<ruby><rb>鼠小僧</rb><rt>ねずみこぞう</rt></ruby>の住んでいた、三光新道のクダリに、三光<ruby><rb>稲荷</rb><rt>いなり</rt></ruby>のあったことを書きおとした。三光稲荷は失走人の足止の願がけと、鼠をとる猫の<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>不明の<ruby><rb>訴</rb><rt>うったえ</rt></ruby>をきく不思議な<ruby><rb>商業</rb><rt>あきない</rt></ruby>のお稲荷さんで、猫の絵馬が沢山かかっていた。<ruby><rb>霊験</rb><rt>れいげん</rt></ruby>いやちこであったと見え、たま、五郎、白、ゆき、なぞの年月や、失走時や、猫姿を白紙に書いて張りつけてあった。その近くに鼠小僧の隠れ家があったわけになる。

油町あたりの呉服商の細君であった祖母が、鼠小僧の人柄なぞをどうして知っていたのかと思ったら、そのころ祖母夫婦は、<ruby><rb>楽屋新道</rb><rt>がくやじんみち</rt></ruby>――<ruby><rb>葺屋</rb><rt>ふきや</rt></ruby>町、堺町、などの芝居に近い――の附近に<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っていた。場処がらで気らくに暮していたと見え、近所の<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>っ<ruby><rb>引</rb><rt>ぴき</rt></ruby>の細君と仲をよくしていたという。自然そんなことから鼠小僧の引廻しも見たのであろう。

七ツのアンポンタンに、九ツのアンポンタンに、十一、十二のアンポンタンにおぼろげながら近くの町の人の生活ぶりや身近な人たちのそれがぼんやりとうつってきて、<ruby><rb>言様</rb><rt>いいよう</rt></ruby>のないさびしさと、期望しても期望しても<ruby><rb>満</rb><rt>みた</rt></ruby>されない<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しさがあった。<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えて見れば、お正月になったら<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かだろう、――賑かだろうという漠然とした思いのなかに、子供の空想と希望と理想が充満している。それが<ruby><rb>元旦</rb><rt>がんたん</rt></ruby>の夕方ちかくなると、ああ、もう日が暮れるのにと、どうしていいかわからない物足りなさが<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>をもってくる。それにも似た――事はまるで違うが、<ruby><rb>日々</rb><rt>ひび</rt></ruby>にぶつかる余儀ないさびしさだった。

ある日、あたしは母の父の顔を穴のあくほど<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見た。この<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんは<ruby><rb>寺院</rb><rt>おてら</rt></ruby>で見る<ruby><rb>大木魚</rb><rt>おおもくぎょ</rt></ruby>のような顔をしていた。木魚は小さいのは可愛らしいものであるが、大きなのが<ruby><rb>茵</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を敷いて座っていると、かなりガクガクとした平たい四角である。<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんの顔も大きな四角なお<ruby><rb>出額</rb><rt>でこ</rt></ruby>で<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>も張っている。そのくせ鼻は丸く<ruby><rb>安座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいていて小さい目は好人物というより、<ruby><rb>滑稽味</rb><rt>こっけいみ</rt></ruby>のある<ruby><rb>剥身</rb><rt>むきみ</rt></ruby>に似た、これもけんそんな眼だ。白い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>が鼻の下にガサガサと<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えて、十二月の野原の<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>のような頭髪が、デコボコな<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>た頭にヒョロヒョロしている。悪口すれば、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>くもすけ</rt></ruby>ともいえる、ずんぐりと低い醜い人だ。

その前にも<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>ったかも知れないが、アンポンタンが意識した初対面の印象だった。彼の<ruby><rb>身辺</rb><rt>まわり</rt></ruby>は石炭酸の<ruby><rb>香</rb><rt>かおり</rt></ruby>がプンプンした。

「ヒョウソになる<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>だから、これは働きながらでは無理だ。」

