」と、立って、其処に行って見ると、

「あれ、子供が体操の真似をしている。……見ていると面白いよ。」と、水天宮の裏門で子供の遊んでいるのを面白がっている。

私は、「何だ！　昨夜はあんな思い詰めたようなことを言って、今朝の此のフワ〱とした風は？　……」と元の座に戻りながら、不思議に思って、またしても女の<ruby><rb>態度</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見戍った。

すると、女は、フッと<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>を振向いて、窓の処から傍に寄って来ながら、

「あなた、妾を棄てない？　……棄てないで下さい！」と、言葉に力は入っているが、それもまた口の<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>から出るのやら、腹の底から出たのやら分らぬような調子で言った。

「あゝ。」と、私もそれに応ずるように返事した。

「じゃ屹度棄てない？　……屹度？」重ねて言った。

そう言われると、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>もつい釣込まれて、

「あゝ屹度棄てやしないよ。……僕より君の方が棄てないか？」と、言ったが、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に腹から「棄てないで下さい！」と言うのならば、思い切って、何うかして下さい、とでも、も少し打明けて相談をし掛けないのであろうと、それを<ruby><rb>効</rb><rt>かい</rt></ruby>なく思っていた。

そういうと、女は黙っていた。また<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>の通り何処に心があるのやら分らなかった。するとまた暫く経って、「定ったらあなたに手紙を上げますから、そうしたら何うかして下さいな。」とそう言う。此度は此方で「うむ！」と気のない返事をした。

<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は日が明るく照って、近所から、チーン、チーンと鍜冶の槌の音が強く耳に響いて来る。何処か少し遠い処で地を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>るような機械の音がする。今朝は何だか湿りっ気がない。

勘定が大分<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>んだろう。……斯う長く居るつもりではなかったから、固より持合せは少かった。私は<ruby><rb>突然</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に好い夢を破られた失望の感と共に、少しでも勘定が不足になるのが気になって、そうしていながらも、<ruby><rb>些</rb><rt>ちっ</rt></ruby>とも面白くなかった。私にはまだ自分で待合で勘定を借りた経験はなかった。お宮を早く帰せば<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>も嵩まないと分っていたが、それは出来なかった。又仮令これ<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りお宮を見なくなるにしてもお宮のいる前で勘定の不足をするのは尚お堪えられなかった。そう思って<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、一人で神経を悩ましていたが、ふっと、今日は、<ruby><rb>長田</rb><rt>おさだ</rt></ruby>が社に出る日だ、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>に使いを遣って、今日は最う十七日だから、今月書いた今までの分を借りよう。――それはお前も知っている通りに、<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby><ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>っていたことだ。――と、そう気が付いて、手紙の裏には「牛込区喜久井町、雪岡」と書いて<ruby><rb>車夫</rb><rt>つかい</rt></ruby>に、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>に行ってから、若しも何処から来たと聞かれても、牛込から来た、と言わしてくれと女中に頼んだ。

<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>して車夫は帰って来たが、急いで封を切って見ると、銭は入っていなくって唯、

「主筆も編輯長もまだ出社せねば、その金は渡すこと相成りがたく候。」

と、長田の<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>の乱筆で、汚い新聞社の原稿紙に、いかにも<ruby><rb>素気</rb><rt>そっけ</rt></ruby>なく書いてある。私は、それを見ると、銭の入っていない失望と同時に「はっ」と胸を打たれた。成程<ruby><rb>使者</rb><rt>つかい</rt></ruby>が丁度向に行った頃が十二時時分であったろうから、主筆も編輯長もまだ出社せぬというのは、そうであろう。が、「その金は渡すこと相成り難く候。」とあるのは<ruby><rb>可怪</rb><rt>おかし</rt></ruby>い。長田の編輯している日曜附録に、つまらぬことを書かして貰って僅かばかりの原稿料を、併も銭に困って、一度に、月末まで待てないで、二度に<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いたりなどして受取っているのだが、分けても此の頃は<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことが心の面白くないことばかりで、それすら碌々に書いてもいない。けれども前借をと言えば、<ruby><rb>仮</rb><rt>よ</rt></ruby>し自分が出社せぬ日であっても、これまで何時も主筆か編輯長に当てゝ<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>の銭を雪岡に渡すように、と、長田の手紙を持ってさえ行けば、私に直ぐ受取れるように、兎に角気軽にしてくれている。然るに、仮令銭は渡せない分とも、その銭は渡すことならぬ、というその銭は、何ういうつもりで書いたのだろう？　自分は<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby><ruby><rb>懶惰者</rb><rt>なまけもの</rt></ruby>で通っている。お雪を初めその<ruby><rb>母親</rb><rt>おや</rt></ruby>や兄すらも、最初こそ二足も三足も譲っていたものだが、それすら後には向からあの通り<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>愛想を尽かして了った。幾許自分にしても<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>で見ているように<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>もなく、只々懶けるのでもないが、成程懶けているに違いない。長田は国も同じければ、学校も同時に出、また<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>ている職業も<ruby><rb>略</rb><rt>ほ</rt></ruby>ぼ似ている。それ故此の東京にいる知人の中でも長田は最も古い知人で、自分の古い頃のことから、つい近頃のことまで、長田が自分で観、また此方から<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいちょい</rt></ruby>話しただけのことは知っている。長田の心では雪岡はまた女に凝っている、あの通り、長い間一緒にいた女とも<ruby><rb>有耶無耶</rb><rt>うやむや</rt></ruby>に別れて了って、段々詰らん坊になり下っている癖に、またしても、女道楽でもあるまい、と、少しは見せしめの為にその銭は渡すこと相ならぬ、という積りなのであろうか。それならば難有い訳だ。が、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>！　あの人間の<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>から考えて見ても、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の事に立入った忠告がましいことや、口を利いたりなどする長田ではない。して見れば、此の、その銭は渡されぬという簡単な文句には、あの先達ての様子といい、長田の性質が<ruby><rb>歴然</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と出ている。これまでとても、随分向側に廻って、小蔭から種々な事に、ちびり〱邪魔をされたのが、あれにあれに、あれと眼に見えるように心に残っている。此度はまた淫売のことで崇られるかな、と平常は忘れている、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことが一時に念頭に上って自分をば取着く島もなく突き離されたその上に、まだ石を<ruby><rb>打付</rb><rt>ぶッつ</rt></ruby>けられるかと、<ruby><rb>犇々</rb><rt>ひしひし</rt></ruby>と感じながら、

「ふむ〱。」と、独り<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>き〱唯それだけの手紙を私はお宮が、

「それは何？」

と、<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>に怪しんで問うまで、長い間、黙って<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていた。それ故文句も、一字一句覚えている。

お宮にそう言われて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やっ</rt></ruby>と我れに返って、「うむ。何でもないさ！」と言って置いて、早速降りて行って、女中を小蔭に呼んで訳を話すと、女中は忽ち厭あな顔をして、

「そりゃ困りますねえ。手前共では、もう<ruby><rb>何方</rb><rt>どなた</rt></ruby>にも、一切そういうことは、しないようにして居るんですが、万一そういうことがあった場合には、私共女中がお立て換えをせねばならぬことになって居るんですから。ですから其の時は時計か何か持ってお出になる品物でも一時お預りして置くようにして居りますが。」と、言いにくそうに言う。じゃ、古い<ruby><rb>外套</rb><rt>とんび</rt></ruby>だが、あれでも置いとこう、と、私が座敷に戻って来ると、神経質のお宮は、もう感付いたか、<ruby><rb>些</rb><rt>ちょい</rt></ruby>と顔を青くして、心配そうに、

「<ruby><rb>何事</rb><rt>なに</rt></ruby>？　……<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたの？　……何うしたの？」と、気にして聞く。私は、<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>った！　と、穴にも入りたい心地を<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めて隠して、

「<ruby><rb>否</rb><rt>う</rt></ruby>む！　ナニ。何でもないよ。」と言っていると、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>から、

「宮ちゃん！　宮ちゃん！」と口早に呼ぶ。

お宮は「えッ？」と降りて行ったが、直ぐ上って来て、黙って坐った。

「じゃ、もうお帰り。」と、いうと、

「そうですか。じゃもう帰りますから……<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>御迷惑を掛けました。」と、尋常に挨拶をして帰って行った。

その後から、直ぐ此度は、若い三十七八の他の女中が、入り<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>りに上って来て、

「本当にお気の毒さまですねえ。手前共では、もう一切そういうことはしないことにして居りますから、どうぞ<ruby><rb>悪</rb><rt>あし</rt></ruby>からず思召してねえ。……あの長田さんにも随分長い間、御贔屓にして戴いて居りますけれど、あの方も本当にお堅い方で。長田さんにすら、もう一度も<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことはございませんのですから。……況してあなたは長田さんのお友達とは承知して居りますけれどついまだ昨今のことでございますし。」

と、さも気の毒そうな顔をして、黄色い声で、口先で世辞とも何とも付かぬことを言いながら追立てるように、其処等のものを<ruby><rb>片端</rb><rt>かたっぱし</rt></ruby>からさっ〱と形付け始めた。

「えゝ、ナニ。そりゃそうですとも。私の方が済まないんです。私は今まで<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処で借りを拵えた覚えがないもんですから、それが極りが悪いんです。」と、心の千分の一を言葉に出して恥辱を自分で間切らした。

「あれ！　極りが悪いなんて。些ともそんな御心配はありませんわ。ナニ、斯様な失礼なことを申すのじゃございませんのですけれどねえ。」と、少し<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>になった真似をして、「帳場が、また悪く<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby><ruby><rb>ヶ間敷</rb><rt>まし</rt></ruby>いんですから、私なんか全く困るんですよ。……時々斯うして、お客様に、女中がお気の毒な目をお掛け申して。」

「全く<ruby><rb>貴女</rb><rt>あんた</rt></ruby>方にはお気の毒ですよ。……いや、何うも長居をして済みませんでした。」と、私はそんなことを言いながらも、

「あの女は、もういなくなるそうですねえ。……自分じゃ、つい此の間出たばかりだ、と言っていたが、そんなことはないでしょう。」と聞くと、

「えゝ居なくなるなんて、ことは、まだ聞きませんが、随分前からですよ。此度戻って来たのは、つい此間ですけれど、初めて出てから、もう余程になりますよ。」

と、言う。私は「<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>め！　何処まで譃を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>くか。」と思って、ます〱心に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いた女の箔が<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めた思いがした。

私は、あの古い<ruby><rb>外套</rb><rt>とんび</rt></ruby>を<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>に置いて、桜木の入口を出たが、それでも、其れも着ていれば目に立たぬが、下には、あの、もう袖口も何処も切れた、剥げちょろけの古い<ruby><rb>米沢</rb><rt>よねざわ</rt></ruby>琉球の羽織に、着物は例の、焼けて焦茶色になった秩父銘仙の綿入れを着て、堅く腕組みをしながら玄関を下りた時の心持は、吾れながら、自分の見下げ果てた<ruby><rb>状態</rb><rt>ざま</rt></ruby>が、<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と眼に映るようで、思い做しばかりではない、女中の「左様なら！　どうぞお近い内に！」という送り出す声は、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から冷水を浴せ掛けられているようであった。

<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は、お宮の来るのが、遅いので、女中が気にして時々顔を出しては、「……いえ。あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>のいる家は、恐ろしい慾張りなもんですから、一寸でも時間があると、御座敷へ出さすものですから、それで斯う遅くなるのです。……本当にお気の毒さまねえ。でも、もう追付け参りましょうから。」と詫びながら柔かいお召のどてらなどを持って来て貸してくれた。私はそれを、悠然と着込んで待っていたのだが、<ruby><rb>用事</rb><rt>よう</rt></ruby>のある者は、皆な、それぞれ忙しそうにしている時分に、日の射している中を、昨夜に変る、今朝の此の姿は、色男の器量を瞬く間に下げて了ったようで、音も響も耳に入らず、眼に付くものも眼に入らず、消え入るように、<ruby><rb>勢</rb><rt>せい</rt></ruby>も力もなく電車に乗ったが、私は切符を買うのも気が進まなかった。

喜久井町の<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に戻ると、もう彼れ是れ二時を過ぎていた。さて詰らなさそうに戻って見れば、家の中は今更に、水の<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた跡のようで、何の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>もしない。何処か、其処らに<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り着く物でもいるのではないかと思われるように、またぞっと寂しさが募る。私は、落ちるように机の前に尻を置いて、「ほうッ」と、一つ太息を吐いて、見るともなく眼を遣ると、もう<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくか</rt></ruby>も〱形付けをせぬ机の上は、<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけな<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なものが、重なり放題重なって、何処から手の付けようもない。それを見ると、また続けて太息が出る。「あゝ！」と思いながら、脇を向いて、此度は、背を凹ますように捻じまげて何気なく、奥の六畳の方を振返ると、あの薄暗い壁際に、矢張りお前の箪笥がある。其れには<ruby><rb>平常</rb><rt>いつも</rt></ruby>の通り、用箪笥だの、針箱などが重ねてあって、その上には、何時からか長いこと、桃色<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>の裏の付いた糸織の、古うい前掛に包んだ<ruby><rb>火熨斗</rb><rt>ひのし</rt></ruby>が吊してある。「あの前掛は大方十年も前に締めたのであろう！」と思いながら私は、あの暗い天井の隅々を、一遍ぐるりッと見廻した。そうして、また箪笥の方に気が付くと、あの<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>も、下の方の、お前の僅ばかりの物で、<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>なるものの入っていそうな処は、<ruby><rb>最初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>から錠を下してあったが、でも上の二つは、――私の物も少しは入っているし、――何か知ら、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なものがあって、錠も下さないであったが、婆さんがしたのか、誰れがしたのか、何時の間にかお前の物は、<ruby><rb>余処々々</rb><rt>よそよそ</rt></ruby>しく、他へ入れ換えて了って、今では<ruby><rb>唯上</rb><rt>たった</rt></ruby>の一つが、<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬ</rt></ruby>き差し出来るだけで、それには私の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>が二三枚あるばかりだ。……「一体何処に何うしているんだろう？」と、また<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを思い沈んでいたが、……お宮も何処かへ行って了うと、言う。<ruby><rb>加之</rb><rt>それに</rt></ruby>今朝のことを思い出せば、遠く離れた此処に斯うしていても、何とも言うに言えない<ruby><rb>失態</rb><rt>ぶざま</rt></ruby>が未だに身に付き纏うているようで、唯あの土地を、思っても厭な心持がする。ナニ糞！　と思って了えば好いのだが、そう思えないのは矢張りお宮に心が残るのであろう。と、ふっと自分が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くもなって、独り笑いをした。

後はまた、それからそれへと種々なことを取留めもなく考えながら、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>縁側に立って、遠くの方を見ると、<ruby><rb>晩秋</rb><rt>あき</rt></ruby>の空は見上げるように高く、<ruby><rb>清浄</rb><rt>きれい</rt></ruby>に晴れ渡って、世間が静かで、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひい</rt></ruby>やりと、<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に好い気持がして来る。向の高台の上の方に、何処かの工場の烟であろう？　緩く立迷っている。

それ等を見るともなく見ると、私は、あゝ、自分は秋が好きであった。誰れに向っても、自分は秋が好きだ〱、と言って、秋をば自分の時節が<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って来たように、その静かなのを却って楽しく賑かなものに思っていたのだが、此の四五年来というもの、年一年と<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の年を考え出して見ても楽しい筈であった其の秋の楽しかったことがない。<ruby><rb>毎年</rb><rt>いつ</rt></ruby>も唯そわ〱と、心ばかり急がしそうにしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に経って行って了う。分けて此の秋くらい、斯うして<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>なに寂しい思いのするのは、初めて覚えることだ。何よりも一つは<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>の<ruby><rb>所為</rb><rt>せい</rt></ruby>かも知れぬ。<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>さえ頻りに眼に付いて来た。<ruby><rb>加之</rb><rt>それに</rt></ruby>段々、予期していたことが、実際とは違って来るのに、気が付くに連れて、世の中の<ruby><rb>事物</rb><rt>もの</rt></ruby>が、何も彼も大抵興が醒めたような心持がする。――<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のお宮が丁度それだ。あゝいう境遇にいる<ruby><rb>女性</rb><rt>おんな</rt></ruby>だから、何うせ<ruby><rb>清浄</rb><rt>きれい</rt></ruby>なものであろう筈も無いのだが、何につけ事物を善く美しゅう、<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんと</rt></ruby>のように思い込み勝ちな自分は、あのお宮が最初からそう思われてならなかった。すると昨夕から今朝にかけて美しいお宮が<ruby><rb>普通</rb><rt>あたりまえ</rt></ruby>な<ruby><rb>淫売</rb><rt>おんな</rt></ruby>になって了った。口の利きようからして次第に<ruby><rb>粗末</rb><rt>ぞんざい</rt></ruby>な口を利いた。自分の思っていたお宮が今更に懐かしい――。が、あのお宮は<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>って了うか知らん？　――自分は何うも夢を真実と思い込む<ruby><rb>性癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>がある。それをお雪は屡〻言って、「あなたは空想家だ。小栗風葉の書いた<ruby><rb>欽哉</rb><rt>きんや</rt></ruby>にそっくりだ。」と、<ruby><rb>戯談</rb><rt>からか</rt></ruby>うように「欽哉々々。」と言っては、「そんな<ruby><rb>目算</rb><rt>あて</rt></ruby>も無いことばかり考えていないで、もっと手近なことを、さっ〱と<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>さいな！」と、たしなめたしなめした。本当に、自分は、今に、もっと良いことがある、今に、もっと良いことがある、と夢ばかり見ていた。けれども、私を空想家だ空想家だと言った、あのお雪が矢張り空想勝ちな人間であった。「今にあなたが良くなるだろう、今に良くなるだろう、と思っていても何時まで経っても良くならないのだもの。」と、あの晩<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>が言ったことは、自分でも<ruby><rb>熟〻</rb><rt>つくづく</rt></ruby>とそう思ったからであろうが、私には、あゝ言ったあの調子が<ruby><rb>悲哀</rb><rt>みじめ</rt></ruby>なように思われて、何時までも忘れられない。<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>も私と一緒に、自分の<ruby><rb>福運</rb><rt>うん</rt></ruby>を只夢を見ていたのだ。私は<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>其の夢を本当にしてやることが出来なかった。七年の長い間のことを、今では、さも、詰らない夢を見て<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>ばかり取って了った、と、恨んで居るであろう。年々ひどく顔の皺を気にしては、

「私の眼の下の此の皺は、あなたが拵えたのだ。私は此の皺だけは恨みがある。……これは、あの<ruby><rb>音羽</rb><rt>おとわ</rt></ruby>にいた時分に、あんまり貧乏の苦労をさせられたお蔭で出来たんだ。」

と、二三年来、鏡を見ると、時々それを言っていた。……そんなことを思いながら、フッと庭に目を遣ると、杉垣の傍の、笹混りの草の葉が、<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>するのは、して、何時か<ruby><rb>末枯</rb><rt>すが</rt></ruby>れて了っている中に、ひょろ〱ッと、<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>ばかり伸びて、<ruby><rb>勢</rb><rt>せい</rt></ruby>の無いコスモスが三四本わびしそうに咲き遅れている。

これは此の六月の初めに、<ruby><rb>遂々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>話が着いて、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>が彼の女中の心配までして置いて、あの関口台町から<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ帰って来る時分に、<ruby><rb>彼家</rb><rt>あすこ</rt></ruby>の庭によく育っていたのを、

「あなた、あのコスモスを少し持って行きますよ。<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>の庭に植えるんですから。」と、それでも楽しそうに言って、箪笥や蒲団の包みと一緒に荷車に載せて持って戻ったのだが、誰れが植えたか、投げ植えるようにしてあるのが、今時分になって、<ruby><rb>漸</rb><rt>よ</rt></ruby>う〱数えるほどの花が白く開いている。

あゝ、そう思えば、あの戸袋の下の、壁際にある<ruby><rb>秋海棠</rb><rt>しゅうかいどう</rt></ruby>も、あの時持って来たのであった。先達て中<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby><ruby><rb>秋雨</rb><rt>あめ</rt></ruby>の降り朽ちているのに、後から後からと蕾を付けて、<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>好く咲いているな、と思って、折々眼に付く度に、そう思っていたが、其れは既う咲き止んだ。

六月、七月、八月、九月、十月、十一月と、丁度半歳になる。あの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>、何うも不自由で仕方が無い。夏は何うせ東京には居られないのだから、<ruby><rb>旅行</rb><rt>たび</rt></ruby>をするまでと、言って、また後を追うて此家に<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>一緒になって、それから、七月の十八日であった。いよ〱箱根に二月ばかし行く。それが最後の別れだ、と言って、立つ前の日の朝、一緒に出て、二人の<ruby><rb>白単衣</rb><rt>しろかたびら</rt></ruby>を買った。それを着て行かれるように、丁度盆時分からかけて暑い中を、私は早く寝て了ったが、独り徹夜をして縫い上げて、自分の敷蒲団の下に敷いて寝て、<ruby><rb>敷伸</rb><rt>しきの</rt></ruby>しをしてくれた。朝、眼を覚して見ると、もう自分は起きていて、まだ<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のまゝ、詰らなそうに、考え込んだ顔をして、<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と黙って煙草を吸っていた。もう年が年でもあるし、小柄な、痩せた、<ruby><rb>標致</rb><rt>きりょう</rt></ruby>も、よくない女であったが、あゝ、それを思うと、一層みじめなような気がする。それから新橋まで私を送って、暫時汽車の窓の外に立っていたが、別に話すこともなかった。私の方でも口を利くのも怠儀であった。

「斯うしていても<ruby><rb>際限</rb><rt>きり</rt></ruby>がないから、……私、<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>帰りますよ。じゃこれで一生会いません。」と、<ruby><rb>傍</rb><rt>あたり</rt></ruby>を憚るように、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で強いて笑うようにして言った。

私は「うむ！」と、唯一口、<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>くのやら、<ruby><rb>頭振</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を<ruby><rb>掉</rb><rt>ふ</rt></ruby>るのやら自分でも分らないように言った。

それから汽車に乗っている間、窓の枠に頭を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>して、<ruby><rb>乗客</rb><rt>ひと</rt></ruby>の顔の見えない方ばかりに眼をやって<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と思いに耽っていた。――<ruby><rb>彼地</rb><rt>あちら</rt></ruby>に行っても面白くないから、それで、またしても戻って来たのだが、斯うしていても、あの年齢を取った、<ruby><rb>血気</rb><rt>ちのけ</rt></ruby>のない、悧巧そうな顔が、<ruby><rb>明白</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と眼に見える。……あれから、あゝして、あゝしている間に秋海棠も咲き、コスモスも咲いて、日は流れるように経って了った。……

それにしても、胸に納まらぬのは、あの長田の手紙の文句だ。<ruby><rb>帰途</rb><rt>かえり</rt></ruby>に電車の中でも、勢いその事ばかりが考えられたが、此度のお宮に就いては、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>じゃない<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>だ。<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃ</rt></ruby>れた唯の悪戯は長田のしそうなことではない。……碌に<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>も持たないで長居をするなどは、誰れに話したって、自分が悪い。それに就いて人は怨まれぬ。が、あの手紙を書いた長田の心持は、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさに、<ruby><rb>打壊</rb><rt>ぶちこわ</rt></ruby>しをやるに違いない。何ういう心であるか、<ruby><rb>余処</rb><rt>よそ</rt></ruby>ながら見て置かねばならぬ。もし間違って、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>の察した通りでなかったならば、其れこそ幸いだが。それにしても、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>との間に<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>とでも荒立った気持でいるのは、自分には斯う<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と独りでいても、<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>えられない。兎に角行って様子を見よう。自家にいても何だか心が落着かぬ。

と、また出て長田の処に行った。

長田は、もう一と月も<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>から、目白坂の、あの、水田の居たあとの、二階のある家に越して来ていたから、行くには近かった。――長田は言うに及ばず、その水田でも前に言った△△新聞社の上田でも、村田でも、其の他これから後で名をいう人達も、凡てお前の一寸でも知っている人ばかりだ。――

長田は、丁度居たが、二階に上って行くと、<ruby><rb>平常</rb><rt>いつも</rt></ruby>は大抵<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>から何か知ら、初め口を利くのが、その時は、長田に似ず、何か自分で気の済まぬことでも、私に仕向けたのを笑いで間切らすように、<ruby><rb>些</rb><rt>ちょっ</rt></ruby>と顔に愛嬌をして、

「今日も少し<ruby><rb>使者</rb><rt>つかい</rt></ruby>の来るのが遅かったら、好かったんだが、……<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>でも自分で社に行くと可い。」と言う。

「うむ。なに、一寸相変らずまた小遣が無くなったもんだから。」と、私は、何時も<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>くいう通りに言って、何気なく笑っていた。すると、長田は、意地悪そうな顔をして、

「<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>が使う<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>だから、そりゃ何に使っても可い<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>なんだ。……何に使っても可い理由なんだ。」と、私に向って言うよりも、自分の何か、胸に潜んでいることに向って言っているように、軽く<ruby><rb>首肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら言った。

私は、「妙なことを言う。じゃ<ruby><rb>確適</rb><rt>てっきり</rt></ruby>と此方で想像した通りであった。」と腹で<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。が、それにしても、<ruby><rb>彼様</rb><rt>あん</rt></ruby>なことをいう処を見れば、今朝の使者が何処から行ったということを長田のことだから、最う見抜いているのではなかろうか、とも思いながら、俺が道楽に銭を遣うことに就いて言っているのだろう、それは飲み込んでいる、というように、

「はゝゝ。」と私は抑えた笑い方をして、それに無言の答えをしていた。けれども何処から使者が行ったかは気が付いていないらしい。

けれども、お宮はあの通り隠れると言ったから、本当にいなくなるかも知れぬ。若し矢張りいるにしても、いなくなると言って置いた方が事がなくって好い。<ruby><rb>無残々々</rb><rt>むざむざ</rt></ruby>と人に話すには、惜いような<ruby><rb>昨夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>であったが、<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そ長田に話して了って、岡嫉きの気持を<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>がした方が可い。と私は即座に決心して、

「例のは、もう居なくなるよ。<ruby><rb>二三日</rb><rt>にさんち</rt></ruby>あと<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>行ったが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>には悪い<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>が付いている。初め大学生の処に嫁に行っていたなんて言っていたが、まさか<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な事は無いだろうと思っていたが、その通りだった。その男を去年の十二月から、つい<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>まで隠れていたんだが、其奴がまた探しあてて出て来たから二三日中にまた何処かへ隠れねばならぬ、と言って記念に持っていてくれって僕に古臭い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しごき</span>なんかをくれたりした。……少しの間面白い夢を見たが、<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>覚めた。あゝ！　あゝ！　もう行かない。」

笑い〱、そう言うと、長田は興ありそうに聞いていたが、居なくなると言ったので初めて、<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby>同情したらしい笑顔になって、私の顔を珍らしく優しく<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>りながら、

「本当に、一寸だったなあ。……そういうようなのが果敢き<ruby><rb>縁</rb><rt>えにし</rt></ruby>というのだなあ！」

と、私の心を咏歎するように言った。私もそれにつれて、少しじめ〱した心地になって、唯、

「うむ！」と言っていると、

「本当にいなくなるか知らん？　そういうような奴は<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>くあるんだが、其様なことを言っても、なか〱急に何処へも行きゃしないって。……そうかと思っていると、まだ居ると思った奴が、此度行って見ると、もういなくなっている、なんて言うことは屡くあることなんだから。」と、長田は自分の<ruby><rb>従来</rb><rt>これまで</rt></ruby>の経験から割り出したことは確だと、いうように一寸首を傾けて、キッとした顔をしながら半分は独言のように言った。

私は、<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、その言葉を聞きながら顔色を見ていると、

「その内是非一つ行って見てやろう。」という心が<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と見える。

「或はそうかも知れない。」と私はそれに応じて答えた。

<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>そんなことを話していたが、長田は忙しそうであったから、早く出て戻った。

<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に戻ると、日の短い最中だから、四時頃からもう暗くなったが、何をする気にもなれず、また矢張り机に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>って掌に額を支えたまゝ<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>としていると、段々気が滅入り込むようで、何か<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>としたものにでも執り付いていなければ、何処かへ<ruby><rb>奪</rb><rt>さら</rt></ruby>われて行きそうだ。そうして薄暗くなって行く<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の中では、頭の中に、お宮の、初めて逢った晩のあの驚くように長く続いた痙攣。<ruby><rb>深夜</rb><rt>よふけ</rt></ruby>の朧に霞んだ電灯の<ruby><rb>微光</rb><rt>うすあかり</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に惜気もなく露出して、任せた柔い真白い胸もと。それから今朝「精神的に接するわ」と言った、あの時のこと、その他折によって、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>に変って、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>の眼に映った眉毛、目元口付、むっちりとした白い<ruby><rb>掌先</rb><rt>てさき</rt></ruby>、くゝれの出来た手首などが<ruby><rb>明歴</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と浮き上って忘れられない。……それが<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>居なくなって了うのだと思うと、尚お明らかに眼に残る。

私は、何うかして、此の寂しく<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れたような心持を、少しでも陽気に引立てる工夫はないものか、と考えながら何の気なく、其処にあった新聞を取上げて見ていると、有楽座で今晩丁度呂昇の「<ruby><rb>新口村</rb><rt>にのくちむら</rt></ruby>」がある。これは好いものがある。これなりと聞きに行こう、と、八時を過ぎてから出掛けた。

そういうようにして、お宮に夢中になっていたから、勝手に付けては、殆ど毎日のように行っていた矢来の婆さんの<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>へは此の十日ばかりというもの、パッタリと忘れたように、足踏みしなかったが、お宮がいなくなって見ると、また矢張り婆さんの家が恋しくなって、久振りに行って見た。婆さんは何時も根好く状袋を張っていたが、<ruby><rb>例</rb><rt>いつも</rt></ruby>の優しい声で、

「おや、雪岡さん、何うなさいました？　此の頃はチットもお顔をお見せなさいませんなあ。何処かお加減でも悪いのかと思って、おばさんは心配していましたよ。」と言いながら、眼鏡越しに私を見戍って、「雪岡さん、<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>なんかつんで、大層綺麗におめかしして。」と、尚お私の方を見て<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>っている。

「えゝ暫時御無沙汰をしていました。」

と言っていると、

「雪岡さん。あなた<ruby><rb>既</rb><rt>も</rt></ruby>う好い<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>が出来たんですってねえ。大層早く拵えてねえ。」と、あの婆さんのことだから、言葉に情愛を付けて面白く言う。私は、ハテ不思議だ、屹度お宮のことを言うのだろうが、何うしてそれが瞬く間に此の婆さんの<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>にまで分ったろうか、と思って、首を傾けながら

「えゝ、少しゃそれに似たこともあったんですが、何うして、それがおばさんに分って？」

「ですから悪いことは出来ませんよ。……チャンと私には分ってますよ。」

「へえ！　不思議ですねえ。」

「不思議でしょう。……此の間お雪さんが柳町へ来た<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、また一寸寄った、と言って、私の家へ来て、『まあ、おばさん。聞いて下さい。雪岡は何うでしょう、既う情婦を拵えてよ。矢張りまた<ruby><rb>前年</rb><rt>いつか</rt></ruby>のように浜町か<ruby><rb>蠣殻町</rb><rt>かきがらちょう</rt></ruby>らしいの。……あの人のは三十を過ぎてから覚えた道楽だから、もう一生止まない。だから愛想が尽きて了う。』ッて、お雪さんが自分でそう言っていました。……雪岡さん、本当に悪いことは言わないから<ruby><rb>淫売婦</rb><rt>いんばい</rt></ruby>なんかお止しなさい。あなたの男が下るばかりだから。」と思い掛けもないことを言う。

「へーえッ……驚いたねえ！　お雪が、そう言った。不思議だ！　譃だろう。おばさん可い加減なことを言っているんでしょう。お雪が<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことを知っている<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がないもの。……」

「不思議でしょう！　……あなた此の頃、<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>に付ける<ruby><rb>香油</rb><rt>あぶら</rt></ruby>かなんか買って来たでしょう。ちゃんと机の上に瓶が置いてあるというではありませんか。そうして鏡を見ては<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>を<ruby><rb>梳</rb><rt>と</rt></ruby>いているでしょう。」婆さんは、若い者と違って、別段に冷かすなどという風もなく、そういうことにも言い馴れた、という風に、初めから<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>まで同じような句調で、落着き払って、柔らかに言う。

「へーえッ！　<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことまで！　何うしてそれが分ったでしょう？」

「それから女の処から<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>く手紙が来るというではありませんか。」

「へッ！　手紙の来ることまで！」

私は本当に呆れて了った。そうして<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に<ruby><rb>頭部</rb><rt>あたま</rt></ruby>に手を遣りながら、「気味が悪いなあ！　お雪の奴、来て見ていたんだろうか。……彼奴屹度来て見たに違い無い。」

「<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>、お雪さんは行きゃしないが、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんが、お雪さんの処へ行って、そう言ったんでしょう。……そうして此の頃何だか、ひどくソワ〱して、<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいちょい</rt></ruby>泊っても来るって。帰ると思って、戸を締めないで置くもんだから不用心で仕様が無いって。」

「へーえッ！　あの婆さんが、そう言った。譃だ！　年寄に其様なことが、一々分る<ruby><rb>道理</rb><rt>わけ</rt></ruby>が無いもの。」

「それでも、お母さんが、そう言ったって。お母さんですよ。違やあしませんよ。……あれで矢張し吾が<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>に関したことだから、<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>年を取っていても、気に掛けているんでしょうよ、……何うしても雪岡という人は駄目だから、お前も、もう其の積りでいるが好いって、お雪さんに、そう言っていたそうですよ。」

「へーえッ！　そうですかなあ！　本当に済まないなあ！」私は<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>から済まないと思った。

「ですからお雪さんだって、あなたの<ruby><rb>動静</rb><rt>ようす</rt></ruby>を遠くから、あゝして見ているんですよ。<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いてなんかいやしませんよ。」

「そうでしょうか？」

「そうですよ。それに違いありませんよ……此の間も私の話を聞いて、お雪さん、独りで大層笑っていましたっけ……私が、『お雪さん、雪岡さんがねえ。時々私の<ruby><rb>家</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ来ては、婆やのように、おばさん〱と、くさやで、お茶漬を一杯呼んで下さいと言って、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に無ければ、自分で買って来て、それを私には出来ないから、おばさんに焼いて、むしってくれって、箸を持ってちゃんと待っているのよ。』と言ったら、お雪さんが、『まあ！　其様なことまでいうの？　本当に雪岡には呆れて了う。おばさんを<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて私に言う通りに言っているのよ。』と独りで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>言って笑っていましたよ。」と婆さんは、言葉に<ruby><rb>甘味</rb><rt>うまみ</rt></ruby>を付けて、静かに<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>いながら、そう言った。

私も「へーえ、お雪公、其様なことを言っていましたか。」と言いながら笑った。

<ruby><rb>淫売婦</rb><rt>いんばい</rt></ruby>と思えば汚いけれどお宮は、ひどく気に入った女だったが、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>がいなくなっても、お前が時々、<ruby><rb>矢来</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来て其様なことを言って、婆さんと、蔭ながらでも私の噂をしているかと思えば、思い做しにも自分の世界が賑かになったようで、お宮のことも諦められそうな気持がして、

「矢張り何処に居るとも言いませんでしたか。」

と、訊ねて見たが、婆さんも、

「言わないッ！　何処にいるか、それだけは私が何と言って聞いても、『まあ〱それだけは。』と言って何うしても明さない。」

と、さも〱其れだけは、力に及ばぬように言う。

そうなると、矢張り私の心元なさは少しも減じない。それからそれへと、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことが思われて、相変らず心の遣りばに迷いながら、気抜けがしたようになって、またしても、以前のように何処という<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく方々歩き廻った。けれどもお宮という者を知らない時分に歩き廻ったのとはまた気持が大分違う。寂しくって物足りないのは同じだが、その有楽座の新口村を聴いてから、あの「……<ruby><rb>薄尾花</rb><rt>すすきおばな</rt></ruby>も冬枯れて……」と、呂昇の透き徹るような、高い声を張り上げて語った処が、何時までも耳に残っていて、それがお宮を懐かしいと思う<ruby><rb>情</rb><rt>こころ</rt></ruby>を<ruby><rb>誘</rb><rt>そそ</rt></ruby>って、自分でも時々可笑いと思うくらい心が<ruby><rb>浮</rb><rt>うわ</rt></ruby>ついて、世間が何となく陽気に思われる。私は湯に入っても、便所に行っても其処を口ずさんで、お宮を思っていた。

<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>までに何とか<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めて了わなければならぬ、と、言っていたから、二日ばかりは<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な取留めもないことばかりを思っていたが、丁度その日になって、日本橋の辺を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>うろうろ</rt></ruby>しながら、有り合せた自動電話に入って、そのお宮のいる沢村という家へ聞くと、お宮は居なくて、<ruby><rb>主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>が出て、

「えゝ、宮ちゃん。そういうことを言うにゃ言っていたようですけれど、まだ急に何処へも行きゃしないでしょう。荷物もまだ<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に置いているくらいですもの。……ですから、御安心なさい、また何うか来てやって下さい。」と、流石に商売柄、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>から正直に女から聞いた通りを口に出して訊ねて見ても、其様な悪い<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>の付いていることなんか、少しも知らぬことのように、何でもなく言う。

兎に角、そう言うから、じゃお宮という女<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、何を言っているのか、知れたものじゃない、と思いもしたが、まだ何処へも行きゃしないというので安心した。斯うしてブラ〱としていても、まだ心の<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>の楽しみがあるような気がする。けれども其処にいるとすれば、何れ長田のことだから、此の間も、あの「本当に何処かへ行くか知らん？」と言っていた処を見ると、遣って行くに相違ない。その他<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な<ruby><rb>嫖客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>に出る。これまでは其様なことが、そう気にならなかったが、しごきをくれた心が忘れられないばかりではない、あれからは女が自分の物のように思われてならぬ、と思い詰めれば其様な気がするが、よく考えれば、その吉村という切っても切れぬらしい情夫がある。……自分でも「いけない！」というし、情夫のある者は何うすることも出来ない。と言って、あゝして、あのまゝ置くのも惜しくって心元ない。<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>がうんと有れば十日でも二十日でも居続けていたい。

「あゝ銭が欲しいなあ！」と、私は<ruby><rb>盗坊</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>というものは、斯ういう時分にするのかも知れぬ、と其様なことまで下らなく思いあぐんで、日を暮らしていた。

そんなにして自家に独りでいても<ruby><rb>何事</rb><rt>なん</rt></ruby>にも手に付かないし、そうかと言って出歩いても心は少しも落着かない。それで、またしても自動電話に入ってお宮の処に電話を掛けて見る。

「宮ちゃん、お前あんなことを言っていたから、私は本当かと思っていたのに、主婦さんに聞くと、何処にも行かないというじゃないか。君は譃ばっかり言っているよ。君がいてくれれば僕には好いんだが、あの時は<ruby><rb>喪然</rb><rt>がっかり</rt></ruby>して了ったよ。」と恨むように言うと、

「えゝ、そう思うには思ったんですけれど、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>都合があってねえ。……それに自家の姉さんも、まあ、も少し考えたが好いというしねえ。……あなたまた入らしって下さい。」

「あゝ、行くよ。」

と、言うようなことを言って、何時まででも電話で話をしていた。行く銭が無い時には、私は五銭の白銅一つで、せめて電話でお宮と話をして虫を<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えていた。電話を掛けると、大抵は女中か、主婦かが初め電話口に出て、「今日、宮ちゃんいるかね？」と聞くと、「えゝ、いますよ。」と言って、それからお宮が出て来るのだが、その出て来る間の、たった一分間ほどが、私には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞくぞく</span>として待たれた。お宮が出て来ると、<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も、眼を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>ったような静かな、優しい声で、

「えゝ、あなた、雪岡さん？　わたし宮ですよ。」と、定ってそう言う。その「わたし宮ですよ。」という、何とも言うに言えない句調が、私の心を溶かして了うようで、それを聞いていると、少し細長い笑窪の出来た、物を言う口元が<ruby><rb>歴々</rb><rt>ありあり</rt></ruby>と眼に見える。

「じゃその内行くからねえ。」と、言って、「左様なら、切るよ。」と、言うと、「あゝ、もし〱。あゝ、もし〱。雪岡さん！」と呼び掛けて、切らせない。此度は、「さよなら！　じゃ、いらっしゃいな！　切りますよ。」と、向から言うと、私が、「あゝもし〱。もし〱。宮ちゃん宮ちゃん、<ruby><rb>一寸々々</rb><rt>ちょいとちょいと</rt></ruby>。まだ話すことがあるんだよ。」と何か話すことがありそうに言って<ruby><rb>追掛</rb><rt>おっか</rt></ruby>ける。<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>にはわざと、両方で、

「左様なら！」

「さよなら！」

を言って、後を<ruby><rb>黙</rb><rt>だま</rt></ruby>あっていて見せる。私は、お宮の方でも、そうだろうと思っていた。

そうして交換手に「もう五分間来ましたよ。」と、催促をせられて、そのまゝ惜しいが切って了うこともあったが、後には、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あと</span>からまた一つ落して、続けることもあった。白銅を三つ入れたこともあれば、十銭銀貨を入れたこともあった。私は、気にして、<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>白銅を絶やさないようにしていた。

珍らしく一週間も経って、桜木では、此の間のようなこともあったし、元々<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>は長田の定宿のようになっている処だから、また<ruby><rb>何様</rb><rt>どん</rt></ruby>なことで、何が分るかも知れないと思って、お宮に電話で、桜木は何だか厭だから、是非何処か、お前の知った他の<ruby><rb>待合</rb><rt>うち</rt></ruby>にしてというと、それではこれ〱の処に菊水という、桜木ほどに<ruby><rb>清潔</rb><rt>きれい</rt></ruby>ではないが、私の気の置けない<ruby><rb>小</rb><rt>ちさ</rt></ruby>い家があるから、と、約束をして、私は、ものの一と月も顔を見なかったような、<ruby><rb>急々</rb><rt>せかせか</rt></ruby>した心持をしながら、電話で聞いただけでは、其の菊水という家もよく分らないし、一つは沢村という家は何様な家か見て置きたいとも思って、人形町の停留場で降りて、行って見ると、成程<ruby><rb>蠣殻町</rb><rt>かきがらちょう</rt></ruby>二丁目十四番地に、沢村ヒサと女名前の小い表札を打った家がある。古ぼけた二階建の棟割り長屋で、狭い間口の硝子戸をぴったり締め切って、<ruby><rb>店前</rb><rt>みせさき</rt></ruby>に、言い訳のように、数えられるほど「敷島」だの「大和」だのを並べて、他に半紙とか、状袋のようなものを少しばかり置いている。ぐっと差し出した軒灯に、通りすがりにも、よく眼に付くように、向って行く方に向けて赤く大きな煙草の葉を<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>に<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>いている。「斯ういう処にいて<ruby><rb>働</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎに出るのかなあ！」と、私は、<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>いような、浅間しいような気がして、<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby><ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>に立ったまゝ<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>と内の様子を見ていた。

「御免！」

と言って、私は出て来た女に、身を隠すようにして、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>で、「私、雪岡ですが、宮ちゃんいますか。」と、言いながら、愛想に「敷島」を一つ買った。「あゝ、そうですか。じゃ一寸お待ちなさい！」と、次の間に入って行ったが、また出て来て、「宮ちゃん、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>の戸外の方から行きますから。」と、<ruby><rb>密々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby>と言う。

私は何処から出て来るのだろう？　と思って、戸外に突立っていると、直ぐ壁隣の洋食屋の先きの、<ruby><rb>廂合</rb><rt>ひあわ</rt></ruby>いのような<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすくらが</rt></ruby>りの中から、ふいと、真白に塗った顔を出して、お宮が、

「ほゝ、あはゝゝゝ。……雪岡さん？」と懐かしそうに言う。

変な処から出て来たと思いながら、「おや！　其様な処から！」と言いながら、傍に寄って行くと、「あはゝゝゝ暫くねえ！　何うしていて？」と、向からも寄り添うて来る。

<ruby><rb>其処</rb><rt>そこら</rt></ruby>の<ruby><rb>火灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>で、夜眼にも、今宵は、紅をさした脣をだらしなく開けて、此方を<ruby><rb>仰</rb><rt>あおの</rt></ruby>くようにして笑っているのが分る、私は<ruby><rb>外套</rb><rt>とんび</rt></ruby>の胸を、女の胸に押付けるようにして、

「何うしていたかッて？　……電話で話した通りじゃないかッ……人に入らぬ心配さして！」

女は「あはゝゝゝ」と笑ってばかしいる。

「おい！　菊水というのは何処だい？」

「あなたあんなに言っても分らないの？　直ぐ其処を突き当って、一寸右に向くと、左手に狭い横町があるから、それを入って行くと直き分ってよ。……その横町の入口に、<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>も軒灯が出ているから、その内に菊水と書いたのもありますよ。よく目を明けて御覧なさい！　……<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、私、お場から帰りに寄って、あなたが来るから、座敷を空けて置くように、よくそう言って置いたから……二畳の小さい好い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>があるから、早く其室へ行って待っていらっしゃい。私、直ぐ後から行くから。」と<ruby><rb>嬉々</rb><rt>いそいそ</rt></ruby>としている。

「そうか。じゃ直ぐお出で！　……畜生！　直ぐ来ないと承知しないぞッ！」と、私は一つ睨んで置いて、菊水に行った。

お宮は直ぐ後から来て、今晩はまだ早いから、何処か其処らの<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>にでも行きましょう、という。それは好かろうと、菊水の<ruby><rb>老婢</rb><rt>ばあさん</rt></ruby>を連れて、薬師の宮松に呂清を聴きに行った。

私は、もうぐっと色男になったつもりになって、蟇口をお宮に渡して了って、二階の先きの方に上って、二人を前に坐らせて、自分はその<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に横になって、心を遊ばせていた。

<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>、有楽座に行った時には、<ruby><rb>此座</rb><rt>ここ</rt></ruby>へお宮を連れて来たら、さぞ<ruby><rb>見素</rb><rt>みす</rt></ruby>ぼらしいであろう、と思ったが、<ruby><rb>此席</rb><rt>ここ</rt></ruby>では何うであろうか、と、思いながら、便所に行った時、向側の<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の処から、一寸お宮の方を見ると、色だけは人並より優れて白い。

その晩、

「吉村という人、それから何うした？」と聞くと、

「矢張りそのまゝいるわ。」と、言う。

「そのまゝッて何処にいるの？」

「何処か、柳島の方にいるとか言っていた。……私、本当に何処かへ行って了うかも知れないよ。」と、萎れたように言う。

私は、居るのだと思っていれば、また<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>なことをいう、と思って、はっと落胆しながら、

「君の言うことは、<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>変っているねえ。も少し居たら好いじゃないか。」と、私は、斯うしている内に何うか出来るであろうと思って、引留めるように言った。けれども女は、それには答えないで、

「……私また吉村が可哀そうになって了った。……昨日、手紙を読んで私<ruby><rb>真個</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>に泣いたよ。」と、率直に、此の間と打って変って今晩は、<ruby><rb>染々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と吉村を可哀そうな者に言う。

そう言うと、妙なもので、此度は吉村とお宮との仲が、いくらか小僧いように思われた。

「へッ！　此の間、<ruby><rb>彼様</rb><rt>あん</rt></ruby>なに悪い人間のように言っていたものが、何うしてまた、そう<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに可哀そうになった？」私は軽く冷かすように言った。

「……手紙の文句がまた<ruby><rb>甘</rb><rt>うま</rt></ruby>いんだもの。そりゃ文章なんか実に甘いの。才子だなあ！　私感心して了った。斯う人に同情を起さすように、同情を起さすように書いてあるの。」と、独りで感心している。

「へーえ。そうかなあ。」と、私はあまり好い心持はしないで、気の無い返事をしながらも、腹では、フン、文章が甘いッて、何れほど甘いんであろう？　馬鹿にされたような気もして、

「お前なんか、何を言っているか分りゃしない。じゃ向の言うように、一緒になっていたら好いじゃないか。何も<ruby><rb>斯様</rb><rt>こん</rt></ruby>な処にいないでも。」

そういうと女は、

「其様なことが出来るものか。」と、一口にけなして了う。

私は、これは、愈〻聞いて見たいと思ったが、その上強いては聞かなかった。

お宮のことに就いて、長田の心がよく分ってから、以後その事に就いては、断じて<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>から口にせぬ方が可いと思ったが、誰れの処ということなく寂しいと思えば、遊びに行く私のことだから、……先達てから二週間ばかりも経って久振りに遊びに行くと、丁度其処へ<ruby><rb>饗庭</rb><rt>あえば</rt></ruby>――これもお前の、よく知った人だ。――が来ていたが、何かの話が途切れた<ruby><rb>機会</rb><rt>はずみ</rt></ruby>に、長田が、

「お宮は其の後何うした？」と訊く。

私は、なるたけ避けて<ruby><rb>静</rb><rt>そっ</rt></ruby>として置きたいが、腹一杯であったから、

「もう、お宮のことに就いては、何も言わないで置いてくれ。」と、一寸左の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を出して、拝む真似をして笑って、言うと、長田は唯じろ〱と、笑っていたが、<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>して、

「あの女は寝顔の好い女だ。」

と、一口言って私の顔を見た。

私は、その時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>となって「じゃ愈〻」と思ったが強いて何気ない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を装うて、

「じゃ、買ったのかい？」と軽く笑って訊いた。

「うむ！　……一生君には言うまいと思っていたけれど、……<ruby><rb>此間</rb><rt>こないだ</rt></ruby>行って見た。ふゝん！」と<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>うように、私の顔を見て言った。

「まあ可いさ。何うせ<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>の奴が買っているんだからね……支那人にも出たと言っていたよ。」私は<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より好い気持のする<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>はないが、何うせ斯うなると承知していたから、案外平気で居られた。すると、長田は、

「ふゝん、そりゃ其様なこともあるだろうが、知らない者なら<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくら</rt></ruby>買っても可いが、併し吾々の内に知った人間が買ったことが分ると、<ruby><rb>最早</rb><rt>もう</rt></ruby>連れて来ることも何うすることも出来ないだろう！　……変な気がするだろう。」と、ざまを見ろ！　好い気味だというように、段々<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い顔をして、鼻の先で「ふゝん！」と言っている。

「変な気は、しやしないよ。」と避けようとすると、

「ふゝん！　それでも少しは変な気がする筈だ。……変な気がするだろう！」負け<ruby><rb>吝</rb><rt>おし</rt></ruby>みを言うな、譃だろう、というように冷笑する。

それでも私は却って此方から長田を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるように、

「可いじゃないか。支那人や<ruby><rb>癩病</rb><rt>かったい</rt></ruby>と違って君だと<ruby><rb>清浄</rb><rt>きれい</rt></ruby>に素姓が分っているから。……まあ構わないさ！」と苦笑に間切らして、見て見ぬ振りをしながら、一寸長田の顔を見ると、何とも言えない、執念深い眼で此方を見ている。私は、<ruby><rb>慄然</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>とするような気がして、これはなるたけ障らぬようにして置くが好いと思って、後を黙っていると、先は、<ruby><rb>反対</rb><rt>あべこべ</rt></ruby>に、何処までも、それを<ruby><rb>追掛</rb><rt>おっか</rt></ruby>けるように、

「此の頃は吾々の知った者が、多勢<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>に行くそうだが、僕は、最早あんな処に余り行かないようにしなければならん。……安井なんかも、<ruby><rb>屡</rb><rt>よ</rt></ruby>く行くそうだ。それから<ruby><rb>生田</rb><rt>うぶた</rt></ruby>なんかも時々行くそうだから、屹度安井や生田なんかも買っているに違いない。生田が買っていると、一番面白いんだが。あはゝゝゝ。だから知った者は多い。あはゝゝゝ。」と、何処までも引絡んで厭がらせを存分に言おうとする。生田というのは、<ruby><rb>自家</rb><rt>うち</rt></ruby>に長田の弟と時々遊びに来た、あの眼の片眼悪い人間のことだ。……あんまり<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつこ</rt></ruby>いから、私も次第に胸に据えかねて、此方が初め悪いことでもしはしまいし、何という無理な厭味を言う、と、今更に呆れたが、長田の面と向った、無遠慮な厭味は年来耳に馴れているので尚お<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、

「君と青山とは、一生岡焼をして暮す人間だね。」と、矢張り笑って居ろうとして、ふッと長田と私との間に坐っている右手の饗庭の顔を見ると、饗庭が、何とも言えない独り居り場に困っているというような顔をして私の顔を<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見ている。その顔を見ると自分は泣き顔をしているのではないか、と思って、<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>た風を見せまいと一層心を励まして顔に笑いを出そうとしていると、長田は、ますます癖の白い歯を、イーンと<ruby><rb>露</rb><rt>あらわ</rt></ruby>して<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しの<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めでも刺すかのように、荒い鼻呼吸をしながら、

「雪岡が買った奴だと思ったらいやな気がしたが、ちぇッ！　<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>姦通するつもりで遊んでやれと思って<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>す積りで呼んでやった。はゝゝゝゝ。君とお宮とを侮辱するつもりで遊んでやった。」とせゝら笑いをして、<ruby><rb>悪毒</rb><rt>あくど</rt></ruby>く厭味を言った。

けれども私は、「何うしてそんなことを言うのか？」と言った処が詰まらないし、立上って喧嘩をすれば野暮になる。それに忌々しさの嫉妬心から打壊しを遣ったのだ、ということは十分に飲込めているから、<ruby><rb>何事</rb><rt>なに</rt></ruby>に就けても嫉妬心が強くって、直ぐまたそれを表に出す人間だが其様なにもお宮のことが焼けたかなあ、と思いながら、私は長田の嫉妬心の強いのを今更に恐れていた。

それと共に、また自分の知った女をそれまでに羨まれたと思えば却って長田の心が気の毒なような気も少しは、して、それから、そういう毒々しい侮辱の心持でしたと思えば、何だかお宮も可哀そうな、自分も可哀そうな気分になって来た。私はそんなことを思って打壊された<ruby><rb>痛</rb><rt>つら</rt></ruby>い心と、面と向って<ruby><rb>突掛</rb><rt>つっかか</rt></ruby>られる荒立つ心とを<ruby><rb>凝乎</rb><rt>じっ</rt></ruby>と取鎮めようとしていた。他の二人も<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>黙って座が変になっていた。すると饗庭が、

「あゝ、今日会いましたよ。」と、<ruby><rb>微笑</rb><rt>にこにこ</rt></ruby>しながら、私の顔を見て言う。

「誰れに？」と、聞くと、

「奥さんに。つい、其処の山吹町の通りで。」

すると長田が、横合から口を出して、「僕が会えば好かったのに。……そうすれば面白かった。ふゝん。」という。私は、それには素知らぬ顔をして、

「何とか言っていましたか。」

「いえ。別に何とも。……唯皆様に<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>く言って下さいって。」

すると、また長田が横から口を出して、

「ふゝん。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>も一つ俺れが口説いたら何うだろう。はゝッ。」と、毒々しく当り散す。

それを聞いて、仮令口先だけの<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>にもせよ、ひどいことを言うと思って、私は、ぐっと癪に障った。今まで散々<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことを、言い放題言わして置いたというのはお宮は何うせ売り物買い物の<ruby><rb>淫売婦</rb><rt>いんばい</rt></ruby>だ。長田が買わないたって誰れが買っているのか分りゃしない。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から黙あって聞いていれば、随分人を嘲弄したことを言っている。それでも<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>が強いて笑って聞き流して居ようとするのは、<ruby><rb>其様</rb><rt>そん</rt></ruby>な詰まらないことで、男同士が物を言い合ったりなどするのが見っともないからだ。

お雪は今立派な<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>の娘と、いうじゃない。またあゝいう処にも手伝ってもいたし以前<ruby><rb>嫁</rb><rt>かたづ</rt></ruby>いていた処もあんまり人聞きの好い処じゃなかった。あれから七年此の方、自分と、<ruby><rb>彼</rb><rt>ああ</rt></ruby>なって<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うなったという筋道を知っているが為に、人を<ruby><rb>卑</rb><rt>さげす</rt></ruby>んでそんなことを言うが、仮令見る影もない貧乏な<ruby><rb>生計</rb><rt>くらし</rt></ruby>をして来ようとも、また其の間が何ういう関係であったろうとも、<ruby><rb>苟</rb><rt>かりそ</rt></ruby>めにも人の妻でいたものを<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>えて、「彼奴も、一つ俺が口説いたら何うだろう。」とは何だ。此方で何処までも<ruby><rb>温順</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく苦笑で、済していれば付け上って虫けらかなんぞのように思っている。いって自分の損になるような人間に向っては、其様なことは、おくびにも出し得ない癖に、一文もたそくにならない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>な人間だと思って、人を馬鹿にしやがるないッ。

と、忽ちそう感じて<ruby><rb>湧々</rb><rt>わくわく</rt></ruby>する胸を撫でるように堪えながら、向の顔を凝乎と見ると、長田は、その浅黒い、意地の悪い顔を此方に向けて、じろ〱と視ている。

「彼奴も俺が口説いたら何うだろう。」と、いうその<ruby><rb>自暴糞</rb><rt>やけくそ</rt></ruby>な出放題な言い草の口裏には、自分の<ruby><rb>始終</rb><rt>しょっちゅう</rt></ruby>行っている蠣殻町で、此方が案外好い女と知って、しごきなどを貰った、ということが嫉けて嫉けて、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れ〱して、それで其様なことを口走ったのだということが、<ruby><rb>明歴</rb><rt>まざ</rt></ruby>と見え透いている。

そう思って、また凝乎と長田の顔色を読みながら、自分の波のように騒ぐ心を落着け落着けしていたが、饗庭は先刻その長田の言った言葉を聞くと、同時にまた気の毒な顔をして私を見ていたが、二人が後を黙っているので、暫時経ってから何と思ったか、

「あの人可いじゃありませんか。……私なんか本当に感服していたんですよ。感服していたんですよ。……」と、誰れにも柔かな饗庭のことだから、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby><ruby><rb>略</rb><rt>ほ</rt></ruby>ぼ知っている私の離別に事寄せてその場の私を軽く慰めるように言う。

「えゝ、何うもそう行かない<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるもんですから。」と詳しく事情を知らぬ饗庭に答えていると、また長田が口を出して、

「ありゃ、細君にするなんて、初めから其様な気はなかったんだろう。<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょいと</rt></ruby>家を持つから来てくれって、それから、ずる〱にあゝなったんだろう。」

と、にべも艶もなく、人を馬鹿にしたように、鼻の先で言った。

私は、成程、男と女と一緒になるには、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>な風で一緒になるのだから、長田が、そう思えば、それで可いのだが、饗庭が、仮令その場限りのことにしても、折角そう言って、面白くも無い、気持を悪くするような話を和げようとしているのに、また面と向って、そんなことを言う、何という言葉遣いをする人間だろう！　と思って、返答の仕様もないから、それには答えず、黙ってまた長田の顔を見たが、お宮のことが忌々しさに気が荒立っているのは分り切っている。そう思うと、後には腹の中で可笑くもなって、怒られもしないという気になった。で、それよりも<ruby><rb>寧</rb><rt>いっ</rt></ruby>そ<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>た照れ隠しに、先達ての、あのしごきをくれた時のことを、面白く詳しく話して、陽気に浮かれていた方が好い、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に話すに惜しい晩であった、と、これまでは、其の事をちびり、ちびり思い出しては独り嬉しい、甘い思い出を<ruby><rb>歓</rb><rt>たの</rt></ruby>しんでいたが、斯う<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ち壊されて、荒されて見ると大事に<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>っていたとて詰らぬことだ。――あゝそれを思えば残念だが、何うせ斯うなるとは、ずっと以前「直ぐ行って聞いて見てやった。」と言った時から分っていたことだ、と<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なことが<ruby><rb>逆上</rb><rt>こみあが</rt></ruby>って、咽喉の奥では<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶような気がするのを<ruby><rb>静</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えながら、<ruby><rb>表面</rb><rt>うわべ</rt></ruby>は陽気に面白可笑く、二人のいる前で、<ruby><rb>前</rb><rt>さっき</rt></ruby>言った、しごきをくれた<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の様を女の身振や声色まで真似をして話した。

（明治四十三年四月「早稲田文学」）