Soranoha

魔法罎

まほうびん

泉 鏡花、泉 鏡太郎

一

峰みねは木この葉はの虹にじである、谷たには錦にしきの淵ふちである。……信濃しなのの秋あきの山深やまふかく、霜しもに冴さえた夕月ゆふづきの色いろを、まあ、何なんと言いはう。……流ながれは銀鱗ぎんりんの龍りうである。

鮮紅からくれなゐと、朱鷺ときと、桃色もゝいろと、薄紅梅うすこうばいと、丹にと、朱しゆと、くすんだ樺かばと、冴さえた黄きと、颯さつと點滴したゝる濃こい紅べにと、紫むらさきの霧きりを山氣さんきに漉こして、玲瓏れいろうとして映うつる、窓々まど〱は恰あたかも名なにし負おふ田毎たごとの月つきのやうな汽車きしやの中なかから、はじめ遠山とほやまの雲くもの薄衣うすぎぬの裾すそに、ちら〱と白しろく、衝つと冷つめたく光ひかつて走はしり出だした、其その水みづの色いろを遙はるかに望のぞんだ時ときは、錦にしきの衾ふすまを分わけた仙宮せんきうの雪ゆきの兎うさぎと見みた。

尾花をばなも白しろい。尾上をのへに遙はるかに、崖がけに靡なびいて、堤防どてに殘のこり、稻束いなづかを縫ぬつて、莖くきも葉はも亂みだれ亂みだれて其それは蕎麥そばよりも赤あかいのに、穗ほは夢ゆめのやうに白しろい幻まぼろしにして然しかも、日ひの名殘なごりか、月影つきかげか、晃々きら〱と艶つやを放はなつて、山やまの袖そでに、懷ふところに、錦にしきに面影おもかげを留とめた風情ふぜいは、山嶽さんがくの色香いろかに思おもひを碎くだいて、戀こひの棧橋かけはしを落おちた蒼空あをぞらの雲くもの餘波なごりのやうである。

空そら澄すんで風かぜのない日ひで、尾花をばなは靜ぢつとして動うごかなかつたのに。……

胡粉ごふんに分わかれた水みづの影かげは、朱しゆを研とぐ藥研やげんに水銀すゐぎんの轉まろぶが如ごとく、衝つと流ながれて、すら〱と絲いとを曳ひくのであつた。

汽車きしやの進すゝむに連つれて、水みづの畝うねるのが知しれた。……濃こき薄うすき、もみぢの中なかを、霧きりの隙ひまを、次第しだいに月つきの光ひかりが添そつて、雲くもに吸すはるゝが如ごとく、眞蒼まつさをな空そらの下したに常磐木ときはぎの碧あをきがあれば、其處そこに、すつと浮立うきたつて、音おともなく玉たま散ちらす。

窓まどもやゝ黄昏たそがれて、村里むらざとの柿かきの實みも輕かるくぱら〱と紅くれなゐの林はやしに紛まぎれて、さま〲のものの緑みどりも黄色きいろに、藁屋根わらやねの樺かばなるも赤あかい草くさに影かげが沈しづむ、底そこ澄すむ霧きりに艶つやを増まして、露つゆもこぼさす、霜しもも置おかず、紅べにも笹色さゝいろの粧よそほひを凝こらして、月光げつくわうに溶とけて二葉ふたは三葉みは、たゞ紅べにの點滴したゝる如ごとく、峯みねを落おちつつ、淵ふちにも沈しづまず飜ひるがへる。

散ちる、風かぜなくして散ちる其そのもみぢ葉ばの影かげの消きゆるのは、棚田たなだ、山田やまだ、小田をだの彼方此方あちこち、砧きぬたの布ぬののなごりを惜をしんで徜徉さまよふ状さまに、疊たゝまれもせず、靡なびきも果はてないで、力ちからなげに、すら〱と末廣すゑひろがりに細ほそく彳たゝずむ夕ゆふべの煙けむりの中なかである。……煙けむりの遠とほいのは人ひとかと見みゆる、山やまの魂たましひかと見みゆる、峰みねの妾おもひものかと見みゆる、狩かり暮くらし夕霧ゆふぎりに薄うすく成なり行ゆく、里さとの美女たをやめの影かげかとも視ながめらるゝ。

水みづある上うへには、横よこに渡わたつて橋はしとなり、崖がけなす隈くまには、草くさを潛くゞつて路みちとなり、家いへある軒のきには、斜なゝめに繞めぐつて暮行くれゆく秋あきの思おもひと成なる。

煙けむりは靜しづかに、燃もゆる火ひの火先ほさきも宿やどさぬ。が、南天なんてんの實みの溢こぼれたやうに、ちら〱と其その底そこに映うつるのは、雲くもの茜あかねが、峰裏みねうらに夕日ゆふひの影かげを投なげたのである。

此この紅玉こうぎよくに入亂いりみだれて、小草をぐさに散ちつた眞珠しんじゆの數かずは、次等々々しだい〱照増てりまさる、月つきの田毎たごとの影かげであつた。

やがて、月つきの世界せかいと成なれば、野のに、畑はたに、山懷やまふところに、峰みねの裾すそに、遙はるかに炭すみを燒やく、それは雲くもに紛まがふ、はた遠とほく筑摩川ちくまがはを挾さしはさんだ、兩岸りやうがんに、すら〱と立昇たちのぼるそれ等らの煙けむりは、滿山まんざんの冷つめたき虹にじの錦にしきの裏うらに、擬こつて霜しもの階きざはしと成ならう。凍いてて水晶すゐしやうの圓まろき柱はしらと成ならう。……

錦葉にしきばの蓑みのを着きて、其その階きざはし、其その柱はしらを攀よぢて、山々やま〱、谷々たに〲の、姫ひめは、上﨟じやうらふは、美うつくしき鳥とりと成なつて、月宮殿げつきうでんに遊あそぶであらう。

木この葉はは夜よるの虹にじである、月つきの錦にしきの淵ふちである。

此この峰みね、此この谷たに、恁かゝる思おもひ。紅くれなゐの梢こずゑを行ゆく汽車きしやさへ、轟とゞろきさへ、音おとなき煙けむりの、雪ゆきなす瀧たきをさかのぼつて、輕かるい群青ぐんじやうの雲くもに響ひゞく、幽かすかなる、微妙びめうなる音樂おんがくであつた。

驛員えきゐんが黒くろく流ながれて、

「姨捨をばすて!姨捨をばすて!」……

二

「失禮しつれい、此處こゝは一體いつたい何處どこなんですか。」

「姨捨をばすてです。」

五分間ふんかん停車ていしやと聞きいて、昇降口しようかうぐちを、峠たうげの棧橋かけはしのやうな、雲くもに近ちかい、夕月ゆふづきのしら〲とあるプラツトフオームへ下おりた一人旅ひとりたびの旅客りよきやくが、恍惚うつとりとした顏かほをして訪たづねた時とき、立會たちあはせた驛員えきゐんは、……恁かう答こたへた。が、大方おほかた睡ねむりから覺さめたものが、覺束おぼつかなさに宿しゆくの名なに念ねんを入いれたものと思おもつたらう。