そういって女中を――台所働きの女中をおさんどんと呼ぶころだった。そのおさんが<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>足の裏を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたのを気にしないでいたらば、熱が出て<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れあがったのを診察して、養生にかえすようにと言った。

<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんが洋科のお医者が出来るのも初耳だった。あたしの家は頑固で、漢法医にばかりかかって<ruby><rb>練薬</rb><rt>ねりやく</rt></ruby>だの、振りだしだのを飲ませ、外<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>には貝殻へ入れた<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>をつけさせていたから――洋科の医者といえばハイカラなものと思っていたあたしは、石炭酸の匂いに厳粛になり、この汚ない老爺さんに<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていた。

そのまた老爺さんの<ruby><rb>言語</rb><rt>ことば</rt></ruby>がふるっている。

「長谷川<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>は元気かな。」

長谷川<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>――あたしの父で、彼の婿である。<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>の師匠の格子戸へ犬の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>をぬった不良若衆で、当時でのモダン代言人である。――あたしは、彼のデコボコ頭の<ruby><rb>凹</rb><rt>ひく</rt></ruby>みにたまった<ruby><rb>埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>をながめた。

以下、その老爺さんの生活の断片で、アンポンタンの眼に<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>ったヒルムの<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>である。

すべてのことに転々とする人を見るとさびしい焦燥を<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>ごとながら感じて、石が汗をかくようなにじみだす涙がこみあげてくる時がある。生れながらの<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>もあろうが、ピッタリと、ものに廻りあわぬ悲しい人たちなのである。蚕でさえ心にあうところのあるまで、繭をかける場処を選んで、与えられた木の枝の、<ruby><rb>果</rb><rt>はし</rt></ruby>からはしまで歩き廻る――それは何やら満されない本能の求めなのではなかろうか――老爺さん湯川氏も、自分の本質を空しくして、ただ長く生きた九十年の生涯である。

老爺さんは、湯川というのも自分の<ruby><rb>本姓</rb><rt>ほんせい</rt></ruby>ではない。仙台屋敷に生れたから仙台様の藩士だろう。お<ruby><rb>留守居</rb><rt>るすい</rt></ruby>役だともきいたが、<ruby><rb>廻米</rb><rt>かいまい</rt></ruby>の事に明るかった。父親もその役だったと見える訳があるから、江戸で生れた東北系の人である。

廻米とは仙台領の米を船で廻してくることで、その領地米を江戸<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>で受取る役人なのだ。江戸詰の藩士の禄高通り全部米で与えたものなのか。あるいは金に代えて渡したものなのか。よくきいておかなかった。当時の蔵前の<ruby><rb>札差</rb><rt>ふださし</rt></ruby>や、浜方などとの取引関係から、数算にたけ、<ruby><rb>世估</rb><rt>せこ</rt></ruby>に長じていなければならない、いわゆる世渡り上手の人物でなければならないのに、湯川氏はみいりのよい父祖の職をきらって<ruby><rb>御直参</rb><rt>おじきさん</rt></ruby>の株をかった。直参といえばていさいはよいが、<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>っ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby>旗本、貧乏<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>の、その御家人の株を買って、湯川金左衛門<ruby><rb>邦純</rb><rt>くにすみ</rt></ruby>となったのである。湯川という姓は無論買った家の姓で、金左衛門も通り名である。しかも、養父――名ばかりの、御家人株の売手が<ruby><rb>拾歳</rb><rt>とお</rt></ruby>下なので、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>の年齢が出来上ったために、娘たちを妹にして幕府の<ruby><rb>人別帳</rb><rt>にんべつちょう</rt></ruby>に記入して貰い、とにかく御直参にはなった。が、すぐに幕府は<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>した。株を売った真の徳川御家人の一人は、先見の<ruby><rb>明</rb><rt>めい</rt></ruby>をほこって、<ruby><rb>小金貸</rb><rt>こがねかし</rt></ruby>でもはじめたであろうが、みじめなのは、<ruby><rb>新</rb><rt>ニュー</rt></ruby>湯川金左衛門邦純であった。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんの妻の父親が、上野<ruby><rb>輪王寺</rb><rt>りんのうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>宮</rb><rt>みや</rt></ruby>に何か教えていた××<ruby><rb>安芸守</rb><rt>あきのかみ</rt></ruby>という旗本で、法親王が白河へお落ちになってから建白書のようなものを書いて死んだ人であり、身寄りにも上野の<ruby><rb>彰義隊</rb><rt>しょうぎたい</rt></ruby>で死んだ若ものもあったから、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をはじく武士より直参武士になれと進められたのかも知れない。とはいえ新御直参一家は、五月十六日朝の官軍上野攻めで<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた。いよいよ敗軍ときくと逃出す騒ぎで、<ruby><rb>什器</rb><rt>じゅうき</rt></ruby>を池のなかに投込んだり――上野山下の商家では店の穴蔵へ入れたという――井戸へ入れておいたりして逃出した。老爺さんの二女――総領娘はある大名<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に御殿奉公をしていた――私の母は九歳だったが、<ruby><rb>男髷</rb><rt>おとこまげ</rt></ruby>にしていたので小刀を差して連れられて逃げた。吉原の土手下で夜を明した時、どこのものかが名物の土手の<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>つばをくれたが、その大きさとうまさを何時までも忘れなかったと言った。そうしてこの新御直参一家はみずから没落し、徳川十六代<ruby><rb>亀之助</rb><rt>かめのすけ</rt></ruby>様のお供、静岡<ruby><rb>蟄居</rb><rt>ちっきょ</rt></ruby>というはめにおちた。

