一  鐘の聲も響いて來ぬ、風のひつそりした夜ながら、時刻も丁ど丑滿と云ふのである。……此の月から、桂の葉がこぼれ〱、石を伐るやうな斧が入つて、もつと虧け、もつと虧けると、やがて二十六夜の月に成らう、……二十日ばかりの月を、暑さに一枚しめ殘した表二階の雨戸の隙間から覗くと、大空ばかりは雲が走つて、白々と、音のない波かと寄せて、通りを一ツ隔てた、向うの邸の板塀越に、裏葉の飜つて早や秋の見ゆる、櫻の樹の梢を、ぱつと照らして、薄明るく掛るか、と思へば、颯と墨のやうに曇つて、月の面を遮るや否や、むら〱と亂れて走る……  ト火入れに燻べた、一把三錢がお定りの、あの、萌黄色の蚊遣香の細い煙は、脈々として、そして、空行く雲とは反對の方へ靡く。  其の小机に、茫乎と頬杖を支いて、待人の當もなし、爲う事ござなく、と煙草をふかりと吹かすと、 「おらは呑氣だ。」と煙が輪に成る。 「此方は忙がしい。」  と蚊遣香は、小刻を打つて畝つて、せつせと燻る。  が、前なる縁の障子に掛けた、十燭と云ふ電燈の明の屆かない、昔の行燈だと裏通りに當る、背中のあたり暗い所で、蚊がブーンと鳴く……其の、陰氣に、沈んで、殺氣を帶びた樣子は、煙にかいふいて遁ぐるにあらず、落着き澄まして、人を刺さむと、鋭き嘴を鳴らすのである。  で、立騰り、煽り亂れる蚊遣の勢を、ものの數ともしない工合は、自若として火山の燒石を獨り歩行く、脚の赤い蟻のやう、と譬喩を思ふも、あゝ、蒸熱くて夜が寢られぬ。  些との風もがなで、明放した背後の肱掛窓を振向いて、袖で其のブーンと鳴くのを拂ひながら、此の二階住の主人唯吉が、六疊やがて半ばに蔓る、自分の影法師越しに透かして視る、雲ゆきの忙しい下に、樹立も屋根も靜まりかへつて、町の夜更けは山家の景色。建續く家は、なぞへに向うへ遠山の尾を曳いて、其方此方の、庭、背戸、空地は、飛々の谷とも思はれるのに、涼しさは氣勢もなし。 「暑い。」  と自棄に突立つて、胴體ドタンと投出すばかり、四枚を兩方へ引ずり開けた、肱かけ窓へ、拗ねるやうに突掛つて、 「やツ、」と一ツ、棄鉢な掛聲に及んで、其の敷居へ馬乘りに打跨がつて、太息をほツと吐く……  風入れの此の窓も、正西を受けて、夕日のほとぼりは激しくとも、波にも氷にも成れとて觸ると、爪下の廂屋根は、さすがに夜露に冷いのであつた。  爾時、唯吉がひやりとしたのは――  此の廂はづれに、階下の住居の八疊の縁前、二坪に足らぬ明取りの小庭の竹垣を一ツ隔てたばかり、裏に附着いた一軒、二階家の二階の同じ肱掛窓が、南を受けて、此方とは向を異へて、つい目と鼻の間にある……其處に居て、人が一人、燈も置かず、暗い中から、此方の二階を、恁う、窓越しに透かすやうにして涼むらしい姿が見えた事である。―― 「や、」  たしかに、其家は空屋の筈。 二  唯さへ、思ひ掛けない人影であるのに、又其の影が、星のない外面の、雨氣を帶びた、雲に染んで、屋根づたひに茫と來て、此方を引包むやうに思はれる。  が、激しい、強い、鋭いほどの氣勢はなかつた。  闇に咲く花の、たとへば面影はほのかに白く、あはれに優しくありながら、葉の姿の、寂しく、陰氣に、黒いのが、ありとしも見えぬ雲がくれの淀んだ月に、朦朧と取留めなく影を投げた風情に見える。  雨夜の橘の其には似ないが、弱い、細りした、花か、空燻か、何やら薫が、たよりなげに屋根に漾うて、何うやら其の人は女性らしい。 「婦人だと尚ほ變だ。」  唯吉は、襟許から、手足、身體中、柳の葉で、さら〱と擽られたやうに、他愛なく、むず〱したので、ぶる〱と肩を搖つて、 「此は暑い。」  と呟くのを機會に、跨いだ敷居の腰を外すと、窓に肱を、横ざまに、胸を投掛けて居直つた。  爾時だつたが、 「え、え、」と、小さな咳を、彼方の其の二階でしたのが、何故か耳許へ朗らかに高く響いた。  其が、言を番へた、豫て約束の暗號ででもあつた如く、唯吉は思はず顏を上げて、其の姿を見た。  肩を細く、片袖をなよ〱と胸につけた、風通しの南へ背を向けた背後姿の、腰のあたりまで仄に見える、敷居に掛けた半身で帶と髮のみ艷やかに黒い。浴衣は白地の中形で、模樣は、薄月の空を行交ふ、――又少し明るく成つたが――雲に紛るゝやうであつたが、つい傍の戸袋に風流に絡まり掛つた蔦かづらが其のまゝに染まつたらしい。……そして、肩越しに此方を見向いた、薄手の、中だかに、すつと鼻筋の通つた横顏。……唯吉を見越した端に、心持、會釋に下げた頸の色が、鬢を透かして白い事!……美しさは其のみ成らず、片袖に手まさぐつた團扇が、恰も月を招いた如く、弱く光つて薄りと、腋明をこぼれた膚に透る。  褄はづれさへ偲ばるゝ、姿は小造りらしいのが、腰掛けた背はすらりと高い。  髮は、ふさ〱とあるのを櫛卷なんどに束ねたらしい……でないと、肱かけ窓の、然うした處は、高い髷なら鴨居にも支へよう、其が、やがて二三寸、灯のない暗がりに、水際立つまで、同じ黒さが、くツきりと間をおいて、柳は露に濡れつゝ濃かつた。  恁う、唯吉が、見るも思ふも瞬く間で、 「暑うござんす事……」  と其の人の聲。  此方は喫驚して默つて視める。 「貴方でもお涼みでいらつしやいますか。」  