勝川のおばさんという名がアンポンタンに記憶された。顔の印象は浅黒く、長かった。それが木魚の顔のおじいさんのたった一人の妹だときいても、別段心もひかれなかった。ただ平べったいチンチクリンのおじいさんに、長<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>のような妹があるのかなと思った位だった。

しかし彼女は小意気だった、その時分の<ruby><rb>扮装</rb><rt>おつくり</rt></ruby>が黒っぽかったので、背のたかい<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>を、感じから黒茄子にしてしまったが、五十を越しても<ruby><rb>水極</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>だっていた。

幾年かすぎて、ふとその<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>がはじめて来た日の言葉を思いだした。

「お滝さんにも久しぶりで<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>えて――」

自分の<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>の家へきて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にも</span>なんて変なことをいう――子供の心は単純で、かげりをもった<ruby><rb>言語</rb><rt>ことば</rt></ruby>の深いあやを知らない。およそ、木魚のおじいさんの一族で、あんなに客として歓待されたものはないのにと、無視された母のためにアンポンタンは軽い義憤をもった。

だが、勝川のおばさんの<ruby><rb>生立</rb><rt>おいたち</rt></ruby>をきくと無理はなかった。彼女としては、女中同様に追廻して使った姪に、さんの字をつけてよぶだけでさえ<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>にさわる――そうした気風の彼女だった。深川佐賀町の廻船問屋石川屋佐兵衛の妻女――なれのはてではあったが、とにかく代言人長谷川氏の家を訪れてきたのだ。彼女の手許の召使いだった姪は、彼女の<ruby><rb>添</rb><rt>そば</rt></ruby>にいたからこそ売出しの<ruby><rb>新商売</rb><rt>ニューしょうばい</rt></ruby>の人の後妻にもなれたのだ、という誇りをもって――

勝川のおばさんという名と一所に出るのは佐兵衛さんと、も一人お<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>という人だった。いま思えば三角関係だったのでもあろう。佐兵衛さんは<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>で、勝川お蝶は<ruby><rb>権妻</rb><rt>ごんさい</rt></ruby>上り、関取××は出入りの角力、そして佐兵衛さんはさしもの<ruby><rb>大資産</rb><rt>おおしんだい</rt></ruby>を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>ってしまってもお蝶さんと離れず、角力は<ruby><rb>御贔負</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>さきがペシャンコになってしまっても捨てず、だんだん<ruby><rb>微禄</rb><rt>びろく</rt></ruby>はしたが至極平和にくらした。

<ruby><rb>海上暴風雨</rb><rt>しけ</rt></ruby>のためにいつもは房州へはいるはずの、仙台米の<ruby><rb>積船</rb><rt>ふね</rt></ruby>が、<ruby><rb>鰯</rb><rt>いわし</rt></ruby>のとれるので名高い<ruby><rb>九十九里</rb><rt>くじゅうくり</rt></ruby>の<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>の浜へはいった。江戸仙台藩の蔵屋敷からは中沢<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>という侍が銚子へ出張した。

中沢という侍は、幕臣湯川金左衛門邦純とならない前の、木魚の顔のおじいさんの姓である。

浜方は船が一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby><ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っても賑わう。まして仙台米をうんと積んだ金船が何艘となくはいってきたのだ。もともとお蔵屋敷の<ruby><rb>侍</rb><rt>もの</rt></ruby>といえば、武士であって<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>町人のような、金づかいのきれいな<ruby><rb>物毎</rb><rt>ものごと</rt></ruby>に行きわたった世<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた人が選まれ、金座、銀座、お蔵前などの大町人や諸役人と同様その時分の社交人である。十人衆、五人衆、旦那衆と尊称され、髪の結いかたは<ruby><rb>本田髷</rb><rt>ほんだまげ</rt></ruby>細身の<ruby><rb>腰刀</rb><rt>こしのもの</rt></ruby>は渋づくりといったふうで、<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>を外交と心得違いをしていた半官半商であった。それらの侍たちや蔵前町人の<ruby><rb>豪奢</rb><rt>ごうしゃ</rt></ruby>を<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>か知っている浜のものは、鯨が<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ったように悦んだ。

だが、ある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の中沢氏の旅宿には、湿っぽい場面が<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>のかげに示しだされた。それは木魚のおじいさんが幼少のころ<ruby><rb>出奔</rb><rt>しゅっぽん</rt></ruby>した、母親がたずねて来たのだった。成長した子供の前へ、恥もわすれて逢いに来た母親は、十二、三の女の子を連れていた。

「それは不義の子である、拙者に縁はない。」

大体の侍ならそういうであろうを、おろおろ泣いている母親と義妹とを見ると、捨てられた当時を思いだして、自分も泣いた子供心にかえって<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めなかった。

江戸入りは三人になったが、厳しい<ruby><rb>藩邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の門はさすがにくぐらせられない。出入りの<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>に預けておくうちに母親は<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>のところへ娘を連れて再縁した。そこに年頃のあんまり違わない娘があったので、連子は妹とよばれ、おなじように<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>ごとも習わされるようになった。

この二人娘が姉は踊りで、妹は三味線で売り出して、諸大名のひいきも多くなった。両親は左<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>のホクホクだったのである。その妹娘の勝川花菊が、アンポンタンが長茄子と見た勝川のおばさんの前身だったのだ。

人気渡世の、盛りの花菊を、無理にも<ruby><rb>手生</rb><rt>てい</rt></ruby>けにと所望し、金にあかして<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の<ruby><rb>御内儀</rb><rt>ごないぎ</rt></ruby>としたのが廻船問屋石川佐兵衛だった。

中沢氏が湯川氏となって、遠州お前崎から働きものの二女を連れてくると、一躍して位置のかわってしまった金持の御内儀花菊さんは、働きものらしい娘を、<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>で召使ってやろうと言出した。湯川老人もその店で仕事をもつようになったので、彼にいわせればなんとも致しかたがなかったのだ。私の母は彼女づきの小間使いに任命された。

大根おろしのように、身を粉にして動くことを、<ruby><rb>無益</rb><rt>むだ</rt></ruby>も利益もなく、めちゃめちゃに好んだ壮健至極な娘でさえ、ばかばかしいと思ったほど<ruby><rb>酷</rb><rt>こ</rt></ruby>き使った。<ruby><rb>行処</rb><rt>ゆきどころ</rt></ruby>のない身寄りだから逃げてゆかないという信状で、<ruby><rb>驕慢</rb><rt>きょうまん</rt></ruby>の頂上にいた花菊は無理我慢の出来るたけをしいた。無論他の者へも特別優しかったわけではない。

彼女が芝居見物の日は、前の晩から家中の奥のものは<ruby><rb>徹宵</rb><rt>てっしょう</rt></ruby>する。<ruby><rb>暁方</rb><rt>あけがた</rt></ruby>に髪を結ってお風呂にはいる。髪結は前夜から泊りきりで、二人の女中が後から燈をもっている。他の女中は<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の重箱へ詰めるあれこれの料理にてんてこ舞をするのだった。早くから船は来て（浅草<ruby><rb>猿若町</rb><rt>さるわかちょう</rt></ruby>にあった三座の芝居へは多く<ruby><rb>屋根船</rb><rt>ふね</rt></ruby>か、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>でいったものである）、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>を入れ、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の大座布団を、御隠居さんの分、隠居さんの分、御新造さんの分と三枚運ぶ。御隠居さんと<ruby><rb>御</rb><rt>ご</rt></ruby>の字のつくのが石川氏の母親のことで、御の字のつかない方のが娘のために引きとられて楽隠居をしていた、湯川老人を捨てたお母さんであった。二人とも向う河岸の、中洲よりの浜町に隠居しているのを誘って乗せてゆくのだった。この<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>たちも花菊夫人におとらぬ<ruby><rb>気随</rb><rt>きまま</rt></ruby>な生活であったであろうが、頭の方は坊主だったから芝居行きに泣き<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きはないから無事だが、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の内儀の方はそうはゆかない。合せ鏡に気に入らない個所でも後の方に見出すと、すぐ<ruby><rb>破</rb><rt>こわ</rt></ruby>して結い直しである。それも髪結いさんが帰ったとなると、<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でつけがうまいので髪のことだけは気にいっているお手許使いの<ruby><rb>姪</rb><rt>めい</rt></ruby>のおたきがよばれるが、もともと機嫌を損じているのだから泣かされるまで幾度も結い直させられる。そうなると芝居なんぞは何時からでもよいとなる。お風呂ははいり直しである。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>から寝ないものもキョトンとしてそのままで手をつかねている。沖では船頭が寒がっている。二人の<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>隠居のところからはせっせと使いがくる。

