Soranoha

山陰土産

さんいんみやげ

島崎 藤村

一 大阪より城崎きのさきへ

朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發たつたのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來でき」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。

こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果はてまでも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣ねまきなど無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。

關西地方を知ることの少い私に取つては、ひろ〲とした淀川の流域を見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅し𢌞つたことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所ぜぜ、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところであり、好きな自然としては今でもあの江州がうしうの地方をその一つに思ひ出すくらゐであるが、それから三十年あまりこのかた、私の旅といへば、兎角足の向き易い關東地方に限られてゐた。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發たつて來たと同時に、一方には旅の不自由を懸念しないでもなかつた。地名のむづかしさには、まづ苦しむ。しかし、鷄二とさし向ひに汽車の窓際に腰かけて、一緒に乘つてゆく男女の旅客の風俗を眺めたり、大阪の宿からもらつて來た好ましい扇子などを取り出して見たりするころには、私もこの旅に上つてくるまでのいろ〱な心づかひを忘れてゐた。

大阪近郊の平坦な地勢は、甲かぶと、武庫むこ、六甲ろくかふの山々を望むあたりまで延びて行つてゐる。耕地はよく耕されてゐて、ぶだう畠、甘藷の畠なぞを除いては、そこいらは一面の青田だ。まだ梅雨期のことで、眼にいるものは皆涼しく、そして憂鬱であつた。伊丹から池田までゆくと、花を造つた多くの畠を見る。街路樹のベツドかと見えて、篠懸すゞかけの苗木が植ゑてあり、その間には紫陽花あぢさいなぞがさき亂れてゐた。さすがにその邊までは大阪のやうな大きな都會を中心に控へた村々の續きらしくも思はれた。

大阪から汽車で、一時間半ばかり乘つてゆくうちに、はや私達はかなりの山間に分け入る思ひをした。同車した乘客のなかには、石のあらはれた溪流を窓の外に指さして見せて、それが武庫川であると私達に教へてくれる人もある。これからトンネル一つ過ぎると丹波の國であるとか、こゝはまだ攝津の中であるとか、そんなことを語り合ふのも汽車の旅らしかつた。

正午過ぐるころに、藍本あゐもとといふひなびた停車場を通つて丹波の國に入つた。まだ私達は半分大阪の宿にゐる氣がしてあの關西風の格子戸や暗くはあるが清潔な座敷からいくらも離れて來てゐないやうな心地もしてゐたのに、眼に見るものは全くそれらとかけはなれた緑の世界であつた。ところ〲にさいた姫百合の花も周圍の單調を破つてゐた。古市ふるいちの驛を通り過ぎたところには、どつちを向いて見ても滴るやうな濃い緑ばかり。宛あたかも青い木の葉を食ふ蟲の血が緑色であるやうに、私達の總身の血潮までその濃い緑に變るかと疑はれるばかりだ。思ひ比べると、大阪の宿で見て來た庭の草木の色はなかつた。半生を東京の町中に多く暮して來た私などが、あの深い煤煙と塵埃との中に息づいてゐるやうな幹も草も黒ずみくすぶつた都會の樹木を笑へた義理でもない。漸くのことで、私も日頃の自然に遠い生活から離れて來て、思ふさま七月の生氣を呼吸することの出來るやうな旅に身を置き得た心地もした。

何を見、何を拾はうとして、私は鷄二と一緒にこの山陰行の旅に上つて來たのであるか。はじめて見る山陰道、關東を見た眼で見比べたらばと思ふ關西の地方、その未知の國々がこれからゆく先に私達を待つてゐた。しかし、そんなに深く入つて見るつもりで、私はこの旅に上つて來たものではない。むしろ多くの旅人と同じやうに、淺く浮びあがることを樂しみにして、東京の家を出て來たものである。その意味からいつても、重なり重なる山岳の輪廓を車窓の外に望みながら、篠山さゝやままで來た、丹波大山まで來た、とゆく先の停車場で驛々の名を讀み、更に次の驛まで何マイルと記してあるのを知り、時に修學旅行の途中かと見えるやうな日に燒けた女學生の群が、車窓に近くゆき過ぐるのを眺めることすら、私はそれを樂しみにした。

更に山地深く進んだ。

「父さん柏原かいばらといふところへ來たよ」

「柏原と書いて、(かいばら)か。讀めないなあ。」

私も鷄二も首をひねつた。土地不案内な私達は、ゆく先で讀みにくい地名に逢つた。石生と書いて、(いさふ)と讀ましてあるのも、むづかしい。その邊は生活に骨の折れさうな山村でもある。私達はやせた桑の畠などを見て通り過ぎた。黒井といふ驛あたりから、福知山ふくちやま迄は殆んど單調な山の上の旅で、長く續いた道を歩いて見たら、かなり退屈するだらうと思はれるところだ。もう一里來た、もう二里來たといつた時分の昔の人の徒歩や馬上の旅も思ひやられる。

京都から福知山を經て城崎きのさきの間を往來した昔は、男の脚で四日、女の脚ならば五日路といつたものであると聞く、大阪からするものは更にそれ以上に日數を費したであらう。私達の乘つてゆく汽車が遠く山陰道方面の海岸へ向けてかなりの高地を越えつゝあることは、山から切り出す材木や炭の俵などが鄙びた停車場の構内に積み重ねてあるのを見ただけでも、それを知ることが出來る。おそらくあの上方邊の人達が「しんど、しんど」といひながら山また山を越したらう昔を思ふと、一息に暗い穴の中を通り過ぎてゆく今日の汽車旅は比較にもなるまいが、それでも私達はかなり暑苦しい思ひで幾つかのトンネルを迎へたり送つたりした。車中の人達は、と見ると窓のガラス戸を閉めたり開けたりするのに忙がしいものがある。襲ひくる煙のうづ卷く中で、卷煙草の火を光らせるものがある。ハンケチに顏をおほうて横になるものがある。石炭のすゝにまみれて、うつかり自分等の髮にもさはられないくらゐであつた。幾たびとなく私は黒ずみ汗ばんだ手を洗ひに行つて、また自分の席へ戻つて來た。鷄二などは次第にこの汽車旅にうんで、たゞうと〱と眠りつゞけて行つた。鐵道の從業員が京都方面へ乘換の人は用意せよと告げにくるころになつて、漸く私の相棒も眼を覺ました。

福知山は北丹鐵道乘換の地とあつて、大阪からも鐵道線路の落ち合ふ山の上の港のやうなところである。そこには兵營もある。ちよつと松本あたりを思ひださせる。午後の二時近い頃に私達はその驛に掲げてある福知山趾、大江山、鬼の岩窟などとした名所案内の文字を讀んだ。果物の好きな鷄二は、呼び聲も高く賣りにくる夏蜜柑を買ひ求めなどした。僅かの停車時間もあつたから私は汽車から降りて、長い歩廊プラツトホームをあちこちと歩いて見、生絲と織物の産地と聞く福知山の市街を停車場から一目見るだけに滿足してまた動いてゆく車中の人となつた。

下夜久野しもやくのの驛まで行つた。たま〱汽車の窓から舞ひ込んでくる氣まぐれな蜂などがあつて、そんな些細な事も車中の人達の無聊をなぐさめた。その邊から上夜久野かみやくのへかけては、山家らしい桑畑の多いところだ。ところ〲に成長する芭蕉や棕梠をも見る。信州あたりの耕地を見慣れた眼には、田植に使はれてゐる牛を見かけるのもめづらしい。鷄二は私にいつた。「今頃、田植をやつてる。七月に入つてから田植なんてことはないよ。よつぽど水がなかつたんだね。」

そこいらに出て働いてゐる男や女がゆく先で私達の眼につくのも、鷄二の兄の楠雄が同じ農業に從事してゐるからで。私達がその邊の田舍を窓の外に眺めながら乘つてゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂みさかから落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。

山陰らしい特色のある眺めが次第に私達の前に展開するやうになつた。何となく地味も變つて來て、ところ〲に土の色の赤くあらはれたのが眼につく。滴るばかりの緑に包まれた崖も、野菜のつくつてある畑も赤い。この緑と赤の調和も好い。關東地方の農家を見慣れた眼には、特色のある草屋根の形と線とを見つけるのもめづらしい。

上夜久野の驛を過ぎて、但馬たじまの國に入つた。攝津せつつから丹波たんば、丹波から丹後といふ風に、私達は三つの國のうちを通り過ぎて、但馬の和田山についた。そこは播但線ばんたんせんの交叉點にもあたる。案内記によると、和田山はもと播磨はりまざかひの生野いくのから出石いづし、豐岡とよをか方面へ出る街道中の一小驛にとゞまつてゐたが、汽車が開通してからだん〱開けて、今では立派な市街になりつゝあるといふ。汽車はそのあたりから圓山川の流れに添うて、傾斜の多い地勢を次第に下つて行つた。養父といふ驛を過ぎて、變つた地名の多いにも驚く。

「こゝにもむづかしい名がある。八つの鹿と書いて、(やをか)ださうだ。――讀めないね。」

私達はこんなことを語り合ひながら乘つて行つた。

やがて遠く近く望む山々の上には、灰色の雲が垂れさがつて來た。滿山の翠みどりは息をはずませて、今に降つてくるか今に降つてくるか、と待ち受けるかのやうでもあつた。低い雲はいよいよ低く、いつの間にか容すがたを隱す山々もある。かなたには驟雨も來てゐたらしい。私達はその雨を含んだ蒸暑い空氣の中を乘つて、一面に桑畑を望むことの出來るやうな平坦な地勢へと降りて行つた。日本海の方面をさして、北へ〱と出て行く旅心地も好い。私達の見て行つた圓山川も、出石川を併せてからは、名も豐岡川と改まつて、次第に河幅も廣い。柳行李の産地として名高いと聞く豐岡の町がその河のほとりにあつた。

豐岡まで乘つて行つて、新築の家屋にまじつた、バラツク風の建物、トタンぶきの屋根なぞ多く見た時は、私達もハツと思つた。過ぐる年の新聞紙上の記事で讀み、網板あみばんの插畫でも見た城崎地方の震災直後の慘状が、その時私の胸に浮んだ。

「御覽、たしかにこの邊は震災の跡だよ。」と私は連れにいつて見せて、當時の災害が豐岡の町あたりまでもおよんだことを知つた。

玄武洞げんぶどうの驛まで行くと、城崎も近かつた。越えて來た山々も、遠くうしろになつて、豐岡川の水はゆるく眼の前を流れてゐた。湖水を望むやうな岸のほとりには、青々とした水草の茂みが多く、河には小舟をさへ見るやうになつた。間もなく私達は震災後の建物らしい停車場に着いて、眼に觸れるもの皆新規まき直しであるやうな温泉地の町の中に自分等を見つけた。そこが城崎きのさきであつた。

何よりもまづ私達の願ひは好い宿について、大阪から城崎まで七時間も、汽車に搖ゆられつゞけて行つた自分等の靴のひもを解くことであつた。一日の旅で、私達のはだ身につけるものはひどい汗になつた。夏帽子の裏までぬれた。私も鷄二も城崎の宿の二階に上つて、女中がすゝめてくれるさつぱりとした浴衣に着更へた時は、活いき返つたやうな心地を味はつた。

新しい木の香かのする宿の二階からは町の空が見える。そこはもう山陰の空だ。新築中の家々の望まれる方に行つて見た。そこにもこゝにも高く足場がかゝつて、木を削るかんなの音が聞えてくる。あちこちの二階のてすりに浴衣など干してあるのも温泉地らしい。工事小屋から立ち登る煙もその間に見えて、さかんな復興の氣象が周圍に滿ちあふれてゐた。

この温泉宿へ着く前に、私達は町の中央を流れる河の岸を歩いて、まだ燒けない前の、一の湯とか御所の湯とかいつた時分からの意匠を受けついだといふ建物や、新規に出來たらしい橋の意匠などを見て來た。多くの浴客がいり込む場所と見えて、軒をつらねた温泉宿の數も多い。震災前まではその數が五六十軒であつたのに、新築中のものがすつかり出來上つたら百軒にも上るであらうと聞く。停車場まで私達を出迎へに來てくれた宿の若主人からその話を聞いて、よくそれでもこんなに町の復興がはかどつたものだと私がいつて見たら、

「みんな一生懸命になりましたからね。この節はすこしだれて來ましたが、一頃の町の人達の意氣込といふものは、それはすさまじいものでしたよ。これまでに家のそろつたのも、そのおかげなんですね。」

と若主人は私にいつて見せた。

一時は全滅と傳へられたこの町が、震災當時の火煙につゝまれた光景も思ひやられる。河へはいつたものは助かつて、山へ駈け登つたものの多くは燒け死んだ。傾斜を走る火は人よりも速かつたといふ。宿の二階から望まれる裏山はそれらの人達が生命がけで逃れようとした跡かと見えておそろしい。そこには燒け殘つた樹木がまだそのまゝにあつて、芽も吹かずに、多くは立ち枯れとなつてゐるのも物すごく思はれた。

それにしても、私達が汽車の窓から見あきるほど見て來た丹波、丹後あたりの山道の長ければ長かつただけ、震災後一年ぐらゐしかならないこの復興最中の城崎に來て、激しい暑さと疲勞とを忘れさせるやうな樂しい温泉宿にたどりついたといふ感じは深かつた。

こゝは千年あまりもの歴史をもつた古い温泉地であるとも聞くが、急激な土地の發展は山陽線の開通以後からであるらしい。

二 城崎附近

山陰道にある城崎は、關東方面でいつて見るなら、熱海あたりを思ひださせる。古い温泉地であることも似てゐる。種々雜多なものを取りいれてあるところも似てゐる。古雅なものと卑俗なものとが同時にあるやうなところも似てゐる。東京横濱あたりの人達があの熱海へでも出かけるやうに、こゝにはまた京都、大阪、神戸あたりからの湯治の客が絶えない。

ずつと昔はこの城崎も、舟の便宜による交通運送の業を主にして、それによつて土地の人達が生活を營んで來たものであつたといふ。なんとなく河港の趣きのある土地柄が、この遠い昔を語つてゐた。温泉地としての城崎が知られるやうになつたのは、享保以後あたりからで、更に明治年代となつてからは日露戰爭以後に急激な發展を見たものであるとか。私達の泊つた宿は、油ゆとうやといつて、土地でも舊い家柄と聞く。偶然にも一夜の客となつて見て、私達はそこの老主人から京都方面との交通の多かつた時代のことを聞かせられた。頼山道、篠崎小竹しのざきせうちく、それから江間細香えまさいかうのやうな京都に縁故の深かつた昔の人達の名をかうした温泉地に來て聞きつけることも、何とはなしに床ゆかしい。油とうやの先代、先々代と、頼家との間には、文書の往復もしば〱あつたとのことである。そればかりではない。宿の老主人の口からは高安月郊君の名も出て來て、思ひがけないところであの友人のうはさもした。ある人にいはせると、城崎には温泉地としての特色が乏しいともいふ。縁組さへもこれまで京都方面に多く結ばれたといふ。かうした土地にあつては、一切の模倣もまた止むを得なかつたかも知れない。山陰とはいつても、舊い時代からの京都の影響は、それほどこの城崎あたりまで深く及んで來てゐる。

しかし、あの熱海の雜沓が周圍の海や山によつて救はれてゐるやうに、こゝにはまた豐岡川があり、瀬戸があり、日和山のやうな場所もあつて、附近に多い景勝の地がやゝもすれば俗地に陷り易い温泉地から城崎を救ひだしてゐる。

東京を出る時に私の懸念したことは、知らない土地での旅の不自由さであつた。來て見ると、その心配はなくなつた。のみならず、土地のいゝ案内者をも得た。私達は玄武洞や温泉寺を省いて瀬戸、日和ひより山の方面を探ることにした。城崎へ着いた翌朝は空もよく晴れた。秦君、稻垣君、それから油とうやの若主人などが、この私達を案内してくれることになつた。町はづれまで行つて、豐岡川の岸へ出た。發動機を具へつけた一さうの船が、そこに五人のものを待つてゐた。

城崎附近を流れる豐岡川は、圓山川ともいふ。案内記によると、この川の上流は圓山川、下流は豐岡川としてあつて、地圖にもそのやうに出てゐるが、土地の人達はやはり下流までも、圓山川と呼んでゐるのは、その名に親しみを覺えるからであらう。河口から入つてくる海の潮は、その邊から豐岡あたりまでもさかのぼるといふ。私達が岸に添うて出て行つた時は、眞水と潮水のまじる湖水の上にでも舟を浮べた心地もした。朝から暑い日で、私達は舟の日よけのかげに寄り添ひながら乘つて行つた。七月の日の光は水の上にも、蘆あしの茂る河の中洲にも滿ち溢れてゐて、涼しいものと暑いものとが私達の目にまじり合つた。舟から近く見て行く青い蘆の感じも深い。私は鷄二の方を見て言つた。

