――老母のところから、次のような覚書をくれたので、「大丸」のことはもっと後にゆっくりと書くつもりだったが、折角の志ゆえそのまま記すことにした。

<ruby><rb>小伝馬町</rb><rt>こでんまちょう</rt></ruby>三丁目のうなぎやは（<ruby><rb>近三</rb><rt>きんさん</rt></ruby>）明治廿四、五年ごろまであったと思います。

大伝馬町四丁目（この一町だけ<ruby><rb>通</rb><rt>とおり</rt></ruby>はたご町）大丸呉服店にては一月一日表戸を半分おろして、店を大広間として<ruby><rb>金屏風</rb><rt>きんびょうぶ</rt></ruby>を立てまわし、<ruby><rb>元旦</rb><rt>がんたん</rt></ruby>一日は<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ（そのころで三百人以上）三、四百人の番頭、若者、小僧一同に大そうなごちそうが出る。お酒も出る。福引その他、実に一年中を一日に楽しませるので、近所の子供らも皆女中小僧をつれて遊びにゆき、羽根をつくやら、<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>なげ、<ruby><rb>楊弓</rb><rt>ようきゅう</rt></ruby>もあり踊りもあれば、三味線もあり、いろいろと楽しませ夕方帰りには、山ほど土産をそれぞれにくれました。

大丸の<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>

（イエトモヲコルコトナシ）

とか聞いておりました。

朝は早くから小僧が「おきろよおきろよ。」と呼んで、<ruby><rb>見世中</rb><rt>みせじゅう</rt></ruby>十人ぐらいで、ぐるぐる起して廻りました。客がはいってくると、帳場の者が――帳場に

甚四郎とか

才助とか大書した、三尺ばかりの紙札の下に、<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の横に、小さな帳場格子とかけ<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>をひかえて、ずっと並んで坐っています。客は名札を見て、気の合いそうな売手のところへと上ってゆきます。

女客なれば、クノイチクノイチという

男客なれば、ハツコウハツコウという

クノイチと言えば店中女客と思い、ハツコウといえば男客だと知ります。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">不一</span>のクノイチは不器量な女の事

不一のハツコウは嫌な男の事

ト一のクノイチはよき女人のこと

ト一のハツコウはよき男のこと

客の買物の金高によって<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>がちがう。その符牒は、

お菓子なれば「きしるし」という。おそばなれば「とくいし」という。御飯なれば「ふしんかた」という。<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>なれば「またろ」という。（<ruby><rb>肴</rb><rt>またあい</rt></ruby>）かもしれません。

大門通り右側に、たはらや（田庄）呉服大問屋、大丸その他へおろし店。そのさきに市田、これも大問屋、市田の方は多く織ものと模様もの、上々品ばかり、人形町その他の呉服店へおろす。

大門通り左側は角からずっと金物店ばかり、この辺を通ると店々にならんでいる番頭若者らが、よき女子の時は<ruby><rb>煙草盆</rb><rt>タバコぼん</rt></ruby>のはいふきを二ツ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>く。それをまた隣りの店で二ツたたき、つぎつぎに知らせるのです。大丸のまむこうに、大丸出入りの菓子や「かめや」あり、<ruby><rb>旅籠町</rb><rt>はたごちょう</rt></ruby>通りに大丸とならんで大丸の<ruby><rb>糸店</rb><rt>いとだな</rt></ruby>と扇店があり、「みすや針店」のとなりが森田清翁という、これも出入りの菓子や。十月十九日べったら市の日には店へ青竹にて手すりを<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえ、客をはかって紅白の<ruby><rb>切山椒</rb><rt>きりさんしょ</rt></ruby>を売りはじめます。たいした景気、極々よき風味なり。向側の「かめや」にても十九日にはやはり青竹にて手すりをこしらえ、<ruby><rb>柏餅</rb><rt>かしわもち</rt></ruby>をその日ばかり売ります。エビス様の絵の<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を客にだしました。この家は神田小柳町からの大火で店蔵をおとして、主人が気が変になって、四、五年の後店もなくなりました。<ruby><rb>通油町</rb><rt>とおりあぶらちょう</rt></ruby>の大通りの向う側の横町は南新道、それとならんだ通りが大丸新道、この一丁は、大丸の土蔵の窓――裏側なのです――に金網が張ってあり、湯殿も、台所もみなおなじ。

以上、老母からの手紙は、<ruby><rb>辿々</rb><rt>たどたど</rt></ruby>しい文ではあるが、大丸という大呉服店を通して、そのうらのお<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>ものの奴隷生活がうつしだされている。一年に一度の、この目覚ましい慰安的な、解放したようでその実解放しない、人目を<ruby><rb>眩</rb><rt>くらま</rt></ruby>す華々しいやり方と、終りの方に書いてある、窓々の金網のことを見すごすことは出来ない。

あたしは震災の幾年か前、ある怪談会が吉原水道<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>の<ruby><rb>引手茶屋</rb><rt>ひきてぢゃや</rt></ruby>で催された時にいって、裏の方から<ruby><rb>妓楼</rb><rt>ぎろう</rt></ruby>の窓を見たことがある。そこにも金網が張ってあった。<ruby><rb>娼妓</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の逃亡を怖れてだといったが、それより幾年前、帝都の<ruby><rb>中央</rb><rt>まんなか</rt></ruby>の日本橋に、しかも区内のめぬきで中心点である士地ゆえ、日本国の中心といってもよい場処の大呉服店に、そうした窓が、しかも一丁の半分以上をしめて金網が張りわたされていたという事実がある。それはあたしも子供心に知っていた。盗品をおそれるのだといったが、それならば台所の窓にまでしなくってもよいはずである。外からの盗人を<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れたのではない。

理屈はやめて、大丸はその近所の者にとって、何がなし目標点だった。物珍らしい<ruby><rb>見物</rb><rt>みもの</rt></ruby>があれば、みな大丸の角に集まってゆく。鉄道馬車がはじめて通った時もそうなら、西洋人が来たと騒いで駈附けるのも大丸であるし、お開帳の休憩もそこであった。アンポンタンが知らない時分の大丸は、神田から出た<ruby><rb>北風</rb><rt>ならい</rt></ruby>の火事には、<ruby><rb>類焼</rb><rt>やけ</rt></ruby>るものとして、<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>の<ruby><rb>戸前</rb><rt>とまえ</rt></ruby>をうってしまうと店をすっかり空にし、裸ろうそくを立てならべておいたのだという、妙な、とんでもない<ruby><rb>巨大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な<ruby><rb>男店</rb><rt>おとこだな</rt></ruby>だった。

大丸は<ruby><rb>大伝馬</rb><rt>おおでんま</rt></ruby><ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>町から大門通りへ折れまがって裏まで通った、一丁の半分以上を敷地にして幾戸前かの蔵と店とで、<ruby><rb>糸店</rb><rt>いとだな</rt></ruby>によった方に広い土間があった。表附きは<ruby><rb>明</rb><rt>あけ</rt></ruby>っぴろげではなく、土蔵造りのところどころに間口があり、そのほかは上部だけ扉があがって、下部は土で塗ってあった。大戸の上げおろしが、あの広い間口では大変だったせいもあろうが、その中側が一軒以上ぐるりとタタキになっている土間だった。老母の覚書にもある通りの紙の名札が、高い<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>から並べて張ってあったが、それは店さきの畳からは、三間以上も奥の方だった。角の大黒柱を中にして、座りどころにも位置があるらしく、甚四郎、才助などと書いた両側に専属の小僧の名が、三ツも四ツも並べて書きつけてあった。