「姨捨をばすてです。」

「成程なるほど。」

と胸むねに氣きを入いれたやうに頷うなづいて云いつたが、汽車きしやに搖ゆられて來きた聊いさゝかの疲勞つかれも交まじつて、山やまの美うつくしさに魅みせられて身みの萎々なえ〱と成なつた、歎息ためいきのやうにも聞きこえた。

實際じつさい、彼かれは驛員えきゐんの呼よび聲ごゑに、疾とく此この停車場ステイシヨンの名なは聞きいて心得こゝろえたので。空そらも山やまも、餘あまりの色彩いろどりに、我われは果はたして何處いづこにありや、と自みづから疑うたがつて尋たづねたのであつた。

「何なんとも申まをしやうがありません。實じつにいゝ景色けしきの處ところですな。」

出入ではひりの旅客りよきやくも僅わづかに二三。で、車室しやしつから降おりたのは自分じぶん一人ひとりだつた彼かれに、海拔かいばつ二千尺じやくの峰みねに於おけるプラツトフオームは、恰あたかも雲くもの上うへに拵しつらへた白しろき瑪瑙めなうの棧敷さじきであるが如ごとく思おもはれたから、驛員えきゐんに對たいする挨拶あいさつも、客きやくが歡迎くわんげいする主人しゆじんに對たいして、感謝かんしやの意いを表へうするが如ごときものであつた。

心こゝろは通つうずる、驛員えきゐんも、然さも滿足まんぞくしたらしい微笑びせうを浮うかべて、

「お氣きに入いりまして結構けつこうです、もみぢを御見物ごけんぶつでございますか。」

と半なかば得意とくいの髯ひげを揉もむ。

「否いや、見物けんぶつと申まをすと、大分だいぶ贅澤ぜいたくなやうで。」

と、彼かれは何故なぜか懷中ふところの見みえる、餘あまり工面くめんのよくない謙遜けんそんの仕方しかたで、

「氣紛きまぐれに御厄介ごやくかいを掛かけますのです。しかし、觀光くわんくわうの客きやくが一向いつかうに少すくないやうでございますな、此これだけの處ところを。」

「はあ……」と一寸ちよつと時計とけいを見みながら、

「雜ざつと十日とをかばかり後おくれて居ゐますです。最もう雪ゆきですからな。風かぜによつては今夜こんやにも眞白まつしろに成なりますものな。……尤もつとも出盛でさかりの旬しゆんだと云いつても、月つきの頃ころほどには來こないのでしてな。」

「あゝ、其その姨捨山をばすてやまと云いふのは孰どれでございます。」

「裏うらの此この山やま一體いつたいを然さう云いふんださうです。」

と來合きあはせて立停たちどまつた、色いろの白しろい少年せうねんの驛夫えきふが引取ひきとる。

手て屆とゞく其その山懷やまふところに、蔽おほひかさなる錦葉もみぢの蔭かげに、葉はの眞赤まつかな龍膽りんだうが、ふさ〱と二三輪りん、霜しもに紫むらさきを凝こらして咲さく。……

途みちすがらも、此この神祕しんぴな幽玄いうげんな花はなは、尾花をばなの根ね、林はやしの中なか、山やまの裂さけた巖角いはかどに、輕かろく藍あゐに成なつたり、重おもく青あをく成なつたり、故わざと淺黄あさぎだつたり、色いろが動うごきつつある風情ふぜいに、人ひとに其その生命せいめいあることを知しらせ顏がほに裝よそほつた。そして、下界げかいに降おりて、峰みねを、原はらを、紫むらさきの星ほしが微行びかうして幽かすかに散歩さんぽする俤おもかげがあつたのである。

「月見堂つきみだうと云いひますのは。」

「彼處あすこが其それです。」と、少年せうねんの驛夫えきふが指ゆびさす。

其その錦にしきの淵ふちに、霧きりを被かけて尾花をばなが縁へりとる、緋ひの毛氈まうせんを敷しいた築島つきしまのやうな山やまの端はに、もの珍めづらしく一叢ひとむらの緑みどりの樹立こだち。眞黄色まつきいろな公孫樹いてふが一本ひともと。篝火かゞりび焚たくか、と根ねが燃もえて、眞紅しんくの梢こずゑが、ちら〱と夕ゆふべの茜あかねをほとばしらす。

道々みち〱は、峰みねにも、溪たににも、然さうした處ところに野社のやしろの鳥居とりゐが見みえた。

こゝには、銀ぎんの月つき一輪いちりん。

三

「空そらの色いろが潭ふちのやうです、何なんと云いつたら可いいでせう。……碧あをとも淺黄あさぎとも薄うすい納戸なんどとも、……」

月つきが山々やま〱に曳ひいた其その薄衣うすぎぬを仰あふぐ時とき、雲くもの棧橋かけはしに立たつ思おもひがした。

再ふたゝび見みた時計とけいを納をさめて、

「あれへ御一泊ごいつぱくは如何いかゞです。」

目めの下したの崖がけの樹この間まに、山鳥やまどりが吐はいた蜃氣樓しんきろうの如ごとき白壁造しらかべづくり、屋根やねの石いしさへ群青ぐんじやうの岩いはの斷片かけらを葉はに散ちらす。

唯と見みると、驛員えきゐんは莞爾くわんじとして、機關車きくわんしやの方はうへ、悠然いうぜんとして霧きりを渡わたつた。

「や、出でますな。」

衝つと列車れつしやに入はひつた時とき、驛夫えきふの少年せうねんは車くるまの尾をへ駈かけて通とほる。

笛ふえは谺こだます、一鳥いつてう聲こゑあり、汽車きしやはする〱と艶つややかに動うごき出だす。

窓まどで、彼かれが帽ばうを脱ぬぐのに、驛員えきゐんは擧手きよしゆして一揖いちいふした。

霧きりが掠かすれて、ひた〱と絡まとひつく、霜しもかと思おもふ冷つめたさに、戸とを引ひいたが、彼かれは其その硝子がらすに面おもてをひたと着つけたまゝ、身動みうごきもしないで尚なほ見惚みとれた。