「これはいゝところだ。父さんはかういふところが好きさ。」

「僕も好きだ。」

と鷄二も言つてゐた。これが發動機でなしに、ゆつくりこいで行く艪であつたら。

「ほんたうの河の味は、どうしたつて艪でなければ出ませんね。」

と私達に言つて見せる油とうやの若主人の言葉もうなづかれた。水明樓の跡といふは、城崎から三四町のところにあつた。徳川時代の儒者、柴野栗山しばのりつざんが河に臨んだ小亭の位置を好んで、その邊の自然を樂しんだ跡と聞く。今は鐵道工事のために取り拂はれて、漢詩を刻した二つの古い石碑まで半ば土に埋められたまゝになつてゐるのも惜しい。私達はその岸に殘つた記念の老松を見て通り過ぎた。中洲について一囘りすると、さながら私達は石濤せきたう和尚が山水畫册中の人でもある。私はまた葦船に乘せて流し捨てられたといふ水蛭子みづひるこの神話を自分の胸に浮べて、あの最初の創造といひ傳られたことを、かうした水草のかげに想像したいやうにも思つた。

海のものも河のものも釣れるといふやうな河口の光景は、徐徐と私達の眼の前にひらけた。波をきざんで進んで行く發動機の音もさほど苦にならない。私達は船の上にゐながら、そこに青い崖がある、こゝに古い神社がある、と數へながら乘つて行くことが出來た。かなたの河口へ突出した陸つゞきには、古墳でも隱れてありさうなこんもりとした森が見えて、さうした名もないやうな土地の一隅までが、古い歴史をもつた山陰らしい感じを與へる。

「もう一度も、かういふところへ來て見る折があるだらうか。鷄ちやんは若いから、あるだらうが、父さんにはどうかナ。まあ、よく見てゆくんだね。」

と私は鷄二に言つて見せなどして、同行の人達と一緒に、津居山灣つゐやまわんの望まれる河口へと出た。瀬戸も近かつた。

漁村の岸のところに着いて、一行五人のものは船から上つた。橋がある。その橋一つを境にして橋から先は津居山村、橋の手前が瀬戸にあたる。瀬戸は山をひかへ、水にのぞんで、漁村として好ましい位置にあつた。津居山灣の方へとつゞいた水は、その邊で靜かな入江のやうな趣を見せてゐた。

久しぶりで見られる海が待つとでも思はなかつたら、私達もこんなに勇んで、暑い日あたりの道は踏めなかつたかも知れない。瀬戸から日和山ひよりやまへかけては、この雨のすくない乾いた梅雨期でなしに、他の季節を選んで、もつとゆつくり歩いて見たらばと思はれるやうなところだ。日は次第に高くなつた。鏡のやうに澄んだ水は私達が踏んでゆく岸の右手に見られても、照りつける烈しい反射にさまたげられて、ゆつくり立ちどまる氣にもなれなかつた。逃れるやうにして、私達は日和山のふもとに着いた。そこから樹かげの多い坂路を登つたが、路傍に息づく草の香も實に暑かつた。日和山はこの附近でももつとも眺望の好い位置にある。かうした漁村によく見つけるやうな古い墓地が山の上にあつて、そこから瀬戸神社への道もつゞいて行つてゐる。墓地から程遠からぬところには、古い言傳への殘つた一株の松の樹もあつた。後醍醐天皇の第二の皇子とやらが遠く隱岐の方を望み見て、激しい運命を悲しんだのも、その松の樹かげからであつたとか。同行の秦君はいろ〱なことを私に話してくれた。毎朝その邊まで潮を見に來てかならず瀬戸神社へも參詣してゆくといふ村の漁師達の話も出た。漁師達の神はまた、「お前達はさうしてわたしを見にくるのか。それとも海を見にくるのか。」と彼等の耳にさゝやくとか。素朴な生活のさまも思ひやられる。私はこの言葉を直接に漁師達の口から聞いて見たらばとも思つた。瀬戸神社の横手は休むにいゝ二階建の茶屋もある。あふひ、紫陽花あじさゐがそのあたりにさき亂れてゐて、茶屋へゆくまでの小路も樂しかつた。

海も凪なぎだ。山陰道へ來て始めて私達が日本海を望んで見たのも、その日和山からである。茶屋の樓上からは近くに後うしろが島、かなたに鏡が崎も望まれて、際涯はてしもなく續いてゐるやうな大海と、青く光る潮の筋とを遠く見渡すことも出來た。そこまでたどり着くと、海風が吹き入つてすゞしい。うつかりすると私達の夏帽子までが風にとばされるくらゐだ。私達はそこで味はふ茶に途中の暑苦しさも忘れて、およそ二時間ばかりも海のよく見えるところに時を送つた。

三 大乘寺を訪ふ

香住かすみの大乘寺は俗に應擧寺といつて、山陰方面では圓山應擧の畫で知られてゐる。

私が鷄二を伴つてこの寺を訪ねようとしたのは、瀬戸の日和山に登つて海を望んだ日の午後であつた。晝飯後に、私達は城崎を辭し、土地の人達に別れを告げようとした。油ゆとうやの若主人は、香住まで案内しようといつてくれるので、この暑さに氣の毒とは思つたが、その言葉に從つた。そこで、三人して香住に向つた。城崎から香住までは里數にしても僅かしかない。汽車で四十分ばかりも海岸を乘つてゆけば、それで足りた。

香住の停車場に着いて見ると、村の自動車が二臺までもそこに客を待つてゐた。訪ねる人もかなりあると見えて、乘合の客の多くは大乘寺行の人達だ。思ひがけなく私達はその村で伊藤君といふ好い案内者を得たが、ちやうど私達が香住に着いたのは午後の二時頃の暑いさかりで、あいさつするにも、自動車を頼まうにも、自分等の手から扇子をはなせないくらゐであつた。そこにも、こゝにも、立ちながら使ふ扇子の白く動くのが見えた。

自動車は容易に出なかつた。そこには、一人でも多く客を拾つて行かうとするやうな運轉手があり、無理にもまた乘せろといつて割り込まうとする客もあつた。のん氣で、ゆつたりとしたところは、どこの田舍の停車場前もさう變りがない。何となく私達まで氣ものび〱として來た。急ぐ旅でもない、さう思ふやうになつた。その日のうちに岩井あたりまで行つて泊ることが出來さへすればそれでよかつた。私達は乘合馬車にでも乘るやうに、その自動車に乘つた。油とうやの若主人が乘り、伊藤君が乘り、伊藤君の連れが乘り、鷄二が乘り、そこへ私まで割り込んだ時は、狹い車の中は身動きも出來ないほどの暑苦しさだ。こんなにこぼれるばかり客を詰め込んだ車の上も、動き出して行つた時はさすがに風があつた。竹林などのある田舍道を車の上から見て行く感じも好かつた。それほど奧まつたところに寺のあるといふことも、これから見に行く應擧の畫にふさはしく思はれた。大乘寺は香住のうちの森といふ村にある。果樹や野菜の畠を前にして、山門のところに小高い石垣をめぐらしたやうな、見つきからして誰にでも親しめさうな寺だ。山門を入つたところには、幾百年の風雨を凌いできた椎の大樹などが根を張つてゐて、寺を訪ねるものはまづその樹蔭に立ち寄りたくなる。伊藤君の案内で、やがて私達は寺のなかの應接間のやうな部屋に通された。長火鉢を置いた廣い部屋がまだ先にあつて、そこから料理の間の方へ續いてゐる。この古い、しかも堅牢な感じのする寺院を再興したのは、應擧の恩人であり、保護者であり、また友達でもあつたやうな密英上人みつえいしやうにんで、現に見る建物の内部も多くはその意匠になつたものであるといふ。あいにく今の住職の留守の時であつた。部屋の片隅に机を置いて繪葉書などを賣る若僧が私達に茶をすゝめてくれた。私達は應擧の畫を見て囘るよりも、庭から好い風の通つてくるところで涼む方が先だつた。

大乘寺には、私達より先に自動車で着いた一組の老夫婦があつた。二人とももう好い年配で、どこか遠方からでもこの山陰見物に出かけて來たらしい。しばらく私達と同じ廣間に居て、若僧がすゝめる茶を飮みながら休んでゐた。こんなに年をとつてから夫婦してこの世を歩いてゐる人達もある。同棲後十年、今また同行二人の巡禮者の姿であるともいひたい。思ひ出の深い旅かと見えて、互ひにいたはるさまも眼をとめて見る氣になつた。案内するものもその人達の側についてゐて、寺の繪葉書などを取りよせて見てゐる樣子だ。旅で旅人に逢ふ。私としてはその心が深い。私は旅人が旅人を眺めるやうにその老夫婦を眺めて、話好きな伊藤君達を相手に自分等の汗の沈まるまで待つた。やがて老夫婦は私達にちよつと會釋した後で、一歩ひとあし先さきに寺のなかを見て囘つてゐた。

この大乘寺に來て、私も心ひかれたことがいろ〱ある。この寺の内部が、應擧の畫で飾られるまでには、かなりの長い時がかゝつたらうといふことは、その一つである。昔の大名や金持の保護からでなしに、密英上人のやうな藝術を愛した坊さんがあつて、その人の心からこの寺に保存されてあるやうな應擧の作品の生れて來たといふことは、その一つである。こゝには應擧の作品ばかりでなく、彼の友達の畫もあり、彼の弟子達の繪もあつて、圓山派一門の美術家の親しみがいかにもよく感じられるといふことも、その一つである。應擧はその若く貧しかつた時代に密英上人から寄せられた厚意と友情とを忘れないで、呉春、蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを描きに來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られてゐたらう。さういふ私なども半生の旅の多くは關東方面に限られてゐて、この年になるまで大乘寺の名さへも聞かなかつた。かういふ寺を山陰道の田舍に置いて考へることも、しかし樂しい。應擧の作品についても、私は今日まで僅かしか知る機會を持たなかつたが、來て見て動かされた。

この寺の内部は、佛殿を中心にした十一の部屋と、それに附屬した二つの部屋と、別に二階にある二つの部屋とから成り立つ。そのうちの十三の部屋が圓山派一門の畫で滿たされてゐる。寺としての設計も、簡素ではあるが、かなり大きい。私達は佛殿を前にして孔雀の間に行つて、應擧の畫の前に立つて見た。そこは二十五疊からの大廣間で、十六枚の襖が一つの大きな構圖のもとにまとめてある。黒と金との強い調和だ。寺の一隅にあたる芭蕉の間へも行つて立つて見た。十二疊半の部屋で、八枚の襖に郭子儀くわくしぎのやうな支那風の人物と、芭蕉のもとに嬉戲する子供等のさまとが描いてある。そこには緑と金との柔かな調和が見られるばかりでなく、何となくひろ〲とした藝術家の心までが感じられる。その隣にはまた二十五疊半といふ一番廣い部屋があつて、應擧の山水の圖の前へも行つて立つて見た。その部屋の片隅によせて、ふくろだなが造りつけてあつて、枇杷、葡萄などの靜物を描いた四枚の小襖も私達の心をひいた。昔の藝術家はいかによく自然を見たことか、あの鯉の圖などで應擧の寫生といふものを單純に想像してゐた私は、その日頃の考へ方を改めなければならないやうに思つた。

好いものを見た。その樂しい旅の心持で大乘寺を辭した頃は、約束しておいた自動車が容易にやつて來なかつた。私達は寺の前にあつた煙草屋の縁臺をかりて、自分等のくゞつて來た山門、降りて來た石段、それから石垣の前の果樹や野菜の畑の見えるところで、やゝしばらく自動車のくるのを待つた。そこいらには村の子供達が集まつて來て、私達の周圍で遊び戲れてゐた。

「御覽。あの應擧の描いた子供は、何となくこの邊の子供に似てるぢやないか。」

といつて私は鷄二を笑はせた。濃い眉、廣い眉間みけん、やゝあがり氣味の眼尻、それから豐かな頬――私がそこいらに近く見つける小娘などの面ざしは、やがてあの芭蕉の間で、應擧の畫に見つけたと似通ふもののやうでもある。これは藝術が私達の上に働きかける力か。私は應擧の眼を通して、いつの間にかその邊に遊んでゐる村の子供までも見ようとするやうになつたのか。あのイタリーを旅するものには、ゆく先にラフアエルのマドンナを見つけるといふやうに、ちやうど私はそれに似たものであつたかも知れない。いづれにしても、私は應擧の作品と、彼に縁故の深かつたといふこの邊りの環境とを結びつけて、何となくその關係を讀み得たやうに思つた。同行の伊藤君は、この邊の海岸に多い岩や松が應擧の筆そのまゝであることを私に話しきかせてくれたが、この人の眼もまた、應擧が見たやうにしかこのあたりの自然を見ることが出來なくなつたのかも知れない。話し好きな伊藤君に比べると、同君の連れはまた正反對な沈默家だつた。その人は私達と一緒に香住の停車場を乘つてくる時から、自動車で別れるまで、ほとんど默りつゞけてゐた。

四 山陰道の夏

東海道あたりの海岸に比べると、この山陰道はおもしろい對照を見せてゐる。こゝには全く正反對のものを見出す。一方に遠淺な砂濱があれば、こゝには切り立つたやうな岩壁がある。一方に高い土用波の立つ頃は、こゝには海の凪なぎの頃である。一方に自然の活動してゐる時は、こゝには自然の休息してゐる季節である。

偶然にも、私達はその自然の休息してゐる夏の季節を選んで、山陰道の海岸に多い「もち」の樹の葉蔭を樂しみに來たわけだ。土の色の赤いといふことが、全體の基調を成してゐるといつてもいゝほどで、ゆく先の漁村の屋根にすら山陰名物の赤瓦が見られるのもこゝだ。夏の誇りを見せたやうな柘榴ざくろや、ほのかな合歡ねむの木の花なぞがさいてゐて、旅するものの心をそゝるのもこゝだ。岩には燕が飛びかひ、崖には松の林が生ひ茂つてゐて、その深いところには今でもまだ鹿が住んでゐるといはれるのもこゝだ。磯釣の船を浮べて、岸近く寄つてくる黒鯛を突き刺す光景なぞも、こゝではさうめづらしくない。

私達はあの瀬戸の日和山ひよりやまで望んで來た日本海を、城崎から香住までの汽車の窓からも望み、香住では岡見公園といふ眺望のある位置からも望んで見た。大乘寺から程遠からぬところにその小さな岡見公園があつた。そこはまだ公園としての設計も十分に出來てゐないやうな小高い山の上にあつた。私も前途の疲勞を恐れて、そこまではと辭退して見たが、大乘寺へ同行した伊藤君にそゝのかされて、また勇氣を起して坂道を登つた。松林の間を分け行つたところに、「かつたい落し」と名のついた高い崖も見える。信州あたりに姨捨山をばすてやまといふと似てゐる。往昔、癩の患者が衆人に忌み嫌はれその崖の上から深い海へ突き落されたのだとは、昔話にしても恐ろしい。山の上には共同の腰かけも置いてあつた。伊藤君のはからひで、近くの茶屋からはサイダーなぞをそこへ運んで來てくれた。城崎の油ゆとうやの若主人はそこまでも私達を案内して來て、一緒に腰かけて休んだ。

海はよく見えた。私は山陰道の自然を、大體に自分の胸に浮べることも出來るやうになつた。旅に來た私に取つては、それをつかむことが肝要でもあつたのである。言つて見れば、この海岸に連なり續く岩壁は、大陸に面して立つ一大城廓に似てゐる。五ヶ月もの長さにわたるといふ冬季の日本海の猛烈な活動から、その深い風雪と荒れ狂ふ怒濤とから、われわれの島國をよく守るやうな位置にあるのも、この海岸の岩壁である。腰骨の根強さである。おそらく山陰道は、その地勢からいつても、東海道ほどに惠まれてゐないかも知れない。山陽道にもおよばないかも知れない。そのかはりこゝには他に見られない自然の特色があり、到るところに湧き出づる温泉があり、金、銀、鐵、石炭その他の鑛物を産する無盡藏の寶庫もある。折よく私達は日本海の靜かな時に來た。この自然が休息してゐる間に旅をつゞけなければならない。

豐岡川に、瀬戸に、大乘寺に、それから岡見公園に、その日は私もかなり疲れた。伴れの鷄二は、と見ると、あまり疲れたらしい樣子も見えなかつたが、城崎で聞いて來た岩井の宿へその日のうちに着いて、河鹿の鳴く聲が聞えるといふやうな山間の温泉宿で互の靴のひもを解きたいと思つた。