と直ぐに續けて、落着いた優しい聲なり。  何を疑つて見た處で、其のものの言ひぶりが、別に人があつて、婦と對向ひで居る樣子には思はれないので、 「えゝん。」  とつけたらしい咳を、唯吉も一つして、 「何うです……此のお暑さは。」と思切つて、言受けする。 「酷うござんすのね。」  と大分心易い言ひ方である。 「お話に成りません。……彼岸も近い、殘暑もドン詰りと云ふ處へ來て、まあ、何うしたつて云ふんでせうな。」  言ひ交はすのも窓と窓の、屋根越なれば、唯吉は上の空で、 「はて、何だらう、誰だらう……」 三 「でも、最うお涼しく成りませう……此がおなごりかも知れません。」  と靜な聲で、慰めるやうに窓から云つたが、其の一言から冷たくなりさうに、妙に身に染みて、唯吉は寂しく聞いた。  蟲の聲も頻に聞える。  其の蟋蟀と、婦の聲を沈んで聞いて、陰氣らしく、 「其だと結構です……でないと遣切れません。何うか願ひたいもんでございます。」  と言ふうちに、フト其の(おなごり)と云つたのが氣に成つて、此だと前方の言葉通り、何うやら何かがおなごりに成りさうだ、と思つて默つた。  少時人の住まない、裏家の庭で、此の折から又颯と雲ながら月の宿つた、小草の露を、搖こぼしさうな蟲の聲。 「まあ!……」  と敷居に、其の袖も帶も靡くと、ひら〱と團扇が動いて、やゝ花やかな、そして清しい聲して、 「御挨拶もしませんで……何うしたら可いでせう……何て失禮なんでせうね、貴方、御免なさいまし。」 「いゝや、手前こそ。」  と待受けたやうに、猶豫はず答へた…… 「暑さに變りはないんです、お互樣。」と唯吉は、道理らしいが、何がお互樣なのか、相應はない事を云ふ。 「お宅では、皆さんおやすみでございますか。」 「如何ですか、寢られはしますまい。が、蚊帳へは疾くに引込みました。……お宅は?」  と云つて、唯吉は屋根越に、また透かすやうにしたのである。 「…………」  婦は一寸言淀んで、 「あの……實は、貴方をお見掛け申しましたから、其の事をお願ひ申したいと存じまして、それだもんですから、つい、まだお知己でもございませんのに、二階の窓から濟みませんねえ。」 「何、貴女、男同士だ、と何うかすると、御近所づから、町内では錢湯の中で、素裸で初對面の挨拶をする事がありますよ……」 「ほゝ。」  と唇に團扇を當てて、それなり、たをやかに打傾く。  唯吉も引入れられたやうに笑ひながら、 「串戲ぢやありません、眞個です。……ですから二階同士結構ですとも。……そして、私に……とおつしやつて、貴女、何でございます……御遠慮は要りません。」 「はあ……」 「何でございます。」 「では、お頼まれなすつて下さいますの。」 「承りませう。」  と云つたが、窓に掛けた肱が浮いて、唯吉の聲が稍々忙しかつた。 「貴方、可厭だとおつしやると、私、怨むんですよ。」 「えゝ。」  と、一つあとへ呼吸を引いた時、雲が沈んで、蟋蟀の聲、幻に濃く成んぬ。 「……可厭な蟲が鳴きます事……」  と不、獨言のやうに、且つ何かの前兆を豫め知つたやうに女が言ふ。 「可厭な蟲が鳴きます?……」と唯吉は釣込まれて、つい饒舌つた。  が、其處に、又此處に、遠近に、草あれば、石あれば、露に喞く蟲の音に、未だ嘗て可厭な、と思ふはなかつたのである。 「貴女、蟋蟀がお嫌ひですか。」  と、うら問ひつゝ、妙な事を云ふぞと思ふと、うつかりして居たのが、また悚然とする…… 四  雲が衝と離れると、月の影が、對うの窓際の煤けた戸袋を一間、美人の袖を其處に縫留めた蜘蛛の巣に、露を貫いたが見ゆるまで、颯と薄紙の靄を透して、明かに照らし出す、と見る間に、曇つて、また闇くなり行く中に、もの越は、蟲の音よりも澄んで聞えた。 「否、つゞれさせぢやありません。蟋蟀は、私は大すきなんです。まあ、鳴きますわね……可愛い、優しい、あはれな聲を、誰が、貴方、殿方だつて……お可厭ではないでせう。私のやうなものでも、義理にも、嫌ひだなんて言はれませんもの。」 「ですが、可厭な蟲が鳴いてる、と唯今伺ひましたから。」 「あの、お聞きなさいまし……一寸……まだ外に鳴いて居る蟲がござんせう。」 「はあ、」  と唯吉は、恰もいひつけられたやうに、敷居に掛けた手の上へ、横ざまに耳を着けたが、可厭な、と云ふは何の聲か、其は聞かない方が望ましかつた。 「遠くに梟でも啼いて居ますか。」 「貴方、蟲ですよ。」 「成程、蟲と梟では大分見當が違ひました。……續いて餘り暑いので、餘程茫として居るやうです。失禮、可厭なものツて、何が鳴きます。」 「あの、きり〱きり〱、褄させ、てふ、肩させ、と鳴きます中に、草ですと、其の底のやうな處に、露が白玉を刻んで拵へました、寮の枝折戸の銀の鈴に、芥子ほどな水鷄が音づれますやうに、ちん、ちん……と幽に、そして冴えて鳴くのがありませう。」 「あゝ……近頃聞いて覺えました……鉦たゝきだ、鉦たゝきですね。や、あの聲がお嫌ひですかい。」 「否、」  と壓へる、聲が沈んで、 「聲が嫌ひなのではありません。不厭などころではないんですが、名を思ふと、私は悚然とします……」  と言つた。  其の氣を受けたか、唯吉は一息に身體中總毛立つた。 「だつて、其だつて、」  と力が籠つて、 「可哀さうな、氣の毒らしい、あの、しをらしい、可愛い蟲が、何にも知つた事ではないんですけれど、でも私、鉦たゝきだと思ひますだけでも、氷で殺して、一筋づゝ、此の髮の毛を引拔かれますやうに……骨身に應へるやうなんです……蟲には濟まないと存じながら……眞個に因果なんですわねえ。」  と染々言ふ。  唯吉は敷居越に乘出しながら、 「何か知りませんが、堪らないほど可厭なお心持らしく伺はれますね……では、大抵分りました……手前にお頼みと云ふのは、あの……ちん、ちんの聞えないやうに、蟲を捕へて打棄るか、何うにかしてくれろ、と云ふんでせう……と其奴は一寸困りましたな。其方の……貴女のお庭に、ちよろ〱流れます遣水のふちが、此の頃は大分茂りました、露草の青いんだの、蓼の花の眞赤なんだの、美しくよく咲きます……其の中で鳴いて居るらしいんですがね。……  蟋蟀でさへ、其の蟲は、宛然夕顏の種が一つこぼれたくらゐ小くつて、なか〱見着かりませんし、……何うして掴まりつこはないさうです……貴女がなさいますやうに、雪洞を點けて探しました處で、第一、形だつて目に留るんぢや、ありますまい。」  と唯吉もこゝで打解けたらしく然う云つた。  今は、容子だけでも疑ふ處はない……去年春の半ば頃から、横町が門口の、其の數寄づくりの裏家に住んだ美人である。  其の年の夏が土用に入つて、間もなく……仔細あつて……其家には居なくなつた筈だと思ふ。 五  庭は唯垣一重、二階は屋根續きと云つても可い、差配も一つ差配ながら、前通りと横町で、引越蕎麥のおつき合の中には入つて居らぬから、内の樣子は一寸分らぬ。  殊に其の家は、風通しも可、室取りも可、造作、建具の如きも、こゝらに軒を並べた貸家とは趣が違つて、其に家賃もかつかうだと聞くのに……不思議に越して來るものが居着かない。  入るか、と思ふと出る、塞がつたと思へば空く。半月、一月、三月、ものの半年も住馴れたのは殆どあるまい……處で氣を着けるでもなく、唯吉が二階から見知越な、時々の其の家の主も、誰が何時のだか目紛らしいほど、ごつちやに成つて、髯やら前垂やら判然と區別が着かぬ。  其の中に、今も忘れないのは、今夜口を利いて居る此の美人であつた。……  唯吉が雇つておく、お媼さんの説では、何うも人の妾、かくし妻であらうと云つた……其が引越して來た當時、女主人と云ふにつけて、其の庭の片隅に植わつた一本の柳の樹、これが散ると屋根、もの干越に、蓑を着て渡りたい銀河のやうに隅田川が見えるのに、葉が茂る頃は燕の羽ほどの帆も、ために遮られて、唯吉の二階から隱れて行く。……對手が百日紅だと燒討にも及ぶ處、柳だけに不平も言へぬが、口惜くない事はなかつた――其さへ、何となく床しいのに、此の邊にしては可なり廣い、其の庭に石燈籠が据つたあたりへ、巴を崩したやうな、たゝきの流を拵へて、水をちよろ〱と走らした……其も、女主人の、もの數寄で……  兩方のふちを挾んで、雜草を植込んだのが、やがて、蚊帳つり草になり、露草になり、紅蓼になつて、夏のはじめから、朝露、夕露、……夜は姿が隱れても、月に俤の色を宿して、蟲の聲さへ、薄りと淺葱に、朱鷺に、其の草の花を綾に織つた。…… 「今度裏の二階家へ越して來た人は、玉川さんと云ふのだらう。」  お媼さんが、其の時…… 「おや、御存じの方で在らつしやいますか。」 「知るものかね、けれども然うだらうと思ふのさ。當推量だがね。」 「今度、お門札を覗いて見ませうでございます。」 「いや……見ない方が可い、違ふと不可いから、そして、名はお京さんと云ふんだ……」 「お京さま……」 「何うだい、然う極めておかうぢやないか。」 「面白い事をおつしやいます……ひよつとかして當りますかも知れません。貴方、然ういたしますと、何う云ふか御縁がおあんなさいますかも知れませんよ。」 「先づ、大丈夫、女難はないとさ。」  こんな事からお媼さんも、去年……其の當座、かりに玉川として置く……其家の出入りに氣を着けたやうだつたが、主人か、旦那か知らず、通つて來るのが、謹深く温ましやかな人物らしくて、あからさまな夏に成つても、一度も姿を見なかつたと云ふ。  第一、二階の其窓にも、階下の縁先にも、とり〲に風情を添へる、岐阜提灯と、鐵燈籠、簾と葭簀の涼しい色。何うかすると石の手水鉢が、柳の影に青いのに、清らかな掛手拭が眞白にほのめくばかり、廊下づたひの氣勢はしても、人目には唯軒の荵。 六 「裏の美しいのは、旦那樣、……坊主の持ものでござります……」  道理こそ、出入りを人に隱して形を見せぬと、一晩お媼さんが注進顏で、功らしく言つた事を覺えて居る。……  臺所の狹い張出しで、お媼さんは日が暮れてから自分で行水を使つた。が、蒸暑い夜で、糊澤山な浴衣を抱きながら、涼んで居ると、例の柳の葉越に影が射す、五日ばかりの月に電燈は點けないが、二階を見透の表の縁に、鐵燈籠の燈ばかり一つ、峰の堂でも見るやうに、何となく浮世から離れた樣子で、滅多に顏を見せない其の女主人が、でも、端近へは出ないで、座敷の中ほどに一人で居た。  其の樣子が、餘所から歸宅つて、暑さの餘り、二階へ遁げて涼むらしい…… 「羅も脱いで、帶も解いて、水のやうなお襦袢ばかりで、がつかりしたやうに、持つた團扇も動かさないで、くの字なりに背後へ片手支いて居なさる處……何うもお色の白い事……乳の邊は其の團扇で、隱れましたが、細りした二の腕の透いた下に、ちらりと結び目が見えました……扱帶の端ではござりません……確かに帶でござりますね、月も最う餘程らしうござります……成程人目に立ちませう。  此で以て、あの方が、一寸も庭へも出なさらない譯も分りました、おみもちでござりますよ。」  と其の時お媼さん拔衣紋で、自分の下腹を壓へて言つた。 「其が何うして、坊主の持ものだと知れたんだらう。」 「處が旦那樣、別嬪さんが、然うやつて、手足も白々と座敷の中に涼んで居なさいます、其の周圍を、ぐる〱と……床の間から次の室の簀戸の方、裏から表二階の方と、横肥りにふとつた、帷子か何でござりますか、ぶわ〱した衣ものを着ました坊さんが、輪をかいて𢌞つて居ります。其の影法師が、鐵燈籠の幽な明りで、別嬪さんの、しどけない姿の上へ、眞黒に成つて、押かぶさつて見えました。そんな處へ誰が他人を寄せるものでございます。……まはりを𢌞つて居た肥つた坊さんは、確に、御亭主か、旦那に違ひないのでございますよ。」 「はてな……其が又、何だつて、蜘蛛の巣でも掛けるやうに、變に周圍を𢌞るんだ。」 「其は貴方、横から見たり、縱から見たり、種々にして樂みますのでございます。妾などと申しますものは、然うしたものでございますとさ。」 「いや、恐れるぜ。」  と其なり濟む。  日は經ち、月はかはつたが、暑さが續く。分けて雨催ひで風の死んだ、羽蟲の夥しい夜であつた。……一度線を曳いて窓へ出して、ねばり着いた蟲の數を、扱くほど、はたきに掛けて拂ひ棄てたが、もとへ据ゑると、見る〱うちに堆いまで、電燈のほやが黒く成つて、ばら〱と落ちて、むら〱と立ち、むず〱這ふ。  餘り煩くつて、パチンと捻つて、燈を消した。  曇つた空の星もなし、眞黒な二階の裏の欞子窓で、――こゝに今居るやうに――唯吉が、ぐつたりして溜息を吐いて、大川の水を遮る……葉の動かない裏家の背戸の、其の一本柳を、熟々凝視めて居た事があつた。  其處へ病上りと云ふ風采、中形の浴衣の清らかな白地も、夜の草葉に曇る……なよ〱とした博多の伊達卷の姿で、つひぞない事、庭へ出て來た。其の時美人が雪洞を手に取つて居たのである。 七  ほつれた圓髷に、黄金の平打の簪を、照々と左插。くツきりとした頸脚を長く此方へ見せた後姿で、遣水のちよろ〱と燈影に搖れて走る縁を、すら〱薄彩に刺繍の、數寄づくりの淺茅生の草を分けつゝ歩行ふ、素足の褄はづれにちらめくのが。白々と露に輕く……柳の絮の散る風情。  植ゑ添へたのが何時か伸びて、丁度咲出た桔梗の花が、浴衣の袖を左右に分れて、すらりと映つて二三輪、色にも出れば影をも宿して、雪洞の動くまゝ、靜かな庭下駄に靡いて、十歩に足らぬそゞろ歩行も、山路を遠く、遙々と辿るとばかり視め遣る……  間もなかつた。  さつと音して、柳の地摺りに枝垂れた葉が、裾から渦を卷いて黒み渡つて、搖れると思ふと、湯氣に蒸したやうな生暖い風が流れるやうに、ぬら〱と吹掛つて、哄と草も樹も煽つて鳴つたが、裾、袂を、はつと亂すと、お納戸の其の扱帶で留めた、前褄を絞るばかり、淺葱縮緬の蹴出が搦んで、踏出す白脛を、草の葉の尖で危く留めて……と、吹倒されさうに撓々と成つて、胸を反らしながら、袖で雪洞の灯をぴつたり伏せたが、フツと消えるや、よろ〱として、崩折れる状に、縁側へ、退りかゝるのを、空なぐれに煽つた簾が、ばたりと音して、卷込むが如く姿を掻消す。  其の雪洞の消えた拍子に、晃乎と唯吉の目に留つたのは、鬢を拔けて草に落ちた金簪で……濕やかな露の中に、尾を曳くばかり、幽な螢の影を殘したが、ぼう〱と吹亂れる可厭な風に、幻のやうな蒸暑い庭に、恰も曠野の如く瞰下されて、やがて消えても瞳に殘つた、簪の蒼い光は、柔かな胸を離れて行方も知れぬ、……其の人の人魂のやうに見えたのであつた。……同じ夜の寢る時分、 「裏家では、今夜、お産のやうでございます……」  と云つた、お媼さんは、あとじさりに蚊帳へ潛つた。  風は凪んでも雨にも成らず……激しい暑さに寢られなかつた、唯吉は曉方に成つてうと〱するまで、垣根一重の隔てながら、産聲と云ふものも聞かなかつたのである。 「お可哀相に……あの方は、昨晩、釣臺で、病院へお入りなすつたさうでございます。」 「やあ。産が重かつたか。」 「嬰兒は死んで出ましたとも申しますが、如何でございますか、何にしろお氣の毒でございますねえ。」  二月ばかり經つと、婆やが一人、留守をしたのが引越したツ切、何とも、其れぎり樣子を聞かずに過ごす。  生死は知らぬが、……いま唯吉が、屋根越に、窓と窓とに相對して、もの云ふは即ち其の婦人なのである。…… 「まあ、」  と美人は、團扇を敷居に返して、ふいと打消すらしく、其の時云ふやう。  どんなに私が厚顏しうござんしたつて、貴方に蟲を捕つて、棄てて下さいなんぞと、そんな事が申されますものですか。  あの……」  派手な聲ながら、姿ばかりは愼ましさうに、 「そんな事ではありません。お願ひと申しますのは……」 八  今は其の頼みと云ふのを聞かないわけには行かなく成つた―……聞かう、と唯吉は胸を轟かす。 「何うぞ、貴方、私が今夜此處に居りました事を、誰にも仰有らないで下さいまし。……唯それだけでございます。」  と輕く言ふ。  餘り仔細のない事を、聞いて飽氣なく思ふほど、唯吉は尚氣に掛る……昔から語繼ぎ言傳へる例によると、誰にも言ふ勿と頼まるゝ、其の當人が……實は見ては成らない姿である場合が多い。 「はあ、誰にもですね。」  自分の見たのは、と云ふ心を唯吉は裏問ひかける。 「否、それまででもないんです……誰にもと言ひますうちにも、差配さんへは、分けて内證になすつて下さいまし。」 「可うござんすとも……が、何うしてです。」  と問返すうちにも、一層、妙な夢路を辿る心持のしたのは、其の差配と云ふのは、こゝに三軒、鼎に成つて、例の柳の樹を境に、同じくたゞ垣一重隔つるのみ。で、……形の如き禿頭が、蚊帳に北向きにでも寢て居ると、分けて其は平屋であるため、二人は丁度夢枕に立つて、高い所で、雲の中に言を交はして居るやうな形に成るから。…… 「御存じの通り、」  と、差配の棟の上の其ためか、婦人は聲を密めたが、電車の軋も響かぬ夜更。柳に渡る風もなし、寂然として、よく聞える……たゞ空走る雲ばかり、月の前を騷がしい、が、最初から一ツ一ツ、朗な聲が耳に響くのであつた。 「此處は空屋に成つて居ります……昨年住んで居ましたつて最う何の縁もありませんものが、夜中、斷りもなしに入つて參りましたんですもの。知れましては申譯がありません……  つい、あの、通りがかりに貸家札を見ましたものですから、誰方もおいでなさらないと思ひますと、何ですか可懷くつて、」  と向を替へて、團扇を提げて、すらりと立つた。美人は庭を差覗く……横顏は尚ほ、くつきりと、鬢の毛は艷増したが、生憎草は暗かつた。 「御尤です……あんなに丹精をなさいましたから……でも、お引越しなすつたあとでは、水道を留めたから、遣水は涸れました。しかし、草は其のまゝです……近頃までに、四五度、越して來た人がありましたけれども、何う云ふものか住着きませんから、別に手入れもしないので、貴女のおもの好のまゝに殘つて居ます、……秋口には、去年は、龍膽も咲きましたよ。……露草は今盛りです……桔梗も澤山に殖えました……  月夜なんざ、露にも色が染るやうに綺麗です……お庇を被つて、いゝ保養をしますのは、手前ども。  お禮心に、燈を點けておともをしませう……町を𢌞つて、門までお迎ひに參つても可うござんす……庭へ出て御覽なさいませんか。  尤も、雪洞と云ふ、樣子の可い處は持合はせがありません。」  とうつかり喋舌る。 「まあ、よくお覺えなすつて在らつしやるわね。」 「忘れませんもの。」 「後生ですから、」  と衝と戸袋へ、立身で斜めに近づいて、 「あの時の事はお忘れなすつて下さいまし……思出しても慄然とするんでございますから……」 「うつかりして、此方から透見をされた、とお思ひですか。」 「否、可厭な風が吹いたんです……そして、其の晩、可恐い、氣味の惡い坊さんに、忌々しい鉦を叩かれましたから……」  唯吉は、思はず、乘かゝつて居た胸を引く。 九  婦人の手が白く戸袋の端に見えた……近く、此方を差覗くよ。 「あの……實は貴方が、繪を遊ばすつて事を存じて居りましたものですから、……お恥かしうござんすわね……」  と一寸言淀む。  唯吉は浮世繪を描くのである。 「私は其の節、身重なんでございましたの……ですから、淺ましい處を、お目に掛けますのが情なくつて、つい、引籠つてばかり居ました所、何ですか、あの晩は心持が、多時庭へも出られなからうと思はれましたので、密と露の中を、花に觸つて歩行いて見たんでございます。  生暖い、風に當つて、目が、ぐら〱としましたつけ……産所へ倒れて了ひました。嬰兒は死んで生れたんです。  其も唯、苦しいので、何ですか夢中でしたが、今でも覺えて居りますのは、其時、錐を、貴方、身節へ揉込まれるやうに、手足、胸、腹へも、ぶる〱と響きましたのは、カン〱!と刻んで鳴らす鉦の音だつたんです。  丁ど後産の少し前だと、後に聞いたんでございますが、參合はせました、私ども主人が、あゝ、可厭な音をさせる……折の惡い、……産婦の私にも聞かせともなし、早く退いて貰はうと、框の障子を開けました。……  鉦を叩くものは、此の貴方、私どもの門に立つて居たんですつて、」 「其の横町の……」 「はあ、」 「何です……鉦を叩くものは?」 「肥つた坊主でござんしたつて、」 「えゝ?」  すると……其の婦人の主人と云ふのは……二階座敷の火のない中を、媚かしい人の周圍を、ふら〱とまはり繞つた影法師とは違ふらしい。 「忌々しいではありませんか。主人が見ますと、格子戸の外に、黒で、卍をおいた薄暗い提灯が一つ……尤も一方には、朱で何かかいてあつたさうですけれど、其は見えずに、卍が出て……黄色黒い、あだ汚れた、だゞつ廣い、無地の行衣見たやうなものに、鼠の腰衣で、ずんぐり横肥りに、ぶよ〱と皮がたるんで、水氣のありさうな、蒼い顏のむくんだ坊主が、……あの、居たんですつて――そして、框へ出た主人を見ますと、鉦をたゝき止めて、朦とした卍の影に立つて居ました。 (何だ?……)  主人も、容體の惡い病人で、氣が上ずつて居て突掛るやうに申したさうです。 (騷々しい!……急病人があるんだ、去つて下さい。)  然うしますと、坊さんが、蒼黄色に、鼠色の身體を搖つて、唾を一杯溜めたやうな、ねば〱とした聲で、 (其の病人があるので𢌞るいの……)  コンと一つ敲いて見せて、 (藥賣りぢやに買ひないな、可え所へ來たでや。)  ツて、ニヤリと茶色の齒を見せて笑つたさうです…… (可い所とは何だ無禮な、急病人があると云ふのに、)  と極めつけますとね。…… (お身樣が赫と成つたで、はて、病人の症も知れた……血が上るのでや……)  と頷いて、合點々々をするんですつて、」  唯吉は、こゝで聞くさへ堪へられぬばかりに思ふ。 「不埒な奴です……何ものです。」 「まあ、お聞きなさいまし……」 十 「主人は、むら〱と氣が苛れて、早く追退けようより、何より、 (何だ、何だ、お前は。)  と急込むのが前に立つ。 (弘法大師……)  カーンと又鉦を叩いて、 (御夢想の藥ぢやに……何の病疾も速かに治るで、買ひないな……丁ど、來合はせたは、あなた樣お導きぢや……仇には思はれますな。) (要らないよ。) (爲に成らぬが、)  と、額に蜘蛛のやうな皺を寄せて、上目で、じろりと見ましたつて、 (お導きで來合はせた藥を買はいでは、病人が心許ない。お頂きなされぬと、後悔をされうが。) (死んでも構はん、早々と歸れ。) (斃ちても可えか……はあ、)  と呆れたやうに大きな口を開けると、卍を頬張つたらしい、上顎一杯、眞黒に見えたさうです。 (是非に及ばん事の。)  カン〱と鉦を叩きながら、提灯の燈を含みましたやうに、鼠の腰衣をふは〱と薄明るく膨らまして、行掛けに、鼻の下を伸ばして、足を爪立つて、伸上つて、見返つて、其れなり町の角を切れましたつて。 (是非に及ばぬ……)  可厭な辻占でしたわねえ。」  と俯向いて一寸言が途絶え…… 「やがて、其の後から、私は身體を載せられて、釣臺で門を出ました。  大橋邊の、病院に參ります途中……私は顏を見られるのが辛うござんしたから、」  ともの思ふ状に雲を見た。雲は、はツ〱と、月が自分で吐出すやうに、むら〱と白く且つ黒い。 「お星樣一ツ見えないほど、掻卷を引被つて、眞暗に成つて行つたんです。 (清正公樣の前だよ……煎豆屋の角、唐物屋の所……水天宮樣の横通………)  と所々で、――釣臺に附いてくれました主人が聲を掛けて教へますのを、あゝ、冥途へ行く路も、矢張り、近所だけは知つた町を通るのかと思ひました。  私は死にさうな心持。  そして、路筋を聞かしてくれます、主人の聲のしません間は、絶えず蟲が鳴きましたつけ。前に、身體の一大事と云つた時に、あの鉦を聞かされましたのが耳に附いて……蟲の中でも、あれが、鉦たゝきと思ふばかりで、早鐘を撞きますやうな血が胸へ躍つたんです……  又……後で主人に聞きますと……釣臺が出ますと、それへ着いた提灯の四五尺前へ、早や、あの、卍をかいたのが、重つて點れて、すつ〱と先を切つて歩行いたんださうです。」 「其、其の坊主が、」 「えゝ……遠くへも行かないで、――藥を買はなかつた仇をしに――待受けてでも居たのでせう……直き二丁目の中程から、然うやつて提灯が見え出したさうですが、主人かつて、忌はしからうが何うしようが、藥賣りが町を歩行くのに、故障を言へるわけはありません。  何だつて、又……大病人を釣臺でかゝへて居て、往來、喧嘩も出來ない義理ですから、睨着けて其のまんま歩行いたさうです。  たゞ、あの、此處は、何處……其處……と私に言つて聞かしました時分だけは、途切れたやうに其の提灯が隱れましたつて。清正公樣の前、煎豆屋の角、唐物屋の所、水天宮樣の裏通り、とそツち此方で、一寸々々見えなく成つたらしいんですが、……」 十一 「すぐに、卍が出て、ふつと前へ通つて行きます。最う、其を見ると、口惜しさが胸を縛つて、咽喉を詰めて、主人は口も利けなかつたさうなんですよ。  其主人の默つてますうちは、私が鉦たゝきに五體を震はす時でした……尤も、坊主は、唯ぼんやりと鼠の腰法衣でぶら〱と前へ立ちますばかり、鉦は些とも鳴さなかつたつて事でした……  カン〱カン〱と、不意に目口へ打込まれるやうに響きました。  私は氣が遠くなつて了つたんです。  口へ冷いものが入つて、寢臺の上に居るのが分りましたつけ……坊主が急に鉦を鳴らしたのは、丁ど、釣臺が病院の門を入る時だつたさうです。  其の門が、又……貴方、表でもなければ潛りでもなくつて、土塀へついて一𢌞り𢌞りました、大な椎の樹があります、裏門で木戸口だつたと申すんです。  尤も、二時過ぎに參つたんですから、門も潛りも閉つて居て、裏へ𢌞つたも分りましたが、後に聞けば何うでせう……其の木戸は、病院で、死にました死骸ばかりを、密と内證で出します、其のために、故と夜中に明けとくんですつて、不淨門!……  隨分ですわねえ。ほゝゝほ、」  と寂しい笑顏が、戸袋へひつたりついて、ほの白く此方を覘いて打傾いた。  唯吉は又慄然とした。 「坊主は何うしました。」 「心得たもの、貴方……」  と聲が何故か近く來て、 「塀から押かぶさりました、其の大な椎の樹の下に立つて、半紙四つ切りばかりの縱長い――膏藥でせう――其を提灯の上へ翳して、はツはツ、」  と云ふ、婦人は息だはしいやうで、 「と黒い呼吸を吐掛けて居たんださうです……釣臺が摺違つて入ります時、びたりと、木戸の柱にはつて、上を一つ蒼黄色い、むくんだ掌で撫でましたつて……  悄乎と其處へ入ると、其のトタンに、カン〱カン。  釣臺は、しつかり蓋をした、大な古井戸の側を通つて居ました。  餘りですから、主人が引返さうとした時です……藥賣の坊主は、柄のない提灯を高々と擧げて、椎の樹の梢越しに、大屋根でも見るらしく、仰向いて、 (先づは送つたぞ……)  と聲を掛けると、何處かで、 (御苦勞。)  と一言、婦の聲で言ひましたさうです……  おやと思ふと、灰色の扉が開いて、……裏口ですから、油紙なんか散らかつた、廊下のつめに、看護婦が立つて、丁ど釣臺を受取る處だつたんですつて。  主人は、此の方へ氣を取られました、が、其つ切り、藥賣は影も形も見えません、あの……」  と一息。で、 「此は、しかし私が自分で見たのではありません。其から、私は私の方で、何か、あの、ござんした。  變な事が。  其の時に、次手に主人が話して聞かせたんです……私はたゞ其の鉦の音が耳について耳に着いて、少しでも、うと〱としようとすれば、枕に撞木を當てて、カン〱と鳴るんですもの……昔、うつゝ責とか申すのに、どら、ねう鉢、太鼓を一齊に敲くより、鉦ばかりですから、餘計に脈々へ響いて、貫つて、其の苦しさつたら、日に三度も注射の針を刺されます、其の痛さなんぞなんでもない!」 十二 「貴方……そんなに切なくつたつて、一寸寢返り所ですか、醫師の命令で、身動きさへ成りません。足は裾へ、素直に揃へたつ切、兩手は腋の下へ着けたつ切、で熟として、たゞ見舞が見えます、扉の開くのを、便りにして、入口の方ばかり見詰めて見ました。  實家の、母親、なんぞが、交る〲附いて居てくれます他に、其の扉ばかり瞻めましたのは、人懷かしいばかりではないのです……續いて二人、三人まで一時に入つて來れば、屹と其が、私の臨終の知らせなんでせうから、すぐに心掛りのないやうに、遺言の眞似ごとだけもしませうと、果敢いんですわねえ……唯そればかりを的のやうにして目を睜つて居たんですよ。  然うしますとね、苦しい中にも、氣が澄むつて言ふんでせう……窓も硝子も透通つて、晴切つた秋の、高い蒼空を、も一つ漉した、それは貴方、海の底と云つて可いか何と申して可いんでせう、寒の月の底へ入つて、白く凍つたやうにも思へます。玲瓏つて云ふんですか、自分の手も、腕も、胸なんぞは乳のなり、薄掻卷へすつきりと透いて、映つて、眞綿は吉野紙のやうに血を壓へて、骨を包むやうなんです。  清々しいの、何のつて、室内には塵一ツもない、あつても其が矢張り透通つて了ふんですもの。壁は一面に玉の、大姿見を掛けたやうでした、色は白いんですがね。  ト最う、幾日だか、晝だか夜だか分りません、けれども、ふつと私の寢臺の傍に坐つて居る……見馴れない人があつたんです。」 「えゝ、何ですつて、」  と思はず聲を出して、唯吉は窓から頸を引込めた。 「私は傍目も觸らないで、瞳を凝と撓めて視たんですが、つひぞ覺えのない人なんです……  四十七八、五十ぐらゐにも成りませうか、眉毛のない、面長な、仇白い顏の女で、頬骨が少し出て居ます。薄い髮を結び髮に、きちんと撫つけて、衣紋をすつと合はせた……あの、其の襟が薄黄色で、而して鼠に藍がかつた、艷々として底光りのする衣服に、何にもない、白い、丸拔きの紋着を着て、幅の狹い黒繻子らしい帶を些と低めに〆めて、胸を眞直ぐに立てて、頤で俛向いて、額越に、ツンとした權のある鼻を向けて、丁ど、私の左の脇腹のあたりに坐つて、あからめもしないと云つた風に、ものも言はなければ、身動きもしないで、上から、私の顏を見詰めて居るぢやありませんか。  其が貴方……變な事には、病室で、私の寢臺の上に、然うやつて仰向けに寢て居ますんでせう。左の脇腹のあたりに坐りました、其の女性の膝は、寢臺の縁と、すれ〱の所に、宙にふいと浮上つて居るのですよ。」  唯吉は押默つた。 「……恁う、然まで骨々しう痩せもしない兩手を行儀よく膝の上に組んだんですが、其藍がかつた衣服を膝頭へするりと、掻込みました、褄が揃つて、其の宙に浮いた下の床へ、すつと、透通るやうに長々と落ちて居るんです。  朝と思へば朝、晝、夜、夜中、明方、もうね、一度其が見えましてから、私の覺えて居ますだけは、片時も、然うやつて、私の顏を凝視めたなり、上下に、膝だけ摺らさうともしないんです。  可厭で、可厭で、可厭で。何とも、ものにたとへやうがなかつたんですが、其の女性の事に付いて、何か言はうとすると、誰にも口が利けません。……  身體が釘づけに成つたやうなんでせう。  唯其の中にも、はじめて嬉しさを知りましたのは、私たち婦の長い黒髮です……白い枕に流れるやうに掛りましたのが、自分ながら冷々と、氷を伸ばして敷いたやうで、一條でも風に縺れて來ますのを、舌の先で吸寄せますと……乾いた口が涼く成つて、唇も濡れたんですから。」 十三 「氷嚢や、注射より、たゞ髮の冷いのが、きつけに成つて、幾度も、甦り、甦り、甦る度に、矢張同じ所に、ちやんと膝に手を組んで見て居ます。  何か知りませんけれども、幾らも其處等に居るものの、不斷は目に見えない、此の空氣に紛れて隱れて居るのが、然うして塵も透通るやうな心持に成つたので、自分に見えるのだらうと思ひました。  現在、居るのに、看護婦さんにも、誰の目にも遮りません……何うかすると、看護婦さんの白い姿が、澄まして、其の女性の、衣服の中を歴々と拔けて歩行いたんです。  五日目です……後で知れました。  其の朝です。  黒髮の又冷たさが、染々と嬉しかつた時でした。 (お前。)  と其の女性が、其のまゝ、凝視たなりで口を利きました。」 「えゝ、其の何かが?」 「今でも聲さへ忘れませんわ。 (お前は澁太いの……先づ餘所へ去にます。)  ツて、じろりと一目見て、颯と消えました。……何處へ參つたか分りません。  午前、囘診においでなすつた醫師が、喫驚なさいました。不思議なくらゐ、其の時から脈がよく成つたんです……  其の晩、翌朝と、段々、薄紙を剥ぐやうでせう。  まあ、此の分なら助かります。實はあきらめて居たんだツて、醫師もおつしやいます。あの室は、今夜だ、今夜だ、と方々の病室で、然う言つたのを五日續けて、附添ひの、親身のものは聞いたんですつて。  然うしますとね……私の方が見直しました二日目の夜中です……隣の室においでなすつた御婦人の、私と同じ病氣でした。其は、此方とは違つて、はじめから樣子のよかつたのが、急に變がかはつておなくなりになりました。死骸は、あけ方に裏門を出て行きました。  眞に、罪な、濟まない事ぢやあるけれども、同一病人が枕を並べて伏つて居ると、どちらかに勝まけがあるとの話。壁一重でも、おんなじ枕。お隣の方は身代りに立つて下すつたやうなものだから、此方が治つたら、お墓を尋ねて、私も參る、お前も一所に日參しようね。  とが云つてくれるんです。  最う、寢ながら私は、兩手を合はせて囘向をしました。  日に増し……大丈夫と云ふ時に、主人が、鉦たゝきの事から、裏門を入つた事など話しましたツけ、――心も確で、何にも氣に掛らないほど、よく成つたんです。  髮を結んでもらひました、こんなに……」  と、優しく櫛卷に手を觸れて、嬉しらしく云つたが、あど氣なく、而して、かよわい姿が、あはれに見えた。 「朝、牛乳を飮んで、涼しく、のんびりとして、何となく、莞爾して一人で居ました。 (おぎい、おぎい、)  ツて聲がします……  あゝ、明方にお産があつた。  おなくなんなすつた室の、次の室はあいて居て、其の次の室に、十八におなんなさる……初産の方があつたんです。其處で聞えるのを、うつかり、聞いて居ましたツけ。  廊下をばた〱と來て、扉をあけながら、私どもの看護婦さんが、 (まあ、可厭な、まあ可厭な。)  と云ひ〱、づか〱と入つて來て、 (貴女、一軒、あのお隣さんが、變なことを云ふんですよ。唯今、何うしたんですか、急に、思ひも掛けない、惡い容體にお變んなすつたんですがね。皆が壓へても、震へ上るやうに、寢臺の上から、天井を見て、あれ〱彼處に變なものが居て、睨みます、とつて頂戴、よう、とつて頂戴。あれ、釣下つた電燈の上の所に、變な物がつて、身悶えをするんですもの。氣味の惡さツたら!)  私は水を浴びるやうに悚然して、聲も出ませんでした。  遁腰に、扉を半開きに壓へて、廊下を透かしながら、聞定めて、 (あれ、おなくなんなすつたんだ。)  ドン、と閉めて駈出して見に參ります……其の跫音と、遠くへ離れて、 (おぎい、おぎい。)  と幽に成つて行つたのは、お産婦から引離して、嬰兒を連れて退らしい。……  三ツ四ツの壁越ですが、寢臺に私、凍りついたやうに成つて、熟と其方を見て居ますと、向きました、高い壁と、天井の敷合はせの所から、あの、女性が、」 「えゝ、」 「見上げます所に坐つたなり、膝へ折つた褄をふはりと落して、青い衣服が艷々として、すつと出て、 (お前、何うしても又來たよ……)  と、其處から膝に手を組んで、枕許へふら〱と、下りたんです。其の脇の下の兩方を、背後から何ですか、大な黒い手が二ツ出て、据ゑて持つて居たんです。  寢臺と、すれ〱の所へ坐りますと……」  ふと言淀むかして、默つて、美人は背後を振向いた。  唯吉も我が座敷の背後を見た。 「もう少し……」  と向うの二階で、眞暗な中で云ふのを聞いた。  唯吉は確乎と敷居を掴んだ。  婦人は、はつきりと向直つて、 「あゝ……其の黒い大な手が、蒼い袖の下からずツと伸びて、わ、私の咽喉を、」  はツと思つたのは、凄じい音で、はた、と落した團扇が、カラ〱と鳴つて、廂屋根の瓦を辷つて、草の中へ落ちたのである。 「あれ、」  と云ふ、哀しい聲に、驚いて顏を上げると、呀、影の如く、黒い手が、犇と背後抱きに、其の左右の腕を掴み挫ぐ。此に、よれ〱と身を絞つた、美人の眞白な指が、胸を壓へて、ぶる〱と震へたのである。  唯吉は一堪りもなく眞俯ぶせに突俯した。……  夜は蟲の音に更け渡る。