品川から出た<ruby><rb>二艘</rb><rt>にそう</rt></ruby>の幕府の汽船に押し積まれて静岡へまでもつれてゆかれる幾百戸かの家族、それは徳川にしても厄介ものだったに違いない、ついてゆかねばならぬというものの中には、こうした一家もあったのだ。静岡へいったからとて何の<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>があるのではなし、百姓泣かせがいちどきに流れこんだのだった。命と体だけを積んでもらった故、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>たいしたものは持ってゆきはしない、家財はみんな捨てていったのだ――こんな時だとて、上のものの方はどうにかなったであろうが、耕す土地とてそうあろうわけはなし、<ruby><rb>無禄無扶持</rb><rt>むろくむふち</rt></ruby>になった小殿様たちは、三百年の太平<ruby><rb>逸楽</rb><rt>いつらく</rt></ruby>に<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>って、<ruby><rb>細身</rb><rt>ほそみ</rt></ruby>の刀も重いといった連中である。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちにして畑の<ruby><rb>芋盗人</rb><rt>いもどろぼう</rt></ruby>となり、奥方は賃仕事をして<ruby><rb>糊口</rb><rt>ここう</rt></ruby>をしのいだ。

湯川氏の家では不用になった<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>が商品に化けた。<ruby><rb>仙台平</rb><rt>せんだいひら</rt></ruby>や<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>の財袋がつくられて売られた。お百姓がお客様なのであるが、売手に<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて近寄らないのと、売る方でも気まりが悪いので、<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の星まつりのように<ruby><rb>篠</rb><rt>ささ</rt></ruby>の枝へ<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>もくくりつけて、百姓の通る道ばたに出しておいて<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>に代えた。

幕府の瓦解は御直参と威張った旗本、御家人の墜落ばかりでなく、大名も<ruby><rb>廃藩置県</rb><rt>はいはんちけん</rt></ruby>となったから、湯川の姉娘も帰ってきた。ともかく、わびしさのつづく中に振り袖姿の年頃の娘を見る事は親たちは嬉しかった。この娘だけが失わずにいた衣装道具を、失わさずにおかせたいと思った。とはいえ<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>なく<ruby><rb>生活</rb><rt>ここう</rt></ruby>の<ruby><rb>代</rb><rt>しろ</rt></ruby>は詰るばかりである。それを助けるためにお供の連中は<ruby><rb>遠州</rb><rt>えんしゅう</rt></ruby><ruby><rb>御前崎</rb><rt>おまえざき</rt></ruby>に<ruby><rb>塩田</rb><rt>えんでん</rt></ruby>をつくれとなった。

あたしの母は十二になって、<ruby><rb>屈強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な体力をもっていた。姉と妹二人はどうにもならなかった。彼女は小船を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いだ。彼女が今でも一番恋しい景色は遠州御前崎の<ruby><rb>今切</rb><rt>いまぎ</rt></ruby>れの渡しのところと味方が原だという。彼女は<ruby><rb>早抹</rb><rt>あさまだき</rt></ruby>、父親をはげまして自ら小船を漕いで塩浜へとゆく。十二の彼女の<ruby><rb>海水</rb><rt>しお</rt></ruby>の<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きぶりには及ぶものがなかったほど、終日を働きくらした。

と姉娘に縁談が起った。親たちは江戸がえりの娘の美しさゆえに――と思った善人である、先方が旗本で、旗本が口をきいてくれたのだからといった具合で<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだ。<ruby><rb>仲人</rb><rt>なこうど</rt></ruby>が来た。夏のことで<ruby><rb>白扇</rb><rt>はくせん</rt></ruby>をサラリと開くと<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から贈物の<ruby><rb>目録</rb><rt>もくろく</rt></ruby>書と、<ruby><rb>水引</rb><rt>みずひき</rt></ruby>をかけた封金を出して乗せたが、

「<ruby><rb>芽出度</rb><rt>めでたく</rt></ruby>御受納くださるように。」

と丁重に述べておいて、下げた頭をあげると、動作のゆっくりした湯川氏が手をださぬうちに扇の<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>をくるりと向けかえて、

「御同様に、<ruby><rb>此方様</rb><rt>こなたさま</rt></ruby>からも<ruby><rb>御贈</rb><rt>おおく</rt></ruby>りでござろうから、諸事節約、<ruby><rb>緊縮</rb><rt>きんしゅく</rt></ruby>して――」

とかなんとか浜口内閣のようなことを言って、もってきた<ruby><rb>結納金</rb><rt>ゆいのうきん</rt></ruby>をまた懐中に入れてしまった。それでも好人物な、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>を疑うことをしない夫婦は、悦びだけを受入れ、悦びの意だけを空っぽで渡した。

――あたしの母は、今でも言う、姉さんが味方が原の秋草の中を、馬に乗って美しい振袖を着ていった。これはお前にやるよといったものまでみんなもっていってしまった。お嫁にゆくとなったらケチになって、何もかも持っていった。姉さんが御奉公に出たころは、家も富貴だったので、市ヶ谷のあまざけや（有名な呉服店）で、<ruby><rb>好</rb><rt>この</rt></ruby>みで染めさせたものばかりだったが、私は子供心にもこの嫁入りの仲人が変だと思った。昔のお金は小判で重いのに、包んできた水引のかかった奉書は薄っぺらで軽かった。よっぽどたって嫁入りさきにたずねていったら、<ruby><rb>連合</rb><rt>つれあ</rt></ruby>いも、姑も、姉も、みんながあたしの姉さんの着物を着ていた。

無力の<ruby><rb>巧</rb><rt>たく</rt></ruby>んだ一種の略奪であった。さすがの御直参湯川氏も考えさせられた。これではならないと働きものの二女を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて江戸へ出た。江戸には住みすてた<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>もある。池の中には何かしらが残っていよう。深川佐賀町の廻船問屋には自分の妹が片附いている。商人には<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りがなかったということが彼を心強くさせもした。

<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>を踏んで箱根の山も越した。以前の<ruby><rb>住家</rb><rt>すみか</rt></ruby>へゆくと玄関の両側にたてた提灯の<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>は古びきって以前のままだが、上方の藩の侍が住んでいて、取次の男が眼をむいて<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。家財なぞしらんと――だが深川の商取引の<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>さは昔どころではなく、<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>として大きな機運が動いていた。義弟の佐賀町の廻船問屋石川佐兵衛の店では、仙台藩時代の彼の<ruby><rb>緻密</rb><rt>ちみつ</rt></ruby>な数算ぶりを知っていたので手を開いてむかえた。働きものの小娘は気むずかしい<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>の<ruby><rb>小間使</rb><rt>こまづか</rt></ruby>いになった。

だが、人間をあやつる<ruby><rb>傀儡師</rb><rt>かいらいし</rt></ruby>はなんといういたずらをしようとするのか、この湯川氏が、働きものの二女を芸妓に売ろうと思ったり、また、この小娘が未来に教育界の<ruby><rb>先駈者</rb><rt>せんくしゃ</rt></ruby>となろうとしたのをさせなかったり――彼女に手習いを教えた女学者が、この子を養って自分の意志をつらぬかせたいと懇望したが許さなかったのだった。

石川佐兵衛は暗愚でも、時流が廻米、廻船問屋というものを恵んだ。そこに湯川氏の数算と長年の<ruby><rb>蘊蓄</rb><rt>うんちく</rt></ruby>が役に立って石川の家運はあがった。その頃の湯川氏の知己の名は<ruby><rb>自毛村</rb><rt>じけむら</rt></ruby>であるとか、<ruby><rb>三野村</rb><rt>みのむら</rt></ruby>だとか<ruby><rb>錚々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>たる大実業家となった人たちである。石川屋は三井物産前身の如きものだともきいたが、やがて石川屋は没落し、それよりずっと前に湯川氏はまた動きだした。あたしが知った<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さん湯川氏は、それからずっと後の彼だったのだ。

あたしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で――彼のいう長谷川<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>の宅で、彼のために小<ruby><rb>晩餐会</rb><rt>ばんさんかい</rt></ruby>が催されたことがある。彼の老妻や、他の娘や、娘たちの婿なども寄りあつまったが、客座敷ではなく常の食事をする室で、<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby><ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>で車座になってお酒も出た。

「いや、どうも、かくお手厚い<ruby><rb>御饗応</rb><rt>ごきょうおう</rt></ruby>にあっては恐縮のいたりで――」

木魚の顔が赤くなって、しどく<ruby><rb>豊</rb><rt>ゆたか</rt></ruby>に、<ruby><rb>隠居</rb><rt>いんきょ</rt></ruby>じみた笑いを浮べて、目をショボショボさせながら繰返していっていた。

「老爺さん、こんどこそはひとつモノにして下さい、なにしろ君にいためられた<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>が浮かばないよ。こっちの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だって、なんだかんだって大変だあね。」

そういったのは姉娘の婿――遠州では仲人にたった旗本だった。

「それは大丈夫だ、こんどはウンと皆をよろこばせる。」

もうその頃は七十位だったのであろうが、遠くへ<ruby><rb>単独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>でゆくような様子だった。

「味噌も米も困らないように送ってあるから。」

と彼の老妻はつぶやくようにいった。そしてみんなが<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へか送っていった。

「牛肉の<ruby><rb>佃煮</rb><rt>つくだに</rt></ruby>でも送ってやったら――」

父がその後、母にむかっていっていた。

「だが、今度もあてにはならないぞ。」

そういうふうに彼は二年も三年も<ruby><rb>漂然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>といなくなって、現れるとムッツリとした<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>を示し、やがてまた人々に送られて、至極満足そうなニコニコ顔で出かけた。

そうした祖父の存在は子供たちからは忘られがちで、外祖母は末の娘と二人で住んでいるものだとばかり思った。上野下の青石横町に住んでいたころも、根岸のお<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>の松のすぐきわに、音無川の前にいたころもそうだった。<ruby><rb>老嬢</rb><rt>おうるどみす</rt></ruby>になった娘のミシン台とたんすが<ruby><rb>一棹</rb><rt>ひとさお</rt></ruby>あるきりのわびしい暮しかただった。どうしてこんなにガランとしているのかと思ったが、それはみんな湯川氏が<ruby><rb>硫黄</rb><rt>いおう</rt></ruby>発見に入れこんでしまうのだった。たまたまとまりにいった時、祖父が帰ってきたりすると、妙な<ruby><rb>風躰</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>をした男がぞろぞろくるので<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>でならなかったが、家に帰って父に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、父はまたかというようで、

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんまた<ruby><rb>賺</rb><rt>だま</rt></ruby>されなければいいが。」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やいた。彼の周囲のものも、<ruby><rb>僅少</rb><rt>きんしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>家禄</rb><rt>かろく</rt></ruby>放還金をみんな老爺さんの硫黄熱のために失われてしまっているのだということを、あたしたちも段々に<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>った。

なにが湯川老人をそんなに硫黄狂人にさせたか知るものがない。ともかく四十年からの彼の事業である。重に北の方を歩いていたが小笠原島あたりにもなんのためか長くいた。山のめききは<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いほど当ったが、訓練にも工夫をつんだが、悲しいかな老爺さんの発明は、丁度お直参の株をかったのと同じようにいつも世界の年代からおくれている。強情で頑固なところが最進智識をすこしも求めようとしないで、自己流の工夫でコツコツやるのだった。そのうちに年月は十年も十五年も飛び去る。老爺さんの頭はだんだん凸凹が多く深くなって、<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>がはえたようにそのくぼみに<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>がたまる――

ある時、ヒョックリと現われた湯川氏は、赤い<ruby><rb>毛布</rb><rt>ケット</rt></ruby>をマントのように着て<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>で<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>のところに結びつけていた。<ruby><rb>山籠</rb><rt>やまごも</rt></ruby>りから急に自分の家にもゆかず長谷川<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>をたずねて来たのである。いそがしい父の<ruby><rb>小閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>を見ては<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をすりあわせるようにして座りこんでいた。いつも<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>のことになると<ruby><rb>訥弁</rb><rt>とつべん</rt></ruby>が<ruby><rb>能弁</rb><rt>のうべん</rt></ruby>になる――というより、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>がどんなに困ろうが話をひっこませないのだ。父は<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の<ruby><rb>紛糾</rb><rt>ふんきゅう</rt></ruby>事件で家族に飯をたべさせているのだから、<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしいことをきくので頭が一ぱいであったろうに、例の大木魚の顔がムズと前に出たらダニのように離れない。私は子供ながらハラハラした。父の前からはなるたけ離れているように家族は心懸けている。父も子供にも小言もいわない位に離れているのに――で、私は好奇だからでもなんでもなく、なるだけ大木魚の老爺さんの顔を自分の前にもってくるようにした。一体アンポンタンは家のものから遠ざかってポカンとしてばかりいたのに、木魚の老爺さんとだけ話をするのでよっぽど妙だったかもしれない。

「おじいさんに<ruby><rb>恐山</rb><rt>おそれざん</rt></ruby>へでも連れてってもらうがいい。熊とおじいさんと三人で住むんだ。」

そんな事を大人はいって笑った。

アンポンタンと湯川氏はポツンポツンと問答をはじめる。

「おじいさんの頭はどうしてこうデコボコになったの？」

「小笠原島で<ruby><rb>亀</rb><rt>かめ</rt></ruby>の子の卵をあんまりたべたので、<ruby><rb>勢</rb><rt>せい</rt></ruby>がついてデコボコになってしまった。」

「小笠原島の亀の子って、大きいの？」

アンポンタンは、背中に題目を彫られた大きな亀がつかまって、も一度海にはなされるとき、お酒をのませたのを覚えていて、その二尺五寸もある甲を思いうかべていた。

「そうだよ、大きな亀の子が揃って出て来て、浜の砂を掘って、ズラリと並べて卵を生んでゆくのだ。人間はそれを盗むのだからいけないな。」

「おじいさんも盗んだの？」

「そうだよ、盗んで<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>も食べた。」

「なんのために食べたの？」

「<ruby><rb>長生</rb><rt>ながいき</rt></ruby>をするためにさ。」

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>？」

「硫黄を――<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>のいい硫黄を製造して――硫黄の出る山はウンと見てあるのだけれど――お前のお父さんが承知さえしてくれれば……」

おじいさんは<ruby><rb>刀豆</rb><rt>なたまめ</rt></ruby><ruby><rb>煙管</rb><rt>キセル</rt></ruby>をジュッと吸った。

「<ruby><rb>恐山</rb><rt>おそれざん</rt></ruby>に熊が出るの？」

「出てくるがなんともしない。」

「どんな風にしているの？」

「<ruby><rb>紙帳</rb><rt>しちょう</rt></ruby>とていってな、紙で張った<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>みたいなものを釣って寝るのだ。寒さよけにもなるしな、火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いておくと、熊はくるがおとなしいよ。」

私は熊の子と友達になってもいいなという気持ちになる。紙帳のことは『<ruby><rb>浅間</rb><rt>あさま</rt></ruby>が<ruby><rb>嶽</rb><rt>だけ</rt></ruby>』という、くさ<ruby><rb>双紙</rb><rt>ぞうし</rt></ruby>でおなじみになっている、星影土右衛門という<ruby><rb>月代</rb><rt>さかゆき</rt></ruby>のたった<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い男が、六部の姿で、仕込み<ruby><rb>杖</rb><rt>づえ</rt></ruby>をぬきかけている姿をおもいだし、大きな木魚面の、デコボコ頭の、チンチクリンの老人を<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>見詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めた。

「おじいさんは硫黄山へ何もかもつぎこんでしまったのだって？」

「出来上ればみんなを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせるのだが――」

おじいさんは、版下を書くように、細かく<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な字を帳面一ぱいに書きつけたのを出した。分らない私にも説明しようとした。四寸ばかりな<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をだして<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>もはじいた。

老爺さんの根気に負けて、父が福島県下へ連れてゆかれたのは、<ruby><rb>磐梯山</rb><rt>ばんだいさん</rt></ruby>だか<ruby><rb>吾妻山</rb><rt>あずまさん</rt></ruby>だかが破裂したすぐあとだった。父はヘトヘトになって帰って来て座らないうちにいった。

「出来るだけのことならしてやろうよ、あの年でたいした<ruby><rb>気根</rb><rt>きこん</rt></ruby>だ。」

あの老人が山へはいると仙人のように身軽になって、岩の上なんぞはピョンピョンと飛んでしまい、<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい個所ではスーッと消てしまったように見えなくなる。気がつくと<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か向うでコツコツ何かやっている。さながら、<ruby><rb>人跡未踏</rb><rt>じんせきみとう</rt></ruby>の山奥が、生れながらの住家のようで、七十を越した人などとはとても思われない。山の案内人などの話でも老爺さんが一足<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み入れて、あるといった山に硫黄のなかったためしがなく、歩いていると、ふと向うの山の格好を見て言いあてる。土地の者たちも神様のように言っているというのだった。

「だが、宿は温泉だといっておいて赤湯だの、ぬる湯だのと、変な板かこいの小屋へ連れていって、魚の<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>だといって、どじょうを<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>のまま<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>おつけ</rt></ruby>の<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>へ入れられたには――」

とすっかり閉口していた。でも、どうやらこうやら父から出資させる事になって老爺さんは<ruby><rb>欣々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>と勇んだ。情にもろくって、金に<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんじゃく</rt></ruby>な父は、細かい計算をよく<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>まなかった。損徳よりもただ幾分の出資を捨る気でしたのだったろう。

老爺さんが得意になると、今まで冷笑していた<ruby><rb>親類</rb><rt>みより</rt></ruby>のものが手伝い志願を申出た。自分たちも損をしただけ取りかえそうという、御直参旗本の当主や子や孫である。

<ruby><rb>梅干</rb><rt>うめぼし</rt></ruby>幾樽、<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>幾樽、寝具類幾<ruby><rb>行李</rb><rt>こり</rt></ruby>――種々な荷物が送られた。御直参氏たちは三河島の<ruby><rb>菜漬</rb><rt>なづけ</rt></ruby>がなければ困るという連中であるから、行くとすぐに一人ずつ一人ずつ<ruby><rb>落伍</rb><rt>らくご</rt></ruby>して帰って来てしまった。そして言うことはおなじだった。

「何しろ、<ruby><rb>一鍬</rb><rt>ひとくわ</rt></ruby>いれるとプンと強く硫黄が匂うのだから、胸が苦しくって飯も食えない。」

老爺さんの硫黄はよく出来た。しかし近間の山林は官林なので、民有林から<ruby><rb>伐木</rb><rt>ばつぼく</rt></ruby>して<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を運ぶのに、<ruby><rb>嶮岨</rb><rt>けんそ</rt></ruby>な峰を牛の背でやった。<ruby><rb>製煉</rb><rt>せいれん</rt></ruby>された硫黄も汽車の便がある土地まで牛や馬が運んだ。東京や横浜へ送られると、運賃と<ruby><rb>相殺</rb><rt>そうさい</rt></ruby>でフイになってしまう。

その後も幾度か繰返された失敗のあとで、晩年を湯川氏夫妻は長谷川氏に引きとられた。八十を越しても硫黄の熱は<ruby><rb>燃</rb><rt>もえ</rt></ruby>ていた。小さい机にしがみついたまま、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>は身の毒になると、<ruby><rb>蛍火</rb><rt>ほたるび</rt></ruby>の火鉢に手をかざし、<ruby><rb>毛布</rb><rt>ケット</rt></ruby>を着て座っていた。例により<ruby><rb>珠算</rb><rt>たまざん</rt></ruby>と、細かい字と、硫黄の標本をつくったり、種々にして手に入れる硫黄の一つまみを燃したり製煉したりして、庭隅に小さな釜をこしらえたりして首をひねっていた。その頃は父も<ruby><rb>閑散</rb><rt>かんさん</rt></ruby>な身となって<ruby><rb>佃島</rb><rt>つくだじま</rt></ruby>にすんで土いじりをしていたので、一所に植木いじりはしていたが――たまたま<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な客などが来て、海にむかった室で昼間の<ruby><rb>一酔</rb><rt>いっすい</rt></ruby>に八十翁もよばれてほろよいになると、とてもよい声で、<ruby><rb>哥沢</rb><rt>うたざわ</rt></ruby>の「<ruby><rb>白酒</rb><rt>しろざけ</rt></ruby>」を、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>にはめずらしい<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>いぶりをした。もう大人になっていた私が<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>すると、老人の老妻は得意で、

「おじいさんは、お金を湯水のようにつかった、いきな人ですよ。」

と彼女も小声で嬉しそうに口の中で何か唄った。

「おじいさんには面白いおはなしもございますのさ。私がね、誰かの<ruby><rb>初</rb><rt>はつ</rt></ruby>のお節句のおり、神田へ買ものにゆきますとね、前の方に、<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な女たちにとりまかれて賑かにゆく人がありますのでね、おやおや、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の<ruby><rb>大尽</rb><rt>だいじん</rt></ruby>かと見ますとね。<ruby><rb>小</rb><rt>ちい</rt></ruby>っぽけな<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>で、黒ちりめんの羽織で、お刀がチョコンと突っぱって、その<ruby><rb>風采</rb><rt>ようす</rt></ruby>のみっともなさってったら、あたくしが吹きだしますとね、その人が後を振りむきましたのですよ、どうもあの<ruby><rb>老爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>さんに違いないのですが、あたくしもよく似た人があるものだと思って感心いたしましたが……」

クスクスおばあさんは笑った。その結果がふるっている。

「よくまあ、あんな<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な粋な女が<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れたものでございますねえ。」