夏の日は大川の船の中で昼寝をするのがならわしだった。髪を洗ってから、ちりめん浴衣で、桟橋につけさせてある<ruby><rb>屋根船</rb><rt>ふね</rt></ruby>へ乗る。横になりながら髪を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>がせるのだ。そうした大名にも出来ない気ままが、家のうちに充満して、彼女の<ruby><rb>笥</rb><rt>くしげ</rt></ruby>には何百両の<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>が寝せられ、香料の<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>には金幾両が投じられるかわからなかった。<ruby><rb>現今</rb><rt>いま</rt></ruby>の金に算して幾両の<ruby><rb>金数</rb><rt>きんす</rt></ruby>は安く見えはするが、百文あれば<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>が食えて<ruby><rb>洗湯</rb><rt>ゆ</rt></ruby>にはいれて<ruby><rb>吉原</rb><rt>なか</rt></ruby>へゆけたという。<ruby><rb>競</rb><rt>くら</rt></ruby>べものでないほど今日より金の高かった時代である。

とうとう三菱が起り、三井が根をなし、旧時代の<ruby><rb>廻米</rb><rt>かいまい</rt></ruby>問屋石川屋に<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>の時が来た。

残りの<ruby><rb>有金</rb><rt>ありがね</rt></ruby>で昔のゆめを追っているうちに、<ruby><rb>時世</rb><rt>じせい</rt></ruby>はぐんぐんかわり、廻り<ruby><rb>燈籠</rb><rt>どうろう</rt></ruby>のように世の中は走った。人間自然<ruby><rb>淘汰</rb><rt>とうた</rt></ruby>で佐兵衛さんも物故した。そのあとの挨拶に来たのが、私に印象させた長茄子のおばさんだったのだ。

ある時、急に社会が外面的に欧化心酔した。それは明治十八年頃のいわゆる<ruby><rb>鹿鳴館</rb><rt>ろくめいかん</rt></ruby>時代で、晩年にはあんなゴチゴチの国粋論者、<ruby><rb>山県元帥</rb><rt>やまがたげんすい</rt></ruby>でさえ徹宵ダンスをしたり、<ruby><rb>鎗踊</rb><rt>やりおど</rt></ruby>りをしたという、<ruby><rb>酒池肉林</rb><rt>しゅちにくりん</rt></ruby>、狂舞の時期があった。吉原<ruby><rb>大籬</rb><rt>おおまがき</rt></ruby>の遊女もボンネットをかぶり、十八世紀風のひだの多い洋服を着て椅子に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって<ruby><rb>張店</rb><rt>はりみせ</rt></ruby>をしたのを、見に連れてゆかれたのを、私はかすかに覚えている。わが日本橋区の問屋町は、<ruby><rb>旧慣墨守</rb><rt>きゅうかんぼくしゅ</rt></ruby>、<ruby><rb>因循姑息</rb><rt>いんじゅんこそく</rt></ruby>の土地だけに二、三年後にジワジワと水の浸みるようにはいって来た。でも私はびっくらした事がある。ある日、家へ帰ってくると、知らない顔のお母さんがいる。それが毎日の通り、ちっともちがわないお母さんらしい事をしてくれるが顔がどうも違うのだった。なぜなら母の顔は<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>がなくって薄青く光っていた。歯は綺麗に真黒だった。それなのに、目の前に見る母はボヤボヤと生え揃わない眉毛があって、歯が白くて気味が悪かった。彼女はまた何時になく機嫌よくニヤニヤするのでよけい気味が悪かった。

と、祖母が言った。

「おたき、眉毛が立って<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>のように見えてじじむさい、それだけは剃ったがよい。」

母は嬉しくなさそうな返事をしたが、私はやっぱりお母さんだったのだと思った。急に<ruby><rb>黒襟</rb><rt>えり</rt></ruby>のない着物を着たのと、髪の違ったのがなおさら人柄を違えて見せたのだった。

私たちはその頃輸入されたばかりの毛糸で編んだ洋服を着せられ靴をはかせられた。二階に<ruby><rb>絨緞</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷かれ洋館になった。お母さんが珍しく外出すると思ったら<ruby><rb>月琴</rb><rt>げっきん</rt></ruby>を習いにゆくのだった。譜本をだして父に説明していた、父は月琴をとって器用に弾いた。子供のおり<ruby><rb>富本</rb><rt>とみもと</rt></ruby>を習った母よりも<ruby><rb>長唄</rb><rt>ながうた</rt></ruby>をしこんでもらっている私たちの方がすぐに覚えて、九連環なぞという小曲は、譜で弾けた。チンチリチンテン、チリリンチンテンと響くこの<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ん丸い楽器がひどく面白かったが、<ruby><rb>練習</rb><rt>おそわり</rt></ruby>にゆくところが勝川のおばさんであろうとは随分長くしらなかった。

私の家の外面的新時代風習はすぐ幕になってしまって、前よりも一層反動化したが、世間では<ruby><rb>清楽</rb><rt>しんがく</rt></ruby>の流行はたいした勢いだった、月明に月琴を鳴らして通る――後にはホウカイ屋というのも出来たが――真面目で、<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>の月に流すヴィオリンか、あるいは当時ハイカラな夫人がマンドリンを抱えているような、異国情緒を味わおうとしたのだった。

私の家で、急激な母の変り方が、すぐまた前にもどったのに面白い<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な訳があった。それは私たちをとても可愛がった酒屋が、利久そばやの前側にあって、<ruby><rb>隣家</rb><rt>となり</rt></ruby>の家一軒買って通りぬけの広い納屋にした空地があるので、いい私たちの遊び場だった。二月の末になると赤い布をかけた白酒の<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>が並べてあるのをかき廻しても叱りもしなかった。その酒屋の一人娘がワーワー泣いて<ruby><rb>阿父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんに叱られていたが、小さなアンポンタンの胸は、<ruby><rb>父娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>のあらそいを聞いてドキンとした。

「そんな事をいったってお父さん、長谷川さんの<ruby><rb>御新造</rb><rt>ごしんぞ</rt></ruby>さんだって、束髪に結って、<ruby><rb>細</rb><rt>こま</rt></ruby>っかい<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のついた網をかけている。あんなやかましいおばあさんがいたってさせるのに、家でさせてくれないなんて――<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だというならいってごらん<ruby><rb>本当</rb><rt>ほん</rt></ruby>だから！　買っとくれったら買っとくれ、月琴も一緒に！」

酒屋の娘だからでもないだろうが、お<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>さんというその独り娘は、島田をゴロゴロさせて泣き<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いた。

<ruby><rb>阿父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんは、<ruby><rb>十</rb><rt>とお</rt></ruby>にならない私には、新聞紙の一頁を二つに折ったほどの大きさの顔に見えた四角い人だった。胸毛も生えて、眉毛がねじれ上っていた。<ruby><rb>節瘤</rb><rt>ふしこぶ</rt></ruby>だった両手両脚を出して、<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>の廻しのような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さしっこ</span>でこしらえた前掛をかけて、白い眼だった。私は<ruby><rb>日本武尊</rb><rt>やまとたけるのみこと</rt></ruby>の<ruby><rb>熊夷</rb><rt>くまそ</rt></ruby>を思うとき、その酒屋の阿父を思出していたほどだった。<ruby><rb>塩鮭</rb><rt>しゃけ</rt></ruby>は骨だけ別に焼いてかじった。干物は頭からみんな<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>ってしまうし、いなごや<ruby><rb>蝸牛</rb><rt>まいまいつぶろ</rt></ruby>を食べるのを教えたのもこの人だ。それが怒鳴った。

「おれの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>では買わせねえ、<ruby><rb>商業</rb><rt>しょうべえ</rt></ruby>が違うのをしらねえか、どうしても頭に網をかぶせたきゃあ、そこにある<ruby><rb>餅網</rb><rt>もちあみ</rt></ruby>でもかぶれ。」

泣いていた娘と、青ぶくれな、お玉じゃくしのような顔の母親とは、キョトンとして、天井から釣るさがっている、かき餅のはいった餅網をながめたが、娘は一層狂暴に泣出した。母親は困って小さな私に救いを求める<ruby><rb>笑</rb><rt>えみ</rt></ruby>を送った。

私は<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けてかえって<ruby><rb>祖母</rb><rt>おばあ</rt></ruby>さんに訴えた。祖母さんはだまって白い台紙に張りつけた、さんご<ruby><rb>珠</rb><rt>じゅ</rt></ruby>まがいの細かい<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>のついた網を求めさせてくれた。お桝さんは満足だったが、宅の母の方が、それきり束髪を<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めさせられた。私の心の中で、母には似合わないと思っていたから、よしたので安心した。

勝川のおばさんが日本橋区へ進出して来たのはそれから二、三年たってからだった。新道つづきの<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>一町をへだてた、私の通った小学校のあった町内の入口近かった。一間半ばかりの出窓をもった格子戸づくりの<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しも</rt></ruby>た<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>で、<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>ものを教えるには都合のよい見附きだった。夏は窓に<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>をかけ、<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>をつけ、若い男女が集まって月琴や八雲琴をならっていた。窓には人だかりがしていた。近くなったので勝川おばさんは涼みながら来ては、<ruby><rb>蛇三味線</rb><rt>じゃみせん</rt></ruby>を入れるの、<ruby><rb>明笛</rb><rt>みんてき</rt></ruby>も入れるのと話していた。彼女には、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く昔の賑やかな生活の色彩に、調子はかわっていても、帰ってゆくのが嬉しかったのであろう。

だが、そのうちに日清国交破裂となった。清楽なんぞやる<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は国賊だとなった。勝川の窓は宵から締めないと石が降り込んだ。で、いつの間にか窓が閉って家の中の人も<ruby><rb>逐天</rb><rt>ちくてん</rt></ruby>してしまった。

それから幾年、また勝川おばさんの所在不明。

<ruby><rb>大本教</rb><rt>おおもときょう</rt></ruby>が盛りだした時以上に天理教流行の時があった。一体下町で、いつも景気のよい宗旨は日蓮宗だが、時々新らしい迷信が<ruby><rb>捲起</rb><rt>まきおこ</rt></ruby>ることがある。ある時、<ruby><rb>葛籠屋</rb><rt>つづらや</rt></ruby>の店蔵に<ruby><rb>荒莚</rb><rt>あらむしろ</rt></ruby>を敷いた段をつくって、段上に丸鏡と<ruby><rb>榊</rb><rt>さかき</rt></ruby>と燈明をおき<ruby><rb>神縄</rb><rt>しめ</rt></ruby>を張り、白衣の男が無中になって怒鳴っていた。それを取りまいた一群が、トウカミエミカミ、トウカミエミカミというふうに<ruby><rb>喚</rb><rt>わ</rt></ruby>めいていた、×××教というので<ruby><rb>堀越三升</rb><rt>ほりこしさんしょう</rt></ruby>でさえ――九代目団十郎――<ruby><rb>権少都</rb><rt>ごんのしょうづ</rt></ruby>の位になって信心してるのだからたいしたものでさという勢いだった。そのあとで<ruby><rb>狐狗狸</rb><rt>こっくり</rt></ruby>さんが来た。これはむやみと景気がよくて大衆的大人気で、いたるところ向う鉢巻三味線入りで、車座になって、お<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>はち</rt></ruby>のふたをかぶせた三本足の竹の棒に神の来向を信じ、そら、足をあげた、ハイとおっしゃったとはしゃいだ。そのあとが天理教だった。

天理教も大本教とおなじく、中山おみきさんという中国辺田舎のおばあさんが教主で、神田<ruby><rb>美土代町</rb><rt>みとしろちょう</rt></ruby>に立派に殿堂をしゃにかまえてしまった。これは信者の婦人が<ruby><rb>楽器</rb><rt>なりもの</rt></ruby><ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>りで、<ruby><rb>白装束</rb><rt>しろしょうぞく</rt></ruby>、<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、下げ髪で踊るのだった。なにしろ物見高い土地だから人だかりはすぐする。

勝川おばさんが隠れてから十年もたったある日、大丸の向側の家で天理教の踊りがあった。私の下の方の妹たちが通りかかりに<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見たら、広い店中祭壇にして、片側に楽人がならび、<ruby><rb>明笛</rb><rt>みんてき</rt></ruby>だの、<ruby><rb>和琴</rb><rt>わごん</rt></ruby>だの交って、その中には湯川一族の、鉱山から逃出して帰って来た連中たちの顔が見えた。もっとよく見ていると、緋の袴で踊る少女が、あの<ruby><rb>戸板店</rb><rt>といたみせ</rt></ruby>のおせんべ屋夫婦の二女だったので、母に聞えては悪いもののように、帰ってきてからそっと私にだけきかせた。

「そうっといって御覧なさい。今ならまだやってる。」

だが、あたしには見にゆけなかった。言わなくても母たちは、勝川へ藤木の<ruby><rb>二女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>がずっといっているという事はしっていたのだった。

さすがの花菊も、もうたいへんすたれ果てた年となっていたであろうが、お<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>は影の<ruby><rb>形体</rb><rt>かたち</rt></ruby>を離れぬように、いつもぴったりと附いていた。<ruby><rb>御直参</rb><rt>おじきさん</rt></ruby>ならずものたちは口が悪いから、宅などへくると、

「お角力はやっぱりいるさ。」

といって、

「あの角力も妙な男だよ。立派な<ruby><rb>図体</rb><rt>ずうたい</rt></ruby>をして、なんでまあああしているのかねえ。まるで権助同様なあつかいで、あのおばさんのことだから、ポンポン言ってらあね。」

「商業でもしてるのかね。」

「どうしまして、台所やせんたくがなかなか忙しいのに、あれで道具運びの荷ごしらえに手がかかりますさ、力があるからお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えむきだが。」

「あの男だって相当な<ruby><rb>番附位置</rb><rt>ところ</rt></ruby>にまではゆけたろうにな。」

「色の白い、体の奇麗な角力取りだったが、何も石川屋が没落したからって、自分も角力を没落しなくったってよさそうなもんだったのに。」

だが、勝川お蝶さんの一生には、なくてならない人はこのお角力だったのだ。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>のものは道具はこびにお誂えむきだといったが、お角力にはピッタリはまった役目があったのだ。彼は勇敢に若き日の一生をかけて、その力を、自分の愛するもののためにとっておいたのだともいえる。そしてその最後の日が来た。

天理教の踊りがピッタリ<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>してしまうと、勝川おばさんの逼塞も本ものになって、手も足も出なくなってしまった。むかし、大川の河風にふかれて船の上で昼寝をした夢をしのびながら、<ruby><rb>陋居</rb><rt>ろうきょ</rt></ruby>に、お角力の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にして、やさしく<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でられながら彼女の生涯は終った。

あたしの母も、母の姉のお房さんも行った。夜更けて帰って来て、なにしろ家がせまいから、<ruby><rb>明朝</rb><rt>あした</rt></ruby>また早くゆくといってくつろいでいた。その翌日いったらもう死者は家にいなかった。<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>御直参連一党がつらなって帰って来てつぶやいた。

「今度こそ角力が入用な人間だったってことがわかったよ、おばさんの役にたった一番目で、それがおしまいだ。」

「だが秀逸だ、あの男の。」

父が出てゆくとみんな頭を揃えてさげて、

「ありがとうございました。取りかたづけはすみました、角力がひとりで、しょってしまいました。」

「そうか、あの男でも、それだけの準備はしてあったと見えるね。」

「ところが、それがね、しょってしまったって、一さいの事ではないのですよ。<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>なことにはおばさんの<ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>をしょってしまったんでさあね。」

「人夫にしょわせるのは嫌だとでもいうんでしょうね、お角力さんの心意気だあね。」

と母が言った。皆は笑った。

「とにかく、今夜はおれひとりでお通夜をします。長く世話になったからというから、家はせまいし、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっとも</rt></ruby>だと思ってまかせたら、<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さんその間に、すたこら、自分で始末して、棺に入れてしょって、<ruby><rb>火葬揚</rb><rt>やきば</rt></ruby>へもってってしまったんで――おばさん死ぬまで、重宝な権助をつかまえといたもんだ。」

だが、私の目には笑えない、生涯<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のそり</span>とした、そのくせ誠実な大男が、愛した女の<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を入れた桶をしょって、<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>はしょりで、暗い門から露路裏を出てゆく後姿をかなしく思いうかべられた。