筑摩川ちくまがはは、あとに成なり行ゆく月見堂つきみだうの山やまの端はの蔭かげから、月つきが投なげたる網あみかと見みえる……汽車きしやの動うごくに連つれて、山やまの峽かひ、峰みねの谷戸やとが、田たをかさね、畝あぜをかさねて、小櫻こざくら、緋縅ひをどし、萌黄匂もえぎにほひ、櫨匂はじにほひを、青地あをぢ、赤地あかぢ、蜀紅しよくこうなんど錦襴きんらんの直垂ひたゝれの上うへへ、草摺くさずり曳ひいて、さつく〱と鎧よろふが如ごとく繰擴くりひろがつて、人ひとの俤おもかげ立昇たちのぼる、遠近をちこちの夕煙ゆふけむりは、紫むらさき籠こめて裾濃すそごに靡なびく。

水みづは金銀きんぎんの縫目ぬひめである。川中島かはなかじまさへ遙はるかに思おもふ。

「長野ながので辨當べんたうを買かつた時ときに情なさけなかつた。蓮はすに人參にんじんに臭くさい牛肉ぎうにく、肴さかなと云いふのが生燒なまやけの鹽引しほびきの鮭さけは弱よわる。……稗澤山ひえだくさんもそ〱の、ぽんぽち飯めし、あゝ〱旅行りよかうはしなければ可よかつたと思おもつた。

いや、贅澤ぜいたくは云いふまい、此この景色けしきに對たいしては恐多おそれおほいぞ。」

「伺うかゞひます。」

一停車場あるステイシヨンで、彼かれの隣となりに居ゐた、黒地くろぢの質素しつそな洋服やうふくを着きて、半外套はんぐわいたうを被はおつて、鳥打とりうちを被かぶつた山林局さんりんきよくの官吏くわんりとも思おもふ、痩やせた陰氣いんきな男をとこが、薄暗うすぐらい窓まどから顏かほを出だして、通とほりがかりの驛員えきゐんを呼よんで聞きいた。

「伊那いなへは、此この驛えきから何里なんりですな。」

「六里半りはん、峠越たうげごしで、七里りでせう。」

「しますと、次つぎの驛えきからだと如何いかゞなものでせう。」

「然さやう……おい〱。」

呼よぶと、驛員えきゐんが駈かけて來きた。まだ宵よひながら靴くつの音おとが高たかく響ひゞく。……改札口かいさつぐちに人珍ひとめづらしげに此方こなたを透すかした山家やまがの小兒こどもの乾栗ほしぐりのやうな顏かほの寂さびしさ。

「……驛えきからだと伊那いなまで何里なんりかね。」

「山路やまみち六里り……彼是かれこれ七里りでございます。」

「はゝあ、」と歎息たんそくするやうに云いつた時ときの、旅客りよきやくの面色おもゝちも四邊あたりの光景くわうけいも陰々いん〱たるものであつた。

「俥くるまはありませうか。」

「ございます。」

と驛夫えきふが答こたへた。

「次つぎの驛えきには、」

「多分たぶんございませう、一臺だいぐらゐは。」

「否いや、此處こゝで下おります。」

と思沈おもひしづんだのが、急きふに慌あわたゞしげに云いつて、

「此處こゝで下おります。」

と、最もう一度いちど自みづから確たしかめるやうに言いひ加たした。

驛員等えきゐんらは衝つと兩方りやうはうへ。

旅客りよきやくは眉まゆを壓あつする山やま又また山やまに眉まゆを蔽おほはれた状さまに、俯目ふしめに棚たなの荷にを探さぐり取とつたが、笛ふえの鳴なる時とき、角形かくがたの革鞄かばんに洋傘かうもりを持添もちそへると、決然けつぜんとした態度たいどで、つか〱と下おりた。下おり際しなに、顧かへりみて彼かれに會釋ゑしやくした。

健康けんかうを祈いのる。

四

隣となりに居ゐた其その旅客りよきやくは、何處どこから乘合のりあはせたのか彼かれはそれさへ知しらぬ。其その上うへ、雙方さうはうとも、もの思おもひに耽ふけつて、一度ども言葉ことばは交かはさなかつたのである。

雖然けれども、いざ、分わかれると成なれば、各自てんでが心こゝろ寂さびしく、懷なつかしく、他人たにんのやうには思おもはなかつたほど列車れつしやの中なかは人ひと稀まれで、……稀まれと云いふより、殆ほとんど誰たれも居ゐないのであつた。

彼かれは、單身たんしん山やま又また山やまを分わけて行ゆく新あたらしい知己ちきの前途ぜんとを思おもつた。蜀道しよくだう磽确かうかくとして轉うたた世よは嶮けんなるかな。

孤驛こえき既すでに夜よるにして、里程りてい孰いづれよりするも峠たうげを隔へだてて七里りに餘あまる。……彼かれは其その道中だうちうの錦葉もみぢを思おもつた、霧きりの深ふかさを思おもつた、霜しもの鋭するどさを思おもつた、寧むしろ其それよりも早はや雪ゆきを思おもつた、……外套ぐわいたう黒くろく沈しづんで行ゆく。……

月つきが晃々きら〱と窓まどを射いたので、戞然からりと玉たまの函はこを開ひらいたやうに、山々やま〱谷々たに〲の錦葉もみぢの錦にしきは、照々てら〱と輝かゞやきを帶おびて颯さつと目めの前まへに又また卷絹まきぎぬを解擴ときひろげた。が、末すゑは仄々ほの〲と薄うすく成なり行ゆく。渚なぎさの月つきに、美うつくしき貝かひを敷しいて、あの、すら〱と細ほそく立たつ煙けむりの、恰あたかも鴎かもめの白しろき影かげを岬みさきに曳ひくが如ごとく思おもはれたのは、記憶きおくが返かへつたのである。

汽車きしやは山やまの狹間はざまの左右さいうに迫せまる、暗くらき斷崖だんがいを穿うがつて過すぎるのであつた。

窓まどなる峰みねに、星ほしを貫つらぬく、高たかき火ひの見みの階子はしごを見みた。

孤家ひとつやの灯ともしびの影かげとても、落おちた木この葉はの、幻まぼろしに一葉ひとは紅くれなゐの俤おもかげに立たつばかりの明あかりさへ無ない。

岩いはを削けづつて點滴したゝる水みづは、其その火ひの見み階子ばしごに、垂々たら〱と雫しづくして、立たちながら氷柱つらゝに成ならむ、と冷ひやゝかさの身みに染しむのみ。何處どこに家いへを燒やく炎ほのほがあらう。

曉あかつきの霜しもを裂さき、夕暮ゆふぐれの霧きりを分わけて、山姫やまひめが撞木しゆもくを當あてて、もみぢの紅くれなゐを里さとに響ひゞかす、樹々きゞの錦にしきの知しらせ、と見みれば、龍膽りんだうに似にて俯向うつむけに咲さいた、半鐘はんしようの銅あかゞねは、月つきに紫むらさきの影かげを照てらす。

大おほいなる蝙蝠かうもりのやうに、煙けむりがむら〱と隙間すきまを潛くゞつた。

「あゝ、隧道トンネルへ入はひつた。」

人ひとも知しつた……此この隧道トンネルは以もつての外ほか鎖チエインがある。普通ふつう我國わがくに第だい一と稱となへて、(代天工てんこうにかはる)と銘打めいうつたと聞きく、甲州かふしう笹子さゝごの隧道トンネルより、寧むしろ此この方はうが長ながいかも知しれぬ。

はじめは、たゞあまりに通過とほりすぎるつもりで、事こととも爲しなかつたばかりで無ない。一向いつかう、此この變則へんそくの名所めいしよに就ついて、知識ちしきも經驗けいけんも無なかつた彼かれは、次第しだいに暗くらく成なり、愈々いよ〱深ふかくなり、もの凄すさまじく成なつて、搖ゆすぶれ〱轟然ぐわうぜんたる大音響だいおんきやうを發はつして、汽車きしやは天窓あたまから、鈍にぶき錐きりと變へんじて、山やまの底そこに潛込もぐりこむが如ごとき、易やすからぬものの氣勢けはひに、少すくなからず驚おどろかされたのである。

「此これは難所なんしよだ。」

美人びじんに見惚みとるゝとて、あらう事ことか、ぐつたり鏡臺きやうだいに凭掛もたれかゝつたと云いふ他愛たわいなさ。で、腰掛こしかけに上あがり込こんで、月つきの硝子窓がらすまどに、骨ほねを拔ぬいて凍付いてついて居ゐたのが、慌あわてて、向直むきなほつて、爪探つまさぐりに下駄げたを拾ひろつて、外套ぐわいたうの下したで、ずるりと弛ゆるんだ帶おびを緊しめると、襟えりを引掻合ひつかきあはせる時とき、袂たもとへ辷すべつて宙ちうに留とまつた、大切たいせつな路銀ろぎんを、ト懷中ふところへ御直おんなほり候さふらへと据直すゑなほして、前褄まへづまをぐい、と緊しめた。

「いや、なか〱だぞ、尚まだ。……」

汽車きしやは轟々ぐわう〱と、唯たゞ瀧たきに捲まかれた如ごとくに響ひゞく。

此處こゝで整然きちんとして腰こしを掛かけて、外套ぐわいたうの袖そでを合あはせて、一ひとつ下腹したつぱらで落着おちついた氣きが、だらしもなく續つゞけざまに噎むせ返かへつた。

煙けむりが烈はげしい。

五

室内しつない一面いちめん濛々もう〱とした上うへへ、あくどい黄味きみを帶おびたのが、生暖なまぬるい瀬せを造つくつて、むく〱泡あわを吹ふくやうに、……獅噛面しかみづらで切齒くひしばつた窓々まど〱の、隙間すきまと云いふ隙間すきま、天井てんじやう、廂合ひあはひから流込ながれこむ。

噂うはさも知しらなかつた隧道トンネルが此これだとすると、音おとに響ひゞいた笹子さゝごは可恐おそろしい。一層いつそ中仙道なかせんだうを中央線ちうあうせんで、名古屋なごやへ大𢌞おほまはりをしようかと思おもつたくらゐ。

「何なんにしろ酷ひどいぞ、此これは……毒どくを以もつて毒どくを制せいすと遣やれ。」

で、袂たもとから卷莨まきたばこを取とつて、燐寸マツチを摺すつた。口くちの先さきに𤏋ぱつと燃もえた火ひで勢付いきほひづいて、故わざと煙けむりを深ふかく吸すつて、石炭せきたん臭くさいのを浚さらつて吹出ふきだす。

目めもやゝ爽さわやかに成なつて、吻ほつと呼吸いきをした時とき――ふと、否いや、はじめてと言いはう、――彼かれが掛かけた斜はすに、向むかう側がはの腰掛こしかけに、疊たゝまり積つもる霧きりの中なかに、落おちて落おちかさなつた美うつくしい影かげを見みた。

影かげではない、色いろある衣きぬの媚なまめかしいのを見みたのである。

「女をんなが居ゐる。」

然しかも二人ふたり、……

と認みとめたが、萎々なえ〱として、兩方りやうはうが左右さいうから、一人ひとりは一方いつぱうの膝ひざの上うへへ、一人ひとりは一方いつぱうの、おくれ毛げも亂みだれた肩かたへ、袖そでで面おもてをひたと蔽おほうたまゝ、寄縋よりすがり抱合いだきあふやうに、俯伏うつぶしに成なつて惱なやましげである。

姿すがたを、然さうして撓たをやかに折重をりかさねた、袖そでの色いろは、濃こい萌黄もえぎである。深ふかい紫むらさきである。いづれも上うへに被きた羽織はおりとは知しれたが、縞目しまめは分わからぬ。言いふまでもなく紋もんがあらう。然しかし、煙けむりに包つゝまれて、朦朧もうろうとしてそれは見みえぬ。

小袖こそでも判然はつきりせぬ。が、二人ふたりとも紋縮緬もんちりめんと云いふのであらう、絞しぼつた、染にじんだやうな斑點むらのある緋ひの長襦袢ながじゆばんを着きたのは確たしか。で、搦からみ合あつた四よつの袖そでから、萌黄もえぎと其その紫むらさきとが彩いろを分わけて、八やツにはら〱と亂みだれながら、しつとりと縺もつれ合あつて、棲つま紅くれなゐに亂みだれし姿すがた。……

其その然しかも紅くれなゐは、俯向うつむいた襟えりを辷すべり、凭もたれかゝつた衣紋えもんに崩くづれて、膚はだへも透すく、とちらめくばかり、氣勢けはひは沈しづんだが燃立もえたつやう。

ト其その胸むねを、萌黄もえぎに溢こぼれ、紫むらさきに垂たれて、伊達卷だてまきであらう、一人ひとりは、鬱金うこんの、一人ひとりは朱鷺色ときいろの、だらり結むすびが、ずらりと摩なびく。

「おや〱女郎ぢよらうかな。」

雖然けれども、襦袢じゆばんばかりに羽織はおりを掛かけて旅たびをすべき所説いはれはない。……駈落かけおちと思おもふ、が、頭巾づきんも被かぶらぬ。

顏かほを入違いれちがひに、肩かたに前髮まへがみを伏ふせた方はうは、此方こちら向むきに、やゝ俯向うつむくやうに紫むらさきの袖そでで蔽おほふ、がつくりとしたれば、陰かげに成なつて、髮かみの形かたちは認みとめられず。

其その、膝ひざに萌黄もえぎの袖そでを折掛をりかけて、突俯つゝぷした方はうは、絞しぼりか鹿かの子こか、ふつくりと緋手柄ひてがらを掛かけた、もつれ毛げはふさ〱と搖ゆれつつも、煙けむりを分わけた鬢びんの艶つや、結綿ゆひわたに結ゆつて居ゐた。

此女このをんなが上うへに坐すわつて、紫むらさきの女をんなが、斜なゝめになよ〱と腰こしを掛かけた。落おとした裳もすそも、屈かゞめた褄つまも、痛々いた〱しいまで亂みだれたのである。

年紀としのころは云いふまでもない、上うへに襲かさねた衣きぬばかりで、手足てあしも同おなじ白しろさと見みるまで、寸分すんぶん違たがはぬ脊丈恰好せたけかつかう。

……と云いふ、其その脊丈恰好せたけかつかうが?……

六

「見世みせものに成なる女をんなぢやないか。」

一度ど、然さう思おもつたほど小ちひさかつた。

が、いぢけたのでも縮ちゞんだのでもない。吹込ふきこむ煙けむりに惱亂なうらんした風情ふぜいながら、何處どこか水々みづ〱として伸のびやかに見みえる。襟許えりもと、肩附かたつき、褄つまはづれも尋常じんじやうで、見好みよげに釣合つりあふ。小ちひさいと云いふより、……小造こづくりに過すぎるのであつた。

汽車きしやは倒さかさまに落おちて留やまない。煙けむりが濃こいのが岩いはを崩くづして、泥どろを掻かき〱、波なみのやうな土つちを煽あふつて、七轉八倒しちてんばつたうあがき悶もだゆる。

俗ぞくに、隧道トンネルの最もつとも長ながいのも、ゆつくり吸すつて敷島しきしま一本ぽんの間あひだと聞きく。

二本目ほんめを吸すひつけた時とき、彼かれは不安ふあんの念ねんを禁きんじ得えないのであつた。……不思議ふしぎな伴侶みちづれである。姿すがたに色いろを凝こらした、朦朧もうろうとした女をんなの抱合だきあつた影かげは、汽車きしやに事變じへんのあるべき前兆ぜんてうではないのであらうか。

嘗かつて此この隧道トンネルを穿うがちし時とき、工夫こうふが鶴觜つるはし、爆裂彈ばくれつだんの殘虐ざんぎやくに掛かゝつた、弱よわき棲主ぬしたちの幻まぼろしならずや。

或あるひは此この室しつにのみ、場所ばしよと機會きくわいに因よつて形かたちを顯あらはす、世よに亡なき人ひとの怨靈をんりやうならずや。

と、誘さそはれた彼かれも、ぐら〱と地震なゐふる墓はかの中なかに、一所いつしよに住すんで居ゐるもののやうな思おもひがして、をかしいばかり不安ふあんでならぬ。

靜坐せいざするに堪たへなく成なつて、急きふに衝つと立たつと、頭あたまがふら〱としてドンと尻しりもちをついて、一人ひとりで苦笑くせうした。

ふと大風おほかぜが留やんだやうに響ひゞきが留やんで、汽車きしやの音おとは舊もとに復かへつた。

彼かれは慌あわたゞしく窓まどを開ひらいて、呼吸いきのありたけを口くちから吐出はきだすが如ごとくに月つきを仰あふぐ、と澄切すみきつた山やまの腰こしに、一幅ひとはゞのむら尾花をばなを殘のこして、室内しつないの煙けむりが透すく。それが岩いはに浸込しみこんで次第しだいに消きえる。

夢ゆめから覺さめた思おもひで、厚あつぼつたかつた顏かほを撫なでた、其その掌てを膝ひざに支ついて、氣きも判然はつきりと向直むきなほつた時とき、彼かれは今いままでの想像さうざうの餘あまりな癡たはけさに又また獨ひとりで笑わらつた。

いや、知己ちかづきでもない女をんなの前まへで、獨笑ひとりわらひは梟ふくろふの業わざであらう。

冥界めいかいの伴侶みちづれか、墓はかの相借家あひじやくやか、とまで怪あやしんだ二人ふたりの女をんなが、別條べつでうなく、然しかも、揃そろつて美うつくしい顏かほを上あげて居ゐたから。

「矢張やつぱり隧道トンネルに惱なやんだんだ。」

と彼かれは頷うなづいたのであつた。

「そして、踊をどり……踊をどりの歸途かへり……恁かう着崩きくづした處ところを見みては、往路ゆきではあるまい。踊子をどりこだらう。後あとの宿しゆくあたりに何なにか催もよほしがあつて、其處そこへ呼よばれた、なにがし町まちの選えりぬきとでも言いふのが、一ひとつ先さきか、それとも次つぎの驛えきへ歸かへるのであらう。……踊おどりの催もよほしと言いへば、園遊會ゑんいうくわいかなんぞで、灰色はひいろの手て、黄色きいろい手て、樺色かばいろの手ての、鼬いたち、狐きつね、狸たぬき、中なかには熊くまのやうなのも交まじつた大勢おほぜいの手てに、引𢌞ひきまはされ、掴立つかみたてられ、袖そでも振ふりも亂みだれたまゝを汽車きしやに乘のつた落人おちうどらしい。」

落人おちうどと云いへば、踊をどつた番組ばんぐみも何なにか然さうした類たぐひかも知しれぬ。……其その紫むらさきの方はうは、草束くさたばねの島田しまだとも見みえるが、房ふつさりした男髷をとこまげに結ゆつて居ゐたから。

此方このはうは、やゝ細面ほそおもてで。結綿ゆひわたの娘むすめは、ふつくりして居ゐる。二人ふたりとも鬘かつらを被かぶつたかと思おもふ。年紀としが少わかい、十三四か、それとも五六、七八か、眦めじりに紅べにを入いれたらしいまで極彩色ごくさいしきに化粧けしやうしたが、烈はげしく疲つかれたと見みえて、恍惚うつとりとして頬ほゝに蒼味あをみがさして、透通すきとほるほど色いろが白しろい。其その紅べにと思おもふ瞼まぶたの紅くれなゐがなかつたら、小柄こがらではあるし、たゞ動うごく人形にんぎやうに過すぎまい。

七

「何なにしろ弱よわつたらしい。……舞臺ぶたいの歸途かへりとして、今いまの隧道トンネルを越こすのは、芝居しばゐの奈落ならくを潛くゞるやうなものだ、いや、眞個まつたくの奈落ならくだつた。」

――心細こゝろぼそいよ木曾路きそぢの旅たびは

笠かさに木この葉はが舞まひかゝる――

人形にんぎやうのやうな此この女達をんなたち、聲こゑを聞ききたい、錦葉もみぢに歌うたふ色鳥いろどりであらう。

まだ全まつたく消きえ果はてない煙けむりを便宜よすがに、あからめもしないで熟ぢつと視みる時とき、女をんなは二人ふたり、揃そろつて、目めを睜みはつて、四よつツの目めをぱつちりと瞬またゝきした。……瞳ひとみは水晶すゐしやうを張はつたやうで、薄煙うすけむりの室しつを透とほして透通すきとほるばかり、月つきも射添さしそふ、と思おもふと、紫むらさきも、萌黄もえぎも、袖そでの色いろが𤏋ぱつと冴さえて、姿すがたの其處此處そここゝ、燃立もえたつ緋ひは、炎ほのほの亂みだるゝやうであつた。

すツかと立揚たちあがつた大漢子おほをのこがある。

先さきに――七里半りはんの峠たうげを越こさうとして下おりた一見いつけんの知己ちきが居ゐた、椅子いすの間あひだを向むかうへ隔へだてて、彼かれと同おなじ側かはの一隅ひとすみに、薄青うすあをい天鵝絨びろうどの凭掛よりかゝりを枕まくらにして、隧道トンネルを越こす以前いぜんから、夜よるの底そこに沈しづんだやうに、煙けむりに陰々いん〱として横倒よこだふれに寐ねて居ゐたのが、此この時とき仁王立にわうだちに成なつたのである。

が、唐突だしぬけに大おほきな材木ざいもくが化ばけて突立つゝたつて、手足てあしの枝えだが生はえたかと疑うたがはるゝ。

茶ちやの鳥打とりうちをずぼりと深ふかく、身みの丈たけを上うへから押込おしこんだ體ていに被かぶつたのでさへ、見上みあげるばかり脊せが高たかい。茶羅紗ちやらしや霜降しもふりの大外套おほぐわいたうを、風かぜに向むかつた蓑みのよりも擴ひろく裾すそ一杯いつぱいに着きて、赤革あかゞはの靴くつを穿はいた。

時ときに斜違はすつかひにづかりと通とほつて、二人ふたりの女をんなの前まへへ會釋ゑしやくもなくぬつくと立たつ。ト紫むらさきの目めが、ト其その外套ぐわいたうの脇わきの下したで、俯目ふしめに成なつたは氣きの毒どくらしい。――紅くれなゐは萎しぼむ、萌黄もえぎの八やツ口くち。

大漢子おほをのこの兩手りやうては、伸のびをして、天井てんじやうを突拔つきぬく如ごとく空そらざまに棚たなに掛かゝる、と眞先まつさきに取とつたのは、彈丸帶たまおびで、外套ぐわいたうの腰こしへぎしりと〆しめ、續つゞいて銃じうを下おろして、ト筈高はずだかにがツしと掛かけた。大おほきな獲えもの袋ぶくろと、小革鞄こかばんと一所いつしよに、片手掴かたてづかみに引下ひきおろしたのは革紐かはひもの魔法罎まはふびん。

で、一搖ひとゆすり肩かたを搖ゆすつて、無雜作むざふさに、左右さいうへ遣違やりちがへに、ざくりと投掛なげかける、と腰こしでだぶりと動うごく。

獲えもの袋ぶくろが重おもさうに、然しかも發奮はずんで搖ゆれた。

――山鳩やまばと七羽は、田鴫たしぎ十三、鶉うづら十五羽は、鴨かもが三羽ば――

づしりと其その中なかにあるが如ごとくに見みて取とられる。……

昨日きのふ、碓氷うすひで汽車きしやを下おりて、峠たうげの權現樣ごんげんさまに詣まうでた時とき、さしかゝりで俥くるまを下おりて、あとを案内あんないに立たつた車夫しやふに、寂さびしい上坂のぼりざかで彼かれは訊たづねた。

「些ちつとも小鳥ことりが居ゐないやうだな。」

「搜さがすと居をります。……昨日きのふも鐵砲打てつぱううちの旦那だんなに、私わしがへい、お供ともで、御案内ごあんないでへい、立派りつぱに打うたせましたので。」

と狡さかしげな目めを光ひからして云いつた。鴫しぎも鳩はとも、――此處こゝに其その獲えものの數かずさへ思おもつたのは、車夫しやふが其その時ときの言葉ことばの記憶きおくである。

此この山里やまざとを、汽車きしやの中なかで、殆ほとんど鳥とりの聲こゑを聞きかなかつた彼かれは、何故なぜか、谷筋たにすぢにあらゆる小禽せうきんの類るゐが、此この巨おほきな手ての獵人かりうどのために狩盡かりつくされるやうな思おもひして、何なんとなく悚然ぞつとした。其それも瞬時しゆんじで。

汽車きしやは留とまつた。

「鹽尻しほじり、鹽尻しほじり――中央線ちうあうせんは乘換のりかへ。」

其その途端とたんである。……鷹揚おうやうに、然しかも手馴てなれて、迅速じんそくに結束けつそくし果はてた紳士しんしは、其その爲ために空むなしく待構まちかまへて居ゐたらしい兩手りやうてにづかりと左右ひだりみぎ、其その二人ふたりの女をんなの、頸上えりがみと思おもふあたりを無手むずと掴つかんで引立ひつたてる、と、呀やあ? 衣きぬも扱帶しごきも上うへへ摺ずつて、するりと白しろい顏かほが襟えりに埋うまつた、紫むらさきと萌黄もえぎの、緋ひを流ながるゝやうに宙ちうに掛かけて、紳士しんしは大跨おほまたにづかり〱。

呆氣あつけに取とられた彼かれを一人ひとり室内しつないに殘のこして、悠然いうぜんと扉とびらを出でたのである。

あとの、もの凄すごさ。

八

紅べにさいた二ふたツの愛々あい〱しい唇くちびるが、凍いてて櫻貝さくらがひの散ちつて音おとするばかり、月つきにちら〱と、それ、彼處あすこに此處こゝに――

「あゝ、寒さむい。」

温泉をんせんに行ゆかうとして、菊屋きくやの廣袖どてらに着換きかへるに附つけても、途中とちうの胴震どうぶるひの留とまらなかつたまで、彼かれは少すくなからず怯おびやかされたのである。

東京とうきやうを出程たつ時ときから、諏訪すはに一泊ぱくと豫定よていして、旅籠屋はたごやは志こゝろざした町通まちどほりの其その菊屋きくやであつた。

心細こゝろぼそい事ことには、鹽尻しほじりでも、一人ひとりも同おなじ室しつへ乘込のりこまなかつた。……其その宿しゆくの名なは、八重垣姫やへがきひめと、隨筆ずゐひつの名なで、餘所よそながら、未見みけんの知己ちき。初對面しよたいめんの從姉妹いとこと、伯父をぢさんぐらゐに思おもつて居ゐたのに。………

下諏訪しもすはへ來くると、七八人にん、田螺たにしを好すきさうな、然しかも娑婆氣しやばつけな商人風あきんどふうのが身みを光ひからして、ばら〱と入はひつて來きた。其その中なかで一人ひとり、あの、其その女をんな二人ふたり居ゐた處ところへ、澄すまして腰こしを掛かけた男をとこがあつた。

はつと思おもつたが、一向いつかう平氣へいきで、甲府かふふか飯田町いひだまちへ乘越のりこすらしい。上諏訪かみすはに彼かれが下車げしやした時ときまで、別べつに何事なにごともなく、草くさにも樹きにも成ならず、酒さけのみと見みえて、鼻はなの尖さきの赤あかいのが、其そのまゝ柿かきの實みにも成ならないのを寧むしろ怪あやしむ。

はじめ、もう其そのあたりから、山やまも野のも眇べうとして諏訪すはの湖みづうみの水みづと成なる由よし、聞きいては居ゐたが、ふと心着こゝろづかずに過すぎた、――氣きにして、女をんなの後あとばかり視ながめて居ゐたので。

改札口かいさつぐちを冷つめたく出でると、四邊あたりは山やまの陰かげに、澄渡すみわたつた湖みづうみを包つゝんで、月つきに照返てりかへさるゝ爲ためか、漆うるしの如ごとく艶つややかに、黒くろく、且かつ玲瓏れいろうとして透通すきとほる。

白しろきは町家まちやの屋根やねであつた。

水みづから湧わいた影かげのやうに、すら〱と黒くろく煽あふつて、俥くるまが三臺だい、つい目めの前まへから駈出かけだした。

――俥くるまが三臺だい、人ひとが三人にん――

「待まてよ、先刻さつきの紳士しんしは、あゝして、鹽尻しほじりで下車おりたと思おもふが、……其それとも室しつを替かへて此處こゝまで來きたか、俥くるまが三臺だい、揃そろつて。」

と見みる、目めの前まへへ、黄色きいろい提灯ちやうちんの灯ひが流ながれて、がたりと青あをく塗ぬつた函車はこぐるまを曳出ひきだすものあり。提灯ちやうちんには赤あかい蕋しべで、車くるまには白しろい紋もんで、菊屋きくやの店みせに相違さうゐない。

「一寸ちよいと、菊屋きくやの迎むかひかい。」

「然さうで。」

とぶつきら棒立ぼうだち。仲屋なかやの小僧こぞうと云いふ身みの、から脛すねの、のツぽが答こたへる。

「おい、其處そこへ行ゆくんだ、俥くるまはないかね。」

「今いまので出拂ではらつたで、」

「出拂ではらつた……然さうか。……餘程よつぽどあるかい。」

「何なに、ぢき其處そこだよ。旦那だんな、毛布けつと預あづかろかい。」

縞しまの膝掛ひざかけを函はこに載のせて、

「荷にもつも寄越よこすが可えいよ。」

「追剥おひはぎのやうだな。」

と思おもはず笑わらつたが、これは分わからなかつた。奴やつこはけろりとして、冷つめたいか、日和下駄ひよりげたをかた〱と高足たかあしに踏鳴ふみならす。

「おい來きた。」

と出ださうとした信玄袋しんげんぶくろは、顧かへりみるに餘あまりに輕かるい。函はこに載のせると、ポンと飛出とびだしさうであるから遠慮ゑんりよした。

「これは可いいよ。」

「然さうかね、では、早はやく來きさつせいよ。寒さむいから。」

ありや、と威勢ゐせいよく頭突づつきに屈かゞんで、鼻息はないきをふツと吹ふき、一散いつさんに黒くろく成なつてがら〱と月夜つきよを駈出かけだす。……

猪しゝが飛出とびだしたやうに又また驚おどろいて、彼かれは廣ひろい辻つじに一人ひとり立たつて、店々みせ〱の電燈でんとうの數かずより多おほい、大屋根おほやねの石いしの蒼白あをじろい數かずを見みた。

紙張かみばりの立看板たてかんばんに、(浮世うきよの波なみ。)新派劇しんぱげきとあるのを見みた。其その浮世うきよの波なみに、流ながれ寄よつた枯枝かれえであらう。非あらず、湖みづうみの冬ふゆを彩いろどる、紅くれなゐの二葉ふたは三葉みは。

九

「酒さけを頼たのむよ、何なにしろ、……熱あつくして。」

菊屋きくやに着ついて、一室ひとまに通とほされると、まだ坐すわりもしない前さき、外套ぐわいたうを脱ぬぎながら、案内あんないの女中ぢよちうに註文ちうもんしたのは、此この男をとこが、素人了簡しろうとれうけんの囘生劑きつけであつた。

其そのまゝ、六疊でふの眞中まんなかの卓子臺ちやぶだいの前まへに、摚どうと坐すわると、早はや目前めさきにちらつく、濃こき薄うすき、染色そめいろの葉はに醉よへるが如ごとく、額ひたひを壓おさへて、ぐつたりと成なつて、二度目どめに火鉢ひばちを持もつて來きたのを、誰たれとも知しらず、はじめから其處そこに火ひを裝もつて備附そなへつけられたもののやうに、無意識むいしきに煙草たばこを吸すつた。

細ほそい煙けむりも峰みねに靡なびく。

「お召めしかへなさいまして、お湯ゆへ入いらつしやいまし。」

「然さうだ、飛込とびこまう。」

と糊のりの新あたらしい浴衣ゆかたに着換きかへて――件くだんの胴震どうぶるひをしながら――廊下らうかへ出でた。が、する〱と向むかうへ、帳場ちやうばの方はうへ、遙はるかに駈かけて行ゆく女中ぢよちうを見みながら、彼かれは欄干てすりに立たつて猶豫ためらつたのである。

湯氣ゆげが温あたゝかく、目めの下したなる湯殿ゆどのの窓明まどあかりに、錦葉もみぢを映うつすが如ごとく色いろづいて、むくりと此この二階にかいの軒のきを掠かすめて、中庭なかにはの池いけらしい、さら〱と鳴なる水みづの音おとに搖ゆれかゝるから、内湯うちゆの在所ありかは聞きかないでも分わかる。

が、通とほされた部屋へやは、すぐ突當つきあたりが壁かべで、其處そこから下おりる裏階子うらばしごの口くちは見みえない。で、湯殿ゆどのへは大𢌞おほまはりしないと行ゆかれぬ。

處ところで、はじめ女中ぢよちうに案内あんないされて通とほつた時ときから、

「此處こゝでは醉よへないぞ。」と心こゝろで叫さけんだ、此この高たかいのに、別べつに階子壇はしごだんと云いふほどのものも無なし、廊下らうかを一𢌞ひとまはりして、向むかうへ下おりるあたりが、可かなりな勾配こうばい。低ひくい太鼓橋たいこばしを渡わたるくらゐ、拭込ふきこんだ板敷いたじきが然しかもつるりと辷すべる。

彼かれは木曾きその棧橋かけはしを、旅店りよてんの、部屋々々へや〲の障子しやうじ、歩板あゆみいたの壁かべに添そつて渡わたつて來きた……其それも風情ふぜいである。

雖然けれども、心覺こゝろおぼえで足許あしもとの覺束おぼつかなさに、寒さむければとて、三尺さんじやくを前結まへむすびに唯たゞ解とくばかりにしたればとて、ばた〱駈出かけだすなんど思おもひも寄よらない。

且かつは暗くらい。……前途むかう下さがりに、見込みこんで、其その勾配こうばいの最もつとも著いちじるしい其處そこから、母屋おもやの正面しやうめんの低ひくい縁側えんがはに成なる壁かべに、薄明うすあかりの掛行燈かけあんどんが有あるばかり。他たは、自分じぶんのと一間ひとま置おいて高樓たかどのの一方いつぱうの、隅すみの部屋へやに客きやくがある、其處そこの障子しやうじに電燈でんとうの影かげさすのみ。

「此これは、そろり〱と參まゐらう。」

獨ひとりで苦笑にがわらひして、迫上せりあがつた橋掛はしがかりを練ねるやうに、谿川たにがはに臨のぞむが如ごとく、池いけの周圍まはりを欄干らんかんづたひ。

他たの客きやくの前まへをなぞへに折曲をれまがつて、だら〱下くだりの廊下らうかへ掛かゝると、舊もと來きた釣橋つりばしの下したに、磨硝子すりがらすの湯殿ゆどのが底そこのやうに見みえて、而そして、足許あしもとが急きふに暗くらく成なつた。

ト何處どこへ響ひゞいて、何なにに通かよふか、辿々たど〱しく一歩ひとあし二歩ふたあし移うつすに連つれて、キリ〱キリ〱と微かすかに廊下らうかの板いたが鳴なる。

ちよろ〱とだけの流ながれながら、堤防どても控ひかへず地續ぢつゞきに、諏訪湖すはこを一ひとつ控ひかへたれば、爪下つましたへ大湖たいこの水みづ、鎬しのぎをせめて、矢やをはいで、じり〱と迫せまるが如ごとく思おもはるゝ。……其その音おとさへ、途と留やむか、と耳みゝに響ひゞいて、キリ〱と細ほそく透とほる。……

奧山家おくやまがの一軒家いつけんやに、たをやかな女をんなが居ゐて、白雪しらゆきの絲いとを谷たにに繰くり引ひく絲車いとぐるまの音おとかと思おもふ。……床ゆかしく、懷なつかしく、美うつくしく、心細こゝろぼそく、且かつ凄すごい。

ト又また聞きこえる。

(きり〱、きり〱

きいこ、きいこ。)……

十

彼かれは引据ひきすゑられるやうに立たつた。

古むかしの本陣ほんぢんと云いふ構かまへの大おほきな建たてものは、寂然ひつそりとして居ゐる。

客きやくは他ほかにない。

湯ゆに行いつた留守るすか、もの越ごし、氣勢けはひもしないが、停車場ステイシヨンから俥くるまで走はしらした三人にんの客きやく、其その三人にんが其處そこに、と思おもつて、深ふかく注意ちういした、――今いまは背後うしろに成なつた――取着とツつきの電燈でんとうを裡うちに閉切しめきつた、障子しやうじの前まへへ、……翼つばさを掻込かいこんだ、地ちを渡わたる鳥とりの影かげが黒くろく映うつつた。

小形こがたな鳩はとほどある、……

唯と見みると、する〱と動うごく。障子しやうじはづれに消きえたと思おもふと、きり〱と板いたに鳴なつて、つる〱と辷すべつて、はツと思おもふ袂たもとの下したを、悚然ぞつと胸むねを冷つめたうさして通拔とほりぬけた。が、颯さつと、翠みどりに、藍あゐを襲かさね、群青ぐんじやうを籠こめて、紫むらさきに成なつて、つい、其その掛行燈かけあんどんの前まへを拔ぬけた。

が、眞赤まつかな嘴口くち〲を明あけた。

萌黄色もえぎいろの首くびがする〱と伸のびて、車くるまが軋きしつて、

(きり〱、きり〱

きいこ、きつこ、きいこ。)……

(樹きへ行いこ、樹きへ行いこ。

樹樵きツこり來くるな、樹樵きツこり來くるな。きいこ、きいこ。)

と鳴ないた。

あゝ、あの、手遊てあそびの青首あをくびの鴨かもだ、と見みると、續つゞいて、追おひ状さまに袖そでの下したを拔ぬけたのは、緋ひに黄色きいろに、艶々つや〱とした鴛鴦をしどりである。

ともに、勾配こうばいにすら〱と、水みづに流ながるゝ、……廊下らうかを辷すべる。

「何處どこかへ絲いとを引掛ひつかけた。」

廣袖どてらへ着つけて女中ぢよちうが、と、はた〱と袖そでを煽あふつたが、フト鳥とりに成なるやうに思おもつて、暗くらがりで悚然ぞつとした。

第一だいいち、身みに着ついた絲いとの、玩弄具おもちやの鳥とりが、彳たゝずんだものを、向むかうへ通拔とほりぬける數すうはない。

手てを緊しめて、差窺さしうかゞふ、母屋おもやの、遠とほく幽かすかなやうな帳場ちやうばから、明あかりの末すゑが茫ばうと屆とゞく。池いけに面めんした大廣間おほひろま、中なかは四五十疊でふと思おもはるゝ、薄暗うすぐらい障子しやうじの數かずの眞中まんなかあたり。合あはせ目めを細目ほそめに開あけて、其處そこに立たつて、背後うしろに、月つきの影かげさへ屆とゞかぬ、山やま又また山やまの谷々たに〲を、蜘蛛くもの圍いの如ごとく控ひかへた、星ほしに屆とゞく黒くろき洞穴ほらあなの如ごとき大おほいなる暗闇くらがりを翼つばさに擴ひろげて、姿すがたは細ほそき障子しやうじの立棧たちざん。

温泉いでゆの煙けむりに、ほんのりと、雪ゆきなす顏かんばせ、黒髮くろかみの髷まげ。

幻まぼろしの裳もすそに月影つきかげさすよと、爪先つまさき白しろく立たつたのが、花はなの魂たましひのやうな手てを上あげて、ちらりと招まねく。

きり〱と、鳥とりの形かたちは柱はしらを繞めぐつた。

其その女をんなは――

――此これに就ついて、別べつに物語ものがたりがあるのである。

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/004586_000050/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/004586_000050/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/004586_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「魔法罎」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻十五』岩波書店、1940年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004586_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite