Soranoha

箱根の山々

はこねのやまやま

近松 秋江

夏が來て、また山の地方を懷かしむ感情が自然に私の胸に慘んでくるのを覺える。何といつても山を樂しむのは夏のことである。曾遊の夏の山水風光を、かうして今都會の中にゐて追憶して見るさへ懷かしさに堪へないで、魂飛び神往くの思ひがするのである。

日光の奧中禪寺湖の短艇ボートの上で遠く仰望した男體山の雄姿。そこからまだ三里の山奧を巡つて入つていつた湯の湖の畔、自然がいかなる妙技を以つて作り成したかと思はれる人工その物の如き庭園の草樹を分けて流れる潺流の美、盛夏八月既に秋冷を感ずる湯元の浴舍の座敷から眞青な夏草に被はれた前白根の清らかな色を眺めた時、又はその前白根の突兀たる頂邊に夕月の輝きそめる宵、晩涼に乘じて古い神話の中にでもありさうな幽暗なる湯の湖の上に輕舟を操りながら、まるで魔界の巨人の如き男體山の肩背の桔梗色に黄昏れてゆくその崇嚴な美に見惚れた時、いづれか私の自然に對する感情を騷がさしめぬものはない。けれどその美しい日光の山の湖水の色も、私の弱い心には徃々にして唯美しいといふよりは寧ろ不可思議な、そして怖しい自然となつて威壓を加へるかのごとく映ずることがある。それに比べると箱根は、日光のごとき崇拜の感じには乏しいけれど、一層の安らかさを感ずる。靜に心を落着け、病弱の體を休息せしめようとするには箱根の方が好ましい。

私は去年の夏の半ばから秋の始めへかけて二た月ばかり箱根にいつてゐた時分のことを今そゞろに想ひ起してゐる。その年は六月の末からかけて七月一ぱい八月の初十日ごろまで息をも次がさぬほどの炎暑で、東京などでは屋敷の隅に生えた桃の若木のやうな草木などはあまりの日照りに枯死してしまふ有樣であつた。私はその八月の十日に立つて箱根にいつた。私がゆくと二三日して、がらりと天候が一變して、連日駿河灣の方から箱根山彙を越して吹いて來る西南の風は涼しいといふよりも寒いほどの雨氣を含んでゐた。殊に私の滯在してゐる海拔二千五百尺の蘆の湯のあるところは、すぐ浴舍の後に聳え立つ駒ヶ岳と双子山との峽になつてゐるので、蘆の湯から双子山の麓を巡つて元箱根の町のある方に降りてゆく一と筋の坦道、鶯坂といつて八月の半ばまで箱根竹の叢藪の中で一日鶯の鳴きしきつてゐる、坂のあるあたりは蘆の湖の水を含んだ冷い雨風が顏をも向けられないやうに強く吹いてゐた。湯疲れのした湯治客などが毎日の雨天に球突にも碁や將棋にも飽いて、浴衣のうへに貸し褞袍を重ねて番傘を翳しながら其處らを退屈さうにぶら〱歩いてゐたりするのを見掛けるが、彼等は少し歩くと詰らないので、すぐ引返へしてしまふ。そこになると日本人に比べて西洋人は男も女も實に感心するほど勇ましく活溌である。彼等は雨が降らうが何が降らうが第一着物がすつかり防水の用意が出來てゐるので雨天には雨天の身裝をして晴天と同じやうに一日も缺かさず運動をする。彼等は病人か何かでない限り温泉はなくとも多く蘆の湖畔に避暑してゐる。そして定つて毎日そこら中の山道を跋渉する、私が散歩してゐると毎日よく見る其ある二三人づれの婦人など、どれも縹緻は好くない女達であつたが、靴の上に草鞋を穿いて雨中の山道を歩いてゆくのであつた。どうかすると夜道を湖水まで歸つてゆくので懇意な店屋に寄つて、店頭から、

「提燈々々。」と呼ぶ。

すると世辭のいゝ、そこの内儀や娘は尻輕に立ち上つて、

「奧樣、まあお遲くから。これからお歸りになるのは大變ですねえ。」

などゝ言ひつゝ、手早く大きな文字で屋號を記した提燈を取つて蝋燭に火を點しながら渡すと、

「おゝ、大變々々。ありがたう。」

などゝアクセントの違つた日本語を店頭に殘しておいて歸つてゆく。

その時分からずつと九月の末まで五十日ばかりの間雨天の日の方が多かつた山の上でも、偶たまには清い初秋の風が習々と高原を吹いてゆくやうな美しい日に出會ふことがあつた。この模樣なら明日もまた雨であらうとおもつてゐて翌朝起きてみると陰晴定めない高い山の上は相模灘の方から朦々として湧き上つて來る白い水蒸氣に峯も溪も人家も埋つてしまひ、わづかに大空の眞中のところが少許り明るい日光を洩してゐるばかりである。さういふ日は山の上の天氣は今日は好晴であることが分る。その水蒸氣の湧くのを見てゐるのも夏の高山生活の一興である。蘆の湯は箱根七湯の中でも最も高い位地にある。その爲め蘆の湖から吹き送る濕氣が多くていけないなどゝいふ者があるが、併しその相模灘から湧き上つてくる水煮氣が刻々千變萬化の奇趣妙景を盡しつゝやがて雲となり溪を埋め、峯を這ひ大空を蔽うてゆく有樣を見ようとすれば蘆の湯に足を逗めてゐなければならぬ。それは蘆の湯のある處が箱根山彙中の最も展望に都合の好い位地にあるからだ。蘆の湯から一里ばかり下の中腹にある小涌谷こわくだにや底倉、宮の下などは旅館も完備してゐて入湯するには何斯なにかが便利ではあるが散歩はいつも溪の底の單調な一と筋道に限られてゐる。そこから仰ぐ明星ヶ岳、明神岳の眞青な夏の姿も美しくないことはないが眼界は上の方に比べてひどく狹められてゐる。小涌谷まで登ると眺望は底倉あたりよりは遙に遠く展けてくる。けれども、蘆の湯附近の峯々の、相模灘の煙波を遠く眺めうる形勢の地勢に比ぶべくもない。國府津、大磯から江の島につづく津々浦々に打寄する波頭は丁度白銀の蛇の蜿れるごとく、靜に眸を澄すと三浦半島の長嘴は淡藍色の影を遠く雲煙漂渺の境に曳き、その尖端海に沒するところ、あるかなきかの青螺のごとく微に水に浮んで見えるのは三浦半島の城ヶ島である。

蘆の湯はちよつと其處らの小山に登つてもそんなに展望の利くところにあるから、どちらにゆくにも道は四方八方に通じてゐて窮るところがない。日に幾臺となく自動車の馳走する九十九折せる坦道を小涌谷の方へ降りてゆく順路に沿うて歩いてゆくと道の右方にあたつて舊東海道の通ずる古い大溪谷の眺望が深く抉つたやうに展望される。私はそこの緩い勾配をなしてゐる往還に櫻木の杖を曳きながら宛然大きな生物が口を開けたやうな溪谷を眺めるのが好きである。そこから見ると双子山が一入雄偉な容姿に見え上双子と下双子とが須雲川の深い溪谷にまで長く裾を曳いてゐるのも何となく壯大な感を起さしめる。好晴の日に相模灘から湧いて來る水蒸氣が、小田原口から早川の溪を眼がけて押寄せ、湯本から二派に分れて一團は早川の溪を埋め、明星ヶ岳、明神ヶ岳の峯を這ひつつ次第に西北に進んで宮城野の村を深い霧の底に沈め、金時山から足柄峠、長尾峠に向つて長驅する。私は、いつもそれを蘆の湯の笛塚山に登つて觀測する。そして一脈は、天氣の好い日であると須雲川の溪を埋めつゝ、舊東海道に沿うて車を進め、聖ヶ岳と鷹の巣山との中腹を掩ひ双子山の裾を這ひ、肩を隱し倍々ます〱奔騰して蘆の湯の空を渡り、駒ヶ岳神社に向つて突進する。それが雨後の濕つた天氣の日であると、白い雲霧は丁度深い水の底に澄んでゐる眞鯉の背の如き濃藍色をした聖ヶ岳の中腹を靜に搖曳してゐる。

夕陽が駒ヶ岳の彼方に沈んでゆく頃の山々の美しさといふ者はない。駒ヶ岳は灰白色の雲霧に隱れてしまつて、日頃の懷しい姿はどこにあるかさへ分らない。太陽も雲嵐の奧に影を沒して、たゞ僅に微薄の白光を洩してゐるので、あのあたりにゐるといふことを思ふばかりである。そして、ところどころ煙霧の稀薄になつたところに、まるで無數の金粉を播き散らしたやうな夕映えが水蒸氣となつて煙り、日の射さない處は凝乎と不動の姿勢でゐるかと思はれるやうな雲霧もその實非常な急速力で盛に渦卷きつつ奔騰をつづけてゐるのであることが分る。さうして稍〻暫く見詰めてゐるうちに、どうかすると深い雲霧の中から山の一角を微に顯はすことがある。この時の駒ヶ岳は平常好晴の日に仰ぐ駒ヶ岳とは全く違つた非常な神祕なものゝのやうに思はれることがある。

それに反して好く晴れた日の駒ヶ岳は清楚な感じがある。笛塚山または稍〻遠く離れて鷹巣山あたりから眺めると薄や刈萱などの夏草に掩はれた眞青な單色を遮ぎる一木もない、大きなヘルメットの如き圓い山の膚に丁度編靴の紐のやうな九十九折りせる山徑が裾から頂上まで通じてゐて、眞白い服裝を西洋人の男女がそこを登つてゆくのが小さく認められる。蘆の湯から頂上まで一里半。婦人や子供でも午前中に行つて來られる。少しの危險のない、優しい山である。そこに登ると展望は更に大きい。富士山は手に取るやうにすぐ西北の空に聳つてゐる。眼の下には蘆の湖の水が碧く湛へてゐる。が、駒ヶ岳は東に向いた方を小涌谷から登つて來る道から眺めたよりも、蘆の湯から双子山の裾をめぐつて蘆の湖の方におりてゆくその途上より仰ぐのが最も優れてゐる。丁度蘆の湖の東岸に沿うて長く裾を曳いてゐるその傾斜が今歩いてゐる往還のところまで緩い傾斜の一線を引いてゐる。好く晴れた日でも紗のやうな輕い浮雲を頂邊に着けてゐることがある。少し曇り勝ちの日だと直ぐ雲霧に被れて蘆の湖から湧き上る水蒸氣が丁度腰から肩のあたりを疾風のごとき勢で双子山との峽の方に吹いて通る。そこの往還から見晴しの茶屋あたりまでのところから仰いだ駒ヶ岳は何ともいへない懷しい姿である。私はそこの駒ヶ岳を最も好む。駒ヶ岳の、さうであるのに反して、その邊から眺めた双子山の南に面したところは、何となく人を脅すやうな感じを與へる。往還から舊東海道の方に向つて深い溪になつてゐて、双子山の裾は美しい一線を長くその方に曳てゐる。そして一面薄をもつて被はれた山膚の處々に凄じい焦黒色をした太古の火山岩が磊々として轉がつてゐて、中には今にも頭のうへから落ちかゝつて來さうな形をしてゐる。そこから仰いだ双子山はたゞ何となく憂欝な恐怖の感に滿ちた山である。昔の所謂箱根八里の峠を越して往來をした旅人の眼にはきつと最も強い印象を殘した山であつたにちがひない。見晴しの茶屋から、幾曲りかせる新道のだらだら坂を元箱根の方に降りていつて、舊街道に沿うた湖畔の八町の杉並木を通り越し、箱根町のところから振顧つて眺めた双子山の形も亦た印象深い容をしてゐる。私は蘆の湯からいつもの櫻のステッキを曳きながら一里ばかりの道を湖水の方に散歩して、そのローマンチックな突兀とした双子山の山容を仰ぎ眺めることを樂みにしてゐた。

湖水の享樂は限りがないが、私は去年の秋一度箱根町から塔ヶ島の離宮の傍をめぐつて元箱根まで僅かの距離を舟に乘つたことがあつた。嘗ては宮の下から大地獄の方を巡つて湖尻から舟に乘り駒ヶ岳を仰ぎながら箱根町に着いたことがあつたが、それはもう今から十二三年も昔のことで、明瞭な印象が殘つてゐないが、去年の時くらゐ湖水の色を美しいと思つたことはない。それは避暑の客も大方退散した九月の十八日であつた。毎日降りつゞく秋雨に一日湯に入るのと部屋の中に閉籠つてゐるのに倦み果てゝ山の上の人人は頻に天日の輝きを望んでゐた。するとその日になつて空はめづらしく晴れ、拭うたやうな碧空は瑠璃の如く清く輝き、ところ〲に紗のやうな薄い白雲が漂うてゐるばかり、夏の頃の重く濕つた風とちがひ、爽やかな輕い初秋の風が習々と輕いセルの袖を吹いた。九月になつてからはその方には長く降りてゆかなかつたので、私はあまりの好い天氣に浮かれたやうな心地になつて櫻のステッキを曳きながらぶらぶらと歩いていつた。そしていつもの八町の杉並木を通り拔けて舊關所の趾から箱根町の方へといつた。そこらからが双子山の突兀とした容を仰ぐに最もいゝ。私は双子山を眺めながら箱根町を歩いてみた。

日本人の浴客が八月一ぱいで殆ど退き揚げていつてからも西洋人は九月の十日頃まではこの湖畔に殘つてゐるのであるが、それすらもう殆ど全部山を降りてしまつて眞夏の頃の賑かさはなくなつて、湖水の上にも舟の影は絶えてゐる。私は、ふと歸途は舟で元箱根までかへつてみる氣になつて、船頭を呼んだ。船頭は、この間からの雨で、もう舟などに乘る客はないだらうといつて舟は悉く水涯から遠く砂の上に曳き上げてあつたのを、夫婦がゝりで丸太棒を轉がして水に浮べた。莚と毛布とを持つて來て坐るところを設けてくれた。私は、近いところだからそれには及ばぬと辭退しつゝ舟に乘つて横木のうへに腰を掛け、舟が漸次沖の方へ滑つてゆくにつれて四圍の風景を顧望してゐた。夏の頃とちがつた湖のうへは遠く澄み、駒ヶ岳の裾を吹き下して來る風はもう冷いほど強く肌に沁みた。塔ヶ島の水際に續いたさゞれ石を洗つてゐる水の色も先達て中とはちがつてひどく秋寂びてゐる駒ヶ岳の裾はそのあたりの湖の上から眺めるのが最もいゝ。その長く引いた裾根が蘆の湖の水に達とゞかうとする稍〻平な處に、岩崎男爵家のコッテージ風の別莊がある。丁度スチュヂオなどの繪画雜誌で見る如きピクチュアエスクな家造りで、初め、あれが岩崎男爵家の別莊と聞いた時には、すぐ吾々の平生の心の習慣から富豪の獨占を嫉み憤る念がちよいと頭を擡げかけたけれど、それも仕方がないと稍〻諦め心地になりつゝ尚ほ凝乎と眺めてゐると、もしこのコッテージがなかつたならば、荒蓼として見えるべき箱根の風景が、寧ろそれあるがために自然の景致に一點の情味を加へて、却つて親しみのあるものに感じられて來るのである。其等の風光に見惚れてゐるうちに舟はいつの間にか塔ヶ島の鼻をめぐつて元箱根から八町の杉並木を一眸に見渡されるところに進んできた。私はその時見たくらゐ杉の色の美しさを未だ嘗て見たことがなかつた。日光の東照宮山内の杉の色の美しさも忘れることが出來ぬのであるが、しかしその時湖の上からある距離を置いて遠く眺めた蘆の湖畔の杉の色の美しさといふものはない。どんな天才が丹青の妙技を凝しても、その杉の色の美はとても人工で描き出せるものではないと思ひながら、私は飽くことなく、ぢつとその杉の美に見惚れてゐた。その間に舟は段々元箱根の方に進んでゆくにつれて一としきり杉並木の方にも段々近寄りつゝ通つていつた。さうなると今までの美しさは恰も幻影のごとく次第に減じてきた。元箱根の上の方に突兀としてローマンチックな情景を點出してゐた双子山も段々近づくにつれて、その怪奇な姿から、やゝ平凡な山の形に變つてきた。

私がもし箱根山彙中の峯々によつて異る奇趣妙景について名を選するならば駒ヶ岳は前にいつたやうに夏の姿をもつて最も優れりとする。双子山もこれを蘆の湯の方の西北から仰いだのでは何等の奇景がない。それに反して南面舊街道の溪谷から見上げるか、或は蘆の湯より鷹巣山の方に向つて降つてゆく時、道の右側須雲川の大溪谷に面して長く裾根を曳いてゐる方面が最も雄偉の感じを與へる。それと箱根町の湖畔からやゝ遠く距離を置いて仰いだローマンチックな姿である。新道から須雲川の大溪谷に向つた方面には特に雲嵐矢よりも速く上騰してゐる時を選ぶ。

そして駒ヶ岳の晴天に仰ぐべき山であるに反し、蘆の湯方面より見た聖ヶ岳は、私は殊に雨後の景を好むのである。雨後の空がまだどんより灰白色に曇つてゐる時三千尺の聖ヶ岳は須雲川の溪谷の彼方に屏々として眞鯉の背の如き濃藍色の山膚をくつきりと浮出してゐる。そんな時には眞綿の如き純白の雲が腰から下を横樣に棚曳いたまゝ凝乎と動かずにゐる。それを見てゐると自から氣が澄んで靜かな心持ちにならしめる。さういふ時に耳の近くで蜩の晩涼を告ぐる銀鈴が爽かに響くと、もう堪らなく心が澄んで、名稱し難い希望と感興が湧いてくる。

八月末頃になると駒ヶ岳神山の裾から笛塚山、蓬莱山にかけて見る限り一面の茅原が可愛い淡紅の薄の穗を抽きそめる。それにまじつて女郎花、兜菊、野菊、米蓼、萩などが黄紫とりどりの色彩を添へる。去年蘆の湯にゐる間私の最も多く散歩した處は前いつたやうに双子山の麓を通つて蘆の湖へ降りてゆく新道、蘆の湯から舊道の辨天山の下を通つて池尻に降り茶屋の前で一度新道に出て、それから新道に即ついたり離れたりしながら翠緑鮮かな松林の中を穿つて通じてゐる舊道の細徑を傳うて小涌谷に達する間。それから鷹巣山、笛塚山などへもよく上つていつた。松林の中を分けて舊道を小涌谷の方に歩いて來ると、もうそこら中に女郎花が點々黄色い花をつけてゐる。湯の宿にも客はめつきり減り、道を歩いてゐる人影も眞夏の頃と違ひ甚だ稀に、一山闃げきとして、氣爽かに、心自から澄み、神冴え何を思うてみても、それが何處までゞも深くふかく考へることが出來る。東京にゐたならば僅かに四町か五町の道を歩いても脚よりも先づ神經の方が四圍の物のために疲れを感ずるのに、山の中では嘗てそんな憂ひはない。私は例の櫻のステッキを杖つきながら、松林から吐き出す強いオゾンの香を呼吸して、細徑を穿つて歩いてゆく、段々下へゆくにつれて、今まで自分と同じ高さにゐた笛塚山、鷹巣山は次第に高くたかくなり、近くから見ると平凡であつた山の形もそれとゝもに何かしら尊い威容を備へて頭の上から臨んでゐる。笛塚山は後三年の役に、新羅三郎義光が、兄の義家が清原武衡と戰ひ利あらざるを聞き、己れの官職を辭して遠く奧州の地に赴き援けんとする時、義光が笙の師豐原時元の子時秋が、乃父の祕曲を傳へてゐる義光の後を迫ふて足柄山に到り、一夜明月の下に山上に楯を布いて坐し、笙を吹奏して祕曲を授かつた。その古跡として傳へられてゐるところである。果してその笛塚山が楯を布いた跡かどうかは知らないが、笛塚といはれてゐる處には大きな岩石が重なり合つてゐて上が三疊敷ぐらゐに平つたくなつてゐる。私は苅萱の穗波をわけて雲霧の美しい好晴の日には必ずそこまで登つていつた。鷹巣山は昔し小田原北條氏の出城のあつた跡と言ひつたへられてゐる。白茅ばかりおひ茂つたその山の背を淺間山、城山、湯坂山と、どこまでも傳うてゆくと一里半ばかりで徑は獨りでに湯本まで通じてゐる。湯本から蘆の湯に達するにはこの道を往くのが最も捷徑である。これは湯坂道といつて、昔の間道である。秋晴の日などに展望を恣にしやうと思ふなら、その峯を傳うてゆくに越したことはない。湯本から順路を宮の下に取つてゆくと、溪ばかりを往くことになつて眺望が利かない。然るに鷹巣山の背を歩いてゆくと、殆ど箱根山彙の全景を双眸に集めることができる。

それから前いつた道に戻つて小涌谷におりてゆく臺の茶屋から小涌谷の平、二の平、強羅の平を越して遠く明神ヶ岳に溪の底に群つてゐる宮城野の村を見下ろしたのも懷かしい。池尻か、臺の茶屋に熄ひながら初秋の冷涼そのものゝ如き梨の汁を啜りつゝ、すぐ眉の上に聳つ鷹巣山と峯つゞきなる宮の下の淺間山と二の平と強羅の傾斜との彼方に早川の溪が抉つたやうに深く掘れてゐる。その上に明神ヶ岳は屏々として、濃藍色に暮れてゆかうとしてゐる。明日の晴を報ずる白い雲の千切れが刻々茜あかね色に夕映てゐる碧空に向つて飄々として上騰し、金時山、足柄山の方へ進んでゆく、池尻の茶屋の老婆は

「毎日々々よく降りましたが、明日はどうやらお天氣らしうございます。雲の具合が大變よろしうございます。」といふ。

さういふ言葉にはもう何十年の昔しからこの山に住み馴れた經驗から雲の動靜や暮れゆく山の色、空の夕燒の模樣で天候を卜する知識を得てゐるらしい。

「あゝ、あの雲はお天氣らしい雲だねえ。」

「左樣でございますよ。あの雲が明神ヶ岳のところをあゝ西へ上つてゆくと明日はお天氣がよろしうございます。」

そんな話を交はしてゐるうちにも山は黒く靜に暮色に包まれてゆく。それとともにすぐ眼の下の小涌谷あたりに丁度夏の宵の星くづを數へるやうに彼方にも此方にも燈火が瞬きをはじめる。一番遠くの谷の底に暮靄の中に微かに見えてゐるのは宮城野の人家の灯である。吾々がたゞ見てさへ懷かしい。況してその村から、家にゐれば氣まゝにしてゐられる親の傍をはなれて、蘆の湯や小涌谷邊りの旅館に奉公してゐる村の娘等が、山の上から遠くの溪の底に親里の團欒の灯を眺めて胸を搾る如やうに懷しがるのも無理はない。東京や横濱さへも知らず、中には小田原あたりさへ、生れて一度か二度しか活動寫眞の芝居を觀にいつたことがないくらゐ、生れてから死ぬる迄一生山の中を降りてゆかず、明神ヶ岳の麓から朝に夕に駒ヶ岳や早雲山にかゝる雲を眺めて暮らす彼女等にとつては、わづか一里にも足らぬ山の上に來てゐながら親里が死ぬほど戀しいのである。夏場の急がしい最中を働くと、八月の末にはもう暇をもらつて歸つてゆくことばかりを考へてゐる。そして客の減つてゆくにつれて彼等も一人づつ下つてゆく。

山は靜かに暮れていつた。冷いくらゐの涼味は茶屋が軒先の筧の水から湧いて、清水に涵ひたした梨の味にも秋はもう深かつた。私はそこから遠い新道を迂囘するか、或はすぐそこの庭先から急坂を攣ぢて辨天山の脇の舊道を登つて歸つて來る。尾花が長く穗を抽いて道の兩脇から夕暮の中に微白く搖いでゐる。部屋にかへつて、手拭をさげて浴室へおりてゆくと懷かしい硫黄の香が鼻を衝いてくる。人によつてはこの硫黄の香をひどく嫌ふ者があるが、私にはそれが何とも云へずなつかしい。朝目覺めて楊枝を啣へて浴室に入つてゆく時、昨夜の夢の名殘りを洗ひ清め、夜遲くまで靜に讀書などしてこれから寢に就かうとする時は、自から安かな眠を誘ふ。……さうして私は湯に浴つて散歩の輕い疲れを醫するのである。

あまり遠くへ散歩すると心地よく疲れて、書き物をする前に眠くなつてしまふことがあるので、筆を執つてゐる間はなるべく近い山の上を歩いてゐた。さういう時にはいつも辨天山へ上つていつた。山が雨のあとで靜に濕つてゐながら水蒸氣のないといふやうな日には殊に遠くの山の色が濃く美しくなつて見えた。明星ヶ岳、明神ヶ岳の上に尚ほ遠く高く見えてゐるのは足柄、愛甲諸郡につゞく北相模の山々である。ヘルメット形の大山も見える。好く晴れた日の下には其等の山々が遠近になつて濃淡を劃し、丁度品質の良いインキを溶かして塗つたやうである。横山大觀の雲去來でも寺崎廣業の白馬八題でもこの眞景の秋山雨後には到底企て及ばない。

八月の末をも待たないで大抵の浴客は、家族を連れた多勢の客でも、東京や横濱の繁華な都會から來てゐては三十日もゐると山の眺め、温泉の香にも飽いてしまつて、まだ殘暑の劇しい八月の二十日頃にぞろ〱行李をしまつて降りていつてしまふ。いつた當座は、百に近い部屋がいづれも滿員で、私は廣い庭を隔つた遠くの離家に、東京の某中等學校の校長なる老紳士と室を隣して起臥してゐたが、やがてその老紳士も歸つてゆき、ほかの部屋も段々明いてきたので、私は受持ちの女中が寂しがるのを察して本館に近い別館の一室に移つた。其處は今までよりも一層心の落着くところであつた。長い夏の間東京にゐて極度に疲勞してゐた私の神經衰弱もそこにゐる間にだん〱元氣を囘復して來た。始終不眠症に惱まされてゐたのが、山上の空氣の清澄なると適度の散歩と温泉の效果とのため熟睡を得られるやうになつた。大きな建物の長い廊下を幾曲りかした果ての座敷に連日孤座してゐる私を見て、かゝりの女中は、御飯の給仕に來た時、

「旦那、お寂しくはないんですか、ひとりぽつんとして。」

といつて、氣の毒さうな眼をして私の顏を眺める。

「いや、ちつとも寂しくはない。」

といつて笑ふ。しかしその微笑には深い寂寞を湛へてゐたこととおもふけれども、その寂しみは私の好んで選んでゐる境地なのである。隣の部屋や廊下に跫音や話聲がせぬので私は伽藍のやうな大きな建て物をわがもゝの如く獨占していつまでも朝寢をすることが出來る。

九月の七八日頃、二三日後に二百二十日を控えてゐるので何となく戸外はざわめいて、駒ヶ岳や双子山にかゝつてゐる水蒸氣は疾風の如く飛んでゐるけれど、日は黄色く照り、庭前の杉や楓は風に搖れながら涼しい蔭を地に印してゐる。私はめづらしく隙間を洩れてくる日光が條文をなして白いものに包まれた輕い夜着に射しかゝるのを知りながら、いつまでも快い夢を貪つてゐた。やがて懷しい湯の香のそこはかとなく立ち上るのを嗅ぎ潔く起き上つて、戸袋に近い雨戸を二三枚繰ると、私の長寢をするのを知つてゐて、遠く庭の彼方に見える折曲つた廊下の先の部屋にゐて蒲團の綿を入れてゐるお秋といふ三十ばかりの質樸な女中は、雨戸の音に私の起き出たのを知つて、ふとこちらを見る。そして私が楊枝を啣へて浴室に入つてゐる間にお秋さんはちやんと床を上げ、座敷を掃き清め、お茶を煎れて飮むばかりにしてある。私は靜かな心持ちになつて香ばしい番茶を啜つてゐると、そこへ彼女は味の好い燒きパンに甘うまいバタを付けたのを運んでくる。それが何ともいへず甘い。その時分であつた。ある朝のこと、まだ床の中に眼覺めたまゝでゐると、向うの双子山の麓のところで山を崩して地ならしをしてゐる、岩を摧くだく鐵槌の音が靜かに山に反響してゐるのが長閑に枕にひゞいて來る。私はその音に夢の名殘りから綺麗に覺まされる。その頃であつた。私は駒ヶ岳に登つて見た。駒ヶ岳は前いつたごとく優しい、婦女子でも踏破することのできる山上公園中の主峯である。十五六の小娘などが二三人で四千六百尺の駒ヶ岳や四千七百尺の神山などへ午前に登つて來て、十分自分の健康を滿足せしむるやうな雄々しい運動をしてゐた。私は炎暑のため衰弱し切つた體を物憂さうに持扱ひながら、僅に温泉の附近の山道を散歩してゐると、眞青な白茅に蔽はれた駒ヶ岳の背を九十九折つづらをりの山徑を傳うて登つてゆく人の姿が數へられる。私はどんなに其等の人の健康を羨んで見てゐたか知れなかつた。私も早く初秋の風が山の背を渡る頃を待つて身内に元氣が囘復して來たならば、少女でさへあゝして登つてゐる駒ヶ岳の頂を一度は是非とも踏んで見たいものである。蘆の湯五十日の逗留の間そこらの山道といふ山道は殆ど殘る隈なく歩いてみた。たゞ一つ殘るは駒ヶ岳である。

その日は朝の内は少しく二百二十日前の風が荒れてゐた。けれども清い秋の日は朗かに照り、浴舍のすぐ背に聳えてゐる寶藏岳の木々は細い梢の尖までも數へられる程に大氣は澄んで、黄金色の日光が其等の青い葉々に透きとほるやうに美しく漲つてゐる。天地渾然として瑠璃玉の如く輝いてゐる。駒ヶ岳にも今日は風に吹き拂はれてか、めづらしく雲霧がかかつてゐない。それに自分は一昨日までに書く物も一段落を告げてこゝ二三日は頭を休め、放心したやうになつて居ようとおもつてゐる時である。よく晴れた日は書く物に精神を勞してゐる、休養してゐる時には山が曇つてゐたり、雨が降つてゐたりして果さなかつたが、今日は兩方都合の好い日である。が、少し風が強過ぎるやうである。それで女中のお秋に相談しようとおもうて呼鈴を押すと、お秋の代りに物靜かな老婢が廊下を歩いて來て、用を伺つた。

「今日これから駒ヶ岳に登らうと思ふんですが、すこし風があるやうですが、どんなものでせう。」

さういつて訊くと、老婢は、

「左樣でございますねえ。」といつて、外の木々の風に搖れてゐるのを眺めながら、思案顏にこちらを向いて、

「今日はすこし風が強過ぎるやうでございますから又の日になすつた方がよろしうございませう。下でこの通りですと、山の上はずつと風が強うございますから、今日はお止めになつた方がお宜しうございます。」

人柄さうな老婢は忠實にさういつて、きつぱり止めた。

「ぢや止しませう。」

と云つて、私は其の時は斷念した。そしてまた暫くして、やがてお秋が運んで來た晝飯を喫しながら庭の方を眺めてゐると、立木などは先刻と同じやうにやつぱり風にざわめいてはゐるが、午前にくらべて稍〻靜かになつたやうである。日光は相變らず朗かに輝いて、そこらの庭木や芝生などが金色を帶びてゐるかのやうに思はれる。私の心はまた動いた。

「お秋さん、先刻駒ヶ岳に上らうとおもつて相談したら、風があるので止めた方がいゝといふので止めたんだが、どうだらうねえ。先刻よりか少し惡くなつたやうだが。」

お秋は外を眺めながら、

「このくらゐなら大丈夫でございます。ついすぐですもの、ぢきに上れますよ。」

と事もなげにいふ。彼女等は昨日の朝私がまだ寢てゐる間に、お客や番頭や女中など七八人の多勢で上つて來たのである。

「いつていらつしやいまし。それは方々がよく見えて、いゝ景色でございますよ。昨日の朝は富士山がよく見えました。あんなに富士山のよく見えることはめづらしいつて番頭さんがさういつてゐました。それは面白うございましたよ。皆で勝手にいろんな面白いことをいひながら。」

それでまた私は心動いて、箸を置くと嬉々いそ〱しながら渇を覺えた時の用意にと、大きな梨を二つ懷に入て例の櫻のステッキを杖ついて、湯の花澤へゆく道から左に折て急がぬやうに登つていつた。道は暫く淺い溪の底を歩いて左右から蔽ひかかつた苅萱の間を迂囘しつゝ進んでゆく。ところ〲に粗雜な休み臺がしつらへてあつたり、道の急なところには丸太を横へて磴道を設けてあつたりする。私は三歩にしては憩ひ、五歩にしては振顧つて上つて來たあとを眺めしてゐるうちに次第に自分のゐる處は高くなつていつた。そして知らぬ間に浴舍の直ぐ背後に聳つ寶藏岳は自分の脚下になつてゐた。自分の位地が高くなるにつれて四邊の峯々がまた漸次高標を増し、雄偉の度を加へて來た。双子山、聖ヶ岳、明星ヶ岳、明神ヶ岳は折から午後の秋の陽を全山に浴びて、愈々靜寂の容を示してゐる。山下の坦々たる一と筋の新道は双子山の裾をめぐつて長いリボンを展べたやうに遠く、駒ヶ岳の尾を引いてゐる彼方の高原の果にいつて沒してゐる。尚ほ見返り〱段々登つてゆくに從ひ、蘆の湖の水はすぐ右方の眼下に開けて來た。午後の日光を浴びて銀灰色に輝いてゐる水の上を幾つかの短艇ボートが帆を孕ませて白鳥の如く動いてゐる。塔ヶ島の離宮、箱根町の人家、例の美しい八町の杉並木は沈んだやうな暗緑色を刷いて連なつてゐる塔ヶ島の蔭になつてゐるその邊は水の色も日光を反射しないので硫酸銅のやうな美しい紫色を湛へてゐる。山の色も水の色もそこら中の物が貴い顏料を落したやうに悉く翠緑の單色に彩られてゐる。

更に左方に眸を轉ずると、相模灘はまるで廣重の繪を展いたやうな濃藍色をして眼界に擴がつてゐる。小田原、國府津、大磯、それから江の島から逗子、葉山、三浦半島にまでつゞく津々浦々が双眸に集つてくる。大山、足柄山、金時山の峯巒が遠近に從つて幾色にも濃淡を劃しながら秋の陽を受けて桔梗のやうな色さま〲に浮びいでゝゐる。私はまたぢつと其等の遠景に眼を遊ばして一と息吐いた。清澄な山の上の風は心地よく汗ばんだ肌をさら〱と吹いていつた。夏の初になるとそこら中眞青な夏草の上に點々として白い山百合が咲く。今は丁度その白い百合の花が靜かな山の夕暮れの中に瞬いてゐる時分である。かうして今身はそこから百里を隔つてる京の町の中にゐても香氣の高いその百合の香が聯想作用で生々と私の臭官を刺激するやうである。

(大正七年六月卅日京都安井の寓にて)

底本 / Source edition

底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1918(大正7)年6月30日記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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書誌 / Bibliography
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近松 秋江「箱根の山々」(旧字旧仮名)、底本『現代日本紀行文学全集 東日本編』ほるぷ出版、1976年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004662_000275, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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