Soranoha

浅茅生

あさじう

泉 鏡花

一

鐘かねの聲こゑも響ひゞいて來こぬ、風かぜのひつそりした夜よるながら、時刻じこくも丁ちやうど丑滿うしみつと云いふのである。……此この月つきから、桂かつらの葉はがこぼれ〱、石いしを伐きるやうな斧をのが入はひつて、もつと虧かけ、もつと虧かけると、やがて二十六夜にじふろくやの月つきに成ならう、……二十日はつかばかりの月つきを、暑あつさに一枚まいしめ殘のこした表二階おもてにかいの雨戸あまどの隙間すきまから覗のぞくと、大空おほぞらばかりは雲くもが走はしつて、白々しろ〲と、音おとのない波なみかと寄よせて、通とほりを一ひとツ隔へだてた、向むかうの邸やしきの板塀越いたべいごしに、裏葉うらはの飜かへつて早はや秋あきの見みゆる、櫻さくらの樹きの梢うらを、ぱつと照てらして、薄明うすあかるく掛かゝるか、と思おもへば、颯さつと墨すみのやうに曇くもつて、月つきの面おもてを遮さへぎるや否いなや、むら〱と亂みだれて走はしる……

ト火入ひいれに燻くべた、一把は三錢せんがお定さだまりの、あの、萌黄色もえぎいろの蚊遣香かやりかうの細ほそい煙けむりは、脈々みやく〱として、そして、空そら行ゆく雲くもとは反對はんたいの方はうへ靡なびく。

其その小机こづくゑに、茫乎ぼんやりと頬杖ほゝづゑを支ついて、待人まちびとの當あてもなし、爲せう事ことござなく、と煙草たばこをふかりと吹ふかすと、

「おらは呑氣のんきだ。」と煙けむりが輪わに成なる。

「此方こつちは忙いそがしい。」

と蚊遣香かやりかうは、小刻こきざみを打うつて畝うねつて、せつせと燻いぶる。

が、前まへなる縁えんの障子しやうじに掛かけた、十燭しよくと云いふ電燈でんとうの明あかりの屆とゞかない、昔むかしの行燈あんどんだと裏通うらどほりに當あたる、背中せなかのあたり暗くらい所ところで、蚊かがブーンと鳴なく……其その、陰氣いんきに、沈しづんで、殺氣さつきを帶おびた樣子やうすは、煙けむりにかいふいて遁にぐるにあらず、落着おちつき澄すまして、人ひとを刺ささむと、鋭するどき嘴はしを鳴ならすのである。

で、立騰たちのぼり、煽あふり亂みだれる蚊遣かやりの勢いきほひを、ものの數かずともしない工合ぐあひは、自若じじやくとして火山くわざんの燒石やけいしを獨ひとり歩行あるく、脚あしの赤あかい蟻ありのやう、と譬喩たとへを思おもふも、あゝ、蒸熱むしあつくて夜よが寢ねられぬ。

些そよとの風かぜもがなで、明放あけはなした背後うしろの肱掛窓ひぢかけまどを振向ふりむいて、袖そでで其そのブーンと鳴なくのを拂はらひながら、此この二階住にかいずみの主人あるじ唯吉たゞきちが、六疊でふやがて半なかばに蔓はびこる、自分じぶんの影法師越かげぼふしごしに透すかして視みる、雲くもゆきの忙せはしい下したに、樹立こだちも屋根やねも靜しづまりかへつて、町まちの夜更よふけは山家やまがの景色けしき。建續たてつゞく家いへは、なぞへに向むかうへ遠山とほやまの尾をを曳ひいて、其方此方そちこちの、庭には、背戸せど、空地あきちは、飛々とび〱の谷たにとも思おもはれるのに、涼すゞしさは氣勢けはひもなし。

「暑あつい。」

と自棄やけに突立つゝたつて、胴體どうたいドタンと投出なげだすばかり、四枚よまいを兩方りやうはうへ引ひきずり開あけた、肱ひぢかけ窓まどへ、拗すねるやうに突掛つゝかゝつて、

「やツ、」と一ひとツ、棄鉢すてばちな掛聲かけごゑに及およんで、其その敷居しきゐへ馬乘うまのりに打跨うちまたがつて、太息おほいきをほツと吐つく……

風入かぜいれの此この窓まども、正西まにしを受うけて、夕日ゆふひのほとぼりは激はげしくとも、波なみにも氷こほりにも成なれとて觸さはると、爪下つましたの廂屋根ひさしやねは、さすがに夜露よつゆに冷つめたいのであつた。

爾時そのとき、唯吉たゞきちがひやりとしたのは――

此この廂ひさしはづれに、階下したの住居すまひの八疊でふの縁前えんさき、二坪ふたつぼに足たらぬ明取あかりとりの小庭こにはの竹垣たけがきを一ひとツ隔へだてたばかり、裏うらに附着くツついた一軒けん、二階家にかいやの二階にかいの同おなじ肱掛窓ひぢかけまどが、南みなみを受うけて、此方こなたとは向むきを異ちがへて、つい目めと鼻はなの間あひだにある……其處そこに居ゐて、人ひとが一人ひとり、燈あかりも置おかず、暗くらい中なかから、此方こなたの二階にかいを、恁かう、窓まど越こしに透すかすやうにして涼すゞむらしい姿すがたが見みえた事ことである。――

「や、」

たしかに、其家そのいへは空屋あきやの筈はず。

二

唯たゞさへ、思おもひ掛がけない人影ひとかげであるのに、又また其その影かげが、星ほしのない外面とのもの、雨氣あまけを帶おびた、雲くもに染にじんで、屋根やねづたひに茫ばうと來きて、此方こなたを引包ひきつゝむやうに思おもはれる。

が、激はげしい、強つよい、鋭するどいほどの氣勢けはひはなかつた。

闇やみに咲さく花はなの、たとへば面影おもかげはほのかに白しろく、あはれに優やさしくありながら、葉はの姿すがたの、寂さびしく、陰氣いんきに、黒くろいのが、ありとしも見みえぬ雲くもがくれの淀よどんだ月つきに、朦朧もうろうと取留とりとめなく影かげを投なげた風情ふぜいに見みえる。

雨夜あまよの橘たちばなの其それには似にないが、弱よわい、細ほつそりした、花はなか、空燻そらだきか、何なにやら薫かをりが、たよりなげに屋根やねに漾たゞようて、何どうやら其その人ひとは女性によしやうらしい。

「婦人をんなだと尚なほ變へんだ。」

唯吉たゞきちは、襟許えりもとから、手足てあし、身體中からだぢう、柳やなぎの葉はで、さら〱と擽くすぐられたやうに、他愛たわいなく、むず〱したので、ぶる〱と肩かたを搖ゆすつて、

「此これは暑あつい。」

と呟つぶやくのを機會しほに、跨またいだ敷居しきゐの腰こしを外はづすと、窓まどに肱ひぢを、横よこざまに、胸むねを投掛なげかけて居直ゐなほつた。

爾時そのときだつたが、

「え、え、」と、小ちひさな咳しはぶきを、彼方かなたの其その二階にかいでしたのが、何故なぜか耳許みゝもとへ朗ほがらかに高たかく響ひゞいた。

其それが、言ことばを番つがへた、豫かねて約束やくそくの暗號あひづででもあつた如ごとく、唯吉たゞきちは思おもはず顏かほを上あげて、其その姿すがたを見みた。

肩かたを細ほそく、片袖かたそでをなよ〱と胸むねにつけた、風通かぜとほしの南みなみへ背せを向むけた背後姿うしろすがたの、腰こしのあたりまで仄ほのかに見みえる、敷居しきゐに掛かけた半身はんしんで帶おびと髮かみのみ艷あでやかに黒くろい。浴衣ゆかたは白地しろぢの中形ちうがたで、模樣もやうは、薄月うすづきの空そらを行交ゆきかふ、――又また少すこし明あかるく成なつたが――雲くもに紛まぎるゝやうであつたが、つい傍わきの戸袋とぶくろに風流ふうりうに絡からまり掛かゝつた蔦つたかづらが其そのまゝに染そまつたらしい。……そして、肩越かたごしに此方こなたを見向みむいた、薄手うすでの、中なかだかに、すつと鼻筋はなすぢの通とほつた横顏よこがほ。……唯吉たゞきちを見越みこした端はしに、心持こゝろもち、會釋ゑしやくに下さげた頸うなじの色いろが、鬢びんを透すかして白しろい事こと!……美うつくしさは其それのみ成ならず、片袖かたそでに手てまさぐつた團扇うちはが、恰あたかも月つきを招まねいた如ごとく、弱よわく光ひかつて薄うつすりと、腋明わきあけをこぼれた膚はだへに透とほる。

褄つまはづれさへ偲しのばるゝ、姿すがたは小造こづくりらしいのが、腰掛こしかけた背せはすらりと高たかい。

髮かみは、ふさ〱とあるのを櫛卷くしまきなんどに束たばねたらしい……でないと、肱ひぢかけ窓まどの、然さうした處ところは、高たかい髷まげなら鴨居かもゐにも支つかへよう、其それが、やがて二三寸ずん、灯ひのない暗くらがりに、水際立みづぎはたつまで、同おなじ黒くろさが、くツきりと間まをおいて、柳やなぎは露つゆに濡ぬれつゝ濃こかつた。

恁かう、唯吉たゞきちが、見みるも思おもふも瞬またゝく間まで、

「暑あつうござんす事こと……」

と其その人ひとの聲こゑ。

此方こつちは喫驚びつくりして默だまつて視ながめる。

「貴方あなたでもお涼すゞみでいらつしやいますか。」

と直すぐに續つゞけて、落着おちついた優やさしい聲こゑなり。

何なにを疑うたぐつて見みた處ところで、其そのものの言いひぶりが、別べつに人ひとがあつて、婦をんなと對向さしむかひで居ゐる樣子やうすには思おもはれないので、

「えゝん。」

とつけたらしい咳せきばらひを、唯吉たゞきちも一ひとつして、

「何どうです……此このお暑あつさは。」と思切おもひきつて、言受ことうけする。

「酷ひどうござんすのね。」

と大分だいぶ心易こゝろやすい言いひ方かたである。

「お話はなしに成なりません。……彼岸ひがんも近ちかい、殘暑ざんしよもドン詰づまりと云いふ處ところへ來きて、まあ、何どうしたつて云いふんでせうな。」

言いひ交かはすのも窓まどと窓まどの、屋根越やねごしなれば、唯吉たゞきちは上うはの空そらで、

「はて、何なんだらう、誰だれだらう……」

三

「でも、最もうお涼すゞしく成なりませう……此これがおなごりかも知しれません。」

と靜しづかな聲こゑで、慰なぐさめるやうに窓まどから云いつたが、其その一言ひとことから冷つめたくなりさうに、妙めうに身みに染しみて、唯吉たゞきちは寂さびしく聞きいた。

蟲むしの聲こゑも頻しきりに聞きこえる。

其その蟋蟀こほろぎと、婦をんなの聲こゑを沈しづんで聞きいて、陰氣いんきらしく、

「其それだと結構けつこうです……でないと遣切やりきれません。何どうか願ねがひたいもんでございます。」

と言いふうちに、フト其その(おなごり)と云いつたのが氣きに成なつて、此これだと前方さきの言葉通ことばどほり、何どうやら何なにかがおなごりに成なりさうだ、と思おもつて默だまつた。

少時しばらく人ひとの住すまない、裏家うらやの庭にはで、此この折をりから又また颯さつと雲くもながら月つきの宿やどつた、小草をぐさの露つゆを、搖ゆりこぼしさうな蟲むしの聲こゑ。

「まあ!……」

と敷居しきゐに、其その袖そでも帶おびも靡なびくと、ひら〱と團扇うちはが動うごいて、やゝ花はなやかな、そして清すゞしい聲こゑして、

「御挨拶ごあいさつもしませんで……何どうしたら可いいでせう……何なんて失禮しつれいなんでせうね、貴方あなた、御免ごめんなさいまし。」

「いゝや、手前てまへこそ。」

と待受まちうけたやうに、猶豫ためらはず答こたへた……

「暑あつさに變かはりはないんです、お互樣たがひさま。」と唯吉たゞきちは、道理もつともらしいが、何なにがお互樣たがひさまなのか、相應そぐはない事ことを云いふ。

「お宅たくでは、皆みなさんおやすみでございますか。」

「如何いかゞですか、寢ねられはしますまい。が、蚊帳かやへは疾とくに引込ひつこみました。……お宅たくは?」

と云いつて、唯吉たゞきちは屋根越やねごしに、また透すかすやうにしたのである。

「…………」

婦をんなは一寸ちよつと言淀いひよどんで、

「あの……實じつは、貴方あなたをお見掛みかけ申まをしましたから、其その事ことをお願ねがひ申まをしたいと存ぞんじまして、それだもんですから、つい、まだお知己ちかづきでもございませんのに、二階にかいの窓まどから濟すみませんねえ。」

「何なに、貴女あなた、男同士をとこどうしだ、と何どうかすると、御近所ごきんじよづから、町内ちやうないでは錢湯おゆやの中なかで、素裸すつぱだかで初對面しよたいめんの挨拶あいさつをする事ことがありますよ……」

「ほゝ。」

と唇くちびるに團扇うちはを當あてて、それなり、たをやかに打傾うちかたむく。

唯吉たゞきちも引入ひきいれられたやうに笑わらひながら、

「串戲じようだんぢやありません、眞個ほんとうです。……ですから二階同士にかいどうし結構けつこうですとも。……そして、私わたしに……とおつしやつて、貴女あなた、何なんでございます……御遠慮ごゑんりよは要いりません。」

「はあ……」

「何なんでございます。」

「では、お頼たのまれなすつて下くださいますの。」

「承うけたまはりませう。」

と云いつたが、窓まどに掛かけた肱ひぢが浮ういて、唯吉たゞきちの聲こゑが稍々やゝ忙せはしかつた。

「貴方あなた、可厭いやだとおつしやると、私わたし、怨うらむんですよ。」

「えゝ。」

と、一ひとつあとへ呼吸いきを引ひいた時とき、雲くもが沈しづんで、蟋蟀こほろぎの聲こゑ、幻まぼろしに濃こく成なんぬ。

「……可厭いやな蟲むしが鳴なきます事こと……」

と不〔「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」〕ふと、獨言ひとりごとのやうに、且かつ何なにかの前兆ぜんてうを豫あらかじめ知しつたやうに女をんなが言いふ。

「可厭いやな蟲むしが鳴なきます?……」と唯吉たゞきちは釣込つりこまれて、つい饒舌しやべつた。

が、其處そこに、又また此處こゝに、遠近をちこちに、草くさあれば、石いしあれば、露つゆに喞すだく蟲むしの音ねに、未いまだ嘗かつて可厭いやな、と思おもふはなかつたのである。

「貴女あなた、蟋蟀こほろぎがお嫌きらひですか。」

と、うら問どひつゝ、妙めうな事ことを云いふぞと思おもふと、うつかりして居ゐたのが、また悚然ぞつとする……

四

雲くもが衝つと離はなれると、月つきの影かげが、對むかうの窓際まどぎはの煤すゝけた戸袋とぶくろを一間ひとま、美人びじんの袖そでを其處そこに縫留ぬひとめた蜘蛛くもの巣すに、露つゆを貫つらぬいたが見みゆるまで、颯さつと薄紙うすがみの靄もやを透とほして、明あきらかに照てらし出だす、と見みる間まに、曇くもつて、また闇くらくなり行ゆく中うちに、もの越ごしは、蟲むしの音ねよりも澄すんで聞きこえた。

「否いゝえ、つゞれさせぢやありません。蟋蟀こほろぎは、私わたしは大だいすきなんです。まあ、鳴なきますわね……可愛かはいい、優やさしい、あはれな聲こゑを、誰だれが、貴方あなた、殿方とのがただつて……お可厭いやではないでせう。私わたしのやうなものでも、義理ぎりにも、嫌きらひだなんて言いはれませんもの。」

「ですが、可厭いやな蟲むしが鳴ないてる、と唯今たゞいま伺うかゞひましたから。」

「あの、お聞ききなさいまし……一寸ちよつと……まだ外ほかに鳴ないて居ゐる蟲むしがござんせう。」

「はあ、」

と唯吉たゞきちは、恰あたかもいひつけられたやうに、敷居しきゐに掛かけた手ての上うへへ、横よこざまに耳みゝを着つけたが、可厭いやな、と云いふは何なんの聲こゑか、其それは聞きかない方はうが望のぞましかつた。

「遠とほくに梟ふくろでも啼ないて居ゐますか。」

「貴方あなた、蟲むしですよ。」

「成程なるほど、蟲むしと梟ふくろでは大分だいぶ見當けんたうが違ちがひました。……續つゞいて餘あまり暑あついので、餘程よほど茫ばうとして居ゐるやうです。失禮しつれい、可厭いやなものツて、何なにが鳴なきます。」

「あの、きり〱きり〱、褄つまさせ、てふ、肩かたさせ、と鳴なきます中なかに、草くさですと、其その底そこのやうな處ところに、露つゆが白玉しらたまを刻きざんで拵こしらへました、寮れうの枝折戸しをりどの銀ぎんの鈴すゞに、芥子けしほどな水鷄くひなが音おとづれますやうに、ちん、ちん……と幽かすかに、そして冴さえて鳴なくのがありませう。」

「あゝ……近頃ちかごろ聞きいて覺おぼえました……鉦かねたゝきだ、鉦かねたゝきですね。や、あの聲こゑがお嫌きらひですかい。」

「否いゝえ、」

と壓おさへる、聲こゑが沈しづんで、

「聲こゑが嫌きらひなのではありません。不厭いやなどころではないんですが、名なを思おもふと、私わたしは悚然ぞつとします……」

と言いつた。

其その氣きを受うけたか、唯吉たゞきちは一息ひといきに身體中からだぢう總毛立そうけだつた。

「だつて、其それだつて、」

と力ちからが籠こもつて、

「可哀かはいさうな、氣きの毒どくらしい、あの、しをらしい、可愛かはいい蟲むしが、何なんにも知しつた事ことではないんですけれど、でも私わたし、鉦かねたゝきだと思おもひますだけでも、氷こほりで殺ころして、一筋ひとすぢづゝ、此この髮かみの毛けを引拔ひきぬかれますやうに……骨身ほねみに應こたへるやうなんです……蟲むしには濟すまないと存ぞんじながら……眞個ほんとに因果いんぐわなんですわねえ。」

と染々しみ〲言いふ。

唯吉たゞきちは敷居越しきゐごしに乘出のりだしながら、

「何なにか知しりませんが、堪たまらないほど可厭いやなお心持こゝろもちらしく伺うかゞはれますね……では、大抵たいてい分わかりました……手前てまへにお頼たのみと云いふのは、あの……ちん、ちんの聞きこえないやうに、蟲むしを捕つかまへて打棄うつちやるか、何どうにかしてくれろ、と云いふんでせう……と其奴そいつは一寸ちよつと困こまりましたな。其方そちらの……貴女あなたのお庭にはに、ちよろ〱流ながれます遣水やりみづのふちが、此この頃ごろは大分だいぶ茂しげりました、露草つゆくさの青あをいんだの、蓼たでの花はなの眞赤まつかなんだの、美うつくしくよく咲さきます……其その中なかで鳴ないて居ゐるらしいんですがね。……

蟋蟀こほろぎでさへ、其その蟲むしは、宛然まるで夕顏ゆふがほの種たねが一ひとつこぼれたくらゐ小ちひさくつて、なか〱見着みつかりませんし、……何どうして掴つかまりつこはないさうです……貴女あなたがなさいますやうに、雪洞ぼんぼりを點つけて探さがしました處ところで、第一だいいち、形かたちだつて目めに留とまるんぢや、ありますまい。」

と唯吉たゞきちもこゝで打解うちとけたらしく然さう云いつた。

今いまは、容子ようすだけでも疑うたがふ處ところはない……去年きよねん春はるの半なかば頃ごろから、横町よこちやうが門口かどぐちの、其その數寄すきづくりの裏家うらやに住すんだ美人びじんである。

其その年としの夏なつが土用どように入はひつて、間まもなく……仔細しさいあつて……其家そのいへには居ゐなくなつた筈はずだと思おもふ。

五

庭にはは唯たゞ垣かき一重ひとへ、二階にかいは屋根續やねつゞきと云いつても可よい、差配さはいも一ひとつ差配さはいながら、前通まへどほりと横町よこちやうで、引越蕎麥ひつこしそばのおつき合あひの中なかには入はひつて居をらぬから、内うちの樣子やうすは一寸ちよつと分わからぬ。

殊ことに其その家いへは、風通かぜとほしも可よし、室取まどりも可よし、造作ざうさく、建具たてぐの如ごときも、こゝらに軒のきを並ならべた貸家かしやとは趣おもむきが違ちがつて、其それに家賃やちんもかつかうだと聞きくのに……不思議ふしぎに越こして來くるものが居着ゐつかない。

入はひるか、と思おもふと出でる、塞ふさがつたと思おもへば空あく。半月はんつき、一月ひとつき、三月みつき、ものの半年はんとしも住馴すみなれたのは殆ほとんどあるまい……處ところで氣きを着つけるでもなく、唯吉たゞきちが二階にかいから見知越みしりごしな、時々とき〲の其その家いへの主あるじも、誰たれが何時いつのだか目紛めまぎらしいほど、ごつちやに成なつて、髯ひげやら前垂まへだれやら判然はんぜんと區別くべつが着つかぬ。

其その中なかに、今いまも忘わすれないのは、今夜こんや口くちを利きいて居ゐる此この美人びじんであつた。……

唯吉たゞきちが雇やとつておく、お媼ばさんの説せつでは、何どうも人ひとの妾めかけ、かくし妻づまであらうと云いつた……其それが引越ひつこして來きた當時たうじ、女主人をんなあるじと云いふにつけて、其その庭にはの片隅かたすみに植うわつた一本ひともとの柳やなぎの樹き、これが散ちると屋根やね、もの干越ほしごしに、蓑みのを着きて渡わたりたい銀河あまのがはのやうに隅田川すみだがはが見みえるのに、葉はが茂しげる頃ころは燕つばくろの羽はほどの帆ほも、ために遮さへぎられて、唯吉たゞきちの二階にかいから隱かくれて行ゆく。……對手あひてが百日紅さるすべりだと燒討やきうちにも及およぶ處ところ、柳やなぎだけに不平ふへいも言いへぬが、口惜くちをしくない事ことはなかつた――其それさへ、何なんとなく床ゆかしいのに、此この邊あたりにしては可かなり廣ひろい、其その庭にはに石燈籠いしどうろうが据すわつたあたりへ、巴ともゑを崩くづしたやうな、たゝきの流ながれを拵こしらへて、水みづをちよろ〱と走はしらした……其それも、女主人をんなあるじの、もの數寄ずきで……

兩方りやうはうのふちを挾はさんで、雜草ざつさうを植込うゑこんだのが、やがて、蚊帳かやつり草ぐさになり、露草つゆくさになり、紅蓼べにたでになつて、夏なつのはじめから、朝露あさつゆ、夕露ゆふつゆ、……夜よるは姿すがたが隱かくれても、月つきに俤おもかげの色いろを宿やどして、蟲むしの聲こゑさへ、薄うつすりと淺葱あさぎに、朱鷺ときに、其その草くさの花はなを綾あやに織おつた。……

「今度こんど裏うらの二階家にかいやへ越こして來きた人ひとは、玉川たまがはさんと云いふのだらう。」

お媼ばさんが、其その時とき……

「おや、御存ごぞんじの方かたで在いらつしやいますか。」

「知しるものかね、けれども然さうだらうと思おもふのさ。當推量あてずゐりやうだがね。」

「今度こんど、お門札かどふだを覗のぞいて見みませうでございます。」

「いや……見みない方はうが可いい、違ちがふと不可いけないから、そして、名なはお京きやうさんと云いふんだ……」

「お京きやうさま……」

「何どうだい、然さう極きめておかうぢやないか。」

「面白おもしろい事ことをおつしやいます……ひよつとかして當あたりますかも知しれません。貴方あなた、然さういたしますと、何どう云いふか御縁ごえんがおあんなさいますかも知しれませんよ。」

「先まづ、大丈夫だいぢやうぶ、女難ぢよなんはないとさ。」

こんな事ことからお媼ばさんも、去年きよねん……其その當座たうざ、かりに玉川たまがはとして置おく……其家そのいへの出入ではひりに氣きを着つけたやうだつたが、主人あるじか、旦那だんなか知しらず、通かよつて來くるのが、謹深つゝしみぶかく温つゝましやかな人物じんぶつらしくて、あからさまな夏なつに成なつても、一度ども姿すがたを見みなかつたと云いふ。

第一だいいち、二階にかいの其窓そのまどにも、階下したの縁先えんさきにも、とり〲に風情ふぜいを添そへる、岐阜提灯ぎふぢやうちんと、鐵燈籠かなどうろう、簾すだれと葭簀よしずの涼すゞしい色いろ。何どうかすると石いしの手水鉢てうづばちが、柳やなぎの影かげに青あをいのに、清きよらかな掛手拭かけてぬぐひが眞白まつしろにほのめくばかり、廊下らうかづたひの氣勢けはひはしても、人目ひとめには唯たゞ軒のきの荵しのぶ。

六

「裏うらの美うつくしいのは、旦那樣だんなさま、……坊主ばうずの持もちものでござります……」

道理だうりこそ、出入でいりを人ひとに隱かくして形かたちを見みせぬと、一晩あるばんお媼ばさんが注進顏ちうしんがほで、功てがららしく言いつた事ことを覺おぼえて居ゐる。……

臺所だいどころの狹せまい張出はりだしで、お媼ばさんは日ひが暮くれてから自分じぶんで行水ぎやうずゐを使つかつた。が、蒸暑むしあつい夜よで、糊澤山のりだくさんな浴衣ゆかたを抱だきながら、涼すゞんで居ゐると、例れいの柳やなぎの葉越はごしに影かげが射さす、五日いつかばかりの月つきに電燈でんとうは點つけないが、二階にかいを見透みとほしの表おもての縁えんに、鐵燈籠かなどうろうの燈ひばかり一ひとつ、峰みねの堂だうでも見みるやうに、何なんとなく浮世うきよから離はなれた樣子やうすで、滅多めつたに顏かほを見みせない其その女主人をんなあるじが、でも、端近はしぢかへは出でないで、座敷ざしきの中なかほどに一人ひとりで居ゐた。

其その樣子やうすが、餘所よそから歸宅かへつて、暑あつさの餘あまり、二階にかいへ遁にげて涼すゞむらしい……

「羅うすものも脱ぬいで、帶おびも解といて、水みづのやうなお襦袢じゆばんばかりで、がつかりしたやうに、持もつた團扇うちはも動うごかさないで、くの字じなりに背後うしろへ片手かたて支ついて居ゐなさる處ところ……何どうもお色いろの白しろい事こと……乳ちゝの邊あたりは其その團扇うちはで、隱かくれましたが、細ほつそりした二にの腕うでの透すいた下したに、ちらりと結むすび目めが見みえました……扱帶しごきの端はしではござりません……確たしかに帶おびでござりますね、月つきも最もう餘程よほどらしうござります……成程なるほど人目ひとめに立たちませう。

此これで以もつて、あの方かたが、一寸ちよつとも庭にはへも出でなさらない譯わけも分わかりました、おみもちでござりますよ。」

と其その時ときお媼ばさん拔衣紋ぬきえもんで、自分じぶんの下腹したはらを壓おさへて言いつた。

「其それが何どうして、坊主ばうずの持もちものだと知しれたんだらう。」

「處ところが旦那樣だんなさま、別嬪べつぴんさんが、然さうやつて、手足てあしも白々しろ〲と座敷ざしきの中なかに涼すゞんで居ゐなさいます、其その周圍まはりを、ぐる〱と……床とこの間まから次つぎの室まの簀戸よしどの方はう、裏うらから表二階おもてにかいの方はうと、横肥よこぶとりにふとつた、帷子かたびらか何なんでござりますか、ぶわ〱した衣きものを着きました坊ばうさんが、輪わをかいて𢌞まはつて居をります。其その影法師かげぼふしが、鐵燈籠かなどうろうの幽かすかな明あかりで、別嬪べつぴんさんの、しどけない姿すがたの上うへへ、眞黒まつくろに成なつて、押おしかぶさつて見みえました。そんな處ところへ誰だれが他人たにんを寄よせるものでございます。……まはりを𢌞まはつて居ゐた肥ふとつた坊ばうさんは、確たしかに、御亭主ごていしゆか、旦那だんなに違ちがひないのでございますよ。」

「はてな……其それが又また、何なんだつて、蜘蛛くもの巣すでも掛かけるやうに、變へんに周圍まはりを𢌞まはるんだ。」

「其それは貴方あなた、横よこから見みたり、縱たてから見みたり、種々いろ〱にして樂たのしみますのでございます。妾てかけなどと申まをしますものは、然さうしたものでございますとさ。」

「いや、恐おそれるぜ。」

と其それなり濟すむ。

日ひは經たち、月つきはかはつたが、暑あつさが續つゞく。分わけて雨催あまもよひで風かぜの死しんだ、羽蟲はむしの夥おびたゞしい夜よであつた。……一度ど線はりがねを曳ひいて窓まどへ出だして、ねばり着ついた蟲むしの數かずを、扱しごくほど、はたきに掛かけて拂はらひ棄すてたが、もとへ据すゑると、見みる〱うちに堆うづたかいまで、電燈でんとうのほやが黒くろく成なつて、ばら〱と落おちて、むら〱と立たち、むず〱這はふ。

餘あまり煩うるさくつて、パチンと捻ひねつて、燈ひを消けした。

曇くもつた空そらの星ほしもなし、眞黒まつくろな二階にかいの裏うらの欞子窓れんじまどで、――こゝに今いま居ゐるやうに――唯吉たゞきちが、ぐつたりして溜息ためいきを吐ついて、大川おほかはの水みづを遮さへぎる……葉はの動うごかない裏家うらやの背戸せどの、其その一本柳ひともとやなぎを、熟々つら〱凝視みつめて居ゐた事ことがあつた。

其處そこへ病上やみあがりと云いふ風采とりなり、中形ちうがたの浴衣ゆかたの清きよらかな白地しろぢも、夜よるの草葉くさばに曇くもる……なよ〱とした博多はかたの伊達卷だてまきの姿すがたで、つひぞない事こと、庭にはへ出でて來きた。其その時とき美人びじんが雪洞ぼんぼりを手てに取とつて居ゐたのである。

七

ほつれた圓髷まげに、黄金きんの平打ひらうちの簪かんざしを、照々てら〱と左插ひだりざし。くツきりとした頸脚えりあしを長ながく此方こなたへ見みせた後姿うしろすがたで、遣水やりみづのちよろ〱と燈影ひかげに搖ゆれて走はしる縁へりを、すら〱薄彩うすいろに刺繍ぬひとりの、數寄すきづくりの淺茅生あさぢふの草くさを分わけつゝ歩行ひろふ、素足すあしの褄つまはづれにちらめくのが。白々しろ〲と露つゆに輕かるく……柳やなぎの絮わたの散ちる風情ふぜい。

植うゑ添そへたのが何時いつか伸のびて、丁度ちやうど咲出さきでた桔梗ききやうの花はなが、浴衣ゆかたの袖そでを左右さいうに分わかれて、すらりと映うつつて二三輪りん、色いろにも出でれば影かげをも宿やどして、雪洞ぼんぼりの動うごくまゝ、靜しづかな庭下駄にはげたに靡なびいて、十歩ぽに足たらぬそゞろ歩行あるきも、山路やまぢを遠とほく、遙々はる〲と辿たどるとばかり視ながめ遣やる……

間まもなかつた。

さつと音おとして、柳やなぎの地摺ぢずりに枝垂しだれた葉はが、裾すそから渦うづを卷まいて黒くろみ渡わたつて、搖ゆれると思おもふと、湯氣ゆげに蒸むしたやうな生暖なまぬるい風かぜが流ながれるやうに、ぬら〱と吹掛ふきかゝつて、哄どつと草くさも樹きも煽あふつて鳴なつたが、裾すそ、袂たもとを、はつと亂みだすと、お納戸なんどの其その扱帶しごきで留とめた、前褄まへづまを絞しぼるばかり、淺葱縮緬あさぎちりめんの蹴出けだしが搦からんで、踏出ふみだす白脛しらはぎを、草くさの葉はの尖さきで危あやふく留とめて……と、吹倒ふきたふされさうに撓々たわ〱と成なつて、胸むねを反そらしながら、袖そでで雪洞ぼんぼりの灯ひをぴつたり伏ふせたが、フツと消きえるや、よろ〱として、崩折くづをれる状さまに、縁側えんがはへ、退しさりかゝるのを、空そらなぐれに煽あふつた簾すだれが、ばたりと音おとして、卷込まきこむが如ごとく姿すがたを掻消かきけす。

其その雪洞ぼんぼりの消きえた拍子ひやうしに、晃乎きらりと唯吉たゞきちの目めに留とまつたのは、鬢びんづらを拔ぬけて草くさに落おちた金簪きんかんざしで……濕しめやかな露つゆの中なかに、尾をを曳ひくばかり、幽かすかな螢ほたるの影かげを殘のこしたが、ぼう〱と吹亂ふきみだれる可厭いやな風かぜに、幻まぼろしのやうな蒸暑むしあつい庭にはに、恰あたかも曠野あれのの如ごとく瞰下みおろされて、やがて消きえても瞳ひとみに殘のこつた、簪かんざしの蒼あをい光ひかりは、柔やはらかな胸むねを離はなれて行方ゆくへも知しれぬ、……其その人ひとの人魂おにびのやうに見みえたのであつた。……同おなじ夜よの寢ねる時分じぶん、

「裏家あちらでは、今夜こんや、お産さんのやうでございます……」

と云いつた、お媼ばさんは、あとじさりに蚊帳かやへ潛もぐつた。

風かぜは凪やんでも雨あめにも成ならず……激はげしい暑あつさに寢ねられなかつた、唯吉たゞきちは曉方あけがたに成なつてうと〱するまで、垣根かきね一重ひとへの隔へだてながら、産聲うぶごゑと云いふものも聞きかなかつたのである。

「お可哀相かはいさうに……あの方かたは、昨晩ゆうべ、釣臺つりだいで、病院びやうゐんへお入はひりなすつたさうでございます。」

「やあ。産さんが重おもかつたか。」

「嬰兒あかんぼは死しんで出でましたとも申まをしますが、如何いかゞでございますか、何なにしろお氣きの毒どくでございますねえ。」

二月ふたつきばかり經たつと、婆ばあやが一人ひとり、留守るすをしたのが引越ひつこしたツ切きり、何なんとも、其それぎり樣子やうすを聞きかずに過すごす。

生死しやうしは知しらぬが、……いま唯吉たゞきちが、屋根越やねごしに、窓まどと窓まどとに相對あひたいして、もの云いふは即すなはち其その婦人をんななのである。……

「まあ、」

と美人びじんは、團扇うちはを敷居しきゐに返かへして、ふいと打消うちけすらしく、其その時とき云いふやう。

どんなに私わたしが厚顏あつかましうござんしたつて、貴方あなたに蟲むしを捕とつて、棄すてて下くださいなんぞと、そんな事ことが申まをされますものですか。

あの……」

派手はでな聲こゑながら、姿すがたばかりは愼つゝましさうに、

「そんな事ことではありません。お願ねがひと申まをしますのは……」

八

今いまは其その頼たのみと云いふのを聞きかないわけには行ゆかなく成なつた―……聞きかう、と唯吉たゞきちは胸むねを轟とゞろかす。

「何どうぞ、貴方あなた、私わたしが今夜こんや此處こゝに居をりました事ことを、誰だれにも仰有おつしやらないで下くださいまし。……唯たゞそれだけでございます。」

と輕かるく言いふ。

餘あまり仔細しさいのない事ことを、聞きいて飽氣あつけなく思おもふほど、唯吉たゞきちは尚なほ氣きに掛かゝる……昔むかしから語繼かたりつぎ言傳いひつたへる例れいによると、誰たれにも言いふ勿なと頼たのまるゝ、其その當人たうにんが……實じつは見みては成ならない姿すがたである場合ばあひが多おほい。

「はあ、誰だれにもですね。」

自分じぶんの見みたのは、と云いふ心こゝろを唯吉たゞきちは裏問うらどひかける。

「否いゝえ、それまででもないんです……誰だれにもと言いひますうちにも、差配さはいさんへは、分わけて内證ないしようになすつて下くださいまし。」

「可ようござんすとも……が、何どうしてです。」

と問返とひかへすうちにも、一層いつそう、妙めうな夢路ゆめぢを辿たどる心持こゝろもちのしたのは、其その差配さはいと云いふのは、こゝに三軒げん、鼎かなへに成なつて、例れいの柳やなぎの樹きを境さかひに、同おなじくたゞ垣かき一重ひとへ隔へだつるのみ。で、……形かたの如ごとき禿頭はげあたまが、蚊帳かやに北向きたむきにでも寢ねて居ゐると、分わけて其それは平屋ひらやであるため、二人ふたりは丁度ちやうど夢枕ゆめまくらに立たつて、高たかい所ところで、雲くもの中なかに言ことばを交かはして居ゐるやうな形かたちに成なるから。……

「御存ごぞんじの通とほり、」

と、差配さはいの棟むねの上うへの其そのためか、婦人をんなは聲こゑを密ひそめたが、電車でんしやの軋きしみも響ひゞかぬ夜更よふけ。柳やなぎに渡わたる風かぜもなし、寂然しんとして、よく聞きこえる……たゞ空そら走はしる雲くもばかり、月つきの前まへを騷さわがしい、が、最初はじめから一ひとツ一ひとツ、朗ほがらかな聲こゑが耳みゝに響ひゞくのであつた。

「此處こゝは空屋あきやに成なつて居をります……昨年さくねん住すんで居ゐましたつて最もう何なんの縁えんもありませんものが、夜中やちう、斷ことわりもなしに入はひつて參まゐりましたんですもの。知しれましては申譯まをしわけがありません……

つい、あの、通とほりがかりに貸家札かしやふだを見みましたものですから、誰方どなたもおいでなさらないと思おもひますと、何なんですか可懷なつかしくつて、」

と向むきを替かへて、團扇うちはを提さげて、すらりと立たつた。美人びじんは庭にはを差覗さしのぞく……横顏よこがほは尚なほ、くつきりと、鬢びんの毛けは艷増つやましたが、生憎あいにく草くさは暗くらかつた。

「御尤ごもつともです……あんなに丹精たんせいをなさいましたから……でも、お引越ひつこしなすつたあとでは、水道すゐだうを留とめたから、遣水やりみづは涸かれました。しかし、草くさは其そのまゝです……近頃ちかごろまでに、四五度ど、越こして來きた人ひとがありましたけれども、何どう云いふものか住着すみつきませんから、別べつに手入ていれもしないので、貴女あなたのおもの好ずきのまゝに殘のこつて居ゐます、……秋口あきぐちには、去年きよねんは、龍膽りんだうも咲さきましたよ。……露草つゆくさは今いま盛さかりです……桔梗ききやうも澤山たくさんに殖ふえました……

月夜つきよなんざ、露つゆにも色いろが染そまるやうに綺麗きれいです……お庇かげを被かうむつて、いゝ保養ほやうをしますのは、手前てまへども。

お禮心れいごころに、燈あかりを點つけておともをしませう……町まちを𢌞まはつて、門かどまでお迎むかひに參まゐつても可ようござんす……庭にはへ出でて御覽ごらんなさいませんか。

尤もつとも、雪洞ぼんぼりと云いふ、樣子やうすの可いい處ところは持合もちあはせがありません。」

とうつかり喋舌しやべる。

「まあ、よくお覺おぼえなすつて在いらつしやるわね。」

「忘わすれませんもの。」

「後生ごしやうですから、」

と衝つと戸袋とぶくろへ、立身たちみで斜なゝめに近ちかづいて、

「あの時ときの事ことはお忘わすれなすつて下くださいまし……思出おもひだしても慄然ぞつとするんでございますから……」

「うつかりして、此方こつちから透見すきみをされた、とお思おもひですか。」

「否いゝえ、可厭いやな風かぜが吹ふいたんです……そして、其その晩ばん、可恐おそろしい、氣味きみの惡わるい坊ばうさんに、忌々いま〱しい鉦かねを叩たゝかれましたから……」

唯吉たゞきちは、思おもはず、乘のつかゝつて居ゐた胸むねを引ひく。

九

婦人をんなの手てが白しろく戸袋とぶくろの端はしに見みえた……近ちかく、此方こなたを差覗さしのぞくよ。

「あの……實じつは貴方あなたが、繪ゑを遊あそばすつて事ことを存ぞんじて居をりましたものですから、……お恥はづかしうござんすわね……」

と一寸ちよつと言淀いひよどむ。

唯吉たゞきちは浮世繪うきよゑを描かくのである。

「私わたしは其その節せつ、身重みおもなんでございましたの……ですから、淺あさましい處ところを、お目めに掛かけますのが情なさけなくつて、つい、引籠ひきこもつてばかり居ゐました所ところ、何なんですか、あの晩ばんは心持こゝろもちが、多時しばらく庭にはへも出でられなからうと思おもはれましたので、密そつと露つゆの中なかを、花はなに觸さはつて歩行あるいて見みたんでございます。

生暖なまぬるい、風かぜに當あたつて、目めが、ぐら〱としましたつけ……産所さんじよへ倒たふれて了しまひました。嬰兒あかんぼは死しんで生うまれたんです。

其それも唯たゞ、苦くるしいので、何なんですか夢中むちうでしたが、今いまでも覺おぼえて居をりますのは、其時そのとき、錐きりを、貴方あなた、身節みふしへ揉込もみこまれるやうに、手足てあし、胸むね、腹はらへも、ぶる〱と響ひゞきましたのは、カン〱!と刻きざんで鳴ならす鉦かねの音おとだつたんです。

丁ちやうど後産あとざんの少すこし前まへだと、後のちに聞きいたんでございますが、參合まゐりあはせました、私わたしども主人あるじが、あゝ、可厭いやな音おとをさせる……折をりの惡わるい、……産婦さんぷの私わたしにも聞きかせともなし、早はやく退どいて貰もらはうと、框かまちの障子しやうじを開あけました。……

鉦かねを叩たゝくものは、此この貴方あなた、私わたしどもの門かどに立たつて居ゐたんですつて、」

「其その横町よこちやうの……」

「はあ、」

「何なんです……鉦かねを叩たゝくものは?」

「肥ふとつた坊主ばうずでござんしたつて、」

「えゝ?」

すると……其その婦人をんなの主人あるじと云いふのは……二階座敷にかいざしきの火ひのない中なかを、媚なまめかしい人ひとの周圍まはりを、ふら〱とまはり繞めぐつた影法師かげぼふしとは違ちがふらしい。

「忌々いま〱しいではありませんか。主人あるじが見みますと、格子戸かうしどの外そとに、黒くろで、卍まんじをおいた薄暗うすぐらい提灯ちやうちんが一ひとつ……尤もつとも一方いつぱうには、朱しゆで何なにかかいてあつたさうですけれど、其それは見みえずに、卍まんじが出でて……黄色黒きいろぐろい、あだ汚よごれた、だゞつ廣ぴろい、無地むぢの行衣ぎやうえ見みたやうなものに、鼠ねずみの腰衣こしごろもで、ずんぐり横肥よこぶとりに、ぶよ〱と皮かはがたるんで、水氣すゐきのありさうな、蒼あをい顏かほのむくんだ坊主ばうずが、……あの、居ゐたんですつて――そして、框かまちへ出でた主人あるじを見みますと、鉦かねをたゝき止やめて、朦もうとした卍まんじの影かげに立たつて居ゐました。

(何なんだ?……)

主人あるじも、容體ようだいの惡わるい病人びやうにんで、氣きが上うはずつて居ゐて突掛つゝかゝるやうに申まをしたさうです。

(騷々さう〲しい!……急病人きふびやうにんがあるんだ、去いつて下ください。)

然さうしますと、坊ばうさんが、蒼黄色あをきいろに、鼠色ねずみいろの身體からだを搖ゆすつて、唾つばを一杯いつぱい溜ためたやうな、ねば〱とした聲こゑで、

(其その病人びやうにんがあるので𢌞まはるいの……)

コンと一ひとつ敲たゝいて見みせて、

(藥賣くすりうりぢやに買かひないな、可ええ所ところへ來きたでや。)

ツて、ニヤリと茶色ちやいろの齒はを見みせて笑わらつたさうです……

(可いい所ところとは何なんだ無禮ぶれいな、急病人きふびやうにんがあると云いふのに、)

と極きめつけますとね。……

(お身樣みさまが赫かツと成なつたで、はて、病人びやうにんの症やまひも知しれた……血ちが上あがるのでや……)

と頷うなづいて、合點々々がつてん〱をするんですつて、」

唯吉たゞきちは、こゝで聞きくさへ堪こらへられぬばかりに思おもふ。

「不埒ふらちな奴やつです……何なにものです。」

「まあ、お聞ききなさいまし……」

十

「主人あるじは、むら〱と氣きが苛いれて、早はやく追退おひのけようより、何なにより、

(何なんだ、何なんだ、お前まへは。)

と急込せきこむのが前まへに立たつ。

(弘法大師こうぼふだいし……)

カーンと又また鉦かねを叩たゝいて、

(御夢想ごむさうの藥くすりぢやに……何なんの病疾やまひも速すみやかに治なほるで、買かひないな……丁ちやうど、來合きあはせたは、あなた樣さまお導みちびきぢや……仇あだには思おもはれますな。)

(要いらないよ。)

(爲ために成ならぬが、)

と、額ひたひに蜘蛛くものやうな皺しわを寄よせて、上目うはめで、じろりと見みましたつて、

(お導みちびきで來合きあはせた藥くすりを買かはいでは、病人びやうにんが心許こゝろもとない。お頂いたゞきなされぬと、後悔こうくわいをされうが。)

(死しんでも構かまはん、早々さつさと歸かへれ。)

(斃おちても可ええか……はあ、)

と呆あきれたやうに大おほきな口くちを開あけると、卍まんじを頬張ほゝばつたらしい、上顎うはあご一杯いつぱい、眞黒まつくろに見みえたさうです。

(是非ぜひに及およばん事ことの。)

カン〱と鉦かねを叩たゝきながら、提灯ちやうちんの燈ひを含ふくみましたやうに、鼠ねずみの腰衣こしごろもをふは〱と薄明うすあかるく膨ふくらまして、行掛ゆきがけに、鼻はなの下したを伸のばして、足あしを爪立つまだつて、伸上のびあがつて、見返みかへつて、其それなり町まちの角かどを切きれましたつて。

(是非ぜひに及およばぬ……)

可厭いやな辻占つじうらでしたわねえ。」

と俯向うつむいて一寸ちよつと言ことばが途絶とだえ……

「やがて、其その後あとから、私わたしは身體からだを載のせられて、釣臺つりだいで門もんを出でました。

大橋邊おほはしへんの、病院びやうゐんに參まゐります途中とちう……私わたしは顏かほを見みられるのが辛つらうござんしたから、」

ともの思おもふ状さまに雲くもを見みた。雲くもは、はツ〱と、月つきが自分じぶんで吐出はきだすやうに、むら〱と白しろく且かつ黒くろい。

「お星樣ほしさま一ひとツ見みえないほど、掻卷かいまきを引被ひつかぶつて、眞暗まつくらに成なつて行いつたんです。

(清正公樣せいしやうこうさまの前まへだよ……煎豆屋いりまめやの角かど、唐物屋たうぶつやの所ところ……水天宮樣すゐてんぐうさまの横通よこどほり………)

と所々ところ〲で、――釣臺つりだいに附ついてくれました主人あるじが聲こゑを掛かけて教をしへますのを、あゝ、冥途めいどへ行ゆく路みちも、矢張やつぱり、近所きんじよだけは知しつた町まちを通とほるのかと思おもひました。

私わたしは死しにさうな心持こゝろもち。

そして、路筋みちすぢを聞きかしてくれます、主人あるじの聲こゑのしません間あひだは、絶たえず蟲むしが鳴なきましたつけ。前まへに、身體からだの一大事いちだいじと云いつた時ときに、あの鉦かねを聞きかされましたのが耳みゝに附ついて……蟲むしの中なかでも、あれが、鉦かねたゝきと思おもふばかりで、早鐘はやがねを撞つきますやうな血ちが胸むねへ躍をどつたんです……

又また……後あとで主人あるじに聞ききますと……釣臺つりだいが出でますと、それへ着ついた提灯ちやうちんの四五尺しやく前まへへ、早はや、あの、卍まんじをかいたのが、重かさなつて點ともれて、すつ〱と先さきを切きつて歩行あるいたんださうです。」

「其そ、其その坊主ばうずが、」

「えゝ……遠とほくへも行ゆかないで、――藥くすりを買かはなかつた仇あだをしに――待受まちうけてでも居ゐたのでせう……直ぢき二丁目にちやうめの中程なかほどから、然さうやつて提灯ちやうちんが見みえ出だしたさうですが、主人あるじかつて、忌いまはしからうが何どうしようが、藥賣くすりうりが町まちを歩行あるくのに、故障こしやうを言いへるわけはありません。

何なんだつて、又また……大病人たいびやうにんを釣臺つりだいでかゝへて居ゐて、往來わうらい、喧嘩けんくわも出來できない義理ぎりですから、睨着にらみつけて其そのまんま歩行あるいたさうです。

たゞ、あの、此處こゝは、何處どこ……其處そこ……と私わたしに言いつて聞きかしました時分じぶんだけは、途切とぎれたやうに其その提灯ちやうちんが隱かくれましたつて。清正公樣せいしやうこうさまの前まへ、煎豆屋いりまめやの角かど、唐物屋たうぶつやの所ところ、水天宮樣すゐてんぐうさまの裏通うらどほり、とそツち此方こつちで、一寸々々ちよい〱見みえなく成なつたらしいんですが、……」

十一

「すぐに、卍まんじが出でて、ふつと前まへへ通とほつて行ゆきます。最もう、其それを見みると、口惜くやしさが胸むねを縛しばつて、咽喉のどを詰つめて、主人あるじは口くちも利きけなかつたさうなんですよ。

其主人そのあるじの默だまつてますうちは、私わたしが鉦かねたゝきに五體ごたいを震ふるはす時ときでした……尤もつとも、坊主ばうずは、唯たゞぼんやりと鼠ねずみの腰法衣こしごろもでぶら〱と前まへへ立たちますばかり、鉦かねは些ちつとも鳴ならさなかつたつて事ことでした……

カン〱カン〱と、不意ふいに目口めくちへ打込うちこまれるやうに響ひゞきました。

私わたしは氣きが遠とほくなつて了しまつたんです。

口くちへ冷つめたいものが入はひつて、寢臺ねだいの上うへに居ゐるのが分わかりましたつけ……坊主ばうずが急きふに鉦かねを鳴ならしたのは、丁ちやうど、釣臺つりだいが病院びやうゐんの門もんを入はひる時ときだつたさうです。

其その門もんが、又また……貴方あなた、表おもてでもなければ潛くゞりでもなくつて、土塀どべいへついて一𢌞ひとまはり𢌞まはりました、大おほきな椎しひの樹きがあります、裏門うらもんで木戸口きどぐちだつたと申まをすんです。

尤もつとも、二時じ過すぎに參まゐつたんですから、門もんも潛くゞりも閉しまつて居ゐて、裏うらへ𢌞まはつたも分わかりましたが、後のちに聞きけば何どうでせう……其その木戸きどは、病院びやうゐんで、死しにました死骸しがいばかりを、密そつと内證ないしようで出だします、其そのために、故わざと夜中やちうに明あけとくんですつて、不淨門ふじやうもん!……

隨分ずゐぶんですわねえ。ほゝゝほ、」

と寂さびしい笑顏ゑがほが、戸袋とぶくろへひつたりついて、ほの白しろく此方こなたを覘のぞいて打傾うちかたむいた。

唯吉たゞきちは又また慄然ぞつとした。

「坊主ばうずは何どうしました。」

「心得こゝろえたもの、貴方あなた……」

と聲こゑが何故なぜか近ちかく來きて、

「塀へいから押おつかぶさりました、其その大おほきな椎しひの樹きの下したに立たつて、半紙はんし四よつ切ぎりばかりの縱長たてながい――膏藥かうやくでせう――其それを提灯ちやうちんの上うへへ翳かざして、はツはツ、」

と云いふ、婦人をんなは息いきだはしいやうで、

「と黒くろい呼吸いきを吐掛はきかけて居ゐたんださうです……釣臺つりだいが摺違すれちがつて入はひります時とき、びたりと、木戸きどの柱はしらにはつて、上うへを一ひとつ蒼黄色あをきいろい、むくんだ掌てのひらで撫なでましたつて……

悄乎しよんぼりと其處そこへ入はひると、其そのトタンに、カン〱カン。

釣臺つりだいは、しつかり蓋ふたをした、大おほきな古井戸ふるゐどの側そばを通とほつて居ゐました。

餘あんまりですから、主人あるじが引返ひつかへさうとした時ときです……藥賣くすりうりの坊主ばうずは、柄えのない提灯ちやうちんを高々たか〲と擧あげて、椎しひの樹きの梢越こずゑごしに、大屋根おほやねでも見みるらしく、仰向あをむいて、

(先まづは送おくつたぞ……)

と聲こゑを掛かけると、何處どこかで、

(御苦勞ごくらう。)

と一言ひとこと、婦をんなの聲こゑで言いひましたさうです……

おやと思おもふと、灰色はひいろの扉ひらきが開あいて、……裏口うらぐちですから、油紙あぶらがみなんか散ちらかつた、廊下らうかのつめに、看護婦かんごふが立たつて、丁ちやうど釣臺つりだいを受取うけとる處ところだつたんですつて。

主人あるじは、此この方はうへ氣きを取とられました、が、其それつ切きり、藥賣くすりうりは影かげも形かたちも見みえません、あの……」

と一息ひといき。で、

「此これは、しかし私わたしが自分じぶんで見みたのではありません。其それから、私わたしは私わたしの方はうで、何なにか、あの、ござんした。

變へんな事ことが。

其その時ときに、次手ついでに主人あるじが話はなして聞きかせたんです……私わたしはたゞ其その鉦かねの音ねが耳みゝについて耳みゝに着ついて、少すこしでも、うと〱としようとすれば、枕まくらに撞木しゆもくを當あてて、カン〱と鳴なるんですもの……昔むかし、うつゝ責ぜめとか申まをすのに、どら、ねう鉢ばち、太鼓たいこを一齊いちどきに敲たゝくより、鉦かねばかりですから、餘計よけいに脈々みやく〱へ響ひゞいて、貫とほつて、其その苦くるしさつたら、日ひに三度ども注射ちうしやの針はりを刺さされます、其その痛いたさなんぞなんでもない!」

十二

「貴方あなた……そんなに切せつなくつたつて、一寸ちよつと寢返ねがへり所どころですか、醫師せんせいの命令いひつけで、身動みうごきさへ成なりません。足あしは裾すそへ、素直まつすぐに揃そろへたつ切きり、兩手りやうては腋わきの下したへ着つけたつ切きり、で熟じつとして、たゞ見舞みまひが見みえます、扉ひらきの開あくのを、便たよりにして、入口いりくちの方はうばかり見詰みつめて見みました。

實家さとの、母親はゝおや、〔「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」〕あねなんぞが、交かはる〲附ついて居ゐてくれます他ほかに、其その扉ひらきばかり瞻みつめましたのは、人懷ひとなつかしいばかりではないのです……續つゞいて二人ふたり、三人さんにんまで一時いちどきに入はひつて來くれば、屹きつと其それが、私わたしの臨終りんじうの知しらせなんでせうから、すぐに心掛こゝろがかりのないやうに、遺言ゆゐごんの眞似まねごとだけもしませうと、果敢はかないんですわねえ……唯たゞそればかりを的まとのやうにして目めを睜みはつて居ゐたんですよ。

然さうしますとね、苦くるしい中なかにも、氣きが澄すむつて言いふんでせう……窓まども硝子がらすも透通すきとほつて、晴切はれきつた秋あきの、高たかい蒼空あをぞらを、も一ひとつ漉こした、それは貴方あなた、海うみの底そこと云いつて可いいか何なんと申まをして可いいんでせう、寒かんの月つきの底そこへ入はひつて、白しろく凍こほつたやうにも思おもへます。玲瓏れいろうつて云いふんですか、自分じぶんの手ても、腕うでも、胸むねなんぞは乳ちゝのなり、薄掻卷うすかいまきへすつきりと透すいて、映うつつて、眞綿まわたは吉野紙よしのがみのやうに血ちを壓おさへて、骨ほねを包つゝむやうなんです。

清々すが〱しいの、何なんのつて、室内しつないには塵ちり一ひとツもない、あつても其それが矢張やつぱり透通すきとほつて了しまふんですもの。壁かべは一面いちめんに玉たまの、大姿見おほすがたみを掛かけたやうでした、色いろは白しろいんですがね。

ト最もう、幾日いくにちだか、晝ひるだか夜よるだか分わかりません、けれども、ふつと私わたしの寢臺ねだいの傍そばに坐すわつて居ゐる……見馴みなれない人ひとがあつたんです。」

「えゝ、何なんですつて、」

と思おもはず聲こゑを出だして、唯吉たゞきちは窓まどから頸くびを引込ひつこめた。

「私わたしは傍目わきめも觸ふらないで、瞳ひとみを凝じつと撓ためて視みたんですが、つひぞ覺おぼえのない人ひとなんです……

四十七八、五十ぐらゐにも成なりませうか、眉毛まゆげのない、面長おもながな、仇白あだじろい顏かほの女をんなで、頬骨ほゝぼねが少すこし出でて居ゐます。薄うすい髮かみを結むすび髮がみに、きちんと撫なでつけて、衣紋えもんをすつと合あはせた……あの、其その襟えりが薄黄色うすきいろで、而そして鼠ねずみに藍あゐがかつた、艷々つや〱として底光そこびかりのする衣服きものに、何なんにもない、白しろい、丸拔まるぬきの紋着もんつきを着きて、幅はゞの狹せまい黒繻子くろじゆすらしい帶おびを些ちと低ひくめに〆しめて、胸むねを眞直まつすぐに立たてて、頤おとがひで俛向うつむいて、額越ひたひごしに、ツンとした權けんのある鼻はなを向むけて、丁ちやうど、私わたしの左ひだりの脇腹わきばらのあたりに坐すわつて、あからめもしないと云いつた風ふうに、ものも言いはなければ、身動みうごきもしないで、上うへから、私わたしの顏かほを見詰みつめて居ゐるぢやありませんか。

其それが貴方あなた……變へんな事ことには、病室びやうしつで、私わたしの寢臺ねだいの上うへに、然さうやつて仰向あをむけに寢ねて居ゐますんでせう。左ひだりの脇腹わきばらのあたりに坐すわりました、其その女性をんなの膝ひざは、寢臺ねだいの縁ふちと、すれ〱の所ところに、宙ちうにふいと浮上うきあがつて居ゐるのですよ。」

唯吉たゞきちは押默おしだまつた。

「……恁かう、然さまで骨々ほね〲しう痩やせもしない兩手りやうてを行儀ぎやうぎよく膝ひざの上うへに組くんだんですが、其その藍あゐがかつた衣服きものを膝頭ひざがしらへするりと、掻込かいこみました、褄つまが揃そろつて、其その宙ちうに浮ういた下したの床ゆかへ、すつと、透通すきとほるやうに長々なが〱と落おちて居ゐるんです。

朝あさと思おもへば朝あさ、晝ひる、夜よる、夜中よなか、明方あけがた、もうね、一度ど其それが見みえましてから、私わたしの覺おぼえて居ゐますだけは、片時かたときも、然さうやつて、私わたしの顏かほを凝視みつめたなり、上下うへしたに、膝ひざだけ摺ずらさうともしないんです。

可厭いやで、可厭いやで、可厭いやで。何なんとも、ものにたとへやうがなかつたんですが、其その女性をんなの事ことに付ついて、何なにか言いはうとすると、誰だれにも口くちが利きけません。……

身體からだが釘くぎづけに成なつたやうなんでせう。

唯たゞ其その中なかにも、はじめて嬉うれしさを知しりましたのは、私わたしたち婦をんなの長ながい黒髮くろかみです……白しろい枕まくらに流ながれるやうに掛かゝりましたのが、自分じぶんながら冷々ひや〱と、氷こほりを伸のばして敷しいたやうで、一條ひとすぢでも風かぜに縺もつれて來きますのを、舌したの先さきで吸寄すひよせますと……乾かわいた口くちが涼すゞしく成なつて、唇くちびるも濡ぬれたんですから。」

十三

「氷嚢ひようなうや、注射ちうしやより、たゞ髮かみの冷つめたいのが、きつけに成なつて、幾度いくたびも、甦よみがへり、甦よみがへり、甦よみがへる度たびに、矢張やはり同おなじ所ところに、ちやんと膝ひざに手てを組くんで見みて居ゐます。

何なにか知しりませんけれども、幾いくらも其處等そこいらに居ゐるものの、不斷ふだんは目めに見みえない、此この空氣くうきに紛まぎれて隱かくれて居ゐるのが、然さうして塵ちりも透通すきとほるやうな心持こゝろもちに成なつたので、自分じぶんに見みえるのだらうと思おもひました。

現在げんざい、居ゐるのに、看護婦かんごふさんにも、誰だれの目めにも遮さへぎりません……何どうかすると、看護婦かんごふさんの白しろい姿すがたが、澄すまして、其その女性をんなの、衣服きものの中なかを歴々あり〱と拔ぬけて歩行あるいたんです。

五日目いつかめです……後あとで知しれました。

其その朝あさです。

黒髮くろかみの又また冷つめたさが、染々しみ〲と嬉うれしかつた時ときでした。

(お前まへ。)

と其その女性をんなが、其そのまゝ、凝視みつめたなりで口くちを利ききました。」

「えゝ、其その何なにかが?」

「今いまでも聲こゑさへ忘わすれませんわ。

(お前まへは澁太しぶといの……先まづ餘所よそへ去いにます。)

ツて、じろりと一目ひとめ見みて、颯さつと消きえました。……何處どこへ參まゐつたか分わかりません。

午前ごぜん、囘診くわいしんにおいでなすつた醫師せんせいが、喫驚びつくりなさいました。不思議ふしぎなくらゐ、其その時ときから脈みやくがよく成なつたんです……

其その晩ばん、翌朝あくるあさと、段々だん〱、薄紙うすがみを剥はぐやうでせう。

まあ、此この分ぶんなら助たすかります。實じつはあきらめて居ゐたんだツて、醫師せんせいもおつしやいます。あの室へやは、今夜こんやだ、今夜こんやだ、と方々はう〲の病室びやうしつで、然さう言いつたのを五日いつか續つゞけて、附添つきそひの、親身しんみのものは聞きいたんですつて。

然さうしますとね……私わたしの方はうが見直みなほしました二日目ふつかめの夜中よなかです……隣となりの室へやにおいでなすつた御婦人ごふじんの、私わたしと同おなじ病氣びやうきでした。其それは、此方こちらとは違ちがつて、はじめから樣子やうすのよかつたのが、急きふに變へんがかはつておなくなりになりました。死骸しがいは、あけ方がたに裏門うらもんを出でて行ゆきました。

眞まことに、罪つみな、濟すまない事ことぢやあるけれども、同一おなじ病人びやうにんが枕まくらを並ならべて伏ふせつて居ゐると、どちらかに勝かちまけがあるとの話はなし。壁かべ一重ひとへでも、おんなじ枕まくら。お隣となりの方かたは身代みがはりに立たつて下くだすつたやうなものだから、此方こちらが治なほつたら、お墓はかを尋たづねて、私わたしも參まゐる、お前まへも一所いつしよに日參につさんしようね。

と〔「女+(「第-竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」〕あねが云いつてくれるんです。

最もう、寢ねながら私わたしは、兩手りやうてを合あはせて囘向ゑかうをしました。

日ひに増まし……大丈夫だいぢやうぶと云いふ時ときに、主人あるじが、鉦かねたゝきの事ことから、裏門うらもんを入はひつた事ことなど話はなしましたツけ、――心こゝろも確たしかで、何なんにも氣きに掛かゝらないほど、よく成なつたんです。

髮かみを結むすんでもらひました、こんなに……」

と、優やさしく櫛卷くしまきに手てを觸ふれて、嬉うれしらしく云いつたが、あど氣けなく、而そして、かよわい姿すがたが、あはれに見みえた。

「朝あさ、牛乳ぎうにうを飮のんで、涼すゞしく、のんびりとして、何なんとなく、莞爾にこ〱して一人ひとりで居ゐました。

(おぎい、おぎい、)

ツて聲こゑがします……

あゝ、明方あけがたにお産さんがあつた。

おなくなんなすつた室へやの、次つぎの室へやはあいて居ゐて、其その次つぎの室へやに、十八におなんなさる……初産うひざんの方かたがあつたんです。其處そこで聞きこえるのを、うつかり、聞きいて居ゐましたツけ。

廊下らうかをばた〱と來きて、扉ひらきをあけながら、私わたしどもの看護婦かんごふさんが、

(まあ、可厭いやな、まあ可厭いやな。)

と云いひ〱、づか〱と入はひつて來きて、

(貴女あなた、一軒けん、あのお隣となりさんが、變へんなことを云いふんですよ。唯今たゞいま、何どうしたんですか、急きふに、思おもひも掛かけない、惡わるい容體ようだいにお變かはんなすつたんですがね。皆みんなが壓おさへても、震ふるへ上あがるやうに、寢臺ねだいの上うへから、天井てんじやうを見みて、あれ〱彼處あすこに變へんなものが居ゐて、睨にらみます、とつて頂戴ちやうだい、よう、とつて頂戴ちやうだい。あれ、釣下つりさがつた電燈でんとうの上うへの所ところに、變へんな物ものがつて、身悶みもだえをするんですもの。氣味きみの惡わるさツたら!)

私わたしは水みづを浴あびるやうに悚然ぞつとして、聲こゑも出でませんでした。

遁腰にげごしに、扉ひらきを半開はんびらきに壓おさへて、廊下らうかを透すかしながら、聞定きゝさだめて、

(あれ、おなくなんなすつたんだ。)

ドン、と閉しめて駈出かけだして見みに參まゐります……其その跫音あしおとと、遠とほくへ離はなれて、

(おぎい、おぎい。)

と幽かすかに成なつて行いつたのは、お産婦さんぷから引離ひきはなして、嬰兒あかんぼを連つれて退どくらしい。……

三みツ四よツの壁越かべごしですが、寢臺ねだいに私わたし、凍こほりついたやうに成なつて、熟じつと其方そのはうを見みて居ゐますと、向むきました、高たかい壁かべと、天井てんじやうの敷合しきあはせの所ところから、あの、女性をんなが、」

「えゝ、」

「見上みあげます所ところに坐すわつたなり、膝ひざへ折をつた褄つまをふはりと落おとして、青あをい衣服きものが艷々つや〱として、すつと出でて、

(お前まへ、何どうしても又また來きたよ……)

と、其處そこから膝ひざに手てを組くんで、枕許まくらもとへふら〱と、下おりたんです。其その脇わきの下したの兩方りやうはうを、背後うしろから何なんですか、大おほきな黒くろい手てが二ふたツ出でて、据すゑて持もつて居ゐたんです。

寢臺ねだいと、すれ〱の所ところへ坐すわりますと……」

ふと言淀いひよどむかして、默だまつて、美人びじんは背後うしろを振向ふりむいた。

唯吉たゞきちも我わが座敷ざしきの背後うしろを見みた。

「もう少すこし……」

と向むかうの二階にかいで、眞暗まつくらな中なかで云いふのを聞きいた。

唯吉たゞきちは確乎しかと敷居しきゐを掴つかんだ。

婦人ふじんは、はつきりと向直むきなほつて、

「あゝ……其その黒くろい大おほきな手てが、蒼あをい袖そでの下したからずツと伸のびて、わ、私わたしの咽喉のどを、」

はツと思おもつたのは、凄すさまじい音おとで、はた、と落おとした團扇うちはが、カラ〱と鳴なつて、廂屋根ひさしやねの瓦かはらを辷すべつて、草くさの中なかへ落おちたのである。

「あれ、」

と云いふ、哀かなしい聲こゑに、驚おどろいて顏かほを上あげると、呀や、影かげの如ごとく、黒くろい手てが、犇ひしと背後抱うしろだきに、其その左右さいうの腕うでを掴つかみ挫ひしぐ。此これに、よれ〱と身みを絞しぼつた、美人たをやめの眞白ましろな指ゆびが、胸むねを壓おさへて、ぶる〱と震ふるへたのである。

唯吉たゞきちは一堪ひとたまりもなく眞俯まうつぶせに突俯つゝぷした。……

夜よは蟲むしの音ねに更ふけ渡わたる。

底本 / Source edition

底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
初出:「地球 第1巻第7号」
1912(大正元)年10月
※「明《あかり》」と「燈《あかり》」、「燈《ひ》」と「灯《ひ》」、「覗《のぞ》く」と「覘《のぞ》いて」、「暗《くら》い」と「闇《くら》く」、「所《ところ》」と「處《ところ》」、「樣子《やうす》」と「容子《ようす》」、「云《い》ふ」と「言《い》ふ」、「歩行《ある》く」と「歩行《あるき》」と「歩行《ひろ》ふ」、「獨《ひと》り」と「一人《ひとり》」、「一《ひと》ツ」と「一《ひと》つ」、「背後《うしろ》」と「後《うしろ》」、「見《み》る」と「視《み》る」、「面影《おもかげ》」と「俤《おもかげ》」、「青《あを》い」と「蒼《あを》い」、「婦人《をんな》」と「女《をんな》」と「婦《をんな》」と「女性《をんな》」、「夜更《よふ》け」と「夜更《よふけ》」、「俯向《うつむ》いて」と「俛向《うつむ》いて」、「大《おほ》き」と「大《おほき》」、「梢《うら》」と「裏《うら》」、「冷《つめた》い」と「冷《つめ》たさ」、「爾時《そのとき》」と「其時《そのとき》」と「其《そ》の時《とき》」、「同《おな》じ」と「同一《おなじ》」、「向《む》き」と「向《むき》」、「涼《すゞ》しく」と「涼《すゞし》く」、「小《ちひ》さ」と「小《ちひさ》」、「確《たし》か」と「確《たしか》」、「温《つゝ》まし」と「愼《つゝ》まし」、「凝視《みつ》め」と「凝視《みつめ》」と「見詰《みつ》め」と「瞻《みつ》め」、「靜《しづか》」と「靜《しづ》か」、「退《ど》」と「退《どく》」、「明方《あけがた》」と「曉方《あけがた》」、「切《きり》」と「切《き》り」、「御尤《ごもつとも》」と「尤《もつと》も」、「藥賣《くすりうり》」と「藥賣《くすりう》り」、「症《やまひ》」と「病疾《やまひ》」、「矢張《やつぱ》り」と「矢張《やはり》」、「鳴《な》ら」と「鳴《なら》」、「傍《そば》」と「側《そば》」、「餘《あま》り」と「餘《あんま》り」、「一齊《いちどき》」と「一時《いちどき》」、「可懷《なつかし》」と「懷《なつ》かし」、「熟《じつ》と」と「凝《じつ》と」、「撫《な》で」と「撫《なで》」、「可《い》い」と「可《よ》い」の混在は、底本通りです。
※「誰」に対するルビの「だれ」と「たれ」、「鬢」に対するルビの「びん」と「びんづら」、「越《ごし》」と「越《ご》し」、「梢」に対するルビの「うら」と「こずゑ」、「些」に対するルビの「そよ」と「ちつ」と「ち」、「裏家」に対するルビの「うらや」と「あちら」、「眞個」に対するルビの「ほんとう」と「ほんと」、「悚然」に対するルビの「ぞつ」と「ぞつと」、「室」に対するルビの「へや」と「ま」、「妾」に対するルビの「めかけ」と「てかけ」、「眞白」に対するルビの「まつしろ」と「ましろ」、「美人」に対するルビの「びじん」と「たをやめ」、「形」に対するルビの「かたち」と「かた」、「夜中」に対するルビの「やちう」と「よなか」、「此方」に対するルビの「こつち」と「こなた」と「こちら」、「婦人」に対するルビの「をんな」と「ふじん」、「音」に対するルビの「おと」と「ね」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2022年8月27日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/004581_000050/

泉 鏡花「浅茅生」(旧字旧仮名)、底本『鏡花全集 巻十四』岩波書店、1942年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 004581_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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