店さきの諸所に、小切れをいれた箱が<ruby><rb>据</rb><rt>すえ</rt></ruby>てあった。あたしの祖母は<ruby><rb>連合</rb><rt>つれあ</rt></ruby>いが呉服の御用商人であり、兄がやはり絹呉服の御用商であった関係か、大丸とはゆかりがありげであった。あたしたちがよい事をしたおりや、若い娘客に何か与えたくなったおり、ちょいと<ruby><rb>曳裾</rb><rt>ひきずそ</rt></ruby>のおつまをとって出かけてゆくさきは、いつも大丸だった。彼女がはいってゆくと、誰かしら顔を見た番頭が立って来て、小切れ箱から<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>りばなしをつまみ出した。赤いのや、濃い紫や、浅黄のが取りだされて<ruby><rb>八釜</rb><rt>やかま</rt></ruby>しぼりとか、麻の葉とか、つのしぼりとか、赤の黄上げのだとか、種々な<ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>絞りにも名のあるのをあたしは知った。祖母はその二、三種を、手ごろな有りぎれのまま、ザクリと手にさげて帰る――あたしたちの目はかがやいたものである。その<ruby><rb>裂</rb><rt>き</rt></ruby>れ地が、もらった嬢さんたちの<ruby><rb>結綿島田</rb><rt>ゆいわたしまだ</rt></ruby>にもかけられ、あたしたちの着物にもじゅばんの襟にもかけられた。帯にもなった。

ある日、大丸に大変な人だかりがした。<ruby><rb>西洋人</rb><rt>とうじん</rt></ruby>が買物に来ているのだという。いってみると、太い赤い<ruby><rb>頸</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>に金茶色の毛がモジャモジャしている、眼鏡をかけた男と、キチキチした、黒っぽく光る<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>に、腰の方だけ沢山ひだを重ねて広がった服をきている、意地のわるそうに<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がった、茶色の眼の、<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>のような女が、ボンネットをかぶって、見物にかけつけたものを<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めかえしていた。小さくて<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せている犬をつれていた。子供の目にも、今思いだしても、決して上品なよい人柄とは思えなかったので、ものめずらしくはあったが、なんとなくこの<ruby><rb>西洋人</rb><rt>とうじん</rt></ruby>を軽蔑した。その時分、黒いやせた、茶色の斑点が額にコブのようにある<ruby><rb>洋犬</rb><rt>いぬ</rt></ruby>をカメと呼んだ。だが、そのおり人々が口にしたカメは、連れていた小犬ではなく、どうもその女の方をさして呼んでいた様子だった。<ruby><rb>西洋人</rb><rt>けとうじん</rt></ruby>も<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>だった。泥靴のままで畳の上へ上っていった。

お正月元日は、大戸の上がところどころ明けてあった。お茶番のいる広い土間の入口の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸をはいってゆくと、<ruby><rb>平日</rb><rt>いつも</rt></ruby>に増してお茶番の<ruby><rb>銅壺</rb><rt>どうこ</rt></ruby>は<ruby><rb>煮</rb><rt>にえ</rt></ruby>たち、二つの<ruby><rb>茶釜</rb><rt>ちゃがま</rt></ruby>からは湯気がたってどこもピカピカ光っていた。すぐ前の別座になっている、大格子の中が大番頭や、支配人や、一番番頭のいるところだった。頭の上の神棚にもお飾りが出来てお<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>が赤くついている。そこの前の大飾りは<ruby><rb>素張</rb><rt>すば</rt></ruby>らしい<ruby><rb>鏡餅</rb><rt>かがみもち</rt></ruby>が据えてあった。<ruby><rb>海老</rb><rt>えび</rt></ruby>もピンとはねていた。

夜があけるとすぐ羽根の音である。いつも番頭の並んでいる区画に、ずっと金屏風が――立派な画のもある――が<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らされて、そのうち側で羽根をつくのだが、それは朝のうちだけのことで近所の女たちが、見物に出かける時分には、屏風の前の方へ出てきている。小僧も、若者も、番頭も<ruby><rb>入交</rb><rt>いりまじ</rt></ruby>りで、ゆかりのある家の女供や近所の者が、風はなし、自由に広しするので遊びにゆくので、とても壮観な位に、しまいには屏風もとりはらってしまっての追羽根になる。騒々しい位の羽根の音だ。

<ruby><rb>糸店</rb><rt>いとだな</rt></ruby>によった方に舞台があって、立派な衣装をつけた芝居を番頭たちが<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>っている。そこも見物はギッシリだ。だがこうした足どめ策をしても、やっぱり外に忍び出るものは多かった。

この広い店、中央の羽根つき場になる個所はずっと天井が高く、<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>りとりになっていて廻りだけにぐるりと二階がある。お客を接待する座敷の方は立派できれいだが、それでも薄暗かった。なぜなら、中央の広場の方の手すりから光りはくるが、肝心な表通りへ面した方には、たしか窓もない<ruby><rb>盲目建</rb><rt>めくらだて</rt></ruby>だったからである。窓があったとしても、小さなので、細かい、格子ででもあったのであろう。そこから明りがさしたようには覚えていない。床の間には、小谷さんの娘さんがさした、大きな松竹梅の生花が飾ってあった。合宿室も、そうした二階のそこらにあった。台所に近い蔵前には、各自の<ruby><rb>姓名</rb><rt>なまえ</rt></ruby>をかいた<ruby><rb>雑煮箸</rb><rt>ぞうにばし</rt></ruby>の袋が、板張りに添って細い板割で造った、幾筋かの箸たての溝に、ずらりと並んではさんであった。

ある番頭が、羽根を突いていて、暑くなったので糸織の羽織をぬいで小僧に渡した。羽織の裏は大きな帆かけ船があって七福神が乗っているのだった。宝と書いてある帆は<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>で盛上っていた。帆づなの<ruby><rb>金糸</rb><rt>きんし</rt></ruby>をひくと、帆がひっくりかえって――アンポンタンは多分宝ものが沢山積んであるものだろうときめていたからよく見もしないで、<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>まきのみかんを拾うのに無中だったが、その船のうちこそ、彼らが給料をのこらずかけたといってもよい、手のこんだ不思議な細工だということであった。禁欲された彼らが、不自然な生活は哀れなものであったろう。誰も彼も胃病患者に違いない――もしくは十二支腸虫患者か、みんな生気のない、青びょうたんみたいだった。

だが、不思議に元日に間違いはなく――もっとも大僧より小僧の方の<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びの日だったのだ。大きいものはもう昼から夕方になると、段々にかげをかくしてしまった。そして無邪気な、近所のものがのさばりかえった。

大丸の神棚の下に納まっている大番頭たちは、みんな近くに家を持っていた。蔵附きの中流以上の構えである。面白いことに養子制度で、どの家でも細君が家附きの娘だという。多くの中から目ぼしい若者を養子に抜いてゆくのであろう。だが、大番頭の息子も小僧と一緒に終業するのかどうかそれは知らない。あたしの知っている大番頭さんの娘は、おあぐさんにおたをさんという姉妹だった。そのお母さんも、そのまたお母さんも家附きの娘だ。とても丁寧な人たちで――一体にどこの家の女の人もそうだったが――お風呂であうと板の間でも両手をついて、寒いのに<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも<ruby><rb>御挨拶</rb><rt>ごあいさつ</rt></ruby>がある。時候が冷えますということから、朝晩めっきり寒くなったこと、皆様おかわりがないかということ、先日は何々して何々がなにとやらと、とても閑談的なのである。

おあぐさんという名は妙だが、下町ではよく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">阿久利</span>という名をつける。大概大事な子で、子育ちの悪い家でつける者だという。このおあぐさんが、年寄り連の理想的な娘なので、あの通りにお優しく、しとやかな声を出さなければいけないと、よく<ruby><rb>引合</rb><rt>ひきあい</rt></ruby>に出して<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られた。おあぐさんの家は向う新道の角から二軒目で、二階と塀を通りにもち、玄関はわざとのように、敷石のある露路に古い磨いた格子戸をもっていた。冬は朝早くから<ruby><rb>寒</rb><rt>かん</rt></ruby>ざらいといって<ruby><rb>長唄</rb><rt>ながうた</rt></ruby>のおさらいをする。<ruby><rb>午後</rb><rt>おひる</rt></ruby>っからもする。三味線の音がよく聞えるので、ソラおあぐさんはお<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いだと私も三味線をもたされるので、その方角は鬼門だった。

その他、大丸直属の仕立屋や<ruby><rb>縫箔屋</rb><rt>ぬいはくや</rt></ruby>が幾軒かあった。店蔵づくりの、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>風の<ruby><rb>荏柄</rb><rt>えがら</rt></ruby>ぬりの格子窓で、入口の格子戸の前に長い<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>が下っていた。帯ばかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くける</span>家もあった。<ruby><rb>天水桶</rb><rt>てんすいおけ</rt></ruby>があって――桶といっても上に乗っている手桶だけ木で、下の天水桶は<ruby><rb>鋳鉄</rb><rt>いもの</rt></ruby>が多かった。かなりいい金魚が飼ってあるので、金網を張ってあるのもあった。その一軒の大仕立屋におしゅんさんという美しい娘がいて、上方風の「油屋お染」のような<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>なおつくりしていた。<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>な<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>ぶくれな顔に黒い<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>を張って、おしどりに結って<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の上を<ruby><rb>金紗</rb><rt>きんしゃ</rt></ruby>でむすんでいた。つまみの<ruby><rb>薬玉</rb><rt>くすだま</rt></ruby>の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>の長い房が頬の横でゆれて、羽織をきないで、小さい前かけ位な<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>ちりめんの小ぶとんに、緋ぢりめんの<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>のついたのを背にあてて、紐を胸でむすんでさげていた。その<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>が<ruby><rb>狆</rb><rt>ちん</rt></ruby>を抱いて、夕方遊びに出るのを見るのがあたしは大好きだった。

大丸の小僧はみんな馬鹿なのかと思ったことがある。大きな<ruby><rb>姿</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、頭髪をおかっぱのようにして、中には胸に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶらや</span>のような茶色の切れをかけていた――お茶盆をもって、アーアーと節をつけて、店のはなっさきを行ったり来たりしていたからだ。アーアーというのは、おはいりという事なのだといったが、眺めていると好い気持ちではなかった。

大丸と向いあった角に仏具屋があって、その横に交番があったが、ある日引っこしをした。人夫が交番へ丸太ン棒を通して担いでいってしまったので<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。でも交番がとれて四ツ角が広くなったのは具合がよかった。何事もみんな物珍らしいことはこの四ツ角に立って見物する最上の場所だったから――

<ruby><rb>住吉踊</rb><rt>すみよしおどり</rt></ruby>の一隊が来てかっぽれを踊ると、大きな渦になって見物がとりまいた。<ruby><rb>梅坊主</rb><rt>うめぼうず</rt></ruby>の連中は夕方にやってくるのでよく人が寄った。お正月の<ruby><rb>出初</rb><rt>でぞめ</rt></ruby>も賑やかだった。下町の<ruby><rb>纏</rb><rt>まとい</rt></ruby>は大概あつまって、ずっと大伝馬町から油町通りに列をひいて揃って<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>乗りをする。それよりも大丸の年中行事は、諸国から<ruby><rb>出開帳</rb><rt>でがいちょう</rt></ruby>の諸仏、諸神のお小休みだ。<ruby><rb>譬</rb><rt>いわ</rt></ruby>ば<ruby><rb>嵯峨</rb><rt>さが</rt></ruby>のお<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>様が両国の<ruby><rb>回向院</rb><rt>えこういん</rt></ruby>でお開帳だとか、<ruby><rb>信濃</rb><rt>しなの</rt></ruby>の善光寺様の出開帳だとか――そのうちでも日蓮宗は<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やかだった。<ruby><rb>小伝馬上町</rb><rt>こでんまかみちょう</rt></ruby>に<ruby><rb>身延山</rb><rt>みのぶさん</rt></ruby>の出張寺はあったが、本所の法恩寺へお開帳はもっていった。そのかえりが一日上町のお祖師様へ立寄るのだった。大万燈や、<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>題目を書いた。ひぢりめんのくくり猿をつけた<ruby><rb>大巾</rb><rt>おおはば</rt></ruby>ちりめんの大旗や、<ruby><rb>出車</rb><rt>だし</rt></ruby>もでた。<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>ゆかたのお揃いもある、しぼりの揃いもある。派手を競い、華美をつくし、見ているのも<ruby><rb>足労</rb><rt>くたび</rt></ruby>れるほど沢山、目印を各講中ごとに押立てくるが、そのどれもがかわらないのは、気狂いかと思うほど無中で太鼓を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いてお<ruby><rb>題目</rb><rt>だいもく</rt></ruby>をど鳴ることだった。花笠を背にしている一連もあれば、男女とも<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を吉原かぶりにしているのもある。胸で小意気に結んでいるのもある。

その人たちが――無数な人たちが、一時大丸の店を一ぱいに占領してお<ruby><rb>中食</rb><rt>ちゅうじき</rt></ruby>をする。それから一休みして順繰りにくりだす。先頭が両国橋へかかる時分に、まだ中頃のが足揃いをしている。御本体が出て、お<ruby><rb>茶湯</rb><rt>ちゃとう</rt></ruby>が一番最後に出てゆく。

ある日もアンポンタンはおまっちゃんと四ツ角で、その大人の、<ruby><rb>目覚</rb><rt>めざま</rt></ruby>しい<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>を見物していた。すると、<ruby><rb>帝釈様</rb><rt>たいしゃくさま</rt></ruby>の剣に<ruby><rb>錦地</rb><rt>にしきじ</rt></ruby>の<ruby><rb>南無妙法蓮華経</rb><rt>なむみょうほうれんげきょう</rt></ruby>の<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>をたてた<ruby><rb>出車</rb><rt>だし</rt></ruby>の上から声をかけたものがある。

「ヤッちゃん、手を出して――はやく乗った、乗った。」

学校友達の古帳面屋のお金ちゃんのお父さんだった。その人は背の高いキレイナ人で、<ruby><rb>清元</rb><rt>きよもと</rt></ruby>のお<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>いの時に<ruby><rb>山台</rb><rt>やまだい</rt></ruby>に乗って、二、三人で<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>っていたことがあって、みんなにオシイー、オシイー、とほめられた人だった。その時はじめて清元とは首を振って唄ってしまうと、おしいーと長くひっぱってほめられるものだということを知ったのだった。金坊のお父さんは、講中の世話役だから<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>のもようのお揃いの<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>茶博多</rb><rt>ちゃはかた</rt></ruby>の帯をしめて、お<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>をはしょって、白足袋の足袋はだしで、吉原かむりにして襟に講中の<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をさしていた。

あたしたちは<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しているうちに、見物が抱上げて<ruby><rb>出車</rb><rt>だし</rt></ruby>の上の人たちの手に渡してくれた。無論上にはお金坊もおよっちゃんもいた。妙に晴がましかったが、押上げてくれた人たちが不思議とほこらしげにニタニタ笑っていた。日傘ほどの大きな団扇で誰かが<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>いでくれる――お金ちゃんのお父さんは首から<ruby><rb>拍子木</rb><rt>ひょうしぎ</rt></ruby>をかけていて、止るところや何かで鳴らした。火の用心と赤く書いてある腰にさげた袋から<ruby><rb>煙草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を出して吸った。行列が深川の高橋にかかった時、あたしは橋の上から後の方を見渡して、誰もほかに知ったものはなし、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>につれてってしまわれるのかとホロホロして帰してくれとせがんだが、もう仕用がないときかれなかった。

憲法<ruby><rb>発布</rb><rt>はっぷ</rt></ruby>の時、大丸では舞楽の「<ruby><rb>蘭陵王</rb><rt>らんりょうおう</rt></ruby>」の飾りものをした。これは日本橋油町の<ruby><rb>鉾出車</rb><rt>ほこだし</rt></ruby>にあったもので、神田田町の「猿」、京橋の「<ruby><rb>閑古鳥</rb><rt>かんことり</rt></ruby>」と並んで、有名な日本橋の「<ruby><rb>竜神</rb><rt>りゅうじん</rt></ruby>」とは違うが維新の時国外へ流れ出てしまった、この有名な蘭陵王の面は、アメリカにあるとかいった。大丸では当時の町総代が京都までいって織らせた、蘭陵王の着用の<ruby><rb>裂</rb><rt>き</rt></ruby>れ地の価値を知っているので、それを造って飾った。その日<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でもしたという<ruby><rb>酒樽</rb><rt>さかだる</rt></ruby>のいくつかが、大丸の前にもかがみが抜いて<ruby><rb>柄酌</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>がつけて出された。

油町側では憲法発布の由来というような、通俗的な演説会といったふうなものを催した。そんな時にこそ大丸が会場であるはずなのだが、町内の関係で油町の加賀吉という大店で開かれた。そこはたしか山岸荷葉氏――<ruby><rb>紅葉</rb><rt>こうよう</rt></ruby>門下で、少年の頃は天才書家として知られていた人である――の生家で、眼鏡や何かの問屋だった。年の暮のえびす講などに忘年芝居を催したりする派手な店で北新道のあたしの家の並びの荷蔵に、荷車で芝居の道具を出しに来たりしていた。その店が会場となり演説の<ruby><rb>卓</rb><rt>つくえ</rt></ruby>がおかれた。

そんな事はお江戸<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>以来のことと見えて、アンポンタンの幼い頃にも忘れない不思議な光景を残している。まず、弁者は、その近辺でも当時の新智識と<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>されたものと見えて洋服を着ていることの多いあたしの父であった。洋服が新時代の目標であったと見える。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も、官員さんの一人もいない土地であって見れば、私の父がハイカラだったのかも知れない。明治十二年官許<ruby><rb>代言人</rb><rt>だいげんにん</rt></ruby>、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかった最初の仲間の一人であったときいている。

前の日まで、憲法ということの講釈を、若い<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>たちの幾人かが熱心に聴きにきた。その人たちが世話役でもあったのであろう。その当日も机をはこんだり、会場のしつらえを問合せに来たりして、いよいよ午後六時前となると、傍聴ファンの動作研究会というような集りになった。どうもまだノーノー、ヒヤヒヤが<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>しないという訳なのだった。書生たちまでが一緒に並んでその稽古をやる。父はハイカラな礼服だが、朝からの<ruby><rb>祝酒</rb><rt>いわいざけ</rt></ruby>に、私が大きらいな赤黒い色になっている。手はずしてあった<ruby><rb>個処</rb><rt>かしょ</rt></ruby>で、合図を忘れるので、ファン連は、困りきって、演説を<ruby><rb>暗誦</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>しておこうと努力したが父は面倒くさがっていた。<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>が、このコップをこうあげたらヒヤヒヤだ、机の<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ手をやったら<ruby><rb>否</rb><rt>ノー</rt></ruby>だ。こういう風になったら拍手だと教える。だが、やって見るとノーノーもヒヤヒヤも拍手も入交ぜとなる、何度繰返してもおんなじなので、まあいいやということになってしまった。今の言葉ならばそれが自然だというところだったろうが――

聴衆は表の通り一ぱいの黒山だった。<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったのか解らないのか、ともかくとてもおめでたい事という概念と、はちきれるほど一ぱいなお祭り気分で、ノーノー、ヒヤヒヤ、拍手<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>、何もかもメチャクチャに景気よく、弁士を胴上げにして家まで送って持って来た。そのあとが<ruby><rb>馬場勝</rb><rt>ばばかつ</rt></ruby>一派の<ruby><rb>長唄</rb><rt>ながうた</rt></ruby>――馬場は浅草橋の橋手前、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に住む<ruby><rb>杵屋</rb><rt>きねや</rt></ruby>勝三郎といった長唄三味線の名人、<ruby><rb>夜一夜</rb><rt>よひとよ</rt></ruby>唄うにまかせ、狂うにまかせ、市中は明るい不眠症にかかって、そこら中で<ruby><rb>花瓦斯</rb><rt>はなガス</rt></ruby>が燃え酒樽が<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。雪をこねかえした<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>に、お酒にお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の袋を破った死人がゴロゴロ転がった。

多分戸を閉めないで寝た家が多かったろう。