香住の停車場で、私達は岩美いはみ行の汽車を待つた。岩井まで行かうとするには、更に岩美で汽車を降りたところから、二十分ばかりも自動車の便によらねばならない。夏のさかりで日の長い頃だ。ちやうどその汽車を待つてゐると、以前に東京の方で一度逢つたことのある奧田君が私の側へきてあいさつするのに驚かされた。私も奧田君の顏を忘れずにゐた。同君はある醫學專門學校を出た人だが、まだその學校時代に自作の短篇を抱へて私の飯倉の住居へ見えたのは、あれはもう何年前のことか。思ひがけないところで舊知の人に逢つた。聞いて見ると、香住は同君の郷里で、今では小兒科、婦人科の醫者として多くの患者に接しつゝあるといふ。

「かうして田舍に開業してゐますと、いつまたお目にかゝれることやら。かういふ機會は、私にはめつたに來ません。さう思つたものですから、けふはあなたを探しに來ました。」

さういふ奧田君は、しばらく創作の筆もとらないと言つて、汽車の出るまで私の側に立ちつくして、醫專時代の昔をなつかしさうにしてゐた。

城崎の油とうやの若主人はその日一日私達の好い案内者であつた。岩井まで一緒に、とこの人が言つてくれるのを強ひて私達も辭退しかねた。こゝまで案内して來たものだ、案内ついでに、岩井まで見送らうではないかと、若主人はいつて、また一緒に汽車に乘つた。香住から五つ目の驛に岩美の停車場があつて、そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な道で、自動車に換へてからの乘心地も好かつた。

日の暮れる頃に、岩井に着いた。思つたほどの山の中ではなかつたが、しづかな田舍の街道に沿うたところに、私達の泊つた明石屋の温泉宿があつた。そこは因幡國いなばのくにのうちだと思ふだけでも、何となく旅の氣分を改めさせた。湯も熱かつたが、しかし入り心地はわるくなかつた。その晩は夏らしい月もあつて、宿の裏二階の疊の上まで射し入つた。庭にある暗い柿の葉も、ところ〲月に光つて涼しい。東京の方の留守宅のこともしきりに胸に浮ぶ。鷄二も旅らしく、宿の繪葉書などを取りよせた。

「どれ、楠くうちやんのところへ葉書でも出すかナ。」

「東京へもお前に頼む。」

旅の頼りも鷄二が私に代つて書いた。私はまた宿の主人に所望して、土地での湯かむり歌といふものを聽かせてもらつた。いつの頃からのならはしか、土地の人達は柄杓ひしやくですくふ湯を頭に浴びながら歌ふ。うたの拍子は湯をうつ柄杓の音から起る。きぬたでも聽くやうで、野趣があつた。この湯かむり歌もたしかに馳走の一つであつた。山間とはいひながら、かうした宿でも蚊帳を吊つたので、その晩は遲くなつてから鷄二と二人蚊帳のなかに枕を並べて寢た。

五 浦富海岸

浦富うらどめの海岸に出た。

七月の十日は早く岩井の宿を發たつて來て、浦富海岸で時を送ることにした。浦富の栗村君は始めて逢つた人だが、前の晩にわざ〱岩井の宿まで見えて、海岸の好いことを話されるので、私もその方に心が動いたのである。

浦富は、桐山城址のある四百戸ばかりの町で、山陰線の岩美驛から海の方へ寄つたところにある。山陰方面には海水浴場の地としても知られてゐる。驛から乘合自動車の便もある。栗村君はそこの町長で、私達のために船を出す用意までして待ちうけてゐてくれた。私としては、既に瀬戸や香住の山の上から望んで來た日本海の方へもつと近く出ていつて見るといふ樂しみがあり、この附近の海岸を船で見て囘るといふ樂しみがあつた。長いこと東京麻布の町の中に暮しつゞけて來た私は、自分の都會生活が自然に遠ければ遠いほど、餘計に海邊の空氣と日光と潮風とをこひしく思つた。それほど私は海にも餓ゑてゐた。

發動機船の用意が出來た。私達は栗村君のほかに、鳥取から見えた岡田君とも一緒になつた。この岡田君には、土地を案内してもらへといつて、大阪を出る時に紹介の名刺をもらつて來た人だ。鳥取までゆかないうちに、私達は岡田君を見ることが出來たわけだ。その日は二人の大學生とも一緒であつた。一人は栗村君の子息さんで、一人はその學友であるといふ。年若で支度ざかりの好い青年達だ。やがて一同船に乘らうとして海邊にある黄ばんだ砂を踏んでいつた。その邊には鰯網などが干してあつた。渚なぎさのさまも、湘南地方あたりに思ひ比べると、餘程變つて見える。こゝには、自然の胸の鼓動を聞くやうな大きな波の音が、間を置いては響けてくるといふ風でない。今はこの海岸の夏らしい時だ。青い海を渡つて來る南風が私達の顏を撫でて通るやうな時だ。全く靜かだ。私達は岸近くあらはれてゐる岩石の間をつたつて順に一人づつ船に移つた。

栗村君は、曾つて詩人國府犀東こくぶさいとう氏をこの浦富に迎へ地質に精しいなにがし大學の教授をも迎へた時のことを私に話し、この附近に多い岩壁と洞窟と島々岩々とを船から指して見せ、ほとんど研究的といつていゝ程の熱心さで、そこの集塊岩には甌穴おうけつがある。こゝの花崗岩には岩脈がある。と私に説明してくれた。こゝには東海岸と、西海岸とある。私達はまづ東海岸から見て囘つた。

無數の島々から成る眺めの好い場所といふと、人はよく松島あたりを比較に持ち出す。この比較は浦富には當てはまらない。松島はあの通り岸から離れた島々のおもしろさであるのに、私達がこゝに見つけるものはむしろ岸に倚り添ふ島島の眺めであるのだから。こゝでは海岸全體が積み重ね積み重ねした感じをもつて私達に迫つて來る。これはこの附近にかぎらず、やがて山陰道を通じての海岸の特色であらう。松島は松島、浦富は浦富だ。

しかし、何といつてもこゝの東海岸にある洞窟には私も心をひかれた。そこへ行くと、好いとか惡いとかいふやうなところを通り越して、深い自然の力に引きずり込まれてしまふ。龍神洞とは、國府犀東氏がその洞窟の一つのために選んだ名であると聞く。幾つかの洞窟の中で、もつとも深いのもその龍神洞である。

七月の日は海にかゞやいてゐた。私達が乘つて行つた發動機船の後からは、別に一艘の小舟が追つて來たがそれは栗村君の計らひと知れた。やがて小舟は親船の側に繋がれた。私達はその方に移つて、小舟に搖られながら洞窟の前に近づいた。そこは太い石柱を中央にした扉の無い門に似てゐる。何ほどの深さがその奧にあるとは、誰もいふことは出來ないが舟の行けるところまでは、およそ百五十間としてあるといふ。二つの洞門の入口には海水が通じてゐて、その一方から船頭が舟を進めようとした。

「雫だ。雫だ。」

といふ聲が船の中に起つた。見あげるやうに高い岩の上には青草が生茂つてゐてそこから清水が滴り落ちた。濡れないやうにと首をちゞめたものも、皆、入口のところでひやりとさせられた。

同行の岡田君がいふ「秋のやうな涼しさ」はひし〱と私の身にも迫つて來た。その空氣の感じだけでも、私達の氣分を變へさせるに十分だつた。暗い洞窟の内部は岩燕の巣食ふところとかで、無數の翼が兩岸の岩をかすめて飛んだ。

「こんなところがあらうとは、ちよつと思はれないナ。」

「さうだね。一人ではちよつとこゝへ來る氣がしないね。」

私と鷄二とは顏を見合せたくらゐだ。鷄二は美術書生らしく岩壁の色なぞに眼をとめて、そこに白もある、こゝに紫もあると私にいつて見せたが、洞門から射し入る日の光はその邊りに附着する色さま〲な藻もを美しく見せたばかりでなく、水の中に潛む魚の形までもあり〱と照らして見せた。

太古からでも變らずにあるやうな靜かさが、この洞窟の奧を支配してゐた。その時になると、私は自分の側に鷄二のゐることも忘れ、同行の栗村君、岡田君、それから二人の大學生のゐることも忘れ、その兩岸の狹い奧のところで舟をあやつることに心を碎くやうな船頭のゐることも忘れ、全く自然と二人きりであるやうな心地にかへつた。

暗い岩壁の間を通して見ると、青く澄んだ海水は神祕に光つて美しい。しかし、何となく私はこんなところに長くゐられないやうな氣もして來た。早く逃げて歸りたいとさへ思つた。

私達は神祕な海から上つて、現實の濱邊に歸つた。その日はちやうど附近の小學校の先生達の懇親會もあつて、私達の船が西海岸を𢌞る時にはそれらの人達をも一緒に載せて行つたが、中途ですこし風が出て來たのと、船醉するものもあつたのとで、元來た濱邊をさして歸りを急いだのである。

觀潮樓はこの海濱に臨んだ位置にあつた。そこはおもに汽船の乘客と海水浴客のためにあるやうな旅館であつた。栗村君の案内で、三階に上つて見ると、私達はその位置から自分等の乘り捨てて置いて來た船を、自分等の上つて來た岸を、自分等の踏んで來た砂の道を眺めることも出來、かなたには自分等の見て𢌞つて來た海岸の一部をも見渡すことも出來た。小學校の先生達は後𢌞しにした東海岸の方に心が殘ると見え、風もおだやかになつた頃から更に船をださうとしてゐた。今度は女の先生達まで加はつて、濱邊はにぎやかだ。鷄二は私と一緒に旅館の三階の廊下を歩いて、まだ海水浴には早からうかなどといつてゐたが、やがて廊下にある籐椅子の上に腰をおろして、旅の寫生帳を取り出した。

この海岸へくるまでの私のつもりでは、船で辨當でもつかふぐらゐの簡單なことにして、旅では成るべく土地の人達に心配をかけないやうにと願つてゐたが、來て見ればやはりさうもいかない。正午すこし過ぎたころ、岡田君も一緒で場所柄らしい馳走を受けた。鱸すゞきの洗ひ、烏賊の團子、海の素麺など、いづれも栗村君の心づくしだ。食事後に、栗村君はすゞりと筆と白扇とを取りよせ、その日の記念にと私に揮毫を求められた。つたない筆の跡を臆面もなく殘して行くやうで、私も心苦しかつたが、強ひて辭退するのもどうかと思つて、求めらるゝまゝに白扇をひろげて見た。その時、旅のかばんの中に白の畫箋紙の片のいれてあつたことを思ひだした。それは鷄二が鉛筆ばかりでなしに、筆と墨で寫生を試みたい場合もあらうかといつて東京から持つて來たものだ。私は書きにくい白扇よりも、その紙片の方を選んで、日頃好きな芭蕉の言葉の中から一つ二つを書いて贈ることにした。

「余が風雅は夏爐冬扇のごとし、衆に逆さかひて用ふるところなし。」

熱い汗は私の顏に流れた。

栗村君は今の町長をつとめる前に水産學校の校長として教育事業にたづさはつた時代もあつたと聞く。私は始めてこの人に逢つた時から、眉の長く眼もとの涼しい容貌に心をひかれ、その毅然たる態度にも心をひかれたが、だん〱話してゐるうちに、この町長が學問のある譯もわかつた。同君には七人もの子があることをも知つた。學生が法廷に立つといふ今の時代に、一人の子息さんを大學の法文科に學ばせ、他の子息さん達を高等學校その他に送つてゐる同君が、親としての心づかひも一通りでないといふ話も出た。

「何といつても、親の力のおよぶのは十臺までですね。人の一生は幼年期、少年期で決するやうなものですね。」

私は栗村君とこんなことを語り合つた。

いつの間にか鷄二は見えなかつた。水泳好きな彼は人氣のない海水浴場の方へ駈けだして行つたが、やゝしばらくして海から引返して來た。

「まだ水の中は冷たいね。」

と私にいつて見せた。

思はず私達は時を送つた。鳥取まで同行しようといつてくれる岡田君にうながされて、やがて浦富を辭したのは午後の四時近い頃であつた。夕立でも來さうな空模樣で、ひどく蒸暑い空氣の中をまた私達は山陰線の汽車に搖られて行つた。その晩は鳥取の小錢屋こぜにやといふ宿に泊る。

六 鳥取の二日

「茄子に、ごんぼは、いらんかな。」

私達はこんな物賣りの聲の聞えるやうな、古風な宿屋の二階に來てゐた。この山陰の旅に來て見て、一圓均一の自動車が行く先に私達を待つてるにはまづ驚かされる。あれの流行して來たのは東京あたりでもまだ昨日のことのやうにしか思はれないのに、今日はもうこんな勢で山陰地方にまでゆきわたつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の流行がそれに變りつゝある。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、浦富からずつと一緒の岡田君とも同乘で、山陰道でも屈指な都會の町の中へはじめて來て見る思ひをした。私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。

七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。ちやうど私達は宿で赤兒の生れたところへ泊り合せて、ほとんど自分等二人きりで風通しのよい二階の座敷を占領したやうな形であつた。客もすくない二階の表廊下へ出ると、めづらしい實を結んだ棕梠の庭樹の間から、鳥取の町の空が見えた。今をさかりと咲き誇る夾竹桃けふちくたうの花の梢も夏らしいやうな裏の廊下の方へも行つて見た。きのふは町の屋根の上に晝の花火を望んだのもそこだ。遠くの寺からでもひゞいてくるやうな靜かな鐘の音を聞きつけたのもそこだ。宿の女中に頼んで置いた按摩も來てくれたので、午前のうちに私はすこし横になつて寢ながら土地の話を聞いた。こゝには腸のさはりを調とゝのへるに好い藥草もあると聞いて、試みにそのせんじ藥なぞを取りよせて飮んだ。

連れの鷄二はぢつとしてゐなかつた。午前のうちには古い城址の方まで歩き𢌞りに行つたといつて汗をふき〱歸つて來た。午後からはまた宿へ訪ねてくれた岡田君と連立つて、この地方の海岸に名高い砂丘の方へと出かけた。私一人になると、一層二階は靜かだ。私はさびしく樂しい旅の晝寢に、大阪の扇を取り出して見、豐岡川の方で見て來た青い蘆、瀬戸の日和山での歸りがけに思ひがけなく自分の足許へ飛び出した青蛙のことを思ひ出して見て、そんな眼に殘る印象にも、半日の徒然つれ〲を慰めようとした。ちやうど宿の老人がこの私の側へ來て、その日は初孫の顏を見てから三日目にあたるといつて、生れた男の子のために名をつけることを私に頼むといふ。旅に來て名づけ親になるといふことも何かの縁かと私もうれしく思つた。紙なぞを取りよせて、そのことを書きつけ、この世によい種をまく人とも成るやうにとの意味から、種夫といふ名を選んで贈つた。にはかに空が曇つて遠くでは雷鳴の音さへ聞えたのに、岡田君も鷄二もなか〱歸りさうもない。そのうちに涼しい風が二階へ吹き滿ちて來た。庭の青桐へは夕立のくる音もした。

新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が小錢屋のやうな古風な宿屋に泊つたのは、旅の心も落着いてよからう、といふ岡田君の勸めもあつたからで。旅人としての私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようもない。こゝは三十五萬石からの舊い城下、縣廳の所在地、戸數七千、人口三萬五六千もある。賀露がろの港を一里ばかりさきに控へ、三つの街道が市内の中を貫いてゐるやうなところだ。なるほどこゝは名高い市場もあり、物産の陳列館もあり、いろ〱な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところにあるやうに思はれる。かういふ都會をよく見ることはむづかしい。

過ぐる幾十年、ゆつくりとしかも確かな足取りで歩いて來た町を、山陰方面に求めるなら、誰しもまづ鳥取をその一つに數へよう。土地の人達は急がうとしても、急ぎ得なかつたその原因を、主として千代川せんだいがはの氾濫に歸する。案内記によると、天文十三年このかた、三百八十年の間に四十八囘の大洪水に襲はれたといふ。いひかへれば、この地方は八年に一囘の大洪水に襲はれ、市民の生活はその都度破壞されて行くといふ慘澹たる状態にあつたとのことである。それほど自然と戰ひ續けて來たその地方の人達に、何かかう地味な根強さがあるやうに感じられるといふのも、不思議はないかも知れない。

その晩は、私は鷄二と二人で葉茶屋、古道具屋が目につき、柳行李を賣る店なぞも目につく、宿の附近から明るい町の方まで歩いた。三八の夜の賑はひとかで、夕涼みらしい土地の人達の風俗が、行くさきに見られた。旅に來て、知らない男や女の間に交るといふことも、樂しかつたのである。その翌朝は、また私は早く起き、宿の浴衣、宿の下駄でそこいらの町町を歩き𢌞つた。深い庇、低い二階の窓、どうかすると、石や横木を載せた屋根の見られるのは、冬期の長さも思ひやられる。私は北は信州の飯山いひやまあたりまでしか行かないから、越後路のことは知らないが、こゝも雪は深さうだ。

宿に歸つて見ると、こゝの中學校の先生が一册の本を屆けてくれた。「郷土讀本」としてある標題のもので名刺も添へてある。その名刺の裏には、「わざとお目にはかゝらないが、私達の郷土をよく見て行つて下さい」といふ意味のことが書いてあつた。この註文は容易でない。さういふ私は訪ねて見たいと思ふ學校も訪ねず、古い尚徳館の跡も見ずじまひに歸つても、歌人香川景樹を生んだといふこの土地に來て見て、旅の疲れを休めて行くといふだけでも、澤山だと思つた。

私達の泊つた鳥取の宿は古いといへば古い家で、煙草盆は古風な手提げのついたのだし、大きな菓子鉢には朱色の扇形の箸入を添へてだすやうな宿ではあつたけれど、わざとらしいところは少しもなく、客扱ひも親切で、氣樂なところが好よかつた。膳に向つて見ると、食器もすべて大切に保存されたやうな器ばかり。すゞしさうなガラスの皿に鮎の鹽燒をのせてだしたのも夏らしい。こゝの料理は年とつたおかみさんの庖丁と聞くが、大阪の宿を除いてはこゝで食はせるものは一番私の口に適かなつた。味もこまかい。旅人としての私は、自分等の前に置かれた宿屋の膳に向つて、吸物わんのふたを取つて見ただけでも、おほよそその地方を想像することが出來るやうな氣もする。その意味から、旅の窓よりこの山陰の都會を望んで見た時は、さういふ味のこまかいところが鳥取かとも私には思はれた。

熱い日の光りは町々に滿ちてゐた。岡田君と連立つて久松山の古城址を訪ねて見ると、苔蒸した石垣の間に根を張る樹木の感じも深く、堀に殘つた青い蓮もそこに夏のさかりを語り顏であつた。城址といふ城址も多い中で、この高い城山ほど市街を支配するやうな位置にあるものも少からう。往昔、豐臣秀吉の時代に、吉川經家のやうな勇將がこの城を死守したことは、今だに土地の人達の語り草となつてゐる。ちやうど私達の踏んでゆく日のあたつた道は、それらの武士達の血の流れた跡かとおそろしい。山腹にある櫓やぐらのあたりまで登つてゆくと、鳥取の町がそこから見渡される。千代川はこの地方の平原を灌漑する長い水の流れだ。

しばらく私達はこの眺望のある位置に時を送つた。長く留まることの出來る旅でもなかつたから、鳥取の町を見渡すだけにも私達は滿足して、やがて元來た道を引返さうとすると、過ぎゆく「時」の歩みをさも深く思ひ入つたやうな一人の老人にゆき逢つた。その老人は、石垣の間に青竹の杖をさしいれ、それに腰かけて、朝飯には遲く晝飯にはまだ早いやうな辨當を獨りでつかつてゐた。今だに封建時代に生きつゝあるかのやうな人を壘壁の一部に見つけるといふことも、かうした城塞の跡に來て見る旅の心を深くさせた。

「あのお爺さんはきのふもこの城址に來てゐて、いろ〱なことを僕に説明してくれたよ」

と鷄二は私にいつて見せた。

その日の午前には、私達は名高い砂丘の方へも自動車を驅つて、長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。砂丘の上からは海も望まれるかと、鷄二が一人で砂の道を踏んで行つた後姿も忘れがたい。浦富以來よい案内者であつた岡田君にも別れを告げて、その日のうちに私達は鳥取を辭した。

七 三朝みさゝ温泉

鳥取の停車場を離れてから、また私は鷄二と二人ぎりの汽車の旅となつた。私達は今、山陰道の海岸に沿うて、傳説の多い地を旅しつゝある。その考へはひとりでに私の胸に浮んで來た。湖山こやまの池も近いと聞くと、私は鳥取の方で聞いて來た湖山の長者の傳説を自分の胸にくり返して見て、おとぎ話の世界にでも心を誘はれるやうな思ひをした。その傳説によると、長者は廣い土地を所有し、多くの人を使つて、一日のうちに自分の所有する田地の植付を濟まさうとしたほどの人である。長者は又、手に持つ扇をひろげ、西の空に沈みかけた太陽をさし招いて、その日のうちにすつかり苗を植付けてしまつたといふほどの人である。しかしこの自然を無視したやうな行ひは、それ相應なむくいを受けない譯にいかなかつた。長者の田は一夜のうちに青々とした湖水に變つてゐたといふのである。この傳説の世界が、眼に見る湖山の池であるのだから面白い。島二つほどある靜かな湖水だ。私達がそれを望んで通り過ぎようとしたころは、にはかな夕立が湖水の上へも來、汽車の窓の外へもきた。

もつと古い傳説を、傳説といふよりも古い神話の殘つた地方を、松林と砂山の多い因幡いなばの海岸に見つけることも出來た。旅の心は白兎の停車場に至つて驚く。私達は出雲いづも地方までゆかないうちに、ずつと大昔からの言傳へが、こんなところにも殘つてゐるのかと、先づそのことに驚かさる。大國主の神が多勢の兄弟と共に旅して來た稻羽いなばの海岸とはこゝだといふことに氣がつく。智惠のある白い兎が〔二点しんにょう+於〕岐おきの島から鰐の背を渡つて來たのもこゝだといふことに氣がつく。あれは古い神話のうちでももつとも樂しいものの一つだ。私達の側には鳥取から一緒に乘つて來た鳥取新報の記者もゐて、鰐とは青い鮫さめのことであり、それが古代の海賊のことであり、白兎しろうさぎとは善良な民族のことであるといふ一説なぞを話し聞かせてくれた。記者は故有島武郎君をも知つてゐて、同君の亡くなる前の年かに、鳥取地方へ講演の旅のついでに疲れを忘れて行つたといふ濱村温泉をも私に指して見せた。あの「星座」の著者を記念するやうな濱村温泉は海に近いところにあつた。私達はその海邊に添うた砂山と松林とをも車の窓から見て通り過ぎた。

因幡いなばの國境を離れて伯耆はうきに入つたころは、また夕立がやつて來た。暗い空、黒い日本海。車窓のガラスに映る水平線のかなたには僅に空の晴れたところも望まれたが、やがて海へも雨が來た。私達は上井あげゐの停車場で一旦汽車から降りて、三朝みささ行の自動車に乘りかへた。濱村温泉といひ、東郷温泉といひ、これから私達が訪ねてゆかうとしてゐた三朝温泉といひ、この附近には至るところに好い温泉地のあることも思はれる。

雨を衝いて二里ばかりの道を乘つていつた。次第に山も深い。川がある。橋がある。三朝川は私達の沿うて上つて行つた溪流だが、いつの間にか河上の方から流れてくる赤く濁つた水を見た。

三朝川は前を流れてゐた。私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。雨もあがつて、山氣は一層旅の身にしみた。河の中洲を越すほど溢れてゐた水もいつの間にか元の瀬にかへつた。こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。大正十二年この地に遊ぶとある。さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。

大正十二年といへば私達の忘れられない年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日がたつ。私達の眼にある三朝川、白く黄ばんだ土手の上の趣のある道、兩岸に相對する温泉宿、これらの眺めはあの友達の來て見たころと同じやうであらうか。そこの河原へは鶺鴒が來た、鮎を釣る男も來た、こゝの橋の下へは村の娘達が無心なまるはだかで水を泳ぎに來た。と私達は眼にあるものを指していふことも出來たけれど、あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。温泉地としての三朝の發展は十數年このかたのことと聞く。三徳山行の參詣者達のために昔風の温泉宿があつた以前のことに比べると、今の三朝は別天地の觀があるともいふ。こゝは諸方から入り込む浴客を相手としての温泉宿と商家と、それから周圍に散在する多くの農家とから成り立つ。温泉地としての三朝の經營は、温泉宿や商家の負擔であるばかりでなく、農家の負擔でもある。そこから村の惱みも起ると聞く。村の人達の間にはまた土地の強い執着があつて、たとひ他から來て別莊でも建てようとするものが、坪百圓で地所を讓り受けたいといひ出しても、頑としてさういふ相談に應じないといふ話も聞く。三朝は將來どうなつてゆくのか。温泉地としての城崎を熱海あたりに比べていいものなら、こゝは箱根あたりに近いところにでもなつて行きつゝあるのか。いづれにしても、三朝川の溪流の音だけはこのまゝ變らずにあらせたい。三朝を發たつ前、倉吉くらよしから見えた神田君を案内に頼んで、ちやうど養蠶時にあたる附近の農村をも訪ねて見た。私の長男が耕してゐる郷里の山地に思ひ比べると、いろ〱相違を見つけることが多い。旅の私達はここに働いてゐる人達のことを考へて見るといふだけにも滿足して、あちこちの柿の枝に藁造りの飾りなどの吊るしてある農家の間を歩き𢌞つて見た。

八 松江まで

大阪を出る時の旅の豫定では、三朝から米子よなごに向ひ境の港に出、あれから宍道湖しんぢこを船で渡つて松江に着くつもりであつた。私はこの豫定をいくらか變更して、一息に汽車で松江まで延びることにした。そこで、三朝を發つた。

私と鷄二とが上井あげゐの停車場まで元來た道を引返して、そこまで見送つてくれた神田君に別れたのは、午後の四時頃であつた。私達はまた親子二人きりで松江行の汽車の一隅に腰かけ、山陰線らしい車中の人達の風俗を眺め、眼にいるものすべて始めてでないものはないやうな海岸の方へ出て行くといふ樂しみをもつた。名高い伯耆はうきの大山だいせんの姿も次第に車窓から望まれるやうになつた。あの信濃路あたりに見るやうな高峻な山岳は望まれないまでも、幾つかの峯の頂きを並べたやうな連山の輪廓はかなり長く延びてゐて、たしかにこの地方の單調を破つてゐた。これが汽車でなしに、歩きながらの旅であつたら。私はそのことを胸に描いて見て、大山に添ひながらのこの海岸の旅もさぞ樂しからうと思った。

下市しもいちの驛まで乘つて行つたころは、遠く望んで見る大山でなしに、山の麓までも見得るやうになつた。雲の蒸す日で、山の頂きは隱れて見えなかつた。それが反かへつて山の容すがたを一層大きく見せた。ある雲はその中腹に、ある雲はその頂きの方に走つてゐた。御來屋みくりやの驛まで乘つて行つた。そこまでゆくと、大山の溪谷までもかすかにあらはれて來た。それが雨後によく見る濃い桔梗色であるのも美しい。更に名和の驛まで乘つて行つた。私達は歴史に名高い船上山せんじやうさんを望んだ。海岸に寄つた方に山角のとがつたのがそれだつた。米子よなごの一つ手前には、伯耆大山といふ名の驛もある。その時になると、高く望まれる赤い山のがけから、樹木のない谷間まで、私達の旅の心がどうその傾斜をほしいまゝに馳せ囘らうと自由だつた。私達は、午後の五時半ごろの日が山腹に青く光るのを見て、米子の驛まで乘つていつた。

「最早、出雲だ」

思はず私は周圍を見𢌞した。遠い古代の人の想像がその時私の胸に浮んだ。これから私が訪ねようとする出雲地方とは、いはゆる夜見よみの國である。そしてその夜見の國とは、古代の人の想像した死の國である。どうして出雲地方が死の國であるのか。それは神話と現實との混淆であるのか。我國の最初の母なる神、造物神、その伊邪那美いざなみの神の永遠に眠れる墳墓の地とは伯耆と出雲の國境にあるといひ傳へられるところから、さういふ想像が生れて來たのか。いづれとも私にはいふことが出來ない。兎もあれ、旅の私達が出て行つたところは、暗い黄泉よみの國どころか、むしろその反對に、ちよつと他に見られないほどやはらかく明るい感じのする地方であつた。俗謠で知らないもののない安來やすきとはこゝか、さう思つてその驛を通り過ぎて行くと、山陰らしい赤い土の色が、城崎や香住あたりで見て來たよりも更に濃い。崖も赤く、傾斜も赤い。赤い桑畑もめづらしい。夕日は海の方にかゞやいて、何となく水郷に入るの感もあつた。それもそのはずである。私達が出て行つた岸は、夜見が濱とは反對の側にある廣い入江に添うたところであつたから。陸には稻田も多かつた。畑にはすでに青い葡萄を見、長く延びた唐玉黍たうもろこしの穗をも見た。揖屋いやの驛を過ぎた。小蒸汽船、帆船、小舟などを汽車の窓から望むことの出來るやうな光景がひらけた。私達は七時近い頃まで乘つて行つて、宍道湖の水に映る岸の家々の燈火がちら〱望まれる頃に、松江に入つた。

鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ二百三十三里はあらうとのことであつた。松江の宿に着いた時は思はず私も溜息が出た。この溜息は、はげしい暑さを凌いで漸くこゝまで來たといふ溜息であつた。

松江本町、大橋の畔に近いところが私達の宿の皆美館みなみくわんのあるところだ。三人の女の兒が人形のやうに並んで宿の帳場に近い部屋で夕飯の膳についてゐたのが、先づ眼についた。私は旅の鞄の中に三朝土産のとち餅を入れて來たことを思ひ出し、子供達へといつて、それを女中に持たせてやると、やがて三人とも宿のおかみさんに連れられて私達の部屋へお辭儀に來た。姉は九歳、妹達は八歳と六歳になるといふ。いづれも可愛らしい女の兒だ。

「これはいゝ宿だ。」

私と鷄二とは互にそれを言つて、出雲らしい空の見える二階の部屋にくつろいだ。宍道湖も靜かな時だ。岸をひたす水の音が石垣の下のところから、かすかに聞えて來るぐらゐの時だ。湖水に浮ぶ長い大橋の眺めもちよつと江州の瀬田の橋を思ひ出させるやうなところで、私達は暑い一日の旅を終つた後での入浴後の樂しい心持を語り合つた。鷄二はまた鷄二で、大阪の宿の方の噂までもそこへ持ち出して、風呂場の番頭に脊を流して貰つたはよかつたが、どうにもくすぐつたく、自分の内股をつねつて漸くそれを我慢したことなぞを白状して、私を笑はせた。

この松江へ來るまでの途中での旅の印象、そこで望んで來た入江の水、そこで望んで來た岸の青田なぞは、まだ私の眼にあつた。その中には恐ろしいまでに龜裂を生じた田もあつて、あれはことしの旱ひでり續きの結果か、いや、あれが鹽田といふものか、と汽車中の乘客が大騷ぎしたことも忘れられない。松江に來て見て、この地方にも田植時分の雨の少なかつたことを知つた。こんな水郷の感じのするところで、どうして水に不自由したらう。それを私が宿の女中にたづねたら、

「水は水でも、潮水でございますもの。」

それが女中の返事であつた。農夫等は水を見ながら、乾いた田をどうすることも出來なかつたといふ。さういふ田は今年だけ畑にして、また來年の田植の時を待つといふことであつた。

私達親子のものは、めつたにこんな旅を一緒にしたこともない。二人きりとなると、互ひの旅の心持も比べて見たい。

「御覽な、どこの宿屋へ行つても二の膳付だぜ。御馳走して貰ふのはありがたいが、みんな食べられるやうな物を出したらどうだらう。」

「いや、僕はさう思はないね。お客さまの好きなものもあれば、嫌ひなものもある。宿屋ではそこまでは分らないだらう。だからいろ〱なものをそこへ並べて出せば、お客さまは自分の好きな物を喰ふ。お父さんのやうな人ばかりがお客さまぢやないからね。」

「お前のいふことも、一理窟あるかナ。」

こんな話も旅らしい。

この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水に映つて、岸から垂れさがる長い柳の影もすゞしい。私達の眼にある光と影とで、朝の湖水らしくないものはなかつた。何を見ても眼がさめるやうであつた。舟のすきな鷄二は石垣の下に繋いである宿の小舟を見つけ、早速宿の主人に交渉して、朝のうちにそこいらを漕ぎ𢌞つて來た。まだ朝飯には間があつた。私も鷄二と一緒に舟で宍道湖の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出したこともある。舟も何年振りか。それを私も思ひ出して自分でも櫓ろをあやつりながら嫁ヶ島の方角をさして漕ぎ出して見ると、思つたよりもその邊の水の淺いことも分つた。澤山な蜻蛉とんぼの群は水の上を飛んでゐた。私達はその朝の空氣の中で、時々びつくりするやうな魚の飛ぶ音をも聞きつけた。その邊の藻の多いところには、流れるまゝに舟を任せて置いて、鰻でも引き揚げて行くらしい漁夫もあつた。

二人の客が訪ねて來た。

古川君、太田君、二人とも私には初對面の客である。古川君のことは大阪で聞いて、紹介の名刺まで貰つて持つて來てある。私はこちらから訪ねないうちに、同君を自分等の宿に迎へることが出來た。同道の太田君は松江商業會議所書記長の肩書はありながら、俳人としては柿葉といつて、故大須賀乙字氏なぞに親しい交際があつたと聞くもなつかしい。私達は行く先で好い案内者を得たばかりでなく、今また二人までも出雲地方のことに詳しい人達に逢つて、全く土地不案内な自分等の手引と頼むことの出來たのはうれしかつた。

「山陰道の樂しいのはいつでせう。夏でせうか。それとも、冬でせうか。」

私は信濃の山の上に、七年も暮したことのある自分の經驗から押して、普通なら夏の旅を樂しいといはれてゐるあの地方に、住んで見ると長い冬期の味の深かつたことを思ひ出して、そんなことを太田君に尋ねて見た。

「やつぱり冬でせうな。夏の山陰には優しい方面しかありません。夏を見たばかりで、ほんたうの山陰らしい特色を味はつて頂いたとはいへないかも知れません。」

松江を生れ故郷とする太田君の答は、私の待ち受けた通りでもあつた。同君は慶應出身とやらで、思ひがけないところで水上瀧太郎君や久保田万太郎君の噂も出た。いろ〱な話の末に、柏原まで一茶の生地を訪ねに行つた時のことも出、その時に信濃路を旅して見たことも出て、信州人と出雲人との間には何處かに共通したもののあることを私に話し聞かせたのもこの太田君だ。

「お疲れでせうから、いづれまた。」

明日を約束して兩君は歸つて行つた。その後で、私は太田君の殘して置いて行つた話を思ひ出して湖水に浮ぶ大橋の方を望んで見た。私達が泊つた宿の二階の位置は、向うの橋の上を通る男や女の下駄の音を聞くほどの距離にある。毎年の盆の季節が來ると、草市はその長い橋の上に立つ。太田君は草市の翌朝に通つて見て、まだ草の香りがそこに殘つてゐた時のことを忘れがたいといつた。

連日の旅で、私達の着るものはひどく汗になつた。着更へのワイシヤツなども三日とは肌に着けられなかつた。それほど暑さに苦しんだ。せめて松江ではゆつくりして行かう。それを私は鷄二にも話して、その日一日は宿で暮すことにした。思ひ做なしの故せゐか、袖ヶ浦の向うに見える一帶の山々までが横になつて、足でもそこへ投げ出してゐるかのやうでもある。それがのんびりとした感じを人に與へる。旅の私にまで、先づ休んで行け、といつてゐるやうにも見える。淡水湖と聞く宍道湖の水は、山上の湖水のやうに重苦しくなく、海のやうに激しい變化もない。湖上に波の騷がない日はないとも聞く嚴冬の季節は知らないこと、今は自然も休息してゐる時である。

連れの鷄二はかういふ日だとばかり、かねて用意して來た畫布なぞを、廊下のところに取り出し、おもしろく造つてある庭の一部から湖水まで、餘念もなくその畫面のうちに取り入れてゐた。そこでは庭の砂の色まで明るい。無果花いちじくの枝に小さな浴衣なぞの掛けて乾かしてあるのも、宿の女の兒達の着るものかと見えて愛らしい。

「なんだか、こゝへ來ると好い氣持になつてしまふね。」

時々鷄二は、そんなことをいつて、描かきかけの繪筆もそこに投げ捨て、庭から岸の石垣の方へ降りて行つた。泳ぎか、舟か、暇さへあれば鷄二は湖水に出て遊んだ。

「父さん、こゝの人達の話を聞いて見た? 出雲なまりといふやつは隨分變つてるね。僕が舟の中でスケツチしてゐると、通る船頭が二人で話してゐたが、何をいふかさつぱり分らなかつた。」

と鷄二はいつてゐた。見ると、岸に繋いだ小舟から薪を背負つて、宿の勝手口の方へと運んで行く男もある。その男は背に小蓑をあててゐる。鷄二はそれを私に指して見せて、

「父さん、御覽。僕等の國の方では『せいた』を使ふが、こちらの人はあんな藁の紐で背負つて行くよ。遠いところは、とてもあんなことぢや駄目だがなあ。」

こんな比較を語つた。薪の背負ひ方にかぎらず、關東を見た眼でこの地方を見ると、いろ〱な相違を見つけることも多かつた。櫓の綱の長く、櫓壺の淺く、櫓ちんの割合にはづれ易く見えるなぞもその一つだつた。この邊の人の小舟の漕ぎ方は上海あたりのジヤンクを私に思ひ出させた。

その日は舊い暦の上での十六日に當つた。私は遠く離れて來てゐる東京の留守宅のことを胸に浮かべて、ことしの盆はどうしたらうなぞと思ひやつた。夕方には、大橋の方の柳の枝のかげあたりから、提燈のやうな大きな月が上つた。

九 境港と美保みほの關せき

七月十五日の朝は、私は早く床を離れて、鷄二の起き出すのを待つた。大橋向うの松江の町は漸く眠りから覺めたばかりのやうで、岸のところ〲には燈火が殘つてゐた。ほがらかに青く光る宍道湖の上には、高く舞ふ鳶などまでが朝の空氣を呼吸してゐるやうに見えた。すべてが靜かで、そして生々いきいきとしてゐた。

まだ鷄二は蚊帳の内に眠つてゐた。五時半ごろに私は鷄二を起して、その日の旅の支度にかゝらせた。美保の關の町長小西君と野村君とは、私には思ひがけない初對面の客であるが、前の日に兩君同道で私達の宿へ見えて、是非とも美保の關へ立ち寄つて行けと勸めてくれたので、私も兩君の言葉に隨つたのである。その日の私の心にはいろ〱な樂しみがあつた。境港から美保の關まで、船で入江を渡るといふ樂しみがあつた。山陰地方に名高い出雲浦を一𢌞りして見るといふ樂しみもあつた。浦富以來、離れた日本海の方へもう一度出て行つて、すゞしい海風に吹かれるといふ樂しみもあつた。

同行を約束して置いた古川君も私達の出掛ける前に宿へ訪ねて來た。私達は三人連立つて、大橋川の橋の畔まで歩いた。まだ朝のうちのことで、大橋の上を通る人もそれほど多くなく、松江市の活動は街路を清潔にすることから始められるやうな時であつた。それでも境行の小蒸汽船が橋の畔に客を待つところまで行つて見ると、一番の定期船に乘りおくれまいとするやうな人達が、澤山持ち込んだ荷物と一緒に、船室にも甲板の上にも溢れてゐた。

松江市は宍道湖と中の海とを左右に控へた中央の位置にある。その二つの水をつなぐ長い運河のやうな大橋川の岸に沿うて、小蒸汽は動いて行つた。やがて私達の出て行つたところは、湖水のやうに靜かな中の海の入江であつた。岸にある崖の赤いのと草の緑とは、行く先で私達の眼をひいた。

「こんもりとした杜もりが見えますね。神社も見えますね。樹木のあるところは神の住居だと考へたのが、古代の人の信仰だつたさうですね。二柱の神なぞといふ數へ方も、さういふところから來てるといふぢやありませんか。」

私達はこんなことを語り合つて身動きも出來ないほど乘客の多い甲板の上の暑苦しさを僅かに慰めて行つた。この入江には、大根島だいこんじまと呼ぶ島もある。村落二つほどもあるかなり大きな島だ。牡丹の花で名高い。春先には驚くばかり美しいといはれる花園がそんな入江の中に投げ出されてゐると考へて見ることも樂しかつた。

「これらの島は、水中に生じた濃緑の花園か何かのやうである。」といふあの言葉も思ひ出される。私達の乘つて行つた小蒸汽は白い泡を立て、波紋と渦とを描きながら、中江の瀬戸まで進んで行つて、境港の船着場のところで船體を横づけにした。私達のすぐ側には幾つかの籠に林檎やバナヽなどを積んだ三人ばかりの果物賣の女も乘つてゐた。果物の籠は殆んど私達の通り路を塞いだ。私達は果物賣りの女が上陸するのを待つて、飛び上るやうに陸の方へ移つた。

かねて噂に聞いた境の港町は、米子よなごの方面から長く延びてゐる半島の突鼻とつぱなにあつて、岡山、米子間の鐵道が全通し、築港の計畫でも完成せらるゝ曉には、朝鮮、滿洲その他南支那への新しい交通の起點が更に一つ開けるであらうといはれるほど、希望に滿ちた位置にある。

「築港の設計所も、ついでに一つ見て行つて貰ひませう。」

こんなことをいつて誘はれるまゝに、私達は築港設計所の建物のある小山の上にも登つて見た。そこは外國からやつて來る船を黒船といつた時代に、その外來の勢力を防ぐため舊鳥取藩で築いた臺場の跡であるとか。長さ二百五十間、幅二十間の埋立地をつくり、二百間あまりの岸壁を立て、總延長千六百間の餘にも及ぶ防波堤を築くために、五年間も一つの根氣仕事を續けて來たといふやうな、そんな辛抱強い人達が、その小山の上の土木出張所に働いてゐた。

岡田汽船會社の岡田丸で、私達は境の港を離れようとした。その時は、古川君の外に、美保の關からわざ〲出迎へに來てくれた野村君とも一緒になつた。

「私もお供をさして戴きませう。」

といつて最後に甲板に上つて來たのは、會社側の渡邊君であつた。同行五六人のものがこんな風に甲板に集まつて、一緒に美保の關へ向つた。

土地の事情に詳しい渡邊君と野村君とは、かはる〲私の話し相手になつてくれた。境の港口から美保灣の方に見える工事中の防波堤を私に指して見せ、殆ど海中に幾何學的な線でも描いたやうなその堤が、北の方へ直角に折れ曲つたところなぞをも指して見せ、この工事が完成せらるゝ日には、千トン乃至二千トン級の數隻の船を同時に港口の岸壁に繋ぎ得るであらうこと、さういふ築港のあらましなぞを、世故せこに長たけた調子で話し聞かせるのは渡邊君だ。船から見て行く島根半島の方に私達の話頭を轉じ、國讓りの故事を語り、事代主ことしろぬしの神の昔を語り、この世がまだ暗く國も稚をさなかつたといふ遠い神代の傳説の方へ私達の心を連れて行くのは野村君だ。

「三よりの網ですか。この邊はあれを掛けて、國來くにこ、國來くにこ、と引いて來たところでせうに。」

かういふ話が出て來るのだから面白い。

私は自分に尋ねて見た。毎年二十萬人からの參詣者を美保神社に集めるといふ事代主の神には一體どういふ徳があつて、それほど多くの人の信仰の對象となつてゐるのだらうかと。俗に「お夷えびすさま」といへばどんな片田舍の子供でも知らない者のないやうな事代主の神とは、漁業の祖神であるばかりでなく、農業と商業とを司つかさどる神でもある。そのことが既に平和の神である。これほどまた逸話に富んだ神もめづらしい。美保の關の住民が未だに鷄を飼はず、鷄の玉子を食はないことは、世に隱れのない事實である。が、それが神の殘した逸話から來てゐるといふこともめづらしい。釣ずきな事代主の神は寢惚けた鷄に時を過られ、未明に舟を出して、にはかな風と波とに櫓も櫂も失つた。止むなく足で漕がうとして、鰐のためにその足を噛まれた。これがそも〱鷄を忌むやうになつた事の起りとされてゐる。一説には神の愛するものが米子の方にあつて、夜明を告ぐる鷄のために果敢はかない逢瀬をさまたげられた爲であるともいふ。いづれにしても、こんな逸話を後世までも殘したといふところに、この神の神らしさがある。誰でも親しめさうな神である。そこいらの岩の上に腰かけて、餘念もなく釣竿を垂れてゐさうな神である。これほど優しい神が、百姓や漁師や商人の友達であるのは不思議もない。あの福々しい笑顏を崩したこともないやうな親しみ易い神が、無數の老若男女から親のやうに慕はれるといふことにも、不思議はない。

果して、私達の乘つて行つた岡田丸が美保の關の港に着いて見ると、その邊に見つける船といふ船は、美保神社の參詣者の群で一ぱいに溢れてゐた。參拜記念の旗なぞを押し立てた船も眼についた。

こゝへ來て見ると、稻佐いなさの濱での國讓りも、語り古された故事である。一艘の古い小舟の模型がその記念として、美保神社の境内に安置してあつた。「いな」(否)か「さ」(應)か、それは稻佐といふ言葉の意味であると聞くが、そこの濱邊に十掬とつかの劒を拔いて逆さまに刺し立て、その劒の前に趺坐あぐらをかいて、國讓りの談判を迫られたといふ時、大國主の神がひそかに使者を小舟に乘せて助言を求めたのも、美保にある事代主の神の許であつたといひ傳へられてゐる。私達はこの劇的光景を遠く想像させるやうな小舟の前で、しばらく旅の時を送つた。

名高い五本松のある山は、美保神社からいくらも離れてゐない。青く深い海水に臨んで、軒を列ねた水樓の屋根が、その傾斜の位置から眼の下に見おろされる。港に浮かぶ船舶のさまも、明るい繪のやうに美しい。おそらく美保の町長が私達に見せたかつたのは、故大町桂月君が「大天橋」と呼んだといふ夜見よみヶ濱から遠く伯耆の大山へかけての眺望であつたらうが、私はむしろその傾斜から見おろした美保の關の港の眺めを取る。昔は航海者の標的であつたといふ五本松のふもとには、一軒の休茶屋もあつた。そこで味はふ茶もうまかつた。晝食の時刻には、私達は山から下りて、春畝しゆんぽ山人の額などの掛つた美保館の座敷で、先づ汗をふいた。

十 出雲浦海岸

同じ日の午後。

境の港から私達を乘せて來た岡田丸は、美保の關での荷積みその他を終つて、棧橋のところに私達を待つてゐた。

出雲浦の海岸を見ないでは、山陰道の海岸を見たとはいへないとは、故大町桂月君の言葉であるとか。大町君はこの地方の中學に教鞭を執つた時代があつて、そんな關係から、山陰方面には同君の足跡の至らないところはないといはれたほどの旅行家だ。この山陰通の殘した言葉を聞いたばかりでも、私の心は動いてゐたのに、松江の太田君からも出雲浦海岸のいゝことを聞いて來た。私達は今、岡田汽船會社の渡邊君等の厚意から、その出雲浦に出て、外海の方から、島根半島を一𢌞りして見るやうな機會に接したのである。

岡田丸は境、江角えすみ間を隔日に往復する定期船であるが、同時に觀覽船を兼ねた形で、乘り心地もよかつた。私達は船長室に近い舳の方の甲板の上に陣取つたが、一行の五六人のものの中には松江からの古川君、境からの渡邊君の外に、美保の野村君もまた一緒で、境から乘つた時と殆ど同じ顏觸れであつた。船が棧橋を離れて、その靜止した位置から美保の關の港を後方に動き出して行くと、樂しい波の動搖が私達のからだにまで傳はつて來た。私達は船體の底の方に生々いき〱とした海の躍るのを覺えた。

地藏崎ぢざうざきの白い燈臺が見えて來た。岬の端に、圓い屋根の燈臺の建物が立つのは、やがて織布のやうに長い島根半島の最北端であると知れた。山陰地方を旅するものが、陸から隱岐の島を望まうとするのも、その燈臺附近の位置からであらう。緑につゝまれた岩の鼻を離れると、際涯のない日本海の眺望がそこにひらけてゐた。

海から見て行く陸の感じもよい。岸に近く、海上にそばだつ無數の奇巖は、殆ど數へるにいとまがない。顯れた島。隱れた暗礁。その邊の岩石の間に生ずる名も知らないめづらしい草の微細なものから、青い潮の反射をうけて光る懸崖岸壁の巨大なものにいたるまで、そこには何ほどのものがあると言つて見ることも出來ない。しかしそれらの奇異な島々岩々よりも、むしろ行く先の岬のかげに隱れてゐるやうな港の方に私は多く心をひかれた。

出雲浦もおだやかな時であつた。渡邊君等の心づかひと見えて、甲板の中央にはテエブルを置き、その上に茶なぞを置いたのも樂しかつた。海の愛はまた私の心に活き返つて來た。私は幾年か前の外國の旅を思ひ出し、遠洋の航海の記憶を呼び起して、私達の疲れ切つた筋肉や神經までも清く新たにするやうな日光と海風とが身に浸しみ渡るのを覺えた。

鯨ヶ浦を過ぎ、雲津を過ぎた。七類なゝしきといふ漁村を過ぐるころ、岸の方に立つ田舍めいた白い旗を望んだ。それは岡田丸の寄港を求める相圖の旗であるとか。その日は船の都合で七類へは寄らなかつた。

船員は船の上から挨拶でもして通るやうに、

「素通り、素通り。」

この調子だ。岡田丸では、舳に立つ老船長が自分で舵機をとつて、舵夫の代理までも勤めてゐるが、それが却つて心易い感じを乘客に與へた。何となく旅の私達まで氣も暢のび〱として來た。

いつの間にか同行の古川君の顏が甲板の上に見えなかつた。同君も船に慣れないかして、船室の方へ休みに降りて行つたらしい。そのうちに、鷄二もうつとりとした眼付をして海の方を眺めてゐるやうになつた。

「どうしたい。」

「なんだか僕もすこし怪しくなつた。」

「こんなおだやかな海で醉ふやうなことぢや、船には乘れないな。」

私は渡邊君から分けて貰つた仁丹などを鷄二に服のませ、少し甲板の上を歩いて見ることを勸めた。

この海岸は諸喰もろくひから大崎の鼻までを東金剛ひがしこんがうともいふ。例のテエブルの周圍には、渡邊君、野村君、それに會社側の營業部員や船員などが集まつて話した。渡邊君は岡田汽船會社の專務取締役でもあり、同じ囘漕店の支配人でもあり、境の港町の町會議員をも兼ねてゐるやうな人で、最初私は同君からおそろしく長い肩書の名刺を貰つた時、これはどういふ人かと思つたが、だん〱言葉をかはして見てゐるうちにその男らしい容貌と態度とに心をひかれるやうになつた。磊落らいらくで剛膽な渡邊君と、綿密で神經質な野村君とは、二人の體格と服裝とからしておもしろい對照を見せてゐた。旅の空の氣輕さ。私は雲のやうになつて來て、長い間の知り合か何かのやうにこれらの人達と話すことも出來たのである。

野村君もなか〱元氣で私の方を見ながら四方山よもやまの話をした。

「どうでせう、美保の關の人間くらゐ古むかしを守つてゐるものも、めづらしいでせうな。親代々から鷄も飼はず、孫子に傳へて玉子も食はないなんて、そんなところが他にありませうか。」

「でも、君等だつて他の土地へ行つたら、玉子ぐらゐ食ふでせう。」

私達の側にはこんなことをいつて話を混ぜ返すものもある。

「そりやあお附合で、稀に食ふこともありますがね。どうも後で氣持が惡い。」

この人にいはせると、さういふ昔からの習慣が單に無邪氣な傳説から來てゐるのではなく、あの事代主ことしろぬしの神が鷄の鳴聲に欺だまかされて、身を危ふくするところであつたといふやうなお伽話からでもなく、實は出雲民族に取つて忘れられない國讓りの日を記念するためであらうとのことであつた。遠い古代のことは想像も及ばない。今はたゞこの地方に遺つてゐる習慣や風俗のみが歴史的な事實を語るかに見えた。

やがて鯛の潮煮などがテエブルの上に運ばれた。野村君は上手な手付で、それを皿に取つてみんなの前に出した。船で味はふ新鮮な魚の手料理もうまかつた。このもてなしには、古川君も鷄二も船醉ひを忘れたらしい。

私達の乘つて行つた岡田丸は、海そうめん、若布わかめなどの乾してある海岸の岩の見えるところへ出た。かなたの岩の上には、魚見小屋も見えて來た。船で鳴らす寄港の合圖が港の空高く響き渡ると、小さな盥に乘つて悦ばしさうにこちらへ近づいて來る二人の子供などもあつた。そこは惣津そうつといふ漁村で、隔日に通かよつて來る岡田丸でも待つより外に、交通の便利も少いほどの邊鄙な土地と聞いた。私は曾て何處にも、こんな桃源めいた漁村を見たことがない。靜かに立ち登る煙、鷄の聲、すべてがいかにも平和な感じを與へる。さういふ私の想像して來た出雲浦海岸とは、もつと別の場所であつた。行く先の岬のかげに、こんな仙境が隱れてゐようとは、實に意外であつた。

出雲浦に見逃せないものは、七つ穴と潜戸くゞりどの二ヶ所にある大きな洞窟である。山陰道の海岸にある洞窟は、既に浦富の方で私もその深さを探つて見たが、この出雲浦に來て一層自然の力に引き入れられた。七つ穴は西金剛の多古鼻たこのはなに近いところにあり、潜戸は加賀の潜戸鼻の尖端に近いところにある。岡田丸に乘つて行けば、いづれもその近くの漁村から觀覽用の小舟を呼ぶことが出來る。

私達はその小舟で七つ穴に近づいて見た。巨大な洞門が、七つまでも海岸の岩壁の間に並んでゐたのには、先づ驚かされた。あたかも十四の石柱と石壁とをそこにうち建てたかのやうにも見える。そのうち東穴は高く、西の穴はまた深くて誰もその奧を究めたものがないといはれてゐるが、一番大きいのは中の穴であつた。「洞窟内に通ずる海水は空氣の如く明澄で、これより麗しい洞窟は世界中殆ど想像し得ない」とは、ラフカヂオ・ハアンがこゝに遊んだ時の言葉と聞く。明るく澄んだ海水を通して見た色さま〲に奇異な海草は、ちよつとこの世のものとも思はれない。それらの海底は、魅せらるることなしに窺ひ見ることの出來ない鮮かな夢の世界か何かのやうである。西の穴の洞窟内は廣くて奧に渚なぎさもあつた。小舟から降りて、その渚の小石を踏むことも出來た。ちやうど一羽の若い岩燕がその洞窟にある巣から離れて、私達の歩き𢌞る小石の間に落ちてゐた。雛かと見えて、まだ飛ぶ力がない。同行の一人がそれを拾ひあげた。こゝろみに私も自分の掌に載せて見ると、翼こそまだ延びてゐないが、鋭い爪には蝙蝠のやうな力があつた。そこへ鷄二が歩いて來た。動物のすきな鷄二は洋服の隱かくしにでも入れて持ち歸りたい樣子であつたが、やがて思ひついたやうに、小石の間へその燕の雛を放した。おそらく親鳥が來て元の巣へ連れ歸るだらう。そんなことを語り合ひながら、また私達は小舟の方へ歸つた。青く澄んだ海水は一方の洞門から他の洞口へと通じてゐて、この深い洞窟の奧を船で一𢌞りすることも出來た。

それにしても、七つ穴とはあまりに殺風景な名だ。岡田丸に戻つてからの私達の間には、その話も出た。その邊の海岸を東金剛、西金剛といふところから、私はそれに因んで、「金剛洞」と呼んで見た。この新しい洞窟の名は、渡邊君はじめ同行の人達を悦ばしたらしい。

船は更に出雲浦を進んで行つた。多古の鼻を過ぐるころには、隱岐おきもかすかに望まれた。島前どうぜん、島後どうご。その二つの島影がそれだ。海路としては、その邊が隱岐への最短の距離にあるといふ。私達は瀬崎の港を通り過ぎた時に、袖掛そでかけ松なぞに遺のこる後醍醐天皇の故事を聞いたが、今また隱岐の見えるところへ來て、あの島に十數年を送られたといふ後鳥羽院の故事をも聞いた。歴代の天皇の中でも、あの後鳥羽院が伏見院と並んで多くのすぐれた歌を後世まで遺されたといふことも、さうした境涯に激發されたためであつたらうか。歴史上の懷古にもまして旅するものの胸をうつのは、そこに殘つた人間苦である。水平線のかなたはと見ると、海と空とが殆ど同じ色に光つて、午後五時ごろの日が漸く斜に甲板の上に射して來るやうになつた。

新舊二つある潜戸くゞりどの洞窟の内へも小舟を進めて見た。殊に新潜戸の方には、美しい傳説が織り込まれてある。伎佐貝比賣いさかひひめの命みことといふ妙齡の女神が愛する男神との間に王子を設け隱れた産家として選んだのがこの海岸の洞窟であるといひ傳へられてゐる。こゝは海の女神の住居であつたといふことも、あながち誇張とのみは思はれない。海の神祕は、それほど凄い美しさで私達をその深い力の中に引き入れる。人はこんなところへ來ると、早く逃げて歸りたいと思ふか、あるひは歸ることを忘れるか、どちらかだ。

同行の人達は次第に半日の船旅に倦んだ。その時になつて見ると一番體格の好い渡邊君の動作が眼につく。精力のさかんな同君は私の側へ來て、いろ〱な土地の話を聞かせたり、海圖をそこへ取寄せて見せたりなぞして、倦むといふことを知らない。私はこの渡邊君に言つて見た。

「一體、この山陰道を裏日本とは、どういふ譯でせう。大陸に向つた海岸の位置からいへば、こつちの方が表日本であつていゝ譯ですね。」

それを聞くと、渡邊君は感慨深い眼付で、私と一緒に海を眺めながら、

「そこですよ。私達のやうな山陰道のものが、日ごろ考へてゐるのもそこですよ。」

と言葉に力を入れてゐた。

江角えすみの港もかなり遠く思はれた。午後の七時ごろには、船から日沒を望んだ。海も岩も次第に色が變つて來た。そろそろ薄暗い空氣の中に、私達は江角の漁港を見た。そこらに立ち登る麥燒きの煙をも見た。定期船としての岡田丸が私達を乘せて行くのも、そこまでだ。私達は朝日丸といふ船の方に移つて、佐多川の掘割から歸路についた。これが日の暮れないうちであつたら、江角にも佐多川の兩岸にも見るべきものが多かつたらうにと惜しい。佐多川から宍道湖に出たころは、そこいらはもう眞暗であつた。嫁ヶ島に近づけば近づくほど湖水は淺し、船の通路にもおほよその定めがあり、暗を動いて行く船の舳には、一點の紅い燈火をつるして、漸く夜の九時ごろに松江へ歸り着いた。

十一 宍道湖の旅情

備後びんご入道とは、松江市から見て東南の空に起る夏の雲のことをいふとか。宍道湖しんじこのほとりでは、毎日のやうにその白い雲を望んだ。東京から二百三十三里あまり。私達もかなり遠く來た。山陰道の果てまではとこゝろざして家を出た私も、松江まで來て見ると、こゝを今度の旅の終りとして東京の方へ歸らうかと思ふ心すら起つた。時には旅に疲れて、その中途に立ちすくんでしまひさうにもなつた。このまゝ元來た道を引返すか。海岸に多いトンネルのことを考へると二度と同じ道を通つて暑苦しい思ひをする氣にもなれない。私は米子から岡山へ出る道を取つて、すこしぐらゐ無理でもまだ鐵道の連絡してゐないと聞く山道を越えようかと考へたり、それとも、最初の豫定通り、遠く石見いはみの國の果まで行つて、山陽線を𢌞つて歸らうかとも考へたりして、そのいづれもが容易でなささうなのに迷つた。

私は鷄二に戲れていつた。

「どうだらう。東京の方へ歸るのを止めて、いつそ松江の人にでもなつてしまはうか。」

しかし、これは私の惡い洒落である。また私は勇氣を起して旅を續ける氣になつた。暑さをも厭はず宿まで來て呉れた太田、古川二君に頼んで、松江の市内にある二つの小學校を訪ねて見ると、折柄教室に並べてあつた兒童の製作もこの地方のことを語り顏であつた。白潟しらがた、母衣ほろ、私達がしばらく時を送つたのもその二校だつた。母衣の方では學藝會の催しのある日で兒童の遊戲なぞも始まつてゐた。私も子供は好きだ。長い廊下を挨拶して通る少年でも呼び留めて、いろ〱と言葉をかはして見たく思つたが、時と場合がそれを許さなかつた。私達は連立つて、北堀といふところに小泉八雲の舊居をも訪ねた。舊くはあるが床ゆかしい家中かちゆう屋敷で、庭に咲く百日紅さるすべり、花はないまでも桔梗、芍藥なぞ、この地方の夏はそこにも深いものがあつた。主人も心ある人と見えて、質素な書齋の襖から櫛形の窓まで、明治初年の昔からあるものを何一つ置き換へることもなしに清潔に住みなしてある。故人が愛したと聞く池の蓮も、この記念の家を靜かに見せてゐた。

千鳥城はこの山陰地方で天守閣を保存する唯一の城址である。そこへも訪ねて行つて見ると、寄せ木の太い柱を鐵の板で堅めてある天守閣の内部は、武裝を解かれて休息してゐる建物か何かのやうであつた。ところ〲に蟲ばんだ柱を見るが、堅牢な感じを失はない。往昔、堀尾吉晴によつて築かれ、小瀬甫庵をぜほあんの繩張りによるといはれるのもこの城だ。五層ほどもある高い建物の位置からは松江の市街がよく見えた。天狗、星上ほしかみ、茶臼の山々から、伯耆の大山までが呼べば答へるやうな眺望のよい位置にある。あの大雅堂のやうな人がこの地方へ旅して來た昔に、宍道湖にひゞく古鐘の音に聞きほれて、半年も歸ることを忘れたといふ天倫寺の屋根も、そこから見渡される。その古鐘こそ朝鮮から渡來したものと聞くが、未だに古い響を湖水に傳へてゐるかどうかは知らない。

千鳥城から見える星上山は私達の宿からも見える。この山陰の旅には私もいろ〱な望みをかけて、日本最古の地方の一つを踏んで見るといふだけでも樂しみにして來た。出來ることなら、海岸ばかりでなしにもつと山地の方まで入つて行つて、古代の人が、現世と黄泉よみの國との境であると想像したといふ出雲の伊賦夜坂いぶよさか(比良坂ひらさか)のあたりを歩いて見たらばと思つて來た。比婆山ひばさんの位置もはつきりしないとは聞くが、もしそんなところまで行くことが出來て、あの伊邪那美の神の墳墓の地を見たらばとも思つて來た。眼にある星上山の向うには、その比婆山ひばさんも隱れてゐるといふことであつた。こゝは古代の大陸との交通を想像させるばかりでなく、もつと古い神話にまで遡るなら、天地創造の初發の光景にまで、人の空想を誘ふやうなところだ。こゝは豐かな傳説の苗代なはしろだ、おもしろい童話の作者でも生れて來さうなところだ。こゝは神祕なくらゐに美しい海が、その祕密をひらく若者を待つてゐる。新しい海の詩人でも生れて來さうなところだ。

舊暦十八日ばかりの夏の月が射し入つた晩は、私達は宿の二階にゐてすゞんだ。松江中學の端艇競漕があつた日で、賑かな舟唄は湖上に滿ちてゐた。空氣は清く澄んで殊に水郷の感じが深い。青白い光を放つ夜の空もよく晴れた。星も稀ではあるが、あるものは紅くあるものは青く、天心に近づくほど暗いところに懸つてゐた。月あかりに鳴くかすかな蟲の聲さへ聞えて來るやうな、そんな良い晩だ。

「これで涼しい風があれば、申し分はないがなあ。」

鷄二はそれを言つて、宿の若主人を相手に舟を出し、そこいらを一𢌞りして歸つて來た。晝より暑いくらゐで、夜遲く石垣の下に出て、そこに繋いである舟に乘りながら涼むものもあつた。さすがに水邊の宿だ。無數の蟲は部屋の電燈をめがけて群れ集まつて來た。それを見ただけでも、寢苦しい。その晩は私も縁先の籐椅子にもたれて、湖水に聲のなくなるほど遲くまで起きてゐた。

十二 菅田庵を訪ふ

松江の郊外にある菅田庵すがたあんは、不昧公が遺愛の茶室で知られてゐる。松江における不昧公の位置は、白河における樂翁公のそれを思ひ出させる。

松江を去る前の日の午前に、私達は太田、古川二君に導かれて菅田庵を訪ねた。その時は私達の宿の親戚にあたる松影堂の主人とも同道した。柿谷といふところにある有澤氏の山莊がそれで、昔の人達が魂を休めに行くためにあつたやうな村里の片ほとりに隱れてゐた。

山莊の入口にある小徑はかなり長かつた。私は曾てこんな樂しい小徑をふんだことがない。そこを踏むばかりでも、ひとりでに私達の心は澄んで行くのを覺える。古い池がある。竹の林がある。淺い谷間の地勢がその一方にひらけて、茄子畠の向うには遠く鷄の聲を聞く。その邊の土の色の赤さは驚くばかりだ。日のあたつた赤い茄子畠は繪にでもしたらと思ふばかりに美しい。苔蒸した坂道に添うて楓の樹の多い小山に出ると、さゝやかな枝折戸がある。今の主人はそこに草履などを用意して、私達を迎へてくれた。靴を草履にはきかへて、庭石を踏むといふだけでも、何となく私達の心は改まつた。

私達の訪ねて行つたところは、この小山の上に立つ二棟の簡素な平屋を、庭もろとも一つの意匠に纏めたやうな場所であつた。客の休息所に宛てたお待屋の方には、雨傘ほどの大きさの笠が眼についた。雨に雪に、お待屋から茶の室の方へ通ふ客のためにあるものとみえて、細心な茶人の用意はそんなところにも窺はれる。茶室には二疊と四疊半との二部屋があつて、私達は先づ二疊の方の狹い窓のやうな入口から入つた。海邊の漁夫の寢るだけにあるような住居の入口から、こんな茶人の意匠が生れて來てゐるといふこともおもしろい。水屋を通つて、四疊半の方に出た。向月庵とした額の掛つた茶室がそこだ。私達は思ひ〱に、疊を敷いた縁えんのところにゐ、その外にある板敷の縁のところにもゐて、すゞしい蝉の聲に暑さを忘れた。庭に置いた石も省けるだけ省いて、庭先にある二本の古松と山々の眺めとを廣く取入れてある。山郭公やまほとゝぎすなども啼いて通りさうなところだ。こゝへ來て見ると、簡素を求めた昔の人の心が感じられる。私は不昧公のことをいふついでに、白河樂翁を引合に出したが、この比較は當つてゐないかも知れない。たゞ二人とも徳望のあつたといふ點でのみ、それがいへるかも知れない。藝術上の惠まれた天分にかけては、不昧公は遙に樂翁公の上にあらう。

有澤氏の山莊には、別に不昧公の意匠になつたといふ明々庵が他から移されてあつた。山の横手のところには、山櫻の多い谷を前にした小茶屋もあつた。樅もみ、松、楓などの外に、椎の木の多いことも樹蔭の道を樂しく見せてゐた。

松江の宿に歸つてからの私達はまた翌日の旅支度にいそがしかつた。松江には七月の十四日から十七日までゐた。旅の記念にと書き盡せないほどの色紙などを、この地方の人達からも持ち込まれ、宿の女中にまで何か書けとせがまれては、午後からも殆ど休むいとまがなかつた。成るべく手荷物も少くと思ふところから、白潟、母衣ほろの二校から貰ひ受けて來た兒童の製作品、圖畫、作文、手工の竹の箸、それに松江土産の箱枕などは留守宅宛の小包にした。そこいらには、ある人々へ贈りたいと思つて取寄せた不昧公好みの煙草盆が殘つてゐた。それもこゝから荷造りして出すことにした。こんなに取りちらしてゐるところへ宿の女中が客のあることを知らせに來た。ずつと以前の同じ學窓の縁故から、私なぞから見れば、先輩に當る人が、土地の話を持つてわざ〱逢ひに來てくれたといふこともなつかしい。その時は太田君も一緒で、湖水から吹き入る風の涼しいところで話した。四方山の話の末に、これから私達が向はうとする石見いはみ地方のことが出た。そこには人麿の遺蹟のあることなぞから、あの昔のすぐれた歌人も役目としては、せい〲國守か郡守ぐらゐのところであつたらう、そんな話が出た。客もなか〱話ずきな人で、そのうちに鋭い鋒先を太田君の方にまで向けて、「太田君も商業會議所の書記長ぐらゐに止めて、それ以上の榮達は望まない方がようござんすぜ。昔から高位高官に登つたやうな人に、そんなにおもしろい人も見當りませんぜ。」

こんな話も旅らしい。しばらく私の心は書生の昔に歸つて行つた。その晩は客で取り込んだ。古川君を送つた後には、その日東京から着いたといふ畫家の小山周次君を迎へた。この小山君は小諸出身で、私とは舊い馴染だ。同君は大社まで私達と同道しようといつて、翌日の朝を約束して別れて行つた。四日ばかりの滯在は短かつたけれども、しかし私達はこの松江の宿に來て、直入ちよくにふの蟹の額などの掛かつた氣持のよい部屋に旅寢することを樂しみにした。この五月あたりに東京から有島生馬君が見えて私達と同じ部屋に泊つて行つたと聞くこともうれしかつた。さういふ私達も、二度とかうした旅に來て見る機會があらうとは、ちよつと思はれない。この地方の木枯が吹いて、海蛇が岸に上るといふ「お忌荒いみあれ」の季節からは、そろ〱自然の活動が始まるといふが、さういふ山陰の特色の最もよくあらはれる頃などを選んで、わざ〱再遊を試みるやうな機會があらうとは猶々思はれない。

七月の夜は明け易かつた。翌十八日の朝には私は早く起きて、古川君、太田君、その他の人達にも別れを告げて行く支度を始めてゐた。私は遠く紫色を帶びた星上山から、まだ朝靄に包まれてゐるやうな松江の町々までもよく見て行かうとした。

十三 杵築きづきより石見いはみ益田ますだまで

杵築に着いた。

山陰道の西部をさして松江を辭した私達は、出雲を去る前に今市から杵築に出た。杵築までは、松江で一緒になつた小山君とも同道した。こゝは島根半島の西端に近いところで、日の御崎へもさう遠くない。出雲の大社のあるところだ。

子供の時分の記憶をたどると、俗にいふ大黒さまとお夷えびすさまとが私の生れた木曾の山家などにも飾つてあつたのを覺えてゐる。幼い時分の私の眼には、俵をふまへた大黒さまと釣竿をかついだお夷さまの姿が映るのみで、その俵が何を意味し、その釣竿が何を意味するかをも知らなかつた。あの大國主の神が農業の祖神であり、事代主ことしろぬしの神が漁業の祖神であることが分つて見ると、俵をふまへ釣竿をかついだ、父子二神の姿も讀めて來る。私はこの出雲地方を旅して見て、豐かな頬と、廣い眉間と、濃い眉とを行く先に見つけた。あの夷大黒としてよくある彫刻などに見る神の顏の特徴は、やがてそれが純粹な出雲民族の特徴であることを知つた。

「笑」をあらはした神像といふやうなものが他にもあるかどうか、私はよく知らない。すくなくも大黒さまとお夷さまとにはそれがあらはしてある。何といふ平易で通俗な神像だらう。何といふ親しみ易い笑顏だらう。人も知るごとく、信濃にある諏訪神社の祭神建御名方たけみなかたの神は、事代主の神と共に、大國主の神の子であつて、國讓りの當時信濃の方に亡命せられたのである。事代主の神は父大國主の神の和魂にぎたまをうけつぎ、建御名方の神は同じ父神の荒魂あらたまをうけついだといはれてゐる。當時の出雲民族は古代文化の中堅の一つであつて、その勢力は南は紀伊に及び、中央から北は越後信濃にまで及んでゐたといふくらゐだ。剛健勇邁な建御名方の神が亡命の心事は今からでもそれを想像するに難くない。それに比べると、大國主の神はどこまでも平和の神であり、當時の平和論者なる事代主の神の意見を容いれて、國讓りの難局に處せられたのであらう。退いて民に稼穡かしよくの道を教へたといはれる神が、高くも遠くも見たであらうことは、それもまた想像するに難くないやうな氣がする。私はよく信濃の方へ旅して、諏訪湖のほとりを通る度にあの建御名方の神を祭るといふ古い神社の境内を訪れたこともあるが、鬱然として氣象の近づき難さが身に迫るのを覺えた。今、この出雲大社に來て見ると、こゝにはそれほど深く沈んだものはない。こゝに祭られてある大國主の神は昔ながらの笑顏をもつて、多くの參詣者の頭を子供のやうに撫で、お伽話でもして聞かせてゐるやうに見える。海岸に近い神社の境内には、松の枝が汐風に吹きたわめられ、あたりも開けて、今ではコンクリートの新しい大鳥居まで立つやうになつた。おそらく、讓りに讓ることを徳とせらるゝほどの神は、一切に逆らはず、多くの不調和をも容れて、移り行く世相に對せらるゝことであらう。

大社の主典島君に導かれてあちこちと見て𢌞つた後、私達は千家邸せんけていで早い晝食の饗應を受けた。古い歴史のある家族がそこに住んでゐた。三朝みさゝ温泉の方に病を養つてゐるといふ人の噂も聞いた。不昧公の意匠になると聞く古い庭園は私達が杵築に來て見た最も靜かな場所であつた。そこでも記念にと、揮毫を求められたが、兎角旅の心は落ちつかないで、自分ながら恥かしいものを書きちらした。家扶の星野君といふ人が來て、これは誰とやらの短册、これは誰とやらの色紙、これは誰とやらの書畫帖なぞとうや〱しくそこへ取り出されたのにも恐縮した。時と場合が許して、もつとゆつくりその庭園を眺めることが出來たら、見つけるものも多かつたらうに。惜しい。

汽車の時間が迫つたことを知らされて、私達はあわたゞしく千家邸を辭した。杵築まで同行した小山君にも別れ、今市から更に西の方へ向つた。出雲地方を去るにつけても、米子の町を見落して來たことは殘念であつた。松江の太田君が勸めてくれた熊野神社まで行けなかつたことも、あの古代の出雲地方と離しては考へられないやうな素盞男命すさのをのみことを記念する熊野村まで行けなかつたことも殘念であつた。

今市から西の海岸の眺めは、これまで私達が見て來た地方と大差がない。出雲浦ほどの變化はないまでもおほよそその延長と見ていゝ。次第に私達は海岸に向いた方の汽車の窓を離れて、山の見える窓の方に腰掛けるやうになつた。大田、江津、濱田、私達は山陰西部にある町々を行く先で窓の外に迎へたり送つたりした。やがて五時間ばかりもかゝつて、石見の益田まで乘つて行つた。

十四 雪舟の遺蹟

旅の鞄に入れて來た案内記は、山陰線全通以前のもので、山陰線の西部のことはあまり出てゐない。石見にある雪舟の遺蹟も傳へてない。左にしるす三つの寺は、いずれも雪舟の晩年に縁故の深かつたところである。

醫光寺いくわうじ。

萬福寺まんぷくじ。

大喜庵だいきあん。

このうち、醫光寺と萬福寺とは雪舟の意匠になつた古い庭園で知られ、大喜庵はその終焉の地として知られてゐる。位置からいへば醫光寺と萬福寺とは益田の町にあり、大喜庵は益田に接近した吉田村の方にある。雪舟の遺蹟を探らうとするものは、先づ山陰線の益田驛で下車するのを便利とする。

中世紀の僧侶でもあり、名高い畫家でもあつた雪舟は出世修養期を周防すはうの雲谷庵うんこくあんに、明みんより歸朝後の活動期を豐後ぶんご(?)の天開樓に送つた後、石見に來てその最後の老熟期に達したといはれてゐる。この雪舟は、しばらく益田の萬福寺に留錫るしやくし、醫光寺に移り住み、吉田の大喜庵にその餘生を終つたらしい。あゝいふ昔の人が最後の栖家すみかを求めて石見地方の寺にそれを見つけたといふのは、その事がすでになつかしい。ましてそこは高津川たかつがはに近く、私達に取つて忘れることの出來ない萬葉の歌人柿本人麿の生涯に(その少年期にも、國守としての中年期にも、また晩年にも)縁故の深かつたところで、遠い萬葉の昔を忍ばせるやうな土地柄でもあるのだから。

かうした遺蹟も訪ねて見たく、山陰の西とはまたどんなところかと思つて、私達も暑さを厭はず旅をつゞけて來た。益田までの途中、細い藺草ゐぐさを刈り乾した畠なぞを汽車の窓から見て來ることすら、私達にはめづらしかつたのである。こゝはいはゆる石見表いはみおもての産地であるのだ。益田の宿について、町を貫く益田川の流れに臨んだ裏二階に足を休めた時は、兎にも角にも石見の空の見えるところまで無事にやつて來たことを思つた。松江の宿の方では、朝に晩に移り動く水の光を見て來た後であつたから、ちやうど私達は湖水の眺望のある南向きの部屋から、岡の見える北向きの部屋にでも移つて來たやうに感じた。何となく旅の心も落ちついた。

土地の人達は、よくそれでもこんな遠いところまで訪ねて來たといつて、私達親子の着いたのをよろこび迎へてくれた。益田の驛長龜井君、町長田中君、いづれも私には初對面の人達ばかりだ。私はこゝで、故島村抱月君の從兄弟いとこにあたるといふ人にも逢つた。私はまた大谷君のやうな思ひがけない知己がこの土地にあることを知つた。

「益田までお出掛けはあるまいと思つてゐましたよ。」

さう大谷君はいつて、出來るだけの案内をしようと約束してくれた。

土地の人達の心づくしから、その晩は宿の二階で鷄二と一緒に夕飯の馳走になつた。座には、龜井君、田中君、大谷君なぞの外に、益田の農林學校、高等女學校に教鞭をとる人達、その他の顏も見えた。こゝで味はふ高津たかつ川の鮎もうまかつた。

七月十九日の朝が來た。そろ〱私達の旅も、終に近かつた。朝飯の膳について見ると、味噌汁もうまい。聞いて見ると、その味噌は津和野つわのから來るといふ。日ごろの自分のすきなものからいふではないが、宿で出す汁椀の蓋を取つて、その香ひをかいで見たばかりでも、おほよそその土地を想像し得らるゝやうに思ふのが私の癖である。同じ山陰のうちとはいつても、これまで私達が旅して來た土地のことに思ひ比べると、こゝにはかなりの相違を見る。こゝは一つの獨立した地方のやうでもある。山口縣を通して入つて來る「西」の刺激は、つい隣にまで迫つて來てゐるやうにも見える。出雲の大社近くまで東から早く延びて來てゐた山陰線が、漸く數年前にこの邊の開通を見たといふことは、この地方の人達に取つてゆつくり身構へする時の餘裕を與へたらしい。一萬二千町歩にもわたる奧地の自然林に炭燒の煙の登るのを見、多量の製炭が架空索道によつてそこから運び出さるゝやうになつたのも、そんなに舊いことではないといふが、これなぞもその一例であらう。破壞にも、建設にも、鐵道がこの山陰の西にもたらしたものは、割合に靜かな地方の革命であつたらう。

朝飯をすますと間もなく土地の人達が誘ひに來てくれた。私達は連立つて醫光寺の近くまで歩いた。

商業地らしい益田の通りから寺の方へ折れ曲つて行くと、ある家の垣のところに濃い緑が眼についた。こゝにも夏蜜柑の樹があつた。私と一緒に並んで歩いて行つた大谷君はそれを私に指して見せたが、さういふ同君は日露戰爭當時の話を私に聞かせたばかりでなく、この地方へ逃げ込んで來た露艦の水夫のことを自分でも思ひ出したやうであつた。日本海の海戰はこゝから遠くない沖合で戰はれたのだ。二十人ばかりの露艦の乘組員が一隻のボートで着いた時は、誰も敗殘の兵士が救ひを求めに來たと思ふものはなく、敵が攻めて來たとばかり狼狽したものであつたといふ。この話は眼に見えるやうだ。それらのロシヤ人が上陸を許され、食物をあてがはれた時は、土地の人の與へた夏蜜柑に皮のまゝかじりついたともいふ。夏蜜柑にはこんな話が殘つてゐた。もつとも、その話をする大谷君は私なぞよりずつと年の若い人だ。日露戰爭當時の記憶は、話す人よりも反つて話される私の方に濃いとは思つたが。

「いゝもんやろ、醫光寺の門やろ。」

この古い俚謠の殘つたところが、私達の指さして行つた寺の入口であつた。高くがつしりとした唐門の上には、額なぞも掛かつてゐて、雪舟の遺蹟にふさはしい。石段を上つたところにまた總門がある。ちやうど住職の留守の時で、私達は古い本堂の前手から庭づたひに僧坊の奧へ出た。苔蒸した築山と泉水との見えるところへ行つて立つた。

「これが雪舟の遺のこした庭です。何かかう大きなものをつかんで、非常な力でそれを壓搾してあるやうに見えますが――」

かうした大谷君の言葉を聞くにつけても、私は行く先で逢ふ山陰地方の人達が、それ〲住慣れた土地にあるものをよく見てゐるのに感心した。こゝへ來て見ると、靜かに隱れてゐるやうな庭の眺めが一切を忘れさせた。石の美もよく捉へてある。縱の面と横の面との兩樣の配置は、省けるだけを省いたもののやうに見える。誰もこの庭から石一つ除き去ることは出來まい。誰もまた、この庭に石一つ附け加へることも出來まい。積み重ね〱したところに潛んでゐるものは、深い立體的な感じを伴ふ。これは心の庭だ。遠い中世紀は、まだこんなところに殘つて、私達の眼の前に息づいてゐるかのやうでもあつた。

留守居する寺の人達が、茶なぞを勸めてくれるのもうれしくて、私達は住職の居間らしいところからもこの庭を眺めた。建物の内部も廣くて、古い十六羅漢の木像なぞを置き並べた部屋もあつた。

思はず時を送つた。同行の人達に促されてこゝを辭しかけると、本堂の前あたりの庭のところへ來て、挨拶する人に逢つた。大谷君のお父さんだ。息子さんの方は、あるひは年よりも老けて見えるし、お父さんの方は、また若々しくて、そこへ並んだところはちよつと親子のやうに思はれないくらゐだつた。

醫光山の上にある庵は慈善庵といつて、大谷君の祖父にあたる人の開基にかゝるといふ。こゝまで來たついでに、ぜひともその庵のあるところまで登れ、さういつて勸めてくれるのはお父さんだ。その時は龜井君とも醫光寺まで同道して來たが、同君が益田の驛長といふいそがしい職務の中で、いろ〱と私達を世話してくれるのはありがたかつた。龜井君は大谷君親子の言葉を引取つて、いかにもはつきりとした調子で、

「一生の願ひとあれば、お登りにならないわけにいかないでせう。」

この人もなか〱勸め上手だ。數百階ある石段の横手には、別に山の上へ導く坂道もある。手に汗じみたハンケチを握りながら、松林の間を攀ぢ登つて行つて見ると、十一面の觀音を安置してあるといふ小さな庵の前へ出た。益田の町、吉田の村から、石見の平野の一部が、その高い位置から見渡された。長門富士なぞも西の方に望まれて、春先の雉子の鳴くころも、思ひやられるやうなところであつた。日本海々戰の當時には、この邊までさかんに砲聲の聞えたことを語り出すのは大谷君のお父さんだ。庵の後の方へ私達を連れて行つて、そこから領巾振山ひれふるやまを指して見せるのは息子さんの方だ。楊桃やまもゝといふ木の枝に實の生なつてゐるところも、私達がこの山の上へ來て初めて見たものである。それは「もつこく」を想ひ出させるやうな木ぶりで、小さな實は苺より赤黒い。四國あたりにはこの楊桃やまももはめづらしくないともいふが、初めての私なぞには仙人でも食ふ木の實か何かのやうに思はれた。すくなくも十年の齡よはひは延びる。そんなことを語り合ひながら、私達は庵の前に腰掛けてめづらしい木の實を味はつたり、またそこいらを歩き𢌞つて遠く山の間に續く白い街道を望んだりした。

醫光寺から萬福寺までは、それほど離れてゐない。歩いても知れたほどだ。青い麻畠の間の小道もめづらしく、樂しかつた。この邊には、麻、藺ゐなどの畑も多い。

萬福寺に來て見ると、雪舟の築いた庭がこゝにも古い寺院の奧に光つてゐた。硬質な岩の間に躑躅つつじを配置して、その石山を中心とした庭の意匠は、醫光寺の方で見て來たものと大體に一致してゐる。こゝには池の片隅に燒石を置き、一方の青い楓の樹のかげに三つの石をおもしろく按配して、風致はかならずしも一樣ではない。いはば姉妹の庭である。

書院も廣かつた。私達は思ひ〱にすゞしい風の來るところにゐて、年とつた住職が勸めてくれる茶をのみながら、この庭を眺めた。

住職は、赤松、高野松などの太い幹の見える庭の一部を私達に指して見せていつた。

「向うの竹藪のあたりはいくらか變つてゐますが、その他は大體に昔のまゝです。私共は子供の時分からこの庭を見てゐます。」

「どうでせう。この庭の方が醫光寺よりも纏まつてゐるやうに見えますが――。」

と大谷君はいひ添へたが、私にはどつちも好かつた。どつちの庭が姉で、どつちが妹であるとさへもいへなかつた。醫光寺を見た眼で萬福寺の庭を見ると、あの長く垂れさがつた古い櫻の枝のかはりに、こゝには岩の間から身を起した大きな蘇鐵がある。一方の庭に白く咲き殘つてゐた山梔くちなしのかはりに、こゝには腹這つてゐる磯馴そなれの松がある。かすかに鯉の動くのが見えるほど薄濁りのした水のかはりに、こゝには青い蓮の葉で滿たされた池がある。どつしりとした古風な石燈籠が一つこの池の水に臨んで、その邊には圓く厚ぽつたい「つはぶき」も多く集めてあつた。前手の汀みぎはのところに見える藺ゐ、あやめなぞの感じもよい。仲のいゝ友達のやうな蓮の葉が物をいつてゐる側には、河骨かうほねも夢を見てゐた。

その時になると、私もわざ〱この山陰の西まで旅して來た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の深い心の殘つてゐることも知らず、このよい庭も見落して行くところであつたと思つた。私は住職がそこへ取出して來た記念帖のはしに、僅かばかりの言葉を書きつけた。

「古大家の意匠になりし庭園を前にして、しばらく旅の時を送る。昭和二年、七月十九日記念。」

かうして萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこの柳のかげに吉田行の自動車を待つた。益田川の河岸に藺草の並べて乾してあるのも眼についた。醫光寺境内の山の上から望んで來た領巾振山はその橋のほとりからも見えた。

その時になると、又、私は日ごろの自分の考へ方を改めなければならないやうなものが、こゝにも一つあつたことを思つた。どうも雪舟の藝術は親しみにくいと考へたやうな、その多年の疑問は、今度の旅で見事に覆へされた。やはり、來て見て動かされた。

石見いはみといふ名が示してゐるやうに、いはばこゝは石の國である。古い時代の岩石の崇拜は、この地方に限つたことでもなく、伊豆あたりの神社にもそれを見つけるといふが、益田にある天あまの石勝いはかつ神社といふやうな古祠そのものがすでに、この地方のことを語つてゐるやうにも見える。雪舟の藝術に感ずるやうな石の美は、東洋的ではあつても、必ずしもそれが支那的であるとはいひきれないやうな氣もして來た。私はこの石の國に來て、何となくそれらの關係を讀み得るやうに思つた。その人の愛した自然を拔きにして、製作のみを單純にいつて見ることの危いのをも感じた。

吉田の大喜庵は、萬福寺から半道ばかりも離れて、高津たかつの濱を望むことの出來るやうな小高い山の上の位置にある。そこには雪舟の古い墓もあつた。故人が隱棲の跡には見晴らしのよい新築の寺が建てられて、そこでも茶の馳走なぞになつた。男のさかりを思はせる年ごろの人が今の住職をしてゐて、晩年の雪舟が餘生を終つたやうな地點から更に出發しようとしてゐることも頼母しい。私達は寺の縁先に腰掛けさせて貰つてそこでもまたしばらく旅の時を送つた。青田を渡つて來る風もすゞしかつた。

十五 高角山

高津の町にある高角山たかつのやまは、石見の旅に來て、柿本人麿の昔を偲ばうとするものに取り唯一の記念の場所である。高津は益田から一里ばかりしか離れてゐない。益田から吉田まで行けば、それから先には高津行の自動車があつて、高角山のすぐ下にまで出られる。私達が吉田の大喜庵を訪ねた足で、この山に登つたのは、同じ日の午前のうちであつた。

人麿に行かうとするには、萬葉集を開いて見るに越したことはない。萬葉集こそ人麿の遺蹟である。同じ石見にある昔の人の跡とは言つても、畫僧としての雪舟と、歌人としての人麿とでは、遺したものが違ふ。したがつて訪ねて行く私達の氣持も、おのづから異なるわけである。私達はあの萬葉集の中に出てゐる石川(即ち高津川)を眺望の好い位置から望んで見たらばと思ひ、人麿終焉の地として古歌にも殘つてゐる鴨山が今でも變らずにあるかと思つて、それを見て行くといふだけでも、滿足しようとした。

千二三百年の長い年月が、全くこの邊の地勢を變へたといふはありさうなことだ。私達は既に益田の方で萬壽年中の大海嘯おほつなみのことを聞き、あの萬福寺の前身にあたるといふ天台宗の巨刹安福寺すら、堂宇のすべてが流失したことを聞いて來た。益田から見ると、一里も海岸の方へ寄つて、高津川の河口に近いこの地方が、どんな大きな災害を受けたかは想像するに難くない。内濱外濱の數千の民家は皆跡かたもなくなつて、廣い入海も砂土に埋沒し、地形は全く變つてしまつたといはれてゐる。高角山にある柿本神社の境内は人麿が墳墓の地ではないまでも、古くからその靈が祭られたところで、私達はその話を神社の宮司からも、高津の町長隅崎君からも、そこまで同行した益田の大谷君からも聞いた。

觀月亭は、この社頭に立つ東屋あづまや風の一小亭である。宮司に導かれて私達は松風の音の聞えて來るやうなところに腰掛けた。白い單衣に青い袴を着けた神官の候補者らしい人が山づたひに古い松の根を踏みながら、私達のところへ茶菓を運んで來てくれるのもめづらしかつた。參詣者も多いと見えて社殿の前の柱といふ柱には男や女の名前が一ぱいに書きつけてあつたが、それを押し止めもしないところに宮司の人柄も見えてゐた。いろ〱とよく話す人で古典にも親しみ、和歌の趨勢にも通じ、かうして職務にたづさはる中での新人と見えたが、高津の町の盛衰を一身に負はなければならないやうな宮司としての立場も容易ではないらしい。私達はその東屋の外をも歩いて、松林の間に青い空の見える東の方を望んだ。領巾振山がその方角に見えた。峯のかなたには白い雲も起つてゐた。青田つゞきの村落までも遠く見渡すことの出來るやうな西の方へも行つて立つて見た。高津川はそこに流れてゐた。

石見いはみのや高角山の木の間より我が振る袖を妹いも見つらむか

さゝの葉はみ山もさやにさやげども吾あは妹おもふ別れ來ぬれば

青駒のあがきを速はやみ雲居にぞ妹があたりを過ぎて來にける

秋山に落つるもみぢ葉しましくはな散りみだれそ妹があたり見む

鴨山のいは根しまける吾われをかも知らにと妹が待ちつゝあらむ

これらの古歌を聯想させるやうな遠い昔の地勢は、どんなであつたらうか。今は鴨山もない。海嘯つなみのために流沒したその一帶の地域からは、人工の加へられた木片、貝類、葦の根などの發掘せらるゝことがあるといふ。昔は一面の入江であつたといひ傳へられるところには、豐かな平野が私達の眼の前にひらけてゐた。この邊の周圍はそんなに變つてしまつた。私は高角山にある古い松の間をめぐりにめぐつて、一層立ち去りがたい思ひをした。

青い海だけは、それでも變らずにあるのだらう。北の方にそれが望まれる。私はこの山陰の旅に來て、城崎に近い瀬戸の日和山から、先づ望んだのもその海であつたことを胸に浮かべて、これが最後に望んで行く日本海であらうとも思つた。大谷君は私の側に來て、沖の方にある一つの島を私に指さして見せた。そこは全く内地と交渉のない島であるとか、唯、そこに住む島民のうちに死亡者を出した時にのみ、こちらの海岸に向けて烽火のろしを高く打ちあげるといふ。それは死亡者を囘向するための讀經を頼むといふ相圖であるともいふ。山陰の西にはそんな島も隱れてゐるかと思つた。

午後の一時ごろ旅の私達は神社の額殿の内で晝食の饗應を受けた。この境内には一隻の白いボートが置いてあつたが、そのボートこそ例の敗殘の露艦ウラル號の乘組員を乘せて着いた日本海々戰の記念と知れた。

十六 津和野つわのまで

いよ〱旅も終りに近づいた。午後の四時ごろには、私達は益田から津和野を指して遠く歸路に向はうとする人であつた。高津へ同行した人達は益田の停車場まで私達を送つて來た。そのうち鮎の粕漬でも送らうなどといつて別れを惜む人がある。これから汽車で乘つて行くところは高角山の方で望んで來た高津川の上流にあたると私達にいつて見せる人もある。益田の宿に着くから、今またこの停車場を辭し去るまで、こゝの驛長龜井君も暇さへあれば私達のやうな旅人を見に來てくれたが、これでなければ地方の驛長は勤まらないものかと感心した。この龜井君、大谷君、その他の人達にも別れを告げて、やがて私達は益田を離れた。高津山に沿うて、横田といふ驛を過ぎた。大田、濱田、津田、益田、横田、これまで經て來た驛の名を數へても田といふ名の町々も多い。私も、石見までやつて來てよかつたと思つた。思ひのほか、この地方の旅は樂しい。もしこれが、東京から三百里近くも離れてゐないで、もつと來易いところであつたら、香住の大乘寺それから松江の菅田庵あたりは、もつと知られていゝ場處だと思つて見て來たが、益田の醫光寺と萬福寺を訪ねた時は一層その感じが深かつた。あの雪舟の遺した庭なぞは山陰道にあるものの中で、最も美しいものの一つであらう。

大阪からこゝまでやつて來た思ひをすれば、長州の萩の港までは、もうそんなに遠くないやうな氣もする。萩の町とは、吉田松陰はじめ明治維新の先覺者に縁故の深かつた土地と聞く。さういふ近い隣國の影響をこの石見地方に結びつけて考へて見ることもおもしろい。眞淵の言葉を借りていふなら、荒魂あらたま和魂にぎたま雙ふたつながら兼ね具はならないところのない人麿のやうな大きな詩人のたましひを生みつけた山陰の西部に、明治年代からの文學者、故人としては森鴎外漁史、島村抱月君、現存の人としては中村吉藏君などの仕事を結びつけて考へて見ることもおもしろい。たしか加藤朝鳥君も石見生れの人のやうに聞いてゐるが、もしさうだとすれば猶々おもしろい。まだこの外に私などの知らない人もあるかも知れない。

青原といふ驛を過ぎた。河の流れに膝ほど深く入つて鮎を釣る人も見かけた。津和野に近づけば近づくほど汽車の窓から見て行く水も谿流のさまに變つて來て、川の中には石もあらはれるやうになつた。木曾あたりのことに思ひ比べるとこの邊の谿はそれほど深くない。でも山地深く進んで行くことを思はせた。

津和野は長州の境に近い小都會である。そこまで行つて、夜汽車で津和野をたち、山口を經て周防の小郡をごほりに出れば、私達も最初の豫定通り山陽線を𢌞つて歸ることが出來る。津和野に着いたころは、まだそこいらは明るかつた。私達は山陰の旅の終にと思つて小郡行の夜汽車が出るまでの僅かの時間をそこに送つて行かうとした。

思ひがけない土地の人達が、この私達親子のものを待つてゐてくれた。津和野の町長望月君は私達に見物させる獻立までも既に用意して置いてくれた。同君にいはせると、見せたいところはいろ〱あるが、さうは時間が許さない。先づこの町の全景を見渡すことの出來るやうな稻荷神社の境内へ、土地の誇りとする嘉樂園へ、舊藩の英主龜井公の碑いしぶみの前へ、中學校、小學校の庭へ、それから舊藩の文武の學校で津和野藩の人材が皆養成されたといふ養老館の跡へ。暮れさうで暮れない夏の日も、自動車で驅け𢌞つて見る旅の私達には短かつた。

「工業や商業はほかの町に讓るとしましても、教育事業だけは津和野が引受けて見せますよ。」

望月君はこんな熱心な調子の人だ。

養老館の跡を訪ねるころは、そろ〱薄暗かつた。こゝは故鴎外漁史の生地と聞くもなつかしい。養老館には學則風のものを書いた、古い額も殘つてゐる。國學、漢學、蘭學、醫學、數學、武術――鴎外漁史の學問にそつくりだ。人の生れて來るのも偶然ではない。構内には郷土館があり、圖書館があり、集産館の設けもあつて、小規模ながら津和野ミユウゼアムといへるのもめづらしく思つた。

津和野に來て見ると、こゝにはすでに長州の色彩が濃い。石見からするものと、長州からするものとの落ち合つたところが、津和野の津和野らしい感じであつて、ちやうど眞水と潮水との混り合つた河口の趣に似てゐる。長州の方からさして來る潮はこゝで石見の眞水と合ふ。おそらくかうした土地柄にのみ見出さるゝものは、その邊の微妙な消息は、人の氣質にも、言葉にもあらはれてゐよう。私は自分の郷里が信濃の西のはづれにあつて、殆んど美濃に接近してゐるところから、かうした津和野のやうな土地柄には特別の興味を覺える。その意味から、こゝを鴎外漁史の生地と考へて見ることもおもしろい。

自動車は町中のある家の前に停つた。そこには中學校の宮西君、小學校の村上君、その他の諸君が、夕飯の膳を用意して私達を待つてゐてくれた。實際、雲のやうにやつて來て、また雲のやうに離れて行かなければならなかつたとは私達のことである。

私達は土地の人達と一緒に樂しい膳にむかつて、吸ひ物椀の蓋を取つて見たばかりのころに、最早小郡行の發車の時が迫つたことを聞いた。そこに集まつた中には、飮みかけた酒の盃を置いて停車場まで別れを告げに來てくれた人達もあつた。

「鷄ちやん、山一つ越すともう長門ながとの國ださうだよ。トンネルの内が石見の境ださうだよ。」

私がそれを鷄二にいつてみせるころは、そこいらは眞暗であつた。動いて行く汽車の中からも窓の外に顏を出したが、黒い山の傾斜しか目に映らなかつた。私達はその夜の空氣に包まれながら、山陰地方から離れて行つた。

底本 / Source edition

底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
1927(昭和2)年7月~9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「樂しからうと思った。」の「っ」は底本通りにしました。
※踊り字(/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月29日作成
2005年12月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/004710_000158/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004710_000158/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004710_000158/

島崎 藤村「山陰土産」(旧字旧仮名)、底本『現代日本紀行文学全集 西日本編』ほるぷ出版、1976年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004710_000158, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite